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TK師との会話

1 TK :2013/07/06(土) 10:47:36
こんにちは。

君の次元は音は聞こえている、景色は見えている、言葉は発せられている、ただし、自分のもの
では無い、このようではないだろうか。

ここでは、「自分」と言う捉え方は消滅したが、視覚情報、聴覚情報、言葉との微妙な距離感が
発生しているのだが、あまりにもそれが微妙すぎるがゆえに中々気づけないものだ。

そして、微妙だが確実に存在して立ちはだかっているこの「距離感」が「現象」との壁だ。

もちろん今のままでも「自分」と言うものが無いのだから、一般的に言う「(エゴの)苦悩」と
言うものが発生することも無いし、ここはここで快適なところであり、それは決して間違いと言
うものでは無く、巷で賢者と呼ばれる人たちの言いまわす状態に君がいる事に間違いも無いがた
だしこの先もあるのだ。

君の所では「識別作用(対象)」が消滅し「楽」を実現したという事で間違いはないし、これも
既に稀な現象であると言える。

もし君の段階の人がさらに先に進もうと思うなら、この微妙に存在する「距離感」を手掛かりに
確実に存在するものとしてしっかり掴み取ることだ、しかし、今の君が今のままで「楽」
と言うのなら私はあえてさらに先に進んだ方が良いなどとは言わない。

これより先に進む人と言うのは、この微妙な壁すらが「違和感」に感じてくるのだ。

君の状態もしばらく留まっていると、だんだんとこの残り物の存在が確固たるものとして、浮上
して来たりする場合もあることだろう。

君も立派に賢者だ、君にできる事をすると良いだろう。

2 ラピ。 :2013/07/06(土) 10:48:23
T師匠!

ご訪問、ありがとうございます。

師匠の言葉は私の今の状況を完璧に表しています。

私はかつて がむしゃらに道を歩いていましたが
師匠に出会うちょっと前頃は実はその道からそれていました。

そして師匠と出会うことによって
再び道を歩き始め
至ることができました。

至ってる方、本物は
確実にその道を求めるものを導きます。

私はその頃は訳もわからぬまま導かれていたことを
至って初めて知りました。

だから、もし、
本気で至りたい方がいればその方に言いたい。

まだ至ってない時にはわからない、
知っているつもりでもわかってない世界があるのだと。

だから、それを想像したり考えたりするのではなく
やるしかないのだと。

私はそれをしました。

師匠は私の段階(彼岸)の更なる段階(涅槃)があると
教えてくださいました。
その先へ進むかどうかは流れに任せたいと思います。

そして師匠は自分の道を行け
と背中を押してくださいました。

これからも私なりに真理を表現し続けていきます。

ありがとうございます。

師匠に出会えたことに感謝します。

3 TK :2013/08/10(土) 09:51:58
なかなか新装オープンのこの掲示板も関心を引いているようなので、
この場を借りて私からも一言述べようと思います。

私はラピ。さんには縁があって悟りに至るための「激流」の教えを開きましたが、
実際は私にとって教える対象となる人の幅はもっと広いと思います。

その人から苦が少しでも減って、楽が増えればそれで良いと言う観点から、
それなりの教え方が主になるのだと思います。

精神世界とは一体なんでしょうか、人はなぜ今の時代に宗教を求める人がいるのでしょうか。

恐らく、苦しいからですよね。

苦しいから、苦しくて何が何だかわからないから求める。

楽になりたいからと言うはっきりした動機ではないかもしれない、
そこに行ったら楽になれると確信を持ててやっているわけではないのかもしれない。

ある意味では苦しみがあるのは仕方がないとあきらめている、あるいは、
根本動機は生きる事そのものが分からないから、と言うものではないかと思います。

実はこの物質世界とは思いが実現しにくいと言う特性を持っていますが、
その特性が手助けするような形で発生していると思います。

では、悟りとはどんなものかというと、
簡単に言うと今述べたようなことがその人にとってどうでもよくなってしまうということです。

答えを見つけたわけじゃない、疑問そのものがどうでもよくなってしまった。

単純に言えば、迷いがあり疑問があり生きている人がいる、それに対して、
何も考えないで気にならないで生きている人がいる、人間から迷い苦しむ機能が無くなってしまった、
悟りとは、つまり、そのようなものでした。

それは決して「知ったり」「分かったり」「理解」したりすることではありません。

もし、精神世界の心地よさがほしい人は、精神世界に行った方が良い、束の間ここちよく、
その後苦しさが襲ってくる繰り返し、束の間の娯楽ビデオの鑑賞を楽しむような気分で精神世界に酔う事を楽しんでいればいい。
ただその人たちの本心が求めていることはその状態ではないので、やがてそれ自身が苦しくなってくるのだろうと思います。

私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。

苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。

私の話しするのもこれだけです。

全然変わってないですよね。

そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。

(長いので続きます)

4 TK :2013/08/10(土) 09:53:59
(前の続きです)
釈迦のこの世を去る最後に私たちに残した言葉にも、その根幹の部分のみが適格に言葉短く述べられているように思います。


大般涅槃経 - Wikipedia(2013年8月8日 (木) 07:40  UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C

>原始仏教経典の涅槃経

中 略

>「すべてのものはやがて滅びるものである。汝等は怠らず努めなさい」


釈迦のこの世界で最後に発した言葉が「怠らず努めなさい」なんですね。

それはけっして、「人々のために」とか、「善を為せ」とか、「世界の為に」とかの言葉ではなかった。

この世界で最後に発した言葉は「怠らず努めなさい」なのです。

もしかしたら多くの方々は、この点を勘違いしているのかもしれません。


むしろ、スポ根アニメとかの中の方が「怠らず努めなさい」の要素が強いですし、
現実にスポーツの優れた選手は悟った人に近いメンタルなのです。

私も高成績のスポーツチームの者と話したことがありますが、エゴ少ないですね、人間出来てます、
苦を減らし楽を凄く実現できている、おかしな精神世界の者と比べたら雲泥の差で彼らは達成できてます。
反対に成績の振るわない仲良しクラブ的な所の人と話しても、エゴ多いです、彼らは苦しみ多く生きていますね。


私がここで悟った状態と語りましたが、スポーツも存分に「怠らず努めなさい」のような
要素があるので悟りには身近な状態にありスポーツの世界ではこの意識状態を「フロー」若しくは「ゾーン」
と言うのです。宮本武蔵あるいは柳生宗矩に沢庵禅師が説いたと言われている「剣」「禅」一致はこの辺りの事を指しています。

フロー - Wikipedia(2013年6月11日 (火) 11:13  UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC

>この概念は西欧心理学の中ではチクセントミハイによってはじめて示したと言える。
>しかし、彼はこの心理現象に気づき、それに基づく技術を開発したのは、
>ほぼ間違いなく彼が最初ではないと、彼自身、躊躇なく認めている。
>
>2500年以上前、仏教や道教といった東洋の精神的な伝統の実践者は、
>この訓練を彼らの精神開発の非常に中心的な部分として磨いた。日本の実践者は、
>そのような禅の技術を、彼らの選んだ、剣道から生け花までを含む、
>芸術の形式(芸道など)を習得するために学んだ。

ちなみに私の知っている高成績なスポーツチームでは、厳しい訓練は当然ですが、寮で集団生活をし、
生活の全てがスポーツであるとして、日常の規律の厳守、奉仕の実践と挨拶の重視、
練習前の正座とか、私から見て十分にフローの達成に近づけるための実践要素が取り入れられていました。
強くなるチームは技能訓練以外にも強くなるためのメンタル面の的を得た要素をしっかり踏まえているという事ですね。


精神世界にそれを求める人たちに言いますが、
「心身を鍛えて、よりよく過ごすために私はスポーツ又は稽古事に打ち込みます」と言う人が世の中には多数いると思いますが、
これは悟った立場から見ても立派に理論にかなっています。
私は精神世界にそれを求めてうだうだ知ったかぶりのオタクをしているような人たちよりも、
時々これらの人の方が楽を達成できて人生を前向きに歩いているように思えて仕方がない部分を感じます。

何事につけても、だらだらといい加減にではない、真剣に何かに打ち込んでいる人の姿を目にするのは、それは素晴らしいものです。

悟ると、一般の人の視点から見たらそれは理想的で素晴らしいと言う状態になると思います。

苦が無くなって楽が実現するだけではありません、あえてたとえるなら遊びと同じ楽な感覚で仕事が出来てしまう、
しかもエゴの人と比べたら圧倒的に優位な効率でインスピレーションもどんどんと出てきますし、
楽していい仕事ができると言うのは、一般的には願ったり叶ったりと表現するのかもしれません。

(長いので続きます)

5 TK :2013/08/10(土) 09:58:33

(前の続きです)

私は釈迦の我々に残した最後の言葉の「怠らず努めなさい」を成就した者です。

努力に努力を重ねて努力し尽したのでもう逆立ちしても努力ができません、努力不要(不能)の者となりました、
そして、ラピ。さんも私の教えを受けてこれを成就しました。

もしかしたら、私たちのこの「私達は逆立ちしても努力などしません」の成就した後の表現を、
至る前の人が勝手に「努力」するのは駄目なんです不要ですと取った人もいるのかもしれません。

ですが、釈迦が最後に我々に残した言葉は「怠らず努めなさい」の言葉なのです。

本当にスピ系にかぶれて私と同じところまで来た人はいるのでしょうか、
当然スピ系の分からない私に導かれたラピ。さんは私の取り入れた方法で至りました。

それは、私が成就したと認めたとかではなくて本人が自分自身でこの状態に、
意識そのものが変容してなってしまったのです。

次は至った直後のラピ。さんの言葉です。

[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html

>この私はだれですか?
>
>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>
>何もできないのですが
>この私はなんですか?
>
>師匠、これはなんですか?
>
>と送りました。

実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

ただし、的を得た導師とは、ただ普通に暮らしていてこれらの努力や忍耐を要するような出来事をやり過ごさせるのではなく、
あえて、これらの事が過剰に実践者の前に起こる方法を作り出すのです。

それが、ラピ。さんの言っている「激流」と言うものの正体です。

じつはラピ。さんに関して言えば、私と出会った時には、
恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。
もっともこの屁理屈も、ある段階の者には激流を渡るための筏(イカダ)として機能しますが、
同じ屁理屈でも使い回す者が悟ってないとこれが全く同じ言葉なのに筏(イカダ)の機能も果たせない
駄作の単なる屁理屈に大変わりしてしまいます。

達成した私達には内面(心)と言うものが無い、これがほんとうの無心です。
内面が無いから従って外面もないのです、よってヴィパッサナなどの内面観察系の実践は
逆立ちしても実践不可能(完了)です。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>質問者 この知識はあなたの内側からやってくるのでしょうか、それとも外
> 側から来るのでしょうか?
>
> マハラジ
> その表現は当てはまらない。
> 私の内側は外側であり、私の外側は内側なのだ。
> 必要な知識をあなたから得るかも知れない。
> だが、あなたは私から離れていないのだ。

私は以前これを、あなたの前には私がいる、だが、私の前にはあなたはいないと言う言語化で表していました。

至った私達の意識状態は精神の集中の次です、意識の拡散と言う状態になります。
至った私達には精神の集中と言う言葉はありません。

私がここで「努力」と言う表現を使いまわしていますが、それ自身も私は成就者なのでそうでない人とは違うのです、
人間のメンタルの構造の上でどのような作用が起きた時に、この「努力」と言う感覚が発生するのかまで、
熟知したうえでこの表現を使いまわしています。

(長いので続きます)

6 TK :2013/08/10(土) 10:03:39
(前の続きです)

「人の為」「世界の為」「人類の為」「神への奉仕の為」「愛と感謝の思いを込めて」大いにやってください、
私もラピ。さんもその実践をして成就したのですからこの件についても胸を張って述べる事が出来ますが、
最終的には実践不能の状態でこの実践は成就を迎えます。私もできるものならまだこれらの実践をするのですが、
逆立ちしても不可能なのです、つまり、意識の状態がこの実践の成就を迎え根幹から変容したと言う意味です。
「清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような〜」スッタニパータと言う
経典に出てくる表現ですが、この状態が完成形ですから。

「人の為」「世界の為」「人類の為」「神への奉仕の為」「愛と感謝の思いを込めて」が出来るうちは大いにやって下さい、
ただし、その実践が出来るうちは私の居る所まではまだまだ全然至っておりませんので、
そのような状態で人に何かを説くなどの行為はくれぐれもしないようにして下さい、
これは説かれた方も当然に至る事が出来ず害がありますが、説いた方にも害があるので、ご法度です。

まず、自分から先に成就をする、それをしないで、あるいはしたと誤認して、人に教えを説く者をイエスは偽善者と呼びました。


マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

ラピ。さんの至った所は、もしも人から認められず否定されるようなことがあったとしても、
本人にとって揺るぐことのないものであるわけですが、私も今回ラピ。さんが成就していただけたおかげで、
ようやく次のような聖典も実績として説く事のできる身の上となりました。


ルカの福音書 6章-40
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

マタイの福音書 7章16-18
>あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、
>いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
>同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
>良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

(長いので続きます)

7 TK :2013/08/10(土) 10:04:55
(前の続きです)

私は今まで多くの超える手前で、超えたと自らの誤認により教えを説いたりしている人を何人も目にしてきました。

実は私に出会った時のラピ。さんもそのようだったのですが、私にはそのような経験がありませんので、
今までもそのような人たちを目にしても中々力添えが出来ずにおりましたが、ラピ。さんは
そのような人たちに暗闇の中で灯火をかかげる人となれると私は考えています。

言葉に表現するとあと一歩なのですが、この一歩が全く至ると至っていないのとでは違うのです。
その違いを一番よくわかっているのが今のラピ。さんですから。

至った後のラピ。さんのコメントです。

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1674.html

>はじめの私は師匠に対してかなり偉そうで
>反抗的態度でした、、、。
>(;´▽`A‘‘
>
>だって、私、
>
>自分がすべてを知ってるのだ!
>
>なんて思ってたのですから、、、、。
>(あ〜あ(笑)


次は至る以前のラピ。さんのコメントですが、かなりの自信の持ち主でした。

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。


このような自信満面な人物をどん底、すなわち、その者をこの世界の中で子供を含むどんな人物より一番至らない
愚かな者の立場まで落とさなければならないのです、これは奥義ですが、最後の一歩の入り口はどん底にあるのです。

彼女が聞く準備やその他の準備が整うまでに約4カ月の期間を費やしましたが、飛び越える時は僅か1日で飛び越えましたね。

彼女なら、私に出来なかったことをやれそうな気がします。


『相応部経典』1・4・1・5
>比丘たちよ。私は天界のものであれ、人間界のものであれ、一切の束縛から自由になった。そなたたちも同様に自由となった。
>諸人の利益と幸福のために、また世の人への共感を持って、(天に住む)神々と人間の利益、幸福のために、そなたたちは出かけるがいい。
>
>(なるべく多くの人に教えられるよう)二人して同じ道をゆくな。初めも善く、中ごろも善く、終わりも善く、道理と表現とが備わった教えを説きなさい。
>この上なく完全で清らかな行いを人に示しなさい。
>世間には心の目が(欲望の)塵垢にそれほど覆われていないのに、教えを聞くことがないところから堕落している人がいる。(教えられれば)かれらは真実を悟れるであろう。

8 ラピ。 :2013/08/10(土) 23:13:06
T師匠、ありがとうございます。

師匠は私を師匠のいるところまで完璧に導いてくださいました。

それまでももちろん、実践を頑張ってました。
でもスピリチュアルな教えによって停滞してしてました。

この停滞。
実はその頃、私にとっては実感のないものでした。
師からビンタをもらい、目が覚めたのですが
それまでは自分が停滞してることすらわかっていませんでした。

師の教えはそんな私を確実に導きました。

まだ、この世界で師の言葉が必要な人、たくさんいると思います。

めったにないチャンスです。

悟りを本気で目指してる方、本気であるのであれば
師は答えてくれると思います。

ただ、本気で、本当に本気で挑んでください。

私のお伝えすることが合わない方もいると思います。
なぜなら至る道は一つではないから。

その時こそ、師の言葉が導いてくれると思います。

師匠、ありがとうございます!!

(*・ω・*)ポッ

9 あーみん。 :2013/08/10(土) 23:55:40
ラピ。さんに巡り合えただけでもラッキーだと思っていたのですが、
ラぴ。さんのお師匠様のお言葉まで聞けるなんて、
なんてお得な・・(いや違う!)なんて貴重な掲示板なのでしょうか!!^^
(↑この空気で冗談を言おうとする自分が恐ろしいです)

レベルが高すぎて、私には何を質問してよいかも分かりませんが、
ひとつ、どうしても気になったことがあります。。

(現在、エゴに押し負け続けており、実践の方が遅々として進まない私が
お二人に質問する資格があるのかどうか分かりませんが^^;)

エピ。さんとお師匠様は全てメール(ネット上?)でのやりとりだけだったのでしょうか?
直接お会いになったりすることはなかったのですか?

私が過去に読んだ「悟り・覚醒」等に関する本では、マスターの存在無しで悟ることは
非常に困難であり、ある程度準備が出来たものはマスターの導きが必要になる。。とありました。
中でも、直接そのマスターの「在る」の意識に影響され、弟子が「悟りの一瞥」のようなものを体験し、
その体験により、一気に「目覚め」が深まることがあるとか。。
これもやはり余計な知識なのでしょうか。。?

あ、まあ、私の場合はまだその「準備」すら全く整っていない状態ですので、
もしそういったことが必要になるとしても、実践が順調に進んだ、先の先の話に
なるかとは思うのですが^^;

ふと、ラピ。さんとお師匠様の場合はどうだったのかな?と気になりました。
もし、差支えなければ教えて頂けますか。。?

10 ラピ。 :2013/08/11(日) 07:44:10
あーみん。たん、おはよう!

うん、このチャンスを逃すのはもったいないですよ。
これが最後の最高のチャンスです。
エゴが何を言おうが実践です。ここが分かれ道になります。

残念ながら私たちは 実践をしない人たちの力になることはできません。
自分自身が進むしかないのです。
私たちはきっかけをお伝えすることはできますが、ただそれだけです。

私と師匠のやり取りはメールだけです。
確かにマスターの存在なしで至るのは困難だと思います。

私は師匠に出会う前に ある実践をとことんやっていまして
激流を渡り彼岸に足を突っ込み、また戻ってきた経緯があります。

そして結局 相対的世界に落ち着いて スピリチュアルにはまってしまいました。
そこで長い間停滞していました。

激流の終りまで行きかけたのに、行きかけただけではまったくだめなのです。
確実にわたり終える必要があります。

いくら彼岸に足を突っ込んだと言っても、そこから戻ってしまったのでは
全然ダメで、一度からまたやり直しなのです。

>言葉に表現するとあと一歩なのですが、この一歩が全く至ると至っていないのとでは違うのです。

まさしくこのことです。渡り終えなければ全く駄目です。
彼岸に足を突っ込んだ、だからそれがどうした?それでは意味がない、です。

ちなみに実践をし続けて、光を見たり幸せな気分になって
それで至ったと思う人もいると思いますがこれも全くダメです。

この経験は無駄ではないと思いますが
「その経験、だからどうした?」です。
さらに実践し続けてください。実践ができなくなるまで。

師匠がこう書いてくださっていました。

>恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。

まさしくあと一歩、あと一歩のところで停滞していました。
この停滞は私だけでは気付くことはできず
師がいなければ至れませんでした。

「楽」は実現できていましたが、まったくそれでもダメでなのです。
「楽」の実現、だからそれがどうした、まだまだだ!という感じです。
私は単なる低次元、相対次元の屁理屈の酔っ払いでした。

なので、本気で至りたい方に必要なのは
目を覚まさせるビンタだと思っています。
師は私の目を覚ましてくれました。

私が酔っぱらっていることを師は私の文面ですべてお見通しでした。
マスターからしたら至ってないものは 丸見えなのです。

続きます(*・ω・*)ポッ

11 ラピ。 :2013/08/11(日) 07:45:06
10の書き込みの続きです。

>直接そのマスターの「在る」の意識に影響され、弟子が「悟りの一瞥」のようなものを体験し、
その体験により、一気に「目覚め」が深まることがあるとか。。

これについてですが、少なくとも私にそれはありませんでした。

悟りの一瞥は実は私自身の実践で体験しており
確かにその一瞥があったからこそ師の言葉によって導かれ
至ることができたのかもしれません。
(ただ、この一瞥もまれなことらしいです。)

ちなみにこの相対的世界にいる時は
いろんな思考や思いに支配されているので
マスターの「在る状態」に気付ける人はいないでしょう。
悟りの一瞥を得ることは難しいでしょう。

だからマスターはその思考や思い、それらの幻想をぶった切るために
とことん下まで 至ってないものを落とします。まずはそこからです。

>このような自信満面な人物をどん底、すなわち、その者をこの世界の中で子供を含むどんな人物より一番至らない
愚かな者の立場まで落とさなければならないのです、これは奥義ですが、最後の一歩の入り口はどん底にあるのです。

まさしくそれです。最高の奥義です。
これがなければ私は至れませんでした。
この奥義がなければ至れませんでした。

だから私にとって師は必要でした。

大切なのは常に立つ位置を低くし、ひたすら実践です。

あーみん。たん。
厳しいことを言えば、エゴを言い訳にして
実践を怠けてる、私からしたらそうとしか言えませんよ?

まだまだですね。スタートラインにも立ってないです。

だから兎にも角にも実践です。
とことんエゴの声を無視して実践してからですね。

私は師からの「悟りの一瞥」はなかったし、
師のそばにいてあったとしても、至る前の私であればそれを勝手に解釈し、誤解し
受け取れてなかったでしょう。
その一瞥はあってもないことと同じです。

だからマスターのそばにいて同じ時間を過ごしても
次元が全く違うのでマスターのその状態を知ることはできないでしょう。

ひたすら実践をしてある瞬間、空っぽになる時があります。
(エゴの声が静まる時)
これだけではまだ静まってるだけでエゴはいますので至れてないのですが
この空っぽの状態なら、一瞥を味わうことはできるかもしれません。

ただその一瞥は師がいなければできない、ということではないと思います。
ひたすら実践をしていれば勝手に一瞥を経験しているでしょう。

だからまずはとことん実践してその状態まで進んでください。

そして、実践中、何かありましたら掲示板の「悟りを目指している方」に書き込んでね。
その都度、対応できると思います。

私が今回書いたこと、師の書き込みにすべて書かれてますので
じっくり読んでね。
(*・ω・*)ポッ

12 TK :2013/08/11(日) 09:44:52
一言述べますが、書店に行けば、あるいはネット上で、スピ系の本、又はサイト、セッション、
死ぬまで酔わせてもらえるような手段は沢山ありますので、
そのような方には今の時代は願望が手ごろに叶ってとてもラッキーな時代だと思いますよ。

ただし、これはこのサイトを見ている人の中にいないかもしれませんが、
本当に切羽詰まったような人、このような人たちにはかなり厄介な時代です。

何かの高次元の手掛かりがなければアセンションは無理です。

ただし、私自身は僅かながらの聖典を師にしましたので、生きている師はおりませんから、
一般的には無師独悟に分類される事になると思います。

メールと言う手段であろうとも、生きた師なら聖典よりなおいいわけです。

ただし、はっきりと言いますが、生きた人間を師として求めた場合、今は失敗するケースが多いです。

ラピ。さんが運がよかったのだとお考えいただいた方が良いと思います。

今は仏教でいう所の「末法の世」と言う時代です。


まっぽう(‥ポフ)【末法】
仏語。三時の一つ。釈迦の入滅後、正法・像法に次ぐ時期で、仏の教えがすたれ教法だけが残る最後の時期とされ、
一万年の間とする。日本では正法・像法各千年の後、永承七年に末法にはいったとする。末法時。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


つまり確実なものとして教法だけが残っているとされています。

これもとらえ方で、教法だけは確実な手掛かりとなるものがあるのだと捉える事も出来ます。

「私は至りました、本物です」と複数の者が口をそろえてこのように述べても、本当かどうか判断が着きませんね、
忠告しておきますが、実際にはほとんど全てと言っていいほど、期待にかなうものではないと考えて下さい。
もっとも始末に負えないのは、ほとんどの本物宣言は悪気とかそういうものでは無くて、
本人自らの誤認によるものだと思います。

私自身は人を師として求めたら、今の所までは至れなかったと思っています。

その場合、今のラピ。さんの悟りは無かったわけです。

私もネット上で本職の僧の方や様々な方と話をしましたが、未だかって私がまともに対話を交わした人の中で
私の所に至っている人など誰もいませんでした。

適当な事を言われて、成就の印可を授けられたような人も何人もいるようです。

そして、そのでたらめな成就認定をされた人が、また、さらに他を成就認定していく、
この辺りは、「末法」の予言の通りです。

大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


釈迦の遺言は、今の我々に対して末法を予言していたようなものでした。

>レベルが高すぎて、私には何を質問してよいかも分かりませんが、

ここもポイントです、分かりやすいものほど次元の低さの証であり受け入れやすく、
だからこそ外れなのですが人が飛びつきます。

ラピ。さんは実に運が良かった、ただ、それだけだと思います。

13 ラピ。 :2013/08/11(日) 22:31:36
☆ TK師匠  あーみん。たん

はい!
あーみん。たんにお返事した内容は
師が本物であること前提で書いてしまいました。

今のこの世界、本物はほとんどいないみたいです。
偽物に師事してしまうと逆効果ですね。

私が運がいいというのは
TK師という本物に出会えたからです。

もし、偽物に師事したのなら、まったく至ることはできなかったと思います。

でも実は私は師を求めてはいませんでした。

でも縁があって師匠とメールのやり取りをしているうちに、
「ん?これは??」というなにか直感的なものがありました。

私はTK師だからこそ師匠と呼ばせていただきました。

TK師に出会わなければ、私には師はいなかったと思います。

(*・ω・*)ポッ

14 あーみん。 :2013/08/13(火) 01:02:04
ラピ。さん、たくさんのお返事ありがとうございます。
ラピ。さんが辿って来られた道がよく分かりました。。
きっと壮絶な体験も色々あったんでしょうね。。
でも実践が始まったきっかけが、特に出来事があったわけではなく、
ふと自分のわがまま気づいた、それだけです、というところに少し驚きました。
そして、ラピ。さんが実践されて来た長い年月を思うと、
これからの自分の行く道を考えて、つい気が遠くなってしまいますが^^;
もう多分、嫌でもこの道しか残されていないというか、失敗しながらでも進むしかないですね。
実践方法は、皆さんがされているように、そのうち私も私のオリジナルを見つけたいなと思います。
それまで、ラピ。さんのおすすめ「自分を捨てて、喜んで何でもしよう」を
私なりに努力して行こうと思います。

本当にありがとうございます。

あ、もうひとつだけ・・
ラピさんのお返事の最初の部分なんですが、
私は自分の考えが正しいと思って、その正しさを主張したかったわけではないんです。。
ただ、まずは出来るだけ自分の考え方、感じ方を、ありのままに
さらけ出して、ラピ。さんにお伝えすることが必要だと思いました。
私なりの、よかれと思ったやり方でした。
でも、そうですね。。自分の正しさを主張しているような文章になってしまっていたのかもしれませんね。
でも決して自分が正しい、なんて思って文章を書いているわけではないんです。
どうあがいたって「自我」は何が正しいかを判断することは出来ないんだってこと、
本当に身に染みて分かっているつもりです。(ときどき忘れてるかもしれませんが)
でも誤解を生むような書き方になってしまってすみませんでした。

私は少し、悟った方のことを、まるで超能力者のように思っていたようで、
多少文章が変でも、こちらの気持ちを汲み取ってくれるだろう。。なんて、
勝手なイメージを持っていたようです。とんだ勘違いですね^^;すみません。。

あと、私にとっては悟りの道も「スピリチュアル」だと思ってましたので、
解釈の違いという誤解もあるのかもしれませんね。

「誤解」はほんとうにやっかいですね^^;
世の中、この「誤解」さえなくなれば、どんなに生きやすくなるか。。と思います。
まるで罰ゲームのルールを無理やり課せられているように感じます^^
でもやっぱり必要だからあるんでしょうね。いや、意味なんてないんでしたね。
だから人は自分の好きなように意味を付けて生きていこうとするんですね。。
(↑あ、これも「これが正しい」ってことじゃないです。単なる私の考えです。)+

15 あーみん。 :2013/08/13(火) 01:04:54
↑ごめんなさい!板を間違えて投稿しました!
「悟りを目指している方」への投稿のつもりでした!

16 ラピ。 :2013/08/13(火) 03:29:32
あーみん。たん、了解です。

この書き込みを移動させますね!
(*・ω・*)ポッ

17 TK :2013/08/14(水) 11:13:34
さて、この掲示板にもスピ系にかぶれている人がいますが、私もラピ。さんも
ぶっちゃけスピ系をけちょんけちょんにコケにする者の立場をとっているわけですが、
ぜひスピ系で至りましたと言う自称覚者さんがもしいたらここに出てきてもらいたいものだと
思いませんか。

我々にとって悟りとは、何かを理解したり知ったりする事ではなく、
メンタルそのものの機能が変わってしまう事だったわけですが、
当然我は本物ですと言う方が居れば、その方がもし偽物か自らの誤認によるものであれば、
我々と対話を少しすると本当に意識の機能が変容していない方は見事にそれが明らかになってしまう事になります。

我等はスピ系では無い方法で至りましたと言う立場ですから、そのスピ系で至ったと言う自称覚者さんたち、
色々な人のために我等と少しここで話をしてみようではありませんか。

私もそのような自称覚者さんたちと実際に対話してみたいと思います。

どちらにしても、至っていない人たちの大いに力になれる対話になると思いますが、ただし、
いられたらの話しですが。(笑)

ま、いないでしょうけど、このように私がここで呼びかけるだけでも、誰もいないイコール、
スピ系がダメだという事のあかしに繋がって、途中の人の参考になりますね。

私は実際スピ系と言うのは学んでないので良くわかりませんが、
スピ系だったという至る前のラピ。さんを知っているので、
間接的に駄目な教えと位置づけているわけです。

私と至る前のスピ系ラピ。さんとの間では確か、
ラピ。さんはある程度悟りを達成できていると言う認識だったと思いますが、
私にしてみたら、ただの堕落して酔っぱらっている人でしかありませんでした。

酔っぱらって幸せな気分に浸っているというのと、酔いからさめて至った状態とは当たり前ですが違いますね。

精神世界知識を大量に詰め込んで、理解力でカバーできる範囲をうんと広げて、
我々の本当に至った者の変容したメンタルの状態を理解力と知識量で受け答えをして、
例えば自分と言うのは幻です、この世界には実態が無いんです、あなたは私ですとか、
自分は悟った者だとして言っている人、いますよね、これはもちろん本人の悟った至ったの誤認の典型例です。

至った我々は、「理解力」と表現できるようなマインドの次元のものなどないのです。
「理解力」をすっかり捨て去って、バカを極めると我々のようになるのです。
つまり、アプローチの位置づけとしても「理解力を増やすと言うのとは真逆」です。


中部経典 無畏王子経より

>「世尊よ、寸分違わない、鋭い答えでした。
>このような答えは、前から用意するのですか。
>どこまで用意すれば、こんな答えを出せるのか。」
>
> 「王子よ、本質を悟る者は、細部が分かる。
>すべてを用意しなくとも、真実を悟れば良い。
> 真実から辿れない、現実など無いと知りなさい。」

(続きます)

18 TK :2013/08/14(水) 11:14:30
(前の続きです)

ただ言える事は、マインドだエゴだといかにも駄目なもののように言いますが、現実には、
正しい方向でマインドにエゴに、これらを強める事でかなりの幸せを作り出すことが可能なのですから、
むしろ真逆に位置する悟りにはこだわらず、正しい方向でマインド、エゴを大いに強めて、
まず、幸せになれます、これをやってみて下さい。
強める限界まで来たら次に進めばいいわけで、まずは、マインド、エゴを正しい方向で強める事、
私はこれが、スピ系で出てくる「ワクワク」と言う教えに値するものだろうとして、
その「ワクワク」と言う教えを詳しく調べたわけではありませんが、
評価出来るものではないかとの位置づけをしています。

ただ、「ワクワク」で気を付けるのは「正しいと判断できる行為でワクワク」ここがポイントだと思います。
「正しくないと判断できる行為でのワクワク」は駄目です。
ただし、言っておきますが悟りに至る方法は「ワクワク」ではありません、
どちらかというと「ワクワク」とは反対の気分を味わってもらう事となります。


中部経典 無畏王子経より
>真実であって、かつ至福に役立つならば、相手が喜んで聞きたがらないような言葉でも如来は口にする。


「ワクワク」する事をやっていると言う意味では、「理解力」と「精神世間知識量」にものを言わせる、
誤認による自称覚者さん等も、こちらから見たら酔っ払いの集団にしか見えませんが、
それはそれでもまともなのかもしれませんね。
ただし、イエスからは怒られそうです。

マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」


スピ系というのは例えば、次のようなものの事を言うのでしょうか。

ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>すべてでひとつである。
>偶然というものはない。
>弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>与えたものが返ってくる。
>すべてのものは聖なるものである。
>人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
>どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。(現実は中立である)
>アファーメーション(確認する)


かなり、うさんくさい教えですね。
賢者とされる人とかぶるような言葉を巧みに取り入れながら、でたらめな編集をして、
結論として全く使い物にならない酔っぱらうには都合のいい内容です。

こんなものを良く広めるなと、感心します。

魔王サタン、天使の体裁をした悪魔の教えとでも言えばいいのか。

ご都合主義の、理論も何もわかりもしない者が、
賢者の吐き捨てた言葉の種々の階向けの内容をごちゃ混ぜに都合のいい部分のみを寄せ集め、
酔っぱらうための材料に使っていると言う内容です。これでは絶対に悟れません、断言します。

こんなものをベースとして構築された教えは、使い物にはなりません。

ただし、「ワクワク」は用い方を工夫すれば、良いですね。
スピ系でも良いものは良い、私はスピ系を全面否定したくて言っているわけではありません。

19 ラピ。 :2013/08/14(水) 12:55:26
師匠、書き込みありがとうございます。

私もスピ系を全否定してるわけではありません。
スピ系もとことんすれば得るものがあると思います。
(ちなみに私はとことんして、幻想に気づきました)

ただ、スピ系の知識(それが真実であるかは別として)があるだけで
すべてを知っていると思い、
その読んだだけの言葉をまるで自分の真実のように語る人に
違和感を感じています。

私もかつてスピ系どっぷりだったんですけどね、、、。

私もスピ系で覚醒したという人と対話してみたいものです。

あと、スピ系でなくても「悟っている」という人とも対話してみたいですね。

「悟りに至った方たちとの対話」というスレッドを作りました。

ぜひ、「悟った」という方、書き込みよろしくお願いします。

本物の対話をしましょう!
(*・ω・*)ポッ

20 TK :2013/08/17(土) 11:08:29
ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>すべてでひとつである。
>偶然というものはない。
>弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>与えたものが返ってくる。
>すべてのものは聖なるものである。
>人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
>どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。(現実は中立である)
>アファーメーション(確認する)

この教えの主だった使い物にならない個所を説明しますが、恐らく理論も何もわからない者の手による、
(エゴにとって)都合のいい部分のみのごちゃ混ぜの寄せ集めなのです。

聖典でも、賢者と言う人の言葉の中にも、
実践方法と達成した後の変化した楽な状態と両方の記述が出てくると思いますが、
この編集をした者たちは実践方法ではなく、賢者の言葉の達成した後の楽な状態の記述を拾っています。
例えば次のあたりです。

>すべてでひとつである。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。


>すべてでひとつである。

このような言葉を「自分」が消えていないスピ系と思われる方が、
酔って良い気分になって振り回しているのを見たことがありました。
しかし、これは達成した者にとっては「自分」が消えているので、一つなのであり、
聖典や賢者はこれは実践方法としてではなく、達成した後の状態として語っているはずです。

達成する前の者が、自分の遭遇する「現象」と「自分」を対等な位置においていたら、
いつまでも「自分」は無くなりませんので、実践方法としては「現象」にたいして「自分」の立ち位置は下なのです。
「すべてでひとつである。」この言葉は実践方法としての方便ではありません。


>しなければならないことというものはない。

これも達成した後の者はこのようになると言う事であって、達成前の者は、
戒律など守らなければならない実践方法を「自分のしなければならない事として」決めて
確実に実践しなければ辿りつけません。

(つづきます)

21 TK :2013/08/17(土) 11:09:04
(つづきです)

>善悪というものはない。

これも、以前、達成もしていない者が、酔っぱらって良い気分で、「善悪と言うものはない」と
この言葉を振り回しているのを見たことがあります。

しかし、これは厳密にいうと仏罰レベルの行為です、
釈迦の説いた善悪の相対を利用した実践法を無効にしてしまう、悪魔的な内容です。

ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

達成した後の状態として、同じ聖典の次の「善悪のはからいを捨てて、目ざめている人」の説明なのですが、
エゴに憑りつかれている者から、この達成した後の言葉だけが抜き取られたのです。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。


>信じる必要はない。

これも至った後の人の状態であり、これが至る前のスピ系かぶれらしき方の口から
自分が信じないための言い分けとして振り回せれていたように思います。
ちなみにラピ。さんは、「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」ので至れたのです。
至った後は「信じる」対象が無くなるので、「信じる」と言う行為そのものが無くなります。

参考までに次は聖典の至る前の人向けの実践方法の記述。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」


次は同じ聖典の信仰を激流を渡るための筏(イカダ)に譬えて、激流を渡ったから信仰(筏)を捨て去れと説いているのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


スピ系と思しき至ってもいない此の岸の者が「信じる必要はない」などと口にする事そのものが、
絶対に私は至れませんと言う証明のようなものであり、こちらからすると理論も何もわかっていない
彼らの態度は見るに忍びない。

>努力はしなくてもよい。

「無努力の境地」も、至った後の者の状態です。

スッタニパータ79
>努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。


聖典並び賢者の言葉をでたらめに拾い集めた結果、中には使えるものもあったとしても、
混ざりこんだ不純な部分が結果として、全体を全く何も使い物にならない内容にしてしまっているのです。
特に私が目にしたスピ系と思しき人たちは、私のここで取り上げた汚れた部分を教えとして
振り回す人を多く見たように思います。

このような言葉に振り回され続けた酔っ払いの方々、ご苦労様でした。
いつまでも寄り道して暇人そうに遊んでいないで、次に進んだ方が良いのかもしれませんよ。
真剣に求める人にとっては、この方々の取っている行為は迷惑千万なのです。

今は科学の時代ですから、昔に宗教と言う形で説かれていたものを、
同じ形ではなく「理論」で説かなければならない時代です。
これが言葉どおりの「ニューエイジ」「新しい時代」です。

>私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
>昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。
>
>苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。
>
>私の話しするのもこれだけです。
>
>全然変わってないですよね。
>
>そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。

22 ラピ。 :2013/08/17(土) 13:32:44
☆TK師

師匠のこの20、21の書き込みをブログにも転記させていただきました!
ありがとうございます!

http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1716.html


ブログからコピペです。↓


☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆


>ちなみにラピ。さんは、
「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」
ので至れたのです。

>至った後は「信じる」対象が無くなるので、
「信じる」と言う行為そのものが無くなります。


との師の言葉ですが全くその通りです。

私が最後、激流を渡る決心をして
(実はこれは勝手に決心しました)
5月12日の夜から激流に一人で飛び込みました。

そして13日のお昼に師あてにメールで
激流に飛び込んだことを報告し、
そのまま続けて激流へ。(=ひたすら実践)

その13日の晩に至ることができました。



まさしく師を信じて、覚悟の上でした。

未知の世界に渡るのだから
何も予想ができないのです。
保証もありません。

でも師を信じて行く決心をしました。

=ひたすら実践です。


その実践ができなくなるまで
なにがなんでも永遠にし続ける、という
最後の決心でした。


そして至ると、その激流を渡っている「自分」が消えるので
至ったことが師匠に言われなくてもわかりました。

そしてその実践は
本当に最後の実践となりました。


師匠を信じて渡り終えた後は
もう、「信じる」ものがなくなります。

これも師匠の言われている通りです。


私はすべてをなし終えて
至りました。

(*・ω・*)ポッ

23 TK :2013/08/19(月) 12:01:01
真実を教えてスピ系の人たちの少し頭を冷やしてもらいます。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、
>目ざめている人には、何も恐れることが無い。

このような至った人の記述の部分的なものだけを見て、エゴが喜んで「善悪というものはない。」
などの言葉を掴んだものと思いますが、いかに愚行だったかを教えます。

至った後の人の状態の記述は、実践法としては全く何も参考になりません。
なぜなら、「世の中で駄目な人」と位置づけられる人たちと全く同じ表現となります。

例えば次が至った人の状態ですが、世の中で怠惰な人と言われている状態ですねと言われれば、
誰も疑う余地もなくその通りなのです。

「私は頑張る事は無いんです。」

「努力なんてしません。」

「勤め励む事などいたしません。」

「一生懸命に仕事なんてしません。」

「物事に対する集中力なんてからっきしありません。」

「誠心誠意の心を込めた行為なんてしません。」

「善いことなんかしません。」

「人の為になど、何一つしません。」

「思いやりもこれっぽっちもありません。」

「車の運転の時は前をよく見て運転しません。」

「人から注意を受けても反省はこれっぽっちもしません。」

「人を敬う事などいたしません。」

 等々

世の中で悪い見本とされているそのままの表現ですね。
これが至った人の真実です。

しかし、良く見て下さい。
次の「何もできない」と言う表現にすべて一括りにされることを、
今ここで一例として具体的に列挙しただけですと言われて、改めて見ると初めてその通りだなって思うでしょ。


[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html

>この私はだれですか?
>
>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>
>何もできないのですが
>この私はなんですか?
>
>師匠、これはなんですか?
>
>と送りました。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より

>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

(続きます)

24 TK :2013/08/19(月) 12:01:37
(続きです)

為すべきことを為し終えた人の状態です。再び何かを為すという事はできません。
実際には表現にすると、至った人は怠惰な人と同じ表現になります。

でも、至る前の人があの人がそうなら私もそうしようと、真似してやったらバカですよ。
至った人は、実際は周りからは凄く働き者と評価されている行為をしていたり、
何かやれば職人芸ですねと評価されたり、思いやりがある方ですねと言われたり、これが現実です。

このパラドックスが、至った人は怠けている人と同じリラックス状態で、
自分のものでは無い行為のみが現れる、楽していい仕事ができる事の仕組みです。

だから、至った後の人のありさまの記述は、至る前の人には害にしかならない。
次のような言葉を拾い集め流布する事に加担した人たちは、バカなことしたと気づいて下さい。


ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%B8

>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。


怠けている人間の言葉そのものですね、こんな言葉拾ってスピ系とかニューエイジとか流布している人たち、
その人たちは世間に害(酔うための酒)をばら撒いているのです。
至ってもいない人たちがうかつに賢者の言葉に手を出しては間違った教相判釈を積み重ねている、それがスピ系と違いますか。


マタイの福音書 15章-14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

25 名無しさん :2013/08/19(月) 17:55:20
イエスの言う通り放っておこうと思います。

26 ラピ。 :2013/08/19(月) 19:50:54
☆名無しさん

書き込みありがとうございます!

