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本尊と曼荼羅

587犀角独歩:2006/10/22(日) 10:44:48

―586からつづく―

「最高の本尊」へのこだわりは、では、どこから生じるのか、それは日寛義に違いありませんが、その基底をなすのは『本尊問答抄』でしょう。その趣旨に従えば、「法華経の題目を以て本尊とすべし」ということになります。弘安元年の書とされる当抄は日興写本を遺すことから、準真蹟と扱われるわけですが、わたしは、この書にはどうも違和感を禁じ得ません。

わたしが『本尊問答抄』が、本当に日蓮の文なのかと疑うのは、あまりに雑駁な論理展開に不審を懐くからです。

先のも挙げた「本尊と者勝たるを用べし」とする根拠として「法師品…薬王在々処々若説若読若誦若書若経巻所住之処皆応起七宝塔極令高広厳飾」としますが、日蓮は他書で一部(法華経全文)を斥けて題目を採っているのに、この文証は経巻一巻の読・書を言い、さらに経典塔の建立を促すものです。この文では、まったく題目をもって本尊とする根拠になっていません。さらに「天台大師法華三味云於道場中敷好高座安置法華経一部」といいます。言うところの「一部」とは一部分ということではなく、法華経典の全巻を意味するのは古語の用法であるわけです。

この第一問答は、題目本尊と言いながら、その根拠として、法華経典安置をもって充てるという実に杜撰なものとなっています。このような稚拙な問答を日蓮が構えるとは、とうてい信じがたいと言うのが正直な感想です。この有様は、その後の問答でも同様であり、法華経典を根拠に挙げて、題目本尊を証しようとする論の運びは、なんら説得性を有しません。なぜならば、日蓮は法華経典を簡び、題目の五字を採ったからです。

さらに指摘すべき点は、法華経の題目は題目であって、法ではないということです。日蓮の思惟からすれば法華一経の意(こころ)ということなのでしょうが、こころはしかし、法ではありません。さらに言えば、法華経の題目は五字の首題であって、漫荼羅の全体ではありません。つまり、この抄は、法本尊の根拠にも、漫荼羅本尊の根拠にもなっていないわけです。

また、題目本尊と観心本尊は、大きな隔壁があります。この点を顕正居士さんは『本尊問答抄』を真蹟と判断されたうえで、日蓮の心境の変化ととらえていたと記憶します。しかし、わたしは、むしろ、当抄への疑義とする心境を持つ者です。

また、題目を本尊とするとき、三つの法門(疑偽書で三大秘法と称される)における「本門の本尊と戒壇と題目」は、問答抄の題目=本尊の趣旨で読み替えれば「本門の本尊と戒壇と本尊」ということになってしまい、鼎立する三法門は意味をなさないことになります。このような齟齬を来すことが日蓮の教学変化であるとすれば、‘三大秘法’をもって日蓮の極意とすれば、論理矛盾を来すことになるでしょう。

以上が法本尊前夜における、まず第一の疑義です。


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