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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】
1
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/03/18(火) 23:56:08 ID:QU46JH2Y
馬・人物・キャラの誕生日はもちろん、過去の出来事や記念日、ホモが好きそうな商品の発売日などについて語るスレ
AILE君へのネタ提供になればよいのだけれど、やりすぎると逆にネタ潰しやまとめの催促にもなりかねないので、まったり雑談していきましょう
個別誕生日スレを否定するスレではないので、個別スレは予告や告知をどうぞ
261
:
Republica de Venexia
:2014/08/26(火) 00:48:30 ID:???
8月26日はマンジケルトの戦いが行われた日です
ビザンツ帝国は
>>232
で見たように、バシレイオス2世によって全盛期を迎えていました
しかし彼の死後、ビザンツ帝国は衰退へと向かっていきます
バシレイオスは徹底した緊縮財政、貴族や官僚を抑圧した専制政治によって国力を増強していましたが、彼の死によって不満が表面化し、反動的な状態となったのです
後継皇帝たちは放漫財政を続け、特に大規模な建築事業によって浪費、やがて財政が破綻します
貴族もバシレイオスの抑圧から解放され、自分たちに都合の良い皇帝を次々と擁立、その結果、
>>46
で見たアレクシオス1世の即位までの約50年間に皇帝交代が4年に一度の頻度で行われる混乱時代となったのです
さらにマケドニア朝時代の軍人皇帝とは対照的に、この時代の皇帝は財政難から軍事費を削減、ビザンツ帝国の強兵は解体されていったのです
このような状況で東方より襲来したのがセルジューク朝でした
トゥグリル=ベクに率いられたセルジューク族はイランを制圧、さらにバグダードに入りスルタンの称号を得ます
トゥグリル=ベクの死後はアルプ=アルスランが継ぎ、侵略は一層激しくなりました
そして1071年8月26日、小アジア東部のマンジケルトにおいてビザンツ帝国軍とセルジューク朝軍が激突、ビザンツ帝国は壊滅的な敗北を喫し、その衰退が決定的となります
一方セルジューク朝は順調に侵略を進め、小アジア全域を支配することとなるのでした
本日は「ビザンツ帝国史上最大の災厄」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田廣訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
262
:
Republica de Venexia
:2014/08/27(水) 01:07:20 ID:???
8月27日はプラタイアの戦いが行われた日です
イオニア植民市の反乱をきっかけに始まったアケメネス朝ペルシアによる征服戦争、ペルシア戦争は、
>>246
で見たテルモピレーの戦いの後、サラミスの海戦に勝利したことでペルシア王クセルクセス1世が撤退し、ギリシア側有利へと傾いていました
ペルシア軍は王の撤退後もギリシアに残り、将軍マルドニオスが指揮をとっていました
マルドニオスは占領したアテナイの街を破壊し、テーベに拠って挽回しようとしましたが、ギリシア諸ポリスの指揮は高く、マルドニオスの派遣したペルシア騎兵を度々撃退しました
ここに至ってマルドニオスは自身が率いる本隊を進出させ、ギリシア諸ポリスとの決戦を挑みます
そしてテルモピレーの戦いからほぼ1年後の前479年8月27日、プラタイアにおいてペルシア軍とギリシア連合軍が激突しました
ギリシア連合軍を率いるのは、テルモピレーで玉砕したレオニダス王の甥パウサニアスで、彼の指揮によりギリシア重装歩兵がペルシア軍を撃破、指揮官マルドニオスも戦死しします
この戦いの後、ペルシア側についていたテーベはギリシア連合軍によって攻略され、さらにほぼ同時期に行われたミュカレ海戦でもギリシア連合軍が勝利、この陸海での勝利によりペルシアはギリシア本土からの撤退を余儀なくされるのでした
本日はペルシア戦争におけるギリシア側決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
263
:
Republica de Venexia
:2014/08/28(木) 00:59:57 ID:???
8月28日は西ローマ提督の将軍オレステスが皇帝ネポスを追放した日です
>>259
で見た、西ゴート族のアラリックによるローマ劫掠の衝撃を受け、西ローマ帝国は混乱状態に陥りました
これは西方への侵入を進めていたゲルマン人にとって好都合となり、西ゴート族は南ガリア・ヒスパニアを領有します
イタリア・ガリアにもゲルマン人が侵入し、この対処に追われることになった西ローマ帝国はブリタニアの支配を放棄、ここにはアングロ・サクソン族が入りました
ガリアも西ローマ支配の弱体化に乗じてフランク族やブルグント族が侵入します
特に強力だったのがヴァンダル族で、ガイセリックが率いるこのゲルマン人の一派は、西ローマ帝国支配下の地域を縦横無尽に暴れ回り、439年にはカルタゴを征服しヴァンダル王国を建国します
455年にはローマも占領し、さらにヴァンダル王国討伐に派遣された東ローマ帝国艦隊も壊滅させ、地中海地域を掌握する一大勢力となったのです
西ローマ皇帝にユリウス・ネポスが即位したのはこのような状況においてでした
ダルマツィアに勢力基盤を持つこの皇帝は西ローマ帝国領の統合を試み、西ゴート族との交渉をまとめ、講和することに成功します
しかし軍務長官にアッティラの重臣であったフラウィウス・オレステスを任命すると、この野心的な将軍は475年8月28日、ネポスに対し反乱を起こし、ロムルス・アウグストゥルスを皇帝に即位させます
帝都ラヴェンナから追放されたネポスはダルマツィアに渡り、アウグストゥルスは僭称皇帝であり、正当な皇帝は自分であると主張しました
東ローマ皇帝ゼノンもアウグストゥルスの皇帝位を認めず、ネポスを支持します
ここに、西ローマ帝国には実質的に2人の皇帝が並立するという事態となったのでした
本日は対立皇帝ネポスの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・ブライアン・ウォード=パーキンズ、南雲泰輔訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』白水社、2014年
264
:
Republica de Venexia
:2014/08/29(金) 00:34:03 ID:???
8月29日はモハーチの戦いが行われた日です
>>258
で見たチャルディラーンの戦いの後、オスマン帝国はさらなる領土拡大を続け、1517年にはエジプトのマムルーク朝を征服、聖地メッカをも支配下に収めます
セリム1世は1520年に病没しますが、その後を継いだのが、「壮麗者」と呼ばれ、ヨーロッパ世界を恐怖のどん底に叩き込むことになるスレイマン1世でした
スレイマンはスルタンとなると、バルカン半島への進出を開始します
彼はビザンツ帝国を滅ぼし「征服者」と恐れられたメフメト2世が攻略できなかった要衝、ベオグラードとロードス島の攻略に取り掛かりました
ベオグラードはハンガリー平原への入り口にあたり、トランシルヴァニアやオーストリアに進出する際の拠点となる都市で、ここを1521年に陥とします
ロードス島は聖ヨハネ騎士団の根拠地であり、小アジアの喉元に位置するこの島から騎士団は度々出撃、イスラームの商船を襲撃していました
しかしロードス島もスレイマンにより1522年に征服され、いよいよヨーロッパ世界へ進出する際の障害は無くなったのです
1526年、ついにスレイマンは大軍を率いてハンガリーへと侵攻します
これに対抗するのはハンガリー王ラヨシュ2世でしたが、当時ハンガリーは農民運動が激化しており、さらに貴族の対立によって不安定な状態でした
弱冠20歳のラヨシュではこれを制御し切れず、統制の取れないままオスマン帝国軍を迎え撃つことになります
そして1526年8月29日、ハンガリー王国の首都ブダの南に位置するモハーチにおいて、ラヨシュ率いるハンガリー騎馬隊を、大量の大砲を有するオスマン帝国軍が完膚なきまでに粉砕し、ラヨシュは戦死します
これによりハンガリーはオスマン帝国に従属し、スレイマンはこの後オーストリアのウィーンまで侵攻することになるのでした
本日はオスマン帝国による本格的な西欧進出の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・柴宣弘編『世界各国史24 バルカン史』山川出版社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
265
:
Republica de Venexia
:2014/08/30(土) 00:58:39 ID:???
8月30日は東ゴート王テオドリックが死去した日です
西ローマ帝国は
>>263
で見たネポス追放、ロムルス=アウグストゥルス即位の翌年、476年にゲルマン人親衛隊長オドアケルによって皇帝位が廃され、滅亡します
ダルマツィアに逃れ皇帝権を保持していたネポスも480年に暗殺され、オドアケルはダルマツィアを併合しました
オドアケルは自ら皇帝に即位することはなく、西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返上し、イタリア王となります
しかしオドアケルが東ローマ帝国の内政に干渉するようになるとゼノンはオドアケル討伐を決定、これを命じられたのがしたら東ローマ帝国の軍事長官、東ゴート族のテオドリックでした
テオドリックは488年にオドアケル討伐に着手し、493年にはラヴェンナを攻略、イタリア王となります
この王位は497年、東ローマ皇帝アナスタシウス1世によって正式に認められ、ここに東ゴート王国が成立したのです
テオドリックはこの功績により「大王」と称され、東ローマ帝国に従属しつつ、西ローマ帝国の継承を意識した国家作りを進めました
ローマ法の理念も引き続き適用され、混乱していた旧西ローマ帝国地域におい安定した時代を現出しましたが、男子の後継者が産まれなかったことが東ゴート王国に暗い影を落とすことになります
526年8月30日にテオドリックが亡くなると、王国の諸問題は次第に表面化、後継者を巡る争いも激化したことで王国は没落、やがて
>>235
で見たように東ローマ帝国によって滅亡するのでした
本日は東ゴート王国衰退の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・松谷健二『東ゴート興亡史 東西ローマのはざまにて』中央公論新社、2003年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
266
:
Republica de Venexia
:2014/08/31(日) 00:52:27 ID:???
8月31日はアル=カーミルがアイユーブ朝のスルタンに即位した日です
アイユーブ朝は
>>199
で取り上げた始祖サラディンが1169年に建国して以来、十字軍との抗争を繰り広げました
1193年にサラディンが病没すると、アイユーブ朝の領土はその弟や息子たちによって分割相続され、実質的な分裂状態となります
そのなかで勢力を伸ばしたのがアル=アーディルでした
アーディルはシリア・エジプトを基盤に勢力を拡大し、十字軍勢力に対しては通商関係を持ち和平協定を結ぶことで共存を図ります
このアーディルの死後、1218年8月31日にスルタンとなったのがアル=カーミルでした
彼はアーディルの政策を継承・発展させ、十字軍勢力や西欧との通商関係を維持し、さらに領内のキリスト教徒を保護するなど、異教徒に対して寛容な姿勢で臨みました
その最も顕著な例が、フリードリヒ2世の「破門十字軍」への対応です
カーミルと同じく異文化に理解を示し、「玉座に座った最初の近代人」と称される神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、聖地イェルサレムを交渉によって奪還しようと試みます
カーミルはこの異文化に理解があるフリードリヒとの書簡を交わし、学問も含めた議論を行ううちに、互いの想いが同じであると認識しました
ここにおいて和平交渉がまとめられ、10年間の休戦協定と、イェルサレムの返還、双方の宗教的寛容を内容とする協定が成立しました
これに対する周囲の反応は冷たく、フリードリヒは異教徒との戦いを避けたことを非難され、カーミルもイェルサレムの放棄を糾弾されます
しかし異教徒に対する理解が十分に進んでいない時代において、2人の指導者が異文化理解に基づく和平協定を行ったことは特筆すべきことでしょう
本日はアイユーブ朝第5代スルタンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・アミン・マアルーフ、牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』筑摩書房、2001年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全』東洋書林、2006年
・エルンスト・カントロヴィッチ、小林公訳『皇帝フリードリヒ2世』中央公論新社、2011年
267
:
Republica de Venexia
:2014/09/01(月) 10:13:56 ID:???
9月1日はフランス王ルイ14世が死去した日です
>>106
で見たように、1643年5月14日に即位したルイ14世の治世は苦難から始まりましたが、宰相マザランの補佐もあって難局を乗り切ることに成功します
1661年にマザランが亡くなるとルイは親政を開始し、ブルボン朝絶対王政の絶頂期を築き、「太陽王」と呼ばれることになるのです
ここでは、ルイ14世の治世を簡単に見ていくことにしましょう
親政を開始したルイは財務総監にコルベールを起用し、その重商主義政策によって財政を再建します
またコルベールは海軍大臣にも就任し、フランス海軍の強化にも貢献しました
陸軍の強化も並行して行われ、陸軍大臣ルーヴォワ侯によって軍制改革が進められ、フランス陸軍もまた強力なものとなります
ルイはこの強大な軍事力を背景に征服戦争を進め、ネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争によって領土を拡大、ヨーロッパに対する影響力を大きく高めます
さらに彼は王権神授説に基づいた絶対王政を展開、その権威は最高潮となります
1682年に築いた絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世絶対王政の象徴といえるでしょう
しかしルイ14世の晩年はその栄光に陰りが見えるようになります
ファルツ継承戦争やスペイン継承戦争では成果を得られず、戦争による出費や贅沢な暮らしによって財政難に陥ったのです
そして1715年9月1日、ルイ14世は72年110日という長い治世の幕を下ろしました
これはフランス史上最長のみならず、国家元首としても最長記録ということで、ギネス世界記録にも認定されています
本日は「中世以後の国家元首として最長の在位期間」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『世界歴史大系フランス史2 16世紀〜19世紀なかば』山川出版社、1996年
・長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
268
:
Republica de Venexia
:2014/09/02(火) 00:45:32 ID:???
9月2日はアクティウムの海戦が行われた日です
ローマでは
>>244
で見たように、ポンペイウスを倒したカエサルが独裁権を握ることになりました
しかしカエサルによる急速な改革は共和派の反感を買い、カシウスやブルートゥスらがカエサルの暗殺を計画しました
前44年にカエサルは暗殺され、その遺志は彼の後継者たちに引き継がれます
まずカエサル子飼いの将軍、アントニウスがカエサル派を糾合し元老院の主導権を握り、カエサルを暗殺した共和派を追放します
またカエサルの遺言状には彼の甥であるオクタウィアヌスを養子・財産継承者とする旨が書かれており、カエサルを継承するリーダーとして台頭するようになります
当初この2人は対立していましたが、オクタウィアヌスはカエサル派の連携を第一と考え、同じくカエサルの部下であったレピドゥスを誘い第二回三頭政治が成立しました
こうしてローマではカエサル派による支配が確立しましたが、オクタウィアヌスとアントニウスは互いに勢力を競い合い、オクタウィアヌスはイタリア・ヒスパニアを、アントニウスは全東方・ガリア・ナルボンネンシスの統治権を握ります
レピドゥスはこの2人に対抗するには非力で、やがて三頭政治から退き、いよいよ2人の直接対決へと向かいます
イタリアと西方での支配権を確立しローマの最有力者となったオクタウィアヌスはアントニウスと結んだプトレマイオス朝に宣戦布告、前31年9月2日、アクティウムの海戦が勃発します
この海戦に敗れたアントニウスは逃亡しその後自殺、プトレマイオス朝の女王クレオパトラも自殺し、オクタウィアヌスによってローマによる地中海世界統一が達成され、ローマの内乱に終止符が打たれたのでした
本日は「内乱の一世紀」の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
269
:
Republica de Venexia
:2014/09/03(水) 01:10:33 ID:???
9月3日はアイン・ジャールートの戦いが行われた日です
モンゴル帝国初代、チンギス=ハーンの代より行われてきた大西征は一時中断されていたものの、第4代モンケの代に再び計画され、西アジア方面にはモンケの弟フレグが派遣されました
フレグはイラン北西部、アラムートを拠点にモンゴル帝国に対抗していた二ザール派(暗殺教団)を破ると、1258年にはアッバース朝を滅ぼし、バグダードを潰滅させました
フレグは続いてシリアに侵入し、1260年2月にはアレッポとダマスクスを相次いで陥落させ、いよいよマムルーク朝が支配するエジプトへと侵攻する段階となっていました
しかしここでモンケが死去したとの報が伝わり、フレグはモンゴルへの帰還を決意します
フレグ率いるモンゴル軍は、中東地域において恐れられていた二ザール派、そしてイスラームの最高権威アッバース朝を葬り、まさに無敵の軍団と見えたことでしょう
しかし、そのモンゴル軍が引き上げていった...このフレグの旋回により、シリア以西の諸地域は救われたのです
モンゴルの大西征が決定的に食い止められたのは、アイン・ジャールートの戦いによってでした
フレグの本隊が引き上げた後も、先鋒部隊としてキト=ブカの手勢がシリアに駐留していました
キト=ブカは雑多な諸民族・諸教徒からなる混成軍が崩壊するのを恐れたのか、自身の手勢のみで南下を開始、マムルーク朝への攻撃を試みます
一方のマムルーク朝もフレグ本隊の引き上げを好機とみて北進を開始しており、両者は1260年9月3日、アイン・ジャールートにおいて激突します
寡勢のモンゴル軍は、マムルーク朝の英雄バイバルスによって大敗を喫し、潰走しました
バイバルスはその後もモンゴルとの戦いにおいて連戦連勝を重ね、モンゴルはこれ以後シリアを確保できず、中東にはフレグ=ウルスとマムルーク朝の均衡状態が生まれることになるのでした
本日はモンゴルの大西征の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡』講談社、1996年
・牟田口義郎『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』中央公論新社、2001年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
270
:
Republica de Venexia
:2014/09/04(木) 00:01:31 ID:???
9月4日はロムルス=アウグストゥルスが廃位された日です
西ローマ皇帝ネポスが廃位され、ロムルス=アウグストゥルスが即位したのは
>>263
で見ました
このロムルスはネポスを追放したオレステスの実子で、実権はオレステスが握る傀儡政権でした
このオレステスの支配も長くは続かず、ロムルスが即位して1年足らずの476年9月3日、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱によってオレステスは殺害され、ロムルスはローマ皇帝位を追われました
その後の経緯は
>>265
で見た通りで、西ローマ皇帝位は東ローマ皇帝が保持し、名目上統一ローマ帝国が実現することとなります
この統一ローマ帝国は、
>>235
で取り上げたように、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によるイタリア支配により一時的に実現しますが、それも長続きしなかったのはこれまで見てきた通りです
西ローマ帝国の復活は、800年のシャルルマーニュの戴冠によって果たされることになるのです
本日は西ローマ帝国の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・ブライアン・ウォード=パーキンズ、南雲泰輔訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』白水社、2014年
271
:
Republica de Venexia
:2014/09/05(金) 01:33:56 ID:???
9月5日はマルヌの会戦が行われた日です
>>221
で見た普仏戦争での勝利により、ドイツの統一は達成され、以後ビスマルクは対外戦争を控え外交政策に専念、フランスを孤立させるためロシアとも条約を結んでいました
しかし1890年にビスマルクが失脚しヴィルヘルム2世が親政を始めると、ロシアとの再保障条約更新を拒否し、その結果フランスとロシアが同盟、ドイツは東西に敵を抱える形となりました
この状況において参謀総長シュリーフェンはシュリーフェン・プランを考案します
その内容はまずフランスを全力を挙げて早期に攻略し、その後鉄道網を活用してロシアに軍を送るというものでした
シュリーフェンは1905年に退任し、第一次世界大戦におけるシュリーフェン・プランは
>>198
でも取り上げたモルトケの甥小モルトケが実行することになります
1914年に第一次世界大戦が勃発するとドイツ軍は計画通りフランスに侵入しますが、9月5日、マルヌ河畔においてフランス軍の抵抗に遭います
フランスはタクシーを活用した輸送作戦を実施、強固な防衛線を築き、ドイツの侵攻を食い止めることに成功します
ドイツ軍はフランス軍を突破できず、当初の計画は失敗に終わります
以後両軍は塹壕を築いて対峙し、長期にわたる塹壕戦に突入することになるのでした
本日はシュリーフェン・プランが挫折した会戦の誕生日です、フランスの皆さんおめでとうございます
参考文献
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・アンリ・イスラン、渡辺格訳『マルヌの会戦 第一次世界大戦の序曲 1914年秋』中央公論新社、2014年
・木村靖二『第一次世界大戦』筑摩書房、2014年
272
:
Republica de Venexia
:2014/09/06(土) 01:42:42 ID:???
9月6日はマゼラン艦隊がスペインに帰港した日です
スペインでは1492年にナスル朝を滅ぼしレコンキスタ(再征服運動)を完遂すると、ポルトガルが先行していた新航路開拓に本格的に乗り出しました
同年8月にはスペインの支援でコロンブスば西回り航路での航海に出発し、10月には西インド諸島に到達しました
その後もスペインは南北アメリカ大陸への進出に力を入れることになります
1519年8月にはスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の命でマゼラン(マガリャンイス)が同じく西回りでのアジア到達を目指します
マゼラン艦隊は南アメリカ大陸の南端を回り、太平洋に進出しました
この際通った大西洋・太平洋を分かつ海峡は後にマゼラン海峡と命名されます
マゼランは1521年には現在のフィリピンに到達し、フィリピンの諸部族を征服していきました
しかし部族長の一人ラプ=ラプはこれに抵抗おし、マゼランは討伐に赴きますが、逆に敗れ戦死してしまいます
マゼランの死後、艦隊の指揮官はエルカーノが引き継ぐことになります
フィリピン出発後のマゼラン艦隊は苦難の連続でした
インド洋海域はポルトガルの勢力圏であり、マゼラン艦隊は補給に苦労し、さらに壊血病や栄養失調により乗組員が次々と死亡、出発当時5隻265人だった艦隊は1隻18人にまで減少してしまいます
それでも1522年9月6日、エルカーノ率いるマゼラン艦隊はついにスペインに到着しました
エルカーノにはカルロス1世より、地球の図に「我を一周せし最初の者」と刻まれた紋章が与えられ、その功績が讃えられることになるのでした
本日は世界一周の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・増田義郎『図説 大航海時代』河出書房新社、2008年
273
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/09/06(土) 11:05:35 ID:lAG07cCg
やっぱり地中海世界が多いですね
274
:
Republica de Venexia
:2014/09/06(土) 11:28:00 ID:???
>>273
基本的に自分の関心ある分野から選んでますねー
275
:
Republica de Venexia
:2014/09/07(日) 00:59:41 ID:???