(*・ω・*)ポッ

27 ラピ。 :2013/08/20(火) 23:08:42
☆TK師

私が至った時、はじめは「?」でした。
何が起こったのかわかりませんでした。

実践し続けてある時 すべてが止まったのです。
そしてまとわりつく何かが消えました。

実践していた私は実は本当の私ではなく
その偽の私が消えて、静寂が訪れました。

この静寂の空間と「私」が溶け合ってどれがどれだかで
訳が分かりませんでした。

かと言って混乱することはなく、
ただただその状態でいることしかできませんでした。

実践をしていた私は消えてしまいました。

実践し続けて気が付くと至ってました。

一生懸命実践していると思っていた私。
その幻の私が消えてしまった。

「私」は本当は何もしていなかった。

ただただ在るのみであった。

この静寂、この「私」についてうまく表現ができません。

それはなににも乱されることなく
ただただしずかです。

この真実の「私」はなにもすることなく、
ただ存在するのみ。

集中する対象がないから、集中できず、
でも集中を超えた効果をあげることができる。

良いとか悪いという相反するものを超えているので
その判断なく、適切な判断ができる。

この私は何もしていないけど勝手にできてしまう。

意図なく、勝手にできてしまう。

そんな感じですかね。

(*・ω・*)ポッ

28 TK :2013/08/21(水) 18:39:06
>私が至った時、はじめは「?」でした。

私もその時は「えっ?」てなりましたね。

それは予測もせずにやってくる、それまでは実践時の物凄い「意志力」で、
その調子で行こうとするのに「えっ?」「?」「んっ?」。
「思いが無い」「思おうとしているのに・・・」「できない」こんな感じでしたね。

それからは、ただ生きる事になった。
誰のためとか人のためとかそういうのは一切関係なく。
為すべきことは無し終えた、もはや再びこのような事は、無そうにも為すこともできなくなった、
という事が誰かから印可を受けるとか関係なく必然的に確定したんだ。

再び善行とか人のためとかやれと言われても逆立ちしてもできないのだから、
これが本当の「人のための行為の終了」と言う事なのです。

29 ラピ。 :2013/08/28(水) 14:19:38
☆TK師匠

はい!
私もまさしくそんな感じです。

師匠から 私が至る前にその状態の話は聞いてましたが
まだ至ってないときは単なる想像でしかなかった。

それを理解するためには
師と同じ次元に行かなくてはならない、と思いました。

そして今、まさしく師と同じところにいます!!

TK師匠、師匠の道がどんなもであったのか
可能なところまででいいですので
よかったら教えていただけますか?

いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

30 TK :2013/08/31(土) 11:52:32
私はたまに思う事があります。

何で科学者と言うそれで収入を得て職業にしている人たちがいるのに、
私が人類の最先端のメンタルのこのような話しをしているのだろうかと。

しかし、私が苦悩しているその時に科学者と言う人たちの言葉の中にも、
当然義務教育とか学校教育の中にも、その苦悩の解決の答えはありませんでした。

これは一般には広がり難い点を含んでいるからなのです。

もし、この内容を話しするための資格制度を設けるとしたら、
これは達した者しか話す事が出来ない内容なのです。

ルカの福音書 6章39-42
>イエスはまた一つのたとえを話された。「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。
>ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。
>
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。
>
>あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。
>
>自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、
>『兄弟、あなたの目のちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。
>まず自分の目から梁を採りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、
>取りのけることができるのです。


立場、職業関係なく、今この物質文明の行き止まりの問題点が、
感受性が鋭そうな人間に先にそれは到来するという事です。

私が苦悩した部分は、物質文明の中で「思いっきり」生きる事さえすれば、
当然に出てくる疑問の数々でした。

快を喜び不快を嫌う、その延長線上で幸せを追い求めたら、
やがて崖っぷちに立たされる。

その先を進む方法が快を喜ばず不快を喜ぶ、物質文明からその先に進む方法、
それがアセンションであり今は過渡期です。

私たちは低次元の固定観念に、そうとは知らずにはまっています。

例えば、皆さんが知らずに使っている、あの人に楽をさせてあげたい、とか、
これは表現を変えると「あの人に楽をさせてあげたい」は「あの人にエゴのままに生きさせてあげたい」
と言う言葉になるのです。我々に翻訳させるとその言葉の正体として生々しい言葉に早変わりしてしまいます。

「あの人を苦しませたくない」は「あの人にエゴのままに生きさせてあげたい」なのです。

快を喜び不快を嫌う、その延長線上で幸せを追い求めるこれが物質文明の正体でした。

(続きます)

31 TK :2013/08/31(土) 11:53:27
(続きです)

よくエゴは悪いものだと、固定観念があるかもしれませんが実際はそういう捉え方は的確ではありません。

実はエゴを正しい方向で強めて幸せを掴む事はある程度可能なのです。

悟りに到達した時の「何じゃこりゃ?何もできない」と言う現象は、
ある地点までは物凄く強固な意志力で激流を進んできて、
その地点に至るとそれまで唯一の頼りとしていた意志力がすっかりと消失してしまう事によります。

それで、意志を働かせようとしても空振りに終わってしまう、
それが悟りに到達した時の「何じゃこりゃ? 何もできない」と言う現象です。

よく悟った人はありのままに見えると言いますが、
これは悟った人の場合は意識の変容による、意志の力が消失することにより、
目の前の光景が開ける状態になる事を指します。

悟ってない人と悟った人では視覚情報が変わるのです。

悟った人の場合、意志の作用が働かないので、目の前の情報がそのままなのです。

悟ってない人の場合は視覚情報を取得する手段として、意志の力が作用しますから、
目の中に飛び込んできている視覚情報の中の見ようとして
意志を働かせているその一部分だけを認識として掴む形になります。

このようにそもそも視界の広さが違うのです。

これが剣禅一致の説明でよく取り上げられる、葉一枚に心を捉えられたら木全体は見えない、
という事の真の意味です。

これは視覚情報だけではなく、物事の捉え方そのものがそのように変容します、
これを意識の焦点機能の消滅と呼びます。

ただし、ある程度まではエゴを強化する事によって悟った人の視界の広さをエゴの人がカバーできます。

つまり、素早くあっちこっちキョロキョロと視点を変えてくまなく見る行為を続ける事によって、
ある程度視界の広さはカバーできます。

ただし、エゴを強化してカバーできる範囲には当然限界があります。

これは、ほんの一例ですがエゴを強める事によりある程度幸せを掴む事は可能なのです。

何も考えないで次から次へと行動のみが現れるゾーン、これも、
エゴを強化して次から次へと思考を速く回転させて行動すればそこそこ満足できる結果を得られます。

私はこれで過去とても幸せな時期を過ごしました。

私は幼いころはいじめられたりする事が多かったので、
私はいつも弱い者の見方だと言う思いが強かったのですが、
弱そうな立場の人を見ると手を差し伸べ、声をかけ、時には派閥を組んで一致団結し、
強そうな立場の者たちを引っ張って、
エゴの強さで困難を難なくクリアーして人から頼りにされながら、
思いっきり理想を実現しておりました。

私は正に弱きを助ける正義の味方で、
このようにエゴを強める事である程度まで凄く幸せな気分に浸る事が出来たのですが、
ただし、これをとことん精一杯やっていると、
やがてエゴを強める事ではどうしても進む事の出来ないとても困難な障害に突き当たり、
進める事の限界が来るのです。

その時に、色々右往左往苦悩と混乱が起き、
エゴを強て進める事のそれしか問題解決の手段を知らないその限界の中、
七転八倒の袋小路で、何かが自分には足りない事に気が付くがそれが何かわからないまま、
やがてもがく中で知らない内に運よくエゴを捨てる道を歩き始めていて、そして悟りに到達する。

それを境に、剣禅一致でいう所の禅の部分、すなわちメンタルが修得されたことにより、
あるがままの視界の広さや、それまで身に着けていた技術力、
人間の能力の出力もゾーンにより今までよりも数段上昇し、
エゴが無い(意志の働き消失)のでストレスや苦悩もなくなることになります。

新人類、これがアセンションです。

これは私が辿ってきた進み方ですが、ラピ。さんもおおよそそのような進み方をしてきているのです。

ラピ。さんと私の違いは、ラピ。さんは此の岸から彼岸にちらっと片足を突っ込んで、
そのまま直ぐに退転してしまいスピ系にはまって酔っぱらって寄り道をしたと言う点でした。

(続きます)

32 TK :2013/08/31(土) 11:54:11
(続きです)

悟りに向かうためには、「強固な意志の力」が不可欠の要素ですので、
意志の力とはエゴなのです、つまりエゴは正しい方向で強めておく必要があると思います。

弱い意志力では状況に流されてしまいます。つまり、カルマのままという事です。

このようなことから、エゴは強まり、どうにも進めなくなった天辺まできて、
それより先に進む事の出来ない苦悩と大混乱の末に、もがき苦しんで悟りが起きる。

ダンテス・ダイジと言う人が言ってましたが、社会もまったく同じにこの過程をたどる事になりますね。

アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジより

>あらゆる人間性内部のやりくりが、必然的限界に至らざるを得ないように、
>科学文明も明らかに限界に達している。


快を求めて不快を除き、自由と言う名でエゴを強めるこの物質文明も、
発展期において実に快適な天国的な様相を示した時期もあった事でしょう、
しかし、一人の人間の中でエゴの強まりにも限界があるように、
この社会もエゴを強めて解決できる限界に来ています。

社会の混乱は今後ますます強まって行く事でしょう、今起こっている経済、
国際紛争など様々な諸問題を、それをエゴを強める事によってエゴの力で解決しようと、
例えば武力行使などの力(エゴ)を手段にあの手この手、
迷路の中を人類は右往左往しながら、
エゴを強めてその力で解決できる限界の袋小路まで突き進み、
時には戦争や核兵器などをも駆使しながら、さらなる限界にまで突入していく、
それは正に悟った水準を上げた人たちの登場と言う以外に解決がないところまで追いつめられて、
もうお終いだと言う中から悟ったアセンションした人類が多数出現してくる、
このような筋書きで進むのが自然の進み方だと思います。

アセンションした人たちは、能力から視点から何から何まで、それまでの人より上ですから、
多数になれば、諸問題は解決されていくことでしょう。

これは不幸な世の中と捉えるより、
最初から仕組まれていると言ってもいいような当然の道筋だと私は思います。

(続きます)

33 TK :2013/08/31(土) 11:57:45
(続きです)

悟りは、快を喜ばず不快を喜ぶ、
物質文明の追ってきたそれとはまるで正反対の理論の中から出現します。

実はイエスは、このような社会の中のエゴの強まりの流れをつかんでいて話をしています。

イエス本人はユダヤ教のエッセネ派の人と言われていますが、旧約聖書には、
ノアやソドムとゴモラ等の繁栄と滅亡の社会を通したエゴの増大と滅亡の動きの話が出てきます。


>ノア
>(Noah)旧約聖書創世記の洪水伝説に出てくる人物の名。
>神が堕落した人類を滅ぼすために大洪水を起こしたとき、
>ノアだけは神の命令で箱(方)舟をつくり、家族や諸種の動物とともに難を免れた。

>ソドム
>(Sodom)「旧約聖書」の「創世記」に記されている地名。住民の不信仰、
>風紀の乱れがはなはだしかったために、
>ゴモラとともに神に滅ぼされて死海に没したという。

>ゴモラ
>(Gomorrah)「旧約聖書」の「創世記」にみえる地名。ヨルダンの低地、
>死海の南端付近にあったが、現在は湖中に没している。
>住民の不道徳な行為のため、ソドムとともに天の火によって焼き滅ぼされたと伝えられる。

Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988


ダンテス・ダイジ氏はアトランティスの繁栄と滅亡の話しをしてましたが、
だいたい現代の社会と同じ流れ、
すなわち文明のエゴは増大しやがて滅亡する流れを辿るのがこの地上の方程式であり定めです。

(続きです)

34 TK :2013/08/31(土) 11:58:30
(続きます)

マタイの福音書 5章21-22
>昔の人々に、『人を殺してはならない。
>人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、
>だれでもさばきを受けなければなりません。
>兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。
>また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。


これは過去の物質(物理的)時代からメンタル時代へ変遷したことの説明の一つです。


マタイの福音書 5章38-39
>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

『目には目で、歯には歯で』実はこれ、今で言えばアメリカなんです、
今はアメリカの時代ですから、やられたらやり返す、正義の名のもとに、
世界はこの方向で今に至っていますが、これがエゴ増殖の原理なのです。

「正義の名のもとに」、この方程式でエゴを強めて今に至っています。

社会の中の規制を外して一人一人の競争を強め、
これも「目には目」物質時代の発展期では功を奏でた手段だったことでしょう、
しかし、いまは天辺の限界近くまで行ったので行き詰まりました。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

これが、イエスの教え、つまり物質文明の天辺まで来たその先の進み方、
エゴを削る次元上昇するための原理なのです。


マタイの福音書 5章43-44
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』物質文明のエゴ増殖の発展の仕方は「正義の名のもとに」です。

このあたりはアメリカを想像して下さい。得意な言葉は「報復(正義の名のもとに)」です。

ただし、力(エゴ)を強める手段は途中は良くてやがて天辺まで行ったら袋小路に追い込まれる、
この地上世界の昔から定まっている決まり事なのです。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

イエスの話したこの方法が、物質文明のエゴ増殖の発展の末に天辺に至ったその先の進み方、
エゴを削るため原理、次元上昇のための手段です。

時勢(エゴ増殖)は煮詰まりつつあります、
この先の時代を進む方法はこれまでのエゴ増強ではだめです、アセンションなのです。

マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

私も他の方々も今このエゴ(物質)文明の記念すべき過渡期に縁があったという事です。

私やラピ。さんは一足お先にアセンションを果たしましたが、皆さん、
この時代に生を受け生きている事に喜んでアセンションしましょう。

35 ラピ。 :2013/09/01(日) 00:20:52
☆TK師

大変貴重なお話、ありがとうございました。

過去の酔っ払いの経験、活かしていきたいと思います。

もう、ブログでも何度かは表現していますが
過去の私のような人がいたら
何かを伝えることができるのではないかと思っています。

そしてその言葉はまさしく
過去の私に対して発する言葉でもあります。

@(*・ω・*)ポッ

36 TK :2013/09/01(日) 18:15:13
私は以前は今のアメリカのような生き方をしていました。

力こそ正義だ、力さえあれば弱い人たちでも強い者たちと同様に、
集団の中でも自分の理想を実現できるに違いない。このような理想の元に、
私は力の無いと思われる人たちに力添えしてこれを実現しておりました。

これも「人の為」と言う生き方の理論は入っているのです、
ですがなぜこれが私がここで説く「人のため」と言うものと違ってエゴが増強するかと言うと、
弱い立場と強い立場と言う相対の関係の中の、
強い者に挑んでいくと言う姿勢があるのです。つまり、戦いの世界、阿修羅の世界です。

「正義の名のもとに」戦う、聖戦、これも正に阿修羅の世界です。

今、社会はアメリカを初めこのような次元にありますね。

もちろん文明の発展段階としてこの戦い(競争)阿修羅の段階は必要なものであると私は思います。

これを充分にやったら次に進む、
その意味で「正義の名のもとに戦い」聖戦は決して文明の発展段階の途上としては間違っていない。

ひたすら「聖戦」を否定する人もいますが、
私は自分自身の今に至るまでの発展段階に照らし合わせると、
エゴを正しい方向で強めるために必要な過程であったと思いますので、
私は今の世の中のありさまを否定しません。

ただし、やがて行き詰る、社会も行き詰り、もがき苦しむ、そうしたら次が開く。

実は、ラピ。さんの「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」これは、
教えとしては完璧なのですが、
これが実践当初は劣った精度と低次元理解に基づく実践だった事により、
メンタル面の作用としては、理想的な生き方の要素が強くなり、
エゴを正しい方向で強める手段として作用した訳ですね。

したがって、やがて行き詰り、追い詰められて混乱に突入した。

悟りに至るためには、この過程の全てが絵に描いたようにヒットしていましたね。

実践方法については、ここでお話したように、ちょつとした僅かな実践上の違いで、
効果の仕方が変わったりする精密機械のような要素があるのです。

ですので、先にお話ししましたスピ系で賢者の吐き捨てた言葉をごちゃまぜに拾い集めた結果、
例えば9個の賢者の使える言葉があったとしても、
1個の不適切内容が混ざってしまう事により全体として全く使い物にならない、
ただの酔っ払いを多数製造する結果に至ります。

したがって、何度も話しますが、盲人が盲人の手引きはできない世界なのです。

(続きます)

37 TK :2013/09/01(日) 18:15:58
(続きです)

よくスピ系では、ただ内面を見守ってとか、そういう手段が多いですね、
しかし、釈迦、イエスは他者への率先した働きかけの教えが含まれています。

「隣人を愛せよ」とか「人の為」とか「善を為せ」など、これは道徳論ではないのですよ。
さらに「努力、我慢、忍耐」このようなことはスピ系にはあまり出てきません。

釈迦やイエスより優れた指導者がスピ系にいた結果、
スピ系では内容が変わったのでしょうか、しかしこれは否です。

「自分と他者」「善と悪」などの相対の原理と言うメンタル理論の上で
スピ系の教えが至るための方法論的に釈迦やイエスの教えに及んでいないのです。

「努力、我慢、忍耐」、このあたりも、どのような時にこのような感覚が発生して、
メンタルに対してどのような効果があるか、
スピ系はメンタルに及ぼす効果を理論的に何もわかっていないのです。

しかし、優秀なスポーツ選手が容易にゾーンに入れるメンタルの修得にあたっては、
大部分がこの辺りの影響です。


ラマナ・マハルシ - Wikipedia(2013年6月6日 (木) 08:33 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B7

>マハルシは、真我を悟るために、
>大部分の人は継続的に努力して修練する必要があると説いている。
>マハルシのように今世で修練なくして悟る魂は稀で、
>今世で悟ったものは肉体を去るまではプララーブダからくる、
>残りのヴァーサナが除去されない限りは完全にならないといわれている。


マハルシは修練なく至れた「今世の稀」と言う表現に属する人なのであって、
スピ系はマハルシが大部分の人に必要だとしている、
「継続的な努力と修練」のメンタルに及ぼすメカニズムを理論的に何もわかっていない遅れた教えです。

つまり、一言でいうと、スピ系はレベルとしては幼稚です。

真実をはっきり言いますが、
スピ系のあのような教えでは酔っ払いになるのが関の山で悟れはしない、
そんなに甘いものでは無い。

一方向だけからではなく、
様々な角度からアプローチをかける合理的な手段を取らなければ、
スピ系のような遅れた方法で至れるほどエゴはそんなにたやすく料理できるものではありません。

たまに至った賢者らしき人の教えを目にすることもありますが、
この辺りの方法論は釈迦やイエスの教えには及ばない部分を感じます。

現代のどんな賢者であろうと、釈迦やイエスと比較する自身、恐れ多いことですけどね。

アメリカの自由の女神も今のままのエゴ増強のシンボルとしての機能のままか、
それとも彼岸に至った「自由」のシンボルに昇格するか、過渡期ですね。

エゴは相対次元であり、エゴの自由は「不自由」と一対である、ですから、
「自由を排除」して「不自由を利用」する事でエゴを滅ぼした時には本当の「自由」が手に入るのです。

高いレベルの絶対的な自由を手に入れるためには、
低次元の「自由」は滅ぼさなければならないものの一つ、
これが滅ぼされなければ次は出てきません、
喜んでしがみついて追い求めてはならないものの一つなのです、
「不自由こそが」低次元の自由を滅ぼす「手段なのです」。

これからの進み方は今までの物質文明の時代とは違います、
これより先を進むためのアセンションのための理論ですから良く覚えておいてください。

38 ラピ。 :2013/09/01(日) 22:38:12
☆TK師匠

師匠、いつもありがとうございます。

それでは私の道についても少し詳しく書こうと思います。
今までも軽くは何度か書いてるとは思いますが。

内容は独特なので、読んでて「嫌だな」と思ったら読むのをやめてくださいね。

私の最初の「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」の実践は
それまで我がままに生きていた自分を反省し、
「そういう私はどう生きたらいいか?」と問うた時に得た答えでした。

実はこの実践が「自分」を守ってくれる実践であることも気づいてました。
だからとことん実践できました。素直に自分を捨てることができました。
あとはひたすら実践でした。

この実践は「自分を信じて実践」とも言えました。
自分を信じて実践し続けました。
だから実践を続けることは「自分を信じ続ける」ことになりました。

「自分を信じ続ける」ことによって「自分」というエゴが増強されていきます。

この実践の意味も知らず
ひたすら「そうするべきだ。それ以外の生き方はできない」と実践しました。

そう生きていると、「ぼー」っとした生き方はできません。
そしてもう前の行き方には戻れませんでした。

それまで無意識に好き放題に生きてたことが
どんな風だったのか、わからなくなったからです。

その実践をする前の生き方にはもう戻れませんでした。

なので、もう進むしかありませんでした。
かといって辛いわけではなかったです。

ただ、人となじめない感じはあったかもしれません。
そんな生き方をしている人は少ない。
普通の人は嫌なものは嫌だと顔に出したり、嫌ならしなかったり。
でも そういうある意味自分の感情に正直な生き方が私にはできなくなりました。

というか、自分のその時の感情がどうなのかもわからなくなっていたかも。
感情すら捨てての実践ですから。

ここがメンタルの鍛錬につながっていたのかもしれません。
勝手にそういう道を歩いていたようです。

私が高校のときに言われた最高のほめ言葉があります。
「いいなぁ。悩みなさそうで。」これです。

そう言われてみれば意思をほとんど実践に使っていたので
悩む時間(意思)はあまりなかったですね。
かといって悩んでいなかったとは言えないかもだけど
そう友達に見えたということは、私の実践はある程度成功していたのだと思います。

そして大学生になっても変わらず実践。

そしてこの実践をしていて ついに師匠のいわれているとおり
行き詰まってしまい、どうしようもなくなります。

その生き方を否定される出来事が起こったのでした。

自分そのものが否定された感じでした。

私はその生き方で生きていたので
その生き方を否定されたら、どう生きていけばいいのでしょう?

大げさかもしれませんが私はそれほど自分を信じてとことんやっていました。

とことんやっていたからこそ その否定された出来事は
私の人生そのものを否定することなり、
私はどう生きていけばいいかわからなくなりました。

その実践が自分の生きている証のようなものだったのですから
もう生きてはいけないでしょう?

自分を信じての実践=エゴを信じての実践。
そのエゴを否定される出来事が起こってしまった。

、、大げさですね。でもそのときの私にとってはそうだったのです。

自分が信じられなくなり、普通の生活ができなくなってしまった。

どう笑っていたかも、どう動いてたかもわからなくなってしまった。

何を元に私は生きたらいいのかわからなかった。
(エゴの次元では 生きるために生きる理由が必要だったりします。)

続きます。

39 ラピ。 :2013/09/01(日) 22:39:24
38の続きです。


そこで第二の実践に出会います。
もう何もなかったので 次にこの実践が次の私の生き方そのものとなります。

ちなみにこの実践中もそれまで普通に考えなくてもできていたことが
できなくなっていました。
常に意図的にやっていくしかなかった。

今まで(習慣のように)当たり前にしていたことを
すべて自分の意思でしていくしかなかった。

とことん意思を振り絞っての毎日でした。

ちなみにこの実践は「能力開発」の目的で始めました。

自分の生きている意味がほしかったのでしょう。

それまでの「喜んで」の実践は自分を信じての実践でした。
第2の実践の頃は自分を信じることがほとんどできなくなってました。
でも、でも、今思い出すとやっぱり自分を信じていたからこそできた。

ほんの一ミリの自分を信じる気持ち。
どんなに否定されても残っているそのひとかけら。
ひとかけら、それだけでいい。
「私がやらなくて、誰がやる。私は私からは逃げられないのだ」
というもう逃げ場がない状態で
そのひとかけらの信念がなにがあっても実践を続けさせてくれた。

このひとかけらのエゴが私を助けてくれた。

そしてどんなときも実践でした。まさしく寝てるとき以外は何が何でも実践。

実践を忘れそうになったらすぐに意識を切り替えて実践。

息をすることと同じくらい、ひたすら実践でした。
息をするのをやめたら死んでしまうでしょう?
私にとってこの実践をやめることは「生きていけないこと=死んでしまうこと」と同じでした。

生きるために実践したのです。

(ちなみにこの実践の内容は私からはお伝えすることはできません。
かといってこの実践の情報は巷でも普通に手に入れられるものです。
普通の能力開発の実践だと思ってください。

ただ何が違うのかというと、それを中途半端に実践するか、とことん実践するか、それだけです。

ポイントはどんな実践も「とことん」することです。
そうすれば必ず得るものがあります。
中途半端では空振りで何も得るものはないでしょう。

どんなすばらしい教えも、実践しないと意味がない。
そしてどんな勘違いした実践でも自分が正しいと思ったらとことんしてみることです。
とりあえず実践です。)

私はもう、ある意味、命がかかっていたので進むしかなかった。
(ここで言ってる「命」もある意味エゴのことです。
それがなければ生きていけないなんて、至ってしまえばそういうことはありません)

だからその実践ができたのだと思います。

私はかなり、厳しい道を歩いてきました。

でも嫌々、仕方なく通ってきたのではなくて私にとっては
「その道しかなかった」のでした。

それ以外の道はないので何があってもいくしかなかったのでした。

そしてさらにこの第2の実践も行き詰まりをむかえます。

ある意味、ここで第2の実践もできなくなりました。
したくてもできない状態です。
もうできなくなってしまったんです。

実際、第4の実践のときにこの第2の実践の経験を生かしてはいますが
まったく同じには実践できていません。
でも工夫してポイントをずらして実践しました。

でも、このときは自我がなくなることはありませんでした。

実はさらにそのまま行けば消えてたのかも知れない。

でも、私をこの世界に踏みとどまらせたものがありました。


続きます。

40 ラピ。 :2013/09/01(日) 22:40:23
39の続きです。


それがこの世界での普通の幸せです。

今まで実践し続けたことは終えて
「もういいやろ。十分」という自分がいました。

だからもう、後はこの世界でみんなと一緒に普通に笑ったり泣いたり
普通に幸せになりたい、という気持ちでした。

だから必死に此岸に戻ってきました。

人間らしく生きたい。

悩みがあっても泣いてもそんな人生もいいじゃないか。
普通の人間になりたい。そう思って帰ってきました。

「神様、もう許して。もういいじゃない。」

そして今度は「絶対的幸せを求めることになります」
第3の実践です。

ここで矛盾を感じる方もいるかもしれません。

でも私は大真面目でした。

人並みの幸せでいいと思いながら絶対的幸せを求める道を歩き始めます。
人並みの幸せこそが最高の幸せではないのかと思っていました。

ちなみに私にとってこのころの憧れの幸せは
みんなと冗談言って笑ったり、カフェでお茶したり、
おでかけしたり、おしゃれを楽しんだり
という普通の女性の生き方でした。

女性の読む雑誌などもまともに読んだことがなかった。
(占いの本は好きでしたが)

おしゃれな雑誌、きらきら輝いている女性、
私、そういう風にいきたいと思い、そう生きていくことにしました。
そしてもちろんそうであるよう生活していました。

でも実は無理やりそういうことに興味を持つようにしてました。
みんなが普通に経験してることに憧れていたのですね。
そしてみんな普通に幸せに生きていると思ってました。
私にはその普通の幸せがない、と思ってたので
そういう一般的に「楽しい」と言われていることを片っ端からやっていきました。
実は無理やりそうしていました。
一般的に「楽しい」と言われていること、それを経験するように日々をすごしました。

「これが楽しいことなんだ!」と自分に言い聞かせながらしていたかもしれません。

それと同時に、「絶対的幸せ」への思いも強くなります。
やっぱり私の根本的課題なのでしょうね。

この人間らしい幸せに絶対的幸せが必ずあると思ってました。
まさしく自分がいるこの世界に「絶対的幸せがある」と思ってました。

ここでの「人間らしい幸せ」も「絶対的幸せ」も此岸のレベルでの話です。
此岸の人が表現することは此岸レベルです、どうやっても。

今の私の状況は、
かつての私が思い描いていた幸せとはまったく違ってます。

だからまだ至ってないときに想像する幸せはどう考えても
その次元どまりでしか思い描けないのです。

更なる次元の幸せは、そこに至ってない人には想像できないのです。

だからまだ至ってない人が至っている状態をどんなに想像しても
まったく真実とは異なったものになるでしょう。

この至った状態を知りたいのなら至るしかありません。

次元上昇しかありません。

至ってない人が至った状態を想像しても
それはまったく間違ったものになってしまいます。残念ですが。無駄です。

私が両方を経験してますので断言できます。

そしてその想像を伝えることは
間違いを伝えてしまうことになります。

ちなみに こういう想像をある程度有名な人がもっともらしく言うと、
多くの人に間違った影響を与えてしまうのでやめてほしいです。

私はかつては「絶対的幸せならこういう感じだろう」というのを
ブログに書いてましたが
これもまったく見当違いのものでしかなかった。

その次元どまりのたんなる妄想でしかなかった。
真実ではなかった。

真実を語りたいのなら真実になるしかない。

真実になってない人が真実は語れません。

そして師匠に出会います。
師の元に行く決心をし、第4の実践へ。

これは第2の実践の経験が役に立っています。
第2の状態を思い起こし、さらに実践しました。

彼岸へあと少し。

そのあと少しが次元が違うので、だからまったく違う。
距離としては短くても目の前に大きな激流があるので
大きな大きな大きな隔たりがあります。

そこをわたらなければ目の前の彼岸に渡ることはできません。

私は彼岸を知りながらも至れないでいました。

知っていてもそのものになっていないからまったく問題外なのです。
だから「かつては彼岸に渡りかけたんだ!彼岸を知っているんだ!」
と言ったとしても 渡り終えてなければ
「だからそれがどうした?」ということになってしまいます。

彼岸を少し経験していても
まだ此岸にいるのなら彼岸を語ることは間違いを語ることになります。

@(*・ω・*)ポッ

41 TK :2013/09/14(土) 12:52:39
ワクワクの教えについては、私自身はあの教えより上の存在ですので、
一応お話だけしておきますが、
我々から見たらバシャール星人はワクワクするしないに縛られた不自由極まりない世界の生き物なのです、
私はそういうものを超えた自由を得ている、その次元より上の次元にいます。

皆さんのあこがれのバシャール星人を見下すようで悪いのですが事実です。

ただ、ワクワクの教えはスピ系の中では良い教えだと思います。

スピ系には珍しい積極性の教えですし、
エゴのままに思いっきり生きる事は人間として必要なプロセスだと思います。

それをしないで、スピ系だの悟りだのと言っても、その人たちはやはり駄目ですね、
最後まで酔っ払いのままで一生を終えるのだと思います。

ただ、ワクワクをやるのなら、正しく実践、つまり、
他のスピ系の教えと一緒には食べ合わせをしないという事です。

ごちゃ混ぜで食べるとその人は死ぬ最後まで酔っ払いのままで生涯を終える可能性が高いのです。

色々なもののごちゃまぜではなくて、ちゃんとした教相判釈(順序立て)をして下さい、
手を抜けばいいと言うものではありません、怠惰になるのもいい加減になさいと言う所です。

以前の私が今で言うワクワクの実践をそのままやってましたから、
この実践の重要性は良くわかります。

ただし、思いっきりやればこの物質世界ではやがて行き止まります。

私が思うに、バシャール星人の世界は、私たちの世界と根本的な部分で相違があります。

ですから、バシャール星人が言う事がそのまま私達には当てはまらな部分があると思えます。

我々の環境よりワクワク(思い)を通せるバシャール星人の方が良い環境に見えますか、
ところがどっこい、
実はバシャール星人よりこの我々の環境の方が高次元にアセンションするための
要素がそろっているアセンションするためには遥かに優れた環境なのです。

だから私もワクワクするしないの不自由な世界より上の次元にアセンションして、
バシャール星人を超えてしまいましたよね。

私の方がワクワク星人より上なのですから、
反対にワクワク星人に教えを説ける立場なのですが、実は説ける教えは、
どうぞ、ワクワク星で天寿を迎えたら次は我々の環境に転生してきて下さい、
ここにはあなたたちバシャール星人の環境では得られない、
さらに高次元に行く事が出来る優れた環境が整っているのですと言う教えになると思います。

(続きます)

42 TK :2013/09/14(土) 12:53:19
(続きです)

私が思う所に間違いが無ければ、恐らくバシャール星人の環境では、
私の所までアセンションすることは不可能です。

つまり、ずっとワクワクするしないに縛られたままの環境と言うわけです。

我々の住む物質世界の顕著な特性は、
「思いが実現しにくい」と言う点に尽きるのですが、
例えばこの物質世界の人間も死んで肉体を離れてアストラルに入ってしまうと、
思いは即実現のような思いの実現率の高い世界に入ってしまうのです。

これと同じ事で、
恐らくバシャール星人の住む環境は我々の住む物質世界より思いの実現率が高い世界のように思われます。

例えば我々の物質世界であれば、思いを伝える主な手段として、
まず話そうと思い、物質的な声帯を動かして空気を振動させ、
更に離れている人であれば電話機などの機械を利用してようやく対話して相手に思いを伝える事が出来る、
これが我々の住む思いが実現しにくい物質世界なのですが、
例えば我々も死後多くの人はアストラルへ行きますが、
ワクワク星も同様に思いが実現しやすい世界では、
思っただけでテレパシーのように相手に思いが伝わってしまうような状況になるのです。

思いが実現しにくいと言う特性を持つこの物質世界に対して、
恐らくワクワク星の環境はアストラルの世界のように、
思いの実現率が高い環境だと思われます。

ですから、ひとたびワクワクしたことをし始めれば、ほとんど障害無く、
そのワクワクのままでずっと進んでいけるのではないのでしょうか。

あるいは、今の我々の世界を物質文明の末期とすれば、
物質文明の発展期のようなワクワクをそのままずっとしていけるような環境か。

アセンションのための重要な環境は、
この物質世界の「思いが実現しにくい」と言う特性の部分にあるのです。

この物質世界の実践では「思いが実現しにくい」と言う物質世界の特性を有効に利用する事によって、
「思い」から離れる事で達成できるのです。

例えばアストラルのような思っただけで相手に思いが伝わってしまったり即実現する世界、
あるいはバシャール星人の環境のような思いの実現率の高い環境では、
「思い」から離れるための実践は不可能なのです。

このような環境ではさらなる高次元へのアセンションは逆立ちしても不可能です。

ですから、昔から、人間はより高次元にアセンションする事が良しとされるが、
反対に天の神々は、
さらなる高次元にアセンションを果たすためにこの物質世界に転生して思いが
実現しにくいと言う特性を充分に生かして「思い」からの解脱を果たし、
より高次元へのアプローチを試みるのだと言われていますね。


如是語経
> このように聞いて、ある比丘は世尊に次のように申し上げた。
> 「尊き師よ、諸天神にとってよい境涯へ往く、と言われるのは、一体いかなることでしょうか。
>また、尊き師よ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるのはいかなることなのでしょうか。
>さらに、尊き師よ、諸天神にとって、きちんと安定した、と言われるのは、どのようなことでしょうか」
>
> 「比丘たちよ、人間の状態こそが、諸天神にとって善い境涯へ行く、と言われるものである。
>また、人間となって、
>真理の体現者が説いた教えと僧団の規定とに信仰を得るならば、これが、
>比丘たちよ、諸天神にとって善い所得を得る、と言われるものである。

(続きます)

43 TK :2013/09/14(土) 12:53:58
(続きです)

この我々の住む物質世界はバシャール星人とは比較にならないほど、
高次元にアセンション出来るための環境が整っているのです。

実は私はチャネリングの事を、イタコと呼んでましたが、
この行為は低次元に人間を縛り付けるクソくだらないものの一つという事を知ってましたので、
ラピ。さんにはそれを魔境だから無視しなさいと教えました。

低次元の教えはチャネリングで手に入れられると思いますし、
実は私自身がワクワクの実践に入る時にはチャネリングに近い手段(私は霊視、霊聴と呼んでおりました)で
教えを取得いたしまして、当時はとても高貴な教えに思えておりましたが、
それがほとんどワクワクに近い教えで、生きがいも感じてうまく行っていたのですが、
やがてものの見事にぶつかりました。

本当のアセンションするための高次元の教えは聖典から手に入れたのです。

自分がいて高次元の意識体がいてパイプ繋げて、これやっているうちはその人は低次元のままです、
これ偶像崇拝の一種です、そのパイプを有難がってすがっている人間は駄目です、それまでです、
釈迦やイエスの教えはこの手の類の全てのパイプを捨て去りなさいと言う教えなのです。

自分の外にはそれは無いのです、自分の外とパイプ繋げて、自惚れて、
世間に害をたれまくって、その人たちはいい加減に目を覚ましたらどうでしょう。


ルカの福音書17・21
>『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。
>いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

最終的には釈迦もイエスも捨てて行かなければならない、そしてそれがその人たちの教えなのです。

優れた教えがあるのは、人間の覚者の説いた教えの中にあるのです。

正しい教相判釈の元に順序だって進む事には価値がありますが、
ごちゃ混ぜは駄目です、死ぬまで酔っ払いのままで行きたいですか。

(続きます)

44 TK :2013/09/14(土) 12:54:34
(続きです)

なぜ物質世界は素晴らしいのかと言うと、
我々が実践できる環境が整っているだけじゃない、
高次元にアセンションするための賢者の教えが手に入れられやすい。

賢者は死後物質的な肉体を離れたら、別次元に行くのですよ、ところが、
賢者も物質的な肉体を持つ上では、
どんな低次元の者とも容易に接触し言葉や文字などの物質的な伝達手段を通して交流が容易ですよね。

例えば我々も釈迦やイエスから直接の言葉では無くて、
その賢者たちが物質的な肉体をまとって生きていた時に残した言葉、
即ち聖典を通してその人たちの言葉に触れる事が容易に可能です。

私も肉体がある上では、
たとえ地獄に落ちる定めの人とも同じ環境で過ごしていますし、
この物質世界と言う所は異次元の者どおしの交流が容易なのです。


アメジスト・タブレット・プロローグ ダンテス・ダイジより

>人間の側から見れば、
>覚者と凡人の差異は、
>海の大波と小波程度のものにすぎない。
>霊の側から見れば、
>覚者と凡人との差異は
>月とスッポン以上のものではあるが、
>覚者の側から見れば、
>覚者と凡人の差異なぞ
>あったためしがない。


高次元の手掛かりが無ければ、
低次元の者がアセンションすることは不可能なのです。

ルカの福音書 6章-40
>弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。

マタイの福音書 7章16-18
>あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、
>いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
>同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
>良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。


その意味で我々の住む物質世界は、
バシャール星人よりより高次元にアセンションするには遥かに特化した環境なのです。

とにかくまずは、思いっきりワクワクを実行してく見て下さい、
バシャール星人のアセンションの為には劣った環境とは違って、
直ぐにワクワク(思い)通りにはいかない、
この物質世界特有の特性にぶつかる事が出来ますから。

そこまできてようやく、
この物質世界の賢者である釈迦やイエスの教えの扉を開く位置に立てるのです。

この相対次元の物質世界では、ワクワクする事を選択するという事は、
同時にワクワクしない事から逃げることを指しています。

ですから、この物質世界ではワクワク(思い)は直ぐに袋小路に追い込まれ、
その後の教え、
ワクワクしない事に対して「意識的に無理やり」ワクワクして(喜んで)実行する、
釈迦やイエスの教えが出てくるのです。

バシャール星人と釈迦やイエスの教えの違いは、
バシャール星人がワクワクすることをしなさい、と言う事に対して、
釈迦やイエスの教えはワクワクする事を実行する事は誰にでも出来る事なので、
ワクワクしない出来事に対して「意識的に無理やり」ワクワクして(喜んで)実行しなさいと言う教えになります。

つまり、釈迦やイエスはバシャール星人の次元を超えるための教えなのです。

次の聖典のあたりがそれを表現をやや変えて現わしているものになります。

マタイの福音書 5章43-47
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
>
>それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
>天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、
>正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
>
>自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
>取税人でも、同じことをしているではありませんか。
>
>また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、
>どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。

思いっきり生きない人には、何一つ起きる事はありません。

今この世界こそが、バシャール星人が背伸びをしても手に入れられない、
この物質世界特有のアセンションするための特化した優れた環境なのです。

みなさんでバシャール星人を超えましょう、
せっかく思い(ワクワク)の実現しにくい物質世界に生を受けたのですから。

45 ラピ。 :2013/09/15(日) 06:07:51
☆T師

いつもありがとうございます!

みなさん、この師の書き込みに質問などがあったら
ぜひ書き込みください!

歓迎します!

