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本尊と曼荼羅
483
:
乾闥婆
:2005/11/19(土) 23:32:21
>>467
犀角独歩さん。
「富士宗学要集」からの引用、ありがとうございます。少なくとも寛師のころには使われていたということですね。
>日寛は観心とは信心口唱、すなわち、観心の本尊とは信心の本尊とするのは、なかなか卓見であるとは思います。しかし、日蓮遺文に受持即観心がない以上、日蓮のあずかり知らないことではあるのでしょう。
では「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」は寛師の解釈とは無縁となるのでしょうか。「此の五字を受持すれば」とは蓮祖において法華経の身読を意味すると私は考えているのですが、そのような行法が、そのまま「観心」となるとは、蓮祖の真意からは、離れるものとなるのでしょうか。蓮祖においては心を観るとは、己心に仏を観るということであると思うのですが。
>日蓮の時代、比叡山では参禅はすっかり廃れていたということでした
>これが事実であろうと思うのは、日蓮の行学から、まるで参禅が見えないからです。
私も不思議に思っていました。止観は参禅の方法であるのでしょうけれど、天台・伝教からの流れを尊ぶ蓮祖が、なぜ行法としてそれを採用されなかったのか、なぜ唱題行をもって、その代わりとされたのか、よく分からないのです。末法であるとか、易行化であるとか、そういったことが要求された時代であったからなのでしょうか。
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