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鬼和尚の仏教講読会 別館2

257避難民のマジレスさん:2021/01/28(木) 17:24:07 ID:GLxyV7yo0
くま訳改
第二句:看来れば、物事の姿や形の中に真実を見いだせるのだ。
第三句:正邪、意識対象となるもの全てを滅却した後も、
第四句:なおも大燈国師の威光は大千世界に輝くのである。

308
賛鳥窠和尚   てうくわ和尚を賛す
巣寒樹上老禪翁 巣は寒し樹上の老禪翁
寂寞淸高名未空 せきばくせいかう名いまだむなしからず
諸悪莫作善奉行 諸悪まくさ善奉行
大機須在醉吟中 大機はすべからくすゐ吟のうちに在るべし

肝冷斎先生訳・解説より
そこの巣は寒くはございませんか、樹上の老いた禅じじいよ、
孤立し、清く高尚で、その名は今でも知られている。
白楽天の問いに答えて、「悪いことはしてなりません、いいことをしなさい」と(外面よく答えたが)
(悟りへの)大きな転換ポイントは酔歌する(ようなキモチ)の中にこそあるはずだ。

「酔吟」・・・白楽天が晩年に「酔吟先生」と自称しているので、それを踏まえると、(悟りへの)大きな
 転換ポイントは、白楽天の方にあるはずだ(和尚の方はヒントを示しているだけだ)。

くま訳
鳥巣(ちょうか)和尚について詠うのだ
松の木の上に住んだ鳥巣老僧は、寒かったでありましょう。
寂寞たる中で、清らかに生きたその名は、未だに思い起こされてるでありますよ。
悪事をなさず、善事をなせ。(よと、鳥窠和尚は白楽天の問いに答えて言ったのだ。)
悟りを求める実践法は、すべからく、酔吟のうちにあるのだ。

*鳥窠道林(ちょうかどうりん、741-824、唐代 白居易との交流で知られる。198 40の詩 参    
*道林和尚と白楽天の間に交わされたという有名な問答の概要・禅の視点 - life - HPより
 
 白居易来って宗要を問ふ、居易曰く、「禪師の住所甚だ危険なり」と。
 窠曰く、「居士の危険尤も甚だし。」
 居士曰く、「弟子の位、江山に鎮す、何の険なることか之れあらん」と。
 窠曰く、「薪火相交って識性停まらず、険に非らざることを得んや。」
 
「和尚さん、そんなところで坐禅をしていては危ないのではないですか?」
「ワシには、あなたのほうが危険に見えるが」
「私はこの度新しく杭州の長官として赴任してきた白居易です。この辺りはすべて私が治めています。何の 
 危険があるというのでしょうか」
「薪を燃やすかのように、煩悩の炎が燃えあがっておる。どうして危険がないなどということが言える 
 か」(この後に135の詩の詞書がつづく)
*諸悪莫作善奉行:一休さんお気に入りの言葉。
*寂寞(ジャクマク・せきばく):ひっそりしていてさびしいこと。また、そのさま。静かなさま。
*清高:清らかですぐれている・こと(さま)。
*大機:大乗の教えを受け、それを実践する資質。また、その資質を有する者
(´・(ェ)・`)つ

258鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/28(木) 23:38:35 ID:1d4drIFg0
鳥巣和尚の賛じゃな。
寒樹は葉の落ちた樹なのじゃ。

寒樹の上に巣を作る禅翁なのじゃ。
清き涅槃の境地によって高名未だ空しくないのじゃ。
鳥巣禅師は白居易に諸々の悪はなさず、善き事を奉じ行えと説いたのじゃ。
なぜならば悟りへの大いなる機会とは白居易自らの中にあらねばならぬからなのじゃ。

259避難民のマジレスさん:2021/01/29(金) 17:29:17 ID:Mq7fRKlY0
くま訳全面改
第一句:寒樹は葉の落ちた樹の上に巣を作る禅翁なのだ。
第二句:清き涅槃の境地によって高名未だ空しくないのだ。
第三句:鳥巣禅師は白居易に悪事はなさず、善事を行えと説いたのだ。
第四句:なぜならば悟りへの大いなる機会は白居易自らの中にあらねばならぬからなのだ。

一休さんらしいオチと言うべきでありましょうか。
309
賛靈昭女    靈昭女を賛す
笟籬賣却甚風流 さうりまい却して甚だ風流
一句明明百草頭 一句明明たり百草頭
相對無心弄禪話 相對して禪話を弄ずるに心無し
朝雲暮雨不甚愁 朝雲暮雨愁に堪えず

くま訳
賛靈昭女(りんしょうじょ)について詠うのだ。
竹かごを売って生活していた風流な女性である。
森羅万象はありのまま、(仏法の真髄、悟りの法)の一句を遺している
相対して禅話をしても、無心なのだ。
しかし、情を交わすことがあったとしても、ものわびしく感じてしまうであろう。

*靈昭女:(りんしょうじょ・れいしょう)龐居士(ほう)の娘、一家そろって禪宗に在家で歸依、竹漉籬 
 売りて父母を養ふ。 
 150の詩参
*おまけ: 龐居士VS 靈昭女 親子問答
居士一日坐次。問靈照曰。     居士一じつ坐する次いで、りんしょうに問とうて曰く、
古人道。明明百草頭。明明祖師意。 古人いう、明明たり百草頭、明明たり祖師意、と。
如何會。              如何が会す 
照曰。老老大大。作這箇語話。 照曰く、老老大大として這箇の語話をなす。
士曰。你作麼生。 士曰く、なんじはそもさん。
照曰。明明百草頭。明明祖師意。 照曰く、明明たり百草頭、明明たり祖師意。
士乃笑。 士、すなわち笑わう。

細川景一先生訳・解説抜粋
父、龐居士が娘に問いかけます。「古人いう、明々たりひゃくそうとう、明々たり祖師そし意い、如何にえ
すや」。
霊照が答えます。「老々ろ大々、お父さん、いい歳をして何をいっているのですか」。龐居士、驚いた顔を
して問います。「じゃ、お前ならなんという」。
霊照、おもむろに、「明々めいめいたり百草頭、明々たり祖師意」。
龐居士、頷いてにっこり笑います。

答えは一緒です。どう違っていたのでしょうか。龐居士は、ただ古人の言葉として取り上げたにすぎません。
霊照はこの「明々たり百草頭、明々たり祖師意」の語を、自分の見解(けんげ)として呈し、その真意を体得
したのです。そこを看て取って龐居士は頷いたのです。
「明々」とは、はっきり・・、ありあり・・としているさま。「頭」は意を強める助辞。また、文字通りの
頭、先のことと解することもできます。「百草」とは、草花に限りません。森羅万象、山河大地、草芥人畜、
一切の存在と現象を意味します。「祖師意」とは、祖師西来意・・といわれるもので、達磨大師がインドか
ら中国にやって来た本当の意ということから、禅問答の中では、仏法の真髄・・とか悟り・・とかの意に用
いられます。
「明々たり百草頭、明々たり祖師意」。私たちの目前に拡がる山川草木、禽獣、虫魚、瓦礫塵芥(がりゃく
じんかい)等一切の存在と現象一つ一つが、そのまま仏法の真理であり、悟りであるというのです。故に一
草、一木、一匹、一箇の事々に、物々の一つ一つに耳を傾け、目を凝らし、心を通わせ、その真実の姿を収
得しなければならないのです。霊照は父親の手引きで、目前の一草一木の先に輝く仏の命を学び取ったのです。
(´・(ェ)・`)つ

260鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/29(金) 23:39:43 ID:1d4drIFg0
靈昭女は竹かごを売却してはなはだ風流なのじゃ。
一切が明らかになった境地を句に表したのじゃ。
相対すれば無心で禅話を玩弄するじゃろう。
それが一夜の逢瀬で終わったとしても愁いが甚だしいこともないのじゃ。

261避難民のマジレスさん:2021/01/30(土) 17:25:12 ID:VDH662kQ0
くま訳改
第四句:それが一夜の逢瀬で終わったとしても愁いが甚だしいこともないのだ。

不甚(たえず))あまり…でない.あまりはっきりしない,よくわからない.そんなにはっきりしていない.
くまの元訳は、耐えずと誤訳してしまったのである。

310    1/2
大燈國師百年忌 二首
曩覔青銅無半文 さきに青銅をもとむるに半文無し
酬恩一句豈驚群 恩にむくゆる一句あに群を驚かさん
祖師遷化己百載 祖師のせんげすでに百さい
空拝婆年婆子裙 むなしくば年を拝すばしがくん

柳田聖山先生訳
いくら頭陀袋を探しても、半文もないのに
どうして気の利いた詩句を捧げられようか
祖師が亡くなって早や百年が過ぎた年月は、
老婆が年月を数えるように、虚しい限りだ。

くま訳
まずは、銭を探してみたが半文も無いのである
大燈國師の恩に報いたくて一句を詠んでも、多くの人の注意をひくことが出来ない。
大燈亡くなってすでに百年
虚しく老婆の様に年を数える

*半文:斎宮歴史博物館HPによると、平安時代の貨幣価値は、1文24円くらいだそうである。くまより貧 
 乏な一休さんであるが、いずれ、一休文化サロンのパトロン達から何十億円も寄付を集めて、大徳寺を再 
 建するのである。
(´・(ェ)・`)つ

262鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/31(日) 00:18:14 ID:1d4drIFg0
大燈国師の百年忌なのじゃ。

財布の中には半文の銅銭もないというのじゃ。
恩に報いるのに金は無く詩の一句だけであるがそれで群集を驚かすことなどあろうかというのじゃ。
なぜならば祖師の遷化して百年経ったことを祝うというのは、老婆が年古びた腰巻を空しく拝むようなものであるからなのじゃ。

263避難民のマジレスさん:2021/01/31(日) 14:20:37 ID:4O1q8XE60
くま訳改
第四句:それを祝うというのは、老婆が年古びた腰巻を空しく拝むようなものなのだ。

311    2/2
児孫多踏上頭関 児孫多く踏む上頭の関
一箇狂雲江海間 一個の狂雲紅海のあひだ
大会齋還在何處 大え齋かへっていずれのところにか在る
白雲蒸飯五臺山 白雲はんを蒸す五台山

慧智和尚 の解釈
伝統や系譜を肩にかけた頭でっかちの“お偉い”先輩弟子が公案を通るが、頭を捨て去り融通無碍に生きて
こそ本物である。

柳田聖山先生訳
弟子は皆、上へ上へと階段を昇るのだが、
狂雲子のボクだけは、海辺に、河辺に遊
百年祭など、どこで執り行われるのだろう。
白雲が湯気を立ち込めるあの五台山あたり。

くま訳
大燈の弟子たちは、どんどん出世してゆくが、
狂雲は一人海辺、川辺で遊んでいるのである。
大燈百年忌の大会斎はどこで行われるのだろう、
盛大な宴会のための炊飯の湯気が、仏教の聖地五大山を曇らせているであろう。
(´・(ェ)・`)つ

264鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/01/31(日) 23:55:03 ID:1d4drIFg0
孫弟子や曾孫弟子達が墓の中の大燈国師の頭上を踏んづけているというのじゃ。
一休だけは川海に降りて踏んでいないのじゃ。
祖師の没後百年を忌む心がどこにあるのかというのじゃ。
僧達が寄り集まり物見遊山の気分で飯を炊いて食べる蒸気が白雲となって五台山にまで届くというのじゃ。

虚礼を批判して本心を尊ぶ一休らしい二首なのじゃ。

265避難民のマジレスさん:2021/02/01(月) 08:36:51 ID:EjUwW3wo0
くま訳全面改
孫弟子や曾孫弟子達が墓の中の大燈国師の頭上を踏んづけているのだ。
わしだけは川海に降りて踏んでいないのだ。
祖師の没後百年を忌む心がどこにあるのかというのか。
僧達が寄り集まり物見遊山の気分で飯を炊いて食べる蒸気が白雲となって五台山にまで届くのだ。

312
偶作
昨日俗人今日僧 さく日は俗じんこん日は僧
生涯胡亂是吾能 生涯うろん是れわが能
黄衣之下多名利 くわうえのもと名利多し
我要兒孫滅大燈 我は要す兒孫んの大燈を滅せんことを

くま訳
昨日は俗人今日は僧
わしは生涯怪しい奴なのだ。
僧衣を着てると名声や利益が転がり込むのだ
わしには、それが必要なのだ、大燈の後継者と称する奴等を滅ぼす為に。

*俗人:世間一般の人。利益や評判しか考えないような、くだらない人物。風雅の心がわからない人
*胡乱;確かでなく、怪しいこと。うさんくさいこと。
(´・(ェ)・`)つ

266鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/01(月) 23:30:33 ID:1d4drIFg0
昨日は俗人となり、今日は僧となる。
生涯うろんな奴となるのが我が智慧に拠って能くすることなのじゃ。
なぜならば僧の黄衣を着ているだけでも名声や利益が集まってしまうからなのじゃ。
わしには大燈の伝統を継ぐものとしての名声さえも滅することが必要なのじゃ。

一休は僧としての名声や利益さえも不要と言うのじゃ。
見上げたものじゃ。

267避難民のマジレスさん:2021/02/02(火) 18:40:58 ID:1so70pj20
くま訳全面改
昨日は俗人今日は僧
わしは生涯怪しい奴になるのが我が智慧に拠って能くすることなのだ。
僧衣を着てると名声や利益が転がり込んでしまうのだ。
わしは、大燈の後継者ととしての名声さえも滅することが必要なのだ。

313
苦中樂
酒喫三盃未濕唇 酒三盃を喫して未だしんを潤さず
曹山老漢慰孤貧 曹山老漢 孤貧をいす
直横身火宅中看 直に身を火宅のうちに横たえて看れば
一刹那間万刧辛  一刹那かん万ごうのしん

くま訳
酒三盃をあおっても、未だ酔えない。
曹山和尚ならば、既に狐貧の境涯に達していると慰めてくれるだろうが、
直接我が身を娑婆世界に置いてみれば、
この一瞬が、永遠の苦しみのように感じるのだ。

*『無門関』第十則にある「清税孤貧(せいぜいこひん)」
 清税和尚(税闍梨・ぜいじゃり)が、 曹山本寂(ほんじゃく)和和尚に問う。
 「清税孤貧、乞う師、賑済(しんさい)せよ」 私は狐貧(本來無一物)の境涯を得たが、
                       この上、何を会得したらいいのでしょう。
 曹山云く、「・・酒、三盞(さんせん)喫し了って猶お道(い)う、未だ唇を沾(うるお)さず」と。
(´・(ェ)・`)つ

268鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/02(火) 23:04:15 ID:1d4drIFg0
大悟すれば全てで満ち足りている故に三杯の酒を飲んでも唇をぬらす程度にもならぬのじゃ。
曹山和尚ならば真の孤貧の悟りに拠ってわかるのじゃ。
俗世に在ればそれは刹那でも何万年の苦と感じるじゃろう。

269避難民のマジレスさん:2021/02/03(水) 17:53:25 ID:381gV8NM0
くま訳全面改
大悟すれば全てで満ち足りている故に三杯の酒を飲んでも唇をぬらす程度にもならぬのだ。
曹山和尚ならば真の孤貧の悟りに拠ってわかるのだ。
俗世に在れば
それは刹那でも何万年の苦と感じるものなのだ。

314
嫌抹香     抹香を嫌ふ
作家手段孰商量 作家の手段たれか商量せん 
説道談禅舌更長 説道談禅舌更に長し  
純老天然悪殊勝 純老は天然殊勝をにくむ 
時顰鼻孔佛前香 ひそかに鼻くうをしかむ仏前の香

仁先生訳
本当に悟りをえた者の境地を一体誰が思量することができるだろうね。  
悟ったように道を説き、禅をお喋りしている者たちの舌は、長すぎるよ。   
ぼくはね、天然の木偶の坊だからね、くそまじめ精神が嫌いなんだ。 
仏前の抹香臭さには、たまらず鼻を顰めてしまうよ。 

くま訳
禅宗師家が弟子を導く方法について、誰が、評価できるというのだ。
仏道を説き、禅を談じる際にはたいへん饒舌な奴らである。
わしは、ありのままを追求するのだ、本來殊勝な奴は嫌いなのだ。
仏前の抹香臭いには鼻をしかめてしまうのである。
(´・(ェ)・`)つ

270鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/03(水) 21:33:40 ID:1d4drIFg0
大体そのような感じじゃな。

仏陀の法を誰が理解することが出来るのかというのじゃ。
まだ目覚めぬ者が法について長口舌するのじゃ。
わしはあるがままに在ることが法であり、殊更に優れた法を分別するのは悪とするのじゃ。
仏前に供える抹香も多すぎれば臭すぎて鼻を顰めるようなものじゃ。

271避難民のマジレスさん:2021/02/04(木) 06:31:54 ID:z5R.lv3M0
くま訳改
第三句:わしはあるがままに在ることが法であり、殊更に優れた法を分別するのは悪とするのだ。

一休さん、東福寺(涅槃図)広報の詩
315
涅槃像  1/2
作佛被毛無主賓 さぶつひ毛主賓無し
春愁二月涅槃辰 春愁二月涅槃のとき
有情異類五十二 有情異類五十二
混雑紫磨金色身 混雑す紫磨金じきのみ

中瀬祐太郎先生訳・解説
涅槃に入るお釈迦さんと、その周囲で嘆き悲しんでいる動物たちとに、主体も客体もない。
その涅槃の季節は物悲しい春の二月である。
五十二種類にのぼる一切の生きとし生ける者たちが集まって、
美しく輝く御釈迦さんの周囲をうじゃうじゃさわがしく取り巻いている。
〔語注〕
・作佛…佛になること。 ・披獣…獣になること。 ・主賓無し…自他などの相他した区別のない世界。
・五十二…入滅の際し集まった五十二種の衆生。

くま訳
佛も衆生も分け隔て無し
春愁二月涅槃のとき
五十二の人や動物が描かれている
みな集まる、金色の仏

*紫磨金(シマゴン)紫色を帯びた純粋の黄金。紫磨黄金。紫金(しこん)。
*現在では、酬恩庵一休寺に、南北朝、室町、江戸後期に製作された涅槃図が所蔵されており、釈迦(しゃ
か)の命日とされる旧暦の2月15日に涅槃会(ねはんえ)が行われ、涅槃図3幅が特別公開されているの
である。 一休さんが見に行ったのは↓
参)東福寺所蔵の8x15mの巨大図絵 (猫も描き加えられていることで有名)
http://www.rinnou.net/nehanzu/1_kaisetsu/1-1_jinbutsu/shakuson.html 
(´・(ェ)・`)つ

272鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/04(木) 23:28:44 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 お釈迦様が涅槃に入って一切衆生が悲しんでいる図というのじゃ。
 二月の春というのじゃ。
 52種類の衆生が描かれているのじゃ。
 金色の仏陀の体を取り巻いて混雑しているというのじゃ。

273避難民のマジレスさん:2021/02/05(金) 19:16:06 ID:TUYcrgkw0
316
涅槃像  2/2
頭上北洲脚下南 頭上は北洲 脚下は南    
前三三也後三三 前三三や後三三  
逼塞乾坤釈迦像 乾坤に逼塞す釈迦の像    
看來慧日一迦藍 看来れ 慧日の一迦藍   

中瀬祐太郎先生訳解説
頭は北向き足は南向きで、
ごろんと横たわっているお釈迦さんの周りに、あっちこっちにちらほらと数人ずつの者たちがへばりついて
いる。
天地をいっぱいにふさげているこの巨大な涅槃図を、
東福寺の佛殿へ、ぜひ見にいらっしゃい!
〔語注〕
*北洲…来倶盧洲。四大洲のひとつ。 
*前三三後三三…こちらにちらほらあちらにちらほら。『碧巌録』三十五即に出ることば。
*乾抻…天地。 
*慧日…東福寺の山号。(仏語。仏の智慧が煩悩や罪障を除くことを、太陽にたとえていう語。)
    
くま訳
頭は北向き、足は南
前に後ろに、みんないる
天地いっぱいに描かれた涅槃像、
見にいらっしゃい、東福寺へ!
(´・(ェ)・`)つ

274鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/05(金) 23:47:32 ID:1d4drIFg0
なにやら宣伝文句みたいじゃのう。
頼まれて書いたのかもしれん。

北枕でお釈迦様はねているのじゃ。
前後に衆生が居るのじゃ。
画幅一杯に書かれた釈迦像なのじゃ。
寺に来てみるとよいのじゃというのじゃ。

275避難民のマジレスさん:2021/02/06(土) 13:55:58 ID:Az3frn.E0
317
地獄
三界無安 三がい無安  
猶如火宅 猶ほ火宅のごとし
箇主人公 箇の主人公
瑞岩應諾 ずゐ岩應諾す

くま訳
地獄
三界(欲界・色界・無色界)は心休まることなく、
燃え盛る家の中にいるようなものである。
主人公(本来の面目)よぉぉ、と自分に呼びかけて、
瑞岩和尚の真似をして、はい!と応えてしまったら、地獄でありましょう。

おまけ:瑞巌主人公 無門関十二則「瑞巌主人」禅と悟りHPより抜粋
本則:瑞巖彦和尚。毎日自喚主人公。  瑞巌彦(ずいがんげん)和尚、毎日自ら「主人公」と喚び、
   復自應諾。           復(ま)た自ら応諾す。
   乃云。惺惺著。喏。       乃(すなわ)ち云く、「惺惺着(せいせいじゃく)、諾。 
   他時異日。莫受人瞞。喏喏。   他時異日、人の瞞を受くること莫れ。諾諾」。

   瑞巌彦(ずいがんげん)和尚は毎日自分に向って「おい主人公!」と喚びかけ、
   自分で「はい」と答えた。
   その後「おい、しっかりしろよ」。「はい」。
   さらに、「どんな時でも他人に騙されるなよ」と喚びかけ、自分で「はい、はい」と応え自問自答し    
   ていた。
評唱:瑞巌和尚は、自作自演の胡散臭い一人芝居をしているわい。
   一体彼は何が言いたいのだろう。
   さあここだぞ。
   一人は喚ぶ者、一人は応える者。一人ははっきりと目覚めている者、一人は騙されない者。
   しかし、この内どの一人を容認してもダメだ。
   そうだと言って若し瑞巌和尚のまねでもしたら、それこそ野狐禅に陥るだろう。

頌:参禅修行者が真実を識らないのは、分別意識に惑わされるためである。
  過去から積もった人生の苦の本である分別意識(理知脳)を、
  本来の面目だと誤認して「本来人」と呼んではならない。

承福寺HP解説抜粋
この主人公とは、禅で言うところの「本来の面目」ということである。すなわち、
本来の自己、真実の自己ということであり、本来備わる「仏性 (ぶっしょう)」のことである。禅の目指すと
ころは「己事究明」による「見性成仏」である。己の内心を究明し究明して、生まれながらに頂いている仏
性への目覚めに修行の眼目があるのだ。
(´・(ェ)・`)つ

276避難民のマジレスさん:2021/02/06(土) 14:03:50 ID:Az3frn.E0
おまけ・臨済椂 示衆  禅と悟りHPより
大徳、三界無安、猶如火宅。 大徳、三界安きこと無く、猶お火宅の如し。
此不是爾久停住處。 此は是れ汝が久しく停住する處にあらず。
無常殺鬼、一刹那間、不揀貴賤老少。 無常の殺鬼、一刹那の間に、貴賤老少を揀ばず。
爾要與祖佛不別、但莫外求。 汝は祖佛と別ならざんと要せば、但だ外に求むること莫れ。
爾一念心上清淨光、是爾屋裏法身佛。 汝が一念心上の清淨光は、是れ爾が屋裏の法身佛なり。
爾一念心上無分別光、是爾屋裏報身佛。汝が一念心上の無分別光は、是れ爾が屋裏の報身佛なり。
爾一念心上無差別光、是爾屋裏化身佛。汝が一念心上の無差別光は、是れ爾が屋裏の化身佛なり。
此三種身、是爾即今目前聽法底人。 此の三種の身は、是れ汝即今目前聽法底の人なり。
祇爲不向外馳求、有此功用。 祇(た)だ外に向って馳求せざるが爲に、此の功用有り。
據經論家、取三種身爲極則。 経論家に拠らば、三種の身を取って極則と為す。
約山僧見處、不然。 山僧(さんぞう)が見処に約すれば、然らず。
此三種身是名言、亦是三種依。 この三種の身は是れみょう言にして、亦た是れ三種の依なり。
古人云、身依義立、土據體論。    古人云く、「身は義に依って立て、土は体に拠って論ず」と。 
法性身、法性土、明知是光影。    法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ光ようなることを。
大徳、爾且識取弄光影底人、     大徳、汝しばらく光影ようを弄する底の人を識取せよ。
是諸佛之本源、一切處是道流歸舍處。 これ諸仏の本源にして、一切処是れ道流が帰舎の処なり。
是爾四大色身、不解説法聽法。    是れ汝が色身は、説法聴聞する解(あた)わず。 
脾胃肝膽、不解説法聽法。      脾胃肝胆(ひいかんたん)は説法聴聞する解(あた)わず。
虚空不解説法聽法。         虚空は説法聴法する解(あた)わず。 
是什麼解説法聽法          是れ什麼(なに)ものか 説法聴法を解(よく)くす。
是爾目前歴歴底、          汝目前歴歴底(れきれきてい)にして、 
勿一箇形段孤明、          一箇の形段(ぎょうだん)勿(な)くして孤明(こめい)なる、   
是這箇解説法聽法。         是れ這箇(しゃこ)、説法聴法を解(よく)くす。
若如是見得、便與祖佛不別。     若し是(かく)の如く見得すれば、便ち祖仏と別ならず。
但一切時中、更莫間斷、觸目皆是。  但(およ)そ一切時中、更に間断莫く、触目皆な是(ぜ)なり。   
祇爲情生智隔、想變體殊、      ただ情生ずれば智隔たり、相変ずれば体殊(こと)なるが為に、      
所以輪回三界、受種種苦。      所以(ゆえ)に三界に輪廻して、種々の苦を受く。
若約山僧見處、           若し山僧(さんぞう)が見処に約せば、
無不甚深、無不解脱。        甚深(じんじん)ならざるは無く、解脱せざるは無し
(´・(ェ)・`)
(つづく)

277避難民のマジレスさん:2021/02/06(土) 14:06:00 ID:Az3frn.E0
おまけ・臨済椂 示衆  禅と悟りHPより現代語訳
諸君、法華経に「三界は安きこと無し、猶お火宅の如し」とあるように、
火宅のようなこの世界は君達が久しく留まる処ではない。
死の殺鬼は一刹那(せつな)の間に貴賎老若を選ばず生命を奪ってしまうのだ。
君達が祖仏と同じになりたいならば、決して外に求めてはならん。
お前達の本来の心に具わる清浄光がお前達の法身仏(ほっしんぶつ)なのだ。
お前達の本来の心に具わる無分別光がお前達の報身仏(ほうしんぶつ)だ。
お前達の本来の心に具わる無差別光が、お前達の化身仏(けしんぶつ)なのだ。
此の三種の仏身とは、今わしの目前で説法を聴いているお前達そのものだ。
外に向って探し求めないからこそ、このような働きがあることが分かる。
経論の専門家は、仏の三身を仏法の究極だとしている。
しかし、わしの見地からはそうではない。
この三身仏は単なる名前で、仮りの拠り所に過ぎない。
古人も「三身仏は仏教の教義から出てきたもので、
仏国土はその概念から設定したものだ」と云っている。
法身仏とか、法性の仏国土などは、明らかに単なる思想や概念に過ぎない。
諸君よ、その思想や概念をちらつかせている本体を見て取らねばならない。
それこそ諸仏の本源であり、お前達が帰り着くべき家郷なのだ。
お前達の生ま身の肉体は、説法も聴法もできない。
胃や肝臓などの内臓も説法も聴法もできない。
また虚空も説法も聴法もできない。
それでは一体何者が説法したり聴法したりしているのだろうか。
今わしの目前にはっきりと居て、はっきりと肉体としての形体はないが
独自の輝きを発しているお前達そのもの、
それこそが説法したり聴法することができるのだ。
もし、そのように理解できれば、お前達は祖仏と同じだ。
そうなれば朝から晩までとぎれることなく、目に触れるもの全てが肯ける。
ただ情念が起こると智慧は遠ざかり、想念が変化すれば本体も変わるために、
迷いの世界に輪廻して、種々の苦しみを受けるのだ。
もし、わしの見地に立てば、全ては深遠極まりなく、
そのままで解脱しないものは無い」。
(´・(ェ)・`)b

278鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/07(日) 00:16:26 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

三界に安心はなく、火事の家のようだというのじゃ。
この地獄の主人公は瑞岩が答えた者だというのじゃ。
幻想の自我なのじゃ。

279避難民のマジレスさん:2021/02/07(日) 03:15:34 ID:R5IWtaC60
318  1/2
泉堺衆絶交   泉堺の衆と交を絶つ
耽利好名天澤孫 利に耽り名を好む天澤の孫
靈光失脚大燈門 靈光失脚す大燈の門
梨冠爪履人疑念 梨冠くわり人の疑念
伎倆當機報佛恩 伎倆機の当たって佛恩を報ず

泉堺の衆と交を絶つ
名利を上げることを好む虚堂の孫弟子
大燈・關山のように世俗の名利から徹底して超脱する禅風は失われた大燈の門
人に疑われるようなことはしない方が良いのである。絶交しても、
小手先の技で、その場に応じて佛恩に報いることもできるのである。

*靈光:大燈・關山のように世俗の名利から徹底して超脱する禅風のことと解した。
 ・大燈国師:宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)1283-1338、1307、26歳のとき、印可を得た。嗣法の 
 後、約20年草庵にあって京都で乞食行をする。峻烈無比の禅風の故に近づく人も少なかった。 
 ・関山慧玄(かんざんえげん)1277-1361、1329雲門の関字の公案で開悟し、宗峰がこれを証明、1342宗峰 
 (大燈)が推挙し、妙心寺開山となった。禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、枯淡な禅風で修禅に専 
 念した
大燈国師宗峯妙超遺誡
 或いは儻もし一人あり野外に綿絶し、一把茅底。折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に
 己事 を究明する底は、老僧と日々相見報恩底の 人なり。誰か敢て軽忽せんや。勉旃勉旃。
*瓜田不納履、李下不正冠  かでんにくつをいれず、李下に冠を正たださず:人などに疑われるような事 
 はするなということ。『古楽府・君子行』瓜の畑の中で靴を履き直すと、瓜を盗むと疑われる。李すもも 
 の木の下で冠を被り直せば、李を盗むと疑われるということから。
(´・(ェ)・`)つ

280鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/08(月) 00:04:58 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

泉堺の衆は利益に耽り、名を好むのに天澤の孫弟子というのじゃ。
そんな大燈の門からは既に霊光が失脚しているのじゃ。
李下に冠を直し、瓜の畑で履を直すのは人の疑いを招くのじゃ。
技量に拠って佛恩に報いる心構えが大事なのじゃ。

281避難民のマジレスさん:2021/02/08(月) 01:34:58 ID:QDrltYHs0
319 
泉堺衆絶交2/2 
参學之徒無道心 参學の徒道心無し
紅紫朱色似鍮金 紅紫朱色ちゅうに似たる金
忠言可逆人人耳 忠言逆ふべしにんにんの耳
牛馬面前空鼓琴 牛馬面前むなしく琴を鼓す

くま訳 
参禅して仏道を学ぼうとする者に悟りを求める志が無い
紅紫朱色の法衣、真鍮のような偽物の金。名利を求めてるだけである。
忠言しても聞き入れない人々
愚か者達の前でむなしく法話、説教をしたり、音曲の宴に交わったりしていたのである。

*法衣の色:緋色(ひいろ:黄色がかった濃い赤色)や紫色を上位の色と定めていることが多い。
(´・(ェ)・`)つ

282鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/08(月) 23:14:55 ID:1d4drIFg0
泉堺の参学の者には悟りを求める心が無いのじゃ。
知識だけで僧になろうとするのは紅紫朱の色で金に似せようとするようなものじゃ。
忠言は耳に逆らうというのじゃ。
牛馬の面前で空しく琴や鼓を演奏するようなものじゃ。

283避難民のマジレスさん:2021/02/09(火) 12:00:18 ID:TSYbI.Qo0
くま訳改
第二句:知識だけで僧になろうとするのは紅紫朱の色で金に似せようとするようなものなのだ。

320
蓑笠 庵號   さりゅふ 庵号
樵客漁人受用全 せうかくぎょじん受用まつたし
何須曲椂木牀禪 何ぞもちひん曲ろくもくしょうの禅
芒鞋竹杖三千界 ぼうあいいちくぢゃう三千界
水宿風飡二十年 水宿風さん二十年" "蓑笠 庵號

くま訳
みの笠 庵号
きこり、漁師、誰でも受け入れる。
どうして、寺院で踏ん反り返って偉そに説法する禅などを用いるのだ。
わらじを履き、竹の杖をもって放浪の旅をしながら、三千大世界を廻るのだ。
大燈国師は大悟し後二十年間、師匠大應の指示に従い乞食行をしたのだ。

*曲椂(きょくろく):法会(ほうえ)の際などに僧が用いる椅子(いす)。背のよりかかりを半円形に曲げ、
脚をX字形に交差させたものが多い。

この詩は、蓑笠庵紹徳山主と関係あるのか、よく分からないのである。
この詩を印可の証と勘違いしたのでありましょうか?あるいは、 破門はしたものの、友達だったので、励
ましの詩を贈ったのでありましょうか? 
・一休さんと蓑笠庵紹徳山主は、元は仲良しだったのである。真珠庵蔵一休像に付されてる讃は蓑笠庵紹徳 
 山主の求めに応じて、一休自ら付したもの・・・だったらしい。
・しかし、ある時、一休は会下にあった曹洞宗の蓑笠庵紹徳山主を擯斥している。
 一休会下二曹洞ヨリ来ル者、アヤマラサルハスクナシ。中ニモ蓑笠庵ハ、名聞ヲコノム人ニテ、印可ヲノ 
 ソム。又、カタヲカノ太郎左衛門ト云者、仏法名聞アリ。彼等ハ、我死後ニハ、一定、一休ノ印可也ト云
 テ、クチタテヲスヘシ。我ハ華嬰ヨリノ印可ナシ壬華曼モ亦壬言外ヨリノ印可ナシ。サルポトニ、人ヲモ
 印可スルコトアルヘカラス。
 一休の会下において、自分は一休より印可を得たと称する輩が後を絶たなかった(飯塚大展先生)らしい 
 のである。
参)https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/  >>669 崇宗蔵主絶交
(´・(ェ)・`)つ

284鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/09(火) 23:50:11 ID:1d4drIFg0
蓑笠庵は名聞を好み、一休の印可を欲しがったというのじゃ。
それを諌めているのじゃな。

樵も漁師も完全な三昧を受持し、用いているというのじゃ。
何ゆえ豪華な椅子や台が禅に必要なのかというのじゃ。
ぼろわらじや竹の杖で三千世界には十分なのじゃ。
大燈も川に宿り、風に食らう乞食行を悟後に二十年続けたのじゃ。

その孫弟子達に何故名聞が必要なのかというのじゃな。

285避難民のマジレスさん:2021/02/10(水) 04:45:10 ID:4B.mEajw0
くま訳全面改
樵も漁師も完全な三昧を受持し、用いているというのに、
何ゆえ豪華な椅子や台が禅に必要なのか。
ぼろわらじや竹の杖で三千世界には十分なのである。
大燈も川に宿り、風に食らう乞食行を悟後に二十年続けたのだ。

321
謹奉録呈
 一休老和尚座下  
  
  狂風徧界不曾蔵   狂風偏界かつてかくさず
  吹起狂雲狂更狂   吹き起こす狂雲 狂さらに狂
  誰識雲収風定處   誰か識る雲収まり風定まる処
  海東初日上扶桑   海東の初日 扶桑に上がらず
  
  幻住孫眞建 九拝  幻住の孫眞建 九拝

和韻
慙愧聲名不覆蔵 慙愧す聲名の覆蔵せざるを
佯歌爛醉我風狂 佯歌爛醉我れ風狂
吟懐夜夜中峯月 吟懐夜夜中峯の月
幻住僧無三宿桑 幻住の僧に三宿の桑無し

くま訳
謹んで一詩奉る
 一休老和尚様へ
  狂風は、何ものをも隠すことはない
  一休和尚が巻き起こす旋風が、世間に吹きまくる。
  この風が何をもたらし、何時やむのか、誰もしらない。
  大風がやむまで、日本國禅宗は始まらない
 
愧じているのである。名声を隠せないでいることを。
戯れ歌を詠み、飲んだくれるのが、我風狂である。
詩情を湧き立たせる夜毎の山頂の月なのである。
眞建和尚の師匠、幻住道人は桑の木の下に三泊せず、人の恩恵を受けず絶切ったとのことでありますが、か
く在りたいものである。

*和韻(わいん):他人から漢詩を詠みかけられた時などに、それにこたえて、その詩と同じ韻字を用 
 いて詩を作ること。次韻・用韻・依韻の三体がある。
*眞建和尚:中峰明本の法脈を承ける幻住派の僧
*幻住和尚中峰明本(ちゅうほう みんぽん、1263-1323)元代。臨済宗楊岐派の禅僧。智覚禅師。幻住道人。
 南嶽懐譲下の第22世。定住処を持たず、「幻住庵」と名づけた庵を各地に造って、そこに仮寓した。
 1318年には、仁宗によって宮中に召されたが、応じなかったが、金襴の袈裟を下賜され、さらに「師子 
 正宗寺」の院号を賜った。「教禅一致」や「禅浄一体」をも主張している。実際、明本は浄土信仰者で 
 あった。
*遍界不曾蔵:遍界とは遍法界のこと。「遍界、曾て蔵さず」と訓じ、この世界には、何ものをも隠すこと 
 はないこと。道理は常に顕れきっていることから、容易に形而上学的な思考を弄ぶことを諫めた言葉。
*腹蔵・覆蔵:心の中に秘め隠すこと。
*佯:いつわり・さまよう・あざむく
*爛:ただれる・あふれる
*吟懐:詩歌を作りたいという思い。また、 思いをこめた詩歌。
*韜晦(とうかい):才能・地位などを隠し、くらますこと。姿を隠すこと。行くえをくらますこと。
*僧は桑の木の下に三泊しない。人の恩恵を受けず絶ちきるの意『後漢書』裏楷伝
(´・(ェ)・`)つ

286鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/10(水) 22:09:44 ID:1d4drIFg0
一休と弟子の交流じゃな。

狂風一休は衆生界に隠れも無い名僧というのじゃ。
その吹き起こす名声の風は雲を起こし更に吹きまくるのじゃ。
誰がその雲が収まり、風の定まるところを知るじゃろうかというのじゃ。
海東のこの日本に初めて日が昇ったのじゃ。

自分の名声が隠せないことを恥じるというのじゃ。
詩を詠い酒に酔う我は風狂であるのじゃ。
夜中に峯月を詠む心地なのじゃ。
幻住僧の如く桑樹に三日と宿らずの境地なのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2021/02/11(木) 11:19:25 ID:8lHBfo7Y0
読み下し訂正; 扶桑に上がらず⇒扶桑にのぼる
くま訳全面改
眞建より一休和尚へ
狂風一休は衆生界に隠れも無い名僧であります。
その吹き起こす名声の風は雲を起こし更に吹きまくるでありましょう。
誰がその雲が収まり、風の定まるところを知ることが出来るでありましょうか。
海東のこの日本に初めて日が昇ったのであります。

和韻 一休より眞建和尚へ 
自分の名声が隠せないことを恥じるのである。
詩を詠い酒に酔う我は風狂なのである。
夜中に峯月を詠む心地なのである。
幻住僧の如く桑樹に三日と宿らずの境地なのである。

322
示衆
参玄衲子道難成 参玄衲子みちじゃうじ難し
但願皈依常不輕 但だ願はくは常不きゃうに帰依せんことを
一片吟懐向誰解 一片の吟懐誰に向ってか解かん
楚雲湘水十年情 楚雲湘水十年の情

くま訳
弟子達に示す
仏道修行を完成させるのは難しい。
只、願わくは、人皆成仏するとして、会う人毎に軽んずることなく礼拝した常不軽菩薩に帰依したまえ。
この一片の詩情を誰に向って解いていると言うのか、まさに君達に向かって説いているのだ。
雲水行脚十年、師に法を追い求める情を詠っているのだ。

*参玄衲子:玄玄微妙の法を實参實究する人に意、仏道修行の人のことなり。(禅学大成脚注)
*楚雲湘水:楚山の雲、湘江の水で、楚雲湘水の辺りを行遊したこと。行脚多年、善知識に法を求むる情を 
 いふ。(禅学大成脚注)
*常不軽(ジョウフキョウ):「法華経」常不軽菩薩(ぼさつ)品に出てくる菩薩。人はみな成仏するとして、
 会う人ごとに軽んずることなく礼拝したという。
*善知識・善智識:善法、正法を説いて人を仏道にはいらせる人。外から護る外護、行動を共にする同行、 
 教え導く教導の三種を数える。禅宗では師僧を尊んでいうことがある。
(´・(ェ)・`)つ

288鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/11(木) 22:04:08 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

仏道は成り難しというのじゃ。
ただ不軽菩薩に帰依せんことを願うというのじゃ。
一片の吟懐は誰に向かって説くのかというのじゃ。
十年師を求めてさまよう者に情けをかけたのじゃ。

289避難民のマジレスさん:2021/02/12(金) 03:16:20 ID:xZ7o5x6w0
乙石御用人・・・何者でありましょうか?やんごとなき武家のお嬢様でありましょうか?
323 
乙石御用人向妙勝寺眞前髪置賀頌 乙石御用にん、妙勝寺のしんぜんに向かひ、髪置の賀頌 
三歳生年小女兒 三歳のせい年小女児
終吾門老比丘尼 つひに我が門の老比丘尼、
壽算婆裙錦延錦 寿算婆くん綿延の錦
孾孩垂髪白如絲 えいがい髪を垂れて糸よりも白し

くま訳
乙石御用人、妙勝寺の前で髪置の儀式の賀頌を詠む。 
三歳の女児、
いずれ報恩庵の老比丘尼となり、
長寿めでたく、裾から錦の衣が見えるまで。
赤ん坊の頭に白髪になぞらえた白糸などを置いて祝う。

*妙勝寺:酬恩庵の旧称
*髪置(かみおき):幼児が頭髪を剃ることをやめて伸ばしはじめるときの儀式。髪立,櫛置などともいう。
 平安時代末期から行われた。綿帽子,白髪になぞらえた白糸などを頭上に置いて祝う。公家では2歳で,
 武家では3歳の 11月 15日にこれを行い,5〜6歳になると髪削 (かみそぎ) ,深曾木 (ふかそぎ) と 
 いって将来の生髪を祝う儀式を行う習慣があった。
*嬰孩(えいがい):赤ん坊。ちのみご。嬰児 (えいじ) 。
*垂髪(すべらかし);女性の髪形の一。前髪を膨らませ、後頭部でそろえて束ね、背中に長く垂らしたもの。 江戸初期まで成人の女子の髪形であったが、のちには高貴な婦人の正式な髪形となった。さげがみ。すべ 
 しがみ。すべしもとどり。おすべらかし。
*綿延(めんえん): 長く連なり延びること
(´・(ェ)・`)つ

290鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/12(金) 23:47:29 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

三歳の女子が我が門の老比丘尼になればよいというのじゃ。
年を数えて老婆の腰巻が伸び、幼子の垂れ髪は糸の如く白くなるまでというのじゃ。

291避難民のマジレスさん:2021/02/13(土) 00:26:59 ID:td4//x260
324

暫時此地弄精魂 暫時此の地に精魂を弄す
臨済後身興祖門 臨済の後身祖門を興す
美譽芳聲世間外 美誉芳声世間のほか
五雲天上月林孫 五雲天上月林の孫

くま訳
ほめたたえる
しばらくの間この地で修行するのである。
臨済の後継者(月林道皎)が宗門を興した
京都五山の名誉や評判などは俗世間での話である。
天女の住むような寺で、月林道皎の孫弟子(山名宗全)が再興したのだ。

*ここで詠まれてるのは、京都五山の一つ長福寺と解してみた。
 長福寺:最初は天台宗に属していたが、1339年、月林道皎が入寺して臨済宗の寺院に改められ中興され 
 た。応仁の乱で焼失するが、山名宗全によって再興された。
 参)https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>7 184・>>70 212.>>183  
 264
*五雲:五色の雲・青黄赤白黒。五色を備えた雲は、古来仙女の住むところうとされ、慶事の言葉。
*弄精魂:通常は妄想分別によって精魂を消し尽くされることを意味している。しかし、道元禅師は精魂を 
 尽くして日常底に修行弁道する意味であるとした。
*月林道皎(げつりん どうこう/どうきょう1293-1351))松源派の僧侶。普光大幢国師。大徳寺の宗峰 
 妙超に学ぶ。後に花園上皇の帰依を受けるが、1322年に元に渡り、文宗皇帝から仏慧智鑑大師の称号を
 贈られたが、師の古林清茂が没した翌年の1330年に帰国した。梅津清景の庇護によって天台宗の寺院で 
 あった長福寺を与えられ、これを禅寺に改めて開山となった。
(´・(ェ)・`)つ

292鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/13(土) 23:06:05 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。
長福寺に滞在したのじゃな。

しばらくこの寺で精魂をいじるのじゃ。
臨済の後進の者がこの寺を興したのじゃ。
世間の名声とは無縁の寺なのじゃ。
五雲天上の者の如き月林の孫弟子なのじゃ。

293避難民のマジレスさん:2021/02/14(日) 07:40:37 ID:phtihVVY0
325
心念所作
三十年來江海情 三十年來江海の情
空吟野水釣船横 空しく吟ずや水てう船の横たはるを
偶然我負子陵業 偶然に我子陵が業にそむく
興在詩非勦絶名 興は詩に在りてさう絶の名にあらず

くま訳
心のはたらきと所作(の我が実際)
三十年来俗世間を離れていた心のはたらき。
空しく吟じ、野川の釣船で横たわり過した。
たまたまわしは、子陵の生き様に反することになった。
詩作は楽しみであり、滅ぼしつくすものではないのだ。

*四念住;肉体が不浄のものであると知る「身念住」・感覚されるものは畢竟苦であると知る「受念住」・
 心は無常であると知る「心念住」・事物は無我であると知る「法念住」。常楽我浄の四顚倒を退治する修
 習法
*隋自意三昧
*江海:① 川と海。入江と海。② 俗世間から離れた場所。③ 量が莫大なことをたとえていう語。
*情󠄁:1.人間の心のはたらき。こころ。きもち。意地。2.快・不快を主とする意識の主観的側面。
*勦絶(ソウゼツ):滅ぼしつくすこと。皆殺しにすること。勦滅(そうめつ)。
*子陵:厳光(げん こう)紀元前39 -41)後漢時代初期の隠者・字は子陵、若くして才名あり、のちの光武
 帝となる劉秀と同門に学ぶ。劉秀が皇帝となると、厳光は姓名を変えて身を隠した。光武帝はその才能を
 惜しみ行方を捜させたところ、後斉国で羊毛の皮衣を着て沢の中で釣りをしているところを見いだされて、
 長安に召し出された。厳光は細かい礼に従わず、光武帝はそれでも「狂奴故態を改めず」と笑っただけ 
 だった。それどころか自ら宿舎に足を運んで道を論じたという。ある夜、帝と光がともに就寝し、光が帝 
 の腹の上に足を乗せて熟睡し、翌日大夫がその不敬を奏上して罰しようとしたが、帝は「故旧とともに臥 
 したのみ」とこの件を取りあげなかった。諫議大夫に挙げられたがこれを断って富春山で農耕をして暮ら 
 し、その地で没した。
(´・(ェ)・`)つ

294鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/14(日) 23:37:25 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

三十年来野に暮らしたのじゃ。
川の釣り船の横で空しく詩を吟じていたのじゃ。
偶然子陵とは別の生業をすることになったのじゃ。
しかし、詩は楽しいからやめないのじゃ。

295避難民のマジレスさん:2021/02/15(月) 00:12:23 ID:e8HPhVb.0
くま訳改
第二句:野川の釣り船の横で空しく詩を吟じていたのだ。
第四句:詩は楽しいからやめないのだ。

326
佛誕生
三世一身異號多 三世一身異号多し
何人今日定誵訛 何びとかこんにちごうがを定めん
娑婆来往八千度 娑婆来往八千度
馬腹驢胎又釈迦 馬腹ろたいも又釋迦

くま訳
法報応(ほっぽうおう三身)の仏は一つであるが、異なった多くの呼ばれ方をする。
誰が、今日、この仏の現われの入り組んで、むつかしきを正しく理解できているのか
衆生教化のために、この世に来生されたことが、すでに八千遍に達すると、言われるのだ。『梵網経』
馬や驢馬の子も、万物ありのままが釈迦なのだ
あるいは、見るロバも見られる驢馬も又釈迦というのが、法身のたとえである。『従容録』第五二則

*誵訛(ごうが):聱訛とも書く。いりくんで、むつかしきこと
*三世:有為の事物は一刹那の間も止まらず、生じ終わると直ちに滅す。よって来生を未来世となし、生じ 
 たるを現在世となし、滅し終えたるを過去世となす。仏教では、時間を実体的に捉えず、つまり実在する
 ものとは見ない。変化し移ろいゆく現象や存在の上で、仮に3つの時間的な区分を立てるに過ぎないとす 
 る。
*三身:      [説明]                   [三徳]  [仏 / 如来] 
法身(ほっしん) 宇宙の真理、仏性。 法身 毘盧遮那仏
報身(ほうじん) 仏性のもつ属性、はたらき。修行して成仏する姿。般若 阿弥陀仏
応身(おうじん) この世において悟り、人々の前に現れる釈迦の姿。解脱 釈迦牟尼仏

*井の驢を覷るが如し:『従容録』第五二則「曹山法身」に出てくる言葉で、仏の真法身は虚空のようであ 
 るが、物に応じて形を現す。その様子を徳上座が「驢の(驢馬が)井(井戸)を覷(見)るが如し」と 
 言ったのに対し、まだ不十分だとして、曹山禅師が言った言葉が先の「井の驢を覷るが如し」
 驢馬にも目があるので井戸を見れば、主観(見るもの)と客観(見られるもの)とが成立する。しかし、 
 井の驢を覷るが如しでは、目のない井戸が見るとは、無心で見るあり方を言っていると考えらる。
(´・(ェ)・`)つ

296鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/15(月) 23:39:44 ID:1d4drIFg0
仏は三世に一つの身でるが名前が違うというのじゃ。
誰がその正邪を定められるのかというのじゃ。
八千度も娑婆世界に生まれかわって法を説いているのじゃ。
馬もロバも皆釈迦というのじゃ。

三世の娑婆世界も一切衆生も皆仏ということじゃな。

297避難民のマジレスさん:2021/02/16(火) 00:38:02 ID:yHQUUtXM0
一休さんの元気がでる説法!
327
送僧行脚    僧の行脚を送る
参禪学道扣玄人 参禪学道玄をたたく人
世界蒲鞋脚下塵 世界のほあい脚下の塵
象骨老師三九旨 象骨の老師さんくの旨
常成飯頭苦心身 常に飯ぢゅうとなって心身を苦しむ

くま訳
行脚に出発する僧を見送る
参禪して、仏道を学び、奥深い道理を尋ねる人よ、
世界は足下のわらじの塵である。
象骨山に崇聖寺(すうしょうじ)を開いた雪峰義存は、投子大同(とうすだいどう)、洞山良价(とうざ
ん・りょうかい)にそれぞれ三度九度会いに行ったがなかなか大悟できなかったが、徳山の下で大悟した。
その間常に禅寺の食事係となって心身を苦しめたのである。

*玄:奥深い道理であり、あらゆる事物の根本の道。
*扣(たたく):①ひかえる。ひきとめる。 ②たたく。うつ。 ③さしひく。へらす。 ④尋ねる。問う。
*雪峰義存禪師922-908:象骨山(ぞうこつざん。雪峰山)に崇聖寺(すうしょうじ。雪峰寺)を開いた。 
 三度、投に到り、九度洞山に上りて、参學甚だ黽(つと)むるも、縁遂に徳山に契(かな)ひ、祖の法を嗣 
 承す。善知識を求むるに汲々たるをいふ。
 洞山の命令で徳山宣鑑 に師事して、巖頭に諭されて大悟した。巖頭、欽山と3人で巡歴の旅が有名。
*飯頭(ハンジュウ・はんとう):禅寺で、粥飯(かゆめし)を大衆(だいしゅ)に供する役僧.
(´・(ェ)・`)つ

298鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/16(火) 23:10:48 ID:1d4drIFg0
大体その通りじゃな。

参禅し道を学び玄を尋ねようとする者は、世間を草履についた塵の如く捨てるのじゃ。
象骨の老師もかつては師匠に三度九度と道を尋ね、常に飯係となって苦心したのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2021/02/17(水) 00:14:55 ID:sz5TEFYA0
くま訳改
第二句:参禅し道を学び玄を尋ねようとする者は、
第三句:世間を草履についた塵の如く捨てるのだ。

水葬になった庵主さんを探してみたが不明でありました。
328
學林宗参庵主水葬
参禪学道閙忽忽 参禪学道ねうそうそう
六十年來任變通 六十年來變通に任す
流水千江機輪轉 流水千かう機輪轉ず
閻浮樹下月如弓 閻ぶ樹げつき弓の如し

くま訳」
學林の宗参庵主が水葬された。
参禪学道の弟子達は騒がしくしているが、心空ろなようである。
六十年來柔軟に対処してきた方であった。
川の流れにより回る水車のように、鋭敏な禅機を働かせてきた方であった。
春の三日月を見ながら古人を偲ぶ。

*閻浮樹:印度の所在にある喬木にして、四五月頃花開き、深紫色の果を結ぶ。閻浮提州の北方に産す。
*閙(ニョウ・ドウ・ トウ・さわが-しい)
*忽忽(こつこつ・そうそう):①速やかなさま。たちまち変わるさま。②心がうつろなさま。 「心も-と 
 してどこへ行くやらん覚えぬやうなり③我を忘れて、うっとりしているさま。
*変通:その場その時に応じて、自由自在に変化・適応してゆくこと。
(´・(ェ)・`)つ

300鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/18(木) 00:51:56 ID:1d4drIFg0
どこかの庵主を水葬にしたのじゃな。

葬式に集まった僧達が騒然としながらも失意におちているのじゃ。
六十年来臨機応変に生きてきた者だったのじゃ。
流れる水が千の川を潤し水車を回すようなものじゃ。
閻浮樹の下で月が弓の如くであるのを見るのじゃ。

301避難民のマジレスさん:2021/02/18(木) 01:14:29 ID:NK3zmx/U0
329    1/2
示榮衒悪知識 二首 榮衒の悪知識に示す
参禪婆子楊花帳 参禪の婆子楊花のちょう
入室美人蘭蕙茵 入室の美人蘭けいのしとね
近代箇邪師過謬 近代箇の邪師の過びう
馬牛漢非是人倫 馬牛の漢是れ人倫にあらず

雑学の世界HP訳・解説より
女をまっ白なとばりの中に入れて参禅をさせ、
香りのいい美しい敷物をしいた室に美人を入れて、これまた参禅をさせる。
近頃のこの邪悪老師の間違ったやり方は、
馬や牛と同じであり、人間ではない

「楊花」とは、柳絮(りゅうじょ)と同じく、中国の柳の花であるが、ここではまっ白な幔幕(まんまく)を形
容したものである。
蘭蕙 とは、元来二種の香りのいい草で、それを一語にすると、漢詩文では、よく女性のイメージとして使
われる。
これは、第一句・第二句で示されるような、女性を参禅させることに対して、養叟を痛烈に攻撃している詩
である。


くま訳
名利を求め、邪法を説く悪僧に示す
参禪する女を、白いとばりの中さそい
香のいい部屋に美人を入室させる
最近この邪師が犯しているあやまちは、
畜生同然であり、人倫に反しているのである。

*栄衒:自分をひけらかして売り込み栄華を求めること。虚栄心、支配欲のかたまり。名聞利養に邁進する 
*悪知識:悪法・邪法を説いて悪に誘い込む人
*楊花(ようか):柳の花。また、なよやかな美女をたとえていう。
*蘭蕙(ランケイ):蘭と蕙。ともに香草で、賢人君子にたとえられる。
(´・(ェ)・`)つ

302鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/19(金) 00:20:55 ID:1d4drIFg0
悪い僧に示すのじゃな。

参禅する女子を楊花の帳に入れ、更にその美人を褥に入れるというのじゃ。
そのような最近の邪師の過ちは 畜生の如く人倫にもとるというのじゃ。

303避難民のマジレスさん:2021/02/19(金) 02:42:34 ID:8lHBfo7Y0
330   
示榮衒悪知識 二首 2/2
棒心自稱法王身 棒心自ら称す法王身
世上弄嘲徒怒嗔 世上弄嘲いたずらに怒しんす
一箇猢猻没巴尾 一箇のこそんはびなし
出頭大用現前人  出頭す大用現前の人

くま訳
ボウシン(職人の世話役)みたいな奴が、自称法王身とは・・・
世間からはあざけられて、本人はかんかんである
尻尾の無くした猿が、
大徳寺大用庵にて、人前に現れるのである。

*棒心:職人を指揮するもの。「世話役」
*猢猻(こそん);猿の異称。
(´・(ェ)・`)つ

304鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/20(土) 00:14:00 ID:1d4drIFg0
世間のちょっとばかり気の利いた者が法王と称するのじゃ。
世間の者は嘲笑い、怒り狂うのじゃ。
一匹の猿から尻尾を取れば、そのような者が忽ち現われるじゃろぅ。

305避難民のマジレスさん:2021/02/20(土) 17:13:16 ID:.7dvj9vM0
くま訳改
第二句:世間の者は嘲笑い、怒り狂うのだ。
第三句:一匹の猿から尻尾を取れば、
第四句:そのような者が忽ち現われるのだ。

331   
思舊齋 二首 1/2 旧齋を思ふ
山陽長笛子雲吟 山陽の長笛子雲が吟
蜜漬茘子素老心 蜜茘子にひたす素老の心
熟處三年六十劫 熟處三年六十劫
一聲望帝月西沈 一聲の望帝月西に沈む

くま訳
故人を偲ぶ詩に付いて思う。 
向秀が詠んだ、山陽長笛・故人を偲ぶ詩は、漢の子雲の詩に基づいているのである。
そのままでも美味の茘子を蜜漬にするような実に度が過ぎた技巧である。
詩文の奥義は大昔からあるのだ。
望帝が杜鵑に生れ変ったことが詠まれた時代(4‐5千年前)から、月は西に沈むのだ

*齋:朝の粥に対し、午時の食をいふ。僧侶に食事を供養するをいふ。又転じて亡霊の為に読経するこをも 
 いふ。(禅学大成脚注)
*山陽長笛:晋書向鷹傳に、「秀、山陽の舊鷹を經、隣人笛を吹くものあり、聲を撥すること寥亮(りょう 
 りょう)たり、秀、乃ち思舊賦を作る」と。(禅学大成脚注)
 笛の音を聞いて故人を偲ぶ詩のパターンがあるらしい。
*寥亮(りょうりょう):声や音が澄みとおるさま。声高くほがらかにひびくさま。
*向秀(しょう しゅう:三国時代の文人。三国時代(黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から 
 西晋による中国再統一(280年)まで)
*子雲:揚雄、紀元前53年-18年漢の文人・学者(甘泉賦、長揚賦、逐貧賦)
*熟処:① よくなれたところ。住みなれた場所。② 学芸、武術などの奥深い肝要なところ。奥義
*望帝杜宇(ぼうていとう)は、古代の蜀の第4代君主。死後も民に慕われ、2月に鳴くホトトギスは、望
 帝の魂が鳴いて教えてるのだと語り継いだ
*古蜀:約5000年前から約3000年前頃に栄えた。司馬遷の『史記』では、紀元前316年に秦の将軍司馬錯
 に滅ぼされた

向秀は、竹林の七賢と呼ばれ、荘子の注釈書を書いて絶賛された。隠者仲間が「無用な人間である」という
かどで処刑された途端、役人になり、その変節を笑われると、「隠者は気難しいだけで聖王の心に及びませ
ん。敬慕するに足りましょうか。」といった人とのこと。
(´・(ェ)・`)つ

306鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/20(土) 23:40:39 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

山陽の長笛は子雲が吟じたのじゃ。
その味はれいしの実を蜜につけて素の味わいを失くしたようなものじゃ。
三年もつけて六十劫も漬けたような味を出そうとしているのじゃ。
ほととぎすが鳴けば月は西に沈むというように自然をありのままに詠むがよいのじや。

307避難民のマジレスさん:2021/02/21(日) 00:36:30 ID:hMUY06UY0
くま訳全面改
山陽の長笛は子雲が吟じたのである
その味はれいしの実を蜜につけて素の味わいを失くしたようなものである。
三年もつけて六十劫も漬けたような味を出そうとしているのだ。
ほととぎすが鳴けば月は西に沈むというように自然をありのままに詠むがよいのだ。

332   2/2
思舊齋 二首
昔年黄犬與蒼鷹 そのかみのくわう犬と蒼よう 
苦楽悲歓地獄能 苦楽悲歓地獄の能
欺得楊岐吾屋壁 楊岐を欺き得たりわが屋壁
乾坤一鉢一衣僧  乾坤一はつ一えの僧

くま訳
昔は黄犬と蒼鷹(失脚引退と鷹狩りに行けるほどの栄華)といわれた。
楽しみを知った上での苦しみ、歓びを知った上での悲しみは、地獄の思いを際立たせる事の譬えである。
わしは庵のボロさにおいて、楊岐を凌駕することが出来たのである。家のボロさこそ、誉なのである。
天下に一鉢一衣僧である。

*從(たと)い黄を牽くも蒼を手にするも:黄犬:黄犬を牽く・・故郷に退き隠栖のみとなること
 手蒼:蒼鷹を手にする・・鷹狩りができるような高貴なみとなること。『史記』に秦(前 221~前 206)の 
 時代の表現
*欺く:比較する対象を見くだしてもよいほどである。その状態の度合が高いとされるものと比べても、そ 
 れよりまさる、という意に用いる。…とまぎれるほどである。…に劣らない。…をしのぐ。
(´・(ェ)・`)つ

308避難民のマジレスさん:2021/02/21(日) 13:42:32 ID:.biVZzmM0
鬼和尚、森さんが「女性が場にいるとダラダラする」旨の発言をして会長辞職されましたが、蓮舫議員は「夫はペット以下」と発言したのにもかかわらず辞職をしていません
SNS上ではフェミスニトが意気揚々としている昨今ですが、鬼和尚は今の日本は男女平等と言えいますか?また、そうでないのならば、男女どちらが優勢ですか?

309鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/22(月) 00:17:58 ID:1d4drIFg0
昔は高僧とされたり、隠遁したりといろいろあったのじゃ。
苦から楽へ、悲哀から歓楽へと移り変わるのは地獄なのじゃ。
今は楊岐も認めずにはいられんほどの我が屋なのじゃ。
一つ衣の僧の一つの鉢に全てが入っているのであるからのう。

310鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/22(月) 00:21:17 ID:1d4drIFg0
>>308 それは人によって違うのじゃ。日本は無いのじゃ。
 森さんの頭の中はまだ平等ではないのじゃろう。
 斉藤さんは自分のほうが偉いと想うのじゃ。
 しかし今も旦那のDVに苦しめられる弱い女子も多いのじゃ。
 おぬしはそのようなものを助けてやると善いのじゃ。

311避難民のマジレスさん:2021/02/22(月) 00:30:08 ID:84uyzmOA0
くま訳改
第四句:一つ衣の僧の一つの鉢に全てが入っているのである。

333   1/2
題養叟大用庵 二首 養叟の大ゆう庵に題す
叢林零落殿堂踈 叢林零落して殿堂疎なり。
臨済宗門破滅初 臨済の宗門破滅のはじめ。
大用栴檀佛寺閣 大用は栴檀佛寺閣。  
崢嶸林下道人居 さうくわうたり林下道にんの居

『雑学の世界』HP先生訳
禅道場は皆おちぶれて、仏殿法堂の諸伽藍は、まばらである。
臨済宗の宗門は、いよいよ破滅し始めた。
しかし、大用庵のみは立派な伽藍を保っている。
ここは、一段と高くそびえたわが大徳寺内の求道人の住いなのだ

くま訳
禅宗寺院は零落し、寺に訪れる人もまばらである。
臨済宗門の破滅の始まりである。
大用庵は栴檀の立派な建物である。
高くそびえるその建物は修行僧養叟の住まいである。

*崢嶸(ソウコウ):高くけわしきことの形容(大成脚注)
(´・(ェ)・`)つ

312避難民のマジレスさん:2021/02/22(月) 10:21:59 ID:Zf21K71k0
>>310 失礼ですが、斉藤さんとはどちらの斉藤さんのことでしょうか?

313避難民のマジレスさん:2021/02/22(月) 13:26:56 ID:r9st524s0
すみません蓮舫さんの苗字は齋藤さんでしたね

314鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/22(月) 23:15:26 ID:1d4drIFg0
>>311 それでよいのじゃ。

禅の寺は零落して人もまばらなのじゃ。
臨済宗の門は破滅し始めたのじゃ。
しかし大用庵は立派な寺なのじゃ。
高くそびえた道人の居むところなのじや。

>>312>>313 そうじや、斉藤さんなのじや。

315避難民のマジレスさん:2021/02/23(火) 02:03:17 ID:DNJTu0hM0

334    2/2    
山林富貴五山衰 山林は富貴、五山は衰う、
唯有邪師無正師 ただ邪師のみあって正師なし。
欲把一竿作漁客 一竿を把って漁客と作らんと欲す、
江湖近代逆風吹 江湖近代逆風吹く

『雑学の世界』HP先生訳
この頃、山林派は富貴となり、五山は衰微している。
ただよこしまな師家ばかりおって正しい師家はいない。
そこで、自分は竿をかついで釣人となろうとするのだが、
川や湖ではこの頃逆風が強く吹くので、釣人もなかなか思うようにゆかない

くま訳
山林派は富貴になり、五山派は衰退しているのだ。
ただ、山林派には邪師のみがいて、正師がいないのである。
わしは、竿を握り釣り人になりたいのであるが、
最近の湖川には逆風吹くのである。わしの話に耳を傾けるものはいないのだ。
(´・(ェ)・`)つ

316鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/23(火) 23:19:24 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

山林は富貴になり、五山は衰えたのじゃ。
ただ邪師あり、正師はいないのじゃ。
竿でも手にして漁師に成りたいのじゃ。
川や湖では近頃逆風が吹くのであるがのう。

317避難民のマジレスさん:2021/02/24(水) 00:40:26 ID:QQdhDUfw0
336
賀大用庵養叟和尚 大用庵養叟和尚、
賜宗慧大照禪師號 宗慧大照禪師號をたまふを賀す
紫衣師号奈家貧 紫衣師号、家の貧をいかんせん
綾紙青銅三百緡 りょうし青銅三百ミン
大用現前贋長老 大用現前がん長老
看来真箇普州人 看来たれば真箇普州の人

『雑学の世界』HP先生解説・訳 334のつづき
その後、政治的手腕に恵まれ、渡世(とせい)の才幹(さいかん)にも人一倍たけていた師兄養叟は、さらに商
業的教団演出者としての離れ技を出して、康正3年(1457)9月20日「宗恵大照(そうえだいしょう)禅師」と
いう号を手に入れた。没後の追賜は別として大徳寺の住持に禅師号を特賜されたのは、養叟が初めてである。
すなわち、彼は極度に衰微した大徳寺を紫(し)衣(え)勅許の出世道場にしあげたのである。あくどい手段で
獲得した虚名に対し、一休は「大用庵養叟和尚、宗恵大照禅師の号を賀す」という詩を以て、次のように吟
じた。
「緡」は、お金を通す糸である。「普州人」は、昔四川省の普州には盗人がたくさんいたと言われる。一休
から見れば、

紫衣や禅師号をいただいたのはいいが、肝心の養叟一家の禅風の貧しいことはどうだ。
禅師号の綸旨(りんじ)は、青銅の三百緡にも等しい価値があるそうだなあ。
にせ住職のこのたびのはたらきは、面目躍如たるものがある。
よく見たら、この老師は本物の普州の盗人である。

くま訳
紫衣師号を賜っても、禪風の貧しさはどうにもならんのである。
賜った綾紙(綸紙及び賜物)は青銅三百緡の価値があるそうではないか。
偽せ長老の面目躍如であるな。
今まで見てきたが、お前は真の盗賊であるな。

*宗恵大照禅師:養叟 宗頤(ようそう そうい)の諡号
*綾紙青銅三百緡:綸紙及び賜物をいふ、緡は銭を通す絲なり
*普州:支邦の普州は昔盗賊の集會する所として傳ふ、故に普州の人とは盗賊を意味するなり。にせ長老は
 えらい儲けものをした、丸で泥棒のようなものであると、還って大用庵の大用たる活眼の人自ら之を知る
 のみと、一休なかなかのすれ者なり。
*大用:1 大きな作用。大事な働き。2 大きな効用・効果。
*1453年8月、大徳寺山内の諸堂が焼失。浴堂と山門の庇、妙意庵と大用庵以外はことごとくを焼失。 
 大用庵を開創した養叟宗頤は、大徳寺再興に着手している。まもなくして法堂と方丈がなる。そして大用
 庵の建物を移し、雲門庵を再建している。被災5年後の1457年、宗頤は、後花園天皇より宗慧大照禅師
 の号を賜っている。これは大徳寺再興の功によるものだと考えられている。
(´・(ェ)・`)つ

318避難民のマジレスさん:2021/02/24(水) 00:47:06 ID:QQdhDUfw0
おまけ 『雑学の世界』HP先生解説・訳 のつづきである。この後、329 330 へつづくのである。
それだから、一休は養叟の号「宗恵大照」の発音を似せて、彼を「宗穢大焼」禅師と称した。
一休が、これほど師兄養叟を痛烈に攻撃するのは、その旺盛な名誉心への反感だけでなく、またその悪劣な
商法を髄から悪むからである。「得(とく)果(か)投(とう)機(き)多く人に教ふ、青銅の定価両三緡(古則公
案を種々人に教え、その代償として定価二、三緡をとる)」「金を擢(つか)む手段機輪転ず、君子果(か)然
(ねん)多く財を愛す(養叟の金をつかむ手段は、あたかもバネの輪が転ずるようにすばやい。君子ははたし
てたいそう財を愛せられるわい)」等と、一休はその悪行(あっこう)を次々に摘発し、糾弾した。彼は、
すっかりお金に目がくらんで、その儲けに疾(と)うに手段を選ばない牛馬のような人非人に堕落してしまっ
たため、一休はさらに、「栄衒(えいげん)の悪知識(あくちしき)に示す」(2首)をもって、その憤慨を噴き
出した。

↓は、330の詩(>>303)の際に省略した、訳及び解説である。

人の真似をすることしか知らぬのに、自分は一番偉い僧だといっている。
世間がそれをあざけり笑っているのに対して、ただぷんぷん怒っているのみだ。
とりえのない一匹の猿がしゃしゃり出て、
大機大用のお師(し)家(け)様だといばっている
と、一休は詠んでいた。
このように、一休の養叟批判はますます激しく、康正元年(1455)そのピークに達したのである。「年譜」に
よると、その年の「正月、泉南の(養叟に対する)嘲りの偈が京まで伝え届いた。師(一休)は、それに和韻を
し、二百首余りの偈を作り、編集して一巻となった。それに題して「自戒」という。」「自戒集」には、漢
詩のほかに、また仮名交じりの散文もかなり集録されている。「年譜」に記されたように、これはもっぱら
養叟を論難するために作った作品集だから、その数々の作品は、ほとんど具体的に養叟の悪事をいちいち指
摘して、難詰したのである。
(´・(ェ)・`)b

319鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 00:11:17 ID:1d4drIFg0
その大用庵を養叟和尚が継いだのじゃな。
政治と金に囚われた養叟和尚を批判したのじゃな。

紫衣師号を得たが禅家として貧しいのじゃ。
綸旨は銭三百緡で得たのじゃ。
大用庵に偽和尚が現われたのじゃ。
見に来てみればほんとに盗賊だったのじゃ。

320避難民のマジレスさん:2021/02/25(木) 01:06:15 ID:9PDneoNQ0
335
拈華微笑    ねんげみせう
鷲峰會上現前辰 しうぶゑ上現前のとき
鶏足室中來劫春 鶏足しつ中來がふの春
中毒人應知毒用 毒にあたる人はまさに毒の用を知るべし
西天此土野狐身 西天しどやこの身

くま訳
鷲峰山において、迦葉が釈迦から法を授けられた時、
鶏足山の迦葉の部屋から世界の永遠の春が約束されたのである。
毒に当たってしまう人は、毒がいかに苦をもたらすかをよく知るべきである。
極楽を現世に実現しようとするのは、野狐の身である

*鶏足山は狼足山、又は尊足ともいふ。印度摩迦仏陀國伽耶の東南七哩にあり、摩訶迦葉入寂の地となり、 
 世尊の大法を鷲靈山の會に受けてより、鶏足室中生々世世の春は、この時に開かれたのである。
*鷲峰會上:霊山会上りょうぜんえじょう。釈尊がしばしば説法された霊鷲山(りょうじゅせん)の会座(え
 ざ)。滅後その仏舎利までも留められたインドの霊鷲山のこと
(´・(ェ)・`)つ

321鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/25(木) 23:18:17 ID:1d4drIFg0
拈華微笑じゃな。

鷲の峯の集会で拈華微笑が現前したのじゃ。
鶏足の部屋に春が来たのじゃ。
毒にあたれば毒の作用が知れるのじゃ。
西天がこの地であると野狐もわかったのじゃ。

322避難民のマジレスさん:2021/02/26(金) 00:11:30 ID:Iacc0dmo0
くま訳改
第三句:毒にあたれば毒の作用が知れるのだ。
第四句:西天がこの地であると野狐もわかったのだ。

337
脚下紅絲線   脚下紅糸線
持戒爲驢破戒人 持戒は驢となり 破戒は人となる
河沙異號弄精神 河沙の異號精神を弄す 
初生孩子婚姻線 初生孩子婚姻の線 
開落紅花幾度春 開落紅花幾度の春

ヴィート・ウルマン先生訳
戒を守ればロバになる、戒を破れば人になる。
河の沙の粉ほど無数のことについて考えて無駄に精神を費やした
初生の子供、婚姻の線
赤い花が何回春開いて落ちたか

くま訳
戒を守らねばならないとして、守るのであれば、ロバに生れ変るであろう、戒を破っても法を越えない様で
あって初めて人になれるのだ。
河の砂ほど数多の戒律に囚われても精神を弄するだけである。
生れたばかりの赤ん坊にも婚姻線はあるのだ。
咲けば散る花を幾春繰り返したことか。

*脚下紅絲線:脚下の纏綿、即ち修行の戒律等を云ふ、却って戒律に苦しめらるる様にては、他生は驢馬と 
 生まるるならん、戒によらず自ら戒にあたるは、蓋し人間界に生を受けんと。(大成脚注)
 纏綿(てんめん):まといついて離れにくいさま。特に、愛情が深くこまやかなさま。
*河沙異號:恒河沙の数程の数多の名目の戒、實び精魂を飜弄することである。
(´・(ェ)・`)つ

323避難民のマジレスさん:2021/02/26(金) 00:12:56 ID:Iacc0dmo0
*おまけ:壁巌録 第八十則「趙州初生孩子(趙州孩子六識)」
 挙。僧問趙州。      挙す。僧、趙州に問う。
 初生孩子還具六識也無。  初生(ショショウ)の孩子、還って六色を具すや無しや?
 趙州云。急水上打毬子。  趙州云う。急水上に毬子(キュウス)を打す。
 僧復問投子。       僧、復、投子に問う。
 急水上打毬子。意旨如何。 急水上に毬子を打す。意旨如何?
 子云。念念不停流。    子云う。 念念不停流。

 釈迦と老子と禅の人々&歎異抄HP解説抜粋
 *挙:あげる。問う、尋ねる
 *六識:分別、判断、心を生じる認識作用。 眼、耳、鼻、舌、身、意、の六つの認識作用。
 *毬子(キュウス):手毬、まり。
 *投子:ジョ州投子山の大同禅師の事(819-914)
 *意旨:言わんとするところ。意味。
 *念:心、想い。" "釈迦と老子と禅の人々&歎異抄HP解説

 禅問答の、ああ言えば、こう言う類のやりとりに、趙州和尚が 如何に対応されたか。
 「無我」が悟りの境地であるならば、・・・「赤ん坊」と「仏」の違いはどこにあるのか?
 その様な問題に関して何かを答えたとしたら、急流に投げた毬が、転々としながら流れに流されて、果て 
 しない議論になるだろう、という事。・・・
 そして、もう一つが、この僧とのやりとりにおける投子和尚の極めて直裁な答えであります。投子和尚の 
 答えは、「念念不停流。」です。
 念(想い)から念へ、想いというものは、流れてとどまらないものだ、という訳です。

 ・・赤ん坊に六識があるか否か、つまり赤ん坊を仏の境地と言われる「無我」と見なせるかどうか、とい 
 う問いは、まさに、「無我」という言葉に囚われて、溺死寸前の禅僧と言えるかも知れません。
 ・・・仏とは「我」を自覚認識した上で、自身を浄化させる事によって、「我」を極力減少させ、自他を 
 平等に見る眼を得た人、ここに身贔屓にとらわれない「仏知見(如実知見)」が得られる訳ですが、まさ 
 に、この様な境地を体得した人をこそ仏と言うのでしょう。
(´・(ェ)・`)b

324鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/27(土) 00:02:07 ID:1d4drIFg0
戒だけを守って心を忘れればロバとなり、戒よりも心を大事にすれば人となるのじゃ。
このようにして何度も生まれかわり河砂の如く多くの異なる名前で心を苦しめてきたのじゃ。
初めて生まれた子にも婚姻の線が在るのじゃ。
そのために花が開いては落ちるような春を何度も迎えているのじゃ。

325避難民のマジレスさん:2021/02/27(土) 01:08:53 ID:E29EzVtE0
くま訳全面改
戒だけを守って心を忘れればロバとなり、戒よりも心を大事にすれば人となるのだ。
このようにして何度も生まれかわり河砂の如く多くの異なる名前で心を苦しめてきたのだ。
初めて生まれた子にも婚姻の線が在るのだ。
そのために花が開いては落ちるような春を何度も迎えているのだ。

338    1/2
示會裏俗徒警策 詩 示會裏の俗徒に示す警策 詩
前車覆處後車驚   前車くつがえるところ後車驚く
警策怠時禍必生   警策怠る時、くわ必ず生ず
半醉半醒夜遊客   半醉半醒夜遊の客
烏啼月落夜三更   カラス鳴き、月落ちて、深三更

くま訳
会派の在家信者への警策 詩 
先人や周囲の人の失敗を見ることは、教訓となるのだ。
睡魔襲来の警策を怠る時、必ず打たれるものと心得て、修行精進を策励せよ。
怠る者は、酔っ払いの夜遊び客と同じだ
カラスが鳴き、月落ちて、深夜になるまで怠ってはならぬのだよ。

*俗徒:出家していない、在家の人々のこと
*前車の覆(くつがえ)るは後車の戒(いまし)め:「漢書」賈誼伝・前の車が覆るのを見たら、あとの車は同
 じわだちの跡を行かないようにせよという諺から、先人の失敗は後人の教訓となるというたとえ。
*警策:警覚策励・睡魔の襲不を警策し、修行精進を策励するなり。
(´・(ェ)・`)つ

326鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/27(土) 23:44:07 ID:1d4drIFg0


前の車が覆れば後車は驚くのじゃ。
警策を怠れば必ず災いを生むというのじゃ。
半醉半醒の夜遊びの者は、カラスが鳴き月が落ちる深夜まで何も気付かず遊びまわるのじゃ。

警策で叩くのは修業が疎かになって全て無駄にならないための警告ということじゃな。

327避難民のマジレスさん:2021/02/28(日) 01:04:05 ID:tYkVRNNg0
くま訳全面改
前の車が覆れば後車は驚くのだ。
警策を怠れば必ず災いを生むのである。
半醉半醒の夜遊びの者は、
カラスが鳴き月が落ちる深夜まで何も気付かず遊びまわるのだ。


339    2/2
示會裏俗徒警策 詩 示會裏の俗徒に示す警策 詩
詩歌吟詠失全功 詩歌吟詠全功を失す
天上人間軍陣中 天上人間軍陣のうち
意舞酔歌休度日 意舞醉歌して日をわたるをやめよ
飛揚跋扈爲君雄 飛揚ばっこ君が為に雄

武田鏡村先生訳・解説抜粋
詩をつくり歌をうたうなどは、いざというときには、なんの力にもならぬ。
我々人間界は、いまや戦陣の真っ只中にある。
毎日、心を乱舞させ、狂酔して歌をうたうなど、やめよ。
そんな放恣な生活は、お前自身のためにしかすぎないのだ。頭を冷やして、国のこと、民のことを考えよ。

一休は杜甫の「贈李白」の詩をふまえて、こう義政らを叱る。
一休の為政者に向ける怒りと憤りは、・・おさまらない。この乱世では、詩をよみ、うたうことが、いかに
無意味なものであるとわかっていても、一休は詩に託して、その憤怒を吐き出すしかない。
・・・『年譜』によると応仁元年、七十四歳の一休は、寓居する瞎驢庵を八月に兵火を避けるために出て、
東山の虎丘(くきゅう)庵に移ったが、九月一日に薪村の酬恩庵に入ったと伝えている。その間、瞎驢庵は
兵火に焼かれ、大徳寺もまた炎上、焼失していた。これ以降、一休はその死をむかえるまで、洛中において
寓居することはなかった。

くま訳
会派の在家信者への警策 詩 2/2
詩を詠み、歌うことなど、一切の攻を無くした。
天上人も、人間も戦陣のただ中にあるのだ。
浮ついた気持ちで、酔歌して日を送るのをやめよ
権勢を振るい思いのままに振舞うのは、君自信の為だけの蛮勇にすぎないのである。

*うむ。在家信者に擬して、足利義政等、為政者をしかったのでありますかね。
*飛揚跋扈(ひようばっこ):思うままにのさばり振る舞うこと。また、臣下が権威をほしいままにして君主 
 をしのぐたとえ。▽「飛揚」は猛禽が飛び上がる、舞い上がること。「跋扈」の「扈」は水中に仕掛けて 
 魚を捕らえる竹垣の意。「跋」は越える意で、大魚がそれを越えて抜け出ること。規制や拘束などを無視 
 して横暴に振る舞うこと。
*雄:おおしい。勇ましく強い。胆力・知力のすぐれた人。

おまけ:杜甫 李白を詠う
贈李白     李白に贈る
秋来相顧尚飄蓬 秋来相顧みれば 尚お飄蓬(ひょうほう)たり
未就丹砂愧葛洪 未だ丹砂(たんしゃ)を就(な)さずして葛洪(かつこう)に愧ず
痛飲狂歌空度日 痛飲狂歌空しく日を度り
飛揚跋扈為誰雄 飛揚跋扈(ばっこ) 誰(た)が為にか雄なる

紀 頌之 先生訳
秋になり顔を見合わせると  瓢か蓬のように頼りない
いまだ丹砂にも辿りつけず  葛洪に合わせる顔がない
飲み明かし  歌い狂って  空しく日を送り
飛び跳ねて暴れているが  誰のためにやっているのだ
(´・(ェ)・`)つ

328鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/02/28(日) 23:53:53 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

詩歌の吟詠などは修業の効果を失ってしまうのじゃ。
天上人も戦場のような皆苦の娑婆世界にいるのじゃ。
酔っ払って歌舞して日を過ごすのは休むと善いのじゃ。
どれほど権威を振りかざしても自己満足に過ぎないのじゃ。

329避難民のマジレスさん:2021/03/01(月) 00:08:07 ID:nxjeLtmE0
340
乙石御料人待知客歸寺 おと石御料人しかの寺に帰るを待つ
知客他行乙石愁 知客の他行乙石の愁
歸來日数在心頭 帰来日数心頭にあり
斫額天衢望晴雨 しゃく額してく晴雨を望む
愛看昔日摘星楼 愛し看る昔日の摘星楼

くま訳
乙石婦人は、接待係の僧が寺に帰るのを待っている。
接待係が他所へ行くのが乙石婦人の愁いであった。
帰って来てから幾日もたっていることを知っていた。
額に手をあてて、天への道、晴天、雨天を眺める。愛憎の思いに耽っているのだろう
愛し看る、摘星楼で紂王に正妻を殺させた寵姫、妲己のようだ。

*御寮人、御料人(ごりょうにん):中世以降用いられた、主に女性に対する敬称
*知客(しか):禅宗寺院の役職の一つ。第四位。知賓(しひん)ともいった。
 修行年数の多い修行僧の中から選ばれ、外部からの来客の接待、新たに入門した修行僧の世話などを行う。
*他行:よそへ行くこと。外出すること。
*斫額望汝(しゃくがくして汝を望まん。)額に手をかざして遙かにお前を見上げて、敬遠することであろ 
 うて)」「啓して遠ざける」
*天衢:(中国語翻訳サイト)天国への道
*殷王朝の末期、紂王が、寵姫妲己の謀略により正妻を突落して殺害したのが摘星楼である。

乙石なる人物が誰なのか、不明。
知客とは、一休さん自身にことではありますまいか?(乙石さんに、そう名乗ったのでありましょう。)
乙石さんは、一休さんの火遊びの相手でありましょう。
一休さんは、分かれたくて、寺を出て身を隠した。ほとぼりが冷めた頃かと帰ってみると、乙石が待ち続け
ていた。それを物陰から見て、冷や汗をかく一休さん・・という詩でありますかね。
(´・(ェ)・`)つ

330鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/01(月) 23:39:19 ID:1d4drIFg0
一休さんではないじゃろう。
昔坊さんと道ならぬ恋に走った、そういう名前の女子がいたのじゃろう。

知客の僧がどこかに行っているのが乙石の愁いなのじゃ。
帰る日を数えて頭の中が一杯なのじゃ。
おでこに手を当て天気を見るのじゃ。
道ならぬ恋に落ちた昔を思い出しているのじゃ。

331避難民のマジレスさん:2021/03/02(火) 00:04:23 ID:7sxj34Oc0
うむ。邪推をしてしまったであります。

341  1/2
示焚書籍僧   書籍を焼く僧に示す
始皇自然辨邪正 始皇じ然に邪正を辨ず
波旬餘殃如看掌 波旬の余あうたなごころを看るが如し
看看劫火洞然時 看よ看よ劫火洞然の時
書籍金剛不壊性 書籍金剛不えの性

くま訳
書を焼いた僧に示す
始皇帝は自ずと正邪を弁えていたのである。
悪魔も自分の悪行により子孫が報いを受けるか占う為に占は書を焼かなかったのだ。
見よ、この世の終末、劫火が激しく燃えても、
本当に価値のある書籍は、決して消失することはないのだ。

*秦の始皇、丞相李斯の言を用ひて、醫薬卜筮(ぼくぜい)種樹に關する書の外、皆之を集めて焚き、然して 
 天下の民を愚にして、上の政を議するなからしめたり、然れども遂に波旬の餘殃掌を返すが如く、萬萬代
 と豫想したりし帝業も、項羽が一火の爲に東籬の春雪の如く消え失せぬ(脚注) 
*劫火洞然時:僧、大隋法眞禪師に問ふ、劫火洞然として大千倶に壊す、這箇壊か不壊か。隋曰く、壊と。 
 此の世界の滅する時、大火ありて、壊する時をいふ、これを又臨銘終の時に比す、眞の書籍は火位では焼
 けぬ(脚注)
*臨命終時(りんみょうじゅうじ):人の命が尽きようとするとき。略して、臨終
*余殃(よおう):先祖の行った悪事の報いが、災いとなってその子孫に残ること
(´・(ェ)・`)つ

332鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/02(火) 22:01:00 ID:1d4drIFg0
本を焼いた僧が居たのじゃな。

始皇帝は邪な本を焼くと言ったのじゃ。
しかし、悪魔が掌を裏返すが如く国が破滅したのじゃ。
本を焼くのはこの世の終わりの劫火のようじゃ。
しかし、本の知識は焼くことができないのじゃ。

333避難民のマジレスさん:2021/03/02(火) 23:42:48 ID:fR/zFjE20
くま訳全面改
始皇帝は邪な本を焼くと言ったのだ。
しかし、悪魔が掌を裏返すが如く国が破滅したのだ。
本を焼くのはこの世の終わりの劫火のようである。
しかし、本の知識は焼くことができないのである。

342  2/2
示焚書籍僧  
樹下石上茅廬 樹下石上のぼうろ
詩文疏鈔同居 詩文そせう同居す
欲焚嚢中遺藳 なう中の遺かうを焼かんと欲せば
先須忘腹中書 まづ須らく腹中の書を忘るべし

くま訳
仏道修行中の身なれば、家は粗末である。
詩文や経典の写本と同居してるのである。
袋に入れてある遺稿を燃やしたいと思うなら、
先ずは、記憶の文書を忘れねばなりますまい。

*樹下石上(じゅげ-せきじょう):出家行脚あんぎゃする者の境遇のたとえ。仏道を修行する者が宿とする、 
道ばたの木の下や石の上の意から
*茅廬(ぼうろ):かやぶき屋根の家。粗末な家。転じて、自分の家をへりくだって云う語
*疏(ショ):経典の注釈。また、その書物 鈔(ショウ): 写しとる。写し。抜き書き
(´・(ェ)・`)つ

334鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/03(水) 21:55:17 ID:1d4drIFg0
それでよいのじや。

木の下、石の上のボロ屋でも詩文や経典が同居するのじゃ。
袋の中の遺稿を燃やそうとするならば、先ずは腹の中の書を忘れなければならんのじゃ。

本を燃やしても頭の中に書があれば無駄ということじゃな。

335避難民のマジレスさん:2021/03/03(水) 22:55:41 ID:ppWy.NFQ0
343   
紹固喝食    しょうこかつしき
四歳女兒歌舞前 四歳の女兒歌舞の前
約深難警舊因縁 約深うしていましめ難し旧因縁
葉恩入無爲手段 恩を棄てて無爲の手段に入る
座主作家誰是禪 座主作家誰か是れ禪

くま訳
紹固喝食
四歳の女児が歌舞をしていた頃から知っているのである。
古くからの因縁が深くて、過ちを犯さないようにするのが難しいのだ。
恩愛の情を捨て、世俗の執着を断ち切り、無為の道に入るの事だけが、
座主や作家の禅というわけではありますまい。

*紹固喝食:四歳のお稚児さん。(後に一休さんから 堅岳という道号を与えられた) 森は、紹固に激しく 
 嫉妬して、そのために断食自殺を図った。
*喝食(喝食):正式には喝食行者(かつじきあんじゃ/かっしきあんじゃ)と呼ばれ、本来は禅寺で斎食を 
 行う際に衆僧に食事の順序などを大声で唱える者。本来は年齢とは無関係である。
 禅宗とともに中国から日本に伝わった。幼少で禅寺に入りした小童が務めるものとされた。
*棄恩入無為(きおんにゅうむい):恩愛の情を捨て、世俗の執着を断ち切って、悟りの道にはいること。 
 「棄恩入無為、真実報恩者」と用いられ、出家受戒のおりに唱えられる。
*禅(梵: ディヤーナ、巴:ジャーナ、禅那:ぜんな)とは、心が動揺することがなくなった一定の状態を指 
 す。サンスクリット語の の音写である。静慮とも訳される。
*(参)御阿姑:森と出会う直前の愛人らしい。
(´・(ェ)・`)つ

336鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/04(木) 23:56:38 ID:1d4drIFg0
歌舞前の四歳の女子が婚約とかしていた相手と因縁が深かったというのじゃ。
それでも恩を捨てて仏道に入ったというのじゃ。
座主とか作家が誰であるか追及するのが禅なのじや。

337避難民のマジレスさん:2021/03/05(金) 00:52:15 ID:r3/lY5EY0
くま訳全面改
歌舞前の四歳の女子
婚約していた相手と因縁が深かったのである。
その恩を捨てて仏道に入ったのだ
座主、作家が誰であるか追及するのが禅なのだ。

344
賛端師子    端ししを賛す
弄師子處正明心 師子を弄するところ正に心を明きらむ
不托回頭口若暗 回頭にたくせず口おしのごとし
讀誦蓮經風雪燭 読じゅれん経風雪のしょく
漁歌一曲五更吟 漁歌一曲五更の吟

くま訳
白雲守端禅師を賛す
守端禅師が思い廻らすすことは、明らかに正しいことである。
考え思いを廻らすことに頼らず、沈黙することもある。
法華経を読誦することをもって吹雪の中の、目印の灯りとすることもあれば、
漁歌一曲明け方に吟じる風流人でもある。

*賛端師子:白雲守端禅師(1025-72)楊歧方会(992-1049)の弟子。五祖法演(不明 - 1104年)の師匠
*不托(ふたく):信用しない、頼まれない、頼まない(中国語翻訳サイト)
*回頭:① 頭をめぐらすこと。ふりむくこと。
*弄する:心の中をあれこれとたどってみる。思いめぐらす。
(´・(ェ)・`)つ

338鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/05(金) 23:16:42 ID:1d4drIFg0
端師子の賛じゃな。

端師子は修業に拠って心を正しく明らかにしたのじゃ。
思考を廻らさず、言葉も口にしなかったのじゃ。
風雪を灯りにして法華経を読んだのじゃ。
漁歌を朝に歌うこともあったのじゃ。

339避難民のマジレスさん:2021/03/06(土) 00:08:45 ID:PHPmkWWA0
くま訳全面改
端師子は修業に拠って心を正しく明らかにしたのだ。
思考を廻らさず、言葉も口にしなかったのだ。
風雪を灯りにして法華経を読んだのだ。
漁歌を朝に歌うこともあったのだ

345
君子財
詩人財寶是文章 詩人の財宝は是れ文章
儒雅乾坤日月長 儒雅の乾坤じつ月長し
窓外梅花吟興樂 窓外の梅花吟興の楽しみ
膓寒雪月暁天霜 はらわたは寒し雪月暁天の霜

くま訳
詩人の宝は文章である
教養深い者にとっては、世界の月日はゆったりとに流れる。
窓外の梅花は詩情を誘う樂しみである。
底冷えのするときでも、雪月や、明け方の霜などに心よせて詩を詠むのである

*儒雅:学問が深くふるまいが上品である.
*日月長(じつげつながし):時間に追われることなく悠々と人生を送ること
(´・(ェ)・`)つ

340鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/07(日) 00:13:19 ID:1d4drIFg0
よくできたのじゃ。

詩人の財宝は文章なのじゃ。
儒の雅は乾坤日月長いというのじゃ。
窓の外には梅花を詠う楽しみがあるのじゃ。
腸が寒くとも雪月や朝霜を詠むのじゃ。

341避難民のマジレスさん:2021/03/07(日) 00:27:32 ID:yVAtIrvo0
346
趙州三轉語   趙州の三轉語
泥佛不渡水   泥佛水を渡らず 
木佛不渡火   木佛火を渡らず 
金佛不渡爐   金佛爐を渡らず 

詩成小艶述愁情 詩成つて小艶愁情を述ぶ
一枕多年夜雨聲 一ちん多年や雨の聲
長笛暮楼誰氏曲 長笛暮楼たが氏の曲ぞ
曲終江上数峰青 曲終へて江上数峰青し

くま訳
趙州三轉語
泥の仏は水を渡ることはできず(水に溶けなければ、本物の仏、真の自己だ。だから、伝える事が出来る)
木の仏は火を渡ることはできず(火のような燃える煩悩は消してしまえば、仏、真の自己を発見できる)
金の仏は溶鉱炉を渡ることはできない(全てを溶かす溶鉱炉のような観念、言葉、「仏」という言葉も仏
そのものではない。溶鉱炉を打ち壊し、真の自己を見つけ出すのだ)

詩を作って、本心が伝わるようにと願いつつ、愁情を述べる。
枕辺に多年、夜雨の音のような声を聞いてきた。
長く響きわたる笛の音が、夕暮れ時の楼閣から聞える。誰の曲であろうか。
曲が終り、音が消えて、河上の峰々の暗い景色のみが残った。

*「趙州録」の法語:會元第四趙州の章「常堂に曰く、金佛爐を渡らず、木佛火を渡らず、泥佛水を渡らず、  
 眞佛内裡に座す、菩提涅槃眞如佛性、盡く是れ貼體の衣服亦は煩悩と名く、實際理地是れ何の處にか着 
 けん、一心生ぜざれば、萬ホウ咎無し云々」(大成脚注)

*碧巌録 趙州三轉語 第九十六則
(´・(ェ)・`)つ

342鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/07(日) 23:18:46 ID:1d4drIFg0
趙州の三轉語というのじゃ。
泥の仏は水を渡れないのじゃ。
木の仏は火を渡れないのじゃ。
金の仏であっても炉を渡れないのじゃ。

泥でも木でも金でも観念があれば苦が在り、彼岸には渡れないということじゃな。

小艶詩が出来て愁情を述べるというのじゃ。
一つ枕で多くの雨の夜を過ごしたのじゃ。
誰の曲か暮れの楼閣に長笛が響くのじゃ。
曲が終わると河の上に青い峯が幾つも見えたのじゃ。

343避難民のマジレスさん:2021/03/08(月) 00:08:37 ID:EG/mVQzA0
くま訳改
第二句:一つ枕で多くの雨の夜を過ごしたのだ。

347
高野大師入定  高野大師入定
生身大日覚王孫 しょう身大日覚王孫
出入神通活路門 出入神通活路門
迦葉惠持長夜魄 迦葉えぢす長夜のはく
秋月春雨月黄昏 秋月春雨つきくわうこん

柳田聖山先生訳
弘法大師入滅
生き身の大日如来で、覚王仏陀の孫である大師は
神秘な活路の門を開き、その中にお入りになった
摩訶迦葉は鶏足山で入滅され、釈迦の言葉を守り 
秋には風、春には雨、夕月夜の風情が満ちている

くま訳
空海弘法大師入滅
生身の大日如来、仏陀の子孫。
本来の自己が出入りする、禅定の道を切り開いたのだ。
迦葉が受け継ぎ連綿と伝わる釈迦の魂がそこにある。
それは、秋月春雨月黄昏のように、ありのままである。

*高野大師:空海(774-835年)平安時代初期。弘法大師諡号 真言宗開祖 佐伯眞魚(さえき の まお)
 日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換してい 
 く流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。
*大日如来:真言密教の教主である仏であり、密教の本尊。一切の諸仏菩薩の本地。
*覚王:仏陀を敬っていう語。覚帝(かくたい)。
*入定:1.禅定に入ること。2.高僧が死ぬこと。入滅。
*出入:赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入す。 
(´・(ェ)・`)つ

344鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/08(月) 22:48:41 ID:1d4drIFg0
弘法大師の入滅に寄せたのじゃな。

生身の大日如来、覚王如来の孫であるのじゃ。
活路の門に出入りし、神通自在だったのじゃ。
それは迦葉が長年維持した法の魂魄と同じなのじゃ。
春夏秋冬日月万物の全てなのじゃ。

345避難民のマジレスさん:2021/03/08(月) 23:35:13 ID:NK3zmx/U0
348
佛魔一紙
聖凡萬里隔郷關 聖凡萬里郷關を隔つ
清淨沙門塵事間 清淨の沙門塵事の間
殘雪殘梅窓外月 殘雪殘梅窓外の月
吟中猶劍樹刀山 中猶ほ劍樹刀山のごとし

松本市壽先生訳
聖人と凡人とには、万里もの隔たりがあるものだ。
清浄な僧と、俗事との間も大きな隔たりがあるものだ。
窓の外は残雪と残梅を月が照らしていてとても美しい。
しかし、それを吟じている私の腹の中は、剣樹が乱立する地獄絵図のような煩悩が巣くっている。
仏魔紙ひとえというもので、表面から見てもわかりにくいというだけだ。

くま訳
仏魔紙一重
聖人と凡人は万里も隔たりがあるのだ。
清淨な僧と俗事の間の関係はどうか。
残雪と残梅を窓外の月が照らしている。
それを吟じる我が胸中は、剣樹刀山の地獄の山でのたうちまわっているのだ。

*刀山剣樹:酷く危険な境遇。「刀山」は刀の刃が上を向いた状態で、無数に立てられている山。
 「剣樹」は葉や枝、花、実の全てが剣で出来ている樹。刀山を歩かされたり、剣樹を登らされては落とさ 
 れるという地獄で行われている刑罰のことから。
(´・(ェ)・`)つ

346鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/09(火) 22:02:32 ID:1d4drIFg0
聖人と凡人では万里の差があると言うのじゃ。
清浄な僧でも凡俗とは塵のように小さな差しかないのじゃ。
残雪残梅の外に月が出ているような風流を吟じている中にも剣の木、刀の山があるのじゃ。

清浄な僧も直ぐにも堕落するかもしれんから気をつけろということじゃな。

347避難民のマジレスさん:2021/03/09(火) 23:00:29 ID:DpJVeXtI0
くま訳改
第二句:清浄な僧でも凡俗とは塵のように小さな差しかないのである。
第三句:残雪残梅の外に月が出ているような風流
第四句:それを吟じている中にも剣の木、刀の山があるのである。

349   1/2
止大用庵破却  大用庵の破却をとどむ
 二首 寛正五年 
破邪歸正識情 邪を破ししゃうに帰す識情
勝負人我無明 勝負にんが無明
可羨出塵羅漢 しゅつ塵の羅漢をうらやむべし、
青天月白風淸 青天月白く、風淸し

くま訳
大用庵の完全なる破壊を止めた。 寛正五年(一休七十一歳)
邪道を打破し正しく識別する道に帰した。
勝負に拘るのは、自我に囚われた無明故である。
俗世間を離れた阿羅漢をうらやむべきであろう。
有明月は白く、風は淸い

*破却:原形をとどめないように、すっかりこわすこと。
*識情:事物を識別することと感情。総じて迷情による心のはたらきをさす。情識。
(´・(ェ)・`)つ

348鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/10(水) 22:03:31 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

邪道を破って識情は正道に帰ったのじゃ。
勝負に拘るならばまだ無明なのじゃ。
ただ悟りを完成した阿羅漢を羨むと善いのじゃ。
青天月白く風清いのじゃ。

349避難民のマジレスさん:2021/03/10(水) 23:15:38 ID:PDgIfnws0
350   
止大用庵破却 2/2  
認定盤擔板漢禪 定盤をとむたん板漢の禪
衲僧作略豈膠絃 衲僧の作略豈に絃にかうせんや
殺活從横悪手段 殺活從横悪手段
鑄消正印漢王前 正印をちうせうす漢王の前

くま訳
物事を判断する厳格な基準の存在を認めるのが、一面のみを見て、全面をしらざる禅である。
真の師家が何で、絃の張り具合に拘る事があろうか、中ぐらいが良いのである。
恣意的な基準で活かしたり殺したりするのは、悪い手段である。
漢王も将軍の印を作って与えて後で取り上げたりしたのである。

*定盤:表面を水平で平滑になるように作った平面盤。組み立てなどを正確に行うのに用いる。
*擔板漢(たんばん):一面のみを見て、全面をしらざる痴漢をいふ。
*膠す:① ねばりつく。くっついて動かない。② 物事にこだわる。拘泥(こうでい)する。
*弾琴の喩:一生懸命に修行をしているのに、いっこうに悟りの境地に至ることができないと、修行に行き 
 詰った悩みを弟子ソーナ(琴奏者)から打ち明けられた際に、琴をかなでるには、弦をつよく緊(し)めす 
 ぎず、ゆるすぎず、ほどよく弦を緊めることが大事、修行も琴の音を調える時のようにその中道をとらね 
 ばならない、と助言して悟りに導いた。
*鑄消正印漢王前:https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>23 >>24
(´・(ェ)・`)つ

350鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/11(木) 23:04:44 ID:1d4drIFg0

上っ面だけで全面を知らないのが今まで大用庵を修めていた衲僧の禅であるというのじゃ。
その策略は膠に糸がこびりついたような殺活縦横の悪手段なのじゃ。
正に漢王が印を鋳して取り消すが如きものなのじゃ。

351避難民のマジレスさん:2021/03/12(金) 00:03:38 ID:0boY72FE0
くま訳全面改
上っ面だけで全面を知らないのが今まで大用庵の禅であったのだ。
その策略はニカワに糸がこびりついたような
殺活縦横の悪手段だったのだ。
正に漢王が印を鋳潰して取り消すが如きものだったなのだ。

378(順番繰上げ)
題如意庵校割未 如意庵校割の未に題す
 
將常住物置奄中 常住もつをもつて庵中に置く
木杓笊籬掛壁東 もくしゃくさうり壁東に掛く
我無如此閑家具 我に此くの如き閑家具無し
江海多年簔笠風 江海多年さりゅうの風

伊井暇幻先生訳・解説より
一休は一時、大徳寺管轄下の如意庵に住した。校割は庵の引き継ぎ書類である。其の端に書き付けた、との
体裁をとる。
寺の備品を庵内に整頓する。
木杓やら籠やらを壁東に掛ける。
元々自分は、このような無用物を持たなかった。
世間に長い間さすらってきた。蓑笠こそ我が家であり、庵に引き籠もることは自分に似合わない。

くま訳
如意庵の校割帳の端に書き置く
寺の備品は庵内に置く。
木杓や笊籬を壁東に掛ける。
わしは、このような無用物を持たないのだ。
長年世間をさすたってきたのだ。蓑笠をまとい風の中をゆくのだ。

*如意庵:1440 47歳6月20日、請われて大徳寺・如意庵に入住し、27日より華叟13回忌を営む。
29日、庵を去る
*校割:寺の什物帳なり、新舊(旧)交代の時、什物と自己の所有物とを区分明記して、疑なからしむるも
のなり。(禪学大成脚注)
*常住物:寺に住む僧が勝手に私有したり売却してはならない共有物で、長く寺に備えて僧の受用に供すべ
きもの。寺舎・田園雑具、また僧の常食など
*木杓(きさく)木でつくった柄杓(ひしゃく)
*笊籬(そうり) 竹で編んだかご。ざる。・簑笠(さりゅう):みのとかさ
(´・(ェ)・`)つ

352鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/12(金) 23:46:06 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

常住物をもって庵の中に置くのじゃ。
木杓笊などは東の壁にかけるのじゃ。
わしはこのような家具はもってなかったのじゃ。
世間を多年蓑笠でさすらっていたのじゃ。

353避難民のマジレスさん:2021/03/13(土) 00:28:11 ID:g5ULF.Cg0
351
如意庵退院寄養叟和尚 如意庵退院養叟和尚に寄す
住庵十日意忙忙 住庵十じつ、意忙々、
脚下紅絲線甚長 脚下の紅糸線、甚だ長し。
他日君來如問我 他日、君来ってもし我を問はば、
魚行酒肆又淫坊 魚行、酒肆、又た淫坊