@(*・ω・*)ポッ

46 TK :2013/09/16(月) 18:04:40
バーナーデット・ロバーツの著書で「神はいずこに」と言う書籍があります。

この人はカトリックの家庭に育った人ですね。

実はこの人の話は、
今私がこの書き込みをしている意識状態より先の段階の事まで書かれています。

真剣に真剣に神を信じ、実践をし、
やがて私が「神の国(彼岸)」とよんでいる段階にたどり着きます。

実は、この段階では自分の前から神が消えるのです。

私も誰にも負けない神の信仰の実践をしておりましたが、
ある段階で私の前から神が消えました。

私は神の実践を止めたのではありません、
神が消えたので実践が不可能となったのです。

まだ、やれるのならやるのですが、
逆立ちしてお願いされても私の意識状態では不可能なのです。

これが本来の実践の意図している成就としての成果なのです。

この「信仰の対象を含むあらゆる対象の消滅」という意識変容の状況を、
私がまっとうに受け入れられたのは、
釈迦の教えを併用していたことによるものです。

実は、あの有名なマザーテレサもこの状態にあったと言われています。

マザーテレサほどになれば、当然に当たり前の事なのです。

この方も釈迦の知識があれば、もっと気分的には救われてました。

実はイエスの教えはこの状態にたどり着く為のものだったのですから。

マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す 写真5枚 国際ニュース AFPBB Newsより
http://www.afpbb.com/article/life-culture/religion/2272720/2044213

>数ある手紙の中の一通は、
>1979年に親友のMichael Van Der Peet牧師にあてたもので、文中には、
>「あなたはイエスの愛を受けている。わたしはといえば、
>むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、
>聞こうとしても何も聞こえない」と書かれている。

中 略

>「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、
>むなしさと闇しか見あたらない。神よ、
>このえたいの知れない痛みがどれだけつらいことか」と問いかけている。

中 略

>「貧民街の聖女」としても知られるマザー・テレサは、
>若年期にはイエス・キリストの啓示を受けていたとされるが、
>公の場での表情に反し、新たに明らかになった手紙の内容からは、
>彼女が亡くなるまでの50年以上を、
>神の存在を確信できないまま過ごしていたことがわかる。

(続きます)

47 TK :2013/09/16(月) 18:05:14
(続きです)

バーナーデット・ロバーツは著書の中で、次のように説明しています。

>キリスト教では、このプロセス全体は「変容的合一」と呼ばれています。

中 略

>そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「在る」と言う感覚があるだけです。


真剣な信仰を実践すればするほど、自分の前から神が消える段階に入ります。

それが、実践の本当の意図している成果だからです。

私の言葉で書くより、バーナーデット・ロバーツの言葉をそのまま引用します。

なぜなら、私だけがこのように話しをしているのではない事が、
まだ至っていない人の誰が言っている事が本当なのかの判断基準になったりすると思われるからです。

人間の寿命など短い、どうせ一刻一刻、寿命を削りながら生きているのなら、
正師のもとで正しい実践を少しでも多くやった方が得策と言う物ですね、
そのためにあえて、この人の文章を引用します。


>ここで注意すべきなのは、自我が脱落するまでは、
>私たちが知っている最も深い、
>最も神聖な自己は「自我-自己(自我という自己)ego-self」である、
>ということです。私たちは、自我がなくなった後になって初めて、
>自我が本当は何であったかを知ります。
>
>それまで「自己の中心」であった自我は、虚偽でも悪でも、また、
>必ずしも利己的というわけでもありません。それどころか、神を体験し、
>神と聖なる生への探求に全力を注がせたのは、この自我でした。
>
>自我が偽りのものになるのは、神を拒絶し、自我にのみ執着するときです。
>
>私の場合、旅の初期には、後に「自我」だったとわかるものを、
>「本当の自己」あるいは「真の自己」(表面的な自己に対するものとしての)と呼んでいました。
>
>脱落以前には、これが私の知っている最も深い自己であったからです。
>
>この「最も深い自己」が脱落する事があるとは、
>一瞬たりとも考えたことがありませんでした。けれども、魂の暗夜の中では、
>この自我という中枢が脱落すると─それが神に結びついていたものですから
>─神の体験もすべてなくなってしまいます。すると、
>まるで神がいなくなったように思われ、まず、
>なんとかして神を見つけようとします。
>
>私たちは神においてしか真の自己を見出せないことを知っているからです。
>
>「霊魂の受動的な暗夜」すなわち「自我中枢の脱落」は、
>自分自身の中に空虚と空洞を見る恐ろしい体験です。神もなく、
>深奥の自己もなく、
>あたかも自分の存在の中心が突然消え失せてしまったかのように、
>まったくの暗闇の中に、取り残されるのです。

(続きます)

48 TK :2013/09/16(月) 18:06:01
(続きです)


やがてこの状況に順応してくると、これが神との合一状態であることが見えてくるのです。


「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>そこでは、神と自己との区別がない、ただひとつの「在る」と言う感覚があるだけです。



そして、自分の内側が滅びて無くなりますので、やがて信仰の生活から信仰の無い生活に戻るのです。


「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>そこで、今度は世俗の現実世界へと戻る旅になります。最初は内へ向かう旅でしたが、一転して、外へ向かう旅が始まるのです。




この辺りは実は釈迦も話をしています。

釈迦は「信仰」をイカダに譬えて激流を渡り終えたら手放しなさい、
捨て去りなさいと教えているのです。

ただし私は言います、それが的を得た本当の教えなら、
マザーテレサやバーナーデット・ロバーツのように神への信仰不能と言う意識変容(対象の消滅)で
終了を迎えるので、信仰の実践を捨てるな手放すなと教えます。

私も実践できるのなら実践するのですが、
このような信仰が持とうにも持てない意識変容(信仰対象を含むすべての対象の消滅)
の状態になるなど実践中は夢にも思いませんでした。

私の前から、信仰の対象である「神」が消え去ることなど夢にも思いませんでした。


スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ1082
>師(ブッダ)は答えた、
> 「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
>この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
>また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、
>心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


相応部経典9-10-4〜5
>「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
> 真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
> 〔修行僧いわく、―〕
> 「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
>いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
>すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」



なお、私もイエスから次の承認を受けた者ですので、
エゴが異論を唱えたくてうずうずする者がいるとしてもこの件に関しての反論は許されないことなのでお断りだけしておきます。
(それとも偽キリストになりたいですか。)

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。

(続きます)

49 TK :2013/09/16(月) 18:10:49
(続きです)

「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>その自己は、見返りを求めずに、絶えず与え続けることができます。それは自己満足のない生活です。
>
>しかし、ひとたび自己を超えたなら、もはや聖なるものはあり得ません。
>
>なぜなら、そこにはもはや与えるものも与える主体も存在しないからです。
>
> 合一生活の成就はめったに起こらないと言われてきました。
>
>しかし、恩寵を信頼する人とって、合一生活は予期されるべき当然の目標であり、
>献身が十分であればかなりすみやかに達成されるものです。


スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。


なすべきことをなす実践の成就した先の段階として、
なすべきことをなしおえたという段階があるのですから、
なすべきことをなす、いわゆる途上の段階の人は、
素直にまだ至っていないその事実を認めた方が得策であると私は思います。

なすべきことをなす段階の人は、行為の全てが神への奉仕の実践であったとしても、
これが成就出来て、なすべきことをなしおえた段階に進むと、
信仰対象である神が目の前から消えるのですから、
神への奉仕の実践はなすべきことをなしおえた、
すなわち成就なのです、もはや再びこのような神を想定した実践を行う事は出来ません。

これで嘆いたのがマザーテレサだったのでしょうか、釈迦が生きていれば、
嘆かなくてすみましたね。マザーテレサほどの信仰のあつい人なら、
当然にたどり着ける「合一」の境地だったのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

50 ラピ。 :2013/09/16(月) 21:53:15
☆TK師

師匠、「神」についてのお話、ありがとうございます。

マザーテレサの話やバーナーデット・ロバーツの具体的な話(言葉)、
知りませんでした。

なるほど、、、、。

私も今の状態で「神」という言葉は使えません。
信仰する、信じるもの(対象)がありません。
なにもありません。

それそのものです。
行動を伴わずそれそのものなんです。

私の経験を思い出すと、至ったとわかったのは
行動している自分が消えたことによるものでした。
いなくなってしまった。

思いっきり実践をしていて、ふと実践ができなくなる。
なんていうのかな。
すべてが止まったような感じかな。
「なんじゃこりゃ?」という状況になりました。

はじめは何がなんだかわかりませんでした。

でも考えようとしてもできません。
ただただそうあるのみ。
「これは何?」

そしてその後、その状況がそうであることがわかりました。

師匠、ありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

51 TK :2013/09/19(木) 00:23:00
自らの誤認による覚者について話しましたが、
実は実践者と名乗るエセ実践者と言うのも多いのです。

ネット上はエセ実践者は多くいました。

ちなみに、私は元実践者ではありましたが「現実践者ではありません」。

実践修了者ではありますが、「現実践者ではありません」。

正確には、実践者になりたくても、もう、なれないのです。

なすべきことをなしおえた、という事は、変容してしまったこの意識状態の元では、
実践はしたくてもできない、終わってしまったのです。

それは、「対象の消滅」と言う形で実践の終了を迎えました。

釈迦にしてもイエスにしても実践とは「対象」に向かって取り組むと言う仕組みに作られているので、
「意識の変容による対象の消滅」が起きてしまうと、
私は一般の人と同じ意識状態ではありませんが、
この意識状態では「対象」に取り組むと言う原理で構成されている実践は逆立ちしてもできません。

もちろん、生きているうちは、見かけ上そうでない人と何ら変わりないのですが、
死んで肉体を去った後は全く違うのです。

私は実践者ではありませんので、他者に向かってあいつは私より遥かに劣っている、
あいつは低次元だとか、あいつはバカ者だとか何でも言えます。

エセではない本当の実践者はこのような事は言ってはならないのですが、
何度も繰り返しますが私は実践者ではありません。

ですから、エセ実践者と呼ばれることもありません。

本物の「実践者ではない者」です。

他所の掲示板でも私がここまで宣言しているにもかかわらず、
あなたは囚われているとか、それは実践者としては間違っているとか、だから、
私は実践者ではないと初めから何度も言っているでしょと何度も断っているのですが、
それでもこのような頓珍漢な言葉をぶつけてくるエセ実践者がネット上には多くいました。

なぜ、この者たちを私がエセ実践者と呼ぶかと言うと、
私が実践者であろうがなかろうが、
その者が実践者であることと何ら関係の無いことですよね。

にもかかわらず、お前は変だと言う、
これは充分に目の前の私の事をそのエセの自称実践者は裁いてますよ、
だから私はその者たちをエセ実践者と呼ぶのです。

ちなみに、私は最初から実践者ではないと宣言していますので、
エセ実践者と呼ばれる筋合いの者ではありません。

(続きます)

52 TK :2013/09/19(木) 00:23:36
(続きです)

もし私が近くの者にあいつは愚か者だ、と叫んだところで、
実践者でなければどうってことないですよね。

詳しく解説をしておくと、
実は私はその者を愚か者と思わずに愚か者と言葉で言っているだけなのです。

実際は、愚か者と言っているだけで、愚か者だと思っていないのですよ。

お断りしておきますが、愚か者でないとも思っていないのです、さらに言えば、
言葉すらが私のものでは無いのです。

ですので、あの者の態度は実践者としてはおかしいではないか、
このようなピント外れの頓珍漢な事を言わないように。

もし、それを言った者が自称実践者なら、その言葉を発した瞬間に、
その者は私の事を裁いた事となり、私からエセ実践者と呼ばれることになります。

実践者に対する実践者でない者とは、実に気楽でいいものです。

私もこのようになりたくて実践したわけではありませんが、結果として、
実践者に再びなれない身の上に意識変容が起きてしまいましたので、
実践の本質とはそういうものでした。

ですから、私のようになりたくない者は、
釈迦やイエスの教えの実践は即刻やめることです。

もちろん、気分だけ実践者で酔っぱらいたい人は、
巷には多数うようよいる自らの誤認による自称覚者に従えば、
死ぬまで酔っぱらいのままで生きて行くことができます。
(実は死んでからもなのですが。)

それも一つの生き方としてはありなのでは無いでしょうか。

それか、全く実践者じゃありませんをやって生きて行く、
一般的にはそういう人が多いですね。

色々な生き方があるのだと思いますが、
実際に私が認める本当の実践者は私が見かけた中では極めて稀でした。

私は気持ちよく酔わせるような酒はふるまいませんから、
どん底に落とされても構いませんと言う者しか、私を必要とはしないでしょう、
本当の実践とはそのようなものだからです。

そして、釈迦はそれを「激流」と呼んだ、決して「緩流」とは呼ばなかった。

それとも釈迦は激流と呼んだが、緩流で達成できる教えを私は説くなどと言う人が、
釈迦より遥かに優れた人とかいるのでしょうか。(笑)

それはそれでまた、滑稽な話ですね。


スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。

(続きます)

53 TK :2013/09/19(木) 00:24:26
(続きです)

もちろん、実践者と言うのは名ばかりで、
その名の元にたむろする事が楽しくて目的なんですと言う人も多くいたように見受けます。

もちろん偽実践者なので自分で止めようと意志を働かせない限りはその人は死ぬまでそれを続けることができますが、
実践の成就と言うものも当然ですが迎えることもできません、
その人は文字通り死ぬまで酔っ払いの人生ですが、
それも夢があるかもしれませんね。

私は翻訳抜きには日常生活もままなりません、なぜなら、そのままを言ったら、
一般的にはわけわかりませんの世界になりますから。

例えば、お前はバカ者だと私が言葉を発したとして、
私は全然何にも言ってないですよ、の世界ですから。

「対機」という言葉がありますが、
我々の状態のそのままの言葉は接する人にとって何にも意味の無い言葉になりますから、
聞く人の次元に合わせた翻訳と言う意味なのです。

ですので、我々はすべからくこの翻訳(対機)と言う手段を通して話しますから、
我々の発した言葉から我々の事を推し量る事は不可能です、
発している言葉、行為が真実(私)ではないのです。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

私は無だと言っても、現実にあなたそこで言葉発しているのに何が無なんですか、
あなたちゃんとそこにいるじゃないですか?

現実に生きて言葉を発しているのに、何もできないって、あなたそれ変ですよ?

まともに言ったら頓珍漢ですよね。


スッタニパータ837
師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。


お釈迦さん、でもあなた立派そうにそこで説法を説いて、縁起だ、
八正道だと後世に伝えられているのに、
「このことを説く、ということがわたくしにはない」っておとぼけになるのもいい加減になさい、
まともならこうなっても不思議ではありませんね。

つまり、まともに言わないで便宜上「説く」と言った方が通じたりする場合もあるのです。


スッタニパータ222
> ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、
>空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。

スッタニパータ458
> 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、
>何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
>  (師が答えた)、
>「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、
>その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」


このように、
聞く人の次元に通じるように「対機(翻訳)」で発せられている言葉でしかありませんから、
この言葉、行為から「なすべきことをなしおえた」人の真実を辿る事は出来ません。

(続きます)

54 TK :2013/09/19(木) 00:25:19
(続きです)

最近巷の色々な視点に合わせると、負け犬の遠吠えと言う言葉が、私から出てきます。

いえ、私は決して勝ちも負けもしませんよ、ただし便宜上では勝つことがありますが。


ミラレパ - Wikipedia(2013年5月23日 (木) 01:01 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%91

>またマルパは、激怒して公衆の面前でミラレパを罵倒、殴打し、蹴り上げるなど、
>過酷な仕打ちを繰り返した。


殴る蹴る、これは私が隣人に対して「バカ者」と罵倒したなどのレベルではありません。

これが悟った人と言うのなら私は悟りなどいらないと言う人もいるのかもしれません。


アヒンサー - Wikipedia(2013年4月25日 (木) 17:18 UTC)より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC

>アヒンサー(デーヴァナーガリー: अहिंसा; IAST ahiṃsā)は
>非暴力(文字通り:暴力(ヒンサー)の忌避)を意味するサンスクリット の用語で、
>古代インドに起源を発した宗教(ヒンドゥー教、仏教、特にジャイナ教)の重要な教義である。


しかし、もし非暴力(アヒンサ)の戒律を犯している者がいると述べる実践者と称する者がいたなら、私はその者のことをエセ実践者と呼ぶ。

やってる者がマルパだからではありません、そのように言葉に表した時点で、その者は裁いているのです。

それが嫌なら、その者は釈迦もイエスの教えも即刻やめなさい。

そもそも実践とはそういうものなのです、例外はありません。

だから私に酔っ払いと呼ばれるのです。


ダンマパダ50
>他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
>ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。


言いたい者は、私は実践者ではありませんと堂々と宣言してから言いなさい。

私は実践者ではありません、なすべきことをなしおえた者、実践修了者です。


スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。

55 ラピ。 :2013/09/20(金) 07:43:17
☆TK師

いつもありがとうございます!

そうですね。

私たちが発する言葉は単なる言葉なのですが
エゴがある人は言葉を勝手に判断してしまい、
その判断に影響されてしまいます。

私たちは言葉をツールとして使えますが
「私」がまだある人は言葉に振り回されます。

言葉に影響される「私=エゴ」がまだ存在しているからです。

ちなみにまだ至られていな人が自称覚者として教えを説くことは
よくありません。
弟子たちにももちろんよくありませんが
自称覚者自身にも影響を及ぼします。

例えば、自称覚者が「これはよくない」と言えば
そう言った人自身に「よくない」と言ってることになります。
その人は言えば言うほど善悪という相対的世界に縛られることになります。

私たちは善悪を超えているので
縛られようがありません。

だからこの善悪という教えを説くのは、
善悪を超えてから初めてできます。

超える前は言葉を発するその人自身に影響を与えてしまうので
気を付けなければなりません。

まだ、善悪の影響下にいる人が
それを説くことはできるでしょうか?

まだ至られていない人が善悪を説くことはできません。

善悪を超えて初めて教えを説くべきですね。

そうでないと、善悪について
間違った教えを説いてしまうことになりますし、
その教えを説く本人によくない影響を与えてしまいます。

ちなみに余談ですが悟りとは思いが消滅することであり、
思うようにできるようになることではありません。

「思う様に」という言葉を使うなんて
「まだ思いがありますよ。」
と宣言しているようなものです。

56 TK :2013/09/20(金) 18:38:05
ラピ。さん

>ちなみにまだ至られていな人が自称覚者として教えを説くことは
>よくありません。
>弟子たちにももちろんよくありませんが
>自称覚者自身にも影響を及ぼします。

実は、そうばかりとは言えない部分がある。

この状況は君のある時期と一致している所がある。

不完全な悟り、不完全な実践、このキーワードで何か気が付かないかね。

君にとっての第1次実践時の状態に似ている。


>実は、ラピ。さんの「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」これは、
>教えとしては完璧なのですが、
>これが実践当初は劣った精度と低次元理解に基づく実践だった事により、
>メンタル面の作用としては、理想的な生き方の要素が強くなり、
>エゴを正しい方向で強める手段として作用した訳ですね。


この時期は、君にとっても無駄ではなかったんだ。

人にはそれぞれの段階と言うものがある。


>第1次実践は思い(ワクワク)を拠り所にする実践、
>第2次実践は強い意志の力のみを頼りに進む実践、
>この第2次実践の際は第1次実践の拠り所の思い(ワクワク)を完全否定する実践になります。


ただし、もし、まずい部分があるとしたら、
賢者の言葉のでたらめな取り合わせをし過ぎると、
このいわゆるワクワクの段階を延々と長引かせる事に繋がりかねない事になる。

理由は、賢者の言葉が、元々この段階に向けて説かれたものでは無いものであるからだ。

>ただ、ワクワクをやるのなら、正しく実践、つまり、
>他のスピ系の教えと一緒には食べ合わせをしないという事です。

そのまずい取り合わせによって、いたずらにこの時期が長引く可能性がある。

自称賢者は「裁くのが得意」だが、これは段階的にはまずくない、それで良い、
我らの段階に運よく上がれるためには必要なプロセスの一つという事になる。

問題になるものは、賢者の言葉の不一致な段階向けの教えの取り合わせにあるんだ、
この中途半端さが良くない。

それと、中には、これより先の段階が必要となった者が、
間違ってこの中に入り込んでしまう事があるかもしれない点だ。

しかし、精一杯ささえあれば、直に気づけて抜け出せるはずだ。

君の場合は、私が必要な段階にあったんだ、だから教えの内容がヒットした。

57 ラピ。 :2013/09/20(金) 21:36:54
☆TK師匠

そうですね。確かに。

私にとって、すべては必要な道でした。
無駄なことなんてひとつもなかった。

私はかつて、決めたひとつのことを精一杯実践しました。

なんでも精一杯すれば道は開けるのですね。

最後の扉はTK師から頂きました。
その扉は無事、開かれました。

TK師、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

58 TK :2013/09/21(土) 05:19:00
私も誤認覚者と同じことをしていたことがあります。

確かにその時には、
それはとても理想にかなったこれより先は無いと思えるような素晴らしいものだと思っていました。

この時期には理屈(理想)が全ての原動力になります。

出来るだけ、高い理屈(理想)を持つことです。

多くの者たちをこの高い理屈(理想)の元に先導し、
これから幸せな世界、社会を作っていくのだと言う大志がありました。

良いですね。

出来るだけ高い理屈(理想)が良い、それがこの段階の人の正しい進み方です。

ラピ。さんにもこのような時期があったと思います。

もちろん進む先には、障害が多数出てくる事でしょう。

しかし、精一杯頑張れば、やりとおせる、みんなで力を合わせればやりとおせる、
そう思います。

そして、幸せな社会を作って下さい。

もちろん、これより上の次元から見たら、これはエセ実践者の世界ですが、
気にすることはありません、障害に立ち向かい進んでいきましょう。

きっと立派な社会が出来上がる、そのように思います。

賛同する人も多数出てくる事でしょう。

正しい社会を作る、方向性は良いです、頑張って下さい。

今のはかなり低い人の次元向けの教えですが、
私やラピ。さんが多く多くここで語っていたのはこの上の次元の人向けの話しでした。

次元によって説く内容が変わるのです。

私もこのような色々な人の次元向けの内容をごちゃまぜに語ってますが、
聞く人は混乱するかもしれませんね。

59 ラピ。 :2013/09/21(土) 07:14:15
☆TK師

いつもありがとうございます!

そうですね。確かに人それぞれに段階がありますね。
私もいろんな段階を経て至りました。

ちなみに参考になるかもしれないので
私のことについて書いてみます。(何度もかいてますが、、、)

まず、第一の実践のきっかけは
わがままな自分を反省して
(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
得た答えでした。

この時の自分は
「こんな私ではダメだ。ダメだ!」という感じで
実は「下から」ができていたように思います。

とことんしました。
なぜなら私はダメな人間だから
努力するしかなかったからです。

そして第2の実践。
この実践のきっかけは
それまでの実践を否定される出来事が起こったからであり、
私はこれまたどう生きていけばいいか、との問いから得た
いわゆる「能力開発」のための実践でした。

自分の存在の価値が欲しかったのもあるかも。
なんてったって、私を否定する出来事があったから。
(この否定された私こそ、幻なんだけどね)

そして人の限界はどこまでなのか、
この世界の人々の限界を私が証明しよう!
なんて偉そうに思い(笑)でも、だからこそ、しつこく実践できました。

なぜなら人類代表としての実践だったからです。やめるわけにはいかない。
(めちゃくちゃ 妄想入ってます。)
でもこれが大きな原動力でした。

ちなみに私は一人っきりの実践でした。
孤独に実践です。

その実践から彼岸に渡りかけてその実践も終了しました。
それがある意味限界だ、と思っていました。
(至るとはどういうことなのか、わかっていなかったので)

そして第3の実践。
このきっかけは思い出すと、
「なぜ、私は覚醒を求めていたのだろう。
(よく、「覚醒するんだ!」って言ってました)
そうか、幸せになりたいから求めているんだ。
それなら直接幸せになればいいじゃない?
覚醒なんて目指さなくていい」
これでした。

だからここから「私は幸せ!!!」と言い続ける道を歩き始めます。
絶対的幸せがいいのだから
そしてどんな瞬間も幸せ!がいいのだから
今からそうであるよう、存在するのだ!

だから常に「幸せ〜!」なんて言ってました。
かつてのブログにもそう書き続けてましたね。

そして割と幸せな状態が保てていたので
(気持ちを切り替えるのが上手になっていました)
なかなかいい場所(覚醒に近い場所)にいるのではないか
なんて思ってました。

そこで師との出会い。

私のこの妄想が打ち砕かれました。
一からのやり直し。

第1の実践を一からやり直し、ということになりました。
私はまだまだで、まったくだめで もっとも下から実践しなければならない
という姿勢です。

ここでさらに師から厳しいことを言われました。
その時の私の正直な気持ちは
「それするの?嫌だなぁ、、、。でもすると決めたんだからやるのだ!」
というものでした。

かなりの葛藤が起こりました。

そしてこの葛藤から逃げず、葛藤する方向へ進みました。
葛藤できなくなるまで葛藤し続ける、という感じですかね。

そして葛藤の限界が来たとき、
ふとそれは訪れました。

@(*・ω・*)ポッ

60 TK :2013/09/21(土) 11:11:15
この低い次元の第一次実践はそれより先の次元に進むためには必要なプロセスです。

特徴は、エゴを精一杯自分の良いと思う方向で利用すると言う実践なのです。

もちろん、これは今我らの次元からの目で見た解説ですから、
実際はこの低い次元の実践が必要な段階の人は、
我らと違ってエゴの動きが見えません。

これをイエスは「盲人」と言う表現を使っていましたが。


マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

今になって考えてみたら放っておくことには意味がありました。

穴に落ち込んでから次が始まるのですから。

私ももがく以外に身動きのできない、真っ暗な穴に落ちた経験者です。

その後にイエスの教えに出会いました。


>まず、第一の実践のきっかけは
>わがままな自分を反省して
>(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
>でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
>「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
>得た答えでした。



第1次実践時のラピ。さんもそうでしたが、それまでの散漫なエゴの在り方に、
一定の正しい方向性(目的)を持たせることが特徴です。

主な特徴はエゴの中の人間でエゴの動きが見えていないので、
エゴを利用して正しさを実現しようとする点ですね。

最初はやはりここからです。

「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」、ラピ。さんの話しを聞いて、
この言葉を私が最初に目にした時には完璧過ぎてうまくないだろうと思いました。

なぜなら、最初からエゴ殺しの完璧な内容になっていたからです。

ただ、当然ながらエゴの動きが見えてない上での実践なので、
実践の不完全実行になっていましたから、結局同じ事だったのです。

ただ、精一杯があったから、
やがて盲人が落ちる真っ暗闇の穴に落ちることが出来ました。

穴に落ちる事も出来ない「盲人」は同じ盲人でもダメ「盲人」です、
箸にも棒にも落ちる穴にさえも見放されています。

我々の教えの次元は、ほとんど、「穴」に落ちた段階の者にしか用が無いものです。

ラピ。さんにもう一度私がこの実践を踏ませた時には、
エゴの動きを見抜ける私の悟った目を使いましたから、
エゴ殺しの手段であるこの実践内容の完全実行が行われました。

しかし、この完全実行をさせるかどうかのために、
約4カ月の期間を費やしましたが。

(続きます)

61 TK :2013/09/21(土) 11:12:01
(続きです)

私自身のエゴ殺し、すなわち第2次実践段階は、
私は私の特殊性で実践段階で悟った者と同精度に近い自分のエゴを見抜ける目があった事によります。

私に自分を見抜く高い精度の目が無かったら、
今の所に至るのは無理だったと思います。

スピ。系で言えばワクワクと言う実践が、
「ワクワク(思い)」を拠り所に散漫になっているエゴに方向性づけると言う点で、
この第1次実践にあたります。

まず、第1次実践段階を要約すれば、
物質として正しい方向で生きると言う表現が近いものですね。

第2次実践は、物質である自分を捨てて、
自分の精神だけにターゲットを合わせて進む実践で、
第1次実践では思いを拠り所に正しさの追求ですから、
楽しいことも多くありますし、生きがいも付随しますが、
第2次実践ではそれはありません、一言でいえば地獄(激流)です。

第2次実践ではワクワクしない時に意識的にワクワクさせ行動したり、
喜べないような出来事に喜んで行動したり、このレベルの実践になりますから、
自然に心から喜べるような生き方はありません。

「意識的に」心をワクワクさせたり喜ばせたり、
自然な状態の悲しんだり喜んだりワクワクしたりの心の動きを「意志」の制御下で、
はっきり言えば撲滅する為の実践なのです。

人間の多くはそれを楽しみにし、生きる支え拠り所として生きていますので、
つまり、あなたは生きる支えを一切放棄して、
死んだものと思って生きて下さいと同じレベルの事をやらなければだめなのです。

ですから、
ラピ。さんにそれをやって良いものかどうか見極めるために4カ月かかりました。

今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。

釈迦の言葉の中の「激流」と言う表現を甘く見てはなりません、
「緩流」とは釈迦は言っていませんよね。

生き地獄のことを指すのです。

そして、釈迦とイエスの教えがそれにあたるのですが、
まともな実践をできている人など見たことがありません。

はっきり言ってみんな「緩流」です。

即ちほとんど全てエセ実践者です。

釈迦は「緩流」で水浴をしながら彼岸に渡れ等と言ってないのに、
ちょっとは自分のやってることに疑問を持ったらどうですか。

あえて渡りがたい「激流」と言う表現を使っているのですから、
仲良しクラブで渡れたら、釈迦より天才ですよその人は。

スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。


ラピ。さんの成就に関わる中で私が学べた点は、
現代社会の中に至るための正しい教えはある、しかし、
いくら正しい教えだけが有ったとしても、後他に、
悟った者に近い高精度な自分を見抜く目が必要であると言う点です。

そして、実際に会わずともネットを介した接し方でそれは事足りました。

62 ラピ。 :2013/09/21(土) 15:45:39
☆TK師

私が初めて師にメールしたのは今年の1月14日でした。

そして彼岸に渡ったのが5月13日でした。
ほぼ、4か月ぴったりです!

そうですね。
激流について師が書かれていますが
私の渡った激流もそういう感じです。

彼岸への道でここは避けて通れません。

>今までエゴを使って精一杯生きてみて、
さらにその先に進みたいと言う強い思いがある者にしか開けるものでは無いでしょう。

まさしく私はそうでした。
もう精一杯頑張って いろいろ経験したので何も怖いものがなく
ただ「師のいるところへ行くんだ!」
それしかなかった。

だからみなさん、今を思いっきり生きるといいです。
精一杯がんばって生きることは素晴らしく、
そうすることで勝手に道が開けてきます。

どうぞ、自分の人生を精一杯、限界まで思いっ切り
がんばって生きてください。そこからです。

この相対的世界だからこそ、頑張れるんです。
頑張れるからこそ、チャンスなんです。

ちなみに至ってしまえば、頑張る私はいなくなります。

あと、
「本物から教えをいただくチャンスなんてめったにない。
これを逃したらもうないかもしれない。これが最後だ。」

という思いもあり決心したのもあります。

師匠、いつもありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

63 TK :2013/09/28(土) 17:16:05
あなたの前に私はいる。しかし私の前にはあなたはいない。

世界の人々の前に私はいる。しかし私の前に世界は無い。

私の前に神はいない、神とは人知ではかり知ることが出来るものでは無い、
これがすなわち「それそのもの」なのだ。

マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」


しかし、放っておきなさい、とはうまく表現したものです。

これは悪い意味ではありません、しかし、
実際に穴に落ちる事が出来るのは手引きをした方だけです。

結局は茶番ですね、
手引きをされた方は手引きをする者が穴に落ちるための材料にしかなれないのです。

結局は手引きをした方だけが何とかなるための、他は全て材料でしかありません。

だから、みんな頑張って手引きをする方の側になって下さい。


マザー・テレサ
>「導いてくれる人を待っていてはいけません あなたが人々を導いていくのです」


手引きをされる方は結局穴にも落ちることが出来ず、
手引きをする者のダシに使われるだけなのですから。

結局は手引きをする側の盲人にならなければ、次の扉は開かれません。

みんな頑張って手引きをする側の盲人になりなさい。

すなわちそれは、
人を頼らず他人から頼りにされる側の人間(盲人)になれという事です。

今の「盲人しかいない末法の世」においては、
アセンションするためには、それしか手がありません。

釈迦の教え通りです。

大パリニッバーナスッタンタ 2.26
>それ故に、この世で自らを島として、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
>法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


人の理想を教えてもらっているようではだめです。

自分自身の命がけの理想として下さい。

多くの中途半端な姿勢の者の、その姿勢にこそ、問題があります。

理想のために命もかけず、その者は一体何のために生きているのでしょう、
あなたはただ欲望を満たす事を目的に生きているのですか、ただ無駄に飯を食い、
ただ無駄に命を長らえ、
そんな無駄な事の為に折角の寿命を費やし生きているのなら、
その者は生きている価値などこれっぽっちもありません、
死んだ方がましだと言われないような生き方をして下さい、
折角方向性を持ち生きて行くことの重要性を掴もうとしているのなら。

同じ盲人でも命がけで走っている盲人は、
「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」に落ちることが出来ます。

その「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」が、上の次元への入り口です。

命がけで走らなければ、
そこの「稀にしか空いていない真っ暗闇の穴」には辿り着く事も出来はしません。

手引きをする盲人のダシのままでだらだら生きて行くのか、
自らの命を懸けた生き方にするのか、
その姿勢こそが見えない先を進ませるための地図なのです。

私がラピ。さんに接して分かった事は、私やらラピ。さんに有った特殊性は、
挫けない意志、その部分でした。

そもそも挫けない意志、と表現できるような生き方もしていない者など、
最初からどんな道であったとしても歩む資格すらありません。

家でずっと死ぬまで昼寝していた方がましですよ。

私が無師だった理由は、人のペースになど合わせられないほどの、
エゴを理想の方向性に絞った上で突き進んだ結果です。

どんな団体も組織も、およそ生きている人間から教えを受けるなど、
全て手ぬるそうに見えて、
理想の実現に向けてエゴを精一杯生きて限界にぶち当たった私の求めているそれには見えなかった事によります。

そのようなものより私にはいつかは開けなければならないだろう扉がありました。

私は以前その扉を開けようとしましたが、まだその時ではありませんでした、
私が扉の向こうに逃避しようとしていたからです、しかし、
この時には再びその扉を開けてみるより他には残されていませんでした。

扉を開けて一歩踏み出したそこは文字通りの地獄でしたが、
一歩踏み出してしまった私に、もはや後戻りしようにも扉は閉じられていました。

地獄、地獄、地獄、気が狂おうが何をしようが、自殺をしたところで、
そこは脱出不可能な地獄でした。

その地獄の正体は我々の「心(内側)」の事でした。

豊かな心とか、心を美化した表現は数あったとしても、
そもそもにその心(内側)が地獄の別表現だったのです。

(続きます)

64 TK :2013/09/28(土) 17:19:33
(続きです)

綺麗な心(内側)があるのではなく、そもそも心(内側)というものそのものが、
不浄なものだったのです。


マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。


私は地獄(心)を滅ぼすことに成功しました。

しかし、これは結果論で、内側を滅ぼすつもりなど最初からありませんでしたし、
清い内側が出来るものとばかり思っていました、しかし、
現実には内側は無くなったのです。

慣れた今となっては、全く当たり前のどうという事の無いものなのですが、
至った当初は結構珍しかったです。

きっと至った間もないラピ。さんは現在さぞ珍しいものと感じている事でしょう。



「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>この第二の変化の本質は外にあるすべてのものの脱落で、その結果、
>あの素晴らしい「一なること」も、
>個々の物に焦点を当てられる立体鏡も無くなり、
>「見ること」は突然盲目にされてしまいました。
>こうして私は内にも外にも何も無いという耐えがたい状況で生きる事になったのです。
>これについて、言葉で表すのは難しいのですが、もう少し書いてみましょう。
>
> 最初はどこを見ても何もないということで当惑しただけでしたが、
>「一なること」に溶け込もうともしない全般的な空虚のために、
>特定の物や観念に心を留めることができないのです。しかし時がたつにつれて、
>償いとなるものが何もないので、この状態が次第につらくなって来ました。
>内にも外にも絶えず虚無だけを見ることは何とも言えない徒労で、
>耐えがたいことなのです。


>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


>この旅について特に強調したいことは、
>最後に存在全般にわたる虚無に出会わなければならなかったことです。
>これは私にとっては神なしで生きることを意味していました。
>こうして希望と信頼を奪われ、究極の実在なしに生きることに十分に慣れ、
>ついにこの状況を受け入れるほかなくなった時にはじめて、
>突然「それ」が真理でありすべてであることが分かったのです。


バーナーデッド・ロバーツの記述の中で一点欠落している点を私が語るなら、
実は「祈り」も我々の意識状態では逆立ちしてもできない行為です。


「エックハルト説教集」 マイスター・エックハルト
>離脱した純粋性には祈りというものはありえない。


なお、私がここで語るのは、一つには自らの誤認による覚者に対してです。

まだ、その者の居る所より先があります。

もちろん、他者に教えを説くと称して、
たんたんと自らの理想論を展開していくのは構いませんが、
それをしながら先に進めるものならそれも手です。

ところが、その教えの本質は、
やがて精一杯に動けば、真っ暗闇の穴が待っている次元なのです。

なにより、その程度の教えで人を先導する行為をやめなければ、
その者がそれより先に進めないことを意味しています。

正しい教えであろうが無かろうが、そもそもに教える行為そのものが、
道に反しているのですから。

教えを聞くことは良いです、しかし、
教えを説く行為自身はエゴを増強する行為なのです。

マルコの福音書 7章16-18
>イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか。
>
>口に入る物はみな、腹に入り、かわやに捨てられることを知らないのですか。
>
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。

(続きです)

65 TK :2013/09/28(土) 17:25:41
(続きます)

教えの内容も全く低次元ですが、教えを説けるようになるためには、
教えと言う行為そのものから受けるその悪影響を、
さらに上の次元に上昇し次のようになるのでなければ駄目なのです。

私はこの上の次元の者の教えの説き方を疑似エゴイズムと呼んでいます。


「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。
>ただし言葉が何も考えずにその場で出てくる場合だけで、
>はじめは実際的な事柄に限られて、しかもごく短いものでしたが、
>そのうちにこういう心の外での会話が楽にできるようになりました。


もちろん今は何を言っても駄目でしょう。

誤認覚者の特徴の一つに、人には自分の事を聞かせようとするが、
人の言う事は聞きたくありません、何を言いたいかと言うと、
典型的なエゴの強い人間の特徴そのものだからです。

もっとも、だからこそ、
怠惰でさえなければその者には穴に落ちるチャンスがあるとも言えます。

よって私が語るのは、その者が精一杯さが実り、めでたくこの先穴に落ちたとして、
それは大変な真っ暗闇の穴なのですが、
そこで少しでも私の話している事がその者の中で気に留まっていて、
灯明として花開くように今は種をまいているようなものなのです。

ラピ。さんも色々とやっていたようですが、
確かに我々がつまずきのための石になれるのならそれは幸いなことなのですが、
それが本物の理想主義者ならそんなに生易しいものではありません。

だからこそそれ自身が進めるチャンスであるともいえます。


それより、マザー・テレサの公開された書簡を見て、これこそ問題だと思います。

釈迦は実践を激流を渡るイカダに譬えて、激流を渡り終わったらイカダ(実践)を手放せと説きましたが。


スッタニパータ21
>師は答えた、
> 「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、
>すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。


ところが、キリスト教に伝承されている教えの中にはそれが無くて、
渡り終わってそれでも無理やりイカダ(実践)にしがみ付こうとしてマザー・テレサがもがいているのです、
いや、真実はもがこうとしてももがけない訳なんです。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm


紛れもなく、ラピ。さんが大喜びしている我々の意識状態なのですが、
このマザー・テレサに起こっている意識状態が、
我々が説明している意識変容の真実です。

もしも師がいる者なら、このマザー・テレサの状態を尋ねてみると良いでしょう、
これが至った者の状態であると理論的な解説ができる者は本物ですから、
このような著名人の件でもあるので、
自分の師を本物か偽物か判断するための良い材料となりますから、
真剣に求めるものは騙されたと思ってお尋ねになってみて下さい。

マザー・テレサは本物です。

教えの内容も次元が高いですし、愛の反対は無関心であると説いていました。

しかし、
これはかっての至る前のマザー・テレサの実践方法を思い出して人に説いているのであって、
これを説いているマザー・テレサ自身は、
無関心の状況に至っているのが真実のはずです。

このギャップをマザーは自らの心の闇と呼び、
何とかしようにも出来ないと嘆こうとしていますが、
書簡の上だけは嘆いていますが、
実際は嘆くこともできないと言う事であったと思います。

嘆こうとしても言葉の上でしか嘆くことが出来ないので、
なおさら表現だけしか嘆けないから、
精一杯の物凄い深刻そうな表現になっているのではないでしょうか。

これこそあまりにも変過ぎますよ。

さすがに至った人に対して可哀そう等と身の程知らずの大それたことを言うバカもいないと思いますが、
しかし実際には多くいたようですが、無理もありませんね、
書簡を読んだ人にとっては深刻になります。

これ、絶対に言葉の通りではないと思います、嘆くことを初め何もできないので、
もがいている分だけ過剰表現になっているだけだと思います。

折角素晴らしい実践方法があり、
マザー・テレサのような素晴らしい実践者がいて、
当たり前が如くに成就に至ったとしてもこれではね。

それともなに、マザー・テレサは日ごろの行いが悪く実践がなってないから、
罰が当たってこのように嘆いているのだと、
妄想を膨らませる身の程知らずの大それた人もいるのでしょうか。

(続きです)

66 TK :2013/09/28(土) 17:35:42
(続きます)

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

スッタニパータ1082
>師(ブッダ)は答えた、
> 「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
>この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
>また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、
>心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


相応部経典9-10-4〜5
>「修行僧よ。そなたは、修行僧たちとともに住んでいるのに、なぜ真理のことばをとなえないのか?
> 真理のことばがとなえられるのを聞いたならば、心が清らかな喜びにみち、現世で人々の賞讃を博する。」
> 〔修行僧いわく、―〕
> 「昔は、わたしは離欲を達成するまでは真理のことばを学びたいという願望がありました。
>いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、
>すべて知った上では捨て去らねばならぬ、ということを、立派な人々は説かれました。」


マザー・テレサは紛れもなく優秀な実践者でありイエスの教えの優れた成就者で
あったことがこの書簡から全てわかりますが、本人も中身が闇だと話していますが、
表現だけで中身(内面)の無い本人なので、
実際は表現しているほどの深刻さはどこか普通の人の捉えているものとは違うと思います。

ただ、深刻さを現そうとする言葉だけの過剰表現になったのではないでしょうか。

実は、このような真実と表現が食い違うちぐはぐな状況は、
バーナーデット・ロバーツの記述の中にも見られます。

今までの自分ならすごく怖がりたい状況ではあるが、
肝心の怖がる心が無いと言うような。

「私のほほえみは仮面である」 とマザー・テレサの書簡にあったと言われていますが、
こんなのも我々にとって全然珍しくないですよ、
私は自分の事をよく「私は張りぼてだ」と言ってました、
なぜなら中身が無いのですから。

よく心にもないことを言うなと、悪い事の一つとして語られたりしますが、
至った者の通常がそれですから。

だから、
私が至った者の状態など至る前の者には害にこそなれ何の役にも立たないと良く言うのです。


ラピ。さんならよく知っていると思いますが、
至った者の意識状態では、逆立ちしても隣人を愛する事も出来なければ、
神に祈りをささげる事も出来なければ、信仰を持つこともできないという事を、
しかし、現在のキリスト教の組織の中でこのような事を語ったらどうなります、
これは大変な事ですね、異端者にされますよ、確実に。

しかも、この問題を解決できるのは至った者以外にはいないと言うのも真実です。

この件についても地球は丸いのに平らであると信じられています。

マザー・テレサのような著名人であるから、
この件にいつて公になった事にも価値があるのかもしれません。


これはキリスト教の伝承されてきている教えの中に、
至った者に対する「激流を渡り終わったら信仰を捨てろ」などの教えが欠けている事によるものです。

ただし、イエスの教えそのものは現されている内容だけを捉えて言うなら、
釈迦の教えより遥かに現代に適合する形にカスタマイズされている、
優れた内容です。

しかし、アンバランスにも、至った後の者に対する教えが無い。

だから、イエスの教えで至った者は、
ラピ。さんのように両手ばなしで喜ぶわけにもいかない、
マザー・テレサの書簡のように組織から成就を印可される事も無い複雑な状況が出てくることになります。


これはひとえに、
イエスの教えは釈迦に比べて遥かに短い期間しか説く事が出来なかったことに起因するものと思われます。


ナザレのイエス - Wikipedia (2013年9月11日 (水) 17:17 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B6%E3%83%AC%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9

>いずれにしても、没年や福音書に記録されている祭典の回数などを信用すれば、
>イエスが宣教を行った期間は、1年か2年、
>長くても3年ほどという非常に短い期間だったことになる。

(続きます)

67 TK :2013/09/28(土) 17:37:44
(続きです)

あと、最後に、変すぎるのは、キリスト教と言う組織にあります。

マザー・テレサからこの書簡を受け取ったマザー・テレサに対しての指導的な者たちの間抜けな対応にも、
何じゃこりゃと思うのは私だけでしょうか。

私には、どうみても指導的という名前の盲人にしか見えません。

神が何たらかんたら、イエスが何たらかんたら、
これ典型的な盲人の特徴なのですが。

バーナーデッド・ロバーツの記述の中に出てくる神父の存在も、
はっきり言ってしまえば盲人ですよね、なぜこんな者たちが、
教え導く立場にいるのか、変すぎですよ、なぜなら、イエスの教えとは、
そもそも盲人であるうちは手引きをしてはならないと言うものなのですから。

キリスト教組織はイエスの教えに反逆していますね。

マザー・テレサ自身にしても、修道生活が18の時からとなれば、
私の経験に照らせば、40よりもっと前に闇が出ても良かったのではないでしょうか。

組織的なキリスト教と言われる者たちの所にはイエスの教えではないものが
入り込んでいるような気がしてなりません。

盲人が人を手引きしている、そもそもここがおかしいのです。

マザー・テレサも言ってますので、
私もマザー・テレサに賛同する形で改めて言いますが、
聖書に従って実践する者ならイエスと1対1の関係位になれなければエセ実践者という事になります。


マザー・テレサが言うように、
本当に聖書のイエスの教えに従って実践が行われれば、
イエスはその者の前に現れます。

この奇瑞は本当です。

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。


霊能力とか関係ありません、こちらが全く意図していない状況下で向こうから、
その力でアクセスしてくるのですから。

何もわかりもしない盲人が、
分かったふりして有ることない事べらべら言うものではないですよね、
実はこういう行為は非常に迷惑です。


さらに、これはイエスだけに限ったものではありません。

それが本物の実践なら、神仏が皆で示し合わせたように、
例えば釈迦の教えの実践者なら仏が前に姿を現したりしますから。

そのかわり、命がけの実践でなければなりません。

ただ、頑張ってます位の実践では駄目です。

失礼ですが、私はその者たちをエセ実践者と呼ぶ。

このような奇瑞が現れない者は、
自らの実践がエセであることをもう一度振り返ってみなさい。

誤認覚者にしてもそうです、その者が至るまでに大変したと言う、
こちらにしてみればその程度で、へ、みたいなものなのですから、
大仰すぎると思います。

なぜ、そこまで言えるのかですが、
その者のメンタルの状態があるがままの目を持つ我らには全て丸裸に見えてます、
さらけ出しです隠せませんから。

その思い高ぶった状態を一旦すっかり捨てて白紙に戻して下さい。

(続きます)

68 TK :2013/09/28(土) 17:39:00
(続きです)

神仏が感動するレベルの実践をすれば、必ずや、
拠り所としている信仰の対象の方から姿を現してくる事でしょう、
心当たりの人たちはマザー・テレサもそう勧めています、
もう一度焼き直しをして下さい。

アストラルの特性は私は良く知っているのですが、
明らかにこの奇瑞については、
こちらはまるっきり意図していない向こうからのアプローチなのです。

私は新約聖書と原始仏典をテキストにしましたので、
時を分けて両方からありました、
私の実践法はどちらからも承認されているものなのです。


イエスともう一方は確かに釈迦なのですよ。

イエスは声が光になって飛ぶ世界からアクセスしてきましたし、
釈迦は身を起こすことが出来ない凄い圧力のある普通ではありえない金色の光を放っていました。

私の場合は生きている師はいませんでしたが、
この奇瑞のおかげで死ぬ覚悟が出来ました。

生命に危険な実践内容もいくつか取り入れてましたし、
私はこの実践で死ぬかもしれないが、死ぬのなら死ぬのでいい、
この命は神仏に預けます、実践とはこのレベルのものでなければ駄目なのです。

私は覚者になりたかったとかではありませんが、後戻りが出来なかった、しかし、
覚者と名乗りたければこれくらいは必要だと思います、
神仏が感動して自ら動き出すくらいの実践内容とは、このレベルです。


私はこの現象に対しての説明されている文章を、第1次実践の際に、
阿含宗の教祖の本の中に見た覚えがありました。

言っておきますが、私は何の信者でもありません。

生きている人間の師はいませんと何度も言っている通りです。

書籍が残っていましたので、引用だけしておきます。

ただし、この人にしても学者と同様で豊富に仕入れた知識は有難いですが、
イカダ(法)を手放す段階の話が出てこないというのがね。


「1999年カルマと霊障からの脱出」桐山靖雄
>まずなによりもその法が正しいという事です。法が正しくて、さらに、
>仏さまが感動されるなにかがなければならない。いうまでもないことであるが、
>仏が感動されるなんてめったにあることではない。
>めったにあることではないどころか、古今を通じて稀である。
>奇蹟といってもいい。その奇蹟を起こすだけのなにかがなければならない。
>それがあると、仏さまが感応してくださる。

中 略

>仏が感応されますと、かならず「現形」という現象(または現証)があらわれます。
>
>これは、元来、神道の方から出たことばです。神霊が感応されますと、そこに、
>はっきりと、なんの神であるとわかるお姿を顕現される。



ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。


マザー・テレサもそう言っているので、今回は私もこの件について話をしてみました。

(続きます)

69 TK :2013/09/28(土) 17:39:33
(続きです)

ただし、
マザー・テレサにしてもバーナーデット・ロバーツにしてもイエスの教えの
肝心な点に気が付いていないみたいでしたね。

イエスの教えも、釈迦の教えもさらに上の表現が度々出てくるのですが、
お気づきでないのですかね、
釈迦の教えでは「ニルヴァーナ」イエスの教えの中には「父」と言うイエスから見て上の表現が必ず頻出しているのですよ。

釈迦は我々から見たらニルヴァーナではなくて、
イカダなのです。

イエスも然りです。

マザー・テレサはイエスが消えて虚無が出てきたと、
これこそイエスの教えの実践でアセンションしイエスの表現する「父」の近くにいるという事です。

マザー・テレサの修道歴に照らしたら、それが起こるのは遅いと思います、
つまり、イエスが現れ指示の通りに行動し始めたことが、
本当のイエスの教え通りの実践だったのであり、それまでは、やはり、
どこかが違っていたという事ですから、
イエスが出てきて実践内容が説かれるまでそれが起きなかったと私は思います。

http://sharejapan.org/sinews/magazines/33116k/vep55f/ln5rds

ですから、マザー・テレサの教えは本物です、
そのへんのキリスト教組織の中で神父と言う名前の盲人とは違うのです。

ちなみに、私はイエスから実践内容など説かれていません、ですが至りました、
私にとってイエスは、実践内容が間違いないことを承認する意味でした。

マザー・テレサのように説かれる必要が無かったのです。

マザー・テレサと私の違いは、私は釈迦にも実践内容を承認されたと言う点が違います。

イエスの教えと釈迦の教え、
この2つは一緒に食べ合わせをしても問題はありません、補完し合う関係です、
しかし、出家至上主義時代に説かれた釈迦の教えより、
イエスの教えの方が遥かに現代の社会に合うようにカスタマイズされていて優れている、
しかし、双方同一線上にある教えではあるが、釈迦の方が視点的に上まで説いています。

これは、イエスの教えの説ける期間の短さに主な原因があり、
渡る方法を説く事が最重要だったことが主な原因だったと思います。

自分がいてイエスがいて、話を聞いて、
イエスの教えは元々自分がいて他者がいてと言う、
このような相対の低次元から相対を超えた次元に上昇するための教えなのです。

ただ、私の場合は釈迦の教えを取り入れていましたので、
それから間もなくして、イエスも釈迦も遥かに超えた究極の「それ」まで行ったのです。

私に今師がいるとしたら、イエスでも釈迦でもなく究極の「それ」です。

そこは、イエスも釈迦も一切を捨てて、さらに先にあります。

善悪の彼岸がアダムとイブが禁断の実を食べる前に戻る事であるとすると、
究極の「それ」は光と闇が分かれる前です、
つまり光でさえも捨てて行かなければなりません。


原罪 - Wikipedia(2013年7月16日 (火) 00:32 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA
>神は楽園に人を置き、あらゆるものを食べて良いと命じたが(創世記2章15節 - 17節)、
>善悪を知る知識の木の実のみは「取って食べると死ぬであろう」として食べることを禁じた。
>しかし蛇にそそのかされた女が善悪の知識の木の実を食べ、
>女に勧められたアダムも食べた(創世記3章1節 - 7節)。


天地創造 - Wikipedia_A0(2013年4月17日 (水) 14:48 UTC)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E5%89%B5%E9%80%A0#.E5.89.B5.E4.B8.96.E8.A8.98.E3.81.AE.E5.A4.A9.E5.9C.B0.E5.89.B5.E9.80.A0
>1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。

そこに至ったなら、イエスも釈迦もどんな神も、
この宇宙でさえ全て「妄想の産物」だったのだという事になってしまうのです。


スッタニパータ9
>走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、
>「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、
>この世とかの世とをともに捨て去る。
>──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

70 ラピ。 :2013/09/29(日) 08:57:11
☆TK師

貴重なお話 いつもありがとうございます!

