したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

本尊と曼荼羅

471犀角独歩:2005/11/19(土) 05:53:15

とんびさん

> 一機一縁

この成句は真跡遺文には見られず、写本のなかでは

「真言は已今当(いこんとう)
の中には何れぞや。若し外と云はゞ、一機一縁の一往にして秘密とは云ふべからざるなり」当世念仏者無間地獄事文永元年

「真言は已今当の中には何れぞや。若し外と云はゞ、一機一縁の一往にして秘密とは云ふべからざるなり」早勝問答 文永8年

「四十二年の経の内には、一機一縁の為にしつらう処の方便」法華初心成仏鈔(
建治3年)

というような用法です。

富要でみれば、その日教、殊に日寛、また、日我の使用が見られ、主に日蓮所持の一体仏像を漫荼羅に比していう如くです。

ただし、日寛では「一閻浮提総与」との対句的な意味合いをここに持たせるために、ここから、現在の石山が初心入信者に頒布する印刷本尊を一機一縁と呼ぶ風習が生じたものと思われます。


> 一体日蓮さんは、何を持って一切衆生を救おうとした

唱題行だと思います。

> 報恩抄でしたか、「日本国一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の
道をふさぎぬ」と。

いえ、開目抄です。「盲目」「生盲」という語彙は困った用法ですが、いまはこの点は敢えて触れず、疑問の点に答えれば、この文の前文は

「他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。此事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と声もをしまず唱ふるなり」です。

> 紙幅の曼荼羅が、信仰において、必要なものであれば、日蓮さんは生きている内に、もっと大量に紙幅の曼荼羅を書き顕さなければ、ならなかった

これはまったくそのとおりです。
先の受持即観心とのちに成句される起因となったとのではないかと乾闥婆さんが仰ったとおり、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」(本尊抄)と日蓮は言うわけで、この受持とはまさに「南無」の異に他ならないとわたしは思えます。となれば、妙法蓮華經への信の強調、帰命ということで、それは日寛が言うように南無妙法蓮華經の信心口唱と実践されるという帰結は尤もな指摘です。(ただし、日寛の言うこと、すべてが遭っているという意味ではもちろんありません。彫刻本尊崇拝その他大半はおかしなことを言ってはいますが)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板