柳田聖山先生訳
如意庵に住んで十日だが、多情抑えがたく
いかにも赤提灯が足元を照らすものだから、
若し他日、この私を訪れてきてくれた時、
魚屋か、居酒屋か、女郎屋を探してくれ。

伊井暇幻 先生
庵に十日ばかり居着いてみたが、出て行きたくて心はソワソワとしていた。
庵に座り込んで過ごしたため、足の裏に赤い筋が長く出てきたし、愛すべき人を求める紅絲線が長く伸び人
恋しくて堪らない。
譬えば君が何時か庵に来て私の所在を尋ねるとしよう。その時、
私は恐らく、釣りに行っているか酒屋で蜷局を巻いているか、もしくは女郎屋に転がり込んでいるだろう」。
(´・(ェ)・`)つ
くま訳
如意庵退院に際して養叟和尚に贈る
如意庵に住持して十日、気忙しく落ち着かないのである。
足元の赤い糸が、わしを呼び寄せるのだ。
他日、君が来て、わしの行方を尋ねるのであれば、
釣り場、酒場、遊里辺りを探してくれ。

*寄す(他動):相手に送る。贈る。寄進する(心を)寄せる。頼りにする。ゆだねる。

354鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/13(土) 21:57:58 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

如意庵に住んで十日で心が乱れたのじゃ。
脚の赤い線が長く伸びたのじゃ。
他日、君が来てわしを問わば 魚屋か居酒屋か女郎屋にいるじゃろう。

355避難民のマジレスさん:2021/03/13(土) 23:03:04 ID:ExRB.JVA0
352   
賛栽松道者   さいしょう道者を賛す
周家當處出生來 周家当初に出生し来たる
為法喪身徒苦哉 法の為に身を喪すただ苦なるかな
宿昔植何時徳本 宿せきいずれの時の徳本をかうう
栽松老漢也黄梅 さいしょうろう漢また黄梅

くま訳
栽松道者を讃える
五祖弘忍は周家の住まいのある地で生れた。
仏法を求めるために身命に執着せず、転生するのは、ただただ苦しいであろう
父栽松道者が周家に宿を借りたついでに、いつの間にか、娘を孕ませて転生したのだ。
五祖弘忍に転生した栽松じいちゃは、黄梅に住して、禅の教えを広めたのである。

*五祖弘忍(ぐにん・こうにん)大満禅師(688〜761)の前世が栽松道者(さいしょうどうじゃ)と呼ばれ
 る松を植えるだけの僧だったという伝説あり。
 仏教はできるだけ世間から遠く離れた山や野の中で自分で働き、自分で食べていく事とするこの生活を 
 「農禅生活」という。農作業をしながら修行する生活は、五祖から始まった。
(´・(ェ)・`)つ

356鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/14(日) 23:49:34 ID:1d4drIFg0
栽松道者の賛じゃな。

もとは富豪の周家に生まれていたそうじゃ。
法のために一遍死んで苦しんだのじゃ。
昔宿にていつのまにか徳の本を植えたというのじや。
そして栽松道者は黄梅の人となったというのじゃ。

黄梅の人とは五祖弘忍のことじゃな。

357避難民のマジレスさん:2021/03/15(月) 00:17:22 ID:oVxihHho0
くま訳改
第三句:昔宿にていつのまにか徳の本を植えたのである。

お知らせ
昨年5月6日から始めた一休さん講読会は、結局『狂雲集』講読会となりました。本日、狂雲集の全ての詩
の下調べが完了いたしました。順次掲載して参ります。鬼和尚に注釈・翻訳いただいているお陰さまで、た
いへん有意義な講読会になっております。鬼和尚、いつもありがとうであります。
掲載完了までまだ7ヶ月以上かかると思いますが、いずれ、鬼和尚の翻訳を、國訳禪学大成版『狂雲集』の
編集に即して、並べ替えて別にまとめたいと思います。現在は原則「あいうえお」順で進行中であります。

353
長門春草    (弟子が編集した年譜に掲載されている一休さ13歳の作)
秋荒長信美人吟 秋こうの長信 美人吟ず
経路無媒上苑陰 経路 媒無くして上苑陰たり
栄辱悲歓目前事 栄じょく悲歓目前の事
君恩浅処草方深 君恩浅き処 草方まさに深し

碇豊長(イカリ トヨナガ)先生訳・解説より
秋の雑草が生える(頃)、長信宮(=後宮)の宮女がうたっている
(帝が通っておいでになる)道筋には、(帝と宮女との)仲立ちをする案内人の姿が見えなくて(=帝が
やって来なくて)、禁苑の緑は深まるばかりである。 
名誉や恥辱、悲しさや嬉しさというものは(目に見えない物ではなくて、)実際に目の前に見て取れるもの
ごとなのだ。
帝の恩寵が浅い(宮女の住む)所は、(帝のお成りが無いために、手入れがされずに)草が深く繁ったまま
になっているのだ。(このように実際に見て取れるのだ、と)

ある男の残日HP 宇野直人先生生訳・解説より 
春なのに秋の様にさびれた長信宮で 美しい人が歌を歌う
御所から続く道に 使者の訪れは無く 御所は静かなまま
愛される幸せと 忘れられる辛さは それは紙一重のこと
帝の愛の薄れた今 草だけが深く生い茂っている

愛を失って退いた女性、その悲しみという事をテ-マとしている。その女性の心境を想像してその身になっ
て詠んでいる。一休は歴史上の悲運の女性を繰り返し題材にした。漢の時代の王将君・唐の楊貴妃・・・。
不幸な母への想いと思われる。これが後に変化して女人崇拝となっていく。

*長信:漢代の班婕妤(はんしょうよ)という女性が天子の寵愛を失った後に住んだ、皇太后の宮殿「長信 
 宮」のこと
*秋荒:秋の雑草が地を覆う。秋になって、後宮に繁った雑草(雑草=帝が来なくなった意)に感じること 
 があっての怨みの詩。
*美人:「虞美人」の「-美人」のように、女官の名称。後宮の女性を謂う。ここでは、失寵の後宮の女性
(=一休の母を指す。)
*媒:(帝と宮女との)仲立ちをする案内人
*陰:おおう。おおわれる
 
くま訳
長門春草 
秋、荒れ果てた後宮で、天子の寵愛を失った官女が歌う
天子がお渡りになる経路には、案内人の姿無く、雑草におおわれている
栄辱悲歓がそのまま目前に現れて、見て取れる 
君恩が浅い官女の住むところは、草深くなるのだ。
(´・(ェ)・`)つ

358鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/15(月) 22:52:42 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんなのじゃ。

秋の荒廃に長信宮より美人が吟じるのじゃ。
宮への経路に案内の者が居らず、上苑は陰気であるのじゃ。
栄辱悲歓は今ここ目前にあるものじゃ。
君恩が浅ければ草も深いのじゃ。

これが13の作とは信じがたいのじゃ。
後宮の悲哀に喩えて失恋とか父母君恩の浅きを嘆いているようじゃ。

359避難民のマジレスさん:2021/03/15(月) 23:06:16 ID:td4//x260
11(再掲)懐古 1/2 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>618
        こ の詩は、昨年5/8に、この講読会で初めて取り上げた狂雲集の漢詩である。
愛念愛思苦胸次 愛念愛思胸次を苦しむ 
詩文忘却無一字 詩文忘却して一字無し 
唯有悟道無道心 ただ悟道ありて道心無し
今日猶愁沈生死 今日猶ほ愁ふしょう死に沈まんことを 

(鬼和尚解説に基づき、くま訳全面改済み)
愛着の念が胸にあって苦しければ、
詩文も忘れてしまうであろう。
ただ悟道があって道心無ければ
今日もまだ生死に愁い沈むばかりであろう。

354
懐古   2/2
十年溺愛失文章 十年愛に溺れて文章を失す 
不是行天然即忘 是れ逆にあらず天即ち忘ず 
翰墨再論近年事 かんぼく再び論ず近年のじ  
輪廻断尽隔生腸 輪廻断じ尽す隔生のはらわた

蔭木英雄先生訳
十年間愛欲に溺れて文章を失っていたが 
これはわざとでなく自然に忘れていたのじゃ  
詩文を再び論じはじめたのはつい近年の事で 
(愛欲と詩文との)輪廻を切断するのが来世の願いなのじゃ

くま訳
十年愛に溺れて文章を書かなかったのである。
これは、わざとしたのではなく、自然にわすれていたのだ。
筆を取り、論じだしたのは、最近のことである。
何としても、輪廻を断じ尽くす覚悟である。

*翰墨(かんぼく):筆跡
(´・(ェ)・`)つ

360鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/16(火) 22:53:52 ID:1d4drIFg0
十年愛に溺れて文章を失ったのじゃ。
作文を実践していなかったから天はすぐに忘れさせたのじゃ。
近年になって書くのを再開したのじゃ。
輪廻を断ち尽くし、生はらわたも離れたからなのじゃ。

361避難民のマジレスさん:2021/03/16(火) 23:27:56 ID:pH6aTtb20
鬼和尚、いつもありがとうであります。
「生はらわたを離れる」とはどの様な意味でありましょうか?」

355
杜牧  1/2
誰記慈明老漢婆 誰か記す慈明老漢の婆
無能懶性甕呑蛇 無能のらんしょう亀じゃを吞む
工夫雪月吟魂冷 工夫雪月吟魂冷たし
閑唱桑間濮上歌 閑に唱ふ桑間ぼく上の歌

くま訳
誰が慈明老僧が同棲するお婆さんのことを詩に詠むであろうか(テーマ選択×)
参174の詩 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>980
詩の才能無くけだるい。のろまな地をはう亀に吞みこまれる蛇のようである。(言葉選択×)
工夫して雪月を詠んでも、詩情は薄い(感性×)
閑にまかせて歌うのは、傾国の淫靡な歌である。(作品下品)

*慈明:慈明禅師石霜楚円(986-1039)、北宋の臨済宗第七祖。
 修行時に睡魔に襲われると錐でその腿を刺して凌いだという逸話あり。数多くの法嗣がいたが、なかでも 
 黄龍慧南と楊岐方会はそれぞれ黄龍派と楊岐派の祖となり臨済宗の隆盛に大きく貢献した。
*杜牧(とぼく)803-853年晩唐の詩人。 
 晩唐の繊細な技巧的風潮を排し、平明で豪放な詩を作った。風流詩と詠史、時事諷詠を得意とし、艶麗と 
 剛健の両面を持つ。七言絶句に優れた作品が多い。
 長安の名門階級に生まれ。828年、25歳で進士に及第。官吏となる。833年、31歳の時に書記を勤めた。 
 このころ詩作を始める。揚州在任の3年間、毎晩妓楼に通い、風流の限りを尽くしたと言われる。835年、 
検閲官に任命され長安に戻ったが、以後各地で多くの官職を歴任するが、政変のため中央での出世は得ら 
 れなかった。杜牧は自分の経歴や処遇への不満を詩に表し始めた 。
 848年に勲功部の副長官に任命された彼は中央に戻り、役職を歴任、853年病に倒れ亡くなった。
 漢詩、賦、古典散文。歴史的な名所や神秘的な情景を描いた繊細で叙情的な絶句を得意としていた。離別 
 や退廃、無常観などを描く詩もある。古典的な形と口語的な語法や語順、言葉遊びなどを組み合わせたス 
 タイルを用いた。彼はまたストーリー性のある長編の詩や孫子の注釈も書いている。
 恋愛詩を作ったことでも知られている。しかし死ぬ前年にその恋愛詩の多くを自ら焼き払ってしまいった。
*桑間濮上(ソウカンボクジョウ):濮水のほとりの桑間という地の意。国を滅ぼすような淫靡(いんび)な
 音楽。また、淫乱であること。殷の紂王が師延(しえん)にみだらな音楽を作らせたが、殷は滅び、師延は
 濮水に身を投げて死んだ。後に、濮水のほとりで聞こえた曲を師涓(しけん)が写し取り、晋の平公のため 
 に演奏したところ、師曠(しこう)が亡国の音楽であるとして止めたという故事による。
(´・(ェ)・`)つ

362鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/17(水) 23:49:12 ID:1d4drIFg0
↑それは性欲とか、攻撃欲とかの本能的な衝動の原因となる体の器官から離れたということじゃな。
 昔はそれが腸にあると考えられていたのじゃ。
 昔は愛欲に溺れて文もまずかつたが、輪廻を断ち腸も空になって文がよくなったというような意味じゃな。

363鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/17(水) 23:54:15 ID:1d4drIFg0
杜牧の詩なのじゃ。

 誰が記すか慈明は老人の女子だと。
 無能で怠け者で大蛇の如く甕酒を飲む者だったのじゃ。
 詩を工夫することは雪月の如く冷たい魂であつたのじゃ。
 それで暇に任せて淫歌を歌ったのじゃ。

 慈明と書くが杜牧のことなのじゃ。
 二人とも同じ性癖があつたというのじゃ。
 男色なのじゃ。

364避難民のマジレスさん:2021/03/18(木) 00:42:04 ID:UEsw8PFo0
鬼和尚、ありがとうであります。
大腸と、脳が密接に連動してるのでありますね。
慈明(と杜濮)の性癖に付いてのご指摘は、言われてみれば、確かに、『慈明老漢婆』と書いてあるでありま
すね。
くまは、この畳みかかる様な罵詈雑言は、一休さんが、自分自身の事を卑下して見せているのかなと思って
おりました。

くま訳全面改。
誰が記すか慈明は老人の女子であり、
無能で怠け者でうわばみの如き大酒飲みだったのだ。
詩を工夫する魂は、雪月の如く冷めていたのだ。
それで暇に任せて淫歌を歌ったのだ。

356
杜牧   2/2
宗門活句阿房宮 宗門の活句阿房宮
六國興亡六國風 六國の興亡六國の風
筆梅詞林何所似 筆海詞林何の似たる所ぞ
晴天萬里月方中 晴天萬里月正に中す

蔭木英雄先生訳・解説
杜牧の「阿房宮賦」は臨済禅を生きいきと表す活句であり
(杜牧も賦す如く)六国の興亡は(秦が原因でなくて)六国自身の国風によったのだ(故に己事を究明し、
脚下を照顧せよ)  
杜牧の筆する詩句は何を似(しめ)しているのか
広大な青空のマン中に月が輝いている

杜牧は「阿房宮賦」で、鳴呼、六国を滅ぼす者は六国なり。秦に非ざるなり。   
と賦(うた)う。これは禅者にとり活句である。『碧巌録』二十に、”須らく活句に参ずべし、死句に参ずる
莫れ”と教えている。また『碧巌録』三十九に、”水中に元思量し。月は青天に在り”と述べているが、一
休は結句で、杜牧の筆する詞句は、その青天の月(=真如)を似(しめ)している。と吟破するのであった。
くま訳
臨済禅を生き生きと活写する「阿房宮」
六國興亡は六國國風に原因があったのだ。
この詩句、言葉は何を示してるのか、
広大天に輝く月、真理(六國の興亡は、六國自体に原因がある)を示しているのである。

*活句:禅宗で、有益に生かして用いられた文句。生きた語句。 俳諧で、言外に奥深い味わいのある句
*筆海(ヒッカイ):文字の集まりの意から文章。詩。
*詞林:詞林: 詩文を多く集めた書。詩人・文人の仲間。文壇。 辞書。
(´・(ェ)・`)つ

365鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/18(木) 23:15:28 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、更に学ぶのじや。

そのような杜牧の「阿房宮賦」は宗門を活かす句なのじゃ。
それには六国が興り滅びたのは六国自身の国風によるとあるのじゃ。
その筆先が何を示しているのか、万里に晴れわたる天の月のように明白なのじゃ。

つまり宗門を栄えさせたければ自ら風紀を善くするようにと言うのじゃな。

366避難民のマジレスさん:2021/03/18(木) 23:41:50 ID:.FRkq9Z20
くま訳改
第三句:その筆先が何を示しているのか、
第四句:万里に晴れわたる天の月のように明白なのである。つまり宗門を栄えさせたければ自ら風紀を善く
するようにと言うのである。

357
看靈山行状   靈山の行状を看る
宗門極則又聱訛 宗門の極則又がうぐわ
乃祖靈山前釋迦 ない祖靈山前釋迦
採筆誰人點鬼簿 筆を採って誰人か鬼簿に点ず
工夫日用俗塵多 工夫日用俗塵多し

くま訳
靈山徳禪寺の行状を看る
宗門の規範はいりくんで、むつかしい。
開祖徹翁義亨は釋迦の正伝である。
実務として過去帳の作成などもしつつ、
一心に修行に励むが、俗世間との煩わしい事柄も多い

*霊山徳禅寺:徹翁が創建、応仁の乱で焼失、一休さんが再興。
 徹翁義亨(てっとう ぎこう)1369-1295 大徳寺1世。五山の禅に満足できないため,大徳寺の宗峰妙超  
 に参禅して法を嗣いだ。霊山徳禅寺を開創し,寺域内には石を配し,池を掘り船が浮かぶ庭園を築き,また 
 寿塔の正伝庵を設けた。足利義詮 や花山院覚円などの外護者を得ている。寺院経営,門徒の掌握と徹翁一
 派による大徳寺とその教団運営の基礎確立にすぐれた才能を発揮した
*極則:規範中の規範?奥義?
*聱訛(ごうが):いりくんで、むつかしきこと
*乃祖:祖父。また、祖先。
*点鬼簿:死者の姓名を書いた帳面。過去帳
*俗塵:浮世のちり。俗世間の煩わしい事柄。
*工夫日用:一心に修行に励む、日常
(´・(ェ)・`)つ

367鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/19(金) 23:59:24 ID:1d4drIFg0
靈山の行状を看て説いたのじゃな。

宗門の規則は又難しく入り組んでいるのじゃ。
霊山の祖であるお釈迦様の頃にはそんなに難しく入り組んでなかったのじゃ。
誰が故人の記に筆を加えてこんなにしたのか。
日用に俗塵を多くする工夫をしてはいかんのじゃ。

368避難民のマジレスさん:2021/03/20(土) 00:25:20 ID:5u2wfoj60
くま訳改
第三句:霊山の祖であるお釈迦様の頃にはそんなに難しく入り組んでなかったのだ。
第四句:誰が故人の記に筆を加えてこんなにしたのか。日用に俗塵を多くする工夫をしてはいかんのだ。

358
歇林紹休侍者相攸搆居扁曰傳正。 けつ林紹休侍者ところを相し居を構え、扁して傳正といふ、
因作偈以爲證云         因って偈を作り、以って證と為すと云ふ

宗門滅卻法筵開 宗門滅卻す法えん開く
狭路慈明顚倒來 狭路の慈明顚倒し來たる
墻外自然樵客迹 しょう外はじ然しううかくのあと
風流河愛斷岸梅 風流愛すべし斷岸の梅

くま訳
臨済宗をやめて、一休と同行する侍者と良い場所を探して居を構えたことが、誤った伝えられ方をしている。
そこで、偈を作り証するのである。

大徳寺宗門は滅卻したので、法会を開くのである。
色欲を抑制する狭路を慈明禅師がひっくり返して、以来
垣根の外は、自然であり、きこりの足跡もある(庶民が集まってくる)
風流を愛すべきである、険しい崖に咲く梅の花を愛でるのである。(困難なところに身を置いてこそ風流を
味わえるのだ)

*歇(けつ・かつ・やめる・ やむ・ つきる・ やすむ・ かれる)
*林下(りんげ・りんか)山林派とは中世以降の臨済宗を中心とする禅寺のうち、在野の寺院を指す呼称で 
 ある。五山十刹など幕府の庇護と統制下にあった「禅林」または「叢林」の一派に対し、林下は座禅修行 
 に専心する厳しい禅風を特色としている。臨済宗大応派の大徳寺や妙心寺。
*紹(ショウ):1.ひきあわせる。2.前代の事業・国家・家などをうけつぐ。つぐ。
*相攸(そうしょ):好い場所を観察して選択する(中国語翻訳サイト)
*法筵(ほうえん):仏法を説く所。法会・説法の席。法 (のり) の筵 (むしろ)
*偏する:考え方・感情・方法・方向などが一方にかたよる
*顚倒:①逆さまにすること、なること。②倒れること。ひっくりかえること。③うろたえること。④
「てんどう」煩悩のために誤った考えやあり方をすること。2020/08/08鬼和尚コメ参。 
   https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>888
*石霜楚円(慈明禅師、986 – 1039年)
*楊岐方会(ようぎ ほうえ、992-1049)宋代の臨済宗の僧。後世五家七宗の一つに数えられる楊岐派の祖 
 として知られる。日本に伝えられた臨済禅のうち、栄西によるものを除く全てがこの楊岐派に属する
*牆外・墻外(しょうがい):垣根の外側。
(´・(ェ)・`)つ

369鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/20(土) 23:26:20 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

宗門から離れて法会を開くのじゃ。
慈明禅師の如き苦行は中道ではない本末転倒なのじゃ。
樵のような一般人も自然に来るような法会であるべきなのじゃ。
時には断崖の梅も愛するような風流の心が大事なのじゃ。

370避難民のマジレスさん:2021/03/21(日) 00:12:13 ID:Y54sIEBM0
くま訳改
第二句:慈明禅師の如き苦行は中道ではない本末転倒なのである。
第四句:時には断崖の梅も愛するような風流の心が大事なのである。

359
賛臨済和尚   臨済和尚を賛す
従来道業是毘尼 従来道業是れびに
黄檗棒頭忘所知 黄檗の棒頭に所知を忘す
正傅的的克勤下 正伝的的こくごんか
吟破風流小艶詩 吟破す風流小艶の詩

くま訳
従来仏道修行は戒律に基づいてなされたのである。
臨済義玄禅師は、黄檗の三頓の棒を喫したことを契機に大悟した。
臨済の教えは、圜悟克勤(えんごこくごん)により正しく伝えられたのである。
吟破するのである、風流な小艶詩(雁艶詩)にのせて。

*道業:仏道修行のこと。悟りを成就するための修行の行為。
*毘尼(びに)毘奈耶(びなや):(vinaya の音訳。律と訳す) 比丘、比丘尼に関する、仏が制定した禁戒 
 をいう。三蔵中の律。
*臨済、黄檗の三頓の棒を喫して、遂に 辭して大愚の所に至る、因って前話を擧して、有過無過を問ふ、
 大愚曰く、「黄檗與麼に老婆なり、汝が爲に徹困なることを得たり、更に這裏に来たって有過か無過かと 
 云ふ。」師言下に大悟す。
*与麼:恁麼(いんも):1 (多く「の」を伴って連体詞的に用いて)疑問を表す。どのよう。いかように。
 2 (「に」を伴い副詞的に用いて)指示を表す。このよう。かくのごとく。
*臨済義玄(りんざい ぎげん、? -867)唐代の禅僧。諡は慧照禅師。臨済宗の開祖。言行録は、弟子の三 
 聖慧然によって『臨済録』としてまとめられており「語録の王」と称された。
*圜悟克勤(えんごこくごん)1063-1135宋の臨済宗の僧。字は無著。『碧巌録』の著者として著名。五祖 
 法演 (ほうえん) に参禅して大悟し,一家をなした。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/  >>251〜 参
(´・(ェ)・`)つ

371鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/21(日) 21:47:31 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

臨済の賛じゃな。

従来仏道は戒律を以って業とするものじゃった。
黄檗に棒で頭を叩かれて知る所を全部忘れたのじゃ。
その正伝は克勤の下にあるのじゃ。
今はそれを風流小艶詩にて吟破するのじゃ。

372避難民のマジレスさん:2021/03/21(日) 22:04:59 ID:LGwG7GQI0
360
以淫欲換詩文  淫欲を以って詩文にかふ
衆寮及第大雄尊 衆寮及第す大雄尊
著述佳名我命根 著述の佳名我が命根
愁夢未修雲雨約 愁夢未だ修せず雲雨の約
君恩猶喜費吟魂 君恩猶ほ喜ぶ吟魂を費やすことを

蔭木英雄先生訳
衆寮で開悟して、わしは釈尊と同じになったものの  
詩文を作る名声こそが
我が命なのじゃ
愁いの夢の中で、情を交す約束をまだ果さぬが
そなたの愛情が喜ばしい。なぜなら恩愛によって一そう詩情をそそるからだ

茶の湯に親しむHP
学寮を修了して、大にして雄なる尊者の一員となり、
述べ著すものの名声が私の命綱である。
あなたと交わした夫婦の契りは悲しい夢のまま収まりが付かず、
君の深情けは喜びのまま私の詩心を浪費させるよ

くま訳
淫欲を詩文に変換するのだ。
寺での修行により、透関して開悟したのである。
著述により名をあげることが、天から与えられた使命なのだ。
愁夢の中での情交の約束はまだ果たせていないが、
君への恩は喜ばしいのである。詩情を駆り立ててくれるのである。

*衆寮:禅寺で、座禅をする僧堂に対し、僧が経や語録を読み、修行を深める自習用の建物。
(´・(ェ)・`)つ

373鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/22(月) 23:25:09 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

衆寮で及第して大雄尊になったのじゃ。
しかし著述による佳名こそ我が命根なのじゃ。
愁えるのは雲雨の約束が未だはたされぬことじゃ。
君恩に吟魂を費やすことをまだ喜びとしているのじゃ。

374避難民のマジレスさん:2021/03/22(月) 23:49:18 ID:EdnDjoe.0
くま訳改
第二句:しかし著述による佳名こそ我が命根なのである。
第三句:愁えるのは雲雨の約束が未だ果たされぬことである。
第四句:君恩に吟魂を費やすことをまだ喜びとしているのである。

361
大燈忌宿忌以前對美人 大燈忌宿忌以前美人に對す
宿忌之開山諷経 宿忌の開山諷ぎん  
経咒逆耳衆僧聲 経じゅ耳に逆らう衆僧の声
雲雨風流事終後 雲雨風流こと終つて後
夢閨私語笑慈明 夢閨の私語慈明を笑ふ

西田正好先生訳・解説
大燈忌法要の読経の声が、 
せっかくの情事を妨げ気分をそぐもんだ。 
美人とこと終わって、
寝床の睦言を交わしながら、宋の慈明禅師も色好みであったわい、と笑えることよ

水上勉先生訳
大徳寺の開山大灯国師の百回忌、
僧侶たちの読経の声が聞こえてくるが、耳に逆らって、
自分は美人とよろしくやっている。
女を囲っていたという中国の慈明和尚もかなうまい。

柳田聖山先生訳・解説(牧原 一路先生ブログ)より抜粋
大灯国師の法要に、国師のことなんかちっとも判っていない連中が
経をあげて、法要した気になっている。
そんなエセ坊主の仲間になどはいらず、
自分は大灯国師と夢の中で親しく膝を交え、対話をした。
大灯国師の禅を本等に知る者は自分だけだ。

「逆耳」は中国の屈原を指している。屈原は、世の中を悲観して川に身を投げようとする。その時、漁夫が
「おまえさん、何をそう悩んでいるね。濁った川の水で冠を洗おうとするから悩むのだ。濁り水では靴を洗
えばいい、川の水がきれいになったら冠を洗えばいいではないか」と忠告してくれる。しかし屈原は、その
漁夫の忠告にも耳をかさず、「耳に逆らって」川に身を投じた。
一休は20歳の時、将来を悲観して瀬田川に身を投げようとしたことがある。屈原も王の子であった。後小
松天皇の子でありながら、世の矛盾に苦しむ自分を屈原と照らし合わせてみていたのである。
そして柳田氏は言う。「美人」は女性とは限らない、屈原も美人と評されていた。

くま訳
大燈の法要の宿忌よりも前に美人に対面したのである。
大燈の法要で勤行が行われている。  
経咒を唱える衆僧の声が耳障りだ。 
ワシは夢の中で大燈と親しく会い、
ワシは夢の中で慈明の禅の伝統に付いて話して、笑いあったのである。

*宿忌:開山忌、正忌の当日に対し、開山忌の前日のこと。その前夜に物忌みすることを言います。
*諷経(フギン):声をそろえて経を読みあげること。禅宗では、仏前での勤行(ごんぎょう)をいう
*経呪:経文と陀羅尼(だらに)。経陀羅尼。
(´・(ェ)・`)つ

375鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/23(火) 23:36:42 ID:1d4drIFg0
宿忌の開山を祝う読経の声、
衆僧の唱える経呪の声は耳に逆らうのじゃ。
それはまるで雲雨風流の事が終わりて後、
閨で夢見ながら語るようで慈明も笑うじゃろう。

376避難民のマジレスさん:2021/03/23(火) 23:58:43 ID:pDXcCfPA0
くま訳改
第三句:雨風流の事が終わりて後、
第四句:閨で夢見ながら語るようで、慈明も笑うでありましょう。

362
梅子熟     梅し熟す
熟處年年猶未忘 熟処年年猶ほ未だ忘れず
言中有味孰能甞 ごん中に味はひ有りたれか能くなめん
人斑初見大梅老 人ぱん初めて見るだい梅老
疎雨淡煙青巳黄 疎雨淡煙青すでにわう

くま訳
悟りの境地が年々深まっても、大悟の契機となった言葉は忘れない。
言葉に味わいは有りだれも剽窃することができないのである。
移り気な人の中で初めて見る大梅老師。
まばらに降る雨、薄もやの中、青葉はすでに紅葉に熟していたのである。

*大梅法常(たいばい・ほうじょう。752-839)唐。幼年より多くの経を暗唱する博覧強記の人であったが、
 長じては禅に志向し馬祖大師の法を嗣いだ。
*熟処① よくなれたところ。住みなれた場所。② 学芸、武術などの奥深い肝要なところ。奥義(おうぎ)。
*甞(なめる):抜キ取ルノ意ニシテ、一般窃取ノ行為ヲ云フ。掏ルコト、買フト同意。
*斑:1 色の濃淡、物の厚薄などがあって一様でないこと。また、そのさま。まだら。2 物事がそろわな 
 いこと。一定していないこと。また、そのさま。3 気が変わりやすいこと。また、そのさま。
 
おまけ: 大梅法常禅師(大成脚注)
 馬祖下の尊宿なり。曾て馬祖に参じて問ふ、「如何(いか)なるかこれ仏」と。
 馬祖曰く、「即心是仏(そくしんぜぶつ。心が仏である)」と。
 師(法常)言下に大悟し、それより大梅山に深居し松実を食とし、荷葉を衣とし、只管打坐すること三十年 
 なりき。一日馬祖故らに僧を使はして問はしむ、「和尚そのかみ馬祖に参見して何の道理を得てか此の山 
 に住するや。」師曰く。「馬祖吾れに向かって卽心卽佛と言ふ、我これより此の山に住せり」と。僧曰く、
 「馬祖佛法近来別なり。」師曰く、「作麼生か別なる。」僧曰く、「馬祖曰く、非心非佛と。」師曰く、 
 「這の老漢人を惑乱することを了期あるべからず。さもあらばあれ非心非佛、我は祗だ卽心即佛と。」 僧 
 還りて馬祖に挙似す、馬祖曰く」、「梅子熟せり」と。  
 僧が帰って報告すると馬師が言った。「梅子(ばいし)熟せり」。
 これよりようやく世に知られるようになり、大梅山に修行者が集まってきた。
 
*大梅山:漢の時代に梅子真(ばいししん)という人が隠棲して仙人になったと伝えられる山。。
*作麼生 (そもさん):禅問答の際にかける言葉で、問題を出題する側が用いる表現。「さあどうだ」といっ
 た意味合いである。問題を出題される側は、「せっぱ(説破)」と応えるのが一般的である。

 大梅禅師の言葉。
 「汝ら諸人、おのおの回心して本に達し、その末を追うなかれ。その本を得れば、その末おのずから至る。
 もし本を知らんと欲せば、ただ自心を了ぜよ」
 「この心はもとこれ一切世間出世間法の根本なり。ゆえに心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば種々の法 
 滅す。心もし一切の善悪に付さずして生ぜば、万法はもと如々たり」  禅師は八八歳で遷化した。亡く 
 なる直前、弟子たちに言った。「来るに拒むべきなく、往(ゆ)くに追う 
 べきなし」。それからしばらくくつろいでいたが、ムササビの鳴く声を聞くとまた言った。「この物は他 
 物にあらず。汝ら諸人、よくこれを護持せよ」。言いおわると示寂した。
 智覚禅師延寿が讃えて言った。「師、はじめに道を得るは、即心是仏。最後に徒に示すは、物は他物にあ 
 らず。万法(ばんぽう)の源をきわめ、千聖(せんしょう。諸仏諸祖)の骨に徹す。真化は移らず。何ぞ 
 出没を妨げん」
 出典「景徳伝灯録巻七、明州大梅山法常禅師」「宋高僧伝巻十一、唐明州大梅山法常伝」
(´・(ェ)・`)つ

377鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/24(水) 22:07:50 ID:1d4drIFg0
梅の実が熟したというのじゃ。

梅の実は熟した所は年月がたっても忘れないものじゃ。
言葉の中に味があり、誰がそれを嘗めて知ることが出来るじゃろうかというのじゃ。
はじめて老いた大梅の木を見るに人もまばらなのじゃ。
小雨で淡い煙の中で梅はすでに青い葉も黄色くなっているのじゃ。

梅に仮託して育った寺の衰退を嘆いているのじゃな。

378避難民のマジレスさん:2021/03/24(水) 22:23:14 ID:JY.8aDeU0
くま訳全面改
梅の実は熟した所は年月がたっても忘れないものである
言葉の中に味があり、誰がそれを嘗めて知ることが出来るだろうか。
はじめて老いた大梅の木を見るに人もまばらである。
小雨で淡い煙の中で梅はすでに青い葉も黄色くなっているのだ。

363
大隋菴邊有一龜。    大隋菴べんに一亀有り。
僧問。一切衆生皮褁骨。 僧問。一切衆生皮骨をつつむ。
這箇衆生爲嗔骨褁皮。  しゃこの衆生なんとしてか骨皮をつつむ。
大隋以草鞋蓋於背上   大隋草あいを以ってはい上におおふ

衆生顛倒幾時休 衆生顛倒幾ときか休せん
打着前頭又後頭 前頭を打着して又後頭
信手救猫趙州老 手にまかせてめうを救ふ趙州老
草鞋載去也風流 草あいいただき去るまた風流

くま訳
大隋庵の近くに一匹の亀がいた。
僧問う。一切の生き物は、骨を皮がおおっているが、
亀はどうして骨(甲羅)が皮をおおっているのでしょうか。
大隋禅師はわらじを亀の背に乗せておおった。

人は思い違いをして、混乱している。しばらく頭を休めるべきである。
頭を前に後に打ち付けて考えても、行き詰まるのだ。
何も考えずとも、子猫が切り殺されないように救える趙州老のよに、
草履を頭に載せて立ち去るのも風流である。

*大隋開山神照禅師(だいずいかいさんしんしょう):百丈下三世(834-919)  
     ┏黄檗希運
     ┃
百丈懐海━╋潙山霊祐
     ┃
     ┗西院大安━大隋神照
(´・(ェ)・`)つ

379鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/25(木) 22:53:06 ID:1d4drIFg0
衆生は顛倒して休む時も無いのじゃ。
前頭を打ったかと思えば次は後頭を打つのじゃ。
趙州老ならば手にとって猫を救えたのじゃ。
頭に草履を載せて去るのが風流なのじゃ。

380避難民のマジレスさん:2021/03/25(木) 23:09:51 ID:bKscMpEk0
くま訳全面改
衆生は顛倒して休む時も無いのだ。
前頭を打ったかと思えば次は後頭を打つのだ。
趙州老なら手にとって猫を救えたのだ。
頭に草履を載せて去るのが風流なのだ。

364       2/2
羅漢遊淫坊圖二首  
羅漢出塵無識情 羅漢の出塵識情無し
婬坊遊戯也多情 淫坊のゆけまた多情
那邊非矣那邊是 な辺非かな辺是か
衲子工夫魔佛情 衲子の工夫魔佛の情

柳田聖山先生訳
煩悩を捨てた羅漢は情を知らない
遊里で遊ぶのは多情の証しである
色好みの是非を問うのは遊戯以前
僧侶たるものは魔と仏を見極めよ

くま訳  
羅漢は俗世間を離れ、迷いが無い。
遊里で遊ぶのは多情だからである。
そのことの是非は
僧侶なら、自分で魔佛の情を見極めねばなりますまい。
(´・(ェ)・`)つ

381鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/26(金) 23:09:33 ID:1d4drIFg0
阿羅漢は俗塵を排出して識情がないのじゃ。
俗人が淫坊で遊べば情が多いのじゃ。
同じ情なのにどこに非があり、どこに是があってそのようになるのか。
修行者の工夫次第で魔にもなり、仏にもなるのが情なのじゃ。

382避難民のマジレスさん:2021/03/27(土) 00:07:42 ID:WG8H9gto0
くま訳全面改
羅漢は俗塵を排出して識情がないのである。
俗人が遊里で遊べば多情である
同じ情なのにどこに是があり、どこに非があてってそのようになるのか、 
修行者の工夫次第で魔にもなり、佛にもなるのが情なのである。

365
羅漢遊淫坊圖二首 2/2
出塵羅漢遠佛地 出塵の羅漢佛ぢに遠ざかる
一入淫坊發大智 一たび淫坊に入って大智を発す
深笑文殊唱楞嚴 深く笑ふ、文殊りょうごんを唱ふるを
失却少年風流事 失却す少年風流のじ

くま訳
俗世間を離れた羅漢は仏の地から遠のいてしまうのである。
一度遊里で、大いなる悟りの智慧を発すれば、
阿難の(遊里で、心神耗弱状態にされ犯されそうになったときに文殊が助けに行ったという)楞厳経の逸話を
読んで大笑いするだろう。
阿難は、悟る機会を逸したのである。

*出塵:俗世間の汚れから逃れること。出家して僧となること。
*楞嚴:大佛頂如来密因修證了義諸菩薩萬行首楞厳経・釋迦、女郎屋に拉致された阿難の救出を文殊に指示。
(´・(ェ)・`)つ

383鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/27(土) 23:13:38 ID:1d4drIFg0
俗世を離れた阿羅漢が仏の境地を離れ、一度淫坊に入ったとしても、大智を発するじゃろう。
楞厳経の文殊が淫坊に助けに入った故事を深く笑うじゃろう。
そのような若造の境地をもはや失却しているからなのじゃ。

384避難民のマジレスさん:2021/03/28(日) 00:11:22 ID:PWOU9dF20
くま訳全面改
俗世間を離れた羅漢が仏の境地から離れて
一度遊里に入ったとしても、大いなる悟りの智慧を発するでありましょう。
楞厳経の文殊が淫坊に助けに入った故事を深く笑うでありましょう
そのような若造の境地をもはやなくしているからである。

366
耽色喪徳    色に耽って徳を喪す
酒伴詩僧久絶交 酒はん詩僧久しくまじはりを絶つ
獨吟月影滿松梢 獨吟月影松ぜうに満つ
楚臺秋夢是吾業 楚台の秋夢是れ吾が業
杜牧昧淸淫色嘲 杜牧み清し淫色のあざけり

くま訳
女色に耽り徳を失う
飲み仲間の詩僧と久しく交わりを絶った
独り吟じる、松の梢の彼方に見える滿月
情交を夢見るのは我が業である
杜牧のように淫色の詩を詠む時でもその言葉は清淨でありたいものである。

*酒伴:飲み仲間
*楚臺秋夢:漢書に、楚は牽花の臺を起して黎民散ずと、即ち其の女色に耽るをいふなり(国訳脚注)
*花臺:美しい楼台
*黎民:一般人民
*楚台の夢・巫山の夢・楚夢雨雲:男女の交わり、情交のたとえ。戦国時代の楚の懐王が昼寝をした際、夢 
 の中で巫山の女神と情交を結んだ。別れ際に女神が「朝には雲となって、夕方には雨となってここに参り 
 ます」と言ったという故事から。
*杜牧(とぼく…803〜852):晩唐を代表する詩人
*嘲(チョウ・あざける) ばかにして笑うこと。あたりかまわず勝手な口をきく。また、大きな声を出す。
ふざける。声をあげて詩歌を口ずさむ。うそぶく。
(´・(ェ)・`)つ

385鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/28(日) 21:25:52 ID:1d4drIFg0

酒の伴の詩僧とは久しく絶交しているのじゃ。
月の影が松の梢に満ちる時、独り吟詠するのじゃ。
楚台の秋夢は我が業なのじゃ。
杜牧の詩は味清き淫色の嘲なのじゃ。

386避難民のマジレスさん:2021/03/28(日) 21:36:35 ID:rVU5IKF60
くま訳改
第四句:杜牧の詩は味清き淫色の嘲なのじゃ。

367
松源和尚 1/2
松源靈隱老師禪 松源はりんにん老師の禪
破法攀條省數錢 法を破りでうをよづ省数銭
嚢中我沒半文蓄 なう中に我半文の蓄え無し
狂客江山三十年 狂かくかう山三十年

くま訳
松源老師の禪
あやまった伝統、法など破り棄て、文章をひねり出し、節約して数銭を稼ぐのである。
財布の中には半文の蓄えも無いのである。
風狂に、山河に遊んだ人生三十年である。

*松源崇岳(しょうげんすうがく<1132〜1202年>)南宋時代の禅僧・23歳、応庵禅師の門下となり3 
 3歳で悟りを開いた。仏法を世の中に広め各寺の住職を務め、禅宗の看話禅及び默照禅に存在した不正行
 為を正すため、松源崇岳は座禅の方法を改革した。霊隠寺の住持をつとめ、霊隠寺で示寂した。
 松源和尚三轉語 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/
*破法(はほう):仏の教えにそむき、これをそしること。謗法
*攀(よじる、引く、すがる)
*條(じょう)えだ。すじ。すじ状に書いた文書。転じて、法律、規則、契約の類。すじみち。ことがら。
*攀條(中国語翻訳)枝を登ったり壊したりする。・・・を登ってその栄光を壊し・・
*嚢中(のうちゅう)1 袋の中。2 財布の中。また、所持金。
*狂客(きょうかく)① なみはずれた奇抜な行ないをする人。また、狂人。② 風雅を愛する人。風雅に徹
 した人。風狂の人。狂仁。③ 楊花(柳の花)や桃の異名。
*江山(こうざん)川と山。山川。山水。また、水陸の交わる景色。
(´・(ェ)・`)つ

387鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/29(月) 21:59:17 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

松源は靈隱老師の禪を伝えたのじゃ。
破法を破壊して、節約して暮らしたのじゃ。
財布の中には半文の蓄えもなかったのじゃ。
江山に三十年狂客として住んだのじゃ。

388避難民のマジレスさん:2021/03/29(月) 23:13:24 ID:UGqRHdIQ0
368
松源和尚 2/2
巡堂合掌又焼香 巡堂合掌又焼香
竪拂拈槌坐木床 じゅほつねんつゐしょうに坐す
臨済正傳也何處 臨済の正伝またいづれのところぞ
一休東海斷愁膓 一休東海に愁膓を断つ

くま訳
巡堂合掌又焼香という坐禅の作法に従い
竪拂拈槌(じゅほつねんつい)により師の指導を受けて床に坐す。ただそれだけのことなのに、
臨済の門徒のなかに、法を正しく受け継ぐ者はどこにいるというのだ。
一休は日本国において独り松源を受け継ぐものとして斷膓の思いである。

*巡堂合掌又焼香:坐禅の作法
*拈鎚竪払(ねんついじゅほつ):鎚をとり上げ、払子を立てる。師家が学人を接得する手段。
*愁腸(しゅうちょう):うれえ悲しむ心。愁心。
(´・(ェ)・`)つ

389鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/30(火) 23:38:57 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

巡堂し合掌して又焼香して供養するのじゃ。
竪拂拈槌し木床に座禅するのじゃ。
臨済の正伝はいずこににあるのじゃろうか。
一休は東海で断腸の愁いを抱えているのじゃ。

390避難民のマジレスさん:2021/03/31(水) 02:44:52 ID:isomS8To0
369
自賛   1/4
大機大用總絃膠 大機大ゆう総てげんかう
如法作家淸宴餚 にょ法の作け淸宴のこう
文君絞酒相如琴 文君がかう酒相じょが琴
終奈薄情無賴嘲 つひに薄無頼のあざけりをいかんせん

くま訳
大きな機会を充分に活かすための表現法があるのである
法に従った禅宗師家の雅な宴のさかな(=悟りへ導く指導技術)みたいなものである。
卓文君が夫の二心を悲しみ、別れの杯を交すと詠い送ったのが相如の琴線に触れたのである。
さてと、相如は薄情な無頼漢だというそしりをどうしたものか。

*絃膠(げんこう):東方朔の十洲記に、「鳳啄麟を以て膠を作る、續絃膠と名く、能く繼絃を續ぐ」と、
故に再び妻を娶るについて續絃といふ、司馬相如、卓文君を娶り、後、かえって将に茂陵の人の女を聘(め)
して妾となさんとす、卓文君、白頭吟を作って以て自ら絶つ、相如乃ち止むと。多情をいふなり。(大成脚注)
*鸞膠續絃法(中国語翻訳):漢王朝の武帝に捧げられた鳳凰骨髄を煮て作った非常に粘り気のある接着剤に
よる接着⇒やや無理がある設定で整合性を高めるようなしかけをする、表現技法・文法。
*餚(コウ・さかな)火をかけて調理した鳥・獣・魚などの肉。乱す。乱れる
*東方 朔(とうほう さく紀元前154年 – 紀元前93年)は、前漢の武帝時代の政治家。下界に住む仙人、お
笑いの神様。
*鸞膠續絃法(中国語翻訳):漢王朝の武帝に捧げられた鳳凰骨髄を煮て作った非常に粘り気のある接着剤に
よる接着⇒やや無理がある設定で整合性を高めるようなしかけをする、表現技法・文法。
(´・(ェ)・`)つ

391鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/03/31(水) 23:58:23 ID:1d4drIFg0
大機大用などは浮気性のようなものじゃ。
法に従う作家は宴会の肴なのじゃ。
文君が酒を絞り、相如が琴を弾くのじゃ。
遂に薄情無頼漢の嘲りをどうにもできないのじゃ。

392避難民のマジレスさん:2021/04/01(木) 02:25:35 ID:/M7/YgoQ0
くま訳全面改
大機大用などは浮気性のようなものである。
法に従う作家は宴会の肴なものである。
文君が酒を絞り、相如が琴を弾くのだ。
遂に薄情無頼漢の嘲りをどうにもできないのだ。

370
自賛  2/4
文章禪話不知真 文章禪話真を知らず
未得道流分主賓 未だだうる主賓を分かつことを得ず
慚愧永劫抜苦業 慙愧すやう劫抜苦の業
筆頭罵詈一天人 筆頭一天の人をめりす

くま訳
文章を読み、禪話を聞いても真理は分からないのだ
未だに修行者達は無分別の境地になれないので、、
慚愧の念に堪えないことに、永劫の苦を取り除かねばならないのである。
まずはその点に付き、天下の人を罵るのである。

*道流(どうる);臨済は修行僧達を「道流」と呼んだ。も本来「道教を奉じる人達」という意味
*慚愧:仏教では、対象を認識する心の中核部分(心)とそれに付随して働く心の作用の部分(心所)から 
 なる総合体として心を捉える。「慚」とは自分自身と法(仏教の教え)に照らして自分がなした過ちを恥
 じると共に、有徳者や善なるものを尊重することである。「愧」とは世間(法律や慣習などの規範) に
 照らして自分がなした過ちを恥じると共に、悪行から離れることである。この慚と愧は一応は区別される
 が、必ず相伴って生ずるとされる。そして、この二つは、心が善なるときは「精進」などの他の善の心の
 作用と共にいつも生じ、逆に心が不善(悪)のときは“恥じない想い”である「無慚」と「無愧」の二つ
 が必ず生ずると考えられている。
(´・(ェ)・`)つ

393鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/01(木) 23:29:18 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

文章や禅話では真理はわからんのじゃ。
悟りを得ていない坊主は主体と客体を分別しているのじゃ。
慚愧は永劫の苦を抜く法なのじゃ。
そのために天下の人々を罵るのじゃ。

394避難民のマジレスさん:2021/04/01(木) 23:54:13 ID:v8V8Mfq60
くま訳改
第三句;慚愧は永劫の苦を抜く法なのだ。
第四句:そのために天下の人々を罵るのだ。

いわれて見れば、うむ。なるへそと思えるのであるが、独力では↑このような訳が思い浮かばないくまであります。

371
自賛   3/4 
傍若無人閑逸心 傍若無人閑逸の心
奈何床下法塵深 しょう下の法塵の深さをいかんせん
夢閨銀燭繍簾月 夢閨の銀燭しうれんの月
白日青天咲朗吟 白日青天わらってろうぎんす

くま訳
俗世間から離れ、他人の目を気にしない。
地の底からわいてくる煩悩をどうするかと言うと、
夜は遊里の銀の燭台や繍簾越し月を眺め
晴れ渡った日中は、笑って詩を詠み吟じるのだ。

*傍若無人:他人の目を意識しない行動。「傍(かたわ)らに人無(ひとな)きが若(ごと)し」と読む。
*閑:1しずか。2.することがなくてひま。のんき。何もしないでいる。
*逸:世間から隠れる。世間に知られない。失われた。
*法の塵(のりのちり)仏法をけがすものを塵にたとえていう語
 六塵:仏語。色・声・香・味・触・法の六境のこと。心を汚し煩悩を起こさせるのでいう。
*夢閨(むけい):一休さんのペンネームの一つ
*繍簾(シュウレン): 刺繍をした簾(すだれ)。
*青天白日:よく晴れわたった青空と日の光。転じて、潔白で後ろ暗いことのないことのたとえ。また、無 
 実であることが明らかになること。▽「白日」は輝いて白い太陽のこと。「白日青天はくじつせいてん」 
 ともいう。
(´・(ェ)・`)つ

395鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/03(土) 00:04:25 ID:1d4drIFg0
>>394 学問も日々の精進が大事なのじゃ。
 精進あるのみなのじゃ。

心は傍若無人にして他人に無関心なのじゃ。
床下の法塵は深くしてどうしようもないからなのじゃ。
わしの銀燭は繍簾の月のようじゃ。
白日晴天ならば朗吟を咲かすのじゃ。

396避難民のマジレスさん:2021/04/03(土) 00:50:26 ID:IwyI08X60
鬼和尚、いつもありがとうであります。
くま訳全面改
心は傍若無人にして他人に無関心なのだ。
床下の法塵は深くしてどうしようもないからなのだ。
わしの銀燭は繍簾の月のようである。
白日晴天ならば朗吟を咲かすのだ。

*「わしの銀燭は繍簾の月のようじゃ」とは、「ワシは(煩悩についての)物事の見方において、繍簾を通
して月を見るようなものだと譬えるのだ。」という理解で良いので有りましょうか?

372
自賛   4/4
純老佳名發海東 純老が佳名海東に發す  
天源派脈截流通 天源の派脈流れをきって通ず
徳山臨済在何處 徳山臨済いずれのところにか在る
歌吹夢閨殘暁鐘 歌吹す夢閨殘暁の鐘

くま訳
一休純老の名声は大應國師を受け継ぐものなのだ。
大いなる源からの流れは、邪法を断ち切り、一休により正しく伝えられるのさだ。
徳山や臨済の流れを受け継ぐものが、他に何所にいるのか、
歌い笛を奏でつつ、一休は一人明け方鐘の音を聴くのである。(祖師たちの教を受け継いでいるのだ)

*純老・夢閨:一休さんのペンネーム
(´・(ェ)・`)つ

397鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/03(土) 23:23:47 ID:1d4drIFg0
↑それでもよいのじゃ。
 更に進歩していけば他の解釈も浮かぶじゃろう。
 それにも囚われずに進むのじゃ。


 わしの名声は尾張海東郡から発したのじゃ。
 天源派の法脈を斬ってわしが通じたのじゃ。
 徳山臨済の正伝はどこにあるのじゃ?
 わしは残照の鐘とともに歌うのじゃ。

 正伝はどこにあるというのは反語じゃな。
 勿論わしの所にあるのじゃ、ということじゃな。

398避難民のマジレスさん:2021/04/04(日) 02:41:42 ID:cHNtCD760
くま訳改
第一句:わしの名声は尾張海東郡から発したのだ。
第二句:天源派の法脈を斬ってわしが通じたのだ。
*尾張:愛知県の妙興寺:大応国師没後その法嗣(ほうし)として国師の頂相を付与された円光禅師が創建
した古刹。大應の木像が
*海東郡:静岡県の円通堂には、大応国師が生まれた時に産湯の水を汲んだと伝えられる、
「東海児孫日転多(ひにうたたおおし)」:虚堂の法を南浦が日本に広めるのを予言した
*天源派=大応派・大応国師の法を継ぐ宗派。天源院、南浦紹明(大応国師)の塔所として、鎌倉市建長寺 
内にある

373    1/3
示淫色人    淫色の人に示す  
巫山雲雨夢中神 ふ山雲雨夢中の神
君子猶迷況小人 君子なほ迷ういはんや小じんおや
風流聖主馬嵬涙 風流の聖主馬くわいの涙
龜鑑明々今日新 亀鑑明々今日あらたなり

くま訳
楚の暗君懐王の夢には女神があらわれたという、
君子でさえ迷うのだから、小人ならいうまでもなく翻弄されただろう。
雅な名君玄宗が馬嵬で流した涙の話は、
今日、教訓とすべきことは、全く明らかである。

*巫山雲雨 ふざんうんう:男女の交わり、情交のたとえ。( 巫山」女神が住んでいたとされる山)。戦国時
代の楚の懐王が昼寝をした際、夢の中で巫山の女神と情交を結んだ。別れ際に女神が「朝には雲となって、
夕方には雨となってここに参ります」と言ったという故事から。
*懐王(かいおう、? - 紀元前296年)戦国時代の楚の王。秦の張儀の謀略に引きずり回され、国力を消耗
 し、最後は秦との戦いに敗れ秦に幽閉されたまま死去した。戦国時代の暗君の代名詞的存在と目され、楚
 の悲劇の象徴とされた。
*馬嵬駅の悲劇:756年に唐の馬嵬駅で、安史の乱により蜀に逃げ延びる途上の皇帝玄宗に対して兵たちが
 楊国忠・楊貴妃を殺害するように迫り、楊貴妃が悲劇の死を遂げた事件
*聖主:徳の高い、すぐれた君主。
*亀鑑(キカン):「亀」は甲を焼いて占ったもの。「鑑」は鏡の意。行動や判断の基準となるもの。手  
 本。模範。
(´・(ェ)・`)つ

399鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/04(日) 21:56:03 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

巫山には夢で雲雨となる女神が現われたのじゃ。
君子でも迷うのに小人は迷わずにいられないのじや。
風流な聖主も馬嵬では楊貴妃を葬り涙したのじゃ。
以上のような亀鑑に明らかなように今日新たに心がけて淫心を慎むべきなのじゃ。

400避難民のマジレスさん:2021/04/04(日) 23:03:07 ID:Hw95uq0M0
374    2/3
示淫色人    淫色の人に示す  
濮上桑間唱哇音 ぼくじょうさうかんあいおんをとなふ
風流年少寵尤深 風流年少寵もっとも深し 
世界三家村裏客 世界三か村裏の客
重華不識二妃吟 ちょう華しらず二妃の吟

くま訳
傾国の淫靡な音楽を大きな音で奏で、
風流な若者を溺愛する。
そんなやつらは、
世界のはての田舎者の客だ
あざやかさだけを有難がり、無学で、娥皇と女英という舜の二妃の吟など知らぬだろう。

*桑間濮上(そうかんぼくじょう):濮水のほとりの桑間という地の意。国を滅ぼすような淫靡な音楽。 
 また、淫乱であること。殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が師延(しえん)にみだらな音楽を作らせたが、殷は
 滅び、師延は濮水に身を投げて死んだ。後に、濮水のほとりで聞こえた曲を師涓(しけん)が写し取り、晋 
 の平公のために演奏したところ、師曠(しこう)が亡国の音楽であるとして止めたという故事による。
*哇:わーわーきゃーぎゃー大声で叫ぶ
*三家村:寒村,片田舎.
*娥皇(がこう)は、古代中国の伝説上の女性。堯の娘で、妹の女英とともに舜の妻となった。堯は舜の人 
 格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。舜の父母や弟はたびたび舜を死地に置い
 たが、舜は娥皇と女英の機転に助けられて危地を脱した。舜が即位して天子となると、娥皇は后となり、 
 女英は妃となった。聡明貞仁で天下に知られた。舜が死去すると、娥皇と女英は江湘の間で自殺し、俗に 
 湘君(湘江の川の神)となったと伝える。
(´・(ェ)・`)つ

401鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/05(月) 21:08:12 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

傾国の歌を声高に歌い、
年少を深く寵愛することを風流とする者は、
世間知らずの田舎ものなのじゃ。
瞬王がまだ二妃の歌を知らなかった頃のようなものじゃ。

402避難民のマジレスさん:2021/04/05(月) 23:20:32 ID:uaEwwF2M0
くま訳改
第二句:年少を深く寵愛することを風流とする者は、
第四句:瞬王がまだ二妃の歌を知らなかった頃のようなものである。

*重華:古代中国の伝説上の帝王。名は重華。虞舜[ぐしゅん]ともいう。五帝の一人。堯王[ぎょ 
 う]とともに堯舜と併称され、ともに儒教では理想的な帝王とされた。『史記』によると、頑迷な父 
 をはじめ家族は悪徳で乱れていたが、舜は孝行して導いた。これを知った堯王から認められ、帝位を譲り 
 受け国号を虞とし、善政を行った。

375
示淫色人  3/3
所愛肉身飡食忠 所愛の肉身さんしの忠
心肝生鐵一天功 心肝しょうてつ一天の功
男兒死處色何屈 男兒の死処色何ぞ屈せん
悩亂楊花甲帳風 悩らんす楊花甲帳の風

くま訳
肉体が好むところは、食欲に忠実である。
心は鍛えられてなくても、それが世に示される功績につながることもあるのだ。
男子の死に場所として色欲に屈してよいものかと思うのだが、
心乱されてしまうのである、なよやかな美女がいる遊里のとばりの風に

*心肝1 心の中。2 思慮。考え。才覚。
*悩乱:悩み苦しんで心が乱れること。
*楊花(ようか):柳の花。また、なよやかな美女をたとえていう
*甲帳:美しいとばり、
(´・(ェ)・`)つ

403鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/07(水) 00:07:43 ID:1d4drIFg0
肉体を愛する者は忠誠の心をゴミのように掃きちらしてしまうものじゃ。
心肝を鉄とすれば天下の功業もなすことができるのじゃ。
男児の死処が色欲で屈してよいものか。
美女に悩乱すれば花街の風となって消えるのみじゃ。

心臓は忠誠、肝臓は勇気を出すところと考えられていたのじゃ。
鉄の心肝とは忠勇無双と言うことじゃな。

404避難民のマジレスさん:2021/04/07(水) 01:36:43 ID:2riPeU5I0
くま訳全面改
肉体を愛する者は忠誠の心をゴミのように掃きちらしてしまうものなのだ。
心肝を鉄とすれば天下の功業もなすことができるのだ。
男児の死処が色欲で屈してよいものか。
美女に悩乱すれば花街の風となって消えるのみである。

*生鐵:=銑鉄・高炉や電気炉などで鉄鉱石を還元して取り出した鉄のこと。銑鉄を生産するプロセスのこ
とを製銑(せいせん)と呼ぶ。古くは銑(ずく)と呼ばれた。

376
雲門示衆云      雲門衆に示していわく、
古佛興露柱相交。   古仏と露柱と相交わる、
是第幾機。      これだいいく機ぞ。
自代云。       自ら代わっていわく、
南山起雲。北山下雨。 南山に雲を起こせば、北山に雨を下す 

小姑縁底嫁彭郞 しょうこなにによってかほうろうにかす。
雲雨今宵夢一場 うんう今宵夢一場
朝在天台暮南岳 あしたに天台に在り暮に南岳
不知何處見韶陽 知らず何れのところにかしょう陽(雲門)を見ん

くま訳
雲門が説法で修行者に尋ねた。
古佛がお堂の柱と交わる
これにはどんな機縁、悟りに導く縁があるのか?
雲門自ら答えて言った。
南山に雲が起これば、北山に雨が降る。(分別せずにありのままを見れば、仏法の真実が眼前に顕れている
としれるのだ。)

小姑はなぜ彭郞と結婚したか
愛し合う、夢のような一夜
朝は天台に在り、暮には南岳
どこに韶陽があるのだろうか。(雲門はどこにいるのであろうか)

・・小姑と彭郞の波乱万丈の人生の中にも、分別せずにありのままを見れば、仏法の真実が見えるという意
味で有りましょうか?

*彭郞:中国語の翻訳サイトで調べてみた。地名の由来についての伝説が、語られてるであるが、半分も分 
 からない。一休の説明から、たぶんこんな話であろうと推測してみた。
 禁断の恋をして結婚、誘拐、逃亡、再会、波乱万丈の人生を送った彭郞。廃止されて既にない韶陽を懐か  
 しくおもう。
*韶陽(韶州の別名)589年、隋により韶州と改称された。翌年には廃止
 韶陽=雲門。雲門大師が韶州雲門山に住するによる
(´・(ェ)・`)つ

405避難民のマジレスさん:2021/04/07(水) 01:41:56 ID:2riPeU5I0
おまけ
佐藤悦成×先生訳
和訳)諸君、よく聞きなさい。雲門文偃が学人に教えていわれました。
「仏としての衲が外をみるのは、第何番目の働きでしょうか。」と大衆は答えませんでした。
そこで雲門が代わって
「南山に雲が起これば、北山に雨が降る」といいました。

釈意)雲門は、自己の内にある分別を用いることなく、すべてをありのままに観ることができなければ、実
相の会得には至らないと示した。
露柱はその例として説いたのであり、仮有空無の意味を説いている。真実の仏法が何であるか、と問われた
大衆は、あまりに初歩的な質問と捉えて逡巡したのか、問いかけに応じることができなかった。仕方なく雲
門は自らの問に自身で答えることになった。雲が発生すると雨が降るように、思慮分別が入ることなく、自
身の心に隙間が生じなければ。眼前の仏法の真実が現れていることを識ることができるのである。
(´・(ェ)・`)b

406鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/07(水) 23:46:16 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
どんな者でも真摯に修業すれば悟りに至れるということじゃな。

小姑はどのような縁で彭郎の嫁になったのか。
雲雨は今宵一晩の夢なのじゃ。
朝には天台にあり、暮れには南岳にあるのじゃ。
どこにいけば韶陽が見られるのかわからんのじゃ。

407避難民のマジレスさん:2021/04/08(木) 01:40:31 ID:PVB4a6ig0
くま訳改
第二句:雲雨は今宵一晩の夢なのだ。

377
感龍翔寺廢   龍翔寺の廃を感ず
常住物誰用己身 常住もの誰か己身に用ふ
山門境致剪松筠 山門境致しょういんをきる
殿堂只與花零落 殿堂只だ花とともの零落し
廢址秋風二月春 廃しの秋風二月の春

柳田先生訳
寺の什物は誰が私したのか、
境内の松竹も切りとられている。
仏殿も法堂も花が散るように壊れてしまい、
廃墟には春の二月というのに秋風が吹く

くま訳
龍翔寺の荒廃してしまったと感じたのだ
寺の公用物を誰が私物化したのか。
山門から境内までの松竹は切り払われ、
殿堂は花が散るように零落してしまい、
廃墟には春だと言うのに秋風が吹いているのだ

剪松筠(しょういんをきる):松筠は松及び竹にて、山門の風致を添える松や竹などを切り払ひ、見る影も
なきを云ふ。(国訳大成脚注)
廢址秋風二月春:荒廃の跡、楊梅香る春も錦紅散ずる秋も。共に寂々として昔の面影はなし。(国訳大成脚
注)
*大徳寺境外塔頭である龍翔寺(りゅうしょうじ)は、境内3000坪(1万㎡)を有している。
 正式には萬歳龍翔禅寺という。「本派専門道場」とも呼ばれている。山号は瑞鳳山という。 
 大徳寺派の修行専門道場になる。 南北朝時代、1378年、焼失する。 室町時代、1431年以降/文明年間 
 (1469-1487)、林下(りんか/りんげ、在野寺院)になる。以後、徐々に衰微した。 1458年/1461年、一休
 が寺を訪れた。荒廃していたため、修理料(21貫500文)を寄せたという。
*かげまるくん行状集記HP解説より
 『東海一休和尚年譜』寛正2年(1461)辛巳条(師68歳)によると、一休宗純は春に嵯峨に遊び、西京を経由して龍
 翔寺に参詣した。荒涼として僧少なく、堂宇は傾いていた。昭堂(普光塔)は大徳寺が管理していたため
 問題はなかったのであるが、庫院は荒廃が最も甚だしく、僧の威儀をただす太鼓の音は沈黙していた。一
 休宗純はこれを嘆いて、銭数千緡(びん)によって修造を行なったという。1緡(びん)は1貫文にあた
 るため、「千緡」は「十緡」の可能性を指摘される(今泉1998)。両史料の年代は3年食い違っているが、
 どうやら『臥雲日件録抜尤』の方が正しいようで、『東海一休和尚年譜』は年代の錯簡とみられる。
(´・(ェ)・`)つ

408鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/08(木) 23:10:57 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

常住物は誰が己の物としたか。
山門から境内の松竹は切られている。
殿堂はただ花と共に零落しているのじゃ。
廃寺の址に二月というのに秋風が吹くのじゃ。

409避難民のマジレスさん:2021/04/09(金) 00:17:37 ID:CUHV1Hts0
379 (378→351の前)    1/2
虎丘雪下三等僧 二首  虎丘雪下三等の僧
少林積雪置心頭 少林の積雪せきせつ心頭に置く
公案円成上等仇 公案円成す 上等の仇い。
僧社吟詩剃頭俗 僧社に詩を吟ず 剃頭ていとうの俗
飢腸説食也風流 飢腸(ちょう)食(じき)を説く也た風流

瑞巌寺住職 平野宗浄先生解説・抜粋 (一休和尚を語る・NHK教育)
『大慧武庫(だいえむこ)』という宗代の禅の語録に、 ・・・圓通禅師という人がですね、雪の降る日に
、自分の友達の僧堂へ遊びに行った。ところが虎丘雪下という。虎丘というのはお寺の名前で、そこでは丁度、
雪の降る日ですが、お休みの日だったんですね。そこに三種類のグループがおると。一番上等が、達磨さん
が少林におった時に、二祖慧可(えか)がお弟子になりたいと、雪のもの凄く降る胸まで積もる雪の中にジッ
と耐えておったと。それを頭に入れながら、寒い禅堂の中で、坐禅をしておる。これが一番。それから上等
の仇(きゅう)というのは、これは上等の類(たぐい)ということなんです。それから「僧社に詩を吟ず」は第
二番目です。「僧社に詩を吟ず剃頭の俗」というのは第二番目で、筆を執って、墨を刷って、雪に因んだ詩
を作っておる。そういうグループがある。これは中クラスです。それで一番落ちこぼれの人達は、「飢腸
(きちょう)」、・・・腹が減ったという。
腹が減って囲炉裏を囲みながら、食べ物の話をしている。
ところが、(一休さんは、・くま記)風流だと言うんですね。だからね、実はこれを三番目の落ちこぼれを、
つまり救いたいと。これが一番問題だと。一休さんはおっしゃるんですね。お腹を空かしている。落ちこぼ
れの弟子達、これを風流という言葉で、高めて、・・・これを高級な意味での風流という。・・・ここでは
ですね、いろんな食べ物の話は楽しいですよ。・・・ 決して、これは嫌(いや)らしいものでも、何でもな
い。人間としての本来のあるべき姿だと。こういうふうで風流と言っておるんですね。人間の一番大事なこ
とを風流という意味に高めておりますね。

Didier, DAVIN先生解説
『大慧武庫』にある話を背景にしていて、雪が降りますと寺で三種類の僧がいると説明する話である。
上等の僧は僧堂で座禅をしていて、中等の僧は雪を題に詩を詠んで、三等の僧は炉の近くに食べ物の話をす
る。上下ははっきりしているのに、一休は最下位を風流と褒める。作詩は僧のやるべき事ではない、それを
する人は頭を剃った在家と同じであるというのは、最初に見た詩は閻魔の許さない趣味に過ぎない行為であ
るとよく似ている。ただ、讃えられている三等の僧と冷たく認められている上等の間にある詩の立場をどう
理解すればいいのであろうか。一つの仮説として、詩は俗の世界と悟りの世界の仲介にあると考えられる。
僧侶として悟りの境地を理想にしているのは当然な事であり、その悟りから俗の世界に戻るべきというのは
また禅の教えである。禅の修行を大事にする僧に花丸をあげるが、お腹がすいて美味しい食べ物の話を素直
にする僧も立派な人である。ここで救いのない行為は作詩だけである。
しかし、この世界は超えなければならない欲の世界だと言いたい時に、一休は作詩あるいは作詩に引きつら
れる自分を詠う。

くま訳
虎丘の雪下で圓通禅師が三等と評した僧の話
達磨さんが少林にいた頃に、二祖慧可がお弟子志願して、積雪中に耐えていた。
それを念頭に置き、寒い禅堂の中で、坐禅をしている僧は上等な類である。 
僧社で詩を吟じているのは、頭を丸めた俗物である。 
腹が減ったと食べ物の話をしているというのは、風流である。

*虎丘(蘇州):『史記』 の記載によると、2400年前の春秋時代、越王との戦いに敗れた呉王の闔閭
(こうりょ) がこの地に埋葬されてから3日後、その墓に白い虎が現れたことから 「虎丘」 となったと
いう伝説があるようです。しかし、一方では “ 丘がうずくまっている虎のように見えるから ” という説
もあったりで、この辺は今となってはどちらが正解という訳でもなさそうですね。

*虎丘庵:方丈庭園の背後、小高い位置にある小さな茶室。ここは、かつて一休さんが森女さんとお住まい
になっていた虎丘庵です。 二畳の水屋と、六畳、三畳の小部屋だけの、とても簡素なたたずまいの建物で
す。もとは京都東山のふもとにあったのですが、一休さんが74才の時に起こった応仁の乱(1467年〜1477
年)から避難する時に、ここ(現在地)に移築されました
(´・(ェ)・`)つ

410鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/09(金) 23:27:14 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

虎丘寺の三等の僧じゃな。

少林の積雪を心頭に置き、公案を円成するは上等の類じゃ。
僧社に詩を吟じるのは禿げ頭の俗人なのじゃ。
腹が減って食べ物の話をするのが風流なのじゃ。

詩を詠むのは論外の俗人なのじゃ。
修行中の者はまだ悟っていないのじゃ。
悟り終えてもはや何の苦も無く食べ物の話をしているのが一番えらいというのじゃ。

411避難民のマジレスさん:2021/04/09(金) 23:54:56 ID:OdNWOKxA0
380    2/2
虎丘雪下三等僧 二首 
禪者詩人皆痴鈍 禪者詩人皆痴鈍
雪下三等多議論 雪下の三等多議論し
妙喜若是大慈心 妙喜かくのごとく大慈心
説食僧與香積飯 じきを説く僧に香しゃく飯を与ふ

くま訳
禪者や詩人は皆愚鈍である
『大慧武庫(だいえむこ)』の雪下三等の僧は誰かと議論ばかりしてるのである。
浄土では大いなる慈悲を以って、
食ベ物の話をしていた僧に飯が振舞われるのである

*妙喜世界(浄土):仏や菩薩が住む清浄な国土のこと。
*香積飯:香積如来の食べるご飯。転じて、僧の食べる物を敬っていう。
(´・(ェ)・`)つ

412鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/10(土) 23:18:06 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

禅者も詩人もみんな痴鈍なのじゃ。
雪下の三等は議論が多いのじゃ。
妙喜ではこのように大慈悲の心を起こして、
食を説く僧に香積飯が与えられるのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2021/04/11(日) 00:52:29 ID:hqpPt0vs0
くま訳改
第二句:雪下の三等は議論が多いのである。
第三句:妙喜ではこのように大慈悲の心を起こして、
第四句:食を説く僧に香積飯が与えられるのだ。

381
禪門寶訓云。圓悟謂妙喜曰。大凡擧措當謹始終。
謹終如始。則無敗事。故曰。靡不有初鮮克有終。
昔晦堂老叔曰。黄檗勝和尚奇衲子。但晩年謬耳。
観其始得。不謂之賢云云。因作偈題後云。

禪門寶訓に云く。「円悟、妙喜にいって曰く、『おほよそ挙措まさに始終をつつしむべし。
終りを謹むこと始めの如くなるときは、すなわち敗事無し、故に曰く、初め有らずといふこと無し、よく終
り有ることすくなし。』
昔まい堂老叔曰く、『黄檗の勝和尚、亦(また)奇なつすなり、ただ晩年あやまるのみ、
その始めに得るを観て、これを賢とはいはず、うんぬん』と。」よってげを作り、後に題すという。

    1/3
鐘楼讃兮猛虎途 鐘楼の讃猛虎の途
衲子金言臨濟徒 なっすの金言臨濟の徒
擡搦與奪辨邪正 だいぢゃく与奪邪正を弁ず
諸祖當機非一模 諸祖の当機一模に非ず

くま訳
禪門寶訓に記されているところによると、「圓悟大師が妙喜に対して言った。『おおよそ立ち居振る舞いは
終始慎み深くしなさい。
終りを慎ましくあることが、始めの如くであれば、間違える事がないであろう。
故に言った、初めに(慎み深い振る舞いが)有らずといふこと無し、(慎み深い振る舞いが無ければ)、良
い終りがあることは少ないであろう。』昔、晦堂老師が曰く、黄檗勝和尚(慧南禅師)は普通とは違った禅
師である。ただ晩年あやまっただけであり、始めから(慎み深さを)得ているからと言って、賢とはいわな
いのだ。この法話に因んで作詞するのである。
    1/3
寺院の鐘楼でほめたたられるのは、猛虎のような(厳しい修行の)道である。
禅師の公案などによる金言で導かれるのが、、臨濟の門徒である。
持ち上げたり、からめとったり、与えたり奪ったりして、正邪をさばくのである。
諸師たちの、悟りへと導く方法は一様ではないのだ。

*禅林宝訓・禅門宝訓:大慧宗杲と竹庵士珪が編集したものを、東呉の沙門浄善が増補改修し、1174-89に
完成。
*妙喜:圜悟克勤の法嗣大慧宗杲の号、1089-1063
*挙措:立ち居振る舞い
*晦堂(まいどう)祖心:=黄龍慧南1025-1100の弟子、建仁寺開山栄西禅師がその法脈に連なる名僧
*讃:1.他人の美徳をほめる。たたえる。2.仏徳をたたえる韻文

おまけ:『五燈会元』巻第十七、黄龍祖心禅師章(霊芝山 光雲寺HPより抜粋)
晦堂祖心、・・・十歳にして出家得度され、長じてのちに雲峰文悦禅師に参じること三年、何らの所得もな
く辞去せんとしたところ、文悦禅師は「必ず黄檗山に住する慧南禅師の道場に行ってご指導を受けよ」とさ
とした。・・・祖心禅師は黄檗に至って慧南禅師のもとで刻苦すること四年、しかもなお開悟することはで
きなかった。この道場は自分には機縁がないと思われたのか、また辞して文悦禅師のところへ戻られた。
・・・或るとき、中国の禅宗史である『景徳伝燈録』を読んでいて、「僧が多福(無字の公案で有名な
趙州の法嗣)に、『多福の竹林とはどのようなものか』と問うと、多福は『一本、二本は斜めの茎だ』と答
えた。僧が『分かりません』というと、多福は『三本、四本は曲がっている』と応じた」という箇所に出く
わした。竹に託して多福の家風をたずねた僧に対して、実際の竹の光景をもって答えたのに妙味がある。こ
の一段に至って祖心禅師は開悟して、自分がいままでついた二人の老師の作略(さりゃく、修行者を導く手
法)の何たるかを徹見した。
ただちに黄檗に戻り、慧南禅師に対して礼拝の坐具をのべようとしたところ、慧南禅師がすぐさま見抜いて、
「お前はすでにわしの宗旨を会得したわい(わが室に入れり)」というと、祖心禅師は跳(と)んで踊らん
ばかりに歓喜して、「仏法の一大事は本来このようなものなのに、どうして老師は公案などを使ってあれこ
れと探索させられたのですか」と問いただすと、慧南禅師は、「もしわしがお前をそのように究め尋ねるこ
とをさせて無心の境地に到らしめ、みずから見て、みずから納得するような体験をさせなかったならば、わ
しはお前を台無しにしたことであろう」といった。
(´・(ェ)・`)つ

414鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/11(日) 23:32:02 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

鐘楼は猛虎の道を讃美するのじゃ。
僧は金言を臨済の徒に与えるのじゃ。
さまざま手段を与奪し、邪正を説くのじゃ。
そのように諸祖は機に当たって一様ではない手段を尽くすのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2021/04/12(月) 03:15:17 ID:5SaWg6N20
382   2/3
晦堂老痛處針錐 晦堂老痛処の針すい
隠去彌彰惟勝機 隠し去ればいよいよあらはるゐ勝の機
明眼非元來即是 みゃうげんの非は元来すなわち是
一休是正本來非 一休が是は正に本来非なり

くま訳
晦堂老が晩年過ったのは、針で突かれたような痛みなのだ。
隠し去ることによって、逆に悟りへの道が開かれるのだ。
悟った者が言う非は元来そのまま是なのである。
一休が言う是は正に本来非なのである。

*明眼(みょうげん):物事の真実を明らかに見通せる心の眼。
(´・(ェ)・`)つ

416鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/12(月) 21:49:59 ID:1d4drIFg0
晦堂老は正に痛む所に的確に針を刺すのじゃ。
隠居してもその勝機はいよいよあらわれるばかりなのじゃ。
明眼の者は非は元来即是であると説くのじゃ。
一休は是こそ本来非であると説くのじゃ。

色即是空空即是色ということじゃな。

417避難民のマジレスさん:2021/04/13(火) 03:17:29 ID:zbIV22Qs0
くま訳全面改
晦堂老は正に痛む所に的確に針を刺すのだ。
隠居してもその勝機はいよいよあらわれるばかりなのだ。
明眼の者は非は元来即是であると説くのだ。
一休は是こそ本来非であると説くのだ。

*この詩は全く読解できなかったであります。がっかりでありました。
 鬼和尚、いつもありがとうであります。
 >>413 の詞書の訳・解説もお願いするであります。

381再掲
禪門寶訓云。圓悟謂妙喜曰。 禪門寶訓に云く。「円悟、妙喜にいって曰く、
大凡擧措當謹始終。     『おほよそ挙措まさに始終をつつしむべし。
謹終如始。則無敗事。    終りを謹むこと始めの如くなるときは、すなわち敗事無し、
故曰。靡不有初鮮克有終。  故に曰く、初め有らずといふこと無し、よく終り有ることすくなし。』
昔晦堂老叔曰。       昔まい堂老叔曰く、
黄檗勝和尚奇衲子。     『黄檗の勝和尚、亦(また)奇なつすなり、
但晩年謬耳。観其始得。   ただ晩年あやまるのみ、その始めに得るを観て、
不謂之賢云云。       これを賢とはいはず、うんぬん』と。」
因作偈題後云。       よってげを作り、後に題すという。

くま訳
禪門寶訓に記されているところによると、「圓悟大師が妙喜に対して言った。
『おおよそ立ち居振る舞いは、終始慎み深くしなさい。
終りを慎ましくあることが、始めの如くであれば、間違える事がないであろう。
故に言った、初めに(慎み深い振る舞いが)有らずといふこと無し、(慎み深い振る舞いが無ければ)、良
い終りがあることは少ないであろう。』
昔、晦堂老師が曰く、
黄檗勝和尚(慧南禅師)は普通とは違った禅師である。
ただ晩年あやまっただけであり、始めから(慎み深さを)得ているからと言って、
賢とはいわないのだ。
この法話に因んで作詞するのである。
(´・(ェ)・`)b

418鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/13(火) 21:43:05 ID:1d4drIFg0
大体よいようじゃ。


 円悟は、妙喜に言ったのじゃ。

 おおよそ挙措動作は正に終始を慎むべきなのじゃ。
 終わりを慎むこと、始めの如くであればすなわち敗れることはないのじゃ。
 故に曰く、初めに慎みが無ければ、終わりにも有る事は少ないのじゃ。

 昔、晦堂老師が言ったのじゃ。
 
 慧南禅師は得がたい僧であったが、晩年に誤ったのじゃ。
 その初めに慎みがあるからと、賢者と言われるものではないのじゃ。

 よって偈題を成し後に伝えるのじゃ。

 慧南禅師というのは晩年に火事を出して牢に入れられたというのじゃ。
 そのために非難されるのじゃ。
 悟っても粗忽な振る舞いをすることなく、初心の者のように慎み深く謙虚に過ごせというのじゃな。

419避難民のマジレスさん:2021/04/13(火) 23:15:37 ID:xuQJwPRo0
くま訳改
四行目:故に曰く、初めに慎みが無ければ、終わりにも有る事は少ないのだ。

383   3/3
但歸依積翠庵禪 ただ積翠庵の禅に帰依して
慚愧狂雲名利前 慚愧す狂雲名利の前
一夕一朝日月蝕 一夕一朝じつ月の蝕
終分明白日青天 つひには分明なり白日青天

石井恭二先生訳
ただただ、積翠庵の黄竜慧南の禅に敬服する、
まだ名刹に囚われている自分を、朝夕に恥じる。
日蝕も月蝕も、やがては終り、
ついには晴天白日の空になることは明らかだが。

くま訳
積翠庵に住した黄龍慧南禅師に帰依するのである
愧ずらくは、狂雲が名利に囚われていることである。
日食月食もすぐにおわり、
やがて、天空は晴れ渡るのだ

*積翠庵:黄龍慧南が1066年前後に住んでいた庵
(´・(ェ)・`)つ

420鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/14(水) 21:13:39 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

ただ積翠庵の禅に帰依するのじゃ。
狂雲の名利に囚われていたことを慙愧するのじゃ。
日月の蝕は一夕、一朝しか続かないのじゃ。
すぐに終わって白日晴天が分明になるのじゃ。

421避難民のマジレスさん:2021/04/14(水) 22:47:14 ID:ZaDitCsY0
384
陳蒲鞋    陳ほあい   
賣弄諸人瞞諸方 諸人をまいろうし諸方まんず  
徳山臨済沒商量 徳山臨済もつしゃうりゃう。  
拈槌竪拂非吾事 ねんついじゅほつわがじにあらず    
只要声名属北堂 只だ要す声名の北に属せんことを  

くま訳
人々に自分の力量をひけらかし、周囲をだましたのだ。
徳山や臨済は思考することを否定した。
槌を手に取り、払子を立て、 弟子を育てることなど我ことではなく、
ただひたすら、北方禅(漸悟的な禅)の名声を上げることだけを求めたのだ。

* 陳蒲鞋:黄檗希運禅師の法嗣睦州道明、あるいは、道蹤(どうしょう)禅師、臨済を策励したり、雲門 
 の脚を折ってまでして接得(修行者を親しく指導すること)した人。峻厳極まりない機鋒の禅匠。母親孝行
 でもあり、草鞋(わらじ)を作って母を養ったことで、「陳蒲鞋(ちんほあい)」とも呼ばれた。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>72〜87
*賣弄(まいろう):(才能・賢明さ・媚態などを)見せびらかす,ひけらかす.
*瞞(まん):だます・あざむく
*商量:① 事の由来、すべき方法、事の善悪などをあれこれと考えること。② 相談すること。相談して考  
 えること。
*頓悟・漸悟(とんご・ぜんご):ただちに悟りの境地に達することを頓悟,順を追って次第に悟りに近づ 
 くことを漸悟という。またすみやかに悟りの境地に入ることを頓証菩提という。法相宗では修行の段階で 
 ある声聞,縁覚の位を経ないで,いきなり菩薩の位に入るときには頓悟の菩薩として区別した。また中国 
 の禅宗では,南方に広まった慧能の禅風を頓悟,北方の神秀の禅風を漸悟と呼び,南頓北漸といった。そ  
 の後南宗禅が栄えたため,現在伝わるものは頓悟的な禅である。
*陳蒲鞋に対する一休さんの評価が低かった決定的な理由は何でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

422鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/15(木) 20:33:45 ID:1d4drIFg0
人々に自分の才能をひけらかし、各方面を騙したのじゃ。
徳山臨済のことなど考えなかったのじゃ。
槌をとり払子を用いるのは我が事ではなく、
ただ声名を北堂に属させようとするためだつたのじゃ。

423避難民のマジレスさん:2021/04/15(木) 21:16:02 ID:H3hNGvDU0
くま訳改
第二句:徳山臨済のことなど考えなかったのだ。
第四句:ただ声名を北堂に属させようとするためだつたのだ。

*ここで、北堂は母のことでありますか?
 第四句は、母親のために名声を上げたいと言うような意味でありましょうか?

385
示榮衒徒    榮衒の徒に示す
人家男女魔魅禪 人家の男女魔魅の禪
室内招徒使悟玄 室内に徒を招いで玄を悟らしむ
近代癩人頥養叟 近代癩人のい養そう
彌天罪過獨天然 み天の罪過独り天然

くま訳
名利を求める榮衒の徒に示す詩
男女をだまくらかす技としての禅。
室内に修行者を招入れ、玄旨を悟らしめんとするのが、
最近の癩病患者養叟である。
天下に及ぼす罪悪は奴の天性によるものである

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>808靈山徹翁和尚示榮衒徒法語  
 徹翁義亨(大徳寺1世)の法語
*頥養叟:宗頥養叟禅師
*彌天(みてん):空いっぱいに広がること。天一面に満ちわたること。また、天宮の全体。大きいこと、 
 数量が多いこと、あるいは人格的にすぐれていることなどにたとえる。
(´・(ェ)・`)つ

424鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/17(土) 00:06:21 ID:1d4drIFg0
>>421 寺とか宗派を捨てて母親のところにいつたからじゃろう。
 まだ囚われがあったというのじゃな。
 

>>423 そうかもしれん。
 母親のために禅を捨てたというのじゃな。

425鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/17(土) 00:12:21 ID:1d4drIFg0
また養叟の批判じゃな。

 人家の男女に魔魅の禅を教えるの゛ゃ。
 室内に修行者を招いて玄を悟らせるのじゃ。
 近代のライ病の養叟なのじゃ。
 天に満ちるほどの罪はいずれ天が然らしむことになるじゃろう。

426避難民のマジレスさん:2021/04/17(土) 07:19:15 ID:YIG4xlXs0
鬼和尚、いつもありがとうであります。

386
龍門亭題偈賀天龍寺再興 龍門亭に偈を題して天龍寺の再興を賀す
盡乾坤乃祖門風 じんけんこんない祖の門風
萬嶽嵯峨烟雨中 ばん岳嵯峨たりえん雨のうち
三級浪高黑雲鎖 三級浪高うして黒雲とざす
潜鱗直得化天龍 せんりん直に天龍と化するを得たり

くま訳
龍門亭に偈を捧げて、天龍寺の再興を賀すつのである。
夢窓国師の門風は既に消失してしまっている。
聖地嵯峨の山々は霧雨の中にけむる。
悟りを求めるものにとっての登竜門は、愚か者達によってとざされてしまったが、
生あるものは全て、直接悟りを得ることができるのだ。

*天龍寺:臨済天龍寺派の本山。京都五山の第一位
 天龍寺龍門亭:南北朝時代の1346年に夢窓疎石・夢窓国師が選んだ「十境」のひとつ 
*夢窓疎石(むそう そせき):1275〜1351南北朝時代の臨済宗の僧。9歳のとき甲斐平塩寺の空阿の弟子 
 となって密教を学び,18歳で得度し,奈良,東大寺戒壇院で慈観について登壇受戒した。 20歳で上京, 
 建仁寺の無隠円範に参じて禅に帰し,のちに中国より一山一寧が来日したとき,鎌倉に下って学んだが機 
 縁は契 (かな) わなかった。1325年 後醍醐天皇の勅により南禅寺の住持となるが,北条氏に請われて 
 鎌倉に入り,北条氏滅亡後上京して再び南禅寺に入った。京都騒乱後に足利尊氏の帰依を受け,天竜寺の 
 開祖となった。天竜寺船による貿易を促し、また造園芸術を発展させた。門派は夢窓派といい、五山文学
 の最盛期をつくった。足利氏は末代にいたるまで疎石の門徒に帰依することを約束し,室町時代を通じて 
 夢窓派が隆盛することとなった。
*萬嶽:万岳・多くの山々。
*潜鱗:水中にひそんでいる魚。

おまけ・『碧巌録』第七則 茶席の禅語選HPより抜粋
三級浪高魚化龍、癡人猶戽夜塘水。 三級浪高くして魚龍と化し、癡人猶おくむ夜とうの水。

「修行者が師家のもとに参じその鉗鎚を受けると、鯉が竜門を透過すると竜と化してしまうように、おろか
な人も悟りを得て禅門の竜象となるという意。俗に毎年三月三日に鯉がその滝を遡って竜門を透過すると、
角を生やして竜になるという故事」
「竜門の三段の堰の高なみを上って魚はすでに竜となったのに、愚かものが魚を捕えようと、なお夜の淵の
水をかい出している。言葉づらにとらわれて、勘所を押さえきれない愚かさを喩える」
「鯉は疾くに龍となつて禹門の三級を上つたのに、馬鹿者が何時迄も水をかえている」
「禹帝治水の時、龍門の瀧を切り開きて三段と爲せり。此三段の瀧を、春三月三日桃花の咲く時鯉魚が跳び
越へると、火を發して尾を焦き角を生じて龍となるといふ。鯉魚が已に龍と化したのも知らずに、愚人は暗
夜の池水を汲み干して鯉を探して居るは見るに堪へぬ」

*三級 … 三段になった滝のこと。
*鉗鎚(ケンツイ):「鉗」は金ばさみ、「鎚」は金づちの意。禅家で、師僧が弟子を厳格に鍛え、教え導
 くことをたとえていう語
(´・(ェ)・`)つ

427鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/17(土) 23:53:09 ID:1d4drIFg0
天龍寺の再興ができた賛じゃな。

乾坤宇宙全てを包含する祖師の門風なのじゃ。
嵯峨の万の山は煙雨の中なのじゃ。
三段の滝が波高く黒雲を縛るのじゃ。
それでも潜む鱗類は直ぐに天龍と化することを得るのじゃ。

要するに天龍寺で修業すれば直ぐにでも悟れるのじゃ、ということじゃな。

428避難民のマジレスさん:2021/04/18(日) 06:37:40 ID:QdkMQi020
くま訳全面改
乾坤宇宙全てを包含する祖師の門風なのだ
嵯峨の万の山は煙雨の中なのだ。
三段の滝が波高く黒雲を縛るのであるが、
それでも潜む鱗類は直ぐに天龍と化することを得るのだ。

*乃祖:(ない) 汝の祖父。また、一般に、祖先。だいそ。
*盡:つきる。なくなる。つくす。きわめる。なくす。ことごとく。全部。すべて。

*「三段の滝が波高く黒雲を縛る」は、天龍寺での厳しい修行をすれば、悟りを妨げる障壁を取り除くとい 
 う理解でよいでありましょうか?

387
滅燈齋 
眞前一盞太分明 眞前の一さんはなはだ分明
乃祖靈光照太淸 ないその霊光太淸を照らす
徳嶠悟道我不會 徳けうの悟道、我ゑせず
江湖夜雨十年情 がう湖や雨十年の情

くま訳
目の前に盃があることは、はなはだ明らかなのだ。
祖師から受け継いだ尊い光は天下全てを照らすのだ
徳嶠の悟道は、わしには分からぬが、
江湖の夜雨 ともに修行した十年の情で気にかかるのだ

*中川徳之助先生解説より抜粋。()内はくま添
 自戒集を見ると寛正2年(1461)6月16日、一休は大燈国師の頂相を本寺に返して念仏宗に改宗すること 
 を宣言する。その動機となったのは、一休会下の久参の僧が「我カ印可ト云テ年来久参タテヲシテ、一休ノ後ハ我ニ仏 
 法ヲ問ヘト会裡ノ人々ニ申シアエリ。」とあるような行動をとったことで、この僧を前年の6月11日に擯出し、1年
 後の改宗宣言であった。
 (この)擯出された僧とは、(謹白久参人・・ 
 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>669(にある)崇宗蔵主のことかもしれ 
 ない。(滅燈斎=崇宗蔵主の斎明)
 (387)の頌は、龍潭信禅師と徳山宣鑑の滅燈の問答をふまえて作られているが、あるいはこの頌を一休 
 よりの印可と思い誤り、崇宗蔵主(滅燈斎)は擯出される結果になったのではありますまいか?
*齋:雅号などの何々斎という名。もとは僧侶が法名のほかに付けたもの
*盞(さん):盃
*太淸:天
*徳嶠:徳山のことでありましょうか?
*黄庭堅の詩(サワラ君の日誌blogより)
 桃李春風一杯酒 
 江湖夜雨十年燈
 桃李の花の下で 春風に吹かれて一杯の酒
 江湖の夜雨 別れて以来十年の灯火
*龍潭信禅師と徳山宣鑑の滅燈の問答(じ・た・る先生blogより)
 徳山禅師が、天下に聞こえた龍潭和尚をしたってようやく龍潭を訪ねることができたときのことである。
 龍潭和尚の部屋に入って、師から懇切な教えを聴いていた徳山は、ときの経つのをすっかり忘れていた。
 龍潭和尚が 「夜もだいぶ更けたようじゃ。そろそろ引き上げたらどうじゃ」 と言われたので、ていね
 いに別れを告げて、簾を上げて外へ出ると、外は既に真っ暗闇だった。 しかたなく、龍潭和尚のところ
 に戻ってきた徳山は、恐縮しながら 「暗くて道が分からないのですが」と申し上げた。すると龍潭和尚
 が自ら紙燭(紙に油を染み込ませた物)に灯を灯して目の前に出された。ところが徳山がそれを受け取ろ
 うとすると、龍潭和尚がにわかにその紙燭の灯をフーッと吹き消してしまった。そのとたん、徳山は忽然 
 として悟りを開いてしまった。
(´・(ェ)・`)つ

429鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/18(日) 23:20:40 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、龍は雲に乗って昇天するから黒雲が縛られたら昇天できないのじゃ。
それが悟りの障害を乗り越えることの喩えじゃな。

430鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/18(日) 23:44:56 ID:1d4drIFg0
燈明を滅する滅燈齋というから徳山じゃろう。

顔面の真ん前の明かりははなはだしく明るいのじゃ。
祖師の霊光は天まで届くのじゃ。
徳山の悟道にわしは会っていなかったが、
世間で夜雨に遭えば十年の情がわくのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2021/04/19(月) 11:24:53 ID:5liPk8Gc0
くま訳全面改
顔面の真ん前の明かりははなはだしく明るいのだ。
祖師の霊光は天まで届くのだ。
徳山の悟道にわしはあっていなかったが、
世間で夜雨に遭えば十年の情がわくのだ。

*盞→ 一盞明灯=狼煙、かがり火
*「世間で夜雨に遭えば十年の情がわく」とは、自分を慕って訪ねたてきた徳山に対して、龍潭和尚が、導い 
 て徳山自身の内側の光明に気付かせて悟らせた、その機縁についてのことでありますか?

388
賛六祖    六祖を賛す
隋身擔子鈯斧 隋じんのたんすとつぷ
不知何處山翁 知らずいづれのところの山翁ぞ
南方佛法會否 南方の佛法會すや否や
盧公老老盧公 ろ公老老ろ公

くま訳
薪を担ぎ、なたを持ち歩く、
素性の知れぬ山男とみなされていたが、
南宗頓悟禅を打ち立てて五祖の法嗣として認められることになったのだ。
六祖慧能よ!慧能老師よ!

*随身(ずいじん)1 平安時代以降、貴人の外出のとき、警衛と威儀を兼ねて勅宣によってつけられた近衛 
 府の官人。2 神社の左右の神門に安置される守護神。3 桃の節供に飾る雛(ひな)人形の一。4 供とし 
 てつき従っていくこと。また、その人。おとも。5 物を身につけること。携帯すること。
*擔子:天秤棒で担ぐ荷、責任
*鈯斧:なた、斧の類なり(大成脚注)。切れ味が鈍くなってしまった斧、鋭くない斧、不鮮明な
*南方佛法會否:五祖に参じ、八月遂に黄梅の衣法を伝持して山を下る、五祖の指示により南方に遁れ、漁 
 恠にかくれ、後印宗法印の非風動、非幡動の旨を断じ、遂に剃具すと(大成脚注)
 六祖慧能禅師は五祖弘忍(ぐにん)禅師の法の奥義を受け伝法衣を引き継いだものの、身分なく真っ 
 当な出家得度者でなかったことなどから、五祖門下の承認が得られず弘忍の奨めによって、さらに修行行
 脚の旅にでた。そんなあるとき広東省・法性寺の印宗和尚の「涅槃経」の講座があることを聞きつけて
 法性寺を訪ねたときのことである。講座が開かれる法堂の前には幡が立てられて折からの風にあおられて 
 パタパタと音をさせてはためいていていた。・・風が動いているのか、幡が動いているのかという議論に
 対して「風動くに非ず、幡動くに非ず、仁者(あなたがた)の心が動いているのだ」と。断じた。
(´・(ェ)・`)つ

432避難民のマジレスさん:2021/04/19(月) 11:31:24 ID:5liPk8Gc0
*おまけ:
 慧能(えのう)wikipediaより抜粋:638-713年南宗の六祖。父が早くに亡くなり、薪を売って母親を
 養っていた。ある日、町で『金剛般若波羅蜜経』の読誦を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖弘忍の下に 
 参じたが、文字が読めないため、行者(あんじゃ)として寺の米つきに従事した。
 その後、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、兄弟子の印宗より具足戒を受けて正式な僧侶となり、曹渓宝 
 林寺に移って布教を続け、兄弟子の神秀より朝廷に推挙されるも病と称して断り、以後713年に亡くなる 
 まで布教を続けた。
 伝説
 壁に書かれた詩について
 慧能が弘忍の跡継ぎとして認められた時、次のような伝説がある。弘忍は悟りの心境をうまく詩に表せた 
 者を後継者と認めようといい、当初、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書いたが、弘忍は認めず、それ 
 を聞いた慧能が神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたので六祖となったという。
 神秀の詩
 身是菩提樹 心如明鏡臺(身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し)
 時時勤拂拭 莫使有塵埃(時時に勤めて拂拭し 塵埃を有らしむること莫れ)
 慧能の詩
 菩提本無樹 明鏡亦非臺(菩提もと樹無く 明鏡亦また臺に非ず)
 本來無一物 何處惹塵埃(本来無一物 いずれの處にか塵あいを惹かんと)

 慧能が弘忍の命令で達磨から受け継がれた袈裟を持って大庾嶺まで逃げたところ、500人の僧が追ってき 
 たが、法論して負けて逆に弟子になった者もいるという。

 思想
 慧能は「本来正教無有頓漸(正しい教えに本来は頓も漸もない)」と説いたことは、法話集である『六祖 
 壇経』から明らかであるが、荷沢神会を始めとした鼓吹派が、神秀の漸修禅(北宗)に対して頓悟禅(南 
 宗)を説き、それが新興士大夫階級に受け入れられて爆発的に教線が拡大し・・・後の五家七宗全てがそ 
 の一門から出た。
(´・(ェ)・`)b

433鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/19(月) 22:22:17 ID:1d4drIFg0
>>431 そうじゃろう。
 娑婆世界の苦を経て慈悲深い師匠についたということじゃな。

六祖の賛じゃな。

荷を担ぎ鉈斧を持ち歩く、
どこの山の親父かわからんような者だったが、
南方の仏法に逢うやいなや、
盧公老師、老師の盧公と呼ばれる身になったのじゃ。

434避難民のマジレスさん:2021/04/19(月) 22:57:36 ID:6XTolzis0
くま訳改
第三句:南方の仏法に逢うやいなや、
第四句:盧公老師、老師の盧公と呼ばれる身になったのだ。

389
桃花浪
随波逐浪幾紅塵 ずいはちくろういくこうじんぞ
又値桃花三月春 又あたふとうか三げつの春
流恨三年六十劫 恨みを流す三年六十劫
龍門歳歳曝金鱗 龍門歳歳 金りんをさらす

くま訳   
俗世で波を追い、波の中に(龍=悟りを)探す。
又、鯉が滝を登り龍になると(伝説)にいわれる桃花の3月が来た。
伝説を信じたことを、永遠にうらみつづけるだけだ。
禅門の師家は、登ってくるのが龍か魚か見分けるのだ。

*桃花浪:「禹帝治水の時、龍門の瀧を切り開きて三段と爲せり。此三段の瀧を、春三月三日桃花の咲く時
 鯉魚が跳 び越へると、火を發して尾を焦き角を生じて龍となるといふ。鯉魚が已に龍と化したのも知ら
 ずに、愚人は暗夜の池水を汲み干して鯉を探して居るは見るに堪へぬ」>>386 *くま注再掲
*龍門歳歳曝金鱗:「禹門三級の浪あり、三月に至る毎に、桃花の浪漲る、魚能く水に逆らひ躍つて浪を過 
 ぎる者は龍と化し、 風雷を起こし、其の尾を焼いて天に登る」と。之を飜出したるなり
*紅塵(こうじん):俗世の煩わしさ。
(´・(ェ)・`)つ

435鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/20(火) 21:55:53 ID:1d4drIFg0
俗世の波に随い流れをおって何年も暮らしたのじゃ。
又桃花の咲く三月になったのじゃ。
長年の恨みを流し捨て、
龍は門を出でて毎年金の鱗を曝すのじゃ。

436避難民のマジレスさん:2021/04/20(火) 23:29:20 ID:Z3zUjfmQ0
くま質問
1.「長年の恨みを流し捨て」とは、鯉が滝を登り龍になるという伝説、頑なに信じることをやめると言う理解 
 で良いのでありましょうか?
2.「龍は門を出でて毎年金の鱗を曝す」とは、悟った禅僧は、世間に出て禅機を発揮するのだ、みたいな理解
でよいでありましょうか?
*金鱗:勝れた禅僧の喩え

391
聞聲悟道    もんしょうごどう
見色明心    見色明心    
雲門拈云    雲門ねんじていはく 
観世音菩薩   観世音菩薩
将銭来胡餅   銭を持ち来たりてこびょうを買ひ、 
放下手曰    手をほうげしていはく
元來是饅頭   元来これ饅頭と

即現観音奴婢身 即ち観音に現ず奴婢の身
饅頭胡餅谷精神 饅頭胡餅精神やしなふ
舊時難忘見聞境 旧時忘れがたし見もんの境
滿目山陽笛裏人 満もく山陽てきりの人
 
くま訳
自然の音を聞いて真実を悟り、
色を見て心のあり様を明らめる。
雲門はちょぴっとひねって、話を続けた。
観音さんが、
銭を持って来て胡餅を買った。(菩薩は自分が本来ブッタであることを忘れてるのだ。
手を開いてみたら饅頭だった。(衆生も又本來ブッタであるのだ)

これは、観音菩薩が衆生の身で現れるという意味である
饅頭か餅か(仏陀か衆生か)分別しようと囚われる
以前から知ってるつもりのことに囚われて物事を見たり聞いたりする
目を見開いて、気付けば全ての衆生は仏陀なのだ。

https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/
 >>924
*即現観音奴婢身:三十三應身の所なり。
 三十三応身【観音経】より
 …元来は,単独に読まれたのを,中国で合体したもので,後代はもっとも人気ある経典として,再び独立 
 して読まれるようになる。観世音菩薩が衆生の願いに応じて姿を変える三十三応身と,十九の説法につい 
 て説き,衆生がその名をよぶことによって,あらゆる願いが満足されるとするもの。中国では,六朝以来,
 種々の霊験集が編まれるとともに,唐代に密教系の千手千眼観音の信仰が広まると,各地にその霊場が出 
 現する
*滿目山陽笛裏人:丁度昔時の知親に逢う感がするなり。(大成脚注)
(´・(ェ)・`)つ

437鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/21(水) 23:56:01 ID:1d4drIFg0
>>436 それより煩悩を流しつくしたというような感じじゃな。
    長く修業して全て捨てたのじゃ。

 2 そんな感じじゃな。
   悟りを得て巣立ったのじゃ。

438鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/22(木) 00:29:00 ID:1d4drIFg0
声を聞いて悟りを得て、
色を見て心を明らかにしたのじゃ。
雲門がひねって言うのじゃ。
観世音菩薩
銭をもって胡餅を買い、
手を開いてみれば
元来これ饅頭なのじゃ。

即ち観音ではなく奴婢の身なのじゃ。
饅頭も胡餅も身ではなく精神を養うのじゃ。
昔見聞した境地は忘れがたいものじゃ。
見渡す限りの山に陽があたり笛の声に没入するのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2021/04/22(木) 15:02:14 ID:8x8UFS8o0
>389
くま訳改
第三句:長年の修行で煩悩を流し尽くしたのだ。
第四句:悟りを得た龍は門を出て巣立っていったのだ。

>390
くま質問
1.「観音ではなく奴婢の身」とは、お金を出して胡米餅を買う時点で、菩薩であることを忘れた奴婢の身で 
 あると言う理解でよいでありましょうか?
2.「饅頭も胡餅も身ではなく精神を養う」とは、食べ物の値段が高いか安いかによって、身の養われ方に違 
 いがあるのではなく、値段にこだわる精神が卑しいみたいな理解で良いのでありましょうか?
3.「昔見聞した境地」とは、悟る前の分別心のことでありますか?
4.「見渡す限りの山に陽があたり笛の声に没入する」とは、ありのままをありのままに見聞きするという理解 
 で良いで有りますか?

44(再掲・https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>688 1/4〜3/4)
三界1/3
來往生霊六道街 らいわうすしゃうりゃう六道のがい
修羅闘諍没生涯 修羅の闘争生涯なし
人間未得諸天樂 人間いまだ諸天の楽しみを得ず
闕減娑婆事々乖 けつげんの娑婆じじそむく

くま訳
生霊が行き来する六道街
修羅道では生涯醜い闘争に明け暮れる、
人間道では、天界の楽しみを知ることはない、
もの足りない娑婆で、ひねくれて事々に背いてみたりする。

*三界:欲界・色界・無色界の三つの世界、衆生が生死を繰り返しながら輪廻す。三有(さんう)ともいう。
*六道(ろくどう、りくどう):衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこ
 と。六趣、六界ともいう。天道(てんどう、天上道、天界道とも)・人間道・修羅道(阿修羅道とも)・ 
 畜生道・餓鬼道・地獄道
(´・(ェ)・`)つ

440鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/22(木) 23:02:54 ID:1d4drIFg0
>>439 一 それでよいのじゃ。

 二 それは食べ物によって悟りの道を示したと一休が書いたということじゃな。
    値段は関係ないのじゃ。

 三 ただ悟る前の境地であるのみなのじゃ。

 四 昔、日の当たる山の中で笛の声を聞いて三昧の境地に入ったということじゃな。
    悟る前にそのような境地に入れたということは、もとから仏であったからということじゃな。

441鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/22(木) 23:08:23 ID:1d4drIFg0
三界の有り様じゃな。

生霊が往来する六道の街なのじゃ。
修羅は生涯闘争に没入しているのじゃ。
人間はまだ天の安楽を得ていないのじゃ。
欠乏している娑婆の者は事毎にそむくのじゃ。

442避難民のマジレスさん:2021/04/22(木) 23:41:24 ID:Y1elTGOI0
>439くま訳全面改
卽ち菩薩であることを忘れた奴婢の身なのだ。
饅頭も胡餅も身ではなく精神を養うのだ。
悟る前の境地は忘れ難いものなのだ忘れがたいものなのだ。
見渡す限り陽があたる山中で笛の声を聞いて三昧の境地に入れたのは、もとから仏であったからなのだ

くま再質問「食べ物によって悟りの道を示した」とは、日常の食べ物である胡餅に対して、特別な食べ物であ
る饅頭。修行によって整えられた意識のあり様みたいな意味でありましょうか?

