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本尊と曼荼羅
484
:
犀角独歩
:2005/11/20(日) 08:23:28
乾闥婆さん
> 釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足…受持…功徳を譲り与えたもう」は寛師の解釈とは無縁となるのでしょうか。
日寛の解釈は受持即観心、観心の本尊、信心の本尊、受持即信心というような一連の流れがあると観察できます。ここで基をなしているのは‘即’だと思えます。しかし、本尊抄の原文での、日蓮の解釈は、門下一般でも言われることですが、‘自然譲与’にあると思います。これを即、即と解釈しないのは以下の類推によります。
本尊抄の述作は、いうまでもなく、漫荼羅図示のはじめと密接に関わっていると考えられます。この日蓮漫荼羅のテーマは、大書された南無「妙法蓮華經」の五字であることはいうまでもありません。この題目を書いて、日蓮は授与するわけです。では、授与された側はそれをどうするのか。受け持(たも)つのではないでしょうか。
わたしは日蓮がいう妙法蓮華經の五字とは、たとえば、PCに表示される活字の文字や、版木刷られた法華経典や、印刷された遺文集に見られる五字ではないと考えています。つまり、日蓮自ら漫荼羅と認めた五字です。その五字に釈尊因行果徳の二法が具わっている、だから、この漫荼羅を受け持つ人は、その功徳を自然(じねん)に譲与されるというのが、本尊抄を通じて日蓮が言おうとしていることであると、わたしは読みます。ここに主眼があるのではないのかと、わたしには思えるわけです。
ですから、その漫荼羅を受持し、そこから心で観ていく本尊が妙法蓮華經であれ、本仏釈尊であれ、受持の結果と言うことになりますし、それは信心口唱によるわけですから、受持即観心と後世、成句されることはいわば趨勢なのですが、しかし、わたしがあずかり知らないと記したのは「受持即観心」という成句のことで、これを上述の日寛のような論法で整理されることを指していったのです。
> 止観は参禅…採用されなかったのか、なぜ唱題行をもって、その代わり…末法であるとか、易行化…要求された時代
仰る点にはいくつか重要な点が含まれています。いい視点であろうと思います。
まず、参禅ではなく唱題という点は、この発明が称名念仏をモデルにしているからだと思います。
次の易行道についても当然、それは法然に求められるわけで、いったん、日蓮は、この易行道を簡ぶわけですが、却って、その意を介すことを重視しないという展開となっていきます。また、青年期には娑婆修行を訴えた日蓮は、刎頭に絶命の体験を経たのち、霊山浄土観へと傾倒していきます。一般から観れば、極楽浄土と霊山浄土、目指すところは違っても、同じ浄土観ではないかという批判になります。念仏:法華≒称:唱、念仏:法華≒極楽:霊山という対比が看取できるように思えます。この意味において、仰るように時代性と、学問背景の影響が色濃く見られると観察すべきなのだと思います。
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