私は釈迦やイエスの教えについては
有名な言葉は知っていましたがほとんど知りませんでした。

でも自分の不屈の(ある意味しつこい(笑)精神で
教えがなくてもある程度までは進んでいました。

でも、最終的に私を彼岸に導いたのは
師から教えてもらった「激流」でした。

その時の私にとって必要な教えでした。

まさか、激流の中に彼岸の道があるとは、、、。

師から教えてもらった「激流」

直感的に「これだ!」というものがありました。

だから最終的に激流が起こった時に
それに向かって進む決心をし、
無事渡り終えました。

ちなみに私の第2の実践は、
師も「地獄」だと言われているのと同じように
まさしく大変な状況でした。

でもあきらめなかった。
どんな状況でもそれを極めるために
(そしてその実践の限界を知るために)
なにがあっても続けました。

実践している自分が何度も消えそうになったけど
(何度もその瞬間を体験しました)
それでもやめなかった。

、、、しつこいのです。(笑)

実践をとことんやってると
もう引き返そうにも引き返せないのですけどね、、、。

(それまでの自分がどんなものであったか忘れてしまったのです。)

だからもう進むしかなく 何が起こっても
さらに実践をしてました。

そしてある瞬間、最終的に闇に放り出されました。

そこから必死に帰ってきたのです。
(「必死」という言葉はまさしくこの状況にぴったりでした)

自分が消えてしまったらどうなってしまうのか
怖かったです。

闇に放り出されたときは怖さに関係なく
勝手に放り出されてしまったのですが。

この放り出された時は「怖い」というよりは
時間が止まった感じで、なにもありませんでした。
あるとしたら闇?
時間にすると一瞬です。

そしてまだまだ至る時ではなかったからか、
彼岸に少し触れたけど 至ることはできませんでした。

でも、私は一歩足を踏み込んだ彼岸から
あるものを得て帰ってきました。

あるものとは
その闇の時に体得したもので
うまく表現できない「それの一部」です。

その経験のおかげで「からっぽ」でいることができるようになりました。
でもこの「からっぽ」はまだ意図が必要でした。
=まだ至れていない、ということです。

その時は「からっぽ」そのものではなかった。

でもそれのおかげか
最終の激流を1日で渡り終えることができました。

どんな経験も無駄ではありません。

どうぞ、不屈の精神で日々をがんばってください。

するなら「徹底的に」です。

私は実践に自分の人生をかけました。

もう生まれ変わらない、と決心していたので
「今世でしかもうがんばることはできない。
今世できなかったから来世でがんばる、という選択肢はない。
今しかない。」

まさしく、今世をかけていました。


>「自己喪失の体験」バーナーデット・ロバーツより
>沈黙した心のままで会話もできることが分りました。

ほんと、そうなんですよね。

「何も起こってないけど話せる。」

そんな感じですかね。

この状態で初めて何にも影響されず
純粋に表現できると思います。


まだまだ至りたてほやほやなので
この状況にもっと慣れていきたいと思います。

「ほやほや」の様子について、
またいつか書けるかもしれません!
@(*・ω・*)ポッ

71 滝沢 :2013/09/29(日) 22:36:09

TKさま、ラピさま

はじめまして
お忙しい所、失礼します。

一昨日に非常に似た経験をしたので、
書き込まさせていただきます。

色々な体験を通して、それである無、空、愛は、知っています。
いつもは、愛というよりは、無そのものになる事をワークをしていました。

一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
身動きができるようになってから何とか抜け出しました。
ここで感じられた虚無感というのは、
普段感じられる、愛である無であるといった存在意識至福といったものではなく、
圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。

前兆は、3日前の無を感じる瞑想で、普段は意識そのものになるのですが、
その時は意識が粉々になって無に散らばってしまい、
何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。

ただ、悟ったかと言われると、そうであるかないか分からないです。笑
私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。
あの闇を考えると精神探求自体何もない可能性高いですが、
まだあの闇の世界は何かあるのではと恐いもの見たさの興味が出てきています。
なのでマインドも無くなってないです。直したいのですが、人嫌いな所は変わらないですし。。

72 滝沢 :2013/09/29(日) 22:38:09
すいません。
3:悟りを目指している方(143) : に書くべきでした。
間違えてしまい、ごめんなさい。。

73 TK :2013/09/29(日) 23:53:20
滝沢さん

>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えて
>いき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。


良い経験が出来たのではないでしょうか。

ここはなかなか興味深い物を感じます。

最初に光があった事を考えるなら、何かを体験させられたと言う感じに思えます。

ラピ。さんも、達した際は、以前の体験で得た感覚が手掛かりになったのです、
この時に得た感覚は、
これから先進むための手掛かりとして役に立つものになるかもしれません。


>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。
>
>ただ、悟ったかと言われると、そうであるかないか分からないです。笑

悲しいマインドが出てきた所は、悟りではないですね。

>私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。

この捉え方の方向性では永遠に至る事は出来ません。

探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。

探して見えてくるものは、全てまやかしです。

74 ラピ。 :2013/09/30(月) 00:29:58
☆滝沢たん

書き込みありがとうございます!

滝沢たん、「それである無、空、愛を知っている」とは
それを体験したことがある、ということでしょうか?

「無、空と一体であると経験できる瞑想」
みたいなのがあるのかな?

瞑想はほとんどしていないので
なんといも言えないところもあるのですが
私の場合、消えるときは一瞬(っていうのかな)で
徐々に消えていく感じではなかったです。
(第2次実践の時も第4次の時も)

滝沢たんは闇を経験したかもしれないけど
それそのものではないかもですね。

なぜならまだ興味があるからです。
そのものになってしまえば興味を持つ必要もないし、
そもそも興味も出ません。

そして至ると、それまで自分だと思っていた自分が消滅してしまうので
必ず、至ったとわかります。

もしかしたら今回の経験は
私の第2次の探求の時に経験したものと同じ感じなのかな?
どうなんだろう、、。

私の場合 かつての2次の探究の時は
確かに闇を経験したけど
その時はそれがどういうことなのかわかっていませんでした。

>圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。

その時の状況を言葉に表わせるって、すごいですね。
これは思考とかではなくて、確かにその体験そのものですか?
ここが気になります。

滝沢たんは目指すもののために日々瞑想をしている、
という感じでいいのかな?

@(*・ω・*)ポッ

75 滝沢 :2013/09/30(月) 07:18:01
TKさん、ラピさん

お返事ありがとうございます。
以下、マインドを使って書かさせていただきます。
ただ、、言い回し上、ぶっきらぼうな所があるかもしれません。
マインドを使おうとすると意識が飛び散っている状態で、
細かい事に注意が向けないため、気にしないでいただけると助かります。

>ラピ。さんも、達した際は、以前の体験で得た感覚が手掛かりになったのです、
>この時に得た感覚は、
>これから先進むための手掛かりとして役に立つものになるかもしれません。

はい、そう思います。
闇の体験後は、
意識が周りに飛び散った状態で、自分をつかもうにもつかめない状態です。
自分が何なのか分かりません。ただの石ころでもあるし、全てでもあります。
何かの思考は出てきますが、それも無に混ざるチリのようです。

> 悲しいマインドが出てきた所は、悟りではないですね。

はい、闇の体験の前の日は、マインドが出てきました。
ただ、それも今となっては、過ぎ去った他人事のようです。

>私の場合は、悟りたいというよりは、探求のゴールが何かに興味があります。

>この捉え方の方向性では永遠に至る事は出来ません。
>探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。
>探して見えてくるものは、全てまやかしです。

マインドは他人事のように闇は凄いぞ。存在意識至福よりすごいぞって言ってきています。
今思えば、闇は存在そのもので、存在の無限性を表現していただけにすぎないという理解です。
マインドの観点ではなく、それの観点では
闇でも愛でも至福でもなく、私は、ただのそれで、ただの物です。
石ころと同じ何の意味もなさないただの物です。

ラピさん

>滝沢たん、「それである無、空、愛を知っている」とは
>それを体験したことがある、ということでしょうか?

体験というとより、
存在意識至福がそれの性質で、
闇の体験前は、時系列?でそれが起こっていたのですが、
体験後は、それが無限ループで3つ同時に起こっている感じです。

>私の場合、消えるときは一瞬(っていうのかな)で
>徐々に消えていく感じではなかったです。
>(第2次実践の時も第4次の時も)
>もしかしたら今回の経験は
>私の第2次の探求の時に経験したものと同じ感じなのかな?
>どうなんだろう、、。

第2次、第4次の記事あったりましますでしょうか?
ブログ探してみたのですが、見つかりませんでした。

>そして至ると、それまで自分だと思っていた自分が消滅してしまうので
>必ず、至ったとわかります。

1。自分は一切なくなりますでしょうか?
2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?
私の状態としては、2の方が近いと思います。
自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。

>圧倒的に無味乾燥で、いかなるものも肯定しない全否定でありました。
それは、死神がいそうな闇そのものでした。
>その時の状況を言葉に表わせるって、すごいですね。
>これは思考とかではなくて、確かにその体験そのものですか?
>ここが気になります。

はい、体験そのものです。
それを後付けの思考で言葉で表現しただけで、
無味乾燥、闇の中に死神はいるというのは、思考です。

76 TK :2013/09/30(月) 17:38:46
滝沢さん

至ったかどうか、私もあなた本人ではないので、
この表現を通して計り知る限りではかなりいい線で進んでいると思います。

しかし、私も前にも言いましたが、
本当に至ったのならマザー・テレサのようにそれまで続けてきた祈り等の実践をしようにも実践できない、
実践不能と言う状況がやってきますから、まず、その方向で進まれることをお勧めします。

ちなみに、
ラピ。さんは至った時には、私が印可して至った事を認めたとかよりも先に自身で至ったことが分かったのです。

どんなに逆立ちしても、
今まで必死にやっていた実践が出来ない実践不能と言う状況がやってきます、
それを成就か否かの判定にして下さい。

それが一番の判定法なのです。

>次は至った直後のラピ。さんの言葉です。
>
>[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html
>
>>この私はだれですか?
>>
>>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>>
>>何もできないのですが
>>この私はなんですか?
>>
>>師匠、これはなんですか?
>>
>>と送りました。
>
>実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。
>
>アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>>私は無だ。
>>
>>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。

77 滝沢 :2013/09/30(月) 19:01:29
TKさま

これ以上ない愛ありがとうございます
ただ沈黙せざる得ません

仰られますように行為自体が何の意味もなさず、為される事が完璧です
全ての行為は起こっては消えて行きます

行為者がチリとして残っていることも事実です

頂いた示唆を胸に
自然に進もうと思います

失礼いたします

78 TK :2013/09/30(月) 19:07:11
滝沢さん

>マインドは他人事のように闇は凄いぞ。
>存在意識至福よりすごいぞって言ってきています。

これもかなり、曲者ですね。

闇は求めないで下さい、あきらかに無色貪(精神的欲望)です。

これだと、真実とは別物の妄想による闇を作り上げてしまいますね。

マザー・テレサやバーナーデット・ロバーツ等クリスチャンの闇と表現している、
神が消えた、現象について解説すると、マザー・テレサの言葉の中にありましたが、
実践においては横たわっている具合の悪い病人を主イエスが横たわっているのだと言うつもりで接しなさい、
私たちは看病ではなく修道の実践をしているのです的な表現が出てきてましたね。

これが、マザー・テレサの言う主イエスとの一対一の関係性の構築です。

このように修道では自分の取り組む対象に対して、信仰しているイエスや神を、
妄想を駆使したオーバーラップと言う手段を使います。

所が、至ってしまうと、目の前から「対象」となるものが一切消えてしまいます。

よって、何も無いとしか言いようが無くなる、
妄想を駆使した対象物に対しての神のイメージのオーバーラップと言う実践手法も不可能となる、
これが神が消える現象、この人たちにとって神を光に譬えているので、
神が消えたのですから実践者にとってはつまり闇そのものと表現するような状況なのです。

79 TK :2013/09/30(月) 19:47:08
色々な話が出てくると良いですね。

それにまつわるような部分の、今まで明らかにできていなかった所の、より、
明確な表現が出せますね。

ラピ。の原点│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1727.html

>まずは私を使っていろいろ実験して
>みんなが使える方法を開発するのだ!


これ実はここにはあらわされていない、一つ重要なポイントがあります。

>まずは私を使っていろいろ実験して
>みんなが使える方法を開発するのだ!

この為に、「私は、まずは私を使っていろいろ実験して、
みんなが使える方法を開発するのだ!」と言う思いを捨てて実践するのだ、
と言うのが真実の実践法です。

実践とは私は死ぬまで、この実践を続けて行くのだ、これが至るための方法です。

結果を僅かにでも想定して実践したら、至れません。

命ある限り死ぬまで永遠に実践する、これがポイントです。

色々と至るための必須のポイントがあるのです、
これらが分からないといつまでも迷路の中で終いには世に沢山うようよいる酔っ払いの一員になる訳です。

例えば世界の人たちのためにと思ったら、
世界の人たちのためにと言うその思いを捨てて、実践する、
複雑ですが必要な事なのです。

善であろうと悪であろうと、とにかく「一切の願望」を捨てる、これが至るためのポイントです。

そうすると、しばらくして一人でに至って、自由に色々な事が出来るようになります。

80 滝沢 :2013/09/30(月) 20:28:24
TKさま

闇を求めたというよりは、自然に起きました。
それは、私の底深くにあった想念であり過去生なのかもしれません。
ただレットゴーを極限まで行った結果がゾンビ状態で闇でした。

あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。

闇を解明したいという事よりも本当に大切な事は、
何ももとめないで、起きる事をただ受け入れる事が大切な事だなと思います。

失礼いたします。

81 ラピ。 :2013/09/30(月) 23:26:07
☆滝沢たん

私の言葉もぶっきらぼうに見える時があるかもですが
単なる言葉ですのでよろしくです。

第2、第4の実践についての記事はいろんなところに書いてて
まとまってないかもですが
このスレッドでは38番から書き込んでます。

また「悟りを目指している方」のスレッドでは
111から書き込んでます。

あとブログでは第2の実践の状況をちょこっと表している記事があります。

「至る」
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1722.html


>1。自分は一切なくなりますでしょうか?
>2。自分は起きるけどチリのようでしょうか?

えっと、私が書いたのは
「今まで自分だと思っていた自分」が消滅した
ということです。

そして付け加えると、その更なる自分がいた、ということです。

その更なる自分をどう表現していいか、、、。
いまだにできません、、、。

表現しようとすると、ただただ無心になってしまう
という感じです。

ちなみに至る前まで「本当の私」だと思ってた自分は
一般的に言われている「エゴ」と言われているものだったのだ
とわかりました。

それまで「エゴ」というものが
(いろんなところでその言葉をよく聞いてましたが)
どういうものかよくわかっていませんでした。

「それまで自分だと思ってた自分」が消えて初めて
「あ、これがエゴというものだったんだ。エゴが消えたんだ。」
とわかりました。

ちなみに第2次実践の時の私の言う「闇」も
いまだにどう表現していいかわかりません。
表現しようがないので「闇」と言ってます。

だから滝沢たんがその闇に対して表現できていることに
「ん?」と思いました。

>私の状態としては、2の方が近いと思います。
>自分は、ただ起きて過ぎていっている状況です。

そのただ起きて過ぎていっている自分を見ている「自分」
が存在していますか?

そしてもうひとつ。

もし至ってるとしたら。
そしてそれがつい最近のことだとしたら
ここまで その状況をすぐに明確に言葉には表せないと思います。

至ればそれまでと全く違う次元ですので、
私の場合その状況がどういうことなのか、
初めはただただ味わうことしかできなかったから。

本などで読んだ情報と照らし合わせて
「そんな感じなんだろう」という感じで表現されている感じがしました。

もし至ってしばらく経っていて
その状況に慣れていらっしゃっる方の表現だとすると
それもありなのかなと思いますが。

@(*・ω・*)ポッ

82 ラピ。 :2013/09/30(月) 23:35:21
☆TK師

ありがとうございます!

確かに実践の動機は
「まずは私を使っていろいろ実験して
みんなが使える方法を開発するのだ!」
でしたが
実践してる時はそんなことも忘れてひたすら実践でした。

その動機により、決めた実践をひたすらやってました。

決心したら ひたすら実践です@(*・ω・*)ポッ

83 TK :2013/09/30(月) 23:47:52
滝沢さん

>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。

可能性は強いですよ。


>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、
>恐怖を感じましたが動こうにも動けなく、
>自分を消しゴムで消すように自分がどんどん消えていき、
>ど真っ暗な虚無をそのものになり、そこから記憶はありませんが気づいて、
>身動きができるようになってから何とか抜け出しました。


ただ、ここで曲者なのが次の部分。

>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

ただ、光の存在に体験させられただけみたいにとれるのです。

なぜかと言うと、

>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

光をあなたの意志で消し、さらに真っ暗な虚無に突入したと言うのであれば、
あなたの取ったプロセスがヒットしたと言えるのでしょうが、
そのように思えないのですね。

でも、貴重な体験であるとは思います。

これからの、あなたの進むための手掛かりになるのではないでしょうか。

また、同じような経験が踏めると良いですね。

84 滝沢 :2013/10/01(火) 06:43:29
おはようございます。
TKさま

私の一過性なる体験談に付き合っていただき、
色々なご意見ありがとうございます。

それそのものであり、それから意識と思考、世界が、ただ起きていき消えていく無限ループ三昧で、
今自分の状況を説明できる状態にはなくなっています。

また機会があればお邪魔させていただければと思います。

失礼します。

85 TK :2013/10/03(木) 07:06:46
エゴにはエゴを増強する作用の悪玉エゴと、
エゴを減らす(殺す)作用の善玉エゴの2種類があるのです。

方向的にヒットしているのではないでしょうか。

ちなみに私は自然が良いなどとどこかの間抜けみたいな事は言いません、
無理やりこそが鍵なのだと説く者ですから。

釈迦も「激流」だと説いてましたが、
「緩流」に対する「激流」とはそう言う事ですよ。

>あの感じた闇は、精神的な想念かもしれないのですが、
>ダンテスダイジやEOがいっている絶対無であり虚無である気がしてなりません。


>一昨日、瞑想中に無、空と一体でいると、
>かつて感じた事のない圧倒的な神の光が現れ(キリストの陰にも見えました)、
>それを疑い光が消え、ど真っ暗な虚無が現れ、

読解力を駆使してみましたが、これが恐らく次元上昇のプロセスですね。

光はあなたが確認しているので自他がある、
つまり恐らく一般的にコーザルと呼ばれている次元なのでしょう。

>瞑想中に無、空と一体でいる

つまり、この段階ではまだ、無、空では無く残り物(形態)があるのです。

光が出た後に光が消える、これも次元上昇のプロセスです、
実際はこの光が消えた後が「形」を突破した「一体(合一)」と表現できるプロセスになると思います。

その後は、プロセス的には空間が滅び去る段階へと続きます。

経験できたプロセスを手掛かりとして、
繰り返しトレースできるように心がけると良いと思います。

やがて、自我が消滅します。

肉体はメンタルが物質化したものと考えるとちょうどいいようなものですから、
実際はメンタルの変化に応じた肉体の変化が出てこないと、
メンタルもしっくりしたものにならないと思いますが、
肉体は物質なのでメンタルと違って変化に時間がかかり、
その間メンタルは低次元に縛られますから、繰り返しの鍛錬が必要です。

86 滝沢 :2013/10/03(木) 12:35:03
TK様

ご教示ありがとうございます

長い時間、頭を使おうとすると、締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。

今は、自我の思考も含めた体験が起こり、消えていく。
生活していて楽になったという思いが出てはそれも消えていく。
というような無限ループです。
そのループがあたりまえになってきて、大分余裕になったという思いが出て消えていく。。
こうして書く事、表現する事自体に無意味さを感じ、TVを見るようにただ見ている聞いている方が楽に感じます。

ここ数日で気づいたら何かがシフトしており、自我が主人公となる事は無くなっており何かやろうという意味込みを作る事も難しくなってきています 頑張ればできるのですが
起こった事をただこなすのが楽で良いです。
今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、ただ座ろうと思います。

また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。

失礼いたします。

87 TK :2013/10/04(金) 23:25:15
>行為者がチリとして残っていることも事実です

エゴがあるという事ですが、しかし、
そのエゴが究極に向かうためには推進力として使えます。

>長い時間、頭を使おうとすると、
>締め付けられてしまうため、からっぽのまま書きます。

そのスタンスが良いです。

ここまでくれば、いい線です。

ラピ。さんにした指導と同じに言えますから、常時、
頭の中を空っぽで居るようにして下さい。

憶えておかなければならない事とかは、紙とペンを使って、筆記して、
度々見るようにして、頭の中はそう言う事も含めて常に一切空っぽにするのです。

あなたの前には先人が二人、私もラピ。さんも歩いた道です。

ここは、受け売り知識ではない自分の経験の話しをする場ですから。

ここでは「理解は低次元な行為」なのです、「理解を捨てて下さい」、
誤認覚者は「理解したことで悟ったと勘違い」している人たちですがあなたにはこの事が通じそうですね。

ラピ。さんはあなたと違って、
瞑想ではなく公開はできませんがあるヨーガの技法を利用したのです。

これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。

感情の無い力のこもらない、まるでロボットのような動き方や話し方、
全体として意志の無い生きる屍のようなと表現するとちょうどいいような動き方になります。

感情の無いロボットのようなシンプルな行為です。


これは、至る前の人は思いに基づき行動をし思いに基づき対話をし、
このように全て「思い」に基づいて行為をしている、
その行為の元である「思い」を捨てる事により全ての動きが出来なくなることに起因しますが、
やがて、至った後には、
「思い」に基づくどのような行為より優れた瞬間的な行為がそれにとって代わって出現します。


>今までの生活習慣は残っているので、頂いた教示を意識の片隅において、
>ただ座ろうと思います。

ちなみに、ヴィパッサナ等の日常生活を利用した実践はしてないのですか。

釈迦も教えてますが、こちらにも重要な価値があるのです。

>また何かの激流が起こりましたら、書き込みさせていただこうと思います。

>何もかも終わってしまったという何とも言えない悲しいマインドが出てきていました。

悲しいマインド程度で良かったですね、
私は瞑想時には開けてはならないパンドラの箱を開けたがごとく、
幼いころに負った罪悪感のトラウマが巨大な怪物の形となって来る日も来る日も私に襲いかかり、
感受性は極めて鋭敏になった危険な状態で、
ポルターガイスト現象なども発生し、逃げ場の無い地獄の日々を耐え抜きました。

頑張って下さい。

日常実践は至る方法としては重要なウエイトのものです。

やるかやらないか選択肢の問題ですが、
私はそれをやらないわけにはいきませんでした。

なぜなら、
その時の私は肉体としての自分では無く精神体としての自分を生きていたからです。

修行のステージを上げて行くと言うのはこういう事を言うのです。

88 ラピ。 :2013/10/05(土) 04:36:25
☆TK師

師匠、いろいろありがとうございます。
補足させていただきます。

私のそのヨーガの技法は第2の実践なのですが
これは起きている間中ずっとしていました。

もちろん、普通に生活してましたので
(山に籠ったりはしてません(笑)
ご飯を食べてる時も、仕事をしてる時も
何かをしてる時もずっとです。
それが実践です。例外なしの日常での実践です。

この実践により、私は闇に放り出され
自分が消えそうになりました。

実際、消えた瞬間がありました。

でも完璧に消えることができませんでした。

ただ、この時に得たものが「からっぽ」でした。

でもこのからっぽも簡単に得た物ではありません。

闇から帰ってた時に、精神と体が分離した状態になっていて
今までどうやって体を動かしていたかわからなくなってました。

ちなみに闇に突入する前にも分離した状態であり、
(第1の実践で自分が否定さる出来事があり、どん底状態でした。
そこから第2の実践が始まりましたので)
日常の生活をするのが常に意識的でしかできなくて
(そうでないと、腕一本、あげることすらできなかった)
常に実践せざる得ない状況でありました。

ただ究極の消える体験をしてからは、その実践ができなくなりましたので
ただただ、相対的世界(此岸)に一生懸命帰ってきました。

ちなみに究極の消える体験の前も
何度も消えそうになる体験はしています。
それでも実践はやめなかったので究極の消える体験までいきました。

究極の消える体験をしてからは
赤ちゃんに戻って全ての行動を一からやり直していく感じでした。
そうやって帰ってきました。
ある意味、一度死んで、生まれ変わった感じですかね。
「私」をもったまま それを体験した、という感じです。

この一からのやり直しのおかげで
「私」はまだいましたが純粋に行動することができるようになりました。

(普通、赤ちゃんから成長してすべてできるようになるのは
いつの間にか だと思いますが
この時の新たなる私の誕生の時は
「私」があるままで全てを始めました。

ひとつひとつの行動を「私」が存在しているままできるようになっていった
という感じですかね。
無意識ではなく、意識的に、という感じです。

赤ちゃんの頃は「私=エゴ」はある意味いなくて
いつのまにかできるようになる感じ、
気付いたらできていた、という感じですよね。

私の場合、「私」という意識を持ったまま生まれ変わった経験ができた、
という感じですかね。

1つの行動があたり前にできるって、
ほんと実はすごいことなんですよね。
それがどうやってできるようになったのか、
考えてもわかりませんよね。)

今できる当たり前の行動を
ひとつひとつ、意図的にするようにしたらわかるのですが

私たちは実は何もしていなかった。

無意識に思考のまま生きていたのです。

そして赤ちゃんの状態から「私」をもったまま歩き始めて
思いに頼らない動き=純粋なる動きができるようになりました。
=からっぽです。

ただし、まだ「私」はおりました。

そのからっぽは「私」が意図しなければ空っぽではなかった。
その意図する私がまだいた。

私は「からっぽ」そのものではなかった。
その「からっぽ」そのものになることが悟りであるのだろう、
と直感的に思いました。

それになるために、最後の激流を渡る決心をし
それを達成しました。

からっぽなる私を超えて
からっぽそのものになりました。

@(*・ω・*)ポッ

89 滝沢 :2013/10/05(土) 16:19:50
TKさま、ラピさま

愛のこもったメッセージありがとうございます。
色々とありがとうございます。
メッセージからくる波動に、ただただ、感謝です。

ご返信しようと色々書いてみたものの、
どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。

すいません。表現できず。。

失礼します。

90 TK :2013/10/06(日) 08:48:47
滝沢さん

>ご返信しようと色々書いてみたものの、
>どんな発言も空を切ってしまうので、消してしまいました。

まともな実践とはそういうものです。

質問すら出てこない。

なぜなら、質問も疑問も捨てられてしまうのですから。

私は今まで対話のピンポン遊びをやってる、
自称実践者といういかがわしい事をして遊んでいるエセ実践者を多くみました。

あの者たちは、
低次元のアストラルと言う次元での住人として楽しんでいるのですが、
絶対にあの者たちがそれより上の次元に上がれることはありません、断言します。

生きているうちよりあの者たちが死んだ後にその違いは明らかとなります。

あなたには分かるでしょうが、あの者たちの善も悪も無いと言っているのと、
私が善と悪が無いと言っているのは、表現だけは同じでまるっきり別物です。

それを知っている我々は、釈迦もそうでしたが、あえて善も悪もあると言うのです。

ただ、似非賢者の特徴は善も悪も無いと説きますから、
この辺が判断基準になるところです。

我々は善と悪はあると説きます、似非賢者は善と悪は無いと説きます、
なぜこのような違いが出るかと言うと、
我々は善と悪を無くするための善と悪の利用の仕方を知っているからです。

似非賢者はこれを知りません、ですから、
本からの受け売り知識しかないので善と悪は無いと理屈をこねまわして説いているのです。

しかし、真実は理屈が無いから善も悪も無いのですが。

私は実践時に幽体離脱と言うツールが使えましたので、
どんな実践をすると肉体を抜けた後はどうなるか、
繰り返し繰り返し確認する術がありましたが、
肉体と言う異次元交流のための便利ツールをまとっていると、
違いがはっきりしませんが、死んだ後には大違いです、しかし、
その時には後の祭りです。

あなたは、確実に次元上昇のプロセスを上がっている、
アセンションを果たすべく本物の実践者です。

次元上昇による行動方式が変更される過渡期はあなたのようになります。

これが本当の次元上昇です。

マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

あなたのような本物の実践者のために我々がいるのですから。

エセ実践者は、
目的が違いますから自らの誤認による覚者と戯れているとちょうどいい、
その二つがバランス的に釣り合うものですから、
両者ともそれで楽しい時期なのです。

堂々巡りを回っていても自分たちもそれで楽しいのですから、れはそれ。

「理解」と言うキーワードで結びつくのが、誤認やエセの結びつきですが、
本物は「理解と言う低次元行為をすっかり捨てて」合一に向かうのです

「理解を捨てて」、
この一言はあの酔っ払い(恐らく死ぬまで)の人たちには通じないキーワードなのです。

私は激流の実践時は「理屈」はすべて捨てました。

我々本当に次元上昇した者は「理屈」がありません。

今ここで述べているものも、
聞く者にとって理屈でも我々にとっては「理屈」ではなく、ただの言葉なのです。

これが次元の違いなのですが、エセ実践者も自らの誤認による覚者も、
本当にこれが分からない。

好きで酔っぱらっているのですから、
それはそのまま構わないでおくことが賢明なのでしょう。

エセ実践者ばかりを目にしてましたので、
あなたのような本物の実践者を見るとこちらもうれしくなります。

91 TK :2013/10/06(日) 09:16:06
地獄と言う表現について、なるべくわかりやすい言葉で説明するならば、
一例で言えば悪いことをして刑務所に入るのにかなり似ていますね。

実際は恐らく刑務所などと言うそんな生易しいレベルのものでは無いと思いますが、
しかし、規則正しい生活を送らされてお勤めをさせられる、
禅寺などの修行環境と、刑務所はどこか似ている点があると思います。

そもそも刑務所も、人間を修養するための施設の一つと言う意味では、
似ていても不思議ではありません。

私が激流や地獄と表現するものは、
これらの機能をさらに倍増させたようなものなのです。

よく、囚人生活の映画とか見たことがありますが、
実際は刑務所と言えども懲役で働かせられているだけではなくて自由時間もある事でしょう、
しかし、これに対して私が激流や地獄と言うものに対しては、
就寝時以外の意識のある限りは、マインドに自由を一切与えない、
このような実践になります。

標準的な人間の感覚なら、
マインドのままに自由にできる時間を自由時間とか休憩時間とか表現していますが、
それを一切自分の生きている生活の中から排除するという事を指します。

マザー・テレサは愛の反対は無関心であると言いましたが、
この意味をさらに詳しく解説するなら、
自分のマインドの動きに無関心で居てはならないという事なのです。

至る前の人間は必ず、遭遇する出来事に対してマインドが動きます。

無視してもマインドは動いているのです、なぜなら、その「無視」そのものが、
既にマインドが動いているという事なのですから。

本当に至った者の辿り着いた状態としての無関心は、無視すらしないのです、
一般の人には逆立ちしてもこのような事は出来ません。

善と言う判断が僅かにでも起きたなら「必ず」無視しないで実行に移しなさい、
悪と言う判断が僅かにでも起きたなら必ず無視せずに絶対にそれをしてはいけません。

就寝時以外の意識のある限りにおいて常にこれを実行しなさい。

これ本当に口で言うのは簡単ですが、実行に移すと偉く困難性の高いものなのです。

肉体上の行動の自由を規制するのが刑務所なり禅寺などの修養機関であるとすると、
更に突き進んで、
メンタルの自由を就寝時以外の意識ある限り規制するのが激流の実践なのです。

更に激流の実践では善とマインドに僅かにでも浮かんだら、
100パーセントの行動を起こさなければなりません。

つまり、マインドも、行動も生きている生において一切の自由が無い、
これが実践の真実です。

刑務所は生易しいと思いますよ、
いくら行動を規制されても大元のマインドまでは規制されませんから。

所が、大元のマインドを自らで100パーセント規制したら、
行動の自由も一切ありません。

つまり、行動、メンタルともに牢獄の中という事です。

この実践で重要なのは例外無しの100パーセントと言う言葉にあるのです。

生きている意味が無いと感じますよ、でも、
それが至ると生きている事の最も重要な意味だったのだと言う事が分かります。

至った我々には生きている意味はありません、
この状態で楽々生きているのです。

至る前の者は変な所は真似せずに、
このような所こそ至った者の真似をしなければならないのです。

一般の人には意味なく生きる事はこの上なく苦痛です、
至った我々はそのような状況に常に楽々生きていますが、
これが次元の違いからくる苦痛なのです。

この、「意味なく生きる」事こそ真似して、
そのことから受ける苦しみを充分に味わって下さい、
それこそが真実の「激流」の実践なのです。

92 ラピ。 :2013/10/06(日) 11:40:42
TK師 滝沢さん
貴重なお話、いつもありがとうございます!

私がかつて実践していたときは
はじめは何も疑わず、自分を信じての実践でした。

そのあと、信じていた自分が信じられなくなる出来事がありましたが
それでもあきらめずに実践を行いました。
(ちなみに至ると 信じてた「自分」は消えます)

実は「師」はいらないと思ってました。

、、、本物の師なんて いない って思ってました。

だから自分だけで長年歩いてました。

TK師に初めてメールをしたのも
師匠を探していたのではなく
私が今どの位置にいるのかを知りたくてコンタクトしました。

でも最終的にTK師は「本物」であると確信しましたので
師を信じ、激流に飛び込みました。

実践中にいろんな疑いが出てくるかもしれませんが
それはすべて「エゴ」の声で
もし、その声に従って疑問をもって実践がおろそかになってしまったなら
それこそ、「エゴ」の思うつぼです。

だからひとつのことを決めたならどんなことがあっても
最後までやり通す、できなくなるまで続ける
くらいの決心が必要です。

ひたすら清き道を進んでください。
疑う時間を持つ暇もないほどに。

大丈夫です。

清き道を歩かれているすべての皆様。

@(*・ω・*)ポッ

93 滝沢 :2013/10/06(日) 18:46:40
TKさま、ラピさま

精妙なニュアンスに共感いたします。
何も言えないです。
ただ、受け取らさせていただきました。

失礼いたします。

ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
そのままコメントしないでおこうと思います。
掲示板は毎日チェックさせていただいておりますので。。

94 TK :2013/10/06(日) 19:30:11
滝沢さん

>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。

もし、
あなたに対してのコメントであるとあなたの中に判断が起きた時にはコメントは返してください。

理由は分かるでしょうか。

あなたの徹底できていない部分の実践が、
ここで明らかになったのです。

あなたは、あなた独自の意思表示について、
非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。

あなた独自の意志表示をしてもらっては実践上は駄目なのです。

この場合はコメントを返さない事があなた独自の意思表示となってしまうのです。

至った我々には意志と言うものがありません。

しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。

「緩流」では無く「激流」であると言う意味は、
細かい部分に至ってまで神経質なほどに見逃してはならないという事です。

95 TK :2013/10/06(日) 20:08:54
滝沢さん

>至った我々には意志と言うものがありません。
>
>しかし、そうなるために自分の独自の意志はあえて潰す実践をしました。

この件について少し。

マタイの福音書 5章39-42

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
>
>あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
>
>あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。
>
>求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。

イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。

紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。

>ラピ様、こんなコメントで掲示板汚してしまってごめんなさい。
>以後、何か自分で表現、もしくは体験がない場合は、
>そのままコメントしないでおこうと思います。

マインドを働かせすぎです。

ラピ。さんから掲示板が汚れて迷惑とでも言われましたか。

これは紛れもなく、あなたの保身混ざりの妄想(マインド)です。

丸見えですよ。

96 滝沢 :2013/10/06(日) 23:57:50
tkさん
愛をありがとうございます

そうですね。状況書いてみようと思います。
さらなる激流現れてきません。
自分を意図的にいじめられなくなっています。なので生活を淡々としていく感じです。
頭はからで意識は頭上遠くに拡散されております。
完全にぽっかりサハスラーラ大きく空いている感じです。
体も虚無の真っ黒な空間に感じられます。実際に視界に入れば肌色です。
自分の思考が来てもどんどん高速に過ぎ去って行くように感じられます。
道の真ん中に立って車が200キロぐらいで頭の中をヒュンヒュンと通り抜ける感じです
自然の素晴らしさに関しては全身で愛や慈悲を感じ、散歩中に自然をじっと見ているとサマディ起こります。

97 滝沢 :2013/10/07(月) 06:33:06
tkさま

あのメッセージを書き込んだ後、
体に震えがおきまして、
一晩中意識がどこにあるかも分からず、
体は死んで思考も死んで、あの虚無空間の中ただいる中、
虚無空間そのもので、赤ん坊のように丸まって過ごしました。
まさに赤ん坊のように丸まるのが一番落ち着き、必然的にそうなりました。

いくつか意識がある時の感覚を思い出せます。
虚無空間に対する恐れ
お腹の中が洗濯機でグルグルかきまわされて気持ち悪さ。
頭の中は光の高速な点滅、もうろうとする意識。

2、3時間は、眠りについていたようです。
幸いな事に眠くありません。

虚無空間にこれほど長くいたのは初めてです。
理解を超えた体験でした。

98 滝沢 :2013/10/07(月) 06:52:03
tkさま

私にメッセージを出すよう促していただいた事、感謝いたします。
メッセージを読んだ時に一つのリミッタが外れ、震えの後、虚無が一気に吹き出したたように感じました。

99 TK :2013/10/07(月) 07:15:47
滝沢さん

私の言葉に反応が起きるのは、あなたにはまだ確実に、自我があるという事です。

この残った自我こそが、
激流を渡るイカダの正体ですからうまく利用しないと駄目なんです。

私に出会う前のラピ。さんの段階に似てますね。

自我が少なくなってかなりの楽が実現できているのです。

ラピ。さんは私に会う前にその段階で、悟ったと誤認してました。

とにかくまずは空っぽを確実なものにして下さい。

それと、実践できる限りは実践するという事です。

本当に激流を渡り終えたら、実践はいくらやりたくても不可能になるので、
ラピ。さんのように

おのずとわかります。

今のあなたの段階でも充分に楽は実現できている、
その先に進むかはあなたの問題です。

ラピ。さんは進みたいと言う強い意志がありましたから。

100 ラピ。 :2013/10/07(月) 07:40:20
みなさまおはようございます!