45(再掲・https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>688 2/4)
2/3
餓鬼畜生無菩提 餓鬼畜生菩提無し
劫空法習徹吾臍 劫空の法しふわがほぞに徹す
無色衆生涙如雨 無色の衆生涙雨の如し
月沈望帝一声西 月は沈む望ていいっせいの西に

くま訳
餓鬼畜生道には、救ってくれる菩提はいない
永遠の法を思い知らされる。
今や姿かたちなく、住人は雨のように涙する。
月が沈むのは、民に慕われた望帝がかつていた西のほうだ。

*望帝杜宇(ぼうていとう):古代の蜀の第4代君主。死後も民に慕われ、2月に鳴くホトトギスは、望帝 
 の魂が鳴いて田植えの時期を教えてるのだと語り継がれた。
*古蜀:約5000年前から約3000年前頃に栄えた。
(´・(ェ)・`)つ

443鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/23(金) 23:16:20 ID:1d4drIFg0
胡餅は衆生であり饅頭はもはや仏陀の喩えなのじゃ。
衆生はもとより仏陀であるという喩えに使われたのじゃ。



餓鬼畜生は苦や無知なために悟りを得ることが出来ないのじゃ。
しかし、人である我は長年の修行で悟りが訪れたのじゃ。
天の最高である無色界の天人衆でも死ぬ時には雨のように涙を流すのじゃ。
ほととぎすの声と共に月が西に沈むようにのう。

444避難民のマジレスさん:2021/04/24(土) 00:04:22 ID:2kJAG2Oc0
くま訳全面改
餓鬼畜生は苦や無知なために悟りを得ることが出来ないのだ。
しかし、人である我は長年の修行で悟りが訪れたのだ。
天の最高である無色界の天人衆でも死ぬ時には雨のように涙を流すのだ。
ほととぎすの声と共に月が西に沈むように

46(再掲・https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>688 3/4)
3/3
威音那畔本去刧 ゐおんなはんもときょごふ
彌勒當來又來劫 弥勒当来又来ごふ
依草附木舊精魂 えそうふぼくの旧(きゅう)せいこん
可憐三年六十刧 憐れむべし三しゃう六十刧

くま訳
誰でも悟らせることが出来た威音王如来が居たのは、昔々お大昔であり、
未来仏である彌勒さんが来るのは、ずっとずっと遠い未来のことだ
死後成仏するまでの間は、魂は生きてたときのままだ。
憐れむべきは、三回生まれ変わり、六十刧の間待たなければならないかもしれないことだ。

*威音王如来(いおんのうにょらい):大昔の仏、誰でもを悟らせることができた仏
*依草付木(えそう ふぼく)① 死後、中有(ちゆうう)の間、人の霊魂が草木に宿っていること。
 ②修学者が言葉や文字にとらわれて、真理の根本を会得せず、悟りの境地に到達し得ないでいること
(´・(ェ)・`)つ

445鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/24(土) 23:13:00 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

威音王如来は大昔に去ったのじゃ。
弥勒の到来は又はるか先のことなのじゃ。
草に依り木々に付属する古い精魂は
三世六十劫の修業をせねばならぬのは哀れなのじゃ。

446避難民のマジレスさん:2021/04/25(日) 00:34:13 ID:ridkw7yo0
391
三界   4/4
須参最上乗之禪 須らく参ずべし、最上乗の禅、
等妙如來豈自然 等妙の如来、豈に自然ならん。
三界無安猶火宅 三界無あんなほ火宅のごとし
三車不識在門前 三車門前に在るを識らず。

くま訳
当然為すべきこととして、最上の修行法としての坐禅をしよう。
如来の如くにありたいのなら、何もしなくてもいいはずがあるまい。
何もしなければ、三界はやすまる処無く、火事の家の中にいるようなものだ。
何もしなくても、誰かが救ってくれることなど無いのだ。

*自然(じねん):「はからいのない」
(´・(ェ)・`)つ

447鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/25(日) 22:03:57 ID:1d4drIFg0
最上の乗物の禅に是非とも参加するのじゃ。
平等妙心の如来に自然に成るのじゃ。
三界には安心は無く、今なお火宅の如くなのじゃ。
三乗の法が門の前にあるのを衆生は知らないのじゃ。

448避難民のマジレスさん:2021/04/25(日) 22:43:52 ID:emCATIgM0
くま訳全面改
最上の乗物の禅に是非とも参加するのだ。
平等妙心の如来に自然に成るのだ。
三界には安心は無く、今なお火宅の如くなのだ。
三乗の法が門の前にあるのを衆生は知らないのだ。

*三車:法華経譬喩品(ひゆほん)に説くたとえ。ある長者の家が火事になったとき、家の中の子供たちに羊 
 (よう)車・鹿(ろく)車・牛(ご)車を与えるからと言って屋外に避難させた。長者を仏に、火事の家をこの 
 世に、子供を世の人に、羊車・鹿車・牛車をそれぞれ声聞乗(しょうもんじょう)・縁覚乗(えんがくじょ
 う)・菩薩乗(ぼさつじょう)にたとえたもの。
 三乗:悟りの世界に入るための3種の教え,実践あるいは道を乗物にたとえたもの。 (1) は声聞乗。苦,
 集,滅,道の四諦 (→四聖諦 ) を悟り阿羅漢となるための教えあるいは実践。 (2) は縁覚乗。十二因縁 
 悟って独覚 (→縁覚 ) となる行き方。 (3) は菩薩乗。無上菩提を証得せんとする菩薩たちの道。

392
忍辱仙人    忍にく仙人
須成忍辱波羅蜜 須らくじゃうずべし忍辱波羅密
是如來甚深秘密 是れ如來の甚深秘密 
心火焼盡菩提根 心火焼じんす菩提のこん
阿修羅王滅佛日 阿修羅王仏にちを滅す

茶の湯に親しむHP訳
とにかく耐え忍んで悟りへの修行を成就すべきことが、
如来の究極の教えである。
そうしなければ、業火は悟りの心根を焼き尽くし、
阿修羅は仏や太陽までも握りつぶすのだから

くま訳
当然なすべきこととして、侮辱や迫害を耐えしのび、不動心を得る修行に取り組むのだ
これこそがまさに、悟りを得る為の如来の秘密の教である。
怒りに燃える感情は、悟りを求める心を焼き尽くす。
阿修羅王の怒りは仏の光明を滅してしまうのである。
*忍辱仙人:釈迦の前世が暴虐な歌利王に四肢や耳・鼻を削がれながらも、怒り恨むことなく耐え忍び、 
 最後に国王を改心させるという説話あり。(三宝絵・忍辱波羅蜜)
 参 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/  >>858
*忍辱波羅蜜:菩薩の六種の修行徳目(六波羅蜜)の一つ。種々の外からの侮辱や迫害を耐えしのんで、心 
 を動かさず安らかにする行。
*心火:怒り・しっとなどで燃え立つ感情
(´・(ェ)・`)つ

449鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/26(月) 21:52:35 ID:1d4drIFg0
大体善いのじゃ。

修行者は忍耐の完成を成し遂げるべきなのじゃ。
これが如来の甚だ深い秘密なのじゃ。
忍耐がなければ怒りの火は菩提の根を焼き尽くし、
阿修羅王の如く仏や日を滅してしまうのじゃ。

450避難民のマジレスさん:2021/04/26(月) 22:46:36 ID:zvxCgIyg0
393
余誡會裏徒曰。  余、会裏の徒を戒めて曰く。
喫酒必須用濁醪。 酒を喫せば、必ず須らく濁らうを用ふべし、
肴則其糟而巳。  かうは則ち其のかすのみ。
遂名之曰乾一酒。 遂に之を名づけて乾一酒といふ。
仍作偈以自笑云。 よって偈を作り以って自ら笑ふと云ふ。

醉裡衆人奈酒腸 醉裡衆人酒腸をいかんせん
醒時伎盡啜糟糠 さむる時伎尽きて糟糠をすする
湘南流水懷沙怨 湘南の流水わい沙のうらみ
引得狂雲笑一場 狂雲が笑一場を引き得たり

くま訳
余は、一休会下の弟子達に戒めをを与えたのである。
飲酒する時は、必ずにごり酒にせよ。
肴は必ず酒糟のみとせよ。と。
ついにこの規則を名づけて、さかな一品酒としたのである。
そんなことを、偈にして笑ったのである。

弟子達が酒に酔っていることに対して、はてどうしたものか(と作った規則である)。
酔いから覚めたら、芸も尽き、貧しさを噛締めることになるであろう。
湘南の流水に、懐(ふところ)に重しの石を入れて、入水自殺をした楚の国の屈原が抱いたよな怨みはなど、
狂雲なら、その場で笑いとばしてやることができただろう。

醉裡衆人奈酒腸:屈平が漁夫の辞に曰く、「世を挙げて皆濁り、我独り清めり、衆人皆酔えり、我独り醒む、
是を以って放たる。」と。漁夫の辞に曰く。「衆人皆酔はば、何ぞ其の糟を食うて、其の釃(しる)を歠
(すす) らざる。」と蓋(けだ)し此れ漁夫の意に随うなり。(禅学大成脚注より)
*136漁父: https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>850
*糟糠:酒かすと米ぬか。貧しい食事の形容。"
(´・(ェ)・`)つ

451鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/27(火) 23:40:33 ID:1d4drIFg0
だいたいそんな感じじゃな。

わしは会のものにいさめて曰く
酒を飲むなら濁り酒なのじゃ。
肴はその酒糟のみなのじゃ。
これを名づけて乾一酒というのじゃ。
よって偈を作り自ら笑うのじゃ。

酔っ払った者達をどうすべきかのう。
醒めれば技も尽きて糟糠をすするのじゃ。
湘南の流水に砂を抱いて入った屈原のように独りわしは醒めているのじゃ。
わしが笑いを一つ引き受けたのじゃ。

452避難民のマジレスさん:2021/04/27(火) 23:55:17 ID:Up5zCyqU0
97 (再掲 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>936)
偶作  1/2
慧命微微懸一絲 えみょう微々として一糸をかく
分明臨済正傳師 ふん明なり臨濟正伝の師
識情名利山林客 識情名利山林の客
夜夜秋風枕上吹 ややの秋風ちん上に吹く 

たまたま出来た詩
悟りの智慧など極々わずかで、その細い糸に命を懸けるのである。
誰が臨済の正傳であるかは、明らかである。
迷い、名利を求める参拝者達
毎晩、秋風が枕元を吹き過ぎるような、思いだ

*慧命:悟りの智慧を生命にたとえた語。法命 
*識情:迷いの心
(´・(ェ)・`)つ

453鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/28(水) 22:03:19 ID:1d4drIFg0

正伝の叡智は微かに一本の糸でつながっているのじゃ。
その正伝の師匠は誰か明らかなのじゃ。
名利に迷う客も多いのじゃ。
夜夜秋風が枕の上に吹くような心地なのじゃ。

454避難民のマジレスさん:2021/04/29(木) 23:11:23 ID:mQQhlngY0
くま訳全面改
正伝の叡智は微かに一本の糸でつながっているのだ。
その正伝の師匠は誰か明らかなのだ。
名利に迷う客も多いのだ。
夜夜秋風が枕の上に吹くような心地なのだ。

394
偶作   2/2
睡裡海棠春夢秋 睡裡の海棠春夢の秋
明皇離思獨悠々 めい皇離思独り悠々
三千宮女情難慰 三千の宮女情慰しがたし
更遂馬嵬泉下遊 更に馬くわい泉下の遊びをおふ

くま訳
夢の中の海棠の花のようだと美しさを喩えて詠んだ、
そんな楊貴妃との別離の思いを、英明な玄宗皇帝が悠々と詠んだのだ。
三千人の女官がいても、誰も皇帝を慰めることが出来ない。
更にその(楊貴妃の)魂は、(冨子に乗り移り、)遊び続けているのだ。

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/  >>103

*海棠(かいどう)の睡(ねむ)り未だ足らず」玄宗皇帝が楊貴妃を評した言葉。眠りが足りず酔いのさめ
きらない美人(楊貴妃)のなまめかしさを海棠の花にたとえたもの。
*明皇:英明な皇帝。
*離思(りし):別離のおもい。離別の情。
(´・(ェ)・`)つ

455鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/04/30(金) 23:15:31 ID:1d4drIFg0
睡る海棠の春夢は終わったのじゃ。
英君も離苦の思いに独り泣くのじゃ。
三千の官女も慰めることができないのじゃ。
いまだに馬嵬の泉下に居る者を想っているのじゃ。

456避難民のマジレスさん:2021/04/30(金) 23:34:18 ID:ASe9QUTg0
くま訳全面改
睡る海棠の春夢は終わったのだ。
英君も離苦の思いに独り泣くのだ。
三千の官女も慰めることができないのだ。
いまだに馬嵬の泉下に居る者を想っているのだ。

266(改) 2020/8/23に掲載したくま訳を、鬼和尚解説読後に改めた
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/>>927
この詩に関しては、当初、↓①を基に、くま訳しました。
①國譯禪學大成(二松堂書店・昭和5年)・・・氷輪
②狂雲集(寛永壬午孟春吉旦 西村又左衛門新刊)・・・水輪 
③狂雲集(民友社・明治42年)・・水輪
今回、当時の鬼和尚解説に従い、全面改であります。

井    1/2 
高下互看打水輪 高下互ひに看る水輪を打するを
衲僧轆々轉機輪 衲僧ろくろく機輪を転ず
安禪出定淸華暁 安禪出じょう淸華の暁
汲盡天邊月一輪 汲み尽くす天辺月一輪

くま訳全面改
水車が回るように日々倦まずに精進すれば、
禅僧は禅機を発揮できるよになるのだ。
安禅は清い華の如く暁を出だすというのだ。
そして、天に輝く月一つを汲み尽くすのだ。(月を映す水が無ければ月も映らないのだ。)

*安禅:いっさいの動揺を去り、身心安楽になるところから一心に坐禅を行なうこと。坐禅。
*淸華:栄華・ 権力や財力を得て、はなやかに栄えること。
(´・(ェ)・`)つ

457鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/01(土) 21:25:44 ID:1d4drIFg0
いかすのう。
それでよいのじゃ。

458避難民のマジレスさん:2021/05/01(土) 22:34:51 ID:5Egb2YzY0
395
井    2/2
吸盡西江公案圓 西がう汲み尽くして公案まどかなり
工夫不管溺深泉 工夫管せず深泉に溺るることを
不借寸繩千尺底 寸じょうをからず千尺の底
西來祖意爲人禪 西來の祖意爲人の禪

くま訳
西江の水を汲み尽くすという公案は、完璧である。
深い泉で溺れようとも、一心に禪の修行に励むとは、
短い縄を借りて、長い縄のようにしろというのではない。
達磨の意図は人が為せる禅である

*大河の水を呑み尽くす:一口に吸尽す西江の水―(『馬祖録』)
 龐居士(150の詩 参)が馬祖道一禅師に質問した。「世界のあらゆる存在と与しない、独立自存の人と
 は、いったいどのような人ですか」。その質問に答えた馬祖の語。「お前が西江の水を一口に飲み尽くし
 たら、それを教えてやろう」ということ。禅は独脱無依の絶対主体性を確立することである。自分以外の 
 一切のものと与しないような完全に自立した人間になることである。
*西江(せいこう)は、中国南部流れる川、長江・黄河に次ぐ3番目の長さ。
*不管〜(都): ①「〜であろうと・・・だ」「〜にかかわらず・・・だ」②構わぬ
*水不借路路不借水
 みずみちをからず みちみずをからず
 水は道を借りて流れているわけではない。
 道に沿って流れ、流れに応じて道ができる。
(´・(ェ)・`)つ

459鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/02(日) 22:54:26 ID:1d4drIFg0
西江の水の公案は全く正しいのじゃ。
弟子の工夫は深い泉で息が詰まって溺れるような程度なのじゃ。
一寸の縄程度の智慧で千尺の底を測れなくても惜しいとは言わんのじゃ。
祖師が西来したのは正に人の為に禅を教えに来たのじゃ。

要するに弟子の足りない智慧で役に立たないわからんことを言っても無意味ということじゃな。

460避難民のマジレスさん:2021/05/03(月) 00:46:46 ID:W4iRKgJs0
くま訳全面改
西江の水の公案は全く正しいのだ。
弟子の工夫は深い泉で息が詰まって溺れるような程度なのだ。
一寸の縄程度の智慧で千尺の底を測れなくても惜しいとは言わんのだ。
祖師が西来したのは正に人の為に禅を教えに来たのだ。
396
賛仰山 二首 1/2 仰山を賛す
小釈迦唐朝出生 小釈迦唐朝に出生す
夢中兜率太分明 夢中兜率はなはだ分明
耽源體也潙山用 耽源は体や潙山は用
體用中唯開眼晴  體ゆうのうちただ眼晴を拓く

仰山を賛す
小釈迦が唐の時代の中国に生れたのだ。
夢の中で兜卒天(とそつてん)に昇り弥勒菩薩の所に行ったというのは、明らかだ。
耽源老師によって体を得ることができ、潙山老師によって用を得たのである。
体用の中で悟りを開いたのである。

*仰山慧寂(ぎょうざん えじゃく、804- 890年):唐代の禅僧。諡は智通禅師。
 17歳の時に出家し、各地を遊方した。耽源に会って大悟した。潙山霊祐に出会い、15年前後の間師事し 
 た。後に、仰山に住したので、その名となった。師の住した潙山と合わせて、その系統を潙仰宗と呼んだ。
*體用たい‐ゆう 本体とその作用。たいよう。

*碧巌録「千尺井中」(岩井茂樹先生)
ある時、仰山慧寂が耽源という老師に「井戸に落ちた人を短い縄も使わずに助けるにはどうすればいいので
すか」と尋ねた。それに対し、耽源は即座に答える。そこで放たれるのが「咄、痴漢、誰か井中にある」と
いう言葉だった。意味は「こら、馬鹿者、誰が井戸の中にいるというのだ」というものである。悟ることの
できなかった仰山は、次に潙山霊祐という老師のもとに行き、同じ問いを投げかける。すると潙山は仰山の
名である「慧寂」と叫ぶ。
それに対して仰山は「はい」と答えたが、潙山は「よし出た」と言う。これによって、仰山は悟ることがで
きた。後に仰山は「耽源老師によって体を得ることができ、潙山老師によって用を得た」と回顧したという。
ちなみに、最後の部分は『景徳伝灯録』など中国の経典では「耽源老師によって名を得て、潙山老師によっ 
て地を得た」となっている点が異なっている。
この公案は仰山の語録や事跡が紹介されるたびに引かれたり、禅の公案書に引かれたりして、公案の中でも
もっとも有名なものの一つとなった。日本ではやはり『碧巌録』に引かれたことが大きかった。
(´・(ェ)・`)つ

461鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/03(月) 23:22:09 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

小釈迦は唐朝で出生したのじゃ。
夢の中で兜率天に行ったのはとても分明なのじゃ。
耽源に体を得て、蕃山に用を学んだのじゃ。
体用の中で眼を開いたのじゃ。

体は悟りの本質であり、用は智慧とも言えるじゃろう。

462避難民のマジレスさん:2021/05/04(火) 11:57:00 ID:MyFrn1YY0
397
賛仰山 二首 2/2
枕子夜來推出時 ちんす夜來推出する時
一宗敗闕少人知 一宗敗闕人の知ることまれなり
法身説法座主説 法身説法座すの説
黄葉一枝誑小兒 くわうえふ一枝小児をたぶらかす

くま訳
夜間、枕を手探りで探して、推し出してしまったようなものである。
潙仰一宗禪は衰えて、もはや知る人も少ない
悟りの境地を座主が言葉で説明できるという説である。
もう枯れ果てた宗門であるが、子供を騙しているのである。

*潙仰一宗禪:潙山霊祐、仰山慧寂により鼓吹された禅風。宗風には、黙照禅と称される曹洞宗に類似した
 点も見られるが、家族的で、孤立的な性格があったものと思われる。その宗風が、逆に災いし、同系の臨 
 済宗が隆盛するにつれて、衰退して行き、宋代に至って遂に吸収同化されてしまったものと考えられる。
*"https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>665 948
* 枕子夜來推出時:夜間に手を背(うしろ)にして枕子を摸する
 道元禅師は、以下のように提唱される。
 道吾いはく、如人夜間背手摸枕子。いはゆる宗旨は、たとへば、人の夜間に手をうしろにして、枕 
 子を摸索するがごとし。摸索するといふは、さぐりもとむるなり。夜間はくらき道得なり、なほ日 
 裏看山と道取せんがごとし。用手眼は、如人夜間背手摸枕子なり。これをもて用手眼を学すべし。 
 夜間を日裏よりおもひやると、夜間にして夜間なるときと、撿点すべし、すべて昼夜にあらざらん 
 ときと撿点すべきなり。人の摸枕子せん、たとひこの儀すなはち観音の用手眼のごとくなる、会取 
 せざれども、かれがごとくなる道理、のがれ・のがるべきにあらず。 『正法眼蔵』「観音」巻

*法身説法 :真言宗泉涌寺派 大本山 浄土寺HPより
 密教ではこの現象世界を、真理そのものを仏格化した法身(ほっしん)である大日如来が説法している実 
 在の世界そのものと把える。(法身説法)
 即ち、他ならぬこの現象世界を離れて真実の世界はなく(即時而真(そくじにしん))、悟りの境地も文 
 字や象徴的表現をかりて説く事ができる(果分可説)とする。"
(´・(ェ)・`)つ

463鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/04(火) 23:53:17 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

枕を夜に推しだしてしまうのじゃ。
一宗の敗闕は知る者も少ないのじゃ。
法身の説法は座主の説であるというのじゃ。
黄葉の一枝で子供を誑かすようなものじゃ。

464避難民のマジレスさん:2021/05/05(水) 00:27:44 ID:CJJLwlm.0
398
雨滴齋     雨滴 齋名
蕭々門外是何聲 せうせう門外是れ何の聲ぞ
不會當機問鏡淸 ゑせずんば当機鏡しゃうに問へ  
顚倒衆生迷逐物 てんだうの衆生迷ふて物をおふ
窓前半夜一燈青 窓前半夜一燈青し

吟魂→窓前

くま訳
門外から聞えるのは何の音であるかと、鏡清禅師が尋ねた。
師とのやり取りが理解できなくて、弟子が更に問い返すと、師は適切な指導をした。
衆生は本末転倒して、事物を追いまわして自己を見失ってしまう。自己の外側に意識をさ迷わせて、己を見失う
夜半燈火ともる窓辺である。

*斎名(さいめい・さいみん)雅号などの何々斎という名。もとは僧侶が法名のほかに付けたものだが、後 
 に俗人も用いるようになった。また、広く軒号・院号・庵号をも指す場合もある。斎号。
*蕭蕭(しょうしょう)1 もの寂しく感じられるさま。2 雨や風の音などがもの寂しいさま。
*雨滴聲『碧巌録』第四十六則  (茶席の禅語選HPより)
 擧。鏡清問僧。   こす、鏡清、僧に問う、
 門外是什麼聲。   門げ是れなんの声ぞ。
 僧云。雨滴聲。   僧云わく、雨滴声。
 清云。       清云わく、 
 衆生顚倒迷己逐物。 衆生はてんどうして己に迷うて物を逐う。

 『碧巌録』第四十六則の頌に「虚堂(きょどう)雨滴聲」とある。誰もいない家に雨だれの音がしている 
 情景をさす。
 『新版 禅学大辞典』には、「鏡清道怤と一僧が門外の雨だれの音について問答した公案」とある。 
*鏡清:鏡清道怤禅師
(´・(ェ)・`)つ

465鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/05(水) 23:21:06 ID:1d4drIFg0
鏡清は蕭蕭と門の外の声は何じゃ、と聞いたのじゃ。
弟子は鏡清の問いに上手く答えられなかったのじゃ。
すると鏡清は顛倒の衆生は迷って物をおっているのじゃと言ったのじゃ。
窓の前には半夜一つの青い灯りがあつたのじゃ。

466避難民のマジレスさん:2021/05/05(水) 23:43:03 ID:zbG8/PUw0
399
吊戦死兵    戦死兵を弔(てう)す
赤面修羅血氣繁 赤面の修羅血気繁し
悪聲震動破乾坤 悪聲震動し乾坤を破る 
闘爭負時頭脳裂 闘諍負くる時頭脳裂く
無量億劫舊精魂 無量億劫の旧精魂

くま訳
戦死した兵を弔う 
赤面の阿修羅、血気盛ん。
悪声を放って天下を震撼させた。
闘争に負けた時に脳天を裂かれたが、
永遠にその魂は消えないであろう。
(´・(ェ)・`)つ

467鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/06(木) 21:32:33 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

真赤な顔の阿修羅は血気盛んなのじゃ。
大声で天地を振動させて破るほどなのじや。
闘争に負ければ頭脳が裂けるのじゃ。
その精魂は地獄に行って無量億劫も出ることが出来ないのじゃ。

468避難民のマジレスさん:2021/05/06(木) 23:23:48 ID:cHJhfcC60
400
確頌曰     確じゅに曰く
世間種種奯公圖 世間種々くわつ公の図
道伴知音一箇無 道伴知いん一箇も無し
夜雨蓬窓江海燭 夜雨ほう窓江海の燭
宗門零落盡工夫 宗門の零落工夫を尽くす

くま訳
世間には岩頭全奯禅師の絵が種々あるが、
岩頭の事がよく伝わる絵は一枚も無いのだ。
夜雨降る、水辺に面したあばら屋の窓辺の灯
宗門は零落したが、色々と工夫していたのだ。

*奯公(かつ公):岩頭全豁(ぜんかつ)禅師:、828- 887年)唐代の禅僧。青原行思の下で、仰山慧寂・  
 徳山宣鑑に
 参じ、徳山の法を嗣ぐ。887年、賊に首を斬られて死す。
*知音(チイン)《中国の春秋時代、琴の名人伯牙は親友鍾子期が亡くなると、自分の琴の音を理解する者 
 はもはやいないと愛用していた琴の糸を切って再び弾じなかったという「列子」湯問などの故事から》1  
 互いによく心を知り合った友。親友。「年来の知音」2 知り合い。知己。「知音を頼る」3 恋人となる 
 こと。また、恋人。なじみの相手。
*蓬窓(ホウソウ):蓬(よもぎ)の生い茂った所に面した窓。転じて、貧しい粗末な家。
(´・(ェ)・`)つ

469鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/08(土) 00:52:03 ID:1d4drIFg0
世間には種々の岩頭全豁の図があるが、
修行者仲間と居る図は一つもないのじゃ。
夜雨が古窓から見える江海の灯りに降るのじゃ。
宗門の零落は工夫を尽くしても止められなかったのじゃ。

470避難民のマジレスさん:2021/05/08(土) 02:38:22 ID:isomS8To0
くま訳改
第三句:夜雨が古窓から見える江海の灯りに降るのだ。
第四句:宗門の零落は工夫を尽くしても止められなかったのだ。

401
拈華微咲    拈華み笑
世尊拈出一枝花 世尊拈出す一枝の花
一代禪宗意氣奢 一代の禅宗意気奢る  
金色頭陀獨傳法 金色の頭陀独り伝法
近年知識若河沙 近年知識河沙の若し

くま訳
釈迦は皆の前で一枝の花をかしげて見せたのだ。
これこそ(以心伝心、)正法の禅の始まりである。
仏法の極意が伝わったのはただ一人( 摩訶迦葉)だけであった
最近は、知識ばかり河の砂ほど増えすぎてるのである。(真理は何も伝わらないのである)
(´・(ェ)・`)つ

471鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/08(土) 21:53:32 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

世尊は一枝の花を捻って出したのじゃ。
禅宗一代目の祖師となった迦葉が微笑して答えて意気を上げたのじゃ。
金色の僧迦葉が独り言外の法を伝えたのじゃ。
近年では知識を集めて言外の法を失ったものばかりが河砂の如く多いのじゃ。

472避難民のマジレスさん:2021/05/08(土) 23:12:59 ID:QYy2xejs0
402
會裡僧與武具 1/2 會裡の僧に武具を与ふ
説禪學道本無能 説禪學道もと無能
亂世英雄一錫僧 乱世の英雄一しゃくの僧
覿面當機若行令 てき面当機若し令を行ぜば、
鐵圍百億棒頭崩 鉄ち百億棒頭に崩れん

くま訳
一休会下の僧に武具を与えるのである 
禅を説き、仏道を学ばせても役に立たないのである。
乱世においては単なる錫僧でも英雄になれるのである。
わしの指示通りにして、効果覿面の禅機を発揮すれば、
この世の最果てを取り囲む山々をも、君達は人足頭として、切り崩すことができるであろう。

*錫僧(しゃくそう):法会のとき、偈(げ)を唱え、錫杖(しゃくじょう)を振る役の僧。
*覿面(テキメン):① まともに見ること。まのあたりに見ること。親しく見ること。また、そのさま。
 ② (転じて) まのあたり。まとも。目前。即座。また、面と向かってじかにするさま。③ 目の前に著し 
 い結果が現われること。ある事柄の効果や報いが即座に現われること。また、そのさま。
*当機(とうき):相手の能力素質に応じた導き方をすること。
*令:①(神などの)お告げ。②上位者による指示。命令③よい事。令息、令嬢、令室、令名、令月
*鐵圍:鉄囲山てっちせん:世界の中心にある須弥山(しゅみせん)をめぐる九山八海の最も外側にある鉄で
 できた山。鉄輪囲山。金剛山(こんごうせん)。
*棒頭:① 駕籠かき人足のかしら② 転じて、一般に人足のかしら。
(´・(ェ)・`)つ

473鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/09(日) 23:16:30 ID:1d4drIFg0
会の僧に武器を与えるというのじゃ。
僧兵じゃな。

禅を説き道を学ぶは本から無能力なのじゃ。
乱世の英雄は錫杖一本の僧なのじゃ。
目前の好機に当たってもし命令どおりに行うならば、
鉄囲山の百億も棒の先で崩れ落ちるほどの効果が在るのじゃ。

474避難民のマジレスさん:2021/05/09(日) 23:45:59 ID:2Ox854ic0
くま訳改
第二句:乱世の英雄は錫杖一本の僧なのだ。
第三句:目前の好機に当たってもし命令どおりに行うならば、
第四句:鉄囲山の百億も棒の先で崩れ落ちるほどの効果が在るのだ。

403       
會裡僧與武具 2/2 
道人行脚又山居 道にん行脚又山居
江海風流簑笠漁 がう海の風流さりゅうの漁
逆行沙門三尺剣 逆行沙門三尺の剣
不看禪録讀軍書 禅録を看ずして軍書を読む

くま訳
出家僧は行脚して、又山奥に住み、
海辺川辺の風流を楽しみ、みのを着て漁をする。
そのような修行僧としての道に逆らい三尺剣を帯びて、
禅録は読むのではなくて、軍書を読めばよいのだ。

*道人(どうにん )1仏道の修行をする人。出家得道した人。2 道教を修めた人。神仙の道を得た人。
 3 俗事を捨てた人。世捨て人。
*今川雑記ブログ(山紹先生)より抜粋
 大徳寺では、一休宗純が大徳寺40世春浦宗煕に「法中の姦賊」と悪罵したことに端を発し、一休宗純と 
 春浦宗煕が対立していた。
 一休宗純は、詩集『狂雲集』や『自戒集』で、春浦宗煕批判を展開していて、・・・
 大徳寺72世東渓宗牧が、伊勢宗瑞(北条早雲)に与えた「道号頌」には、伊勢宗瑞は武勇の禅人で、大 
 徳寺で春浦宗煕の弟子として修行していたとある。
 一休宗純が非難した、軍書を読んでばかりいた代表例が伊勢宗瑞といえる。
 今川義忠の後を継いだ今川氏親を伊勢宗瑞は武によって、宗長は文によって支えている。今川氏親の許で、
 一休宗純に心酔していた宗長と春浦宗煕の弟子伊勢宗瑞の間に確執はなかったのだろうか。
(´・(ェ)・`)つ

475鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/10(月) 21:57:47 ID:1d4drIFg0
ほぼそのような感じじゃな。

修行僧は諸国行脚し、又山に住むのじゃ。
川海の風に流れて蓑笠で漁するのじゃ。
逆行の僧は三尺の剣をもち、
禅録を看ず、軍書を読むのじゃ。

僧兵になっても軍書ばかり読んでいてはいかんというのじゃな。

476避難民のマジレスさん:2021/05/11(火) 00:21:40 ID:32coR6eI0
くま訳改
第三句:そのような修行僧としての道に逆らい三尺剣を帯びる者は、
第四句:禅録は読まず、軍書ばかりを読むようになるのだ。それではいかんのだ

404
嘆孤獨老人多欲 孤獨老人の多欲を嘆ず
千古無多富貴時 千古多きこと無し富貴の時
青銅十萬譲阿誰 青銅十萬誰にか譲る
必定後生三悪道 必定後生三悪道
老人何事不前知 老人何事ぞ前知せざる

くま訳
孤独老人の多欲を嘆く
昔は欲は多くなかった。裕福だった時には、
青銅十萬を誰に譲ろうかと思案したものだ。
年老いて欲深では、死後三悪道に堕ちるも必定である。
老人は何でその道理を前もって知ることが出来ないのだ

*三悪道・三悪趣:「道」は梵語 gati の訳語。衆生がみずからの業によっておもむくところの生存の状態、
 またはその世界をいう。悪業の結果堕ちる三つの悪道。地獄道、餓鬼道、畜生道の三つ。三悪趣。三悪。
(´・(ェ)・`)つ

477鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/11(火) 21:33:55 ID:1d4drIFg0
だいたいそんなところじゃな。

孤独な老人の多欲を嘆くのじゃ。

昔は今の時代ほど多くの富貴の者はいなかったのじゃ。
青銅十万銭を死後誰に譲るというのじゃろうか。
多欲であれば死んだ後に三悪道に堕ちるのは必定なのじゃ。
老人はなぜそのことを前もって知らないのじゃろうか。

478避難民のマジレスさん:2021/05/11(火) 22:25:53 ID:ppWy.NFQ0
くま訳改
第一句:昔は今の時代ほど多くの富貴の者はいなかったのだ。
第二句:青銅十万銭を死後誰に譲るというのだ。

405
端午
千古屈平情豈休 せんこくっぺいじょうあにきゅうせんや
衆人此日醉悠々 衆人この日酔って悠々たり
忠言逆耳誰能會 忠げん耳に逆らふたれかよくえせん
只有湘江解順流 只しょうこうの順流をげするあり

碇豐長先生訳抜粋
大昔、楚の屈原(が憂国の情のあまり、自殺したあの時)の思いはどうして休まる時があろうか。 
人々は、(今日の端午の節句)の日にも、酒に酔って、ゆったりと落ち着いている。 *周りのみんなは、
憂国の情などの片鱗もなく、気楽に日を送っている。 
忠告とは聞きづらいもので、(屈原の憂国の言を)一体誰が理解できたことだろうか。
ただ湘江だけが理解してくれて、素直に流れてゆくのみである。 *(屈原が彷徨ったことのある)湘江以
外は、(屈原の心を)理解しようとはしない。 ⇒そのように、わたし・一休宗純の心を理解してくれる者
もいない。ふるさとの山河だけが理解してくれようか。 

くま訳
端午の節句
大昔の屈原の情を思うと、心休まることがない。
大衆は端午の節句の今日、酒を飲み悠々と過している
正しい忠告とは耳に痛いものだという事を理解できる者はいない。
ただ、屈原が身を投げた湘江の流れのみが、彼をつつみ流れてゆく

*會:さとる。理解する。動詞。

碇豐長先生解説抜粋
※端午:旧暦五月五日。屈原が汨羅に身を投げた日。秦が楚の都郢を攻めた時、屈原は汨羅江に身を投げて、
 自殺した命日に当たる。時に、紀元前278年の五月五日で、端午の節句の供え物の粽(ちまき)は、屈 
 原を悼んでのものという。この作品は、世に容れられなかった、楚の屈原を詠うことで、同時に自分の感 
 懐を伝えている。

屈 原(くつ げん、紀元前343 – 278年)は、戦国時代の楚の政治家、詩人。秦の張儀の謀略を見抜き、踊
らされようとする懐王を必死で諫めたが受け入れられず、楚の将来に絶望して入水自殺した。
端午の節句を詠んだ作品。5月5日は楚の「屈平」が「汨羅」にを投じた日。屈平の霊を祭る為に端午節が
出来た。21歳のとき人生に悲観して瀬田川に身を投じたが運よく助けられた一休、「汨羅」の江に身を投
じた楚の「屈平」に想いを馳せ、慈しんで詠ったか"
(´・(ェ)・`)つ

479鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/12(水) 21:05:59 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

大昔の屈原の憂国の情を思えばわしの心も休まらないのじゃ。
人々はこの屈原の命日の節句の日も酒によって悠々としているのじゃ。
国を思う忠言は耳に逆らい誰が理解するじゃろうか。
ただ湘江の流れる水となった屈原だけが理解できるじゃろう。

480避難民のマジレスさん:2021/05/12(水) 22:39:32 ID:6CTdDagY0
くま訳改
第一句:大昔の屈原の憂国の情を思えばわしの心も休まらないのだ。
第四句:ただ湘江の流れる水となった屈原だけが理解できるだろう。

406
百丈野狐
千山萬水野僧居 千山萬水や僧の居
甲子今年五十餘 かつしこん年五十餘  
枕上終無老來意 ちん上つひに老らいの意無し
夢中猶讃小事書 夢中猶読む小事の書
 
くま訳
百丈野狐(不落因果、 不昧因果)
全国の山河が修行僧の住まいである
六十年周期で世が乱れるとされているが、今年で既に五十年以上経過している
うとうとしている間に気付いたら、年老いてしまうのだ。
夢の中で小事の書を読んでいる場合ではなおのである。

*甲子の年:西暦年を60で割って4が余る年が甲子の年となる。
 王朝交代の革命の年である辛酉の年の4年後で、天意が革(あらた)まり、徳を備えた人に天命が下され 
 る「革令」の年、すなわち変乱の多い年とされた(甲子革令)。それを防ぐ目的で、日本の平安時代以降 
 この年にはよく改元が行われた。
 一休さん存命中(1394〜1481年)前後の期間の甲子の年は1384年、1444年、1504年

* 百丈野狐(無門関):野狐老人は、因果にとらわれて因果に落ちない(不落因果 )世界を妄想し、住職 
  として説いた為に、野狐の身に堕とされ、五百年間苦しんだ。
  百丈和尚は、大修行底の人でも、因果律は免れない。因果律の中にあって、それに執らわれないことを 
  を「不昧因果」と説き、それを聞いた野狐老人を五百年の闇から解放された。 
(´・(ェ)・`)つ

481鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/13(木) 23:53:49 ID:1d4drIFg0
千の山、万の水の野に住む僧がいたのじゃ。
甲子の今年で五十あまりなのじゃ。
無想に陥り老いが来るのもわからなかったのじゃ。
夢の中でなお小事の書を讃えたりしているのじゃ。

僧が法をわきまえず、狐になってもなお外道の法をもち続けているというのじゃな。

482避難民のマジレスさん:2021/05/14(金) 02:39:51 ID:M582UHYA0
くま訳全面改
千の山、万の水の野に住む僧がいたのだ。
甲子の今年で五十あまりなのだ。
無想に陥り老いが来るのもわからなかったのだ。
夢の中でなお小事の書を讃えたりしているのじゃ。

くま質問:「今年で五十あまり」とは、何が五十あまりなのでありますか?
  
407
題大徳寺動亂 1/2 大徳寺の動亂に題す 
禪者爭禪詩客詩 禪者は禪を爭ひ詩客は詩
蝸牛角上現安危 蝸牛角上安危を現ず
殺人刀矣活人劍 殺にん刀活にん劍
長信佳人獨自知 長く信ず佳人独り自知することを

くま訳
大徳寺動乱に付いて詠う 
禅者は禅を争い詩人は詩を争う
かたつむりの角のようなせまい場所で、安危の瀬戸際を争うようなものである
禅師には修行者を導く活殺自在の力があるということを
優れた人は自ずと知るものであると、長く信じているのである。

*対酒 白居易 酒に対す 
蝸牛角上争何事 蝸牛角上(かくじょう)何事をか争ふ
石火光中寄此身 石火光中此の身を寄す
随富随貧且歓楽 富に随ひ貧に随ひ且(しば)らく歓楽せよ
不開口笑是癡人 口を開いて笑はざるは是れ癡人

熊大医学部硬式庭球部の学生さんのための、格言・故事成語」『漢詩』・旺文社)訳
かたつむりの角のような小さなせまい場所で、
(人々は)いったい何を争っているのか。
(人生は)火打ち石から飛び出す火花のような一瞬のうちに、
この身をかり住まいさせているのである。
(そう思えば)貧富それぞれ分相応に、ともかくよろこび楽しんで過ごすべきである。
(くよくよと思い悩んで)大口をあけて笑うこともしないのは、まったくおろかな人である。

*「蝸牛角上の争い」:かたつむりの角の上の意で、人間世界の微小なことをたとえたもの。『荘子』に見
える話で、かたつむりの左の角に国を置く触氏と、右の角に国する蛮氏とが領地を争って戦い、
数万の死体をさらしたという寓話による
[荘子則陽]
(蝸牛の左の角に国をもつ触氏と右の角に国をもつ蛮氏とが互いに戦ったという寓話から)
大局から見ると意味のないような小さい事柄で争うこと。ささいな争いや、取るに足りない細かい議論をい
う。また、宇宙の悠久無限に対して人間世界が微小であることにもたとえる。
「蝸牛の角(つの)の争い」「蝸角(かかく)の争い」とも。
*安危:安全か危険かの瀬戸際の状態。
*殺人刀活人剣(せつにんとうかつにんけん):禅宗で、師が修行者の妄情を断ち切り、修行の完成に向 
 かって自由自在に導くはたらきのたとえ。
*自知:自分のことを自分で知ること。
(´・(ェ)・`)つ

483鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/14(金) 23:05:17 ID:1d4drIFg0
>>482 甲子の巡るのが五十回ということじゃろう。
 甲子が十年で巡るとして五十回で五百歳なのじゃ。
 狐の身になって五百歳ということじゃな。

484鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/14(金) 23:11:06 ID:1d4drIFg0
大体それでよいのじゃ。
大徳寺の動乱の題じゃな。

禅の者は禅で争い、詩人は詩で争うのじゃ。
そんなものは蝸牛の角の上での争いなのじゃ。
殺人刀を活人剣にするのじゃ。
善男子はそれを独りでに知ることができると信じるのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2021/05/15(土) 02:38:41 ID:r1ozM1WA0
くま訳改
第三句:殺人刀を活人剣にするのだ。
第四句:善男子はそれを独りでに知ることができると信じるのだ。

408
題大徳寺動亂 2/2
伏虎将軍是我徒 ふくこ将軍是れ我が徒
英雄不失悪魔途 英雄は失せず悪魔の途
吹毛三尺掌握内 吹毛三尺掌握の内
佛法南方一點無 佛法南方一點無し

くま訳
伏虎将軍、山名宗全は、わしの弟子である。
英雄は悪魔のように好機を逃さないのだ。
切れ味のよい三尺の剣掌中に握り
わしの佛法には南方の雪峰のような生ぬるさは全く無いのだ。

*吹毛三尺;鋭利毛を吹くべきの銘剣をいふ、機鋒鋭きに譬ふ。(大成脚注)吹きかけた毛をも、両断 
 してしまうほどの、切れ味のよい三尺の剣
*伏虎将軍;屏風の虎で有名な足利義満のことかと考えましたが、義満は一休14歳の時に死んでるような 
 ので、弟子ではないでありましょう。
 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>7 184・>>70 212.>>183 264 
 の詩で取上げてる山名金吾・山名宗全を指すのでありましょう。←虎伏城(とらふすじょう):竹田城の 
 別称:築城者 :1431年山名宗全(山名政豊)西軍の総大将
 義満1358年-1408年
 一休1394年-1481年
*佛法南方一點無:
 http://iriz.hanazono.ac.jp/pdf/st04/st04_0201a.pdf
 雪峰義存(せっぽう ぎぞん、822年- 908年
 趙州従諗(じょうしゅう じゅうしん、778年 – 897年)
 wiki解説によると、二人の禅風は、共に棒喝よりも、平易な言葉で説明する指導法だったようでありま
 すが、趙州は雪峯を「ぬるま湯」(軟暖處)と呼んでいたそうであります。
(´・(ェ)・`)つ

486鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/15(土) 21:29:54 ID:1d4drIFg0
まだ大徳寺に動乱があるというのじゃ。

伏虎将軍は我が徒弟なのじゃ。
英雄は悪魔の逃げ道を見失わないのじゃ。
吹毛三尺の鋭い剣は手の中なのじゃ。
仏法は南方には一点もないのじゃ。

487避難民のマジレスさん:2021/05/15(土) 22:21:10 ID:EL3.0Jps0
くま訳改
第四句:仏法は南方には一点もないのだ。

409
再住妙勝寺之次。 再び妙勝寺に住するついで、
披虚堂和尚法衣。 虚堂和尚の法えをひらく。
因合山淸衆需一偈 ちなみに合山の淸衆一偈をもとむ
書以寒其請    書して以て其のこひをふさぐ。

先祖還衣 先祖はえを還し
順老留衣 順老は衣をとどむ
斬作兩段 斬って兩段となす
是松源衣 是れ松源の衣

*くま参照のテキストの原文↑とちょっぴと異なるのであるが、多分、これ↓でありましょう。
 
 妙勝寺で虚堂の袈裟を身につける
 運庵還衣
 純老留衣
 載作両断
 是松源衣
 
 柳田聖山先生訳・解説
 運庵は虚堂の師で松源の衣を嫌い
 拙僧は今虚堂の袈裟を肩に掛ける
 松源の禅は自分一人で荷担する物
 なぜなら松源の袈裟は松源の所有

くま訳
再び妙勝寺に住することになったので、
虚堂和尚の法衣を開いてみた。
その際に叢林の修行僧達から一偈を求められた。
書してその願いに応えたのである。

ご先祖様(の運庵)は(松源の)法衣を返し
一休は、(虚堂の)法衣をとどめる。
どちらでも良いのである。
松源の衣は松源のものである。

*妙勝寺:南浦紹明=大応国師が中国から帰って「妙勝寺」でその教えを弟子たちに伝え、大燈国師も晩年 
 ここで暮らした。 その後酷く荒廃してしまったこの寺を大応国師を尊敬する一休禅師が、修復をし、 
 「報恩庵」として自らも住まわれました。
*運庵:松源に参じること十八年、その法を嗣ぐが、伝衣は引き継がなかった。寿像のみ受け取ったのであ 
 る。
(´・(ェ)・`)つ

488鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/16(日) 21:07:27 ID:1d4drIFg0
再び妙勝寺に住むのに
虚堂和尚の法衣を披露したのじゃ。
それに因んで僧達から一喝を求められた
それを書くのじゃ。

運庵和尚は松源の衣を返し、
わしは虚堂和尚の衣を着るのじゃ。
それを両方正しいとするのは、
それこそが松源の衣を継ぐということであるからなのじゃ。

法衣を継ぐというのは、師匠の法を正しく受け継ぐという意味が在るのじゃ。
師匠の着物を返そうと、着ようと、どちらにしても正しい法を伝えることが法衣を継ぐということなのじゃ。

489避難民のマジレスさん:2021/05/16(日) 22:44:00 ID:43HwC0AI0
くま訳改
第四句:それこそが松源の衣を継ぐということであるからである。

410
不殺生戒
全體作用迸鬼眼 全體作用鬼眼をほとばしらしむ
勝負修羅英雄念 勝負修羅英雄の念
望帝一聲月三更 望帝一聲月三更
殺人刀與活人劍 殺にん刀と活にん劍と

くま訳
その本質的な意味と、この戒によりもたらされる作用、効果が激しい対立を生じさせる。
戦って勝負を付けたいというのが才知・武勇にすぐれた人の思いである。
古代神話の聖人君子の一声は、今も深夜の月の様に魅力的に輝くが
今は、殺人刀と活人劍、即ち本来の意味で人を活かす、悟りに導く道を捉えるべきである。

*不殺生戒:在家信者が守るべき五戒の一つ。 生き物を故意に殺してはならない。
*望帝・中国神話上の蜀王。最後にホトトギスになったという伝説がある。
 望帝はもとは杜宇(とう)という名の天神だった。その望帝が百余歳のころ、楚の国で鼈霊(べつれい)
 という男が死んだ。ところが、その死体は長江を遡り、蜀の都に流れ着いて生き返り、望帝に会いに来た。
 そこで、望帝は鼈霊を宰相に任命した。おりしも、蜀で大洪水が起こり、鼈霊がまるで禹と同じように活
 躍し、それを治めた。ところが、この後、望帝は鼈霊の妻と密通してしまい、良心の呵責にさいなまれて
 鼈霊に位を譲った。王となった鼈霊は開明帝と称したが、望帝の方は退位後に修行を積んでホトトギスと
 なり、毎年春が来るたびに鳴いた。蜀の人々はその鳴き声を聞いて望帝をしのんだという。
*殺人刀…「秀れた禅匠が修行者を切磋琢磨する時の切れ味を刀劔に喩える」とある。
活人剣…「殺活自在に学人を導く師家のはたらきをたとえていう。学人をして起死回生させるはたらき。
殺人刀活人劍…「活殺自在の手段のこと。宗師家が学人を指導する自由のはたらきを刀剣を借りて示した 
 もの。宗師家が学人に接する場合に、奪って許さない手段が殺人刀、与えて容れる手段が活人剣である。 
 真の宗師家はそのいずれにもかたよらず、自由のはたらきを示す」
 「悟りの一刀手にあり、活殺自在だ」

* 一休さんは、不殺生戒をどのように解していたのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

490鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/17(月) 21:13:25 ID:1d4drIFg0
全身を武器として用い、鬼のような眼力を迸らす
勝負に賭ける修羅の如く戦う者は英雄であろうとするのじゃ。
ホトトギスが鳴く夜更けの月を見て、
殺人刀を活人の剣とするがよいのじゃ。


正にこの歌の如く殺人刀を活人剣とすることこそ真の不殺生戒と思っていたのじゃろう。
気が弱いものが生き物を殺せないのは戒ではないのじゃ。
殺人も厭わない者が殺さず、生かすことが不殺生戒なのじゃ。

491避難民のマジレスさん:2021/05/17(月) 21:59:12 ID:ZYc4pXP60
くま訳全面改
全身を武器として用い、鬼のような眼力をほとばしらせるのだ。
勝負に賭ける修羅の如く戦う者は英雄であろうとするのだ。
ホトトギスが鳴く夜更けの月を見て、
殺人刀を活人の剣とするがよいのだ。

鬼和尚、ありがとうであります。
>殺人も厭わない者が殺さず、生かすことが不殺生戒
厭わないもの、しようと思えばできる者がしないのと、したくてもできないものは、違うでありますね。
肉体的にも、精神的にも、できる限り鍛えろという事でありましょうか?

411
山中開藥圃   山中に藥ほを開く
要錢賣薬不修琴 せんをもとめ薬を売って琴を修めず
度世工夫貪欲深 度世の工夫貪欲深し
山堂夜雨風流榻 山堂の夜雨風流のたふ
自絶松風閑道吟 自ら絶つ松風閑道の吟

くま訳
山中に薬草園を開いたのである
薬を売って代金を得ているが、自分は不養生である。
世渡りの工夫をしているし、欲深いのである。
山堂で静かに夜雨の音を聞きながら、禅榻に坐る
そんな禅は棄てたのである。閑坐して松風を聴きながら吟じるのである

*薬圃:薬草を栽培する畑。
*修琴:人体を琴になぞらえ健康体を作るということ
*風流榻;禅榻(ぜんとう)の事でありましょう。禅定を修する時に用いる腰掛け。座禅に用いる腰掛け。
 閑道: 何事もなくおだやかなこと。またそのような境地。
 茶席の禅語選hpより
 閑坐聽松風 閑坐して松風を聴く
 閑坐 … 一切の妄念を離れて坐禅すること。
 松風 … 松の木に吹く風(の音)。静寂の世界を表す。また、茶の湯では茶釜の煮えたぎる音をさす。
(´・(ェ)・`)つ

492鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/18(火) 21:04:35 ID:1d4drIFg0
↑そのようなことじゃな。
 努力して殺人刀を活人剣に鍛えるのじゃ。

493鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/18(火) 21:10:24 ID:1d4drIFg0
山中に薬屋を開くのじゃ。

銭を求め薬を売って琴はひかないのじゃ。
世渡りの工夫ばかりして貪欲が深いのじゃ。
山堂で夜雨が降る風流な時にも
松風に閑にあかせて詩吟をすることを自ら断つのじゃ。

494避難民のマジレスさん:2021/05/18(火) 23:44:49 ID:ZOObvIOs0
くま訳改
第一句:銭を求め薬を売って琴はひかないのだ。
第四句:松風に閑にあかせて詩吟をすることを自ら断つのだ。

412 (詞書)
松源和尚上堂云。  松源和尚上堂に云く。
擧僧問巴陵、    挙す、僧はりょうに問ふ、
祖意教意是同是別。 祖意教意是れ同か是れ別か、
巴陵云鶏寒上樹。  巴陵云く鶏寒うして樹にのぼり、
鴨寒下水。     鴨寒うして水に下る。
白雲師祖云。    白雲師祖云く、
巴陵只道得一半。  巴陵は只だ一半をいひ得たり、 
白雲則不然。    白雲は則ちしからず
掬水月在手。    水をきくすれば月手に在り。
弄花香滿衣。    花を弄ずれば香、衣に満つと。
師拈云。      師ねんじて云ふ、
白雲盡力道。    白雲力を尽くして云ふ、
只道得八成。    只だ八じゃうをいひ得たり、
有問靈隠只向他道。 りんにんに問ふこと有らば、只だ他に向かっていはん、
人我無明一串穿   人我無明一くわんにうがつと。

くま訳
松源和尚が上堂で説法のときに言った
ある僧が巴陵にう問うた、
「祖師直々の教え(祖意)と、経典の教え(教意)と、同じか、別か」と。
巴陵はこう答えた。「鶏は寒いときは樹に上るが、
鴨は寒いとき水にもぐる」と。
白雲師祖は言った、
巴陵は半分は云い得ている。
白雲は、ちょぴっと違う意見なのである。
「水をすくえば、月は掌にあり、
花をいじれば、衣は香で満ちるのである」と。
師(松源)は更にちょぴっとひねって云った。
「白雲は、全力で応えたのである。
だいたい、八割方良い応えである。
ただ霊隠寺の松源が問うことがあるとすれば、他者に向かって云うことでありましょうか?と云う事である。
自己について知ることが無ければ、一蓮托生でありましょう。」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

495鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/19(水) 22:56:48 ID:1d4drIFg0
松源和尚は上堂でいったのじゃ。

僧の巴陵に聞くのじゃ。

師匠の教えと経典と同じか別か。

巴陵は「鶏は寒くなれば木の上に登り、鴨は水にもぐる」
そのように人に拠って違うというのじゃ。

巴陵はまだ悟りの道の半分位なのじゃ。

白雲そうではないというのじや。
水を手に掬えば月が写り、花を弄れば香りが衣につく。
そのように二つとも実践すれば何かの成果は得られるというのじゃ。

白雲は力の限り話したが、まだ悟りの道の八割程度なのじゃ。

もしこのわし松源に問う者が居ればこのようにいうのじゃ。

両方共自他の無明を滅する手段であるから串の如く一つなのじゃ。

496避難民のマジレスさん:2021/05/19(水) 23:30:20 ID:lR2AhK260
くま訳改
有問靈隠只向他道 : もしこのわし松源に問う者が居ればこのようにいうのだ。
人我無明一串穿  : 両方共自他の無明を滅する手段であるから串の如く一つなのだ。

413
祖意教意別與同 祖意教意別と同と
商量今古未會窮 商量今古いまだかつてきわまらず
松源老老婆心切 松源老老婆心切
人我無明屬己窮 にん我無明己きゅうに属す

くま訳
祖師直々の教え(祖意)と、経典の教え(教意)とは、別か同じか
古今について考えてみても、思考が尽きないのである。
松源老師は丁寧に説明し過ぎたのである。
自己に付いて知ることが出来なければ、己が行き詰まるだけだと言っておけば良いのである。

うむ。直接聞いたことでも、読んだことでも、それを受取る自分について知ることから始めなさいと云う事
でありましょかね。

*老婆心切:老女が子や孫をよくいつくしむ意。慈愛の心が深く厚いこと。必要以上に世話を焼くこと。
*松源崇岳(すうがく<1132〜1202年>)は南宋。 霊隠寺(中国)日本語hpより抜粋
 一、応庵禅師の教えによって悟りをひらき、臨安の白蓮精舍において本格的に出家した(三十三歳)。
 二、悟りを開いたあと、密庵とともに霊隠に住職となり、また、のちに皇帝に命ぜられ、霊隠寺の住職と 
 なった。
 霊隠寺で住職をしていた間、禅宗の看話禅及び默照禅に存在した不正行為を正すため、松源は座禅の方法 
 を改革した。その中で一番影響力があって後の人に高く評価されたのが「松源二転語」、「開口不在舌頭 
 上(口を開いて物を言うことは単に口先だけのことではない)」、「大力量人,因甚抬脚不起(力の強い 
 人が、なぜ足を上げないでいるのか)」という二つの転語から、看話禅と默照禅をそれぞれ見た。一方、 
 松 源禅師は「悟り」を座禅の方法論とすることを提唱し、「悟り」に重きをおき、通常の口頭表現を普 
 通ではなく、特別なものに表します。松源禅師の弟子たちの努力をへて、「松源系」禅法は次第に形がで 
 きあがり、後世の禅宗に深い影響をあたえた。
 更に重要なのは、松源崇岳禅師の日本の禅宗に及ぼした影響です。蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)は 
 松源崇岳の法の上での弟子であったばかりでなく、具体的な禅の方法に関しても松源の影響を受けた。つ 
 まり、「座禅」そのものに対する重視です。日本仏教への松源系の禅の方式の影響もここに確認できる。 
 遠く日本まで行って、松源崇岳禅師に従って仏法を学んだ学僧には:蘭溪道隆、大休正念、西澗子曇、明 
 极楚俊、竺仙梵仙らがあり、日本から中国へ仏法を学びに来た松源系の学僧には:南浦紹明、无象静照、 
 月林道皎、石室善玖らがある。
(´・(ェ)・`)つ

497鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/21(金) 00:05:47 ID:1d4drIFg0
そういうことじゃな。
師匠の教えも経典もそのためのものじゃ。
その骨子を忘れてはいかんということじゃな。

それでよいのじゃ。

祖意と教意とは別か同じか。
今も昔も考えは尽きないのじゃ。
松源和尚は老婆のように親切なのじゃ。
自他の無明は己が極め尽くすことが大事なのじゃ。

498避難民のマジレスさん:2021/05/21(金) 00:41:54 ID:2UjGVukA0
414
大燈國師三轉語1/3
朝結眉夕交肩我何似生 あしたに眉を結び、夕べに肩を交じふ、我かじせい
透關更有一重關 透関更に一重の関有り
隨例依條不可攀 例に従い条に依るよづべからず
奇菓茘支天井味 きくわのれいし天上のみ
名從天寶落人間 名は天宝より人間に落つ

朝は眉をひそめ、夕方には肩を並べる。これはどういうことか
関門を一つ乗り越えても、又別の関門があるということなのだ。
過去の事例や規則拘ってはならないのである。
貴重な果物のレイシ(古則・公案)は、天上のあじである。
その名は天宝の昔からつたわる天の宝なのだ。

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/  >>58 詞書

*大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、1283-1338)大徳寺開山。
*結眉:眉をひそめる(中国語から訳)
*天宝(てんぽう)は、唐の玄宗の治世後半に使用された元号。742年 – 756年。
*茘子:兜率従悦(1044〜1091)は清素首座に茘支を献じたあと、自分の修行経過や見解を述べた。すると
清素は、只だ仏に入るべきも、魔に入るべからず。須らく知るべし、古徳の、「末後の一句始めて牢関に 
到る」と謂いしことをと、とどめを刺す言葉に参ずることによって、悟りへ立ちふさがる堅固な関門に至 
ると延べ兜率を導いた(禪宗史話)
*六祖慧能は、恵明に悟りの真実を教えて欲しいと問われた時、に懇切丁寧に、本来の自己、ありのままの
自己を知ることだと答えたという。
(´・(ェ)・`)つ

499鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/21(金) 21:30:53 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

朝には眉を結び、夕方には肩を交えるのはどえいうことじゃろうか。
関を透過してもまた一重の関があるのじゃ。
例に従い、条文に拠ってはいかんのじゃ。
奇菓のれいしは天上の味わいなのじゃ。
その名は天宝より俗世間に落ちたのじゃ。

500避難民のマジレスさん:2021/05/21(金) 22:34:13 ID:souDNMZY0
くま訳改
第四句:その名は天宝より俗世間に落ちたのだ。

くま質問
「朝には眉を結び、夕方には肩を交える」とは。昼間はいがみ合ってた者どうしが、夕方には仲良く肩を並
べてるみたいに読めるのでありますが、それがどうして「関を透過してもまた一重の関がある」とつながる
のでありましょうか?

415
大燈國師三轉語2/3
露柱盡日往來   露柱尽日往来、
我因甚不動    我なにによってか動かざる    

草鞋脚瘦没知音  さうあい脚瘦せてちいんなし
露柱同行伴我吟  露柱同あん我吟に伴ふ
銭有霊神十万貫  せんに霊神有り十万貫
杜鵑啼血託春心  とけん血にないて春心に託す

くま訳
大燈國師三轉語2/3
お堂の中でひねもす、行き来する、
自分ははどうして動かないでいられようか

わらじのを履いた脚は瘦せて、聞き馴染んだ足音が聞えない
無情なるものの中で、聞えるのは私の吟じる声だけだ
銭は霊験新たかな神だ、十万貫(妙勝寺再建に掛かる予算でりましょうか?)
ホトトギスは血を吐きながら鳴いて春を告げる

*露柱:むきだしの柱、目に見えている柱、燈籠、牆壁、瓦礫などの語と共に、無情又は非情の意を現はす
代表語に用ふ、「露柱に問取して去れ」といふが如き是れなり。(大成脚注)
*同行(どうあん): 信仰を同じくして仏道を修行する人々。
*妙勝寺(報恩庵)再建:三十六歳の頃に立ち寄った大応国師が建立された薪の妙勝寺が、見る影とてなく荒 
れ果てていたことに心をいため、その再建を決めた。完成したのは、一休さんが六十三歳の時であった。
(´・(ェ)・`)つ

501鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/22(土) 21:49:11 ID:1d4drIFg0
そのような世間の離反や仲直りもまた関の一つということじゃろう。
それがあとの文の前例や条例に従っていてはいかんということにもつながるのじゃ。
生きている限りは臨機応変にするべきというのじゃな。

502鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/22(土) 21:54:58 ID:1d4drIFg0
柱の周りを行き来して一日終わるのじゃ。
わしはどうして動かないのか。

草鞋履きの足をした友は顔を見せないのじゃ。
柱だけが伴となりわしは吟じるのじゃ。
十万貫の銭に霊神あるのじゃ。
ホトトギスが鳴いて春心に血を託すのじゃ。

503避難民のマジレスさん:2021/05/22(土) 23:10:09 ID:g3I.sIL.0

くま訳全面改
終日誰も訪ねてくる事がなくても、
心を動かされる事はない

ともに行脚した友は尋ねてこない
柱だけが伴となりわしは吟じるのだ。
十万貫の銭があれば、それが霊神となり、人を引き寄せるのだ。
わしはホトトギスが鳴いて春心に血を託すように、詩を詠むのだ。

*こんな、読解で良いでありましょうか?

416
大燈國師三轉語3/3
若透得箇兩轉語 若しこの両転語をとうとくせば
一生参学事畢  一生参学のじおわんぬ

二十餘年曾苦心 二十余年かつて苦心す
乾坤誰是我般人 けんこん誰かこれ我つらの人
参來直徹幽玄底 参じ来たって直ちに幽玄の底に徹す
歇去獨登要路津 けっし去ってひとり要路のしんに登る

くま訳
大燈國師三轉語3/3
もしこの二つの転語を透得すれば、
修行はそれでおわりだ。

大燈に倣い、自分も二十余年の間、苦心した。
今の世に わしと同等な人がいるだろうか。
修行に打ち込み、玄妙な境涯に達するような人が。
煩悩の束縛を離れ独り、旅立つための港へむけて歩むのだ

*歇去(けっし去る):生死煩悩の羈絆を脱するなり。(大成脚注)
 羈絆(きはん):行動する人の足手まといになるもの。束縛になるもの。ほだし。
(´・(ェ)・`)つ

504鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/23(日) 21:57:03 ID:1d4drIFg0
↑そのような感じでよいじゃろう。
寺を修復して人を待つというのじゃな。

505鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/23(日) 22:51:11 ID:1d4drIFg0
もしこの二つの転語を透得するれば一生の参学は終わりなのじゃ。

20余年かつて苦心したのじゃ。
この世で誰かわしと同じ人が居るであろうか。
修行に入れば直ちに幽玄の底まで徹したのじゃ。
煩悩を去って独り正しい道を真っ直ぐに上ったのじゃ。

506避難民のマジレスさん:2021/05/23(日) 23:07:03 ID:qnGvIGDc0
417
毀破曹洞悪見  曹洞の悪見を毀破す
曹洞今時無分別 曹洞こん時無分別
與臨濟受用遥別 臨濟の受用とはりかに別なり
野老百姓眞家風 野老百せい真の家風 
曹洞臨濟受用別 曹洞臨濟受用別なり

くま訳
曹洞宗の誤った見解を破棄するのである。
曹洞宗も今時は無分別智を説くが、
臨濟宗が受入れているところとは遥かに異なるのである
野にあって百姓もするのが真の禅家の家風とするのが臨済宗である
曹洞宗と臨濟宗では何を受入れるかが全く別なのである

*悪見:種々の煩悩の中で、その最も根本的なものとして六種の煩悩をあげ、これを六大煩悩、根本煩悩、
 根本随眠などとよんでいる。貪欲、瞋恚、愚痴、憍慢、疑、悪見である。この中、最後の悪見は、他の五
 種の煩悩が主として人間の感情的なものに関係するのに対して、知性的な煩悩と考えられる。その点で、 
 この悪見を見随眠とか見濁とかよぶ。                          
(´・(ェ)・`)つ

507鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/24(月) 23:57:31 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

曹洞宗の悪見を論破するのじゃ。

曹洞宗は今時無分別を説くのじゃ。
臨済宗の現成受用とははるかに別なのじゃ。
民間の老爺や名も無き庶民の素朴な心こそ真の禅家の風なのじゃ。
そのように曹洞宗と臨済宗の現成受用は別なのじゃ。

508避難民のマジレスさん:2021/05/25(火) 01:02:20 ID:j6e/U5/Q0
くま訳改
第三句:民間の老爺や名も無き庶民の素朴な心こそ真の禅家の風なのだ。

418
靈山徹應和尚百年忌 1/2 霊ぜん徹應和尚百年忌 
僧運酬恩妙勝薪 僧は運んで恩に酬ゆ妙勝のしん
靈山昔日涅槃辰 靈山昔日涅槃のとき
二千四百年前境 二千四百年ぜんのきゃう
梅雨流紅五月春 ばい雨こうを流すごげつの春

くま訳
僧一休が薪の妙勝寺へ行って、師から受けた恩に酬いるのである。
霊山徳禅寺を建立した徹翁義亨が昔、涅槃堂にあって死を迎えようとしていたとき、
二千四百年前、釈迦が死を前にしていた頃のような様子であったでありましょう。
春五月だというのに、梅雨に流される真紅の紅葉のような血の涙を流して悲しんだでありましょう。

*霊山:大徳寺境内の南東に、塔頭・徳禅寺がある。かつて、大徳寺とは独立した禅寺だった。霊山徳禅寺
 とも称される。山号は霊山(りょうせん)という。
*徹翁義亨(てっとう(てつおう) ぎこう)1295‐1369、五山の禅風にあきたらず,宗峰妙超(しゆうほうみ
 ようちよう)(大灯国師)の門に入り,その法を継いだ。妙超が大徳寺を開くとこれに随い,妙超没後の
 1338年より大徳寺2世として入寺し,別に寺前に徳禅寺を建立した。
 一休さん、1468 75歳 霊山徹翁100年忌を、酬恩庵にて営む。
*妙勝寺:大應国師(南浦紹明)が中国の虚堂和尚に禅を学び、帰朝後禅の道場を建てたのが始めである。 
 元弘の戦火にかかり復興もならずにいたものを、六代の法孫に当たる一休禅師が1455〜6年、宗祖の遺風
 を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名した。禅師はここで後半の生涯を送り八
 十一歳で大徳寺住職となった時もこの寺から通われたのであり、1481年八十八歳の高齢を以って当寺に
 おいて示寂され遺骨は当所に葬られたのである。このように禅師が晩年を過ごされたことにより「一休
 寺」の通称が知られるに至ったのである。
*薪(たきぎ)京田辺市薪
(´・(ェ)・`)つ

509鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/25(火) 22:51:50 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

霊山和尚の百年忌だというのじゃ。

僧一休は薪の妙勝寺に足を運んで祖師の恩に報いるのじゃ。
霊山が昔日の涅槃の時は
二千四百年前のお釈迦様の涅槃と同じ境地であつたじゃろう。
梅雨が五月の赤い花を流す春じゃった。

510避難民のマジレスさん:2021/05/25(火) 23:29:12 ID:AAHC8BY.0
くま訳改
第四句:梅雨が五月の赤い花を流す春であったのだ。

419
霊山徹應和尚百年忌 2/2
癩兒牽伴出人前 癩児伴をひいてじん前にいづ
魔魅人家常説禪 じん家を魔魅して常に禪を説く
龍寶封彊幸滅卻 龍寶の封きゃう幸に滅却す
靈山記莂瞎驢邊 靈ぜんの記別かつろへん

くま訳
癩児がお供を引き連れて人前に出る
一般大衆をたぶらかして禅を説く
幸いなことに、臨済禅の真の伝承の境は既に閉じられているのだ。
霊山徹應和尚がこの瞎驢邊、すなわち一休の承伝を予言してるのである。

*魔魅:人をたぶらかす魔物。また、邪悪な人のたとえ。
*封境・封疆:くにざかい。国境。
*鈴木真弓先生ブログより抜粋
 臨済義玄は、亡くなるとき、“自分の精神を絶やしてはならぬ”と言い、それを聞いた弟子の三聖和尚が 
 「安心してください、自分が継ぎます!」と言って師匠お得意の“一喝”を真似た。それを見た臨済は 
 「お前のような瞎驢(かつろ=盲目のロバ)によってわが法は滅却した」と歎いて亡くなったそうです。 
 ・・・一休さんは「自分こそ瞎驢だ!滅法だ!」と宣言。自分の師匠からもらった印可(悟りを得た証明
 書)を破り捨ててしまいました。・・・禅とは、原理原則を示した聖典があって、師匠がそれを代々受け
 継いで、弟子に順を追って習得させ、お墨付きや資格証明を与える・・・という宗教ではないんじゃない 
 かと思います。己の内にある仏性を己の力で磨き上げていく自律の宗教だろうと。一休さんはその本質を
 とらえ、形式的な嗣法を否定したのではないでしょうか。
*記莂:仏が弟子の未来成仏を明らかにすること。記は仏が未来世の弟子の仏果を予言し成仏を記すること、
 別は具体的に弟子の未来世の成仏の時・国土・仏名などを分別することをいう。仏が弟子に記別を授ける 
 ことを授記と呼ぶ。
*瞎驢邊:盲目のロバ、愚か者、臨済の最後の言葉、一休さんのペンネームの一つ。
(´・(ェ)・`)つ

511鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/26(水) 22:24:22 ID:1d4drIFg0
ほぼそんな感じじゃな。

癩兒が伴をつれて人前に出るのじゃ。
魔魅は人家で常に法を説くのじゃ。
幸いに龍の宝ともいえる法の伝統は境界が滅しているのじゃ。
霊山の記すとおりに驢馬の名を持つわしに伝わっているのじゃ。

512避難民のマジレスさん:2021/05/26(水) 23:52:58 ID:jPv4kKCg0
くま質問
「法の伝統は境界が滅している」とは正法がすでに一休により受け継がれてるので、邪師が邪法をいくら説
いても、問題ない、みたいな意味でありましょうか?

420
自然外道 1/2  自ねん外道 
大道廢時人道立 大道廃る時人道立つ
離出智慧義深入 智慧を離出して義深く入る
管絃歌吹人倫能 管絃歌吹人倫の能
風雨世間之音律 風雨は世間の音律

くま訳
自然外道 1/2
大いなる道が廃れた時に、人道が確立する
智慧を離れれば正しい道に深く入ることが出来る
音楽や歌は、人倫の為に役立つ
風雨等の自然の音は、世間の音律である。

*自然外道:「あらゆる存在(一切法、一切万物)は因縁によらないで自然に有る」(岩波仏教辞典)とする説 
 を唱える人を云う。
*義:条理。正しい道。道理にかなったこと。人道に従うこと

「老子(老子道徳経)」の一節『大道廃有仁義』
大道廃有仁義 大道廃れて仁義有り
智慧出有大偽 智慧出でて大偽有り
六親不和有孝慈 りくしん和せずして孝慈有り
国家昏乱有忠臣 国家昏乱して忠臣有り

走るメロス先生訳
(無為自然の)大いなる道が廃れたので、仁義(の概念)が生まれた。
(悪)知恵を持った者(儒者)が現れたので、人的な秩序や制度が生まれた。
親兄弟や夫婦の仲が悪くなると、孝行者(の存在)が目立つようになる。
国家が乱れてくると、忠臣(の存在)が目立つようになる。
(´・(ェ)・`)つ

513鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/27(木) 21:49:01 ID:1d4drIFg0
↑そういうことじゃな。
一休が既に真の法を継いでいるのじゃ。

514鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/27(木) 21:52:08 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

大道が廃れて人の道が出来たのじゃ。
知恵を離れれば法の正しい意味が深く知れるのじゃ。
管弦の笛や琴や歌は人の能くするところじゃ。
しかし自然の風雨はこの世の音律なのじゃ。

515避難民のマジレスさん:2021/05/28(金) 00:07:04 ID:kOUpZu5E0
鬼和尚、いつも、ありがとうであります。
くま訳改
第三句:管弦の笛や琴や歌は人の能くするところであるが、
第四句:しかし、自然の風雨はこの世の音律なのじゃ。
(´・(ェ)・`)つ
大道とは、仏道のことでありましょうか?その仏道とされるものすらも、むしろ廃れてしまったほうがよく、人為的なものよりも、自然のありのままがよいと、一休さんは言いてるようでありますね。

421
自然外道 2/2
聰明外道本無知 聡明の外道もと無知
精進道心期幾時 精進道心幾時をか期せん  
天然無釋迦彌勒 天然釋迦彌勒無し
萬巻書經一首詩 萬巻の書経一首の詩

くま訳
聡明そうに装っても、外道は無知なのである
一心に仏道修行していずれの日にか仏道を窮めたいという心が大切なのである。
天然の釋迦や彌勒などいないのである。
萬巻の仏教書や經も一首の詩と変わらないのである。

*精進:雑念を去り一心に仏道修行すること。
*道心:菩提(ぼだい)を求める心。仏道を信奉する心。

516鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/28(金) 23:05:46 ID:1d4drIFg0
↑そのような意味じゃろう。
老子の言葉を写してありのままの自然を道とすることを説いたのじゃな。

517鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/28(金) 23:12:24 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

聡明な外道は実は無知といえるのじゃ。
正しい道に志して精進すればいつかは悟りも得られるのじゃ。
天然には釈迦や弥勒も居ないのじゃ。
万巻の書物も一首の詩に等しいのじゃ。

518避難民のマジレスさん:2021/05/28(金) 23:59:48 ID:.L624uJ20
422
黄檗禮佛    黄檗佛をらいす
麄行沙門鬼眼開 そぎゃうの沙門鬼眼を開く
身長七尺甚奇哉 身長しち尺はなはだ奇なるかな
不知何處見黄檗 知らずいずれのところにか黄檗を見ん
立法商君破法來 法を立つる商君法を破り来たる

くま訳
黄檗は何故佛を礼拝するのかと、後の皇帝、宣宗は質問した 
その皇帝宣宗より麁行沙門(荒々しい沙門)の名を送られた黄檗が、鬼の様に鋭い眼を開く。
身長2メートル超で、甚だ奇怪な容貌。
その黄檗の仏法を今やどこに見ることができるであろうか、
商鞅は、自ら作った法を破り、沒したのである。

*黄檗希運(おうばく きうん)
 宗派 洪州宗
 生年不詳 -850年)唐代の禅僧
 百丈懐海(749年 – 814年)の法嗣
 髪塔を広業塔といった。
 宰相の裴休(797年 - 870年)に尊崇された。
 弟子に、臨済義玄らがいる
*麄行・麁行:荒々しい
 麁行は黄檗禅師の異称。黄檗が塩官斉安の会下で首座となっていた折、仏に礼拝する黄檗に、塩官のもと 
 に寄宿していた宣宗(唐朝十九代皇帝)が、礼拝して何を求めるのかと尋ねたところ、黄檗に三度打たれ 
 たという。これにより宣宗は即位の後、黄檗に麁行沙門の名を贈った
*宣宗(唐朝十九代皇帝):https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>962
*商君書:戦国時代の政治家で,法家の祖の一人,商鞅 (しょうおう) の著・土地の開墾と戦功をあげるこ
 とを国策の主眼とし,労働力増加のため貴族の特権を抑制し,分家を奨励し,耕作者に耕地を解放し,諸
 子遊説の策謀を禁じ,学問,文学を排し,商業を押え,また厳罰主義をとり,隣保の連座制をしき,税制,
 度量衡の統一を説き,酷薄な国家統治の典型を示している。
 商鞅は、法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は 
 周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも敗れ、法の為に車裂の刑に処せられて死んだ。
 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/  >>128
(´・(ェ)・`)つ

519鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/29(土) 22:44:35 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

粗暴な沙門が鬼のような眼を開くのじゃ。
身長七尺とてつもなく奇怪なのじゃ。
そのような黄檗をどこで見られるじゃろう。
法を作った商君でさえ自分で法を破りさったというのにのう。

520避難民のマジレスさん:2021/05/29(土) 23:17:09 ID:mj61COcs0
くま質問
仏法は、仏法であるから価値があるのではなく、悟りを求める人ごとに、その人が悟りを得る為の方法をと
して、それを実践するときに、価値が生れるのだということでありましょうか

423
徳政
賊元來不打家貧 賊は元來家の貧しきを打せず
孤獨財非萬國珍 孤獨の財萬國の珍にあらず
信道禍元福所復 いふことを信ず禍は元福の復する所
青銅十萬失靈神 青銅十萬靈神を失す

くま訳
盗賊は元来貧しい家を打ちのめしたりはしないのである。
孤独であることが宝であると言うことはどこの国においても珍しいことではない。
世間で言われてる所を信じれば、禍は元、幸福だったのがひっくり返っただけである。
青銅十万で霊神を売ってしまうこともあるかもしれぬのである。

徳政令:1428年、一休さん35歳、風狂な生活を送っていた頃、幕府や五山の腐敗に怒った近江の庶民た
ちが徳政(借金棒引き)を求めて暴動を起こした(正長の土一揆)。暴動は瞬く間に畿内各国へ拡大、手の
施しようがなくなってしまった。これにより、畿内各国の守護や大寺社は、庶民の要求をのんで徳政令を発
令した。
(´・(ェ)・`)つ

521鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/30(日) 22:15:18 ID:1d4drIFg0
↑そのような意味じゃな。
 悟りを求めない者には黄檗もただの恐ろしげなおっさんに過ぎないということじゃな。

522鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/05/30(日) 22:23:38 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

賊はもともと貧しい家を襲わないのじゃ。
孤独の財は万国に珍しくは無いのじゃ。
悟りの道を信じれば禍は元元福が帰ってくるところと知れるのじゃ。
銭が十万もあれば正気を失うこともあるからのう。

523避難民のマジレスさん:2021/05/30(日) 22:52:48 ID:qzveYPbg0
くま訳改
第四句:銭が十万もあれば正気を失うこともあるからのだ。

424
應無所住而生其心 応無所住にしょうご心
祖師禪不是如來 祖師禅は是れ如来にあらず、
接物利生尤苦哉 接もつ利しょう、もっとも苦なるかな。
明歴歴金剛正體 明歴歴金剛の正体
百花春到爲誰開 百花春到ってたがために開く

くま訳
應無所住而生其心(何ものにも囚われることなく、無心で、新鮮な意識。)「金剛經」
祖師禪は、如來禅ではないのである。
衆生を導き済度するのは、苦労が多いのである。
極めて明らかなのである、金剛経の云わんとしている事は、
春になると花が一斉に咲くのは、誰のためにというわけではない。無心に咲くのだよ、と云う事である。

*應無所住而生其心:原典・金剛経/山田無文解説抜粋(禅文化研究所)
 心が無である、「応無所住」、どこにも住しない、心が空っぽであって、その時に面白いと言うて笑い、 
 悲しいと言うて泣いたら、それがそのまま仏心でなければならない。心に裏づけのない斬新な心が仏の心 
 でなければならんのであります。そういう新しさというものが私どもの心にいつもなければならん。意識 
 がいつも新しくなければならん。・・・心の中に魂胆がない。そういう無邪気な、無心な心、いつも新鮮 
 な意識で生活できることが仏心というものでなければならぬはずであります。 
 六祖慧能は、出家する前に、街でたまたま、この一節を聞いて大悟したそうである。
*祖師禅:祖師達磨の流れをくむ禅。教外別伝・不立文字を主張し、言語や文字によらず、直接師から弟子
 へ以心伝心で悟りが伝えられることを説く。南宗禅。
 如来禅:如来の教えに従い、自心は本来清浄であることを悟る禅法。もとは楞伽経(りょうがきょう)に説 
 くが、祖師禅が起こってからは、それよりも低次のものとされた。
 (菩提達磨が伝えた禅。中国,唐代の華厳宗の僧,宗密が称したのに始る。これに対して批判が起り,教
  外別伝を唱える人々は,菩提達磨の禅を祖師禅と称し,宗密のものを如来禅と風刺的に称した。・・昔 
  から、もめていたらしいのである。) 
*接物利生:衆生済度、待機説法。
(´・(ェ)・`)つ

524鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/01(火) 00:05:38 ID:1d4drIFg0
住するところ無きに応じて心を生ずるのじゃ。

祖師禅は如来ではないのじゃ。
物に接し、衆生を利することが苦を生むのじゃ。
それに気付けば金剛経の意味も明白なのじゃ。
春になれば百花が開くのは誰のためでもないが衆生を喜ばせるようにのう。

525避難民のマジレスさん:2021/06/01(火) 00:22:07 ID:yvir9WOQ0
くま訳改
第二句:物に接し、衆生を利することが苦を生むのである。
第三句:それに気付けば金剛経の意味も明白なのだ。
第四句:春になれば百花が開くのは誰のためでもないが衆生を喜ばせるように。

425
美人陰有水仙花香 美人の陰、水仙花の香有り
楚台應望更應攀 楚台まさに望むべし更にまさによづべし  
半夜玉床愁夢間 半夜玉床愁夢のあひだ  
花綻一茎梅樹下 花はほころぶ一けい梅樹のもと 
凌波仙子遶腰間 りょうはの仙子ようかんをめぐる  

富士正晴先生訳
女体視るべし のぼるべし
夜半のベッド 人恋し気な顔がある
花はほころぶ一茎 梅樹の下に
水仙は腰の間をめぐるなり

柳田聖山先生訳
楚王が遊んだ楼台を拝んで、今やそこに登ろうとするのは、 
人の音せぬ夜の刻、夫婦のベッドの悲しい夢であった。  
たった一つだけ、梅の枝の夢がふくらんだかと思うと、  
波をさらえる仙女とよばれる、水仙の香が腰のあたりに溢れる

くま訳
遊里の楼台を見上げて、今まさに登ろうとしているとき、
深夜、ひと時の逢瀬に心締め付けられるような切ない思いでいるとき
花ほころぶ一枝の梅樹の下で
軽やかな美人に、の香が腰の辺りに漂う

*凌波仙子(りょうはの仙子):中国語辞典・水 仙 の花 ;足 取りの軽 い美人 の喩え
(´・(ェ)・`)つ

526鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/01(火) 21:50:14 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

楚台は正に望み、登るべきものじゃ。
半夜の玉床は愁夢の間の喜びなのじゃ。
花は梅ノ木の下の一茎に綻ぶのじゃ。
仙子の凌波は腰間を巡るのじゃ。

527避難民のマジレスさん:2021/06/01(火) 23:16:37 ID:enr795LI0
426
賛兜率悦禪師  兜率悦禪師を賛す
素老天生薄福徒 素老は天生薄福の徒
佛魔公案的傳無 佛魔公案的傳無し
鬱襟忽發烈史筆 うつきんたちまち発す烈史の筆
永辱楊雄莽大夫 永くはずやうゆうまうが大夫

くま訳
兜率寺の従悦禪師を讃える。
わしは天生幸が薄いのである。
仏も魔も投げ棄てろという公案を師から直伝されて無いのである。
そんな憂鬱な気分を忽ち晴らしてくれる、勢いのある文章の書き手である。
楊雄は王莽の大夫であったことを永く恥じたのである。自分の本性を究明して気付くことができずに生きる
ことは、王莽の本性を知らずに、その大夫であるようなものである。

*兜率の三関(無門関第47則)
 「兜率悦和尚、三関を設けて学者に問う。
  一. 撥草参玄はただ見性を図る。即今、上人の性、いずれの処にか在る。
  二. 自性を識得すれば、まさに生死を脱す。眼光落つる時、そもさんか脱せん。
  三. 生死を脱得すれば、すなわち去処を知る。四大分離して、いずれの処に向かってか去る。」
*仏魔:「仏」を貴い絶対的なものとして求めれば、それが自分を束縛する魔に変化するという意味。
*的伝:師から直接に伝授を受けること。正統から正統に伝えること。直伝
*襟(きん):胸のうち。心。 要害の地。「襟帯」
*烈:1.はげしい。ひどい。きびしい。2.火の勢いが強くてはげしい。
*史:1.できごとを書きしるした書。時勢の変遷・発達の過程の記録。またその過程。2.できごとを書きし 
 るす役人。書き役。ふびと。文章にたずさわる人。
*揚 雄(よう ゆう、紀元前53年-18年):前漢時代末期の文人、学者。
 揚雄は年少の頃から学問を好み、人と論争するのは得意ではなく、黙って思惑に耽ることを好んだ。また 
 富谷や名声を求めようとしなかった。・・貧しかったが、安らかで落ち着いており、度量が大きかった。
 30歳を過ぎたときはじめて都の京師に上るが、彼の文学の才能を推薦する者がおり、これが認められて 
 待詔(皇帝の下問に答える者)となった。・・成帝の勅許を得て3年間勉学のために休職すると、その成
 果を踏まえ辞賦作家としての名声をほしいままにした。
 揚雄63歳のときのことである。漢の高祖の廟から王莽を天子に指名する符(ふだ)が出たと称して帝位
 についた王莽は、以後はその符の神秘性・高貴さを保持するため、新たに符命を称することを禁じた。し
 かし、これに違反して劉歆の子の劉棻らが改めて符を莽に献上してしまったことから、莽は激怒、関係者
 の処罰に乗り出した。
 劉棻は揚雄の門人で、以前符の書式について棻に助言したことがあるなどの経緯から、司直の手を逃れら
 れぬと感じた揚雄は、思い余った末に天禄閣の上から投身自殺を図る。揚雄と顔見知りの間柄であった王
 莽は事を荒立てるつもりはなかったが、揚雄の一人合点で大事に至った。・・自殺未遂に終わったことも
 手伝って、都中に知れ渡るところとなった。この後、揚雄は8年ほど生き長らえた。享年71。

*王 莽(おう もう、前45-23年)は、新朝の皇帝。
 前漢の元帝の皇后の王政君(孝元皇后)の甥。・・14歳で死去した平帝の後継として僅か2歳の劉嬰を立 
 てるも皇帝ではなく皇太子とし、「符命」(一種の予言書にあたるもの)に基づいて自らが摂政として皇 
 帝の業務を代行することとした。そして自らの呼称を「仮皇帝」・「摂皇帝」としてほぼ皇帝と同格の扱 
 いとし、居摂と改元、周公旦の故事に倣って朝政の万機を執り行った。
 王莽の治世においては労役負担と税負担共に重く、貨幣制度や経済政策は現実離れし、また余りにも異常 
 な政策が実行された。
 天に救いを求めるために、泣き声の悲哀な者を郎(官僚)に取り立てた。このため、郎の数だけで5000 
 人に達したと言う。
(´・(ェ)・`)つ

528避難民のマジレスさん:2021/06/01(火) 23:25:34 ID:enr795LI0
おまけ
*兜率の三関(無門関第47則)・兜率寺の従悦和尚の3つの関門 服部潤承先生解説抜粋
兜率寺の従悦和尚(1044〜1091)は、人並みはずれた禅僧で、その力量を慕って、大勢の修行者がやって来
ました。
 そこで、従悦和尚は誰にでも同じ3つの質問をして、修行者の実力を量りました。
 まず第1の関門です。
 草をかき分け、参禅勉道の旅をするのは、ただ見性することが目的であります。今、あなたの本性はどこ
にあるのか。さあ、答えてみよ。というのです。
 見性とは、自分の本性に気づくことでありますし、自己の本性とは、「衆生本来仏なり」と言う、本来自
分にそなわっている仏性のことであります。
 臨済宗祖の臨済義玄禅師は、「赤肉団上に一無位の真人有り。」とあり、「自性とも、自分の本性とも、
一無位の真人とも、仏性とも言う真実の自己が生身の体に宿っている。」とおっしゃっています。
 とんちで有名な一休禅師は、「阿弥陀とは南をあるを知らずして 西を願ふははかなかりけり」とあり、
南は皆身で、阿弥陀様はそれぞれの身にあるとおっしゃっています。
 次に、第2の関門です。
 自分の本性に気づくと、生死の問題は解決できるはず。生死の問題が解決したならば、生死の迷いから脱
することができる。今、死を目前にして、どのように生死の迷いを脱するのか。さあ、答えてみよ。と言う
のです。
 黄檗宗祖の隠元禅師は、『黄檗宗祖真空華光大師ご遺誡』で、「生死大事ために(中略)昼三夜三己躬下
の事を究明するを努めとせよ。」とあり、「生と死は二元対立の世界であって、それを生死一如(同一体)
と悟るためには、昼夜を分かたず、己事究明(物事の本質を見極めること)に努力せよ。」とおっしゃって
います。
 己事究明の結果、「来る時、一物も無し。去る時、空索索。(隠元禅師語録26巻)」と、生まれて来る
時は無から生じて丸裸。死ぬ時は四大分離して無に帰する。まさに「有無倶に是れ錯。」とおっしゃって、
有る無しはともに同一体、これこそ安心なのですと、おっしゃっています。
 隠元禅師が示寂する5日前、・・・「快活。快活。生も也た快活。死も也た快活。」と、心地よい、心地
よい。生きるも心地よい。死ぬるも心地よいと、生死一如の心境が語られています。
 佛日寺の初代、慧林禅師も遺偈(死を目前にして詠んだ漢詩)に、「来るも也た錯。去るも也た錯。」と、
生まれてくるのも安心。死んで去るのも安心と、やはり生死を超越した心境が悟られています。
 最後に第3の関門です。
 生死の問題が解決すると、行き着くところが分かるはずです。四大分離と申しまして、肉体や心が分散し
て、どこに向かって行くのか。さあ、答えてみよ。と言うのです。
 本性に気づくと、死んでどこへ行くのか。死んだ後、どうなるのか。が分かってきます。
 一休禅師は、「死にはせぬどこへも行かぬ ここに居る たづねはするな ものは言わぬぞ。」と。
 窪田空穂は、「不生とは 不滅の意なり 在るものは 形を変へて 永久に生く。」と。
 隠元禅師は、・・示寂の際にしたためた遺偈に、「今日身心倶に放下して、頓に法界を超えて一真空」と
あり、本日、身も心も放下(捨て去る)すると、たちどころに、僧俗二世界はもちろん、僧の一法界をも超
えて、真実唯一の空に到るとおっしゃって亡くなったのであります。
(´・(ェ)・`)b

529鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/02(水) 22:00:04 ID:1d4drIFg0
兜率悦禪師の賛というのじゃ。

老師は天生から薄福の人なのじや。
仏魔の公案も伝承されていないのじゃ。
鬱を開いて忽ち烈史の筆を発するのじゃ。
楊雄が王莽の大夫であったことを長く恥じていたようなものじゃ。

530避難民のマジレスさん:2021/06/02(水) 23:45:58 ID:isomS8To0
くま質問
兜率悦禪師は名僧だったらしいでありますが、何故に薄福といわれるのでありましょうか?
「仏魔の公案」とは、邪教の教みたいなものでありましょうか?
「楊雄が王莽の大夫であったことを長く恥じていたようなもの」とは、兜率悦禪師のどのような点をそのよ 
 うに捉えていたのでありましょうか?

427
牛庵 齋名
某甲潙山僧一頭 それがしは潙山僧一頭
長渓路上即忘不 長渓路上すなわち忘ずるや否や
閑中無復祖師見 閑中また祖師の見無し
花屬春風月屬秋 花は春風に属し月は秋に属す

伊井暇幻先生訳・解説
「高名な禅僧が生まれ変わった牛にはイザン僧某甲と書いてあった。
其の牛は、名前が書いてあったぐらいだから、輪廻の長い道程で自分の過去を忘れずにいたのだろう。
とはいえ、牛小屋の中に祖師の姿はない。
僧たるイザンも牛たるイザンも、其の仏性の中核は同一であるとも思えるが、姿は似ても似つかない。

自然の摂理は、或る時には春風を起こし、或る季には秋となる。花は春風に属し、月は秋に属するものだ。
花と月は全くの別物ではあるが、元を辿れば、自然の摂理に依る存在だ。
僧としての仏性を発現するためには人間の姿をとるだろうし、牛として仏性を発現するに当たっては牛の姿
になるということなのだろう」

くま訳
それがしは、潙山僧である、と書いてある牛一頭
長い輪廻の流れの中で名前は忘れなかったのでありましょう。
静まり返った中に中に祖師の姿はない。
花は春に咲き、月は秋に映えるように、ありのままの在り様に仏性を見出すのだ。
(´・(ェ)・`)つ

531鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/03(木) 23:39:53 ID:1d4drIFg0
>>530 時代が薄福だったのじゃな。
 仏の公案が魔の公案になったということじゃな。
 当時の中国では皇帝や高官に法嗣の印可を与えていたというのじゃ。
 当然それらの者は実際にはあまり修業もしていない者たちだったじゃろう。
 そのように宗教での名誉を与えて宗派の保護を頼んでいたのじゃ。
 薄福の時代であり、公案も正統な伝統を外れて魔となり、権力におもねる恥となったのじゃ。

532鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/03(木) 23:47:10 ID:1d4drIFg0
某は蕃山僧と書いてあった牛がいたのじゃ。
長い路上でも忘れなかったのじゃ。
閑な時でも祖師の見解はなかったのじゃ。
花は春に属し、月は秋に属するようにのう。

533避難民のマジレスさん:2021/06/04(金) 00:09:43 ID:pM9ExD920
くま質問
閑な時でも祖師の見解はなかったとは、牛としての仏性はあっても、祖師としての見解は示す事ができない、
みたいな意味でありましょうか?

428
臨濟曹洞座主各未後句 1/2 臨濟曹洞座主おのおの未後の句 
大死底人心塊土 大死ていの人こころくわいど
元來是燈籠露柱 元來是れ燈籠露柱
變易分段只任他 変易分段只ださもあらばあれ
新月黄昏五更雨 新月くわうこん五更の雨

石井恭二先生訳
大往生した人でも、心は土塊にすぎず、
もともと、灯籠や露柱と同じだ。
変易生死とか分段生死とか、聖者の生死と凡夫の生死を
別にするけれど、そんなことはほうっておこう、
夕方に三日月が見えたと思えば、夜明け前には雨が降り出した。

くま訳
臨濟宗や曹洞宗の座主達の最後のことば
全く自己を忘じた、大悟した人の心は、土くれと同じである。
元来、これ燈籠や露柱と同じなのである。
大悟した聖者の死と、凡夫の死の違いがあると言うのであれば、それもよかろう。
新月の黄昏、明け方の雨

*大死底人「死にきった人。万死に一生を得た人。一切の見聞覚知・情識分別を離れ、世出世・順逆を見な 
 い大悟人をいう」「死に切った人」「全く自己を忘じて、一切殘り物のない大悟底の人をいふ。また、大 
 悟者にして未だ敎化の機を發せざる者を、死在底の漢といふことあり。畢竟大死は消極の絶點を云ひ、そ 
 の絶點即ち大活の現成なる意を寓せる也」
*塊土:土塊(つちくれ)土のかたまり。また、土のこと
*分段生死:六道に輪廻 (りんね) する凡夫の生死。人の身は寿命・果報などに一定の限界があるところか
 ら分段という
 変易生死:聖者が迷いの世界を離れて、輪廻 (りんね) を超えた仏果に至るまでに受ける生死。
*五更:1.一夜の、昔の五区分法。ほぼ午後七時から二時間ずつに区分した、初更(甲夜)・二更(乙夜
 (いつや))・三更(丙夜)・四更(丁夜)・五更(戊夜(ぼや))。
 2.五更⑴の第五更。寅(とら)の刻(午前三時〜五時までの間)
(´・(ェ)・`)つ

534鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/04(金) 23:16:27 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、牛に生まれかわるのもそうなる行いがあつたからであるからのう。
 名前を忘れずに居て時間があっても祖師としての見解は示せないのじゃ。

535鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/04(金) 23:39:13 ID:1d4drIFg0
大体善いのじゃ。

大悟して死んで生きる仏陀の心は土塊と同じようなものじゃ。
元来灯篭や柱と同じく無でありながら用を足すことができるものじゃ。
分別や知識は他の者に任すのじゃ。
黄昏に新月、五更には雨なのじゃ。

536避難民のマジレスさん:2021/06/04(金) 23:49:03 ID:V7K29P4Y0
くま訳全面改
大悟して死んで生きる仏陀の心は土塊と同じようなものなのだ。
元来灯篭や柱と同じく無でありながら用を足すことができるものなのだ。
分別や知識は他の者に任すのだ。
黄昏に新月、五更には雨なのだ。

429
臨濟曹洞座主各未後句 2/2 臨濟曹洞座主おのおの未後の句 2/2
平生信施涅槃堂 平ぜいの信施涅槃堂
暮往天台南岳朝 暮に天台にゆき南岳はあした
公道世間只病苦 世間に公道たるはただ病苦
貴人身上不會饒 貴人身上もかつてあまさず

くま訳
臨濟宗や曹洞宗の座主達の最後のことば 2/2
常日ごろ信者がお布施を捧げる、涅槃堂
暮には天台宗の寺に行き、朝には南嶽の禅寺に行く
世間ではそれが当たり前だが、それはただの病苦である。
貴人の身の上に関しても、それは全く同じことである。

*信施:信者が仏・法・僧の三宝にささげる布施
*天台宗(天台法華宗):妙法蓮華経(法華経)を根本仏典とする。実質的開祖の智顗が天台山に住んでいた
 ということに由来する
*南嶽懐譲:677年 - 744年、師 慧能
 懐譲は慧能の元に赴き型通りの初相見となったが、自己紹介の後に「ノコノコとわしの前に出てきた奴は
 何者か」と再度問われ答えることができなかった。懐譲は長い修行の間、この這個の問答が胸につかえて 
 いたが、8年経って忽然として気が付き、師に「あの時は答えることができませんでしたが、ようやく見
 解を呈する自信がつきました」と伝えた。聞かせてみよ、と促されて懐譲が呈したのが「説似一物即不
 中」(ある程度それらしい説明はできるが、その真味を伝えることは到底できない)である。
 弟子に著名な禅僧である馬祖道一がいた。仏になろうと座禅の修行にひたすら打ち込む道一に対し、瓦を 
 磨いて鏡にしようとするのと同じだ、と戒めた。

↑懐譲が慧能に対して、凡庸な答えを言うのに8年間かかたのは、大悟した者の心は、土くれと同じだから、
 格別気の効いた事を云わなくても良いのだと悟ったからでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

537鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/05(土) 21:56:59 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

平生は信者が信心深く施しをする涅槃堂なのじゃ。
しかしそれらのものは暮れには天台に行き、朝には南岳に行ったりするのじゃ。
世間では当然のことであるが病苦のもとなのじゃ。
貴人でさえも同じなのじゃ。


違うのじゃ。
それは真に言葉に出来ないことを悟ったからなのじゃ。
以前はまだ気付いていなかったのじゃ。
それを悟ってまた相見できたのじゃ。

538避難民のマジレスさん:2021/06/05(土) 23:07:06 ID:uxoZjgoI0
くま訳改
第三句:世間では当然のことであるが病苦のもとなのじゃ。
第四句:貴人でさえも同じなのじゃ。

430
扶起東福寺荒廢蓋因美少年之舊交 甲子十二 東福寺の荒廢を扶起す、けだし美少年の旧交に因る、かつし十二 1/2
看看慈楊禪正傳 看よ看よ慈楊禪の正傳
誰來純老面門前 誰か來たる純老面門の前
宗門潤色風流道 宗門の潤色風流の道
舊約難忘五十年 旧約忘れ難し五十年

くま訳
東福寺の荒廃を立直す、一休が美少年だった頃、昔からの縁があるのだ。 1405年一休12歳・1444年一休
55歳  1/2
見よ、慈楊禪の正伝を!
誰か一休の面前に出て来れるものはいるか!
宗門の上辺を取り繕う、風流道
昔の約束が忘れ難いのだ五十年たっても

*一休年譜によると、一休十二歳、山城嵯峨宝幢寺において清叟師仁(虎関師錬の弟子、東福寺聖一派の
 人)の『維摩経』の講席に連なり
*慧日山東福寺:臨済東福寺派の本山、京都山の、聖一國師開山、藤原道家の創立による(禅学大成脚注)
*扶起(ふき)立直す・(中国語辞典)
*蓋し:1 物事を確信をもって推定する意を表す。まさしく。たしかに。思うに。2(あとに推量の意味 
 を表す語を伴って)もしかすると。あるいは。3(あとに仮定の意味を表す語を伴って)万が一。もしも。
 ひょっとして。4 おおよそ。大略。多く、漢文訓読文や和漢混淆文などに用いる。「よって勧進修行の 
 趣、―もって斯(か)くの如し」〈平家・五〉
*甲子(かつし):きのえね(十干の甲は陽の木、十二支の子)
 西暦年を60で割って4が余る年が甲子の年⇒1444年 一休さん55歳
*潤色:1 色をつけ光沢を加えること。2 表面をつくろい飾ったり事実を誇張したりしておもしろくする
 こと。「潤色を加える」「事件を潤色して伝える」3 天の恵み。また、幸運。
(´・(ェ)・`)つ

539鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/06(日) 21:40:29 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

見よ見よ慈楊禪の正傳はここにあるのじゃ。
誰か門前でわしに面会する者はあるのかのう。
宗門の潤色は風流の道なのじゃ。
五十年前の約束も忘れがたいものじゃ。

540避難民のマジレスさん:2021/06/06(日) 22:10:42 ID:fCy0.NNc0
くま訳改
第二句:誰か門前でわしに面会する者はあるのかのう。
第三句:宗門の潤色は風流の道なのだ。

「宗門の潤色は風流の道」、宗門の うわべをつくろい飾るのが風流道であると、
風流道を評価してるのでありますね。

431
扶起東福寺荒廢蓋因美少年之舊交 甲子十二2/2
大慈聖一是開山 大慈は聖一是れ開山
建立魔宮救五山 魔宮を建立して五山を救ふ
東福分派南禪寺 東福派を分つ南禪寺
千歳猶輝慧日山 千ざいなほ輝くゑにち山

くま訳
大いなる慈悲を以って聖一国師が開山された
魔宮を建立して京都五山を救ったのである。
東福寺の分派が南禪寺である
慧日山東福寺は千年後も輝き続ける出ありましょう。

*聖一:円爾(えんに、1202-1280年)鎌倉時代中期の臨済宗の僧。駿河(静岡県)の出身。諡号(しご 
 う)は聖一国師(しょういちこくし)。
 1235年、宋に渡航して無準師範の法を嗣いだ。1241年、帰国後、博多にて承天寺を開山、のち上洛して
 東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼
 修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。こ 
 のため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た。

541鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/07(月) 23:41:10 ID:1d4drIFg0
↑そういうことじゃな。
 本来仏道には要らないものであるからのう。
 虚飾を風刺しているのじやな。

542鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/07(月) 23:44:01 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

大慈の聖一国師が開山したのじゃ。
魔宮を建立して五山を救ったのじゃ。
東福寺の分派の南禅寺なのじゃ。
千年後もなお輝く慧日山なのじゃ。

543避難民のマジレスさん:2021/06/08(火) 00:45:57 ID:ihBMrWr20
432
大機居士卜小築   大機居士しょう築をぼくし
額曰瞎驢因贅以偈云 額してかつろといふ、よってぜいするに偈を以ってすといふ
大人消息有誰通   だいにんの消息、誰有ってか通ぜん   
不堕靈山記莂中   りょうぜんきべつのうちに堕せず  
臨濟宗風掃地滅   臨済の宗風地をはらって滅す  
紅塵紫陌閙忽忽   こうじんしはく ねうそうそうたり

くま訳
大機居士(陶山公)が、小さな建物を、占って選んでくれたので、
瞎驢(庵)と命名して掲額した。ここで、蛇足の偈を付すのである。
大人たる師の動静は誰からともなく伝えられるものである。  
世尊が迦葉に伝授した奥義、「不立文字」。言葉に捉えられてはいかんのだ。無論この言葉も含めて。 
臨濟の宗風はきれいさっぱり消滅してしまった。(今後はこの瞎驢一休が背負うのだ) 
俗世間が煩わしくてかなわんわんのである。

*瞎驢:「盲目の驢馬」臨済義玄の末期の一語に由来。臨終の間際に「誰知吾正法眼藏、向這瞎驢邊滅卻」
(豈図らんや、吾が正法眼蔵(しょうぼうげんぞう。仏法の正しい教え・真髄。)が這(こ)の盲目の驢馬
(臨済義玄の弟子)のところで滅びてしまおうとは!)と言い終わると、端然として亡くなった。
*卜する(ぼくする);1うらなう。うらなって、よしあしを判断する。2うらなって定める。また、判断し
 定める。
*1444 一休51歳 妙心寺 日峰宗舜の大徳寺入山を、養叟と謀って拒み、華叟が説いた大燈徹翁下の一 
 流相承を固持する。
 1447 一休54歳 大徳寺の一僧自殺、数人が投獄される。一休は再び譲羽山へ退隠し断食するが刺命に 
 より中止する。
 1448 一休55歳 陶山公の旧隠を売扇庵と名付け、ここに身を寄せる。先に火中に投じた印可が未だ保 
 存されているのを知り、再びこれを焼却する。
 1452 一休59歳 売扇庵南の小庵に移り、そこを瞎驢庵と名付ける。
*瞎驢庵は陶山氏に庇護されていた。
*陶山氏は一休の命名で大機居士と称した。
*陶山氏(すやまし)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて備中国に割拠していた武士団のひとつ。国人と 
 して次第に成長し、室町幕府では奉公衆として名を連ねている。
*贅する;蛇足を添ふることなり(禅学大成脚注)・言わなくてもよいことを言う。。
*大人(だいにん・だいじん):師、徳の高いりっぱな人。度量のある人。大人物。地位や身分の高い人。父、
 成人男子に対する敬称。
*不堕靈山記莂中;世尊、靈山に於いて迦葉尊者に伝え給う時の、「我に不立文字教外別伝、正法眼蔵涅槃
 妙心あり、爾に授く」とて禪法の奥旨を許し給う。而して又かかる言句の為に捉えられぬを云ふ。(禅学 
 大成脚注)
*紅塵紫陌:帝都の賑(にぎ)やかな通りの塵(ちり)。〔寓意:帝都では、煩(わずら)わしい俗世間の 
 塵 ・紫陌:しはく;都の市街。帝都の郊外の道路。・紅塵:賑やかな街の埃(ほこり)。市街地に立 
 つ土ぼこり。繁華な市街地。また、空が赤茶けて見えるほどの土ぼこり。また、浮き世の塵。煩(わず
 ら)わしい俗世間。俗塵。(詩詞世界HP解説)
*閙:呉音 : ニョウ(ネウ)漢音 : ドウ(ダウ)慣用音 : トウ(タウ) さわぐ。さわがしい。にぎやかなさ 
 ま。みだれる。みだす。かきみだす。あらそう。あらそい。
*忽忽・惚惚(こつこつ):① 物事をかえりみないさま。② 失意のさま。がっかりしたさま。気がふさい 
 ださま。③ すみやかなさま。たちまち。④ うっとりとしたさま。気がぬけたさま。⑤ まようさま。⑥  
 堅苦しいさま。傲慢で気取っているさま。
(´・(ェ)・`)つ

544避難民のマジレスさん:2021/06/08(火) 00:50:37 ID:ihBMrWr20
おまけ;*一休年譜
 永亨九年丁巳 師年四十四歳
(京都はんなり旅HPより)
 純藏主悟徹後、  純蔵主(じゅんぞうす)悟徹の後、
 與一紙法語、   一紙の法語を与えしに、
 道是甚麼繫驢橛、 是(こ)れ甚麼(なん)の繫驢橛(けろけつ)ぞと道(い)いて、
 拂袖去、     払袖(ほっしゅう)して去る。
 可謂瞎驢邊滅類也、謂(いい)つべし、瞎驢(※1)辺に滅するの類(たぐい)なり、と。
 臨濟正法若墮地、 臨済(りんざい)の正法(しょうぼう)、若し地に堕ちなば、
 汝出世來扶起此、 汝、世に出で来(きた)りて此れを扶起(ふき)せよ。 
 汝是我一子也、  汝は是れ我が一子なり。
 念之思之、    之を念(おも)い、之を思え。
 應永二十七年五月日 華叟 

 純蔵主が悟りの境地に入った後、
 わし(師華叟)は一枚の法語(左券)を一休に与えた。
 すると一休が、左券を受取ればまるで驢馬が棒杭に繋がれて身動きできなくなるようなもので邪魔物でし 
 かない(左券に執着して挙句の果てには束縛されるだけだ)、と言って、
 左券を袖で払い捨てて去ってしまった。
 このままでは臨済和尚が臨終の間際に言われた「瞎驢辺に滅却」することになる(盲目の驢馬のようにも 
 ののわからぬ未熟者の代で法統を途絶えさせてしまうことになる)。
 だが、臨済の正しい教えがもし地に堕ちるようなことになれば、
 一休よ、汝が世の前面に出てこれを立て直せ。
 汝は我が法統を嗣ぐ者、これができるのは汝をおいてほかにない。
 このことをよくよく心に留め置き、考えよ。
 応永二十七年五月日 華叟 
(´・(ェ)・`)b

545鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/08(火) 21:48:41 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

大機居士という者が占って小さな庵を建てたから瞎驢庵と額して蛇足として詩をよんだのじゃな。

大人の消息は誰が知っているじゃろうか。
霊山の記は堕落していないのじゃ。
臨済宗の風は地を掃って滅したのじゃ。
世間はさわがしくさまようものばかりなのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2021/06/08(火) 23:30:09 ID:Ou5pO.120
433
戒参玄僧智愚  参玄僧の智愚を戒む
大智元來迷道愚 大智元來迷道の愚
未聞小智菩提扶 未だ聞かず小智菩提のたすけなることを
一千公案繋驢橛 一千の公案けろけつ
學者江湖飯袋徒 學者は江湖飯たいの徒

くま訳
求道野僧を智愚が戒めたのである
元来、智恵などというものは過ぎれば、愚かしく道に迷うはめになるのである。
だからと言って、小智が悟りの助けになるなどとは、聞いた事がない。
一千の公案に取り組んでみても、足手まといになるだけであるのである。
夏安居の間、學者ぶってる奴は、役立たずである。

*繋驢橛(けろけつ);驢を繋ぐ杭、杙の類をいひ、却って羈絆となるをいふ(禅学大成脚注)
*虚堂智愚(きどうちぐ)1185―1269,南宋の臨済宗の僧。南浦紹明 (なんぽじょうみょう) は虚堂の法脈 
 を受けた臨済禅を日本に伝えた。
*大智(だいち)1290-1367、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。
 大智という法名に関して、以下のような伝説が伝わっている。 齢七つの萬仲は、肥後大慈寺の寒巌義尹 
 に弟子に入ることとなった。相見の時に寒巌が年齢を問うた「名前はなんと申す」「萬仲と申します」 
 「幾つになる」「齢七つになります」そこで寒巌は手元の饅頭を勧めた。饅頭を食す姿を見て寒巌は問う 
 た。「萬仲が饅頭を食べるとは、いかなる心地か」すると萬仲は澄まして答える。「大蛇が小蛇を食らう 
 ようなものです」その答えに甚く感心した寒巌は、川(大慈寺の傍を流れる緑川)を指差して言った。 
 「この川は川舟の往来が激しく騒がしい、この場で舟の往来をとめて見せよ」萬仲座を立ち川を望む側の
 障子を閉て座に戻ると言った。「これで舟はとまりました」「ならば、その場を動かずにとめて見せよ」 
 萬仲は黙って目を閉じた。七歳の智慧に甚く感心した寒巌は「なかなか知恵の回る小僧だ、出家したら小 
 智と名乗るがよかろう」「いやでございます」「何故じゃ」「小智は菩提の障りとなります」寒巌は笑い、
 大智と名付けたという。"
*江湖(ごうこ、こうこ)大きな江(川)と湖(狭義ではその代表たる長江と洞庭湖)の併称で、転じて官 
 に対する民間、世間一般を指す言葉。禅宗用語 – 夏安居の別称
 安居(あんご)は、それまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、1か所に集まって集団で修行す 
 ること。および、その期間のことを指す。
*酒嚢飯袋(しゅのうはんたい)「酒嚢」とは酒を入れる革袋、「飯袋」はご飯を入れるおひつのことで、 
 大酒を飲み、飯をたらふく食べるだけで、何の役にも立たない無能な人物のこと。
(´・(ェ)・`)つ

547鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/09(水) 21:49:28 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

弟子の智愚といものをいさめたというのじゃ。


大智は元来迷い道の愚なのじゃ。
小賢しい智慧が菩提の助けになったことは未だ聞かないのじゃ。
一千の公案も驢馬を繋ぐためなのじゃ。
世間の学者は飯袋であるのみなのじゃ。

548避難民のマジレスさん:2021/06/09(水) 22:55:49 ID:8o3Hfofg0
くま訳全面改
弟子の智愚というものをいさめたというだ。

大智は元来迷い道の愚なのだ。
小賢しい智慧が菩提の助けになったことは未だ聞かないのだ。
一千の公案も驢馬を繋ぐためなのだ。
世間の学者は飯袋であるのみなのだ。。

*智愚とは、虚堂智愚のことではなくて、一休さんの弟子のことだあったのでありますね、

434
百丈絶食
大智禪師難行道 大智禪師難行道
末法爲人眞落草 末法ゐ人眞の落草
飽食痛飲熱鐵丸 飽じき痛飲熱鉄丸
初懼泉下閻羅王 初めておそる泉下閻ら王

くま訳
百丈絶食
大智禪師は修行をもって悟りの境地に達しようと難行道を歩んだが、
末法の世にあって、地に落ちてしまった
たらふく飲み食いし過ぎて、消火できず、 更に真っ赤に燃える鉄の塊を呑んだようなものだ
初めて、あの世での閻魔様に対面して震え上がっているであろう。

一休さんは、大智禪師の、どの様なところが「真の落草」だと指摘しているのでありましょうか?
曹洞宗の教え、実践法に対する批判をしてるのではありょうか? 