9月7日はアナーニ事件が起こった日です
1285年にフランス王となったフィリップ4世端麗王の治世は、フランス王権と教皇権との対立が激化した時代でもありました
これは11世紀のグレゴリウス改革や叙任権闘争における皇帝権と教皇権との対立から続くものであり、世俗君主と教皇のどちらが優位にあるかという首位権を巡る論争でした
またフィリップ4世の治世では、封建貴族・王族との妥協的性格を持つかなクリア・レギス(王室諮問会議)から脱却し、絶対主義的王権を支持するレジスト(ローマ法学者)をブレーンとする中央集権的な官僚制が整えられていきました
フィリップ4世の顧問としてはギョーム=ド=ノガレ、アンゲラン=ド=マリニー、ギョーム=ド=プレジアンらがおり、彼らは国王をローマ皇帝の絶対権力の継承者とみなし、教皇や聖職者全てを国王の支配下に置くことを主張していました
フィリップはこれらの顧問団に支えられ、教皇への圧力を強めていきます
対イングランド戦争の軍資金調達のため、聖職者に課税したのもその1つでした
これに教皇至上主義を主張する教皇ボニファティウス8世が真っ向から対立し、1302年、教皇権の優位を認めさせる教皇回勅を発布します
これに対しフィリップは同年に三部会を開催し、フランス王国の独立と国王の権威を確認が決議されました
さらに翌1303年3月、王政顧問会議でノガレによってボニファティウスを弾劾する宣言が行われ、国中に徹底させます
こうして教皇に対抗する基盤が確立され、ついに1303年9月7日、フィリップはノガレに軍勢を与え、アナーニ城にてボニファティウスを捕縛させます
ボニファティウスは救出され難を逃れますが、後に憤死してしまいます
このアナーニ事件により教皇権威は大いに失墜します
フィリップは十字軍騎士団であるテンプル騎士団を解散させ、さらに教皇庁をアヴィニョンに移転させる(教皇のバビロン捕囚)など、フランス王権の教皇権に対する優位が確立していくのでした
本日はフランス早期絶対王政の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『世界歴史大系フランス史1 先史〜15世紀』山川出版社、1995年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
276
:
Republica de Venexia
:2014/09/08(月) 00:53:58 ID:???
9月8日はオスマン帝国がマルタ島から撤退し始めた日です
>>264
で見たように、1522年、オスマン帝国スルタンのスレイマン1世は聖ヨハネ騎士団の本拠地ロードス島を攻略し、東地中海の支配を確立していきました
聖ヨハネ騎士団は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)への従属を条件にマルタ島を与えられ、ここを新たな本拠地としました
一方オスマン帝国は西地中海にも進出し、1538年にはプレヴェザの海戦によりヴェネツィア共和国その他の連合艦隊を破り、地中海における覇権を確実なものとします
これに対し、聖ヨハネ騎士団はロードス島に拠点を構えていた頃と同じく、イスラーム商船への襲撃を行います
これは先のカール5世の要請によるものでもあり、オスマン帝国海軍の中核をなすバルバリア海賊への対抗は必要不可欠なものだったのです
この聖ヨハネ騎士団の活動に業を煮やしたスレイマン1世は、ロードス島に攻撃した時と同じく、大艦隊をマルタ島へと派遣します
1565年5月、ムスタファ=パシャ率いるオスマン艦隊がマルタ島への包囲を開始しました
しかし、かつてロードス島を攻撃した時と同じようにはいきませんでした
というのも、帝都イスタンブールからマルタ島までの距離はロードス島までの約2倍であり、補給が困難だったのです
ロードス島は小アジアに近いこともあり、途中までは陸路で物資を運ぶことができましたが、マルタ島までは海路で送る必要がありました
北アフリカはオスマン帝国領とはいえ実態はバルバリア海賊の委任領であり、オスマン帝国が自由に活動できるわけではありませんでした
またマルタ島にほど近いシチリア島はスペイン領であり、オスマン帝国の西地中海進出を恐れるスペインはマルタ島の死守を期し、聖ヨハネ騎士団に援軍を派遣したのです
そして包囲戦が始まって約4ヶ月後の1565年9月8日、オスマン帝国はついにマルタ島攻略を断念し、撤退を開始しました
ロードス島包囲戦やプレヴェザの海戦などを通じ無敵を誇ってきたオスマン帝国海軍を撃退したことで西欧世界の指揮は上がり、1571年のレパントの海戦における勝利へと繋がります
この勝利は現在でも讃えられており、マルタ共和国では9月8日は「勝利の日」として祝日になっています
本日はオスマン帝国海軍不敗神話崩壊の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・アーシル・ブラッドフォード、井原裕司『マルタ島大包囲戦』元就出版社、2011年
277
:
Republica de Venexia
:2014/09/09(火) 00:54:58 ID:???
9月9日は「伊号第二五潜水艦」がアメリカ本土を空襲した日です
日本海軍は昭和16年12月に真珠湾攻撃を行った後、潜水艦をアメリカ本土に派遣し、攻撃を行わせました
昭和17年2月には「伊号第十七潜水艦」をはじめとする潜水艦10隻がカリフォルニア州のエルウッド製油所への砲撃に成功し、アメリカ国民に動揺を与えました
さらに同年6月22日には「伊第二五潜水艦(伊25)」がオレゴン州のスティーブンス基地に砲撃を加え、これは1812年の米英戦争以来となる、アメリカ本土の基地への攻撃となりました
これらの攻撃によりアメリカ国民は日本軍が本土に上陸するのではないかという恐怖にかられ、これを払拭するため、日本本土への空襲が計画されました
これが昭和17年4月18日に行われたドゥーリットル空襲で、日本海軍はこれに対抗して伊25によるアメリカ本土空襲を計画します
そして昭和17年9月9日、伊25は零式水上偵察機を発艦させ、オレゴン州ブルッキングスの森林に焼夷弾を投下、延焼させることに成功します
この空襲はアメリカ史上初の敵軍機による本土空襲であり、アメリカ国民に大きな衝撃を与えたのでした
本日はアメリカ本土空襲の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・「丸」編集部『ハンディ判日本海軍艦艇写真集19 潜水艦 伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型』光人社、1997年
・福井静夫『日本潜水艦物語』光人社、2009年
・槇幸『伊25号出撃す アメリカ本土を攻撃せよ』光人社、2009年
278
:
Republica de Venexia
:2014/09/10(水) 01:14:17 ID:???
9月10日はフィリップ善良公がブルゴーニュ公に即位した日です
ブルゴーニュはドイツとフランスの間に位置する地域で、その領域の東側が神聖ローマ帝国に属するブルグント伯領、西側がフランス王国に属するブルゴーニュ侯領となっていました
フィリップ善良公の出身であるヴァロワ=ブルゴーニュ家で、フランス王ジャン2世が4男フィリップにブルゴーニュ公位を与えたこの家系がブルゴーニュを支配する頃には、先のブルゴーニュ侯領とブルグント伯領は統合された状態となっていました
このブルゴーニュ公国初代のフィリップ豪胆公はフランス王国の内政に深く関わり、ブルゴーニュ家がフランス諸侯の筆頭であろうとしました
彼とその後継者ジャン無怖公の時代、ブルゴーニュ家はフランスにおける党派対立に奔走し、1419年、ジャンは党派対立のもつれから暗殺されてしまいます
そして1419年9月10日、新たにブルゴーニュ公となったのがフィリップ善良公でした
フィリップはフランス王国内での対立を避け、北方へと領土を広げていきます
その結果フィリップはブルゴーニュ公に加え、ブルグント伯、エノー伯、ゼーラント伯、アルトワ伯、ホラント伯、ブラバント公、ルクセンブルク公を兼ね、フランス王国からの離脱が進みました
先にも書いた通り、ブルグントは神聖ローマ帝国に属しており、ブラバント、ホラント、ゼーラント、エノーもまた神聖ローマ帝国に属しました
フィリップの時代、ブルゴーニュ公は神聖ローマ帝国の有力諸侯でもあったのです
こうして最盛期を迎え、強大となったブルゴーニュ公国は
>>219
で見たように百年戦争の戦局をも動かす存在でした
またフィリップは文化面にも力を入れ、金羊毛騎士団創設により騎士道文化が隆盛し、フランドル派絵画やネーデルラント楽派が活躍する北方ルネサンスも展開され、ホイジンガがその著作『中世の秋』で讃える時代が現出されたのでした
本日はブルゴーニュ公国最盛期の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・ジョセフ・カルメット、田辺保訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、2000年
・堀越孝一編『新書ヨーロッパ史 中世篇』講談社、2003年
279
:
Republica de Venexia
:2014/09/11(木) 00:34:34 ID:???
9月11日はスコットランド独立戦争、スターリング・ブリッジの戦いが行われた日です
スコットランドはイングランド王リチャード1世獅子心王によって独立を認められたものの、13世紀を通じて事実上イングランド王の主権下にありました
スコットランドはイングランドを共通の敵とするフランスと同盟を結び、1244年にイングランド王ヘンリ3世がスコットランドに攻撃を加えた際にはフランスの援助を受けました
ヘンリの後を継いだエドワード1世もスコットランドへの介入を進め、スコットランド王位継承問題に干渉してジョン・ベイリアルを王位につけさせ、イングランドに臣従させます
その後もエドワードはスコットランドへの威圧的政策を進めたため、1295年、スコットランドはフランスと対イングランド攻守同盟を結びました
これに対しエドワードはベイリアルを捕らえ、スコットランド総督を設置して統治下に置くなど強圧的な措置を行います
スコットランドではイングランドへの不満が高まり、エドワードがフランスへの遠征にスコットランドの参加を求めたことをきっかけに、スコットランドでは大規模な反乱が勃発しました
この反乱の指導者となったのがウィリアム=ウォレスで、彼に率いられた反乱軍は1297年9月11日、スターリング・ブリッジにおいてイングランド軍を破り、反乱軍は大いに勢いづくこととなりました
ウォレスはナイトに叙され、「ジョン王のスコットランド王国の守護官」に任じられます
その後反乱軍は翌年フォルカークの戦いに敗れ、ウォレスもイングランドによって捕らえられ処刑されるものの、それはスコットランドの国民感情をますます燃え上がらせることになりました
ウォレスはイングランドを破り、スコットランドの愛国精神を呼び覚ました英雄として、今でも崇拝されているのです
本日はスコットランド愛国精神の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ナイジェル・トランター、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』岩波書店、2004年
280
:
Republica de Venexia
:2014/09/12(金) 00:12:38 ID:???
9月12日は第二次ウィーン包囲が失敗した日です
スレイマン1世の時代に全盛期を迎えたオスマン帝国ですが、
>>276
で見たようにその治世の末期には繁栄に陰りが見え始め、1571年のレパントの海戦でも敗北を喫しました
一方陸地の方では、
>>184
で見たハプスブルクとの「15年戦争」がバルカン半島で展開され、そして東方ではサファヴィー朝との抗争が行われていました
>>258
のチャルディラーンの戦いでは大勝したオスマン帝国でしたが、サファヴィー朝はアッバース1世の下で最盛期を迎え、タブリーズやバグダードをオスマン帝国から奪うなど、攻勢を見せていました
さて西方に視点を戻すと、15年戦争が終結した後、オスマン帝国はポーランドとの断続的な戦争状態に入ります
ポーランドの王家は
>>264
でオスマン帝国に敗れたラヨシュ2世が属するヤゲウォ家という因縁深いものでした
ポーランドはハプスブルク家と協力し、一方オスマン帝国はハプスブルクを共通の敵とするフランス・ブルボン朝と同盟します
当時のブルボン朝はルイ14世の時代で、彼は
>>267
で見たように積極的な対外戦争を進め、オスマン帝国の対ハプスブルク・ポーランド戦争と連携しました
1683年7月、オスマン帝国はルイ14世の要請もあり、またハプスブルクとの決着をつけるため、その都ウィーンを大軍をもって包囲しました
ルイ14世もハプスブルク領であるオーストリア・スペインに圧力をかけ、支援します
しかしウィーンは第一次ウィーン包囲の時よりも城壁は強化されており、またオスマン帝国軍に攻城兵器が不足していたこともあって包囲戦は長引きます
その間にハプスブルク側はポーランドを中心に反撃の準備を整え、ウィーンへの援軍が到着します
そして1683年9月12日、ポーランド王ソビエツキ率いる重装騎兵隊を先鋒にポーランド・ハプスブルク・ドイツ諸侯の連合軍がオスマン帝国軍を急襲、オスマン帝国軍は包囲を破られ、壊滅的敗北を喫したのでした
この敗戦によりオスマン帝国の衰退は決定的となり、
>>223
で見たカルロヴィッツ条約・パッサロヴィッツ条約を通じ、バルカン半島での勢力を後退させていくのでした
本日は「トルコの脅威」からの解放日です、おめでとうございます
参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
281
:
Republica de Venexia
:2014/09/13(土) 01:26:34 ID:???
9月13日はハドリアヌスの長城が建設され始めた日です
>>268
で見たように、ローマにおける「内乱の一世紀」はオクタウィアヌスによって終結しました
オクタウィアヌスはアウグストゥスの称号を与えられ、帝政を開始しました
ローマによって地中海世界が統一されたこの時代はパクス=ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれ、特に五賢帝の治世はローマ帝国が最も繁栄した時代とされます
この五賢帝の2人目、トラヤヌスの代ではダキア、アラビア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアを征服し、ローマ帝国の最大版図が実現されます
しかしこれらの地域を維持するには軍事的にも財政的にも大きな負担であったため、次代のハドリアヌスはアルメニア、メソポタミア、アッシリアの放棄を決定、東部国境の安定化に努めました
このようにハドリアヌスの治世はローマ帝国は帝国拡大路線から国境安定化路線へと転換した時代でした
122年9月13日、ブリタニアで建造が開始されたこの長城は、ハドリアヌスの政策転換の象徴的存在と言えます
ハドリアヌスの長城は、
>>263
で見たローマ帝国のブリタニア放棄後も活用され、スコットランドに対する防壁として機能、イングランドとスコットランドとの国境にも影響を与えているのです
本日はローマ帝国政策転換の象徴的建造物の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南川高志『ローマ五賢帝』講談社、1998年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
282
:
Republica de Venexia
:2014/09/14(日) 00:21:59 ID:???
9月14日はハールーン=アッラシードがカリフに即位した日です
アッバース朝の成立と首都バグダードの建設については
>>233
で見ましたが、ハールーン=アッラシードの登場はその少し後のこととなります
バグダードを建設した第2代カリフ・マンスールの死後、代3代カリフとなったマフディーの代にはティグリス川東岸の新市街が発展し、西岸の旧市街を凌ぐほどとなりました
そして短命の第4代カリフ・ハーディーを経て786年9月13日、カリフに即位したハールーン=アッラシードにより、バグダードおよびアッバース朝はその最盛期を迎えます
ハールーン=アッラシードの時代、バグダードは「全世界で比肩するもののない都市」と称され、市内には6万の礼拝所、3万の公衆浴場が存在し、大市場には帝国各地の物産が集められ、また中国・東南アジア・中央アジア・アフリカ・ヨーロッパの特産物も見られる、世界有数の繁栄を見せることになります
この繁栄を支えていたのがアッバース朝の大ネットワークでした
・インド洋ネットワークを形成するバスラ道
・シルクロードや草原の道、ロシア方面へも繋がるホラーサーン道
・メッカへと至る宗教ネットワークの中心となるクーファ道
・旧ササン朝ネットワーク・ビザンツ帝国ネットワークを結びつけるシリア道
これら4つの幹線道路がネットワークの中心地バグダードから伸び、大量の物資、人々が行き交うことになったのです
その繁栄ぶりはハールーン=アッラシード時代を物語の中心とする、『千夜一夜物語』でも描かれるのでした
本日はアッバース朝最盛期の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・宮崎正勝『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた全界』講談社、1994年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
283
:
Republica de Venexia
:2014/09/15(月) 00:50:52 ID:???
9月15日(旧暦)は関ヶ原の戦いが行われた日です
豊臣秀吉の死後、豊臣家では石田三成らを中心とする文治派、加藤清正らを中心とする武断派の対立が激化し、徳川家康はその武断派と接近し、豊臣政権内での勢力を拡大していきました
三成はこれに危機感を覚え、家康が会津征伐のため上方を留守にしている間に反家康勢力を結集、毛利輝元を総大将として挙兵しました
この「西軍」はまず伏見城を陥とし、家康方の諸城を攻め落としながら東へと進撃します
一方、家康率いる「東軍」は小山評定にて会津征伐を中止し引き返すことを決定、両軍激突へと向かっていきます
1600年9月14日、家康は美濃赤坂に本陣を構え、決戦の準備を整えます
しかし徳川秀忠率いる、徳川譜代の武将を中心とする別働隊は到着しないままでした
一方の西軍は大垣城に集結し、14日夜には関ヶ原に進出、陣を構えましたが、小早川秀秋が松尾山の西軍を追い出して布陣、また大津城攻めにより立花宗茂や毛利元康らが本戦に参加できないという状況でした
そして1600年9月15日東西両軍は関ヶ原にて相対し、東軍井伊直政の鉄砲隊の射撃により決戦の火蓋が切って落とされました
西軍は松尾山の小早川隊、南宮山の毛利勢が動かないという数的劣勢のなか、笹尾山の石田三成、北天満山の小西行長、南天満山の宇喜多秀家、松尾山山麓の大谷吉継らを中心に、それぞれ黒田長政・細川忠興、織田有楽斎・古田織部、福島正則、藤堂高虎・京極高知を相手に善戦し、戦局は膠着状態となります
三成はここで総攻撃をかけるべしと判断し、狼煙を打ち上げますが、半ば中立の立場をとっていた松尾山の小早川秀秋はもとより、吉川広家の内応により南宮山の毛利勢も動きませんでした
秀秋はその後、家康側につくことを決め、西軍を「裏切り」大谷隊に攻めかかります
吉継はこれを予測していたため一旦は押し返すものの、脇坂安治らが秀秋と同じく東軍側につき、これにより大谷隊は総崩れとなります
大谷隊の壊滅により西軍諸隊は次々と崩れ、敗走することとなります
島津義弘が正面突破による撤退を試み、島津豊久が捨て奸で討死したのもこの時です
こうして東西両軍の決戦は一日で決着し、徳川家康は天下人へとのし上がることとなったのでした
本日は天下分け目の戦いの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・外川淳『完全制覇関ヶ原大合戦 この一冊で歴史に強くなる!』立風書房、2000年
・笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原大合戦と大坂の陣』吉川弘文館、2007年
・光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』日本放送出版協会、2009年
284
:
Republica de Venexia
:2014/09/16(火) 00:03:51 ID:???
9月16日はエルトゥールル号事件が起こった日です
>>225
でも見たように、19世紀のオスマン帝国はヨーロッパ列強に対し守勢に回り、衰退の一途を辿っていました
これを挽回するため専制政治を始めたアブデュル=ハミト2世は汎イスラーム主義を掲げ、イスラーム諸国にオスマン帝国の威容を示すべく、軍艦エルトゥールル号の東洋派遣を決定します
これは1887年の小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応えるため、日本への親善大使派遣も兼ねて行われました
1889年7月にイスタンブールを出港したエルトゥールル号はイスラーム諸国を歴訪しつつ、翌年6月に日本に到着し、日本国民の大歓迎を受けます
そして9月にはオスマン帝国に帰還するため横浜から出港しますが、ここで悲劇が待ち受けていました
1890年9月16日、エルトゥールル号は和歌山県・紀伊大島沖で台風に遭い座礁沈没、多くの乗組員が亡くなりました
生存者は大島村(現在の串本町)に辿り着き、村民に発見されます
この時の村民の行動は迅速でした
直ちに村民総出で生存者の救助にあたり、わずかな食料や衣服を与え、さらに非常用のニワトリまで提供、懸命に救護を尽くしたのです
その結果乗組員69人の生命が救われ、無事オスマン帝国に帰還することができたのです
オスマン帝国はこれに深く感謝し、トルコ国民の間ではエルトゥールル号事件に際しての日本人の救命活動に対する感謝の念が語り継がれることとなります
そしてエルトゥールル号地毛から約100年後の1985年、イラン・イラク戦争の際にトルコ国民の恩返しが行われました
イラクで孤立した215人の日本人救出のため、トルコが航空機を提供し無事に日本へと帰還することができたのです
その後も日本とトルコは、トルコ大地震や東日本大震災の際にお互いに協力するなど友好関係を築いています
また和歌山県串本町では、エルトゥールル号事件以来5年ごとに慰霊の大祭を催し、現在に至っているのです
本日はエルトゥールル号事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます
同時に、日本・トルコ友好関係の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・山田邦紀・坂本俊夫『東の太陽、西の新月 日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』現代書館、2007年
・秋月達郎『海の翼 トルコ軍艦エルトゥールル号救難秘録』新人物往来社、2010年
・森永堯『トルコ 世界一の親日国 危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空』明成社、2010年
285
:
Republica de Venexia
:2014/09/17(水) 00:22:05 ID:???