☆滝沢たん

掲示板に書き込むことで気付くこともあると思いますので
どうぞ、思うものがあれば書き込んでね。

ちなみに彼岸の前には必ず激流があります。


☆TK師

そうですね。
ということは滝沢たんは今まさしく
チャンスの時、ということですね。

@(*・ω・*)ポッ

101 滝沢 :2013/10/07(月) 09:18:56
自我をイカダに激流を乗り越え至るですね
了解いたしました

102 TK :2013/10/13(日) 11:01:39
私は決死の状況で激流を渡ったが、
はたしてこのような道を他の者が渡れるものだろうかと思った。

何人もの自称道の者と言う者たちに出会ったが、どれもこれも、
私が折角命がけで見つけたものだったが、
いつしか私はもう誰にも道案内などしなくて良いと思っていた。

しかし、少なくとも一人道案内したら至ったんだ、
だからもう一度ここで少し話をしてみている。

ただし、至れる者とそうでない者の違いで気が付いた部分がある、
三止三請と言う言葉を聞いたことがあるが至れる者と言うのは
私が教えないと言えば三度でも四度でも教えてくれと迫ってくる者だ。


大パリニッバーナスッタンタ3・40(ブッダ最後の旅)
>もしお前が修行完成者に懇請したならば、
>修行完成者(=ブッダ)はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが、
>しかし三度まで言ったならば、それを承認したであろう。


それくらいの意志の強さの無い者には、教えても無駄だと言うことが分かった、
これは「激流」なのだから、
意志の強さの至らない者は「激流」の流れの方が勝って流されていく。

私は本物の「激流」を説く者だ、
あちらこちらの「緩流」で一生涯賢者ごっこを続けたいような者に私は用はない。


マタイの福音書 16章21-23
>その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、
>律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、
>そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
>
>するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。
>「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
>
>しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。
>「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。
>あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」


ヨハネの福音書 13章8-9
>ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」
>イエスは答えられた。
>「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
>
>シモン・ペテロは言った。「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」


「あなたはわたしと何の関係もありません。」はすなわち
「下がれ。サタン。」と同じ言葉として使われている。

ペテロと言う人物の中に住んでいる者がイエスから「サタン」と呼ばれている者だ。

そして、それを釈迦も「悪魔」と呼んでいた。

実は私が実践者だった頃に、私はペテロと言う人物とは違って、
イエスに言われるまでもなく自分で自分の中の「サタンと言う者」を見抜く精度の目があった。

つまり、ペテロがここで述べたような事は私は他者から指摘されるまでもなく、
自らで出来なかったという事だ。

このペテロの言葉の中のどこがサタンだと言うんだと思う者も多いだろう、
私ははっきり言うが、そう思う者が既に「サタンという者」に乗っ取られているからそう思うのだ。

「サタンという者」に自らを乗っ取られていて、それを自分だと思い込んでいて、
さらに気持ち良いとか言っているんだ。

これは、私が述べているみんな次の内容にかかってきているものだ。

>イエスの教えのこの実践内容の本質は何だかわかりますか。
>
>紛れもなく自分独自の意思表示を「従順」を利用して封じるための教えなのです。


他者の意志を自分の独自の意志表現で妨げてはならないという事だ、
これをペテロと言う人物がやった、
だからこの者は「サタン」に乗っ取られた者とイエスから呼ばれた。

イエスが盲人に手引きをさせないのは、
この盲人の独自の意志表現がイエスが話した「サタンという者」に乗っ取られた行為になるからだ。

至った我々に意志はない、すなわち、このようにならなければ、
語る言葉には細心の注意が必要なのだ。

>「あなたはわたしと何の関係もありません。」「下がれ。サタン。」

(続きます)

103 TK :2013/10/13(日) 11:02:20
(続きです)

以前も自称道の者と言うバカな者に、あなたの表現するそれは「識別」ですとか、
間抜けさらけ出しまくりの、
ヨーガやってるとかインドで習ったとか言うエセ実践者がいたが、
その者こそ私に対しての独自の意志表現すなわち「サタンという者」に乗っ取られていた。

私と対等に議論などしたら、カルマを背負うのは相手だけだ。

イエスの説いた「従順」の実践、
この実践を私がやっていた時に時々私をある種の不安が襲った。

私は自ら進んで私の持っている個性とか独自性とかオリジナリティーとかアイデンティティとか、
そのようなものを完膚無きまで意図的に意志を振るってことごとく徹底的に私の中から潰して排除する行為をしているのだが、
このような方向性の道を歩んでいる私はどうなるのだろうか、
「このままでは私は私で無くなってしまう」。

しかし、
私には進むしかなかった、私には「サタン」を見抜く目が与えられていたからだ。

「このままでは私は私で無くなってしまう」この声がサタンという者の声だと私には見えているのでこの声を無視する、
すなわち進むしか手が無いという事になる。

「サタンという者」と一緒にいて、
それで良しとして気分が良いと言うものたちの私には気がしれないがね。

私の話を聞いて進む者は、
私と言う結果を見て実践するのだからまだ進んでいく事にためらいはないだろうが、
私の場合は文字通り自分自身を実験台そのもので率先して個性、独自性、
アイデンティティなるものを自らで片っ端から徹底的に潰していくと言う行為は私には非常に恐怖だったよ。

ただし、「私はとても大変だった」、この表現は好ましい表現なのだ、
大変な環境が作り出せれば作り出せるほど、
激流度合いが増して早く渡れる事に繋がる、
知っててやるより知らないでやる方が激流度合いが増して早く進めることになる。

このような理由から、有能な指導者と言うものがもしいるのなら、
理由を説明せずに理不尽を無理やりやらせる、
このような手段を取り入れる事だろう。

大変(激流)を避けて通りたい者など、
所詮、彼岸(神の国)へのアセンションは無理だからやめておくことです。


マタイの福音書 18章2-3
>そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
>
>言われた。「まことに、あながたがに告げます。
>あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。

ここで述べた実践がイエスの説いた子どもたちのようになるための実践にあたります。


あとネット上でエセ賢者とエセ実践者も良く目にしたが、彼らの特徴は指導する、
それを受けると言う事を利用して、
その正体はその場の雰囲気を楽しんでいる者たちだった。

そして、時々、自分たちはこのような真理を学んでいない多くの者たちと違って、
学んでいる分だけ優れているんだ的な無意識の固定観念を自分自身の中に宿している。

エセ実践者とはこう言うものだ、しかし、
真実の実践とは私が何度もここで話している通りで、
この自分は世界の中で一番劣った者で他は全て自分より優れた人たちなのだと言うポジションこそが、
アセンションの入り口なのだから全く違うのです。

エセは善も悪もないとか言っていますが、これも、本質とは全くの別物で、
至った後の賢者の状態をあの頭の悪い人にわかるようにカスタマイズしなおすと、
善の想いも、悪の想いも、善も悪も無いと言う想いも、
そもそも「想い」そのものがないと言う意味なのです。

善も悪もないと言う想いを抱けなどと、誰も説いていないのですよ。

善も悪も、善も悪も無いという想いも無いと説いているのです。

エセ賢者が「理解」を説くが、これはエセと言う証です。

最終的に「理解」は消えますが、
実践段階でも「理解」無く進む事に優れた価値があるのです。

104 ラピ。 :2013/10/13(日) 23:24:41
☆TK師

いつもありがとうございます。

私の通った道も、どの瞬間も気を抜かず、抜けず
必死の道でした。

ある意味、「エゴ」との勝負です。
エゴに自由にさせる時間は全く持たせず、
徹底的にやっていくのです。

この道は簡単、楽ちんではありません。

自らその選択をする人だけが
誰かに何も言われなくてもその道を選んで進んでいくのだと思います。

彼岸の前に激流があると言われていますが
まさしくこれは激流です。

彼岸に渡ろうとする者に対して 
大きな抵抗が彼岸の前に立ちふさがっています。

でもあきらめなければ門は開かれます。
あきらめればそれで終わり。

本気で真剣に実践してる人にとっては
「あきらめる」という選択はできないと思いますが。

ちなみに師とのかつてのやり取りについて
参考になるかもしれないのでちょっと書いてみます。

初めの頃は 自分のそれまでの「知識」というもので
師にメールしていましたが
それらはことごとく否定されてしまいました。
(ちなみにこの知識は必要ありません。
道の妨げになります)

いろいろ否定されて、何がなんだかわからなくなり
どうしていいかわからなくなりました。

最終的には
「あの、私わからなくなりました。
どうしたらいいですか?どうしたらいいですか?」
という言葉になりました。

師は「本物」である、という直感がありましたので
師を信じて実践することにしました。

今までの知識をすべて捨てて一からのやり直し。
まさしく何も知らない一番低いものとして実践させていただくと決心し
やりとげました。

@(*・ω・*)ポッ

105 TK :2013/10/14(月) 18:31:49
マタイの福音書 18章2-3
>そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
>
>言われた。「まことに、あながたがに告げます。
>あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。


誰も子供時代が無い者はいません、つまり、
成長する過程でだんだんとカルマの世界にはまってくるという事です。

「子どもたちのようにならない限り」、
ここからわかる事は科学さえ進めばこの世界全体の次元上昇は可能だと言う理論も浮上してくることになるかもしれません。

つまり、生まれた最初は良かったのに、
成長の過程で低次元になってくるという事なのですから。

まず、生まれてくる子供に罪はないと言いたい所ですが、
貧困地域に生まれる子供もいれば、裕福な資産家の家に生まれる者もいるし、
人には生まれながらにして差があります。

カルマと言うものがあるとして、そのほとんどがどのような環境に生まれるかで、
決定づけられると言っても良いです。

例えばどこに行っても虐められる者がいるて、
虐められない者はどこでも虐められないと言う現象がある点を捉えれば、
虐められる者の中に虐められるための原因があると考えるのはこれ以上無いくらとても科学的な考え方です。

人の一生の幸、不幸を左右する性格はほとんど全て生後に親から収集したものです。

つまり、どの親の元に生まれるか、
カルマと言うものがあるとしたらここでかなりの部分が決定づけられます。

エゴの無い子供の段階からどんどんとエゴを収集して、
幸福なあるいは不幸な人間になって行く。

子は親の背中を見て育つとか、三つ子の魂百までもと言う言葉がありますが、
これが一生を左右していく事になります。

私などの悟った人間であったとしても、出力形態としての行動パターンはやはり、
親から収集したようなものが基本となっています。

これは、日本人であれば日本語を出力して表現するのと同じことで、
悟った者も何らかの行動パターンで行為を出力する以上、
その基本は親から収集したパターンで編成されるという事になると思います。

ただ、収集元の親との大きな違いは、
悟った者の場合はあくまでも仮の出力形態でしかないという事なのです。

私はこれを疑似エゴイズムと呼んでいますが、
即ち行為はあくまで我々の仮の姿なので状況に応じてパターンの編成は自在と言う意味です。

ただし、
悟る前の者は親から授けられたそれそのものの狭い中で右往左往するしか手がありません。

親を呪ったところで仕方がありません、
もっと親が金持ちだったら自分はこんなに苦労しなくてよかったのにとか、
親がもっと出来た人間だったら自分はもっと良かったに違いないとか、
あんな親のようにはなりたくないと反発しながら、その、
反発を通して親と同じ特性を身に着けて行くと言うエゴの特性があります。

自分は親とは全く正反対だと思っているのは本人ばかりで、
思考のパターンはほとんど親と同じようになって行きます。

まず、実践者の取らなければならない第一の方法は、
自分の「理想」と言うものをしっかりと持ち、
それの実現に向けて精一杯生きる事です。

親と話し合いと称した議論するも良し、対立する事もあるかもしれませんが、
そうやって、「理想」を精一杯生きてみることです。

これがすなわち「ワクワク」の次元の実践段階です。

(続きです)

106 TK :2013/10/14(月) 18:32:26
(続きます)

「ワクワク」は私が見る限り低次元アストラルで、
釈迦やイエスの教えのレベルと比べれば、それより遥かに下の次元の内容です。

物事には順番と言うものがあって、
この「ワクワク」と言う低次元の段階を精一杯やりもしない者は、
その先には進む事はできません。

その意味で「ワクワク」と言う低次元の段階の実践は必要な実践という事になります。

ここだけはスピ系は当たりだったと思います。

自分の親から与えられた「エゴ」のコマを充分に利用して「理想的」な生き方をしてみるという事です。

釈迦やイエスの教えは、「ワクワク」の実践を終了した段階の者のための教えです。

もちろん当人は釈迦やイエスの教えの実践に入るまで、
自分は親とは正反対だと思い込んではいるのですが。

ワクワクの次の段階に進んだ者の実践内容を記します。

マタイの福音書 15章4
>神は『あなたの父と母を敬え』、
>また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。

反発する事で同じエゴを収集して来たのですから、
「従順」にする事によってエゴが解けていくのです。

エゴの中にいる人にはこの理論分かりませんね。

この実践をしていると面白いように、
自分の反発は親の特性とそっくり同じであったことをまざまざと思い知らされます。

この実践では親に神をオーバーラップさせて、敬い従順を実践する形となります。

親に対して馴れ合いでは無く、礼儀を重んじた他人行儀の接し方となります。

自らの中のエゴを落す手段は、
自分の外の人のエゴを利用するしか手が無いと言う原理があります。

即ち、自分にエゴをふるってくれる人が居なかったら、
自分の中のエゴは落とす事は出来ません。

自分に対してエゴをふるってくれるその振るわれたエゴに対抗せず、
従順に接する事によって、エゴは落ちるのです。

これはすごく科学的な理論です。

「従順」と言う行為そのものが、
「対抗」があって初めて成立する相対の原理でエゴを減らす作用の善玉エゴですから。

これは、本当に凄い実践でしたね、親からも気持ち悪がられるし、
反対にやめろと言われるし、
それでも実践は最優先なのでこの場合は実践を優先していいのです。

「従順」の実践中であったとしても、方向性のぶつかり合った選択肢の場合は、
優先順位を付けた選択と言う手段が許されます。

実践者を続けたければ実践は命に代えても最優先事項です。

親を神のように敬い他人行儀に礼節をもって従順にするたびに、
親のこの性格が自分の中にもあった、親のあの性格が自分の中にもあったと、
次々と親から収集した自分の性格の客体化が自らの中で起きてきます。

間違ってもこの実践の際は、駄目親と言う判断は許されません。

どんな親の行為に対しても神として敬い従順です。

実践とは「激流」なので、当然危険も付きまといますし、
アセンションを志す者はそれを自己責任でやってもらうしかありません。

いやなら、アセンションはあきらめる事です。

このような奥義の数々を、気安くさらしていいものかとも思うのですが。

この先を、どうしてもという者は、メールという事になりますが、しかし、
それほどの志の者がいるとも思えませんし。

危険な部分も無いような行法など、
真実の行法とは言えないしそれをあえて仰々しく「激流」などと呼びはしません。

聖書というものがほとんどどこの書店でも売られていますが、
あれを真実に解釈できたなら、
あのような危険な本を良くどこの書店でも置きますねの話しになると思います。

つまり、いかに真実は何も伝わっていないという事を指します。

至った者は至れるような読み方をしているわけですが、
至れない者は至れるはずの無いような読み方をしています。

本質的にあの聖書に記載されている実践法をやれば誰でも至れるはずなんですが、
ただし「激流」です。

イエスは磔にされましたし、踏み絵を踏めなくて拷問にあった者も過去に居たし、
この「激流」と言う言葉は生易しいものでは無いと言いたいのです。

107 実践マン :2013/10/15(火) 19:55:58
TK先生

上記のお話、たいへん有難いです。
親に反発して、自分の理想を実現しようと気のすむとこまでやりました。
今は、親に従順であろうと奮闘中です。

一年ほど前に親の満足する家(親の近所)に引っ越しました。
それから、親の不倫が発覚し、怒り責め立てるエゴを落としました。
それがきっかけで、エゴが出てこないように、他人行儀な態度に変わりました。
介護をする覚悟です。

時々、親と主人との意見が割れます。
基本的には、親にも主人にも従順であろうとしていますが、実践を第一とするならば、親を優先でしょうか。

108 TK :2013/10/15(火) 22:23:45
実践マンさん

>それから、親の不倫が発覚し、怒り責め立てるエゴを落としました。

何で怒り責め立てるエゴを落としたのですか?

ここが問題なのです。

これ次第で私の回答が変わるのですよ。

109 実践マン :2013/10/16(水) 05:04:04
TK先生

ありがとうございます。

>何で怒り責め立てるエゴを落としたのですか?

他の家族のために、私がこの怒りをおさめなくてはならないと感じました。
「私の」親と思うと怒りを感じたので、他人と思い、甘えを無くすようにつとめました。
他人と思うことにより、感謝の気持ちが出てきました。
再度、怒りの気持ちが湧くこともありますが、親がいてくれるからこそ怒りが湧くことに感謝しています。

110 滝沢 :2013/10/16(水) 07:04:40
TK様、ラピ様

ご無沙汰しています。

突然、光明が起こりまして、探求終えた事を確信しました。

ラピさんの至った後のおっしゃっている事がよく分かりました。
また、TKさんの自我への考え方がよく分かりました。
お二人の愛に感謝いたします。

今は、子供のように、淡々と平穏な生活を送っております。
本当に普通で、戻ってきたという感じです。

色々とありがとうございました。

111 TK :2013/10/16(水) 18:05:46
実践マンさん

>時々、親と主人との意見が割れます。
>基本的には、親にも主人にも従順であろうとしていますが、実践を第一とするならば、親を優先でしょうか。

実践マンさんの場合理屈の範疇で生きてますから、
実践と言っても理屈で解決する実践ですね。

どちらと決めてしまうよりも、状況に応じてという判断が的確だと思います。

理屈で解決できなくなったその時には、その先の進み方がありますから。

精一杯に実践すると言う事さえあれば、いかなる場合でも先に進めると思います。

112 TK :2013/10/16(水) 18:08:13
滝沢さん

>突然、光明が起こりまして、探求終えた事を確信しました。

僅かのこの文章から、私なりの判定は不可能ですが、たとえ、
誤認であったとしてもあなたなら、自分だけでも進んでいけると私は思います。

とりあえず、良かったですね。

113 滝沢 :2013/10/16(水) 18:33:50
TKさま

光明の後、起こるがままにtkさんおすすめの聖書、ブッダの2冊を買いました
何度も読み返したここの記事を広く理解したいなと思いまして
正直、光明起こってもそれで探求は終わりですが覚者の物語、深い理解こそが、この生を全うすることだなと思っております

114 ラピ。 :2013/10/16(水) 23:01:40
☆滝沢たん

今、平穏な生活を送られているのですね。
ほんと、よかったです!

ちなみに至りますと、
もう自我がありませんので
勝手に自我がどういうものだったのかわかってしまいます。

今まであったものがなくなってしまうので
その違いというのですかね、それが分かってしまいます。

至ってしまえば
自分の存在が真実そのものになりますので
どうぞ、いろいろ表現してみてくださいね!

@(*・ω・*)ポッ

115 TK :2013/10/16(水) 23:22:59
滝沢さん

>光明起こってもそれで探求は終わりですが

この言葉が誤認ではなかったとしても、
あなたにはまだ明らかにしていかなければならないものがあるはずです。

まず、あなたの今いる所はまだ、私やラピ。さんの居る彼岸ではないですね。

実践は捨てないでください、成就すればひとりでに消滅します。

あなたが怠ることなく実践を続けたなら、必ず成就出来る事でしょう。

釈迦もそうでしたし、私もそのようなプロセスを踏んでいますが、
自分で辿り着けた光明を師として進んでいけばいいのです。

私の紹介した本を持っているのなら、
悟りを開いた間もない頃の釈迦の言葉が載っています。
まだ、悟りを確実なものに出来ていないことが分かります。


悪魔との対話(相応部経典6−1−2)

>3.そのとき尊師は次のように思った、−−−「まだ完全に実践していない戒めの体系を完全に
> 実践するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活し
> たいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉
> やバラモンや神々や人間を含めての生きもののうちで、わたしよりも以上に戒めを達成し実
> 践している人なるものを見ない。−−−わたしは、その人をこそ尊び敬いたよって生活したい
> のであるが。
>4.未だ完全に実践していない禅定の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>5.まだだ完全に実践していない智慧の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>6.まだ完全に実践していない解脱の体系を完全に実践するために、わたしは他のバラモンま
> たは〈道の人〉を尊び、重んじ、たよって生活したいものである。
>7.まだ完全に体得していない〈われは解脱したと確かめる自覚(智慧と直観)〉の体系を完全に
> 体得するために、わたしは他の〈道の人〉あるいはバラモンを尊び、重んじ、たよって生活し
> たいものである。しかしわたしは、神々や悪魔や梵天を含めての全世界のうちで、〈道の人〉
> やバラモンや神々や人間を含めてのすべての生きもののうちで、わたしよりも以上に〈われは解脱し
> たと確かめる自覚〉を達成している人なるものを見ない。−−−わたしは、その人をこそ尊び
> 敬いたよって生活したいのであるが。
>8.むしろ、わたしは、わたしがさとったこの理法を尊び、敬い、たよって暮らしたらどうだ
> ろう。」

116 滝沢 :2013/10/17(木) 05:46:38
おはようございます

ラピさん
おしゃるとおりです
自我がわかってしまいました。

TKさん
読んでみようと思います
まだ1ページも開けてないです。。

117 滝沢 :2013/10/17(木) 07:45:03
http://www.osho-japan.com/vision/dec_enlight.html
TKさんラピさんのおしゃる事に近いと感じました

今は空っぽですが、生を楽しみたいと思います!

118 実践マン :2013/10/17(木) 09:45:30
TK先生

はい、理屈で解決する実践を精一杯頑張ります。
ありがとうございましたm(_ _m)

119 TK :2013/10/17(木) 17:48:06
滝沢さん

>今は空っぽですが、生を楽しみたいと思います!

これを今あなたがやったら、私やラピ。さんの所へは至れませんが。

しかし、あなたの選択肢ですから。

今のあなたは、私に出会う前のラピ。さんですね。

私はこの人に出会って更なる地獄に突き落としたのですから。

あなたには空間があるでしょ。

我々には空間は無いのです、あなたと同じ次元ではないのですよ。

120 滝沢 :2013/10/17(木) 18:36:46
実践がある実践もないも含めた
生を楽しむという表現をさせていただきました。
というのも実践が分からなくなってしまったためです。
もし、実践がはっきりすれば実践したいと思っています。
光明後、サタンが愛であると体験しました。
サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

>あなたには空間があるでしょ。
>我々には空間は無いのです、あなたと同じ次元ではないのですよ。

見られるものは見るものになります。
これを空間がないと呼べますでしょうか?

121 TK :2013/10/17(木) 18:56:50
滝沢さん

>見られるものは見るものになります。
>これを空間がないと呼べますでしょうか?

よべません。

今のラピ。さんもあなたのこの言葉には異次元から生じる違和感があるはずです。

まるで、私と出会ったころのラピ。さんのようですね。

彼女は私と出会う前のかなり過酷な実践をした成果で、
あなたの言う空っぽを実現して、私がまだまだ全然、
と言うのが分からなくてね、悟っていると言い張ってましたから。

122 滝沢 :2013/10/17(木) 20:13:17
書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

123 ラピ。 :2013/10/17(木) 21:41:16
☆滝沢さん

掲示板を見られている皆さんの
気づきのヒントになるかもなので
ちょっと話は戻りますが
書かせていただきますね。

滝沢さんの表現された言葉
「TKさんの自我への考え方がよく分かりました。」

ここなんですがTK師は「自我への考え」については
一度も書かれていません。

考えとは、人それぞれによって違うものであり、
正しい、正しくないというもの含んでいます。

人によって正しくなったり、正しくなかったりします。

師は「自我」という事実について述べられているのみであり、
それは絶対的なものであり、師の考えではありません。

そもそも至ってしまえば真実そのものになるので
表現することは「考え」ではなく「真実」なのです。


そして滝沢さんの引用されていたサイトですが

http://www.osho-japan.com/vision/dec_enlight.html

だから滝沢さんは「光明を得た」と宣言したのでしょうか?

この内容は「実践者」に対しての方便が書かれていると思います。

>もしかしたら光明を得ているかもしれないし、もしかしたら得ていないのかもしれない。
>そこに「もし」や「だが」はなかった。それは単純な言明だった。もう一度、繰り返そう。
 >あなたは光明を得ているし、そうであるしかない。

「もし」とか「だが」とか疑うことなく
光明を得ているものとして実践しなさい、ということです。

光明を探したり、求めたりするのではなく。

だから滝沢さんは「光明を得た」として
これから実践をしていく、ということですかね。


>もっと別の言い方をしてみよう。
>自分自身を光明を得た存在として敬うようになった瞬間から、あなたは誰しもをあるがままで光明を得た存在として敬うほかはなくなってしまう。

このように実践しなさい、ということです。

実際、至ってしまえば敬う対象は消滅するのです。

だから実践者にそう語られているのでしょう。


>見られるものは見るものになります。

この表現が滝沢さんの状態であるなら
残念ながら私たちの状態に至ってはないですね、、。

私たちの状態ではそんな表現はできません。


>書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

かつての私も似たようなことを師匠に言っていました。

滝沢さんは自分の言っていることが
私たちに伝わっていないとお思いでしょうが
実は丸見えなんです。

@(*・ω・*)ポッ

124 TK :2013/10/17(木) 23:06:20
滝沢さん

>書き込みをしていてこの次元での言葉の限界を感じてしまいました

滝沢さん、あなたはまだです。

実は私やラピ。さんは、同次元の者同士、打ち合わせなどしなくても、
この次元の者にしか通じない対話というものが分かります。

それは、本当に至っているからなのです。

ですから、あなたが限界を感じるのは、異次元だからです。

これが結論です。

ちなみにあなたの次元はこちらからは丸見えです。

125 TK :2013/10/18(金) 00:21:22
滝沢さん

私はあえて至った後の状態がどのようにあなたの表現と
相違しているのかというようなことをあなたには語りません。

理由は、あなたの悟りの誤認の元になってしまうからです。

私はここで前にも述べているつもりなのですが、至る前の者に、
至った後の者の状態を述べる事は害にこそなれ参考にはならないのです。

ただ、あなたはまだなのです。

あなたの特性も大体掴めています。

とにかく自分独自の方向で行きたいのだという傾向が強い方ですね。

それはそれで構わないと思います。

あなたがここで明らかにした経験から、
あなたならそれでも進んでいけると思えるからです。

ここで、至ったと誤認して甘んじてしまう事さえなければです。

私も究極が明らかになった時には、その後退転して、まだ此の岸の者でした。

その後になって次々と明らかになったものがあったのです。

なぜ、このような事が起きるのかと言うと、
エゴの力を悟りに至る推進力として使っているからなのです。

126 滝沢 :2013/10/18(金) 05:18:38
Tk様

ありがとうございます
真摯に受け取りたいと思います
道なき道ですね
全て計画済みで起こるがままパーフェクトに感じます

127 滝沢 :2013/10/18(金) 09:18:02
あえて回答する必要もないと思っていたのですがいちよう

ラピさま
Oshoのページで響いたのはあなたは釈迦でもないという部分とダンスするという部分です
Tkさんの釈迦の悪魔との対話の引用に通じる部分やラピさんの表現してくださいという部分に通じるなと思っています
また、光明が起きてから検索でoshoのページを見つけました

おっしゃる通り自我の考え方というより過去に起きた事の事例から受け取った私の理解という表現が正しいですね
言葉は難しいですね

Tkさま
私は独自の道を歩んでるわけではありません
ただ出会うがままに流れて行ってるだけです
たまたま掲示板を見て、同じような暗闇の体験をしたなと思いTk様、ラピ様に体験を報告し、それが縁で色々な事実を教えていただきました
そういったことはうやむやにせず、受け止めているので独自の道というより色々な人に影響を受けて今があると考えています

128 ラピ。 :2013/10/18(金) 20:09:42
☆滝沢さん

ここを見つけてくださって、そして書き込んでくださって
ほんとうにありがとうございます。

ほんとこれもご縁かもしれないですね。

Oshoの記事に関してですが、了解です。


>「TKさんの自我への考え方がよく分かりました。」

実はこの表現からも滝沢さんの状態がわかったのです。
私たちの状態では使えない言葉をつかってらっしゃるから。

普通に使っている言葉にその人の次元が現れています。

どうやってもそれは隠せないのです。
私たちはそれを見抜いてしまいます。

滝沢さん、かつての私と同じ状態であるとしたら
あと少し、でも遠いあと少しです。
次元を超えるには激流が必ず必要です。

穏やかなままで次元上昇はあり得ません。
私がそれを経験していますから断言します。

今回の光明に、激流はありましたでしょうか?


滝沢さん,私はかつて師の言葉が分かりませんでした。

自分の知っていると思っている言葉を使っても
ちっとも伝わってない気がしたし、
「何言ってるの??え・・??なんで???」という状態でした。
「????」でした。

だから、ついに降参し、一から始めさせていただく
と決心しました。

今まで得たものをすべて捨てて
初心者としての実践です。

この時の動機は実は
「師匠のいる次元に行きたい!」これでした。

ちなみにこの「師匠の次元に行きたい!」というのは動機であり、
実践するときはそれすらも捨てて、
ひたすら実践です。

おかげさまで今に至ることができました。

願望を抱いた実践では、至ることができません。

ひたすら実践することが大切です。

129 TK :2013/10/18(金) 20:38:30
滝沢さん

>あえて回答する必要もないと思っていたのですがいちよう

この辺もあなたは実践中の人のスタンスではないのですね。

つまり、シンプルではないという事です。

あなたは思考(マインド)的な振る舞い方が非常に多いのではありませんか。

実践者はシンプルがもっとうなのです。

マタイの福音書 5章37
>だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、
>『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。


実践中の私にはとてもあなたが今ここでしているような振る舞い方は出来ませんでした。

私はラピ。さんに関しては、かなり私への接し方で戒めた部分があります。

私は何度も宣言していますが実践者ではありませんので、
我々と同じつもりになって至る前の人が振る舞っていたら絶対に至れません。

あなたの立ち位置が高いという意味ですよ。

>Tkさま
>私は独自の道を歩んでるわけではありません
>ただ出会うがままに流れて行ってるだけです
>たまたま掲示板を見て、同じような暗闇の体験をしたなと思いTk様、ラピ様に体験を報告し、>それが縁で色々な事実を教えていただきました
>そういったことはうやむやにせず、受け止めているので独自の道というより色々な人に影響を>受けて今があると考えています

実践者にはとてもできないような受け答えの数々ですね。

>あなたは、あなた独自の意思表示について、
>非常に甘い感覚を持っていると言うことが分かりました。

>実践は捨てないでください、成就すればひとりでに消滅します。

この言葉、厠にでも捨てられたようですね。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

わかりましたか、
あなたが私の話すのとは違う独自の道を歩んでいるという意味が。

どうぞどうぞ、ご自由に。

130 滝沢 :2013/10/19(土) 08:28:04
TKさま

ありがとうございます

おっしゃられる通りです
やはり私は、まだまだ修行僧の身ですね
精進させてください

131 TK :2013/10/19(土) 10:31:05
滝沢さん

今、あなたがなにをもって光明と言っているのか私には分かりませんが、
前にあなたがここで公開された体験については、
束の間体験であれ相当のものと判断しています。

ですから、
その経験で辿りつけたものを師として確実なものにするべく歩めば良いと話をしたのです。

以前のラピ。さん同様の空っぽが実現できた程度なら、
実は以前のラピ。さんもあなたもそうですが、
私の目には全然空っぽではありません。

つまり、感覚が鈍い鈍感がもたらした空っぽの誤認と言う意味です。

ラピ。さんはさらに私の目を補助に使って、激流を渡りました。

132 ラピ。 :2013/10/19(土) 20:32:12
確かに今と比べるとかつてのからっぽは今とはまったく違います。

ただ、これからの道、
このからっぽも活かしてていけると思います。


>ラピ。さんはさらに私の目を補助に使って、激流を渡りました。

師には、自分の状況をお伝えしていました。
そしてその都度、言葉をいただきました。

滝沢さんも状態がどうであるかなどを表現されたら
師からの言葉があると思いますよ。

だから表現をおすすめしたのです。

至っていれば、表現でそうであるとわかるし、
至ってなくても今の状況について
言葉を頂けると思います。

私もなにか言葉にできるかもしれません。

そしてあとは実践あるのみです。

133 TK :2013/10/19(土) 23:39:26
滝沢さん

あなたは、私に出会ったばかりの至る前のラピ。さんの状況に近いですね。

私に出会ったころのラピ。さんは、空間認識の中に住んでいて、
空っぽの内面と外側があるというようなところで精神世間の知識をしこたま仕入れて楽々生きていたのです。

それで、私には自分は悟っているんだと言ってたんですね。

滝沢さん、あなたの表現の端々が、
私はそのあたりにいますと私には聞こえてくるのです。

ラピ。さんも私に出会ったとき、私の指示する内容が、
全く楽で屁でもないみたいな状況でした、
これ悪魔の声がかなり少なかったことを意味していました。

でもね、これ残念ながらラピ。さんが至ったと言う激流の彼岸ではありません。


>サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

あなたの鈍感な目で空っぽと思えても、空っぽではない(サタンはいる)のですから、実践はあります。

私はそれをラピ。さんの中からあぶり出しました。

これがラピ。さんの言う激流ですが、実はあなたの中からもしこたまあぶりだせるのですがね、一杯いますよ。

どんなに微細な内面も見抜いていかなければ彼岸には渡れずいつまでもいつまでも此の岸の人のままです。

ここで光明だと語られると誤認覚者になってしまいます。

もちろん現代ではあなたのような方も珍しくはないので、
お好きなようにとは思います。

134 滝沢 :2013/10/20(日) 09:39:35
光明後、常内側(純粋意識、無心)に留まっております
非常に平穏になりました
そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが、その行為にマインドのひっかかりがあるかをイカダにしています
そしてひっかかった場合、即座に気づいて認めて内側に帰るの繰り返しです

135 TK :2013/10/20(日) 17:46:16
滝沢さん

>光明後、常内側(純粋意識、無心)に留まっております

そのレベルの意識を、純粋意識とは言いませんが。

あえて言えば空間認識の次元の意識というのです。

つまり、空間と言う「対象」がしっかりとあなたにはあると言う意味です。

意識の拡散現象すなわち「ありのままに見える」とは、
「対象」が目の前にぶら下がっているうちは起きません。

あなたのそれはまだ、空っぽではないのですから。

>非常に平穏になりました

以前のあなたに比べたらの条件付きで、そうでしょうね。

>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが、
>その行為にマインドのひっかかりがあるかをイカダにしています
>そしてひっかかった場合、
>即座に気づいて認めて内側に帰るの繰り返しですそうでしょうね。

あなたは、まだ、彼岸ではありません。

私に出会う前のラピ。さんですね。

>とにかく自分独自の方向で行きたいのだという傾向が強い方ですね。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

私があなたに対して自分独自の方法と述べるのには、主な理由がまだあるのです。

私はあなたに対して今の所導師ではありません。

あなたの私に対する接し方と言うのは、当然そういう人はいると思いますが、
自分が拾いたい情報が出てきたらもらって行こう、そういうスタンスですね。

つまり、
それだけ私の把握していないあなた独自の方法があなたにあるという事であると私は把握しています。

>私は独自の道を歩んでるわけではありません

このように、何が独自で何が独自でないかこれは主観の問題ですから、
あなたが私は独自に進んでいるわけではありませんと言われても、
私が独自と言っている事とは食い違ったりしますよね。

私は別に何が正しくて何が正しくないかなどという事を
ここで弁じようなどと言う気はないのです。

あなたの、視野の狭さを指摘したいのです。

悟った者の「あるがままの見え方」とはまるで正反対の視野の狭さで、
自分は光明を得たのだと、あなたの光明は誤認ですと私は言いたいのです。

私などあなたが光明を得た、探究は終わった、と言った直後位に、
あなたが誤認の光明である事を見抜きました。

あなたはこの時点で何の情報も流してないですよ、しかしそれでもわかるのです、
これが本当のあるがままに見えるというものですから、
誤認の光明のあなたと違いますね。

(続きます)

136 TK :2013/10/20(日) 17:46:46
(続きです)

実践者は自分の捉え方と違うものが相手から出てきた時に、
まず相手が正しくて自分が違うのだ、あるいは自分が理解できないだけなのだ、
最悪保留と言うスタンスを取りながらも、
自分は相手の言うのとは違うと言う内面の声の方を殺すのです。

たとえ相手が間違っていて自分が実際は正しくても、実践者はそうするのです。

そもそも、内容が正しかろうが正しくなかろうが、
内面の声そのものが悟った者のそれではないのですから、
殺さなければその上の次元には行けません。

ですから、私はあなたはまだだよ、
そこで甘んじたらエセ賢者(偽キリスト)になてしまいますよとだけ言うのです。

基本姿勢として、私はあなたの取っている私の把握していない方法については、
私が教えたものではありませんから何か言う事はできません。

よってあなた独自に進んでいると私が述べるのです。

ただ、あなたの独自性の部分で当然ヒットしている部分もあると思います。

>サタン退治以外の実践がありますでしょうか?

それにしても、
あなたの内面にまだいっぱいありそうなのに悪魔をそのままにして悪魔退治以外に実践はありますかとはね。

はっきり言いますが、ありません。

>光明後、サタンが愛であると体験しました。

あなたの場合は、サタンといつまでも同化している事が愛です、と聞こえてしまうのです。

はっきり言いますが、あなたの取っている振る舞い方の数々では、
あなたに同化している悪魔とあなたは対面すらできません。

私はちなみに実践中は、サタンを親の仇同様に思ってました。

それくらいにけ嫌って同化から離れました。

だから戦いと言うのです。

釈迦の言葉にもよく「勝者」とか「激流」とか言う言葉が出てきますが、
激流の相手はただ自らと同化している悪魔だけです。


スッタニパータ439-443
>ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
>勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。
>(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
>
>このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? 
>(敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。
>わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
>
>或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、
>姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
>
>軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、
>わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。
>わたくしをこの場所から退けることなかれ。
>
>神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、
>わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。
>──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。


イエスの言葉を取ってみてもほとんどそのような感じですよね。

>「下がれ。サタン。」
>「あなたはわたしと何の関係もありません。」

あなたは悪魔と仲良くしたいのだったら、もう実践者では無いですね。

至る前のラピ。さんにも言いましたが、
私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
あなたの一生の中でもそうあるものではありません。

私も、いつここのサイトからいなくなるかもしれませんし。

137 ラピ。 :2013/10/20(日) 19:28:44
☆滝沢さん

師の言葉から、いろんな感情が起こってると予想します。

それとも何も変わらずでしょうか?

ちなみに私の時の師の言葉はもっと厳しかったですよ。
まだまだ甘いかもです。

>私以上のレベルの者にあなたがこの距離で接する機会は、
>あなたの一生の中でもそうあるものではありません。

私の場合、この言葉を聞いて「はっ!」とし、
このチャンスを逃してはならない、と思い、
素直に師の言葉を聞くようになりました。

138 TK :2013/10/20(日) 20:51:12
ラピ。さん、
もともとラピ。さんの言語化練習に付き合う形での私の参加でしたから、
それでは、次の事をラピ。さんの言葉で説明してあげたらどうでしょう。

>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが

これ、ラピ。さんが私に出会う前のまだ彼岸に渡る前の、
空っぽ実現時の次元の内容ですが、
この事についてラピ。さんの言葉で経験談とか話してみられると参考になると思いますよ。

>これが本当の空っぽ状態なら、体の動きもままならなくなってくるはずです。

これ、ラピ。さんが彼岸に渡る前の此の岸での内容ですね。

ようやく、滝沢さんは今、
私に出会う前のラピ。さんの居たところに来たという事のようですから。

もちろん、ラピ。さんにとってこれは光明ではなかったわけですし、
これが光明の誤認である事が理解できると思います。

139 ラピ。 :2013/10/20(日) 22:31:10
師匠、いつもありがとうございます!

はい!


>そして内側から必要な行為は起こってきてただ行為するのですが

まず、この表現からもまだ、至られてないことが分かります。

私もかつて、「からっぽである」と師に宣言していました。
この時点でのからっぽとは
確かにいろんな思いが浮かばなくなっている状態でありましたが、
肝心なものに気づいていませんでした。

でも、その肝心なものに気付いてないときは
とりあえず、「からっぽ」でいることにしました。

さて、滝沢さんのおっしゃっている「からっぽ」も
私のかつての「からっぽ」も
どんなからっぽでしょうか?

本当にからっぽでしょうか?

確かに思考は止まっているかもしれませんが
止まっているのですよね。

止まっているだけで「思考」そのものはまだ存在してるわけです。

消滅してからっぽ ではなくて
それを「選択する自分」がいるからからっぽ、ではありませんか?

「からっぽである!」と宣言する私がいて
そのからっぽを意図的にしているからこそのからっぽではないですか?

私はそれに気づきました。

私はからっぽそのものではなく、
からっぽをを意図する私がいる「からっぽ」でした。

「からっぽ」という対象が存在する状態、
「からっぽ」を実践している状態です。

まだ実践できていたわけです。
からっぽを、、。

エゴがまだ存在していたのです。

ここから実際に師に送ったメールをそのまま転記します。


師匠、
「頭が空っぽの状態であること」と「からっぽそのものであること」
は全く違いますよね?

私は彼岸がよいです。
空っぽの状態を保つ自分がまだいます、私には。

空っぽそのものがいいです。

今、空っぽの状態はわかりますが
あまりに穏やかすぎます。
だって空っぽですから。


師匠、「激流」が必要だとおっしゃってましたよね?

☆(ここまで)


ここで私は激流に飛び込みました。

滝沢さんも今、かつての私のように穏やかな状態でしょうか。

でも、何かをきっかけに暴れだす「自我」がまだいますね。

いや、それには負けないくらい
「穏やかである自分」を選択し続けるでしょうか。

では、穏やかであることに集中したり意図したりする自分はいませんでしょうか?

その「自分」を野放しにしても、ずっと穏やかでいられるでしょうか?


あと、「激流は起こりましたか?」
この問いの答えをいただいていません。

ということは、滝沢さんに激流は起こっていなかった
と捉えてもいいですね?

140 TK :2013/10/20(日) 23:25:08
ラピ。さん

彼岸に渡る前の此の岸の空っぽ時に、体が動かせなくなる現象も起こりましたよね。

そこから徐々に体が動かせる状態になる過程も少し説明してもらえますか。

つまり、思いか無い状態で体を動かすコツと言いますか、そのようなものですね。

これもみな私に出会う前の此の岸での出来事ですからね。

141 ラピ。 :2013/10/21(月) 01:07:22
はい!

まず師に送ったメールをそのまま紹介します。


(ここから)
ひとは行動するとき
本当は行動していない。

習慣的に、なんとなくで行動している。

そしてそれは純粋な行動ではなく
(変な表現ですが)いろんなことを考えながらの行動なので
はて、この手をどうやって動かしてたかな?
と純粋に考えるとわからなくなるし、
多分純粋に動かせない。


私の第2のスタートです。

それまでのことがそぎ落とされて
空っぽになった状態です。=闇でもあります。恐怖です。
だから、「わからない」としか言いようがないですよね。

とことん頭を空っぽにして
(だから、動けなくなりました。わからなくなりました。)
一つの動作を意図的にできるよう、日々をすごしました。
手を上げる事も
なんとなくではなく
純粋に上げるという事。

同じ動きでも
意識がまったく違う。


どう言ったらいいか、わかんないけど

頭が空っぽというか
手を動かすなら、それのみ純粋に行うこと。

ちなみに今は「頭がからっぽ」といっても
恐怖はありません。

空っぽといいながら
いろんな情報処理はできる。
決してなにもできない状態ではない。

オートマチックに「ぱぱぱ!」って感じです。

瞬間より早い瞬間がありますよね。

それが徐々にできるようになりました。

だんだん普通に出来るようになりました。

それまでの動きとは同じことをしていても質が違いますね。

純粋になにかに影響される事なく動ける。

(この今私が動いている状態は
どうやって説明したらいいか、わかりませんが
ある一つの点だけ(点ではないかもしれない。これはなんと言ったらいいでしょう?)
ですべてが動くという感じです。

動きの始まりを知っていて
そこに軽く命令というか、インスピレーションを送るというか
信号を送るというか、それを意図しただけというか、、、。
そんな感じで動く、という感じですかね?)