*百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749- 814年唐代の禅僧。諡は大智禅師。南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道 
 一の法を継ぐ。一日(いちじつ)作(な)さざれば 一日食(くら)わず。
 師がご高齢となり 周囲の者が気遣い 作務を行わなくともよいようにしようとしたが、老師は納得され 
 ない。仕方が無いので 作業の道具を隠してしまった。道具がないのに気付いた老師は 黙って部屋に入 
 り、幾日もの断食に入られた。
*難行道:自力による修行をもって悟りの境地に達する方法。聖道門⇔易行道
*末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正
 法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来 
 て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のこ
 とである
*落草:((宋元明清時代の話し言葉の上に形成された書き言葉)) 盗賊の仲間に入る,山賊になる。
 鷹が鳥を追い落とした草原。また、鳥が飛びおりて隠れる草むら。
*泉下:死人が行くという地下の世界。
*閻羅王:=閻魔王。冥界の王、悪罪に対して刑罰を司る冥界の覇者
(´・(ェ)・`)つ

549鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/10(木) 20:45:30 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、弟子に居たのじゃろう。
死んだ者をいさめても意味がないからのう。

大智禅師は戒に拘りすぎたからじゃな。
そんな小さなことに囚われるより法を説くべきだったのじゃ。
それこそ真の師匠が成すべき務めだったのじゃ。
それを怠って断食をしていたから落草なのじゃ。

550鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/10(木) 20:48:32 ID:1d4drIFg0

百丈の断食わ批判じゃな。

大智禅師の行道は難ありなのじゃ。
末法の人のために真の落草なのじゃ。
飽食の痛みは熱く焼いた鉄丸を飲む如しなのじゃ。
冥土で閻羅王に会って初めて驚くのじゃ。

551避難民のマジレスさん:2021/06/10(木) 22:47:12 ID:4UJkw2b.0
くま訳全面改
百丈絶食
大智禅師の行道は難ありなのだ。、
末法の人のために真の落草なのだ。
飽食の痛みは熱く焼いた鉄丸を飲む如しなの
冥土で閻羅王に会って初めて驚くのだ。

くま質問
「末法の人のために真の落草」とは、末法世で悟りを求める修行者に対して、戒に拘るような修行法を示す
ことは、盗賊のような在り様である、みたいな意味でありましょうか?、

435
題大燈国師行状末 大燈国師行状のすゑに題す
挑起大燈輝一天  大燈をかかげ起して一天に輝く、
鸞輿競誉法堂前  らんよ、ほまれを競う法堂の前。
風飡水宿無人記  風さん水宿人の記する無し。 
第五橋辺二十年  第五橋辺二十年。

くま訳
大燈国師行状のすゑに題す 
大燈をかかげ起して天下に輝く、
説法を聞きに来る天子の御者が、法堂前で誉を競う
ここには大燈が風を食い水辺に寝た乞食行のことを記していない。 
五条大橋の下での二十年間の乞食行のことである。

*大燈国師行の行状;是れは大燈録の終りに附せる行状にて春作禪興の作なり、其の行状の終に題せられし 
 もの。偈の意に謂ふ、「春作は盲坊主なり、國師が天子の歸依を受けられし事ばかり麗々しく書きたてて、
 第五橋邊二十年を恥と思ふて載せず、何と云ふ手落ちまりや」と。風餐水宿、頭陀乞食を発揮せられたる 
 作なり。(大成脚注)
*春作禅興:華叟と同門の兄弟弟子
*1451年 一休 58歳 春作禅興作「大燈国師行状」を批判、養叟との対立が表面化。
*鸞輿(ランヨ):天子の乗る輿(こし)。鳳輿(ほうよ)。鳳輦(ほうれん)。
*風飡水宿(ふうさんすいしゅく):「風を食い、水のほとりで寝た」という意味。
(´・(ェ)・`)つ

552鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/11(金) 21:36:49 ID:1d4drIFg0
↑そのような意味じゃろう。
 戒は修行者が修行しやすい生活を整えるためのものじゃ。
 それに拘って本来の修業を教えないのでは本末転倒なのじゃ。
 真の落草なのじゃ。

553鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/11(金) 21:50:37 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

大燈国師の行状の末に題するというのじゃ。

大燈をかかげ起して天下一に輝いたのじゃ。
天覧の誉れを法堂前で受けるのじゃ。
風を食らい水に宿る生活をしていたことを記す者は無いのじゃ。
第五橋の辺に二十年いたのじゃ。

554避難民のマジレスさん:2021/06/11(金) 22:10:32 ID:Q18p6jK20
くま訳改
第二句:天覧の誉れを法堂前で受けるのだ。

436
大應國師賛 妙勝寺
大唐國裏沒禪師 大唐國裏禪じなし
傳授明明東海兒 傳授明々たり東海の児  
一天法窟妙勝寺 一天のほつ窟妙勝寺
天澤宗風更有誰 天澤の宗風更に誰か有る

くま訳
大應國師賛 妙勝寺
大唐國にはもう禪師はいない。
禅が日本の僧に伝授されたことは明白である。
天下一の修行道場となった妙勝寺
臨済の宗風をを伝える適任者が他に誰がいるというのか。

*大応国師(南浦紹明):25才の時に唐に渡り、虚堂智愚に禅を学び、帰国。弟子・宗峰妙超(大燈国師)
 が京都の大徳寺を開山。中国から帰って「妙勝寺」でその教えを弟子たちに伝え、晩年ここで暮らした。
 その後酷く荒廃してしまったこの寺を大応国師を尊敬する一休さんが、修復をし、「報恩庵」として自ら 
 も住まわれた。
*法窟(ほうくつ):修行の道場
(´・(ェ)・`)つ

555鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/12(土) 23:19:50 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

大応国師の賛というのじゃ。

大唐国にはもはや禅師はいないのじゃ。
日本の僧によって正統な伝授が受け継がれたことは明白なのじゃ。
天下一の法の修行場である妙勝寺なのじゃ。
天澤の宗風が更に誰に有ると言うのじゃ。

556避難民のマジレスさん:2021/06/12(土) 23:55:30 ID:RV3c13Ko0
437
賛二祖 二祖(慧可)を賛す
大唐今古沒禪師 大唐今古 禅じ没(な)し
断臂虚傳人不知 だんぴのきょでん人知らず
只許南山道宣筆 只許南山道宣が筆
恰如痛處下針錐 あたかもつうしょにしんすいをおろすがごとし

くま訳
二祖(慧可)を讃える
大唐国には今はもう禅師はいない。
太祖慧可が達磨さんに弟子入りを請うために腕を切り落としたという伝説は嘘であることを皆しらないの
だ。南山道宣が書いた続僧傳にのみ真実が語られているのである。
あたかも、痛いところに針を刺すような話である。
(賊に腕を切り落とされたが、法を以って心を御し痛苦を覚えず、火を持って切ったところを焼いたとのこ
とである。)

太祖慧可 
南山道宣:続高僧伝
道宣(どうせん):596-667年 唐代の律宗の僧侶。南山律宗の開祖。
道宣の弟子は千人を数え、その教えを拡大させ、南山宗は一世を風靡し、現在の中国の僧侶も彼の四分律を
学んでいる。法席を嗣いだのは周秀である。また、弟子の文綱系統からは鑑真が出ている
(´・(ェ)・`)つ

557鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/13(日) 21:54:27 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

二祖の賛じゃな。

大唐には古今の禅師がいなくなつたのじゃ。
腕を切ったのは嘘であると皆知らないのじゃ。
ただ南山道宣の書いたことが正しいのじゃ。
あたかも痛いところに針を刺すようなものじゃ。

558避難民のマジレスさん:2021/06/13(日) 22:57:22 ID:jip11rhE0
438
文明甲午春     文明かぶ午の春
拝大徳禪寺住持勅請 大徳禪寺住持勅じょうを拝す
門客交賀 吁    門客かわるがわる賀す。ああ
五十年簑笠淡如   五十年さりゅうたんじょたり
勅黄捧照      勅おうほう照して
無愧于懐乎     かいに愧づる無からんや
因作詩泄之     因って詩を作り之をもらす

大燈門弟滅残燈 大燈の門弟殘燈を滅す
難解吟懐一夜氷 解け難し吟懐一夜の氷
五十年来簑笠客 五十年來さりゅうの客
愧慙今日柴衣僧 愧慙す今日柴えの僧

柳田聖山先生訳
大灯国師の弟子である拙僧が消えのこる灯火を滅す
懐に抱いている氷の塊が一晩では解けそうにはない
ここ五十年というもの蓑笠のみで放浪した身なのだ
今朝は紫の袈裟を羽織る姿となって恥入るばかりだ

茶の湯に親しむHP先生訳
大灯国師の門弟たる者がわずかに残されていた灯明を消してしまった。
このため、詩心は一夜の氷のように固まって解け難い。
五十年来、放浪の旅人であったが
今日は恥かしくも紫衣をまとう(名利をまとう)僧侶に成り果ててしまった

くま訳
1474(文明6年)一休81歳 春
刺命により、大徳寺住持拝受。
祝賀の客が後を絶たない。あぁぁ
五十年間簑笠を着てあっさりとした生活してたのである。
天子様からの勅命をいただいてしまい、
内心恥ずかしく無いわけがなかろうもん!
そこで、詩を作ってその思いをもらすのである。

大燈の弟子達が大燈の教の残灯を消してしまう。
胸中の凍てついた詩情は、一夜の氷のようで溶け難い。
五十年来簑笠を着て行脚を続けてきたのであるが、
今日は、紫衣を着る羽目となり恥じ入るばかりである。
(´・(ェ)・`)つ

559鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/14(月) 22:54:25 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

天皇からの命令で大徳寺の住持を受けたのじゃな。

祝賀の客が後を絶たず悲鳴を上げるのじゃ。
五十年蓑笠を着て淡白に暮らしていたのじゃ。
勅命に照らされて恥ずかしいことであるからこの詩を作ったというのじや。

大燈の門弟達は法の残り灯を消してしまったのじゃ。
懐に抱く氷は一夜では融けないのじゃ。
五十年来蓑笠の客であったのに、
今日紫衣僧になったことを恥じるのじゃ。

560避難民のマジレスさん:2021/06/15(火) 02:15:52 ID:MyFrn1YY0
徹翁和尚
大燈子大應孫 大燈の子大應の孫
正傳臨濟宗門 正傳臨濟の宗門
儼然靈山一會 儼然たりりょうぜんの一ゑ
何妨三界獨尊 何ぞ妨げん三界の獨尊

くま訳
大燈の弟子、大應の孫弟子である
臨濟宗門の正伝である
釋迦が説法をした霊鷲山の法会の伝統が今でも厳然として続いているのである。
三千世界で釋迦独り尊しとすることに、何の妨げがあろうか

*徹翁義亨〈てつおうぎこう〉南北朝時代の臨済宗の僧。おそらく出雲守護佐々木氏の一族であろう。19
 歳で出家し,上洛して建仁寺,南禅寺に参じたが,五山の禅風にあきたらず,東山の雲居(うんご)庵に
 隠棲していた宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)(大灯国師)の門に入り,その法を継いだ。妙超が大徳
 寺を開くとこれに随い,妙超没後の1338年,勅により大徳寺2世(1世説多)として入寺し,別に寺前に
 徳禅寺を建立した。
*三界:① 欲界・色界・無色界の総称。衆生が輪廻する世界。②三千大千世界の別称。③三世 – 過去世・ 
 現在世・未来世の総称。三界ともいう。
(´・(ェ)・`)つ

561鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/15(火) 21:54:11 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

徹翁和尚の詩じゃな。

大燈の子であり大應の孫なのじゃ。
臨済宗門の正伝なのじゃ。
霊山の一会から厳然として続いているのじゃ。
三千世界に独り尊しと宣言しても何の妨げも無いのじゃ。

562避難民のマジレスさん:2021/06/15(火) 22:11:49 ID:MyFrn1YY0
くま質問
「三千世界に独り尊しと宣言しても何の妨げも無いのじゃ。」において、尊いのは、徹翁=悟った人と一休
さんは読んでるのでありましょうか?

440
拝大徳寺住持勅請之頌 大徳寺住持勅じょうの頌を拝する
呈廣徳堂上柔仲和尚  廣徳堂上にゅう仲和尚に呈す
大徳大燈龍寶山 大徳大燈龍寶山
靈光天上又人間 靈光天上又人間
焼香酬恩曇華叟 香をたき恩に酬ゆどん華そう
金色頭陀曾破顔 金色の頭陀かつて破顔す

柳田聖山先生訳
大燈国師の開かれた竜宝山大徳寺
霊験は天界と人間社会を照し出す
華叟和尚の恩に酬いるため焼香す
頭陀袋が金色になっても心は同じ

くま訳
大徳寺住持勅請の頌を拝したので
廣徳寺堂上柔仲和尚に呈する

大燈国師が開かれた龍寶山大徳寺
靈光は、天上界又人間界を遍く照らす
華叟宗曇和尚の恩に酬いる為に焼香します
金色の頭陀袋を見て昔、笑ってくれたものである。

*廣徳寺は、兵庫県尼崎市寺町にある臨済宗大徳寺派の寺院。山号は瑞雲山。1390年に京都から尼崎の大 
 物に移された。1478年頃には柔仲宗隆が住持となった。
*華叟宗曇(かそう そうどん、1352-1428年。大徳寺の徹翁義亨に投じ、14歳で出家。のち徳禅寺の言外 
 宗忠に参じ、印可を得る。
 一休さんの名付け親。「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」の言葉から、華 
 叟が道号として授けた。
(´・(ェ)・`)つ

563鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/16(水) 21:47:16 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、徹翁なのじゃ。
お釈迦様と同じ大悟徹底したから独尊でよいのじゃ。
 大悟すれば皆同じなのじゃ。

564鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/16(水) 21:54:12 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。


柔仲和尚に呈する詩なのじゃ。

大徳寺は大燈が龍宝山に開いたのじゃ。
その霊光は天上と人間も照らすのじゃ。
焼香して華叟宗曇和尚の恩に報いるのじゃ。
かつては金色の僧は笑っていたのじゃ。

565避難民のマジレスさん:2021/06/16(水) 23:30:56 ID:xp4dYwns0
くま訳改
第四句:かつては金色の僧は笑っていたのだ。

*頭陀:衣食住に関する貪欲(どんよく)を払いのけて仏道修行にはげむこと。その修行のため、食を乞いな
 がら野宿などして旅を続けること、またはその僧。

霊山和尚の元気が出る修行決意宣言!
441
汲井輪略無停息  きゅうせい輪ほぼていそく無きがごとし
今既得出家    今既に出家することを得て、
僧相圓備     僧相円備
在三衣一鉢下   さんえ一はつげに在り
想是過去幾生修來 想ふに是れ過去幾生が修し來つて  
得如此乎     かくの如きことを得るか。
若是再      若し是れ再び
入驢胎馬腹去   ろ胎馬腹に入り去らば
不知又經幾生   知らず又幾しょうを経てか  
歸來改修此錯   帰り来たってこのあやまりを改修せん
努力努力     努力せよ努力せよ
切須今生了達   切に須らく今じょうに了達して、
無如是殃過    かくの如きのおう過無かるべし
念之思之     之をおもへ之を思へ

右靈山和尚法語  右靈ぜん和尚の法語
題其後云     其の後に題すと云ふ

互操高低汲井輪  互ひに高低をとるきふせい輪
威音彌勒一回春  威音の彌勒一回の春  
三世諸佛歴代祖  三世の諸佛歴代の祖
泉聲滴涙苦吟身  泉せい涙したたる苦吟のみ

くま訳
井戸の釣瓶の滑車が、ほぼ停まることなく動くように、常に自覚せねばならぬのだ。
今既に出家することができたのであるから、
僧としての見てくれは、完璧に調えねばならぬ。
三衣一鉢のみを持って生きるのだ。
思うに、過去生で、何度も修行を重ねてきたお陰さまで、
いま、このようにして在れるのである。
もしこの度もまた、驢馬の胎に戻るような事があっても、
何回生れ変らねばならぬのか分からないが、
必ず修行者に生れ変ってきて、その誤りを正すのだ。
努力努力
切に、何としても、今生で修行を完成させて、
どうか、何としても、このような災難が起こらないようにするのだ。(輪廻から解脱するのだ。)
これを念じるのだ。これを思うのだ。

上記靈山和尚の法語
其の後に題して云う。

互いに上がったり下がったりする、井戸の釣瓶
悠久の過去から弥勒の未来まで、春は一回きりである。
過去・現在・未来の三世にわたって存在する一切の仏、歴代の祖師は、
多くの言葉で、何とかして伝えようと、涙するほど苦しんで言葉を紡ぎ出しているのである。

*汲井輪:井戸の釣瓶(つるべ)の滑車などの機構。
*三衣一鉢:三衣と一個の食器用の鉢。僧侶が携帯するささやかな持ち物。
*殃禍(おうか):わざわい。災難。
*威音:威音王仏のことで、『妙法蓮華経?』「常不軽菩薩品」にて説かれる、過去荘厳劫?最初の仏陀。そ 
 のことから、無量無辺の極遠に喩えられる。
*弥勒:現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなることが約束された菩薩(修行 
 者)で、ゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済す 
 るとされる。未来仏。
(´・(ェ)・`)つ

566鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/17(木) 21:40:00 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

井戸水を汲む輪が止まらないように
今既に出家することができて
僧としての装備を完全にして
衣三枚と鉢一つ手に在り
思うにこれは過去何世か修行してきて
このように僧になれたのであろう。
もしこれで再び
驢馬や馬に入るようなことになれば
又何生か経て帰り来たって過ちを修正しなければならないかわからないのじゃ。

努力努力するのじゃ。
どうしても今の世で悟りに達してそのような災いが無いようにするのじゃ。
これを念じ、これを思うのじゃ。

567鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/17(木) 21:51:36 ID:1d4drIFg0
その霊山和尚の法語に後に題して言うのじゃ。

互いに上下する井戸汲みの輪の如く
威音仏から弥勒まで仏は一度ずつ世に現れるのじゃ。
三世の諸仏や歴代の祖師は
水音が出るほどに涙したたる苦吟の身の衆生のために現われるのじゃ。

568避難民のマジレスさん:2021/06/17(木) 22:55:28 ID:Ky9gXzIs0
くま訳改
第二句;(その如く、)威音仏から弥勒まで仏は一度ずつ世に現れるのだ。
第三句:三世の諸仏や歴代の祖師は、
第四句:水音が出るほどに涙したたる苦吟の身の衆生のために現われるのである。

442
薄氷
但看江海薄氷池 ただかう海薄氷のちを看て
不管人人身上危 にんにんしん上の危をかんせず
可憐極苦目前急 憐れむべしごく苦目前に急なり
迷道衆生終不知 迷道の衆生つひに知らず。

くま訳
薄氷
但看江海薄氷池 ただ、薄氷が張った水辺に佇んで見ても、
不管人人身上危 人々は身の危険を感じないのである。
可憐極苦目前急 憐れむべきである。最大の苦(死)が目前に迫っているのである。
迷道衆生終不知 道に迷う衆生は、最後(死ぬ)までその事に気付かないのである。

*江海(こうかい)① 川と海。入江と海。② 俗世間から離れた場所。
*不管〜(中国語):〜にかかわらず ,〜を問わず
(´・(ェ)・`)つ

569鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/18(金) 23:04:21 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

ただ河海の氷が張っているのを看ても
人々は身の上の危険を知らないのじゃ。
憐れむべし極苦が目の前にせまるのを
迷い道の衆生は遂に知らないのじゃ。

570避難民のマジレスさん:2021/06/18(金) 23:15:12 ID:TzONvbZk0
443
山庵雑録曰。       山なん雑録に曰く。
楚石住嘉興天寧。     「楚石、か興天寧に住す。
値有司重作官宇闕木石。  有司の重ねて官宇を作るに、木石をかくに値ふ。 
欲取村落無僧廢庵應所需。 村落無僧の廃庵を取って、もとむる所に応ぜんと欲す。
因集諸寺住持議之。    因って諸寺の住持を集めて之を議す。
時楚石力陳不可者沮之。  時に楚石つとめて不可なる者をのべて之をはばむ。
有司不聴。        有司聴かず。
遂撾退鼓皈海鹽天寧。   遂に退くをうってかいえんの天寧に帰る。
二老皆勇於行義      二老皆義を行ふに勇み、
視棄師席之尊不啻如葉弊屣。師席の尊を棄つることただにへいしを棄つるが如くなるのみならざるを視る。
今雖荐禍患嬰己。     今しきりにくわげん己にかかるといえども、
而猶濡忍戀戀       しかもなほじゅ忍恋々たり、
亦獨何哉。        また独りなんぞや。」
予讀此有感因作偈云。   予これを読んで感有り、因って偈を作ると云ふ。
又有了庵一事省之     又了庵の一事有り、之れを省く。

奪人奪境事猶稠 奪じん奪境じなほしげし
幽谷閑林不自由 幽谷閑林自由ならず
莫道江山無定主 いふなかれかう山定主無しと
普天之下帝王州 普天のもと帝王の州

くま訳
山なん雑録に曰く。
「楚石、か興天寧に住んでいた。
役所の担当者が、寺を作りたくても、木石が無いので。 
僧が居ない村落の廃寺の廃材を取って、希望する所に応じたいので、
そこで、諸寺の住職を集めてこれを議論すると言って来た。
その時に楚石は、強く反対意見を述べてこれを阻止しようとした。
役人は聴き入れなかったので、
礎石は遂に席を蹴って、かいえんの天寧に帰ってしまった。
二人はともに議論することに熱くなり、
それなりの立場にある人が、その尊厳を棄てるのに、まるで使い古しの靴を棄てるような、無用なものを棄
てるようにしかできないように見えるのである。
今まさに禍が自分に降りかかろうとする時でも、
しかもなお何かもじもじと耐えているのである。
これはいったい、どういう事でありましょうか。」
予これを読んで観想があるので、因って偈を作るのである。
又了庵の一事有り、之れを省く。

徹底した無の境地になり、自我も「境地」も奪い去られた後でも、いろいろと面倒なことはおこるのだ。
のどかな深山幽谷であっても、きままで自由なわけではないのである。
言うのはやめておきなさい、山河に定まった主などいないのだなどと。
天下は全て、帝王の島なのであります。天子様が主なのであります。

*山庵雑録;恕中無慍禪師の撰する所、叢林の先徳先閒の学者の勧善懲悪の資料たるべき嘉言善行を編録せ
 るものなり(禅学大成脚注)
*楚石梵琦(ぼんき):1296‐1370元末・明初の禅者。臨済宗大慧宋杲(そうこう)下6世の法孫である。
*有司: その職を行なうべき官司。また、そこに属する官人。官署。官吏。
*闕;1 宮城の門。また、宮城。2 (「欠」と通用)不足する。かける。3 あやまち。
*宇:1 大きい屋根で覆った家。ひさし。のき。大空に覆われた世界。天下。3 器量。度量
*弊屣:(中国語)使い古した靴を意味します。役に立たないもの。
*濡(ジュ)ぬれる・うるおう・とどこおる・こらえる。たえしのぶ。
*奪人奪境:人境両倶奪:修行者を徹底的な無の境地に導くこと。自我も境地も奪い去ること。
(´・(ェ)・`)つ

571鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/19(土) 22:07:06 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

山庵雑録に書いてあったというのじゃ。

楚石が嘉興天寧に住んでいたのじゃ。
役人が役所を更に建てようとしたが木石が足りなかったのじゃ。
村の無僧の廃寺などから取ろうとしたのじゃ。
よって寺寺の住持を集めて議論したのじゃ。
楚石は反対したが役人は聞かないから天寧に還ったのじゃ。
二人のいい大人が自分が正しいと思って勇みたってのことなのじゃ。
議論の席を捨てるに古靴を捨てる如しなのを見たのじゃ。
今しきりに災いが己にかかるというのに、しかもなお辱めに耐えることが出来ないのじゃ。
これが一人だったらまたどうじゃろうか。

わしはこれを読んで感じることがあり偈を作るのじゃ。
また了庵の一事有もあるがこれを省くのじゃ。

572鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/19(土) 22:09:11 ID:1d4drIFg0
奪人奪境も猶騒がしいものじゃ。
幽谷閑林も不自由なのじゃ。
河山に定めた主無しと言ってはいかんのじゃ。
天下は全て帝王のものなのじゃ。

573避難民のマジレスさん:2021/06/19(土) 23:37:12 ID:yFDyK2DQ0
くま訳改
而猶濡忍戀戀(しかもなほじゅ忍恋々たり):しかもなお辱めに耐えることが出来ないのだ。
亦獨何哉(また独りなんぞや):これが一人だったらまたどうだろうか。

444
面壁達磨
誰人任運問安心 誰人か任運に安じんを問ふ
昔日神光侍少林 昔日神光少林に侍す
面壁功成無面目 面壁功成って面目無し
不知積雪滿庭深 知らず積雪滿庭に深きを

くま訳
面壁達磨
天地自然の法則に随い、安心を求める者は誰か、
昔、少林寺に、人為を超えた霊妙不可思議な光(達磨さん)が、降臨したのだ。
面目無き所、即ち真面目なりである。 ほんとうに豊かなものはどこか不足しているよう見えるものなのだ。
知らない内に雪が降り積もり、庭一面深雪になっているように、達磨さんの御利益が降り積もるのだ。

*任運問安心:天地自然の法則に随うは即ち任運なり、自然に安心を問ふ、即ち達磨不答の所、自然なれば 
 なり。(大成脚注)
*面壁功成無面目:面目無き所、即ち真面目なり、老子の「大辨咄の如し」の意なり。(大成脚注)
 <老子>大弁如訥『大弁は訥なるが如し』茶臼甕tyausukame先生ブログより
 「大直は詘(くつ)するが如く、大巧は拙なるが如く、大弁は訥なるが如く、大嬴(たいえい)は絀(ちゅつ) 
 なるが如し」である。
 真の雄弁は訥弁(とつ弁)と変わりがない。雄弁よりも訥弁、訥弁よりも無言の説得をよしとする考えに
 他ならない。「ほんとうにまっすぐな者は、曲がっているように見える。真の雄弁は訥弁と変わりがない。
 ほんとうに豊かなものはどこか不足しているように見える」
 ことごとく逆説的表現であるが、それでいてある真実を的確にとらえている。それは、「大弁は訥なるが 
 如し」の一句をとりあげてみても明らかであろう。ここで『老子』の謂わんとしているのは、しゃべり過
 ぎの害である。※ しゃべり過ぎは百害あって一利なしである。
*訥弁(とつ弁):つかえつかえしゃべる話し方 
*少林寺:禅宗の開祖達摩による禅の発祥の地と伝えられる
*神光:人為を超えた霊妙不可思議な光
(´・(ェ)・`)つ

574鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/21(月) 00:01:31 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

誰か運を天に任せ、安心を問う者はおらんのじゃろうか。
昔は少林寺に神光があったものじゃ。
達磨が面壁九年の行を成し遂げ大悟徹底したのじゃ。
積雪が知らないうちに庭を深く満たしたようにのう。

575避難民のマジレスさん:2021/06/21(月) 00:11:44 ID:jaQ9dkAw0
くま訳改
第三句;達磨が面壁九年の行を成し遂げ大悟徹底したのだ。

445
賛魚籃観音   魚らん観音を賛す
丹瞼青鬟慈愛深 丹けん青くわん慈愛深し
自疑雲雨夢中心 自ら疑ふ雲雨夢中の心
千眼大悲看不見 千げん大悲看れども見えず
漁妻江海一生吟 漁妻かう海一生の吟

くま訳
賛魚籃観音
赤い瞼、美しい黒髪慈愛深い容貌。
自分は、朝雲暮雨、恋焦がれているのではないかと疑う。  
大悲呪を唱えても千手千眼観音は見えない。
魚籃観音を妻と念じて俗世間から離れて一生思いを吟じつづけるのだ。

*魚籃観音(ぎょらんかんのん):三十三観音に数えられる観音菩薩の一つ。中国で生れた観音の一つで、
 同じ三十三観音のひとつである馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体ともされる。
 唐の時代、魚を扱う美女がおり、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探し、めでたくこの3つの経典
 を暗誦する者と結婚したがまもなく没してしまった。この女性は、法華経を広めるために現れた観音とさ
 れ、以後、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになったという。この観音を念ずれば、羅刹・
 毒龍・悪鬼の害を除くことを得るとされ、日本では中世以降に厚く信仰された。
 形象は、1面2臂で魚籃(魚を入れる籠)を持つものや、大きな魚の上に立つものなどがある。日本では
 あまり単独で信仰されることはないが、東京都港区の魚籃寺などにある。
 得度者既皆現此而以説法の誓願に出づ一例を仮説せるもの(大成脚注)
*青鬟(せいかん)中国語:美しさを表すために借りた黒いリング状の髪のお団子を意味します
*鬟:みずら/髪を中央から左右に分けて、両耳のあたりで輪に束ねた上代の成人男子の髪の結い方/わげ
 /髪を頭の上で束ねた髪形などの意味をもつ漢字。"
*丹(タン あか・に):硫化水銀鉱、すなわち辰砂(しんしゃ)の色。あか色。
*雲雨:朝雲暮雨(ちょううんぼう)
【故事】楚の懐王が高唐に遊び、夢の中で女と契ったが、その女が別れ際に「朝には雲となり、夕には雨 
となって君にお会いします。」と言った。夢から覚めた王は朝雲を見て神女であったことを知り、巫山の 
陽に廟を立てたという。
*大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)は、仏教の陀羅尼である。主に禅宗で広く読誦される。普及したのは
鎌倉末期から室町時代以降と推定されるが確証はない。臨済宗では略称大悲呪、正式呼称大悲円満無礙神
咒と呼ばれる。
陀羅尼(だらに):呪文の一種で、比較的長いものをいう。通常は意訳せずサンスクリット語原文を音読し
て唱える。意訳して総持、能持、能遮等ともいう。「記憶して忘れない」という意味 。本来、暗記して繰
り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事を目的とした。「能遮」という意訳は雑念妄想
を「能(よ)く遮(さえぎ)る」という意味である。
(´・(ェ)・`)つ

576鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/21(月) 21:29:01 ID:1d4drIFg0
魚籃観音の賛なのじゃ。

赤い瞼に青巻髪の慈愛深い菩薩なのじゃ。
しかし、自ら疑えば雲雨の中でも夢の如しなのじゃ。
それでは千の眼、大慈悲の観音も看ようとしても見れないのじゃ。
漁師の妻はそれ故に河海に一生観音呪を吟じるのじゃ。

577避難民のマジレスさん:2021/06/21(月) 22:07:46 ID:FtEx7/DM0
くま訳改
第二句:しかし、自ら疑えば雲雨の中でも夢の如しなのだ。
第三句:それでは千の眼、大慈悲の観音も看ようとしても見れないのだ。
第三句:漁師の妻はそれ故に河海に一生観音呪を吟じるのだ。

くま質問
「しかし、自ら疑えば雲雨の中でも夢の如し」とは、自分が見たもの、思ったことに対して、ありのまま
に気付いていろみたいな意味でありましょうか?

446
香嚴擊竹
潭水北兮湘水南 たん水の北しゃう水の南
竹枝曲裏口喃喃 竹し曲裏口なんなん
樽前爛醉豪家客 そん前爛醉す豪家の客
不識愁人夜雨談 しらず愁人夜雨の談

くま訳
香嚴擊竹
李白が詠う潭水は北、水墨画に描かれる湘水は南
屈原も歌うはやり歌竹枝はいつまでも歌い続ける
樽の前で酔っ払う豪邸の客
愁人には雨の夜になにを談じたらよいのか分からないのだ。

*潭水:(参)贈汪倫 李白 汪倫(王倫)に贈る 李白
      李白乗舟将欲行 李白舟に乗って将に行かんと欲す、
      忽聞岸上踏歌声 忽ち聞く岸上踏歌の声
      桃花潭水深千尺 桃花潭水深さ千尺
      不及汪倫送我情 及ばす汪倫が我を送るの情に

      李白は舟に乗って今や出発しようとしていた。
      ちょうどその時、岸の上から足を踏み鳴らして歌う声が聞こえてきた。
      桃花潭の水は深さが千尺もあるというが、
      それでも汪倫が私を送ってくれる情の深さには、及ばないだろう。

*香嚴擊竹:https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/。 >>117 〜
*湖水:瀟湘八景(しょうしょう はっけい)、山水画の伝統的な画題。瀟水と湘江の合流するあたりを瀟
 湘といい、古より風光明媚な水郷地帯として知られる
 湘水は、江西省僮族自治区興安県の陽海山を源とし、延々と八百十七キロの旅をして、湘陰県濠河口で洞 
 庭湖に注ぐ。洞庭湖は、湖南省の長江中流の中南区に位置する。中国第一の湖である
*竹枝:土地のはやり歌なり、劉萬錫、阮湘に在り、俚歌鄙陋なるを以って、乃ち屈原が作る所の九歌によ 
 りて竹枝新詩を作り、里中の小児をして之を歌わしむ。もと巴蜀の歌なり。(大成脚注)
*喃喃「喃」はしゃべる音、またはしゃべる意) しゃべり続けること。小声でいつまでもしゃべっているさ 
 まをいう。
*愁人:① 悲しい心を抱いている人。なやみのある人。② もののあわれを解する人。風流人。詩人。文人。
(´・(ェ)・`)つ

578鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/22(火) 21:48:34 ID:1d4drIFg0
↑神仏も疑う心があれば見えないという事じゃな。
信じれば見えるのじゃ。

579鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/22(火) 21:56:31 ID:1d4drIFg0
香嚴が飛んだ石が竹を撃った音で目覚めたという題じゃな。

潭水の北、湘水の南なのじゃ。
流行り歌をひそかに歌い続けるのじゃ。
酒樽の前で酔い乱れる豪家の客なのじゃ。
愁人は夜雨に何を話せば善いのかしらんのじゃ。

580避難民のマジレスさん:2021/06/22(火) 22:58:25 ID:5azQ.QpI0
447
傀儡
抽牽者即主人公 抽けんは即ち主人公
地水合成隋火風 地水合じゃうして火風に随ふ
一曲勾欄曲終後 一曲のこうらん曲終ってのち
本然大地忽爲空 本ねん大ぢたちまち空と為る

植田 信隆先生ブログ翻訳・解説より
人形の糸を引く者が主人公であり、
地水からなる粗雑なものが火風のような精妙なものに従うのに似ている。
人形の立ち位置となる手すりがいわば、大地であったが、曲が終われば
忽ち空虚となる
水上勉先生解説より抜粋
案外、この世は、すべて、一曲の人形芝居かもしれぬ。うらで糸をひき、操る者がいて、人も風も、火もう
ごく。操るものは主人公である。その主人公をとっつかまえねばならぬ。いや、その主人公こそ、求めつづ
ける正伝の正体なのだ。狂雲もまた狂風に舞っている。

くま訳
操り人形
糸を引くものが即ち主人公である。
地水が合成して火風に随うようなものである。
演劇一曲の舞台。曲が終って後は、
本来自然の大地、空となる。

https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/  >>727
*勾欄(こうらん):宋・元(960‐1367)時代,諸都市に設けられた劇場をいう。原義は欄干のことであるが,
 舞台のまわりを欄干で囲んでいたため,一般に劇場をこの名でよんだ。
(´・(ェ)・`)つ

581避難民のマジレスさん:2021/06/22(火) 23:01:08 ID:5azQ.QpI0
くま質問
『香嚴擊竹』で一休さんは何を詠んでるのでありましょうか?
何も思い浮かばないこともあるという、ありのままを詠んでるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

582鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/23(水) 23:06:17 ID:1d4drIFg0
↑竹の音と竹枝にかけているのじゃな。
流行り歌も豪家の客が聞けば楽しいが、愁い人には楽しくないのじゃ。
同じように竹の音で香嚴は悟りを得たが、修行していない者が聞いても何も得られ無いのじゃ。
実践が大事なのじゃ。

583鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/23(水) 23:09:03 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

操り人形の糸を引くものが主人公なのじゃ。
地水が合わさって火風を随わせるようなものじゃ。
一曲の舞台曲が終わり、
本然の大地はたちまち空と成るのじゃ。

584避難民のマジレスさん:2021/06/23(水) 23:39:23 ID:IbBEeE2.0
448
東坡像     東ば像
竺土釋迦文殊師 竺土の釋迦文殊師
即今蘇軾更看誰 即こん蘇しょく更に看よ誰ぞ
黄龍禪味舌頭上 黄龍の禪味舌頭の上
萬象森羅文與詩 まん象森羅文と詩と

くま訳
東坡像
天竺の釋迦や文殊師
即今挙げるとすれば、蘇東坡の他に見るべき人はあるまい。
四神の長のような禪機に充ちた言動である
森羅万象を、文と詩で表現しているのである。

*東坡 (とうば):蘇軾 – 北宋の詩人、政治家。号が東坡
 蘇軾(そ しょく)1037-1101年)宋代きっての文豪としてもあらゆるジャンルで輝かしい業績をあげた。 
 書家、画家として優れ、音楽にも通じていた。
 東坡居士と号したので、蘇東坡(そとうば)とも呼ばれる。

 経済政策や、教育政策に反対したため、2度にわたり流罪を被り辺鄙な土地へ名ばかりの官名を与えられ 
 て追放された。
 最初の追放は1079年44歳。
 左遷先の土地を東坡と名づけて、自ら東坡居士と名乗った。黄州での生活は足かけ5年にも及び、経済的 
 にも自ら鋤を執って荒地を開墾するほどの苦難の生活だったが、このため彼の文学は一段と大きく成長し 
 た。流罪という挫折経験を、感傷的に詠ずるのではなく、彼個人の不幸をより高度の次元から見直すこと 
 によって、たくましく乗り越えようと努めた。1086年に名誉を回復され50歳で中央の官界に復帰した。
 1094年に再び左遷され(59歳)、恵州に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された。二度目 
 の追放である。黄州時よりもより高い役職に就いていた為、左遷時の罰も重かった。それでも飽き足りな 
 かった朝廷側は、場所をさらに恵州から昌化軍(現在の海南島西部)に移した。熱帯で異民族の黎(ロ 
 イ)族がいる環境で一層侘しい生活を送る。
 66歳の時、ようやく許された。名誉職を授けられたが、都に向かう途中病を得て、常州で死去した。し 
 かし、この苛酷な運命にあっても、彼の楽天性は強靭さを失わず、中国文学史に屹立する天性のユーモリ 
 ストであった。
*黄竜:中国の伝承五行思想に現れる黄色の竜。黄金に輝く竜であると言う異説もある。四神の中心的存在、 
または、四神の長とも呼ばれている。黄竜は皇帝の権威を象徴する竜とされたが、後に麒麟と置き換えら 
 れたり、同一視されるようになった。

* 東坡のことを正しく評価できた一休さんは、やっぱりすごいでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

585鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/24(木) 21:18:51 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。

東坡の像なのじゃ。

天竺の釈迦や文殊菩薩を
今蘇軾以外に誰に看られるか。
黄龍の禪味が舌頭の上にあるのじゃ。
森羅万象がその文と詩にこめられているのじゃ。

586避難民のマジレスさん:2021/06/24(木) 23:56:38 ID:rzzREG9o0
449
童子南詢圖   童子南詢の図
知識華嚴五十三 知識華嚴五十三
美人焦熱抱持談 美人焦熱抱持の談
南方佛法非吾事 南方佛法吾が事のあらず
膓斷風流童子参 膓斷す風流童子の参

くま訳
善財童子南方を尋ね廻るの絵
華厳経によると善知識五十三人を尋ね廻った 
布施行を実践する美人・信女自在や、 苦行により煩悩を焼き尽くす波羅門方便命が、色々と持ちネタを語るのだ
南方佛法は、わしには関係ないのだ
興味をそそる、風流ば童子と五十三人の交流ではある。

*善財童子(ぜんざいどうじ)は、仏教の童子の一人であり、『華厳経入法界品』、『根本説一切有部毘奈 
 耶薬事』などに登場する。
 『華厳経入法界品』については仏道修行する内容で広く知られる。
 インドの長者の子に生まれたが、ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知 
 識)53人を訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開くという、菩薩行の 
 理想者として描かれている。 善知識の中には比丘や比丘尼のほか外道(仏教徒以外の者)、遊女と思わ 
 れる女性、童男、童女も含まれている。

*十、 波羅門方便命226(苦行により煩悩を焼き尽くす)
 十四、信女自在227年尚ほ若く花のような容色(布施行)
*断腸:① はらわたを断ち切ること。また、はらわたがちぎれるほどの悲しさ、つらさなどをいう。② は 
 なはだしく興趣のあること。また、哄笑するほどおもしろいこと。
(´・(ェ)・`)つ

587鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/25(金) 22:49:35 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

善財童子が南を巡った話というのじゃ。

華厳経には童子が五十三の善知識とあったというのじゃ。
美人とか熱いものをもち続ける者とかなのじゃ。
南方仏教はわしの専攻ではないが、
風流童子の善知識のもとに推参する話はとても面白いのじゃ。

588避難民のマジレスさん:2021/06/25(金) 23:37:51 ID:4B.mEajw0
450
亂世正工夫  亂世しゃう工夫
丈夫須具正見 
諸妄想隋境現 諸々の妄ざう境に随って現ず
馬問良馬麼無 馬は問ふ良馬なりやいなやと  
人答此刀利劍 人は答ふ此のとう利劍

くま訳
乱世に於ける正しい工夫
一人前の男は須らく正しい物事の見方考え方を具えなければならないのである。
諸々の妄想は世界環境の変化に随って現れる。
良馬かどうかと問う、(愚者は生れの良し悪しを問う、)
人は答える、この刀は、剣として使えると。(賢者は、能力の存否を問うのである。)
(´・(ェ)・`)つ

589鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/26(土) 21:45:52 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

乱世の正しい工夫なのじゃ。

大丈夫はすべからく正見を身に付けるべきなのじゃ。
もろもろの妄想は環境や境地に従って現われるものじゃ。
馬は己を良馬か否かと問うじゃろうか。
人はこの刀は利剣と答えるじゃろうか。

590避難民のマジレスさん:2021/06/26(土) 22:20:52 ID:ZSZp25UE0
くま訳改
馬は己を良馬か否かと問うであろうか。
人はこの刀は利剣と答えるであろうか。

451
羅漢菊
茶褐黄花秋色深 茶褐黄花秋色深し
東籬風露出塵心 東籬の風露出塵の心
天台五百神通力 天台五百の神通力
未入淵明一片吟 未まだゑん明が一片の吟に入らず

柳田聖山先生訳
羅漢菊
茶褐色の羅漢菊が晩秋を彩る
東の垣根は風露に濡れ静寂だ
天台の羅漢らは神通力も衰え
陶淵明の詩情一句に及ばない

くま訳
茶褐色の羅漢菊が咲き誇る晩秋
東のまがきの菊に吹く清らかな風が、俗心をあばき出す。
天台五百羅漢の神通力は、
陶淵明の一片の詩にも及ばない

*東籬風露出塵心:東のまがき、東籬の君は菊をいふ、陶淵明が東籬に菊をうゑしよりいふ(大成脚注)
*天台五百神通力:天台山の石橋は、古来五百羅漢の霊場として大いに崇敬せらる(大成脚注)
*風露:風と露か、露出か?柳田先生と違う解釈をしてみた。
*塵心(じんしん):俗塵に汚れた心。俗世間の名利をむさぼる心。俗心。
(´・(ェ)・`)つ

591鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/27(日) 21:18:17 ID:1d4drIFg0

それでよいのじゃ。
羅漢の菊じゃな。

茶褐黄色の花が咲いて秋が深いのじゃ。
東籬の風は塵心を露出するのじゃ。
天台の羅漢五百人の神通力は、
陶淵明の一片の詩にも入らないのじゃ。

592避難民のマジレスさん:2021/06/27(日) 22:27:26 ID:.vBRUEPs0
452
示入定僧     入定僧に示す     
塵縁塵境萬端稠 塵縁塵境萬端しげし
到此誰人截衆流 ここに到って誰人か衆流をきらん
誓心決定魔宮動 誓心決じゃうすれば魔宮動く
長信西風琪樹秋 長信の西風き樹の秋

くま訳
禅定に入ろうとする僧に示す
俗世間との関係、諸々の感覚の対象は煩わしいものでる。
であれば、この世の妄想や気を散らす邪魔な考えを完全に断ち切ろうとする者は誰かいないか、
強い決意さえあれば、魔宮でも動かせるのだ
長信愁詞のように、ただ嘆いているだけでは取り逃がしてしまうのである。しっかり、定をつかまえるのだ。

*入定:原義は単に「禅定に入る」
*塵縁:俗世間のわずらわしい関係。世俗とのつながり。
*塵境:六根の対象となる、色・声・香・味・触・法の六塵。
*稠し:おおい。しげる。こ(濃)い。こみあう
*截断衆流(せつだんしゅる):この世の妄想や気を散らす邪魔な考えを完全に断ち切ること。「截断」は断
 ち切ること。「衆流」は様々なものの流れという意味から、雑念や煩悩のたとえ。「衆流を截断す」
*琪樹:(きじゅ)玉のように美しい木。雪をかぶった木のさま。
*西風:秋風。
*長信の西風き樹の秋:李白が長信秋詞の詞に曰、「眞成薄命久しく尋思す、夢に君主を見て覚めて後疑ふ、
 火は西宮を照らして夜飲を知る、分明に複道恩を奉ずる時」と。夢に見る位では到底駄目である、現に之 
 れをとらへなければならぬと云ふ意なり・・と(大成脚注)にありましたが、長信秋詞は・・王昌齢 の作 
 らしいのである。
長信秋詞 王昌齢
長信宮に孤独な秋の夜を過ごす班はん婕しょう妤よの嘆きを歌ったもの。。
王昌齢 … 698〜755。盛唐の詩人。727年進士に及第。秘書省の校書郎に任ぜられたが、素行が悪かったた
め、左遷された。のちに安禄山の乱が起こったので故郷に逃げ帰ったが、殺されたという。李白とともに七
言絶句の名手として有名。。

眞成薄命久尋思 真成に薄命なるかと久しく尋思し
夢見君王覺後疑 夢に君王を見 覚めて後疑う
火照西宮知夜飮 火は西宮を照らして夜飲を知しる
分明複道奉恩時 分明なり 複道に恩を奉ぜし時

真成 … ほんとうに。真実に。
薄命 … 不幸せなこと。不運。薄運。
尋思 … いろいろ考えること。次々と思いをめぐらすこと。
西宮 … 長信宮。
夜飲 … 夜の酒宴。
分明 … ありありと、はっきりとしていること。
複道 … 上下二重の宮中のわたり廊下。上は天子、下は臣下が通る。
奉恩時 … 天子の寵愛を受けたとき。"

*長信(ちょうしん、1014-1072年:平安時代中期の真言宗の僧侶。1054年には東寺と真言宗全体の長であ 
 る第29代東寺長者に任じられて法印に昇進する。1066年)権僧正となり、この年の旱魃に際して僧侶20 
 人を率いて雨乞いの修法を行った。1070年には僧正に任じられて、後三条天皇の信任が厚く、この年に
 は百官を連れて長信の元を訪れ、封戸25戸を下賜された。
(´・(ェ)・`)つ

593鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/28(月) 20:59:43 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

入定する僧に示すのじや。

入定しようとすれば万端の塵の如き縁と塵の如き境界が激しく襲い掛かるじゃろう。
そのような心境に至っても誰か衆流を切ろうとすれば、
その誓心の決定が魔宮をも動かすのじゃ。
西風の長い便りが宝樹を揺らして秋を知らせるようなものじゃ。

594避難民のマジレスさん:2021/06/28(月) 22:40:45 ID:vmWuQ8p20
くま訳全面改
入定しようとすれば万端の塵の如き縁と塵の如き境界が激しく襲い掛かるであろう。
そのような心境に至っても誰か衆流を切ろうとすれば、
その誓心の決定が魔宮をも動かすのだ。
西風の長い便りが宝樹を揺らして秋を知らせるようなものである。

453
圓悟大師投機  圓悟大師の投機
沈吟小艶一章詩 沈吟す小艶一章の詩
發動乾坤投大機 乾坤を発動して大機を投ず、
撃竹見桃若相問 きゃく竹見桃若し相問はば、
須彌脚下石鳥龜 しゅみ脚下の石うき

蔭木英雄先生訳・解説
(園悟禅師は)小艶詩を静がに吟じて
天地を動かし仏祖の機(はたらき)に合致して大悟した  
香厳和尚の撃竹や霊雲禅師の見桃(の大悟の契機)をもし問う者がいたら
ワシは「二人とも須弥壇下の黒亀のような大馬鹿者じゃ」と答えようぞ。(小艶詩はすばらしい)

一休の師の華聖宗曇は諡号を大機弘宗禅師というので、承句は起句と同様、一種の懸詞である(禅文学では
機縁の語という)。従って起承句は、
わし(一休)も小艶詩を吟じて、天地を憾がして華叟老師に参禅した。と解釈する事が可能である。香厳智
閑と霊雲志勤とが、石烏亀の如くに不動であったのに対し、園悟と一休とは、小艶詩を吟じて天地を震憾さ
せたのだった。

くま訳
円悟大師の悟りについて
小艶詩をじっくりと吟じて、
天地を動かして、大いなる機に身を投じ、一体となったのだ。
香厳撃竹や霊雲見桃に付いて、もし問う者があれば、
須弥壇の下の石の亀のように、彼等は不動であったとだけ言っておこう。

烏亀(うき)中国語(亀の正式な呼び方)・・亀は首をすくめて甲羅の中に隠れることから、不甲斐ない男
という意味に使われる・・侮蔑語として使われることがあるらしい。
@禅学大成のみ、石烏亀⇒赤烏亀
(´・(ェ)・`)つ

595鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/29(火) 22:00:10 ID:1d4drIFg0
よくできたのじゃ。

円悟大師の投機なのじゃ。

小艶一章の詩を沈吟したのじゃ。
天地を揺るがし大いなる投機を得たのじゃ。
竹を打つ音や桃を見る投機について問われれば
須弥山の下の石の鳥亀の如しというのじゃ。

596避難民のマジレスさん:2021/06/29(火) 22:56:51 ID:gyukOno20
454
@民友社版、454の詩の題は、「見桃花悟道」である。
 禅学大成と寛永版は、「見桃花圖 二首」、 261の詩と454の詩を分類している。
 ここに於いては、民友社版分類に随った。
参)261の詩「見桃花圖」https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>173
又、民友社版は、玄沙が玄妙となっているが、玄沙と読んだ。

見桃花悟道
開陣玄妙法戦場 陣を開く玄しゃの法戦場
宗門議論老禪場 宗門の議論老禪の場
衲僧遊戯諸三昧 衲僧ゆけ諸三昧
拄杖腰包桃李場 しゅ杖やう包桃李の場

くま訳
桃花を見て悟りを開く件に付いて、   
玄沙師備禪師は法戦場での議論をやめたのだ。
禅宗各派は昔から議論に明け暮れてるのである。
禅僧であれば誰でもお遊びの様に三昧の境地に到れるのだ。
杖を持って行脚をし、錢を持って師匠の試験を受けに行き、悟りの印可をもらう方法を議論する場になって
しまっているのだ。

*開陣:かいじん、陣を開く: 兵を引き揚げ、陣営をあけること。帰陣(きじん)。
*玄沙:玄沙師備禪師なり(大成脚注)
 玄沙師備(げんしゃ しび、835-908年、号は宗一大師。
 30歳まで漁師をしていたが(異説あり)、突然出家を思い立ち、芙蓉霊訓の所で出家した。兄弟子に当 
 たる雪峰義存と意気投合して、共に雪峰山に登って寺院を開創した。
 雪峰門下においては堅固な求道者ぶりから「備頭陀」と称されるほどで、一番弟子として布教を行い、閩 
 の王審知の帰依を受け、師の雪峰と共に政庁で供養を受け、紫衣と宗一大師の号を賜った。
 のちに独立して玄沙院で布教活動を続け、雪峰の禅風を発展させて「十方世界は一顆の明珠」という独自 
 の思想を開発し、やがてそれは羅漢桂琛・法眼文益と受け継がれ、五家七宗の一つである法眼宗へと発展 
 していった。
 864年 出家、道玄律師のもとで具足戒を受ける
 866年 雪峰義存に嗣法
 この世界は全て悟りその物であるという、「尽十方世界は一顆の明珠」という思想を成し遂げ、その豪快 
 な禅風は、多くの弟子を教化した。
*法眼宗https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>665
*拄杖(しゅじょう)つえ。特に、禅僧が行脚(あんぎゃ)のときに用いるつえ。
*腰包(中国語)(腰につける)きんちゃく,銭入れ.(比喩的に)懐,財布.
*桃李:1 桃とすもも。また、桃の花とすももの花。2 《唐の劉禹錫 (りゅううしゃく) の「満城の桃李 
 春官 (しゅんかん) に属 (しょく) す」の詩句から》試験官が採用した門下生。自分がとりたてた人材。

*261の詩、鬼和尚訳解説(2020/12/23(水)再掲
見桃花圖    
見處風流悟道心 見るところ全てが風流であるというのが悟道の心というのじゃ。  
桃花一朶價千金 桃花の一枝さえ千金の値があるように見えるのじゃ。
瑤池王母春風面 それは天の池に居る西王母が春の風に面を向けているようじゃ。 
我約愁人雲雨吟 わしは愁人が雲雨に降られようとも詠い続けることを約束するのじゃ。
(´・(ェ)・`)つ

597鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/06/30(水) 21:27:10 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

霊雲が桃の花を見て悟ったというのじゃ。

玄妙なる法の戦場が開陣したのじゃ。
宗門の議論は老いた禅場なのじゃ。
真の僧は諸々の三昧に遊ぶのじゃ。
杖を腰に包み、桃李の場に休むのじゃ。

598避難民のマジレスさん:2021/06/30(水) 22:37:55 ID:uGxGcTws0
くま訳改
第二句:宗門の議論は老いた禅場なのだ。
第四句:杖を腰に包み、桃李の場に休むのだ。


455
不飲酒戒    不おん酒戒
痛飲三盃未濕唇 痛飲三盃未まだしんをうるほさず
醉吟只慰楽天身 醉吟只だ慰す楽天が身
稜道者任念氣處 りょう道じゃ念氣のところに任す
宣明酒伴也誰人 宣明酒伴また誰人ぞ

くま訳
不飲酒戒
三杯、ぐっと飲み干しても満足することはない。
酔って吟じ、ただ。ただ身心を安らげるのである。
威光ある仏道を歩むものとして、思うところに任せるのだ。
酒は我が友であると宣言してはばからない僧は他にいるか。

*楽天:自分の運命や境遇を、天から与えられたものとして受け入れ、物事にあくせくしないこと。人生を 
 楽観すること。のんきなこと。⇔厭世。
(´・(ェ)・`)つ

599鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/01(木) 21:58:06 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

痛飲三杯でも唇を潤せないほどなのじゃ。
ただ酔っ払って詩吟をするのが楽しい身なのじゃ。
千鳥足で行く者は気に入りの所に行くのじゃ。
酒を共にすると宣明する者は誰かおらんかのう。

600避難民のマジレスさん:2021/07/01(木) 22:46:15 ID:DZtocCFw0
くま訳改
第三句:千鳥足で行く者は気に入りの所に行くのだ。

456
誹謗三寶戒
杜撰飯袋悪禪和 杜撰の飯たい悪禪な
塞壑滿溝亡國家 がくにふさがり溝に満ちて國家を亡ぼす
歸依佛法僧檀越 帰依佛法僧の檀のつ
閑看世間殘照斜 閑に看る世間殘照のななめなるを

くま訳
仏・法・僧の三宝をそしることを禁じる戒
杜撰な無駄飯ぐらいの悪辣な禪者達が、
溝をうずめ、谷をふさぐようにそこらじゅうで、幅を利かせると国が滅びてしまう。
仏・法・僧に帰依する檀家さんたちは、
落ち着いて世間の残照を見るのだ、斜に構えて見るようにするのだ。騙されてはいかんのだ。

*謗三宝戒(ほうさんぼうかい)
 仏・法・僧の三宝をそしることを禁じた戒。このようなことを誰かに教えて、させることも禁止されてい 
 る。不誹謗ふひほう三宝戒、毀謗きほう三宝戒、助謗じょぼう三宝戒などともいわれる。菩薩は、仏教徒 
 以外の人や悪人が仏をそしるのを聞いたときには、自らの心が切り刻まれるような思いをすべきであり、 
 また人々を教え導くことを役目とするのに、自ら三宝をそしり、あるいは他人に三宝をそしらせ、悪人を 
 増長させ間違った考えを助長させるのであれば、波羅夷罪とされるのである。
*"壑(ガク・たに・ みぞ)
 渓壑1 深い谷。渓谷。2 深い谷川の水は尽きないところから欲望が次から次と起こって満足を知らない 
 ことのたとえ。
 填溝塞壑:「溝に填ち壑を塞ぐ」と読み、別々の物が一体になっている様子を示す言葉。
 而今の大悟は、自己にあらず、他己にあらず、きたるにあらざれども、填溝塞壑なり、さるにあらざれど 
 も切忌隨他覓なり。 『正法眼蔵』「大悟」
*「填溝塞壑」(みぞをうめたにをふさぐ)
 少しの隙間もなく(真理で)満たされていること。<あたり一面真理で満たされているにもかかわらず、   
 それに気付く者がいない>と碧巌録には記述されている。【碧巌録・宋】
*檀越(だんのつ だんおつ)〈梵〉dāna-patiの音写。施主の意》寺や僧に布施をする信者。檀那。檀家。
(´・(ェ)・`)つ

601鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/02(金) 21:59:32 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

三宝を誹謗するのを禁じる戒じゃな。

杜撰な飯袋の悪禅者は、
谷に落ち溝に満ちて国家を滅ぼすのじゃ。
仏法僧に帰依する檀家の者は
静かに世間を斜めの残照から見るのじゃ。

602避難民のマジレスさん:2021/07/02(金) 23:19:15 ID:Vo1wDGXs0
457
寒夜嘆雪山鳥  寒夜雪山の鳥をたんず
朝來公案晩來吟 朝來の公案晩來吟ず
求食忘巢前業深 じきを求め巢を忘じて前業深し
晝夜人人雪山鳥 昼夜にんにん雪さんの鳥
無間苦痛月沈沈 無げんの苦痛月沈沈

くま訳
夜寒さを嘆く雪山の鳥
朝が来ると公案に取り組み、夜になると詩を吟じる
食(欲)を求め、巣作り(やるべきこと)を忘れる。前世の業が深いのだろう。
昼夜別なく、皆、雪山の鳥の苦を思わねばならぬのだ。
無限に苦痛は続くのだ。風流な月は沈んでゆくのだ。 

*雪山の寒苦鳥 大谷大学HP
 印度の雪山( せつせん)、高みなる故夜の寒気、それはそれはすさまじく草木も凍るが、昼また陽光あ 
 たたかなり。この雪山に、寒苦鳥と名付く鳥あり。夜は寒苦に堪えず、岩の間( はざま)に身をおいて、
 がたがたとふるえ乍ら、「明日は必ず巣を作らん、明日は必ず巣を作らん」と鳴いて一夜を送り、夜明く 
 れば、朝日の暖かさにたちまち寒苦を忘れ、一日を遊び呆け、夜はまた寒苦に泣くとある。
 近世後期の法座手控の類に多く見える故、寺院における法談の隆盛と共に成長した説話であろう。
 ただし、これは生活の中の仏教用語ではなく、我々の心の実際の有様を、「怠惰から生れた希薄な決意な 
 ど、何の役に立とうか」と喝破した、仏教の眼である。
*前業:前世の業因。これによって現世の禍福が定まるとされる。先業
(´・(ェ)・`)つ

603鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/03(土) 21:10:17 ID:1d4drIFg0

それでよいのじゃ。
雪山の寒苦鳥の嘆じゃな。

朝に公案を練り、夜に詩吟するというのじゃ。
食を求めて巣を忘れる前世の業の深さなのじゃ。
昼夜人々は寒苦鳥を思うのじゃ。
無間地獄の苦痛に人は嘆くも、月は沈んでいくのじゃ。

604避難民のマジレスさん:2021/07/03(土) 23:03:02 ID:cSbDI/2w0
458
畫虎      画虎
覿面當機誰一拶 てき面当機誰か一拶せん
寒毛卓竪老岩頭 寒毛卓じゅ老岩頭
恠哉儞在扶桑國 あやしいかななんじ扶桑國にあり、
凛凛威風四百州 凛々たる威風し百州

くま訳
画虎
まのあたりに、正面対峙して、ためしてみようなどと誰も思うまい。
盗賊に殺される際にも、大いに吼ゆること一聲した岩頭和尚でさえも、身の毛もよだつ恐ろしさを感じるだ
ろう。 
不思議なことである。汝は日本国に居る、
なのに、その凛々たる威風堂々の姿は全世界に知れ渡っているのだ。

*覿面:「まのあたり」といふことなり(大成脚注)
*老岩頭:岩頭和尚、常に曰、「死にあたて正に一吼すべし」と。唐の光啓中、仲原賊起り、師を責むるに、 
供の饋(おく)ることなきを以ってし、遂に刄を倳(し)するに、神色自若、大いに吼ゆること一聲し了って
 寂す、其の意気又比すべきか。(大成脚注)
*一拶(いっさつ):(「拶」は強くふれる意) 禅家で、禅者同士が出会うときに、ことばや動作で相手をた 
 めすこと。
*寒毛卓堅(かんもうたくじゅ):恐れあわてるるさま。悚然(しょうぜん)
*四百州:中国全土のこと。
*伊井暇幻先生訳・解説抜粋
 画虎よ、オマエと真正面から出会い頭に顔を合わせ、誰が落ち着いて世辞なんぞ言えようものか。
 侵略軍に包囲されてもジタバタするどころか、却って殺された瞬間に生命の重さを主張し暴力を叱咤して 
 遙か彼方まで聞こえる叫びを上げた豪毅な岩頭老和尚でさえ、鳥肌を立て恐ろしがるに違いない。
 不思議なことだ。画虎よ、オマエは日本にいる。
 なのにオマエの発する威風は、中国全土さえ圧している

 一休は、「自山中帰市中」で他の禅僧に負けぬ宗教倫理を堅持していることを宣言した。当然、反論が予 
 想される。女郎街に入り浸る破戒僧が何を云うか、と。対して一休は、老婆焼庵の公案を引き合いに出し、
 「清浄の沙門」をこそ糾弾する。更に「画虎」で、自分は甚だ強固な倫理を以て自律していると主張する。
 狂雲集に載す「画虎」は、表面上の破戒を繰り返す一休が心に秘めた宗教倫理であった。

*自山中帰市中:https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>959 165の詩


*くま質問
「儞在扶桑國」この儞(なんじ)とは、一休さん自身のいことでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

605鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/04(日) 23:56:51 ID:1d4drIFg0
↑岩頭和尚のことじゃな。
扶桑國とは神仙が住むという仙境なのじゃ。
虎の絵の賛にみせかけて岩頭和尚の賛じゃな。

誰が面と向かって挨拶できるじゃろうか。
岩頭和尚にあえば皆恐れるのじゃ。
災いにあって和尚は仙境に在るが、
威風凛々として中国全土に名は轟いているのじゃ。

606避難民のマジレスさん:2021/07/05(月) 00:10:29 ID:d.4pDBUY0
くま訳全面改
誰が面と向かって挨拶できるだろうか。
岩頭和尚にあえば皆恐れるのだ。
災いにあって和尚は仙境に在るが、
威風凛々として中国全土に名は轟いているのだ。
9
寄南江山居   南江の山居に寄す
天下禅師賺過人 天下の禅師人をけん過 す
黒山鬼窟弄精神 黒山鬼窟に精神を弄す
平生杜牧風流士 平生杜牧は風流士の
吟断二喬銅雀春 吟じ断つ二喬けう銅雀の春

くま訳
山居している 南江宗沅に送る
天下の禪師は人をたぶらかしてるのである。
邪悪な外道が精神を疲れさせてるだけなのだ
つねひごろ、杜牧は風流な人であった
天下分け目の赤壁の戦いを、二人の美女が曹操のものになっていたかという詩にまとめてしまっているのである。

*南江宗沅(なんこうそうげん)1387-1463僧,五山文学者。一休を師として参禅に励むかたわら、堺で 
 ともに遊んだ。https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>822 126の詩
*野毛孝彦先生解説:一休と同じく淫坊を往来して女を愛した南江に対して、杜牧と同じ悠々たる風流の士 
 であることを詠んだもの。"
*賺過:たぶらかす を云ふ(大成脚注)
*黒山鬼窟(こくさんきくつ):不浄な苦悩に満ちた山やおそろしい鬼などの住むほらあな。転じて、蒙昧 
 な外道(げどう)の世界のたとえ。仏道以外の邪悪な世界。 
*二喬銅雀春:杜牧之の赤壁の詩に曰く、「折戟沙を沈めて恨み未だ鎮せず、自磨洗を将って前朝を験めす、 
東風周郎の與に便ぜずんば、銅雀春深うして二喬を鎖さん」と。赤壁の戦いに曹操、周瑜の爲に破れ、二
 喬をとらる。(二喬は二人の美女、喬公の両女をいふ。)(大成脚注)

*おまけ
折戟沈沙鐵未銷 折戟(せつげき)沙に沈んで 鉄未だ銷せず
自將磨洗認前朝 自ら磨洗をもつて 前朝を認む
東風不与周郎便 東風 周郎の与に便せずんば
銅雀春深鎖二喬 銅雀 春深うして 二喬を鎖(とざ)さん

左大臣光永先生HP訳・解説抜粋
砂の中に折れた矛が埋もれていた。
掘り出してみると鉄はいまだにさび付いていない。
自分で磨いてみると、まさに三国時代のものとわかった。
もし赤壁の戦いで、呉の周瑜や蜀の諸葛亮が望んだように東風が吹かなかったら、
美人で名高い大喬・小喬姉妹は魏の宮殿【銅雀台】に捕らえられ、曹操の慰みものにされていただろう。
赤壁の戦い(208年)は、孫権・劉備連合軍が曹操軍を破った戦いです。               

この時、孫権軍の最高司令官周瑜は、武将黄蓋の策を容れて魏の船団の密集している所を焼き討ちにします。
この策が成功するにはどうしても東南の風が吹くことが必要だったのです。それを孔明が天に祈って風を吹
かせたという話です。                                      
周瑜公瑾(175年 – 210年)「美周郎」などといわれ、イケメンの印象が強い人です。大喬・小喬姉妹は呉
の喬玄の美人姉妹。 姉の大喬は孫策に、妹の小喬は周瑜に嫁ぎました。              
【折戟】 折れた矛。 【未銷】 まだ錆びていない。
【前朝】 以前の王朝。三国時代。 【銅雀】 曹操の宮殿。銅雀台。
(´・(ェ)・`)つ

607鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/05(月) 21:20:13 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

天下の禅師は布施を稼ぐめに人をだますのじゃ。
里山や鬼窟で精神をもてあそぶのじゃ。
平生は風流士として通っていた杜牧が、
詩では二喬が銅雀台で春を詠っていたであろとう断じるようなものなのじゃ。

608避難民のマジレスさん:2021/07/05(月) 21:47:01 ID:7xB60k7w0
460
佛成道     仏じゃう道   
天上人間称獨尊 天上人間獨尊と称す
今朝成道受誰恩 こんてう成道たれか恩を受く
分明衲子流星眼 ふんみょうなりなっす流星のまなこ
便是瞿曇的々孫 すなはちこれぐどんてきてきのそん

くま訳
この全宇宙で人間のみができる、たった一つの尊い目的があるのだ。
釋迦が成道されたことによる恩義を、今、受けているのは誰であろうか、
それは、修業する禅僧であることは、彼らの眼の輝きを見れば明らかである。
すなわち、ゴータマの教えが正しく伝わっているのだ

*瞿曇 (くどん)〔梵 Gautama〕仏教の開祖釈迦の姓。ゴータマ。
(´・(ェ)・`)つ

609鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/06(火) 21:48:20 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

仏陀の成道じゃな。

天上天下唯我独尊と称するのじゃ。
今、誰がその成道の恩を受けているじゃろうか。
目を光らせた今の僧であることは明らかなのじゃ。
即ちこれらのものがゴータマの後々の孫なのじゃ。

610避難民のマジレスさん:2021/07/06(火) 22:31:36 ID:Xw4gRdPM0
461
太平正工夫   太平しゃう工夫
天然胡亂正工夫 天然うろんの正工夫
昨日聡明今日愚 さくじつの聡明こんにちの愚
宇宙陰晴任變化 宇宙の陰晴變化に任す
一囘斫額望天衢 一回しゃく額して天くを望む

くま訳
世の中が平和に治まるための工夫
天性怪しい人の工夫
昨日は聡明だったのに、今日は愚かだったり、
宇宙全体、はっきりしたり、ぼやけたり、変化に任せる
一度額に手を当てて、天への分かれ道を考えてみる。

*太平: 世の中が平和に治まり穏やかなこと。また、そのさま
 太平興国南禅禅寺:臨済宗南禅寺派の総本山。瑞竜山と号し,正式には太平興国南禅禅寺という。
*胡亂(うろん)1 正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。2 確かでないこと。真実かどうか疑わし 
 いこと。また、そのさま。3 乱雑であること。また、そのさま。
 中国語はっきりしない、あやしげな。うさんくさい。いい加減な、でたらめな。
*陰晴:曇りと晴れ。晴曇(せいどん)。"
*斫額望汝(しゃくがくして汝を望まん。さだめし人はみな額に手をかざして遙かにお前を見上げて、敬遠 
 することであろうて)
(´・(ェ)・`)つ

611鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/07(水) 23:47:42 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

太平の世の正しい工夫というのじゃ。

正しい工夫などもとから天然胡乱なものじゃ。
修行者は昨日は聡くても、今日は愚になったりするからのう。
宇宙の陰晴の変化に任せるのじゃ。
一度は額に手を当てて天国を望むと善いのじゃ。

612避難民のマジレスさん:2021/07/08(木) 01:48:57 ID:GUxYpGdQ0
462
不行成佛    成仏を行ぜず
天然之釋迦彌勒 天然の釋迦彌勒
六六元来三十六 六六元来三十六
達磨九年佛六年 達磨く年佛六年
成佛作祖盡精力 成佛作祖精力を尽くす

くま訳
死んで成佛するための修行ではないのである。
本来、元から釈迦・彌勒なのだ。
六根六境、感覚や意識とその認識対象を分別し、認識主体ありとする凡人も、本来仏なのだ。
達磨は九年、釈迦は六年修行したのだ
仏であることに気付く為に全精力を尽くすのだ

*六六元来三十六https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>959 166の詩
(´・(ェ)・`)つ

613鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/08(木) 21:58:38 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

仏は成るものではないというのじゃな。

釈迦も弥勒もありのままのものなのじゃ。
六根六境は元から三十六なのじゃ。
達磨は九年、お釈迦様は六年
祖師は精力尽きて成仏をなしたのじゃ。

614避難民のマジレスさん:2021/07/08(木) 22:27:42 ID:lR2AhK260
463
亂中大嘗会   乱中大嘗会  
當今聖代百王蹤 当今の聖代、百王のあと、
玉体金剛平穏客 玉体金剛平穏のすがた 
風吹不動五雲月 風吹けども動ぜず、五雲の月、 
雪圧難摧万歳松 雪おせどもくだけ難し、万歳の松。
 
『雑学の世界』HP解説・訳 抜粋(年表解説含む)
文正元年(1466)12月後土御門天皇の大嘗会(だいじょうえ)に対して、彼は「乱中大嘗会」と題し、次のよ
うに詠んだのである。

現在今上(きんじょう)の御代は、歴代の帝王の後裔によるが、
その帝のお体は金剛石のごとく不動で安らかである。
この皇位は風が吹いてもびくともせぬ五色の雲中の月のごとく、
雪が積もってもくだけることなく、万年の寿(ことぶき)を保つ松のようである

*亂中:(1466年文正元年 一休73歳-市川白弦氏・関連略年表)
 四月義政宴楽にふける。費用巨額。加えて大嘗祭挙行。諸国の疲弊甚しく諸将臨時の課役に堪えず、しき 
 りに民戸に強要し富家に借り、徳政を行って返却せしめず。四民蜂起売米売酒を劫掠。「悪党」ら酒屋・
 土倉に乱入、所々に放火、馬借、下層町人ら加わる。奈良馬借一揆。興福寺等の学侶ら武装出陣。
 これは応仁の乱の前夜で、乱世を作る物騒(ぶっそう)な世の中である。だから皇位も世相も決して一休の
 詠んだように「風吹けども動ぜず」「雪圧せども摧け難し」というものではない、・・・、(大嘗祭)これ 
 は皇室の権威をできる限り取り戻そうとする大事な行事だから、一休は口を極めて賛美したのである。。

くま訳
乱中大嘗会  
今上陛下は、歴代の後裔であります。
お体は金剛の様にお強く、平穏なおすがたであります。 
風吹けど動ぜず、五月の雲の中の月のようであります。 
積雪でくだける事の無い、万歳の松のようであります。
(´・(ェ)・`)つ

615鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/09(金) 21:52:48 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

乱の中の大嘗会じゃな。

今の天皇陛下は百王の後裔なのじゃ。
その玉体はダイヤモンドのように平穏なのじゃ。
風吹けど動じない五色の雲の月なのじゃ。
雪が積もっても砕けない万歳の松なのじゃ。

616避難民のマジレスさん:2021/07/09(金) 23:12:24 ID:OqAvNVVA0
464
作偈博飯喫   偈を作りはんにかへて喫す
來往東山昔如今 とうざんに来往す昨日今日の如し
飢時一飯価千金 き時の一飯あたひ千金
茘支素老仏魔話 茘支素老仏魔の話
慙愧詩情風月吟 慙愧す詩情風月の吟

蔭木英雄先生訳・解説抜粋
東山建仁寺に昔も今も往来し  
空腹時の一椀の飯は千金の価値がある
茘支をたべた清素は仏魔の話をしたが  
ワシば飯をたべ詩情を抱いて風月を吟じるのははずかしい

一休は周建と称した少年時代、
東山建仁寺の慕喆龍攀(ぼてつりゅうはん)につき「三体詩」を」学んだ。・・・兜率従悦(とそつしょうえつ
1044-1091)は淸素首座に茘子を献じたあと、自分の修行経過や見解を述べた。すると清素は、
只だ仏に入るべきも、魔に入るべからず。須らく知るべし、古徳の、「末後の一句始めて牢関に到る」と
謂いしことを。
と述べ、兜率を導いた。― この禅宗史話を踏まえて転結句を解釈しなおすと、
(故郷の果物の)茘子を食った清素首座は、(茘子をくれた兜率に)仏魔の公案を与えて接化教導した。とこ
ろが、作偈の代償に飯を食ったワシは修行者を指導することなく風月を吟じているのが愧かしいわい。となる

くま訳
偈を作り売って飯を食う
東山建仁寺に昔来ていたのが、まるで昨日のようだ。 
飢えてる時の一椀の飯は価千金である。
茘支をたべた素老は仏魔の話をしたが、  
ワシは食うために、風月に対する詩情を吟じるのははずかしいのである
(´・(ェ)・`)つ

617鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/10(土) 23:04:24 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

偈を作り飯にかえて食べるのじゃ。

東山に来たら昔が今の如しなのじゃ。
餓えた時の一飯は価千金なのじゃ。
素老は茘支で仏魔の話をしたが、
わしは詩情で風月を吟詠するだけで恥ずかしいばかりなのじゃ。

618避難民のマジレスさん:2021/07/10(土) 23:37:33 ID:caBPdlkw0
465
因亂寄坊城小納言詩 乱に因りて坊城少納言に寄す 詩
當代菅儒小納言 当代菅儒少納言
詩文家業動乾坤 詩文の家業乾坤を動かす
英雄亂世好風月 英雄乱世に風月を好む
長劍大弓酬主恩 長劍だいきゅう主恩にむくゆ

くま訳
戦乱に際して、坊城少納言に寄す
当代の菅儒小納言殿、
詩文の家業は天下を動かすものであります。
英雄は乱世においても風月を好むものであります。
長劍、大弓で主恩に酬いるのであります。

*wikiによると、東坊城和長が少納言に叙せられたのは、一休さんの死の5年後でありますが、おそらく、 
 この人の事でありましょう。
 東坊城和長の『和長卿記』1494年の条に「秘伝に云う、一休和尚は後小松院の落胤の皇子なり。世に之 
 を知る人無し」とある
 1479年には文章得業生となり、1486年に少納言を兼ね、同年11月15日に従五位上に叙された。1520年 
 に権大納言に任ぜられる。1522年に氏長者「北野の長者」に任ぜられる。同年に権大納言を辞任。1529 
 年、薨去。享年70。
 和長が8歳の時に始まった応仁の乱によって、朝儀に必要な有職故実や紀伝道の知識も喪失の危機にあっ 
 た。こうした状況の中で和長は菅原氏の紀伝道をこれまでにない方法で再興し、存続させると言う課題に 
 取り組むことになった。元来、紀伝道とりわけ菅原氏の人々の間では古来から受け継いできた伝統的な学 
 説を守り続けることが最も重要なことと考えられ、自らの手で新たな説を立てたり、著作を書いたりする 
 ことには積極的ではなかった。和長もこの考え方を重要視し、例えば紀伝儒(紀伝道に伝わる儒学)を正 
 統視する立場から五山の宋学などの新しい学問に対しては批判的な態度を取っていた。
 当時の紀伝道の人々は文章家として、仏事などの行事に用いられる願文や諷誦文、祭文などの制作を依頼 
 されることが多かった。

 東坊城家(本姓・菅原氏高辻庶流五条庶流)は、五条長経(1242-1315年)の次男東坊城茂長(1284–1343 
 年)を祖とする堂上家である。ただし、茂長の時代には「坊城」と称し、孫の秀長・言長兄弟の時代に分 
 立して「東坊城」「西坊城」と称したことから、秀長をもって祖をする考え方もある。極官は室町時代の 
 東坊城益長(1407–1474年)以降、代々文章博士・大学頭・少納言・大蔵卿等を経て権大納言を極官とす 
 る。家業は紀伝道で、代々天皇の侍読を務めた。歴代当主の中には漢学の才を認められる者も多い。
(´・(ェ)・`)つ

619鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/11(日) 22:29:18 ID:1d4drIFg0
昔の官位は貴族の世襲だからわかっていたのじゃろう。

それでよいのじゃ。

乱によりて坊城小納言に寄す詩なのじゃ。

当代の菅儒者である少納言なのじゃ。
詩文の家業は天地も動かすのじゃ。
英雄は乱世でも風月を好むのじゃ。
長劍大弓で主恩に報いるのじゃ。

620避難民のマジレスさん:2021/07/11(日) 22:54:37 ID:XE3BOl/w0
466
賛達磨大師半身 達磨だい師の半身を賛す
東土西天徒弄神 東どさい天いたずらに神を弄す
半身影像現全身 半身のやう像全身を現ず
少林冷坐成何事 少林冷坐何事をか成す
香至王宮蕙帳茵 香し王宮けい帳のしとね

くま訳
賛達磨大師半身 
東土日本も、西の天竺も、誠の信心があやしくなってきている。
半身の御姿から、全身を現すように見える絵である。
少林寺で坐禅修行に打ち込んで、成し遂げたことは偉大である。
南インドの香至国の王宮のきらびやかな部屋で生誕されたのだ。

*1465(寛正 6)72歳の時に、弟子の黒渓の描いた達磨の図に書いた賛。真珠庵に秘蔵。↓
 https://teaceremonytouan.com/blog-entry-366.html?sp
*香至王宮蕙帳茵:達磨は南印度香至國王の第三王子なり、蕙帳の裡に生れて、かくの如き難行苦行をなさ 
 るをいふ。(大成脚注)
*達磨:(378-528):南インドの香至国の国王の三男。名前、菩提多羅。
*神弄(かみいじり): 誠の信心からではなく、みえや形式だけで神参りすることをとがめていう語。神い 
 びり。神せせり。神なぶり。 
*蕙帳(けいちょう)(「蕙」は、かおり草) 蕙の模様のあるとばり。また、それをかけた部屋
*おまけ:達磨(長南瑞生先生解説)(378-528)は、南インドの香至国の国王の三男として生まれ 
 ました。名前を菩提多羅といいます。
 菩提多羅が7歳のある日、行脚の旅をしていた般若多羅という僧侶が香至国を訪れました。
 国王が宮中に招いて教えを受けると、尊い仏教の教えを説いたので、お礼に宝珠を贈りました。
 そして、3人の王子たちにも挨拶させると、般若多羅はこう言いました。
 「国王から頂いたこの宝珠は、まことにすばらしいものです。王子様がた、この世には、この宝珠以上の 
 宝は、果たしてあるものでしょうか?」
 第一の王子はこう答えました。
 「この宝珠は、この国最高の宝物です。この世にこれ以上の宝物はありますまい」
 第二の王子もこう答えます。
 「兄の言う通り、尊者のような高徳の方のみに許される最高の宝です」
 上の2人はこの世にこれ以上の宝はない、という答えだったのですが、第三王子の菩提多羅は違いました。
 「確かにこの宝珠はすばらしい宝です。しかし、何が最高の宝かといえば、正しい教えこそが、最高の宝 
 でありましょう。この宝珠もすばらしい輝きを放ちますが、智慧の光こそが最もすばらしい輝きを放つも 
 のと思います」
 この立派な答えに感心した般若多羅は、出家を勧め、国王も承諾しました。
 やがて国王が病気になり、苦しんで亡くなりました。
 その姿を見た菩提多羅は
 「死んだらどうなるのだろう」
 と思いました。7日間瞑想して考えましたが、わかりません。
 菩提多羅はこれをきっかけに出家し、般若多羅に弟子入りしたのでした。
 このとき菩提多羅は「菩提達磨」という名前をもらい、般若多羅の弟子として、厳しい修行に打ち込みま 
 した。40年以上の厳しい修行の末、ついに一人前と認められたのです。
 お師匠さまに、
 「どこへ仏教を伝えに行ったらよろしいでしょうか」
 とお尋ねすると、驚くべき答えが待っていました。
 「お前は一人前になったといっても、有頂天になって自惚れるでない。私の元でこの後も修行を続けるの 
 じゃ。ただし、私が死んだら67年間、インド中をくまなく歩いて仏教を伝えるがよい。その後は中国へ 
 渡って、仏教を伝えるのだ」
 こうしてしばらくの間師匠のもとで修行を続け、般若多羅が亡くなってから、旅に出たのです。
(´・(ェ)・`)つ

621鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/12(月) 21:50:23 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

達磨大師の半身の賛なのじゃ。

東土西天は徒に神をもてあそぶだけなのじゃ。
半身の影像でも全身を現しているのじゃ。
少林寺で座禅して何事を成し遂げたのじゃろうか。
王宮の帳のしとねは至高の香気がまだ漂っているのじゃ。

622避難民のマジレスさん:2021/07/12(月) 22:46:37 ID:H3hNGvDU0
くま訳
賛達磨大師半身 
第一句:東土西天は徒に神をもてあそぶだけなのだ。

『修証義』第三章 第十一節 禅の視点 - life -Hp訳

次には深く仏法僧の三宝を敬い奉つるべし、生をかえ身を易えても三宝を供養し奉らんことを願うべし、西
天東土仏祖正伝する所は恭敬(くぎょう)仏法僧なり。

life -Hp訳
仏の道を歩む者は「真実を悟った者」「真実についての教え」「真実に沿って生きる人々」の3つの宝を尊
重しなさい。
生まれ変わり死に変わってもこの三宝(さんぼう)を尊重し続けるような強い志しを持っていなさい。
インドから中国へ、中国から日本へと伝わってきたブッダの教えの根本にあるのは、この3つの宝を敬う心
である。


467
嫌佛閣
徳嶠韶陽門大開 徳けうせうやう門大いに開く
喚爲嫌佛一楼臺 よんでけん佛の一楼台となす
這般知識説邪法 しゃ般の知識を邪法を説く
問話者從魔界來 問なの者は魔界より來たる

くま訳
仏嫌いの御殿
徳が極めて高いという 韶陽以遠 が、大雄山最乗寺第二代住持となった。
人よんで、仏嫌いの殿堂となす
そんな坊主が邪法を説くのである
信者は魔界から来るのであろう。

*徳嶠*嶠は山が鋭く高い意味。
*韶陽以遠(しょうよう いおん):室町時代の曹洞宗の僧。)相模(さがみ)(神奈川県)最乗寺の了庵慧明
(りょうあん-えみょう)に師事し,その法をつぐ。丹波永沢(ようたく)寺(兵庫県)の住持をへて,応永(1394-
1428)のころ最乗寺2世となった
*韶陽豆知識①:天正10(1582)年10月10日(信長の百か日)、豊臣秀吉が信長の後継者として大徳寺で盛大
 な葬儀を執り行った。織田信長6女/三の丸殿 (韶陽院) は氏郷の養女として豊臣秀吉の側室となる。
 うむ。一休さん没後100年以上たってからでありますが、妙心寺の韶陽院という建物に、信長の6女がす 
 んでいたらしい。
 韶陽②:雲門宗のこと。韶陽は、雲門大師が韶州雲門山に住するによる
*問話(もんな): 問禅のこと。また広く、禅寺で修行者が疑問を師家などに問うこと。
(´・(ェ)・`)つ

623鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/13(火) 23:45:55 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

仏嫌いの閣殿じゃな。

傲慢な韶陽が門を大いに開いたのじゃ。
人呼んで仏嫌いの一楼閣なのじゃ。
ここの僧は邪説を唱えるのじゃ。
それを聞く者は魔界から来たものじゃ。

624避難民のマジレスさん:2021/07/14(水) 00:03:38 ID:XTDObFBA0
くま訳改
第一句:傲慢な韶陽が門を大いに開いたのだ。

468
病中作     病中の作
徳山捧兮臨濟喝 徳ざんの捧臨濟の喝
嘆我破他機境奪 嘆ず我れ他の機境に奪はるることを、
若人問馬祖不安 若し人馬祖の不安を問はば、
慙愧一生相如渇 慙愧す一生しょうじょが渇

くま訳
病中の作
気合だ!気合だ!
嘆かわしいのは、わしの根気と観察対象が病に奪われていることである。
若し、わしが、馬祖と同じように、不安があるかと問われたら、
司馬相如が一生病に苦しむ中で書き続けた立派な文章程のものが書けてないのではないかと恥かしく思うの
である。

*機境;行者の根機こんき (素質能力) と観察かんざつの対象のこと。
*問馬祖不安:馬大師、不安、院主問ふ、「和尚近日尊候如何。」大師曰く、「日面佛、月面佛」と。即ち 
 馬祖の面目は日月寒暑昼夜春愁の如く、安不安によりて別状あるなしとの意。もし一休がかくの如き問を 
 うけたならば何と答ふべきと。(大成脚注)
*相如渇:司馬相如一生消渇の病に苦しめども、其の一代の文章に於ける実に見るべきものあり、正に之に 
 恥づべきものか。(大成脚注)
(´・(ェ)・`)つ

625鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/14(水) 22:02:20 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

病の中の作というのじや。

徳山の捧と臨濟の喝
わしは他のもの心を奪われることを嘆くのじゃ。
もし人が馬祖の不安を問うならば、
一生相如の渇に囚われることを慙愧するのじゃ。

626避難民のマジレスさん:2021/07/14(水) 23:19:20 ID:IU0vfEmI0
469
賛普化     普けを賛す
徳山臨濟奈同行 徳山臨済、同あんをいかんせん、 
街市風顚群衆驚 街市の風てん群衆驚く。
坐脱立亡多敗闕 坐脱りゅうぼう敗けつ多し、
和鳴隠隠寶鈴聲 くわめい隠々たり宝れいの声。

柳田聖山先生訳
徳山の棒、臨済の喝も、(普化が)一緒ではどうにもならず、
町のフーテン沙汰は、群衆を慌てさせる。
座って死んでも、立って死んでも、(普化の死にようには)到底敵わず、
響き合ってありありと(姿なき虚空に聞こえる)、宝塔の鈴の音だった。"

くま訳
徳山さんも臨済さんも、普化さんが同行するとなると、ちょぴっとなぁてな感じでありましょか?
街中で騒ぎを起こして町民を驚かせるでありましょうから。
坐って解脱しても、立ったまま昇天しても、(消えてしまった)普化さんにはかないませぬ。
かすかに聞える鈴鐸の音だけを残して普化は消えたのだ。

うむ。普化さんみたいなくまになりたいものであります。

*普化(ふけ、生没年不詳)唐代の禅僧、臨済義玄(? - 867年)『臨済録』の中で、臨済がシテの立場、 
 普化はワキの役どころを演じているが、その行動が異様なものが多く、風狂僧や神異僧の部類に属する。
 師の入滅前の、門弟子たちに対する「私の本当の姿を描けるか」という問いに対して、普化のみが、ただ 
 トンボ返りをうったことで、師に喜ばれ、「風狂を演じあげて、世間を騒がせよう」と賞賛されたと伝え 
 られている。
 また、その名も、通称であり、本名はおろか、受戒の僧名も明らかではない。普化とは、神出鬼没の普化
 が、突然に街頭に現れ、道行く人の耳もとで鈴を振り乞食した、つまり「普く化を求めた」ことから付い 
 た俗称である。この場合の「化」は、「施し、布施」の意味である。
 また、その寝泊りする場所は、墓地であったという。日が昇ると、市場に現れたという。そして、鈴を振 
 りながら叫ぶ「明るいのが来れば打つ、暗いのが来れば打つ」と。それを聞いた臨済が小坊主を使って探 
 りを入れる。「全くどこからも来なければ、どうするんだ」と。普化の答えは、「明日は、大悲院でお斎 
 (とき)があるよ」という意外なものであった。
 翌日、普化が臨済院を訪れる。臨済は歓待する。普化の食べ方がおかずだけを平らげるという異様なもの 
 だったので、臨済が「まるでロバだ」と批評する。普化は「メー」と鳴く。臨済は絶句。すかさず普化が 
 「小僧(=臨済)には、片目しかないね」と言って去って行く。
 というのが、『臨済録』中の、臨済と普化の有名な逸話である。了然大悟した筈の臨済の上を行く存在と 
 して、普化は重要な役割を演じている。
 その最期に付いては、https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>924 "普 
 化(ふけ)和尚:瑞雲院法話のページより抜粋 "

 これは、道教の尸解(しかい)に類したもので、仏僧でも、高僧の最期としては、達磨にも見られるよう 
 に、珍しいものではないらしいのである。
(´・(ェ)・`)つ

627鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/15(木) 22:01:34 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

普化の賛じゃな。

徳山や臨も同行しないのじゃ。
街中の風狂は群集を驚かすのじゃ。
坐脱立亡には誰もが負けるのじゃ。
宝鈴の音があわせて隠隠と響くのじゃ。

628避難民のマジレスさん:2021/07/15(木) 22:47:32 ID:v1y86gyc0
470
訪養叟的子熈長老癩病 1/2 養そうの的子き長老の癩病をとふ 
毒蛇窟宅洛陽東 毒蛇の窟宅洛陽の東
癩病深懼亨徹翁 癩病深くおそるきゃう徹翁
紹熈養叟正傳子 ぜうきは養叟しゃう傳の子
學得天衣佛日風 學び得たり天え佛日のふう

くま訳
養叟宗頤の弟子である癩病の春浦宗煕を訪ねる
毒蛇の巣窟、都の東
癩病を深く恐れていた師匠徹翁義亨
春浦は養叟をしっかりと正伝したのであるな。
学び得たようである、天人のように着飾り無知な衆生を騙す禅風を。

*春浦宗煕(しゅんぽ そうき)1409/16-1496 室町時代の僧。大徳寺の養叟宗頤(ようそう-そうい)の法を 
 つぎ,寛正(かんしょう)2年1461年同寺の住持となる。応仁(おうにん)・文明の乱を摂津,和泉(いずみ) 
 にさけ,乱後は大徳寺の復興につくした
*煕・頤・熈 など出典により、新旧違うのである皆「き」である。
*養隻宗熈や春浦宗熈を批判する際好んで引用する徹翁義亨の「示榮衒徒法語」をふまえているのである。 
 (飯塚大展先生)
 参)https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>808
*仏日:仏の光明が衆生の無知の闇を照らすことを太陽にたとえていう
(´・(ェ)・`)つ

629鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/16(金) 21:50:27 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 今度は養叟の弟子のライ病の宗煕を訪ねるというのじゃ。

 毒蛇の巣窟である都の東
 ライ病深く恐れる亨徹翁なのじゃ。
 紹熈は紹熈の正伝の弟子なのじゃ。
 天衣仏日の風を学び得たのじゃ。

630避難民のマジレスさん:2021/07/16(金) 22:36:16 ID:KDtOGFaQ0
471
訪養叟的子熈長老癩病 2/2
病輕脈重咸淳禪 病かろく脈重きは咸淳の禪
病重脈輕會昌禪 病重く脈かろきはゑ昌の禪
就中腐爛養叟輩 中に就いて腐らんす養叟のともがら
病脈並損今日禪 病脈ならびに損すこんにちの禪

くま訳
訪養叟的子熈長老癩病 
ふむ。病状軽く、脈重いのであれば、咸淳の度宗皇帝に、意識を集中してるのであろう。(ふむ。脳溢血で死ぬであろう。)
ふむ。病状重く、脈軽いのであれば、会昌の武宗皇帝に、意識を集中してるのであろう。(ふむ。薬中毒で死ぬであろう。)
ふむふむ。なかんづく、腐乱してるのであるよ、養叟のところの輩は。
脈から推察されるところの病は、本日の看立て診断によると、悪化しているようである。

*咸淳(かんじゅん)は、南宋の度宗の元号。1265年–1274年。
*会昌(かいしょう)は、唐代の武宗の元号。841- 846年。このころに仏教弾圧が行われる(会昌の廃 
 仏)。
*度宗(たくそう)は、南宋の第6代皇帝。
 1240年、紹興で生まれる。幼少より節度がある言動が認められ、1260年に皇太子に立てられた。厳格な
 儒学的教育を受けた。1264年、皇帝として即位する。年齢が若かったこともあり派閥抗争を抑制するこ 
 とができず、モンゴル帝国のクビライの侵攻を防止することができなかった。南宋の滅亡が決定的となっ
 た。1274年に35歳で崩御。死因は酒色による脳溢血とされる。
*武宗(ぶそう)は、唐朝の第18代皇帝。穆宗の五男。
 武宗は冷静沈着で、明晰かつ決断力に富んだ人物であった。宦官勢力の抑制や中央集権体制の立て直しに 
 努めた。道士である趙帰真を信任し、道教に傾斜するあまり「会昌の廃仏」と称される廃仏令を出してい 
 る。846年、丹薬による中毒で33歳で崩御した。死の間際に炎と改名している。
*就中・なかんずく その中でも。とりわけ。
(´・(ェ)・`)つ

631鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/17(土) 23:22:38 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

前と同じじゃな。

病軽く脈が重いのは咸淳の亡国の禪なのじゃ。
病重く脈が軽いのは会昌の廃仏の禅なのじゃ。
それらよりも腐敗しているのが養叟の輩なのじゃ。
病も脈も損なっている今日の禅なのじゃ。

632避難民のマジレスさん:2021/07/18(日) 03:59:56 ID:KI1Uku5o0
くま訳全面改
第一句:病軽く脈が重いのは咸淳の亡国の禪なのだ。
第二句:病重く脈が軽いのは会昌の廃仏の禅なのだ。
第三句:それらよりも腐敗しているのが養叟の輩なのだ。
第四句:病も脈も損なっている今日の禅なのだ。
 
472
達磨忌 
毒薬数加賊後弓 毒薬しばしば加ふ賊後の弓
大千逼塞佛心宗 だいせんひっそくす
西來無意我有意 せいらい意無し我意有り
熊耳山中落木風 ゆうじさんりゅうらくぼくの

達磨忌 10月5日の達磨大師の忌日に行う法会
毒薬がしばしば盛られていたことが後から分かったが、後の祭りだった
世界中の禅宗門が喪に服した
達磨がインドから来た意味、禅とは何かの答えは、外側には無い。わが心の中にあるのだ。
葬られた熊耳山(ゆうじさん)には、強風が吹いてるだろう。

*祖師西来意は禅の代表的な公案のひとつ。
 『無門関』第三十七則
 一人の僧が趙州和尚に問うた。
 「如何なるか是れ祖師西来意」(大意:達磨大師が遠路、インドから中国へと来られた真意は何なので 
 しょうか?)
 趙州和尚は答えた。
 「庭前の柏樹子」
 『趙州録』
 また僧は続けて問うた。
 「和尚、境を将て人に示すこと莫かれ」(大意:私は禅とは何か尋ねているのです。心の外の物で答えな 
 いで下さい)
 趙州和尚は続けて答えた。
 「我れ境を将て人に示さず」(大意:私は心の外の物で答えてなどおりません)
 僧は再度問うた。
 「如何なるか是れ祖師西来意」
 趙州和尚は、再度答えた。
 「庭前の柏樹子」

*景徳伝灯録巻三。第二十八祖菩提達磨(瑞雲院法話のページより)
 大師は風のごとく雨のごとく、あまねく甘露の正法を施した。そのためその活動をうらやむ者によって毒 
 を盛られ、六度目に毒を盛られたとき、説くべきことは説き、法を伝える人も得たと、495年10月5日、 
 端然として亡くなった。150歳であった。
 遺体は熊耳山(ゆうじさん)に葬られ、塔は定林寺に立てられた。熊耳山は熊の耳のように二峰が並びそ 
 びえていることから付けられた山名だという。なお西紀527年に中国に来て、495年に亡くなるはずはな
 いが、原文はそうなっている。年号の書きまちがいかもしれない。
 三年後、宋雲(そううん)という僧が西域を旅しているとき、葱嶺(そうれい。パミール高原からカラコ 
 ルム山脈にかけての山域)で達磨大師に会った。大師は手に履き物の片方をぶら下げていた。宋雲が尋ね 
 た。
 「先生はどこへ行かれるのか」
 「インドへ帰る」
 帰国した宋雲は皇帝にそのことを報告し、皇帝は大師の墓を調べさせた。すると棺の中は空っぽで、ただ 
 履き物の片方のみが残っていた。後に皇帝から円覚大師の名を贈られた。
(´・(ェ)・`)つ

633鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/19(月) 00:25:02 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

賊によって後ろ弓の毒を度々加えられたのじゃ。
大千世界が逼塞した仏の心の宗家なのじゃ。
無意ならば西来し、有意ならば我が有るのじゃ。
熊耳山中の木は落ち風が吹くのじゃ。

634避難民のマジレスさん:2021/07/19(月) 07:24:01 ID:qzveYPbg0
くま訳全面改
賊によって後ろ弓の毒を度々加えられたのだ。
大千世界が逼塞した仏の心の宗家なのだ。
無意ならば西来し、有意ならば我が有るのだ。
熊耳山中の木は落ち風が吹くのだ。

*後弓反張 :後頚部の筋および背筋、上下肢筋の筋緊張 進、または痙攣により頚部を強く背屈させ、全身
が後方弓形にそりかえる状態。 <要因> 髄膜炎、破傷風

473
賛杜牧     杜牧を賛す
杜書記獨朗天然 杜書記獨朗天然
参得正傳臨濟禪 参得すしゃう伝臨濟の禪  
儒雅家風無一點 儒雅の家風一点無し
詩情淫色紫雲前 詩情淫色紫雲の前  

くま訳
杜牧を賛す
杜書記は、無相の一念に悟入して、大悟の域に達していたのだ。
臨済正伝の真理を体得していたのである。
儒家の家風は全くない
詩情は淫意で、吉兆を感じさせるものである。

*杜牧(とぼく)803-853年晩唐の詩人。355 356 「杜牧」参
*杜書記;杜牧は833年三十一歳の時から数年間書記として官吏生活を送った。
*獨朗天然:たぶん、天真独朗 のことでありましょう。
天台法門の奥義を表わしたことば。天真とは諸法の本然のすがたをいい、諸法がそのまま本覚の智体であ   
 ることを独朗といったもの。たとえば地獄も真如の功徳であり(天真)、また地獄にも法界を収めている 
 (独朗)というもの。  。
 無相の一念に悟入すれば、生死の別を離れ宇宙朗然とし、凡身そのままに大覚の域に達するということ。   
 最澄が在唐のとき、道邃(どうすい)から口伝された語という。
*参得:参禅して真理を体得すること。
*儒雅(じゅが)① 儒教の正しい道理。② 儒家の流れで、文の道にすぐれていること。また、その家柄、 
 人。立派な儒者。
*紫雲;念仏行者が臨終のとき、仏が乗って来迎(らいごう)する雲。吉兆、めでたいしるしとされる。
(´・(ェ)・`)つ

635鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/19(月) 23:37:38 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

杜牧の賛じゃな。

杜牧はありのままに悟っていたのじゃ。
臨済禅の正伝を得ていたのじゃ。
儒教の虚飾の風は全くなかったのじゃ。
詩情の淫色でさえ紫雲があったのじゃ。

636避難民のマジレスさん:2021/07/20(火) 00:00:38 ID:PVB4a6ig0
474
絶交會裡衆偈、 えりの衆に絶交するげ、
且以自警云   かつ以って自らいましむといふ
匡徒領衆立魔宮 徒をただし衆を領じてまきゅうをりっす
汗馬從前蓋代功 かんばじゅうぜんがいだいの功
師弟凡情共姦黨 師弟の凡情ともにかんとう
可憐韓信嘆良弓 あわれむべし かんしんが良弓をたんぜしことを

くま訳
弟子たちの会派と絶縁の偈。
弟子たちをただし、指導して、魔宮を束ねてきたのである。
しかし、もっと弟子たちの努力も見てやるべきであった。祖師がそれまで勝ちえてきた功績は祖師本人以外
は知らないのであるから、何度も議論してやるべきであった。
師弟の低俗な心が、会を悪人集団にしてしまったのである。
気の毒に思うことは、見込みのある有能な弟子を誤解して叱ってしまったことである。

*碧巌録
 從前汗馬無人識 従前の汗馬人の識るなし、
 只要重論盖代功 只だ重ねて蓋代の功を論ぜんことを要す。
 
 目の前で汗をかいて走る馬がいても人がそれを知ることはなく  
 ただくりかえし歴代の導師の言葉を論ずることを求めるだけです。
 
 歴代の祖師がそれまで勝ちえてきた功績を本人以外は知らないから、祖師一代一代の功績について、何 
 度も議論しなければならない。 (野狐禅RRPG先生訳)
*韓信(かんしん):秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決 
 定付けた。「韓信の股くぐり」「恥は一時、志は一生」
 劉邦は謀反の疑いで、韓信を 降格させた逸話。
(´・(ェ)・`)つ

637鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/20(火) 23:34:23 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

会衆と絶交する宣言とともに、自ら戒めるのじゃ。

徒弟を正し、会衆を率いてかえつて魔宮を立ててしまったのじゃ。
誰もわしの苦労を知らないのじゃ。
師弟のぼんくら情けが共にあだになって悪くしたのじゃ。
韓信が良弓を嘆くような憐れさなのじゃ。

638避難民のマジレスさん:2021/07/21(水) 00:15:07 ID:ody751oo0
くま訳全面改
徒弟を正し、会衆を率いてかえつて魔宮を立ててしまったのだ。
誰もわしの苦労を知らないのだ。
師弟のぼんくら情けが共にあだになって悪くしたのだ。
韓信が良弓を嘆くような憐れさなの

475
金春座者歌   こんぱる座者の歌
唱得雲門王老禪 唱へ得たり雲門王老の禪
朝遊東土暮西天 あしたには東土に遊び暮には西天
震旦徑山上堂後 震旦のきんざん上堂ののち
建仁撃鼓法堂前 建仁にくをうつはつとうの前

くま訳
金春座座員の歌 
雲門老師の禪を正しく歌っているのである。
朝は中国で遊び、暮には印度へ帰る、自在に飛び廻る。
中国の臨済宗徑山(きんざん)寺にお参りしたあとで、
日本の臨済宗建仁寺で法堂の前で鼓を打つのである 

*金春座(コンパルザ):大和猿楽四座の一。興福寺・春日神社に奉仕。奈良で興福寺猿楽の伝統から首座を 
 占めた。当時の能楽を代表する金春禅竹(1405-1470)はその理論に一休が関連していたとされる。今も 
 金春流として続いている。
*建仁:千光榮西禪師の開山なり(大成脚注)
*震旦(しんたん)真丹とも書く。中国の古称。古代インド人が中国を秦の土地 (チーナスターナ) と呼ん 
 だことに基づく。
 〈秦国の土地〉の意でサンスクリット語チーナスターナとなり,それが仏典翻訳の際中国に逆輸入され漢 
 訳されたもの。振旦,真丹,支那などすべて同じ音の転字だが,震は東方を旦は坦(地)をさす。 
*径山寺(きんざんじ)は、浙江省の径山にある仏教禅寺。南宋の五山の一。日本の茶道に影響したとする 
 言説がある。径山寺味噌(金山寺味噌)の由来や醤油の起源等の諸説との関係が指摘される。日本の文化 
 との関係は深い。らしい。 
(´・(ェ)・`)つ

639鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/21(水) 23:51:33 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 金春座の者の歌というのじゃ。

 雲門王老の禅を唱えられたのじゃ。
 朝には東土に遊び、暮れには西天に飛ぶが如き歌なのじゃ。
 震旦の径山寺に上堂の後
 建仁寺の法堂の前で鼓を打つが如くなのじゃ。

640避難民のマジレスさん:2021/07/22(木) 02:20:41 ID:1DZSY1IU0
476
三毒
貪嗔根本自痴愚 とんじんの根本自から痴愚
人我無明名利徒 にん我無明名利の徒
一箇無心閑道者 一箇無心の閑道者
近年林下一人無 近年林下一人無し

くま訳
三毒
貪嗔の根本は自ずから痴愚と云う事である 
自我があると思い込む無明の徒である。
一箇無心で穏やかな境地
近年、禅林には一人もいないのである。

*三毒:仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じ 
 ん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。
 三毒は人間の諸悪・苦しみの根源とされている。ブッダの説いた根本仏教、大乗仏教を通じて広く知られ
 ている概念である。

三毒を構成する煩悩
三毒 読み方 意味                            象徴する動物
貪  とん  貪欲 むさぼり(必要以上に)求める心。「欲」 と表現する。 鶏
瞋  しん  瞋恚(しんに)  怒りの心。「いかり」・「にくしみ」と表現する。 蛇
痴  ち   愚癡(ぐち) 真理に対する無知の心。「おろかさ」と表現する。 豚
(´・(ェ)・`)つ

641鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/22(木) 23:02:19 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

 三毒なのじゃ。

 貪りや怒りの根本は自らを知らぬ愚かさなのじゃ。
 人は我について無明ならば名声と利益を求める名利の徒となるのじゃ。
 一個の無心の者であれば閑道者となるのじゃ。
 そのような者は近年禅林には一人も居ないのじゃ。

642避難民のマジレスさん:2021/07/22(木) 23:14:51 ID:Gk1bTWP60
477
岩頭和尚
名風流面蠻胡 名は風流面はばんこ
胡鬚黒他赤鬚 胡しゅは黒くまたせきしゅ
舌頭絶勝文殊 舌頭は文殊に絶勝し、
脚下踏斷道儒 脚下は道儒をとう断す
天下衲僧痴愚 天下の衲僧痴愚
邪法而今難扶 邪法今たすけがたし
象骨老師小巫 象骨老師の小ふ
臨濟渡子同途 臨濟とし同途
着着作様作模 着着やうをなし模をなす
頭頭入細入粗 づづ細に入り粗に入る
横棹一拶江湖 さおを横たへて、洞庭湖畔で、江湖を一拶す、
江湖議論區區 江湖議論区区たり

くま訳
岩頭和尚
名は風流であるが、顔は異民族の様である。
北方の異民族の髭は黒く、他は赤い
弁舌は、文殊菩薩に圧勝するであろう程に鋭く
足腰は修験道の行者をも踏み倒すほど強い
彼と比べると、天下の禅僧が、まるで痴愚のように思われる。
邪法は今助けにならない
象骨山に崇聖寺を開いた雪峰禅師は、小人の巫女さんみたいだ。
臨済宗の流れの者たちも皆同じである
着着と見栄を張る準備をしているのである。
ああでもない、こうでもないと、細かくしてみたり、粗くしてみたりと、
洞庭湖畔で釣り竿を横たえて、禅者同士で相手の試し合いをしてたのでありましょうか。
夏安居での問答は、細かくやったことでありましょう。

https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>931 参
*巌頭全奯(がんとう ぜんかつ、828年 – 887年)唐代の禅僧。 
 州南安県の出身。
 青原行思の下で、仰山慧寂・徳山宣鑑に参じ、徳山の法を嗣ぐ。洞庭湖畔の臥竜山(がりゅうざん)で宗 
 風を挙揚した。
 887年、賊に首を斬られて死す。
*蠻胡:蠻・南方の蛮族、胡・北方の異民族
*雪峰禅師が象骨山(ぞうこつざん。雪峰山)に崇聖寺(すうしょうじ。雪峰寺)を開いた。
*装模作様 そうもさくよう:見栄を張ったり、上品ぶったりすること。「装」と「模」はどちらも見た目 
 を着飾ったり、他人の真似をしたりすること。「作様」は動きの様子。「装模様を作す」とも読む。
*頭頭(かぶりかぶり):幼児が頭を左右に振ること。
*江湖:大きな江(川)と湖の併称で、転じて官に対する民間、世間一般を指す言葉。
 禅宗用語 - 夏安居
*一拶:禅者同士が出会うときに、ことばや動作で相手をためすこと。
(´・(ェ)・`)つ

643鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/23(金) 23:40:02 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 岩頭和尚じゃな。

 名は風流、面は西洋人みたいなのじゃ。
 西洋鬚は黒赤まだらなのじゃ。
 舌先は文殊菩薩にも勝つのじゃ。
 足下に道教儒教の輩を踏み倒すのじゃ。
 彼に比べれば天下の僧も痴愚に等しいのじゃ。
 邪法の徒は今助け難いのじゃ。
 象骨の老師も渡世のまじないしの如しなのじゃ。
 臨済の渡子と道を同じくするのじゃ。
 着々とようをなし、着々と模をなすのじゃ。
 頭を使うごとに細に入り、粗にも入るのじゃ。
 竿を横たえて江湖に挨拶するのじゃ。
 江湖の議論は区区になったのじゃ。

644避難民のマジレスさん:2021/07/24(土) 04:23:18 ID:4c0wS6fo0
くま訳改
4行目:足下に道教儒教の輩を踏み倒すのだ
8行目:臨済の渡子と道を同じくするの
9行目:着々とようをなし、着々と模をなすのじゃ。
10行目:頭を使うごとに細に入り、粗にも入るのじゃ。
11行目:竿を横たえて江湖に挨拶するのじゃ。
12行目:江湖の議論は区区になったのじゃ。

くま質問
「着着作様作模」とは、普段は世間の人の流儀に従い、その真似をすることにより、波風をたてない、と
いったような意味でありましょうか?