9月17日はブライテンフェルトの戦いが行われた日です
1618年5月に始まった三十年戦争ですが、プロテスタント側のベーメン王フリードリヒ5世は1620年の白山の戦いで皇帝軍に敗れ、ベーメンのハプスブルク家支配が確立します
続いてデンマーク王クリスティアン4世がプロテスタント側として参戦しますが、傭兵隊長ヴァレンシュタインの大軍勢により撃退されます
このように苦戦が続くプロテスタント側でしたが、これを救ったのがスウェーデン王グスタフ=アドルフでした
さて、スウェーデン軍の躍進を見る前に当時の軍事事情についても触れておきましょう
三十年戦争当時に主流となっていた戦術は「テルシオ」でした
これは1534年にスペインの将軍コルドバが考案した、横に百列・縦に十五列程の槍兵が並ぶ密集方陣で、その四方を銃兵が囲み、さらに四隅に銃兵の密集部隊を配置する、まさに動く要塞というべきものでした
このスペインと対決したのがオランダであることは
>>124
でも見ましたが、そのオランダの指導者マウリッツが進めたのが軍制改革でした
マウリッツは銃兵が槍兵を守るというそれまでの発想を覆し、槍兵が銃兵を守り火力を最大限に高める戦術を考案します
槍兵の方陣の代わりに、約十列の銃兵による縦列陣を編成、槍兵はこれを守るための存在となりました
そして銃兵は発射後すぐに隊列の後ろに回り、再装填するようにし、最前列は常に火力を発揮できるようにしたのです
このマウリッツの軍制改革を完成させたのがグスタフ=アドルフでした
グスタフ=アドルフはマウリッツの考案した陣形を訓練によってさらに洗練させ、銃兵の発射・装填速度の高速化を実現、銃兵の隊列を十列から六列以下にまで減らすことができました
さらに騎兵のカラコール戦術を改め、抜刀突撃による集中攻撃を徹底、これにより騎兵隊に機動力と打撃力がもたらされました
そして砲兵にも改良の手が加えられます
砲の射程は必ずしも砲身の長さとともに増大するものではなく、砲の有効性を損なわずに砲身の長さ・重さを半分にできるという発見を活かし、より機動的な野戦砲を導入したのです
そしてグスタフ=アドルフは歩兵・砲兵の火力、騎兵の打撃力を最大化しつつそれらを機動的に運用する三兵戦術を有効性に活用し、これをもって軍制改革が完成されました
そして1631年9月17日、テルシオを採用する皇帝軍と、三兵戦術のスウェーデン軍がライプツィヒ近郊のブライテンフェルトにて激突、戦いはスウェーデン軍の圧勝に終わったのでした
これはプロテスタント側に初めての勝利をもたらしただけではなく、戦術史上においても画期的な勝利といえ、ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えることとなったのでした
本日はプロテスタント側勝利の誕生日と同時に、近世戦術転換の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・B.H.リデルハート、森沢亀鶴『世界史の名将たち』原書房、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年
286
:
Republica de Venexia
:2014/09/18(木) 00:03:34 ID:???
9月18日はネルウァがローマ皇帝に即位した日です
ローマ帝国は
>>220
で見たネロの死によりユリウス=クラウディウス朝が断絶し、その後一年間で3回皇帝が交代する「四皇帝の年」と呼ばれる内戦状態に陥ります
これを鎮圧したウェスパシアヌスがフラウィウス朝を開きますが、元老院と敵対したドミティアヌスが暗殺されたことで断絶してしまいます
このフラウィウス朝断絶後、元老院により皇帝に推挙されたのがネルウァでした
ネルウァは即位当時すでに65歳と高齢で、その治世も15ヶ月と非常に短いものでしたが、トラヤヌスを後継者に指名するという重要な役割を果たすのです
トラヤヌスは
>>281
で見たようにローマ帝国の最大版図を築いた皇帝で、軍・民衆からの人気も高く、現在に至るまで高い評価を得る皇帝ですが、当時のローマ帝国では前列の無い属州出身の皇帝でした
ネルウァには嫡男がいなかったため、このトラヤヌスを養子に迎え後継者としたのです
これはローマ帝国最盛期を築く王朝成立のきっかけであり、ネルウァの短い治世での最大の功績と讃えられることとなるのでした
本日はローマ帝国五賢帝時代の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・南川高志『ローマ五賢帝』講談社、1998年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
287
:
Republica de Venexia
:2014/09/19(金) 00:34:41 ID:???
9月19日はポワティエの戦いが行われた日です
>>237
で見たように、百年戦争におけるイングランドは1346年8月、長弓隊の活躍によりフランス騎士軍に大勝、翌年8月にカレーを陥としました
カレー陥落と同時期にはアキテーヌ地方の諸都市を征服、ブルターニュではラ・ロシュ=デリアンの戦いでブルターニュ公シャルル=ド=ブロワを捕虜とし、スコットランドにおいてネヴィルズ=クロスの戦いでもスコットランド王デイヴィッド2世を捕らえるなど、イングランド優勢のままに戦局を進めていました
しかし休戦の試みもなされ、1347年には既に教皇クレメンス6世の仲介により休戦が成立し、これが毎年更新されることとなります
この間にフランスでは黒死病が大流行により人口が激減、一時的な休戦ではなく戦争そのものの和平条約締結が模索されます
1354年4月にはアヴィニョンにて和平会議が開かれ、イングランド王エドワード3世はアキテーヌ領の保持、ポワトゥー・トゥーレーヌ・アンジュー・メーヌの割譲を条件として提示しますが、フランス王ジャン2世はこれを拒否、イングランドはフランス侵攻を再開します
このイングランド軍を率いたのはエドワード黒太子で、彼はボルドーから出撃しブルターニュのランカスター公ヘンリーの軍勢との合流を図りました
しかしこれはフランス軍の妨害に遭い、黒太子は態勢を立て直すため一旦ボルドーへ退却します
しかしフランス軍の追撃は速く、逃れられないことを悟った黒太子はポワティエに陣を敷き、迎撃の準備を整えました
そして1356年9月19日、イングランド軍に追いついたフランス軍の突撃により、ポワティエの戦いが始まりました
数にまさるフランス軍でしたが、戦いの展開はまさにクレシーの戦いの再現でした
イングランド長弓隊の活躍により再びイングランドが大勝し、フランス王ジャン2世は捕虜となるのです
この戦いによりイングランドの優位が確立し、1356年にはロンドン条約が結ばれ、ノルマンディー・ブルターニュ・アンジュー・メーヌ・アキテーヌがイングランド領となり、かつてのアンジュー帝国が復活することとなったのでした
本日は百年戦争序盤におけるイングランドの決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年
288
:
Republica de Venexia
:2014/09/20(土) 00:49:48 ID:???
9月20日は対立教皇クレメンス7世が即位した日です
>>275
で見たように、フランス王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世の捕縛を図ったアナーニ事件の後、1308年にはフィリップによって教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移されます
これを新バビロニア王ネブカドネザル2世がユダ王国のユダヤ人をバビロンへと連行した「バビロン捕囚」に倣い、「教皇のバビロン捕囚」と称されました
このアヴィニョン教皇庁時代は約70年間に渡り、アヴィニョンに教皇座を置いたクレメンス5世から数えて7代目のグレゴリウス11世の時代、ようやくローマへの帰還が実現します
1378年4月にはローマでの教皇選挙によりイタリア人のウルバヌス6世が選出され、イタリア人枢機卿の増員を試みます
しかしフランスの圧力により、それまで枢機卿団の多数を占めていたフランス人枢機卿はこれに反発しました
そして1378年9月20日、フランス人枢機卿により対立教皇クレメンス7世の選出が宣言され、クレメンスはアヴィニョンに教皇座を置き、ローマ教皇と対立することとなります
この事態を収拾するため1409年にはピサ教会会議が開かれ、ローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世を廃位し、アレクサンデル6世の選出が決定されますが、ローマ・アヴィニョンの両教皇はこれを拒否、結局ピサにも教皇が立ち三教皇鼎立という事態となります
この分裂状態は、1414年から始まるコンスタンツ公会議で収拾されるまで続くこととなるのでした
本日は教会大分裂(大シスマ)の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・樺山紘一『パリとアヴィニョン 西洋中世の知と政治』人文書院、1990年
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
289
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/09/20(土) 06:49:54 ID:oCXHJDRk
ローマに帰してクレメンス(激寒)
290
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/09/20(土) 07:43:02 ID:0s1/hvFM
お前AILEくんかよぉ!?
291
:
Republica de Venexia
:2014/09/20(土) 10:17:03 ID:???
アナーニ事件といい、憤死といい、この辺は何かとワードが面白いですよね
292
:
Republica de Venexia
:2014/09/21(日) 00:33:57 ID:???
9月21日はマルタがイギリスから独立した日です
>>276
で見たように、マルタ島はロードス島を終われた聖ヨハネ騎士団の本拠地となり、1565年にはオスマン帝国の侵攻を撃退しました
このマルタ防衛戦を指揮した騎士団長がジャン=ド=ラ=バレッテで、彼の名にちなみマルタの首都はバレッタと名付けられることとなります
その後のマルタ騎士団は存在感を失っていきます
三大騎士団のうちテンプル騎士団は既にフィリップ4世によって解散させられ、ドイツ騎士団は世俗のプロイセン公国となり騎士団としての主権は失われていきました
マルタ騎士団のみが主権を持つ騎士団として存続しましたが、1798年、ナポレオンがエジプト遠征中にマルタを奪い、マルタ騎士団は本部はシチリア島のカターニャに置きつつもモスクワへと逃れます
1826年にはその本部がイタリアのフェラーラに移転され、1834年にはローマに移転し現在に至ることとなります
マルタ騎士団が追われた後のマルタ島はナポレオン失脚の後イギリス領となり、第二次世界大戦中にはイタリア軍の包囲を受けますがこれを撃退します
戦後はイギリスからの独立運動を進め、1964年9月21日、イギリス連邦王国としてついに独立を達成します
1974年12月13日にはイギリス連邦内の共和国となり、現在に至るのです
マルタ騎士団とマルタ島、現在は別々の道を歩むこととなっていますが、冷戦末期の時期にはマルタ共和国がマルタ騎士団に国土の一部を割譲するという噂も流れました
今後も双方の関係に注目ですね
本日はマルタ国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・アーシル・ブラッドフォード、井原裕司『マルタ島大包囲戦』元就出版社、2011年
293
:
Republica de Venexia
:2014/09/22(月) 00:42:36 ID:???
9月22日はブルガリアがオスマン帝国から独立した日です
ブルガリアは
>>133
で見た第一次ブルガリア帝国、
>>227
で登場した第二次ブルガリア帝国が繁栄し、中世東欧の強国として存在感を放っていました
しかし14世紀になるとオスマン帝国が台頭し、
>>222
で見たように
バヤジット1世の治世にバルカン半島への進出を本格化させます
1396年に行われたニコポリスの戦いの後、ブルガリアはオスマン帝国に征服されました
オスマン帝国支配下のブルガリアでは度々反乱が勃発しますが、その都度オスマン帝国によって鎮圧されます
しかし
>>280
で見た第二次ウィーン包囲失敗の後オーストリアがバルカン半島で攻勢を見せ、ブルガリアもオーストリアの支援を受けるようになります
さらに
>>80
で取り上げた露土戦争によって、ブルガリアは1878年にブルガリア大公国として自治領となりました
しかしロシア帝国の影響を強く受け、ロシアの南下政策の鍵となったブルガリア大公国はヨーロッパ列強に警戒され、その領土は3つに分割され、オスマン帝国の影響力も復活することとなります
しかし高まった独立の気運は萎むことなく独立運動は続けられました
そして1908年9月22日、
>>225
で見た青年トルコ革命に乗じ、オーストリアの支援を得て、ついに独立を達成したのでした
本日はブルガリア王国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・柴宣弘『図説バルカンの歴史』河出書房新社、2011年
294
:
Republica de Venexia
:2014/09/23(火) 01:50:41 ID:???
9月23日はヴォルムス協約が結ばれた日です
神聖ローマ帝国では
>>245
で登場した初代オットー1世の代から、ローマ教会組織を通じて帝国統治を行う帝国教会政策が進められました
これはザクセン朝断絶後のザリエル朝時代でも継続され、ザリエル朝初代コンラート2世は帝国教会政策の強化に努めました
第2代ハインリヒ3世も父の政策を継承し、彼の時代に神聖ローマ皇帝権は強大なものとなりました
ハインリヒ3世の強権はイタリアにも及び、堕落していたローマ教会を正すべく、教会改革運動を積極的に支持します
しかしハインリヒはあくまで帝国統治のために教会の改革を求めたのに対し、改革運動の主導者たちは世俗権力からの脱却を主張したのです
その中心がクリュニー修道院であり、クリュニー修道院出身のイルデブラント、後のグレゴリウス7世でした
こうして教会と皇帝の対立が始まろうとしていた矢先の1056年、ハインリヒ3世は急死し、わずか6歳のハインリヒ4世が後を継ぎます
これを好機と、イタリアでは皇帝権排除の運動が高まり、イルデブラントがグレゴリウス7世として教皇に就任、グレゴリウス改革と呼ばれる改革運動を推し進めます
それは教皇権の皇帝権に対する優越を目指すものであり、帝国教会政策が機能する鍵となる聖職叙任権を教会の権利とする運動でした
すなわち、叙任権闘争の始まりでした
グレゴリウスはハインリヒに対し、叙任権が皇帝ではなく教皇にあることを通達し、ハインリヒがこれに従わなかったため破門を通告します
神聖ローマの諸侯はこれを好機とばかりに皇帝に叛旗を翻し、ハインリヒは窮地に追い込まれます
しかし1077年にハインリヒが教皇に謝罪したことで破門解除が認められ(カノッサの屈辱)、態勢を立て直したはハインリヒは教皇に逆襲、1085年、グレゴリウスはローマを追われサレルノで客死します
一方のハインリヒも諸侯反乱には悩まされ続け、さらに2人の息子にも裏切られることとなり、1105年、息子ハインリヒ5世によって廃位され、翌年急死します
皇帝となったハインリヒ5世は叙任権闘争の解決を図り、ローマ教会と交渉を進めます
そして1122年9月23日、ヴォルムス協約が成立し、世俗的な権利を皇帝が掌握する代わりに、聖職叙任権は教皇が保持することとなり、グレゴリウスが始めた叙任権闘争が一応の解決をみることとなったのでした
本日は叙任権闘争の終結日です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
295
:
Republica de Venexia
:2014/09/24(水) 01:27:55 ID:???
9月24日はムハンマドがメディナに移住した日です
ムハンマドは570年頃、メッカを支配するクライシュ族の有力支族、ハーシム家に生まれました
彼が生まれた当時既に父親は亡くなっており、母親も彼が6歳の時に亡くなり、孤児となってしまいます
後にコーランが孤児への慈善を推奨するのは、ムハンマドの生い立ちに由来するものといえます
孤児となったムハンマドは祖父アブドゥル=ムッタリブに保護され、祖父の死後はその息子のアブー=ターリブがムハンマドを保護しました
その後の彼は商人として至って平穏な日々を送りますが、610年、彼が40歳の頃にアッラーの啓示を受けます
ムハンマドはまず近親者に啓示の教え、すなわちイスラームを説き始めました
最初に妻のハディージャ、そして従兄弟のアリーや友人のアブー=バクルらが入信します
しかしクライシュ族全体としての反応は冷たいものでした
彼らは元々多神教を崇拝しており、一神教であるイスラームは祖先以来の宗教を否定するものであったからです
さらにクライシュ族内での主導権争いも絡み、ムハンマドは迫害を受けるようになりました
やがて妻のハディージャ、ムハンマドを保護していた伯父のアブー=ターリブが亡くなり、最大の支持者を失ったムハンマドはメッカを脱出します
そして622年9月24日、ムハンマドは信徒と共にメディナへと移住し、彼はここを拠点にイスラーム共同体を形成し、イスラーム国家として発展していくこととなるのでした
本日はヒジュラ(聖遷)の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・小杉泰『イスラームとは何か その宗教・社会・文化』講談社、1994年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
296
:
Republica de Venexia
:2014/09/25(木) 00:57:00 ID:???
9月25日はニコポリスの戦いが行われた日です
>>222
で見たように、ムラト1世が暗殺された後スルタンとなったバヤジット1世はバルカン半島における征服活動を本格化させました
バヤジットは「雷帝」の異名を持つように、その行動は迅速果敢、次々とバルカン半島を攻め取っていきました
一方のキリスト教勢力はというと、十字軍最後の拠点アッコンを1291年に失ったものの、聖地奪回の希望を捨てず、十字軍運動を継続させていました
バルカン半島における十字軍運動で指導的役割を担ったのが中世の強国ハンガリーで、後に神聖ローマ皇帝となるジギスムントが国王となっており、キリスト教世界防衛を期していました
ハンガリーの重要性は、ビザンツ帝国がオスマン帝国に屈したことでさらに高まります
バルカン半島征服を進めるバヤジットに対しビザンツ帝国は防戦一方で、1391年、ビザンツ皇帝マヌエル2世はバヤジットに帝都コンスタンティノープルを包囲されるとオスマン帝国に対する融和策を打ち出し、バヤジットの軍事行動にビザンツ軍を率いて参戦することを約束、さらにコンスタンティノープルにイスラーム教徒居住区やイスラーム法廷を設置するなど、オスマン帝国への従属を余儀なくされたのでした
ここにおいてジギスムントはヨーロッパ各国に援軍要請を行います
これに応えたのがローマ教皇ボニファティウス9世で、彼はこのオスマン帝国に対する防戦戦を十字軍として布告します
>>288
で見た通り、当時教皇庁はローマとアヴィニョンに分かれていましたが、そのアヴィニョン教皇のベネディクトゥス8世もフランスの十字軍士に贖宥を与えるなど、支援を行ないました
こうした活動の結果、ジギスムントの下にはベーメン、ポーランド、イタリア、フランス、スイス、イングランド、スコットランドなどから兵が集まり、オスマン帝国の拠点ニコポリスを包囲しました
決戦は1396年9月25日、ニコポリスを救援に到着したバヤジット率いるオスマン帝国軍へのフランス騎士軍への攻撃で始まりました
バヤジットはスルタン直属軍のイェ二チェリ歩兵軍を中心に前方に非正規軽騎兵、その周囲に正規騎兵を配置、さらに両翼にも小アジア・バルカン半島から徴収した騎兵を置いて迎え撃ちました
フランス騎士軍は正面から突撃し、オスマン帝国軍の軽騎兵を蹴散らしますが、バヤジットはイェ二チェリを後退させてフランス騎士軍を誘い込み、包囲殲滅します
残る十字軍団も壊滅しジギスムントは敗走、戦いはオスマン帝国の大勝に終わったのでした
この戦いの後、カイロでマムルーク朝によって保護されていたアッバース朝カリフは、バヤジットの勝利を讃え「スルタン」の称号を与えたとの伝承もあります
以後バヤジットは小アジア・バルカン半島での征服活動をさらに進めていくのでした
本日はニコポリス十字軍の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年
297
:
Republica de Venexia
:2014/09/26(金) 01:57:09 ID:???
9月26日はヴェネツィア共和国がパルテノン神殿を砲撃した日です
>>276
で見たように、オスマン帝国はスレイマン1世の治世末期からその繁栄に陰りが見えていましたが、1571年のレパントの海戦における敗北後もすぐさま海軍を再建し、依然として脅威であり続けました
一方のヴェネツィア共和国はというと、レパントの海戦後にオスマン帝国と講和し、その間に地中海における制海権の回復に乗り出します
1613年から始まる対オーストリア戦争ではオーストリアが支援する海賊を討伐し、1619年の時点でアドリア海の制海権を再び握ることに成功します
しかし1645年、約70年の間保たれてきたオスマン帝国との平和が破れます
オスマン帝国がヴェネツィア共和国最重要の植民地、クレタに攻撃してきたのです
ヴェネツィアは各方面に援軍を要請し、自らも投入可能な全ての戦力をクレタに集結させ、徹底交戦の構えを取ります
しかしヨーロッパ諸国は互いに交戦状態であったため援軍は送れず、クレタ防衛戦はほぼヴェネツィア一国のみで続けられました
それでもクレタは15年間耐え、その間にフランスとスペインとの戦争が終わったため、クレタへの援軍が送られるようになります
しかし国力の限界を超える防衛戦によりヴェネツィアは疲弊し1669年、25年間の防衛戦の末ついにクレタは降伏しました
しかし
>>280
で取り上げたオスマン帝国の第二次ウィーン包囲によりヴェネツィアは反撃のチャンスを得ます
陸においてはオーストリアとポーランドがオスマン帝国に対し攻勢に出、海からはヴェネツィア海軍が沿岸地域を攻撃しました
このヴェネツィア海軍を率いるのが先のクレタ防衛戦の指揮官モロシーニで、彼は捲土重来とばかりにかつてヴェネツィアが支配していた拠点を次々と回復していきます
「ヴェネツィア共和国の2つの眼」モドン・コロンも奪還し、アルゴスやナウプリオンも攻略、1686年にはペロポネソス半島の旧ヴェネツィア拠点の全てを取り戻したのです
モロシーニはさらに進軍し、パトラス、レパント、コリントも征服し、1687年にはミストラ、スパルタ、アテネも陥としました
このアテネ攻略の1687年9月26日、オスマン帝国が弾薬庫としていたパルテノン神殿にモロシーニ艦隊が砲撃し、甚大な被害を被ったのでした
オスマン帝国との戦いは
>>223
で見たように1699年のカルロヴィッツ条約でいったん終結し、モロシーニによって奪還された地域の領有が認められるのでした
しかしこれらの領土を維持する国力は既にヴェネツィアには存在せず、反撃に出たオスマン帝国によって再び征服され、1718年のパッサロヴィッツ条約で割譲を余儀なくされるのでした
ヴェネツィアが死力を振り絞ってオスマン帝国に対抗したクレタ防衛戦、そしてモロシーニによるオスマン帝国に対する攻勢は、ヴェネツィア共和国最後の輝きとなったのでした
本日はパルテノン神殿の崩落日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・ジャン・モリス、椋田直子訳『ヴェネツィア帝国への旅』東京書籍、2001年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』岩波書店、2004年
・アルヴィーゼ・ゾルジ、金原由紀子他訳『ヴェネツィア歴史図鑑 都市・共和国・帝国 697〜1797年』東洋書林、2005年
298
:
Republica de Venexia
:2014/09/27(土) 01:16:49 ID:???