(ここまで)


このメールを書いてる私にはまだ「エゴ」があります。

かつて、本当に体が「思い通り」に動かせなくなってしまいました。
今まで普通にできていた(と思っていた)ことができなくなった。

今までは「なんとなく」で動き、
「思い」により動いていた。

動く前に思いがありました。

では、その動く前の思いがなくなってしまったら?
からっぽで思いがなくなってしまったら?

動けません、、、。

でも私は日常を普通に生きていたので
「動けません」
これでは済まないと思いました。

だって、ご飯を食べるお箸を持ち上げるのも大変なんです。
ある意味、命がけでしょうか(笑)

「かつて動けていたではないか。
動けるはずだ。」

この意志のみでがんばって動きました。

「どうやって動いてたのだろう。」

そんな考える暇はなく
「動け!」と頑張りました。
考えても仕方ないのです。

この頃はまだ意志がありました。
だから頑張りました。

「できるはずだ」「できて当然なんだ」

と頑張りました。

そして初めはギクシャクしていた動きも
少しずつスムーズに動けるようになりました。
(時間はかかりました)

意志を振り絞っての努力でした。
どんな動きにも気を抜くことができませんでした。

正直言って、どうして動けるようになったのか
その時の具体的なメカニズムはうまく説明できません。

ただ、その時の私の
「できるはずだ」
「できて当たり前だったじゃないか」
この言葉が私を奮い立たせました。

「できない」という言葉は私にはありませんでした。

「つべこべ言わずにやれ!できるだろ!」
これでした。

そして徐々に「思いなく」動けるようになりました。

単に「動く」ということです。

手を動かそうとしたら動かせる、そんな感じです。

何にも影響されていない純粋な「動かそう」という思いと
「動き」が直結してるような感じでした。
時間差がない感じですかね。

昔の話ですが、、、。

142 TK :2013/10/21(月) 19:10:53
>昔の話ですが、、、。

ラピ。さんはかなりの年数、
此の岸のここで説明している次元でうろうろしていたわけですが、
何年いましたか、その辺を少しお話してみて下さい。

私に最初に出会った時には、
確か私から悟りの印可をもらいたかったような動機でしたが、
私に全く相手にされてませんでしたからね。

こちらも、少しでも悟っているなどと言う思いが僅かにでもあると、
これより先に進む事は不可能なことであることを知っているのでそのようになったのですが。

思い出しますね、「あなたは死ぬまで停滞確定です」、
と何度か私に言われましたね。

もう少しで、激流の彼岸に至るチャンスすら失う所でした。

143 ラピ。 :2013/10/21(月) 22:33:58
はい!

ちょっといろいろ思い出してみますので
少々時間をくださいね。


>「あなたは死ぬまで停滞確定です」

はい、よく言われました。
初めは意味が分かりませんでした。

途中は何度も言われるので
「なんでそんなこと言われなくちゃならんの」と思いました。

そして最後は
「そうかもしれない。
でもできる限りのことをやらせていただこう。後悔の無いように」
でした。

師匠、厳しくも真実に導く言葉を
本当にありがとうございました。

144 TK :2013/10/21(月) 23:39:59
ラピ。さん

>此の岸のここで説明している次元でうろうろしていたわけですが、
>何年いましたか、その辺を少しお話してみて下さい。

これややデリカシーの無い質問でしたね。

失礼しました。

何が言いたかったかと言いますと、
ここから先に進むためには釈迦も言っている通りで「激流」が必要です。

それでも、釈迦は彼岸に渡るのに激流を渡らなければならないと言ったが、
私は緩流で渡った見せるとか言う釈迦以上の天才がいるのでしょうか。

そう言う人はまず、誤認の悟りです。

楽を実現したという分、
エゴの力が減ったイコール推進力が無くなったので停滞と言う事が起こりやすい段階です。

つまり、死ぬまで彼岸には渡れずに此の岸のままが起こったりします。

ラピ。さんも何年とは言いませんが、
相当長い期間ずっとそこの此の岸のポイントで停滞していたと伺ったように思います。

ですから、
ここから先は悟った者のありのままの目(意識の拡散現象)でエゴの動きを捉えた、
的を得た激流を作り出すためのテクニックが必要となります。

私などは1年ほどの短期間の実践で激流を渡りましたが、
実はラピ。さんや滝沢さんとはプロセスが違っています。

彼岸に渡る前の此の岸のラピ。さんと今の滝沢さんが同じような段階にいますが、
私には悟る前に悟った者に近い、
エゴを見抜く目があったので、異なるプロセスで進みました。

なので、私の体験談は話しても滝沢さんの参考にはなりません。

しかし、以前のラピ。さんに対してもそうですが、
悟った者のありのままの私の目(意識の拡散現象)には空っぽではありませんでした。

そこから、数々の実践法が繰り出されますから、彼岸に渡る事は可能なのです。

私は良くラピ。さんに、
いくら敬語で武装しようが君のメンタルの状態など私の前では丸裸同然だと述べてました。

つまり、その甘さの部分を、
悟った者のありのままの視点(意識の拡散現象)で見抜いて行けば、
彼岸に渡れます。

ただし、再び激流の地獄など来ないと思ったいただろう、
その地獄が再びやって来ることになります。

釈迦の言葉の通り、激流を渡って彼岸に至るのです。

145 ラピ。 :2013/10/22(火) 07:52:14
おはようございます!

>楽を実現したという分、
>エゴの力が減ったイコール推進力が無くなったので
>停滞と言う事が起こりやすい段階です。

師はある程度楽に生きている私のエゴを見抜き、
それをあらわにしてくださいました。

その「エゴ」こそ、激流を起こすものであり
彼岸へ導くものですね。

私は停滞していたのは何年もの間です。

師に出会う前に第3の実践をしていましたが
第3の本格的な実践はブログを始める前からとほぼ同じです。
なので2006年の年末前から2013年の5月すぎまで。
6年以上、やってました。

師に出会えなかったらずっとそのままだった可能性が高いです。

なぜなら初めは師に「停滞確定」と言われても
意味が分からなかったからです。

そこまで、鈍かったのです。

エゴに気づけず、エゴのまま
「幸せ〜」とか「すばらし〜!」とか言ってましたね。

ま、その時は本気でした、、、。
自分の状態を疑っていませんでした。
何も見えていない状態です。

でも今の私からすると、
確かに酔っ払いの何者でもありません。

師から私はビンタをいただき、目が覚めました。
そのおかげで今があります。

いろんなスピリチュアルな知識を詰め込んで
永遠に続かない幸せとそうでない時を繰り返す日々。

「幸せ!」と言っているその本性を見抜かなければなりません。

心地よい言葉だけを求めて
自分を受け入れてくれる環境にぬくぬくといること。

それでは「停滞確定」です。
永遠にそのまま。ほんとそうですね。

でも本人がそれでもいいと言うのならそれもありでしょうね。

師も何度も言っていますが
「激流」は必要です。

そこから進みたいというのであれば
激流は避けられません。

「楽ちんな場所」で次元上昇はあり得ません。

146 名無しさん :2013/10/27(日) 04:55:45
はっきり言っておきます

あなたがたは単なる詐欺師です

知恵ある者は私の言葉に従いなさい

147 ラピ。 :2013/10/27(日) 06:33:33
>146さん

そこで表現されている「あなたがた」や「私」は
誰のことでしょうか?

148 TK :2013/10/27(日) 07:01:42
>あなたがたは単なる詐欺師です

詐欺師、はて?

誰か従ってくるの、へ?

149 名無しさん :2013/10/27(日) 08:28:21
悟ったんですか?

スピリチュアルって意味無いんですか?

貴方たちもまだ途中なんでしょ?

150 ラピ。 :2013/10/27(日) 16:40:36
>149さん

かつてはスピリチュアルやってましたが
もう卒業しました。

今、スピリチュアルが必要な方も
いらっしゃると思いますので
それでいいと思いますよ。

151 TK :2013/10/27(日) 17:35:36
>悟ったんですか?

さあねえ。

あなたの妄想で考えてみたらわかるかもよ。

>スピリチュアルって意味無いんですか?

スピ系、さてねえ。意味って一体なんだっけ。

スピ系では、全てに意味が無いとか聞いたことがあるぞ。

>貴方たちもまだ途中なんでしょ?

途中ってどっからどこにいく途中なんだっけ。

どこも目指してないんだけど。

152 TK :2013/10/29(火) 10:15:28
ワクワクの実践と次の激流の実践の大きな違いです。

ワクワクの実践は外の現象に対して自分の中の理想というものを基準にして精一杯取り組む事です。

この段階では生きがいや楽しみというものも味わう事の出来る実践となります。


次の激流の実践は、取り組む相手は自分の内面です。

無理やりワクワクと言う手段はあったとしても、
本当の意味でのワクワクはここではありません。

この段階では、外を絶対的なものとして、中を滅ぼしていくのです。

人を裁いてはならないとか、実践マンさんが話しした、
ウソをつこうとする人のウソを見破ってはなりませんとかは、
実践する盲人にとっては、ただ、訳も分からず実践するしかないわけですが、
この理論上にかなった実践法の一つなのです。

そして、これにカルマ論を重ねると、
外の現象は自らのカルマの実現そのものと言う捉え方ですから、
この実践がダイレクトに自らのカルマ落しという事になるのです。

騙されて損をした、
実践者のスタンスであれば自分の実践を貫けてよかったとなる訳ですが、
これにカルマ論を重ねると、
騙されたことで自分のカルマが一つ解消されたと捉えるわけです。

繰り返し述べますがこれは危険な実践法なのでやれとは言わないですが、
やる人は自分の自己責任でやるしか手がありません。

従順の実践をどこまで完璧にこなせるかは本人の機根にかかってくるものですが、
一つの重要なポイントがあります、それは、
自分にとってどんなものより最優先する戒律を設けておくのです。

前に話しましたが、自分の方向性を放棄して、
外の方向性に合わせた従順の実践時に、
互いにぶつかり合う方向性に出会う事があります。

この場合は優先順位による選択という事になります。

前の例で言えば、実践はどんな場合にも最優先なので、
実践をやめなさいと誰かに言われても実践を続けることになります。

これと同じで、
一例ですが私が実践時に風俗店の前を通りかかった時に店の呼び込みの人に声をかけられましたが、
私は不邪淫戒に触れると判断して、
声をかけてくれた呼び込みの人の行為には非常に感謝するが私は今は入れないのです、
あなたのお気持ちは非常にありがたい、
私はあなたにお金だけ払いますと申し出たが、
あなたのような方からお金はいただけませんと丁重に断られました。

このような選択肢になるのです。

この場合に重要な事は、
相手を自分を横道にそれるようにたぶらかす悪い者と識別してしまうのではなく、
あくまで自分に善意を働いてくれた人と捉えると言う点です。

このような時に利用できるツールが相手の行為に対しての「感謝」です。

常に意識的にふるまうと言うのはこういう事を言うのです。

この辺が実践者としてやっていけるか、
単なる世俗の人として生きて行くしかないかを見極める分岐点ですから、
駄目な人は駄目です。

たとえば、実践者という事で私があえて反応を起こすような言葉をぶつけると、
とたんに私を裁きまくったり、何度か繰り返して様子を見たことはありますが、
信念というものにかけている人はやっぱり駄目だと判断できました。

このような人の場合は人に指示を求めるのではなく、
自分なりの理論で精一杯やってみるという事なんです、
エゴの世界でも何でも精一杯がないから「信念(意志の力)」というものが鍛えられないのですね。

人に従うのではなく、「精一杯の高い理想」を持って、
自分が中心になって人を導こうとする者の立場をとる事です。

まず、この課題がクリアーできない者に、次はありません。

「意志の力」の劣った者は激流は渡れません。

153 実践マン :2013/10/29(火) 16:52:07
あらゆる人を神とみなし、神のお金は神に返すのが当然であるという実践をしていこうと思います。
ウソを見破らない実践と合わせて、やっていきます。
この実践をしようと心から思えるようにしてくれた過去数年間の出来事の数々に感謝の気持ちでいっぱいです。
騙してくれた方々、損をさせてくれた方々、不貞行為をしてくれた方々!ありがとうございます。
私の強いエゴをあぶり出していただきました。
恨みつらみの苦しみはもうこりごり、苦しみから抜けるために、
神のお金と思うしか道は無いという体験、嘘は真実であると思うしか道はないという体験をさせてもらいました。
次に、心を揺さぶる出来事があっても、乗り越えます!
TK先生のご指導のおかげで、決意がいっそう固まりました。
ありがとうございます。

154 ラピ。 :2013/10/29(火) 22:47:27
なにがあっても感謝。

私もやっていました。

騙されても、ひどいことをされても 何をされても
(どんだけのことがあったのだ(笑)
「私のためにしてくれているのだ。」
「私のために起こっているのだ。」
と、すべてに感謝でした。

いわゆる「ポジティブシンキング」やってました。

どんな時も
「ありがとう!」「幸せ!」と言い続けていましたよ。

@(*・ω・*)ポッ

155 149 :2013/10/31(木) 22:27:54
TKさん?くだらないですね。悟り?いいんじゃないんですか。あなたの通った道 あなたの悟り方。

156 149 :2013/10/31(木) 23:03:01
どーしたんですか?

157 TK :2013/10/31(木) 23:20:04
>TKさん?くだらないですね。悟り?いいんじゃないんですか。

はて?

>あなたの通った道 あなたの悟り方。

どこも通ってないよ。悟りって、はて?

>どーしたんですか?

どーしたんですか?

158 TK :2013/11/02(土) 09:08:24
理想的なワクワクの実践については、
この人は現実世界に生きることに意義があるのであって、
精神世界の人でない方が良いです。

自分のエゴで自らの理想に向かって歩いていくのです。

難しい精神世界の教えなど全く必要ありません。

反対に「不完全」位の方がワクワクの実践には向いています。

完璧な教えを学ぼうなどと言う精神世界のような人の姿勢は示さないで下さい。

基本は単純でいいのです。

導かれる人では無くて、
出来るだけ人を自分の理想に向かって導く人になって下さい。

もしも、具体的な理想が思い浮かばないと言う人の場合は、
単純に思いっきり善を無し悪をなさない、この生き方でいいです。

善を無し悪をなさない、これは万人にとっての固定的な理想なのです。

いくら、悪人と言う人でも無意識の固定観念の中に必ずこの理想を持っています。

思いっきり善を無し悪をなさないこれを指針にして生活を送って行けば、
じきに具体的な自分なりの理想が見えてくると思います。

自分の理想は人の理想ではないのですから、
人に導かれるような立場は長くやるべきではありません。

各々の理想に向かって精一杯という事は、そう言う事になると思います。

まず、自分の実際に足で歩いて行動して、
善を無し悪をなさない等の理想を実現していくという事です。

誰しもが幼いころには接しているだろうテレビドラマの正義のヒーロー、正義を愛し悪を憎む、
端的に言えばあれを自分の実生活の中で思いっきりやれば良いのですよ。

人を裁いてはなりませんとか、
ヒーロードラマのネタにもなら無いようなこの手の教えはこの段階の実践の人にははっきり言って邪魔です。

私が目にしたスピ系はバカ丸出しで、
このような取り合わせてはならないものをアホみたいに一緒にして、
喜んでべらべら喋っている、このようなバカな人たちの事を言うのですよ。

この人た、本当にバカですよね。

滑稽すぎて、笑えてきますから腹痛いのでやめて下さい。

159 ラピ。 :2013/11/02(土) 22:27:21
☆TK師
いつもありがとうございます!

自分の実践を思い出してみると
ほんと単純にある意味バカになってやってました。

人にどう思われようと
(どう思われていたかは聞いてないので定かではないですが(笑)
自分の理想を貫いていました。

私の昔の理想は実践の内容と同じで
まさしく「なんでも喜んでする人」でした。

「私がなにか人に頼んだ時
喜んで引き受けてもらったらうれしいなぁ。
では、まずは自分がそういう人になろう。
何かを頼んで嫌な顔をされたら嫌だなぁ。
されたら嫌なことはしないようにしよう。
だからどんなことも喜んでしよう!」
と思いました。

そしてそうであるよう、どの瞬間も
そのために実践していました。

ほんと単純です。

「(自分を捨てて)喜んでなんでもする」
ただこれをひたすらやっていました。

難しく考える必要はないですね。

ちなみに「自分を捨てて」という実践は
そう考える自分も捨てます。

考えることなく、ひたすらやっていく、という感じです。

それを私の生き方として実践していました。

「何かの目的の為」ではなく
自分の生き方としてどんな時もやってました。

160 TK :2013/11/03(日) 09:24:19
>「私がなにか人に頼んだ時
>喜んで引き受けてもらったらうれしいなぁ。
>では、まずは自分がそういう人になろう。
>何かを頼んで嫌な顔をされたら嫌だなぁ。
>されたら嫌なことはしないようにしよう。
>だからどんなことも喜んでしよう!」
>と思いました。


これが紛れもなくワクワク(理想の実現)の実践だったという事を物語っている。

この「喜ぶ」と言う実践法は本質的に、
このような意味のために使われている実践法では無い。

スピ系等が訳も分からず「喜ぶ」と言う実践の言葉をどこかから適当に盗んできたとして、
ごちゃ混ぜる事を楽しむあのバカな者たちのごちゃ混ぜの中に取り入れている可能性もあるが、
「喜ぶ」と言う実践自体は本来は「激流」の実践時に使用されるツールなのだ。

つまり、何を言いたいかと言うと、
ラピ。さんは本当の「激流」時の実践での内面を対象とする観点には立っていなかったので、
それなりの精度でこの実践に接していた事を物語っている。

このように、ワクワクの実践時には不完全な実践であるからこそ、
激流の実践と同じ「喜ぶ」の実践ではあっても効果があるのだ。

この「喜ぶ」はあくまでも、本質的な意味での善玉エゴとしての使い方では無く、
自分の「理想」の実現に向けての実践レベルなのである。

これと同じ事で、
私が善をなし悪をなすなとワクワクの実践の者に対して話したのも、
これ自身は激流時の実践の者も取り入れている実践法なのだが、
実践の精度の点で幼いころに接しているだろうテレビの正義のヒーローのそれだと話した通りで、
同じ実践でも激流の実践時の精度では無く、
あくまでもワクワクの実践の者に向けて話している事になる。

不完全だからこそ理想の実現の実践段階には向いているのだ。

私がスピ系のバカな者たちのあのごちゃ混ぜの教えの中で、
「ワクワク」だけは拾えそうだなと思ったのも、
これだけは他のごちゃまぜの内容とは異質な部分を感じたからだった。

161 TK :2013/11/04(月) 09:02:56

>「(自分を捨てて)喜んでなんでもする」
>ただこれをひたすらやっていました。

この自分を捨ててと言う部分も、ある意味漠然とした表現なので、
いかような解釈も飛びこませることができる部分です。

ラピ。さんはやや異なりましたが、
理想主義者的な段階での実践であればここについては、
ほとんど次のようになるのではないですか。

「自分を捨てて」=「自分を犠牲にして」だと思いますね。

私が一番言いたいのは、
「戦う時は対象の相手としっかり向き合って確実に戦え」という事を言いたいのです。

「目には目歯には歯」系の教えと、
従順系の教えで例えば「裁いてはなりません」とかと、
両方取り混ぜたらバカっぽくて実践になりませんが、
このようなアホなことをやってる者ががさまんと居るようです。

自分でバカなことをして無駄に貴重な寿命と時間を費やしている事に気が付かないのがスピのアホウどもたちです。

戦う対象の相手は「敵」に決まっています、
美辞麗句だけお経のように並べて喜んで気がふれているようにしか見えません。

「敵」には「敵」としっかりとマーキングして下さい。

スピ系の者たちを見ていると、
現実社会から逸脱した何かに憑りつかれた気持ちが悪い宗教団体の亡者のように見えてしまうのは私だけでしょうか。

現実社会は競争の原理、生ぬるい捉え方をしていた者は負けです。

ワクワク段階での実践では、
現実の社会の中に戦うべく「敵」がある、そう言う事です。

ここではエゴを強めた者だけが自分の理想を実現した勝者となります。

もっと思考を働かせ、頭を使い、
猿知恵でも働かせればバカとハサミは使いようで人生を幸せに進んでいく事が出来ますから。

スピのアホウどもは、
この辺をまるっきりわかってないで永遠に酔っぱらいで一生を終える事になりますが、
この者たちはバカだと思います。

私はあの手の酔っ払いは嫌いです、現実に生きていない者を見るのは気持ち悪い。

酔っぱらったままで、
生きている時間の経過とともに寿命を減らして損をするのはこの者たちですから。

ごちゃ混ぜがいくら好きでも、正反対をごちゃ混ぜにしたら、
残るのは気がふれた酔っ払いだけです。

人間である事(エゴ)を全うできなければ、
人間(エゴ)を卒業する過程(激流)へは進めない事を良く覚えておく事です。

もしも、
自分の理想の実現を邪魔する者が目的の遂行の前に現れたらどうしますか、
その時には最大限に思考を駆使して考え抜いて理想を実現するべく対策を練るのです、
そしてそれを実行に移して下さい。

くれぐれも、邪魔する者に「従順」に、これが実践だ等と言う間抜けな対応は、
おかしくて腹痛いのでしないで下さい、
これではただの負け犬が自分に都合のいいように納得できる口実として、
スピ系の屁理屈を利用しているだけです、だが、
実際にこういうおバカがいるからスピ系は笑えるのです。

さすが、「ごちゃまぜ」、
逃げ道に都合の良い口実を探すにもゴミの山から拾いだします。

言っておきますが、現実社会でまともに戦って生きてもいない人間が、
そのような生半可なエゴの強さで、次の激流になど進めるはずもありません。

激流を渡るイカダの正体はエゴなのです。

162 ラピ。 :2013/11/04(月) 10:37:08
みなさま おはようございます!

☆TK師匠いつもありがとうございます!

「自分を捨てて」ですが
私の場合、
自分の気持ちを無視して、という感じでした。

それをとことんしていると「嫌だと思う自分」なんていないのも同然なんです。

「自分を犠牲にして」という言葉は
かつての私には違和感を感じてました。

そもそも犠牲になってるとも思ってませんでした。(笑)

これが実はこの「自分を捨てて」の実践の恩恵です。
まっすぐ実践に打ち込めます。

実践を邪魔する私を無視しての実践ですから
とことん実践できました。

そしてほかの悩みはあったかもですが
実践に対する悩みは全くありませんでした。

その悩みそのものが思い浮かばなかった。
実践に対して疑問を持ちませんでした。

それほどまっすぐにやってました。

(エゴの順調なる成長。
この実践により「実践する私」が育ったのです。)

だからこそ、この実践に対する否定的な出来事が起こった時、
打撃が大きかったです。(笑)

実践する私が否定されたのです。
私の人生、それにかけていました。

「私が否定されたら私はどう生きたらいいのだ。」

実践する私=私となっていましたので
私すべてを否定された感じになってしまいました。

めっちゃ育った「私」が打ちのめされてしまいました。
もう、実践できなくなってしまいました。
こてんぱん。

何を信じたらいいのかわからなくなりました。

そしてボー然とする私に第2の扉が現れました。

もう進むしか道はありませんでした。

これは私の通った道です。
いろんな道があると思いますが
ご参考までに、です。

@(*・ω・*)ポッ

163 TK :2013/11/05(火) 18:16:00
>「自分を捨てて」ですが
>私の場合、
>自分の気持ちを無視して、という感じでした。


実はこれが完璧にできていたら、次の内容は発生しませんでした。


>実践する私が否定されたのです。
>私の人生、それにかけていました。
>
>「私が否定されたら私はどう生きたらいいのだ。」


つまり、実践内容に不完全な部分があったという事です。

従って、
この時のラピ。さんの内面には自分が確実だと信じている実践内容を否定されたくないという想いが
強く作用していた結果の行き止まりです。

ここが、理想主義、つまりワクワクの実践であったと言う部分です。

まず、一段階目の実践はこの不完全さがあった方が良いのです。

私とラピ。さんには一つの共通点があります、それは、
激流に突入前の不完全な実践方法の徹底した実践です。

私はラピ。さんと対話を交わした初期の頃、
スピ系の多くの者たち特有の非常にどっちつかずの中途半端な状態にあると感じました。

実は、それで、初期の頃に次の対話が出てきたのでした。

>>「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」というひらめきでした。


>これそうとうに凄い内容ではあるんだけど、ただし、今一つ内容が完璧すぎたんだね。
>
>だから、エゴがはぐくまれなくて、中途半端に精神世界人間になりつつあるんだろ。


その後、確かに酔っ払いだが、
スピ系の普通の酔っ払いとはどこか違うとなって行った。

やがて激流に突き落とす事になったわけです。

私にとってはラピ。さんが私に次いで成就に至りましたので、
ある程度確信が持てた部分があります、
多くの人たちに必要なのはスピ系の教えでは無い、
ワクワクを含むエゴを強めるための方法だと言う点です。

まずスピ系のごちゃ混ぜの教えの取り合わせにより、この折角の良いものも、
他のものと打ち消し合って、酔っ払いの酒の肴にしかならないのです。

スピ系は今に至るまでに我々が至った所と同じ段階の成就の実績を上げるどころか、
反対に多くの酔っ払いを世の中に輩出した実績しか私は目にしたことがありませんが、
その問題点がこの部分にあるように思えます。

164 ラピ。 :2013/11/05(火) 22:37:40
☆TK師

いつもありがとうございます!

メールのやり取りのはじめのほうに
私のことを知ってもらうために師に次のことを伝えました。

>私の今の原型は
>「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」というひらめきでした。

勝手ながら師と私の実践に
共通点があるのでは、と思ってましたのでお伝えしました。

これを伝えれば、私のことがなにかわかっていただけるかな、、と。

そして師のされた実践が私にも使える!と
これまた勝手ながら思ってました。

懐かしいです(笑)


>この時のラピ。さんの内面には自分が確実だと信じている実践内容を否定されたくないという想いが
>強く作用していた結果の行き止まりです。

まさしくずばりその通りです。
行き詰ってしまいました。

そして第2の扉が見えた、、、。


ちなみに、どっちつかずの状態でも
それを意図的にとことんやっていれば
気付くものはあると思います。

あっち行ったり、こっち行ったりを
しっかり自分の選択としてやっていくのです。

人のせいにしない。

なんでも、今ある意志をしっかり使って
起きている間はずっと、それをやっていくといいかもしれません。

起きている間はず〜っとです。

そうすれば、気付くものもあると思います。

かつての私に「妥協」という言葉はありませんでした。

やるならなんでも「とことん」です。

165 陽介 :2013/11/10(日) 23:00:10
師よ、

私はエゴに負けました。そしてスピリチュアルに酔い、
悟ったと誤認し、「楽」を実現しました。

しかしその事に気づきもしていなかったので、
最初は師の言葉を受け入れることはできませんでした。

しかし師の言うとおりなのです、
私は全てはひとつであると感じています。
私は愛を感じています。
「それ」そのものではないのです。

ゆえに些細なきっかけで、私の「楽」はゆらぐのです。

師の教えに触れた時、私は風邪をひいていました。
師の言葉を否定しながら、
風邪によって、身体がままならないことに、
私の「楽」が「苦」に変わっていきました。

私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。

まずはもう一度、
「常に感謝する。」という実践から始めたいと思います。

TK師とラピ。師、このような機会をいただきありがとうございます。

166 TK :2013/11/10(日) 23:21:59
陽介さん

このハンドル名の方と私はお話ししましたか?

167 陽介 :2013/11/10(日) 23:37:09
TK師

お話しするのは初めてです。

168 ラピ。 :2013/11/11(月) 00:25:30
☆陽介さん

ようこそいらっしゃいました。

陽介さんは「楽」を実現したとのことですが
どうのようにして実現されたのですか?

169 TK :2013/11/11(月) 00:26:35
陽介さん

>ゆえに些細なきっかけで、私の「楽」はゆらぐのです。
>
>師の教えに触れた時、私は風邪をひいていました。
>師の言葉を否定しながら、
>風邪によって、身体がままならないことに、
>私の「楽」が「苦」に変わっていきました。
>
>私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。

あなたは幸せを望んでいると言うが、まず、
他者の幸せは自分の幸せと言う理想主義者的なレベルに上るべきではないだろうか。

自分自分と望んだところで、このベクトルで得られるものではない。

他者の幸せが得られるためなら自分が犠牲になっても良いとか、
このくらいの捉え方が出来るものなら悟りまで行ける可能性もあるのだが、
もともと自分の幸せが得たいからなどと言う動機で、
至れた者など居たのだろうか、無理だろうな。

ラピ。さんは私と比べたら、
それでも自分自身の幸せの取り組みをした人だったようだが、
最終的には人の為や奉仕を学んで至ったのだ。

170 陽介 :2013/11/11(月) 18:46:54
ラピ。師

私は最初ヴィパッサナー瞑想とブッダの教えの実践を行いました。
しかし、それを続けることができなくなったため、
次はスピリチュアルな教えを実践しました。

すべてはひとつである。
偶然というものはない。
しなければならないことというものはない。
善悪というものはない。
信じる必要はない。
努力はしなくてもよい。
現実は中立である。

というようなことを信じて、
これと反対の観念を捨てることを続けました。
それは自我を薄める効果があったと思います。

自我の薄まりとともにエゴが私を苦しめることは少なくなりました。

何かの声が聞こえたり、観照する意識の存在に気づいたり、すべてひとつと体感したり、私のハートから愛が溢れ出すというような今までにない体験も起こりました。

それを私は「楽」の実現と表現しました。

171 ラピ。 :2013/11/11(月) 23:15:45
☆陽介さん

お返事、どうもありがとうございます!

そうですね。そのスピリチュアルの教えでは
一時期な幸せ感は得られても
そこどまりでしょうね。

私の話をしますと
実は私は「人の為」の意識が欠けていたために
至れなかった経緯があります。

私の場合、実践は自分の限界に挑戦する意味での実践でした。
だから過酷な状況も頑張れました。

でもそれだけでは至れませんでした。
そして師に出会って、師の教えにより
至ることができました。

それが「人の為」であり、「奉仕」です。

「自分」だけでは「自分」を完璧に捨て去ることはできません。
相対的な「人の為」が効果的です。

陽介さんの書き込みから
私の実現した「楽」とは違うようですが
「人の為」の実践は効果ある実践ではないかと感じています。

でも、まだ自分の望む幸せがあるのなら
それをとことん叶えるために実践していくのも
1つの道としてありますね。

道はひとつではありません。
@(*・ω・*)ポッ

172 陽介 :2013/11/12(火) 07:08:22
TK師、ラピ。師

昨日、「常に感謝し他者のために生きる。」を実践してみました。
とっても苦しいですが、他者のためという意志をとりいれることで、自分のためにはできなかったことができるように感じました。

今後は「常に感謝する、そして喜んで他者のために生きる。」を実践していきます。

ありがとうございます。

173 TK :2013/11/12(火) 17:54:25
陽介さん

>昨日、「常に感謝し他者のために生きる。」を実践してみました。
>とっても苦しいですが、他者のためという意志をとりいれることで、
>自分のためにはできなかったことができるように感じました。

苦しいという事は、
今までやってきたものは効果が無かったという事を意味しています。

自分が幸せになるために実践したいのです、
と言う目的でそもそも達成できるものではありませんから、
もともと私にしても「楽」が実現できたと言うのは、
探究の末の副産物として「楽」を手に入れたようなものなのです。

最初からそれが目的でやっていたわけではありません。

あえて以前に目的らしいものがあったとしたら、
事の発端は生きている事が無価値なものなのかどうか見極めたかったというものですね。

実際は楽と苦と言う関係性においては、
苦を先取りして楽になる的な所もあるので、
実践後に楽を実現できたからと言って、
そこに至るまでに苦を必要以上に増大させたという事でしかありませんから、
楽を実現して幸せになりたいと言う目的の人の、
目的にかなうものとも思えません。

174 ラピ。 :2013/11/13(水) 07:41:10
みなさま、おはようございます!

幸せは求めれば逃げていく、という感じですかね。

自分の幸せのために生きるより、
「自分」を使って人の幸せのために生きることが
真実の幸せへの近道となるかもしれません。

「幸せになろう!」というより、
「いつのまにか幸せになっちゃってる」という生き方が
いいかもです。

@(*・ω・*)ポッ

175 TK :2013/11/13(水) 23:47:58
>幸せは求めれば逃げていく、という感じですかね。

その通り。

ここでは何度も何度もおんなじことばっかり繰り返して言わないと、
駄目みたいだね。


>探求を初め「求める」と言う行為は悟るためにはご法度なのです。
>
>探して見えてくるものは、全てまやかしです。


>私が望んでいるのは、こんな脆い幸せではありません。


「望んでいる」と言う言葉も、「求める」と言う言葉と同じだから宜しくね、
ご法度なの。

いつまでも望んだり求めたりしているのは勝手だけど、
永遠にたどり着けませんよ。

何度も繰り返して言うの嫌だから、
信じたくなければ死ぬまでどうぞ辿りつけませんからご勝手に、
ご自由に、お止はしませんよ。

でも、くどくなるけどもう一度引用を載せておきましょうか。

これ親切なのか不親切なのか、はたまた、
押し売りなのかわかりませんかけどね、ちょっと嫌になってきましたね。

何で、こうやって重要なポイントを語っているのに、聞き漏らすのかなあ、
張り合い無くなっちゃいますよ。


>>まずは私を使っていろいろ実験して
>>みんなが使える方法を開発するのだ!
>
>これ実はここにはあらわされていない、一つ重要なポイントがあります。
>
>>まずは私を使っていろいろ実験して
>>みんなが使える方法を開発するのだ!
>
>この為に、「私は、まずは私を使っていろいろ実験して、
>みんなが使える方法を開発するのだ!」と言う思いを捨てて実践するのだ、
>と言うのが真実の実践法です。
>
>実践とは私は死ぬまで、この実践を続けて行くのだ、これが至るための方法です。
>
>結果を僅かにでも想定して実践したら、至れません。
>
>命ある限り死ぬまで永遠に実践する、これがポイントです。
>
>色々と至るための必須のポイントがあるのです、
>これらが分からないといつまでも迷路の中で終いには世に沢山うようよいる酔っ払いの一員になる訳です。
>
>例えば世界の人たちのためにと思ったら、
>世界の人たちのためにと言うその思いを捨てて、実践する、
>複雑ですが必要な事なのです。
>
>善であろうと悪であろうと、とにかく「一切の願望」を捨てる、これが至るためのポイントです。
>
>そうすると、しばらくして一人でに至って、自由に色々な事が出来るようになります。

176 TK :2013/11/14(木) 07:07:48
陽介さん

>私は最初ヴィパッサナー瞑想とブッダの教えの実践を行いました。
>しかし、それを続けることができなくなったため、

もう一度よく読んでみましたが、まず何でここでできなくなったかですね。

つまり、もしかしたら、効果があったという事だったのかもしれませんよ。

>次はスピリチュアルな教えを実践しました。
>
>すべてはひとつである。
>偶然というものはない。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>現実は中立である。
>
>というようなことを信じて、
>これと反対の観念を捨てることを続けました。
>それは自我を薄める効果があったと思います。
>
>自我の薄まりとともにエゴが私を苦しめることは少なくなりました。

自我の薄まりとか苦が少なくなったとか、あなたの、気分的なものですね。

薬だと思って飲めば、そうでは無いものでもそのように思えてしまう。

理論的には自我を強める教えと弱める教えをごちゃ混ぜんに取り入れて、
これがあなたの掲げたもののごちゃ混ぜんの現実なのですが、
この真実をあなたは聞いて、
理屈で考えてあなたは効果があると本当にお考えなのですか。

専門的に知っているものからすると、かなり、
笑える取り合わせと言うのが真実なのです。

ちなみに、
あなたは我々から見たら自分のエゴを見抜く事も出来ないど素人なのです。

177 TK :2013/12/01(日) 10:24:59
ラピ。さんはスピ系を捨てて私の教えに従ったわけですが、やはり、
スピ系では駄目だと言うことが分かったわけですね。

例えばスピリチュアルは屁理屈を唱えながら納得したりする教えのようなものだと思うのですが、
スピリチュアルと言う言葉こそ使わないで、
全く同じような事をやっている者たちを見て、
確かラピ。さんは何度かアプローチを試みたようでしたが、
そういう所の人たちはなぜに、
自分たちが既に酔っ払いの世界にいる事に気が付かないと思いますか。

その人たちには、我々が必要としているレベルの真剣さが足りないから、
気が付けないのだと思います。

その人たちはもしそう言われたら、
私たちは真剣なんですと言うかもしれませんが、こちらにしてみたら、
たかだかその程度で真剣なの、はい、
さようならのレベルの違いの世界の話しですよね。

私も酔っ払い集団を見て、死ぬまであれ続けるのだろうから、
飽きもしないでよくやるなあと思ってますが、しかし、悟る前と言えども、
彼らにはもともと資質など無いと思います、
悟る前の私なら絶対に彼らのような寄り道はしませんでしたから。

そもそも、人が「納得や理解」して聞かせようなどと言う内容に、
「納得や理解」できる段階にはすでに悟る前の私はいませんでした。

人が話をする内容の「納得や理解」と言う行為そのものに、
私が求めているものはそのようなものではないと言う猛烈な不信感と違和感がありましたから、
「納得や理解」させよう聞かせようなどと言う者を前にして、
どんなにありがたそうな話をされても、ついていく気さえ起きませんでした。

自分が賭けてみる価値があるのは、昔から伝承されている聖典以外に無い、
人間の解説など極力入れないそのままに接して真実を掴む、
これしかないと言うような判断が起きたので、
「納得させよう理解させよう」等という意図をわずかにでも含む話をする者たちは一切相手にしない、
これが私のスタンスでしたから。

ですから、ネット上のあの酔っ払いたちを見るたびに、
あの者たちは既に悟りでは無く100パーセント死ぬまで酔っ払いだと見ただけでわかります。

だから、酔っ払いの人たちと悟る前の私は全く違うので、彼らをかまっても、
それは「人を見て法を説け」で無駄な徒労なのです。

至る前の私であってもキリスト教の集会所、教会、様々覗きましたが、
どれも自分の求めているそれでは無いと出来るだけ速やかに見抜けました。

我々にしてみたらあんなもので納得させられて、バカじゃない、
の世界に見えますが、それがその人たちの現実なのです。

これからの教訓にしないとなりませんね。

本質的にワクワク段階が必要な者たちが、
うっかりその場でお喋りしながら心地よくたむろする事に甘んじてしまったのではないですかね。

私に言わせると、宗教の信者と同じで、地に足がついていないのです。

たかだかワクワク段階の実践者に対して、
どこに延々とお喋りを続けて行かなければなら無いような小難しい理論が必要なのでしょうか。

これではワクワクの本質からは大幅に軌道が外れています。

激流段階の実践では規制が主になりますが、
ワクワク段階の実践では自由が主体となるのです。

(続きます)

178 TK :2013/12/01(日) 10:25:42
(続きです)

ワクワクは、大した小難しい根拠なしに、
体を動かし行動を起こすことを旨とする教えですが、
屁理屈をこねまわすのが本位になってはもう違う道にそれていてお終いなのです。

あくまで、理論は少なく行動と結果に重要性をおく、
これがワクワク段階の実践法です。

単なる妄想の世界で楽しんでいるだけなんですね。

まさにスピ系や宗教の酔いにはまってしまった人たちとはそういうものだと思います。

もったいないですけどね、何がって、
人間無意識にも酔っぱらいながら生きている間に、
自分の寿命を刻々と削っていると言うのに、
無駄な寄り道自身がもったいないとは思います。

しかし、かと言って私に言わせれば、所詮まがい物に引っかかる自身が、
その者に原因がある、ラピ。さんは頑張って何とかしようと思ったようですが、
本人の素養の問題ですから、私は意味がないと思います。

本当に至れる人は、そのようなものがたとえ目の前にぶら下がっていようと、
絶対に引っかかりません、至る前の私と比べたら、
至る前の私はああいう者たちと比べて何倍も真剣でしたから。

一言に真剣さと言っても主観の部分ですから、
激流段階の実践者なら自分の命と比較してどの程度のものかが真剣さの尺度です。

その事のために命を落してもいいくらいに思えるのかどうかと言う意味です。

ワクワク段階の実践なら、
寝る間も惜しんで熱狂的と言えるレベルでなければ駄目ですね、
私はどこか冷めた部分があるのですとか言う人は、全く持って論外です。

その生き方で何かがつかめたら、
あまりにも人生を甘く見過ぎてバカにしていると言うものです。

私は実践者にはラピ。さんの時もそうでしたが、
何度か突き放そうとする事があります、それでも、しがみ付こうとするか否かで、
その者の「信念」の有無の確認とする事があります。

きっぱりと言いますが、
「信念」の乏しい者は既に渡るための基本が欠けています。

私はラピ。さんに出会う前に実験的に多くの者に話しかけましたが、
それをつくづく思い知らされ、
ラピ。さんに出会ってそれはほぼ確信に変わりました。


大パリニッバーナスッタンタ3・40(ブッダ最後の旅)
>もしお前が修行完成者に懇請したならば、
>修行完成者(=ブッダ)はお前の二度にわたる(懇請の)ことばを退けたかもしれないが、
>しかし三度まで言ったならば、それを承認したであろう。


時々独り言のように何かを吐き捨てる以外では、強く懇請されれば、教えようか、
これが私の基本姿勢で、色々な私なりの実験段階を経ているので、
それ以外で私は本質的に教える事などしたくありません。

私から話を聞き出せて損したり得したりするのは私では無く聞く方なのですから、
ラピ。さんの場合はうまくそのチャンスをものに出来ただけに過ぎませんでした。

しかし、私のこのようなスタンスから確実にものに出来た者が出た以上、
このスタンスは間違いがなかったと言う裏付けとなりました。

179 ラピ。 :2013/12/01(日) 16:21:29
☆TK師

いつもありがとうございます!