478
示南坊 禎   南坊に示す てい
男色興盡對妻淫 なん色興尽きて妻に對して淫す
狭路慈明逆行心 けい路慈明逆行のこころ
容易説禪能忌口 容易に禪を説くよく口を忌む
任他雲雨楚臺吟 さもあらばあれ雲雨楚台の吟

くま訳
南坊、 岐翁紹禎(一休宗純の実子にして弟子)に示す
男色への興味が尽きれば、妻に対して淫欲をもよおしたりすのである。
仏道修行のため色欲を抑制せよとする狭路に対して、慈明は逆行して、悟りに向ったのだ。
禪を容易なものと考えて説くのは、忌むべきである。そんな言動は、
どうとでもなればよいと、ありのままの情を詠んだ性交、交会の詩の様になってしまうのである。

*南坊宗啓は集雲庵二世を名乗っている。集雲庵開創 岐翁紹禎(ぎおうしょうてい)(一休宗純の実子にし 
 て弟子)は、正長元年(1428年)の生まれ(Wikipedia)
*楚台夢:そだいのゆめ;性交の意に用ふる比喩。「ふざんのゆめ」に同じ。交会の比譬語。交接の比喩語。
*然もあらばあれ:それならそれでしかたがない。なるようになれ。ままよ。さもあれ。
 すでに存する事態を受けて、その事態を不本意ながら容認する気持を表わす。どうともなるがよい。まま 
 よ。漢文の「遮莫・遮渠・任他」の訓読にも用いる。"
*888: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/08/08(土) 23:01:28 ID:1d4drIFg0
 仏道修行は色欲を抑制して実践するものじゃ。
 それは狭い道というのじゃ。
 臨済宗の正伝禅ではむしろ色欲をも利用して悟りに向かうというのじゃ。
 芸術とか風流の道なのじゃ。

おまけ:文清筆楊岐和尚像(京都大徳寺所蔵国宝)
楊岐禪師・・・慈明和尚の石霜寺に移るに随ひて監寺となる、補佐久うして未だ究明する所あらず、屢々参
して問ふ、慈明多忙に托して説かず、時に慈明に老母あり、寺に近く住す、慈明毎日往きて慰むるを例とす、
一日大に雨りし時、方會その途に伏して慈明の來るを待つ、已にして抵れば直に其手を執り、今日須らく説
くべし、説かざれば和尚を打つべしと詰る、慈明答ふ、監寺是般の事を知らば便ち休せよ、と言未だ終らざ
るに玄旨を領するを得、泥路に附して禮し、又起きて、狭路に相逢ふ時如何と問ふ、慈明曰く汝は且つ軃避
せよ、我も去らん那裡に去れと、それより方會は慈明の出づることを未だ遠からざるを窺ひ、必ず晩しと雖
も鼓を鳴して學徒を集めければ、慈明歸り怒り責めて曰く、何をか為す、方會答へていふ、晩参と、是れ後
世叢林晩参の初なりといふ、後宜春より迎へられ楊岐寺に住す、然るに九峯の長老勤公未だ方會の大悟せる
を知らず、州郡の與望に背かんことを憂ひ、方會と問答したるより、其名遠く聞え四方に重んぜらるゝに至
りたり、後更に潭州雲蓋山海會寺に移りしが、二居共に法筵盛なり、その間風特色あり、學者之を楊岐宗と
呼ぶ、曾つて自賛を頌す、曰く、口似乞児席袋、鼻似園頭屎杓、勞君神筆寫成、一任天下卜度宋の仁宗の慶
歴六年、五十四歳を以て寂す。
(´・(ェ)・`)つ

645鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/24(土) 21:51:45 ID:1d4drIFg0
 ↑それはむしろ自ら僧としての行いを続け、模範となるというような感じじゃな。
  廃仏にも囚われぬ真の僧なのじゃ。

 そんな感じじゃな。

 南坊に示すというのじゃ。

 男色に飽きて妻に淫欲をおこすのじゃ。
 慈明の狭い道に逆行する心なのじゃ。
 容易に禅を説いてはいかんのじゃ。
 雲雨楚台の吟は意に任すのじゃ。

646避難民のマジレスさん:2021/07/24(土) 22:21:03 ID:fpf1chfw0
くま訳改
第四句:雲雨楚台の吟は意に任すのだ。

479
相對
二月涅槃寂滅辰 二げつ涅槃寂滅のとき
一刀兩斷也心身 一刀兩斷また心身
不生不滅佛難得 不生不滅佛も得がたし
花約有無相對春 くわ約有無相對の春

くま訳
相對
二月涅槃、釈迦の入滅の日 
心身を一刀両断する
不生不滅は佛も得難い境地である
花咲き花落ちる相對の春

*花約有無相對:花咲き花落つるをいふ(大成脚注)
*涅槃会(ねはんえ)、陰暦2月15日、釈迦の入滅(にゅうめつ)の日
*不生不滅:何ものも生ぜず,また滅びないということ。輪廻の世界から解放された世界観に立つと,絶対 
 的な実在はないということを表現するときに用いる言葉。空の観念を補足するものであり,涅槃のあり方 
 を否定的に説明する語法。
*一郷正道先生解説抜粋(大谷大学hp)
 インドに二〜三世紀頃在世し、『般若経』を中心に空の哲学を大成したナーガールジュナ(龍樹)は、縁
起思想にもとづいて「空」を理解した。「此れあれば彼あり、此れ生ずれば彼生ず・・・・・・」という成句に示
される縁起の意味は、ものはすべて、なんらかの他に依存して存在する相対的なものでしかないこと、絶対
的存在は決してありえないことを教える。この絶対的、実体的存在(自性(じしょう))が無いことを
「空」という。すべては空であって、夢・幻の如きものである。本来、聖でも俗でもないものを、聖とか俗
とか判断するのは、私の心の区別、分別作用である。聖も俗も言語上の区別にすぎず、空という点では両者
は不二である。
 ものは、すべて、縁起の理論で無と否定されるが、否定されて無に帰してしまうのでなく、そのまま、縁
起的には有として肯定される、という両面をもった存在である。
 そうであれば、自己主張の真・正・善性を標榜し、他を排除するところに闘争がくりかえされる現代の世
相を思うに、絶対性を否定し、執着からの解放を教える「空」の考え方こそ、顧みられるべきでなかろうか。
(´・(ェ)・`)つ

647鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/25(日) 21:46:19 ID:1d4drIFg0
相対なのじゃ。

二月の涅槃寂滅の時なのじゃ。
心身一刀両断なのじゃ。
不生不滅の仏の境地は得がたいものじゃ。
花は有無相対の春を約束するのじゃ。

648避難民のマジレスさん:2021/07/25(日) 22:40:24 ID:iAmTf7C60
くま質問
「花は有無相対の春を約束するのじゃ。」とは、ありのままは、相対的なものであり、絶対的なものではない
としつつ、花咲く事が、春の訪れを約束するとは・・・絶対、相対の更に向こう側のありのままみたいなこ
とでありましょうか?

480
日用
日用正工夫 日用のしょう工夫
挽弓東射胡 弓をひいてひんがし胡を射る
殺佛殺祖令 佛を殺し祖を殺す令
波旬失却途 波旬みちを失却す

くま訳
行住坐臥の日用・日常生活
日用生活の中での正しい工夫をするのだ。
弓をひいて東の魔敵を射るのだ。(集中して心にあらわれる一切の思い、執着、煩悩を射止めるのだ)
佛という観念や、祖師という観念も、一切の観念を射止めて消し去るのだ。
それが、悪魔を亡ぼす道である。

*殺佛殺祖:『臨済録』
 逢佛殺佛、   仏に逢うては仏を殺し。
 逢祖殺祖、   祖に逢うては祖を殺し。
 逢羅漢殺羅漢、 羅漢に逢うては羅漢を殺し。
 逢父母殺父母、 父母に逢うては父母を殺し。
 逢親眷殺親眷、 親眷(しんけん:身内や親族)に逢うては親眷を殺し。
 始得解脱、   始めて解脱を得ん
 不與物拘、   物と拘わらず、
 透脱自在。   透脱すること自在ならん
(´・(ェ)・`)つ

649避難民のマジレスさん:2021/07/26(月) 01:35:24 ID:sRRy.l3c0
*おまけ:日用 + 詫茶の創始者 村田珠光 :禅と悟りhp解説抜粋
 馬祖道一(709〜788)中国禅の実質的な創始者と言える。
 馬祖道一の禅風は<作用即性> 、<日用即妙用>、<即心即仏>、<平常心是道>。
 <作用即性>とは本性とその用(機能、働き)は同じであるという意味である。
 <日用即妙用>とは日常生活の中に仏法の妙用がそのまま現れていることを言う。
 <即心即仏>:「汝等諸人、各々自心これ仏なることを信ぜよ。この心即これ仏心なり。」(景徳伝燈録 
 卷六)とある。これより<即心即仏>とは、心=仏=仏心 であることを言っている。
 坐禅修行によって煩悩を離れた心こそが仏だと言っている。
 我々普通人は超越者としての仏を考え仏像など礼拝する。
 馬祖はそのような信仰対象の仏ではなく、坐禅修行によって浄化された心(健康な脳)こそ仏であると言う。
 (「無門関」30則「即心即仏」を参照 )
 景徳伝燈録のこの話の続き話が馬祖語録にある。
 ある僧が更に馬祖に尋ねた、「和尚は何故に即心即仏と説く?」
 馬祖曰く、「小児の泣くのを止めんがためなり。」
 僧曰く、「泣き止むときは如何?」
 馬祖曰く、「非心非仏。」
 (「無門関」33則「非心非仏」を参照 )
 <非心非仏>はよく心でもなく仏でもないと説明される。
 三祖僧サンの「信心銘」に「一心不生なれば万法咎無し。咎なければ法無く、生ぜざれば心にあらず」と 
 いう言葉がある。
 (「信心銘」を参照 )
 これは一心不生の本体こそが本来の面目(真の自己)であることを述べた箇所である。・・・
 意識が生じることがなければ心ではない。 このようなものは心でもない、また仏と呼ぶこともできない。
馬祖道一の法嗣百丈懐海(720〜814)の言葉に
「一切の語言文字、ともに皆宛転して自己に帰す。」という言葉がある。
宛転とは変化するさまを言う。
百丈懐海のこの言葉は「一切の語言文字は、結局のところ真の自己(脳)の働きに帰着する。」と言っている。

根本原理の応用例  
茶の湯
わび茶とその歴史(村田珠光→武野紹鴎)堺の豪商・村田珠光(じゅこう)
室町時代後期、喫茶は庶民の間まで広まっていたが、公家・武士らが行う茶会では高価な中国製の道具であ
る「唐物」が用いられていた。
このように高価な唐物を尊ぶ風潮に対し、村田珠光(むらたじゅこう、1423〜1502)は、粗製の
「侘びた」中国陶磁器(「珠光青磁」と呼ばれるくすんだ色の青磁が代表的)などの道具を使用した。
大徳寺の禅僧・一休宗純のもとに参禅した村田珠光は禅院での茶の湯に点茶の本意を会得したといわれ、侘
び茶を創始して茶道の開祖となった。

珠光は坐禅の眠気防止に一休から茶を薦められたのが、茶との出合いだったと伝えられる。
彼は坐禅を繰り返すうちに“茶禅一味”の悟りに達したとされる。
彼が始めた「侘び茶」は、従来の派手で形式中心の「大名茶」とは全く異なるものだった。
小さな四帖半の茶室の中では、人の身分など関係ない。そこにあるのは亭主のもてなしの心だけである。
彼はこの心が仏だとした。まさに一休から学んだ「仏は心の中にある」であり、珠光は仏の教えを仏典を通
してではなく、日常生活(茶の湯)を通して具現化したのである。
この「侘び茶」の精神は武野紹鴎(じょうおう)を経て千利休へと受け継がれて行くのである。
(´・(ェ)・`)b

650鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/26(月) 23:53:30 ID:1d4drIFg0
↑そのような感じじゃな。
 真摯に実践していればやがて有無相対を超える悟りが訪れるということじゃな。

 
それでよいのじゃ。

 日用なのじゃ。

 日用の正しい工夫なのじゃ。
 弓を引いて東の敵を射るが如くするのじゃ。
 仏を殺し、祖師も殺すつもりで実践なのじゃ。
 そのようにすれば魔も付け入る方法を失くすのじゃ。

651避難民のマジレスさん:2021/07/27(火) 02:26:56 ID:72aVpLM.0
481
賛松源和尚   松源和尚を賛す
娘生眼照太虚空 じょうしょうのがんだい虚空を照らす
天澤兒孫在海東 天澤の児孫海東に在り
滅卻宗風三轉語 宗風を滅卻す三転語
詞華心緒一天紅 詞華心しょ一天くれなゐなり

くま訳
賛松源和尚
世俗人々の眼を、大いなる虚空へと解放する。
虚堂の孫弟子である一休が、日本国にはいるであります。
宗風を滅却して革めた松源の三転語、
その見事な文章が、思いの筋道を、一輪の赤い花のように導いてくれるのであります。

*松源和尚三轉語 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>788 〜   
 112 113 114 の詩 参
*娘生(じょうしょう)とは、娘のことではなく、女から生れた子、母親から生れた自分、世俗の我、仮我、 
自我、と言う意味。「娘生の面目」と言い、「本来の面目」に対する用いられ方をす。
 又、禅学大成では、、[にゃうじゃう]と振り仮名されている。 
 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>876
*天澤庵:径山にある虚堂の墓塔
(´・(ェ)・`)つ

652避難民のマジレスさん:2021/07/27(火) 02:30:13 ID:72aVpLM.0
松源和尚三轉語 1/3       
大力量人甚擡脚不起 大力量人なにによってか脚をもたげ起こさざるか

商量鬼窟黒山禪 きくつこくざんの禅商量して
神力金剛現目前 しんりきの金剛目前にげんず
普天之下是王土 普天のもと是 
擡脚句中公案圓 脚をもたぐる句中公案まどかなり。

鬼和尚 解説:2020/07/04(土)
大力量の人がなぜ脚をあげることもできないのか、一休が答えを書いたのじゃ。
神力金剛は既に目前にあると言うのじゃ。
天の下は全て既に仏国土であるというのじゃ。
つまり既に大力量の人が足を上げているからそれ以上上げられないのじゃ。
衆生基より仏陀であるということじゃな。

松源和尚三轉語 2/3
開口因甚不在舌頭上 口を開く、なにによってかぜっとう上にあらざる

三寸舌頭開禍門 三寸の舌頭か門を開く
河沙諸佛轉多言 がしゃの諸佛うたたごん
夜來百勞五更目 やらい百労五こうの目
不柰聲聲崇夢魂 いかんともせずせいせいむこんにたたることを

鬼和尚 解説:2020/07/05(日)
口を開くのは舌先だけのことではないというのじゃな。
行いを伴わない言葉は災いを招くのみなのじゃ。
自ら実践して人に説くことが大事なのじゃ。
お釈迦様も自ら瞑想して人に説いたのじゃ。

松源和尚三轉語 3/3 
明眼衲僧因甚   みょうげんののうそうなにによってか
脚跟下紅絲線不断 きゃくこんかこうしせん不断なる

二三四七諸禪師 にさんししつしょ禪師
領衆匡徒心乱絲 衆を領じ徒をただして心しをみだす
因銭有癖是和嶠 ぜにによってへきあるはこれ和けつ
娘生脚下血淋漓 にょうじょうきゃっかちりんり

鬼和尚 解説:2020/07/06(月)
目利きの僧がなぜ足の下の赤いほつれの糸を切らないのかというのじゃ。
一休はそのような言辞は心を乱すのみというのじゃ。
目利きの僧が糸を切らないならばそれは糸ではないからというのじゃ。
朽ち縄が蛇ではないと気付くようなものじゃな。
(´・(ェ)・`)b

653鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/27(火) 21:49:37 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

松源和尚の賛じゃな。

衆生をも大虚空と見るのじゃ。
天澤の子孫は海東にあるのじゃ。
宗風を滅却する三転語なのじゃ。
その詞の華は心の糸口になる天の紅なのじゃ。

654避難民のマジレスさん:2021/07/27(火) 22:21:13 ID:6L4QXWLw0
くま訳改
第一句:衆生をも大虚空と見るのだ。
虚堂の孫弟子である一休が、日本国にはいるであります。
宗風を滅却して革めた松源の三転語、
その見事な文章が、思いの筋道を、一輪の赤い花のように導いてくれるのであります。

482
日課
如法如説衲僧眼 如法如説衲僧のまなこ
經誦讀誦百千返 經じゅ讀誦百千ぺん
三百六十日課前 三百六十日課の前
風月雪月吟艶簡 風月雪月艶簡を吟ず

くま訳
日課
法の通り、経文の通りが禅僧の見方考え方である。
読経を百回千回繰り返すのである。
三百六十五日その日課の前に。
風月雪月風流な艶簡を作るのも、日課である。
(´・(ェ)・`)つ

655鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/28(水) 23:18:48 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 法の如く、説の如くの僧の眼は
 経を読誦すること百千返
 三百六十日の日課の前に
 風月雪月の艶簡を吟ずるがよいのじゃ。

656避難民のマジレスさん:2021/07/29(木) 03:51:45 ID:mPXTyadk0
483
示衆      衆に示す
忍辱仙人常不經 忍にく仙人常不きゃう
菩薩果滿已圓成 菩薩果滿ちすでに円じゃう
撥無因果任孤陋 発無因ぐわ孤ろうに任す
一箇盲人引衆盲 一箇の盲人衆盲を引く 

くま訳
示衆
釈迦の前世である忍辱仙人は、人はみな成仏するとして、会う人ごとに軽んずることなく礼拝したという常
不軽菩薩である。
菩薩の修行は既に完成しているのだ。
因果の法理を否定する野狐禅の師に任せたら、
盲人が盲人を引き連れて道案内をするようなことになるのだ。

*忍辱仙人:釈迦の前世が暴虐な歌利王に四肢や耳・鼻を削がれながらも、怒り恨むことなく耐え忍び、 
 最後に国王を改心させるという説話あり。(三宝絵・忍辱波羅蜜)
*常不軽:「法華経」常不軽菩薩 (ぼさつ) 品に出てくる菩薩。人はみな成仏するとして、会う人ごとに軽
 んずることなく礼拝したという。常不軽菩薩。
*因果撥無(いんがはちむ):「撥無」は払いのけて顧みないこと)因果の理法を否定する邪見。
 因果の道理を否定し、無化してしまうこと。道元禅師は、「百丈野狐話」の一則を『正法眼蔵』で採り上 
 げ、不落因果を撥無因果とし、不昧因果を深信因果であるとした。
 不落因果は、まさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に堕す。不昧因果は、明らかにこれ深信因 
 果なり、これによりて、きくもの悪趣を脱す。 『正法眼蔵』「深信因果」巻
*孤陋(ころう):世間から離れて、見識が偏り、狭いこと。
(´・(ェ)・`)つ

657鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/29(木) 23:30:33 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 衆に示すのじゃ。

 忍辱仙人は常に不軽なのじゃ。
 それによって菩薩の成果は既に満ちて円成しているのじゃ。
 無因果を発すれば孤陋に任せることになるのじゃ。
 一人の盲人が沢山の盲人を率いるようなものじゃ。

658避難民のマジレスさん:2021/07/30(金) 01:49:49 ID:Z8CrZII20
484
作家 二首 1/2
臨濟徳山非作家 臨濟徳山作家にあらず
捧頭喝下任師誇 捧頭喝下師の誇るに任す
堪笑伎倆與鼻孔 笑ふにたへたり伎倆と鼻くうと
照看高低日影斜 照らし看る高低日影の斜めなるを

くま訳
作家 
臨済徳山はすぐれた力量のある僧というわけではないのだ。
捧喝で気合を入れてくれる先生として自然に誇られていたのである
笑いをこらえねばならぬほど、本物の伎倆と口先のおしゃべりの違いは明らかなのである。
斜めからの日差しであれば、影長く見えて高いように見誤るように、本当の伎倆を見誤るのである

*倆與鼻孔照看高低日影:斜伎倆と口吻と並行せざるをいふ、日影斜なれば低きも高き影に似たり、中天に 
 沖する時、正に作家の襟度を見るべきなり、偽者は御免で御座るいとふ意(大成脚注)(・口吻:1.口ぶ 
 り。 言い方。「不賛成の―をもらす」2.口さき。口もと。・襟度:心のひろさ。人を受け入れる量。)
(´・(ェ)・`)つ

659鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/07/30(金) 23:05:43 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 作家なのじゃ。

 臨濟徳山などは作家とはいえないものじゃ。
 棒で頭を引っぱたいたり、かつをいれたりするから師匠の誇りをもっていたのじゃ。
 技量と鼻の穴の差はわらいものなのじゃ。
 照らし看る技量の高低は日影が斜めではわからんのじゃ。

660避難民のマジレスさん:2021/07/31(土) 03:35:19 ID:AaNyLhQ20
くま質問
臨濟徳山は優れた力量がある僧であるとか無いとか、そんな相対的なことではないのだ。
捧喝で気合を入れてくれる指導者としての力量を誇っていただけなのだ。
臨濟徳山は本物の伎倆があることは明らかなので、他の指導者の口先だけのおしゃべりとの違いはお笑いな
ほどである
伎倆の高低の評価は、それを評価する人の視座の高低により異なって捉えられるので、レベルが低い人は正
しく評価できずに、誤解するだけなのだ。

くまは、このように読み取ったのでありますが、
「臨濟徳山などは作家とはいえない」「技量と鼻の穴の差はわらいもの」
と、臨済徳山の力量に付き、一休さんは否定的に捉えていたのでありましょうか?

485
作家 二首 2/2
忍辱仙人常不經 忍辱仙人常に不經
道心須是盡凡情 道心は須らく是れ凡情を尽くすべし
恁麼白浄眞衲子 いんもびゃく浄眞のなっす
可勤観法又看經 勤むべし観法又看きん

くま訳
作家 二首 2/2
釈迦の前世である忍辱仙人は、人はみな成仏するとして、会う人ごとに軽んずることなく礼拝したという常
不軽菩薩である。
仏道を追求する者は須らく、つまらない感情を棄てるべし
このように清らかな者が禅僧である。
観法、看経の実践に勤めるべし。

*忍辱仙人:釈迦の前世が暴虐な歌利王に四肢や耳・鼻を削がれながらも、怒り恨むことなく耐え忍び、 
 最後に国王を改心させるという説話あり。(三宝絵・忍辱波羅蜜)
*常不軽:「法華経」常不軽菩薩品に出てくる菩薩。人はみな成仏するとして、会う人ごとに軽んずること 
 なく礼拝したという。常不軽菩薩。
*道心:菩提を求める心。仏道を信奉する心
*凡情;凡人の情。凡夫らしい低俗な心。つまらない感情。凡心
*観法:真理と現象を心のなかで観察し念じる瞑想の実践修行法のこと。観の内容は多数に分類される。
*看経:禅宗では「かんきん」と読む。経典を黙読すること。のちに諷経 (ふぎん) ,読経 (どきょう) と 
 同義となった。また経典を研究するために読む意味でも用いられる。
(´・(ェ)・`)つ

661鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/01(日) 00:05:31 ID:1d4drIFg0
>>660 否定的だったじゃろう。
 そもそも大乗には四摂受の教えが在るのじゃ。
 布施、愛語、利行、同事の四つなのじゃ。
 物や教えを授け、優しく語り、利益を与え、事を同じくするのじゃ。

 棒でひっぱたくなどは大乗の作家ではないのじゃ。
 それで師匠面をしていては笑い者なのじゃ。
 一休は四摂受も知っていたじゃろう。
 弟子を導くのに苦労もしていたからそんな者は作家ではないというのじゃ。

662鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/01(日) 00:09:15 ID:1d4drIFg0
>>660 それでよいのじゃ。

 作家の二つ目なのじゃ。

 忍辱仙人はどんな者でも常に不軽なのじゃ。
 道心はすべからく俗気を無くす事が肝心なのじゃ。
 俗気がなくなり清浄となれば禅僧なのじゃ。
 そのようにして瞑想と看経に勤めるのじゃ。

663避難民のマジレスさん:2021/08/01(日) 08:27:19 ID:byGj7T4Y0
486
竹箆背髑    しっぺいはいそく
背髑主山閑話頭 背触は主ざんの閑話頭
誵訛着着沒來由 がうぐわ着着らいゆなし
梨花院落黄昏月 梨花院落くわうこんの月
説向愁人不解愁 説いて愁人に向ってうれひを解かず

くま訳
竹箆という言葉による差別に従い誤るか、従わないで嘘になるか。
背触は、首山省念和尚のちょとした公案である。
誵訛(ごうが)の正しい語源、来歴がはっきりとしないと言う様な話である。
ナシの白い花の咲く中庭で、黄昏の月を見て何を連想するか、(は人それぞれ)
悲しんでいる人に悲しみを説いても、悲しみを解消してやることはできない。(言葉は、解決策をもたらす 
とは限らないと言う事である。)

*竹箆背髑:首山省竹箆禅師、竹箆を拈じて衆に示すの語、「汝等若し喚んで竹箆と作さば卽ち觸る。喚ん
 で竹箆と作さざれば卽ち背く、諸人宜しく喚んで甚麼と作さん」と。卽ち背せず觸せざる所に於いて、日    
 用光中とするなり、卽ち他なし、竹箆は竹箆に非ず、卽ち是れ竹箆なり、其の他何の向背かあらん。(大  
 成脚注)
 竹箆:短い警策です。入室の時などに修行者を策励するために使う。
*誵訛:誵は殽の方正しとす、絲の錯雑紛糾して容易にとけざる混雑の様子をいふ、又錯り傳ふる意、展轉   
 殽誵權を以って實となすの類なり。(大成脚注) 
*權:音読み「ケン」「ゴン」訓読み「おもり」「はかり」「はかる」「いきおい」「かり」。元々誤読
 だったが、勢いがあったので、正しくなってしまったと言うことでありましょう。
*主山:首山省念和尚 臨済五世の法孫 
*愁人:愁人(しゅうじん):① 悲しい心を抱いている人。なやみのある人。② もののあわれを解する人。 
風流人。詩人。文人。
*愁人莫向愁人説、説向愁人愁殺人(愁人は愁人に語ってはいけない。愁人に語ればいよいよひどく悲しませ
 る。
*無門関四十三則 首山竹篦(しゅざんしっぺい) 洪福寺HPより
 首山和尚,竹篦を拈じて衆に示して云く、
 汝等諸人,若し喚んで竹篦と作さば則ち触る。
 喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。
 汝諸人,且く道え,喚んで甚麼(なん)とか作さん。
 無門曰く,喚んで竹篦と作さば則ち触る。
 喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。有語(うご)することを得ず,無語することを得ず。
 速(すみ)やかに道え,速やかに道え。
 頌に曰く,
 竹篦を拈起(ねんき)して,殺活(せっかつ)の令を行ず。
 背触(はいそく)交馳(こうち)す,仏祖も命を乞う。
 
 洪福寺HP 卓道和尚訳・解説抜粋
 首山省念(しょうねん)和尚が竹箆を拈じて修行僧たちに言うには、
 これを竹箆と呼べばそれは間違いである。
 竹箆と呼ばなければそれもまた嘘になる。
 それでは何と呼ぶか。    
 そこを無門が評して、竹箆と呼べば誤る。
 竹箆と呼ばなければ嘘になる。
 語ってもいけない。黙っても駄目である。
 さっさと答えろ、さっさと答えろ。
 そこを漢詩に詠って、
 竹箆を拈じて命ぎりぎりのやり取りを行っている。
 背触(はいそく)が入り混じった処、ここでは釈迦も達磨も命乞いをする。
 (´・(ェ)・`)つ

664避難民のマジレスさん:2021/08/01(日) 08:29:29 ID:byGj7T4Y0
おまけ:洪福寺HP 卓道和尚訳・解説抜粋つづき
・・今私が首に掛けているこれの名前を皆さんは多分知らない。これは絡子(らくす)と言います。袈裟の 
 一種で五條袈裟(げさ)とも言います。これを何も知らない人に見せたら何の布きれだろう、なにか切り張 
 りしたおかしな布だな、テーブルクロスかなとか考えるかもしれません。しかし今私は絡子の説明をして 
 しまった。皆さんにとってもう一生これは、絡子という坊さんが掛ける小さな袈裟になってしまいました。
 これが言葉というものです。
 これは片方からの見方ですが、この世界元来何も有りません。禅定の深みではこの世界塵一つ無い。自分 
 も無ければ世界も無い。無いということも無い。
 ・・これは竹箆ですよと言えば言葉に落ちてしまう。迷いの世界に落ちてしまう。これは竹箆ではないと 
 言えば事実目前と異なる。これはこの世界では竹箆です。これは畳、あれは柱。しかし三昧の世界から見 
 れば何も無い。
 平等無き差別(しゃべつ)は仏法に準ぜず、悪差別なるがゆえに、という言葉があります。平等とは禅定で 
 すべてを空じた境涯です。差別とは今皆さんが見ているこの世界。柱は縦に敷居は横に。生死が分かれ、 
 有無が分かれ、自他が分かれた相対世界。平等は絶対、差別は相対のことです。平等の裏づけのない差別 
 は正しい仏教ではない、誤った差別である。
 そして、差別無き平等は仏法に準ぜず、悪平等なるがゆえに。この相対の現実世界を離れた平等三昧の世 
 界、これは正しい仏教ではない。誤った平等である。
 ・・・背触交馳す。平等と差別が入り混じっている。 これが世界の本来の在り方です。般若心経はそこ 
 を色即是空、空即是色という言葉で現わしています。
 色が差別、相対の世界。空が平等、絶対の世界。色がそのまま空、空がそのまま色。平等を離れて差別の 
 世界はない。差別を離れて平等の世界は無い。首山竹箆はこの辺の消息を語った則です。
 私たちはどうしても言葉に執われてしまいます。竹箆といえばああそれは竹箆なんだ、警策といえば警策 
 なんだと。その通りなんです。この差別の事実を離れて別に平等三昧の世界があるわけではない。確かに 
 何も無くなってしまう境地というのもあるのでしょう。しかしその無に住(とど)まっては何の用(はた)ら 
 きもない。深い穴倉です。
 ・・・正面にお釈迦様、獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普賢菩薩が両脇にいらっしゃる。あの三尊は 
 釈尊という完成された存在をあえて、平等の智慧、空の世界を象徴した文殊菩薩と、差別の智慧、用(は
 た)らきの象徴普賢菩薩に分けたものです。体(たい)である文殊、用(ゆう)である普賢。これが即の関係 
 にある。体(たい)即用(ゆう)、何もない本体がそのまま用(はた)らく。それを体現したのが中心の釈尊で 
 す。
 我々が日常誦んでいる般若経典に金剛経というものがあります。これは空という言葉を使わずに空の世界 
 を説いた経典です。例えばこういう説き方をします。世界は世界に非(あら)ず、これを世界と名づくと。 
 世界は世界ではない、それを世界と名付けている。今日の則ならば竹箆は竹箆に非ず、これを竹箆と名づ 
 く。竹箆は竹箆ではない、それを竹箆と名付ける。
 一度禅定で天地と一体になる、世界は世界に非ずの処です。その天地と我と一体、万物と我と同根という 
 境涯の裏付けのもとにこの相対世界に戻って来る。
 世界は世界に非ずと三昧に入り、それを裏付けにそれを世界と名づける。空の裏付けにおける色の世界。 
 世界は世界に非ず、これを世界と名づく。竹箆は竹箆に非ず、これを竹箆と名づく。
 無門曰く,喚んで竹篦と作さば則ち触る。喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。有語することを得ず,無語
 することを得ず。速やかに道え,速やかに道え。竹箆と呼んでも駄目、竹箆と呼ばなくてもいかん。語れ 
 ば誤るからと黙ってもいけない。そこで詰め寄る、さあ言ってみろ。皆さんのあれやこれやの思い、言葉、
 概念、理屈、分別。それを一度きれいさっぱり無くして、まっさらになった自分の一言。
 私たちが言葉を使うのは、それが便利な約束事だからです。・・・言葉というのは約束事の集まりです。 
 その言葉に引っ掛からない。
 ・・・さて、この短い平らな竹の棒、これをなんと呼ぶか。
 ・・・竹箆と呼ぶのも約束事です。この言葉という約束事を離れてこれを何と呼ぶか。
 頌に曰く、 竹篦を拈起して,殺活の令を行ず。背触交馳す,仏祖も命を乞う。この首山和尚もこの竹箆 
 の問いで見性しています。ぎりぎりのやり取りです。仏も祖師も言葉では表せません。ここは皆さん各人 
 に苦労していただくところです。
(´・(ェ)・`)b

665鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/01(日) 23:50:39 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 竹箆背触なのじゃ。

 背触は主山の閑話の頭なのじゃ。
 着々として糸がもつれるように由来もわからぬものなのじゃ。
 梨花院に落ちる黄昏の月なのじゃ。
 愁人に向かって説くも愁いは解けないのじゃ。

666避難民のマジレスさん:2021/08/02(月) 02:07:52 ID:e1PCX0Dg0
487
病中 二首 1/2
破戒沙門八十年 破戒の沙門八十年
自慚因果撥無禪 自ら慚づ因果撥無の禪
病被過去因果果 やまひは過去因果の果をこうむる
今行何謝劫空縁 今何を行じてか劫空の縁を謝せん

くま訳
病中 二首 1/2
破戒の修行僧として八十年
自ら愧じているのである、因果の法理を否定する邪見を用いたことを。
病は因果の果を被るのである。
今何を行じて、永遠のご縁に表わしたらよいものやら。

くま質問:一休さんは、因果の法理を説く為に、自分の病に託けて、「自慚因果撥無禪」と詠んでるのであ
 りましょうか?
*野毛孝彦先生解説
 「婬犯肉食」による「破戒沙門八十年」の禅であった。鉗鎚 、鉗鎚 、また鉗鎚 、比類なき厳峻の師の 
 下で一休が参学し得たも一のは、その師華叟さえも絶対否定することによって自己を証する自己存在の在 
 り方であった。亡き謙翁のひそみに習い、華叟から与えられた印可の証を断固拒否した一休の態度になに 
 よりもそれが如実に示されている。
*因果撥無(いんがはちむ)483の詩:因果の理法を否定する邪見。道元禅師は、「百丈野狐話」の不落因 
 果を撥無因果とし、これによりて悪趣に堕す。としている。
*空劫:世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間
(´・(ェ)・`)つ

667鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/02(月) 23:19:47 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、病は過去の因果が還って来たせいだというのじゃ。
 何もかも無であると説いてはいかんのじゃ。
 それは邪見なのじゃ。
 因果はあると説くべきなのじゃ。

668鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/02(月) 23:22:18 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 病中なのじゃ。

 破戒の沙門として八十年経てきたのじゃ。
 因果は無いと説いてきた禅を愧じるのじゃ。
 病は過去の因果を被ったからなのじゃ。
 今はどのようにして劫空の縁を謝れば善いのであろうか。

669避難民のマジレスさん:2021/08/03(火) 03:58:07 ID:X242MX.E0
くま訳改
今はどのようにして劫空の縁を謝ればよいものやら。

488
病中 二首 2/2
美膳誰具一双魚 美膳誰か具す一双のうを
小艶工夫日用虚 小艶に工夫日用虚し
淫色吟身頭上雲 淫色吟身とう上の雪
目前荒草末曾鋤 目前の荒草いまだかつて鋤かず。"

蔭木英雄先生訳・解説抜粋
食膳に誰がうまい二匹の魚を添えてくれるのだ(誰からも手紙が来ない)
だから小艶詩を作る日用の工夫(下化衆生の大乗行)も空しい
色欲に耽り詩を吟じて頭も白髪となり  
目前の煩悩を除くこともせぬ。煩悩即菩提じゃ。

「・・釈尊一代の教えは、仏性を説き明したものではないのですか」という質問に対する臨済義玄の、
  荒草曾て鋤かず(衲は胸中の荒草を一度も刈った事はない。無明の実 性が即ち仏性なのじゃ)。
という返答に拠っている。婬色の小艶詩の虚しい工夫が、即ちそのまま仏性である一とは言うものの、
承句を吟ずる一休の心中には、微かな後めたさが有ったのではなかろうか。

くま訳
病中 二首 2/2
誰からも手紙が来ないのである。
小艶詩の作詞に日用の工夫を凝らす虚しい日常である。
淫色の吟を詠む頭は雪のようにな白髪になってもうたのだ。
目前の雑草のように、煩悩もありのままだ。

*双魚:遠来の客が置いていった2匹の鯉 (こい) の腹中に手紙があったという「古楽府 (こがふ) 」  
 の故事から、手紙のこと。https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/946 参

*くま質問
因果はあると説きつつ、ありのままの煩悩=ありのままも自分を観察して詩に詠む修行法を説いているので
ありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

670鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/03(火) 23:15:26 ID:1d4drIFg0
↑ 淫色に囚われていれば修業もままならんということじゃな。
 異性に気を取られているうちに白髪のじじいになってしまうぞというのじや。
 
そんな感じなのじゃ。

 
 美膳に誰が一双魚を具えてくれるのじゃろうか。
 小艶の工夫も日用には虚しいものじゃ。
 淫色を吟ずるうちに頭は雲がかかったようじゃ。
 目の前の荒草も末だ鋤をくわえていないのにのう。

671避難民のマジレスさん:2021/08/03(火) 23:58:33 ID:t.qNfAT20
489
言外和尚    ごん外和尚
端無滅卻大燈家 端無く滅卻す大燈の家
鐵眼銅晴劍樹牙 鉄眼銅ぜい劍樹のげ
一句分明言外語 一句分明言外の語
親聞華叟若曇華 親しく聞く華叟はどんげのごとしと

くま訳
言外和尚    言外宗忠和尚   
はからずも、(養叟が法を継いだことにより)大燈禪の家風を滅却してしまったが、
優れた眼力、鋭い舌鋒を備えており、
言外和尚の言葉は、一言一言が明快であった。
親しく知る人に聞くところによると、華叟のことを、三千年に一度、仏の出現するときなどに開くといわれ
る伝説の花、曇華のようだと評価していたそうだ。

*言外和尚:言外宗忠(ごんがい そうちゅう):1305-1390徹翁義亨(てっとう-ぎこう)の法嗣。華叟の 
 師匠。大徳寺7世住持。のち尼崎に広徳寺をひらいた。
*1422(応永29)一休さん29歳、言外宗忠の33回忌に一休は粗末な着物をまとって参列する。この頃より
 風狂と言われ始める。
*華叟 宗曇(かそう そうどん)1352-1428 8歳にして大徳寺の徹翁義亨に投じ、14歳で出家。のち徳禅 
 寺の言外宗忠に参じ、印可を得る。近江堅田に祥瑞寺をひらき、住持した。門弟にはのちに大徳寺派の主 
 流派となる一休宗純や養叟宗頤など。
*端無(はしなく):① 思いがけなく、偶然であるさまを表わす語。はからず。ふと。ゆくりなく。
 ② そのまま。ただちに。
*曇華一現(どんげいちげん):めったに起こらないはずのことが身に起きたときの喜び。心配事が突然解 
 決したときのうれしさ。
 雲間が一瞬晴れたときに、花の色がパッと目に入ってくる喜びの意から。「曇華」は、三千年に一度、仏 
 の出現するときなどに開くといわれる伝説の花。「曇華どんげ一ひとたび現げんずるが如ごとし」の略。
*うむ。大應、大燈、言外、華叟、と清貧の中で受け継がれてきた禅風を、養叟がぶち壊したと、許さんぞ 
 と、発信し続ける一休さんでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

672鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/04(水) 23:15:51 ID:1d4drIFg0
だいたいそんな感じじゃな。

 言外和尚だというのじゃ。

 大燈家の禅で心身を余すところ無く滅却したのじゃ。
 鉄の眼、銅の瞳、剣の樹のような口なのじゃ。
 ただ一つの句で言外の語まで分明にできたのじゃ。
 親しく聞くところによれば師匠の華叟和尚を三千年に一度に咲く優曇華の花のようじゃと言ったのじゃ。

673避難民のマジレスさん:2021/08/04(水) 23:38:54 ID:NGSYiiHI0
くま訳改
第一句:大燈家の禅で心身を余すところ無く滅却したのだ。れた眼力、鋭い舌鋒を備えており、

490

馬祖不安閑話頭 馬祖不安の閑話頭
毘耶杜語不勝愁 びや語をとぢて愁ひにたえず
夜夜苦吟三十歳 夜夜苦吟す三十歳
月滿茂陵桂樹秋 月は滿つ茂陵桂樹の秋

くま訳

馬祖が病気になった際の公案
毘耶に住まわれていた 維摩居士が不二の法門に付き問われた時に黙したことは、残念でならない。
毎夜、苦労して詩をひねり出す三十歳
月は満ちて、司馬相如が糖尿病療養のために住んだ茂陵から、中秋の名月には桂樹が見えのだろうか?

*馬祖道一(ばそ どういつ)709-788唐代の禅僧。諡は大寂禅師。
*馬祖不安 『碧巌録』第三則
 日面仏月面仏         にちめんぶつがちめんぶつ  
 擧。馬大師不安。       こす、馬大師だ不安。
 院主問。和尚。近日尊候如何。 院じゅ問う、和尚、近日尊候いかん。
 大師云。日面佛月面佛。    大師云わく、にち面仏がち面仏

 不安:病気になること
 院主:寺務を主宰する役
 日面仏:賢却(けんごう)千仏(現世において出世される千人の仏さまたち)の第五十八仏で、千八百 
 歳という寿命の長い仏さん。
 月面仏:賢却千仏の第二百二仏に当たり、一日一夜という寿命の短い仏さま。
  
 馬祖は千八百歳まで生きる仏さまもあれば、一日一夜の仏さまもあるではないか、病気など気にするな、 
 「生きるもよし、死ぬるもよし」と、言いきった。
*毘耶(びや):古代インドのの首都。釈迦は民衆教化のために、たびたびこの地を訪れ、在家の仏弟子で 
 ある維摩詰もこの地に住んだ。また釈迦の滅後に、この地で第二回の仏典結集が行われた。
*杜:とじる、ふさぐ
*維摩一黙:ことばで説明するより、黙っていたほうがよい、ということのたとえ。
 維摩経の「入不二法門品」 『維摩が、不二の法門に入るとは、どのようなことであるかを菩薩たちに質
 問をしました。 菩薩たちは、「善と悪は不二」、「生と滅は不二」、「汚れと清らかさは不二」などと
 次々に答え、最後に、文殊菩薩が、「不二とは言葉では説明ができないことである」と説きました。そし 
 て、文殊菩薩は、維摩に「不二の法門に入るとは、どのような ことですか」と質問しましたが、維摩は、 
黙ったまま、ひとこともしゃべらなかった。』というお話しのようです。 仏教で説く法は、言葉で説明
 ができないということを、維摩という在家の信者が、言葉を使わず態度で示した ということと思います。 
昔からこの場面を、「維摩の一黙、雷の如し(らいのごとし)= ”維摩の黙ったようすは、まるで雷の 
 響きがあたり一面にいきわたるようだ”」と、たとえられてきたようです。 つまり、それだけ、「維摩 
 の一黙」には、大きなちからがある、ということかと思います。
*茂陵(もりょう):司馬相如、病渇を養ふために家居せし處なり。(漢の武帝の陵墓)
(´・(ェ)・`)つ

674避難民のマジレスさん:2021/08/04(水) 23:42:38 ID:NGSYiiHI0
*桂樹:月に生えているとされる想像上の木。

*おまけ1.馬祖道一(ばそ どういつ)709-788唐代の禅僧。諡は大寂禅師。 
 懐譲の法を嗣いだ。百丈懐海や南泉普願など嗣法の弟子は、それぞれが数多くの語録を残すので、後の禅 
 宗に語録を重視する傾向をもたらし、やがてそれは公案を重視する臨済宗へと発展していった。
 馬祖は、後世の禅僧の名に見られる道号などとは異なり、道一の俗姓である馬氏によるもの。そのニュア 
 ンスを日本語化すれば、「馬おじさん」や「馬家の師匠」と呼んでいるのと同じこととなる。柳田聖山が 
 「純禅」と称する初期の禅宗徒の気風の一端を表すものである。
 また、馬祖の生家は箕(み)を作っていたが、開悟の後、名声を得て故郷に里帰りした所、近所の老婆に、 
「なんだ、偉い坊さんが来たと思ったら、箕の屋の小せがれではないか」と言われ、それきり、故郷に帰 
 らなかったというエピソードがある。
 思想:馬祖禅とも呼ばれるその禅思想では、禅宗で初めて経典や観心によらずに日常生活の中に悟りがあ 
 る大機大用の禅を説き、「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)、「即心即仏」など一言で悟りを
 表す数多くの名言を残している。また、相手に合わせて教え方を変える対機説法を始め、これによって多
 彩な弟子を育て、遂には禅の正系の座を荷沢宗より奪ってしまった。
*おまけ2.維摩居士(Wikipedia)解説: 維摩詰が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧 
 めたが、舎利弗や目連、大迦葉など・・は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。・・ 
 そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた。
 そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、 
 維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じな 
 がら、それに捉われなければ仏道に通達できる」ということを意味している。
 大乗経典、特にこの維摩経では、このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用され 
 た。一休宗純などはその典型的な例であると考えられる。
(´・(ェ)・`)b

675鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/05(木) 23:51:44 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 またまた病なのじゃ。

 馬祖の病の公案なのじゃ。
 毘耶で後を閉ざすは愁いに勝てないのじゃ。
 夜夜苦吟すること三十年なのじゃ。
 月満ちるは茂陵の桂樹の秋なのじゃ。

676避難民のマジレスさん:2021/08/05(木) 23:59:57 ID:sK2H.r2w0
491 
泉涌寺僧行捧  泉にゅう寺の僧捧を行ず
八稜八尺倚長天 八稜八尺長天による
拈起向秋山面前 ねん起して秋ざんが面前に向ふ 
衲子當機拱手處 衲子當機に当たって手をこまねくところ
洞山三頓徳山捧 洞山の三とん徳山の捧

くま訳
泉涌寺の僧は棒を振るって修行するのである 
八稜(八咫鏡(やたのかがみ))八尺(八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま))倚長天(天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))三種の神器(伝統)みたいなものである。
棒をを立てて、秋山の上賀茂神社の面前に向うのである
他が手をこまねいてる場面でも、禅僧は、臨機に対応するのだ。
洞山は雲門に三頓六十棒くらい、徳山は常に棒で打って指導したのである

*泉涌寺僧;泉涌寺雲龍院の後小松天皇廟を訪れて詠んだ詩には、「庭前に王孫草のあることを知り」とあって、
 一休が王孫であるかのような思わせぶりを書いている。
*一人行棒 ひとりぎょうぼう 
 一人行喝 ひとりぎょうかつ
 総不親  すべてしたしからず

 座禅のとき、修行僧を励ますために警策(きょうさく)という棒を使う、
 または喝と大声をかける。
 どちらがよりよい教えなのかを決めつけることはできません。"

*三種の神器、日本神話において、天孫降臨の際にアマテラス(天照大神)がニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸 
 命)に授けた三種類の宝器であるところの鏡と剣と玉(璽)、すなわち、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢 
 雲剣(あめのむらくものつるぎ、別名:草薙剣、読み:くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのま 
 がたま)の総称である。 八稜八尺倚長天をこれに当てはめてみた。これで良いのか不明であります。
 八稜・・・八咫鏡(やたのかがみ)
 八尺・・・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)   
 倚長天・・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)

*拈起:採り上げて起てること。上堂や小参を行う場合の師家の動作を示す。
*洞山三頓の棒という公案:洞山守初が、師の雲門分堰から「どこから来たか、どこで過ごしたか」などと 
 問われたので、これまでの行脚のあとをこまごま答えると、雲門は「このうつけ者が。三頓の棒をくれて 
 やるところだが勘弁してやる、即刻立ち去れ。」と叱らはった。何がなんだか分からない洞山は、再び雲 
 門に参じ、自分の答えのどこが悪かったのかを問いなおすと、またもや大声で叱りつけられはった。けど 
 その瞬間、洞山は師が何を求めようとされていたのかが分かり、初めて悟ることが出来たというのです。
 そして、悟りというものは師や周りからもらえるものではなくて、自分への問いかけの中から見つけ出し 
 つかむもの。そのためには、心の中のこだわりを一切捨て切り、爽やかな心に立ち返りなさい、それが分 
 からない者は棒で叩くよりない、というのがこの公案の教えるところやということです。
*秋山:地名か?:京上賀茂・秋山・
 上賀茂神社:神話の時代から続く京都で最も古い神社のひとつ。ご祭神は、神武天皇の御代に賀茂山のふ 
 もとに降臨したといわれている賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)
(´・(ェ)・`)つ

677避難民のマジレスさん:2021/08/06(金) 00:07:50 ID:sK2H.r2w0
くま質問
「馬祖の病の公案」
「毘耶で後を閉ざすは愁いに勝てない」
とは、どういう意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

678鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/06(金) 23:46:07 ID:1d4drIFg0
 間違えたのじゃ。
 後ではなく、語を閉ざすのじゃな。
 口を閉ざすのでは愁いに勝てないのじゃ。
 その後にわしは三十年苦吟してきたのじゃというのじゃ。
 黙っていてはわからんから何か言えというのじゃな。

679鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/06(金) 23:57:05 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 泉涌寺の僧は捧を使って修業なのじゃ。

 棒は八稜八尺倚長天の神器に匹敵する僧にとっての宝なのじゃ。
 棒を捧げて秋山の面前に向かうのじゃ。
 僧が機に当たって手をこまねくような場面でも、
 洞山は三頓の棒を食らい、徳山も捧をふるうのじゃ。

680避難民のマジレスさん:2021/08/06(金) 23:59:35 ID:8qJr3Mus0
「お」から始まる法語である.去年の6月末ころ載せるべきであったが、失念したのである。
577
示會裡徒法語          ゑ裡の徒に示す法語
凡参禪學道           およそ参禪学道は   
須勦絶悪知悪覚         須らく悪知悪覚をさう絶して  
而至正知正見也 而して正知正見に至るべきなり
悪知悪覚者 悪知悪覚なるもの
古則話頭経論要文 古則話頭経論要もん
学徳参得坐禅観法労而無功者 学徳参得坐禅観法労して而して功無き者なり
如是輩當代四百四病一時發 かくのごときともがら当代し百し病を一時に発す
爲人所辱是情識之血氣也   人の為に辱めらるる是れ情識の血氣なり
對閻老面前有甚伎倆乎    閻老面前に対して、なんの伎倆かあらんや
獅子尊者斷頭白乳顯露分明也    獅子尊者かうべを断ってびゃく乳けい露分明なり
正知正見者日用坐斷涅槃堂底工夫  正知正見なる者の日用涅槃堂に坐断する底の工夫
全身堕在火坑 全身火坑に堕在す
子細看之苦中有樂 子細に之を看れば苦中に樂有り、
若能見得不昧撥無因果之境 若し能く見得せば、発無因果の境にくらまず。
若見不得永不成成佛漢 若し見不得なれば、永く成佛の漢ならず
可懼可懼 おそるべしおそるべし

くま訳
我が弟子達に示す法語
およそ、仏道修行をする者は
悪智恵や悪い記憶を根絶して 
正しい智恵と正しい物事の見方を身につけねばならない。
悪智恵や悪い記憶を持つものは、
古則・公案や 経論の中の重要な文句に取組んで、学問と徳行を実践したり、
参禅して真理を体得する為、坐禅を組んで、心中に悟道を黙想しても、
苦労ばかりで効果がないのである。
このような者は、今この時に、あらゆる病気に一時に罹ったような者である
他者から辱めを受けていると感じるのは、迷いの心がそう思わせるのである   
閻魔様の面前に出たときに、どんな技量が役立つというのだ
西天(インド)二十四祖の師子尊者は既に生死を離れていたので王により首を切り落とされるに際しても命を惜
しまなかったが、王は勢いよく噴出した白乳により右ひじを切り落とされたという故事が明らかに示してい
る。

正しい智恵と正しい物事の見方を身につけたものは、常日ごろから、死を目前にした者のような覚悟で悟り
を得るために工夫を凝らすのである。
全身が地獄の火の穴にいるような煩悩の苦しみに苛まれたままに留まるのである。 
詳細にこれを観察すれば、その苦しみの中に楽があることを発見できるのである。
もし発見することができれば、因果は無いとする考えに陥って、惑わされる事もないのだ。
もし発見することができなければ、永く成仏できなくなるのである。
恐ろしいことである。怖ろしいことである。

*勦絶(そうぜつ):滅ぼしつくすこと。皆殺しにすること。勦滅(そうめつ)。
*話頭:古則・公案の一節。または、その一則のこと。
*要文:経論などの中の重要な文句。また、文章の大切なところ。
*学徳:学問と徳行 *参得:参禅して真理を体得すること。
*坐禅観法:坐禅を組んで、心中に悟道を黙想すること
*労而無功者:苦労ばかりで効果がない。
*四百四病:人間がかかる一切の病気の総称。人間の体を構成する地・水・火・風の四つの元素の不調によ
り、一々の元素に百一の病がおこり、合わせて四百四と数えるものが代表的。
*情識:心。迷いの心。
*血気:1 血液と気力。生命を維持発展させる力。活力。2 向こう見ずで盛んな意気。客気。血の気(け)。
*火坑:火の燃えている穴。特に地獄にある火の穴。また、煩悩の恐ろしさを火にたとえてもいう。かこう。
(´・(ェ)・`)つ

681避難民のマジレスさん:2021/08/07(土) 00:02:13 ID:8qJr3Mus0
*おまけ
二十四祖師子比丘尊者(續藏經 祖庭指南  清 徐昌治編述 中国語HPより)
中印度人。姓婆羅門。得法遊方。至罽賓國。・・・時本國有外道二人。一名摩目多。二名都落遮。學諸幻法。
欲共謀亂。詭為釋子。潛入王宮。其王彌羅崛遂滅毀釋教。秉劍至尊者所。問曰。師得蘊空否。祖曰。已得蘊
空。王曰。離生死否。祖曰。已離生死。王曰既離生死。可施我頭。祖曰。身非我有。何怯於頭。王即揮刃斷
尊者首。白乳涌高數尺。王之右臂。旋亦墮地。七日而終。・・・

師子尊者の話(瑞雲院法話のページ HP出典「景徳伝灯録巻第二。第二十四祖師子比丘」)
西天二十四祖の師子尊者は、中インドの婆羅門の家に生まれ、二十三祖の鶴勒那(かくろくな)尊の法を嗣
いだ。その後、諸方を遊行してカシミール国に至り、その地で多くの人々を教え導いたので遠近に名が知れ
渡った。
・・・そのときその国に様々な幻法を学んだ二人の外道がいた。その二人は乱を起こすことを計画し、失敗
したら仏子に罪を着せようと偽りの仏衣をまとい、ひそかに王宮に潜入し悪事をおこなった。しかし災いは
自らに還りことは失敗した。ところが偽りの仏衣に欺かれた王は怒って言った。「我れ心を仏法僧の三宝に
帰依するに、何ゆえこのような害を及ぼすのか」王は命じてすぐに寺を破壊し、僧を追放し、そして自ら剣
を取り尊者のところに来て言った。「師、存在の空なることを得たるや否や」「空なることを得たり」「生
死を離れたるや否や」「すでに生死を離れたり」「すでに生死を離るれば、我れに頭を施すべし」「身は我
が有に非ず。何ぞ頭を惜しまん」王はたちまち剣を振るって尊者の首を断った。すると白乳の湧くこと高さ
数尺におよび、同時に王の右肘も地に落ち、七日後に王は亡くなった。
(´・(ェ)・`)b

682避難民のマジレスさん:2021/08/07(土) 00:11:11 ID:8qJr3Mus0
>>676
くま訳改
第三句;僧が機に当たって手をこまねくような場面でも、
第四句:洞山は三頓の棒を食らい、徳山も捧をふるったのだ。
(´・(ェ)・`)b

683鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/07(土) 23:47:19 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 会の衆に示す法語なのじゃ。

 凡そ参禅学道の者は
 すべからく悪知、悪覚を断つべきなのじゃ。
 そして正知、正見に至るべきなのじゃ。
 悪知、悪覚なる者は
 古則や公案や経論や要文を学び
 座禅や観法に労しても功が無い者なのじゃ。
 このような輩が今四百四の病を一時に発し、
 人のために辱められるはこれ情識の血気のせいなのじゃ。
 死んで閻魔王の面前で何の技が通用するというのか。
 獅子尊者は頭を断たれても首から白乳現れ奇跡によって成果が分明なのじゃ。
 正知正見者は日用の涅槃堂に坐断する心底の工夫は、
 例えば全身が火の坑に堕ちて在ろうとも、
 仔細に観察すれば苦の中にも楽があると気づくというようなものじゃ。
 もしそのような工夫を能く見得すれば因果が無いというような魔境にくらまされないのじゃ。
 もし見えないならば、永く成仏のものにはなれないのじゃ。
 おそるべしおそるべしなのじゃ。

684避難民のマジレスさん:2021/08/07(土) 23:59:25 ID:4YRIQTTc0
492
食籍      じき籍
飯縁食籍聊茶湯 飯縁食籍いささかさとう
竹縛菊籬梅補墻 竹は菊りをばくし梅かきを補ふ
人間世諦盡餓死 人間の世たいことごとく餓死
地獄遠離安樂長 地獄をん離して安樂長し "

くま訳
食籍
食にあり付くご縁、生涯で何を食べてきたかの履歴、多少の茶の湯
竹は菊のまがきを縛り、梅のかきねを補う。(竹は仏縁の譬えでありましょうか?)
人間は、餓死するのがほとんどであるというのが常識である。
地獄を遠ざけて、安楽に長生きするのである。(うむ。でそのために、諸悪莫作 衆善奉行 でありますね。)

*食籍:中国語・生涯で各人が消費した食べ物を記録する冥界の迷信伝説の本を意味
*茶湯(チャトウ・さとう)仏前や霊前に供える煎茶湯。禅家では忌日などに仏前に供える茶と湯をいう"
*籬(り・まがき):竹・柴(しば)などをあらく編んで作った垣。ませがき。
*墻(かき):壁・へい・かき・かきねな"
*世諦:① 世間一般の常識または約束で真実とされるもの。世間の人が知っている事柄。世俗諦。② 仏事 
 のための費用。"
*遠離(おんり・えんり):① 遠く離れること。また、遠くへ離すこと。② 仏語。あらゆる煩悩(ぼんの
 う)のきずなから解放されたさとりの境界である無為をいう。〔維摩経〕
(´・(ェ)・`)つ

685避難民のマジレスさん:2021/08/08(日) 11:49:14 ID:eGHIm0Xk0
くま訳改
9行目:このような輩が今四百四の病を一時に発し、
10行目:人のために辱められるはこれ情識の血気のせいなのだ。
(´・(ェ)・`)b

686鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/08(日) 22:57:12 ID:1d4drIFg0
 そんな感じじゃな。

 食籍なのじゃ。

 飯縁食籍あればいささかでも茶湯にして仏に供養すると善いのじゃ。
 竹も菊籬を縛り、梅も垣根を補うように食籍を役立てるのじゃ。
 そうすれば人が悉く餓死することになろうと
 地獄を遠離して長く安楽でいられるのじゃ。

687避難民のマジレスさん:2021/08/09(月) 00:05:56 ID:sKKZB2ek0
 くま訳全面改
 食籍
 飯縁食籍あればいささかでも茶湯にして仏に供養すると善いのだ。
 竹も菊籬を縛り、梅も垣根を補うように食籍を役立てるのだ。
 そうすれば人が悉く餓死することになろうと
 地獄を遠離して長く安楽でいられるのだ。

493
南園殘菊 南園殘ぎく
晩菊東籬衰色秋 晩ぎく東籬衰しょくの秋
南山且對意悠悠 南山且つ對して意悠悠
三要三玄都下識 三要三玄すべてしらず
淵明吟興我風流 淵明が吟興我が風流

くま訳
南園の殘菊
東側のまがきの菊も色衰える晩秋
その時も南山を眺める心はゆったりとしている。 
玄妙な真理の仕組みを全く知らなくても、
陶淵明の詩情を我が事としてその風流を味わうことはできるのだ。

*南園殘菊:陶淵明の詩に「菊を東籬の下に採り、悠然として「南山を見る」と(大成脚注)
 俗世間から離れ、心にもの思うこともなく、自然を楽しんで生きる心境を現すことば。
 [由来] 陶淵明の「飲酒」という詩の一節から。勤めを辞めて故郷に帰り、自然と一体になって暮らす心 
 境を、「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る(東の垣根のところで菊の花を折り取り、ゆったりと
 した気持ちで南方に見える山を眺め見る)」とうたった。

*おまけ1「飲酒」 其の五、陶淵明           
 結廬在人境 いおりを結んでじんきょうにあり
 而無車馬喧 しかも 車馬の かまびすしきなし
 問君何能爾 君に問う 何ぞ よく しかるや と
 心遠地自偏 心遠ければ 地 おのずから へんなり
 采菊東籬下 菊をとる とうりのもと
 悠然見南山 ゆうぜんとして南山を見る
 山気日夕佳 さんき にっせきに よく
 飛鳥相与還 ひちょう あいともに かえる
 此中有真意 このうちに真意あり
 欲弁已忘言 べんぜんと欲すれば すでに げんをわする
 
  藤原鎌足公 孫 45代 先生訳
 私は隠居の庵を人の住んでいる所で営んでいる(普通は人里離れた所だが)。
 しかし、訪問客の乗り物である車馬の音が騒々しい事はない。
 どうしてそんなことができるのか、と貴方に問う(自問自答)
 「心を遠い境地(超然とした心情)に馳せていれば、住んでる場所も自然と辺鄙になるのだよ」と。
 東側のまがきのもとで菊を摘み
 心 ゆったりとして南山をながめる。
 山の気配は 日暮れ時こそ すばらしい
 鳥たちも群れになって 山のねぐらに帰ってゆく。
 こう言う生活、こんな自然の風景の中にこそ 人生の真意が込められている
 この素晴らしさを言葉で言い表わそうとしても 言うべき言葉を忘れてしまった。
 (実に 何とも言えない満ち足りた心境なのだ)
(´・(ェ)・`)つ

688避難民のマジレスさん:2021/08/09(月) 00:11:32 ID:sKKZB2ek0
おまけ2「臨済三句」「三玄三要」(臨済録 上堂9)
 上堂。
 (臨済の三句)
 僧問:「如何是第一句?」          僧問う、「如何なるか是れ第一句」と。
 師云:「三要印開朱点側,未容擬議主賓分」。 師云く、「三要印開して朱点側(そばだ)つ、未だ擬議を                     
                       容れずして主賓分かつ」と。
 問:「如何是第二句?」           問う、「如何なるか是れ第二句」と。
 師云:「妙解豈容無著問,沤和争負截流機」。 師云く、「妙解(みょうげ)豈に無着(むじゃく)の問を容
                       れんや、沤(オウ)和争(いか)でか截流(せつる)の機に負
                       (そむ)かん」と。
 問:「如何是第三句?」           問う、「如何なるか是れ第三句」と。
 師云:「看取棚頭弄傀儡,抽牽都来裏有人」。 師云く、「棚頭(ほうとう)に傀儡を弄するを看取せよ、 
                       抽牽(ちゅうけん)都来(すべ)て裏に人有り」と。
 (三玄三要)
 師又云:「一句語須具三玄門,        師又云わく、「一句語に須らく三玄門を具すべく、
 一玄門須具三要,有権有用。         一玄門に須らく三要を具すべくして、権有り用有り。
 汝等諸人,作麼生会?」下座。        汝等諸人、作麼生(そもさん)か会す」といって下座す。
             
禪と悟りhpより抜粋① 
     
注:
印開する:印章を押す。
朱点(しゅてん)側(そばだ)つ:赤い色模様がくっきり出てくる。
主賓分かる:主体と客体に分離する。
妙解(みょうげ):文殊菩薩の悟りの智慧。
無著(むじゃく):五台山に現れた文殊菩薩と問答したという
華厳寺無著(「宋高僧伝」二十)のこと。
?和(おうわ):梵語ウパーヤの訳。仮に応用する方便。
棚頭(ほうとう):舞台。
抽牽(ちゅうけん):引くこと。
三玄門:古来、玄中玄(理)、句中玄(智)、体中玄(行)などの
3つに分けられているが具体的内容は不明である。
権有り用有り:権は方便のことで実に対する言葉である。
用は作用や働きのこと。

現代語訳
上堂するとある僧が尋ねた、
「師は三句をもって修行者を指導されるとのことですが、禅の第一句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「それを印章に譬えて言うと、三要(さんよう) の印を押してから持ち上げると、赤い色模様がくっきり出
てくる。そのように憶測を入れる余地もなくはっきりと主・客が分離して顕現する」。
僧が質問した、
「では第二句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「文殊菩薩の悟りの智慧は無著(むじゃく)の問いを寄せ付ける余地も無い。その智慧の力は煩悩の流れを断
ち切る働きをする」。
僧が質問した、
「では第三句とはどのようなものですか?」
師は云った、
「舞台であやつり人形がいろいろ演技する。それはみな裏であやつる人がいるからだとはっきりと見取るが良い」。
師はさらに、
「いま三句を説明したが、この三句の内どの一句にも三玄門が具(そな)わっていなければならない。一玄門
には三要が具(そな)わっていなければならない。そうなれば方便も働きも出てくるのだ。諸君、そこをどの
ように会得したかな?」と言って座を下りた。

(´・(ェ)・`)b
(1/3)

689避難民のマジレスさん:2021/08/09(月) 00:24:25 ID:sKKZB2ek0
禪と悟りhpより抜粋② 三玄門の解釈とコメント①
この上堂説法は臨済の「三玄三要」の思想とされる。
古来、三玄門は玄中玄(理)、句中玄(智)、体中玄(行)などに分けられるとされる。・・・
第一句から第三句までの説明は論理的で筋が通ったものである。・・・
  第一句とは
「それを印章に譬えて言うと、三要の印を押してから持ち上げると、赤い色模様がくっきり出てくる。
そのように憶測を入れる余地もなくはっきりと主・客が分離して顕現する」と説明している。
この三要の印や朱点とは何を指しているかわからない。
しかし、印鑑を押してから持ち上げると印がはっきりと現れるように、脳の記憶作用や判断・認識作用を指
していると思われる。
最後の「主賓分かる」も主・客が分離する、分別意識(=理知)の働きを言っていると考えられる。
そのように考えると、
第一句は分別智(理知の本体である上層脳の働き)を禅の立場から比喩的に説明していると思われる。
  第二句の説明で臨済は、「文殊菩薩の玄妙な智慧は無著(むじゃく)の問いを寄せ付ける余地も無い。
その智慧の方便は無明の流れを断ち切る働きをする」と言っている。
第二句のキーポイントは
妙解(みょうげ)(文殊菩薩の玄妙な智慧)と無著(むじゃく)の問いにある。
妙解(みょうげ)(文殊菩薩の玄妙な智慧)とは仏教の悟りの知恵である無分別智(下層脳中心の脳から生ま
れる悟りの智慧)を指していると考えることができる。
これに関連すると思われる文殊菩薩と無著(むじゃく)の問答が碧巌録第35則にある。
そこでは無著は文殊の問いに対してトンチンカンな返答をする未熟な禅僧として描かれている(「碧巌録」
第35則を参照)。
これより無著(むじゃく)の問いとは文殊の無分別智には及ばない、分別智(理知=第一句)の段階にある
無著(むじゃく)の境地を指していると考えることができる。
そのように考えると、第二句は「文殊菩薩の無分別智(玄妙な悟りの智慧)は無著(むじゃく)の分別智を寄
せ付ける余地も無い。
文殊菩薩の智慧の方便(=無分別智)は煩悩の流れを断ち切る」と言って禅の基本的立場を説明しているこ
とが分かる。
即ち第二句は無分別智(=玄妙な悟りの智慧)を指していると考えることができる。
  第三句は「舞台であやつり人形がいろいろ演技する。それはみな裏であやつる人がいるからだとはっき
りと見取るが良い」である。これは人間をあやつり人形に譬えて説明している。
人間はあやつり人形のような存在であり、舞台裏でそれを操る人(無位真人=脳)を看取せよと言っている
のである。あやつり人形とは肉体であり、舞台裏でそれを操る人とは脳や無位真人と考えて良いだろう。
そのように考えれば第一句は分別智(上層脳中心の理知)、第二句は無分別智(下層脳中心の智慧)、第三
句は脳全体(上層脳+下層脳)について言っていると考えることができる。
このように考えると、臨済の言っている「三玄三要」とは、
①分別智(上層脳)、
②無分別智(下層脳中心の脳から生まれる悟りの智慧)
と③それを一つにした全脳(上層脳+下層脳)
の三つの法門のことだと考えることができる。

(´・(ェ)・`)b
(2/3)

690避難民のマジレスさん:2021/08/09(月) 00:30:19 ID:sKKZB2ek0
禪と悟りhpより抜粋③ 三玄門の解釈とコメント② 
三玄三要
「三玄三要」は分別智(上層脳)、無分別智と全脳の三法門のこと
臨済は「禅は常にこれらの三つの玄妙な法門(脳に関する法門)に関係している」。
従って禅を説く時は
「常に脳に関係した三つの玄妙な法門について説かなければならない」
と言っていることが分かる。
・・・
この上堂説法で注目されるのは第一句である。
第一句は分別智(上層脳=知性)を意味している。普通、禅や仏教では無分別智(下層脳中心の脳)を重視
するあまり分別智(理知、理屈)を軽視しがちである。
しかし、この上堂説法では分別智を軽視していない。臨済禅では公案と問答を通して禅と悟りの世界を何と
か表現しようとする伝統がある。
これは臨済宗の開祖臨済の分別智(上層脳=知性)をゆるがせにしない姿勢に起因しているといえるかも知
れない。
臨済の分別智(上層脳から生まれる智慧=理知)重視の姿勢は「示衆4-2」や「示衆5-2」に見られる
「真正の見解」重視の姿勢に通じ、注目されるところである。

*おまけ3
『碧巌録』にみる麻三斤 (禅の視点 - life - hp)
ある時、1人の僧が守初禅師に質問をした。「仏とは何でしょうか」
守初禅師は答えた。「三斤の麻」以上。おしまい。これだけ。
……
三斤の麻とは
斤というのは重さの単位で、三斤あれば僧侶の衣を一着仕立てることができるという。
守初禅師の暮らしていた湖北省の襄州地方は麻の産地として有名だったというから、守初禅師にとっても麻
はとても身近なものであったと思われる。・・・・

古来、禅の問答においてもっともポピュラーな問いは「仏とは何か」であるが、・・・
仏とは何かと問われて、「三斤の麻」と答えた守初禅師。
しかし三斤の麻が仏なのではない。
強いて言うなら、三斤の麻を仏と捉える守初禅師の心こそ仏と言うべきだろう。
修行をして悟りやら仏を目指すといっても、悟りやら仏やらに執着すればもうそれは立派な煩悩である。
概念としての悟りや仏に捉われるのは執着であり、その執着から離れれば木も石も水も雲もただありのまま
の存在に感じる。・・・
仏は仏であり、仏でない。特別なものなど何もない。あらゆるものは、ただそのもの。そうした心から世界
を眺めれば、石と仏に差などない。
比べる心で見てしまえば石と仏は別物かもしれないが、比べなければあらゆる存在は「ただの存在」である。
ただの存在だから尊いのである。
そうした「ありのまま」の姿を捉える心こそ、仏といえるのではないか。
言葉の字面と睨めっこするのではなく、言葉の奥を深読みするのでもなく、言葉を発した守初禅師の心を想
う。・・・
(´・(ェ)・`)b
(3/3)

691鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/09(月) 23:36:57 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 南園の殘菊なのじゃ。

 東籬の晩秋の菊が衰色をしているのじゃ。
 南山かつ対して心は悠々なのじゃ。
 三要三玄など全てしらない、
 陶淵明も興にのって吟じるのが我が風流なのじゃ。

692避難民のマジレスさん:2021/08/10(火) 03:53:18 ID:sdUQpy3s0
494
四睡圖     四睡の図
凡聖同居何似生 凡聖同居何似生
披毛作佛也分明 披毛さ佛また分明
今宵極睡清風枕 今宵ごく睡清風のちん
空劫以來松無聲 空劫以來松に聲無し

くま訳
豊干・寒山・拾得 と虎が一緒に眠る絵
ある人が凡夫であり且つ聖人でもあるとは、はてどんな人でありましょうか。
獣になることと仏になることの違いは明らかでありまうしょう。
今宵深い眠りにつくのである、清風の枕(清々しい気持ちで眠れるのである)
無始無終の永遠の時の流れの中で、松に声はないのである。

*「四睡の図」https://1000ya.isis.ne.jp/1557.html
 豊干(ぶかん)禅師・寒山・拾得(三聖)が虎とともに眠る姿を描く。森羅万象の静寂を表したもので、悟 
 りの境地を示すとされている。
 豊干は奇行で知られる唐代の禅僧で、寺内を虎に乗って歩いたという。
 寒山と拾得は豊干の弟子で、同じく奇行で知られるが、それぞれ、文殊・普賢菩薩の化身と称せられる。
 ググッテみると、豊干・寒山・拾得 たいへん興味深い人たちでありました。
*寒山・https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>906
 寒山拾得(森鴎外)https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/679_15361.html
寒山拾得縁起(同)https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/43732_17109.html
*凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)
 凡夫と聖人が共に住する土のこと。智顗が諸経典に説かれている国土を四種に分類したうちの一。この土 
 にはさらに穢土と浄土の別がある。同居の穢土とは娑婆世界のように六道を具え不浄が満ちている世界の 
 ことであり、同居の浄土とは極楽世界のように人・天・二乗・菩薩・仏が共に住して、清浄な世界のこと 
 である。またこの土は三界の内にあるため界内という。
*披毛:けものになること。
 作仏:仏となること。最高の悟りを開くこと。
*空劫(くうこう)世界が全く壊滅して、次にまた新たに生成の時が始まるまでの長い空無の期間。
(´・(ェ)・`)つ

693鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/10(火) 23:13:09 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 四睡の図なのじゃ。

 凡人と聖人が同居しているのは何を持って生じるのか。
 獣になるのと仏になるのでは違うことは分明であるがのう。
 今宵は清風の枕で睡を極めるのじゃ。
 この世の初めの空劫以來、松に声は無いからのう。

694避難民のマジレスさん:2021/08/10(火) 23:29:55 ID:gkLEI3Co0
495
宗訢藏主製墨以爲業 そうきんざうすせいぼく以って業と為す
偈以送之      偈以って之を送る
萬杵霜花華頂天   ばんしょのさう花華頂の天
商量來不直多錢   商量し来たって多銭にあたらず
何須知藏書經巻   何ぞもちひん知蔵の経巻を書することを
小艶題詩衒少年   小艶詩を題して少年をてらはん

くま訳
宗訢藏主は製墨を生業としている 
偈を作って送るのである
多くの女達が打つ砧の音が響く天台宗総本山(比叡山)に来てから一年を経た。
師家と問答応酬してきたが、たいして得ることはなかった。 
知藏が經巻を書する必要はなかろう。 
小艶詩を作って、少年達に詩才をひけらかしてやろう

*宗訢藏主:笑嶺宗訢(しょうれい そうきん)1490-1568 戦国時代の僧。永禄元年大徳寺の住持
 一休さんの死後の生まれであります。もしかしたら、一休さんが宗訢と名乗っていたことがあり、それに 
 ちなんで命名されたのかもしれないと思い、ここでは宗訢=一休さんと解釈してみた。
*藏主:知藏に同じ、經藏を掌る役。(大成脚注)寺院内にある経典や論書を管理する僧である。最近では 
 「知蔵」という。なお、現在の図書館司書のような役割もあった。また、「看経」の時には、蔵主の許可 
 を要する。
*万杵千砧(ばんしょせんちん):きぬたを打つたくさんの女性。または、いろんなところから聞こえるきぬ 
 たの音。「万」と「千」は数が多いことのたとえ。「杵」はきぬたを打つための棒。「砧」は布を叩いて 
 柔らかくして、つやを出すための石や木の台。
*霜華・霜花(そうか):① 霜を花にたとえていう語。転じて、白髪。「生涯水急、鬢悴二霜華二毛之歳
 一」 〔白居易‐長恨歌〕② (秋の霜と春の花の意で) 一年間。一周年。※正法眼蔵(1231‐53)行持下 
「航海三載の霜華、その風雪いたましきのみならんや」
*華頂峰は昔、中国天台宗の開祖である智者大師が坐禅を組み、あらゆる誘惑と魔物と戦い悟りを開いたそうで 
 す。その華頂峰にある寺院が華頂寺です。
*商量:商も量も「はかる」という意味で、協議する、くらべはかる意になる。転じて師家と修行者との間 
 で問答応酬して人生の一大事を明らめること。
*衒う(テラウ):自分の学識・才能・行為などを誇って、言葉や行動にちらつかせる。ひけらかす。
(´・(ェ)・`)つ

695鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/11(水) 23:25:21 ID:1d4drIFg0
なんだかわからんが、そうきん藏主という者が墨を作って生業としているのに偈を送ったというのじゃ。

 萬の杵で霜花を作る華頂の天なのじゃ。
 商量しても多くの銭にはならんのじゃ。
 知藏の經巻を書くのにもちいるよりも、
 小艶詩を題して少年をてらうほうがよいのじゃ。

696避難民のマジレスさん:2021/08/11(水) 23:36:29 ID:yB/WV.lo0
496

忘却萬端詩末忘 万端を忘却して詩いまだ忘ぜず
半生半死涅槃堂 半生半死涅槃堂
黄泉路上此吟興 黄泉路上この吟興
閻老宮前後悔膓 閻老宮前後悔のはらわた

蔭木英雄先生訳
総てを忘れ果てても詩はまだ頭から離れぬ  
息も絶えだえの病室でも
死出の旅路でも此のように詩興がわく  
エンマ様の御殿で後悔することじゃろう

くま訳

全てのことを忘れても、詩のことだけは忘れることが無い。
半生半死の涅槃堂
黄泉の国への旅路でも、このように詩情が沸くのだ。
閻魔様の宮殿の前で後悔するでありましょう。

*膓:はらわた。①体内にある消化器官。②心。精神。「愁膓・熱膓」
(´・(ェ)・`)つ

697鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/12(木) 23:13:54 ID:1d4drIFg0
 それでよいのじゃ。

 頌なのじゃ。

 万端を忘れても詩は忘れていないのじゃ。
 半生半死の涅槃の堂でもなのじゃ。
 黄泉路の飢えでもこの詩を楽しんでいるのじゃ。
 閻魔の前で後悔するじゃろう。

698避難民のマジレスさん:2021/08/12(木) 23:56:58 ID:W9EPAI6c0

497
題淫坊 
美人雲雨愛河深 美人の雲雨あいが深く  
樓子老禅樓上吟 ろうし老禅樓上に吟ず  
我有抱持啑吻興 我にほうじそうふんの興有りて   
竟無火聚捨身心 遂にかじゅうしゃしんの心無し 

『雑学の世界』HP訳
いっしょに寝てくれた美人の愛は、まるで深い河のようにすばらしく、
私はうっとりとして、思わず楼上で歌をうたった。
私には抱擁とか接吻とかの楽しみがあって、
いまや命がけの求道心など全くない

くま訳
美人と深く愛し合う。
女郎と老僧が楼台で吟じる
わしは、抱擁接吻を楽しみたいのだ
結局、煩悩の火で焼かれるこの身を捨てる気はないのだ。
     
字義・補記(詩詞世界HP解説)
〇淫坊 淫売窟・女郎屋 〇美人雲雨愛河深 美女との情愛の愛慾は深く
〇雲雨 中国「巫山雨」の故事に基づく男女の交情をいう。
楚の襄王が巫山で夢に神女と契ったことをいう。神女は朝は巫山の雲となり夕べには雨になるという故事。
〇樓上 女郎屋 〇樓子(ろうし) 遊女 〇老師
一休のこと
〇竟無火聚捨身心 煩悩の身を捨てるという心は、起きなかった
〇捨身 仏教用語 仏門にはいること 出家
〇火聚(かじゅ) 仏教用語、煩悩の火に包まれている人間の譬(たとえ)
(´・(ェ)・`)つ

699鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/13(金) 23:16:30 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 淫坊とはエロ坊主なのじゃ。

 美人と雲雨は愛の河深く、
 遊女と坊主は女郎屋で詠うのじゃ。
 我に抱持、吸吻の楽しみあれば、
 ついに火聚に捨身しても悟りを求めようとする心は無いのじゃ。

700避難民のマジレスさん:2021/08/13(金) 23:40:26 ID:qfUSWflA0
498
美人得寵美人珎 美人寵を得るは美人のちん
珠玉青鞋脚下塵 珠玉せいあい、脚下のちり
秋満驪山宮樹月 秋は満つ、りさん宮樹の月
栄華可悔馬嵬春 栄華悔ゆべし、ばかいの春

『雑学の世界』HP訳
美人で寵愛されるのは、美人の中でも珍しい。
だが、その珠玉のような美人も、最後は草鞋(わらじ)を履いた脚の下の塵と消え果てるのだ。
今年の秋も驪山下、華清宮の樹に、月は光を投げかけているが、
栄華の喜びは必ず後悔せねばならない。美貌の楊貴妃もついに馬嵬に消えたのではないかという。

くま訳
美人であっても、寵愛を受けるのは稀なことであるのだ
珠玉の美人も、いずれ足の裏の塵として消え去るのである。
秋は満ちて、、驪山宮樹に月光が差す、
栄華は悔やしさを際立たせる、楊貴妃の馬嵬の春のように。

*驪宮(りきゅう):長安の東、驪山に建てられた華清宮。温泉が沸き、玄宗は毎年避寒のために、ここに滞
在した。楊貴妃との悲恋の物語で名高い。(長恨歌)
(´・(ェ)・`)つ

701鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/14(土) 23:22:24 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 美人でも寵愛を得る美人は珍しいのじゃ。
 珠玉も草鞋足の下の塵になるのじゃ。
 驪山宮樹の月に秋は満ちるのじゃ。
 栄華も悔いるしかない馬嵬の春なのじゃ。

702避難民のマジレスさん:2021/08/14(土) 23:34:36 ID:nE0syv4U0
499
寄大徳寺僧   大徳寺の僧に寄す
人多入得大燈門 人多く大燈の門ににっとくす
這裏誰捐師席尊 しゃり誰か師席の尊をすつる
淡飯麤茶我無客 淡飯粗茶我れにかく無し
醉歌獨倒濁醪樽 醉歌獨り倒すだくらうのそん

くま訳
大徳寺の僧に寄す 
多くの人が大燈の宗門に入ることができた
それにも拘らず、師の尊い教を棄ててしまったのは誰か。
粗茶しか出せぬのわしの所には客は来ない。
酔って歌い、一人でドブロクの樽を飲み干すのだ。

*這裏(シャリ):《「這」は「此」の意》このうち。この間
*淡飯(たんぱん):そまつな食事。粗食。※正法眼蔵 家常「家常の麤茶淡飯は、仏祖意句なり」
*濁醪(だくろう・どぶろく) 発酵させただけの、白く濁った酒。もろみ酒。にごりざけ。
(´・(ェ)・`)つ

703鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/15(日) 21:57:45 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 大徳寺の僧に寄すのじゃ。

 人が多く大燈門に得入するのじゃ。
 その中で誰が師席の尊敬を捨てるのじゃろうか。
 粗末な食事と粗茶の我に客は無いのじゃ。
 醉歌して一人にごり酒の樽を倒すのじゃ。

704避難民のマジレスさん:2021/08/15(日) 22:19:29 ID:D8lEVfyU0
くま訳改
第二句;その中で誰が師席の尊敬を捨てるであろうか。

500
山居僧
無人時喜客來嗔 人無き時は喜び客來たればいかる、 
落葉飛花獨覺身 落葉飛花独覚の身
正見禪師若行令 しゃう見の禪じ若し令を行ぜば
三冬枯木百花春 三冬枯木百花の

くま訳
山居僧
人が居ない時喜び、客が来ると怒る。
無常なこの世で独覚を目指す身であり、
正しい見解を持つ禅師が若し修行をすれば、
冬の真っ只中で花が咲くのである。

*飛華落葉:飛花落葉:絶えず移り変わるこの世の、無常なことのたとえ。春に咲く花も風に吹かれて散り、
 青葉もやがて枯れ落ちる意から。
*独覚:三乗の一つ。仏の教えによらないで自力で悟りをひらき、静かに孤独を楽しんで、利他のための説 
 法をしない聖者。縁覚。辟支仏(びゃくしぶつ)。
 縁覚(えんがく):おのれひとり悟ってよしとする孤高の覚者。教理的には十二因縁を観察して迷いを断ち 
 真実を悟る者をいう。師なくしてひとりで悟るので独覚ともいい,音写語では辟支仏 (びゃくしぶつ) 。 
 大乗からみれば部派仏教の徒。菩薩に対する。
*三冬枯木花(さんとうごぼくのはな):冬の真っ只中の枯れ木に花が咲くということの意味。三冬とは冬 
 の三ヶ月や三年ともいう。
(´・(ェ)・`)つ

705鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/16(月) 23:18:44 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 山に居る僧なのじゃ。

 無人の時は喜び、客が来るといかるのじゃ。
 落葉飛花一人悟りを得る身なのじゃ。
 正見の禅師もし修行を行えば
 三度の冬で枯れ木に百の花を咲かせるような悟りの春を迎えるじゃろう。

706避難民のマジレスさん:2021/08/16(月) 23:28:43 ID:1R1CKbVY0
501
冬至示衆    冬至じしゅう
獨閉門關不省方 独り門関を閉じて方を省せず  
這中誰是法中王 しゃ中たれか是法中の王
諸人若問冬來句 しょにん若しとうらいの句を問はば、
日自今朝一線長 日はこんちょうより一線長し

冬至を修行者に示す
独り感覚を閉じて、周囲を伺わない。
修行者にとって、これこそが修行法の王道である。
もし誰か、冬至について尋ねるものがあれば、
日は今日から少しづつ長くなるとこたえるのだ。

*これは悟りを得るための法を説いたものでありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

707鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/17(火) 23:15:32 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、冬至にかけてといているのじゃ。
 一人で門を閉じて修業するようにというのじゃ。

 そのような感じじゃな。

 冬至を衆に示すのじゃ。

 一人門を閉じて周囲を省みないのじゃ。
 これこそ誰にとっても法の中の王なのじゃ。
 もし人が冬至が来たか訊ねたならば、
 日は自ら今朝より一線ずつ短くなっていくことを告げるのじゃ。

708避難民のマジレスさん:2021/08/17(火) 23:37:27 ID:ts4ClNsk0
502
大惠宏智揖讓圖 大ゑわんしいう讓の図
眉毛相結眼睛同 眉毛相結んで眼睛同じ
兩箇老禪機境融 兩箇の老禪機境融ず
力士鐵槌子房策 力士の鐵槌子房がはかりごと
憤心在博浪沙中 憤心は博浪しゃ中に在り

くま訳
大慧宏智恭しい挨拶の図
面と向って見詰め合っているのである。
二人の老師は、お互いに力量を認め合っていたのだ。
(宏智は、)張良が力士を暗殺者として雇い、始皇帝の車列に重さ30キロのトンカチを投げつけたような作
戦を実施したのである。
始皇帝の(ような大慧の)怒りの原因は、博浪沙でのこの一件にあるのである。

*大惠⇒大慧
*大惠宏智揖讓圖(胡建明先生解説抜粋):大慧が16年間の流罪を終え、1156年、勅命を受け、大刹阿育王 
 山広利禅寺に住持した。・・大慧は・・宏智へ挨拶のため、天童山に拝登しようとした。そのとき宏智が 
 大慧の上山を知り、弟子たちを連れて・・山道の途中で大慧を迎え、礼を尽した。という美談。
  (もともと2人は大親友だったらしい。)
*揖譲:1 拱手(きょうしゅ)して、へりくだること。古代中国の作法。2 天子の位を譲ること。禅譲。
*大慧宗杲(だいえ そうこう)1089-1163:宋代の臨済宗の僧。普覚禅師。仏日大師。
 曹洞宗に属した宏智正覚と、真の禅法をめぐって激しく対立した。宗杲は、公案を用いることによって言 
 語による思考を限界に追い詰め、そこに大きな疑問を抱えつつ坐禅して言語を超越した悟りへと向かうと 
 いう禅法を正しいものと認めた。公案を用いることによって言語による思考に大きな疑問を抱えつつ坐禅 
 し、その疑問を打ち破ることにより悟りへと向かうという、臨済宗の禅法を正しいものと認めた。宗杲は 
 曹洞宗の禪を「黙照禅」と呼んで批判した。
*宏智正覚(わんし しょうがく)1091-1157宋代の、曹洞宗の禪僧。
 正覚は、悟りという目標を設定することによって無明と悟りという二元論的構造が生じることを避けるた 
 めに、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自己完結的な禅法の中で本来具有している仏性が顕れ 
 るとした。仏性は本来的にすべての者に具有されており、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自 
 己完結的な禅法の中でその事実に気付くことこそが悟りの要であるとして、公案を用いない曹洞宗の禅法 
 を擁護した。
 宏智は臨済宗の禪を「看話禅」と呼んで批判した。
*機境:行者の根機こんき (素質能力) と観察(かんざつ)の対象のこと。
*子房(張良の字)(? - 紀元前186年)は秦末期から前漢初期の政治家・謀将。軍師として劉邦に仕えて 
 、劉邦の覇業を大きく助けた。
 始皇帝暗殺未遂
 秦に亡ぼされた韓の公族であり、祖国を滅ぼされた張良は復讐を誓い、屈強な力士を借り受け、紀元前 
 218年頃に始皇帝が巡幸の途中で博狼沙を通った所を狙った。方法は重さ120斤(約30kg)と言う鉄槌を投 
 げつけ、始皇帝が乗った車を潰すというものであった。しかし・・暗殺は失敗に終わった。

*くま質問
 大慧が始皇帝で、宏智が張良と譬えてると想定して解釈してみたのであります。実際に宏智が弟子を
 使って大慧に対して論戦を仕掛けたようなことはあったのでありましょうか?
 一休さんは面白がってる様であります。
(´・(ェ)・`)つ

709鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/18(水) 23:23:59 ID:1d4drIFg0
↑そのようなことはないじゃろう。
 それはただ悟った者同士が会えたことを、対比させて珍しいこととしているだけなのじゃ。
 博浪沙では失敗しているのであるからのう。

 大惠宏智の揖讓の図なのじゃ。

 眉毛を互いに結び、瞳を同じにしたのじゃ。
 二人の老禅師の境地は融和しているのじゃ。
 子房が策で力士に鉄槌を投げさせた
 博浪沙中では失敗して怒っているのにのう。

710避難民のマジレスさん:2021/08/18(水) 23:53:07 ID:TdZJ1C6I0
くま質問
 子房が策で力士に鉄槌を投げさせた
 博浪沙中では失敗して怒っているのにのう。
とは、何をどの様な意味で譬えているのでありましょうか?