9月27日はオスマン帝国がウィーンを包囲した日です
オスマン帝国のスレイマン1世は
>>264
で見たように、1526年のモハーチの戦いでハンガリーを破り、その後ハンガリーの地はオスマン帝国とハプスブルク家との争奪戦の舞台となります
目下の問題はモハーチの戦いで戦死したハンガリー王ラヨシュ2世の後継者選出で、ハンガリー貴族の多数派はトランシルヴァニア侯サボヤイ=ヤノシュを国王に選出しましたが、神聖ローマ皇帝カール5世はハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントを推し、国王に即位させます
サボヤイ=ヤノシュは追放され、オスマン帝国を頼るのでした
また、フランス王国と神聖ローマ帝国との関係もオスマン帝国によるオーストリア攻撃のきっかけとなりました
カール5世が神聖ローマ皇帝となった際の皇帝選挙で帝位を争って敗れたフランス王フランソワ1世が、その後もカールと抗争を続けていたのです
1525年のパヴィアの戦いに敗れ劣勢が明白となったフランソワ1世はオスマン帝国を頼り、同盟を結んだのです
もともと西方への進出を目論んでいたスレイマンはこれらの要請を受け入れ、1529年5月、イスタンブールを発ちオーストリアへと進軍を開始しました
7月にはベオグラードに到着し、ハンガリー王フェルディナントを破りハンガリーの再征服を進め、9月にはオーストリアへと侵入します
そして1529年9月27日、スレイマンの軍勢がハプスブルク家の都ウィーンを包囲します
しかしウィーンの守りは堅く、長距離の輸送が困難であったため大砲が不足していたオスマン帝国軍は攻めあぐね、10月半ばにはウィーンの早い冬が訪れ、包囲が困難なものとなりました
10月14日、スレイマンは包囲を解き、撤退することとなります
オスマン帝国によるウィーンの包囲は、1453年のコンスタンティノープル陥落以来の衝撃を与えました
コンスタンティノープルのそれは西欧にとって遠い東方での出来事であったのに対し、ウィーンは神聖ローマ帝国を統べるハプスブルク家の都であり、その衝撃は絶大なものでした
折しも西欧ではルターらによる宗教改革が進んでおり、神聖ローマ皇帝カールもその対応に苦慮していました
しかしオスマン帝国に対抗するためにはルター派の協力も不可欠であり、彼らに対し妥協せざるを得ない状況となったのです
オスマン帝国に対して完全に優勢となるのは1699年カルロヴィッツ条約締結であり、その時が訪れるまでオスマン帝国は西欧に脅威を与え続けることになるのでした
本日は第一次ウィーン包囲の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
299
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Republica de Venexia
:2014/09/28(日) 00:03:46 ID:???
9月28日
9月28日はノルマンディー公ウィリアムがイングランドに侵攻した日です
イングランドでは5世紀頃からゲルマン人の一派アングロ=サクソン人が定住し始め、9世紀にはウェセックス王エグバートの下で統一国家が形成されました
しかしエグバートの治世末期からヴァイキングであるデーン人の侵入を受け、次第に定着していきます
このデーン人に対し、アングロ=サクソン勢力を結集して撃退したのが、エグバートの孫アルフレッド大王でした
しかしアルフレッドもデーン人を完全に駆逐することはできず、彼の死後再びデーン人の侵入は激しさを増していきます
11世紀にはエゼルレッド2世がノルマンディー公国と連携してデーン人に対抗するものの、彼の死後デーン人の王子クヌートが即位し、デーン朝が成立します
しかしデーン朝はクヌートの死後急速に衰退し、エゼルレッド2世の息子でノルマンディーに亡命していたエドワード懺悔王が即位しました
ところがエドワードは男子がいないまま病没し、その後継者を巡って争いが勃発します
次王の候補となったのはエドワードの義弟ウェセックス伯ハロルド、ノルウェー王ハーラル、そしてノルマンディー公ウィリアムでした
1066年4月、イングランド王として即位したのはウェセックス伯ハロルドでした
しかしこれに対しノルマンディー公ウィリアムが反発します
というのも、彼はエドワードから王位継承の約束を得ており、またウェセックス伯ハロルドがノルマンディー公ウィリアムに服従する誓いを行ったとされるからでした
またノルウェー王ハーラルもウェセックス伯ハロルドの即位を不満に思い、王位継承を狙っていました
1066年9月、まずノルウェー王ハーラルがイングランドに上陸し、ヨークを占領しますが、9月25日、スタンフォード・ブリッジの戦いでハロルド2世(ウェセックス伯ハロルド)に敗れ戦死します
続いて9月28日、ノルマンディー公ウィリアムがイングランド南部のペヴェンジに上陸しました
これを受けハロルドはヨークから南下し、ヘースティングズ近郊のセンラックの丘に布陣します
10月14日、ノルマンディー公ウィリアムとハロルド2世の軍が激突し、丸一日にわたる戦闘の末ハロルドは戦死するのでした
このヘースティングズの戦いに勝利したウィリアムはイングランド南東部を制圧してロンドンに入り、イングランド王ウィリアム1世征服王として即位、ノルマン朝を開くのでした
本日はノルマン=コンクェストの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
300
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Republica de Venexia
:2014/09/29(月) 01:19:28 ID:???
9月29日はオーレの戦いが行われた日です
百年戦争が始まってすぐの1341年、ブルターニュ公領を支配していたブルターニュ公ジャン3世が嫡子を残さずに病死したことで、ブルターニュ継承問題が発生しました
公位継承権を巡って争ったうちの1人がジャン3世の異母弟にあたるモンフォール伯ジャンで、これをイングランドが支援します
一方がジャン3世の姪にあたるパンティエーヴル女伯ジャンヌで、彼女の夫がフランス王フィリップ6世の甥であるブロワ伯シャルルであり、こちらをフランスが支援することとなりました
モンフォール伯ジャンはブルターニュ公領の首都であるナントを占拠しますが、これに対しフィリップ6世は長子のノルマンディー公ジャンの軍勢を派遣し、ここにブルターニュ継承戦争が勃発しました
フランス軍はナントを奪還し、さらにモンフォール伯ジャンを捕虜としたことでブロワ伯シャルルの公位継承が確定したと判断、軍を引き揚げました
しかしモンフォール伯ジャンに代わってモンフォール伯妃ジャンヌが指揮を取り、ブロワ伯シャルルはこの対応に苦慮します
そうしているうちにイングランド王エドワード3世が介入、ローマ教皇の仲裁により停戦が成立しました
その後モンフォール伯ジャンはイングランドへと逃亡、ブロワ伯シャルルはラ・ロシュ=デリアンの戦いでイングランドの捕虜となり、双方の当主がいないまま戦争が継続されることとなります
やがてモンフォール伯ジャンの息子ジャン4世が成人しブルターニュ公となりますが、ブロワ伯シャルルも釈放されたことでこちらもブルターニュ公を名乗り、ブルターニュ公領を分割するという条件で和平交渉が進められましたが決裂、ブルターニュ継承戦争が再開されました
そして1364年9月29日、イングランド軍が支援するモンフォール伯ジャン4世とフランス軍が支援するブロワ伯シャルルがオーレにて激突、この戦いでフランス軍は敗れ、ブロワ伯シャルルは戦死します
ブロワ伯シャルルの妻パンティエーヴル女伯ジャンヌも公位継承権を放棄し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となったのでした
本日はブルターニュ継承戦争終結の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年
301
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Republica de Venexia
:2014/09/30(火) 01:06:24 ID:???
9月30日はビスマルクが「鉄血演説」を行った日です
>>114
で見たように、1848年に開かれドイツ統一が議論されたフランクフルト国民議会では、大ドイツ主義・小ドイツ主義・シュヴァルツェンベルク構想が打ち出されましたが、このうちまず大ドイツ主義・小ドイツ主義が挫折して議会は活動を停止します
プロイセンはその後小ドイツ的な統合を目指しザクセンやハノーファーなど27邦国の同意によってエアフルト連合を結成しました
しかしバイエルンがこれに反発し、さらにオーストリアがシュヴァルツェンベルク構想を打ち出して対抗すします
オーストリアはロシアの支持も取り付け、これによりエアフルト連合は放棄を余儀なくされ、やがてシュヴァルツェンベルク構想も挫折し、ドイツでは旧体制が復活しドイツ統一は先延ばしとなりました
この後ドイツ連邦内ではプロイセンとオーストリアの覇権争いが繰り広げられ、プロイセンはドイツ連邦議会のプロイセン代表となったビスマルク指揮の下、オーストリアの優位を覆し対等の地位を得ることに尽力します
一方のオーストリアは1854年のクリミア戦争で役割を果たせず、1859年のイタリア統一戦争に敗れて領土を割譲するなど、その威信は低下していきました
イタリアやフランスと結びオーストリアを牽制し徐々に影響力を増大させていったプロイセンは1861年、新国王にヴィルヘルム1世が即位し、軍制改革を進めましたが、プロイセン議会は軍備拡張の予算案を否決します
この状況を打開するため、ヴィルヘルムは1862年9月にビスマルクを首相に任命します
そして1862年9月30日、ビスマルクは予算委員会において
「ドイツが注目しているのはプロイセンの力なのである ─ 現下の大いなる諸問題が決せられるのは、演説や多数決によってではなくて ─ これこそが1848年と1849年の大きな間違いだったのだが ─ 鉄と血によってなのである」
という、いわゆる「鉄血演説」を行い、富国強兵を強行していきます
その後のプロイセンは
>>198
で見たように普墺戦争でオーストリアを破り、
>>221
で取り上げた普仏戦争でも勝利しドイツ統一を達成するのでした
本日は「鉄血政策」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
302
:
Republica de Venexia
:2014/10/01(水) 01:14:02 ID:???
10月1日はガウガメラの戦いが行われた日です
>>262
などで見てきたように、ギリシアの諸ポリスは連合してアケメネス朝を撃退し、ペルシア戦争に勝利しましたが、アケメネス朝は依然として影響力を保持し、度々ギリシアに干渉しました
アケメネス朝はギリシア諸ポリスの対立を利用し、その共倒れを狙います
スパルタとアテネが覇権を争ったペロポネソス戦争ではスパルタを援助し、戦争はスパルタが勝利しますが、その後に起こったコリントス戦争では当初アテネを支援しアテネが一時は優位を取り戻します
しかし再びスパルタを支援し、アテネを圧迫して講和を結ばせ、アンタルキダスの和約が成立します
この和約はペルシア王によって発布され「大王の和約」と呼ばれるように、ギリシアにおけるアケメネス朝の存在は大きなものだったのです
やがて前4世紀頃になると北方のマケドニアが国王フィリッポス2世の下で強大化し、前338年、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破りギリシアの覇権を握ります
ギリシアを統一したフィリッポスは続けてアケメネス朝を打倒すべく遠征の準備に取り掛かりましたが、その半ばの前336年に暗殺されてしまいます
フィリッポスの後を継いだのがアレクサンドロス3世(大王)で、彼は前334年、東方遠征に出発しグラニコス川でアケメネス朝の小アジア駐屯軍を破ります
ついで前333年にイッソスの戦いでダレイオス3世率いるアケメネス朝軍本隊を破り、エジプトへと進軍しました
アレクサンドリアを建設するなどエジプトでの支配を固めたアレクサンドロスはペルシアへの進軍を再開します
そして前331年10月1日、アレクサンドロスはティグリス川上流のガウガメラにおいて再びダレイオス3世率いるアケメネス朝軍を破りペルシアへと侵入、バビロンやスサ、そして都ペルセポリスを占領・略奪しペルシアを制圧しました
ダレイオスはガウガメラで敗れた後カスピ海方面へと逃走していましたが、前330年に側近ベッソスによって暗殺され、ここにアケメネス朝ペルシアは滅亡したのでした
本日はアレクサンドロス大王の決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年
303
:
Republica de Venexia
:2014/10/02(木) 00:57:22 ID:???
10月2日はサラディンによってイェルサレムが陥落した日です
>>199
で見た、1187年7月4日のヒッティンの戦いに勝利したアイユーブ朝スルタンのサラーフッディーン(サラディン)は、ほぼ無傷で進軍することができました
一方の十字軍はイェルサレム王ギー=ド=リュジニャンやアンティオキア公ルノー=ド=シャティヨン、テンプル騎士団総長、聖ヨハネ騎士団総長らが捕虜となり、軍事力をほぼ失うこととなりました
そのためサラディンの征服活動は大きな抵抗に遭うことなく進められ、1189年までにトリポリ以南の港市はティルスを除いて全て奪還され、内陸においてもティベリアス以南がサラディンによって占領されました
サラディンは1189年9月20日に聖地イェルサレムの包囲に取り掛かり、守将であるイェルサレム王代理バリアン=ディプランに無条件降伏を突き付けました
この時の内容は、第1回十字軍の際に十字軍がイェルサレム入城後に行った残虐行為の報復ともいえる過激な内容でしたが、これに対し守将バリアンは徹底抗戦の構えを見せたためサラディンは条件を和らげ、身代金と引き換えに住民の安全を保証することとなりました
そして1189年10月2日、交渉が妥結されイェルサレムの十字軍は降伏、サラディンの入城が果たされたのです
このイェルサレム奪還は十字軍における転機となりました
まずサラディンによって十字軍国家・諸都市の大半が征服されたことで、十字軍の経済力・軍事力・政治権力が低下し、当地の十字軍勢力のみでは十字軍活動が困難となりました
また十字軍国家の防衛に大きな役割を果たしていたテンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団の勢力が大きく削減され、十字軍における活動が限定的となりました
さらに第1回十字軍以前とは異なり、聖地におけるイスラーム勢力は統一が達成され、単なる軍事力だけでは対抗が困難となり、政略・外交・謀略などが必要となったのです
そして聖地ではキリスト教徒と異教徒・原住民との交流が深まり、いわゆる「聖戦」の意識が薄れ、共存共栄の思想や寛容主義が生まれ始めたのもこの時期でした
これ以後の十字軍は、主に西欧の皇帝や国王が率いるものへと変化し、
>>266
で見たようにイスラームとの交渉も行われるようになったのでした
本日はサラディンによる聖地奪還の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・アミン・マアルーフ、牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』筑摩書房、2001年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全』東洋書林、2006年
304
:
Republica de Venexia
:2014/10/03(金) 00:45:12 ID:???
10月3日は東西ドイツが統一された日です
>>114
のフランクフルト国民議会で挫折したドイツ統一は、
>>301
で見たようにビスマルク主導のプロイセン主導で進められ、
>>221
の普仏戦争中におけるドイツ帝国の誕生によって達成されました
こうしてヨーロッパの中央部に強力な国家が出現しましたが、その存在は当然列強に警戒されることとなります
ビスマルクは巧みな外交を行うことでドイツの孤立化を回避しましたが、ヴィルヘルム2世がビスマルクを失脚させ親政を開始し軍備拡張を進めると各国との関係が悪化、
>>271
で見たように第一次世界大戦へと突入します
第一次世界大戦に敗れたドイツは帝政が崩壊し、多額の賠償金支払いと経済破綻に苦しみます
また政界をリードする政党が存在をせず、議会が不安定さを露呈したこともあり、ヒトラー率いるナチスの台頭を許しました
ヒトラーはドイツの経済を再建、軍備拡張を進めドイツの復興を実現しましたが、それは第一次世界大戦後の国際秩序を破ることでもあり、再びドイツは孤立への道を辿ります
ヒトラーによって引き起こされた第二次世界大戦でドイツは再び敗北し、ドイツは東部がソ連の、西部がアメリカ・イギリス・フランスの統治下に置かれます
これらはそれぞれドイツ民主共和国(東ドイツ)、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立によって主権を回復しますが、ベルリンの壁が築かれるなど東西が分断された状況となります
やがて西ドイツでは東方政策が打ち出され、東西ドイツ間の経済交流が実現し、双方の関係は正常化へと動いていきます
さらに1989年に起こった東欧革命によって東欧諸国で共産党独裁が打倒され、民主化の動きが進展します
ドイツでもこの動きを受け、同年11月にはベルリンの壁が崩壊するという象徴的な事件が起こります
そして1990年10月3日、西ドイツが東ドイツを編入するという形で、再び統一ドイツが実現するのでした
本日はドイツ再統一の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・坂井栄八郎『ドイツ史10講』岩波書店、2003年
・石田勇治『図説ドイツの歴史』河出書房新社、2007年
305
:
Republica de Venexia
:2014/10/04(土) 00:48:53 ID:???
10月4日はヴィットストックの戦いが行われた日です
>>285
で見たように、三十年戦争はスウェーデン王グスタフ=アドルフの参戦により初めてプロテスタント側が勝利し、快進撃を続けました
しかし
>>149
にあるようにグスタフ=アドルフはリュッツェンの戦いで戦死し、その後皇帝軍はヴァレンシュタイン暗殺によりその私兵を皇帝軍直属とし反撃、ネルトリンゲンの戦いでプロテスタント軍に大勝し、プラハ条約によって一時的に帝国を統一しました
しかしスウェーデンの宰相オクセンシェルナはフランスの宰相リシュリューと会談し、それまでハイルブロン同盟に資金援助を行うなど間接的に三十年戦争に関与していたフランスを、直接参戦させることを目論みます
フランスにとっても北イタリアからネーデルラントを結ぶ、ライン川沿いのスペイン街道は脅威であり、隣国であるドイツとスペインを支配するハプスブルク家に対抗するため、参戦を決意します
1635年4月、スウェーデンとフランスは1631年に結んだベールヴァルデ条約を更新し、同年5月にはフランスはスペインに宣戦布告しました
一方のスウェーデン軍はバネールを指揮官に、ネルトリンゲンでの敗戦後ポンメルンを死守し、スウェーデン本国との連絡を維持していました
反ハプスブルク同盟の反撃を阻止するため、皇帝軍はここを奪取すべく進軍します
そして1636年10月4日、ヴィットストックにおいてスウェーデン軍と皇帝軍が激突します
スウェーデン軍は劣勢ながらもバネール、そして後にスウェーデン軍元帥となり輝かしい戦果を挙げることになるトルステンソンの指揮により皇帝軍を撃破します
この勝利によりオクセンシェルナはスウェーデンに帰還し、本国と遠征軍との連携をより強固なものとすることに成功、フランス軍もかつてスウェーデン軍に属していた傭兵隊長ベルンハルトが攻勢に転じ、さらにネーデルラントでも皇帝軍のブレダ要塞を奪うなど、皇帝軍は劣勢に立たされていくのでした
本日は反ハプスブルク同盟攻勢の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・C.ヴェロニカ・ウェッジウッド、瀬原義生訳『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
306
:
Republica de Venexia
:2014/10/05(日) 01:16:34 ID:???
10月5日はヘラクレイオスが東ローマ皇帝に即位した日です
>>235
で見たように東ローマ帝国はユスティニアヌス1世の征服事業による、名実ともに「ローマ帝国」の姿を取り戻しました
しかしその帝国が彼の死後急速に衰退し、ヘラクレイオス時代には新興のイスラーム勢力に敗れ劣勢に陥ったのは
>>253
で見た通りです
このヘラクレイオス時代は、ササン朝やイスラームとの勢力関係のみならず、東ローマ帝国内部にも変化が起こった時代でした
まず、古代ローマ帝国以来の伝統である「パンとサーカス」が廃止されます
多数の観客を集め競技が開催されていた競馬場は寂れ、公衆浴場や劇場も同様の衰退を見せていました
穀物の配給もすでにユスティニアヌス時代から切り詰められていましたが、穀倉地帯のエジプトを失ったことで618年、ヘラクレイオスの勅令によって廃止されたのです
また、帝国の公用語が古代ローマ帝国で使われていたラテン語に代わり、ヘラクレイオスによってギリシア語となりました
皇帝の称号もギリシア語の「バシレウス」となり、ここにも古代ローマ帝国との違いが見られます
そして軍管区制(テマ制)の採用も東ローマ帝国の変容を示しています
ヘラクレイオスの時代までは、東ローマ帝国の領土は古代ローマ帝国と同じく属州に分けられ、行政権のみを持つ総督が統治していました
ところがイスラーム勢力の侵入により、新たに軍管区制が採られます
イスラームの侵入を受け、シリア軍団・アルメニア軍団は小アジアに撤退し、そこで防衛体制を築きました
さらにトラキア軍団・皇帝直属軍も防衛に動員され、その期間が長期にわたったため、そのまま小アジアに定着し軍管区が成立していったのです
ヘラクレイオスはこの各軍団の司令長官に行政権を与え、軍事と行政の双方を持つ軍管区制が誕生したのです
このようにヘラクレイオス時代の東ローマ帝国は古代ローマ帝国と相違が随所に見られ、新しい国家へと変容していったのでした
本日は「ビザンツ帝国」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・歴史学研究会編『幻影のローマ ─ “伝統"の継承とイメージの変容 ─ 』青木書店、2006年
・井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年
307
:
Republica de Venexia
:2014/10/06(月) 00:34:16 ID:???
10月6日はオーストリア=ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを併合した日です
これまで
>>225
などで見てきたようにオスマン帝国は第二次ウィーン包囲失敗の後衰退が決定的となり、バルカン半島のオスマン帝国領はオーストリアやロシアによって奪われていきました
そのなかでオスマン帝国からの独立運動も盛んとなり、
>>97
のルーマニア、同時期にセルビア、
>>293
でブルガリアが独立するなど、バルカン諸国は次々と独立を達成していきます
なかでもセルビアはセルビア人の統一国家建設を目指し、勢力拡大を目論んでいました
>>69
で見たセルビア帝国の領域復活も視野に入れたこの運動は大セルビア主義と呼ばれ、オーストリアが主導するパン=ゲルマン主義、ロシアが主導する大スラヴ主義と衝突するようになっていきます
このセルビアとオーストリアとが激しく対立したのがオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合でした
>>225
で取り上げた青年トルコ革命によりオスマン帝国が動揺すると、その機に乗じてブルガリアが独立、ギリシアはクレタ島を編入します
そして1908年10月6日、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのです
セルビア人も多く在住するボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリアに併合されたことは大セルビア主義を掲げるセルビアを憤慨させ、オーストリアとの対立が決定的となります
セルビアには同じくオーストリアと対立するオスマン帝国・フランス・ロシアが加担することとなり、バルカン半島における列強の強調関係は完全に崩壊、
>>191
で見た第一次世界大戦勃発へと進んでいくのでした
本日はボスニア危機の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・柴宣弘『世界各国史18 バルカン史』山川出版社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
308
:
Republica de Venexia
:2014/10/07(火) 00:35:51 ID:???