私はスピ系にはまってましたが
(そのおかげでブログがあり、掲示板があるのですが 笑)
それ以前にしっかり実践していましたので
その経験があったおかげで
スピ系を捨ててわりとすぐに至ることができました。

今振り返ってみて スピ系で得たものはなにか?と言えば
いろんな経験ですかね。

私にとってスピ系の教えは至るのに役に立つものではなく、
逆に邪魔をするものとなってました。

私はかつてスピ系で言われていることが本当であるかを
実験していました。

スピ系で言われていることが本当なのか
実際自分で試していたのです。

これはブログだけでなく、
私の日常でもやってました。

スピ系の怖いところは
善悪の判断ができなくなる、ということです。

まだこの次元にいる方は
善悪の判断が実は必要です。

子供を思ってみてください。
子供に何かを教えるとき、
やはり善悪抜きでは教えられませんよね。

子供に「なんでもあり」、なんて教えることができるでしょうか。
いけないときは叱らなければなりません。

でもスピ系は「なんでもあり」を説いていることがあります。

さて、本当なのでしょうか。

単にバカな大人になってしまいますよ、それでは。

そしてスピ系の教えは出来事を都合よく解釈をしてしまう可能性があり、
現実が見えなくなります。

スピ系は一種の現実逃避です。

私はスピ系を経験して、それまでにない経験をたくさんしました。

そしてさて、スピ系で言われていたことは
本当だったのだろうか、、、、。

はてな? です。

私が至る直前に至るのを邪魔していたのは
スピ系のへんてこりんな知識でした。

師とのメールのやり取りも初めのほうは
ほんとうに私は素っ頓狂で
バカ丸出しでした。

常識のない、ポジティブシンキングに近いもので
お気楽、能天気、
ほんとうに失礼な礼儀知らずでした。

そんな私にもお返事をくれたTK師なのです。

TK師を師と呼ぶと決めてからは
TK師の教えに従いました。

スピ系を捨てろといえば捨て、
(その時点ではなにもわかっていませんでしたが
師の教えに従いました。
なぜ?と聞く必要なんてありません。
師と呼ぶからには絶対なのです。
これがほんとの師弟関係というものです。)

その他、師に言われたことは絶対でそれに従っていくと決めました。

そのおかげで今があります。

まずは今までの自分を捨てなければ。
それまでの知識というものを捨てなければ。

そうでなければ自分を飛び越えることはできません。

そしてなにもなくなった 何よりも一番低いものとして
師の教えに従う。

これにより、彼岸への門は開かれたのでした。

これは激流段階での実践です。

TK師、ありがとうございます。


ちなみに私はもともと師を求めてはいませんでした。
同じ次元の人間を師とすることはできませんでした。

でもTK師は違ってました。

TK師以外は私は
決して師と呼ばなかったと思います。

TK師に出会わなければ
私に師はいませんでした。

断言できます。

180 名無しさん :2013/12/02(月) 08:40:41
TK師、みなさまおはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

>スピリチュアルと言う言葉こそ使わないで、
>全く同じような事をやっている者たちを見て、
>確かラピ。さんは何度かアプローチを試みたようでしたが、

はい試みました。

自称覚者さんが教えを説いてるところがあるのですが
その教えがこちらからしたら屁理屈だらけのでたらめで
次元上昇してない人の表現でした。

でもその人に「それは違う」、と私がお伝えしても
全く伝わらなかった。

自称覚者は言葉で納得させよう、理解させようとしてました。
そして「自覚」という言葉も普通に使われています。

何度も言ってるけど納得や理解をしていたら彼岸に渡れないのです。
自覚することが悟りだなんて、かつての私と同じレベルです。

悟りについてかつて私は 「悟りとは知ること」
とブログに書いたことがあります。

それは私がまだ彼岸に渡ってない時で、
悟りってこういうものかな
という感じで書いたのですが
まだ至ってない次元にいた私ならそうとしか書けなかったでしょう。

悟りは私にはその頃は異次元だったからです。
そんな私が書いてはいけなかった。

書くなら、まずは悟ってから、でした。

自称覚者さんのもとに集まる人は
彼岸には渡れません。
渡れるどころか、道から大きく離れてしまう可能性があります。

そもそもその自称覚者が彼岸に渡れていないのに
導くことなんてできないでしょう。

自称覚者が悟りについてきちんと語れないのだから。

この「悟りとは気付くこと」を自称覚者がみんなに伝え
みんながその自称覚者を本物だと思い、
「悟りとは気付くことなんだ!」と理解したとする。

全く駄目ですね。
ダメな集団になってしまいます。

彼岸への道は気付きでは通れません。
知ることでも通れません。

やはり激流が必要なんです。

激流とは、自我との戦いです。

自我を納得させたりするのでは自我を消滅させることはできないのです。

静かにすることはできても。

本気で彼岸へ渡りたいのならやるしかありません。
実践しかありません。

理解や納得、自覚なんてしていたら
その場どまり。
永遠に次元上昇はできず、同じ処をぐるぐる回るだけ。

どうにかしてあげたいのだけど無理ですね。

実際、試みたけど無理でした。

それなら、それをとことんすればいい、と思います。

どうなるかは知りませんが自由ですよね。

181 ラピ。 :2013/12/02(月) 08:41:41
また名前を入れ忘れました(;´▽`A‘‘

180の聞き込みはラピ。です。
@(*・ω・*)ポッ

182 大介 :2013/12/03(火) 19:49:00
ラピさま

はじめまして
自称覚者というのはどなたの事でしょうか?
でも、それを明かすのは御法度でしょうかね。。。

スピ系の例で、ニューエイジをあげていただきましたが、そのようなものであれば私でも分かりますが仮面をかぶった場合、微妙な場合分かりません。
どの辺りで見分ければよいものでしょうか?

183 ラピ。 :2013/12/03(火) 21:32:25
☆大介さん

ようこそいらっしゃいました!

なぜその人が「自称覚者である」と言えるのかというと
私たちの状態では使えない言葉を普通に使っているからです。

私たちの状態をきちんと表現できていない。
悟りについて的外れな表現になっており
その人の想像内での言葉になっています。

ただ、ほんとうの本物は
いろんな言葉を使いまわしますので
普通の方は言葉だけでは簡単には見抜けないかもしれません。

でも、私たちと同じ次元同士であるのなら
対話で私たちはお互いが分かると思います。

大介さん
まずはそんな本物かどうかわからない人の話を信じるよりも
自分を信じてがんばったほうがいいと思いますよ。

私も自分を信じて理想実現のためとことんがんばりました。

大介さん自身の人生、
一度きりの人生、思いっきりがんばられるほうが
得るものがたくさんあると思います。

184 大介 :2013/12/03(火) 21:42:30
ラピさま

本当にそうですね!
自分さえも持っていれば何にも惑わされないですよね。
大変ありがたい言葉ありがとうございました。
本やブログを読んで知識をつけるより自分の置かれている状況に真剣に取り組んで知恵をつけようと思います。

185 TK :2013/12/22(日) 08:45:36
仕事上と言う部分でも、世情の動きなどで緊急、
切羽詰まった状況など様々なシーンがありますが、
そういう時こそが我々の本領発揮なのだなとつくづく思う事が良くあります。

楽しいですよね。

我々より深い読みが出来る人間はまずいないでしょう。

昔の時代であれば剣禅一致で真剣勝負の所が、
今は仕事上の業務に変わったわけです。

切羽詰まった緊急事態、とっさの判断が必要とされるシーン、
これこそ我々の得意中の得意です。

我々こそは「瞬間」を極めた者ですから。

我々にはいかなる時も、見えています、他の者の何倍もが、
このような時の他の者たちの動き、取っている行動、
判断して出した結論こういうものを目にすると本当に微笑ましい。

私はこのような時には全然、
同業他社みたいなところの動きなど参考にしたいと思いません、
どう見てもメクラみたいな動きしかしてないですし、
見る価値も値打もありませんよ、
やっぱり我々の基準で全然見えてない者の動き方しかしてないのですから。

実に私の売りの部分は悟りというものより、
能力的部分の増大と言う所の方が大きいのがスタンスです。

物事に対する処理能力さえ数段アップすれば、その事実だけで、
世の中の苦悩は消滅します。

悟り等と言う現代科学からみたら迷信めいたものなど振り回して、
それに一体どんな価値があるのですかの世界です、しかし、
誰もが認めざる得ない能力を身に着けられるとなれば話は別ですね。

物事に対する処理能力さえ増大すれば、苦悩はそれだけで減るのです。

これは科学的と言うより当たり前ですね。

剣禅一致と言う言葉は、本質的には能力増大という意味なのです。


どの方面から見ても良いことずくめのようなものです。

ここまで来てしまうと、余裕で笑いが止まらない。

お分かりでしょうが、
「理解」だなんだとか云々言っている妄想狂一族と私は呼びますが、
あのような誤認の者やそれに着き従う者たちには永遠にこれはありません、
屁理屈で納得したい者は世の中にそういうものを教えてくれる人は多そうですから
そのような屁理屈で納得したりしないだりする次元で楽しんでいたらいいと思います。

しかし、
ここで沢庵禅師が述べている「剣禅一致」で説く能力増大は絶対に起こりません。

それは、それが人のエゴの動きを見抜く能力すらない偽者による教えで、
メンタルに変容が起きない与太話しだからです。

着き従っている者たちでも、今自分たちがをやっている事は、
屁理屈の次元で能力が増大するはずが無いと思えるものであるはずです。

違うのですよ、
その者たちのやっているそれは偽物で
沢庵禅師の述べている剣と一致する「禅」というものとは似ても似つかないものなのです。

世の中暇人が多いですね。

くだらない屁理屈の言葉のやり取りに、よくも、熱中できるものです。

これは不健全ですね。

私はあのような妄想狂を信じているような人たちは、
気持ち悪い人たちだと思います。

スピ系だか精神世界だか、
そのような不健全な妄想みたいなことはきっぱり捨てて、
そう言ったものから一切離れてもっと地に足つけて現実に生きたらどうですかと、
その者たちの横っ面引っぱたいてやると良いのだと時々思います。

これが、私が至った者としてその者たちに向ける言葉です。

馬鹿げています。

もちろんその者たちの自由ではあるのですが。

186 ラピ。 :2013/12/22(日) 10:02:44
TK師、いつもありがとうございます!


私たちは苦悩から解放されています。

その苦悩のもととなるものが消滅したからです。

どうしてそうなったのか。

私の場合、徹底的に自分と向き合いました。

ごまかすことなく。
なにかでごまかすことなく。

自分としっかり向き合いました。

逃げることなく。

ちなみに私は悟りを求めていませんでした。

ただ自分が人間として生きていくうえで
逃げることなくしっかりと自分と向き合った結果起こったものです。

だから「悟りたい」では悟れません。

どうやったら悟れるかなんて方法を探したってそんなものありません。

そんな生易しい考えでは無理なんです。

そんな「悟れる方法」なんて非現実なことを探す暇があったら
今の自分から逃げることなく
しっかりと生きてください。

ごまかすことなくしっかりと「人間」を生きてください。

人として当たり前に生きていったらいいと思います。

精一杯生きるって素晴らしいと思います。

私は精一杯生きたおかげで
いつのまにかこうなりました。

でもそれができない人が多い。

しみじみそう思います。


>スピ系だか精神世界だか、
>そのような不健全な妄想みたいなことはきっぱり捨てて、
>そう言ったものから一切離れてもっと地に足つけて現実に生きたらどうですかと、

ほんとそうだと思います。

私も道の途中スピ系にはまってしまい
スピ系やってましたし、スピ系のブログも書いてました。

(今、かつつての記事を読み返すと、何とも言えません(笑)
それをかつては一生懸命やっていたのです)

でもそれをすべて捨てて、再びしっかり現実に生きる決心をしたから
今があるのです。

私がスピ系を続けていたらずっとそのままだったでしょうね。

その世界がすべてだと思って生きていたと思います。
(そう思っている人の多いこと!)

でも実はそうではなかった。

ほんとうによかったです。
ほんとうによかった。

TK師にほっぺたをひっぱたかれたおかげで
今があります。

はい!

187 名無しさん :2013/12/23(月) 00:15:46
>私たちは苦悩から解放されています。

私たち“2人”は苦悩から解放されています。
ですよね・・?

解放、おめでとうございます。
ところで、全く苦悩のない人生って、楽しいですか?

188 ラピ。 :2013/12/23(月) 07:53:35
☆187さん

はい、もちろん。

ただし。
187さんの言われている「楽しいですか?」の問いの「楽しい」は
苦悩があってこその相対的な「楽しい」でしょうから
わたしの「それ」とは違います。

でも言葉に表すとすると
「楽しい」とも言えると思います。

187さんの言われている「楽しい」とは違いますが
「楽しい」と言えるでしょうね。

快適です。

189 TK :2013/12/23(月) 10:48:47
>ところで、全く苦悩のない人生って、楽しいですか?

はっきり言う、
我々の次元に君がごときの意識のままで飛び込んだらそれは苦悩以外の何物でもない。

およそ耐えられるものでは無い、これが次元の違いだ。

190 TK :2013/12/23(月) 10:54:44
例えるならば、例えば麻薬中毒者がいて、中毒から抜けられれば楽になれる。

しかし、中毒者にとっては抜けようとする行為が苦(激流)で、
それに比べたら中毒状態の方が楽なのさ。

だからこそ、抜けるのが「激流」となる。

「激流」を渡れば彼岸(高次元)だ。

191 TK :2013/12/23(月) 11:00:45
悟る前の者にとって、人生がつらいものである事は分かります。

宗教を求めたりスピ系、精神世界、
そこには自分を助けてくれるものがあるに違いない。

このような動機が主なものだと思います。

私もこれは経験があるのです、しかし、私の場合は光の存在が出てきましたから、
結論から行くとそれは止めることになったのです。

ある意味し方が無い事ではありますが、もしも、
宗教やスピ系や精神世界が無かったら自分はどうしているだろうと少し考えてみて下さい。

現実の世界で苦しさの解決の手段を見つけるより仕方が無くなりますよね、
その方向性が出なければ駄目なのです。

釈迦の教えにしろイエスにしろ、
スピ系や精神世界や誤認の覚者による手当たり次第その辺から取ってきた、
でたらめな多種多様の段階のゴチャゴチャ混ぜ内容のなんじゃありゃ教え。

もし、
このようなものが自分の生活の中に一切なかったとしたらどういう行動をとっているでしょうか。

必ずそれ無しで解決を図りますよね、これが健全な生き方なのです。

じつは、釈迦の教えもイエスの教えもこれが当たり前にできていて、
その次の者にこそ有効に作用する内容に作られています。

私は釈迦、イエスの教えを利用して命がけの「激流」の戦いを繰り広げました。

これらの教えをバカにするなと言いたいですよ、
これらの教えの内容は寝ぼけたバカがお気楽な気分で振り回すものではありません、
その者達のようなまだその段階に達してもいない者が気楽に振り回すなど、
教えに詫びろと言いたいものです、
やがてその者たちには天罰が下る事と私は確信しています。

その者たちのために説かれた内容ではないのです。

その者たち程度の者の妄想ネタにされたら教えの方が汚されます。

少なくとも私が利用した釈迦やイエスの教えは、その者たちのおもちゃにされて、
「豚に真珠」とはまさにこのこと事です。

豚に真珠とは的を得た、良い言葉だと思いますが、聖書の中のイエスの言葉なのです。

釈迦やイエスの言葉は豚には用がありません。

まず、豚小屋の中の豚的な生き方を卒業した者は、
やっと手にすることが許される教えだという事です。

この場合の豚とは、スピ系とか精神世界とか、
誤認の覚者関係の妄想に憑りつかれた一派の者たちの事です。

豚が持つことは許されないものなのです。

豚に真珠を与えてはならないとは聖書の中のイエスの言葉ですが的を得ていると思います。

ちなみに、
我々本当に至った者の眼は書籍などにある本物の言葉は本物の言葉として当然区別がつきますが、
それと、
それらの巷にばら撒かれている精神世界の知識を適当にチョイスして使い回している偽者は、
いくら同じ言葉を引っ張り出して装っていても、
そのような「受け売り言葉」で我々の眼はごまかせません。

私も今度は偽物ハンターとでも名乗りましょうか。

人々のためになりそうですね。

192 名無しさん :2013/12/23(月) 13:25:18
> 私も今度は偽物ハンターとでも名乗りましょうか。

非常に助かります。
この世の中情報がありすぎて、偽物にすぐに捕まってしまうので

現存していて、ましてや日本人だとハントするのは難しいと思うので、
ハントしても問題ない所で適当にリストアップしましたが、線を引くとどんな感じですか?


マハルシ
マハラジ
osho
クリシュナムルティ
マハリシ・マヘッシ・ヨーギ
パパジ
空海
井上ぎえん
沢庵
エックハルト・トール
ガンガジ
ダンテスダイジ
親鸞
ドランヴァロ・メルキゼデク
引き寄せの法則、ヒックス夫妻

193 名無しさん :2013/12/23(月) 13:35:35
>現存していて、ましてや日本人だとハントするのは難しいと思うので、
>ハントしても問題ない所で適当にリストアップしましたが、線を引くとどんな感じですか?

私はあなたのスピ系趣味におつきあいするつもりはありません。

私は本当は偽物実践者ハンターだったんですよ。

あなたが偽者なのです。

さようなら。(笑)

194 TK :2013/12/23(月) 13:41:10
私は真剣さの欠けた者に、このような場所で相手するつもりはない。

そのような者は、ある意味誤認の覚者以下だ。

誤認の覚者やその一派でさえ、そのような者よりまだましだ。

世の中には下の下という者がいるものなのだな。

195 名無しさん :2013/12/23(月) 14:36:57
>それらの巷にばら撒かれている精神世界の知識を適当にチョイスして使い回している偽者は、
いくら同じ言葉を引っ張り出して装っていても、
そのような「受け売り言葉」で我々の眼はごまかせません。

例を挙げていただかないと、分かりません
単なる妄想でしたらスルーします

196 ラピ。 :2013/12/23(月) 15:02:39
☆192さん

リストアップされた人、
どんな人か知らないし、対話したことないので
わかりようがありません。

197 ラピ。 :2013/12/23(月) 15:06:56
☆195さん

こちらから具体的に誰か例を挙げて、
どうこう言うつもりはありません。

でも「我こそ覚者である」という人がいたら
対話してみたいものです。

198 名無しさん :2013/12/23(月) 15:14:46
リストアップは例に過ぎないのでどうでもよいです
私もほとんど名前しか知らないと同じなので、それぞれの違いがわからないです

何と何がごちゃまぜなのか
どの方が誤認覚者なのか
例をあげていただかないと、なるほどと思えなく。
なるほどと思う必要もないのであればスルーしようと思います。

199 192 & 195 :2013/12/23(月) 15:38:54
TKさん、ラピさん

>でも「我こそ覚者である」という人がいたら
対話してみたいものです。

そういう事だったのですね。

私の完全な勘違いでした。

失礼します。

200 TK :2013/12/23(月) 16:05:12
>単なる妄想でしたらスルーします

全然かまいません。

あなたのような偽物実践者が逆立ちしようが、寝ころぼうが、ほえようが、
トイレでウンコしようがそれが私に何の関係があるのですか。

あなたのような偽物実践者に、分かってもらう必要が全くないのですが。

全くくだらない。

ラピ。さん、この輩達にまともにかまうのよしなさい。

構う価値もない人たちなのです。


私はたとえ名前だけでも、
そのような知識を豊富に掲げるような人たちが大嫌いなのです。

以上。

201 ラピ。 :2013/12/23(月) 16:10:07
☆198さん

スルー、どうぞ!

@(*・ω・*)ポッ

202 ラピ。 :2013/12/23(月) 16:11:21
☆TK師

はい!

@(*・ω・*)ポッ

203 名無しさん :2013/12/23(月) 16:46:25
どうでも良い質問なのですが、某ブログでコメントしていらっしゃるtkという方とtkさんは同じ方なのでしょうか?
そちらのtkさんは知識がすごいあるんです

204 TK :2013/12/23(月) 17:14:15
ラピ。さん

191
>ある意味し方が無い事ではありますが、もしも、
>宗教やスピ系や精神世界が無かったら自分はどうしているだろうと少し考えてみて下さい。
>
>現実の世界で苦しさの解決の手段を見つけるより仕方が無くなりますよね、
>その方向性が出なければ駄目なのです。

私がこのように語った直後に、
ベラベラと精神世間著名人と思しき名前をズラズラ掲げてどうですかと聞いてくるあたりが、
もう何もその者は私の話を聞いてないのです。

このような狭い世界だけでも聞く姿勢の無い者の何と多い事か。

何を言っても意味が無い、
イコールその者たちは相手にしてはならないという事なのです。

191
>「豚に真珠」とはまさにこのこと事です。

なぜこのような現象が起きるのかと言うと、
この者たちのエゴは膨大も無く大きく、
語っているものの内容の本質を掴むとかでは無く、
自分の気に入った言葉だけを掴むと言う習性の元に行動しているからです。

これもエゴの強い者の特徴です。

つまりこの者、
社会や組織の中に居ればひどく苦悩するタイプという事さらけ出しと言うわけです。

丸見えですね。

>某ブログでコメントしていらっしゃるtkという方とtkさんは同じ方なのでしょうか?

名無しもウヨウヨいるのに、自分を棚に上げた質問そのものが間抜けでしょ。

205 ラピ。 :2013/12/23(月) 21:38:16
☆TK師

そうですね。

聞かない人は伝えても聞かないでしょうから
伝える必要がありませんね。


かつての私もそうでしたが
今あるスピ系などの知識がすべてだと思うと
それ以外の話をきちんと聞けません。

その持っている知識こそが
その次元に自分を縛り付けている原因です。

だからかつて私は 知識を捨てて
一からやり直したのです。

「至らぬ初心者」の姿勢で
やり直したんです。

@(*・ω・*)ポッ

206 名無しさん :2013/12/23(月) 23:56:02
>私たち“2人”は苦悩から解放されています。ですよね・・?

この質問に対して、お答えいただけますか?
ここでいう彼岸に至った人というのは、ここのお2人以外にもいるのでしょうか?

207 通りすがりの206 :2013/12/24(火) 00:04:31
ちなみに、私は187さんでも192さんでも195さんでもありません。
ただ、聞きたい内容は、非常に近いと思いますので、宜しくお願いいたします。

208 ラピ。 :2013/12/24(火) 22:04:10
☆通りすがりの206さん

ふむ。
それが知りたいのですね。
なぜ知りたいのですか?

それを知ってどうなるのでしょう。

かつての私ならそんなこと
まったく興味なかったです。
(今もないですが)

それよりも私自身が「それそのもの」になるよう
日々、がんばっていましたよ。

知識を得て満足、なんてことはなかったです。

209 名無しさん :2013/12/24(火) 23:57:46
>それを知ってどうなるのでしょう。

全くだ、情けないね。

こんな者相手にしていても、何にもなりゃしない。

>ここでいう彼岸に至った人というのは、ここのお2人以外にもいるのでしょうか?

こういう私の話を全く聞かない者たちの連続と言うのは
どういう者たちを我々は相手にしているのでしょうか。

こっちは、誰も信用しなくていいんだよ、自分だけを信用していれば、
これしか言ってないのに、そろいもそろって、
ここにはこういうのしか来ないのかよ。

信者になりたきゃ、
その辺に誤認覚者が一杯いるからそっちに行って妄想の世界で
死ぬまで楽しんだり苦しんだりしていて下さい。

あなたたちには私は用が無いのです。

210 TK :2013/12/24(火) 23:58:22
上のTKです。

211 TK :2013/12/25(水) 00:04:06
彼岸とか悟りとか、だから一体それがどうしたのと言うような人にこそ、
私は関心があるのです。

次から次へと世の中の、変な人たちの集まり過ぎだよここは。

地に足がついてない幽霊たちを相手にしているのか。

こんな所でいくら話しても、意味が無い。

妄想、やめろよ、それ。

212 通りすがりの206 :2013/12/25(水) 00:22:47
悟りを開いたとかおっしゃている御二方

ご回答、ありがとうございました

>妄想、やめろよ、それ。

あんた方もなw

213 :2013/12/25(水) 01:01:02
tkさん、ラピ。さん初めまして。

私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。よろしくお願いします。

もう酔っ払いをやめたいのです。
けれど今までに仕入れてしまった知識が実践の妨げなります。

その文言を知った頃は、いわゆるマインドが静かになり、ストレスが消えるので重宝していましたが、今は不要です。

下からやり直したいのですが、記憶がある以上思い出してしまいます。
どうすればいいのかわかりません。

こんな場合の対処法を教えていただければ幸いです。

214 ラピ。 :2013/12/25(水) 03:24:44
☆通りすがりの206さん

妄想を使えるのと
妄想に使われるのでは
大きなお〜きな違いがあります。

妄想だとわかっていて妄想を使うのと
妄想だと気付けず妄想を使う(=妄想に使われている)のでは
同じ妄想を言っていても
全く次元が違うんですよ。

妄想を妄想だとわかっていれば
妄想によって妄想を打ち砕けますが
妄想を妄想だとわからなければ
それは単なる妄想です。

215 ラピ。 :2013/12/25(水) 03:29:14
☆楓さん

初めまして。ようこそいらっしゃいました。

>私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。

この掲示板に出会う前から
脱スピリチュアルを目指されていた、ということでしょうか?

>今は不要です。

なぜ、今は不要だと思われるのですか?

216 TK :2013/12/25(水) 04:50:32
>>妄想、やめろよ、それ。
>
>あんた方もなw

ラピ。さん、もっと決定的な違いを教えてあげないとね。

こちらは、逆立ちしても「妄想」が出来ませんよね。

何しろ我々には「対象」がないのですから。

妄想に憑りつかれるのはいつの場合も、この者たちの方だけなのです。

これが我々とこの者たちとの決定的な差なのですよ。

「妄想」の使い手とは自らが「妄想」の中にいる者には出来ないのです。

これが誤認覚者と本物との決定的な違いでもありますよね。

217 ラピ。 :2013/12/25(水) 07:55:14
☆TK師

はい!


私たちは妄想する「もの」がないんですね。

その「もの」がないんです。

だからTK師が言われているように
妄想しようがありません。

だからこそ 妄想を妄想だとわかるのですよ。

私たちは妄想を使いますが妄想できません。

でもそうでない方は妄想真っただ中、
どうやっても妄想してしまっているので
それが妄想だって気づけないし、
妄想と気づいたところで対処できないでしょう。
実はその気づくことそのものも妄想だからです。

妄想する「もの」が存在していますから
どんなに妄想から抜け出そうとしても
妄想どまりなのです。

これはある意味、無限ループです。
その無限ループを絶つために必要なのが
激流と言われるものです。

私は激流を渡り終えることによって
その「もの」が消滅しました。

いや、その「もの」が消滅したから
激流を渡り終えた とわかりました。

ちなみにこの「激流」という言葉は例えですよ。
(わかっていらっしゃると思いますが)

私にとっての激流は「葛藤」でした。

「葛藤」という激流に飛び込み
「葛藤」を飛び越えたのでした。

葛藤し続けて、ついに、葛藤が終了したのです。

葛藤する「もの」が消滅したからです。

(その消滅したときは「なんじゃこりゃ?」でしたね。
そうとしか言いようがなかったです。)

それが「至った」ということです。
実践終了、ということです。



>>妄想、やめろよ、それ。
>
>あんた方もなw

これを言われたところで私たちは妄想していませんので
なんともないですが(そういわれたところでしようがない)
それを発した本人は
さらに妄想ループ、ということになりかねませんね。

だって私たちが妄想しているという妄想を
すでにしていますからね。残念ですが。

ということで、しっかり自分の人生生きて
がんばってください、そんな妄想に時間を費やさず。

218 TK :2013/12/25(水) 17:23:48
至った我々の状態を、私は疑似エゴイズムと表現しています。

アナログ対デジタル。

どう見てもエゴイズムのように見えるのに、
しかしそれは方向性の無い単なるドットの集まりでしかない、
これが我々ですから、至ってしまえばあまりにも開放的過ぎて、
へへら笑ってしまいそうですね。

ここに至るまでは、激流だったのですから、
こんな毎日へヘラ笑いそうな快適な状態で能力も効率的に最大に発揮できて、
こんな日が来ようとは当時は夢にも思いませんでした。

少なくとも、ここで私に相手にされなかったような者たちは可能性はありませんので、
でも、くれぐれも我々に原因があるわけではありませんから勘違いしないように、
ずーっと笑ったり苦しんだりしながら生きて行って下さい、
その者たち自身が望んで進んでいく生き方ですから仕方ありません、
人の言う事が耳に入らないどうにもならない人たちですから。

この者たちには話をしても耳に入らず意味がないのです。

我々が無駄な話をした分だけ、
一般的には我々がやった事が徒労に終わって我々が
損をしたと表現できるものなのかもしれません。

一般的にはそうだがと断っておく所が、これまた我々の特異なところなのです。

219 :2013/12/25(水) 17:51:27
ラピ。さんこんにちは。

いいえ。正確にはこの掲示板に来てから、脱スピリチュアルへ考えを変えた。と言うべきですね。
言葉の使い方が正直ではありませんでした。

今は不要な理由は、私がその言葉を思い出して使っている限り、激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。
至れなくても、誤魔化したまま酔っ払いのまま終わりたく無いからです。

220 TK :2013/12/25(水) 18:01:36
楓さん

>私は脱スピリチュアルの方法を探してここに来ました。よろしくお願いします。
>もう酔っ払いをやめたいのです。
>けれど今までに仕入れてしまった知識が実践の妨げなります。
>その文言を知った頃は、いわゆるマインドが静かになり、ストレスが消えるので重宝していましたが

イワシの頭も信心、プラセボ効果があったのですね。

偽薬 - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E8%96%AC

>偽薬を処方しても、薬だと信じ込む事によって何らかの改善がみられる事を言う。


>下からやり直したいのですが、記憶がある以上思い出してしまいます。
>どうすればいいのかわかりません。
>
>こんな場合の対処法を教えていただければ幸いです。

まず手元にある一切の精神世界系書籍等をもったいながらずに処分する事。

ここからです。

私は激流段階の実践時でさえ、
今たまに引用している「スッタニパータ」であろうが「ダンマパダ」であろうが次から次へと人にやったり処分しました。

従って今の引用はネット上から拾ってきていました。

次に人の為、善をなす、悪をなさない等の生きていく上での
理想を持ちそれを生きている目的とする事。

221 ラピ。 :2013/12/26(木) 00:39:01
☆楓さん

なるほどです。

ちょっと思ったのですが
楓さんがスピリチュアルにはまったきっかけは何だったのでしょうか。

そこにヒントがあるかもしれません。

>私がその言葉を思い出して使っている限り、
>激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。

ええ、そうですね。

スピ系の言葉は「いろんなことを誤魔化す言葉」であることが多い。

例えば愛でないものを「これは愛だ」と言うことによって
誤魔化してしまう。

本当は愛だなんて思っていなくても。

だからそんな言葉で誤魔化すことなく
しっかりと自分と向き合わなければなりません。

222 :2013/12/26(木) 19:33:21
TKさん こんばんは。

書籍等処分します。偽薬でも私には劇薬でしたね。エゴが弱くなりましたから。
そして理想と目標にします。


ラピさん こんばんは。

直接のきっかけは、私に近しい人との別れによる喪失感、絶望感から。でしょうか。
ただそれ以前から、人間としての理想的な生き方や在り方に興味があったのは事実です。

223 ラピ。 :2013/12/27(金) 07:51:12
☆楓さん

エゴが弱くなったのですね。

>激流を作り出す圧力を自分で逃がしていると感じるからです。

その通りでエゴが弱まる=激流が起こらない
ということです。


>近しい人との別れによる喪失感、絶望感から。

喪失感や絶望感をスピ系によって紛らわせたということですかね。

私は昔から
喪失感や絶望感などが来たら
何かで誤魔化すことなく
それらを思いっきり味わい尽くす人でした。

自分に起こる感情をなにかで誤魔化すよりは
反対に増幅してそれを知ろうとする人でした。

変な人ですね(笑)

でも、誤魔化すのが大嫌いだったのです。

なぜ、絶望感があるのだろう、とか
この喪失感はなんだろうと思いめぐらせる人でした。

これは私の特性であって
他の人にお勧めできませんが
少なくとも私のその特性は今の私につながっていました。

(何かのご参考までに書いてみました。
でも、真似はしないほうがいいと思います。)

楓さんは自分の理想を実現するために
どうぞ、これからもがんばってくださいね。

楓さんには楓さんの道があります。
自分を信じることです。

スピ系を信じるのではなく
自分を信じることです。

スピ系の教えよりも自分を信じ、
自分の信じる善なる道を進むことです。

スピ系に自分の判断を
預けてはいけません。

自分の「善」を信じることです。

どうぞ清き道を。

224 :2013/12/27(金) 20:55:02
ラピ。さん こんばんは。

はい。その通りです。
余りの孤独感から、他の解決策を求めたのです。そこでマインドやエゴの働き等を知りました。

今は感情を味わい尽くすことに抵抗はありませんが、その頃は中途半端な姿勢でした。
とことんでは何かが永久に変わる気がして、戻れなくなりそうで、怖かったのです。

現在は、勝手に起こるそれらが一時的なものでしかないとの理解と、
それらと『自分』との隙間、選択の余地から、反射的な言動は無くなっています。


傍目には私が成長したように見えるでしょうね。
ただ、降参してラクにはなったけれど迷子にもなったような…
方向感覚を失った心許なさがありました。

返信ありがとう。
書籍等処分しました。自分の善を信じます。

225 ラピ。 :2013/12/27(金) 22:18:31
☆楓さん

楓さんはもしかしたら
かつて「激流」を経験したことがあったりしますか?

それについてなにか心当たりはありますか?


>偽薬でも私には劇薬でしたね。

この出来事はいつ頃の話でしょう?
スピ系にはまってからの話ですか?

それともスピ系にはまる前の出来事ですか?

226 TK :2013/12/28(土) 09:14:12
精神世界系の中ではワクワクの教えが一番的を得た教えであると評価しています。

ただし、
説いている者と聞いている我々の環境との違いをつくづく感ずるものではあるのです。

それ以外は、聞く者の段階とピントの合ってない教えです。

私は、探求の結果光の存在から、精神世界への関心を捨てさせられました。

そこでは確実に一つの教えを与えられましたが、それは、
激流の段階の教えと比較すると、完璧な教えでは無く落ち度のある教えであり、
しかし、その時の私には当然そのような事などわからず、
ただ有難い教えなのだろうと思って信じて歩みを進めました。

それが「理想的な生き方」を拠り所として自分の足で人生を切り開いて生きる生き方です。

それから自分の足で踏み出したらとても素晴らしい世界が私の前に広がりました。

生きていると言うのはなんと素晴らしい事か、このような生き方が広がってきたのです。

なぜ、私がこの時に完璧な激流レベルの教えでは無く、
程度の下の不完全な教えを光の存在から与えられたのでしょうか。

光の存在が、
程度の低い存在でその程度の教えしか私に教えられなかったという事なのでしょうか。

しかし、これは、聖書レベルの教えをこの当時の私程度の精神で実践したら、
完璧な酔っ払いとして一生死ぬまで生きる事になるからなのです。

世間の多くの酔っ払いの者達と自らの誤認による覚者を目にし、
それとは対照的にラピ。さんの成就と、至った本物が稀という事実で、
それはほぼ確実である事が確信できました。

光の存在の導きは正しかったのです。

それは全くもって表現上は聖書のイエスの教えとは正反対の内容となるものです。

聖書のイエスの教えでは「裁いてはならない」ですが、
この段階の実践では「大いに裁いて結構、どんどんと自分の理想に照らして裁きなさい」
というものなのです。

スピ系で「感謝して受け入れて」と言う内容を聞きますが、
この段階では「不快」こそ理想実現のための行動原理なので
「不快な事に感謝などする必要はなく」それを解決するぺく自分の足で動くという事なのです。

このように正反対の教えですが、
実はEO氏という賢者もまず悟りの実践よりも前にサバイバル能力の実践が必要なのだと説いていました。

悟った我々の所では永遠の戦いの放棄の実現なので、
サバイバル能力のような戦闘力は一見まるで逆の内容ですが、
これこそがまずは必要なのであると説いているのです。

理由として、この実践をする事でチャクラの機能が成熟して整うのだと言うことです。

チャクラはともかく、考えてみても人間らしいまともな生き方ですよね。

この実践こそ必要なのです。

EO氏によるとこの過程を飛ばして行法に飛びつくような者においては、
頭がぼけてゆきそれを安心と勘違いし、
その者には何ら知的成熟すらも起こることは無いという事である。

私が酔っ払いと表現する状態と酷似しています。

私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。

何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。

ワクワクの実践は「知的」な実践であるのに対して、
激流の実践とは正反対の「バカ」になる実践なのです。

いい気になってやってますが、
スピ系の振り回している実践内容はバカになる要素のものですから、
自らの誤認による覚者にしても、
ドンキホーテとその従者のサンチョ達に譬えるとちょうどぴったりの状況に傍からは見えるのですよ、
本人たちは酔っ払っているからまともだと思い込んでいる、
まさにドンキホーテとその従者のサンチョです。

私はバカになる事の恐怖に打ち勝ちながら、実践に臨んだものですが、しかし、
私は過程を飛ばす事無く踏んでいたので、酔っ払いにはならずに、今に至りました。

EO氏のような私が覚者と認める方は、このように私が言う酔っ払い現象について、
同じように語っているのです。

今も誤認の覚者とその関係の一派が一生懸命に死ぬまで酔っ払いコースで歩んでますが、
その者たちにはこの事実を知る術はありません。

(続きます)

227 TK :2013/12/28(土) 09:16:32

(続きです)

聞く耳は無いでしょうから、寿命に達して死ぬ時に後悔する事になります。

悟りに至るためには、単純ではないこのような入り組んだ仕組みがあるのです。

この前段の実践を終了出来た者だけが次の釈迦並びイエスの教えが実践できる状態が整うのです。

人間としての基本的な生き方ができてもいないのに、
手を出すことは絶対に厳禁です。

ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。

これで私はイエスからも釈迦からもこの聖書の言葉のような奇瑞を得ることができました。

これは私自身の奇瑞経験ではありますが、
私の述べている事がイエス本人から承認されている内容である事の根拠として下さい。

誤認の者はいくら一生懸命にやっても、
その一派も含めてイエスが目の前に現れるなど、絶対にこれは起きません。

誤認の者は同じまともな感覚を麻痺させられた者同士で、ドンキホーテとサンチョを演じるのみです。

間違っている内容を目の前で繰り広げられるのを目にするのも切ないものがあります。

なぜなら、自らの誤認による覚者と私との違いは、
単なる運が良くて私は自らの誤認による覚者と同じ道を歩まなくて良かっただけのようなものですから。

それは僅かな違いなのですが、
しかしその僅かな違いが両者の明暗を大きく分けたのです。

なぜなら、片方は一生誤認の者として生き、そしてまた、
係わる多くの人たちに対して虚偽を説き罪を積み続けるからです。

仏罰と言う文字が頭に浮かびます。

私は迷路を抜けた稀な一人という事になってしまいました。

決して望んでなったわけではありません、
なぜなら望んだら永遠になれない原理のものだったのですから。

私ごときには大それた事だとも思うのですが、それでも、
一生自らの誤認による覚者で生きて行こうとしている者たちに対しての、
気付かせるためのチャンスを握る僅かな者の中の一人なのです。

この私が、釈迦やイエスの眼鏡にかなった実践において奇瑞を得た者なのです。

私と接する誤認の者の中には、そうである事に気付くことができた者もいました。

また、私の力が及ばなかった自らの誤認による覚者のままの者もいます。

適当な口実を作って、私の前から逃げた誤認の者もいました。

ラピ。さんのように私の導きで至った者もいます。

私は現在は「釈迦もイエスも一切を信じていません。」

これこそが至った者だからこそ宣言できる真実の言葉ですが、
誤認による者たちよ、自ら、この宣言が出来るか、もしできなくば、
それがお前たち自らの誤認による覚者であることの証なのだ。

(続きます)

228 TK :2013/12/28(土) 09:17:09
(続きです)

また、信者は導師にたずねてみるがよい、
あなたは「釈迦とイエスを現在も信じていますか」と、
これが至った本物か至っていない偽物導師かの踏絵であり判定法です。

私はよく聖典を引用しますが、
それは決して今現在私が釈迦やイエスを信じているからと言う理由では無く、
かって実践時の成就する前の段階において私もその教えを信じていたと言う対機の一手段です。

私自身はもう信じる事はありません。

だからこそ、方便として説けるのですよ、信じている真っ最中の者が、
方便としてこれらを使い回すことができると思っているのですか、
思い上がるのも休み休みなさい。

覚者ごっこ、ふざけるんじゃない、一刻も早くそのような茶番は止めろと命じたい、
全然至ってもいない者が、
我々のような本物と対当の気になって本で得た知識で覚者を装い気分だけでそのような事をやって恐れ多い事です。

至った本物は信じていませんと、はっきりと答えることができるのです。


スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


さて、信者の方も本物の釈迦やイエス本人を信じるのか、
本人は信じずに誤認によるエセ覚者を取るのか、仏罰レベルの選択です。

ラピ。さんは私の説く真実の教えによって至りましたが、
これが私に出会うよりも前に、
自らの誤認による覚者に出会わなかったことが不幸中の幸いでした。

折角の素養のある者が、みすみす死ぬまで酔っ払いになるのですから、
それは今の至った後のラピ。さんが一番よく知っているはずです。

自らの誤認による覚者は多いですが、
今の世で私とラピ。さんのような者に出会えるのは稀なのです。

何度も言いますが私は望んで至ったわけではありません。

次の者には要注意です。

不用意に、
「裁いてはならない」とか「感謝して受け入れて」と言う内容を多くの者にばら撒いている者。

これはEO氏説く必須のサバイバル能力と言う点に照らしても、
感覚を麻痺させる、頭がぼける事を平安と勘違いする酔っ払いとなる要素なのですから、
はっきりと言いますがその人物は偽物です。

実際に多くの人に必要な教えは、知的水準を上げるワクワクの実践です。

229 :2013/12/28(土) 19:42:02
らぴ。さん こんばんは。

激流だったかどうかはわかりませんが、劇薬のような体験はスピ系に関わって以降です。


きっかけであろう喪失感からスピ系をかじり、
始まったものを感じ切る事を許可し(偽薬2) 実際にそこへ飛び込み、起こるままに任せた体験があり、
その後、大喧嘩による葛藤でとてつもなく気分が悪くなりました。

ちなみに、その時巻き込まれた口論ですが、人一倍エゴの強かった以前の私なら、とばっちりだろうと何だろうと、論破の上に倍返ししていましたが(苦笑)

興奮してまくし立てる相手を他所に、私自身はアドレナリンに悪酔い、吐き気がしていて。後でしばらく座り込みましたね。

激流に似た葛藤の心当たりについては、以上三回です。

230 :2013/12/28(土) 19:45:17
TKさん こんばんは。

こちらにお邪魔するようになって以降、書かれた事が答え合わせのように理解出来ます。
だからもう私にはスピ系以外でも要らないのです。

私は狡さから酔っ払ってしまったけれど、人としてまともな道に戻る気になりました。
ありがとうございます。

231 ゆうこ :2013/12/28(土) 19:56:37
皆さまこんばんわ(*^_^*)

楓さんのように私も(聖書と仏典以外の)書籍を捨て、
神棚も片づけて自分を信じて歩み始めておりますm(__)m

職業柄、繁忙期に突入しており、年末年始ノンストップですが
風邪ひとつひかず、心身ともに充実している昨今です。

らぴさんからのアドバイスで
「人を裁かず」なんて甘いこと言ってて仕事ができるか?という問いも
最初は戸惑いがありましたが
全体の向上のために、という気持ちで取り組んでいます。

そこには、まだ感情が絡んでいて
本当に全体の為か、自分の気が済まないから裁いているのか
見極めに注意を払いつつですが・・。

>この段階の実践では「大いに裁いて結構、どんどんと自分の理想に照らして裁きなさい」
>というものなのです。

>スピ系で「感謝して受け入れて」と言う内容を聞きますが、
>この段階では「不快」こそ理想実現のための行動原理なので
>「不快な事に感謝などする必要はなく」それを解決するぺく自分の足で動くという事なのです。

上記の言葉は
この掲示板で最初に歩みかけた実践の考えとは反対のことなので
確かに戸惑いもありましたが
らぴさんからもTK師からも
私の段階に対するアドバイスの修正を頂いたので整理して進路変更しました。

現在は、毎日一緒の先輩が『結果主義』の人で精神世界に無縁のため
問題の解決法のよい勉強ができています。

おそらく、以前の『ごちゃ混ぜ』の目だったら
つい見えない世界に照らしてしまい、
この先輩すらも、心のどこかで過小評価のままだったと思います。

今は、自分の可動域と行動の結果が全てなので
忘れていた特技まで持ち出して問題解決(=営業結果)に取り組めており、
状況としては、TK師の書かれている

>自分の足で踏み出したらとても素晴らしい世界が私の前に広がりました。

に近い心境です。

そこで、今、ふと質問が湧いたので書き込ませて頂いております。

「このまま現実主義でベストを尽くしていく日々を送っても
いずれ壁にぶちあたる。
そこで自分の力ではどうにもならなくなった時に
聖典などを開くのが
タイミングとして適切」
ということでしょうか?

これまでも多くの挫折や失敗のたびに
聖書を含めたいろんな本に答えを求めてきましたが
「同じ聖書(聖典)でも、他の情報と混ぜずに実践すること」が大きな違いを生む、
ということなのでしょうか?

実は、この掲示板でブッダの言葉を初めて知って感動したため、
今でもつい開いてしまって
「自分の善は、この戒めを原型としているから」と言い訳しています。

実際、仕事や家事での集中に役だってもいます。

この状態は、OKでしょうか?