503
翠岩夏末示衆云   すい岩夏まつに衆に示し云く
一夏以來爲兄弟説話 「一げ以来ひんでいの為に説話す、
看翠岩眉毛在麼   看よ、翠岩が眉毛ありや」
保福云。作賊人心虚 保福云く。「賊となる人心いつはる。」
長慶云。生也    長慶云く。「せいや」
雲門云關      雲門云く「関」

眉毛公案爛泥荊 眉毛公案らんでいけい
保福雲門同道行 保福雲門同道に行く
長慶藏身還露影 長慶身を蔵して還って影をあらわす
小樓南畔月三更 小樓南ぱん月三更

くま訳
翠岩夏末示衆云   
一夏以來久しぶりに兄弟弟子のために説話したのである。 
見てくれ、翠岩の眉毛はまだあるだろうか
保福いわく、泥棒になる人は、自分の心を偽るものである。
長慶いわく、うむ。眉毛は生えてるのでありますよ。
雲門いわく、関門である。

眉毛の公案は、泥んこ刑みたなものである。
保福と雲門は、同じ道をゆくのである。
長慶は、本心を隠そうとして、かえってあらわになっているのである
小樓がある南の水辺で見る深夜の月。

*くま質問・爛泥荊とはどのようないみでありましょうか?
 「小樓南畔月三更」とは、この公案の景色は、定型的で風流なものである、みたいな評価でありましょう 
 か?
*翠巌和尚が夏安居の後に、誤った説法をすると眉毛が抜け落ちるといわれているが、わしの眉毛は残って 
 いるか?と問うた。
*翠巌令参(すいがんれいさん 生年不詳):翠巌、保福、長慶、雲門、の四人は雪峰義存門下の兄弟弟子
*雲門文偃(うんもん ぶんえん、864-949)
*保福従展(ほふくじゅうてん?〜928)
*長慶慧稜(ちょうけい・えりょう854〜932)
*爛:1.火に焼けて皮膚がくずれる。ただれる。くさって形をくずす。2.まっさかり。
*荊:1.とげのある低木。いばら。うばら。2.刑罰として罪人を打ちたたくつえ。しもと。
*畔:ほとり。岸。水際。
*145の詩 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>868 、保福 = 
 家裏人 = 関の内側 = 悟っている

不偸盗戒
鵝鳥呑珠刑罰辛 がちょう珠を呑んで刑罰からし
分明曲直僞兼眞 分別曲直偽と真と  
翠巖老漢眉毛話 すい岩老漢びもうのわ
保福豈非家裏人 保福あにかりの人にあらざらんや

871: 鬼和尚:2020/08/03(月)
 ・・・ 関といわれれば誰もが関の外に出ていると思うのじゃ。
 どのようにして関の中に入ろうとか思って悩むのじゃ。

 実は既に内に入っているのじゃ。
 一休はそれを詩にしたのじゃ。
 保福豈非家裏人というのじゃ。
(´・(ェ)・`)つ

711鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/19(木) 23:11:22 ID:1d4drIFg0
↑ 子房が力士に鉄槌を投げさせたが始皇帝にはあたらなかったのじゃ。
 狙った物と物がぶつかるのさえ難しいのじゃ。
 悟った者同士が会うのは実に珍しいというのじゃ。

 乱れた泥の荊の鞭じゃな。
 苦難というような意味でよいのじゃ。

 それでよいのじゃ。

 眉毛の公案は泥だらけの荊の道なのじゃ。
 保福と雲門は同じ道を行っているのじゃ。
 長慶は身を隠そうとして還って影を表しているのじゃ。
 南の畔で小樓から夜の月がみえるのじゃ。

712避難民のマジレスさん:2021/08/19(木) 23:40:18 ID:m5HzqKX60
504
讀冷齋夜話       冷齋夜話を読む
有褒禪山石崖僧之一件事 はう禪山石がい僧の一件のじ有り
感而題之  1/3  感じてしかしてこれに題す

佛印重荷一百夫 佛印重くになふ一ぴゃく夫
佳名道價滿江湖 佳名道価がう湖に満つ
石崖一箇野僧意 石崖一箇野僧の意
佛法南方一點無 佛法南方一點も無し

くま訳
冷齋夜話を読む
褒禪山の石崖僧の一件があった。
読んで感じたことを詠むのである。   

仏印禅師は一人で百人の重荷を背負ったのである。
その名声は世界中にとどろいているのである。
石崖は一人の田舎者の僧と云う意味である。
仏法は南方には、一点もないのである。

*冷齋夜話:僧慧洪の編、本書を随筆文にして、東坡の詩、嗣法の様子、羅漢の失墜隊、西崑の體等を録す 
 (大成脚注)
 覚範慧洪の編。詩人の逸話とその作品の評論集。わが五山文学への影響大きく、宋版による五山版がある。
 慧洪(えこう)1071-1128:北宋の禅僧,詩人。誣告されて再度投獄されたことがあり,のち隠遁して 
 終った。蘇軾に学んで雄健な詩風。また絵画にも長じていた。
*仏印禅師 仏印了元(1032-1098) 宋時代の高僧、
*野僧:田舎の僧侶。また、僧侶を軽蔑していう語。

*くま質問:「褒禪山石崖僧之一件事」どのような一件でありましょうか
(´・(ェ)・`)つ

713鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/20(金) 23:20:45 ID:1d4drIFg0
 冷齋夜話に収録されている隠者の話のようじゃ。
 ここに書いてあったのじゃ。
 
 http://zhangdachun.blog.caixin.com/archives/132891

 褒禪山石崖下に一人の僧がおったのじゃ。
 紙軸を枕にして寝ていたのじゃ。
 裸足でねていたのじゃ。
 いろいろ問答したのじゃ。

 南に帰って仏印禅師に逢うと山を出たのは

 重荷者百夫,擁輿者十許夫,巷陌聚觀,喧吠?犬と言ったのじゃ。
 重荷を持つ者が百人、貴族で輿を許されたものが十人、港に建物が多く、
 犬や鶏で騒がしいとかいつたのじゃな。

714鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/20(金) 23:27:28 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 冷齋夜話を読んで褒禪山石崖僧の一件に感じてこれに題するのじゃ。

 仏印は重荷一百夫と言ったのじゃ。
 その佳名、道価は天下に満ちているのじゃ。
 石崖一箇野僧の意は。
 仏法南方に一点も無しというのじゃ。

715避難民のマジレスさん:2021/08/20(金) 23:47:28 ID:3Kzc4IpY0
くま訳全面改
 褒禪山石崖下に一人の僧がおったのだ。
 紙軸を枕にして寝ていたのだ。
 裸足でねていたのだ。
 いろいろ問答したのだ。

 南に帰って仏印禅師に逢うと山を出たのは

 重荷を持つ者が百人、貴族で輿を許されたものが十人、港に建物が多く、
 犬や鶏で騒がしいとかいつたのだ。

505    2/3
玉帶笑欺如土泥 玉帯笑ひあざむく土泥の如し
路頭喧吠犬兼鶏 路頭かまびすしはい犬とけいと
天下老禪奈慚愧 天下の老禪慚愧をいかんせん
獄中天澤世皆乖 獄中天澤世皆そむく

くま訳
貴人は笑いながら人をだます泥酔者のようなものである。
街中で騒がしいのは、吼える犬と鶏くらいのものである。
天下の老師が、自分を愧じる思いをどうしたらよいのか。
虚堂が獄中にあったときには、世間は皆背いたのである。

*玉帯(ギョクタイ・ごくたい):玉の飾りをつけた革製の帯。貴族の束帯に用いられた。たまのおび。 玉 
 で飾った帯。たまの帯。
*泥の如し:泥酔して正体がないさま。
(´・(ェ)・`)つ

716鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/21(土) 23:10:20 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 玉帯の貴人は泥酔者の如く笑いあざむくのじや。
 路頭では犬や鶏が吠えて騒がしいのじゃ。
 天下の老禅師は慙愧をどうすればよかろうか。
 獄中の天沢に世人は皆そむいたのじゃ。

717避難民のマジレスさん:2021/08/21(土) 23:31:49 ID:606RJSI.0

506    3/3
百丈絶食無人學 百丈じきを絶って人の学ぶ無し
藥山兩粥黄采麥 藥山兩しゅくくわうさいのばく
但居門外弊衣徒 ただ門外にこすへいえの徒
金襴道光開法席 金襴の道光開席を開く

くま訳     
百丈和尚の絶食の話を聞いても、人がそこから何かを学ぶことは無い。
薬山和尚の、棄てられ黄色くなった野菜と煮込んだ麦粥の話も同じだ。
ただのぼろい衣をまとった、浮浪者とかしか思わないのだ。
金襴の僧衣を着た道光の説教をありがたがっているのだ。

*百丈懐海(ひゃくじょう えかい、749-814唐代の禅僧。南宗禅中の洪州宗の祖馬祖道一の法を継ぐ。
*薬山惟儼(やくさんいげん・745-828) 寺は元牛小屋・
*道光.1251-1331鎌倉後期の浄土宗の僧侶。比叡山で顕密諸宗を学ぶが,のちに良忠門下に帰す。京都五条 
 坊門に悟真寺(のちに三条に移転)を建立し布教したので,その門流を三条派といった
(´・(ェ)・`)つ

718鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/22(日) 23:08:14 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 百丈の絶食を学ぶものは無いのじゃ。
 薬山の粥と野菜を学ぶものもないのじゃ。
 ただ門外に居る破れ衣の者とおもうのじゃ。
 金襴の道光を見ればありがたがって法話を聞きに来るのじゃ。

719避難民のマジレスさん:2021/08/22(日) 23:14:49 ID:K8K3PImw0
森に嫉妬されて、自殺未遂されて、形振り構わず謝る、一休さんであります。
507   
盲女森侍者情愛甚厚 盲女森侍者情愛甚だ厚し
将絶食殞命     まさにじきを絶って命をおとさんとす
愁苦之餘      愁苦のよ
作偈言之  1/2   偈を作りこれを言ふ   

百丈鋤頭信施消 百丈じょ頭信施しょうす
飯錢閻老不曾饒 飯錢閻老かつてあまさず
盲女艶歌笑樓子 盲女が艶歌樓子を笑ふ
黄泉涙雨滴蕭蕭 くわうせんの涙雨滴せうせうたり

くま訳
盲女森侍者は情愛がとても厚いのだ。
絶食して自殺をはかったのだ。 
わしは、愁いの思いで苦しいのだ。
なので、詩を作ってわしの思いを伝えるのだ。   
百丈和尚なら、無心のうちに、信施など受取らないであろう。
閻魔様は、今まで飯代を残したことなど無いのだ。決して見逃さないであろう。
森女が艶歌で遊女を笑っていたのを思い出して、
黄泉の国への旅立とうとする、森のつらい思いを悲しく思い、雨がしとしと降るようにわしは泣いているのだ。

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/  >>335の詩 参
  森は紹固に激しく嫉妬して、そのために断食自殺を図ったらしい。
*侍者:貴人のそば近く仕えて、用を足す人。おそばづきの者。
*鋤頭(じょうとう):無心に。↓おまけ参
*僧侶が、檀信徒からまごころの布施を得ること、信心施。
*信施消 
 信施:受施者がその施の本来の意義・佛法護持の目的を外して自己の慾望のために使うと信施不消の罪を 
 得て施者の功徳とアベコベの罪報に苦しまねばならない。
*鋤頭(碧巌録) 安延山承福寺HP埜村要道住職 訳・解説
 空手把鋤頭 空手にして鋤頭を把り、
 歩行騎水牛 歩行して水牛に騎る
 人従橋上過 人橋上従(よ)り過ぎれば、
 橋流水不流 橋は流れて水は流れず   

 鋤をとって無心に畑を耕し続けているうちに、いつの間にか鋤を握っていることを忘れ、耕しているとい 
 うことさえ意識もなく、吾れと鋤が一つになり、無心に徹した心境を「空手把鋤頭」と言い表したもので 
 ある。
 さらに、一日の仕事が終わり、牛の背なにゆられて、家路ににつく帰途はもう心地よい疲れもあって、も 
 う牛が歩いているのか自分が歩いているのか、人牛が一体となった無心の境地こそ「歩行騎水牛」の語で 
 ある。
 家路の途次には谷川があり、ざわざわと流れる水の音が聞こえ、橋の上に立ち止まってその流れをじっと 
 見つめていると、
 いつの間にか自分がその自然の中に溶け込んでしまい、自分が川の流れになって流れて 
 いるようでもあり、我と流れが一体になり橋を渡る我が橋と共に流れている大自然と一体となった無心の
 境地を「人従橋上過橋流水不流」と表したものである。

 無心とは無色透明で、赤が来れば赤に、青が来れば青に、子どもが来れば子どもに、老人が来れば老人に
 心を通わせられる。無心の状態なればこそ人境一如で、無心に触れる山川草木が仏のいのち、仏の姿その 
 ものとして受け入れ切れるのだ。
(´・(ェ)・`)つ

720鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/23(月) 21:54:45 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 盲女の森侍者は情愛甚だ厚くまさに食を絶って命を落とさんとする。
 わしはそれをうれいて偈を作って言ったのじゃ。

 百丈も鋤で自ら耕して信施を消費したのじゃ。 
 生涯に食べる飯の数は閻魔がつかて余したことはないのじゃ。
 盲女も艶歌に樓子を笑ったことが在るのじゃ。
 黄泉では涙滴は雨の如くふるじゃろう。

721避難民のマジレスさん:2021/08/23(月) 23:09:15 ID:YLe665060
くま訳改 
第一句:百丈も鋤で自ら耕して信施を消費したのだ。
 
508    2/2
看看涅槃堂裡禪 看よ看よ涅槃堂裡の禪
昔年百丈钁頭邊 昔年百丈のくわとうへん  
夜遊爛醉畫屛底 や遊爛醉畫べいの底  
閻老面前奈飯錢 面前飯銭をいかんせん

くま訳
見よ、涅槃堂で死を前にしてのわしの禅を
昔、百丈和尚は、農作業の責任者をしていたのであるが、
わしは、夜遊びをして、飲んだくれて、絵の書いてある屏風がある場所で遊んでいる始末である。
閻魔様の面前で飯銭をどうしたらよいのだろう。

*鍬頭(くわがしら):昔、大百姓の代人として、その手作り農業や新田開発を宰領した使用人の頭。飛騨
(岐阜県)白川地方では、家長の弟で農耕の指揮に当たった者。農作の差配人。
*畫屛:絵の描かれた屏風。

*くま質問:飯銭〜:食事などの日常の事々に対する真剣な取り組みが必要であり、いい加減に過すと因果
 の報いを受けると、一休さんは説いているのでありましょうか? 
(´・(ェ)・`)つ

722鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/24(火) 23:31:31 ID:1d4drIFg0
 そういえるじゃろう。
 飯銭とは食の対価じゃな。
 僧侶が働かずに施しを貰って生きてよいのは日頃から学道修業に励んでいるからなのじゃ。
 真面目に勤めないと閻魔の前で責められると言うのじゃな。

 そんな感じじゃな。

 見よ見よ涅槃堂の内の禅を、
 昔、百丈は座禅をしていない時も畑を耕していたのじゃ。
 夜には酔って遊んで屏風の下で潰れていては、
 閻魔の前で飯銭を責められてもどうしようもないのじゃ。

723避難民のマジレスさん:2021/08/25(水) 02:41:27 ID:qzveYPbg0
くま訳改
第三句;夜には酔って遊んで屏風の下で潰れていては、
第四句;閻魔の前で飯銭を責められてもどうしようもないのだ。

509
擯出中川賀頌  ちゅうせんをひん出する賀頌
不救病身勞病身 病身をすくはず病身を労す
蕭墻有禍會中賓 せうしょう禍ありゑ中のひん
十年劍樹刀山底 十年劍樹刀ざんのてい
萬劫難消阿鼻辛 萬却しょうし難し阿鼻のしん

くま訳
追い出した中川への祝い状
病身を救わず、苦しめる。
会派の内輪もめの元凶である
十年間、劍樹刀山 で苦しめたのだ、
猛火に身を焼く苦しみは、萬劫の年月忘れることができないものとなろう。

*擯出(ヒンシュツ):人をしりぞけること。のけものにすること。擯斥
*中川:「60%の日常 ブログ」記事より。「酬恩庵宝蔵には、一休禅師が書かれた文書がいくつか展示され 
 ています。門下の中川というお弟子さんが、一休さんの逆鱗に触れたようで、追い出された時の擯出状が 
 あるんですが、その中に『舌をぬき恥辱を与えし』と中々恐ろしいことが書かれてました。(この人のこ 
 とでありましょう)
*蕭牆の禍(しょうしょう)《「韓非子」用人から》一家の内部に起こるもめごと。うちわもめ。 
*刀山剣樹:思いやりが一切無いむごたらしい刑罰。または、酷く危険な境遇。「刀山」は刀の刃が上を向 
 いた状態で、無数に立てられている山。「剣樹」は葉や枝、花、実の全てが剣で出来ている樹。山を歩か 
 されたり、剣樹を登らされては落とされるという地獄で行われている刑罰のことから。
*阿鼻:八熱地獄の無間地獄。現世で父母を殺すなど最悪の大罪を犯した者が落ちて、猛火に身を焼かれる 
 地獄。
(´・(ェ)・`)つ

724鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/25(水) 22:52:57 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 中川というものを会から追い出したのじゃな。

 病身を救わず病身を疲れさせたのじゃ。
 会を内輪もめさせた原因なのじゃ。
 十年間剣樹刀山の苦しみをもたらしたのじゃ。
 その報いは万劫も消し難い阿鼻地獄の辛苦を味わうのじゃ。

725避難民のマジレスさん:2021/08/25(水) 23:13:50 ID:pFah44Nk0
510
擯出中川賀頌呈勝瓊 ちゅうせんをひん出する賀頌、しょうけいに呈す
本非蛇影客盃弓 もと蛇影にあらずかく盃のきゅう
元字在心從劫空 げん字こころに在り劫空よりす
昨日凡兮今日聖 さく日の凡こん日のしゃう
無根雲起變通風 無根雲起こる変通の風

くま訳
中川を斥ける賀頌 勝瓊に呈す
元々、盃に映ったのは蛇影ではなく弓影だったのだ。
元来、人は心持ち様次第でどうにでもなるもなのだ。
昨日凡夫、今日聖人。そんな事もあったりするのだ。
理由なく雲起り、風流れを変えたりもするのである。

*擯出(ヒンシュツ・ひんずい・ひんじゅつ):人をしりぞけること。のけものにすること。擯斥(ひんせき)。
*くま質問:勝瓊とは、中川の被害者でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

726鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/26(木) 23:21:50 ID:1d4drIFg0
↑違うようじゃ。
 勝玉を呈したというのじゃな。
 中川を排斥して会が勝れた玉のようになったということじゃな。

 そんな感じじゃな。

 もともと客の盃の影は蛇ではなく弓だったのじや。
 もともと字は心にあり、劫空に従うのじゃ。
 昨日の凡人も今日は聖人になるかもしれんのじゃ。
 変通の風は無根の雲を引き起こすのじゃ。

727避難民のマジレスさん:2021/08/26(木) 23:50:36 ID:is15Ihgg0
*変通:時に当たって自由自在に変化し適応して行くこと。

くま訳改
中川を排斥して会が勝れた玉のようになったのだ。
第二句:もともと字は心にあり、劫空に従うのだ。
第四句:変通の風は無根の雲を引き起こすのだ。

くま質問:「もともと字は心にあり、劫空に従う」とは、どのような意味でありましょうか?

511
病僧與五辛
病僧大苦發傷風 病僧のたい苦傷風を発す
死脉頻頻命欲終 死みゃくひんぴんとして命終らんとす 
如来新病用牛乳 如来の新病牛乳を用ふ  
莫忌凡身藥草葱 忌む莫れ凡身薬草のそう
  
くま訳 
病気に罹った僧に五辛を与える
病僧は大へん苦るしい傷風に罹った。  
死脈を打ち命が終ろうとしていたのである 
釈迦は新しい病気に対しては牛乳を用いたのである。  
忌むなかれ、凡夫の身には、ネギが薬草になるのだ。

*五辛(ごしん):辛味や臭気の強い5種の野菜。仏家で、大蒜(にんにく)・韮(にら)・葱(ねぎ)・辣韮
 (らっきょう)・野蒜(のびる)、道家では、韮・辣韮・大蒜・油菜(あぶらな)・胡荽(こすい)をさす。これ 
 を食べると情欲・憤怒(ふんぬ)を増進するとして禁じる。五葷(ごくん)
*傷風:高熱を伴う風邪の一種。
*死脈:死期が近づいた弱い脈拍。「死脈が打つ(=臨終が近い)」
(´・(ェ)・`)つ

728鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/27(金) 23:22:46 ID:1d4drIFg0
↑誰がどうしたとかいうのは心にその名があるからだというのじゃな。
 それもまた空であり、無常であるというのじゃ。
 心次第ということじゃな。

 それでよいのじゃ。

 病僧に五辛を与えるというのじゃ。

 病僧大苦の傷風を發し、
 死脈が頻発して命も終わらんとしたのじゃ。
 如来は新病に牛乳を用いたのじゃ。
 忌む無かれ凡身が薬草のねぎを用いることを。

729避難民のマジレスさん:2021/08/27(金) 23:34:49 ID:pF.J9qfg0
鬼和尚、いつもくまでも分かる解説をありがとうであります。
「元字在心」事々に名づけて、その言葉に囚われてるに過ぎない、
「從劫空」本来一切空であり無情なのだ
ということでありますね。 

512
鳩鹿狐懺悔   きうろくこ懺悔
麋鹿生涯獝狘愁 びろくの生涯きつけつの愁ひ
鳩因淫欲苦心頭 鳩は淫欲に因って心頭を苦しむ
四時難愕此愁夢 し時おどろき難しこの愁夢
一枕清風夜夜秋 一枕の清風夜夜の秋

くま訳
鳩、鹿、狐の懺悔
鹿は生涯歩く獣であることを愁いている。
鳩は淫欲に心を苦しめている
四六時中、悲しみに浸りながら見る夢に驚いてはいられないのは、鳩鹿狐もわしも同じなのだ。 
毎晩、少しづつ秋が深まってゆく。

*麋:鹿の大なるものなり「なれしか」ともいふ。(大成脚注)
*獝狘:(中国語翻訳)歩く動物
*四時:1.四季。2.仏教 一日の四つの時。旦(=朝)・昼・暮(=夕)・夜。
*愁夢: 悲しみにひたりながら眠って見る夢。
(´・(ェ)・`)つ

730避難民のマジレスさん:2021/08/27(金) 23:46:40 ID:GHXQWsSY0
くま訂正
無情→無常
(´・(ェ)・`)b

731鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/28(土) 23:50:59 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、そのような理解で善いのじゃ。
 

 そんな感じじゃな。

 鳩鹿狐の懺悔゛というのじゃ。

 鹿は生涯愁いがあるというのじゃ。
 鳩は淫欲に心頭を苦しめられるのじゃ。
 これらの愁いは常に驚きではないのじゃ。
 夜寝る時には清風で忘れられるだけなのじゃ。

732避難民のマジレスさん:2021/08/28(土) 23:57:58 ID:FQPEZLyM0
513  503参
翠岩示眉毛圖  翠岩眉毛を示す図
賓中有主主中賓 賓中主有り主中の賓
關字失錢生也親 關字失銭せいやしたし
賊賊賊賊拿不得 賊賊賊賊だふとく
當頭姦黨是何人 たうとう姦たう是れ何人ぞ

くま訳
翠岩和尚の「眉毛あるか」と本来の面目についての問の絵   
これは、賓となり主となり立ち代わり自由のはたらきを示す、優れた問い掛けで(示衆)である。
しかし、(雲門に)「関」の一字で応えられてしまっては、その巧妙さも効を失ってしまった。
賊賊賊、賊機あり(と応えたのは保福)。これでは、取り付く島がないのである。
この真っ向から(眉毛=本来の面目はちゃんとあるよと)応えた、(長慶という)悪党は、何者であろうか?

*賓と主:四賓主は、賓と主、二人の能力の関係を四通りに分けたもの。賓は客、主は亭主。通常、客が修
 行者、主は師となる。
*翠岩示眉毛:碧眼録 第8則 翠巌夏末示衆 参おまけ
*拿不得:補うことを得ざるをいふ(大成脚注)
*当頭:頭の上であること。または、真向かいであること。間近であること。
*姦党:悪人の仲間。悪人の集団。悪党。

おまけ 碧眼録 第8則 翠巌夏末示衆 禅と悟りHP 訳・解説
翠巌示徒 翠巌徒に示す
千古無対 千古対無し
関字相酬 関字相酬ゆ
失銭遭罪 失銭遭罪
潦倒保福 潦倒(ろうとう)たる保福
抑揚難得 抑揚得難し
潦倒翠巌 ろうとうたる翠巌
分明是賊 分明に是れ賊
白圭無玷 白圭?(きず)なし
誰辯真仮 誰れか真仮を弁ぜん
長慶相諳 長慶相そらんず
眉毛生也 眉毛生也

注: 
千古対無し:千年の昔から並ぶものが無い。
関字相酬ゆ:「関」という字で締め括った。
失銭遭罪:金を失った上に罰せられる。身から出た錆の報いだ。
潦倒(ろうとう)たる保福:老いぼれた保福
抑揚得難し:上げたのか下げたのか捉えにくい。
白圭:白い清らかな玉器。
ロウロウたる翠巌:饒舌な翠巌。

頌:
翠巌は「眉毛ありや」と父母未生以前の本来の面目を衆徒に示した。
こう見事に突きつけられては 
千年の昔からこれに対応できる者はいないほど翠巌の示衆は優れている。
しかし、そこで雲門に「関」とやられては、さすがの翠巌も骨折り損のくたびれ儲けだ。
老いぼれの保福が「ヤイこの盗人めが、ビクビクするない」
と言ったのは一体翠巌を褒めたのかけなしたのか分かりにくい。
ペラペラとよく喋る翠巌は油断ならない男でうっかりすると懐中のものを根こそぎ盗まれてしまうぞ 
とは言っても彼の説法は瑕のない白い清らかな玉器
のようでその真仮を見分ける人は少ないだろう。
長慶は「眉毛はチャンと生えているじゃないか」
という言葉で天地一本の大眉毛(本来の面目)はここにあるじゃないかと言った。
(´・(ェ)・`)つ

733鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/29(日) 23:05:07 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 翠岩が眉毛を示す図なのじゃ。

 客の中に主があり、主の中に客があるのじゃ。
 関の字で銭を失い.、眉毛は親しく生えるのじゃ。
 賊賊賊賊と賊が多く捕らえることが出来ないのじゃ。
 当頭の姦党、これは誰なのじゃ?

734避難民のマジレスさん:2021/08/29(日) 23:55:36 ID:wiaF4jrU0
くま質問
「銭を失い」とは、問の価値が失われるというような意味でありましょうか?
「眉毛は親しく生える」とは、結果的に過剰な説明になっていないので、眉はすぐに生えて来る、みたいな
 意味でありましょうか?

514
半雲 齋名   半雲 齋名
膚寸無根點碧空 ふ寸無根碧空に点ず
安身立命在其中 安じん立みょう其の中に在り
夢魂昨夜巫山雨 夢魂昨夜ふざんの雨
吟斷朝來一片蹤 吟斷す朝來一片の跡

柚葉先生のブログ訳
半雲(ちぎれぐも) 
わずかな根なし雲が、碧空にある。
安心立命とはそのようなもの、
昨夜、巫山の雨が降り、わたしの夢に神女が来たから、
今朝はそのひとひらの蹤を追う

くま訳
半雲 斎名
ほんの少しのはぐれ雲が浮かぶ紺碧の空
安身立命がその中にある。
昨夜は、女神がその雨になって現れてくれた。
今朝は、吟じつつ、一片の雲を待つのだ。

*膚寸(ふすん):「膚」は指四本をならべた長さの意・ほんのわずかな大きさ。特に切れぎれの雲を形容す 
 るのに用いられる。
*無根:うわさ・疑惑などの根拠となる事実が無いこと。
*巫山雲雨:(ふざんうんう):男女の交わり、情交のたとえ。
「巫山」は中国の四川省と湖北省の間にある、女神が住んでいたとされる山のこと。
 戦国時代の楚の懐王が昼寝をした際、夢の中で巫山の女神と情交を結んだ。別れ際に女神が「朝には雲と 
 なって、夕方には雨となってここに参ります」と言ったという故事から。『文選』宋玉「高唐腑」
*安心立命(あんじんりゅうみょう):「あんしんりつめい」とも読む。安心は仏教用語,立命は儒教の用 
 語。すべてを絶対のものにまかせて,心が動揺しないこと。
(´・(ェ)・`)つ

735鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/30(月) 23:27:12 ID:1d4drIFg0
↑そのような意味じゃな。
 それはただ弟子を試す関門であると見抜かれてしまったのじゃ。

 その問いに拠って説法が完全になったという賛じゃな。

736鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/30(月) 23:31:33 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 半雲の齋名じゃな。

 青空に点のような根無し雲があるのじゃ。
 安身立命はその中にあるのじゃ。
 昨夜は夢に巫山雨があったのじゃ。
 朝が來てその一片の跡を吟詠するのじゃ。

737避難民のマジレスさん:2021/08/30(月) 23:56:20 ID:1z1Q5x4Y0
515
黄龍三關    黄龍の三關
成佛成驢手脚全 佛と成り驢と成る手脚まったし
河沙異號任生縁 がしゃの異號しょう縁に任す
黄龍關外黒雲鎖 黄龍關外黒雲とざす
積翠春風楊柳前 積翠の春風楊柳の前

くま訳
黄龍三關
仏と成り、ロバと成り、してみれば、自分の手脚は完璧である。
河の砂程多くの先師などではなく、自分の生れついての因縁に任せるのだ
黄龍の関の外側には、透関を妨げる黒雲がある。
そこを抜ければ、透き通った青空、柳を揺らす春風があるのだ。

*黄龍慧南(おうりょう えなん、1002-1069):宋代の臨済宗の僧。後世五家七宗の一つに数えられる黄龍 
 派 の祖として知られる。日本に伝えられた臨済禅のうち、栄西によるものがこの黄龍派に属する。
*黄龍三關:慧南禅師、学人接化に於ける常用の手段なり、是れに三關あり、曰く、生録、曰く、佛子、曰 
 く、驢脚と。會元十七慶閑章に曰く、『龍問ふ、「如何なるか是れ汝生録のところ。」閑曰く、「早晨白 
 粥を喫す、如今又饑を覺ゆ。」問ふ、「我が手何ぞ佛手に似たる。」閑曰く、「月下琵琶を弄す。」問ふ、
 「我が脚何ぞ驢脚に似たる。」閑曰く、「鷺鶿雪に立つ同色に非ず」と』あり、以って其の關内に入れば 
 積翠より吹き下す春風が楊柳の前にそよいで居る様なり。
*成仏:1 煩悩(ぼんのう)を断ち、無上の悟りを開くこと。2 死んで、この世に未練を残さず仏となる
*黒雲: 物事を妨げる不吉なもの。暗雲。
*積翠:積み重なったみどり。青空、青山、青海など一面のみどり(青)を形容していう語。
(´・(ェ)・`)つ

738避難民のマジレスさん:2021/08/31(火) 00:07:23 ID:1z1Q5x4Y0
(´・(ェ)・`)
(おまけ)
無門關 黄龍三關(無量宗壽偈)淵藪野狐禪HPより抜粋
淵藪野狐禪師訳:
黄龍(をうりやう)の三關  
私の手は仏の手と比して、どうか?――
私は枕の後ろを手探りして分かった。
思わずカッカッと大笑いをしてしまった――
もともと、体自体が手そのもの。
我の脚(あし)は、驢馬の脚と比して、どうか?――
それを見比べるための上げ脚を未だにちっともしていないうちに、最早、ど〜んと大地を踏み据えてしまっていた――
この世界を股にかけて余すところ無く歩く。
そのためには、かえって楊岐禅師の三本脚の驢馬に跨るのが何より。
人にはそれぞれ、生れついての因縁がある。
そのそれぞれが、鮮やかな機先の働きへと玄妙に通底している。――
那吨(なた)太子は、己が肉体の骨を抜き取って元の父に還したというではないか。
どうして今更、わざわざ老爺(ラオパン)五祖大満の、生まれ変わりの迂遠な縁(えにし)をわざわざ必要
とすることがあるであろうか、いや、全く以って無用である。
黄龍慧南禅師が示した、仏の手と、驢馬の脚と、生れつきの縁(えにし)と――
それらは、「仏ではなく」、「道ではなく」、「禅ではない」――
咎めてはいけない、『無門関』が険しいことを、いや、その険しさ故に、多くの修行者が、深い恨みを、収
縮したブラック・ホールのように、『無門関』の空間に出現させていることを。
私の居るこの瑞巖寺では、最近、無門和尚が来て居る。
繩で編んだ説法の腰掛けにどんと座り込んで、真っ向を向くと、今は昔のエピソードを、一つ一つ、商量し
ている。
商量とは言うものの、その実、それがたとえ凡であろうが聖であろうが、一刀両断にしてしまうのである―
さても……それを聴いて、どれだけのトグロを巻いた有象無象の蛇ぐさどもが、美事、昇龍となって、天空
に雷音を轟かすことが出来るか。

無門慧開禅師をお招きして会衆に法を説く立僧首座となって頂いた。その御礼にこの如何にも田舎臭い偈
(げ)を以って感謝の意を表し、奉りまする。
紹定(じょうてい)庚寅(かのえとら:西暦1230年。)三月。無量宗寿書。

*瑞巌寺の僧、無量宗壽(むりょうそうじゅ:生没年未詳)の偈。
*「楊岐禅師の三本脚の驢馬」:楊岐方会(993〜1046)の公案、『僧が楊岐方会に「如何なるかこれ仏」 
 と問うたのに対し、楊岐が「三脚の驢子、踵を弄して行く」と答えた(『古尊宿語録』楊岐方会章、『卍 
 続蔵』ことから、楊岐の宗風を三脚の驢子と称する。』「五祖大満の、生まれ変わりの迂遠な縁」の「五
 祖大満」とは禅宗第五祖弘忍大満(602〜675)で、『前世に栽松道者という老人であったが、四祖道信の
 法を聴くためにみずから死んで一女の胎内に入り、この世に生まれて五祖となったという』、ここはその
 故事に引っ掛けたもの謂いである。
*哪吒(なた):道教で崇められている少年神、もしくは中国仏教もしくはヒン ドゥー教の民話・説話の 
 登場人物である。托塔天王(毘沙門天)の三男。生後三日目に湯浴みの途中で、裸のまま海中に飛び込ん 
 で竜王の水晶宮に行き、蛟龍の背筋を引きぬき、縧子(しごき・帯紐)にしようとした。父・李天王は後 
 難を恐れて幼いうちに殺そうとしたため、激怒した哪吒は自ら体を切って、肉を母に骨を父に返上して死 
 んでしまった。父の精と母の血を捨てたその霊魂は、西方極楽浄土に向かい、釈迦如来に訴え、助けを求 
 めた。如来は蓮の葉や根で肉体を造って、起死回生の真言を唱えて彼を蘇生させた。
(´・(ェ)・`) b

739鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/08/31(火) 22:00:13 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 仏と成り、驢馬となるも手足は完全なのじゃ。
 河砂の如き他のさまざまな名前になるのも生縁に任すのじゃ。
 黄龍の関外では黒雲が閉ざすのじゃ。
 積翠の春風は楊柳の前に吹くのじゃ。

740避難民のマジレスさん:2021/08/31(火) 22:12:14 ID:TzONvbZk0
くま訳改
第二句:河砂の如き他のさまざまな名前になるのも生縁に任すのじゃ。

516
病中作     病中の作
佛病祖病迸鬼眼 佛病祖病鬼眼ほとばしらしむ
臨濟梵几案禪板 臨濟き案禪板を焼く
不會金山大病辛 金山大病の辛をえせず、
時人空吟艶詩簡 時人空しく吟ず艶詩の簡

くま訳
病中作
ブッタや祖師に執着する病に罹らぬように眼光鋭く見張るのだ
臨濟は、几案も禅板も何もかも焼き捨てた
圓悟は金山で大病を患ったが、(師匠が艶詩を詠むのを聞いて悟りを開き)辛くなくなったのである。
今まさに病のわしは、空しく艶詩吟じるのである。

*几案・机案(きあん):几、案とも机つくえの意
*禪板:坐禅の時労を除かんがために衆僧の蓄ふる板、手を案じたり、身を靠(もた)らす器なり。
*時人:その時の人。同時代の人々
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575// >>206 臨濟几案
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>889 圓悟大病
(´・(ェ)・`)つ

741鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/01(水) 21:47:42 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 仏病、祖師の病に、鬼眼を飛ばすのじゃ。
 臨済は几案も禅板も焼いたのじゃ。
 金山は大病の辛苦に会わなかったのじゃ。
 時人は艶詩の簡を空しく吟じたのじゃ。

742避難民のマジレスさん:2021/09/01(水) 23:42:28 ID:41bbPmdQ0
517
自賛
分明畫出許渾圖 ふんみょうゑがきいだす許こんが図
吟撚徑山天澤鬚 吟じてきんざん天澤のひげをひねる
嗜譽求名不愛利 ほまれをたしなみ名を求めて利を愛せず
風流寂莫一寒儒 風流せきばくたり一寒儒

くま訳
自賛
明らかに許渾を描き出しているような絵である 
吟じてはひげをねじる径山の虚堂智愚禅師のようでもある。
名誉ある在り様を心がけ、利を愛さず
風流で静寂につつまれた、清貧の一儒者のような佇まいである。

*「自賛」:自分の頂相(肖像画)に許渾の姿を重ね合せている(蔭木英雄銭生解説)
*許渾圖:唐の許渾が詩に曰く、「高歌一曲明鏡を掩(おお)ふ、昨日の少年今白頭」と。蓋し此の意に」 
 よるか(大成脚注)
 許渾(きょこん、生没年不詳)唐の詩人。832年、進士に及第、病弱のため免職。
*譽:誉(ほまれ)1 ほめる。ほめたたえる。2 よい評判。ほまれ。「栄誉・声誉・名誉」
*嗜む:1 このんで親しむ。愛好する。2 このんでそのことに励んでいる。芸事などの心得がある。3
 つつしむ。気をつける。用心する。4 前もって用意しておく。心掛ける。5 見苦しくないように整える。
*寒儒:貧しい儒者。
(´・(ェ)・`)つ

743鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/02(木) 23:04:03 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 自賛じゃな。

 分明に許渾を書いたような図なのじゃ。
 吟じては径山の天沢が髭を捻るがごときなのじゃ。
 名誉を求めて利益は愛さないのじゃ。
 風流寂寞として一寒儒の如くなのじゃ。

744避難民のマジレスさん:2021/09/02(木) 23:19:56 ID:zqYcd.Go0
518
徳禪塔主自賛  徳禪たつす自賛
平生乱醉倒金樽 平ぜい乱醉金樽を倒す
老後住持塵事繁 老後の住持人事繁し
莫恃榮華竟成苦 たのむなかれ榮華はつひに苦と成る
江山水宿又風餐 かう山水宿又風さん 

くま訳
徳禪塔主自賛(一休自賛)
日頃から大酒をくらい、金の酒樽を飲み干してこらがしていたのだ。
老後の住持は、人事が忙しいのだ。
栄華が続くなどと思ってはいかんのだ。栄華は必ず苦に転じるのだ。
海山で、風を食い、水辺で寝るのが、性に合ってるのだ。

*1459年 一休66歳 徳禅寺住持の請を受けて入院(じゅえん)晋山する。
*徳禪寺:かつては大徳寺とは独立した寺だった。 文明年間(1469-1487)、一休宗純が、大徳寺山内の現在 
 地に移した。
*風飡水宿(ふうそんすいしゅく)とは. 「風を食い、水のほとりで寝た」.
(´・(ェ)・`)つ

745鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/03(金) 21:45:07 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。


 また徳禪塔主の自賛じゃな。

 平生は乱酔して酒樽も倒すほどなのじゃ。
 老後の住持は人事が忙しいのじゃ。
 栄華はついには苦になるから頼りにしてはいかんのじゃ。
 江山水に宿り、風を食らって生きるのじゃ。

746避難民のマジレスさん:2021/09/03(金) 22:23:56 ID:ovP.sNfk0
519
臨濟曹洞善知識貪欲熾盛 臨濟曹洞の善知識貪欲熾盛
米錢膝下露堂堂 米錢しつ下露堂堂    
辛苦沈淪萬劫膓 辛苦沈淪す萬劫のはらわた
賊智不妨過君子 賊の智妨げず君子に過ぎたり
徳山臨濟沒商量 徳山臨濟もつ商量

つらつら日暮らしブログTENJIN住職解説 超抜粋
各地の禅宗の指導者は、貪欲が旺盛だ
修行者が修行に入る際に、指導者に支払う金銭(米代)が膝下に露わになっている。善知識の坐る座が、
弟子達の銭で溢れている。
その欲の結果、辛苦に沈むこととなるだろうが、それは無限の時間に腹にため込んできた悪事の結果だ。
金銭を得んとする狡猾な智は君子に勝り、
徳山や臨済といった中国の禅将も、この件については議論することも出来まい

くま訳
臨濟曹洞の師家は貪欲極まりない 
食い扶持を庇護してくれる人から全く堂堂と受取るのである。
その貪欲さ故に辛苦に沈み落ちぶれるのは、長年積み重ねた悪行の報いである。
盗人としての智恵は人格の優れた人よりも勝っているのである。
徳山臨濟は議論もできまい

*熾盛(しじょう ・しせい)火が燃え上がるように勢いの盛んなこと。また、そのさま。
*膝下:自分を庇護(ひご)してくれる人のもと。「親の膝下を離れる」
*沈淪:おちぶれること
(´・(ェ)・`)つ

747鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/04(土) 21:44:25 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 臨済曹洞の善智識が貪欲盛んであるというのじゃ。

 米銭が堂堂の膝下にあることは露呈しているのじゃ。
 そのような欲に憑かれていては辛苦に陥り、万劫も苦しむのじゃ。
 賊の智慧が妨げられないことは君子にも過ぎるのじゃ。
 徳山臨済は商量などしなかったのじゃ。

748避難民のマジレスさん:2021/09/04(土) 22:22:03 ID:3IopZBcQ0
520
元本無明    元本無明
法塵習着奈相思 法塵習ぢゃく相思をいかんせん
李杜蘇黄音律詩 李杜蘇くわうが音律の詩
弓影客盃元字脚 弓影かく盃元字脚
生身入地獄如矢 しゃうしん地獄に入る矢の如し

くま訳
根本的な、無知愚かさ
仏法を汚すようなことを習い身につけて考えてしまうことをどうしたものか。
李白・杜甫・蘇軾・黄庭堅の音律詩
盃に映る弓影を蛇と思い込む、慌て者
生きてる内にあわてて地獄へ行くようなものだ。

*法の塵:仏法をけがすものを塵にたとえていう語
*李杜蘇黄:李白・杜甫・蘇軾・黄庭堅
(´・(ェ)・`)つ

749鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/05(日) 23:29:02 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

 法塵の習着する相思をいかにすべきか問題なのじゃ。
 李杜蘇黄等の詩人の音律詩。
 その字脚などは客の盃に写った弓影と見るのじゃ。
 そうでなければ生身で矢の様に早く地獄行きなのじゃ。

750避難民のマジレスさん:2021/09/05(日) 23:58:17 ID:q09fDcSk0
521
黄檗三頓棒   黄檗の三頓棒
棒頭打着羯磨僧 棒頭打着すこん磨の僧
痛處針錐絶伎能 痛處の針すゐ伎能を絶す
桃李春閨簾外月 桃李春閨簾外の月
吟魂一夜十年燈 吟魂一夜十年の燈

くま訳
黄檗に3頓60打殴られて悟った臨濟
棒で殴るのである。相手は戒律を守っている僧をである。
痛く打つ技能は飛びぬけてるのである。
逢瀬のしとねで、部屋の外の月を見るようなものである。(悟りを得る為の指導と何の関係も無いことであ
る) そうでなければ生身で矢の様に早く地獄行きなのじゃ。

*三頓:1頓=20 3頓=20×3=60
*羯磨:梵語、訳して作法、又は業といふ、四法を具すべし、又三種ありと、得会の師、證據の師の意なり 
 (大成脚注)〈梵〉karmaの音写。① (天台宗、浄土宗などでは「かつま」、律宗、真言宗などでは「こん
ま」という。業、作業、所作などと訳す) 広義には儀式、作法のこと。通常は戒律上の受戒(じゅかい)、
懺悔(さんげ)、結界(けっかい)などの折の作法をいい、密教では如来のはたらき、諸尊の威儀などの意に
用いる。
*黄檗三頓棒 359の詩 参
*桃李:唐の劉禹錫 (りゅううしゃく) の「満城の桃李春官 (しゅんかん) に属 (しょく) す」の詩句か
ら》試験官が採用した門下生。自分がとりたてた人材。
(´・(ェ)・`)つ

751避難民のマジレスさん:2021/09/06(月) 00:10:39 ID:q09fDcSk0
くま訳改
第三句:その字脚などは客の盃に写った弓影と見るのだ。
第四句:そうでなければ生身で矢の様に早く地獄行きなのだ。
(´・(ェ)・`)b

752避難民のマジレスさん:2021/09/06(月) 20:40:11 ID:wYm5/Zhk0
くま訳(750)訂正
第4句:そうでなければ生身で矢の様に早く地獄行きなのじゃ。→削除→詩ごころとしては、一晩が十年の 
    様に感じられるような、話である
(´・(ェ)・`)b

753鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/07(火) 22:48:43 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

 黄檗の棒を三頓なのじゃ。

 棒で修業中の僧の頭を打つのじゃ。
 痛い所に針を押すような絶技能なのじゃ。
 あたかも桃李の春に閨の簾外の月を見て
 吟魂する一夜をてらす十年の燈のようじゃ。

754避難民のマジレスさん:2021/09/08(水) 00:08:42 ID:/.kdcULo0
522 
賛法然上人   法然上人を賛す
法然傳聞活如來 法然傳へ聞く活如來
安坐蓮花上品臺 安坐す蓮花上ほん台
教智者如尼入道 智者をしてに入道の如くならしむ
一枚起請最奇哉 一枚の起請最も奇なるかな

大角修先生のブログ 訳
法然上人は生き仏だったと伝え聞き、
今は極楽の蓮華の最上席に坐しておられる。
学僧でも在家・無知の人のようであれという
一向念仏の一枚起請文は
まったく奇跡のような書である。

くま訳
法然上人を賛す
法然は生き仏であったとの伝説である。
極楽の蓮華の花の最上台に安坐してるらしい。
教える立場の智者も、在家の尼さんのよな愚鈍なものと自覚しなければならないそうだ。
一枚起請とは最も奇なる文章である。

*法然(1133-1212)は、平安時代末期から鎌倉時代初期、はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、 
 1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できると 
 いう専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。
*尼入道: 在家のまま髪を剃って仏門に入った女性。尼女房。
 ※一枚起請文「たとひ一代の法を能々学すとも、一文不知の愚どんの身になして、尼入道の無知のともが
 らに同して、智者のふるまひをせずして」
*一枚起請文:法然の作。念仏の要義を1枚の紙に平易な文章で書き,釈迦・弥陀に偽りのないことを誓っ 
 た文。〈一枚消息〉ともいう。1212年,つねに法然のもとで仕えてきた源智が,師の命終が近いことを
 知り,没後に門人たちの間で異義の生じることを恐れ,浄土宗の安心起行(あんじんきぎよう)の肝要を 
 懇望したので,法然がこれに応じてみずからしたため源智に授与した。浄土宗では法然の遺訓として最も
 尊重する。京都の金戒光明寺に真筆と伝えるものを襲蔵する。
(´・(ェ)・`)つ

755避難民のマジレスさん:2021/09/08(水) 00:11:31 ID:pxS9a12E0
*750のおまけ
サワラ君の日誌 「漢詩名句400選」(有岡 しゅん崖 編著者/東京堂出版)より選句
黄庭堅(こうていけん) 寄黄機復 黄機復(こうきふく)に寄する
我居北海君南海 我 北海に居り 君 南海  
寄雁伝書謝不能 雁に寄せて書を伝うる能(あた)わざるを謝す  
桃李春風一杯酒 桃李 春風 一杯の酒  
江湖夜雨十年燈 江湖 夜雨  十年の灯(ともしび)   
持家但有四立壁 家を持するに但だ四立の壁有り  
治病不蘄三折肱 病を治すに三たび肱(ひじ)を折るを蘄(もと)めず  
想得読書頭已白 想(おも)い得たり書を読んで頭(こうべ)已に白く  
隔渓猿哭瘴煙藤 渓(たに)を隔て 猿は哭く  瘴煙の藤  

わたしは北海におり君は南海
雁に便りを頼んでも断わられるだろう
桃李の花の下で 春風に吹かれて一杯の酒

江湖の夜雨 別れて以来十年の灯火
家にはただ四方に壁があるだけ
いまさら苦労して成功しようとは思わず

思うに君は読書に励みながら白髪になっていようか

谷を隔てて猿が啼いていることだろう 毒気のある谷の藤葛


くま質問
 「あたかも桃李の春に閨の簾外の月を見て
  吟魂する一夜をてらす十年の燈のようじゃ。」
 とは、
 「あたかも、桃李の花の下で遊里の閨の窓外に月を見て
  詩情を誘われた一夜を照らした月明かり、あれからもう十年も経ってしまったようだ。」
 みたいな訳でよいのでありましょうか?

これは、悟りを得る切っ掛けを得た事態から、もう十年も経った、みたいな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

756鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/08(水) 23:10:11 ID:1d4drIFg0
↑ それは黄檗の賛であるからのう。
 黄檗は十年法灯を守り、一撃で修行者に悟りを得させたという意味じゃな。
 それはあたかも一夜の楽しみは、十年間照らし続けた燈明のおかげであるが如しというのじゃ。
 黄檗が十年法灯を守り続けた故に、僧も悟りを得たというのじゃ。

757鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/08(水) 23:17:38 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 法然の賛なのじゃ。

 法然は活きた如来と伝聞されているのじゃ。
 蓮華の上品の台に座すのじゃ。
 智者を教えて尼入道の如くするのじゃ。
 一枚起請は最も奇とすべきものなのじゃ。

758避難民のマジレスさん:2021/09/08(水) 23:50:14 ID:BZf28ne.0
くま質問
「智者を教えて尼入道の如くする」とは、どのように理解すればよいのでありましょうか?

523
貴人財     貴人の財
龐老棄錢誰擧楊 ほう老ぜにをすつ誰かこ楊す
曾撞玉斗亦何妨 かつて玉斗をつくもまた何ぞ妨げん
庭有梅花窓有月 庭に梅花有り窓に月有り
鐵檠紙帳五更霜 鉄けい紙帳五更の霜

くま訳
貴人にとっての財
ホウ老が銭を棄てて、誰が拍手喝采するのだろうか?
わしは、宝石をちりばめた柄杓で、酒を飲んだりしていたが、何か問題になるであろうか?
庭に梅あり、窓に月あり。
鉄の燈火台、紙のかや、風流な道具立ての部屋、明け方の霜

*龐居士:150(https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>919
 309(http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>259
     395(http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>458
 の詩 参 元曲(元代に隆盛した雑劇と散曲を総称したもの。)「来生債」参
*挙揚:賞賛をするために演技の後で拍手をするまたは声を張り上げる 誉め讃える
*玉斗:斗は酒を酌む七杓の類なり。それを玉を以って作れるものをいふ。史記の項羽本紀に「玉斗一叟亞 
 父に與へんと欲す」と。(大成脚注)
*鐵檠:燈火の臺架をいふ。。
*紙帳:紙で作ったかや(防寒具にも用いた)
(´・(ェ)・`)つ

759避難民のマジレスさん:2021/09/08(水) 23:55:15 ID:BZf28ne.0
*おまけ「来生債」の内容。 『有福詩人』と元曲「来生債」 徳田武先生 より抜粋
〔楔子〕襄陽の李孝先は商人となろうとしたが、元手を欠いているので、龐居士に二個の銀を借りて商売を
する。が、元手も利息もすってしまい、借金を返せない。彼は県の役所で負債人を拷問して追徴していると
ころを見、自分もそうされるかと苦にして、病んで寝込んでしまう。
 龐蘊は・・・娘は霊兆。・・・霊兆は善知識たちからその聡明と仏性の明らかなることを保証されている。
龐居士は大金持で、友人の李孝先が彼に返すべき元手と利息は銀四個になっている。龐は行銭(雑役の用人)
をつれて、李孝先の様子を見に訪れる。
 龐は李孝先から、借金を返せないので官から追徴されるかと苦にして病気になったことを聞き、「我当初
本做善事来。誰想倒做了冤業。」(私は元来善い事をしようとしたのであって、どうして人を苦しめる事を
しようなどと思ったろうか。)と考え、李孝先の借金契約書を焼き、その上に二個の銀を与える。李孝先は、
来生では驢にも馬にもなってこの恩を返そうと、厚く感謝する。

*楔子(けっ‐し):1 くさび。かすがい。2 物事の最も重要なところ。

〔第一折〕
 ・・・
 龐は、「大地衆生、皆有仏性。則為這貪財好賄、所以不能成仏作祖」(この世の衆生はいずれも仏性ある
も、・財を貪り賄を好むために仏祖となれない。)と説く。
 龐は行銭に文書を焼かせる。妻下児は、そのわけを問う。ところへ、上界の増福神が秀士曽信実に扮して、
文書を焼くわけを問いに来たる。龐、「業上に業を作(な)さざる」ようにすると答える。曽、「這銭是人之
胆、財是富之苗」(金は人の心の支え、財産は富の基礎)、銭無ければ満腹の文章も貧を済わず、という。龐、
世人は有限の時と身を思わずに富を追求し、貧人や朋友の依頼には相手にならない、我は財布を傾け尽して
人に恵みたい、そして世に隠れて悪業が身にまとうのを免れよう、という。曽、「富与貴人之所欲」(富と
貴とは人の欲する所)、魯褒の「銭神論」にも「危可使安、死可使活、貴可使賤、生可使殺。」(危きも安ら
からしむべく、死も活かしむべく、貴も賤ならしむべく、生も殺さしむべし。)とある、という。龐、銭の
持づに値せぬことを様々にいう。
 曽が帰るに当って、龐は金と馬を与える。曽は決してこれを受けず、二十年後に再会せんと述べて、別れ
る。
 龐は、夕暮になったので、行銭と一緒に香を焚きに廻り、粉ひき小屋に行く。粉ひきの歌を聞き、「心中
必然快活」なる者と思い、呼び出して、定めし楽しかろうと聞く。粉ひきは、労働の大変で苦しいことを説
く。龐は粉ひきの負担を取り除くこととし、また「自今日為始、蒋這粉傍油房磨房都与我関閉了者、再休要
開。」(今日より粉小屋・油小屋・磨(ひ)き小屋をすべて閉じて、二度と開くまい。)と定める。粉ひき、そ
れでは仕事が無くなって、凍死か餓死かしてしまうという。龐、粉ひきに銀を与える。龐は、粉ひきへの報
恩として銀を与えたのであり、龐が願うのは「善縁を結ぶ」こと、である。


粉ひきは、銀を懐中にしっかと押しこみ、「誰知道我懐裏有銀子。」(俺が懐に銀を持っていることを知る
者はいない。)といって、寝る。が、夢に、大道でスリに銀を取られる様を見、眼を覚す。今度は「竈窩
(そうか・かまど)」中に銀を慝し、「誰知道竈窩裏有銀子」(カマドに銀があることはわかるまい。)とい
い、眠る。また、火事の夢を見て、眼を覚す。今度は「水鵠」の中に銀を悪し、「誰知道水短裏布銀子」と
いって、眠る。しかしまたもや洪水の夢を見て醒め、今度は「門限児」の下に銀を慝して眠る。「他怎麼
知道我門限児底下、埋着這銀子。」(敷居の下に銀が埋めてあることは知れまい。)と思うが、夢に賊来って
自分を砍るを見、眼をさます。
 粉ひきは、大金を持つ福分が自分には与えられてないことを悟り、銀を龐居士に返しに行く。「我那命裏
則有分簸麦揀麦淘麦、打羅磨麺。我可也消受不的這個銀子罷。」(俺は麦を簸(ひ)いたり選んだりより分け
たりし、麦粉をふるったり挽いたりするのが分なんだ。俺にはこの銀は使いこなせないのさ。)というのが
粉ひきの感慨である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

760避難民のマジレスさん:2021/09/08(水) 23:56:16 ID:BZf28ne.0
〔第二折〕
 龐・下児・霊兆.鳳毛・行銭登場。龐居士、仏道は自ら修めて自ら得るものであると説く。また、貧人に
施与するのは自分だけだ、と唱う。
 そこへ、粉ひきが銀を返しに来る。龐居士は「這銀子呵原来分定也是前生注」(銀というものは前生に分
が定められているのか。)と嘆ずる。そして、一両の銀子を粉ひきに与えようとするが、粉ひきは受け取ら
ず、商売しに行く。龐居士は、後槽(厩)に行く。中では驢・馬・牛が話している。馬は、前生で十五両を龐
に返さなかったため、馬となって労働し返債している。驢と牛も同じ事情である。これを聞いた龐居士は驚
いて、「我当初本做善事来。誰想弄巧成拙。兀的不都放做来生債也。」(私は元来恵みを施そうとしたのに、
意外にも善かれと思ってしたことが悪しくなって、すべて来生までの負債を与えてしまった。)という。そ
して、文書を焼いて、もう人に銭を惜し与えない決心をする。龐居士の願いは「一世児清聞」(この世の静
謐)を得ることだけである。妻は強く焼かないように注告する。龐居士は、奴僕にすべて従良(解放)の文書
と二十両の銀を与えて自分の家に帰させ、家畜を鹿門山に放たせ、家財を海に沈めさせようとする。妻は子
供の将来を思って、強く反対する。が、龐居士は、家を放棄する決意を変えない。
〔第三折〕
 東海竜王、水卒をつれて出で、龐居士の船の来たるを待つ。龐居士、下児・霊兆・鳳毛・行銭と共に財宝
を積んだ船を東海に沈めに来る。その行為は「世人重金宝、我愛刹那静、金多乱人心、静見真如性」(世人
は金宝を重んずるも、我は刹那(このよ)の静なるを愛す、金多ければ人心を乱すも、静は真如の性を見(あ
らは)す。)という考え方に基づく。
 が、船は沈まない。龐居士は行銭に船底に穴をあけさせるも、なお船は沈まぬ。
 天使は東海竜王に命じて、龐居士の家財をすべて竜宮海蔵に収め入れさせる一天にわかにかき曇り、雷鳴
とどろき、船は沈む。
 龐居士は妻に、自分には笊籬(ざる)を編む腕がある、一日に十把の笊籬を編んで、それを霊兆に売らせて、
生計を立てようという。
〔第四折〕
丹霞禅師(嚢陽の雲岩寺の長老)は、毎日、寺に笊籬を売りに来る霊兆を気に入っていて、それを沢山買って
いる。この日、禅師は霊兆にちょっかいを出して、霊兆に逃げられる。ために禅師は、笊籬を買わなかった
ので、霊兆のために一百文を落としておく。霊兆はこれを見つけ、思案のあげく、銭を拾い、そのかわりに
十把の旅籠を代償として置いておく。
 龐、下児・鳳毛登場。霊兆は父親に一百文と笊籬をとり換えたことを報告する。青衣童子が彼らを迎えに
来、彼らは兜率宮霊虚殿に到り、石洞門に入る。そこに註禄神が現れる。それは生前の李孝先が変じた神で
ある。註禄神は増福神を引き合わせる。これは、曽信実が変じた神。増福神は、龐居士が今日「功成行満、
証果朝元」(功成り修行も終えて、神仙に昇る。)ことを告げる。曽信実が二十年後に再会しようと述べた言
葉は、ここに果たされた。龐居士は上界の賓陀羅尊者、.下児は上界の執幡羅刹女、鳳毛は善才童子にそれ
ぞれなり、霊兆は特にまさって南海普陀落伽山七珍八宝寺の自在観音菩薩となる。
龐鹿居士は「人世官員(このよのやくにん)」に「莫恋浮銭、只将那好事常行、管教你一個々得道成仙。」
(はかない金を求めずに、ひたすら善事を行うならば、必ずすべての者が道を得て仙とならん。)と勧める。

(´・(ェ)・`)
(おわり)

761鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/09(木) 23:40:02 ID:1d4drIFg0
>>758 法然は浄土教の者であったからのう。
 賢い者に念仏を教えて男女を尼や僧のようにしたということじゃな。

762鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/09(木) 23:44:30 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 貴人の財というのじゃ。

 ?居士は銭を捨てたが誰が誉め讃えたじやろうか。
 かつては玉杯で酒を飲んだが何の妨げになったじゃろうか。
 庭に梅花あり、窓には月が在るのじゃ。
 鉄の燈火台に紙の蚊帳、明けに霜がおりるのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2021/09/10(金) 07:17:00 ID:gNt.YYHs0
くま訳改
第二句:かつては玉杯で酒を飲んだが何の妨げになっただろうか。

524
松窓 齋名   しょうそう 齋めい 
茅廬竹閣與難窮 ばうろ竹閣興きわまりがたし                                     
臨濟栽來功不空 臨濟うゑ来たって功むなしからず
枕上愧慚有閑夢 枕上愧慚す閑夢有るを                                                                                                    
夜來驚起屋頭風 夜來驚起す屋頭の風

くま訳
松窓 齋名 
萱葺き屋根の竹閣の住まいの楽しみは、窮め尽くせないのである。
臨濟が遺した功績は偉大である。
夜寝ていて夢を見てしまうことは、恥じ入るばかりである。
夜来、屋根の上を吹きぬける風音に驚き飛び起きてしまうのである。

*茅廬(ぼうろ):茅葺(かやぶ)き屋根の家。粗末な家。転じて、自分の家をへりくだっていう語。
*竹閣:竹で作った建物
*臨済栽松、         師、松を栽うる           
 次黄檗曰、深山裏栽許多松、 次(つ)いで、黄檗問う、「深山裏に許多(そこばく)を栽えて、
 作甚麽、          什麼(なに)をか作(なさ)ん」。
 師曰、一与山門作境致、   師云く、「一つには、山門の与(ため)に境致と作(な)し、
 二与後人作標膀、      二つには、後人(こうじん)の与(ため)に標榜と作(な)さん」。
 道了将钁頭墾地三下、    道(い)い了わって、钁頭(かくとう)を将(もっ)て地を打つこと三下す。 
 檗曰、           黄檗云く、
 雖然如是子己喫吾三十棒了也、「然(しか)も是(かく)の如くなりと雖も、子(なんじ)已に吾が三十棒を喫  
               し了われり」。
 師又墾地三下、嘘一嘘、   師、又钁頭を以て地を打つこと三下し、嘘嘘(きょきょ)の声を作す。
 檗曰、吾宗到汝大与於也。  黄檗云く、「吾が宗、汝に到って大いに世に興らん」。』

 萬福寺住職 福場宗康和尚訳
 ある時、臨済禅師が境内に松の木を植えていると、
 師匠の黄檗禅師が来て言いました。「こんな山奥に松を植えて、
 どうするつもりか」。
 臨済禅師は、「第一には寺の境内の景観をよくするため。
 第二には後の修行者がこの松を見て、松を植えた私の心を感じて、自分の生き方の糧としてくれたら」。
 と返答して、鍬で土を三度掘り起こしました。
 そこで黄檗禅師は追い打ちをかけます。
 「なるほど、そういうことか。だが境内に松など植えたところで、それがどうだというのだ」。
 しかし、臨済禅師の態度は変らず、また鍬を三度振り下ろすと大きく息を吐きました。
 黄檗禅師は、鍬をとって黙々と仕事に励む臨済禅師の姿を見て、
 「我が宗門は、おまえの代で大いに興隆するだろう」。と言い残されたそうです。
(´・(ェ)・`)つ

764鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/10(金) 23:01:32 ID:1d4drIFg0
 それでよいのじゃ。

 松窓の齋名なのじゃ。

 茅廬竹閣の興は極めがたいのじゃ。
 臨済が植え来たってその功は空しくないのじゃ。
 閑にあかせて夢ばかり見ているのを枕上に恥じるのじゃ。
 夜来、屋根にふく風に驚いておきるのじゃ。

765避難民のマジレスさん:2021/09/10(金) 23:27:52 ID:0ulgyI.g0
くま質問
 「閑にあかせて夢ばかり見ているのを枕上に恥じる」とは、ありのままを観ることをせず、妄想に耽るこ
とでは、悟りには至らない、みたいな事を言おうとしてるのでありましょうか?

525
讓羽山新剏一寺  讓羽山に新に一寺をはじむ
山名虚堂寺扁大燈 さんをき堂寺と名づけ、大燈と扁す、 
因述一偈     因って一偈をのぶ

茅屋三間起七堂 ぼうおく三けん七堂を起こす
狂雲風外我封疆 狂雲風外我がほうきょう
夜深室内無人伴 夜深うして室内人の伴ふ無し
一盞殘燈秋點長 一さんの殘燈秋點長し

柳田聖山先生訳
虚堂山大灯寺
わずか三間の茅葺の小屋を建て、七堂伽藍とし、
これを世捨て人、狂雲子の住む別天地とした。 
夜が更けても、この住いに自分以外は居ない。
燭台の残り火が秋の夜長を照らすのみなのだ。

くま訳
讓羽山に新しく一寺を始めたのである。
山名を虚堂寺、扁大燈と扁したのである。
因って一偈を以って述べるのである。

茅葺屋根の間口三間(約5.5m)の寺院である。
野宿暮らしの狂雲の住処としたのだ。
夜更けて、室内にはわししかいないのだ。
残灯の下で、一人で一杯飲む、秋の夜長である。

*七堂:七堂伽藍(しちどうがらん)伽藍はサンスクリット語 saṃghārāmaの音写である僧伽藍の略。イン
 ド本来の意味は,修行者たちが住する園林のことであるが,中国,日本では一般に僧侶の住む寺院堂舎の
 称。後世,一つの伽藍には7種の建物を備えなければならないとし,これを七堂伽藍という。
*一盞(イッサン):① 一つのさかずきや皿。② 一杯の水や酒。また、それを飲むこと。軽い飲酒。
(´・(ェ)・`)つ

766鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/11(土) 23:40:32 ID:1d4drIFg0
↑そのようなことじゃな。
 作務も禅では立派な修業だというのじゃ。
 怠けていてはいかんのじゃ。

 それでよいのじゃ。

 山に新しい寺を作って一偈をのべるのじゃな。

 三間の茅屋を起こして七堂となすのじゃ。
 わしが風をよける家とするのじゃ。
 深夜になれば誰もいないのじゃ。
 一杯飲んで秋の長夜を残灯が照らすのをみるのみなのじゃ。

767避難民のマジレスさん:2021/09/11(土) 23:51:12 ID:BIGPSRTI0
526
聾       ろう
掛拂遭呵百錬金 ほつをかけてかせらる百錬の金
天生懐海耳根深 天生ゑ海じこん深し
眞聞眞箇在何處 眞聞眞箇いづれのところにか在る
爲鼓無絃一曲琴 爲に鼓す無絃一曲のきん

青柳仁先生訳・解説
馬祖さんのところで、払子を壁に掛けていた時、百丈さんは一喝されてね、三日もの間耳が聞こえなくなっ
たんだよ。
馬祖さんの一喝は根源的な真実を開示してくれる百戦錬磨の鍛え抜かれた金言なんだ。
その真実の言葉にはっと気づいた百丈さんは、聞こえない真実の言葉を聞き取る力を持っていたんだね。
いわば弦のない琴の音を聞き分けることができたので、馬祖さんは無弦の琴を奏でたんだよ。

※払を掛け、呵に遭う:『伝燈録六』にある。馬祖道一さんに一喝された百丈懐海さんが、三日間耳が聞こ 
 えなくなったという話。

くま訳

百丈は馬祖と同じように払子を曲彔(きょくろく)に立て掛けえたので、馬祖から百戦錬磨の金言の喝を受
けて悟ることができた。
百丈懐海は生まれながらにして聞き取る能力が高かったので、
真実を真に聞き分けることができたのであろう。
馬祖はそれがわかっていたので、無弦の琴で一曲奏でたのだ。

*爲鼓無絃一曲琴:無弦の琴、無孔の鐵笛、鼓吹し得て之を不聞裡に聴き来たって、始めて真箇の消息を七
 得るなり(大成脚注)
*聾:水上勉解説:百丈懐海が払子をかけて馬祖に大喝されて耳が三日もきこえなかった故事を下敷きに、  
 天性百丈は耳根がふかかったゆえに真聞真箇が悟れたとされる。
*真個・真箇:まことであること。事実であること。虚偽のないこと。また、そのさま。真正。しんか。ま
 ことに。実に。はたして。
(´・(ェ)・`)つ

768鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/12(日) 23:37:39 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 払子をかけて呵に遭う百錬の金なのじゃ。
 天が生み、海が抱いていた耳根は深く心に根ざしているのじゃ。
 真聞、真個はどこにあるのじゃろうか。
 鼓を打つのは弦のない琴で一曲演じる為なのじゃ。

769避難民のマジレスさん:2021/09/12(日) 23:59:28 ID:d9q5xzjA0
くま質問
 「呵に遭う百錬の金」とは、耳が聞えなくなったが、真理を悟ることができた。
 「天が生み、海が抱いていた耳根は深く心に根ざしている」とは、天性の理解力の深さによるのである。
 「鼓を打つのは弦のない琴で一曲演じる為」合の手を入れるのは、自力で悟りを得るように導くため、い
 たいな理解で良いのでありましょうか?

527
病中還人送曲椂 病中人の曲ろくを送るを還す  
法座上禪名利基 法座上の禪は名利のもとゐ
諸方竪拂與拈鎚 諸方じゅほつとねんついと
圓悟金山遭大病 圓悟金山大病にあふ
苦吟小艶一章詩 苦吟す小艶一章の詩

くま訳
病中に、人から曲椂(寺での説法の時に使う椅子)を贈られたが、返したのである。
法座上の禪は名利を求めるものである。
諸方の師家は、払子をたてたり、鎚をひねったりし見せて指導する
圓悟は金山に行って大病を患ったのであるが、(圓悟にとって、苦はそこには無く、)
一章の小艶詩を吟じる中にあったのだ。 

https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/  >>889
*圜悟克勤(えんご こくごん、1063-1135宋代の禅僧圜悟禅師、仏果禅師、真覚禅師と敬称される。
 諸処の高僧のもとで修行し、最後に五祖法演の弟子となった。のち金山に行き病を得て、再び五祖法演の 
 もとに戻り、法を嗣いだ。
 碧巖録に垂示・著語・評唱を加えた。
*『五灯三元』十九にある禅宗史話。圓悟は金山で罹った大病が治って、師の五祖法演のもとに帰ると、五
 祖は陳提刑に小艶詩を提唱していた。それを耳にして園悟は大悟した。
(´・(ェ)・`)つ

770鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/13(月) 23:59:09 ID:1d4drIFg0
↑それは十分に実践して来た者が大喝にあったといことじゃな。

 人に拠るが聴覚に拠って自我を保つものも居るのじゃ。
 それが百丈であったのじゃな。
 そのために一喝を受けて悟れたのじゃ。

 本来無我の者にそれを悟らせるために、大喝をしたということじゃな。
 鼓は大喝であり、弦のない事とは衆生本来無我の仏であるということなのじゃ。

771避難民のマジレスさん:2021/09/13(月) 23:59:52 ID:fdObWdiE0
528
亂裡工夫
毎朝高叫甚忙忙 毎朝高く叫んで甚だ忙忙
受敵機先當八方 敵を受けて機先八方に当たる 
観法坐禪休度日 観法坐禪日をわたることを休めよ
但須勤跋扈飛揚 だだ須らく勤めてばっこひようすべし

くま訳
混乱の中での工夫
毎朝大声で叫ぶ、はなはだ気忙しい
真先に攻撃を八方から受ける
徹夜して坐禅をするのはやめておけ
ただ、当然為すべきこととしては、常識など無視して、勝手に振舞うことである。

*忙忙(ぼうぼう、せわせわ)せわしくて落ち着かないさま。せかせ
*坐禅観法:坐禅を組んで、心中に悟道を黙想すること。
*飛揚跋扈(ひようばっこ):思うまま横暴に振る舞うこと。または、臣下が好き勝手に振る舞い、君主の力
 をこえること。「飛揚」は猛禽類の鳥が舞い上がること。「跋扈」は魚を捕まえるための竹垣の罠を飛び 
 越えて逃げること。悪人などが、常識や規則などを無視して好き勝手に行動することをいう。

772鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/14(火) 00:09:08 ID:1d4drIFg0
琴じゃな。

そんな感じじやな。

 病中に人から曲禄を送られるが還したのじゃな。

 法座の上の禅は名利の基なのじゃ。
 諸方の僧は払子を使い、槌を捻ったりするがのう。
 圓悟は金山で大病にあったが、
 小艶一章の詩の苦吟を聞いて悟ったのじゃ。

773避難民のマジレスさん:2021/09/14(火) 00:17:27 ID:fdObWdiE0
>>770
鬼和尚、くまにも分かる解説を、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

774避難民のマジレスさん:2021/09/14(火) 00:22:30 ID:fdObWdiE0
くま訳改
第三句:(圓悟にとって、苦はそこには無く、)削除
第四句:小艶一章の詩の苦吟を聞いて悟ったのだ
(´・(ェ)・`)b

775鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/14(火) 23:11:55 ID:1d4drIFg0
>>773 どういたしまして、まおい゛てなさい。

776鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/14(火) 23:14:42 ID:1d4drIFg0
>>771 それでよいのじゃ。

 乱の中での工夫じゃな。

 毎朝高く叫んで忙しいのじゃ。
 敵を受けて機先を制して八方に当たるのじゃ。
 観法坐禪は日をわたることを休めるのじゃ。
 ただすべからく勤めて自らを跋扈飛揚させるのじゃ。

777避難民のマジレスさん:2021/09/15(水) 00:27:12 ID:NAZeRgmA0

くま質問
 「乱の中での工夫」とは、戦乱の中での工夫と言う意味と、仏道修行の中での心の乱れという意味をかけ
 てるのでありましょうか?
 「毎朝高く叫んで忙しい」とはどの様な状況でありましょうか?
 「敵を受けて機先を制して八方に当たる」とは、常に注意深く、周囲の状況や溢れ出す思考妄想に気付い 
 ていなさいみたいな意味でありましょうか?。
 「日をわたることを休める」とは、どの様な意味でありましょうか?
 「勤めて自らを跋扈飛揚させる」とは、常識や規則に囚われないで、自由に意識を飛翔させなさいみたい 
 な意味でありましょうか?
529
利欲忘名  1/2 利欲名を忘る 1/2
利欲農夫商女情 利欲の農夫商ぢょの情
絶交美譽與芳聲 交わりを絶つ美誉と芳声と
梅花雪月非我事 梅花雪月我が事に非ず
貪着米錢忘却名 米錢を貪じゃくして名を忘却す

くま訳
利欲は名分を忘れさせる
自分の利益を得ようとする農夫や商売女のような情や
名誉や名声とは縁を切花雪月は我事ではないのだ。
食い扶持を稼ぐことに執着すると、守るべき名分を忘れてしまうのだ。
 
*美誉:よいほまれ。立派な名誉。
*芳声:よい評判。名声。
*名:守るべき分際。名分
(´・(ェ)・`)つ

778鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/15(水) 22:43:17 ID:1d4drIFg0
>>777 そのような意味じゃな。
 戦と心の中の雑念の働きをかけているのじゃな。

 人々が戦で朝から争うのと心の働きが朝から騒ぎ出すのをかけているのじゃな。

 戦で敵から目を離さず注意深く防衛するのと、心を油断せず観察する事をかけているのじゃな。
 
 夜には休むべきというのじゃな。

 戦で全力で戦うことと、自らの心を練磨して修業に励むことをかけているのじゃな。

779鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/15(水) 22:58:19 ID:1d4drIFg0
>>777 それでよいのじゃ。

 利欲は名を忘れさせるのじゃ。

 利欲は農夫や商人や女子の感情なのじゃ。
 それで美誉や芳声と交わりを絶ってしまうのじゃ。
 梅花雪月を我が事に非ずとして、
 米銭に貪欲に執着して名声を忘れてしまうのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2021/09/16(木) 04:10:22 ID:duC0Z0a20
くま訳改
第三句:梅花雪月を我が事に非ずとして、

530
利欲忘名  2/2 利欲名を忘る
賣弄深藏貪欲心 まいろう深くかくす貪欲の心
心中密密要黄金 心中密密に黄金をもとむ
詩情禪味風流譽 詩情禪味風流のほまれ
秋思春愁雲雨吟 秋思春愁雲雨の吟  

くま訳
利欲忘名 2/2
優れた者のように振る舞っていても、貪って飽くことの無い思いを深くかくしてるだけの者は、
心の奥底では黄金を求めているのである。
そんな俗気を離れた味わいのある詩情が、風流の誉である。
秋のもの悲しい思い、春の愁い、雲雨情交等を吟じるのだ。

*売弄(ばいろう):自慢すること。すぐれているようにふるまうこと。
*禅味:禅の趣。禅の、俗気を離れた味わい
(´・(ェ)・`)つ

781鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/16(木) 21:41:19 ID:1d4drIFg0
 それでよいのじゃ。
 よくできたのじゃ。


 また利欲で名を忘れるのじゃ。
 
 売弄する者は貪欲の心を深く隠しているのじゃ。
 心の中には深く隠しているが黄金を欲しているのじゃ。
 詩情の禪味、風流の譽を知らんのじゃ。
 秋思春愁に雲雨を吟じるのじゃ。

782避難民のマジレスさん:2021/09/16(木) 23:55:24 ID:LKUxK5AY0
531
紅葉題偈以呈多欲之僧 紅葉に偈を題して以って多欲の僧に呈す
滿庭落葉無僧掃 滿庭の落葉僧のはらふ無し  
南陽擁來猶落草 南陽擁し來たる猶ほ落草  
自悔成欲界衆生 みづから悔ゆ欲界の衆生と成るを
君子愛財是何道 君子財を愛す是れ何の道ぞ

くま訳
紅葉に題をとって偈頌を作り、欲深い僧(養叟宗頤)に呈するのである。
庭いっぱいに落葉があっても、掃除をする僧はいない
南陽慧忠を擁し(円相を説いても)ても、山賊になったようなものである
欲界に生れたことを、自分で後悔しているのであろう。
君子財を愛すとは、これのどこが仏道なのだ。

*南陽慧忠(なんよう えちゅう、675-775年、唐代の禅僧。諡は大証禅師。禅宗の六祖慧能の直弟子であ
 る。粛宗・代宗と2代の皇帝の参禅の師となり、慧忠国師と称せられた。ウィキペディア(Wikipedia)
(´・(ェ)・`)つ

783鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/17(金) 23:28:57 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 紅葉の題の偈を多欲の僧に呈するのじゃ。

 万庭の落葉、払い清める僧はいないのじゃ。
 南陽が擁し来たのは猶落葉なのじゃ。
 欲界の衆生と成ることを自ら悔いるべきなのじゃ。
 君子が財を愛するとはどのような道なのじゃ?

784避難民のマジレスさん:2021/09/17(金) 23:57:26 ID:.9jQ8Mx60
*落草:動詞 ((宋元明清時代の話し言葉の上に形成された書き言葉)) 盗賊の仲間に入る,山賊になる.

くま質問
「南陽が擁し来たのは猶落葉なのじゃ。」とは、南陽慧忠を擁し(円相を説いても)ても、山賊になっ
たようなものであるという解釈で良いでありましょうか?

532
題靈山塔贈正傳庵僧 りょうぜんの塔に題し、正傳庵の僧に贈る
看來眞箇正傳庵 看來たれば眞箇正傳庵
不説宗乗唯世談 宗乗を説かずただせい談
凛凛威風逼人冷 凛凛たる威風ひとにせまってすさまじ
當機覿面有誰参 當機てき面誰有ってか参ぜん

くま訳
霊山塔と題して、正伝庵の僧に贈る
見に来てみれば、真に正伝の寺院である。
自宗の教義は説かず、一般的な共有できる話をする。
凛とした威風がすさまじく圧倒してくる。
臨機応変な対応できる、参って見ようかという勇者はいないか

*霊山:=徹翁義亨(てっとう ぎこう)1295―1369。臨済(りんざい)宗。京都建仁寺で出家,宗峰妙超の法   
 をつぐ。大徳寺1世となり,法度(はっと)を制定する。のち徳禅寺をひらき隠居
*大徳寺 - 徹翁義亨の塔所正伝庵もある。(乱により焼失した徳禪寺を一休が大徳寺内に再建)
*宗乗:自宗の教義。もと禅宗で、禅門の宗義や禅の極致をいった語。他の教えを余乗といって区別した。
(´・(ェ)・`)つ

785鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/18(土) 23:00:01 ID:1d4drIFg0
↑ 落草じゃった。
 そのようなことじゃな。
 その法もまだ足りないところがあったということじゃな。

786鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/18(土) 23:05:32 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 靈山塔の題を正傳庵の僧に贈るのじゃ。

 看来たれば真個の正伝庵なのじゃ。
 宗乗を説かずただ世間話をするのじゃ。
 凛々たる威風は激しく人に迫ってくるのじゃ。
 機に当たって正面から参禅できるものがいるじゃろうか。

787避難民のマジレスさん:2021/09/18(土) 23:25:15 ID:AK2QRmX60
くま訳改
霊山塔と題して、正伝庵の僧に贈る
第二句:宗乗を説かずただ世間話をするのだ。

533
佛眼遠禪師三自省曰  佛げんをん禪じ三自省に曰く
報縁虚幻不可彊爲   報縁虚幻しひて為すべからず
浮世幾何随家豊儉   ふせいいくばくぞ家の豊儉に随ふ
苦樂逆順。道在其中。 苦樂逆順。道其のうちに在り。
動静寒温。自媿自悔  動じゃう寒温。みずからはじ自ら悔ゆ

自悔自慚温與寒 自ら悔ゆ自ら慚づ温と寒と
看看三界本無安 看よ看よ三界もと無安
愚迷正是衆生樂 愚めいはまさにこれ衆生の樂  
嘗蜜猶忘井底難 蜜をなめて猶ほせい底の難を忘る

くま訳
仏眼清遠禪師の顕した三自省に曰く
幻想的な仏縁を強いて求めてはならない。
浮世での在り様は、家の豊かさ貧しさにある程度関係するのである。 
苦あれば樂あり、楽あれば苦あり。仏道は其中にあるのである。
動と静、寒と温。自らを省みて愧じ、悔いてみるのである。

温寒を自省してみれば、
見よ、元から、現世は、心安らぐことがない。
愚迷で真理を知らぬことが、衆生の楽というものだ。
蜜をなめて、井の底の困難を忘れようとしているのだ。

*仏眼清遠(1067-1120) は五祖法演の法嗣で北宋末期の僧、仏果克勤・仏鑑慧勲とともに東山の三仏と称さ
れ、仏眼派の派祖。三自省:おまけ 参
*法縁:仏法に会う縁。仏縁。法を縁とする慈悲。
*虚幻(中国語):形容詞 〔非述語〕幻の,幻想的の,実体のない.
*浮世(ウキヨ・ふせい)1《もとは「憂き世」の意》仏教的厭世観から、いとうべき現世。つらいことの 
 多い世の中。無常のこの世。2 死後の世に対して、この世の中。現実生活。人生。3 つらいことの多い 
 男女の仲。4 《漢語「浮世(ふせい)」を「うきよ」と解して》定めのない、はかない世の中。はかない 
 世なら、浮かれて暮らそうという俗世の気持ちを含む。5 《近世初期から、現世を肯定し、享楽的な世 
 界をいう》遊里。また、遊里で遊ぶこと。6 他の語の上に付いて、当世風・今様の、または好色・風流 
 などの意を表す。[補説]本来は、形容詞「憂(う)し」の連体形「憂き」に名詞「世」の付いた「憂き世」 
 であったが、漢語「浮世(ふせい)」の影響を受けて、定めない人世や世の中をいうように変化し、「浮き 
 世」と書かれるようになった。はかないこの世の中。うきよ。
*随家豊儉:暮らし向きが豊かなら豊かなりに、貧しければ貧しいなりに。
*三界無安(さんがいむあん):現世で生きることは、苦しいことや悩むことが多く、心が落ち着いて楽になる 
 ことはないということ。「三界」は欲界、色界、無色界の三つの世界のことで、現世のことをいう。
「無安」は心が安らぐことがないこと。
*愚迷(ぐめい): 真理の道を知らず、愚かで迷いの多いこと。また、そのさま。
(´・(ェ)・`)つ

788避難民のマジレスさん:2021/09/18(土) 23:30:09 ID:AK2QRmX60
おまけ1
*仏眼清遠(長谷川昌弘先生解説抜粋) (1067-1120) は五祖法演の法嗣で北宋末期の僧、仏果克勤・仏鑑慧
勲とともに東山の三仏と称され、仏眼派の派祖
禅風は静的で言句にとらわれることのないものであったことが窺われる。一方で古来より彼の「坐禅銘」が
禅門では著名であり、坐禅を重視したことも明らかである。これらの点で既に虎丘派や曹洞宗との思想的近
似性は充分感じられるのである。・・・・

仏眼の「坐禅銘」は・・・「標指六偶井叙」に・・迷悟」、「坐禅」、「入道」、「見聞」、「水月」、
「語黙」の六篇の内の一つであり、元来はそれ自体独立したものではない点である。さすれば仏眼の「坐禅
銘」はやはり他の五偶とともに総合的に理解されるべきものであろう。しかるに「坐禅」においては・・
分別心の起滅は自然のままにせよという悪くいえば無事禅的雰囲気も感じられるが、起滅は「自心」より現
ずるとして「自心」の追求に重点が置かれている。・・・
仏道は元々きずが無いとして本来仏であるからあらゆるものが悟りのあらわれであるという本覚門的な現成
公案を強調し、言句に対して否定的態度を表明している。そしてそれは徹底した「自心」において可能であ
るとしている。・・・
仏眼の六偶の主眼は本来仏であるが故の「自心」の徹底肯定であり、それは頓悟によって可能なことであり、
またそれが故に仏法はあまねく目前に現成しているということにあると考えられる

佛眼三自省(読み下しなどは、今回は断念)
是身壽命,如駒過隙,何暇閑情?妄為雜事。既隆釋種,須紹門風。
諦審先宗,是何標格?道業未辦,去聖時遙。善友師教,誠不可捨。
自生勉勵,念報佛恩。惟已自知,大心莫追。報緣虛幻,不可強為。
浮世幾何,隨家豐儉。苦樂逆順,道在其中。動靜寒溫,自愧自悔。

*おまけ2「南禅院参道彫刻」石畳に彫られた仏教の教えである万物のもととなる、地・水・火・風・空の
 5つのシンボルの彫刻。(詩の解釈とは無関係である。幾何・禅でヒットしたのである)
 https://blog.goo.ne.jp/mimoron/e/9a9b7c96c8d9d0589cba7bd9e05bfd38
(´・(ェ)・`)b

789鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/19(日) 22:59:22 ID:1d4drIFg0
 
 それでよいのじゃ。

 仏眼遠禅師の三省に曰くなのじゃ。

 報縁は虚幻であるから強いて成すべからずなのじゃ。
 浮世の生活は家の豊貧に随うのじゃ。
 苦楽順逆、道はその中に在るのじゃ。
 動静寒温、自ら愧じ、自ら悔いるのみなのじゃ。

 自ら悔い、自ら愧じる、温と寒なのじゃ。
 見よ見よ、三界は本から安心はないのじゃ。
 愚にして迷うは正にこれ衆生の楽しみとするところなのじゃ。
 蜜を嘗めてなお井戸の底の苦しみを忘れるようなものじゃ。

790避難民のマジレスさん:2021/09/20(月) 02:34:17 ID:E.CBLgGI0
くま質問
「報縁は虚幻であるから強いて成すべからず」とは、仏道に縁があるとなどということは幻想であるから、
その縁に酬いる為に修行をしようなどとするべきではないというような意味でありましょうか?

534
各見不動
水流四念不同心 水は流る四念不同の心
佛界魔宮亘古今 佛界魔宮古今にわたる
寒窓風雪梅花月 寒そうの風雪梅花の月
酒客弄盃詩客吟 酒かく盃を弄し詩客は吟ず 

くま訳
各見解ゆるぎなし
四種の修行法は、説明は違っても、固定されない心に気付く為の法である。
仏界でも魔界でも、古今にわたって、
寒窓から見える風雪梅花月は、
酒客の盃をすすませて、詩客に詩を詠ませるのである。

*四念:四念所、又は四念住ともいひ、三賢位のうち念所の位に於いて修する観法。身念住、受念住、心念 
 住、法念住、吾人が浄、楽、我、常の四顚倒の盲見を起こす対象は、身、受、心、法の四法なり、今此の
 盲見を破せんがために、能観の知を以って身は不浄なり、受は苦なり、心は無常なり、法は無我なりと観
 ず、別想念住位にては別々に之を観じ、總想念住位に於いては、すべて同一時に之を観ず。(大成脚注)
 四念処(しねんじょ)四念住ともいう。仏教で 37種の修行を7つの部類に分けたものの第一で,この部
 類に属する4種の修行をさす。念処とは記憶をとどめおくことで,真剣な思いを意味する。 (1) 肉体の
 不浄 (身念処) ,(2) 感覚の苦 (受念処) ,(3) 心の無常 (心念処) ,(4) 法の無我 (法念処) に思いを
 凝らす観法。7つの部類の一つとして明確に位置づけられたのは後世であって,原始経典中には,上記の
 4種を独立の修行法として説く場合が多い。
*水流元在海、月落不離天。 水流れて元海に在り、月落ちて天を離れず
水はどこを流れても結局は海に帰り、月は落ちても天を離れることはない
種々に説示のしようは異るとも本分から離れはせぬ
(´・(ェ)・`)つ

791鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/20(月) 23:51:30 ID:1d4drIFg0
↑そのような理解で善いのじゃ。
 俗世の慣習であるから囚われてはいんのじゃ。

 それでよいのじゃ。

 各見不動なのじゃ。

 四念は水流の如く不同の心なのじゃ。
 仏界も魔界も昔から今まで常にあるものじゃ。
 冬に窓を開ければ風雪にも梅花が月の下に咲いているのじゃ。
 酒客は盃を弄び、詩客は詩吟するのじゃ。

792避難民のマジレスさん:2021/09/20(月) 23:58:56 ID:DDCdnTZ20
535
賛大應國師
看看佛日照乾坤 看よ看よぶつにち乾坤を照らす
天上人間唯獨尊 天上人間唯独尊
禪者如無渡東海 禅者もし東海を渡る無くんば
扶桑國裡暗昏昏 扶桑国裡暗昏昏 

柳田聖山先生訳
看よ仏の光は天地を照らす 
この人間世界にはただ独尊
老師が海を渡らなかったら
この日本に夜明けは見えず 

くま訳
大應國師を賛す
看よ仏の光明が天下を照らす 
天上界人間界でただ一人尊い 
大應が修行僧として東海を渡らなかったら 
日本国は暗黒の中にあったであろう。 

*天上人間(てんじょうじんかん)天上界と人間界のこと。または、絶対に通ずることのなく、遠く隔たって 
 いることのたとえ
*↓大応国師の木像を安置しています。この像は一休さんが63才の時につくられたものだそうである。
 http://www.ikkyuji.org/keidai_annai/kaizandou/kaizandou.html&quot;
(´・(ェ)・`)つ

793避難民のマジレスさん:2021/09/21(火) 00:16:59 ID:aNaEJB1A0
>>790
くま訳全面改
各見解ゆるぎなし
第一句:四念は水流の如く不同の心なのだ。
第二句:仏界も魔界も昔から今まで常にあるものである。
第三句:冬に窓を開ければ風雪にも梅花が月の下に咲いているのだ。
第四句:酒客は盃を弄び、詩客は詩吟するのだ。
(´・(ェ)・`)b

794鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/21(火) 23:01:10 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 大應國師の賛なのじゃ。

 見よ見よ仏の光が世界を照らすのじゃ。
 天上人間の中でただ独りの尊者なのじゃ。
 その禅者がもし東海を渡らなかったら、
 この国は昏昏として暗いままだったじゃろう。

795避難民のマジレスさん:2021/09/21(火) 23:16:52 ID:6ksfPKqo0
536
拾馬糞修斑竹 1/2 馬糞を拾ふてはん竹を修す 
煨芋懶殘舊話頭 わいうはらい殘の旧話頭
不求名利太風流 名利を求めずはなはだ風流
相思無隙此君雨 相思げき無しし君の雨
拭涙獨吟湘水秋 涙をぬぐふて獨り吟ず湘水の秋

くま訳
馬糞を拾って肥料にして、観賞用の斑竹を育てる  1/2
芋を焼いた、懶瓚和尚の古い公案
名利を求めることなく、はなはだ風流である。
雨に濡れる竹について思いをめぐらす風流さのように、自然な教として隙が無いのである。
身を投げた屈原を偲び涙を拭い独り吟じるのである、湘水の秋について

*懶殘:懶瓚和尚なるべし(大成脚注)
 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/  >>864 >>863
*斑竹(はんちく)稈の表面に黒褐色の斑紋がある。観賞用にされ,竹材は家具材にされる。
*隙なし(げきなし・ひまなし)①すきまがない。②絶え間がない。ひっきりなしである。③心のすきがな
 い。油断がない。
*此君(シクン):「晋書」王徽之伝の、竹を賞して、「何ぞ一日も此の君無かるべけんや」とある故事か
 ら》竹のこと。
*雨竹風松皆説禅  雨竹風松皆禅を説く(大慧普覚禅師語録)
 はあさん先生訳
 雨に濡れた竹も、風に揺らぐ松も、皆これ禅の大説法なり。大自然の営み、あらゆるものが説法だ。
  大慧普覚禅師は圜悟克勤の法嗣で,大慧派の始祖。大慧宗杲(そうこう)(1089-1163)。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/  >>850
(´・(ェ)・`)つ

796鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/22(水) 23:56:32 ID:1d4drIFg0
 
 そんな感じじゃな。

 馬糞を拾って斑竹を修めるのじゃ。

 懶殘の芋の話は古い公案なのじゃ。
 名利を求めずはなはだ風流なのじゃ。
 隙間なく互いに愛し合うこの君の雨なのじゃ。
 涙を拭って一人吟詠する湘水の秋なのじゃ。

797避難民のマジレスさん:2021/09/22(水) 23:59:18 ID:Vo0l78pI0
537
拾馬糞修斑竹 2/2 馬糞を拾ふて斑竹を修す
看看我養鳳凰心 看よ看よ我が養ふ鳳凰の心
燕雀鳩鴉山野禽 燕雀きうあは山野の禽
臨濟栽松一休竹 臨濟は松をうゑ一休は竹
三門境致後人吟 三門の境致後人の吟

くま訳
馬糞を拾って肥料にして、観賞用の斑竹を育てる 2/2
見よ、我が霊鳥のような心を
燕や雀や鳩やカラスは、山野の禽獣である。
臨濟は松を植え、一休は竹を植えるのである。
将来の境内の景観と、門人の指針とならんがために。

*三門境致後人吟:臨済栽松 524の詩 参
(´・(ェ)・`)つ

798鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/23(木) 23:09:13 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 また馬糞を拾って斑竹を修めるのじゃ。

 見よ見よ我が養う鳳凰心なのじゃ。
 燕雀鳩鴉は山野の禽獣なのじゃ。
 臨済は松を栽培し、一休は竹なのじゃ。
 これも三門の境を後人に吟詠させるために致すのじゃ。

799避難民のマジレスさん:2021/09/23(木) 23:36:32 ID:yO5CiIXo0
538
宗春居士下火 行年三十七 宗春居士のあこ 行年三十しち
彌勒釋迦也馬牛 彌勒釋迦また馬牛
春風脳亂卒何休 春風に脳亂してつひに何ぞ休せん
六六元來三十七 六六元來三十七
一聲念讃起鐘樓 一聲の念讃鐘樓より起こる

くま訳
宗春居士火葬式 行年三十七歳
彌勒や釋迦、また馬牛
春風に悩み苦しんで、ついにどうして休むのか
六六元來三十七、不生不滅のまじないである
仏徳を讃える念讃の一声は、この、鐘楼上より起こるのである。

*下火:下炬に同じ、松火を以て火を点ずること、火葬式最後の作法にして、遺骸を焚焼する燃料に火を点 
 ずるなり、今は引導師、偈文を唱えて擬炬を拋ち 、点火の態を為すのみ。(大成脚注)
*行年:この世に生まれて何歳まで修行したかを意味する満年齢
*悩乱:悩み苦しんで心が乱れること。
*六六元来三十七:一声の念、讃合して卽ち六六三十七、形骸滅して却って一を増す、卽ち不生不滅なり。
*念讃:念仏奉讃のことで、心に仏を念じ口に名号を誦し、仏徳を讃えまた報恩感謝をあらわす言葉
(´・(ェ)・`)つ

800鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/24(金) 23:17:11 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 宗春居士という者の葬式じゃな。
 行年三十七だったというのじゃ。

 弥勒も釈迦ももとは牛馬だったのじゃ。
 春風に悩乱し休む暇もなかったのじゃ。
 修業して六六は元來三十七で不生不滅の悟りを得たのじゃ。
 一声の念賛は鐘樓より起こるのじゃ。

801避難民のマジレスさん:2021/09/24(金) 23:54:08 ID:JrSta6iA0
くま質問
「弥勒も釈迦ももとは牛馬だったのじゃ。」とは、修行により悟りを得た人と凡人との違いは、人と牛馬と
の違い以上に大きい、みたいな意味でありましょうか?

539
制戒
貪看少年風流 貪り看る少年の風流
風流是我好仇 風流は是れ我が好仇
悔錯開爲人口 悔ゆらくはあやまってい人の口を開くことを 
今後誓縮舌頭 今よりも後誓って舌頭を縮めん

くま訳
戒を保つのだ・おしゃべりは慎むのだ。
少年の風流を貪るように能の舞台で観劇する
風流は我が良きつれあいである。  
後悔しているのは、うっかりして、人の噂になるような事を言ってしまったことだ。
今後は誓って口を慎むのだ

*制戒:ヨーガ修業法の8段階のうち,最初に実践される方法で,不殺生,不妄語,不偸盗,不邪淫,無執 
 着の5戒を保つこと。
*一休さんの偈頌や詩には、能を題材にしたものがある。(金春座者歌・475等) 
 田口和夫先生によると、一休詩集には、志津賀、「風流艶色少年春」、「初めて発く風流美少年」等と詠 
 まれている詩がる。 file:///C:/Users/USER/Downloads/KJ00004252359%20(8).pdf 16 14
*好仇(こうきゅう) (「仇」は、つれあい、相手の意) よい相手。よい仲間。また、似つかわしいつれあい。 
好逑(こうきゅう)。
(´・(ェ)・`)つ

802鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/25(土) 23:44:40 ID:1d4drIFg0
↑ それは如来ももともと輪廻をさまよう衆生の一人に過ぎなかったということじゃな。
 修行をすれば凡人でも悟れるというのじゃ。
 実践がすべてなのじゃ。

803鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/25(土) 23:48:20 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。


 戒を制するのじゃ。

 貪欲に少年の風流を見るのじゃ。
 風流は我が好むところの仇なのじゃ。
 後悔するのは誤って人のために口を開いたことなのじゃ。
 今後は舌頭を縮めてそんな話はしないと誓うのじゃ。

804避難民のマジレスさん:2021/09/26(日) 00:02:15 ID:uuKEcQjE0
540
迷悟
無始無終我一心 無始無終我が一心、
不成佛性本來心 不成佛の性本來の心
本來成佛佛妄語 本來成佛佛の妄語
衆生本來迷道心 衆生本來迷道の心

くま訳
迷いと悟り
悟りに、始めも終りも無いのだ。始めから一つなのだ。
成佛する、悟ると言う事も無いと言うのが真理である。
本來成佛しているのだ、と言うのは、佛の妄語である。
衆生は本來、悟りを求める道に迷っているだけなのだ。

*迷吾:凡聖、佛衆生不二を説くなり(大成脚注)
迷悟一如:迷いや悟りといったものに、囚らわれることはないという意。迷いも悟りも本来は同一のもので、
たどりつくところは一つであるということ。
わが心は始めも終わりもなく、成仏などしないのが心の正体だ。

くま質問
「悟り」という特別の境地など無い。迷いがそのまま悟りと言ってるのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

805鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/26(日) 23:36:34 ID:1d4drIFg0
↑今迷っている心が悟りへの入り口ということじゃな。
 迷うことが出来る心に気付けば悟りが起こるというのじゃ。
 それもまた今ここにある心の働きであるからのう。


 そんな感じなのじゃ。

 迷悟なのじゃ。

 始まりも終わりもない我が一つの心なのじゃ。
 仏には成るのではなく本来の心に戻るだけなのじゃ。
 衆生も本来仏であり、仏に成るというのは妄語なのじゃ。
 衆生の本来迷う心が道心なのじゃ。

806避難民のマジレスさん:2021/09/26(日) 23:57:39 ID:Vo1wDGXs0
541
示延壽堂僧   延壽堂の僧に示す
無常殺鬼現前時 無常の殺鬼現前の時
末期牢關説向誰 末期の牢關誰にか説向せん
百事難休五欲閙 百事休し難うして五欲いそがし
六窓欲鎮八風吹 りく窓とざさんと欲すれば八風吹く

くま訳
延壽堂(涅槃堂)の僧に示す
今際の際(いまわのきわ)の、
修行の最終局面で、誰に対して説くか
多方面にわたり忙しく、五欲にまみれている
六つの感官能力を閉ざそうとすると、八つの修行を妨げる出来事が起こるのである。、

*無常殺鬼現前時:臨命終に到るの時なり(大成脚注)
*六窓欲鎮八風吹:六窓は根にして、八風は人の心を動かす風の如き、八種の法、曰く、利、衰、毀、 
 譽、稱、識、苦、樂の八を云ふ。
 八風(はっぷう)とは、仏の教えに基づいた修行を妨げる8つの出来事の事。
 人間が求める4つの出来事 四順(しじゅん)と、
 人間が避ける4つの出来事 四違(しい)とからなる。
 四順: 利い(うるおい)‐目先の利益
     誉れ(ほまれ)‐名誉をうける
     称え(たたえ)‐称賛される
     楽しみ(たのしみ)‐様々な楽しみ
 四違: 衰え(おとろえ)‐肉体的な衰え、金銭・物の損失
     毀れ(やぶれ)‐不名誉をうける
     譏り(そしり)‐中傷される
     苦しみ(くるしみ)‐様々な苦しみ
*延壽堂:武田鏡村先生解説「盲女森侍者、情愛はなはだ厚し、まさに食を断って命を殞(おと)さんとす。
愁苦のあまり、偈を作りてこるを云う」
この「情愛はなはだ厚し」は、肉欲の情というものではなく、一休がしばしば病気になっていたことから
して、森女が食断ちをして回復を祈ったものであろう。この前書きにつづく二首には「一日作ざれば一日
食わず」の百丈和尚が生涯作務をやめなかったのに、自分は働くこともせずに涅槃堂で禅をしているとう
たっている。涅槃堂は延寿堂ともいわれて、病気になった僧が養生する部屋のことである。
一休と森女の出会いを文明三年とすれば、一休は七十八歳である。それから十年、一休は存命するが、た
びたび重い病にかかったことは一休の詩や『年譜』でもうかがえる。一休は目が不自由でありながらも献
身的に自分の世話をする森女に深く感謝した。そして、そうした森女を理想的な女性として偶像にまで高
め、それを詩とした。
*末後の牢関:特定の公案があるわけではなく、修行者に宗旨の最後を尽くさせるという意味のものです。
「末後の牢関」のさらに後に、「最後の一訣」を置く場合もあります。具体的には、「臨済一句白状底」、
「白雲未在」、「百丈野鴨子」などの公案がこの段階の公案として使われることがあるようです。「末後の   
牢関」は、「布施位」と呼ばれることもあります。
(´・(ェ)・`)つ

807避難民のマジレスさん:2021/09/27(月) 00:08:57 ID:v1y86gyc0
>>805
くま訳
鬼和尚、くまにも分かる解説をいつもありがとうであります。
↑今迷っている心が悟りへの入り口。
 迷うことが出来る心に気付けば悟りが起こる。
 それもまた今ここにある心の働きである。
で、ありますね。
(´・(ェ)・`)b

808鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/27(月) 23:14:05 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、今ここにある心の働きが見られれば悟りもやってくるのじゃ。
 それが迷いの心であっても迷いの心と見られればよいのじゃ。

809鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/27(月) 23:17:42 ID:1d4drIFg0
 
 それでよいのじゃ。

 延壽堂の僧に示すのじゃ。

 無常の殺鬼が目の前に現われた時
 末期の牢で誰に何を説こうというのか。
 百の仕事は休むのが難しく、五欲も忙しいものじゃ。
 六根の窓は欲を鎮めようとしても、八風が吹いて困難なのじゃ。

810避難民のマジレスさん:2021/09/27(月) 23:49:39 ID:Dkperbv60
542
戒参玄僧名利  参玄僧の名利を戒む
迷道衆生劫外愚 迷道の衆生劫外の愚
人人涙不識窮途 にんにんなんだ窮途をしらず
諛官只願佳名發 官にへつらって只だ願ふ佳名の發するを
眞菩提心一點無 眞の菩提心一點も無し

京都はんなり旅HP訳
禅の玄奥に参ずる僧(禅の奥深さに入ろうとする僧)が名利を追うことを戒める
道を見失い迷いつづける人々(僧)は、何と愚かなことか、
人々(僧)は涙を流して道を探すが、解決のためのてだてに行き詰まることを知らぬ。
(なぜなら)役人にへつらって、ただ自分の名声が上がることだけを願っている(からだ)、
本当に悟りを求めようとする心などひとかけらもない。

くま訳
玄妙な仏法を求める僧に対して名利を追う事を戒める
道に迷う僧は、窮めつけのバカである。
僧は涙するが、道が行き詰まることを知らない。
役人にへつらって、ただ名利を得る事だけを求めているようでは、
本当に悟りを求める心など少しも無いのである。

*参玄:玄妙な仏法に参ずること
*劫外:この世界の、発生・安定・変化・消滅という、四つの劫の期間、原理を、超越した、
*窮途(きゅうと)① 行きづまりになった道。② せっぱつまって、どうにもならない困難な状態、または立 
 場。困窮している境遇。
(´・(ェ)・`)つ

811鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/28(火) 23:36:27 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 参玄僧が名利を求めるのを戒めるのじゃ。

 迷い道の衆生は永久に愚かなのじゃ。
 人々が涙する困窮の道を知らないのじゃ。
 官に諂いただ名声を願うのみなのじゃ。
 真の菩提心は一点も無いのじゃ。

812避難民のマジレスさん:2021/09/28(火) 23:57:24 ID:yUGrJKF.0
くま訳改
第二句:人々が涙する困窮の道を知らないのだ。

くま質問
「迷い道の衆生は永久に愚か」この衆生とは、修行者のことでありましょうか?
「人々が涙する困窮の道」とは、その修行者が、大衆の生活困窮の状況を知らない、知ろうとしないことを
言ってるのでありましょうか?