10月7日はレパントの海戦が行われた日です
第4回十字軍以降確立したヴェネツィア共和国の地中海における覇権は、15世紀半ばになると揺らぎ始めました
すでに15世紀初頭からヴェネツィアと抗争し、海上では劣勢ながらも陸上において優位に立っていたオスマン帝国は、
>>146
のメフメト2世によるコンスタンティノープル征服後、本格的に海上進出に乗り出しました
オスマン帝国が新設した大艦隊との1463〜79年の戦争の末、ヴェネツィアは重要拠点ネグロポンテを失い、オスマン帝国領での交易するのに貢租を支払うことに同意し、東地中海における権威・特権が後退したのです
それでも、ヴェネツィアは1489年にキプロスを獲得し、損失を補って余りある利益を得ることに成功します
再びオスマン帝国との戦争が始まり、1503年までにモドンとコロンを失いますが、これも南イオニア諸島、ケファロニア、ザンテの獲得により補いました
しかしこの頃には地中海の戦いはより大規模なものとなり、大国同士の抗争が中心となっていきました
>>298
で見たように、オスマン帝国はフランスと同盟し、フランスと対立するスペインは、同じくフランスに対抗していたイタリア初勢力と結びます
その結果、1530年代までには、地中海における対立はオスマン帝国・フランス同盟と、スペイン・イタリア同盟のいずれかに結集し、ヴェネツィアはこのどちらかについて生き延びるという状況となったのです
1538年にはプレヴェザの海戦でオスマン帝国が勝利し、さらに1570年にオスマン帝国はキプロスを攻撃、1年以上にわたる包囲戦の末これを征服します
これを奪回するためにヴェネツィアがスペインに援助を求め、連合艦隊を編成してオスマン帝国艦隊に挑んだのがレパントの海戦でした
1571年10月7日に行われたこの海戦で連合艦隊はプレヴェザの雪辱を果たしますが、オスマン帝国はすぐさま艦隊を再編成しキプロスに進出させ、スペインはヴェネツィアの利益に貢献することに消極的だったため、ヴェネツィアは1573年にキプロスをオスマン帝国に明け渡すことを決定します
このようにヴェネツィア共和国はもはや単独ではオスマン帝国などの大国に対抗できなくなっていったのです
しかしレパントでの勝利が決定的な役割を持てなかったとはいえ、ヨーロッパにおいては熱狂的に歓迎され、このオスマン帝国に対する勝利は大いに喧伝されることとなったのでした
本日はオスマン帝国に対する勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』岩波書店、2004年
・アルヴィーゼ・ゾルジ、金原由紀子他訳『ヴェネツィア歴史図鑑 都市・共和国・帝国 697〜1797年』東洋書林、2005年
309
:
Republica de Venexia
:2014/10/08(水) 00:42:08 ID:???
10月8日はカルケドン公会議が開かれた日です
>>116
で取り上げたニケーア公会議で見られるように、キリスト教会はイエス=キリストの神性に関する論争を繰り広げていました
325年のニケーア公会議ではアリウス派が異端となり、431年のエフェソス公会議ではニケーア信条の正統性を改めて認め、ネストリウス派を異端としました
ネストリウス派は、キリストの位格には神格と人格という2つが分離して存在していると主張しましたが、これに対抗したのが単性説でした
単性説ではキリストは単一の性のみを有すると主張されましたが、これもキリスト教会によって否定されます
ローマ教皇はキリストの位格は1つのみであり、その1つの位格の中に神性と人性が存在しているという両性説の立場を示し、ネストリウス派と単性説の双方を否定したのです
451年10月8日に開かれ、11月1日まで続けられたカルケドン公会議において、教皇は改めてネストリウス派を排斥、単性説も異端として排斥されることとなったのでした
本日は異端単性説の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・甚野尚志『中世の異端者たち』山川出版社、1996年
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年
・小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』日本放送出版協会、2010年
310
:
Republica de Venexia
:2014/10/09(木) 00:24:34 ID:???
10月9日はレイフ=エリクソンがアメリカ大陸に上陸した日です
4世紀に始まったゲルマン人の大移動により、ヨーロッパ各地にゲルマン人王国が建てられました
8世紀になると北方ゲルマン人であるノルマン人、通称ヴァイキングの活動が活発となります
>>299
で登場したクヌートやノルマンディー公ウィリアムもノルマン人でした
そのノルマン人の一派であるノース人はオークニー諸島やシェトランド諸島などの北海の島々に進出し、9世紀後半にはアイスランドに定住していきました
このアイスランドで罪を犯して追放され、グリーンランドへと渡ったのが赤毛のエイリークです
エイリークの息子レイフ=エリクソンはさらなる植民地を求め、西への航海を始めました
そして1000年10月9日、エリクソンは北アメリカ大陸に上陸し、植民地ヴィンランドを建設します
この植民地はすぐに放棄され、他のグリーンランド植民地も15世紀までに放棄されますが、コロンブスが新大陸を発見する500年近く前にヴァイキングが上陸していたことは確かであり、アメリカ合衆国では10月9日はレイフ=エリクソンの日として記念日にもなっているのです
本日は最初の北アメリカ植民地の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・B.アルムグレン、蔵持不三也訳『図説ヴァイキングの歴史』原書房、1990年
・百瀬宏・熊野聡・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・角谷英則『諸文明の根源9 ヴァイキング時代』京都大学学術出版会、2006年
311
:
Republica de Venexia
:2014/10/10(金) 00:54:47 ID:???
10月10日はカルバラーの戦いが行われた日です
イスラームは正統カリフ時代、第2代カリフのウマルの時に
>>253
で見たヤルムーク河畔の戦いでビザンツ帝国を破るなど、急速に勢力を拡大させました
続く第3代ウスマーンもササン朝を滅ぼしさらなる勢力拡大を行いますが、656年に暗殺されてしまいます
ウスマーンの死後第4代カリフとなったのはムハンマドの娘婿アリーでしたが、これに対しシリア総督のムアーウィヤが反発します
ムアーウィヤは暗殺されたウスマーンと同じウマイヤ家の出身であり、ウスマーン暗殺はアリーによるものだとしてアリーと対立、イェルサレムにてカリフ即位を宣言しました
こうして同時期に2人のカリフが存在することとなりましたが、正統なカリフの決定を神ではなく人間が行うことに反対するハワーリジュ派がアリーとムアーウィヤ双方の暗殺を計画します
これによりアリーは暗殺されたものの、ムアーウィヤは辛くも生き延び単独のカリフとなったことで、661年、ウマイヤ朝が成立しました
ムアーウィヤはウマイヤ家の世襲王朝化を進めますが、これにアリー支持派は反発し、アリーとその子孫のみがムハンマドの正統な後継者であるとするシーア派を形成します
シーア派はアリーの息子フセインを擁立しウマイヤ朝に対抗するため、彼らの本拠地であるクーファにフセインを招こうとしました
これを察知したウマイヤ朝第2代カリフヤズィードは、クーファへと向かうフセイン一行を襲撃します
680年10月10日、クーファ近郊のカルバラーの地でヤズィードはフセイン一行を包囲、虐殺しました
ウマイヤ朝はフセインを葬ったことでその勢力を確立させましたが、シーア派との決裂は決定的となり、現在も続くシーア派とスンナ派との対立を引き起こすこととなったのでした
本日は「カルバラーの悲劇」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・小杉泰『イスラームとは何か その宗教・社会・文化』講談社、1994年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年
312
:
Republica de Venexia
:2014/10/11(土) 00:16:29 ID:???
10月11日はサボ島沖海戦が起こった日です
日本海軍は第二次ソロモン海戦においてガダルカナル島への輸送作戦が失敗した後、ガダルカナル島奪回を第一目標とし、駆逐艦や哨戒艇などの高速艦による輸送に切り替えました
こうして1942年8月29日〜9月7日までに計8回、40隻で約4500人の陸兵を輸送に成功しましたが、13日の総攻撃でもガダルカナル島奪回は果たせず、さらに強力な重火器類とより大規模な兵力投入を図ることとなったのです
しかしガダルカナル島のヘンダーソン飛行場からの米軍航空機による爆撃が激しく、輸送作戦は困難を極めました
そこで日本海軍は水上機母艦「日進」「千歳」、駆逐艦「秋月」「夏雲」「朝雲」「綾波」「白雪」からなる輸送隊を送り込み、その支援のため第六戦隊の「青葉」「古鷹」「衣笠」にヘンダーソン飛行場砲撃任務を与え、その護衛として駆逐艦「吹雪」「初雪」「叢雲」が付けられました
そして1942年10月11日、まず6時に輸送隊が出撃し、12時に支援隊も出撃しました
やがて20時20分に輸送隊が予定地に到着し、支援隊も現地に近付きつつありましたが、21時43分に「青葉」見張り員が艦影を発見します
支援隊司令官の五藤少将はこれを味方の駆逐艦と誤認し、「ワレアオバ、ワレアオバ」の発光信号を送りますが、その相手はスコット少将率いる、重巡洋艦「サンフランシスコ」を旗艦とするアメリカ艦隊でした
「青葉」は米艦隊の砲撃を浴び、その砲弾が艦橋に着弾し艦隊司令部が壊滅します
すぐに「青葉」は撤退を始めますが米艦隊の猛攻撃に遭い、これを見た「古鷹」は「青葉」と米軍の間に割り込み探照灯を照射、反撃を試みますがそのために米艦隊の集中攻撃を受けることとなりました
この間に「衣笠」と「初雪」はやや離れた位置から有効な砲撃を加えることができましたが、「吹雪」は敵味方識別のため敵艦隊に接近したところ多数の命中弾を浴び、21時53分に轟沈します
米艦隊も被害が大きくなったため22時27分に戦線離脱、「青葉」は退避に成功するも、「古鷹」は航行不能となり、翌日0時28分に沈没します
さらに「古鷹」の乗組員救出に来た「叢雲」も敵航空機の爆撃に遭い沈没してしまいます
輸送作戦自体は成功したものの、海戦では重巡洋艦1、駆逐艦2隻を失い旗艦が大破し司令部をうしなという敗北に終わったのでした
本日は駆逐艦「吹雪」、翌日は重巡洋艦「古鷹」、駆逐艦「叢雲」の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』講談社、1988年
・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争4 北方作戦 第一次第二次ソロモン海戦 サボ島沖夜戦』光人社、1995年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年
313
:
Republica de Venexia
:2014/10/12(日) 00:01:57 ID:???
10月12日はコロンブスが西インド諸島に上陸した日です
イタリアの海洋都市国家ジェノヴァに産まれたコロンブスは、まずジェノヴァで商船団に参加し、やがてポルトガルへと移住します
ポルトガルは早くから新航路開拓を目指しアフリカ方面への進出を進めており、コロンブスもこれらの航海に参加しました
またコロンブスはイタリアの天文学者トスカネリと交流し、地球球体説をもとに西廻りでのアジア到達の航海計画を考えるようになります
1484年、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世に西廻りでの航海を提案しますが、当時ポルトガルはすでにアフリカ南端に至る航路を確保しつつあり、コロンブスの案は否決されることとなりました
失意のコロンブスは翌年スペインへと渡り、カトリック両王フェルナンド2世・イサベル1世に西廻り航海を提案します
これにイサベル1世が関心を持ち、コロンブスの計画が議論されるようになります
当初は否定的な意見も多くコロンブスの計画はなかなか実現には至りませんでしたが、1492年1月にイベリア半島のイスラーム最後の拠点グラナダが陥落したことでスペインに余裕ができ、コロンブスの計画が実行に移されることとなったのです
1492年8月3日、コロンブスはサンタ=マリア号に乗船し3隻90人の艦隊でパロス港を出発、大西洋を渡ってのアジア到達を目指しました
そして1492年10月12日、コロンブスは西インド諸島に上陸、ここをサン=サルバドル島と名付け、アジア大陸に到達したと判断しました
実際にはその地は現在のアメリカ大陸であり、コロンブス以前に
>>310
で見たようにレイフ=エリクソンが既に到達していたのですが、当時のヨーロッパ世界では新大陸を発見したとして、コロンブスの航海が大きく影響を与えることとなったのでした
本日は「新大陸発見」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・笈川博一『コロンブスは何を「発見」したか』講談社、1992年
・ミシェル・ルケーヌ、大貫良夫監修、富樫櫻子・久保実訳『コロンブス ─ 聖者か、破壊者か』創元社、1992年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
314
:
Republica de Venexia
:2014/10/13(月) 00:38:05 ID:???
10月13日はテンプル騎士団の活動が禁止された日です
>>303
で見たように、聖地においてテンプル騎士団はサラディンに敗北し、以後は軍事活動をほぼ停止し富の蓄積に努めるようになりました
フランスをはじめ各地に一万五千ヶ所ともいわれる広大な所領を持つテンプル騎士団は、その所領における農業生産に加え、農地の賃貸し・地代収入・農産物売却によって利益を得、さらにその収入を商業資本や金融資本に投資することで莫大な富を蓄積させていったのです
やがてイスラームによって十字軍最後の拠点アッコンが1290年に陥落すると、テンプル騎士団はその富と武力を保持したままパリに本拠を移します
さて、当時のフランス王はフィリップ4世、
>>275
で見たように教皇をも屈服させ、聖権を支配し中央集権化を進めていた国王でした
当然テンプル騎士団もその標的となります
フィリップとしてはテンプル騎士団は軍事的に脅威であり、その経済的支配力も障害となるものでした
またテンプル騎士団には異端・不倫の嫌疑もあり、王権に対する不服従もまた中央集権化を妨げるものだったのです
1307年10月13日、フィリップはテンプル騎士団を異端の罪で告発し、フィリップの傀儡教皇ともいえるクレメンス5世の認可によって異端審問が行われました
これによりテンプル騎士団員はほぼ逮捕され、異端の宣告を受け騎士団としての活動を禁止されることとなったのでした
この13日は金曜日であったため、13日の金曜日は不吉であるという俗説の根拠の1つとなっています
本日は「13日の金曜日」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『世界歴史大系フランス史1 先史〜15世紀』山川出版社、1995年
・佐藤賢一『フランス王朝史1 カペー朝』講談社、2009年
315
:
Republica de Venexia
:2014/10/14(火) 00:13:49 ID:???
10月14日はヘースティングズの戦いが行われた日です
>>299
で見たように、イングランド王位の後継者問題は3人の王による争いを呼び、ノルマンディー公ウィリアムが1066年9月28日にイングランドへと上陸し、ノルマン=コンクェストが始まりました
すでにノルウェー王ハーラルに勝利していたイングランド王ハロルドはヨークにてウィリアム上陸の知らせを受け、すぐに軍を南下させヘースティングズ近郊のセンラックの丘に陣の構築を始めました
兵力に劣るウィリアムはイングランド軍の陣構築が完成する前に急襲することを意図し、センラックの丘へと急行します
そして1066年10月14日、ウィリアム率いるノルマン騎士軍とハロルド率いるイングランド重装歩兵軍が激突、ヘースティングズの戦いが始まりました
ハロルドは騎士軍の突撃を密集戦法て迎撃し戦は膠着状態となりましたが、ウィリアムは敗走すると見せかけ、密集隊形を解いて追撃してきたイングランド軍を反転強襲し、ハロルドを討ち取って勝利するのでした
この勝利後、ウィリアムはイングランド南東部を制圧してロンドンに入り、同年12月25日にウェストミンスター修道院でウィリアム1世として即位します
このウィリアムの勝利はイングランド史の一大転換点となりました
イングランドは大陸側に本拠地を持つ外国人の封建貴族によって支配され、旧来のイングランド貴族はほぼ一掃されます
ウィリアムはイングランドの5分の1にあたる王領地を確保し、残りの半分を聖俗大貴族、もう半分をノルマン人貴族に与え、貴族のみならず聖職者も交替することとなり、イングランドに大きな社会変動をもたらしました
またウィリアムはイングランド王になったとはいえ依然としてノルマンディー公でもあり、本拠地はノルマンディーに置かれていました
イングランドはいわゆる属領の地位となったのです
そしてノルマン=コンクェストの結果イングランドはノルマンディーを中心とする北フランス文化圏に組み込まれ、大規模な文化交流が進みました
イングランドは従来のゲルマン・北欧系の文化にフランス・ノルマン系の文化が融合し、独自のイングランド文化が形成されていくのでした
本日はノルマン=コンクェストの決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
316
:
Republica de Venexia
:2014/10/15(水) 00:08:59 ID:???
10月15日はバルチック艦隊がリバウ軍港を出港した日です
ロシア帝国はその広大な領土を防衛するため、太平洋艦隊、黒海艦隊、バルチック艦隊の3つの艦隊を保持していました
バルチック艦隊は
>>205
で見たスウェーデンとの大北方戦争において編成され、スウェーデン海軍を破りバルト海の制海権を握り、ロシアを勝利へと導く要因の1つとなりました
以後もバルチック艦隊はロシアの主力艦隊の1つとして活躍し
>>80
でも取り上げたクリミア戦争や露土戦争でもロシアの勝利に貢献します
1904年に始まった日露戦争では、まず極東方面の太平洋艦隊が日本の聯合艦隊と戦いましたが、同年8月の黄海海戦などの諸海戦を経て戦力を消耗し、ロシアの海上戦力は劣勢になりつつありました
このためロシアは新たな艦隊を極東方面に派遣することを決定し、バルチック艦隊の主力から第二太平洋艦隊を編成、1904年10月15日、聯合艦隊を撃滅すべくリバウ軍港を出港するのでした
翌年2月には残りのバルチック艦隊で第三太平洋艦隊を編成し、第二太平洋艦隊と合流、5月の日本海海戦に臨むことになります
本日は日露戦争、バルチック艦隊の出撃日です、おめでとうございます
参考文献
・野村実『日本海海戦の真実』講談社、1999年
・「歴史人別冊 日露戦争の真実」ベストセラーズ、2013年
・「歴史街道2014年10月号 日露開戦 日本人はなぜ決断したのか」PHP研究所、2014年
317
:
Republica de Venexia
:2014/10/16(木) 00:28:47 ID:???
10月16日はライプツィヒの戦いが始まった日です
>>185
で見たように、ナポレオンは大陸封鎖令を破ったロシアを屈服させるため、1812年、大軍を率いてロシア遠征を行いましたが、ロシアの焦土戦術に遭い、冬将軍の到来もあって退却したことで、彼の威信は大きく揺らぐこととなりました
このロシア遠征の失敗を受け、イエナ・アウエルシュタットの戦いでの敗戦後軍制改革を進めていたプロイセンが1813年3月、ナポレオンに宣戦布告します
一旦はフランス軍の再建により敗れますが、同時期にイベリア半島に上陸したイギリス軍がフランス軍を撃破し、ナポレオンは劣勢に追い込まれていきます
同年8月には第6回対仏大同盟にオーストリア、スウェーデン、ライン同盟の反フランス諸邦が参加し、すでに同盟を結成していたイギリス、プロイセン、ロシアも合わせてフランスを包囲する大同盟が成立しました
そして1813年10月16日、ドイツ東部のライプツィヒにおいてプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデンの連合軍とナポレオンが激突、ナポレオン戦争最大の戦いと称されるライプツィヒの戦いが始まります
3日間に渡る激闘の末にナポレオンは敗退しライン同盟は解体、ドイツ地域からの撤退を余儀なくされるのでした
本日は「諸国民の戦い」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・柴田三千雄他『世界歴史大系フランス史2 16世紀〜19世紀半ば』山川出版社、1996年
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・上垣豊『ナポレオン 英雄か独裁者か』山川出版社、2013年
318
:
Republica de Venexia
:2014/10/17(金) 00:55:57 ID:???
10月17日はキュロス2世がユダヤ人を解放した日です
モーセの出エジプトによりパレスチナに移住したユダヤ人は、サウルが王政を敷き、ダヴィデとその息子ソロモンにより繁栄を享受しました
しかしソロモンの死後、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します
イスラエル王国は前722年にアッシリアにより滅亡し、ユダ王国も前586年に新バビロニアのネブカドネザル2世によって滅ぼされ、ユダ王国の住民は彼によってバビロンへと強制連行されてしまいました
これが「バビロン補囚」です
このバビロン補囚は約50年間続きましたが、その間にイラン地方では、後にオリエントを再統一することになる国家が勃興していました
それが
>>246
や
>>302
などで登場したアケメネス朝ペルシアで、その初代国王となるキュロス2世は前550年、イラン地方を支配していたメディア王国に反乱を起こしてこれを滅ぼし、アケメネス朝を建国します
次いで前547年にリディア王国を滅ぼし、さらに前540年にエラム王国を滅ぼすと、続く征服目標は新バビロニアに定められました
そして前539年10月17日、キュロスによって新バビロニアは滅ぼされ、バビロンが占領されます
アッシリアが過酷な支配により諸民族の反乱を招き、その巨大帝国が崩壊したことを省み、キュロスは支配下諸民族に対し寛容な姿勢で臨みました
そのためキュロスはバビロンに強制連行されていたユダヤ人を解放し、ユダヤ人は約50振りにパレスチナへと帰還することになるのでした
本日は「バビロン補囚」の命日です、おめでとうございます
参考文献
・上田和夫『ユダヤ人』講談社、1986年
・小川英雄・山本由美子『世界の歴史4 オリエント世界の発展』中央公論新社、2009年
・レイモンド・P・ジェインドリン、入江規夫訳『ユダヤ人の歴史』河出書房新社、2012年
319
:
Republica de Venexia
:2014/10/18(土) 00:39:10 ID:???
10月18日はアーヘンの和約が結ばれた日です
>>154
で見たように、プロイセン王フリードリヒ2世はマリア=テレジアのハプスブルク家継承、その夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝位継承に対し、その支持の見返りとしてシュレジエン割譲を要求しました
しかしこれは拒否されたため、オーストリアの不意を突いてシュレジエンに攻め込み、その大部分を占領します
オーストリアはシュレジエン奪回のためプロイセン軍に決戦を挑むも撃退され、1741年7月、シュレジエンの割譲を認めさせられました
このオーストリアの弱体を見た列強はこの戦争に干渉するようになります
神聖ローマ帝国の領邦間の争いとしてはプロイセンの他にザクセン、バイエルンとの戦端が開かれましたが、ザクセンとは1741年のうちに和平を結びます
バイエルンに対しては、バイエルン選帝侯カール=アルブレヒトが神聖ローマ皇帝カール7世に即位するほどの劣勢だったものの、マリア=テレジア自らがハンガリーに乗り込み、その支援を得ることで挽回します
このハンガリーとの連携は、後に
>>163
で見たアウスグライヒの成立に繋がるのです
バイエルンは1745年に降伏します
オーストリアはこの後、イギリスの支援もあってプロイセンを一時追い詰めるも、1745年6月のホーエンフリートベルクの戦いに敗れ、12月のドレスデンの和約でプロイセンのシュレジエン領有を認めさせられました
この和約によりプロイセンはオーストリア継承戦争から離脱し、オーストリアはフランス・スペインとの戦争を継続します
フランスは1745年5月のフォントノワの戦いに勝利し、1748年までにオーストリア領ネーデルラントに進出します
スペインは北イタリアへと侵攻するものの、オーストリアを支援するサルデーニャ王国の反撃に遭い撤退しました
こうして各方面での戦闘が一段落した1748年10月18日、アーヘンにおいて講和条約が結ばれます
オーストリアは一部の領土を奪われたものの神聖ローマ皇帝位を確保し、イギリスは国王も兼ねるハノーファー選帝侯の領土を承認されました
フランスは占領したオーストリア領ネーデルラントを返還したことで利益を得られず、国王ルイ15世への不満が高まる結果となります
プロイセンは当初の目的を達成し、シュレジエンの領有を認められるのでした
本日はオーストリア継承戦争の終了日です、おめでとうございます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、1997年
320
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/10/18(土) 09:00:18 ID:/loyF25o
アーヘンで和訳を結ばーへん?(激寒)
321
:
Republica de Venexia
:2014/10/18(土) 09:11:39 ID:???
