[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
本尊と曼荼羅
604
:
犀角独歩
:2006/10/26(木) 09:47:31
独学徒さん
> 大漫荼羅の用途
いくつかあるとは思います。また、派生的、発展的に、その‘用途’の変遷、もしくは応用はあるとも思います。
しかし、その根本は‘受持’ということではないでしょうか。より正確に記せば、授与であり、受持です。
『本尊抄』に「召地涌千界大菩薩寿量品肝心以妙法蓮華経五字令授与閻浮衆生也」とあります。
菩薩は授与し、衆生は受持する関係です。この五字の具体的な授与と受持とは、たとえば、石山門・日寛の言を挙げれば受持即信心などといいます。要は妙法五字を信じ、唱えるところにその受持があるというわけです。これは間違いとは言えないでしょうが、しかし、肝心の部分を欠いています。この日寛は解釈の五字と受持の関係は、観念に堕しています。
もっと具体的ではないでしょうか。つまり、妙法五字の授与・受持とは漫荼羅の授与・受持なのだと、わたしは近来、気が付きました。
日蓮は「上行菩薩所伝妙法蓮華経五字」(定P815)を、具体的に漫荼羅に記し、衆生に授与したのでしょう。つまり、我らが日蓮が唱え始めた妙法蓮華経を受持するとは、この漫荼羅を受持することをもって実際の事相として実現するのでしょう。単に法華経を読み、遺文を読み、口伝えに妙法蓮華経と唱えただけでは名ばかりのものでしょう。これでは久遠釈尊 ― 上行菩薩 ― 日蓮と受け継がれた妙法蓮華経とは違います。日蓮は自分が受持した五字を、漫荼羅に記し、衆生に授与したのだと考えます。これが日蓮の漫荼羅の‘用途’の第一であろうと、わたしは考えます。
さらに次段階としては、この漫荼羅を受持した法師は、この漫荼羅にある妙法蓮華経を読み諳んじ、そして、上行・日蓮の意を通じて解し説き、そして、また次に‘書写’して、その妙法蓮華経を授与していく無限連鎖が門下一般に広がっていったのでしょう。日蓮義において、妙法五字の受持とは漫荼羅奉戴ということではないでしょうか。
やや話の間口は広がりますが、『新尼御前御返事』では、漫荼羅を、如何様に扱うかを垣間見る思いが、わたしはします。「此五字の大曼荼羅を身に帯し心に存」(定P867)すというのです。別例を挙げれば、まさに『本尊抄』にあります。
「五字内裹此珠令懸末代幼稚頚」(定P720)
このような点を考慮するとき、漫荼羅は奉安というより、折り畳み、袋に入れ、頚から紐につないで懐中に持していた様が窺えようかと存じます。受持の延長に漫荼羅の‘用途’として、守本尊といった側面が見られることになります。
しかし、これに収まらない大幅の漫荼羅は現存しているわけです。
中尾師の談ですが、現存する漫荼羅を観察すると、「板張り」にされていた形跡があるもの、また、幟のように扱われた形跡があるものが残っていると言います。前者は、道場結界の具という‘用途’であり、後者は布教の旗印として‘用途’であったのかもしれません。しかし、宮殿・厨子に奉安するような仏像と同じような扱いは見られません。
ところで、漫荼羅は五字のみならず、そこに霊山・虚空の有様が図示されています。つまり、これは妙法五字がどのように所伝されていったのかを図式化し、それを示したのではないでしょうか。では、四大天玉は、と言えば、既に戒壇の有様がここに記され、さらに愛染・不動の勧請、さらに経文等の書き込みは、符(祈祷祈願)としての‘用途’も籠められていたことを意味するのだと思えます。これらの様を見るに、実に多岐にわたる要素を日蓮漫荼羅は有していることになります。
いずれにしても、漫荼羅は、上行所伝の妙法蓮華経を、具体的に授与し、受持するという儀式に、その意義があったと観察します。
授与と受持は、血の温もりのある関係であると思えます。
その意味において、図には違いありませんが、その授受に係る意がなければ、それは写真と同じです。妙法五字もまた、ただ形ばかりのものに過ぎません。『御本尊集』の‘本尊写真’が本尊ではないことと同様です。
やや敷衍すれば、この授受の漫荼羅を帯さないものが、造立する一尊仏像四菩薩脇士像も、同じく形ばかりのものということになるのであろうと観察します。
以上が、日蓮の意図した漫荼羅の意義であったと、わたしは考えます。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板