543
大慧禪師焚碧巖集 大慧禪じ碧巖集をやく
妙喜老人千歳名 妙喜老人千歳の名
宗門潤色太高生 宗門の潤色太高生
子胥曾受呉王戮 子しょかつて呉王のりくを受く
可惜髑髏無眼睛 惜しむべし髑髏の眼睛無し

くま訳
大惠禪師碧巖集を焼く
大慧妙喜禪師の芳名は永遠に語り継がれるでありましょうが、
衆門は上辺を取り繕い、お高く止っているだけである。 
子胥はかつて呉王に自害を命じられて死んだ。
惜しむべきは、その恨みにより、頭蓋骨に目玉が無い事である。

*大惠禪師:南嶽夏大十五世の祖、園悟克勤に嗣ぐ
*妙喜老人:大慧禪師をいふ
*太高生:高く止って居る意、向上一色邊に止り居る者を評する語なり。
*子胥曾受呉王戮:楚人なり、名は員、呉王に仕ふ、呉王齋を伐たんとす、子胥之を極諫す、王遂に之に劍
を給ふ、自ら剄れ死す、舎人に告げて曰く、「我が眼を抉り、呉の東門の上に懸け以て越寇の入りて呉を滅
すを観せしめよ」と
(以上4*大成脚注)
*大慧宗杲(だいえ そうこう、だいえ しゅうこう、1089 – 1163年、宋代の臨済宗楊岐派第5代の僧。諡号
は普覚禅師ふかくぜんじ、賜号は仏日大師、大慧禅師。公案を用いて悟りに至る「看話禅」(公案禅)の大
成者として知られる
*極諫(きょっかん):言葉を尽くして厳しくいさめること
*潤色:うわべや表現を(面白く)つくろい飾ること
(´・(ェ)・`)つ

813鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/29(水) 23:37:31 ID:1d4drIFg0
↑名利を求める僧じゃな。
 せっかく僧になれたのに名利を求めるのは迷い道に入っているのじゃ。

 それは現世では名利を得るかもしれんが、後には地獄行きの道なのじゃ。
 誰もが涙する困窮の道なのじゃ。
 人を欺いているのであるからのう。
 それを知らないのは愚かな者なのじゃ。

814鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/29(水) 23:42:23 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 大慧禪師の碧巖集を焼いてしまったというのじゃ。

 妙喜老人の名は千歳も伝えられるじゃろう。
 宗門では甚だ高く止まっていると潤色しているのじゃ。
 子胥はかつて呉王に死を賜ったのじゃ。
 その髑髏に眼が無かったのは惜しかったのじゃ。

815避難民のマジレスさん:2021/09/29(水) 23:55:41 ID:4pZ7Co5c0
544
看妙荘嚴王品  妙荘嚴王ぼんを看る  
妙荘嚴昔日因縁 妙荘嚴昔日の因縁
瞎禿道光輝我前 かつとくの道光我が前に輝く
閻老不吟玉堦月 閻老は吟ぜず玉堦の月
黄泉後悔碧雲天 くわうせんは後悔碧雲の天

くま訳
異教徒だった王が息子達の諌めを受け入れて仏法に帰依して菩薩になるという法華経の一節を見る。
妙荘嚴には昔の因縁があったのだ。
盲目の禿げ坊主を仏道へ導く光がわしの目の前に見えるのだ
閻魔大王は宮中の女官が月を眺めて感じる満たされぬ思いみたいなものは吟じたりはしない。
死後に晴れ渡る青空を思っても後悔するだけなのだ。死んでからでは遅いのだ。

*妙荘厳:『法華経・妙荘厳品』に出る菩薩の名。もと国王でバラモン教徒だったが、夫人および浄蔵・浄
 眼二子の諫めにより法華経を聞いて仏法に帰依したという。浄蔵も浄眼も仏道修行して神通力を得ていた 
 という
*「玉階」は白玉(大理石)の階。階は宮中で、庭から室内へ上がる短い階段。
(´・(ェ)・`)つ

816鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/09/30(木) 23:36:01 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 妙荘嚴王品を看たのじゃ。

 妙荘嚴は昔の因縁があったのじゃ。
 盲目禿頭の道光がわが前に輝いているのじゃ。
 閻魔も月への玉階を吟詠しなかったのじゃ。
 黄泉の国で碧雲の天を後悔しても遅いのじゃ。

817避難民のマジレスさん:2021/09/30(木) 23:57:33 ID:5pA3np3w0
545
佛涅槃
滅度西天老釈迦 滅度す西天の老釈迦
他生出世到誰家 たしょうに出世してたが家にか到る
二千三百年前涙 二千三百年ぜんの涙
猶洒扶桑二月花 なほふそう二月の花にそそぐ

くま訳
入滅した、インドのお釈迦様、
どこかの家に生れ変ってきてほしいものであります。
二千三百年前の涙は
今もなほ、日本の二月(涅槃忌)の花にそそがれるのであります。
(´・(ェ)・`)つ

818鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/01(金) 23:08:37 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 仏の涅槃なのじゃ。

 インドのお釈迦様が滅度したのじゃ。
 他生に出世すれば誰の家に至るじゃろうか。
 二千三百年前の涙なのじゃ。
 なお日本では二月の花にそそぐのじゃ。

819避難民のマジレスさん:2021/10/01(金) 23:55:08 ID:t5BjxHsk0
546
約彌勒下生 1/2 弥勒の下生を約す
盲森夜々伴吟身 盲森夜々吟身を伴う、
被底鴛鴦私語新 被底のえんのう 私語新たなり。  
新約慈尊三会暁 新たに約す慈尊三会の暁、
本居古仏万般春 本居の古仏万般の春。

茶の湯に親しむHPの先生訳
盲目の森女が夜な夜な歌い身に相伴し、
掛け布団の下のおしどりのようにひそひそ話を繰り返す。
未来仏の弥勒菩薩が衆生救済の三回の大法会の暁を新たに約し、
本来の古仏は万楽の春を約す

仁訳
目の見えない森公は、夜々、唱うように体をときめかせて身を寄せてくる、
鴛鴦のように寄り添い合ってぼくらは愛を語らい合うんだよ。
朝になるとまた新しく約束し合うんだ、弥勒さんのように蘇って、何度も何度も愛し合おうね、と、
森公は、ほんとうにぼくにとって、いつでも春をもたらしてくれる弥勒菩薩さんなんだよ。

くま訳
弥勒の下生を約す
盲目の森は毎夜詩を吟じるわしの側にいるのだ。
布団の中でおしどりのように、囁き合うのだ 
二人は約束するのである。弥勒下生を約したように、
仏陀が、万般の春を約したように。

*弥勒下生:弥勒菩薩は、五十六億七千万年の後に、地上に降り来り、成仏し、釈尊の後を継いで人々に法 
 を施すとされる。
*被底(ひてい):布団の中。
*鴛鴦(えんのう・おしどり)
*慈尊三会=弥勒菩薩が衆生救済の為に開く三度の集会のこと。
(´・(ェ)・`)つ

820鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/02(土) 23:24:53 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 弥勒下生に約束するのじゃ。

 盲目の森女が吟詠するのに夜夜付き合うのじゃ。
 布団の下で鴛鴦の私語を新たにするのじゃ。
 新たに弥勒の三会の暁に会うと約するのじゃ。
 本居の古仏が万般の春を経たようにのう。

821避難民のマジレスさん:2021/10/02(土) 23:52:39 ID:qFMCRaWg0
94 約彌勒下生2/2 
木凋葉落更回春 木凋み 葉落ちて更に春を回らす
長緑生花旧約新 緑を長じ 花を生じて旧約新たなり
森也深恩若忘却 森也が深恩 若し忘却せば
無量億劫畜生身 無量むりょう億劫おくごう畜生の身 

木の葉が枯れるように、朽ちかけてていた我が身に、春が廻ってきたのだ。
青葉茂り花咲く春が。昔の約束が、新たに果たされるのだ。
森や。君から受けたこの深い恩を、もし忘れるようなことがあれば、
わしは、永遠に畜生の身のままとなろう。
(´・(ェ)・`)つ

822鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/03(日) 23:38:28 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 弥勒下生の約束なのじゃ。

 木は凋み葉は落ちても又春は回ってくるのじゃ。
 緑を長じ、花は生じて古い約束も新たになるのじゃ。
 森女の深い恩をもし忘却すれば
 わしは無量億劫も畜生の身になるじゃろう。

823避難民のマジレスさん:2021/10/03(日) 23:58:57 ID:UBsisTfc0
547
陋居      ろうきょ
目前境界似吾癯 目前の境界わがやせたるに似たり
地老天荒百草枯 地老い天荒れて百草枯る
三月春風沒春意 三げつ春風春意なし
寒雲深鎖一茅盧 寒雲深くとざす一ばうろ

碇豊長先生(イカリ トヨナガ)訳・解説抜粋
わびずまい
眼前の境遇はわたしのやつれたさまのようである。
地上の光景は(冬枯れで)老いさらばえたさまで、天上の空模様は、荒れすさぶっており、諸々(もろもろ)の草は、冬枯れである。
春も終わりの月の)三月であるというのに、春風には(全然)春の気配がない。 
寒々とした冬の雲が(わたしの)粗末な庵(いおり)に深く立ち籠めて閉ざしている。

*陋居:狭くて穢(きたな)い住居。わびずまい。自分の住まいを遜(へりくだ)っていうことば。
*似る。…のようである。ごとし。 
*癯:やせる。やつれる。減る。
*地老:地上の光景は(冬枯れで)老いさらばえたさまで。
*天荒:天上の空模様は、荒れすさぶっている。 
*三月:陰暦では、春の終わりの時期。
*沒:〔ぼつ〕無い。「有」の対義語。「無」(打ち消しの意)が相応。
*春意:春の気配。
*一:とるにたらない。とある。一つの。
*茅廬:〔ばうろ〕萱(かや)や藁(わら)などで葺(ふ)いた粗末な庵(いおり)。自宅を遜(へりくだ)っていう。前出・「陋居」のことと同 義。

くま訳
わび住い
目前の境界は、私の痩せ細った姿そのままである。
地上は枯れはて、天候は荒れすさんでいる。 
三月だというのに、春の気配は感じない。
冷たい雲が、わしのちっぽけなあばら家にたちこめて閉ざしている
(´・(ェ)・`)つ

824鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/04(月) 21:45:23 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 ぼろ家なのじゃ。

 目の前の世界はわがやせた姿に似ているのじゃ。
 地は老い、天は荒れて百草枯れるのじゃ。
 三月でも春風はなく、春の感じもしないのじゃ。
 寒雲が日の光を深く閉ざすわが一つのぼろ家なのじゃ。

825避難民のマジレスさん:2021/10/04(月) 22:18:11 ID:G8vTfqjc0
548 
盡梅      尽梅
目前春樹屬孤山 目前の春樹孤山に属す  
上苑一枝無客攀 上苑の一枝客のよづる無し
七寶青黄𤾡紅白 七寶の青黄はな紅白
淡烟疎雨祖師關 淡えん疎雨祖師の關

くま訳
梅尽くし
目前の一枝は、 林逋が住んだ孤山の梅の木の枝のように、風流だ
神々しさに、苑の花見客にも枝を折るものはいない。
七宝焼きなら青黄、花なら紅白の梅が好ましい。
けむるように小雨ふる祖師の関である

*孤山:[1]一つだけぽつんとある山。また、人里はなれたさびしい山。[2]浙江省杭州の西湖の中にある島
の名。梅を愛した隠者林逋(りんぽ)が住んでいた。
*林 逋(りんぽ、967-1028)北宋の詩人。刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にと
めず、西湖の孤山に廬を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。妻子をもたず、庭に梅を植え
鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。
(´・(ェ)・`)つ

826鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/05(火) 23:59:42 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 梅尽くしなのじゃ。

 目の前の春の樹は狐山に属するのじゃ。
 上苑の一枝によじ登る客も居ないのじゃ。
 七宝の黄青は金銀にも値するのじゃ。 
 微かな煙に疎らな雨は祖師の関なのじゃ。

827避難民のマジレスさん:2021/10/06(水) 00:00:04 ID:34whNYSA0
549
踈壁齋     そ壁齋
楊岐天下老禪翁 楊岐は天下の老禪翁
從此大興臨濟宗 此れより大いに興る臨濟の宗
紅塵紫陌我乍住 紅塵紫はく我れたちまち住す
山舎半吹黄葉風 山舎半ばは吹くくわうえふの風

くま訳 
踈壁齋 
楊岐方會は天下の老禪翁である。
楊岐により臨濟宗は大いに隆盛を誇ったのだ。
栄光ある活気に満ちた都の大通りのような臨濟宗門の我等は今まさに門徒なのである。
しかし山小屋の辺りでは既に秋風が吹き始めているのである。

*踈:うとむ/うとい/人を遠ざけるなどの意味をもつ漢字
*楊岐方會(ようぎ ほうえ)992-1049:宋代の臨済宗の僧。後世五家七宗の一つに数えられる楊岐派の祖と
して知られる。日本に伝えられた臨済禅のうち、栄西によるものを除く全てがこの楊岐派に属する。
石霜楚円の門下となる。石霜山へと移り大悟した。
*紅塵紫陌(紅塵しはく);中国語;幻想的な栄光の比喩を意味する。「紫」とは、道路の両側の植生の色を 
指す。「陌」はもともと畑の小さな道を指し、ここでは道を指します。紫陌:皇帝の道; 紅塵:ほこり。 
北京路の活気に満ちたほこりっぽいエリアを指します。幻想的な栄光の比喩。
(´・(ェ)・`)つ

828避難民のマジレスさん:2021/10/06(水) 00:17:36 ID:34whNYSA0
くま質問
『盡梅』は、林 逋のことを詠んだ詩でありましょうか?
 「微かな煙に疎らな雨は祖師の関」とは、どのような意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

829鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/06(水) 23:35:01 ID:1d4drIFg0
↑ 林 逋ではないじゃろう。
 寂しい山じゃな。
 
 何かそのような公案があるのかもしれん。
 あるいはただ目の前の光景がそのまま公案ではないかと、言いたいのかもしれん。
 自ら解釈するのじゃ。

830鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/06(水) 23:39:09 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 踈壁齋なのじゃ。

 楊岐は天下の老禪翁なのじゃ。
 この人に拠って臨濟宗は大いに盛んになったのじゃ。
 その繁栄の上にわしも住んでいるのじゃ。
 山の家は半ば黄葉の風が吹いているがのう。

831避難民のマジレスさん:2021/10/06(水) 23:45:24 ID:gGjuz4Ec0
550
菊 羅漢楊妃同瓶 菊 羅漢楊妃同びゃう
楊妃爛醉一籬秋 楊妃らん醉一籬の秋
茶褐相交爲好仇 茶かつ相交りて好仇を為す
失卻神通居下界 神通を失卻し下界に居す
應身天寶辟陽公 應身は天寶の辟陽公

柳田聖山先生 訳
赤い楊妃菊は垣根で酔いつぶれる
黒い羅漢菊と相まみえる姿は夫婦
神通力を失った羅漢が下界に来た
まるで漢の辟陽侯といったところ

くま訳
菊 羅漢と楊妃が同じ瓶に挿してある 
楊貴妃が爛醉したような真赤な菊が垣根に一輪
茶褐色の羅漢菊に交ってあるのは、似つかわしいつれあいといるようだ。
神通力を失って、下界に下りてきたのか、
天寶の辟陽公(后妃と大臣が私通していた 審 食其(しん いき))と言ったところか。

*瓶(びょう):仏教で法具として用いられる主として真鍮製の水や香水を入れる器。もとはインド人一般が 
 水,油,塩などを入れ日常生活に用いたもので,梵天や千手観音などの持物とされている。
*爛酔・乱酔:正体がなくなるほど酒に酔うこと。泥酔。
*酔楊妃(すいようひ): 菊の一種か。花は淡紅色という。
*籬:まがき。ませがき。竹や柴(しば)などをあらく編んだ垣根。「籬垣(リエン)」
*好仇:好對といふに同じ(大成脚注)。よい相手。よい仲間。また、似つかわしいつれあい。。
*茶褐:羅漢菊 451の詩参
*応身:仏の三身の一。世の人を救うため、それぞれの素質に応じてこの世に姿を現した仏。釈迦など。
*天宝:唐の玄宗の治世後半に使用された元号。742-756年。
*天寶辟陽公:審 食其(しん いき、? - 紀元前177年)
辟陽の寵:后妃と大臣が私通する事。(苟太后のwiki)
(´・(ェ)・`)つ

832鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/07(木) 23:41:41 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 菊の羅漢と楊貴妃が同じ瓶に入っているのじゃ。

 楊貴妃は酔って垣根にもたれる秋なのじゃ。
 茶褐色の菊は相交わり、好仇になっているのじゃ。
 まるで羅漢が神通力をなくして下界に落ちたようじゃ。
 応身は天宝の辟陽公の如くなのじゃ。

833避難民のマジレスさん:2021/10/08(金) 00:18:52 ID:aBAvqbq.0
551
覧松源和尚塔名 松源和尚の塔名を見る
冶父住持功不空 やほ住持功むなしからず
抜貧作富甚家風 貧を払ひて富となすなんの家風ぞ
看來省數錢猶在 看來たり数を省すればせんなほ在り
不識脚跟絲線紅 識らず脚跟し線の紅

くま訳
松源和尚の業績を見る 
冶父山住持としての功績は素晴らしい
貧を除いて富となすとはどんな家風であろうか
見てきたところによれば、運命を省みれば、銭はまだあるのである。
どんな赤い糸で結ばれているのか分からないのである。 

*松源崇嶽(しょうげんすうがく)1132-1202年 南宋時代、臨済宗虎丘派。松源派。
*数:はかりごと。世のさまの動き。運命。
(´・(ェ)・`)つ

834鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/08(金) 22:51:46 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 松源和尚の塔名をみたのじゃ。

 冶父住持の功績は空しくないのじゃ。
 貧乏を抜いて、富を成すとはどのような家風であろうか。
 看来たれば数を減らせば銭もなお余りあるほどなのじゃ。
 脚跟の糸の赤いのもしらないのじゃ。

835避難民のマジレスさん:2021/10/09(土) 00:01:48 ID:kMDUEK2.0
くま質問
「数を減らせば銭もなお余りあるほど」とは、無料奉仕と寄付とかしてたのでありましょうか?
「脚跟の糸の赤いのもしらないのじゃ。」とは、お金持ちのご婦人に惚れられたりしてたのでありましょう
 か?

552
認譬作實    たとへをとめて實となす
野老劫來日用今 野老劫來日用こん
私車公案誤睛陰 私車の公案睛陰を誤る  
昨夜打窓零落葉 昨夜窓を打つ零落の葉
蕭蕭聴作雨聲吟 蕭蕭として聴いて雨聲の吟をなす

くま訳
比喩をしっかりと見分けて、実際のことを理解する。
わしは長年野にあって、日常生活の中で活用してるのだ。
初めて車を作った 奚仲の公案について、その意味するところの微妙な違いは誤解されやすい。
昨夜窓に当たっていた落ち葉の音、
それを聞いて、雨の降る音を聞いたと吟じるようなものである。

*晴陰:晴れと曇り。晴天と曇天。
*私車公案:?・・無門関『奚仲(けいちゅう)造車』奚仲という車造りの名人がいた。その奚仲があるとき、
 車の車輪を外し、芯棒を外し、あれを外しこれを外し、バラバラにして考え込んでいた。奚仲は何をやっ 
 ていたのだろうという公案。この場合車というのは自分のこと。
*蕭蕭:物寂しく風が吹く、または雨が降るさま。
(´・(ェ)・`)つ

836鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/09(土) 23:28:36 ID:1d4drIFg0

 買うものの数を少なくしたのじゃな。
 節約なのじゃ。
 節約すれば金も余るというのじゃ。

 このような表現は公案にもあり、一休の詩にも時々出てくるのじゃ。
 結局婦人との縁を断ちきっていたというのであるから、もはや淫欲もなくなっていたという意味じゃな。

837鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/09(土) 23:38:21 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 譬えを認めて宝とするのじゃ。

 野老は大昔から日用を今とするのじゃ。
 私車の公案は晴陰を誤っていたのじゃ。
 昨夜は零落する葉っぱが窓を打っていたのじゃ。
 蕭蕭として聴けば雨音も詩吟のようなのじゃ。

838避難民のマジレスさん:2021/10/09(土) 23:54:37 ID:v15d1gT20
くま質問
「日用を今とす」「私車の公案は晴陰を誤っていた」とは、どのような意味でありましょうか?

553
婬水
夢迷上苑美人森 夢に上苑美人のしんに迷ふて  
枕上梅花花信心 ちん上の梅花花信の心
滿口淸香淸淺水 満くの清香 清浅の水 
黄昏月色奈新吟 黄昏の月色新吟をいかんせん

碇豊長(イカリ トヨナガ)先生訳・解説抜粋
婬水
夢で上苑の美人の森に迷ってしまい。
枕辺の梅の花(女性)は、はや、花が咲いたと知らせたい思いのようである。
口いっぱいの(梅の花の)清らかなにおいの、清くあわい水で。
たそがれの月の色よ、新たな吟声をどのようにしたらよいのだろうか。

くま訳
婬水
夢で上苑の美人森に迷ってしまい 
枕元で、既に花が咲いたと知らせたいようである。
口いっぱいの清い香の清水
黄昏月の光よ、次の一句・・森の声を、ははてどうしたらいいものやら。

*婬水:川のあふれた水。氾濫する水。・婬:みだら。ほしいまま。=淫。
*夢迷:心が迷う。夢中になる。
*上苑:天子の庭園。宮中の庭園。
*花信:花が咲いたという知らせ。花だより。
*月色:月の色。月のさま。女性の頬をも謂う。
*奈:どうしよう。処置を問う。いかん。いかんせん。
*新吟:あらたな詩歌。新たなうめき声。

(´・(ェ)・`)つ

839鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/10(日) 23:45:45 ID:1d4drIFg0
↑日常の一つ一つに集中していることじゃな。
 今ここにあることなのじゃ。

 晴れと曇りとは裏表であり、主客といえるじゃろう。
 車と奚仲のどちらが主であり、客であるのか誤ってはいかんというのじゃな。
 なかなか難しいがのう。

840鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/10(日) 23:48:19 ID:1d4drIFg0
 それでよいのじゃ。

 淫水なのじゃ。

 夢に上苑美人の森に迷うのじゃ。
 枕上の梅花は花信の心のようじゃ。
 滿口の清い香りは清浅の水のようじゃ。
 黄昏の月色新吟をいかにせんと思うのじゃ。

841避難民のマジレスさん:2021/10/10(日) 23:59:37 ID:RwbytKqk0
554
爲悪知識警策  悪知識の為に警策す
因憶玄都千樹桃 因って憶ふ玄都千樹の桃
劉郎醉語許多豪 劉郎醉語許多の豪
利名知識極驕功 利みょうの知識極めて功に驕る
堯帝土堦三尺高 堯帝の土堦三尺高し

くま訳
邪法を説く悪知識の為を思い、警告するのである。
そこで思うのであるが、劉禹錫は、何故都の千本の桃の木の詩を詠んだのか。  
劉さんは、酔っ払って暴言を吐きまくる見掛け倒しの豪の者だったのである。
名利のために知識を得たものは、その知識をひけらかしたくなるものなのだ。
堯帝の宮殿の階段は土で作られ、高さ三尺。聖者は慎ましくあるべきなのだ。

*悪知識:悪法、邪法を説いて人を悪に誘い入れる邪悪な人、また、悪い師友
 警策の意味
*警策:禅堂内で警策は文殊菩薩の手の代わりであると考えられている。警策で打つという行為は、坐禅修 
 行が円滑に進むようにという「文殊菩薩による励まし」という意味を持つ。
*玄都千樹桃:武陵の桃源を云ふ、晋の大元中、武陵の人、魚を捕るに縁つて行けば、桃花両岸を挟み、落英 
 繽紛たり、其の林を窮めんと欲すれば水源盡く、便ち一山あり、小口を入れば土地平廣良田美地あり、男 
 女皆外人の如し、秦の嵐を避けて妻子を率いて来ると、漁人帰って太守に説く、人をして更に行かしむれ
 ば、迷ふて道を得ず、南陽の劉子驥高尚の士なり。これを聞いて行かんとしていまだ果たさず、尋で、病
 んで終ふ、後遂に之れを問ふものなしと。劉郎醉語云々は又晋書に『劉伶嘗つて醉ひ俗人と相忤(さから)
 ふ、其の人袂を攘ひ拳を奪ひて行く、伶徐に曰く、「鶏肋以て尊拳を安んずるに足らず」と。其の人笑ひ
 て止む』と。(大成脚注)
*玄都千樹桃:劉禹錫[りゅううしゃく]が政争で失脚し、十年後に都に戻った際に、詠んだ絶句の一節。
*尭階三尺(ぎょうかいさんじゃく):君主がつつましい生活をすることのたとえ。古代中国の伝説の聖天子 
 の宮殿は、土を固めただけの階段があり、高さは三尺ほどしかなかったということから。君主の生活の理
 想とされている。

*おまけ:玄都千樹桃:中唐の詩人劉禹錫[りゅううしゃく]は新進官僚となって間もないうちに政争で失脚
し、
十年後に都に戻った際に、「元和十年(八一五)、朗州より召を承けて京に至り、戯れに花を看し諸君子
に贈る」という長い詩題をもつ絶句の一節。
 紫陌紅塵払面来  紫陌[しはく]の紅塵 面を払いて来たる
 無人不道看花回  人の花を看て回[かえ]ると道[い]わざる無し
 玄都観裏桃千樹  玄都観裏[げんとかんり] 桃千樹
 尽是劉郎去後栽  尽[ことごと]く是れ劉郎の去りし後に栽[う]う

 帝都の大通り、にぎわいの粉塵が顔にふりかかる。
 誰も彼も花を見ての帰り道だと言う。
 玄都観のなかには桃の木が千本。
 すべてこれは劉さんが都を去ったのちに植えられたもの。

 長安にあった道教寺院の玄都観、そこは今や爛漫と咲き誇る桃の花に埋め尽くされている。自分の知る十
年前とは一変した光景であった。桃は仙界の果実なので、道観に植えるにふさわしい。「劉郎」は六朝の志
怪小説などで漢の武帝劉徹を指す語だが、ここでは劉禹錫は同姓の「劉」を使って自分をまるで物語の登場
人物のように言う。
 その劉郎は花の名所ができたことを喜んでいるわけではない。この詩は明らかに寓意を含んでいる。かつ
て劉禹錫が加わった二王(王伾[おうひ]と王叔文)を中心とする改革派は政争に敗れ、一斉に放逐された。
政治犯として十年を地方に追いやられたのは異例に長い冷遇であった。やっと呼び戻された今、朝廷の人間
模様はまったく様変わりしていた。埋め尽くす桃の花が、栄華を誇る新たな権力者たちを皮肉っていること
は明らかだ。そのために朝廷を誹謗したとみなされて、劉禹錫は再び遠くに追いやられる。
(´・(ェ)・`)つ

842鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/11(月) 23:10:52 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 悪知識のための警策なのじゃ。

 因って思うに玄都の千樹の桃なのじゃ。
 劉郎は醉語を多く許す豪のものだったのじゃ。
 それは利名のための知識であり極めて功名に驕ったものだつたのじゃ。
 堯帝の真の功業には遠く及ばないものだったのじゃ。

843避難民のマジレスさん:2021/10/12(火) 14:41:20 ID:zbbxxrJ60
くま訳改
第四句:堯帝の真の功業には遠く及ばないものだったのだ。

555
鸞輿盲女屡春遊 らんよの盲女しばしば春遊す  
鬱鬱胸襟好慰愁 鬱鬱たる胸襟愁を慰むるに好し
遮莫衆生之軽賤 さもあらばあれ衆生の軽賤することを   
愛看森也美風流 愛し看る森や美風流  

水上勉先生訳・解説(プラネットワーク ブログより)
美しい車にのって 盲女しばしば春遊び
鬱したる気分にはいい 愁いが慰む
どうでもいいよ 人々が下にみるとも
わが愛し看る森よ はんなりしてるよ

くま訳
天子の乗るような輿に乗り、しばしば盲女が春遊にでかける
鬱々とした思いは、かえって、愁いを慰めてくれる。
どうでもよいことであるよ、世間から軽蔑されることなどは。
愛おしくてたまらず見つめてしまうのである、美しくて風流な森を

*鸞輿(らんよ):天子の乗る輿(こし)。
(´・(ェ)・`)つ

844鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/12(火) 23:41:54 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 盲女は天子の使うような輿に乗ってしばしば春遊するのじゃ。
 鬱々とした胸襟を開き愁いを慰めるのによいのじゃ。
 衆生の軽蔑があるなにばあるとよいのじゃ。
 森女の美風流を愛し看るのじゃ。

845避難民のマジレスさん:2021/10/12(火) 23:46:16 ID:xNu8Iv460
556
重題靈山和尚  重ねて靈山和尚
示榮衒徒法語後 榮衒の徒に示す法語の後に題す

李下従来不整冠 李下従来冠を整へず    
奔馳世上豈諛官 世上に奔馳してあに官にへつらはん 
江山風月我茶飯 江山風月我がさはん、   
自咲一生吟味寒 自ら咲う一生吟味さむし 
 
くま訳
李下に冠を正さずは、言うまでも無い。
あわてて役人にへつらう事はすべきではない。
山河風月を愛でるのは我が日常のことなれど、
自嘲する、万事を厳しく吟味してしまうこと。

*奔馳(ほんち):走ること。奔走
*吟味:1 物事を念入りに調べること。また、念入りに調べて選ぶこと。2 罪状を調べただすこと。詮議
 3 詩歌を吟じてその趣を味わうこと。
(´・(ェ)・`)つ

846鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/13(水) 23:22:18 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 重ねて靈山和尚なのじゃ。
 法語の後に題して榮衒の徒に示すのじゃ。

 李の木の下で冠を正さないのは従来疑われないための用心なのじゃ。
 世の中を走り回れば官にへつらう疑いをうむじゃろう。
 江山風月を楽しむのはわが日常なのじゃ。
 一生厳しく吟味することを自ら笑うのじゃ。

847避難民のマジレスさん:2021/10/13(水) 23:42:57 ID:nIKmXuXQ0

くま訳改
第二句:世の中を走り回れば官にへつらう疑いをうむであろう。5

557
不殺生戒
李廣将軍一片心 李廣将軍一片の心
多年石虎識情深 多年の石虎識情深し
殺人端的不眨眼 人を殺す端的眼をさつせず
敢忍燈前夜雨吟 敢て忍ばんや燈前夜雨の吟

くま訳
不殺生戒
李廣将軍は一本気な心の持ち主であった。
長年、虎と信じて射れば石をも貫く精神力をもっていた
人を殺すときには瞬きをしない。
無理矢理にでも忍ぶ心を、夜分灯りの前で歴史書から学ぶのである。

*李廣将軍:李黄は漢の武帝の時、右北平の太守に拜す、匈奴號して飛将軍といひ、之れを避く、景帝の時、
驍騎将軍となる、後匈奴を撃ち道に迷ひて、長吏の責に遇ふ、廣遂に自殺す、孝壮ために皆涙す(大成脚注)
*石虎識情深:漢書に李廣人と為り、猨臂長く、其の善く射る亦天性なり、廣、出獵して艸中の石を見、以
て虎と為し、而して之れを射る、石に中り、矢を沒す、之を見れば石なり、他日之を射、終に入る能はずと。
又楚の雄渠子、出でて寝石を見る、以て伏虎となし、将に去らんとして之を射る、矢其の衛に沒す。或曰く、
養由基寝石を見、以て兕となし、之を射れば矢、羽を飲むとあるに類す。心に依りて境の變ずるをいふ(大成脚注)
*識:意識、生命力、心、洞察力との意味。認識対象を区別して知覚する精神作用を言う。
*七情:喜・怒・哀・楽・愛・悪(お)・欲をいう。
*一片心:ひとつの心。
一片氷心:俗塵ぞくじんに染まらず清く澄みきった心、また心境のこと。名利を求めず、汚れなく清らかな
品行のたとえ。ひとかけらの氷のように清く澄んだ心の意から。
*眨(さつ)す。:瞬き
*敢えて:1 やりにくいことを押しきってするさま。無理に。2 (あとに打消しの語を伴って)
㋐特に取り立てるほどの状態ではないことを表す。必ずしも。㋑打消しを強める。少しも。全く。
(´・(ェ)・`)つ

848鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/14(木) 23:30:23 ID:1d4drIFg0
大体そんな感じじゃな。

 不殺生戒なのじゃ。

 李廣将軍は一片の慈悲心を持っていたのじゃ。
 多年の石虎は深い識情をもっていたのじゃ。
 殺人虎であると目付けしなければ矢を刺さなかったのじゃ。
 わしも燈前夜雨の吟をあえて忍ぶのじゃ。

849避難民のマジレスさん:2021/10/14(木) 23:52:17 ID:k8Ljyz3.0
くま質問
 「多年の石虎は深い識情をもっていた」とはどのような意味でありましょうか?
 「殺人虎であると目付けしなければ矢を刺さなかった」とは、ただ虎であると言うだけで、殺すことはな
 かったと言う意味で在りましょうか?
 「燈前夜雨の吟」とはどのような意味でありましょうか?

558
虚堂和尚三轉語 虚堂和尚の三轉語
龍門萬仭碧波高 龍門萬じん碧は高し
天澤面前誰畫牢 天澤面前誰か牢を画す
生鐵鑄成三轉語 しょう鉄い成す三轉語
作家爐鞴煆吹毛 作家のろはいすい毛をきたふ

くま訳
禪門修行の目的地への航路は遠く波は高い。
虚堂の面前で誰が地面を区切って、牢となすような事をするというのだ
生鉄を鍛えるのが、この三転語である。
禪師のふいごは生鉄を 吹毛の剣に鍛え上げるのだ

*虚堂和尚三轉語 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>972
*仭(じん):はかる/深さをはかる/ひろ/高さや深さをあらわす単位
*炉鞴(ろはい):鍛冶が用いるふいごのこと。転じて禅門では師家が弟子を鍛練する道場のことをいう。
*吹毛(の剣):吹きかけた毛も断ち切るほどの、よく切れる剣。
(´・(ェ)・`)つ

850鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/15(金) 23:20:17 ID:1d4drIFg0
↑それは石の虎が多年を経て命が宿っていたというのじゃ。
 もののけじゃな。

 そのような意味なのじゃ。
 李廣将軍が石の虎に矢を刺さなかったのは、石と気付いたからではなく、人を殺さぬ虎と気付いたからというのじゃな。
 
 
 誰かが雨の夜に詩吟していたのじゃな。
 李廣将軍のように一休もそれを忍ぼうというのじゃ。

851鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/15(金) 23:28:50 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 虚堂和尚の三轉語なのじゃ。

 龍門は万仭の高さにあり、碧い波も高いのじゃ。
 天沢の面前で誰が牢を画すことができるじゃろうか。
 生鉄を鋳成する三轉語なのじゃ。
 作家のふいごが吹毛の剣を鍛えるが如しなのじゃ。

852避難民のマジレスさん:2021/10/15(金) 23:42:59 ID:aBAvqbq.0
559
賛華叟和尚   華叟和尚を賛す
靈山孫言外的伝 りょうぜんのそんごん外の的伝
蜜潰茘攴四十年 蜜しの茘攴四十年
兒孫有箇瞎禿漢 児孫に箇のかつとく漢有り
頤得老婆新婦禪 やしなひ得たり老婆新婦の禪

くま訳
華叟和尚を賛す
霊山徹翁義亨の孫弟子、言外宗忠の直伝。
四十年物の蜜漬けの茘子のような師である。
子孫にこの盲目のロバ坊主がいるのである。
手取り足取り、育て上げてくれたのである。

*華叟衆曇(かそうそうどん、1352-1428):8歳にして京都大徳寺の徹翁義亨に投じ、14歳で出家。のち徳 
 禅寺の言外宗忠に参じ、印可を得る。近江堅田に祥瑞寺をひらき、住持した。門弟にはのちに大徳寺派の
 主流派となる一休宗純や養叟宗頤など
*霊山:徹翁義亨(てっとう ぎこう):1295―1369宗峰(しゅうほう)妙超の法をつぐ。延元3年大徳寺1世 
 となり,法度(はっと)を制定する。のち徳禅寺をひらき隠居。南の地に霊山徳禅寺を開創し,寺域内には石
 を配し,池を掘り船が浮かぶ庭園を築き,また寿塔の正伝庵を設けている。足利義詮 や花山院覚円などの
 外護者を得ている。大徳寺法度・徳禅寺法度・正伝庵法度などを制し,寺院経営,門徒の掌握と徹翁一派に 
 よる大徳寺とその教団運営の基礎確立にすぐれた才能を発揮した。
(´・(ェ)・`)つ

853鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/16(土) 23:27:14 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 華叟和尚の賛なのじゃ。

 霊山和尚の孫であり、言外和尚の伝統を継ぐ者なのじゃ。
 レイシを四十年蜜付けにしたような人生じゃった。
 その子孫にはこのわしもいるのじゃ。
 老婆が新婦の褌を養い得たようなものじゃ。

854避難民のマジレスさん:2021/10/16(土) 23:55:55 ID:VcZQFi9E0
560
九月朔。         九月ついたち。
森侍者借紙衣於村僧禦寒。 しん侍者借紙こをそん僧に借りて寒を防ぐ。
瀟酒可愛作偈言之     しょうしゃ愛すべし、偈を作って之を言ふ

良宵風月亂心頭 良せうの風月心頭を乱る
何奈相思身上秋 いかんせん相思身上の秋
秋霧朝雲獨瀟酒 秋霧朝雲獨り瀟酒たり
野僧紙袖也風流 や僧が紙しうまた風流

青柳仁先生訳・注釈
心地好い秋の宵の風月を眺めていると、いつも心を乱してしまうよ、
どうにもならないものだね、お互いに愛し合っているこの心とこの身のほとめきは。
秋の霧のように、朝の雲のように寄り添う艶っぽい森公のこの瀟洒な姿態に、ぼくは蕩けてしまう。
村の僧が作ってくれた紙の衣も、色っぽくてまた風流そのものだよ。

※ 秋の霧、朝の雲=楚の懐王と一夜を過ごした巫山の神女が、別れに「私は朝には雲になり、夕暮れには
雨となります」と云った故事による。

くま訳
九月一日。
森侍者、村の僧から紙衣を借りて寒さを防いだ。
あかぬけて、お洒落である事は愛すべきである。偈を作って之を詠うのである。

月良き夜、心乱れる。
どうしたものか、相思う二人の身上の秋の愁い
雲雨を約した巫山の女神より、君は瀟酒だ。 
野僧に借りた紙袖というのが風流で素晴らしい。

*瀟洒・瀟灑:すっきりとあか抜けしているさま。俗っぽくなくしゃれているさま
*良宵(りょう‐しょう〔リヤウセウ〕):よい晩。晴れて気持ちのよい夜。月良き夜のことで、季語では多
 く十五夜
(´・(ェ)・`)つ

855鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/17(日) 23:23:37 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 九月一日なのじゃ。

 森侍者が紙衣を村の僧に借りて寒さを防いだのじゃ。
 おしゃれでかわいいから偈を作って之を言うのじゃ。

 良宵の風月は心頭を乱すのじゃ。
 愛し合う身上の秋はどうすればよいのかわからんほどなのじゃ。
 秋霧朝雲のような獨りはおしゃれなのじゃ。
 野僧の紙袖はまた風流なのじゃ。

856避難民のマジレスさん:2021/10/17(日) 23:52:05 ID:xp4dYwns0
561
關東御上洛
慮軍萬騎已東來 慮軍萬騎すでにひんがしより來る
京洛凱歌一曲催 京洛の凱歌一曲催ほす
相坂關門征駒路 あふ坂の關門征くのみち
胡兒性命馬蹄埃 胡兒の性命馬蹄のちり

くま訳
關東勢が御上洛   
戦略軍萬騎すでに東より上洛
京の都で凱歌が奏でられている
相坂の關門は軍馬の道となり
敵軍の若者達の命は蹄の塵となった。

*上洛:主に京都に入ることを意味する言葉である。入洛とも言った。
 由来・上洛の「洛」は「洛陽」を意味する。平安時代、平安京を指して中国の都の名を借りて「洛陽」と 
 呼ぶことがあった。
 室町時代においては、多くの守護大名は在京義務が課せられ京都に常駐していた。応仁の乱により幕府に 
 守護大名の動きを制御する力が無い事が明白となり、在京の意味は薄れていた。上洛は稀なものとなった。
 関東については室町幕府の支配は、1454年の享徳の乱の収拾に失敗し、既に頓挫していた。
*軍慮(ぐんりょ): 戦術などを考えめぐらすこと。また、そのはかりごと。軍略。戦略。
*逢坂関(おうさかのせき、あふさかのせき):山城国と近江国の国境となっていた関所。相坂関や合坂関、 
会坂関などとも書く。東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要 
 な関であった。
*胡児 … 北方の遊牧民族のこども。えびすの若者。
(´・(ェ)・`)つ

857鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/18(月) 23:09:52 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 関東御上洛じゃな。

 慮軍が万騎も既に東よりきたのじゃ。
 京洛で凱歌を一曲催おしたのじゃ。
 相坂の關門も征軍の馬の道となったのじゃ。
 胡兒の性命などは馬の蹄鉄の埃の如くなったのじゃ。

858避難民のマジレスさん:2021/10/18(月) 23:35:42 ID:.9jQ8Mx60
562
隠渓 齋名 
呂公子陵眞面目 りょ公子陵眞の面目
受用風飡又水宿 受用風さん又水宿
江湖今有贋漁舟 がう湖いまがん漁しゅう有り
我無一竿湘楚竹 我れに一かん湘楚の竹無し

くま訳
隠渓 齋名 
太公望や嚴子陵は本來のあるべきありようである。
風を食い水辺に眠る生活を受用して味わっているのである。
世間には今いるのは、偽の隠者である。
わしは、一竿の釣竿すら持ってないのである。

*呂公子陵:太公望及び嚴子陵を云ふ、太公望は、渭水の滸に釣し、子陵は又羊の裘を被りて澤中に釣る、
其の時に応じて清貧に甘んずるは分の宜しきなり。(大成脚注)
・子陵:厳子陵(げんしりょう):後漢の高士。本名厳光。子陵は字(あざな)。光武帝の学友で諫議大夫に 
 除されたが、仕官をことわり、釣りなどをして隠士で一生を終わったという。
・呂公:太公望 周王朝の建国伝説の名将。周の文王が渭 (い) 水のほとりで出会い,これが先君太公の待 
 ち望んだ賢人であるといったところから太公望といわれた。文王に召されて周に仕え,武王のとき,殷周
 革命に際しての武功により斉侯に封じられた。
*贋漁舟:表面漁船らしいが、中々さうでないものがある、卽ち隠者を装ふて却って現るる者が多い。
*真面目:人や物事の本来のありさまや姿。真価。
*受用:受け入れて用いること。また、受け入れて味わい楽しむこと。
*風飡又水宿:風を食い、水辺に寝ること。野宿すること。
(´・(ェ)・`)つ

859鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/19(火) 21:53:04 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 隠渓 齋名なのじゃ。

 呂公や子陵の眞面目とは
 風を受用し、水に宿る生き方なのじゃ。
 世間には今偽の漁舟も多いのじゃ。
 わしは一竿の湘楚の竹も無いのじゃ。

860避難民のマジレスさん:2021/10/19(火) 23:28:26 ID:qKTvf8jU0
563
弟子癖     でいし癖
從参臨濟大人禪 臨濟大にんの禪に参じてより
元字脚頭心念前 元字脚頭心念の前
即今若作我門客 即こん若し我が門のかくとならば、
野老風流美少年 野老の風流美少年

くま訳
弟子癖
臨濟宗の師の禅に参じたからには、
思考、心、精神を云々する其の前に、
我が宗門の弟子になったなら、、
野老が風流な美少年になれるのだ。

*元字脚①「元」の字の脚の部分「儿」のこと。これは、「人」を意味する。②「乙」の字のこと。「元」 
 の下半分が「乙」となり、これが「一」に通ずることから、「一」を意味する。③脚とは、墨跡・字画の 
 意味であり、元字脚とは、「元」字の画の意味である。つまり「元」字は上は横の二画、下は縦の二画を 
 示し、これで文字の総名にするという。④全苗月湛?が著した五位参究の『五位顕訣元字脚』のこと。 
 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/  >>669 >>815
*會裡徒募集のキャッチコピーでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

861鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/20(水) 23:25:04 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
 わが門に入って修行すれば老人も不死の境地に入れるというのじゃな。

 それでよいのじゃ。

 弟子癖なのじゃ。

 臨濟大人の禅に参入すれば、
 全身全霊が心に集中するのじゃ。
 もしわが門の客となれば即今
 野老も風流美少年の如き不死の境地に入れるのじゃ。

862避難民のマジレスさん:2021/10/20(水) 23:30:23 ID:8IWVAlpU0
564
癖       へき
臨濟徳山棒喝禪 臨濟徳山棒喝の禪
睦州蒲葉奯公船 睦州のほえふくわつ公の船
左傳蠟屐一時忘 左傳らふき一時に忘じて
不是和嶠我愛錢 是れ和けうにあらず我れはせんを愛す

くま訳

臨濟徳山棒喝の禪
睦州道明禅師や岩頭全豁禅師の船上での晩年の逸話
歴史書で伝わる、行脚の際に履物に蝋をぬる話など一時忘れてしまいましょう。
これらの人達は和嶠のように声望あり、倹約家だったのであるが、わしは単に、銭を愛すのだ。

*睦州(ぼくじゅう):黄檗希運禅師の法嗣睦州道明禅師(780?〜877?)臨済を策励したり、雲門 
 の脚を折ってまでして接得した人。陳蒲鞋(213〜)のことである。
*奯公(かつ公):岩頭全豁禅師:、828- 887年)会昌の廃仏により還俗して船頭をやりながら修行。最 
 後は賊に襲われて首を斬られて死んだ。95の詩  
 https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/931
 @210 https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ で 奯公を、鄂隠慧奯(が 
 くいん えかつと解したのは間違いでありました。
*春秋左氏伝:孔子の編纂と伝えられている歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃か 
 ら約250年間の魯国の歴史が書かれている。通称『左伝』。
*蠟屐、蠟をゲタの底に塗りる(←歩きやすくなると考えられていたらしい)
*三国列伝―晋・和嶠  銭癖
 和嶠(かきょう 生没年不詳)晋の臣。慎み深く典雅な重々しさがあり、若い頃から声望高かった。
 名家で王公にも擬せられるほど豊かだったが、倹約家を通り越し吝嗇で、「銭癖」と呼ばれた。
 歯に衣着せない物言いで知られた。
(´・(ェ)・`)つ

863鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/21(木) 23:39:32 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 癖なのじゃ。

 臨濟徳山の棒と喝の禪
 睦州岩頭の船
 左伝の踏み歩きを一時忘れる。
 これは和?誌にあらず、我は銭を愛する癖なのじゃ。

864避難民のマジレスさん:2021/10/21(木) 23:44:47 ID:mDaJMeUQ0
565
對臨濟畫像   臨濟の画像に対す
臨濟宗門誰正傳 臨濟の宗門誰か正傳
三玄三要瞎驢邊 三玄三要瞎驢辺
夢閨老衲閨中月 夢閨の老衲閨中の月
夜夜風流爛醉前 夜夜の風流爛醉の前

くま訳
臨濟の画像に対面する
臨濟宗門における正統な後継者は誰か
三玄三要は瞎驢一休が受継いだ
夢うつつの一休爺がねまから月を拝むのだ
夜毎の風流乱醉の前じゃい

*夢閨:一休さんの「号」の一つ。夢うつつのままに精神の閨房をたのしむことを意味した。
*閨房:① 寝室。ねや。ねま。また、とくに夫婦の寝室。② 夫婦の間柄。また、家庭内の男女の風儀。
(´・(ェ)・`)つ

865鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/22(金) 22:58:35 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 臨濟の画像に対してなのじゃ。

 臨濟の宗門は誰か正傳なのじゃろうか。
 三玄三要はこのわしの身辺に在るのじゃ。
 夢幻の老僧は夢中の月の如しなのじゃ。
 夜夜の風流は爛酔の前なのじゃ。

866避難民のマジレスさん:2021/10/22(金) 23:25:15 ID:uy8415KA0
くま訳改
第三句:夢幻の老僧は夢中の月の如しなのだ。

566
偶作
臨濟門派誰正傳 臨済の門派誰か正伝、
風流可愛少年前 風流愛す可し少年の前。
濁醪一盞詩千首 だくろう一盞さん詩千首、
自笑禪僧禅識禪 自ら笑ふ禅僧禅を識らず。

茶の湯に親しむHP
臨済の門派は誰か正しく伝えている者はいるのだろうか。
俗事を離れてかわいらしい少年の前で
盃にどぶろくを注いでいると、詩は千首もできるのだから
笑ってしまうのだ。禅僧は禅を識らずと

くま訳
臨濟宗門の正傳は誰か、
風流を愛すべきである。少年の前で、
盃一杯のドブロクをあおれば、千首の詩が湧いて来るのだ。
笑ってしまうのである。禅僧禅を識らずと。
(´・(ェ)・`)つ

867鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/24(日) 00:17:22 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 偶作なのじゃ。

 臨済の門派は誰が正伝じゃろうか。
 わしは風流で可愛い少年の前で、
 濁り酒を一杯飲むと詩が千首もできるのじゃ。
 そして禅僧は禅を知らずと自ら笑うのじゃ。

868避難民のマジレスさん:2021/10/24(日) 06:00:38 ID:V7K29P4Y0
567
賛淸素首座   淸素首座を賛す
茘子食罷記吾曾 茘子食しやんでわがさうを記す
三十年來一箇僧 三十年來一箇の僧
杜牧平生丈夫志 杜牧の平生丈夫のこころざし
老無気力望昭陵 老いて気力のうして、昭陵を望む

くま訳
賛淸素首座
茘子を食し終えて、わしの最近の事を記すのである。
三十年來一箇の出家修行者である。
杜牧のように常日ごろ丈夫な志を持っていたのだ。
が、しかし、老いて無気力に、太宗の墓陵のことを考えたりしてるのだ。

*淸素首座:>>464 作偈博飯喫 参  >>206 大燈國師三轉語曰 参    
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/
*罷(ヒ・ハイ[訓]やめる まかる)1 仕事を中止する。2 役目をやめさせる。3 疲れてやる気がな
 くなる。
*曾(ゾ、ソウ、ソ、ゾウ、[訓]かさ(なる)かつ(て)すなわ(ち)ま(す)・意味 かつて。これまで。 
以前に。かさなる。幾重にもかさなる。ます。ふえる。ふやす。=増「すなわち」と読み、「ところが」
 「なんと」「いったいぜんたい」などの意を表わす。
*杜牧:唐の京兆萬年の人なり、豪放にして奇節あり、詩をよくし、杜甫に対して小杜と称す、その卒ぜん
とするに当たり、平生作る処の文章をことごとく焼き、自ら墓碑銘を作るといふ。(大成脚注)
*昭陵:唐の太宗の陵なり(大成脚注)
 太宗598-649年、父高祖とともに唐建国。第二代皇帝。
(´・(ェ)・`)つ

869鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/24(日) 23:07:25 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 淸素首座を賛するのじゃ。

 茘子を食べおえて、わしのこれまでのことを記すのじゃ。
 三十年來一箇の僧として生きたのじゃ。
 平生は杜牧の如き丈夫の志をもつていたものじゃ。
 老いて無気力になると昭陵を望むようになったのじゃ。

870避難民のマジレスさん:2021/10/25(月) 14:31:28 ID:0IpG2gCc0
568    2/2 
擧靈山徹翁和尚末後之垂示以示徒。 りゃうぜん徹翁和尚のまつごのすいじをこして、もって徒に示す。
其垂示云。正法眼藏無付人。    其の垂示にいはく、正法眼藏人に付する無し、
自荷擔至彌勒下生噫。       自らかたんして 彌勒下生に至る。い

牢關一句費工夫 牢關一句工夫を費やす
百煉精金再入爐 百錬の精金再び炉に入る  
話到當來來劫曉 わして當來來劫の暁に到る  
只愁枕上夢魂無 ただうれふちん上にむこんなきことを

くま訳
霊山徹翁和尚が最後の教えを弟子たちに説いた。
其の教えにいわく、正法眼蔵は人により言葉で伝えられるものではなく、付け加えることはない。
自ら引き受けて、弥勒菩薩の下生に、今すぐから備えなければならない。ああ〜

最終、最大の難関(末期の牢関)透関のための一句をひねりだすために、工夫精進するのだ。
何度も鍛えぬき練り直し、更に一から鋳直すのである。
話をしているうちに、ひらめいて、悟ったりするのである。
心配なのは、寝ぼけて見た夢ではないかということだ。

119 再掲(2020/07/10(金)) https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/ >>806
擧靈山徹翁和尚末後之垂示以示徒。 りゃうぜん徹翁和尚のまつごのすいじをこして、もって徒に示す。
其垂示云。正法眼藏無付人。    其の垂示にいはく、正法眼藏人に付する無し、
自荷擔至彌勒下生噫。       自らかたんして 彌勒下生に至る。い

1/2
古佛靈山名不虚 古佛霊山名虚しからず
當來彌勒是同居 当来の彌勒是れ同ご
兒孫一箇狂雲子 児孫一個の狂雲し
邪法大興殃有餘 邪法大いに興ってわざわひ余り有り

807: 鬼和尚 ◆GBl7rog7bM :2020/07/11(土) 23:47:31 ID:1d4drIFg0
一休は宗派には拘らないのじゃ。
正法眼藏に付する無しという遺言もよいものだというのじゃ。
既に弥勒は現われているというのじゃ。
悟りを得た如来は既に世に出て、一休もその一人というのじゃ。
ただ衆生が悟りを求めていなければ何の意味もないのじゃ。
邪法に惑わされて災いを招くのみなのじゃ。
(´・(ェ)・`)つ

871鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/25(月) 23:37:19 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。
 よくできたのじゃ。

 霊山和尚の末後の教えを弟子達に示したのじゃ。
 その教えに曰く、正法眼藏は人に付することは無いのじゃ。
 自ら荷担して弥勒下生に至るのじゃ。

 牢関一句に工夫を費やすのじゃ。
 百回も錬摩した金の精髄を再び炉にいれるようなものじゃ。
 話をして当来、来迎の暁に到った時、
 ただ枕の上に正体をなくして夢見ていないかを愁えるのじゃ。

872避難民のマジレスさん:2021/10/26(火) 08:09:17 ID:S8A5yMpc0
569
俗人淫坊門前詠詩歸 俗人淫坊門前に詩を詠じて歸る
樓子無心彼有心 樓子無心彼れ有心
淫詩詩客色何淫 詩に淫す詩客色何ぞ淫す
宿雨西晴小歌暮 宿雨西に晴る小歌の暮
多情可愛倚門吟 多情愛すべし門によって吟ず

くま訳
俗人坊は遊里の門前で詩を詠ん帰るのである。 
遊女には何の思いも無く、彼にはあるのだ。
詩に熱中する客は、色欲に耽る事はない。
昨夜からの雨が西から晴れてきて、小唄が聞えるる夕暮れである。
情が深いのは愛すべきことである。門に寄りかかって吟じる声が聞える。

*婬(淫)する:1(「…に淫する」の形で)度が過ぎる。度を過ごして熱中する。ふける。2 みだらなことをする。
*宿雨:1 連日降りつづく雨。ながあめ。霖雨(りんう)。2 前夜からの雨。
*倚門之望(いもんの-ぼう):子の帰りを待ちわびる親の情のたとえ。子を思う親の愛情が切実なたとえ。特 
 に母親の愛情についていう。門に寄りかかって望み待つ意から
(´・(ェ)・`)つ

873鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/26(火) 21:28:34 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 俗人の淫坊は門前に詩を吟詠して帰るのじゃ。

 樓子は無心であり、彼は有心なのじゃ。
 詩に淫する詩客が何ゆえ色に淫することがあろうか。
 宿雨は西にさり、晴れた暮れに小唄が聞こえるのじゃ。
 多情は愛すべしと、門に依って吟詠するのじゃ。

874避難民のマジレスさん:2021/10/26(火) 22:58:59 ID:fjWy3EZo0
570
四睡圖     四睡図
老禪饒舌笑中愁 老禪のねう舌笑中の愁
虎尾搦來跨虎頭 虎びぢゃくし來って虎頭にまたがる
月元不識寒山意 月は元しらず寒山の意
夢愕淸光萬里秋 夢はおどろく淸光萬里の秋

くま訳
四睡圖
老禅師の饒舌には、笑いの中に愁いがあるのだ。
時に、虎の尾をからめ取ってきて、虎の頭にまたがるような、大力量を発揮する。
しかし、月は寒山の心など端から知らんことでありましょう。
夢で清光を見て、悟ったと勘違いした秋だったのではありますまいか。

*四睡図:豊干、寒山及び拾得が虎と共に睡る姿が描かれた禅画。禅の真理、妙理、境地を示すとされる。
豊干禅師と寒山、拾得は親しい関係にあったが、この三人と虎を一緒に描くことの根拠となる文献は見つ
かっていない
*くま的には寒山さんたちは、たいへん魅力的だと思うのでありますが、シティーボーイの一休さんとは正 
反対でありますので、一休さんは批判的に見ていたのではないかという視点で、訳してみたであります。

*寒山さんの月の詩の一つ。Taro-恵山のつれづHP先生訳・解説抜粋
吾心似秋月 吾が心秋月に似たり
碧潭清皎潔 碧潭清うして皎潔
無物堪比倫 物の比倫に堪えたるは無し
教我如何説 我をして如何が

自分自身に向き合い、心の奥底に見入るとき、その凛として澄み切った清らかさは、まるで秋の月のよう
だ...
わたしたちの心、碧の水を深く湛える湖、碧に見える湖の水面を覗き込むならば、その湖底は、あくまでも
清らかに澄んでいるのです。・・その清らかに澄み切った湖の底を、秋の月のように皎皎と冴え渡る「吾が
心」が、白く照り輝かせる心とは、本来はそうしたものなのだ...わたしたちの心の本当のあり方は、本
来は、一点の曇りもなく澄みきったものなのだ...その透き通った有り様は、実は秋の名月の比ではない
...はるかに素晴らしいものなのだ...
わたしたちめいめいの心の本当の姿を、この世界の、どのような素晴らしいものにたとえようとしても、と
てもたとえることなどできない...それは比較を絶したものなのだ。ああ、そのありさまを、何と言葉に
すれば良いのだろうか...それは言葉にすらできないのだ.

*昨夜一聲鴈 昨夜一声の雁、
清風萬里秋 清風万里の秋あき。

芳賀幸四郎先生訳・解説
昨夜、月明の空を北から南へ数行こうの雁が鳴きながら渡っていった。もう雁の渡ってくる頃になったのか
と、しみじみ聞きながら、いつか寝入ってしまったが、
今朝起きてみると、すがすがしい風が吹きわたって、見わたす限り秋の気配が充ち満ちている。(中略)悟
りが開けてみると、これまで立ちこめていた一切のもやもやがきれいに消散し、清風万里の秋にも比すべき、
なんとも爽やかですがすがしい境涯が開けた」

*跨虎頭:「碧巌録」第54則  雲門展両手 虎頭虎尾 一時に収む:虎の頭も尾も手中に収める。大力量
を発揮する。
(´・(ェ)・`)つ

875鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/27(水) 22:46:57 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 老禅師の饒舌には笑いの中にも愁いがあるものじゃ。
 虎の尾に耽溺して、虎の頭に跨るのじゃ。
 月は元より寒山の意などしらないのじゃ。
 清い光が万里を照らす秋の夢に愕然とするのじゃ。

876避難民のマジレスさん:2021/10/27(水) 23:20:46 ID:Mq7fRKlY0
くま質問
ここで、「秋の夢に愕然とする」のは寒山であり、寒山が月光をどのように見て受け止めようと、月はあり
のままに在ることに、寒山自身が気付き、悟って愕然としたのでありましょうか?

571
昔有一婆子。供養一庵主剄二十餘年。 昔一婆子有り。一庵を供養して二十餘年をへ。
常令一二八女子送飯給侍。      常にひとりの二八のにょしをして飯を送り給侍せしむ。
一日、令女子抱定云、        一じつ、にょしをして抱ぢゃうせしめて云はしむ、
正恁麼時如何。           「しゃうよもの時いかん」 
庵主云、枯木倚寒巖、三冬無暖気。  庵主云く、「枯木寒がんによる、三冬暖気無し。」
女子帰挙似。            にょし帰ってこじす。
婆子云、我二十年只供養得箇俗漢。  婆子云く、我二十年ただこの俗漢を供養し得たり。
追出焼却庵。            追出して庵を焼却す。

老婆心為賊過梯 老婆心賊の為に梯(かけはし)を過して、
清浄沙門與女妻 清浄の沙門に女妻を与う。
今夜美人若約我 今夜美人、若(も)し我を約せば、
枯楊春老更生稊 枯楊春老いて、更に稗(新芽)を生ぜしめん。

「婆子焼庵」公案・伊井暇幻先生訳・抜粋
あるところに老婆がいた。禅僧に庵を建ててやり、二十年もの間、生活の面倒を見て遣った。
いつも、最も美しく可愛らしい年頃の少女一人を選び、食事を持たせて僧の給仕をさせていた。
・・・ある日、老婆は係の少女に言い含めた。
「禅僧に抱きつき・・『こういう時、アナタは如何な気持になるの』と訊くのぢゃ」。少女が言われた通りに
すると、
庵主は云った。「私は寒岩に拠った枯れ木のようなものだ。この庵内は仏の境、命芽吹き早蕨萌え出ずる春
には遙か遠い凍土である」。
少女は身振り手振りを交えて、事の次第を老婆に報告した。
老婆は云った。「アタシぁそんな俗物を二十年も供養してきたのかい」。
老婆は禅僧を追い出し、庵を燃やしてしまった。

一休の詩・ある男の残日HP 宇野直人先生・訳抜粋
老婆は 泥棒が逃げ易いように梯子を架けた
清く正しい青年僧に 妻を世話をした
今夜 美女が私に抱き付いてくれれば
枯れかけた柳が 春にも萎れていたのが もう一度ひこばえを出すのに

くま訳
老婆は余計なお世話をして、泥棒に梯子を掛けてそそのかしたのだ。
清浄な沙門に女をあてがってみたのである。
今夜美人がもしわしとの逢瀬を約してくるなら、
枯木に春がきて、新芽がふくでありましょう。

*枯楊春老更生稊:「易」に「枯楊稊ひこばえを生ず。老夫 その女妻を得たり。利ならざるなし。→枯れ 
 かけた柳に稊ひこばえが生えるように、年老いた男が若い妻を迎えることはいいことだ」を引用。 
(´・(ェ)・`)つ

877鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/28(木) 23:22:27 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃろう。
 ありのままを観て愕然とするのじゃ。
 誰の心も知らず月はありのままに万里を照らして人を驚かすのじゃ。

878鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/28(木) 23:25:36 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 老婆は心賊の為に梯を過したのじゃ。
 清浄な沙門に女妻を与えたのじゃ。
 今夜美人がもしわしに約したならば、
 枯楊春老いてさらに新芽を生やすのにのう。

879避難民のマジレスさん:2021/10/29(金) 16:50:40 ID:XYCsi2yc0
鬼和尚、いつもくまにも分る解説をありがとうでであります。
寒山をググると、楽しい絵や、森鴎外の『寒山拾得』など、たくさん資料が出てくる弟あります。
これらは、中国仏教、禅が説きたかった、ありのままの観察法の典型的な事例のように思うであります。

くま質問
「老婆は心賊の為に梯を過した〜」とは、老婆は邪心から沙門にわなをかけたが、もし一休(のように悟っ
ていれば)だったら、与えられた女妻を受け入れたであろう、みたいな意味でありましょうか。

572
苦行釋迦    苦行の釋迦
六年飢寒徹骨髄 六年飢寒骨髄に徹す
苦行是佛祖玄旨 苦行は是れ佛祖の玄旨
信道無天然釋迦 いふことを信ず天然の釋迦無しと 
天下衲僧飯袋子 天下の衲僧飯たいす

くま訳
苦行釋迦
六年間、飢寒に耐えて、苦は骨髄に徹した。
苦行とは、物事の奥深い内容、深遠な道理を知るための修行のことであった。
釋迦が生れる前には、修行法の道理を教えてくれる天然釋迦は存在しなかったのだ。
釋迦が修行法を確立して教えてくれたのに、(それを実践しない)今の修行僧は無駄飯喰らいなのである。

*玄旨:物事の奥深い内容。深遠な道理
 玄旨帰命壇(げんしきみょうだん):比叡山で行われた秘法、脚下のようであります。
(´・(ェ)・`)つ

880鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/29(金) 23:47:54 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、一休はわかっていたのじゃ。
 悟りを得て心底色欲から離れていれば、女妻さえ拒む必要は無いのじゃ。
 何でも受け入れたらよいのじゃ。

881鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/30(土) 00:05:04 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 苦行のお釈迦様なのじゃ。

 六年の飢寒の行は骨髄に徹するほどのものだったのじゃ。
 苦行は仏祖の玄旨なのじゃ。
 苦行の道無きを信じ、釈迦は天然に悟ったのだという
 天下の衲僧は飯袋子の如しなのじゃ。

882避難民のマジレスさん:2021/10/30(土) 00:29:11 ID:cFxo0BM20
くま質問
「信道無天然釋迦」は 「いふことを信ず天然の釋迦無しと」と読み下すのではなくて、「道無きを信ず。
釋迦は天然なり」とでも読むべきでありましょうか。 

573
僧無尊卑    僧に尊卑無し
盧能馬箕姓名拙 慮能馬箕(き)姓名せつなり  
教外別傳越佛説 教外(げ)別傳佛説を越ゆ  
杜撰禪流井底尊 杜撰の禪流井(せい)底の尊
可憐皮下元無血 憐れむべし皮下に元血無し

くま訳
僧に尊卑無しである。
家柄など関係ないのである。
慧能は盧氏の出身で樵をやっていたと言う。馬祖の生家は簑や笊籬(ざる)作りであった。拙い出である。
仏の悟りの深奥は、言葉では伝えられないのである。修行法のみが伝えられるのである。
杜撰な禅では、尊さも底が浅いのである。てか、尊くないのである。
憐れむべし。元々邪師は、薄っぺらで皮下に血流が流れてない修行法を喧伝してるのるだけなのだ。正しく
修得できてないので、正しく伝えられていないのである。

* 教外(きょうげ・きょうがい)別伝:禅宗の要諦を示す言葉の一つで、経典などの文字やことばによらずに
 仏のさとりを心から心へと直接伝えること。また、その深奥の教義。転じて、普通では教えられない特別
 なこと。※正法眼蔵「釈迦老漢かつて一代の教典を宣説するほかに、さらに上乗一心の法を摩訶迦葉に正    
 伝す、嫡嫡相承しきたれり〈略〉この正伝する一心を教外別伝(けうげべつでん)といふ"
(´・(ェ)・`)つ

883鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/30(土) 23:42:01 ID:1d4drIFg0
↑そういえるじゃろう。
 座禅も実際にはなかなか苦しいものじゃということじゃな。
 お釈迦様もその苦しみを乗り越えて修業したということじゃな。

884鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/10/30(土) 23:50:04 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。
 よくできたのじゃ。

 僧に尊卑無しなのじゃ。

 慮能や馬箕は出身の姓名が拙かったのじゃ。
 教外別傳は仏説を超えたものじゃ。
 杜撰の禪は流井底の尊なのじゃ。
 皮下に血が流れていない形骸の憐れなものなのじゃ。

885避難民のマジレスさん:2021/10/31(日) 00:02:00 ID:LNzJrDTo0
574
喚我手作森手 我が手をよんでしんしゅとなす
我手何似森手 我が手しんの手にいづれぞ 
自信公風流主 自ら信ず公は風流の主、
發病治玉莖萌 発病玉茎のぼうをぢす
且喜我會裡衆 且つ喜ぶ我がゑりの衆

仁先生訳
ぼくのごつごつしたこの手は、森公の柔らかい手に比べられるものじゃないね、
この妖艶な森公は、本当に風流の主だと、やっぱり信じてしまうよ。
ぼくが病気になれば治癒してくれるし、玉茎が萌え立つと癒してくれる、
これほどの菩薩のような女性を家族の一員にできたことを、弟子たちもみんなただただ喜んでいるんだ。

くま訳
我が手の事を、森の手とよぶ事にするのである。
そのように思い込むと、我が手か森の手か分からなくなるのである。
森公は、風流の主であると、思い込むのだ。
玉茎が萌えて、発病したようになれば、癒す事ができるのである。
更に、この思い込み法を伝授してやったら、會裡の衆も喜んだのだ

*若い修行僧に伝授したイメージ自慰法と解してみたのである。
(´・(ェ)・`)つ

886鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/01(月) 23:52:20 ID:1d4drIFg0
そうかもしれん。
また一休の艶詩じゃな。

 それでよいのじゃ。

 我が手をよんで森の手とするのじゃ。
 我が手はどこが森の手と似ているのか。
 公は風流の主と自ら信じるのじゃ。
 発病した玉茎が萌えるのを治すのじゃ。
 且つ我が会の衆も喜ばすのじゃ。

887避難民のマジレスさん:2021/11/02(火) 05:52:13 ID:K8K3PImw0
575
話頭古則長欺謾 話頭の古則欺謾を長ず、
日用折腰空対官 日用(にちゅう)腰を折って空しく官に対す、 
栄衒世上善知識 栄衒世上の善知識、 
婬坊児女着金襴 婬坊の児女も金襴を着く。

『雑学の世界』HP訳
古則公案は、欺謾を増すばかり、
日常はペコペコ腰を折り、頭を下げて空しく官吏に応対している。
この世間にこびへつらう善知識も、
娼楼の遊女と同じく金襴を着ているという。

くま訳
古則公案を利用して、欺瞞を深め、
日頃は役人に虚しくへつらう。
それが、世間で名利を追う、いわゆる禪師様だ。
遊里の少女のような金ぴか衣装を着ている奴等なのだ。

*話頭:ほとんど公案と同じ意味、
*善知識:正法を説いて人を正しく導く禅師或いは禅師家

2020/05/06(水)  https://fate.5ch.net/test/read.cgi/keihatsu/1528924619/ >>596 から始まった
一休さん講読会、いよいよ次回で終了であります。
当初はネットから集めてきた個別の詩を掲載する予定でありましたが、途中から「狂雲集」の全ての詩の鬼
和尚解説・付きの現代語訳のようになりました。
鬼和尚のお陰で、狂雲集の全ての詩を覚者の日常の言葉という視点で読むことができました。貴重な機会
をありがとうでありました。
今回は原則「あいうえお順」に取上げてまいりましたが、いつか機会があったら、原典の通りに並べ直して
鬼和尚の訳・解説を読めるようにしたいと思うであります。
(´・(ェ)・`)つ

888鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/02(火) 23:44:35 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 古則や公案は欺瞞を大きくするばかりなのじゃ。
 日常では腰を折って空しく官に対する
 栄衒世上の僧は
 婬坊の児女の如く金襴の袈裟を着るのじゃ。

889避難民のマジレスさん:2021/11/02(火) 23:53:12 ID:U3dWOM1M0
576
偶作
我本來迷道衆生 我れ本來迷道の衆生
愚迷深故不知迷 愚迷深き故に迷ふことを知らず
縦雖無悟若有道 たとひ悟る無しといえども若道有らば
佛果天然立地成 佛果天然立地に成らん

くま訳
偶作
我本來迷道の衆生である
愚かで迷いが深い故に迷うことを知らないのである
たとえ悟る事ができなかったとしても、若し方法があるのであれば、
修行を積む上での生きた道標とならん。

*仏果:修行を積んだ結果として得られる、成仏の境。

『狂雲集』を鬼和尚の解説つきで読むという、誠に贅沢な機会に恵まれたことに感謝いたしております。
ありがとうございました。
次回より、2019/09/02(月)に中断したパパジSRI H.W.L.POONJAの「真理のみ」の講読会再
開の予定であります。5ヶ月間ほどかかる予定であります。
(´・(ェ)・`)つ

890鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/03(水) 23:48:49 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 偶作なのじゃ。

 我は本来は迷い道の衆生なのじゃ。
 愚迷が深い故に、迷いがあることも知らないのじゃ。
 それでも悟っていないとしても、もし道があるならば、
 仏果は天然にして立地に成るのじゃ。


 ご苦労さんだったのじゃ。
 整理して出版すると善いのじゃ。

891避難民のマジレスさん:2021/11/03(水) 23:59:51 ID:4EFf5LRA0
2019/09/02(月)に中断したパパジSRI H.W.L.POONJAの「真理のみ」の講読会再開であります。
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1539697204/  >>586>>781 のつづき
1
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-e② 

Q:私を騒がせるものにもっと注意深くあらねばならないと分かっているのですが、この注意深さはマインドのトリックではないのですか?

 あなたに必要なこの注意深さはマインドのトリックではない。マインドのトリックはあなたが注意深くしていないときだ。そのときマインドがトリックを仕掛ける。注意深くしているときはトリックを仕掛けるマインドが存在しない。
 今、あなたは私の前に座っている。この今の瞬間、注意深くしていなければならない。過去を見ないこと。

     現在の状況に注意深くありなさい。
     幸福を得るにはこれで十分だ。
     この瞬間だけ注意深くしていなさい。
     状況が過ぎ去れば、それに執着しないこと。
     過ぎ去った状況に執着することがすべての人の問題だ。
     これが苦しみと悲惨さの原因だ。

     起こったことは元に戻すことはできない。
     だからそれに執着しないことは理に適っている。
     単に過去の状況に執着しないこと。

 あなたに英知があるなら過ぎ去った過去の出来事に執着するのは無駄なことだと理解するだろう。とにかくこのことを理解しなければならない。この理解は自然に与えられた状況を楽しみながら平和で美しい人生を送るのに十分だ。

 障害や思考は平和な家庭に住むねずみのようなものだから、あなたは猫のようにあるべきだ。あなたが猫であることを忘れるとねずみがやってくる。猫がねずみに注意深くしているようにあなたの思考に注意深くありなさい。

 思考に警戒してそれがどこからやってくるか見てみなさい。さて、今どんな思考があるのかいいなさい。

Q:(質問者は何かを理解したように笑っている。)

 これがねずみを食べた後の猫のスマイルだ。思考がないときすべてが消え去る、そのとき笑うことができる。これが起こるのは「今」で過去ではない。あなたの仕事をしなさい

 警戒して注意深くしていて、あなたを騒がせる思考、どんな思考がやって来るか言いなさい。このように注意深くして、あなたの前にやってくるねずみに飛びかかりなさい。

 ただ注意深くしていて、何もしないことだ。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

892避難民のマジレスさん:2021/11/04(木) 22:51:53 ID:p3a9piXM0
鬼和尚、こんばんは。
一休さんの詩は、577首掲載したのでありますが、その内51首、鬼和尚の解説が無いものがあります。
明日以降、パパジの講読会の末尾に、その詩を再掲載して参りますので、解説をお願いしてもよろしいですありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

893鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/04(木) 23:24:11 ID:1d4drIFg0
↑よいのじゃ。
 どんどんのせるとよいのじゃ。

894鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/04(木) 23:27:03 ID:1d4drIFg0
今ここにある心の働きに注意深くあるべきなのじゃ。
過去の出来事も、未来の予測も全て記憶から起こるものじゃ。
それらに囚われていれば今ここには居ないのじゃ。
今ここで働いている心を注意深く観るのじゃ。

それが観察なのじゃ。

895避難民のマジレスさん:2021/11/05(金) 00:35:06 ID:ihBMrWr20
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-e③

Q:真我探求を通して私は平和と幸福を経験しましたが、未知への恐怖がやって来てそれを疑ってし
まいました。

 どのくらいこの平和は続いたのかね?

Q:ほんの数分間です。そして思考がやって来ました。

 なぜこの幸福を諦めたのかね。又、何の為に諦めたのかね。幸福から去るという決定はよいもので
はない。平和の中に定住しなさい。何億年もあなたは心を乱され続けて来た。
 一度平和を見つけたのなら、なぜこの混乱の中に戻って行くのかね。これを理解しなさい。何があ
なたに平和を与え、何があなたを動揺させるのか見分けなさい。そして良いほうに従いなさい。

Q:私に平和を与えてくれる「見ている人」を見つけ出すことができません。

 「見ている人」を見つけ出すことができないというのなら、それは良い経験だ。あなたは眼鏡を通
して見るが眼鏡は見ることができない。眼鏡の後にあるものを見なさい。目の後にあるものを見なさ
い。

 誰が見る人に見ることができるようにさせているのか?「見ている人」がもはやそこにいないので
死んだ人の目は見ることができない。もう一度「見ている人」を見ようとしてごらん。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

臨済四料簡 1/4  
奪人不奪境   
百丈潙山名未休 百丈潙山名いまだ休せず
野狐身興水牯牛 野狐の身と水牯牛と
前朝古寺無僧住 前朝の古寺僧の住するなし 
黄葉秋風共一楼 黄葉秋風共に一楼  

Didier DAVINダヴァン ディディエ先生訳
百丈の名も、潙山の名も、未だにいき続けている、
「野狐身」と「水牯牛」の公案に。
荒涼とした古い寺に僧は1人も住んでいない。
ただ黄葉に吹く秋風と共に、一件の楼台しか残っていない。

くま訳
百丈や潙山の名いまだによく知られている。
僧(人)ではなくなった野狐の身や、水牯牛に生まれかわった僧(人)の公案で、
寂れた古都の荒れ寺には僧は住んでいない。
黄葉秋風とともに一楼台が残っているだけである 

*奪人不奪境:人を奪って境を奪はず、法の独立を示す語なり。卽ち一法立する時は、万法その内に
接し、人法の別なく主客の両観なし、法法絶対にしてこの間に何物の出頭をも放さず、卽ち人を奪っ
て万法に一如たらしむるの施設なり。(大成脚注)
*百丈懐海(749-814):馬祖道一の弟子 潙山霊祐(771-853)百丈の弟子
(´・(ェ)・`)b

896鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/05(金) 23:31:53 ID:1d4drIFg0

 見る者は常に見る事の裏側に居るものじゃ。
 見る事にも囚われていては見えないのじゃ。
 見ることをも見れば、裏側にいる者も見えるのじゃ。
 困難では有るがのう。

897鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/05(金) 23:35:37 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 奪人不奪境なのじゃ。

 百丈や蕃山の名は未だ休む事無く使われているのじゃ。
 野狐身と牛の考案に拠ってのう。
 例え前朝の古寺に僧も住まなくなっても、
 一つ屋根の下に黄葉と秋風のような師弟が居ればのう。

898避難民のマジレスさん:2021/11/05(金) 23:59:24 ID:RwbytKqk0
3
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-e④

Q:「誰が考えているのか」と真我探求すると思考やセンセーションがもっとやって来ます。どのようにして思考のおしゃべりを静めることができますか。どのようにして私は溶けてしまうことができますか? 小さな思考の切れ目は、私の情熱を解き放してはくれません。

 それは本当ではない。切れ目はあなたを解放する!解放しないといつ言うのか? 切れ目の間に言うのか、思考と思考の間の空間に言うのか、空間の後でいうのか?

Q:空間の後で。

 未来について考えるのは切れ目の後だ。思考と思考の間に過去が、未来が、情熱が見えるのか?

Q:何にも見えません。

 これが私達が話していることだ。

Q:どのようにしてこの空間を大きくすることができますか?

 空間の全ては、この空間からやって来るのだから、空間を無限に大きくすることができる。この空間にいながら「どのようにしてこの空間をより大きくすることができるのか?」と問ねることによってもっと大きくすることができる。

 思考と思考の間の空間にいて、もしこの質問をすることができるなら真我が正しい答えを与えてくれるだろう。今、尋ねなさい!! (思考と思考の間に居るということは無思考を意味する。)

Q:(彼は沈黙の中に完全に吸収されている)

 彼は今、楽しんでいる。彼は甘味をかみしめている。彼は彼の最愛の人と非常に近いところにいる。彼女の口びるから1インチ離れているだけだ。彼は若者だから私はこのような喩えを使わねばならない。(くすくす笑い)。ウパニシャドからの古典的な喩えはこのような若い男性にはうまく働かない。

  飛び込んで全体と一つになりなさい。
  そしてこれさえも終わりになるだろう。
  私はこの同じ甘味をまだ楽しんでいる
  (彼の喉が愛でつまる)
  それは満ち溢れて「ここ」にある。
  それはこのように簡単だが誰もそれを見つめようとしない。
  ただそれを見つめて、近くに行きなさい。
  近くに行きなさい、未来も過去もない、
  欲望もない、存在もない、無存在もない、創造もない、
  そして「それ」が最後にある。

 大変すばらしい。このように若い青年が理解したのは、大変喜しいことだ。

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-e
(´・(ェ)・`)
(おわり)

臨濟四料簡 2/4 奪境不奪人    
臨済児孫誰的傳 臨済児孫誰か的傳
宗風滅却瞎驢辺 宗風滅却す瞎驢辺
芒鞋竹杖風流友 芒あい竹杖風流の友
曲禄木牀名刹禅 曲禄木じょう名刹の禅

Didier DAVINダヴァン ディディエ先生訳
臨済宗には誰が正伝をつたえるのか、
正教私の所で滅びたのだ・
さまようのは風流な人生である、
お寺で偉くなるのは名利を目指している禅に過ぎない。

くま訳
臨済の正統な後継者誰か、
臨濟の宗風は一休までで滅卻してしまうのだ。
わらじに竹杖で行脚する風流を伴とするのである
寺で出世を願うのは名利を追う禅である。
(´・(ェ)・`)b

899避難民のマジレスさん:2021/11/06(土) 00:10:25 ID:eZJNILXk0
くま訳改
 例え前朝の古寺に僧も住まなくなっても、
 一つ屋根の下に黄葉と秋風のような師弟が居ればのう。
(´・(ェ)・`)b

900鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/06(土) 23:06:01 ID:1d4drIFg0
誰でも一時は思考していない瞬間を味わうことができるのじゃ。
そしてそこに止まることもできるじゃろう。
それを意識すれば善いのじゃ。
沈黙の瞬間を持続すれば心も見られるのじゃ。
それが瞑想に拠って目指す境地なのじゃ。

901鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/06(土) 23:08:36 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 奪境不奪人なのじゃ。

  臨済の児孫では誰が正伝じゃろうか。
 それはこのわしの身辺で滅却するのじゃ。
 草鞋に竹杖で風流を友とするのじゃ。
 曲禄木牀は名利を求める禅なのじゃ。

902避難民のマジレスさん:2021/11/07(日) 00:02:18 ID:l.P2S6jk0
「沈黙の瞬間を持続すれば心も見られるのじゃ。
それが瞑想に拠って目指す境地」
OSHOやクリシュナムルティーも同じ事を言ってるでありますね。
思考と思考の間隙を意識的に捉えるようにするのが瞑想のコツでりますね。

4
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-f①
真我探求についての疑問を取り除く

Q:どのようにして、観察者を消すことができますか。私は暗闇を見ているようで、全ての明晰
さを失くしてしまいます。

 暗闇を見るためには光の中にいるに違いない。暗闇の中にいるときは暗闇を見ることはできな
い。あなたは暗闇を見る人で暗闇は対象だ、だからあなたは光であるに違いない。
 光から顔をそらすと、あなたの影、 暗闇だけが見える、光に顔を向けなさい。そうすると影
でなく光だけが見えるだろう。影に背を向けて、光に面しなさい。
 今、これはあなた次第だ。幻想を理解したならあなたは悟ったことになり、あなたが悟ったと
考えるならあなたは幻想の中にいることになる。だから誰が暗闇を見ているか見つけだしなさい。
 誰が暗闇を見ているのか? 誰にとって暗闇なのか? 誰の視覚の対象なのか? 今見つけ出し
なさい。誰が暗闇を見ているのか?
 これを見つける為には、静かにして、努力しないこと、動かないこと。その時、暗闇はない、
暗闇という思考でさえかき立てないことだ。

Q:私が真我探求すると、ひどい頭痛がします、どうか助言して下さい。

 頭痛がするなら、あなたはこの真我探求と戦っているに違いない。自分は誰か知ることと戦
いるに違いない。その時、ストレスがある。 頭痛は努力しようとする結果だ。
 正しい真我探求のやり方は、単に「私は誰か?」「この探求はどこからやって来るのか?」と
尋ねることだ。これをもっと軽く取りなさい、山を乗り越えようとしているのではないのだから。
 ここでは、どこにも行かない、 努力もしない。ただリラックスして何が起こるか見なさい。
「私」がどこに住んでいるか見分けなさい。まずマインドを明晰にして、「私」がどこに居るか
見つけ出しなさい。
 いったんこれが確認されたら、「私」がいるところまで道をたどっていけばよいのだ。そこに
行くのにどんな乗り物が必要か見つけだしなさい、車? 飛行機?
 「私」に到り着くのにどんな乗り物も必要がないといずれ分かるだろう。乗り物のかわりに、
あなたが成すべき事はマインドの動きを止めるだけでよい。「私」を見つける為に、どこにも行
く必要がないと分かるだろう。真我探求は、緊張を取り除く、緊張を与えるのではない。

Q:私の注意の一部分は、静寂を見つめているようですが、他の部分は、思考と戦って緊張を起
こします。

 これはよい練習だ!あなたのダイヤモンドに注意をむけていると、泥棒を遠ざけるのだ! 静か
にして、思考に注意する。あなたが覚めていたらどんな思考もやって来ない。注意深く見ている
ときは思考はやって来ない。これをすると、自然に気づきそのものになる。

Q:私は内なる静寂を見ようとする意図がありましたが、どんな意図も持つべきではないと言うあ
なたの教えが今わかりました。

 緊張なし、意図なし、ただ注意している。内と外の間に戦いなし、リラックスしていなさい。
 これを私は軍隊で学んだ、「気をつけ」の姿勢で同時にリラックスして立っている。又、プラナヤ
マも役に立った。ライフルで的を狙って、私のように、10発撃って10個撃ち落とす為には息を止
めなければならないからだ。

Q:静かにしようとしているのですが、リラックスできません。

 リラックスしたいという欲望を捨てなさい、何が残っているか言ってごらん。

Q:束縛されているという感じがまだ少し残っています。

 束縛されていると知っているならもはや束縛されていない。なぜなら、束縛を知ることによって束
縛からあなた自身を切り離して束縛を対象化しているからだ。この解放で束縛されていた「私」が意
識に注ぎこむ。 川が海に注ぎこむように。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

臨濟四料簡 3/4 人境倶奪  
雉翳龜焦身迍邅 ちえいきしょうみちゅうてん
并汾絶信話頭圓 へいふん信をぜっして話頭まどかなり
夜來滅卻詩人興 夜來滅却す詩人の興
桂折秋風白露前 桂は折る秋風白露の前

Didier DAVINダヴァン ディディエ先生訳
雉の狩も、焼いてしまった亀の甲も、身の前進を妨げる。
「并汾絶信」の話は完成された。
昨夜から完全になくなった詩人の感興
桂は秋風に折られていて、蘭端は白露の前に覆い砕いている。

903避難民のマジレスさん:2021/11/07(日) 00:57:37 ID:m5HzqKX60
くま訳
おとりを使った雉の狩りを楽しんだり、占をしてみたりするようなことは、思い悩むことにしかな
らない。
「并洲」と「汾洲」の反乱のとき城の様子(境)、人びとの安否(人)の一切の消息を絶ってしまっ
た故事のたとえは、よくできた説明である。
昨夜来詩人としての興は冷めてしまった
芳しい桂の枝が秋風の吹中で白露により折られてしまったのだ。
(´・(ェ)・`)b

904鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/07(日) 23:16:10 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、みんな同じことを言っているのじゃ。
 それが瞑想の助けになるのじゃ。
 
 観察者は一度見られれば消えるのじゃ。
 何が観察しているのか、観察している主体は何か。
 真摯に追求することが観察なのじゃ。
 
 ただ見ることだけで全ての観念は消えるのじゃ。

905鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/07(日) 23:19:16 ID:1d4drIFg0
 そんな感じじゃな。

 人境倶奪なのじゃ。
 全て奪うというのじゃ。

 罠にかかった雉も、占いに焼かれる亀もその身は逃れられないのじゃ。
 并汾は便りもなくなってこそ公案も完成したのじゃ。
 詩人の興は夜來滅却してしまったのじゃ。
 秋風は白露の前に桂を折ってしまったのじゃ。

 全て奪われたのじゃ。

906避難民のマジレスさん:2021/11/08(月) 08:49:36 ID:emDkWiPc0
くま訳;改
第一句:かかった雉も、占いに焼かれる亀もその身は逃れられないのだ。
第二句:并汾は便りもなくなってこそ公案も完成したのだ。

思考が生じた時に気付く訓練をすると、その思考が生じる以前は無思考であったと気付けるのであり
ますね。無思考であると意識してしまうと、それが思考でありますね。
思考=闇、気付き=光であり、意識でありますね。


5
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-f②
真我探求についての疑問を取り除く

Q:(彼は理解して、微笑みだして、話すことができない)

 何が残っているか言ってごらん? 32本の歯が私に語っている。あなたの顔全体と目が違ってい
る。それは何かね?

Q:エネルギーですか?

 エネルギーと知性は同じだ、知性がエネルギーだ。思考だ。識別する為の、マインドで考える為の、
感覚で行動する為の、このエネルーがどこからやって来るのか見つけ出して欲しいのだ。感覚の対象
でさえエネルギーにすぎない、このエネルギーの泉はどこか?
 これはアートマン=真我からやって来る。これが静寂の中で見られるものだ。あなたはこの真我そ
のものだ。この真我は、未知なるもの、無なるものだ。全ての波はこの無からやって来る。
 この公式によって無が知性、マインド、感覚、対象になる。人々が幸福で平和でない唯一の理由は
自分がアートマンだと悟らない為だ。一度これを知ったなら海がその波を楽しむように、あなたはこ
のサンサーラを楽しむことができる。

Q:これを経験したと感じますが、一時的です。静寂はやって来て、去って行きます。

 (笑って)これは静寂ではない。あなたがマインドに供給した静寂の概念だ。あなたは何か美しい
ものに注意を与える、ということはマインドが楽しむ為にこの「美しい」という概念をマインドに供
給しているのだ。
 花を見るとそれを美しいと呼ぶ。山羊は、その同じ花を食物と呼び、あなたの目の前でそれを食べ
てしまう。マインドに供給されるものは人によって違う。違いがあるものは「それ」ではない。ダイ
ヤモンドは宝石商にとっては貴重だが、化学者にとっては凝縮されたカーボンにしかすぎない。
 あなたは与えられるものを選び取る。選択があるところに永遠の休息はない。永遠の休息と平和に
は特徴は何もない。それはいつもすでにここにあるので、選ぶことはできない。

  本当の平和を見つけることができないなら、
  それを探そうとしないことだ。
  探求を止めた時、何が残っている?

Q:これは非常に簡単に思えます。

 簡単だ。あなたがそれを複雑にしているのだ。それは簡単だ。

  努力しないで静かにしていなさい。
  そうすると表面の騒々しい対話は止まる。
  その時、基盤が上に浮かび上がって来る。
  それは簡単だ、これに従いなさい。
  それが見えるかね?

Q:何も見えません。

 そうだ、あなたは「何もないそれ」だ。あなたはその「見ている人」即ち意識であって見られるべ
き対象ではない。あなたは証人。活動を見ている証人だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

臨濟四料簡 4/4 人境倶不奪
人境倶不奪    にんきょうぐふだつ
莫道再來銭半文  いうなかれ 再來銭半文と
淫坊酒肆有功勳  淫坊酒しに功勲あり
祇禄人話相如喝  ただ人のしょうじょが喝をわすによって
膓斷吟臺日暮雲  腸断す吟台にっぽの雲

Didier DAVINダヴァン ディディエ先生訳
また来たら銭半文の価値もないと言うな、
淫売屋にも居酒屋にも手柄がある。
病気で苦しんでいた相如の話で、
悲しく思う、吟台に日暮れの雲。

くま訳
人境倶不奪
また来るのなら、価値は半分だだなどと言うな。
女郎屋や酒場にも悟りに導く効用があるのだ。
ただ人が相如の糖尿病の苦について話すのを聞いて、
悲しく思いつつ、吟臺日暮から雲を眺めているのである。

*人境倶不奪:修行者に、すべてありのままに受け止めさせて、何ものにも束縛されない境地に導く。

(´・(ェ)・`) b

907鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/09(火) 00:14:39 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに観るだけでよいのじゃ。
 一度それを経験してしまうと、次からはそれを再現しようと記憶を求めてしまうものが多いのじゃ。
 それで自ら実践を困難にしてしまうのじゃ。
 本当は最も簡単なことなのじゃ。
 何もしようとしないことであるからのう。
 ただ観ている意識だけに全てを委ねるがよいのじゃ。

908鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/09(火) 00:30:19 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 人境を倶に奪わないのじゃ。
 
 道を再来すれば銭半分と言ってはいかんというのじゃ。
 淫坊や酒場にも功勲はあるであろうからのう。
 ただ人が話す相如の喝を聞いて、
 断腸の思いがする吟台の日暮れの雲なのじゃ。

909避難民のマジレスさん:2021/11/09(火) 15:31:33 ID:sQR1BPg.0
6
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-f③
真我探求についての疑問を取り除く

Q:思考の源泉を見つけようと大変努力していますが、マインドが強く抵抗して手に負えません。

 努力するのではない。それにマインドと思考の間には何の違いもない。マインドなしに思考はありえないし、思考なしにマインドはありえない、あなたに起こっていることは、マインドが生き延びようとしている証拠だ。

  魚が死にかかっている時は、もっと活動的になる。
  そのようにマインドの最後の瞬間も
  水から飛び出してもがいている魚のようにもっと活動的になる。
  この魚は長期間あなたを困らせてきたのだから、今、それをご馳走にしなさい。
  あなたが出来ることは考えないこと、努力しないことだ。

 考えることは存在しない過去にあなたを連れて行く。だから、考えないことが、平和でいる唯一の方法だ。夜、眠りの状態の中にいる時、あなたは幸福で平和に満ちている。
 しかし目覚めの状態の中では、マインドが存在するので、あなたは考えて結局は苦しむ事になる。深い眠りの中では、幸福でこの幸せは一体何かでさえ知らない。あなたは、理由なしに「幸せだ」。そして、 眠っている間あなたは幸せであったと知っているはずだ。
 なぜなら、あなたが目覚めて、友達がよく眠れたかどうか尋ねると「私はとてもよく眠れた。夢も見なかった」と答えるだろう。だからあなたは幸せであったが、この幸せがどこからやって来るのか知らない。

  思考がない時、ただ存在している時が幸福だ。
  深い眠りの中で体験する幸福が、
  未知の源泉からやって来る幸福が、
  あなたの真の本質だ。
  しかし、あなたが考えると苦しむことになる。
  だから日中は眠って夜中は静かにしていなさい。
  この意味は単に「考えない」ということだ。

 ほとんどの人が彼らの真の本質については眠っていて、彼らの欲望を満たすのに必要な活動を実行する為に世界に対して目覚めているということだ。
 少数の人が自分自身に目覚めていて、世界には目を閉じて眠っている。欲望を活動によって実現させたい人々は活動して実現させなさい。
 しかし、あなたは眠りなさい。「私はそれだ」が目覚めていることだ。ほとんどの人が「それ」に眠っている。とても簡単だ。分かるかね?

Q:私はマインドだと考えないで「私はそれだ」と考えることですね。

 考えるなと言っただろう。その時のあなたの経験は何か? 1/2秒だけ考えないこと。今やりなさい!!どこにも行かない、そうすると平和になる、試みようとしないことだ。
 この試みることは、マインドがマインドを騒がせるだけだ。平和はすでに存在するのだから、どんな試みも必要ない。平和を見つけようとする試みは、静かな湖に石を投げ入れるようなものだ。
 平和はすでにここにある、外に走って行く事によって、それを騒がせているだけだ。平和を得ようと努力しないで、さて何を感じるかね? どんな試みもしないときは、マインドは働かない。
 しかし、試みようとしたら、あなたを騒がせることになるマインドがやって来る。どんな試みも捨てなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

賛運庵和尚   うんなん和尚を賛す
悪魔境鬼眼睛開 悪魔の境鬼眼せいを開く
五逆元來應聴雷 五逆元來まさにらいを聞くべし
臨済當時焚几案 臨済そのかみきあんをやく
道場覿面却衣來 場てきめんにえをきゃくし来たる

くま訳
運庵和尚(虚堂の師匠)を讃える
雲庵和尚が悪魔になったような心境で、鬼のように目を見開いているぞ。
大罪を犯した者たちは、雷鳴におびえろ。
臨済はもうあきらめたであろうが、
雲庵は道場山からよみがえり、天罰を与えに来るぞ。

(´・(ェ)・`) b

910鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/09(火) 23:16:54 ID:1d4drIFg0

 考えるなと言われると、考えないためにはどうすればよいかとか考えてしまうのが人間なのじゃ。
 何もしないでよいと言われると、どうすれば何もしないで居られるかといろいろしてしまうのじゃ。
 ただひたすら心を鎮めて心も体も空にするのじゃ。
 そうすれば悟道もやってくるのじゃ。

911鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/09(火) 23:23:38 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 運庵和尚の賛なのじゃ。

 悪魔の境で鬼眼が瞳を開くのじゃ。
 五逆は元来正にその雷声を聞くべきなのじゃ。
 臨済は當時その几案を焼いたのじゃ。
 道場のものはてきめんに衣をすてにきたのじゃ。

912避難民のマジレスさん:2021/11/09(火) 23:34:44 ID:FEtM7ig60
7.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-f④
真我探求についての疑問を取り除く

Q:無努力に向って行こうとすると…

 無努力に向って行くというのはどういう意味だ?  この動きは何か?  動かないこと!!

Q :マインドが静かになる過程があるのですか?

 過程はない。マインドを騒がせるには過程が必要だが静かにしていることに過程は必要ない。サッ
トサンガにいなさい、静かにしていなさい。常に真我を愛しなさい。努力や試みで勝ち得るというも
のではない。ただ静かにしていなさい。思考がやってきたらどこからやって来るのか見つけ出しなさ
い。

Q :あなたの時間を無駄にして申し訳ありませんが、真我探求という方法に関して明確にしたいので
す。

 あなたは私が言ったことを繰り返し言っているだけで実行していないのだ。もし私があなたに「レ
ストランに行って昼食を食べなさい。」と言うと、あなたは「レストランに行って昼食を食べなさ
い」と言う。これがいったいなんの役に立つ?これがあなたがしたことだ。
 私は私が言ったことを復唱するようにと言っていない。私は静かにしていなさいと言ったのだ。し
かしあなたはまだ話をして多くのことを書いてよこす。あなたの頭に巨岩をかついでいるように真我
探求の概念をかついでいるだけだ。

Q :でも何も起こってはいないのです。
 繰り返して言っているだけで何が起こると言うのか。私はあなたに静かにしているようにと言った
が、静かにしている代わりに「静かにしているようにと言った。」と繰り返し言っているだけだ。
 何か言いたいのなら静かにした結果を話すべきだ。マインド、エゴ、肉体を手放さないでただ話し
ているだけだ。思考が起こったならそれらに無関心でいなさいと私は言っているのだ。
 努力なしに静かにしていなさい。私が言ったことを繰り返さないで経験しなさい。

Q:真我探求によって全体と一つになるのと、自発的な恩寵で全体と一つになるのと違いは何ですか。

 真我探求はマインドを使う、努力もいるが、自発的な聖なる恩寵は努力なし、マインドなしだ。真
我探求はマインドによって導かれ、時間の中にある。
 恩寵には時間やマインドによる限界はない。努力で又は努力なしで何かをするという必要がない。
それはひとりでに起こる。恩寵は非常に強い力をもち、説明することができないものだ。それはいつ
もそこにあるのにあなたはそれを受け入れないだけだ。
 恩寵とはサットサンガにやって来ることだ。あなたは飛行機や汽車や車でここにやって来たと言う
が、あなたは恩寵のみでここにやって来たのだと私は言おう。これが違いだ。恩寵なしで誰もサット
サンガにやって来ることはできない。

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-f
(´・(ェ)・`)
(おわり)

とっても残念な一休さん。
賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病  1/10  き長老が鷲尾の新造の寺を賀す、以って癩病をとふ
癩病脚跟毒気生 らい病のきゃっこん毒気生ず
殿堂新造勢崢嶸 殿堂新たに造って勢ひそうこう
鋤頭畊破鷲峰頂 じょ頭こうはすしゅうぶのいただき
荒草山前無一莖 こうそうさんぜん一けい無し

くま訳(以下同)
養隻の鷲尾の新造寺の落慶法要に出向いた時。らい病について質問した。
らい病は足に毒気を生じるので、寺院運営を難しいだろう。
鋤で山頂を切り開くようなものだ。
わしには煩悩は一切無いのだ。(わしは、邪魔する気はないよ)

*凞長老:養隻宗願のこと
*鷲尾新造寺:養徳院(大徳寺)のことらしい。
*崢嶸① 山や谷のけわしさ。② 人生のけわしさ。
*一休さん、徹翁義亨禅師の影響で、らい病等の病を罪報と信じていたらしいのである。
それが、医療や病気への理解が乏しい時代の「常識」であったとしても、手段を選ばず、養隻さんを
攻撃したかっただけではありますまいか。
 ちなみに、一休さんより80年くらい前に、忍性良観(真言律宗)という、貧民やハンセン病患者な
ど社会的弱者の救済に尽力した僧がいたそうであります。どうせなら、一休さんにはこういう人とお
友達になって欲しかったものであります。(cfらい予防法が廃止されたのは、1996年)
(´・(ェ)・`) b

913鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/10(水) 23:51:13 ID:1d4drIFg0
何もしないことが悟りを得ていない者には実に難しいのじゃ。
何もしないことについて考えたり、何かの方法をためしたりするのじゃ。
無努力を実現するために努力してしまうのじゃ。
今ここにあるだけでよいのじゃ。

914鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/11(木) 00:07:17 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 ?長老の鷲尾新造寺を賀し、以ってらい病を訪ねるのじゃ。

 癩病の脚跟は毒気を生じるのじゃ。
 殿堂を新造して勢いが激しいのじゃ。
 鋤頭で鷲峰頂を耕すようなものじゃ。
 荒草は山前に一莖もないのじゃ。

915避難民のマジレスさん:2021/11/11(木) 00:14:33 ID:gGjuz4Ec0
8.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-g①
真我探求についての疑問を取り除く

Q: 私の関わっている心理療法に「私は誰か?」を取り入れることは重要でしょうか? 私の中に人々
にメッセージを伝えたいという種が育っています。

 耕す人が土地を耕して、種はまかれた。肥料はまかれたが雨が降るまで芽がでない。これがまさに
あなたの状況だ。もし雨が降らなければ肥料が種を破壊する。
 今あなたは年中雨が降っているところにやって来て芽を出した。雨なしには何も起こらないが、雨
季には肥料の必要さえない。どこにでも種をまけば芽を出す。
 同じようにあなたのクライアントのマインドに精神的な種をまかねばならない。そしてあなたが雨
にならなければならない。

Q: どのようにして雨になるのか分かりません。

 雨になるためには雨と雲がどこからやって来るのか思い出しなさい。海から蒸気が起こって雲にな
る。それらは海からやってくるに違いない。そして山に突き当たって雨となる。
 さて、あなたの母親、海を見なさい。ある日、蒸発して雲になる。海を見るということは雨の源泉
を見ることだ。今雲になり、北に向かってヒマラヤ山脈に突き当たる。そして雨になる。
 非常に簡単だ、難しくはない。源泉に留まりなさい。そうするとひとりでに雨になる。

Q:人が選んだ時に内に入り、マインドを越えて居るのは可能ですか?

 内に入ることもなく、外に出ることもなく、選択もない。あなたが、行ったり来たりする選択をす
るのではない、もし。あなたが選択できないのなら…。

Q:それなら私は終わりです!!

 そうだ、選択はない。「私は自由になりたい」でさえ選択ではない。「私はこれを選んで、あれを
拒絶する」という全ての選択はマインドからやって来る。

Q:それではいつもそれは贈物ですか?

 それは全く本当だ。それはいつも贈物だ。しかし贈物には与える人と受けとる人が必要だ、同じ人
ではない。しかし、与える人も受取る人もいないとき、どんな贈物があるかね? しかも、それは贈
物だ。
 この意味は、それはいつもそこにあるので、贈ることができないということだ。あなたの首にか
かっているネックレスをどのようにして、あなた自身に与えることができるのか?
それは腰にかついでいる赤ん坊に気づかずに、赤ん坊を探している母親のようだ。ついに彼女は子
供を見つけたと言うが、子供はすでに母親といたのだから、これを「見つけた」と言えるだろうか?
これと同じように、あなたの真我を見つけたという現れ方をする。
 あなたが探しているものをどこで見つけることができるのか教えてくれる、権威を持った信頼でき
る人が必要だ。そうすると探求は終わる。このようにしてそれは既にあったということを知る。この
知っていることがそれ自身でそれに気づいている気づきだ。
 全ての疑いを晴らすことは、絶対に必要なので質問するのはよいことだ、あなたはよくやっている。
成功するだろうが、初めに全ての疑いを取り除くことだ。疑いとは「それをどこで探すのか?」「ど
れ位遠く行かねばならないのか?」
 現実には、どこにも行く必要がないし、何も理解する必要はない。

だから「それはここにある」と示してくれる教師を見つけたら、探求は終わりになるだろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病  2/10
栴檀佛寺利名禪 せんだんのぶつじりみょうの禅
公案纒腰十萬銭 公案腰にまとふ十万せん
滿目青山法眼境 満目青山ほうげんの境
鷲峰樵客踏通玄 しゅうぶのしょうかく通玄を踏む

もともと、名利のある禅宗である。
公案を腰に巻いて売り歩き金儲けをして、
自ら墓穴を掘るのは、法眼宗の末路のようだ。
鷲峰の樵(きこり)の客(養雙)は、通玄寺長老尼竺英のもとに通っているのだ。

*栴檀(せんだん))は双葉より芳(かんば)し:双葉の頃から香気を放つように、大成する人は幼い頃か
 らすぐれていること
*法眼の境:法眼宗がまだ隆盛だった頃、禅に他の大乗仏教も取り入れようとしたが、結局滅びてし
 まったことをふまえてるのか?
*玄:江戸時代の遊里では、医者のこと。また、医者を装ったところから、僧侶の客をいう。玄様。 
 (時代がちょぴっとずれているが・・ご参考
*通玄を踏む:本朝高僧伝に曰く、「源の満詮、妙雲院を洛東に建て、其の女通玄寺長老尼竺英、釣 
 旨を承け、額を養徳と革む、以て考妣(ひ)の香を奉ず、凞を請ふて之をに主たらしむ、凞後之を 
 城北に移す」とある、蓋し之を謂へるものか。大成脚注
 踏通: 踏んで通う。歩いて往来する。
(´・(ェ)・`) b

916鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/11(木) 23:32:33 ID:1d4drIFg0

 自分が見えないというものはそれが近すぎて見えないのじゃ。
 観ようとするものこそが自分であるからのう。
 それはどこか遠くにあるものではなく、自分の中核にあるものじゃ。
 そこから観ているから近すぎて見えないのじゃ。
 観ようとする全ての努力が止んだときにそれは不意に見えるのじゃ。

917鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/11(木) 23:37:14 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。

 昨日と同じ題なのじゃ。
 
 栴檀の仏寺などは名利の禅寺なのじゃ。
 公案を腰に纏い、十万銭稼ぐのじゃ。
 滿目の青山は正に法眼の境地なのじゃ。
 鷲峰の樵客は通玄を踏むのじゃ。

918避難民のマジレスさん:2021/11/12(金) 00:34:04 ID:QLxV94oI0
9.「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-g②
真我探求についての疑問を取り除く

Q:どのようにして真我の内に完全に留まっていることができますか?

 真我は全てのものの住み家だ、そしてあなたはすでに真我の中に住んでいる。いつも真我の中にいる。しかしそれを忘れて、何か修業をしなければならないと考える。
 しかし、どんな修業も必要ない。修業によって獲得する真我は本当の真我ではない。真我はどこにでも、いつも存在し、獲得するというものではない。どのようにしてそれから離れることができるのか?
 まだ経験したことがない人にこの種の疑いが起こってくる。 「あなたはいつも真我そのものとしてあり続けた」といずれ分かるだろう。あなたは他の場所で忙しく、対象を探し求めているから、これを知ることができないのだ。経験することができないのだ。
真我はいつも今、ここに存在しているので、あなたを真我に連れて行くための修行を探す必要はない。真我を離れてどこに行けるというのか? 
 あなたは誰か見つけなさい。毎日私達はこの質問をここサットサンガで取り扱っている。あなた自身であなたは誰か見つけなさい。この質問をあなた自身で解決しなさい。
 さもないと全てが知的な理解に終わるだろう。これを理解するのに知性もマインドも必要ない。ただ一瞬静かにしているだけでよい。そうすると、あなたは誰か知るだろう。

Q:何かの近くに居るという感じですが、それを手に入れることができません。

 何を手に入れたいのだ?