フランク王国の宮廷が置かれたり、神聖ローマ皇帝の戴冠式が行われたり、オーストリア継承以外でも和約の舞台になったり...
位置的にいろいろ調整しやすい都市なんでしょうね
322
:
Republica de Venexia
:2014/10/19(日) 01:54:37 ID:???
10月19日はザマの戦いが行われた日です
>>236
で見た前216年のカンネーの戦いで、ハンニバルはローマ軍を殲滅しローマに大打撃を与えました
しかし期待していた同盟市の離反は起こらず、ローマが採った持久戦のため補給に苦しむこととなり、ついには首都ローマを陥とすことができず、本国カルタゴに近い南イタリアへと攻撃目標変更しました
一方ハンニバルの攻勢を耐え抜いたローマはカルタゴ支配下のシチリア、ヒスパニアへの攻撃によりカルタゴとハンニバルとの連携を断つ作戦に乗り出しました
まず前211年にシチリアを制圧し、翌前210年にはスキピオ=アフリカヌスがヒスパニアにおけるカルタゴの都カルタゴ=ノヴァを直接急襲し制圧、前206年までにヒスパニアを征服しました
スキピオはこの後ヌミディアをカルタゴから離反させて同盟を結び、カルタゴ本国へと軍を進めます
これに危機感を覚えたカルタゴ本国はハンニバルを呼び戻し、ローマ軍との決戦に臨みます
前202年10月19日、ハンニバル率いるカルタゴ軍とスキピオ率いるローマ軍が激突し、かつてと異なり騎兵の質・量で勝るローマ軍はカンネーの戦いとは逆にカルタゴ軍を包囲殲滅、戦いはローマの圧勝に終わります
この戦いに敗れたカルタゴはローマと講和を結び実質的に降服、地中海の覇権はローマが握ることとなったのでした
本日は第二次ポエニ戦争の決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・テレンス・ワイズ、桑原透訳『カルタゴ戦争 265BC−146BC ポエニ戦争の軍隊』新紀元社、2000年
・松谷健二『カルタゴ興亡史 ─ ある国家の一生』中央公論新社、2002年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
323
:
Republica de Venexia
:2014/10/20(月) 01:22:18 ID:???
10月20日は神聖ローマ皇帝カール6世が亡くなった日です
カール6世は
>>223
で見たオスマン帝国とのパッサロヴィッツ条約を結んだ時の皇帝で、オスマン帝国との戦いを優位に進めただけでなく、ベルギーやミラノ、ナポリも獲得し、その治世でボヘミアからポーランド西部、ハンガリーからルーマニア北部も支配する大帝国を現出しました
さらに彼は相続順位に変更を加えます
ハプスブルク家では兄弟で領地を分割するのが慣習で、そのために兄弟間での領土争いなど内紛が頻発し、中央集権体制の確立が遅々として進みませんでした
カールはこの慣習を破り長子相続制を定めたプラグマティッシェ=ザンクツィオンを発布しました
この背景には、カールに長年嫡男が産まれず、ようやく誕生した男子レオポルトも夭折したため、長女マリア=テレジアを相続者とする狙いもありました
プラグマティッシェ=ザンクツィオンはハプスブルク帝国内の諸州で承認され、ハプスブルク帝国内では成立しました
しかしヨーロッパ列強は国際法違反としてこれを認めず、カールは領土の割譲などと引き換えに、イギリス、フランス、プロイセン、バイエルンなどの承認を得たのでした
しかし1740年10月20日、カール6世が亡くなりマリア=テレジアによる相続の運びとなると、ヨーロッパ列強は再び国際法違反を主張してハプスブルク家を糾弾し、
>>319
などで取り上げたオーストリア継承戦争へと発展していくのでした
本日はオーストリア継承問題の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
324
:
Republica de Venexia
:2014/10/21(火) 01:18:49 ID:???
10月21日はトラファルガーの海戦が行われた日です
>>211
などで見たように、ナポレオンはオーストリア、プロイセン、ロシアなどを破り、大陸領のほぼ全てを制圧する快進撃を見せていました
海上においては、イギリス海軍を撃破するため、ナポレオンはフランス海軍と支配下にあったスペイン海軍の連合艦隊を編成、イギリス海軍を撃破しイギリス本土上陸という計画を立てます
ここでフランス海軍とイギリス海軍との力関係を見ておきましょう
イギリスは強大な海軍を有し、
>>243
のアルマダの海戦以来18世紀末まで、その海軍力により海上覇権を確立していました
しかし18世紀末にはフランス海軍が台頭し、アメリカ独立戦争において度々イギリス海軍を撃破し、アメリカ独立に大きく貢献しました
イギリス海軍はその反省を活かし、海軍の改革に乗り出します
チャールズ=ダグラス提督により砲術の改良が行われ、軍艦の射撃を迅速かつ正確にし、また離れて火力で掃射するのではなく、敵艦隊に肉薄し接近戦によって撃破するようにしました
これを可能にしたのが新しい信号体系で、従来の海戦よりも遥かに柔軟性・統制力を発揮することができました
ナポレオンのイギリス本土上陸を阻止するため1805年10月21日に行われたトラファルガーの海戦においても、イギリス海軍の戦術が効果を発揮しました
ネルソン提督に率いられたイギリス海軍は信号文によって柔軟に艦隊行動をとり、フランス・スペイン連合艦隊の側面を縦列で突くというネルソン・タッチにより連合艦隊に大勝します
ネルソン自身は戦死しましたが、この海戦によりイギリス海軍は制海権を確保、ナポレオンのイギリス本土上陸を阻止することに成功したのでした
本日は信号文「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ロイ・アドキンズ、山本史郎訳『トラファルガル海戦物語』原書房、2005年
・小林幸雄『図説イングランド海軍の歴史』原書房、2007年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年
325
:
Republica de Venexia
:2014/10/22(水) 00:27:39 ID:???
10月22日は三帝同盟が成立した日です
>>221
や
>>301
で見たように、ビスマルクの主導によってプロイセンはドイツ統一を進め、1871年にドイツ帝国が成立しました
しかしドイツに統一勢力が誕生したことはヨーロッパ列強に危機感を抱かせることになります
普墺戦争での勝利からわずか5年のうちに、ヨーロッパ五大国(イギリス・ロシア・フランス・オーストリア・プロイセン)のなかで五番目の位置に過ぎなかったプロイセンが一気にドイツ帝国にまで拡大したことで、どの大国にとっても脅威となる力を持つようになったからです
特に普仏戦争で皇帝を捕虜に取られ、さらにヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠を許し、さらにアルザス・ロレーヌを奪われるという屈辱的な敗北を喫したフランスの復讐心は警戒すべきものであり、ビスマルクはフランスを孤立させるために様々な外交政策を打ち出します
その第一歩となったのが三帝同盟でした
ロシア皇帝アレクサンドル2世とオーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ=ヨーゼフ1世がドイツ帝国の首都ベルリンを訪問したことがきっかけで交渉が始まり、1873年10月22日、三帝同盟が成立したのです
もっとも、この同盟は三国の友好協力関係を一般的な言葉で宣言したものに過ぎず、ドイツの安全を保障するような具体的な約束は含まれていませんでした
そのためビスマルクはフランスの孤立とドイツの安全を確保するため、この後も様々な外交関係を結んでいくのでした
本日は「ビスマルク体制」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
326
:
Republica de Venexia
:2014/10/23(木) 00:24:23 ID:???
10月23日はレイテ沖海戦が始まった日です
1944年6月のマリアナ沖海戦に敗れた日本海軍は、米軍の本格的な侵攻を想定し、複数の作戦案が提案されました
そして米軍の攻撃目標のなかでも最も可能性が高いとされたフィリピンを防衛する案が採用され、捷一号作戦が発動されます
この作戦では当初ルソン島で陸上決戦を行い、その勝利によってアメリカとの講和を進めるという狙いがありましたが、米軍は想定に反してレイテ島へと侵攻します
ここで大本営は現地軍の反対を押し切り、レイテ島での決戦に臨む意思を固めます
というのも、米軍がレイテ島へと上陸する直前に行われた台湾沖航空戦で、日本軍は米艦隊に大打撃を与え、特に米空母を10隻以上撃沈するという戦果報告があったからです
しかしこの大戦果は誤認であり、実際には米艦隊の損害は軽微であり、一方の日本航空隊は300機以上の航空機を失うという大敗を喫していました
ともあれ米艦隊に対する攻撃は決定され、聯合艦隊の残存勢力全てをもって米輸送船団を叩くという作戦が実施されることになります
その作戦とは、航空戦力をほぼ失った、小沢治三郎中将率いる「瑞鶴」を旗艦とする第一機動艦隊を囮として米機動艦隊を北方に誘い出し、その隙に戦艦を主体とする遊撃部隊をレイテ湾に突入させ、米輸送船団を撃滅するというものでした
この遊撃部隊は三隊に分けられ、「愛宕」を旗艦とし「大和」や「武蔵」を擁する栗田艦隊はシブヤン海を抜けてレイテ湾へ突入、「山城」を旗艦とし「扶桑」や「最上」などからなる西村艦隊はスリガオ海峡を突破して南からレイテ湾へ突入、そして「那智」を旗艦とし「足柄」や「阿武隈」を擁する志摩艦隊も西村艦隊と同じくスリガオ海峡からレイテ湾へと突入するという算段でした
そして1944年10月23日、運命のレイテ沖海戦が始まります
栗田艦隊はパラワン水道にて米潜水艦の攻撃に遭い旗艦「愛宕」と「摩耶」を失い、翌24日にもシブヤン海で米艦載機によって「武蔵」が撃沈されます
小沢艦隊の囮作戦により栗田艦隊はレイテ湾へと接近するも、その艦隊行動は遅れを伴うものでした
小沢艦隊は囮役には成功するものの、エンガノ岬沖にて「瑞鶴」や「瑞鳳」など多数が撃沈されて壊滅しました
一方、栗田艦隊の遅れにより単独でレイテ湾に突入した西村艦隊は「時雨」を残し全滅、遅れて到着した志摩艦隊は西村艦隊の壊滅を見て反転撤退します
栗田艦隊もレイテ湾突入を断念して反転、米機動艦隊の追撃を行います
そしてサマール沖にて米護衛空母「ガンビア・ベイ」などを撃沈したに過ぎず、陣形を立て直して再びレイテ湾突入へと向かいますが、新たな米機動艦隊発見の報によって反転します
ところがこれは誤報であり、再反転してレイテ湾突入も困難との判断から撤退を決定、25日、作戦は中止されました
この一連の海戦により聯合艦隊はほぼ全ての戦力を失い、これ以後組織的な艦隊行動を取ることは不可能となったのでした
本日は「史上最大の海戦」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・雑誌「丸」編集部『写真太平洋戦争7 マリアナ沖海戦・比島沖海戦1』光人社、1995年
・「歴史群像太平洋戦争戦史シリーズ9 レイテ沖海戦」学習研究社、1995年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年
327
:
Republica de Venexia
:2014/10/24(金) 00:59:48 ID:???
10月24日はウェストファリア条約が締結された日です
三十年戦争は
>>305
で見たようにフランスの直接参戦により反ハプスブルク同盟の攻勢が始まりました
いったんはスウェーデン軍のバネール、フランス軍のベルンハルトが不穏な動きを見せ皇帝軍に押し返されることになったものの、スペイン・ハプスブルク家がオランダ・フランスに連敗し、オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家との連携が絶たれました
さらにブランデンブルク選帝侯領では「大選帝侯」フリードリヒ=ヴィルヘルムが当主となり、中立を宣言します
皇帝軍にとって不利な事態が続くなか1642年、ブライテンフェルトの戦いが再び行われ、皇帝軍はまたしてもスウェーデン軍に敗北を喫します
1643年にはフランス軍がロクロワの戦いでスペイン軍を壊滅させ、1644年には皇帝側の主力であるバイエルン軍をフライブルクの戦いで破ります
スウェーデン軍も同年、トルステンソン指揮の下デンマークを急襲し、援軍に駆けつけた皇帝軍をも破ります
このような状況下で和平会議が始まります
ウェストファリア州のオスナブリュック・ミュンスターで1644年12月から開かれた和平会議にはイギリス、ポーランド、オスマン帝国を除く全てのヨーロッパ諸国が参加し和平が進められますが、交渉は難航しました
そうしているうちに1645年初頭にはヤンカウの戦いで皇帝軍がスウェーデン軍に敗れ、皇帝フェルディナント3世はウィーンへと逃亡します
皇帝軍はいったん持ち直すものの、1648年夏にはツマルスハウゼンにて皇帝軍・バイエルン軍連合軍がフランス・スウェーデン連合軍に決定的な敗北を喫しました
そして1648年10月24日、和平条約の調印がなされ、ウェストファリア条約が締結されます
この条約によりフランスはアルザス・ロレーヌなどを得、スウェーデンはバルト海沿岸地域を獲得しバルト帝国を確立します
神聖ローマ帝国内ではアウクスブルクの和議の内容が再確認されカルバン派を容認、さらに領邦国家の主権・外交権が認められたことで帝国の分裂が決定的となり「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と称されます
この条約締結以降、ヨーロッパでは対等な主権を有する国家がせめぎ合うようになり、国際秩序が大きく変化することとなったのでした
本日は「ウェストファリア体制」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・C.ヴェロニカ・ウェッジウッド、瀬原義生訳『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
328
:
Republica de Venexia
:2014/10/25(土) 00:57:01 ID:???
10月25日はリスボン攻防戦が終結した日です
>>199
で見たように、第1回十字軍で聖地イェルサレムを占領し各地に十字軍国家が建てられましたが、イスラーム勢力はザンギーが反撃しエデッサ伯領を征服しました
これに対し教皇エウゲニウス3世は十字軍国家救援のための十字軍を呼びかけました
これが1147年に始まる第2回十字軍です
この十字軍は同じくイスラームへの反攻を行っていたレコンキスタにも適用され、この時点でレコンキスタが正式な十字軍運動として認められました
イベリア半島のキリスト教徒、そしてマルセイユ、ピサ、ジェノヴァはレコンキスタに参加するよう要請され、またイングランドやフランドルの騎士たちが聖地へ向かう途中にポルトガルへと立ち寄り、ポルトガル王アフォンソ1世に協力しました
これらの人々によって1147年7月から行われたのがリスボン包囲戦です
四ヶ月間に渡る攻防戦の末、ついに1147年10月25日、イスラームは降伏開城を受諾し、リスボンは明け渡されることとなるのでした
本日はポルトガル領リスボンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全』東洋書林、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年
329
:
Republica de Venexia
:2014/10/26(日) 00:24:12 ID:???
10月26日はガリバルディが両シチリア王国を献上した日です
>>186
で見たように、イタリアではサルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世によって統一が進められていました
ソルフェリーノの戦いの勝利によりサルデーニャはロンバルディアを獲得しましたが、フランスがオーストリアと単独でヴィラフランカの和約を結んだため戦争継続を断念、ヴェネトをはじめとする北イタリアの併合は挫折せざるを得ませんでした
ヴィラフランカの和約後、イタリア中部のトスカーナ、モデナ、パルマ、ロマーニャでは議会選挙が行われ、サルデーニャ王国との合併を表明しましたが、これはフランス皇帝ナポレオン3世の反対に遭い、サルデーニャの首相カヴールはサヴォイア・ニースをフランスに割譲することで併合を認めさせました
一方南イタリアでは自由主義派が独立運動を進めていました
その指導者ガリバルディは「イタリアとヴィットーリオ=エマヌエーレ」をスローガンにアルプス猟歩兵隊(千人隊)を率い、シチリア・ナポリの両シチリア王国を征服します
カヴールはこのガリバルディによる統一運動を抑えるため、シチリア・ナポリ両王国の併合を画策します
ガリバルディとしても当初からサルデーニャ王国の下での統一を想定していたものの、その構想はイタリア全体が統一された後に両シチリア王国とサルデーニャ王国による統一国家を建設するというものであり、統一途上のこの段階での併合は望むところではありませんでした
しかしシチリア・ナポリに送り込まれたカヴール派によってサルデーニャ王国への併合を問う住民投票が行われ、圧倒的多数の賛成でシチリア・ナポリのサルデーニャ王国への併合が決定されました
自身の構想を打ち砕かれたガリバルディは一縷の望みを託し、サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世との会談に臨みます
1860年10月26日、ナポリ北方のテアーノにて両者の会談が実現されましたが、ヴィットーリオ=エマヌエーレはガリバルディにサルデーニャ王国への従属を要求し、ガリバルディの望みは絶たれました
この後ガリバルディは失意のうちにナポリを離れ、一方サルデーニャ王国はイタリア諸地域を次々に併合しイタリア統一を達成するのでした
本日は「テアーノの握手」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・藤沢道郎『物語イタリアの歴史 解体から統一まで』中央公論社、1991年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
330
:
Republica de Venexia
:2014/10/27(月) 00:19:27 ID:???
10月27日はナポレオンがベルリンを占領した日です
>>324
のトラファルガーの海戦に敗れ制海権を失ったナポレオンですが、大陸領においては快進撃を続けていました
トラファルガーでの敗戦から約2ヶ月後の1805年12月、ナポレオンはアウステルリッツの三帝会戦でオーストリア・ロシアを破り、翌年
>>211
で見たようにライン同盟を結成、神聖ローマ帝国を事実上滅ぼしました
この間、プロイセンは中立の立場にありましたが、ライン同盟の成立に危機感を覚え、イギリス・ロシア・スウェーデン・ザクセンとともに第4回対仏大同盟を結成しナポレオンに対抗しようとします
これが1806年7月のことでしたが、プロイセン軍の行動はちぐはぐなもので、ナポレオンに反撃の猶予を与えてしまいました
そして10月14日、イエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンは大敗し、ナポレオンにプロイセン領内深くまで攻め寄せられます
1806年10月27日、ナポレオンはプロイセンの首都ベルリンを占領し、プロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム3世は東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクに逃亡、ロシアに救援を要請するもののナポレオンには敵わず、翌1807年、ティルジットにおいて屈辱的な講和条約を締結することになるのでした
本日はフランス領プロイセンの誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・柴田三千雄他『世界歴史大系フランス史2 16世紀〜19世紀半ば』山川出版社、1996年
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
331
:
Republica de Venexia
:2014/10/28(火) 00:59:51 ID:???
10月28日はミルウィウス橋の戦いが行われた日です
ローマ帝国はディオクレティアヌスがテトラルキア(四分統治)を採用し、東西に正帝・副帝が置かれました
これにより、周辺異民族との戦いで戦線が拡大していたローマは同時に皇帝軍を展開できるようになり、その戦いを有利に進めることができました
しかしディオクレティアヌスの退位後、テトラルキアは次第に崩壊していきます
特にローマ帝国西方において対立が激化し、一時期はガレリウス、コンスタンティヌス、マクシミアヌス、マクセンティウスの4人が西方正帝を名乗るという事態にまで発展しました
このうち、まずマクシミアヌスがコンスタンティヌス暗殺に失敗して310年に処され、311年にはガレリウスが死去します
そして312年10月28日、残るコンスタンティヌスとマクセンティウスがミルウィウス橋の戦いで激突し、コンスタンティヌスが勝利、マクセンティウスは戦死します
これによりコンスタンティヌスは単独の西方正帝となり、後に東方正帝リキニウスを破って帝国を統一、
>>100
のコンスタンティノープル建設や
>>116
のニケーア公会議などの諸政策を行っていくのでした
本日は単独の西方正帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・クリス・スカー、青柳正規監、月村澄枝訳『ローマ皇帝歴代誌』創元社、1998年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子、本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
332
:
Republica de Venexia
:2014/10/29(水) 00:54:30 ID:???
10月29日はコンラーディンが処刑された日です
>>266
で登場した神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、オートヴィル家断絶後にシチリア王に即位したハインリヒ6世の息子ということもあり、シチリア王フェデリーコ1世としても在位しました
このフリードリヒ2世は非常に開明的な君主であり、そのためにローマ教皇としばしば対立します
その治世の晩年は教皇にそそのかされた息子ハインリヒの反逆などに苦しみ、彼の死後皇帝となったコンラート4世が急死したため、ローマ教皇の介入はより強まることとなりました
シチリアに目を向けると、コンラートの死後コンラーディンがシチリア王に即位しましたが、わずか2歳だったこともあり、叔父にあたるマンフレーディが摂政として統治を行い、やがて王位を簒奪します
シチリア王となったマンフレーディは南イタリアにおける支配を固め、北イタリアをも制圧しようと動きました
これに危機感を覚えたローマ教皇は教皇派であったシャルル=ダンジューをシチリア王に任命し、マンフレーディは1266年、ベネヴェントの戦いで敗死しました
このシャルル=ダンジューの統治は不人気で、また教皇派への巻き返しを図る皇帝派の支持もあり、成長したコンラーディンが擁立されます
コンラーディンは北イタリアへ侵攻し歓喜をもって迎えられたものの、1268年、タリアコッツォの戦いでシャルル=ダンジューに敗れ捕らえられます
そして1268年10月29日、コンラーディンは処刑され、ホーエンシュタウフェン朝は断絶することとなったのでした
本日はホーエンシュタウフェン朝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・高山博『中世シチリア王国』講談社、1999年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
333
:
Republica de Venexia
:2014/10/30(木) 00:24:37 ID:???
