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本尊と曼荼羅
586
:
犀角独歩
:2006/10/22(日) 10:44:19
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1694
から移動しました。
独学徒さん
レス、有り難うございます。本尊と漫荼羅については、2002年の段階で、いちりんさんからのご提案があり、スレッドが立って、議論されてきたことでした。
問答さん、Libraさんとも盛んに語り合いました。それでも、いまに至るまで、統一した見解は生まれていません。
よって議論の継続という意味も籠めて、せっかく、スレッドが立っていますので、こちらに移動しました。
門下一般での議論で感じることですが、真蹟遺文に限り、日蓮の素意を探ろうとしても、「自分がいままで信じてきた有様」「自分の所属する門派の解釈」という“まず答えありき”となって、その肯定論として、為にする屁理屈を押しつけることは、著名な学者、権威者のほうも顕著で、その真実を覆うことは、溜息が出るところです。つまり、それらは参考になるどころか、障害となるばかりです。
わたしは思想を考えるうえで、語彙の使用をしっかりと整理しておかないと、解釈者と日蓮の素意がごちゃ混ぜに議論される徒労に引き込まれることになる過悪に何度となく遭遇してきました。これは、学問的な素人ばかりではなく、尊敬を集める学者や、古文書読みの人々にも共通するところで、これを権威と感じる人々は、日蓮の真蹟遺文の言葉ではなく、この権威に泥んでしまうわけでした。
わたしは、そのような弊害を廃し、日蓮その人に真意に迫りたい、ただ思いのみがあります。
既に何度の記したことですが、天台、妙楽といったまだ真言勃興以前の時代を生きた人々に、そもそも「本尊」という語彙の用法はありません。日本天台宗においてはしかし、当然、本尊語の使用が頻繁に行われることになりますが、つまりこれは、真言密教との密接な関係から生じていった習合であるというのが、かつての顕正居士さんのご指摘であったと思います。わたしはその時点で、本尊観は需家からもたらされたものではないかと類推していました。もちろん、この側面もありますが、やはり、顕正居士さんの仰るところが正鵠を得ていたといまは考えています。
少し前の議論で、独学徒さんが三宝に充て、本尊をお考えになっておられましたが、これはなかなかわかりやすいところであろうと思います。さらに広げれば、孝という側面からいえば、親は本尊でしょうし、忠と言えば主君は本尊、また、師匠もまた本尊と見なされ、像に刻まれてきたのが日本という風土でした。また、門下一般でみれば、鬼子母神、七面大明神などは本尊として崇敬され、富士門でも日蓮は御影として本尊とされます。そのような観点からすれば、「漫荼羅も本尊のうち」という見解は成り立つのだろうと思えます。ただ、日蓮の場合、その語彙の用法においては、それほど、ラフな使用の仕方はしていないと観察するわけです。いま、ここで論じることは、門下解釈ではなく、日蓮の祖意です。
さて、学会を含む石山では「本尊と者勝たるを用べし」という一節を切り文解釈し、唯一絶対最勝の本尊を選ぶという思惟に基づき、挙げ句、模造品である彫刻を信じ込ませるという作為を行ってきました。この操作に一度、ひっかっかり、脱却しながら、しかも、それでも、唯一の本尊を選ぶという操作が既定概念として残ってしまっているという様を、わたしは観察するわけです。これは超えるべきハードルの第一となります。
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