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本尊と曼荼羅

592犀角独歩:2006/10/22(日) 19:09:13
―589からつづく―

> 「新尼御前御返事」に多用される「此の御本尊」

この書を、問答さんは2002年4月に取り上げられました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/2

執筆は文永12年2月ですから、『法華取要抄』と『撰時抄』の間ということになります。つまり、三法門(本尊・戒壇・題目)という自説を敷衍したと考えるのが自然ということになりますね。となれば、言うところの本尊は、先に挙げた『開目抄』の脈絡で、「五百塵…本尊」は『本尊抄』にいう「寿量仏」、『法華取要抄』にいう「本門の本尊」に契当すると見るべきではないでしょうか。

詰めていないのですが、漫荼羅を本尊という用法は、特に「守」「護」「まほり」といった御守本尊で使用が見られるという点で、一字三礼さんとわたしは意見を同じくしております。

やや雑駁な分類の仕方になりますが、日蓮漫荼羅の場合、四大天玉が四角に置かない図は、御守と見なしてよいのではないと、わたしは考えます。ですから、『是日尼御書』にいう本尊は、こちらではないのかとわたしは類推します。

ちなみに、創価学会の携帯本尊なるものは、この形式ではない漫荼羅を縮小して御守のごとく扱っていますが、如何にも素人騙しという観を否めません。尤も、これは携帯本尊ということで、御守とは区別されるのでしょうか。しかし、そうなると、携帯本尊とは何ぞや?という疑問は彷彿とします。脱線しました。

日蓮は観心本尊(寿量仏/三身所顕無始古仏)といったのちに、本門本尊を言います。ここに飛躍があるわけはありません。本門本尊が観心の寿量仏であり、その脇士が四菩薩、そして、戒壇と題目の三つを立てる法門にぶれがあると思えません。

本尊とは己心に観じるところ、口に唱えるのは、上行から伝わる一念三千の珠を裏(つつ)む妙法蓮華経の五字、戒壇とは、彰往考来さん、れんさんも頷かれた尊敬する都守基一師が『大崎学報』第154号所蔵論文で明確化された『取要抄』の「雖然 伝教大師 天台所存所残一事得此之上 天台未談之迹門円頓戒壇始日本建立之 仏滅後千八百余年 月支漢土日本無之 第一大事秘事也 問云 天台伝教所残之秘法何物乎」から師が結論される「「本門の戒壇については、従来聖人自身による説明がないために、あるいは理の戒壇、即是道場の戒壇という理解も行われてきた。しかし以上の文脈による限り、本門戒壇とは伝教大師が叡山に建立した迹門円頓戒壇に続いて、末法の時代にどこかに建立されるべき事相の戒壇の意であると理解するのが自然である」(P121)でしょう。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50434021.html

日蓮における本尊観は、本尊・戒壇・題目と鼎立する以上、寿量釈尊以外であるはずはないと思います。ただし、先にも種々挙げましたが、鎌倉時代、本尊とは、広い意味で使われていたわけですから、その用法から在家教化の消息文で、漫荼羅、もしくは御守符を本尊と記すことがあっても、齟齬を来したと見る必要を、わたしは感じません。


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