10月30日は泗川の戦いが行われた日です
豊臣秀吉によって起こった朝鮮出兵は、1598年8月、当の秀吉が病没したことで中止、日本軍は全軍退却することとなりました
この秀吉の死は朝鮮・明にも伝わり、退却する日本軍に対する追撃戦を開始します
約7,000の兵で泗川城に拠っていた島津義弘も、その追撃を受けた武将の一人でした
義弘は明・朝鮮連合軍の襲来を予測し、泗川の旧城に僅かな兵を残し新城への全軍撤収を命じます
数万とも20万ともされる連合軍はこの旧城に殺到しますが、城兵は寡兵ながらも頑強に抵抗し、明の将軍を討ち取るなどの打撃を与え、新城へと撤退しました
義弘は息子忠恒らから旧城への援軍を迫られましたが、これを認めませんでした
義弘にとって旧城は連合軍を引き寄せるための囮であり、島津必殺の戦法「釣り野伏」を成功させるための布石であったからです
旧城を守っていた将兵は新城への撤退に成功し、義弘はこれを収容した後に新城の前面に陣を構築、さらに伏兵を配置して迎撃態勢を整えました
そして1598年10月30日、連合軍が新城へと殺到し、新城の新柵に取り付き城内へと突入する勢いでしたが、これをぎりぎりまで引き付けた義弘は一斉に鉄砲を浴びせ、一気に攻勢へと転じます
隙を突かれた連合軍は大混乱に陥り、さらに島津の伏兵にも痛撃され総崩れ、「釣り野伏」が成功したのです
退却を始めた連合軍を島津軍は追撃、戦が終わった頃には3万8千とも8万とも言われる首級を挙げる大戦果を挙げ、義弘は連合軍を大いに畏怖されることとなったのでした
本日は「鬼石曼子」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・「烈帛島津戦記 決死不退の薩摩魂」学研、2001年
・中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』吉川弘文館、2008年
・「歴史街道2009年3月号 島津義弘 寡兵で大敵を破り続けた男」PHPソフトウェア・グループ、2009年
334
:
Republica de Venexia
:2014/10/31(金) 01:18:34 ID:???
10月31日はルターが『九十五箇条の論題』を発表した日です
16世紀前半、ドイツでは大規模な贖宥状販売が行われていました
これはバチカンのサン=ピエトロ大聖堂を再建するという名目で行われましたが、実際はマクデブルク大司教アルブレヒトが、選帝侯であるマインツ大司教を兼任するためにフッガー家から莫大な借金をし、その返済のためにローマ教皇と贖宥状の売上を折半するという約定が交わされていたためでした
アルブレヒトは贖宥状販売を修道士のテッツェルに委託し、テッツェルは贖宥状を買えばあらゆる罪からの贖罪を得ることができる、と巧みに宣伝し、ドイツでは贖宥状がたちまち売れていきました
このような状況を憂いたのが、ヴィッテンベルク大学の聖書学教授マルティン=ルターでした
ルターは贖宥状に抗議し、1517年10月31日、ヴィッテンベルク教会の扉に『九十五箇条の論題』を貼り付けた、あるいは『論題』を各地の司教たちに送付したともされます
その内容は贖宥状による贖罪の否定、人を義とするのは信仰のみ、人を救うのは神の恩寵による、信仰を可能にするのは神の言葉すなわち聖書のみ、などで、この論題はドイツ各地で急速に話題となり、やがてはヨーロッパ・キリスト教世界の価値観を根底から揺るがすこととなるのでした
本日は宗教改革の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年
335
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/10/31(金) 21:37:55 ID:8gE9lN3U
なんたら革命やら守護霊の本やらを何百万冊も売って儲けてる連中と変わらんな
336
:
Republica de Venexia
:2014/10/31(金) 21:42:16 ID:???
どうしても安易な方法で解決してしまいがちですよね
シンプルなだけに食い付きも良さそうで
337
:
Republica de Venexia
:2014/11/01(土) 00:28:07 ID:???
11月1日はオスマン帝国のスルタン制が廃止された日です
>>225
の青年トルコ革命の終結後ミドハト憲法が復活し、革命を主導した統一派が政権を確立しました
対外的にはスラヴ諸国の独立運動やパン=スラヴ主義の拡大に対抗するため、ドイツ側で第一次世界大戦に参戦します
しかしオスマン帝国はこれに敗北し、統一派政権は求心力を失い崩壊しました
皇帝メフメト6世はこれに乗じ専制政治の復活を狙いますが、帝国各地が連合国によって占領され、さらにギリシアがイズミルに出兵するなど危機的状況に陥ります
メフメトは保身のためこれらの占領政策を認める姿勢を見せますが、これに対しムスタファ=ケマルらが抵抗運動を展開、祖国解放戦争が勃発します
この抵抗運動を弾圧するため、連合国はイスタンブールを占領しますが、ケマルらはアンカラにトルコ大国民議会を置き革命政府を組織しました
1920年6月、メフメトは連合国との講和条約であるセーヴル条約を締結しますがアンカラ政府はこれを認めず、ギリシアに対し攻勢をかけます
ケマル率いるトルコ軍はギリシア軍を撃破し、1921年にはイズミルも奪回しギリシアは休戦協定に応じました
ここで連合国はセーヴル条約に代わりローザンヌ条約をアンカラ政府に提案、講和会議が連合国・イスタンブール帝国政府・アンカラ政府との間で行われます
ここでケマルは二重権力状態を解消するためイスタンブール政府の解散とスルタン制廃止を提案しました
そして1922年11月1日、スルタン制の廃止が決議され、メフメト6世は亡命、オスマン帝国は滅亡し共和政へと移行することとなったのでした
本日はオスマン帝国の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年
338
:
Republica de Venexia
:2014/11/02(日) 00:20:29 ID:???
11月2日はハイレ=セラシエ1世がエチオピア皇帝に即位した日です
エチオピアの歴史は古く、伝説上では紀元前10世紀のシバの女王・ソロモン王まで遡ります
この2人の間に産まれたのが初代エチオピア王とされるメネリク1世でした
紀元前5世紀にエチオピア初の国家として成立し、いち早くキリスト教を受容したアクスム王国の王、そして1270年に成立しヨーロッパ列強のアフリカ侵略の中で独立を維持したエチオピア帝国の皇帝はメネリク1世の直系と称しました
紀元前10世紀から3000年間続く皇室というのは、日本の皇室をも凌ぐ世界最古の皇室とされました
1930年11月2日、このエチオピア皇帝に即位したのがハイレ=セラシエ1世で、一時はイタリアに占領されるものの第二次世界大戦でイギリスの支援を得てエチオピアを解放し、国民の熱狂的な支持を受けます
しかし戦後は国内経済の悪化を止められず、1970年代には石油危機や飢饉もあり国内情勢は悪化の一途を辿り、内戦にまで発展しました
このような状況でハイレ=セラシエは廃位させられ、約3000年続いたとされるエチオピア皇室は途絶えることとなったのでした
本日はエチオピア最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・宮本正興・松田素二編『新書アフリカ史』講談社、1997年
・川田順造編『世界各国史10 アフリカ史』山川出版社、2009年
・福井勝義他編『世界の歴史24 アフリカの民族と社会』中央公論新社、2010年
339
:
Republica de Venexia
:2014/11/03(月) 00:22:00 ID:???
11月3日はキール軍港で反乱が起こった日です
第一次世界大戦において、ドイツは
>>271
で見たようにマルヌの会戦でシュリーフェン・プランが挫折し膠着状態に陥り、海上においても
>>150
で見たジャットランド沖海戦でイギリス艦隊に決定打を与えられず、以後は艦隊の温存を重視し出撃を控えていました
1918年3月、ドイツはルーデンドルフ攻勢をかけ戦局の打開を図りますが失敗し、逆に8月以降は連合軍の反撃に遭い押し込まれていきます
ドイツの敗北が決定的となったこの状況下で、ジュットランド沖海戦で公海艦隊を率いたシェーアはイギリス大艦隊(グランド・フリート)への決死の攻撃作戦を計画しますが、公海艦隊の兵士たちは出撃を拒否します
シェーアの後任として公海艦隊司令長官を務めていたヒッパーも公海艦隊の出撃を命じますが、キールの兵士は頑なに拒絶しました
そして1918年11月3日、出撃を拒否していた兵士たちへの弾圧に対する反発からキール軍港にて一斉蜂起が起こり、レーテ(評議会)を結成してキールの市政を掌握します
この動きはキールからドイツ全土へと広がり、皇帝ヴィルヘルム2世は亡命を余儀なくされ、ドイツでは帝政が打倒され共和政が成立することとなるのでした
本日はドイツ革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治他『世界歴史大系ドイツ史3 1890年〜現在』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・木村靖二他『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
340
:
Republica de Venexia
:2014/11/04(火) 00:11:39 ID:???
11月4日はヴィラ=ジュスティ休戦協定が発効された日です
>>325
で見た三帝同盟の後、ビスマルクはオーストリア=ハンガリー二重帝国・イタリア王国と1882年三国同盟を結び、フランスの孤立化を進めました
しかしイタリアは
>>329
で取り上げたイタリア統一の過程でイタリアに組み込めなかったトリエステ・南チロルのいわゆる「未回収のイタリア」を巡ってオーストリアと対立し、三国同盟から距離を置くようになっていきました
1902年にはフランスと仏伊協商を結ぶなど三国協商側に接近し、さらに1915年4月には三国協商とロンドン秘密条約を結び、「未回収のイタリア」をイタリアが獲得する代わりに連合国側で参戦する取り決めを行いました
同年5月にイタリアは三国同盟を放棄し三国協商に合流、オーストリアに宣戦布告します
オーストリアとのイタリア戦線は、1918年10月24日〜11月3日にかけて行われたヴィットリオ・ヴェネトの戦いにイタリアが勝利したことで決着し、ヴィラ・ジュスティ休戦協定が調印されました
この休戦協定は翌4日に発効され、イタリア方面のオーストリア軍は解体、イタリア戦線が終結することになるのでした
オーストリアとの領土問題は、その後オーストリアとのサン=ジェルマン条約、ハンガリーとのトリアノン条約によって一応の解決をみることになります
本日はイタリア戦線におけるイタリア勝利の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・木村靖二他『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・藤澤房俊『「イタリア」誕生の物語』講談社、2012年
341
:
Republica de Venexia
:2014/11/05(水) 00:45:14 ID:???
11月5日はロスバッハの戦いが行われた日です
>>319
などで見たように、プロイセンはオーストリア継承戦争によってシュレジエンを獲得しましたが、オーストリアがこれを甘受するわけはありませんでした
オーストリアのマリア=テレジアは、長年ハプスブルク家の宿敵であったブルボン家のフランスと同盟します
これは「外交革命」と呼ばれるほどの出来事であり、オーストリアのシュレジエン奪回に対する執念が伺えます
一方のフランスもイギリスへの対抗からこの同盟を受け入れました
イギリス王はハノーファー選帝侯も兼ねており、ハノーファーをプロイセンに攻撃されることを恐れプロイセン支援を行うようになったことで、フランスにとってもプロイセンは脅威となったからでした
オーストリアはロシアとも同盟を結び、プロイセン包囲を固めました
味方がイギリスのみとなったプロイセンは、機先を制すため1756年8月、ザクセンに先制攻撃をかけ、ここに七年戦争が始まりました
不意を突かれたオーストリアが準備を整える前にプロイセンはザクセンを占領、ベーメンへ侵攻しますが、態勢を立て直したオーストリアは1757年6月にプロイセン軍に勝利、さらに7月にはフランス軍もプロイセン軍に勝利し、プロイセンは劣勢となっていきます
そして1757年11月5日、オーストリア・フランス連合軍はロスバッハにてプロイセン軍と会戦しますが、ここでプロイセン王フリードリヒ2世は斜行戦術を敢行します
これは少数の部隊で敵陣の片方を攻撃し、敵がそちらに気を取られているうちに主力が斜めに移動しもう片方を一方的に集中攻撃、側面に回り込み押し込んでいくというものでした
この戦術が功を奏し、プロイセン軍は2倍以上の連合軍を撃破、この一ヶ月後に行われ、より理想的な形で成功させたロイテンの戦いとともに、フリードリヒの斜行戦術は軍事史上の一大画期となったのでした
本日はプロイセン斜行戦術の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年
342
:
Republica de Venexia
:2014/11/06(木) 00:18:00 ID:???
11月6日はアレックス・ファーガソンがマンチェスター・ユナイテッドの監督になった日です
1957-58シーズンのマンチェスター・ユナイテッドは、ダンカン・エドワーズを中心にイングランド代表を多数擁しヨーロッパに旋風を巻き起こしていました
チャンピオンズカップでもシャムロック・ローヴァーズ、デュクラ・プラハを破り、準々決勝でレッドスター・ベオグラードとの対戦を迎えます
強敵レッドスターに対し、ユナイテッドは第一戦は2-1、第二戦を3-3とし勝利しました
しかしその翌日に悲劇が起こります
ユナイテッドの選手達を乗せた飛行機がミュンヘンで墜落、エドワーズを含む8人が死亡し、4人が後遺症でプレー不可能となったのです
ミュンヘンの悲劇から10年後、奇跡的に生き残ったマット・バスビー監督やボビー・チャールトン、ビル・フォルケスらはチームを再建し、さらにデニス・ローやジョージ・ベスト、ジョニー・ジャイルズ、バット・クレランド、ブライアン・キッドらが活躍する魅力的なチームを作り上げます
この67-68シーズン、ユナイテッドは決勝でエウゼビオやコルナを擁するベンフィカを破り、念願のチャンピオンズカップ優勝を果たします
しかしこの後ユナイテッドは低迷し、国内外で優勝から遠ざかることになりました
そして1986年11月6日、アレックス・ファーガソンが監督に就任するとチームは再建の兆しを見せるようになります
92-93シーズンにはピーター・シュマイケル、エリック・カントナらを擁し約30年ぶりの優勝を果たしました
クライマックスとも言えるのが98-99シーズンで、シュマイケル、この年に獲得したヤープ・スタム、「恐怖の双子」アンディ・コール、ドワイト・ヨークに加え、ファーガソンが育て上げたガリー・ネビル、ポール・スコールズ、ライアン・ギグス、デイヴィッド・ベッカムらが躍動する素晴らしきチームに仕上がっていました
このシーズンのユナイテッドはチャンピオンズリーグ決勝でバイエルン相手に後半ロスタイムで2得点を挙げ逆転優勝を飾った「カンプ・ノウの奇跡」をはじめプレミアリーグ、FAカップも優勝し三冠を達成する輝かしいシーズンとなったのです
以後もファーガソン率いるユナイテッドはプレミアリーグ13回、FAカップ5回、リーグカップ4回、チャンピオンズリーグ2回など多くのタイトルを獲得することになるのでした
本日はマンチェスター・ユナイテッド黄金時代の誕生日です、おめでとうございます
343
:
Republica de Venexia
:2014/11/07(金) 00:35:43 ID:???
11月7日はレーニンが武装蜂起を始めた日です
ロシアは第一次世界大戦においてタンネンベルクの戦いに大敗し、その後押し返しはするものの戦線は膠着状態に陥り、国民の不満が増大していました
そのような状況で1917年3月、首都ペトログラードで起こったデモが発端となって革命が勃発します
ロシア暦で2月に起こったこの革命は二月革命と呼ばれ、皇帝ニコライ2世が退位させられロマノフ朝が断絶、ケレンスキーを首班とする臨時政府が成立しました
この二月革命後のロシアは臨時政府とソビエトが統治する二重政府状態であり、これを打開するためボリシェヴィキを率いるレーニンは「全ての権力をソビエトに」をスローガンに掲げ四月テーゼを発表します
しかしこの時はメンシェヴィキやエス=エルに弾圧され失敗、レーニンは7月にロシアから亡命します
しかし9月に臨時政府総司令官コルニーロフが反乱を起こすと臨時政府の求心力は低下し、ボリシェヴィキは勢力を回復していきました
ボリシェヴィキが多数派となったことでレーニンは帰国し、ソビエト議長となったトロツキーは軍事革命委員会を設置し臨時政府の武力討伐を画策します
そして1917年11月7日(ロシア暦10月25日)、レーニンはペトログラードにおいて武装蜂起を行い臨時政府を打倒、政権の奪取に成功します
レーニン率いるソビエト政権はこの後ロシア内戦を戦い抜き、1922年にソビエト社会主義共和国連邦を結成することになるのでした
本日は十月革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・ニコラ・ヴェルト、石井規衛監『ロシア革命』創元社、2004年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・松戸清裕『ソ連史』筑摩書房、2011年
344
:
名前なんか必要ねぇんだよ!
:2014/11/07(金) 22:26:02 ID:0Wc6G7jc
ソビエトロシアではAILE君があなたのアナルを狙う!
345
:
Republica de Venexia
:2014/11/08(土) 00:08:22 ID:???
11月8日は白山の戦いが行われた日です
>>124
で見たように、1618年5月にプラハ窓外投擲事件が起こり、ボヘミアの新教徒はカトリック政策を強行したボヘミア王フェルディナントに対して反乱を開始、これが三十年戦争が始まりとなります
フェルディナントは翌年8月には神聖ローマ皇帝フェルディナント2世として即位しますが、そのためにボヘミアを留守にした隙にボヘミア新教徒はフェルディナントの廃位を宣言、プロテスタント諸侯であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に選出しました
これに対しフェルディナントはすぐさま鎮圧を決定、カトリック連盟の指導者であるバイエルン侯マクシミリアン1世に対し、ボヘミア反乱を鎮圧すればフリードリヒの選帝侯位を剥奪し、バイエルン侯を選帝侯とすることを約束し味方に付けます
これに同意したマクシミリアンはティリーに兵を与えボヘミアへ派遣しました
一方のフリードリヒは、ボヘミア王就任を支持したオランダ、デンマーク、ヴェネツィア、プロテスタント同盟の支援を期待しますが、プロテスタント同盟は皇帝との対決に消極的で中立を保ち、諸外国も他国との紛争等で支援を行える状況ではありませんでした
さらにボヘミア王位を狙っていたサヴォイア侯がスペイン軍の自領通過を認め、プファルツ侵攻の手助けをします
スピノラ率いるスペイン軍はプファルツを占領し、本国を失ったフリードリヒは窮地に追い込まれました
そして1620年11月8日、フリードリヒは白山の戦いにおいてカトリック軍に大敗を喫します
ボヘミアでは27人の貴族が処刑、広大な領地が没収され、選挙王制の廃止とハプスブルク家による世襲王制が敷かれます
フリードリヒはわずか1年4日で王位を失い、亡命を余儀なくされたのでした
本日は「フリードリヒ冬王」の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
346
:
Republica de Venexia
:2014/11/09(日) 00:13:49 ID:???
11月9日はフィレンツェからメディチ家が追放された日です
十字軍運動によるイタリア都市勃興の時代、ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサ・ミラノなどと並び、フィレンツェも遠隔地交易や毛織物業・金融業などで発展し、トスカーナの中心都市へと成長していきました
14世紀には金融業がさらなる繁栄を迎え、メディチ銀行を興したメディチ家がフィレンツェの有力家門となっていきます
15世紀初頭にはピサを征服して海港を獲得、さらに教皇を擁立したことで教皇庁との取引も行うようになりました
メディチ家がフィレンツェを実質的に支配するようになったのはコジモ=デ=メディチの時代で、その孫ロレンツォの時代にフィレンツェのメディチ家支配は絶頂を迎えます
1454年にイタリア五大国、すなわちヴェネツィア共和国、ミラノ公国、ナポリ王国、教皇領、そしてフィレンツェ共和国の間で結ばれたローディの和によってイタリアに平和が訪れ、フィレンツェもロレンツォ支配の下でルネサンスの最盛期が現出しました
しかし1494年、フランス国内の混乱を収めたシャルル8世がナポリ王位を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が勃発します
この時メディチ家の当主はロレンツォの息子ピエロでしたが、市民に図らず独断でフランス軍の入城を許可したため人々の不満が高まり、修道士サヴォナローラがメディチ家の専横を批判し信望を集めていたこともあり、メディチ家追放の機運が広がります
そして1494年11月9日、ピエロ=デ=メディチはフィレンツェから追放されメディチ銀行も破綻、フィレンツェはサヴォナローラによる神権政治に移行するのでした
本日はピエロ=イル=ファトゥオ(愚昧なピエロ)の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・森田義之『メディチ家』講談社、1999年
・中嶋浩郎『図説メディチ家 古都フィレンツェと栄光の「王朝」』河出書房新社、2000年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
347
:
Republica de Venexia
:2014/11/10(月) 00:59:52 ID:???
11月10日はヴァルナの戦いが行われた日です
>>222
のアンカラの戦いでオスマン帝国に大敗し、一時中断を余儀なくされました
オスマン帝国は小アジア・バルカン半島双方で勢力か縮小し、さらにスルタン位をめぐって内乱が起こる有様でした
この混乱を鎮め、帝国の再統一を進めたのがメフメト1世でした
メフメト1世は1413〜21年の治世の間に小アジアをほぼ平定し、帝国の再建を果たします
そしてメフメト1世の後を継ぎ、バルカン半島への再進出を進めたのがムラト2世です
ムラトは1422年、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを包囲しますが、その堅固な城壁に手を焼き、小アジアでまたも反乱が起こったことで包囲を解除しました
この反乱を鎮圧し終えた後、1428年にはハンガリー・ポーランドの連合軍か侵攻してきます
これを撃退したムラトは、1430年からバルカン半島への侵攻を開始しますか、1440年、ベオグラードの包囲に失敗し撤退しました
これを見たローマ教皇エウゲニウス4世は十字軍を組織し、ハンガリーがこれに応じます
セルビアはハンガリー支援に同意し、アルバニアのスカンデルベグはオスマン帝国に宣戦布告し、カラマン君侯国は小アジアからオスマン帝国を攻撃します
ムラトがカラマン君侯国を討伐している間に十字軍はセルビアからオスマン帝国軍を一掃し、さらなる進軍を企図していました
ムラトは軍をバルカン半島に返し十字軍の迎撃に向かいます
そして1444年11月10日、ブルガリアへと進軍してきた十字軍軍と、これを迎撃するオスマン帝国軍はヴァルナにて激突、十字軍は指揮官であるハンガリー・ポーランド王ヴワディスワフ1世が戦死するという大敗を喫します
一方のオスマン帝国はドナウ川までの地域を再び支配下に収めるのでした
本日はオスマン帝国のバルカン半島再征服の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
348
:
Republica de Venexia
:2014/11/11(火) 00:57:27 ID:???
