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本尊と曼荼羅
472
:
犀角独歩
:2005/11/19(土) 05:54:19
―471からつづく―
> 一幅の曼荼羅を多数の人で拝ませることが目的だったのでしょうか。
違うでしょうね。一つの漫荼羅は一人のためであったでしょう。
> その他の門下では、檀家の人たちはどうしているのでしょう。日蓮宗の信者の人は、曼荼羅を拝んでいるのでしょうか。
日蓮真筆漫荼羅を縮小印刷したものを本尊とすることが多いようです。
これを仏具店などで買い求め、所属寺院の住職に自分の名前を裏書きしてもらい、開眼とするようです。また、願え出れば、書写する人であれば、書写もして下付するでしょう。もちろん、漫荼羅を仏壇に奉安しています。その前に御影も置きます。信者に対して、こちらが一般的でしょう。ただし、寺院は本堂(釈迦堂)仏像奉安、祖師堂(御影堂)御影・漫荼羅奉安の二堂様式が一般的です。この二堂様式はしかし、本願寺などでも同様です。ただし、向こうは釈迦仏像ではなく、阿弥陀仏像という違いです。
> 日蓮さんの御書のどこに、私の遺した紙幅の曼荼羅を書写して多数の
人に拝ませなさい..という記述があるのでしょうか。
こんな記述があるわけはありません。
日蓮は、自分の漫荼羅が複製されることすら、まったく考えていなかったでしょう。その様子をもっとも端的に示すのは石山も重要視する
「一、御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由(よし)諸方に其の聞こえ有り、所謂日向・日頂・日春等なり。
日興の弟子分に於ては、在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若しは又在所を追ひ放たれて、一分信心の有る輩に、忝くも書写し奉り之を授与する者なり」(富士一跡門徒存知事)
というのであって、形木本尊(いまでは印刷)の禁止をしっかりといい、さらに一分信心の有る輩という個人に対して、書写授与であると定めています。これは日蓮図示以来の伝統を書写と一段遜って伝える日興の厳格な姿勢を伝えたものでしょう。
> 日蓮さんの、本意は..ということを論ずれば、それが一つの宗派になり、
合意点などあるはずもないのですが..。
これはどのような意味で仰っているのかわかりませんが、「定 一、弟子六人事不次第」という日興筆御遷化記録の一節を「定めて本弟子六人は一つの殊、不次第なり」と読み、六人一丸の意と解する仁がありました。わたしは、この読み方に賛同します。
> 允可証
この言葉がわかりづらければ、今風に言えば、免許証、免状と言ってもよいでしょう。また、認可証、許可証といっても近いかも知れません。ともかく、日蓮の弟子として認めという意味です。
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