Q:いつもここで起こっていることです。

   あなたは決してそれを手に入れることは出来ない。
  「それ」は手に入れる対象物ではない。
  「それ」を対象化することはできない、それは主体だ。

 どんな努力をしても主体を見ることはできない、獲得することもできない、達成することもできない。主体は主人だ。あなたはその主人で何が不足か? 何を見逃しているのか?
あなたが見る人で、見られるものでも見ることでもない。あなたは「見る人」、家の主人、存在の主人、軸、存在の中心、それが究極の真理だ。
 あなたはどこにも進んで行かないし、どこにも到着しないのだ。もしこの進行と到着、この意図と概念の全てを取り除いたら、何が見えるかね?
あなたは誰か? 何を感じるかね? 「私は沈黙していなければならない」という意図でさえあなたを沈黙から遠ざける。どこかに滞まるという考えを捨てなさい。
 さて、今何を考えているのかね?
(´・(ェ)・`)
(つづく)

3/10
鷲峯建立大伽藍 しうぶこんりゅうす大伽藍
普請崩山又碎岩 ふしんして山を崩し又岩をくだく
五臓敗壊成膿血 五臓はいゑしてのう血をなす
黄衣癩肉臭汗衫 くわうえのらい肉しゅうかんさん

くま訳
鷲峯の大伽藍を建立
山を崩し岩を砕いて普請した。
五臓は壊疽し、血の膿を流す
僧衣はらい肉臭につつまれる
(´・(ェ)・`) b

919鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/12(金) 23:56:43 ID:1d4drIFg0
全ての努力は主体を取り逃がす実践になるのじゃ。
だれもがそれであるのに何かをすれば取り逃がすのじや。
ただひたすらに自分の根本に還るのじゃ。
無垢であった自分自身の根源に戻るのじゃ。
それには何の努力も要らないのじゃ。

920鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/12(金) 23:59:15 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじ゜ゃ。

 鷲峯の大伽藍を建立したのじゃ。
 普請は山を崩し又岩を砕いたのじゃ。
 それで五は臓敗壊して膿血となったのじゃ。
  黄衣の癩肉は汗の上着の臭いなのじゃ。

921避難民のマジレスさん:2021/11/13(土) 09:33:13 ID:YdBs/Nv60
10.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-g③
真我探求についての疑問を取り除く

Q:時々私はそれを理解できないということを考えています。

 時々とはなにか? 二つの時々がある。どちらを採るべきか? 「時々ここ」か「時々あそこ」か?

Q:私が「ここ」にいる時です。

 それでは「今ここ」にある時々について話そう、しかし「今ここ」に居る時、それは無時間だ、だ
から「時々」という問題はない。このまさにこの瞬間には時間がない。それを過去と言えるかね?
それを未来と言えるかね? 現在と言えるかね? 未来と過去がない時、現在も又、意味がなく消え
てしまう、分かるかね?
 「時々」はあなたがどこかで手に入れた観念に属する。それはあなたの経験ではない。この瞬間に
飛び込んで経験しなさい。私が瞬間という言葉を使うとき、それは過去、現在、未来に属する瞬間で
はないということだ。他にどんな言葉を使ったらよいか私にはわからないがあなたは理解していると
信じている。
 この「瞬間」は現在にも属さない何かを指差しているのだ。もしあなたが理解するなら「それ」を
手に入れる、もし理解しないなら「それ」を見逃す。それがこの「瞬間」について話すことができる
全てだ。
 今ここであなた自身の内を見なさい。この平和に飛びこんで、この平和そのものから話しなさい。
さざ波のない湖の内から話しをしなさい。さざ波は思考だ、さざ波はマインドだ、さざ波のない湖が
あなたの真我の本質だ。
 この真我の本質に飛びこんで、どのように感じるか言ってごらん。何を感じるか言ってごらん? 
時間はどこにある? 観念はどこにある? 教えはどこにある?

Q:観念がありません!!

 そこがあなたが言っていた「時々とNO時々」がない所だ。時間は全く存在しない。ただそのよう
に滞まりなさい。これがあなたの住み家だ。あなたがいつも住んでいる所だ。これが意識そのもの、
知恵そのものだ。
 これらの惑星や世界が宙に浮かんでいるところ、それは意識の巨大な容量だ。思考がやつて来ると、
いつでもそれは顕現する。 この無の中にこれらの非常に多くの思考が宙に浮かんでいる。
 そのままにしておきなさい。あなたには限界がないので何億もの惑星をただそこにあらしめなさい。
それらはこの宇宙の片すみにあるだけだ。あなたは創造の創造者、あなたは全て、あなたは総体、あ
なたは幸福だ。
 あなたが今いるようにここにいなさい。これを言葉で説明できるかね?

Q:私の身体はエネルギーそのもののようです。見方が大変違って来ました。
 見方は、多様性から一体性へと、部分から総体へと変わる。これがあなただ。あなたは全部で統一
体、美しくて、愛情深い。ここで「時々」が消えて、あなたが考えていたあなたという観念は消え去
る。それら全てが消えた後に残るものが永遠の愛、平和。ここに創造は不法に入ってこれない。

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-g
(´・(ェ)・`)
(おわり)

賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病 4/10
54(4/10)
妄参佛祖旧因縁 みだりに仏祖に参ず旧因縁
天道豈饒逢着膻 天道あにせんにぶちゃくすることをゆるさんや
食淡志潔吾自業 じき淡く志潔しわが自業
志姦食美汝家傳 志あしくじき美なる汝が家伝

くま訳(以下同)
無分別に昔の因縁があるからといって仏祖にお参りする
天の道理として、罪無くしてどうして生臭くなる(らい病にかかる)ことがありえようか。
粗食で志の高い私の業(だから私はらい病にかからない)
志いやしく、食通であるのは汝の家伝、(その罪業の報いなのだ)
(´・(ェ)・`) b

922鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/13(土) 23:48:39 ID:1d4drIFg0

 今ここには時間が無いというのじゃ。
 時間とは記憶による観念であるからのう。
 記憶に拠って過去があるとか、未来を想像するという観念も起こるのじゃ。
 今だけならばそこには時間は無いのじゃ。
 その無時間に止まるのじゃ。

923避難民のマジレスさん:2021/11/13(土) 23:59:47 ID:rB5l0mWM0
11.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-h①
真我探求についての疑問を取り除く
 
Q:目を閉じるとすばらしい快感と美しさを感じます。私は執着すべきでない何かに執着しかかって
いるのですか? もっと深く行くべきですか?

 目を閉じると、それぞれの感覚の対象物に対する接触が切断されて平和を盗む多くのものを投げ棄
てることができる。これが眠りに入る時、起こることだ。眠っている間、あなたは平和に満ちている。
 ある種の平和を与える外側の対象物に対する執着と主観の投影を止めることだ。目覚めの状態、外
側の対象物の世界は実は眠りの状態だ。なぜなら真の平和に気づかず対象に気づいているからだ。
 目を閉じて、あなたは平和がほしいと決めなさい。そうすると、この平和が時間に全く属さない他
の状態にあなたを連れていく。この状態はあなたに十分な喜びを与えるだろう。これがトリヤ、意識
の4番目の状態だ。
 これは目覚め、眠り、夢の状態を超越したものだ。ここから喜びを得る。概念や、考えや、意図や、
執着で満ちた状態を全て拒絶することはすばらしい喜びだ。この状態はいつも「ここ」にある。
 この状態では目を閉じているか、開けているかは問題ではない。他の目、内なる目が開くのだ。そ
の時、内なる世界が見えるのだ。目を閉じることは内なる目が開くのを助ける。最初は両方の目が同
時に働くことはない。(肉体の目と内なる目)
 あなたの真我に目覚めて、喜びを得なさい。努力してそこに到着しようとすると、そこに滞まるこ
とはできない。努力を始めたところにまた戻って来るからだ。ただ静かに座ってリラックスしていな
さい。どんな思考も起こらないとき、あなたの本質はあなたが言っている喜びだと分かる。
 マインドはいつも自分を満足させる対象に執着するが、決してそれに満足しないものだ。だからマ
インドは持って行かないこと。
 あなたは今、「その」中にいるのが私には分かる。私が話してきたように、あなたは落ちて行った。
(くすくす笑い)あなたは今わかった。この「今」を手に入れた。今、目を閉じるでもなく、開ける
でもなく、ただ見なさい。

Q: 真理は私の把握をはるかに超えたところにあるようです。

 真理を把握することはできない。それがあるところのすべてだからだ。この自由への欲望は自由そ
のものとひとつになる。この欲望が満たされたときには満足したか、しないかを知る人はそこに存在
しないし、すべてが瞑想になるのであなたの瞑想はありえない。
 あなたの真我の愛だけがそこにある。自由への欲望がおこる以前に、あなたが誕生する以前に存在
する「それ」を信頼すべきだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病 5/10
猢猻無尾出人前 こそん尾無くしてじんぜんに出ず
乃祖弄嘲天下徧 ない祖ちょうを弄して天下あまねし
拈棒下喝送一送 棒をねんじて喝を下してそう一そう
始看勾欄歌舞禪 始めてみるこうらん歌舞の禅

猿は、尾をかくして、人前に出てきやがる。
汝の祖父は、天下をあまねく愚弄して嘲った。(養隻さん藤原家のでなので、祖父が何かやったのか?)
棒を打ち下ろし喝を入れてやる。何度でも。
肘掛いすに坐ったり、歌ったり舞ったりする禅など初めてみるわい。

*胡孫(こそん):「さる(猿)」の異名
*乃祖(ないそ):汝 (なんじ) の祖父
*勾欄(こうらん):椅子のひじかけ。
(´・(ェ)・`) b

924鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/14(日) 00:03:36 ID:1d4drIFg0
 そんな感じじやな。

 また同じ題なのじゃ。

 旧因縁により妄りに仏祖に参じる。
 それが銭に執着するためならば天道が許すことがあるじゃろうか。
 食に淡白で志が潔のはわが自業なのじゃ。
 志が姦悪で食に美を求めるのか汝の家伝なのじゃ。

925避難民のマジレスさん:2021/11/14(日) 00:08:30 ID:rB5l0mWM0
くま訳改
第2句:それが銭に執着するためならば天道が許すことがあるだろうか。
(´・(ェ)・`) b

926避難民のマジレスさん:2021/11/14(日) 01:19:23 ID:JYPf02XQ0
訂正
>>912
*凞長老:養雙宗願のこと× → 春浦宗煕のこと〇
>>915
鷲峰の樵(きこり)の客(養雙)× → (春浦)〇
>>923
(養隻さん藤原家のでなので、祖父が何かやったのか?)× → 削除

ここで槍玉にあがっている、凞長老とは、養叟宗頤(ようそう そうい )さんではなくて、春浦宗煕(しゅ
んぽそうき)のことでありました。春浦さんは、養叟さんの後を継いだ人であります。
春浦宗煕(1409-1496):大徳寺40世住持。密参録(公案のアンチョコ)を作るなどして、一休さんに
批判されていたとのことである。
(´・(ェ)・`) b
1376-1458養叟

927鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/15(月) 00:16:35 ID:1d4drIFg0
真理を把握するとか、それを利用するとかは誰にもできないじゃろう。
たたそれであることに気づくだけなのじゃ。
波が海を把握するとか、利用することが出来ないようにのう。
自分という観念が幻であるからなのじゃ。

928鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/15(月) 00:20:51 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 お猿は尻尾をなくすと人前に出ないというのじゃ。
 汝の祖は天下の衆を嘲弄したのじゃ。
 棒を捻って喝を何度も下してやるのじゃ。
 勾欄での歌舞の禪など始めて看るのじゃ。

929避難民のマジレスさん:2021/11/15(月) 08:04:10 ID:mPXTyadk0
くま訳改
第一句:お猿は尻尾をなくすと人前に出ないというのだ
第四句:勾欄での歌舞の禪など始めて看るのだ

*勾欄:①唐代、大寺院の境内や周辺に集中した各種の芸能の演ぜられた戯場 ② 椅子のひじかけ

真理を把握するとか、それを利用するとかは誰にもできない
波が海を把握するとか、利用することが出来ないように
自分という観念が幻であるから
(´・(ェ)・`) b

12.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-h②
真我探求についての疑問を取り除く

Q:あなたといると、私のハートはますます愛情深くなっていきますが、時々気づかずに、ロマン
ティックになったり、感傷的になったり、感情的になったりします。多くの人がハートに瞑想する
とについて話しています。あなたが教えていることはこのことですか?
 あなたが言っているハートは 肉体のハートだ、心臓だ。しかし、私達がここで言っているのはそ
のハートについてではない。私達が言っているハートは身体の中にはない。他の言葉がみつからない
のでハートと呼んでいるだけだ。
 このハートは肉体の内側にも外側にもない。それは唯一、現在にあり、永遠だ。境界はない。この
ハートに集中しなさい。 しかし、このハートの内には、瞑想する「それ」以外に誰がいるのか?

     「それ」には限界がない
     思考やマインドよりももっと捕らえがたい。
     このハートは現存としていたるところに存在するが、 
     これについて考察することはできない。
     いたるところに存在するものに誰が瞑想するだろうか?
     「それ」は無条件で限界がない。

 瞑想は限界そのものだ。あなたが瞑想者になり、ある特定の対象を瞑想したい。それならそれは全
て条件づけだ。主体は条件づけられ、対象も条件づけられている。
 瞑想のサンスクリット語はDhyana、それが中国に行ってChanとなり、日本ではZenになった。
 Dhyanaの意味は主格と対格の関係が存在しない場所という意味だ、これが瞑想だ 本当の瞑想に
は瞑想者と瞑想する対象は存在しない。だから瞑想を捨てなさい。瞑想する対象と瞑想者という概念
がなくなった時、本当の瞑想が起こるかもしれない。
 実際にはあなたはいつもこの瞑想の中にいる。これは、あなたの膝が痛くなって2-3時間ごとに
ストップする瞑想ではない。「一時間後に会社に行かなくてはいけない」「今15分間だけ瞑想しよ
う」。このようにあなたの瞑想はロープであらゆる所に結びついている。
 ただ一秒間、瞑想や瞑想者や他のことについて考えないその時、何かが浮かびあがって来る、何か
がそれ自体で現われる。そして「それ」と一つになるのだ。これが真の瞑想だ。これがハートの瞑想
に対する私の理解だ。

第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part3-h
(´・(ェ)・`)
(おわり)

賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病 6/10
大燈門下單干境 大燈門下ぜんうの境
姦賊此時開法筵 姦賊此の時ほうえんを開く
厚面無慚唯畜類 こうめんむざんただちくるい
古今無若此邪師 古今かくのごとくなる邪師無し

くま訳
大燈国師から受け継がれた偉大なる禅。
それを今や邪悪な奴らが説法をしている
厚顔無恥な奴らは畜生に等しい
いまだかつて、こんな邪悪な師家は見たことがない

*單干(ぜんう):①匈奴モンゴル帝国の君主の号。広大な様 ②単独で、一人でやること
(´・(ェ)・`) b

930鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/15(月) 23:32:13 ID:1d4drIFg0
瞑想する自分を忘れた時、サマーディが起こるのじゃ。
更に自分がなくなれば無我にもなるのじや。
それが真の瞑想といえるのじゃ。
それがディヤーナであり、禅の本当の意味なのじゃ。

931鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/15(月) 23:34:59 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 さらに同じ題なのじゃ。

 大燈門下の單干のような境地なのじゃ。
 姦賊はこの時に法筵を開いたのじゃ。
 厚顔無恥は畜生に等しいのじゃ。
 古今にこのような邪師はいなかったのじゃ。

932避難民のマジレスさん:2021/11/15(月) 23:59:31 ID:nourXajA0
13.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-a①
真理に対する疑いと恐れを取り除く

  悟りについて疑うことは、苦しみと束縛にしがみついていることだ。
  だから、疑いが消えない限り、苦しみも消えないだろう。
  疑いと否定は、すべてに毒を与える。
  マインドに、食物に、そして世界に。
  あなたの疑いは雲のようなもので
  どれ位、雲は太陽の前で存在し続けることができるのか?
  しかし、「自由」は疑いには無頓着だ。
  疑いがやって来る、やってこさせない。
  去っていく、去っていかせない。
  起こって来る疑いに、「私は誰か知っている」と断言しなさい。
  あなたは、あなたの一部が疑っていると言うが
  部分が存在しない「その全体」があなただから、
  疑っているあなたの一部はありえない。
  あなたが真我探求しないとき、あなたは部分になり、
  破壊されるものになる。
  あなたが「知っていること」が落ちたとき、
  疑いが生き残ることはない。
  「私は知らない」が知識だ。
  知らない「私」は一体誰か?
  憶えておかねばならない大切な事は、
  眠っている習癖が思考の形をとって、起こって来るということだ。
  神でさえあなたを誘惑する。 仏陀のみ生き残る。
  だから天国とこの地球の快楽を拒絶しなさい。
  「ここ」にないものは、決して「自由」であるはずがない。
「自由」はいつも今、ここにある。

すべての疑いを捨てなさい。

Q:真我探求すると、深い沈黙、完全な平和に落ちて行きますが、その時、質問が起こって来ます。これが「それ」なのか? この質問が起こって来る限りこれは「それ」ではないという感じがします。パパジ、私は何を見失っているのでしょうか?

 この質問が起こって来るという事実は、あなたには疑いがあるということだ。頼みもしないで、努力なしで手に入れるものは本当であるはずがないと疑っている。
 手の中にダイヤモンドを持っていて、貝がらかもしれないと疑って、海に投げ返してしまう。まさにこの通りだ。これはダイヤモンドだ、疑わないこと! 疑うと、あとで幸運を失くしたと後悔することになる。
 マインドは何度もあなたを騙そうとするが、それを気にしないことだ。岩のように存在しなさい。その時初めてあなたはうまくやったことになる。波よこい、風よ吹け、雨よ降れ、岩はこれらに 影響されることはない。
 だから「私は岩だ」これで終わりだ。私は風や雨ではない。雨はしばらく降って又やむ。台風でさえやって来ては去っていく。何が来ようとも問題はない、何が去って行ことうも問題はない。「私は岩だ」ということを知ると、嵐が去ってもあなたはそこにいる。
「私はあるがまま、これが私だ」と知ることは、岩が海に沈んでも岩として残るようなものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病 7/10
風流入室苾蒭尼 風流しつにいるびくに
因憶慈明狹路時 よっておもふじみょうきょうろの時
腸断繊々呈露手 はらわたはたつせんせんていろの手
暗吟小艶一章詩 暗にしょうえん一章の詩を吟ず

くま訳
風流に入室する比丘尼
当然、いい事してるのだろう。
秘め事がばれて、ひそひそと笑われてるのだ
かくれて小艶詩でも吟じるか。

*腸を断つ:① 悲しみに激しく心が痛む。断腸の思いをする。 ② おかしくて大笑いする。*繊繊:細くてしなやかなさま。また、弱々しいさま。かぼそいさま   
*入室苾蒭尼:竺英聖瑞(じくえいせいずい)が、養叟に院を寄進して住持を請うた。1464年
春浦さんは当時、55歳一休さん71歳、竺英聖瑞 さん42歳。みんなお元気さんである。
(´・(ェ)・`) b

933鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/17(水) 00:00:57 ID:1d4drIFg0

 心に疑いがあれば日々の修行もやめてしまうじゃろう。
 自分を見つめる苦しい修行も悟りに向かっているという確信から耐えられるのであるからのう。
 悟りに至ればもはや疑うことも無いのじゃ。
 疑う自分も、疑うという観念も無いからなのじゃ。

934鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/17(水) 00:04:31 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 又同じ題なのじゃ。

 風流入室する悳蒭尼なのじゃ。
 それに因って慈明の路が狭いことを時に想うのじゃ。
 腸は細切れになり、手には汗なのじゃ。
 暗に小艶一章詩を吟詠するのじゃ。

935避難民のマジレスさん:2021/11/17(水) 05:14:33 ID:uGqg2GsA0
くま訳改
第2句:それに因って慈明の路が狭いことを時に想うのだ
第3句:腸は細切れになり、手には汗なのだ
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1600684575/ >>60 >>61

14.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-a②
真理に対する疑いと恐れを取り除く


Q:私は自由でありたいのでここにいますが、トータルに自由を望んでいないから恐れや疑いがある
のですか? もし、それがそんなに簡単ならどうしてこんなに難しいのですか?

 簡単なことが難しい。難しいことは、難しくない。もし私が何か難しいこと、たとえば、逆立ちし
なさいというと、あなたはそれをすることができる。 しかし、静かにしていることの何が難しいの
か?
静かにしているという意味は、何も考えないということだ。あなたは既に考えることから生じる結
果を知っている。混乱、トラブル、苦しみ、疑い、死。 両親や近隣や国家は決してこのことについて
言わなかった。
「静かにしていることは簡単だ。それは、あなたの基本的な本質だから。」というのを聞くのはここ
で初めてだ。あなたが現れる以前は静かであったし、あなたが消え去った後も静かだ。あなたが話す
以前は、あなたは静かであったし、あなたが話すことは静けさの中で終わる。
 すべてが静けさの中からやって来て静けさの中へと消えていく。だから「それ」は静けさの中にあ
るに違いない。話している間も静かにしていることができる。これを学ぶことができないのなら待た
なければならない。
 しかし、多くの人がこれをやり遂げたし、これからもやり遂げるだろう。これは何かをすることで
はないのだから。この聞き慣れない言葉使いを、ゆっくりと理解していくだろう。

Q:静けさから隔離されて思考に飲み込まれたような気がします。この悪魔が私の人生を所有してい
るのです。

 マインドと悪魔の間には、何の違いもない。それらは同じものだ。

  悟った後でさえ、悪魔は攻撃して来るだろう。
  あなたは疑って、あなたの自由はニセモノだと考え出す。
  決して悪魔を恐れるな!!

Q:どのようにして、疑い深い人を永遠に確信させることができますか。どうか指導して下さい。

 すべての人が疑いを持っているので、サットサンガにやって来るのだ。疑いがないのなら、なぜグ
ルの所にやって来るのか? 疑いを取り除く為にはサットグルの所に行く必要がある。疑いのない
人々はサットグルの所に行く必要はない。真理を見つけたいのなら、真理を探したいのなら、サット
グルの所に行くべきだ。
 そして、指導を仰ぎなさい。自分が真理そのものだと知っている人は行く必要はない。私は知らな
いということを知らない人、この人も又助けの必要はない。
 しかし、あなたは疑い深いというのだからグルの所に行って疑いを取り除きなさい。マインドが
疑っていると知ったら、その疑いを見て私に言ってごらん。ただ聞いているだけではだめだ。それを
やりなさい!! 疑いは何か言ってごらん。疑いを見なさい。理解しているのかね?
(´・(ェ)・`)
(つづく)

賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病 8/10
頤凞禪話太新鮮  いきが禪話はなはだ新鮮
呈露開拳又出拳  ていろして拳を開き又拳を出す
龍寶山悪中知識  龍寶山中のあく知識
言詮古則盡虚傳  ごんせんの古則ことごとく虚伝

くま訳
春浦の禅の話はとても新鮮である。
身振り手振りの熱演である。
龍宝山大徳寺の悪知識である。
古則の解説はことごとく、嘘である。

* 悪知識:悪法・邪法を説いて悪に誘い込む人 *古則:すぐれた古徳が示した語句のこと。
(´・(ェ)・`) b

936鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/17(水) 23:46:24 ID:1d4drIFg0

 ただ静かにしていることが、悟っていない者には難しいのじゃ。
 思考は常に動いているじゃろう。
 耳や目は常に刺激を受けているじゃろう。
 それによって刹那の時も静かにしていられないのじゃ。
 師を信じて瞑想をすることで心も止めることができるのじゃ。

937鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/17(水) 23:49:16 ID:1d4drIFg0

 それ゛てよいのじゃ。

 また同じ題なのじゃ。

 長老の禅話はとても斬新なのじゃ。
 こぶしを開いて見せるかと思えば拳を出して見せたりするのじゃ。
 龍宝山の中の悪知識なのじゃ。
 古則の解説は全部嘘なのじゃ。

938避難民のマジレスさん:2021/11/18(木) 08:56:51 ID:6LOGGbsc0
15.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-a③
真理に対する疑いと恐れを取り除く

Q:疑いを見つめたら、それは見つかりません。

 ああ! そうだ! 疑いを見つめると、疑いはない。疑いを見つめないと、疑いがある。このよう
に、サットグルがあなたに「疑いを見なさい」というと、疑いを見つけることができない。非常に簡
単だ。サーダナや練習をする必要はないし、ヒマラヤに行く必要もない。
 疑いはやって来るべきだ。さもないと、疑いのために来世に戻ってこなければならない。疑いの一
つ一つがあなたの次の誕生をもたらすのだ。だから、今、ここで、疑問を解きなさい。
 それは非常に簡単だ。疑いを見ると疑いはやって来ない。醒めていなさい!目覚めていたら、盗人
が家に入って物を盗むことができない。
 しかし、あなたが眠っていると物を盗まれる。何生にも渡ってあなたはすべてを失ったが、今覚め
てこの盗人を監視しなさい。この盗人はマインド、マインドのある所に疑いがある。
 いつも醒めていなさい。いつも疑いを見つめなさい。これは非常に簡単だ。あなたがアメリカに行
こうがここに長く居ようが問題ではない。これは、簡単な授業だ。

Q:私は自分自身を知っていますが、まだ疑っています。

 これは矛盾する陳述だ。あなた「自身」を知っているのなら疑いはありえない。あなた「自身」を
知らない時に、疑いや恐れがあるのだ。だから、訂正しなさい!「私は、私自身を知っている」これ
で終りだ。もし疑いがあるなら、訂正することはできない。

  炎のある所には光がある。
  疑いのない所には、恩寵がある。
  それを忘れないことだ。

Q:私にはとても強い疑いがあって、決して自由になれないという恐れがあります。思考をやってこ
させないように試みています。

 これは非常に強固な試みであらねばならない。思考が起こるのを許さない強固な試みをしているの
にどうして思考がやって来るのか?あなたの部屋のドアーを見知らぬ人に開けるかね?
 事実はドアーはないのだが、すべての人がドアーを開けてやって来るすべての人を中に入れる。だ
からあなたは安全ではない。見知らぬ人をあなたのマインドに連れ込まないことだ。しかしあなたが
知っている人は部屋に入って来させなさい。
 気をつけなさい。見知らぬ人はあなたを困らせる泥棒かもしれない。部屋に入って物を盗んでいく
かもしれない。まず誰か見極めなさい。それが愛、平和、美のような友好的な思考ならドアーを開け
なさい。
 すべての人にドアーを開けると困ったことになる。気をつけなさい。まず見極めて行動しなさい。

Q:これが私が探しているものかどうかという疑いが起こります。

 あなたが平和で幸福ならどうして疑いがやって来るのか? もし疑いがあるなら平和の中にいるこ
とはできない。あなたが平和なら疑いが起ころうとしても起こらない。あなたは疑いを超えたところ
にいるのだから。
 疑いはあなたの人生を食いちぎるねずみのようなものだ。だから静かにしていなさい。努力しない
こと、この努力もまた疑いだ。休みなさい、誰にも邪魔をさせないこと。
 疑いを見つめなさい、そうすると疑いはあなたに近づけない。疑いがどこからやって来るのか見つ
めなさい。この何もないことを見つめなさい。このようにして疑いを困らせなさい。疑いにあなたを
困らせないことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病 9/10
得果投機多教人 果を得機に投じて多く人に教ふ
青銅定價兩三緡 青銅定価両三みん
休歌亡國伊州曲 歌うをやめよ亡国伊州の曲
榮衒乾坤天寶春 栄衒のけんこんてんぽうの春 

評判を得ようと、事あるごとに、多くの人に教えを説こうとする。
定価は青銅両三束(高いか安いか?)
亡国の歌など歌うな。
名聞利養に邁進する輩が、わが世の春を謳歌している。

*伊州曲:翻訳サイトによりますと、唐代の詩人バイ・ジュイの「永遠の悲しみの歌」
(´・(ェ)・`) b

939鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/18(木) 23:35:27 ID:1d4drIFg0

 自分自身を知っているに疑い出かあるのは矛盾しているのじゃ。
 自分自身を本当に知ったならばもはや疑う自分もなく、疑いも無いからのう。
 全てはありのままにあるだけなのじゃ。
 そこに疑いはなく、智慧があるのじゃ。

940鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/18(木) 23:52:03 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 またまた同じ題なのじゃ。

 金を得ようとして多くの人に教えるのじゃ。
 青銅の定價は三緡の両なのじゃ。
 そんな亡国の伊州曲はやめるがよいのじゃ。 
 名利の寺が天宝の春を迎えているのじゃ。

941避難民のマジレスさん:2021/11/18(木) 23:58:14 ID:fC1QuDoY0
くま訳改
第一句;金を得ようとして多くの人に教えるのだ

16.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-a④
真理に対する疑いと恐れを取り除く

Q:私はいつも鬱病に罹っています。罠に掛けられたようで疑いと失意でいっぱいです。あなたが
言っていることを知性では理解していますが、本当のところはわかりません。この幻想の中で生き続

 この質問は知恵と光を手に入れる可能性がある人がする質問だ。幻想の中で生きることは役に立た
ないと知っている人たちだけがここにやって来る。
 まず最初に、誰があなたをここに連れて来たかを見つけだしなさい。あなたを助けてくれる「そ
れ」の慈悲から、内なるプッシュがあったに違いない。
 あなたは幸福になる為にここにいる。不安感を持たないことだ。あなたは多くの功徳を備えている。
サットサンガに来るには功徳が必要だ。岩のように強い決心が必要だ。
 「私はそれを勝ちとるのだ。今生で、今年、今日」これを決心しなければならない。今やりなさい。
それをやるつもりならそれは今だ。なぜこの今を来年に延期するのか? 今があなたを助けるのだ。
 幸福である為には、どこへも行く必要がない。それは「ここ」にある。内を見たら幸福だ。しかし、
外を見たらトラブルだ。それを決めなければならない。
 内を見て幸福になる。もしあなたのマインドがどこかに行くのなら、連れて戻りなさい。これを二、
三日やりなさい。マインドを見つめて静かにしていなさい。
 マインドはいつも静かではない。それは外に走るものだ。だから、それがどこへ行こうともそれを
連れ戻しなさい。この過程をあなたがどこにいようとも続けなさい。歩いている時、話している時、
家の内でも外でも続けなさい。
 マインドがしていることを内側から見る。マインドを連れ戻しなさい。何年来とマインドの好きな
ようにやらせてきた。「今」、あなたがマインドをコントロールする時だ。しかし、非常に強い決心
がない限り誰もそれをコントロールすることができない。決心したら、その猿をコントロールするこ
とができる。

Q:私は何か月も、至福を感じていません。いつも至福の中に居ることは可能ですか? これを超え
た何かがあるのですか?

 至福は来て去って行くという疑いはどこからやって来るのかね? あなたは意識、至福そのもので
至福の経験者ではない!! あなたは「その」至福そのもので、それを見る人ではない。
 「私は至福だ」ということを知りなさい。そうするとそれは行ったり来たりしない。太陽は24時
間輝いている。太陽には夜はない。しかし、地球が太陽に背を向けると夜になる。それは地球のせい
で、永遠に輝いている太陽のせいではない。あなたが太陽だということを知らねばならない。
 その時、この教えを理解することができる。何が暗やみで何が光か見分けなさい。何が真理で何が
真理でないか。現れて消えるものは真理ではない。やって来て去っていく幸福には触れないことだ。
むしろ、意識の貯水池、源泉に行きなさい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

賀凞長老鷲尾新造寺以訪癩病 10/10
引伴集徒幾癩児 伴を引き徒を集むいくらい児ぞ
面門眼上総無眉 面門げんじょうすべてまゆ無し
法中姦黨自了漢 ほっちゅの姦当自了の漢
傳授無師話有私 伝授師のうして話わたくし有り

茶の湯に親しむHP訳
伴を引きつれ徒党を組むのはどれほどの重病の面々なのか。
口ひげや眉が全て欠落している。
悟りを乱す者たち、自己満足の者たちは
その印可に師がなく、話に私心がある

くま訳
供を引き連れ、徒党を組むらい児どもよ!
おまえら、眉毛がないのは天罰か!
僧侶の中でも邪悪な輩、独りよがりに了している(三世了達している)と思いこんでいる奴。
お前に法を伝授した師などはいないから、話すことに業の深さがあらわれているのだ。

*禅門では、公案等に付き詳しく過ぎる説明は、罰が当り眉も髭も抜け落ちるといわれているそうである。
*法中(ほっちゅう):僧侶の社会。
*三世了達:一切を明らかに悟っていること。
(´・(ェ)・`) b

942避難民のマジレスさん:2021/11/19(金) 20:41:40 ID:r4tD3qbs0
補筆修正:本文2行目の末尾、「この幻想の中で生き続」の後に、
ける欲望はありません。どうか助けてください。
(´・(ェ)・`) b

943鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/19(金) 23:28:18 ID:1d4drIFg0

 至福はどこかにあるとか、消えて行くというものではないというのじゃ。
 至福そのものが自分であり、それを見るものではないというのじゃ。
 太陽が夜を知らず永遠に輝いているように衆生は至福そのものなのじゃ。
 どこまでも自分を追求すれば至福に到達できるのじゃ。

944鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/19(金) 23:54:37 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 またまたまた同じ題なのじゃ。

 幾人もの伴を引きつれ、徒を集めるらい児なのじや。
 面前の眼の上には全て眉なしなのじゃ。
 法中の姦人であり、自慢男なのじゃ。
 師の伝授はなく、話は自慢ばかりなのじゃ。

945避難民のマジレスさん:2021/11/19(金) 23:59:14 ID:lK5Bq4IQ0
17.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-b①
真理に対する疑いと恐れを取り除く

Q:疑い、欲望、マインドと呼ばれるこの機械にうんざりしています。たぶん私は恩寵がやって来る
のを待たねばならないのでしょう。私に何かすることができますか?

 恩寵なしには何もうまくいかない。あなたには恩寵が必要だ。そして、あなたの人生に恩寵がない
とどうして言えるのかね?
ラクナウにやって来たことをどう思うのかね。恩寵があなたをここに呼んだに違いない。
 さもなければ、あなたの国にいる友達のようにここにやってこなかっただろう。恩寵がないと言う
のはマインドだ。なぜならマインドは努力して初めて手にいれることができると信じたいからだ。
 しかし、何千年も努力し続けて来て「今」真我の恩寵で努力から自由になる時がやって来たのだ。
この恩寵があなたの活動を指導してどこに行くべきか、どこに居るべきか教えてくれるだろう。
 もし、内なる指令によってあなたはここにいるのだという事実を受けいれるなら、これがこの恩寵
に対する降伏だ。一度降伏したら、道は簡単だ。ただ何もしないこと、考えることさえしないこと。
ただ恩寵が湧き上がるのを待ちなさい。

Q:私はあなたの恩寵にとても圧倒されています。私のハートはあなたの足元にひれ伏し、私のすべ
ての恐れは消えてしまいました。感謝に値する言葉はありません。そして、私の最後の疑いをどのよ
うにして完全に取り除くことができますか?
(´・(ェ)・`)
(つづく)

題頤來的々付児孫 いらい的々児孫に付すを題す

頤卦題名貧食來 いか(け)名を題してじきをむさぼり来たる
會中膾灸寵如梅 え中のかいしゃちょう梅の如し
攫金手段機輪轉 きんをつかむ手段機輪転す
君子果然多愛財 君子果然多く財を愛す

くま訳
あからさまに、占いで子や孫に名前をつけることについて

姓名判断で荒稼ぎをする、
街中での評判が高い易者は、花のように大人気だ。
金儲けの手段、機会を逃すまいと大忙しである。
「君子財を愛す。これを取るに道あり」人は誰でも財を愛するが、間違った方法で蓄財してはいかん
のだ。とは言え、予想を当てて大儲けしたいと思ってしまうのでありますね。やれやれ

*膾炙( かい‐しゃ):「膾」はなます、「炙」はあぶり肉の意で、いずれも味がよく、多くの人の
口に喜ばれるところから、世の人々の評判になって知れ渡ること。
*果然(かぜん):予想していた通りになるさま
*的的:①仏法の内容の明らかで正しいこと。その正しさ。
    ②明らかなさま ここでは②と解した
*君子財を愛す。これを取るに道あり:唐洒州僧伽(とうししゅうさんが・則天武后の時代の伝説の
僧)誤った蓄財についての逸話あり。(白隠による論語説あり)
(´・(ェ)・`) b

946鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/20(土) 23:50:32 ID:1d4drIFg0

 恩寵とは求めるものにやってくるものじゃ。
 必要な時に師匠はあらわれると格言でもいうのじゃ。
 既に恩寵を得ていながら気付かないものもいるのじゃ。
 ただひたすら受け容れることが大事なのじゃ。

947鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/20(土) 23:56:55 ID:1d4drIFg0

 そんな感じじゃな。

 占いに注意じゃな。

 頤卦の題名は来る食を貪ることなのじゃ。
 会中にて評判のよいことは梅を愛する如しなのじゃ。
 金を掴む手段には悪知恵が働くのじゃ。
 君子は果然多く財を愛するものであるからのう。

948避難民のマジレスさん:2021/11/21(日) 02:55:27 ID:b.qiqBV.0
18.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-b②
真理に対する疑いと恐れを取り除く

 どんな疑いがまだ残っているのかね? あなたが私を愛しているならどんな疑いがまだ残っている
のかね? 疑いは愚かな人を愛するとき起こって来る。その時、疑いと恐れがある。
 私を愛しているなら、あなたは「それ」を信頼すべきだ。私があなたを愛していることを疑わない
ことだ。他の人を愛する場合は、あなたが愛しているその人は他の誰かを愛している。あなたはこれ
を世界で経験したに違いない。
ある話を思い出した。
 ある男が宮殿の門前にあらわれて、宮廷に入ることを許された。この男は王に言った。
「私は、ヒマラヤからやって来たヨギです。私の苦行と信頼の結果、天人によって天国にだけ育つ聖
なる果物を与えられました。
 この果実を食べると若さを保つことができます。私は350歳です。ずっと以前にこれを食べてあ
なたにも分かるように私は25歳ぐらいにしか見えません。私にはもうこの果実を持っている必要が
ありません。
 あなたは非常にりっぱな寛大な王だときいたので、あなたが民衆を長期間助けることができるよう
に、あなたにこの果物をあげたい。」 
 さて、王はこの果物を受け取ったあと、彼の若いクィーンにこれを与えることに決めた。彼女がい
つも25歳の若さを保っていられるなら、彼は彼女をもっと楽しんでいられると思ったからだ。
 彼女はそれを受取った。彼女は年老いた王に満足していなかったので、馬屋で働いている若い愛人
を持っていた。それで彼女は彼の若さをいつまでも楽しめるようにと、彼にその果物を与えた。
 さて、この果物は宮廷の召し使いの手に落ちた。しかし、この青年はクィーンと一緒にいるのを見
つけられるのを恐れている。たぶん見つかれば縛り首になるだろう。
 その恐れからただの娼婦と関係を持ち始めていた。彼女となら疑いも恐れもないので、彼女がいつ
も若くいられるようにと彼女にその果物を与えた。
 さて、この娼婦はもし彼女がいつまでも若くいると、いつまでも娼婦でトラブルに巻き込まれる、
自然に年をとっていった方が彼女の人生はよくなるだろうと考えた。
 それで彼女は若さを保つことによって多くの人が本当に利益を蒙る誰かにその果物をあげようと決
心した。それは王だ!
 王はそれがヨギが持って来たのと同じ果物だと知った。しかし、娼婦がこの果物を持っていたとは。
王はこの果物をどのように利用したらよいものかと答えを見つけ出す為にヨギを呼んだ。
 「これはあなたが私にくれた果物と同じものか?」と王は尋ねた。
 「はい、確かに同じものです」とヨギは答えた。
 「しかし、娼婦でさえこれを持っていた」
 「いいえ、それは信じられません。それは、確かですか? 私があなたにあげた果物を食べまし 
  たか?」
 「いや、私のクィーンに手渡した」
 「クィーンをお呼びになり、果物を食べたかどうかお尋ねなさい」
とヨギは命令した。
 王はクィーンにそれを食べたかどうか尋ねた。彼女は正直に答えて、王が彼女に若くいてほしいと
望んだように彼女も又彼女の愛人、馬屋の青年に若くいてほしいと望んだ。彼女は年老いた王よりこ
の愛人をもっと楽しんだからだと。
 この馬屋の青年は呼ばれて、クイーンの愛人であることを恐れて彼の愛する娼婦にその果物を手渡
したことを認めた。娼婦は呼ばれて、彼女は彼女の話を告げた。
 「この果物は何人もの人の手を渡って行ったことか。しかし、誰もそれを食べる功徳がなかった。
あなたがた誰もそれを役立てなかったのだから私がそれを持って帰るとしましょう」

その果物はヨギと一緒に宮殿から去っていった。
 さて、王はある事を教えられた。この世の中、誰も信頼することはできないと学んで、宝石、大臣、
象、国家を二人のクイーンに分け与え平和を探す為に宮殿を去って森に入った。
 この話は、世間によくある話だ。これは全宇宙の話だ。何人かはこれを早く理解するだろうし、何
人かは後で理解するだろう。だから、あなたがしなければならないことは、今日やりなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

949避難民のマジレスさん:2021/11/21(日) 02:56:01 ID:b.qiqBV.0
 
画 三首1/3

参禪九到又三登 参禪九(ここ)のたび到り又みたび登る
明白洞然無愛憎 明白どうねんあいぞうなし
橋上不通名利路 橋上名利の路に通ぜず
羡看一錫一閑僧 うらみみるいっしゃくいっかんの僧

くま訳
画(考え廻らすこと)3首  

かつて、師を求めて、九回参禪して、三回山に登った。
はっきりとしたのは、憎愛の思い、分別心がなければ、全てのことは明白になると言うことだ。(信心
銘の一節)
この橋は、名利へつづく路ではない。
のぞましいことがあるとすれば、一本の杖(仏法のことかな)だけをもち、静寂の内に修行者として
あることである。

洞然;奥深く静寂な様
錫(シャク):僧の杖
(´・(ェ)・`) b

950鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/21(日) 23:33:53 ID:1d4drIFg0
世間においては確かなものなどないものじゃ。
人の心も物質も移り変わっていくからのう。
世間からは疑いがなくならないのじゃ。
本当に疑い得ないものは自らの心の中にのみあるものじゃ。

951鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/21(日) 23:37:52 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。
 よくできたのじゃ。

 画なのじゃ。

 参禅に九回到り、山に三度登ったのじゃ。
 愛憎無ければどこまでも突き抜けて明白なのじゃ。
 その橋の上は名利の道に通じていないのじゃ。
 願わくは一錫一閑の僧となりたいものじゃ。

952避難民のマジレスさん:2021/11/22(月) 07:26:00 ID:E.CBLgGI0
19.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-b③
真理に対する疑いと恐れを取り除く

  真我探求に伴って起こってくる「消えさること」への恐怖は、
  「私は肉体」という古い感覚からやって来る。
  これは、未知への恐れではなく過去を離れる時に起こる恐れだ。
  恐れなしにあなたの存在に飛びこみなさい。
  「あなた」が消えてなくなると、すべての恐れも又消えてなくなる。
  静かにしていなさい。「ここ」にいなさい。
  あなたのハートの中で存在としていなさい。
  真我に出会うのを恐れないこと。
  真我がいつもあなたであったものだ。
  失うべきものは何もない。恐れないことだ。
  「それをなくすこと」への恐れも存在する。
  何かを所有すると、失くすことへの恐れが起こって来る。
  真我は所有されえないので、失くすこともない。
  恐れをさける唯一の方法は内なる美に戻っていくことだ。
  マインドなしでは気が狂うという恐れを持つかもしれない。
  しかし、マインドがあるところに二元性がある。
  二元性があるところには、欲望、怒り、憎しみ、恐れ、つまり狂気が  ある。
  だから、マインドを失うのを恐れることはない。
  ノーマインドが正常なのだから。
  ノーマインドにはやり手はいない、批判もせず、怒りもない、
  これが至高の知恵と平和だ。
  すべての恐れは、「存・在・し・な・い『他人』」に基づいているので、
  すべての恐れは、基盤なしだ。
  目覚めと夢の二元性の中に恐れは住んでいる。
  恐れがある所には偽りがある。
  それを克服するには毎日瞑想することだ。
 真我探求の過程で起こって来る恐れは、「これやあれ」が欲しいという眠っている欲望が現れる為だ

 それは抑圧されて、平穏になる。潜在意識の中で抑圧されてもそれは再び湧き上がって来るだろう。
それらを抑圧しないこと。ただそれらは存在しないと理解しなさい。
 あなたはまだ「これ」も「あれ」も手にいれることができるが、それらは存在しないということを
ただ知っていなさい。
 浜辺での子供と砂の城のようなものだ。子供は一日中遊んで、終わりに砂をポケットに入れて持ち
帰ろうとはしない。彼らは海にそれを蹴り返すのを楽しむか、潮が満ちてそれを崩し去るのをただ見
ているだけだ。
  
  何もあなたに属さない!それはすべてそよ風のようだ。
  何にも執着しないでマインドをそよ風のように自由にさせなさい。
  これが幸福への秘密だ。庭を楽しみなさい。
  しかし、何にも執着しないこと。
  真理を知るには恐れのない清純な知性が必要だ。
  ヴァーサナや混乱や恐れを背負っていては真我探求はできない。
  マインドは習癖と恐れから自由であらねばならない。
  これはあなたがどの程度、真理を熱望しているかにかかっている。
  利己的な「私」を無視しなさい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)
  
画 三首2/3

老漢知従何處來 老漢知んぬいずれの処(ところ)より来る
高山境與塔崔嵬 こうざんのきょうととうのさいかいと
水草心頭痩牛体 すいそう心頭そうぎゅうのたい
應身行脚出天台 おうじんあんぎゃてんだいをいづ

爺は自分がどこから来たのか知っとるのだ。
生駒高山と、比叡山の境からきたのだ。
頭心は水草のように定まらないが、体は瘦せとるが、牛のように頑丈なのだ。
衆生を済度するために歩いて、天のお山からおりてきたのだ。

*応身(おうじん)〔梵 nirmāna-kāya〕仏の三身の一。人人を救済するため、救済する対象の宗教的
能力に応じた姿をとってこの世に姿を現した仏
* 痩牛:釈迦の叔母さんの名前。ここでは単なる瘦せた牛と解した。
(´・(ェ)・`) b

953鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/22(月) 23:42:10 ID:1d4drIFg0
修業していると自分が無くなるという恐れが起こるものじゃ。
それは自我が自分であるという認識から起こるものじゃ。
パパジは利己的な私を無視しなさいというのじゃ。
それが恐れのもとであるからなのじゃ。
恐れもまた自分のものではなく、自分ではないのじゃ。
無視しているとそれはそよ風のように消えて行くのじゃ。
そして進むことが出来るのじゃ。

954鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/22(月) 23:48:39 ID:1d4drIFg0
そんな感じじゃな。



 また画なのじゃ。

 老漢はどこから来たのか知っているのじゃ。
 高山の境で高い塔からなのじゃ。
 水草のような心頭であり、痩せ牛のような体なのじゃ。
 応身は行脚して天台を出たのじゃ。

955避難民のマジレスさん:2021/11/23(火) 12:38:20 ID:swiyYHOM0
20.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-c①
真理に対する疑いと恐れを取り除く

Q:瞑想が深くなるにつれて、死の恐怖が度々やってきます。

 この恐れは名前、形、意図、自己証明から離れて行く過程で起こって来る。
 河が海に合流するとき、その河の性質が失くなるように。崩壊することは、突然のジャンプだ。そ
の時点では、恐れは恐れなしに変容する。恐れは障害だ。河の両岸という限界性の産物だ。この限界
性がマインドだ。
 恐れはすべての過去の観念や自己証明を無くすときにやって来る。海と出会うときに恐れはあり、
海になると恐れは消え去る。恐れは海から離れているという思考にすぎない。恐れというのは傲慢さ
の、エゴの、分離感の変形だ。これらの概念を捨てて自由でありなさい。
 すべての人が死を迎えなければならないのですべての人がこの恐れを持っている。恐れというのは、
あなたが「ここ」に居ないとき、何かを無くすだろうという考えにすぎない。
 「私は死んで行くものではない」と知ることによって、この恐れを取り除きなさい。死ぬのは肉体
だ。死は肉体の為にだけあって、あなたの為ではない。肉体が死ぬとき、あなたは死なない。肉体の
内にある「それ」は決して死なない。ゆっくりこれを理解し死の恐怖を取り除きなさい。
 「私は肉体ではない」と知るだけでよい。時間は掛かるかもしれないが何度も何度も「私は肉体で
はない、感覚でも、感覚の対象に対する活動でもない」とマインドに言い聞かせなさい。これを、マ
ントラのように繰り返して唱えることでうまく行くだろう。
 肉体からあなたを分離させなさい。足から始めて、あなたは足ではないと認識しなさい。そこから
順次あがって行って確かめなさい。「これらのすべては私ではない」と認識したら、「私は誰か」と
真我探求しなさい。
 ゆっくりとあなたは真理に導かれてすべての恐れが失くなるだろう。

Q:あなたと居ると強烈に平和を感じて時々恐ろしくなります。

 何を恐れているのかね?

Q:強烈さです。しかし今はもう恐れていません。

 初めてマインドの平和を感じたので恐れたのだ。誰もかって平和を感じた人はいない。しかしそれ
を続けて感じているので恐れを感じたのだ。恐れる必要はない。
 友達や家族、誰もかつてこの経験をしたことがない。誰もこの美味を味わったことがない。エゴな
しで人生を楽しみなさい。さもないとエゴはいつも蠍のようにあなたに噛みつくものだ。これがいつ
もあなたの経験だ。

  エゴの口づけは
  蠍の刺のようだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

画 三首3/3

潙山來也目前牛 潙山らいや目前のぎゅう
戴角披毛僧一頭 たいかくひもうそう一頭
異類如甘一身静 異類あまんずるがごとく一身静かなり 
三家村裡也風流 さんかそんりまた風流       

潙山が生まれ変わってきたのだろうか、目の前にいるこの牛は。
角を生やし。薄毛の生えた牛一頭
獣であるのも悪くないと、受け入れてるような静かなたたずまいである
家三軒の村も、また風流でよいものだ
(´・(ェ)・`) b

956鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/24(水) 00:19:58 ID:1d4drIFg0
実践している時に恐れが起こるのは、進歩している証拠なのじゃ。
何も進歩がなければ恐れも無いのじゃ。

自分という観念がいらないものと気付けば恐れも無くなるのじゃ。
そのようにして自分が無くなる恐れを乗り越えれば悟りもやってくるのじゃ。

957鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/24(水) 00:29:37 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 また画なのじゃ。

 目の前の牛は?山禅師が来たのじゃろうか。
 角を戴き、皮毛を被る僧が一頭なのじゃ。
 異類であることに甘んじるが如く一身は静かなのじゃ。
 三家村もまた風流なのじゃ。

958避難民のマジレスさん:2021/11/24(水) 11:10:17 ID:GxTqNWRs0
21.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-c②
真理に対する疑いと恐れを取り除く

Q:私は気づき以外に何もないのを経験しました。しかし、恐れの為にこの存在の平地に落ちて戻っ
てきました。

 この経験で十分だ。あなたは考えた。その思考は過去からやって来たのであなたは過去に連れ戻さ
れた。何が起こったのか、あなたが得たものは何であったのかと考え始めた。誰もそれについては教
えたことがないので、それを価値づけすることができなかった。
 「それ」はどこにでもあるけれども、「それ」を見つけることができる人は全くめずらしい。ポ
ケットの中のダイヤモンドを見なければならない。そうすると浜辺で手に入れた貝殻ではないと分か
る。それはダイヤモンドで貝殻ではないと知りなさい。それがダイヤモンドであると知ったら考える
必要は何もない。あなたはこの宇宙で最も裕福な人になる。
 ある男がロバの背中にレンガをつんで建築場へ運んでいた。インドでは特に村ではまだこのように
して物を運ぶものだ。彼は丸一日働いても25パイサ(3セント)稼ぐだけ。
 ある日、ダイヤモンド商人が通り掛かってレンガの運び屋にロバの首を指さして、いくらほしいか
と尋ねた。この貧しい男は「1ドル」といった。その当時で1ドルは20ルピーで、新しいロバは5
ルピーで買えたので彼はよい取引だと思った。
 しかし、ダイヤモンド商人はロバの首からぶらさがって輝いているものを取って、ロバを残して
去っていった。貧しい男は彼は気狂いだと思って訊ねた。「旦那、ロバはどうするのかね」
「私は馬鹿ではない。私はダイヤモンド商人だ。私はロバにお金を払ったのではない、このダイヤモ
ンドに払ったのだ。お前はそれを知らなかったが、お前は一生働かずに暮らしていけるだけのお金を
持っていたのだ。3代の家族に渡ってさえ働く必要はなかった。しかし、私はお前の愚かさに対し5
000ルピーあげよう」
 そして、彼は地方のディーラーにそれを10,000ドルで売った。ディーラーは、カルカッタで
その10倍の価格で売り払い、それがガルフシークのもとに来ると、その又10倍のねだんで取引き
された。その内に貧しい男は増々貧しくなり、彼の愚かさを悔やむばかりであった。
 だから、ダイヤモンドがあなたの所にやって来たら数ケ所に持って行って、一番高い値段を選びな
さい。あなたはダイヤモンド商人ではないので、ダイヤモンドのことは分からない。その為にこのダ
イヤモンドに感謝することはない。
 ダイヤモンド商人にそれを見せなさい。ここに持って来なさい。私が鑑定しよう。そして、私は何
カラットか言って、誰も払うことができないまさにその値段を支払おう。
 だから、間違いを起こさないこと。光るものを見つけたらラクナウに持って来なさい。ここには、
正直なダイヤモンド商人がいる。彼は正しい値段を支払う。
 確かな値段はお金や宝石やドルではなく、誰も支払うことができない平和で支払われる。あなたは
それを10倍以上の価格で売るかもしれないがこの平和は他のどこにも見つけることはできないだろ
う。
 このマインドの平和のためにあなたがたはここに居るのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

看森美人午睡
一代風流之美人 一代風流の美人
艶歌清宴曲尤新 艶歌清宴曲もっとも新たなり 
口吟膓斷花顔顰 新吟腸は断つ花顔の靨
天宝海棠森樹春 天宝のかいどう森樹の春

仁先生訳  
なんといってもこんな風流な美人はもうどこにもいないよ、  
仲間との宴の席で森公が艶歌を唱うと、情感が籠もっていつも新鮮なんだ。  
唱う度に、森公の顔の靨が悩ましくて、たまらなく愛おしくなる、  
その美しさは海棠と讃えられた楊貴妃とは比べることもできない別格の美しさだよ。

くま訳
森よ!美人の午睡する姿を看ながら詠む
一代風流の美人。君のことだよ。
艶のある清らかな歌声は、なによりも若返らせてくれる。
君の歌声を聴くたびに、胸が張り裂けそうだ。
ほころぶ笑顔、たまに見せる影。
海棠と讃えられた楊貴妃よりも美しい天の宝だ。花曇りする春の森のように美しい。
(´・(ェ)・`) b

959鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/25(木) 00:15:21 ID:1d4drIFg0
まだ悟りは得られなくても修業に拠って真実の世界を垣間見ることが出来た位でも、この世の全ての金よりも価値があるものじゃ。
それは金では買えないものであるからのう。
永遠への道を歩んでいる尊さは悟りを得たものだけが知っているのじゃ。
それだけが真の死を超える道であるからのう。

960鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/25(木) 00:19:39 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 森美人の午睡を看るのじゃな。

 一代風流の美人なのじゃ。
 艶歌清宴の曲はもっとも斬新なのじゃ。
 口に吟するは詩は断腸の美であり、顔は花のひそみなのじゃ。
 天宝の海棠は森樹の春なのじゃ。

961避難民のマジレスさん:2021/11/25(木) 08:14:18 ID:E1BUQSis0
くま訳改
第2句:艶歌清宴の曲はもっとも斬新である。

22.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-c③
真理に対する疑いと恐れを取り除く

Q:時々静寂がひとりでに私の前に現われますがそれを保持しようとすると消えてしまいます。

 この静寂を恐れているのか、それともこの静寂に困らされているのかね?

Q:いいえ。

 それなら、なぜ平和の代わりに混乱を選ぶのか? あなたは平和を望むと言っているが、それなら
なぜあなたのマインドを騒がせる場所に束縛されるのを許すのかね。
 たとえば、ラクナウは夏はとても暑くて気温が48Cまで上がるときがある。ここに留まることが難
しいのならどうして他の場所に行かないのかね?
 一晩の夜行列車に乗ればアルモラ、ムスリ、ナイニタールに行ける。次の朝には震え上がる。状況
や環境をどのように利用するかはあなたしだいだ。あなたはここに留まるように束縛されていない。
あなたにとって快適なところに行くことができる。
 これは天候に関してだがマインドに関しても同じことだ。もしマインドの平和を望むなら、なぜあ
る事情に関わってマインドを騒がせるのかね? マインドを何か美しい思考に切り替えなさい。これ
をするのに何が問題なのか? 考えなければならないときはあなたを騒がせるものを考えるのではな
く、マインドにとって何か良いことを考えなさい。
 たとえば「私はいつも問題を引起す肉体ではない、私は真我、私は魂、私自身が神だ」と。マイン
ドを利用しなければならないときはこのようにして役立てなさい。「私が死ぬ前に平和であらねばな
らない。」と固い決心をしなさい。そうすると成功するだろう。

Q:すべてを手放そうとしたら、恐ろしくなりました。

 すべてを手放すのは難しい。その理由はすべての人が彼ら自身の選択によって事が起こるように望
むからだ。しかし、世界中でこのダイヤモンドより価値のあるものが他にあるだろうか? 永遠に、
決して去っていかないものがこの世の中にあるだろうか? この肉体でさえ去って行く。だから手放
しなさい。

  不安定で永遠でないものは手放しなさい。
  そうすると、たった一つだけ残るものがある。
  世界や神は消えてしまうが、これは消え去らない。
  いつもこれを思い出して、それから目を離さないことだ。
  それを手に入れようとする意図なしで、ただ存在するということだ。
  あなたがほしいと思うものはすべて「手放し」の範疇に入る。
  家、妻、肉体、両親、神、手放しなさい。
  何が残っているか? 何を手放すことができないのか?
  あなたであるもの。あなたである「それ」!
  あなたは決してやって来なかったのだから去ることはできない。
  やって来るものは行かねばならない。
  やって来なかった「それ」は何か見つけ出しなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

慧日有憎愛   えにち憎愛あり
一段多情栗棘愁 一段多情りっきょくの愁ひ   
囘光返照晦心頭 廻光(えこう)返照しんとうをくらます
工夫長養不徳怠 工夫長養怠ることを得ず
動静起居春又秋 どうじょうききょ春又秋

慧日には分別心が残っていた。
一挙に何もかも取り入れてしまおうとして、移り気に見えるのが、栗の棘のようで残念だ。
自己の心のうちに光をあてて見るこにより。言葉で考えることなど晦(くらま)ましてしまえ。
修行に励み、養い育てることを怠ってはならない。
一日中いつでも、一年中いつでも、(常に怠ってはならない。)

*慧日:インドで修行、719年帰唐後、禅浄戒合行思想を主張し、実践

クリシュナムルティが言ってる、「見ること」「常に注意していること」と言うのは、まさにこの
「廻光返照」のことでありましょうか?
光を廻らし、照らし返して、心のあり様を見よと言ってるのでありましょうか?
鬼和尚が本心を見ろと言うのが、これでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

962鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 00:08:38 ID:1d4drIFg0
全てを手放せば、全てが手にはいるのじゃ。
それを恐れる必要は無いのじゃ。
いずれは全てを捨てることになるのであるからのう。
死に拠って人は全てを捨てて独りゆかなければならないのじゃ。
そうであるから今ここで全てを捨てるのが賢い選択といえるのじゃ。

963鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 00:10:27 ID:1d4drIFg0
↑廻光返照とはそう言えるじゃろう。
 外に向いていた注意、注目を自分の心の中に向けるのじゃ。
 それが修業の全てなのじゃ。
 実践あるのみなのじゃ。

964鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 00:14:49 ID:1d4drIFg0

 それで善いのじゃ。

 慧日には憎愛が有ったのじゃ。
 一段と多情であるのは栗のとげのように愁いあるものじゃ。
 廻光返照によって心頭をくらますのじゃ。
 工夫長養を怠らなかったのじゃ。
 春であろうと又秋であろうと、動静起居実践していたのじゃ。

965避難民のマジレスさん:2021/11/26(金) 00:21:05 ID:6.H8mjYQ0
23.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part4-c④
真理に対する疑いと恐れを取り除く

 妻や家族ではなくエゴを手放しなさい。エゴと恐れは母と息子だ。エゴは恐れの母で、恐れはエゴ
の息子だ。この家族は手放すべきだ。妻や子供ではなく、エゴ、マインド、人々、関係、この古い家
族を手放しなさい。
 もし幸福でありたいのなら、絶対これらと離婚しなさい。しかし、あなたの家族にはサットサンガ
について話し、健康な人生を生きることを教えなさい。

Q:子供の時から恐れが問題で、恐れはただの思考だとはっきり解っていてもそれは定期的に私を支
配します。ある思考は他の思考よりも強いということがあり得るのですか?

 あなたは正しい!ある思考は他の思考より弱くて、ある思考は他の思考より強い。「私はこれが欲
しい、あれが欲しい」は弱い思考だ。「私は何も欲しくない」が強い思考だ。
 このようにして、どれが強い思考か分析しなさい。ある人と一緒に居たいと考えるなら、その人は
明日去って行くかもしれない。その結果、トラブルに巻き込まれる。このような弱い思考はトラブル
になる。現実にはどんな交際もトラブルを生み出す。これは世間でみんなが経験していることだ。
 交際があるところには苦しみがある。全く一人で眠りの中にいるときは幸福だ。しかし次の朝、
人々と一緒に居たいので再びトラブルだ。だから、強い意志と弱い意志の間でどちらかを選ばなけれ
ばならない。

Q:私はすべての恐れをあなたの足元に差し出したい。

 夢の中であなたは夢のタイガーに直面する、そして夢の恐怖に襲われる。あなたが目覚めたときタ
イガーも恐怖も存在しない。
 すべての状況に直面することがあなたの恐れを取り除く、それが神への奉仕だ。あなたの前にやっ
て来るものは何でも受けいれなさい。
 風が吹いて行くように生きなさい。これが神の意志だ。風のように執着なしに生きなさい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)


一句欲披吾欝襟  一句ひらかんとほっす わがうつきん
舌頭拄齶笑吟吟  ぜっとうあぎとをささへてわらひぎんぎんたり
霊雲不答長慶問  霊雲答えず長慶の問
誰識金言猶在心  たれかしらず金言なお心(むね)にあり

くま訳

わが胸の内を一句したためたい。
(悟ってしまえば)大笑いなのである。
桃の花を見て悟ったという霊雲志勤は長慶慧稜(えりょう)の「如何なるかなこれ仏法の大意とは」
という問には、答えなかった。
しかし、悟った当初に、玄沙師備から悟りの様子を聞かれたことに対して、桃の花を見て悟ったと
話し、それは「外ものにあらず」、外からのものではないと話している。
そう。金言を外に、言葉の中に探しても見つからないのだ。
心のうちにあるのだ。そのことを悟った人は皆知ってるのだ

この詩は、祖堂集(唐代801年成立)記載のエピソードをネタにした作品のようでありました。
ここまで辿り着くのに、まる一日かかってしまったのである。
謎解きは、楽しいのである。
(´(ェ)`)b

966鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 21:48:24 ID:1d4drIFg0
心に苦しみがあれば他の思考を圧倒して苦しいだけになるじゃろう。
それが強い反応であるからなのじゃ。
しかしそれも全体が観察できたならば消せるのじゃ。
パパジはそれを分析というのじゃ。

967鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/26(金) 21:51:20 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 唖なのじゃ。

 一句にてわが欝襟を開こうと欲するのじゃ。
 舌の頭があごを支えて笑いが止まらないのじゃ。
 霊雲が長慶の問いにこたえなかったことなのじゃ。
 その回答である金言はなおわが胸にあるのを誰が知るであろうか。

968避難民のマジレスさん:2021/11/26(金) 22:51:39 ID:epptWbr20
24.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part5-a①
神の対象化の中止

  なぜ神を対象化するのか?
「それ」を主体化しなさい。
光に向かって真っ直ぐに進みなさい。「それ」の中にまっ先に飛び込むのだ。
  旅の途中でそれについて記事を書いたりしないことだ。
  静かにして、疑いをもて遊ばないこと、欲望を起こさないこと。
すべての対象を取り除き、「それ」として滞まりなさい。
すべての苦痛は対象化することからやって来る。
エゴに自由を所有させないこと。
  だから、真理を対象化しないこと。
それを獲得とか取得と呼ばないこと。
  ただそれと一つになりなさい。
顔を鏡で見るとき起こるようにそれにただ合一化しなさい。
マインドと呼ばれる訪問者を忘れて、ただ「それ」と一体になりなさい。

  あなたでないものだけを経験することができる。
一時的なものだけが経験される、
なぜなら、経験者そのものが一時的な存在だからだ。
  経験、名前、そして形態の概念を捨てなさい。
名前や形態に触れないで、ただ見ていなさい。
「私」と口走ると、すべての対象があらわれる。
「私」を見つめるとすべてが消え去る。
「私」に「私」を見つけさせなさい。
真我探求は最初に「私」、経験者を対象化し
「私」を対象化した「主体」を見つめることだ。
主体を対象化する更なる「主体」は誰かと自問しなさい。
この「主体」が「見ている人」だ。

  私のマスター、ラマナ・マハルシは私に言った、
  「神は見られる対象ではない。神は主体だ。
  神を見ることはできない。神は『見ている人』だ。
  この『見ている人』を見つけなさい。」
その時、私のハートは開いた。
「『見ている人』を見つけなさい。」
  これが教訓である。

  真我は主体よりも以前に存在する。
  それ故、誰が何に集中するのか?
  主体の「私」は夢を見ているに違いない、
  夢を真実だと受け入れないことだ。
  一瞬、一つの思考でさえ起こさずにいることで目覚めなさい。
  一つの思考でさえ「それ」を汚してしまうほど
  「それ」は潔癖だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)
  
尺八
一枝尺八恨難任  いっしの尺八恨みたえがたし
吹入胡笳寒上吟  吹いてこかさいじょうの吟にいる
十字街頭誰氏曲  十字街頭たが氏の曲ぞ
松林門下少知音  松林門下知いんまれなり

くま訳
尺八の悲哀のこもった音色は堪えがたい。
私も胡笳(こか)の曲を奏でる
街中で聞こえるのは誰の曲だろうか
禅宗には音楽が分かる人が少ない

くま超訳
仏法の話が聞こえる
私も、達磨さん、禪の話をする。
街中から聞こえるのは、誰の話だ。
禅宗門下には仏法を心から理解できる人は、少ない。

*達磨さんは 波斯国(ササン朝ペルシア)の胡人だったらしい) 少林寺で修行した。
*胡笳(こか):胡人が芦の葉を巻いて作った笛 木管ともいう
*知音:①心から理解すること。②心から理解し合っ友人のこと。心の通じ合った親友のこと。
*『胡笳の曲』はyoutyubeで聴けるのである。しみじみとするのである。
 蓮如さんとかと、仏法談義をしてたのでありましょうかね。蓮如さんは一休より21歳年下の友であ 
 りました。
(´・(ェ)・`)b

969鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/28(日) 00:13:44 ID:1d4drIFg0
神というものがいるとするならば、それは人の心の中だけなのじゃ。
それは対象としてではなく、主体として存在するとパパジはいうのじゃ。
真理もまた主体であると言うのじゃ。
全ては神や真理であると感得するまで自分の心を観つづけるのじゃ。

970鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/28(日) 00:18:22 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 尺八なのじゃ。

 一枝から作られた尺八も耐え難い恨みがあるじゃろう。
 胡笳を吹きあげて吟詠するのじゃ。
 十字街頭で詠うのは誰氏の曲じゃろうか。
 松林門下では知音も少ないのじゃ。

971避難民のマジレスさん:2021/11/28(日) 09:44:03 ID:F0UeHLDI0
くま質問
「真理もまた主体である」とは、真我=真理という意味でありますか?

25.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part5-a②
神の対象化の中止

  心の習癖は対象化すること、二元性を投影することだ。
  自問で心の動きを支配しなさい。
  私は「ここ」にいると悟りなさい、
  これが心の動きを止める。
  
  心が静かになればすべてが真我だ。
  心が動くと世界が現われる。
  だから静かにしてすべてを投げ捨てて自由になりなさい。
  そのとき心は潔癖で、あらゆる存在に真我を見るだろう。
  肉体の目で見ることをやめると聖なる目が開く。
  
  心を静めるためには「私」の源泉を尋ねなさい。
  来ることもないし、去ることもない「それ」を見つけだして 
  「それ」として在りなさい。
  心が動くのは何かに執着しているときだけだ。
  だから心にとって親密なものを避けなさい。
  執着を引き離して、静寂を保つことで
  気づきー在ることー幸福に戻ると決心しなさい。
  心が存在に触れると存在になる。
  自由の観念が束縛の観念を取り除く。
  その時、古い習癖の観念に呼び戻されないように全力を尽くしなさい。
  そして「自由」そのものに溶け込みなさい。
  
  考えることが世界を創り出す。
  思考と思考のギャップが「今」、これが「自由」だ。
  考えないということは心を活動させないということだ。
  考えないこと、思考からの自由が「自由」だ。
  思考がやってくるなら、こさせなさい。
  思考が行くなら行かせなさい。
  自由という観念がないことが「自由」だ。
  自由への意図がないのが「自由」だ。
  本当の真我探求は考えることで心を活動させることではない。
  考えたいのなら真我のことだけ考えなさい。
  これが最良の修練だ。
  これは海として留まって波を起こさせるようなものだ。
  目覚めの状態の最初と最後の思考は「私は誰か」であらねばならない。
  単に静かにしていて何が起こるか見てごらん。
  この見ていることが在ることだ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

習心
一晝夜八億四千 一昼夜八億四千
念々不断自現前 念々自ずから現前す
閻王不許詩風味 閻王は許さず詩の風味
夜々吟魂雪月天 夜々の吟魂せつげつの天

くま訳
煩悩の残りもの
一昼夜に八億四千の念(思い)があるそうだ
いろんな念、思いが自然と湧き出る
閻魔様は詩の味わいなど許さない。
されど、夜毎、雪月の天より、詩情があふれ出してしまうのだ

*習気:煩悩の体が断ぜられてもなお習慣となって残る煩悩のはたらきのこと。習ともいう

くま質問
心の内側を、ありのまま言葉にするのが、一休さんの修行だったのでありましょうか? 
(´・(ェ)・`)b

972鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/28(日) 23:51:41 ID:1d4drIFg0
↑ そうじゃ、真理と真我を同じと説いているのじゃ。
 全ては主体を求めさせるためにあるのじゃ。
 真理を求める者には主体としての真理を教えるのじゃ。
 真我を求める者には主体としての真我を教えるのじゃ。


 

 一休にとってはもはや詩は修行でもないのじゃ。
 既に悟り終えて修業は終えているからのう。
 ただありのままに浮かんでくるだけのものだったじゃろう。

973鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/28(日) 23:54:24 ID:1d4drIFg0

 思考が世界を作り出すとパパジはいうのじゃ。
 心が静かであれば世界も無いのじゃ。
 心を静めるために私の源泉を尋ねるのじゃ。
 そうすれば全てを主客にわける心の二元性の働きが止まるのじゃ。

974鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/28(日) 23:57:36 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 習い心なのじゃ。

 一昼夜で八億四千の思考があると言うのじゃ。
 その雑念の数々は絶えず自ら前に現われるのじゃ。
 閻魔王は詩の風味など許さないじゃろう。
 それでも夜毎に雪月の天を吟詠する詩魂が在るのじゃ。

975避難民のマジレスさん:2021/11/29(月) 04:18:56 ID:Ky9gXzIs0
26.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part5-a③
神の対象化の中止

  心を使わねばならないとき、心は眠りに陥る。
  これを避けなさい、眠りは罠だ。
  あなたが深く海にもぐって探している真珠に、努力せず意識を集中し続けなさい。

  理解することは、対象化することだ。
理解を捨て去ることによって真我を顕にしなさい。
すべての質問や答えはエゴからやって来るのだから
努力することや理解することによってその源泉を見つけることはできない。
エゴがどこからやって来るのか見つけなさい。
そうするとそれは消え去るだろう。
エゴは破壊されねばならない。
考えることをスットプしなければならない。
今、それをやりなさい、
  説明できない「それ」を、理解、視覚、触覚を超えた「それ」を切望しなさい、
  「私は存在しない」という観念を投げ捨ててそれをやりなさい。
  観念という観念も取り除きなさい。 
  知識の最終目的地は言葉も含めてすべての知識を忘れることだ。
書物を持ち歩くのは、ロバがスートラを持ち運ぶようなものだ。
多くの聖者は文盲だ。
絵の中の炎が茶を湧かすことができないように知的な理解は十分ではない。
知的な理解はメニューを読んでいるようなもので
  本当に体験することは、食べ物を食べることだ。
理解のすべては「それ」の美味に比べたら、ひからびた残り物だ。

  存在-意識-至福。
エゴ-マインド-知性がこの言葉を聞く。
それらに邪魔をさせないことだ、あなたが聞いたことを分析しないことだ。
無について考えることは、無から抜け出すことだ。
自由について話すのは牢獄者だけ、
いつも自由でいる人は自由については語らない。
話される自由はそれから自由になる為の束縛が必要だ。
あなたの自身の真我を探求して自由になりなさい。
  
  この自由は言葉では言い表すことができない。
最良の表現は 真我の至福に酔っぱらった
  その人の目の中に、歩き方の中に現われている。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

同門老宿誡余淫犯肉食。   同門の老宿、余が淫ぱんにくじきを戒む。
曾裡僧嗔之因作此偈示衆僧云 会裡の僧、これをいかる。因ってこの偈を作り衆僧に示すという

爲人説法是虚名 ゐ人説法是れ虚名
俗漢僧形何似生 俗漢僧ぎょうかじせい
老宿忠言若逆耳 老宿の忠言若し耳に逆らはば
昨非今是我凡情 昨ひこん是我凡情

くま訳
同門の老僧に淫犯肉食を諌められた。
これに、弟子たちが怒ったので、其の返事の偈を作り示した。

法を説く人などと言っても、その内実を伴っていない。
チンピラが僧衣をまとってる様なものではないかい。
老僧の忠告が耳障りに思うのは、
昨日悪いと思われたことが今日はよいと思われるからであり、
全ては、わが凡情のなせる業なのである。

*今是昨非-昨非今是 こんぜ-さくひ 今、昨日までの過ちに気づくこと。今までの過ちを悟って悔いる語
(´・(ェ)・`)b

976鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/29(月) 21:55:05 ID:1d4drIFg0
全ての観念を取り除くというのじゃ。
そうすれば思考もなくなるのじゃ。
そして真我もあらわれるのじゃ。
客体である観念が無ければ真我だけが残るのじゃ。
それが自由への道なのじゃ。

977鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/29(月) 22:58:28 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。
 よくできたのじゃ。

 同門の老僧に淫犯肉食をいさめられたのじゃ。
 会裡の僧がこれを怒ったからためにこの偈を作って衆僧に示すのじゃ。

 人のために説法をするのは是虚名なのじゃ。
 俗人が僧形になっただけで何を生むのか。
 老僧の忠言もし耳に逆らうのであれば、
 昨日の非が今は是となる我が凡情のせいなのじゃ。

978避難民のマジレスさん:2021/11/29(月) 23:04:57 ID:reBHfpN20
27.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part5-a④
神の対象化の中止

Q:私は神に近づきたい。

 あなたは、女性徒が教科書に書かれた神について話すように話している。神を興味深い対象に祭り
上げている。神を対象化することはできない。神は主体そのものだ。
「私は存在だ」というのは「私は神だ」という意味だ。これを知ったなら、あなたの自己証明は失わ
れる。これをサンスクリットで“Aham Brahmasmi”と言う。
「私は、神=Brahman=Atman=私自身」という意味だ。あなたが神に近づきたいのなら、
分裂を生みだす神の対象化を止めることだ。「私は神だ」と言える位の強さを持ちなさい。

Q:それでは神は、この幻想を「見ている人」ですか?

 再びあなたは「見る人」と「見られるもの」との間に関係を創り出した。

Q:真我とエゴ、現実と幻想の間には大きな違いがあるように思いますが。

 「これが現実であれが幻想だ」というのはマインドの創造だ。「これがエゴ、それは真我」はマイ
ンドが創り出したものだ。

Q: 何も存在しないということを経験しましたが、突然私自身が大きなブラックホールの中に居るの
を見つけました。

 この経験をどうしたのかね? どれ位その経験が続いたのか?  さて、この経験が再び起こったら、
前の経験と比較して、又それを失ってしまうだろう。この経験をしたなら、なぜそれを分析しようと
するのかね。理解しようとするためにマインドが戻って来て、それをなくしてしまうのだ。

Q:それを保とうと試みました。

 どのようにして無を保つことができるのかね? 決して存在しないものをどうして保つことができる
のかね? どこかで何かが間違っている。分かるかね?
 マインドとこの経験は一緒に存在できない。どちらか一つの友情関係を絶たねばならない。神かマ
インドか、あなたが望む方を取りなさい。これをサットサンに座る前に決めるべきだ。
 「何もかって存在したものはない」これが唯一の体験だということを見なければならない。40年
前あなたはここに居なかったし、今から50年後にもここに居ないだろう。以前と以後にあるものが
「今」も真理であるに違いない。
 次回は注意深くしていなさい。マインドによって押し流されないように。「私は幻想」と「私は
Atman」、それらはマインドの中でどんな違いもあるべきでない。なぜ理解したいのかね?  何もな
いのならどのようにして理解するのかね? あなたが理解することができる何があるのかね?  とに
かくあなたは宿題をしている。私はとても嬉しい。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

閻浮樹 閻ぶ樹
閻浮樹逼塞乾坤 閻浮樹乾坤に逼塞す
葉葉枝枝我脚跟 えふえふしし我が脚跟
太極梅開紙窓外 太極うめ開くしそうのほか
暗香疎影月黄昏 あんかうそえいつきくわうこん

naitoukonan先生HP訳
閻浮樹は天地をふさぎ、
葉も枝もわしの足もとにある
宇宙を象徴する梅花は紙障子の外にあって、
ひそかな香りとまばらな影を黄昏の月が浮かび上がらせている。

naitoukonan先生解説 閻浮樹の根には黄金が埋まっているという。閻浮樹の根は、頭頂サハスラー
ラ・チャクラであり、葉と枝はその下方に位置するから、一休の足の側にあるとはそのとおりである。
さりげない人間の位置と窮極との逆転がこの構図に秘められている。
閻浮樹 閻浮提(えんぶだい)の大森林中にあると伝えられる想像上の大樹。常緑樹で、高さ百由旬(ゆ
じゅん)あるという。
閻浮提:古代インドの宇宙説において世界の中心とされている須弥山 (しゅみせん) の南方に位する大
陸で,四大洲の一つ。 太極:

くま訳
閻浮樹(私の身体)は天地いっぱいに拡がり
葉や枝は、私の脚である。
万物の根源である梅花は、障子の明かり窓のそとにある。
(梅花=悟の)かすかな香りと、黄昏時の月(=悟り)のうつろな影だけが、悟りの痕跡だ。

くま質問
naitoukonan先生は、軍荼利明王に結び付けて説明しようとしてるのでありましょうか?
くまはサマディに入った時の様子の喩え話ではないかと愚考してみたであります。

鬼和尚 ◆qx3.49AOzA 2020/06/30(火) 22:58:50.51
そうじゃろう。  
一つの華に世界があり、それを宿す樹が己なのじゃ。  
三千世界が己の手の中に在るのじゃ。  
それを感じているのじゃ。
(´・(ェ)・`)b

979鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/30(火) 23:31:56 ID:1d4drIFg0
神を主体とするならば、誰も神には近づけないのじゃ。
近づこうとして動けばそれは遠ざかるからのう。
自分の中心が主体なのじゃ。
そこから動かなければ主体が現われるのじゃ。

980鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/30(火) 23:32:55 ID:1d4drIFg0
>>1 それはヨーガのチャクラと結びつけたのじゃな。
 明王ではないのじゃ。

981鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/11/30(火) 23:36:37 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 閻浮樹なのじゃ。

 閻浮樹は天地一杯に枝を伸ばしているのじゃ。
 葉や枝がわしの足なのじゃ。
 太極の梅花が開いた紙窓の外に在るのじゃ。
 暗い中に梅花の香りがあり、まばらな影が黄昏の月で映えているのじゃ。

982避難民のマジレスさん:2021/12/01(水) 04:53:44 ID:n0Nv9qqg0
28.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part5-a⑤
神の対象化の中止

Q:どうか私に神を信じさせて下さい。神を理解できません。私は何かに信仰を持ちたいのです。

 神は人によって理解されることはない。誰が神を理解するのかね?  神を理解できると誰が言った
のかね? あなたは誰かでさえ理解していないのに。神が誰か放っておきなさい。最初にあなた自身
を理解しなさい。

 何も信仰しないことだ、すでにあるものを信頼すべきだ。信仰は宗教の創設者によって創りだされ
た言葉だ。もし信仰を持ったなら、天国に行き、持たないなら地獄に行く。この信仰は正しいもので
はない。
 私はあなたは誰か見つけだすように頼んでいるのだ。この為には、何の信仰も必要ない。
 あなたの衣服から始めなさい。私は衣服ではない。あなたの衣服、時計、指輪、あたなはこれらの
物ではない。これらはあなたに属しているだけであなたはそれらではない。それを知りなさい。
 私は髪の毛ではない、眼鏡ではない、鼻ではない、鼻は私に属するが私は鼻ではない、これは理屈
にかなった理解だ。私は鼻だとは言わないだろう!!皮膚は私に属する。もし傷ついたら、整形外科
でなおすことができる。私は血液ではない、骨ではない、骨髄ではない、体液ではない、これらは私
ではない。私に属するものは私ではない。
 この家は、私のものだが私は家ではない。それでは一体何が残っているのかね? 家の持ち主だ。
持ち物以外に何が残っているかね? それは持ち主だ。
 私はあなたの質問に答えているのだ。さて何が残った? 私はマインドではない。私は肉体ではな
い。私は感覚ではない。何が残っている?

Q:私の魂

 あは!それはよい。しかし、それさえもあなたの持ち物として数えてしまった。私の家、私の手、
私の魂、違いはない!魂が属しているあなたは誰か? 魂が肉体や血液に属しているというのは理屈
にかなわない。理屈にかなった答は何か?
 あなたは神を信じたい。それなら私はまず第一にあなたの「真我」を信じるようにと言いたい。そ
れは「私は神だ」と同じことだ。そうするとあなたは決して失敗することはない。
 神を信じることは神であることだ。神を知ることが神であることだ。神自身を除いて誰が神を理解
することができるのかね? もしあなたが神を理解するのなら神はあなたの対象になり、誰が主体な
のか? 神が主体なのだ。神は対象化される対象物ではない。神は主体そのものだ。
 だから、あなたが神の対象になった方がよい。その時も又うまく行くだろう。しかし、「私は神
だ」というのにどんな問題があるのかね? これが最高の信頼で最高の信仰だ。
 他のものに信仰を持つかわりに、神であるあなたの「真我」を信仰しなさい。これが最も偉大な信
仰だ。その時あなたは普通になる。さもないと、あなたは異常か通常以下だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

異類中行     ゐるいちゅうぎゃう
異類馬牛中行途 ゐるいばぎうちゅうぎゃうのみち
洞曹潙仰正工夫 とうさういぎょうしやうくふう
愚昧學者誤領解 ぐまいの学者あやまってりょげす
看來正是畜生徒 みきたればまさに是畜生の徒  

くま訳
異類中行
愚かな奴等を、敢て教え導くのである。
曹洞宗、潙仰宗はよく工夫がされている。
愚昧な修行者は、仏法を誤って理解している。
看てきたところでは、これまさに、畜生の徒である。

*異類中行: 悟りを開いた仏が、解脱した高次の境地を捨てて、衆生救済のために敢えて俗世へと身を
 投げ入れること。
 禅宗の禅僧が『公案・瞑想(座禅)・作務(行住坐臥)』などさまざまな手段を用いて、修行する 
 者を悟りの方向へと導こうとすること。
*馬牛襟裾 の意味・使い方 学識のない者、礼儀知らずな者をののしっていう語。
* 学者:修行者
(´・(ェ)・`)b

983鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/01(水) 23:21:14 ID:1d4drIFg0
認識の主体であり、それ自体は認識されない真我は人には理解することが出来ないのじゃ。
認識できないものを理解することはありえないからのう。
ただそれであるだけなのじゃ。
真我を信仰して辿りつくがよいのじゃ。

984鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/01(水) 23:25:03 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 異類中行なのじゃ。

 異類である馬牛も中行の途にあるのじゃ。
 洞曹、蕃仰もまた正しい工夫で導くのじゃ。
 愚昧な学者は間違って了解するのじゃ。
 それらの者を看来たれば正に畜生の徒なのじゃ。

985避難民のマジレスさん:2021/12/02(木) 12:13:41 ID:O3o.7mag0
29.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part5-a⑥
神の対象化の中止

Q:真我は臍の中心にあると言われていますが…

 周りがあるところにセンターがあるにすぎない、違うかね? センターが臍なら何が周りかね?

Q:肉体。

 真我は条件づけされない。真我は臍の中心にあるということは条件づけされない「それ」を条件づ
けしていることになる。センターはない。しかし、あなたが肉体であるという概念を持ち続けるのな
ら、臍に中心を置くという概念を持ち続けることができる。肉体の中心という概念は意識を集中する
ための対象として使われたのだ。
 しかし、これらの中心からどんな利益をもたらしたのか見たことがない。センターと周りがあると
いう考えを捨てるとおそらくうまくいくだろう。周りがないとき、センターとは何か? 集中すべき
ものはなく、集中する人もいない。違うかね?
 中心を固定しないこと。これはマインドのトリックにすぎない。思考がどこかに着陸するのを許さ
ないこと。思考をどこにも定住させないこと。その時マインドはどこに行くのかね? これらの中心
に時間を掛けないこと。
 多くの人が40年、50年とこれらの「中心」に時間をかけてその結果は束縛を強めるだけだと私
は見ている。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

題點頭石訝虎丘祖師 点頭石に題して くきゅう祖師をいぶかる
不信道石點頭 いふことを信ぜず、石てんとうすと、
若點頭非石流 もしてんとうせば石のたぐいにあらず。
石有霊是妖怪 石霊あらばこれ妖怪
吾祖師老虎丘 わが祖師のろうくきゅう

くま訳
ワシは、石がうなずくなどということは信じないのだ。
もし、石がうなずいたら、それは、もはや、石のたぐいではない。
石に霊があるのなら、それは妖怪である。
けど、わしの祖師が、うなずくと、言うておるのであるよ。

*頑石点頭:意味説得力や影響力が大きいことのたとえ。僧の道生が石を集めて説法すると、その説法を
理解して石はうなずいたという故事から。
*虎丘庵:一休さんが森女と住んだ庵。 二畳の水屋と、六畳、三畳の小部屋だけの、とても簡素なた
たずまいの建物。扁額「虎丘」は一休さん直筆だそうである。
*虎丘紹隆(くきゅう しょうりゅう1077 -1136年)は、北宋時代の僧で臨済宗楊岐派に属する。その法系は
虎丘派として知られる。圜悟克勤の法を嗣ぐ。
(´・(ェ)・`)b

986鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/02(木) 23:12:22 ID:1d4drIFg0
体のとこかに真我があるというのは幻想なのじゃ。
本当に有れば誰もが簡単に見つけられるからのう。
自ら主体を感得しなければならないのじゃ。
体の一部に集中するのは真我の探求には役立たないのじゃ。
集中力を養う止の瞑想にはなるがのう。

987鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/02(木) 23:15:26 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 点頭石の虎丘祖師を訝る題なのじゃ。
 
 石が点頭するなど信じられないのじゃ。
 もし点頭するならば石ではないのじゃ。
 石に霊があるならばこれは妖怪なのじゃ。
 わが祖師の老虎丘につげるのじゃ。

988避難民のマジレスさん:2021/12/03(金) 00:14:09 ID:9YAFpTOY0
30.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part5-a⑦
神の対象化の中止

Q:私の神、真我を悟りたいのですが、私とそれの間には蔽いがあるように思います。

 その蔽いとはこれだ。あなたはある欲望を持っている。より優れた意識に到達したいという欲望を
持っている。これがあなたと「それ」の間の蔽いだ。
 あなたは絶対的に欲望なし、思考なしでいなければならない。欲望は思考だ。欲望があるとき、マ
インドがある。欲望の対象がある。しかし神は対象ではない。神は主体だ。神は見ることも、到達す
ることも、触れることもできない。神は見ている人だ! 神は対象物ではないのだから探そうとしない
ことだ。
 すべての対象物には始まりと終わりがあるが、広大な意識にはそれがない。ほんの瞬間どんな欲望
も持たないでいなさい。そして、どこにより優れた意識がありどこにより劣った意識があるのか言っ
てごらん。
 さて、どこに蔽いがあるのかね? 「これ」や「あれ」を望むことで蔽いをつくっている。欲望が
ないとき、神が彼自身でやって来てあなたのハートの中に座る。
 しかし、ハートの中の椅子が欲望のごみでいっぱいなら、神は一体どこに座るのかね? 神には完
全に清められた席が必要だ。そうすると、神は招待しなくてもやって来てその席を永久に所有するこ
とになる。その時あなたが何をしようとも、それは神が行っていることになる。そうするとあなたに
必要なものは何もない。
 すべての名前と形態を取り除かねばならない。そうすると蔽いはなくなる。蔽いが取れると唯一
残っているのは他の人の蔽いを取り除くための慈愛だけだ。この仕事は蔽いを取り除いた人に割当て
られる。しかしエゴのある人がどうして他の人のエゴを取り除くことができるかね? 今蔽いを取り
除きなさい。
 人間として生まれて、自由への欲望を持っている。自由を熱望しない人間は尻尾のない動物だ。本
当の人間はこの人間の一生で蔽いを取り除いた人だ。疑わないこと。それをやり遂げるのだ。

Q:真理を理解するのを妨げている壁があるようです。この壁は私の人生で学んだすべてのもので作
られているように思われます。

 この壁は観念でそれを壊したら内側も外側もなくなる。思考によってこの観念を取り除くことはで
きないので考えようとしないことだ。この観念は唯一想像に過ぎないので存在したことはない。
 ロープはいつもロープで蛇になることはない。間違った想像力でロープを蛇と呼んだのだ。これは
あなたがあなた自身の創造物の責任者だということを教えている。ロープは蛇を作らない。あなたが
蛇を作り出したのだ。あなたを非常に困らせたこの蛇という観念は何か見つけだしなさい。
 ただ静かにしてそれを見つめなさい。そうすると消えてなくなる。あなたを不幸に陥れるその観念
を見つめなさい。ただ見つめなさい。何の努力も必要ない。あなたを困らせる観念が起こるのをただ
見つめなさい。
 あなたが存在しなかった蛇という観念を創り出したのだ。観念はまったく存在しないのと同じだ。
あなたはいつも平和、愛、幸福、至福の中にいる。これがあなた生来の本質だ。
 これ以外はすべて実在しない観念だ。あなたの両親、牧師、社会が投げ与えた観念や意図や考え方
をすべて取り除きなさい。大量のこれらのごみがあなたに常に投げ捨てられた。
 このごみだめの中であなた自身を見失った。さて、もう一度同じ質問をしてごらん。

Q:できません。質問のすべてがなくなりました。

 すばらしい!!今あなたの中ですべてが変わったのがあなたの顔つきから分かる。
 すばらしい!! これがあなたの本質だ。そこにいなさい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

989避難民のマジレスさん:2021/12/03(金) 00:16:56 ID:9YAFpTOY0
1/3
洛下昔有紅欄・古洞両所。曰地獄。  洛下に昔、紅欄(らん)・古洞の両所有り、地獄とも曰ひ、
曰加世。又安衆坊之口有西洞院。 加世(せ)とも曰ふ。又安衆坊の口(ほとり)に、西洞院(にしのと
ういん)有り、
諺所謂小路也。歌酒之客、過此処者。 諺(ことわざ)に所謂(いはゆる)小路なり。歌酒の客、此処に過     
                  (よぎ)る者、
皆爲風流之清事也。今街坊之間。  皆風流の清事を為す。今街坊の間、
十家四五娼楼也。淫風之盛幾乎亡国。 十家に四五は娼楼なり。淫風の盛んなること、亡国に幾(ちか)
                  し。
吁関睢之詩、可想乎哉。不足嗟嘆。  吁(ああ)、関睢(かんしょ)の詩を、思ふべきかな。嗟嘆(さたん)
                  するに足らず、
故述二偈一詩。歌之云。 故に二偈一詩を述べ、以て之(これ)を詠歌すと云う。

頌曰。 頌に曰く、
同居牛馬犬兼鶏 同居(す)牛馬犬兼(と)鶏(と)
白晝婚姻十字街 白昼(の)婚姻十字街
人道悉是畜生道 人(は)道(いう)悉是(ことごとくこれ)畜生道
月落長安半夜西 月落(つ)長安半夜(の)西

くま訳
牛、馬、犬、鶏、と変わるところが無い。
白昼堂々と男女が交わる歓楽街
畜生道に落ちたというべき。
暗い世情を照らす月も無い。

*李白の子夜呉歌 参照。
(´・(ェ)・`)b

990鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/03(金) 23:39:30 ID:1d4drIFg0
悟りへの障害は自ら作り出しているものじゃ。
恐れとか欲とかに囚われていれば障害になるのじゃ。
それを取り除けるのも自分しかいないのじゃ。
全ての観念を捨て去れば障害もまたなくなるのじゃ。

991鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/03(金) 23:50:29 ID:1d4drIFg0
それ゛てよいのじゃ。


洛下には昔、紅欄(らん)・古洞というところがあったのじゃ。
地獄とか、加世とかよばれた歓楽街なのじゃ。
安衆坊のほとりに西洞院があり、歓楽街であり酔客が通うところなのじゃ。
10の店のうち、四五軒は売春宿なのじゃ。
淫風盛んにして亡国に近いのじゃ。
関雎の詩を思えば、嘆くに足りないのじゃ。
故に二喝一詩を述べ、これを詠歌するというのじゃ。

頌に曰く。

 牛馬犬兼ねて鶏が同居するのじゃ。
 白昼の婚姻十字街なのじゃ。
 人はこれをことごとく畜生道というのじゃ。
 月落ちる長安の西半夜なのじゃ。

992避難民のマジレスさん:2021/12/03(金) 23:56:10 ID:ZGP2KMxI0
31.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-a①
獲得することで失う啓示

 何かを所有したり、獲得したときに
「失う」という恐れと観念が起こってくる。
真我だけは失うことはできない。
もし平和を獲得したならマインドは再び戻ってくる。
 来させなさい。
 そしてどこからそれが起こってくるのか、ただ見ていなさい。
 マインドが走るのを許しなさい。
しかし、それを今に導きなさい。
過去の墓場に導かないことだ。
過去に執着することは悪い交際を維持しているようなものだ。
瞑想するとすべての過去のパターンは消えてゆく。
そのコツは瞑想したい人を100%警戒していることだ。
家が人であふれているとき、泥棒は入って来ないのだから。
期待しないこと、探さないこと。
そうすると「それ」を見つけることができる。
 しかし「現れるもの」を再び見つけるなら、間違ったものを見つけたことになる。
そして、確実にそれをなくすだろう。
現われるものは消えるためにのみ現われるのだから。
現われてくる思考や経験を抑圧しようとしないことだ。
 ただ注意深くありなさい、そしてそれらをやって来させなさい。
真我探究は蛇が現われるのを奮起させる。
 警戒!警戒!

Q:どうして人々は「それ」を失くすのですか?

 それを得ることによってだ。手に入れたものは何であろうとあなたの真我ではない。何かを失くし
たのなら、それはあなたの本当の真我ではなかったということだ。それが失くなったということはよ
いことだ。
 真我はあなた自身だ。決して失うことはない。真理はあなたであるところのものだ。失うことので
きるすべてのものは真理の邪魔になる。思考や疑い、対象のように消えて行くものはすべて真理を隠
してしまう。
 人々が「手に入れた」と言う時、彼らが手に入れたものは誤解だ。間もなく、もちろん彼らはそれ
を失くしたと言うに決まってる 。それを失くすかもしれないと考えている人がそれを理解していると
したら、どんな理解も誤解にすぎない。
 本質は決して失われない。あなた「自身」を失うことはできない。それはただ「在る」ということ、
往ったり来たりするものではない。それは何かを達成するとか獲得するとかという問題ではない。
 あなたがあるように、あなた「自身」を知ることだ。以前はあなたは誰であるか知らなかった。永
遠でないものと一緒にいたかった。「失くす」という考えはマインドからやって来る。
 だから、何も達成しないこと。全人生であなたに押しつけられたすべての考えをただ取り除きなさ
い。ほんの1秒間でこの考えを取り除きなさい。
 あなた「自身」を真理にむき出しにしたら、真理はそれ自身であなたに姿を現す。そして、あなた
の本質を知ることになる。これが単なる「在ること」だ。
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

2/3
佛交露柱一同途 仏露柱(ろしゅ)に交じって一に途を同じうす
邪法此時難得扶 邪法此の時扶(たす)くること得難し
榮衒徒似作家漢 榮衒の徒作家の漢に似たり
佛法胸襟一點無 仏法胸襟に一点も無し

くま訳
仏は、露柱に交ってその場に居るのだ。
しかし、邪法では、何も助けることはできない。
名利を追うだけの者が、禪の師匠の真似をしているのだ。
奴等の心には仏法など微塵も無いのだ。
(´・(ェ)・`)b

993鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 00:31:45 ID:1d4drIFg0
何かを得れば、それは観念となり真我を見失うというのじゃ。
そして不安が起こるのじゃ。
心の平和でさえ囚われれば障害になるのじゃ。
全てを来て去るがままにしていれば消えて行くのじゃ。

994鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 00:33:41 ID:1d4drIFg0
それでよいのじゃ。

 仏は柱と同じ一つなのじゃ。
 邪法はこれを理解する助けにならないのじゃ。
 榮衒の徒は作家にも似ているのじゃ。
 しかし胸襟には仏法は一点もないのじゃ。

995避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 07:59:49 ID:9l8lNueg0
32.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-a②
獲得することで失う啓示

Q:真我と接触していると、もっとも美しい空間にいられる。それなのになぜ私はこれから抜けだす
ことを選んで、新しい映画を上映するための新しい劇場を創るのでしょうか?

 あなたが美しさの中に一人でいようと決めたときは海に波がないときだ。波のない充満性・完全性
を楽しんでいる。そして海が遊ぼうと決めたとき、この遊びの考えが波の形態をとって現れる。
 あなたが言っている映画はこの波だ。海は「波は海で波が海の上で踊っているにすぎない」という
ことを知っている。海は波によって困らされることもないし、むしろ喜んで楽しんでいる。
 そうすると、あなたの質問は、波のない海と、波のある海との違いは何かということになる。この
質問自体が波で、観念で、海ではない。それは波側の観念だ。この分裂についての質問は波にのみ属
する。
 海は決してこの質問をしないだろう。この観念は海から離れているという波の考えにすぎない。あ
なたは存在でありながら、存在から離れていると考えているにすぎない。
 波としては高さや長さや幅や動きを持っていると考えるが、これらはすべて観念だ。分裂は観念に
すぎない。この分裂を終わりにしたい波が海を探し始める。波が海を探している!?

Q:しかし、どのようにして海が波になろうと決めることができるのですか?

 それは完璧さだ。海は完璧だ。それが遊ぶと決める、その決定が波だ。これが意識だ。これが意識
だ。それがなにを考えようとも、それは意識のままだ。
 意識以外には何もありえない。違いと分裂のゲームは、ゲームがなかったのと同じことだ。何の変
化もない。波があろうがなかろうが海は海だ。意識は意識だ。形態をとって現れようが、現れまいが、
無は無だ。
 無の観点あるいは意識の観点、覚醒の観点からすれば、全く何の違いもない。何の変化もない。あ
なたが「それ」だと知ったなら、違いは消えてしまう。あなたは起こっていることから分離して存在
するものではない。
「それ」は決して無くなることはない!
 形態をとって現れるすべては初めから終わりまであなたの内なる波だ、あなたの真我の内で起こる。
あなたの真我から離れてあるのではない。「分裂」という観念にすぎない障害を拒絶しなさい。これ
やあれでなく総体でありなさい。
 あなたが決心したら、それはすぐに起こるだろう。あなたが決心しなくても、すべては同じであな
ただけが存在する。あなたの質問は「もし私が全体のこれであるなら、なぜ全体のあれがあるの
か?」と同じことだ。(笑っている) ただ、質問に触らないことだ!
  (´・(ェ)・`)
 (つづく)

詩曰  3/3
淫風家國喪亡愁 淫風家国喪亡の愁(うれい)
君看雎鶏在彼洲 君看(み)よ雎鳩(しょきう)彼(か)の洲に在り。
随列宮娥主恩夕 例に随って宮娥主恩の夕
玉盃夜夜幾春秋 玉盃夜々幾春秋ぞ

くま訳
昨今の風俗の乱れはひどい。亡国の憂いを禁じえない。
雌雄別々に暮す鶚(みさご)をみならえ。
宮城の夕暮れ、君主の寵愛を受ける女性が、ちゃんど順番を待っている。
夜毎の美酒に、どれだけの夜々を過ごしてきたことか。
(´・(ェ)・`)b

996鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 22:50:12 ID:1d4drIFg0
真我に接触したならば私はもう無いはずなのじゃ。
私があればそれは観念遊戯をしているだけなのじゃ。
真我と別のものになることはできないのじゃ。
それは海のようなものであるからのう。
波というものが存在するのではなく、ただ海の表面の乱れが波とよばれるだけなのじゃ。
そのように真我の海から独立した自己があるのではなく、心身ともに全ては真我の一部なのじゃ。

997鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/05(日) 22:53:20 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 詩に曰くなのじゃ。

 淫風の国家は亡くなる愁いも在るのじゃ。
 君は見るがよいのじゃ、雎鳩はかの州にあるのじゃ。
 列に随って宮娥は主恩の夕べなのじゃ。
 毎夜玉盃を重ねること幾春秋なのじゃ。

998避難民のマジレスさん:2021/12/05(日) 23:41:12 ID:yJrIMcOY0
33.
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA
第6章 真我探求:私は誰か? ☆Part6-a③
獲得することで失う啓示

Q:もし「これ」や「それ」を取り除いたら、何もない空間に居ることになります。

 この何もないことを誰が騒がすのかね。この何もないことに入っていくと、何になるのかね?

Q:どのようにして海に留まることができますか?

 「どのようにして」と言う概念を使わないことによってだ。「どのようにして」は波にすぎない。

Q:「どのようにして」がなくなると海に留まるだけです。

 人々を困らせるのが「どのようにして」だ。そしてあなたが考え出すいかなる答えにもあなたは即
座に同一化する。あなたはあなたの考えるものになるのでどんな質問も取り除いたほうが良い。
 あなたは自由だと考えるとあなたは自由だ。あなたが苦しんでいると考えるとあなたは苦しむ。こ
れが意識の美しさだ。考えるとそれになる。どんな考えであろうとあなたが考えるようにそれは現わ
れる。しかもそれは「意識」のままだ。
 「意識」であるがゆえに外側からどんな材質も得る必要がない。それが「意識」というもので、す
べてが「意識」のうちにある。「意識」は完璧で、すべてを含んでいるのでそれが望むものは即座に
存在を顕す。そう、あなたが自由を望むなら即座に自由になることができる。
 この「自由」という思考は「束縛」という観念を取り除くために在る。自由であるためには「自
由」という観念をもてあそぶだけでよい。そうすると二つの観念、自由と束縛が終わりになる。あな
たはあなたのあるがままで何も変わらない。
 「自由」を使って「私はこの肉体、この心」という観念を取り除きなさい。そのときすべてが踊り
だす。これが自由というものだ。自由を味わったその人が踊るのだ。

Q:又、私は「それ」を失って6ヶ月たちます。私はどのようにして「それ」を取り戻すのかわかり
ません。

 しかし、なぜ又なのか? 又それを手に入れるならそれは一時的な何かで、又それを失くしてしま
うだろう。お腹が空いたので又食べるというようなものではない。
 一滴のネクターを味わったら一生涯、食物はもう必要ない。これが「それ」の一瞥だ。一億分の1
秒で十分だ。取り戻したいならそれを掴んでいようと望まないことだ。第一それは掴むことはできな
いのだから。
 それを保持しようと望まないことだ。もう一度それを取り戻したいと望まないことだ。単にそれと
一緒にいなさい。それは逃げ出すことができないのだから、逃げ出すと考えないことだ。
 それが消え去ることはない。それにハートを開いていたら、消えてしまうのはあなただ。あなたが
失われるのだ。蛾が炎に飛んで行くと何が起こるかね。消えてしまう。だから、あなたのハートのこ
の炎に触りなさい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

山居 二首 1/2
婬坊十載興難窮 婬坊じゅっさいきょうきわめ難し
強住空山幽谷中 強ひてくうざんゆうこくの中に住む
好境雲遮三万里 こうきょうくもさえぎる三万里
長松逆耳屋頭風 ちょうしょう耳にさからふおくとうの風

くま訳
遊里に十年通ったが、楽しくって窮めつくせない。
こりゃいかんと、強いて、山奥に住んでみた。
山奥なら、遠くまで見渡せる眺めのよいところでも、雲が眺めをさえぎってくれるだろう。
と、思ったがあまかった。高い松の木の枝を吹き抜ける風の音が、(有里の風の音と同じなのだ。)
気になっててしょうがないぞ。
(´・(ェ)・`)b

999鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/07(火) 00:19:03 ID:1d4drIFg0
悟っていない人は何もするなといわれれば、どのようにしてというのじゃ。
そのどのようにして、という問いがなくなればあるがままでいられるのじゃ。
何の問いもなくただいるだけでよいのじゃ。
全ての観念が消えて行くのに任せるのじゃ。
そのようにして主体が意識に現われてくるのじゃ。

1000鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2021/12/07(火) 00:26:48 ID:1d4drIFg0

 それでよいのじゃ。

 山居なのじゃ。

 婬坊十年でも興楽は極められないほどなのじゃ。
 それでも強いて空山、幽谷中に住むのじゃ。
 雲が三万里も視界をさえぎるよいところなのじゃ。
 長松の頭を吹き抜ける風は耳に逆らうがのう。

1001避難民のマジレスさん:2021/12/07(火) 07:06:22 ID:VDH662kQ0
(´・(ェ)・`)b つづきは↓に
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 - したらば
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1592867699/l50


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