11月11日はオーストリア皇帝カール1世が退位した日です
ハプスブルク家は13世紀のルドルフ1世以来約700年間、オーストリアを支配し、15世紀のアルブレヒト2世以降は神聖ローマ皇帝位を独占、
>>241
で見たようにフランツ2世以降はオーストリア皇帝として君臨していました
しかし19世紀末のフランツ=ヨーゼフ1世の時代、数々の不幸に見舞われるようになります
まず1867年、
>>177
のようにフランツ=ヨーゼフの実弟マクシミリアンがメキシコにて処刑されます
さらに1889年、愛児であり皇太子でもあるルドルフが自殺した「マイヤーリングの悲劇」がフランツ=ヨーゼフに衝撃を与えました
その10年後の1898年には最愛の妃エリーザベトが暗殺され、フランツ=ヨーゼフは悲嘆に暮れます
そして1914年、第一次世界大戦の引き金となった
>>191
のサラエボ事件で、甥であり帝位継承者であるフランツ=フェルディナントが暗殺され、フランツ=ヨーゼフは打ちのめされました
それでも、開戦当時84歳のこの皇帝は死の直前まで皇帝としての政務をとりつづけ、1916年に崩御します
国民に深く愛され、ハプスブルク帝国の存続に尽力してきたフランツ=ヨーゼフの死によって、帝国は事実上の終焉となりました
彼の後を継いだカール1世には崩れゆく帝国を支えきれなかったのです
オーストリアの無条件降伏後の1918年11月11日、カールは退位し、ここにハプスブルク帝国は名実ともに終焉を迎えたのでした
本日はオーストリア・ハプスブルク朝の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・加藤雅彦『図説ハプスブルク帝国』河出書房新社、1995年
・大津留厚『ハプスブルク帝国』山川出版社、1996年
349
:
Republica de Venexia
:2014/11/12(水) 00:56:21 ID:???
11月12日はゾエがロマノスと結婚した日です
ビザンツ帝国の最盛期を築いた
>>232
のバシレイオス2世が1025年に亡くなると、帝国の皇位はめまぐるしく変わる時代へと突入します
バシレイオスの後を継いだ高齢のコンスタンティノス8世が3年後に病没すると、その次女であるゾエに夫を迎え、帝位が継承されることになります
これが1028年11月12日にゾエと結婚したロマノス=アルギュロスで、彼はロマノス3世として即位します
ところがビザンツ宮廷で大きな勢力を持っていた美貌の宦官ミカエルがゾエに近づき、2人は謀ってロマノスを暗殺します
1034年、ゾエと結婚し皇帝となったミカエル4世は、自身も暗殺されることを恐れゾエを幽閉しました
しかし元々病持ちであったミカエルは1041年に病没してしまいます
続いて皇帝となったミカエル5世ですが、こちらもゾエを追放すると、コンスタンティノープル市民はユスティニアヌス1世時代のニカの乱以来となる暴動を起こし、ミカエル5世を追放しました
帝都に迎えられたゾエは妹テオドラとともに、エイレーネー以来となる女帝として即位します
これが1042年のことでしたが、2人の対立もあってわずか2ヶ月で破綻し、ゾエはコンスタンティノス=モノマコスと結婚し、コンスタンティノス9世とした即位しました
ゾエ自身は1050年に死去し、バシレイオス2世以来帝国政治の中心人物がこの世を去ったのでした
本日は「皇女ゾエ」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ皇妃列伝 憧れの都に咲いた花』白水社、2009年
350
:
Republica de Venexia
:2014/11/13(木) 00:21:33 ID:???
11月13日はエゼルレッド2世がデーン人を虐殺した日です
デーン人の侵入に苦しめられていたイングランドでは、9世紀にアルフレッド大王がデーン人を撃退し、休戦協定を結んで平和共存が採られるようになりました
アルフレッドはイングランド北東部をデーン人の支配地「デーンロウ地方」とし、デーン人の法慣習を認めたのです
アルフレッドはこの休戦状態の間に軍備拡大に努め、諸改革を行っていきます
アルフレッド以後の国王たちも、彼の政策を引き継いでいきます
デーンロウ地方の征服は着実に進められ、アゼルスタンの頃にはほぼイングランド統一がなされました
イングランド統一の完成は973年、エドガーの治世で、彼は「イングランド人の王」としてデーン人からも認められるのです
しかしエドガーの死後、10世紀末には再びデーン人の攻撃が再開されるようになります
イングランド王エゼルレッド2世にはアルフレッドやエドガーのようにデーン人を撃退するという戦意は無く、デーンゲルドと呼ばれる平和金を払ってデーン人がイングランドから退去するように計らいました
しかしデーンゲルドは巨額であり、その支払い費用を捻出するために重税が課されたことで臣下の不満は高まっていきます
そして1002年11月13日、エゼルレッドが局面を打開するためデーン人を虐殺したことが仇となりました
この虐殺に猛反発したデーン人のイングランド侵入が本格化し、エゼルレッドは一時ノルマンディーへの亡命を余儀なくされます
復位した後もデーン人の侵攻を撃退することができず、1016年、クヌートのイングランド征服へと至るのでした
本日は聖ブライスの祝日の虐殺の誕生日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・B.アルムグレン、蔵持不三也訳『図説ヴァイキングの歴史』原書房、1990年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年
351
:
Republica de Venexia
:2014/11/14(金) 01:27:16 ID:???
11月14日はユージン・バートン・イーリーが飛行機械で発艦した日です
戦闘機の歴史はまず20生気初頭に遡ります
アメリカ政府はスミソニアン協会理事の科学者サミュエル・ラングレーに資金を提供し、「飛行機械」の開発を進めていました
ラングレーはエアロドローム号を製作し1903年10月7日、首都ワシントンを流れるポトマック川にて飛行実験を行ないます
チャールズ・マンリーを乗せたエアロドローム号はしかし、射出後水面に激突し実験は失敗に終わってしまいました
とはいえ国家プロジェクトである飛行機械の開発は再開され、同年12月8日、二度目の飛行実験が試みられます
しかしこちらも失敗に終わり、飛行機械の開発プロジェクトは一時的に消極的となります
同年12月17日にはライト兄弟がライトフライヤー号によって飛行機械の初飛行に成功しますが、これは民間によるものであったため政府は関心を示しませんでした
このライト兄弟に続いたのがグレン・カーチスで、1908年7月4日にジューン・バグで飛行に成功します
カーチスはユージン・バートン・イーリーをパイロットとして雇い、アメリカ海軍のワシントン・チャンバース協力の下で飛行機械の発艦実験に漕ぎ着けました
そして1910年11月14日、カーチスの飛行機械ゴールデンフライヤー号は巡洋艦「バーミンガム」から発艦することに成功します
翌年1月18日には巡洋艦「ペンシルヴェニア」への着艦にも成功し、アメリカ政府による飛行機開発は軌道に乗っていきました
「ペンシルヴェニア」での運用実験の結果、全通甲板の必要性が確認され航空母艦の開発がすすめることになり、カーチスは海軍艦載機や陸軍機の開発に携わり、カーチス・ライト社を設立し数々の軍用機を開発していくことになるのでした
本日は飛行機の発艦の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・「世界の艦船 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
・白石光・おちあい熊一『歴群「図解」マスター 航空母艦』学研パブリッシング、2012年
・白石光『歴群「図解」マスター 戦闘機』学研パブリッシング、2013年
352
:
Republica de Venexia
:2014/11/15(土) 00:17:17 ID:???
11月15日は北キプロスが独立宣言を行った日です
キプロスでは古代よりギリシア人が居住し、ヒッタイト、アッシリア、ペルシア、プトレマイオス朝、ローマなどが支配してきました
12世紀末にはイングランド王リチャード1世によって征服されキプロス王国が成立します
この王国は15世紀末に断絶し、ヴェネツィア共和国が植民地として支配するようになります
1571年には
>>308
で見たようにオスマン帝国が征服し、このオスマン帝国支配下でトルコ人が多数移住し、キプロスはギリシア人とトルコ人という二民族が併存するようになりました
その後キプロスは1878年のベルリン会議によってイギリスが統治権を得、植民地化が進められました
この際にイギリスはギリシア人とトルコ人を分断して統治を行ったため、ギリシア人はギリシア王国、トルコ人はオスマン帝国への帰属を求めるようになります
イギリスは第一次世界大戦の勝利によりギリシアの併合を宣言し、1925年には直轄領とします
イギリスによる支配はますます本格化し、キプロスをスエズ運河防衛のための軍事拠点化を進めました
これに対しキプロスでは反英独立運動が盛んとなり、1960年にはキプロス共和国として独立を達成します
しかしこれにより、それまで反英でまとまっていたギリシア人とトルコ人との対立が表面化し、1964年に内戦が勃発します
1974年にはギリシア軍の介入によるクーデターが発生、これに対しトルコもトルコ人保護を名目に軍を派遣し北キプロスを占領しました
この北キプロスにトルコ人が移住し、残りの南キプロスにはギリシア人が移住、キプロスは南北に分断されたのです
そして1983年11月15日、北キプロスは独立を宣言し、キプロスの分断は決定的となるのでした
本日は北キプロス・トルコ共和国の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・大島直政『複合民族国家北キプロスの悲劇』新潮社、1986年
・桜井万里子編『世界各国史17 ギリシア史』山川出版社、2005年
・澁澤幸子『キプロス島歴史散歩』新潮社、2005年
353
:
Republica de Venexia
:2014/11/16(日) 01:26:08 ID:???
11月16日はリュッツェンの戦いが行われた日です
三十年戦争は
>>345
の白山の戦いでファルツ選帝侯フリードリヒが敗れ、その後1625年にデンマーク王クリスティアン4世が参戦するも、皇帝軍の傭兵隊長ヴァレンシュタインによって撃退されます
しかしヴァレンシュタインによる軍の私兵化、強大な軍事力を背景とした専横に諸侯の不満は増大し、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世はヴァレンシュタインを罷します
この後の1630年に参戦したのがスウェーデン王グスタフ=アドルフで、
>>285
で見たように軍制改革が完成したスウェーデン軍は、1631年のブライテンフェルトの戦いで皇帝軍のテルシオを打ち破る大勝利を挙げました
>>68
のレヒ川の戦いでも皇帝軍は敗北し、指揮官ティリーは戦死してしまいます
ここに至って皇帝フェルディナントはヴァレンシュタインの復帰を決定し、皇帝軍を預けグスタフ=アドルフに対抗します
そして1632年11月16日、グスタフ=アドルフとヴァレンシュタインが対峙したリュッツェンの戦いが起こります
これはヴァレンシュタインがパッペンハイムに軍を預けてハレ攻撃に派遣し、皇帝軍が二分された隙をグスタフ=アドルフが突いたものでした
スウェーデン軍はグスタフ=アドルフ率いる右翼が皇帝軍を圧倒するものの中央が押され、この救援にグスタフ=アドルフ自身が赴いたところで狙撃され、戦死してしまいます
戦場では霧が立ち込めていたためグスタフ=アドルフの戦死は知られず、両軍は交戦を続けました
午後になるとパッペンハイムが戦場に到着しスウェーデン軍に突撃を敢行しますが破れず、逆にパッペンハイム自身が戦死しました
やがてグスタフ=アドルフの戦死が知られるとスウェーデン軍は傭兵隊長ベルンハルトが指揮をとり、皇帝軍を撤退に追い込みました
こうしてリュッツェンの戦いはスウェーデン軍の勝利に終わったものの国王戦死の影響は大きく、その攻勢は鈍ります
軍の指揮はベルンハルトとグスタフ・ホルンが取るものの、両者の対立により
>>149
のネルトリンゲンの戦いでの敗北、プラハ条約締結へと至るのでした
本日は「北方の獅子」グスタフ=アドルフの命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
354
:
Republica de Venexia
:2014/11/17(月) 01:27:43 ID:???
11月17日はエリザベス1世がイングランド国王に即位した日です
>>257
で見たテューダー朝創始以降、ヘンリ7世は王権強化に努め、
>>168
のヘンリ8世、その次代のエドワード6世もヘンリ7世の諸政策を引き継いでいきました
しかしエドワード6世が若くして死去し、メアリ1世が即位するとその政策に変化が起きます
というのも、ヘンリ8世とカタリーナ・デ・アラゴンとの娘であるメアリは、カトリック国のアラゴン出身の母親に敬虔なカトリックとして育てられたからでした
ヘンリ8世の代にローマ教会から離脱し、独自のイングランド国教会を設立していたイングランドは、メアリの代でカトリックに復帰し
さらにメアリはスペイン王フェリペ2世と結婚します
この結婚に反発した人々は国教徒として育ったエリザベスを国王に即位させるため、1554年に反乱を起こしました
この反乱は鎮圧されエリザベスは投獄、さらにメアリは反対派の多くを処刑しカトリック政策を強行したため「ブラッディ・メアリ」と呼ばれました
エリザベスは翌年解放され、さらに1558年にはメアリが病死します
そして同年11月17日、エリザベス1世としてイングランド国王に即位することになるのでした
本日はエリザベス朝の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・今井宏『世界歴史大系イギリス史2 近世』山川出版社、1990年
・青木道彦『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』講談社、2000年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
355
:
Republica de Venexia
:2014/11/18(火) 00:21:07 ID:???
11月18日は桓武天皇が平安京へ遷都した日です
桓武天皇の時代、奈良から京都への遷都が計画されました
というのも、天智天皇系である桓武天皇は、それまでの天武天皇系の政権を支持してきた貴族・寺社勢力の牙城であった大和での政治を避けたからでした
こうして784年、桓武天皇は山城国に長岡京を造営し遷都します
しかし遷都して早々、重臣の藤原種継が暗殺され、弟の早良親王がこれに加担していたとして配流のち死亡、さらに飢饉・疫病が流行し親族が次々と死亡するなどの不幸に見舞われました
これを親王の怨念によるものとして鎮魂の儀式を行いますが、2度の大水害にも遭い、ここに至って和気清麻呂の建議により再遷都が決定します
そして794年11月18日、現在の京都市中心部にあたる地の平安京に遷都、明治時代に東京へと移るまで歴代天皇の所在地となったのでした
本日は平安時代の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・北山茂夫『日本の歴史4 平安京』中央公論新社、2004年
・川尻秋生『平安京遷都』岩波書店、2011年
・西本昌弘『桓武天皇 造都と征夷を宿命づけられた帝王』山川出版社、2013年
356
:
Republica de Venexia
:2014/11/19(水) 00:56:02 ID:???
11月19日はゲティスバーグ演説が行われた日です
19世紀、アメリカ合衆国では米英戦争により経済的自立が進み、工業化が進展を見せていました
特に北部でその傾向が顕著で、南部では奴隷制によるプランテーション経済が中心であり、南北の経済格差が広がっていきます
そして北部では奴隷制反対・保護貿易が主張され、南部で奴隷制・自由貿易が主張された結果南北の対立が激化し、南部諸州がアメリカ連合国を結成、1861年に南北戦争へと突入しました
戦争は当初、リー将軍が指揮する南軍が優勢であり、フランスやイギリスも南部を支援したため北部は劣勢を強いられました
しかし経済力に勝る北部は徐々に盛り返し、1862年5月にはアメリカ連合国の首都リッチモンド近郊まで侵攻します
しかしこの進撃は南軍に食い止められ、逆に8月には南軍は北部メリーランドへと侵攻しました
こちらも北軍の抵抗に遭い侵攻は失敗に終わり、これを機に北部大統領リンカーンは奴隷解放宣言を発し国際的な支持を得た結果、アメリカ連合国への支持は失われることとなりました
1863年7月にはゲティスバーグにて南北両軍が激突し、この戦いに北部が勝利したことで南北戦争の趨勢は決します
このゲティスバーグの地にて1863年11月19日、リンカーンは演説を行いました
アメリカの自由と平等を謳うこの演説は歴代大統領の演説のなかでも最も有名なものであり、アメリカ独立宣言、合衆国憲法と並びアメリカ合衆国の精神を体現するものとなるのでした
本日は「人民の、人民による、人民のための政治」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・明石紀雄・飯野正子『エスニック・アメリカ 多文化社会における共生の模索』有斐閣、2011年
357
:
Republica de Venexia
:2014/11/20(木) 00:55:45 ID:???
11月20日はメキシコ革命が始まった日です
>>177
でメキシコ皇帝マクシミリアンが処刑された後、メキシコは民主主義勢力の指導者フアレスが大統領となり、実権を握りました
1872年にフアレスが急死するとレルドが大統領に就任したものの、これに反発したディアスが反乱を起こし、1877年に大統領に就任、独裁を開始します
ディアス独裁体制下では西欧に倣った近代化が進み、外国資本の導入もあって経済発展が達成されました
しかしその一方で労働者・農民は困窮し、次第にディアス独裁への不満が高まっていきます
1910年にはディアスに反対する勢力を集めたマデロが大統領選に出馬しますが、武装蜂起を扇動した罪で投獄されてしまいます
ディアス再選の後マデロは釈放され、アメリカへと亡命します
マデロは亡命先のテキサス州にて選挙の不正、ディアス再選の無効を主張し武装蜂起を呼びかけ、これに呼応してメキシコでは反ディアスの気運が高まりました
そして1910年11月20日、メキシコ各地で武装蜂起が起こり、サパタやビリャ、オロスコ、カランサ、オブレゴンなど、メキシコなど、その後のメキシコを導いていく人々が登場するメキシコ革命が始まっていくのでした
本日はラテンアメリカにおける社会革命の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・増田義郎・山田睦男『世界各国史25 ラテン・アメリカ史1 メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社、1999年
・大垣貴志郎『物語メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』中央公論新社、2008年
・国本伊代『メキシコ革命』山川出版社、2008年
358
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Republica de Venexia
:2014/11/21(金) 00:10:14 ID:???
11月21日は毛利元就が月山富田城を攻略した日です
月山富田城は難攻不落の城として知られ、1542年には大内義隆が宿敵尼子氏と雌雄を決するため、
その拠城月山富田城を攻めますが失敗、大内氏は壊滅的な打撃を受け撤退します
この大内軍の中には毛利元就も含まれており、死を覚悟するほどの負け戦となりました
この戦いの後尼子氏は尼子晴久のもと全盛期が築かれます
一方の元就は大内氏からの脱却を進めます
1555年には大内氏の重臣陶晴賢を破り、57年には大内氏を滅ぼしその旧領を獲得、毛利両川体制を確立し、尼子氏との決戦に臨みます
1562年7月、元就は吉田郡山城を出撃し尼子の支城を次々と攻略、12月には白鹿城の攻略に取り掛かりました
重要拠点の1つである白鹿城は頑強に抵抗するものの翌年10には開城、月山富田城への攻撃準備は整えられました
1565年4月には月山富田城への総攻撃が開始され、いったんは尼子軍が撃退に成功するものの、元就は兵糧攻めに切り替えて再包囲、兵糧の減少に伴い城兵の士気は低下していきました
そして1566年11月21日、尼子氏当主義久は降伏し、月山富田城は開城されたのでした
本日は尼子氏の命日です、お悔やみ申し上げます
参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「毛利戦記 大内、尼子を破った元就の権謀」学研パブリッシング、2010年
359
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Republica de Venexia
:2014/11/22(土) 00:31:28 ID:???
11月22日は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が即位した日です
1197年、シチリア王国を手に入れ、ホーエンシュタウフェン朝による世襲王朝確立を目指し、ビザンツ帝国征服の十字軍により地中海帝国の建設を夢見た神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が急死しました
この時嫡子のフリードリヒはわずか3歳、帝国を統治することはできず、母親のコンスタンツァはローマ教皇インノケンティウス3世にフリードリヒを預けます
帝国はハインリヒの弟であるシュヴァーベン公フィリップが統治し、フリードリヒはシチリア王として戴冠、摂政に助けられ王国を統治することとなりました
1208年、フリードリヒは14歳になり元服を済ませました
ラテン・ビザンツ・イスラーム文化が混在するシチリアで育ったフリードリヒは恐るべき青年へと成長していました
六カ国後を話し、乗馬・槍術・狩猟・芸術にも堪能で、後に「アンチ・キリスト」と呼ばれるほどに合理的な思想を持ったフリードリヒをインノケンティウスは脅威に感じました
1209年にフィリップが暗殺されると、インノケンティウスはフリードリヒの即位を阻止するため、ホーエンシュタウフェン家と対立するヴェルフェン家のオットーの戴冠を強行しました
フリードリヒ=バルバロッサと渡りあったハインリヒ獅子公の嫡子であるオットーはしかし、
>>229
で見たようにインノケンティウスに反逆する愚を犯したため破門され皇帝位から追われることとなります
そして1215年11月22日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世として即位、中世で最も開明的とされる君主が誕生したのでした
本日は「玉座に座った最初の近代人」の誕生日です、おめでとうございます
参考文献
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
360
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Republica de Venexia
:2014/11/23(日) 00:08:21 ID:???
11月23日は2002年Jリーグ第14節が行われた日です
2002年のJリーグディビジョン1、そのファーストステージはジュビロ磐田が制し、セカンドステージへと臨みました
磐田は第1節でヴィッセル神戸を1-0で破ると、第2節では宿敵鹿島アントラーズを2-1で降す上々の立ち上がりを見せました
第3節で浦和レッドダイヤモンズに1-2で敗れるものの、第4節は清水エスパルスとの静岡ダービーを2-0で制し、第5節ではFC東京を高原直泰の4得点を含む6-1で大勝し連勝を伸ばしていきます
後半戦に入り第8節でジェフユナイテッド市原に1-2で敗れ浦和に首位の座を明け渡しますが、第10節はサンフレッチェ広島を1-0で破り、浦和は鹿島アントラーズに1-2で敗れたため首位奪還に成功します
浦和はこの節を境に失速し、代わってガンバ大阪と鹿島が磐田を追走する形となりました
ところが第12節はガンバと鹿島の直接対決であり、これに敗れたガンバは磐田との差を開けられます
一方の鹿島も第13節で広島に0-2で敗れ、第8節で敗れて以来全勝をキープする磐田が一歩抜け出しました
そして2002年11月23日、第14節の東京ヴェルディ1969との試合を福西崇史の延長Vゴールがそのまま優勝決定ゴールとなり、ファーストステージに続きセカンドステージもジュビロ磐田が制することとなりました
本来ならばファーストステージ王者とセカンドステージ王者が優勝決定戦を行うチャンピオンシップがありましたが、両ステージともジュビロ磐田が優勝したためチャンピオンシップが行われず、自動的にジュビロ磐田の年間優勝が決定したのでした
本日はJリーグ両ステージ完全制覇の誕生日です、おめでとうございます
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