232 TK :2013/12/28(土) 21:12:11
ゆうこさん

>聖書と仏典以外の)書籍を捨て

これも捨てた方が良いです。

この害の部分があなたに顕著に作用して、
あなたが見る見る酔っ払いになるのを目にしたので、教えを変えたのです。

あなたの変貌ぶりは、かなりのものでした。

かなりの危機感を覚えました。

これは「バカ」になるための教えが記載されているものなのです。

よほどの使い方が出来るもの以外は、係わってはなりません。

このようなものに後ろ髪惹かれて何らかの価値を認めている内は、
この段階の生き方ではありません。

私などは聖書は一冊焼却炉にぶち込んで燃やしました。

今手元にある聖書は、その後本当に学ぶべき時が来たので、
再び手に入れたものです。

スッタニパータにダンマパダは職場の人に上げました。

これは、至るまで必要なかった書籍なので今はネット上から拾って引用しています。

つまり、
スッタニパータやダンマパダに役に立つ内容が無かったわけではなかったのですが、
多くのものを読む事は、いかなる段階の実践においても害になるものなのです。

内容だけ知って、賢者のつもりの他のサイトのバカのようになりたければ、
多くの本を読んで下さい。

私は手に入れて少ししか読まずに手放した本は多いです。

>「このまま現実主義でベストを尽くしていく日々を送っても
>いずれ壁にぶちあたる。
>そこで自分の力ではどうにもならなくなった時に
>聖典などを開くのが
>タイミングとして適切」
>ということでしょうか?

何と自信の無い発想をしているのです、
あなたはずっと自分のみを信じて生きていくので、
精神世間の心配など無用なのです。

233 ゆうこ :2013/12/28(土) 21:32:36
TK様

>害の部分
これは、びっくりします^^;(聖典に害とは・・)

聖書は若い頃の物なので既読感があってほとんど開きませんが
ブッダは、最近知ったために
正直、どこから読んでも感動で、

「八正道さえ踏み外さなければ間違いない」という指針が
芽生えたところでして・・・。

>何と自信の無い発想をしているのです

おっしゃる通り
ダメなところだらけの自分のまま行け、
と言われることに抵抗感を感じます。

謙遜が美徳の教育も価値観として根強く作用してます。

>あなたはずっと自分のみを信じて生きていくので

・・・これまで好き放題生きて来て反省してここにたどり着いたのに
また逆戻り?という戸惑いを感じますが


まったく、前のままに戻るわけではないですもんね・・・。

愛人も酒もケンカも「自分の善の道」にはないですし。

・・・・・毎日、家族と会社のために生活して
少しの時間、ブッダに触れることを日課の楽しみにしていたので
かなり残念ですが・・・

「ブッダを拠り所にしている状態」を断つために
アドバイスに従ってみます。ツライですけど・・・

あ、ツライ、って思ったってことは、それくらい頼ってたんですね、
ブッダに。

自分の自信のなさを「エセ・ブッディスト感」でごまかしてたと。

なるほどです。

明日から、赤裸々な、
「ザ・ゆうこLIFE」スタートしてみます。
また人に迷惑かけたりすると思いますが!

ビート板なしで泳ぐのは、今考えると、30年ぶりくらいかもです!
子供の頃の気持ちに戻ってがんばってみます。

お返事ありがとうございますm(__)m

234 TK :2013/12/28(土) 21:41:18
楓さん

>こちらにお邪魔するようになって以降、書かれた事が答え合わせのように理解出来ます。
>だからもう私にはスピ系以外でも要らないのです。

良い方向性です。

ただ、常に拠り所にできる「理想」だけは持って進んでください。

人々の為、善をなすなど。

>私は狡さから酔っ払ってしまったけれど、人としてまともな道に戻る気になりました。
>ありがとうございます。

泥沼から脱出良かったですね。

235 名無しさん :2013/12/28(土) 21:55:48
☆楓さん

スピ系にもいろいろあるんですね。

楓さん、どうぞこれからも頑張ってくださいね。

236 ラピ。 :2013/12/28(土) 21:56:23
235の書き込みはラピ。です。

@(*・ω・*)ポッ

237 ラピ。 :2013/12/28(土) 22:06:04
☆ゆうこさん

ゆうこたん、日々頑張ってますね。

>ビート板なしで泳ぐのは、今考えると、30年ぶりくらいかもです!
>子供の頃の気持ちに戻ってがんばってみます。

自分の信念をもとに泳いでいくといいと思います。

子供の頃の気持ち。
まさしく私も第一の実践は子供の時で
素直に自分の「善」を信じて実践していました。

まっしぐらに。

ゆうこたん、どうぞ善なる道を!

@(*・ω・*)ポッ

238 TK :2013/12/28(土) 22:29:22
ゆうこさん

>ブッダは、最近知ったために
>正直、どこから読んでも感動で、

あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。

あなたごときに、分かる内容ではありません。

誤読です。

あなたは元々妄想壁の強い酔っ払いになる傾向にあった人です。

そのようなものに一切近づかないように心がけないとなりません。

あなたにはとても危険な匂いがします。

>・・・これまで好き放題生きて来て反省してここにたどり着いたのに
>また逆戻り?という戸惑いを感じますが

放逸に生きろと言っているのではありません。

出来るだけ高い「理想」を持ってください。

人の為、善をなすなどです。

そうすると、生き方がしっかりしてくるのです。

239 ゆうこ :2013/12/29(日) 07:03:18
TK様

>あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。

・・・すみません、おっしゃっている酔っ払いの定義が
まだよく理解できておりません・・

が。

>そのようなものに一切近づかない

という生き方を標榜した事がない
(むしろ求めたり、無意識に慣習として取り入れたりしてきた)
ので、新しいチャレンジとして努力したいと思います。

>出来るだけ高い「理想」

その理想に、
すでに感動して標榜としている聖典の言葉
・ウソをつかない・無駄口をたたかない・淫を行わない等
人の生活の上で、まっとうと思われる戒めはそのまま標榜したいと思いますm(__)m

今朝は目覚めて、少し心もとない気分です。

手を合わせる神棚もないし
ちら見する聖典もない・・

それらは、
日々、自分を律することを意識できる大切な時間と思っていました。

いかに何かに依存していたか、という証拠
ということになるんでしょうね・・

お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?
(腹を立てたりした時に悩みます)
そもそも、これまで仕入れて無意識になっている知識を無くせないし・・

などなど、ちょっと弱いスタートダッシュですが・・・

>人の為、善をなす

頂いたアドバイスを帰ってからもう少しじっくり考えますm(__)m

時間なので、今日も1日がんばってきます!!
Reありがとうございます。

240 ラピ。 :2013/12/29(日) 09:52:01
みなさまおはようございます!

@(*・ω・*)ポッ

ゆうこたんのコメントを見て
なるほど〜と思いました。

酔っ払いとは「信者」とも言えます。

自分以外の人や教えを信じて生きるという状態です。

例えばですがスピ系酔っ払いであれば
スピの教えを盲目的に信じて
自分の判断をスピ系に任せてしまう、といった状態です。

それでは的確な判断ができません。

TK師がこういわれていましたね。

>私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。

>何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
>物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。

まさしくその通りでした。
初めの師とのやり取りを今見ると
「私ってあほやな」としか言いようがない状態だとわかります。

でもその時は気づいていなかった。
スピ系信者で、変なものを信じていたために
きちんと人の話が聞けていませんでした。

私は「ポジティブシンキング」信者だったのです。
(昔の私のブログを見たらわかりますね(笑)

でもさらなる昔の私にはそれがありませんでした。
(途中スピ系信者になってましたが、
私はもともと そんなこと、大っ嫌いでした。)

なぜなら自分の「善」というものを信じていて
それ以外の教えは必要なかったからです。
(仏教もスピ系の教えもその頃は一切知りませんでした)

もし、自分以外のものに「善」の判断を預けてしまうと
自分の「善」と「自分以外の教えによる善」にずれが必ず生じます。

そういう時、どうしましょう?

教えをとって、自分の「善なる判断」を無視しますか?

いいえ。

それでは自分を生きていることになりません。

そんなときは迷わず、「自分の善」です。

それが自分を生きるということ。

自分以外のものに自分の「善なる判断」を任せてはいけない、ということです。

私は第一の実践の前に
自分にとってどういう生き方がいいか、
何日もじっくり問いました。

そしてしっかり問うて得た答えを指針に
生きることを決心しました。

>お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
>自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?

自分は今までの経験から何を感じたか。
自分は人がそれをしていてどう思うか?
自分は人に何をしてもらったらうれしいだろうか。
自分がどう生きれば納得できるだろうか。
自分が周りの人のためにできることはなんだろうか。

いろんな問い方があると思いますが
「自分」によく問うてみるといいと思います。

理想は人それぞれなので人の数だけあります。

自分の善なる納得する答えを得たら
迷わずその生き方をするといいと思います。

私はそうでした。

それが
「自分を捨てて喜んで何でもしよう」という指針です。

単純なこの言葉のみを指針に生きました。

この指針は自分がじっくり問うて得たものでした。

そして私は私の人生をかけてそれを実践したのでした。

241 TK :2013/12/29(日) 09:55:05
ゆうこさん

>>あれが感動する内容に思えるのなら、物凄い酔っ払いです。
>
>>・・・すみません、おっしゃっている酔っ払いの定義が
>>まだよく理解できておりません・・


強度の妄想癖の持ち主であるという事だ。

譬えるなら、ドンキホーテとその従者のサンチョ、それが君だ。

物凄く気色の悪い人物という事だ。


>>そのようなものに一切近づかない
>
>という生き方を標榜した事がない
>(むしろ求めたり、無意識に慣習として取り入れたりしてきた)
>ので、新しいチャレンジとして努力したいと思います。

君は今までの自分の生き方を承認してもらいたくて私の話を聞いているのかね。

こちらには君の癌の部分が丸見えなんだよ。


>出来るだけ高い「理想」


>その理想に、
>すでに感動して標榜としている聖典の言葉
>・ウソをつかない・無駄口をたたかない・淫を行わない等
>人の生活の上で、まっとうと思われる戒めはそのまま標榜したいと思いますm(__)m


このままで泥酔状態から抜けられるとでも思っているのか。

177
>激流段階の実践では規制が主になりますが、
>ワクワク段階の実践では自由が主体となるのです。

あの内容は自らの「自由意志」の成長を阻害して「バカ」になるための教だ。

そのようなものを一切頼りにせずに、もっと自分の「自由意志」を伸ばせ。

それが「自分の足で」地に足つけて、歩くという事だ


>今朝は目覚めて、少し心もとない気分です。

>手を合わせる神棚もないし
>ちら見する聖典もない・・

依存対象が無い事による、禁断状態だ。

中毒症状が重度である事を表している。


>それらは、
>日々、自分を律することを意識できる大切な時間と思っていました。

「自由意志」の成長が阻害されて、ほとんどバカだな。


>お手本なしに自分の描く理想は、果たして正しいのか?
>自分の判断基準に間違いがあってもそのまま生きていって大丈夫なんだろうか?

自分の中に最低でも「善悪」と言う基準があるだろう。

酔っぱらっているのもいい加減にしろ。

>(腹を立てたりした時に悩みます)

他とのバトルを避けちゃだめなんだよ。

酔っ払いの典型だな。

スピ系汚染もここまで来ると、死ぬまで酔っ払いだ。

気色悪い。

まともな人間と話をしている気がしない。

自分自身では無く、自分の外を頼りすぎたことが全ての原因だ。

242 TK :2013/12/29(日) 10:39:12
ラピ。さん、コメントが良い。

さすが「元」だけある。

>自分自身では無く、自分の外を頼りすぎたことが全ての原因だ。

自分を信頼できれば、その分外は頼らなくてよくなる。

外に依存するから、自分自身に自信が持てない。

この二つは相関関係だ。

ここがパズルのピースだ。

もっと自分自身に自信を持って、自分の思考に自信を持って、
どんな問題でも解決できるのだ、不可能はないとこのように自分自身を信じて、
そうやって歩みを進めていく。

「余の辞書に不可能の文字はない」これだ。

ナポレオン・ボナパルト - Wikiquote
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88

243 ラピ。 :2013/12/29(日) 14:14:25
☆TK師

>さすが「元」だけある。

てへ。(まったく自慢できませんね(笑)

私はどちらの生き方も精一杯して
どちらの状況の状態も経験しています。
(スピ系も本当の実践も 両方)

ちょっと前までは両方、「とことん」ということは同じだったので
両方の生き方が表現上でごちゃ混ぜになっていましたが
なんだかわかってきました。

実践の姿勢としては
第1の実践を例にするといいみたいですね。

第3の実践はいわゆる「とことんスピ系」でした。

しかし、「とことんスピ系」を 私がとことんしたところで
単なるスピ系信者どまりで終わりだったでしょう。

私の基本は「とことん」でしたが
方向性が間違っていれば
「とことん」も意味がないことがわかりました。

だから実践前に自分の方向性、基準をしっかり決めることが大切ですね。

それはスピ系などで言われていることを基準にするのではなく
自分自身の中にある「よいこと」を基準にする、ということです。

そして決心したら「とことん」です。


、、、TK師に出会えなければ
私はとことんスピ系やったんかな、、、、。

出会えてよかったです、、、、。

チャンスを逃さなくてよかったです。

@(*・ω・*)ポッ

244 ゆうこ :2013/12/29(日) 19:56:59
TK様ラピ様

コメントありがとうございますm(__)m

出直してきます!

245 TK :2013/12/30(月) 07:40:03
ラピ。さん

>TK師に出会えなければ
>私はとことんスピ系やったんかな、、、、。

一寸先は闇で、怖いのはやはり次のケースだったろう。

>ラピ。さんは私の説く真実の教えによって至りましたが、
>これが私に出会うよりも前に、
>自らの誤認による覚者に出会わなかったことが不幸中の幸いでした。
>
>折角の素養のある者が、みすみす死ぬまで酔っ払いになるのですから、
>それは今の至った後のラピ。さんが一番よく知っているはずです。

君の当初のピントのずれ方は、
自らの悟りの誤認による他の酔っ払いサイトの者と、
一緒に酒を飲みあいながら同調してしまうレベルだった。


http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。
>
>
>この世界の真実を知る!


凄い酔っ払い。

私は全く君の事を酔っ払い以上の評価などしてなかったが、
他の酔っ払いサイトでは、よく来て下さいましたとか挨拶された後、
君はニセの成就認定まがいの印可を授けられて、
他のサイトのエセ自称覚者とその一派に仲間入りで、
死ぬまで永遠にカクセンジャーだ。

世界を救うんだとか言いながら、同調している事だろうな。

世界を救う、笑える〜、これが覚者の言葉だと、爆笑だ、
地球防衛軍の間違いじゃないのか。

あのような酔っ払いにならずに良かったな。

今君の前に取り組む世界などあるのかね、良かったな。

このように、君も一歩間違えば、他のサイトの酔っ払いのようになっていた、
その差など、「運」だ、僅かなものなのだ。

君も彼岸に至ってその獲得した眼で周りを見渡して、
至れた事が「まれ」な現象だと言うことが分かったろ。

酔っ払いの彼らは一生懸命なだけにお気の毒なのだが、
あれで死ぬまで永遠にあれやって酔っ払いのままでこの世界を終えるんだ。

その者たちの聞く姿勢の無さは、
私に出会った当初の君の私に対しての聞く姿勢の無さと同じようなものだ。


マタイの福音書 7章13-14
>狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
>そして、そこから入って行く者が多いのです。
>
>いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

スッタニパータ559-560
>わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。
>もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。
>
>かれは(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、
>そなたらにとって、いとも得がたいことであるが、わたしは、
>その<さとった人>なのである。
>バラモンよ、わたしは(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。

246 TK :2013/12/30(月) 08:04:23
>私は「ポジティブシンキング」信者だったのです。
>(昔の私のブログを見たらわかりますね(笑)

実際はポジティブシンキングに問題があったわけではない。

実は、全うな精度の実践が出来ていなかったと言うのが原因だ。

私の指導の下でなら、ポジティブシンキングでも「激流」は起きる。

ポジティブシンキングも、ポジとネガの立派な相対の原理の上での実践だ。

スッタニパータを読んで感動しますとかほざいている酔っ払いも、完全に誤読だ。

自分の良いように解釈して、劣った精度で取り入れて、
分かった気になっているんだ。

元々が激流の実践のその正体は「妄想を駆使したバカを極める為の実践」なのだ。

つまり、激流の実践は鈍った精度の実践をすることにより、それは緩流となり、
何ら効果を得る事もできず、そのバカになる害の部分だけが作用して頭がボケ、
それを平安を得たと勘違いする一生何かに憑りつかれた亡者のような酔っ払いの人生を送る事になるのだ。

これが世にゾンビのようにうごめく、あのエセ覚者も含めた気持ち悪い者達、
妄想狂の酔っ払い現象のからくりだ。

あの者たちを見ていると、世界を救うとか、妄想に踊らされて気持ち悪いだろ、
あんな風に亡者のようにはなりたくないものだな。

つまり、激流の実践に必要不可欠は、精度の高い眼力だ。

自分に無ければ、導師にそれを求める以外に無い。


マタイの福音書 7章3-5
>また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、
>自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
>
>兄弟に向かって、
>『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。
>見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
>
>偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。
>そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。


ただし、激流の実践に突入するためには精神の面での資格が必要だ、
人間としての幸せを掴むための生き方で限界まで行って、
もうそれ以上にどうしても先に進む事の出来なくなったと認められた者だ。

その者にとっては、それがどんなに地獄でも、進むしか他に手が無いのだから、
その者はこちらが指示しなくても自分でその先に進む事だろう。

君も、そして私も独力でその先に歩みを進めたように。

運よく私の方が彼岸に到着できた、そして君にもその方法を教えたんだ。

だから、重要な事は人間としての幸せの掴み方の限界まで突き進む事だ。

この方向で歩めたなら、たとえ限界まで行きつかなくても、
それはそれで幸せな人生を送れる。

247 ラピ。 :2013/12/30(月) 16:10:06
☆TK師匠

私は師は求めていませんでしたので
誤認覚者を師とは絶対しなかったと思います。

そもそも覚者に興味がありませんでしたから。(笑)

だから私の場合、それは大丈夫です。

ただ、最近 誤認覚者に
せっかく素質のありそうな人がはまってしまっているケースを見ました。

どうなるんでしょうね。もったいない。


思い出すものがあったので書きます。
(同じようなことを書くかもですが)

私は第一の実践をやり遂げ、第二の実践に飛び込まざるを得ませんでした。

この第二の実践はまさしく相対原理を使ったものでした。
その頃はそうであることも知らず
どんな瞬間も実践し続けました。

そしてついに彼岸へ。
しかし、その時自我がすべて消滅することはありませんでした。

命がけで彼岸に足を踏み入れたけど
渡り切れませんでした。

ちなみにこの経験が最後の激流の時に
かなり役に立ちました。

この第一の激流に何年も私はいたので
(よくやったなぁと思います(笑)
激流がどういうものかわかっていました。

(ちなみにこの頃だったらブログなんて書けなかったと思います。
皆さんの知らないラピ。です(笑)

だから師に出会って激流が起こった時
「これだ!」とわかり
師に伝える前に勝手に激流に飛び込みました。

そしてついに残っていた自我が消滅しました。


話は戻りますが第二の実践で至ることができず帰ってきた私ですが
第二の実践が終了した後、
「もうがんばった、十分頑張った。もういいやろ」
と思い、実践から離れ
幸せや楽しみを味わう決心をしました。
(こう決心するあたり、実践の名残がありますが)

そしてブログを書き始めました。

このおかげでネット上でいろんなお友達ができました。

そうですね、いろんなことにわくわくしていたと思います。

ただただその瞬間を楽しもうと思い
(これもスピの教えのひとつですね)
楽しもうとしていました。

ブログでの出来事は楽しかった出来事の一つです。

そしてこのネット上でのいろんな出来事があったからこそ、TK師に出会えました。

そうでなければ私はTK師の存在を知ることはなかったです。

すべてはつながっていてどの出来事も私にとって必要だったと思っています。


第二の実践の終了後、
私は中途半端な状態でした。

下手をしたら私は永遠にそのまんま中途半端でした。

でもTK師に出会うことができました。

TK師とのやり取りの中でも私はもう、
「今のままで十分」というのがありましたので
そして今の状態が「正しい」状態だと思っていたので
TK師に否定されたとき正直腹が立ちました。

そして訳が分かりませんでした。

でももし、かつての私が本当にその状態でいいと思ってしまったのなら
今の私はありません。

そこで終了です。

でも私はまだまだで まだ先があったのでした。

その先にこそ、本当は私が
本当に求めているものがあったのでした。

でもそれすらもわかっていなかった。

覚者から見たら、私はまだまだで
でもその「まだまだ」がわかっていない状態。

掲示板でもそのような人がたまに現れていましたね。

もったいない。

まだまだ先があるのですよ。

でも私もそうなってたかもしれなかった。

そう思うと、今の状態が「最高である」と思っている人に
「まだその先があるのよ」と伝えたい。

そもそも「最高」なんてないのですよ。

、、と話がそれました、てへ。



>その者にとっては、それがどんなに地獄でも、進むしか他に手が無いのだから、
>その者はこちらが指示しなくても自分でその先に進む事だろう。

はい。そうなったら進むしかありません。

もう後ろに道はなかったので戻ることもできず
進むしかありませんでした。

248 TK :2013/12/30(月) 18:18:25
>私は師は求めていませんでしたので
>誤認覚者を師とは絶対しなかったと思います。

確かに君は最初に師は求めていなかった。

しかし、何も求めていなくて私の所へ来たわけではなかった。

君は自分が如何ほどの状態に居るのかの評価を「求めて」いたんだ。

「求める」ものがある以上、君の期待に応えうる回答をする者が現れたら、
エゴの世界の人間の特性で、
君のエゴの期待にかなうような回答をする者には同調がおきる。

私は君に対しては酔っ払い以上の評価はしなかったから、


>TK師に否定されたとき正直腹が立ちました。
>
>そして訳が分かりませんでした。

あの時の君がもし私では無く誤認覚者を尋ねたら、
君はかなりの評価をされ酔っ払い同士の納得のいく状況がその場で出現していた。

なぜなら、滑稽な話だが、同レベルの者同士だから話が通じるのさ。

私とその時の君とでは異次元だ。

例えば自らの誤認による覚者が「理解」と言う言葉をやたら連呼するが、
今の君なら「理解」それ自身すでに異次元ですとなるなだろ。

ところが、最初の君なら誤認の者と同レベルだから、
評価などエゴの喜ぶ行為をされようものなら、
喜んで意気投合しみんなで一緒に酔っ払い戦隊カクセンジャーで世界の為に取り組みをしたりするんだよ。(笑)

君が本当に最初から何も求めるものが一切なくて私の所に来たのなら、
こうはならないのだろうが「求める」ものが僅かにでもあればそうはいかないものだ。


http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1632.html
>「悟る」ということは「知る」
>ことだと思います。
>
>
>わかってしまえば
>「こんなことだったのかぁ」って思うし、
>当たり前すぎて
>今まで何を悩んでたのか忘れてしまいました。
>
>
>この世界の真実を知る!


これ、自らの誤認による覚者と同じ次元ですよ、今思えばバカみたいでしょうが、
話通じますよ。

ところがこれが異次元の私が相手だと、
あなたは凄い妄想狂ですねと言う単なる酔っ払いである評価しかされない事になる。

自らの誤認による覚者と私と二人が同時に君の目の前にいたら、
恐らく私は君から選択される事はありませんでしたね。

運とタイミングで、大きく人の進路は異なるものです。

249 ラピ。 :2013/12/30(月) 18:40:44
☆TK師

>君は自分が如何ほどの状態に居るのかの評価を「求めて」いたんだ。

はい。その通りです。
私はTK師に 私が今どんな状態であるかを見てほしくてメールしました。
それが始まりでした。

ただし、これはTK師にしか問うことはありませんでした。

なぜなら、それまでにTK師の実践された内容を知り、
「私のやってきたことと共通するものがある。
この方なら私についてなにかわかるかもしれない」と思ったからです。

私のような実践をしている方を
それまでは見たことがなかったんです。

そしてTK師はその実践をやり遂げて至ったと!

私はその頃、自分の実践の意味が分かっていませんでしたから
TK師ならわかってくださるかもしれない、と思いました。

だからこの時点ですでに
TK師以外の人に「評価を求める」選択はありませんでした。

今こうやって思い出してみると、
やはり、私はTK師にしか求めなかったし
教えを請うことはなかったと思います!

はい!

TK師!ありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

250 TK :2013/12/30(月) 19:21:19
>私のような実践をしている方を
>それまでは見たことがなかったんです。

確かに君は当初から私と自分は同じだと表現していた。

君のような変わり者と私のような変わり者が生きている間に話しできる確率など稀中の稀のようなものだ。

私も君には感謝している、
他の者のために私が達成したものが役立てることができたのだから。

251 名無しさん :2013/12/30(月) 20:36:42
☆TK師

出会えてよかったです。

ほんとうに、ほんとうにありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

252 ラピ。 :2013/12/30(月) 20:43:15
251の書き込みはラピ。です〜。

@(*・ω・*)ポッ

253 TK :2014/01/02(木) 08:32:37
あけましておめでとうごさいます。

昨年は、私にとってもラピ。さんと言う成就した人が出たので、
記念すべき年だったと思います。

色々とズラズラ書いてきましたが、実際にメンタルの成長と言う点において、
人より抜きんでたと言う事実はあります。

自分で言うのもなんですが、能力、ストレス、様々な点において、
悟った者は既に他者と対当ではありませんが、しかし、これが、
今の劣った科学では全く認知されているものではありませんから、
一般社会生活においても、他からは単に出来る人とか、
本人とっても当たり前ですけが能力的にもゆとりで生活していける、と言うものです。

特に業務上等での特徴は「瞬間」的な行動が極まっています。

例えば業務上においては「言葉」は仕事の道具、
真剣勝負の昔においては剣に値するものとも言えるのですが、
恐らく太刀打ち出来る人と言うのは居ないでしょうね。

これ、かなり一般の人より抜きんでています。

自分自身でも知らない間に、対話相手と決着がついたりしていますから。

ほとんど本人も知らない間にですよ。(笑)

これは、他者は太刀打ちできるはずはないですよね。

後、主な気付く点と言うと、利き腕では無い方の手とかも、
知らない間に効果的な動き方をしていて利き腕と差が無くなって来たりしていて、
かなり行動面において効率さが増しています。

悟る前の利き腕に負担のかかる行動形態の時より、
物事をこなすのに体をひねる事が少なくなったなあと思います。

これ、みなほとんど本人も知らない間に、
行動や言葉の方が勝手に自動的に適格な動き方をしていきます。

これが、悟った者のメンタル状態で獲得できた「フロー」というものの一端です。


フロー (心理学) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)


悟りとはこのように人類においては良いことづくめの素晴らしいものなのですね。

悟りとはこのようなものですから、これが早く科学的に解明されれば、
さらに輝かしい人類の歴史が広がってくると思います。

もちろん、他者の文章から、他者の人相から、
他者を見抜けるあるがままの「眼」というものも獲得できますね。

このような現象を早く科学的にはっきりとした位置付をしてもらいたいものです。

特にこのような事を語るのも、資格制度にしてもらえれば、
世の中の自らの誤認による覚者というものはいなくなるのです。

あれは、世の中の一番の混乱の元ですよ。

こちらからみると、世界を救うのだとか、
物凄く滑稽極まりない妄想狂のドンキホーテみたいな言葉のやり取りしているのですが、
見ているこちらとは裏腹に、
本人同士はあの酔っ払い行動に真面目になってしがみ付いているわけで、
これ、本当に良くないと思います。

悟りと言うのは、私がここに掲げた能力面のアップ等の面が必ず付随するものであり、
屁理屈で納得したりしているような、そんなものでは無いのです。

沢庵禅師が説いた「剣禅一致(不動智神妙録)」、即ち剣が技術の修得、
禅はメンタルの修得、この二つが一致すると能力は格段のアップをします。

この修得度合こそを例えば、企業が人材を登用する基準に据えられたら、
その企業の発展において、かなりの期待に資する事ができるものであると思います。

また、従業員研修などにも、
これを獲得できるような要素を効果的に取り入れる手段があったなら、
業務成績がアップする事請け合いですね。

そのためには、この現象を現代の遅れた科学がもっと理論的な解明をしてくれなければ、
先へは進みません。

254 ラピ。 :2014/01/02(木) 10:03:25
みなさま、あけましておめでとうございます!

TK師、いつもありがとうございます。
私にとっても去年は今までにない素晴らしい年でした。


私は、悟りを目的とせず
日常、自分が感じたことに対して
真剣に取り組んだ結果、今があります。

ちなみに悟りについて思いを巡らせていた時は
全く見当違いになっていました。
だからそれは必要ありませんでした。(笑)


人それぞれ道があると思います。

それをしっかり極めてくださいね。

あ、でも方向性は大切ですよ。

方向が反対だと
頑張れば頑張るほど離れてしまいますからね。

皆様、今年も充実した年になりますようお祈りしています。

二度とないこの時を、後悔ないよう、がんばってくださいね。

255 wai kei :2014/01/02(木) 11:45:03
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

一日足らずで終わりました。とりあえず、ご報告まで。
益々のご健勝をお喜び申し上げます。

敬具

256 ラピ。 :2014/01/02(木) 21:27:06
☆wai keiさん

waiさん、ご訪問&書き込み、ありがとうございます.!

とてもうれしいです。
@(*・ω・*)ポッ

どうぞ、今年もよろしくお願いします。

257 TK :2014/01/02(木) 22:25:57
wai keiさん

明けましておめでとうございます。

お久しぶりです。

旧ハンドルatomです。

たまにサイトは見させていただいてます。

私は実際の経典知識については大して無いもので、大変詳しく説明されていて、
とても参考になります。

今年もよろしくお願いします。

258 349 :2014/01/03(金) 10:36:58
waikeiさんのサイト
もしよろしければ、教えてください。

259 ラピ。 :2014/01/03(金) 22:35:48
☆349さん

はい!

wai keiさん、私からお伝えさせていただきますね。


釈尊は何を教えたのか?@和井恵流
http://blog.goo.ne.jp/waikei2008

260 349 :2014/01/04(土) 14:59:45
ラピさん、wai keiさん

ありがとうございます。
実践の参考にさせていただきます!

261 TK :2014/01/05(日) 12:02:12
wai keiさんと以前話をしていた頃は、
私は私自身を途上の者と表現しておりました。

この表現は結構好きだったのですが、
最近自らの誤認によるエセ覚者とその一派のサイトを訪れた際、
この表現にケチを付けられましてね。

至っているのに、
途上の者とわけの分から無い頓珍漢な矛盾したことを言ってるなみたいな、
文句を言われたのです。

それでここでは、
此の岸から激流を渡って彼岸に至った者を略して「至った者」と言う表現になっています。

悟った者と言う表現も、私やラピ。さんの段階なら誤表現ではありません。

途上の者と言う表現を使っていたのは、
実は今私が確実に至っていると表現できる所のまだ先があります。

私はその所までたどり着けた経験は持っていますが、まだ確実なものと言えません。

それが以前wai keiさんにお話しした「0」の領域です。

しかし、ここまで来て対話を交わした者の中で、
誰一人私の足元にも及ばないものばかりの現実に照らしたら、
この前の自らの誤認によるエセ覚者に文句を言われた通り、
「至った者」と言う表現の方が混乱が起きなくていいと思いました。

なぜなら、私が途上と称しいるその先の段階の話など、ラピ。さん以外は誰一人、
一切必要な者などいないのですから。

ラピ。さん自身はこのことは話をしてありますから。

誤認のエセが「至った者」で本物の私が「途上の者」と言う表現と言うのも、
以前は内容によるガチンコ勝負を実験的にやっていた部分はあるのですが、
今は誤認のエセ本人はともかくとして、
それ以外の人には紛らわしい表現だろうと思いました。

必要な者がいて初めてできる話も、必要な者がいなければ用がありません。

このような不必要な先まで話をすると、
また酔っ払いのゾンビー人間が多数出現するだけです。

私はこの者たちが出現しても一切無視(無記)としますから。

私は気のふれた者たちを相手にするほど、物好きではありません。

ちなみに、仏典で言う彼岸を聖書では神の国と言いますが、
新約聖書ではここに至るまでの方法しか載っていませんが、
釈迦の仏典では私が述べるその先をターゲットとした話になっています。

これは決して聖書の教えが劣っているとかというものでは無く、
ここで前にも話しましたが、イエスの伝道期間の短さに起因すると思います。

恐らくイエスの活動期間は3年未満、
そうすればおのずと多くの者に必要である部分に話のターゲットは絞られるわけです。


スッタニパータ725
>かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
>かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。

解脱も色々な分類法があるようなのですが、おおまかに二つあるのです。

これは、「個の存在の解脱」と「マインドの解脱」と表現を変えても良い。

激流の彼岸とは「マインドの解脱」で成就できるのです。

(続きます)

262 TK :2014/01/05(日) 12:04:16
(続きです)

「マインドの解脱」は悪魔即ちサンスカーラに打撃を与え続ける事で、
激流が発生し、やがて善悪の彼岸に至ることが出来ます。

「マインドの解脱」は善悪識別を超えると言う意味です。

識別作用の消滅すなわち意識の焦点化機能の消滅で「対象」が消滅します。

つまり、私やラピ。さんの前には世界も無ければ、あなたもいない、
「対象」の一切が消滅した何も無い境地、
すなわち釈迦の言う識無辺処の次の「無所有処」です。

これ物質的な肉体をまとってこれを述べてるから、話が通じないのですが、
物質的な肉体が無くなってしまえば、
現象化させるための「対象」が無いのでこれそのものです。


善悪の超越、
これをヴェーダの奥義書であるウパニシャッドでは知者の解脱であると記述がありました。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89


知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。



実は心臓から「個の存在」と言う、
マインドレベルよりもっと深い位置の感覚が発せられていました。

サンスカーラの作用の影響を受けるレベルより、ずっと深部です。

これは深い瞑想に入ると遭遇することが出来ますが、マインドレベルを滅却し、
さらにさまざまな既成の固定観念も次々と見つけだし滅却し、
そうすると最後残ったものとしてこの心臓から発せられているある種の感覚に突き当りました。

この感覚を取り外すと、
頭のてっぺんから足の先まで自分自身が消失し「個の存在」と言う
マインドレベルの我よりさらに深い位置のものが消滅する事でもう一つの解脱に達しました。


アートマン - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3

>ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。


これが心臓すなわちサンスクリットでフリダヤ(hrdaya 心臓あるいは心)の解脱です。

そして、さらにその先がある、
それが釈迦が究極としているニルヴァーナすなわち「0」です。

私はここまで一通り辿り着け自らの中で実証できましたが、
それをまだ確実なものに出来ていない、それが以前の途上の者の表現の根拠ですね。

場合によっては、今頃生きてなかったかもしれませんが。

今の私の所まで来ると、エゴの推進力が利用できないので、ま、
のんびり行くしかないわけです。

263 ラピ。 :2014/01/06(月) 00:08:52
☆TK師

はい!

まだまだ途上ではありますが
今は激流を渡り終えて ある意味終了しましたので
今のこの状況に慣れつつ、
しばらくはくつろいでいようと思います。

言語化もまだまだですが
これからも表現させていただきます。

TK師、いつもいろいろ表現してくださってありがとうございます。

@(*・ω・*)ポッ

264 TK :2014/01/06(月) 07:03:12
ラピ。さん

>まだまだ途上ではありますが
>今は激流を渡り終えて ある意味終了しましたので
>今のこの状況に慣れつつ、
>しばらくはくつろいでいようと思います。


釈迦の言葉で五上分結と言うもので言えば、1色貪、2無色貪、3掉挙、4慢、5無明、
マインドの解脱で1〜4までは成就したことになる。

残る5番目、無明の構成要素が次のものだ。

知覚と言う名前の紙が敷いてあるとすると、
その上に個の存在と言う名前の皿が置いてあって、
その皿にマインドの我という名前の物が入っている。

君の場合は、この中のマインドの我という名前の物を撤去する事に成功したんだ。

あと残る二つだが、EO氏の話によれば、生命維持に絡むものだから解脱死と隣り合わせだ。

ま、ここまで来るとエゴも無し無理なトライも出来るはずも無し、と言う所だ。

265 ラピ。 :2014/01/07(火) 23:30:18
☆TK師

はい!

いつもありがとうございます!

もう、私の大好きだった実践(笑)はできませんが
それそのものの状態に慣れつつ
それものであります。

それだけで今は十分です。

でもそのうちに この微妙な違和感、
それを頼りに進んでいくかもしれませんし、
進まないかもしれません。

@(*・ω・*)ポッ

266 TK :2014/01/09(木) 00:15:14
ラヒ。さん

二つの解脱。

まずは善悪の超越。

ターイッティリーヤ・ウパニシャッド
知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。


君が成就したんだよ。

常住できるのはこの解脱までだ。

次は心臓(フリダヤ 心臓又は心)の解脱だ。

この先は解脱死と隣り合わせだし。

カータカ・ウパニシャツド
解脱
 >〔14〕己が心臓の中に巣喰える一切の欲望が放ち逐われし時、応死の身は不死となり、この世ながらに梵を得るなり。
 >〔15〕この世ながらも、心臓の繋縛のすべてが断尽せられし時、応死の身は不死となる。以上にて教説終わる。


>もう、私の大好きだった実践(笑)はできませんが
>それそのものの状態に慣れつつ
>それものであります。
>
>それだけで今は十分です。


解脱死でオシャカになったらシャレにもならないかもね。

大パリニッバーナ経6・10(ブッダ最後の旅)
>「心の安住せるかくのごとき人はすでに呼吸がなかった。
> 欲を離れた聖者はやすらいに達して亡くなられたのである。
>ひるまぬ心をもって苦しみを耐え忍ばれた。
>あたかも灯火の消え失せるように、心が解脱したのである。」

267 TK :2014/01/09(木) 19:43:14
他の誤認のニセ物覚者のサイトを見て回っていましたが、
いい加減やめたらどうなんだと言いたくなりました。

「相対と言う原理」はニセ者が理解する事はたやすくありません。

世の中を変えたければ、ニセ者はもう一度修練して本物になれば良いだけです。

ニセ者のままで進もうとしない事です。

それは世にデタラメをまき散らすことになり、
世の中にとって害になる行為でもありますが、
それより自分自身にとって良くありません。

釈迦も2度師を変えたくらいですから、至ったと思っても、
少し経ってみたらまだそれでは無かったという事はあるでしょうし、
自分で僅かにでも疑いが出てきた時には、
その僅かな疑いをそのままにして突き進んではなりません。

それは自分自身にとっても害をなす行為です。

それでは、相対の原理について話しますが、ただし、
理屈だけ取って行くような真似はしないでください、これは、
解脱による識別の超越により自ら体現できるものなのです。

仏典を良く読むと矛盾した二つの内容が出てくる事に気づくはずです。


スッタニパータ969
>智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。
>奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

スッタニパータ520
>安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、
>生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。


同じスッタニパータの中のこの「善」について、
捨て去れと言ったり喜べと言ったり、
一体どっちを取ればいいのだろうかと思いませんか。

ちなみに「善悪を捨て去り」と言う方を取った人は外れです。

見て回った自称覚者と言う人の中には、こういう人もいましたよ。

ポジとネガ、両方に偏らないで中間で行くのが良いのですみたいな者が。(笑)

これは相対の原理と言います。

善と悪、肯定的と否定的、正しいと正しくない、自己と世界、
これ等は全てこの関係性の所のものです。

善行を実行し悪行を無くせば、その実践の成果は善悪の両者が無くなるのです。

善行だけになりはしないのです。

肯定的を採用し、否定的を無くしていけば、
最終的にこの肯定的否定的の両者は無くなります。

全てが肯定的だけになることはありません。

(続きます)

268 TK :2014/01/09(木) 19:43:46
(続きです)

私も実践時には全てが善になるものと思って善行を行っておりましたが、
最終的に善行も悪行も、
そもそも目の前から全ての「対象」が消えたもので何もできなくなりました。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。


善行をやって行くはずなのに、善行をやっていたらある時、善悪が消滅して、
すなわち経典にある内容「善悪を捨て去り」の通りになったのです。

私は決して初めからこれが分かっていたわけではありません、
最終的にそのようになって、
初めて善を為し悪を為さない行為の実践で善も悪も何もできなくなることで成就を迎えるものだな、
と言うことが、実現して初めてわかりました。

「為すべき事を為し終える」と言う事の成就です。

為そうと思えば為すことが出来るにもかかわらず、
善も悪も無いとか救いようのないデマの教えに従って、
善行を為さないのとは訳が違うのです。

私とて善行を為せるものなら、まだ、為しますよ、
為したくてももう為せないのです、このようにはっきり断言できなければ、
善も悪も捨て去っての成就、すなわちその人は覚者ではありません。

つまり、私は善行を為す行為は捨てていません、
どこまでもどこまでも善行を為そうとするその方向性で、
最終的に「行為そのものが」消えたのです。

これは、はっきり言いますが知者の解脱です、
理屈でわかった気になって持って行ってもそれは違いますから、
そのような事は絶対にやらないで下さい。

それよりも、至った我々から見たら、
全然至っていない人たちのそれは覚者のフリをしても、
丸裸同然にこちらには丸見えですから、どうか、
覚者のフリをして人々に間違いを教えばら撒くのではなく、
もう一度最初から修行をやり直してください。

特に商売をされている方なら、
背に腹は変えられません等の理由もあるかもしれませんが、
単なる覚者気分を味わいたい、そのようなつまらないエゴを捨てられずに、
自らを汚すことは愚かな事だと思います。

特に私の書込みを見るなりあわてて次々に削除する事で必死に逃げ回った自称覚者と名乗る方などは、
お早めにお気づきになられた方がよろしいかと思います。

はたで見ている分には皆がそろいもそろって妄想の中で遊び泳いでいる姿を目にするのは
ほのぼのとする部分が無いわけではありませんが、
本来激流の実践法に対してほのぼのとか楽しみ半分で接していたら、
その報いは必ず自らに永遠の罰と言う形で帰ってきます。

そのような姿勢や実践精度で接するものでは無いのですから。

まさに、豚に真珠を与えてはならないとイエスが言っていた通りです。

269 ラピ。 :2014/01/09(木) 23:11:22
☆TK師

まさしくその通りです。

自称覚者、 もっともらしく書いてるけど
こちらからしたらでたらめばかり。

自称覚者をグルとして信じている人たちが
あまりにも哀れです。
正直、かわいそうに、と思います。

(ま、信じている人たちも
自分がその自称覚者をグルとしているので
自業自得と言えばそうなんですが)

そして自称覚者は自分が至っていると信じ込んでいるので
堂々と偽の教えをばらまいているのですね。

でも、それらの言葉ってズバリ、受け売りなんですよね。

んでもって覚者の言葉を引用して
それを解説してるものの、
とっても的外れとなっております。

それでいいんですかね?自称覚者さん。
あなた自身が
よくないカルマを生み出していますよ。


>解脱死でオシャカになったらシャレにもならないかもね。

はい〜!
@(*・ω・*)ポッ

270 TK :2014/01/11(土) 09:35:23
誤認の覚者の前には確実に「対象」がある。

「世界」がある。

つまり、無所有処(何も無い境地)ですらないという事だ。

そして、その者には確実に「我」がある。

しかし、その者は風車が怪物に見えてしまうドン・キホーテだ。

したがって、これは我では無いとか勝手な妄想に埋もれて、
我があるにもかかわらず我が無いと言う妄想に浸っている。

なぜこのような事が起こったのか、その一番の原因は、
自らの劣った精度の眼による実践に主な原因がある。

実は本来激流の実践法であるべきものが、
同じ実践方法を言っているのに緩流になってしまう事に起因している。

これでは、悟れるとは反対のただ単に、感謝できないものに感謝したり、
人間としての感覚を麻痺させて頭がボケる事を平安と勘違いした、
悟りとは別物を悟りと勘違いした妄想狂、風車が怪物に見えてしまう、
ドン・キホーテと従者のサンチョだ。

私がここで、このような者とは逆行する教えを説いているのは、
このような酔っ払いになってしまってはその者の一生が、酔っ払いのままで、
それで人生お終いになる事を知っているからだ。

そして、
その者は広くその自分が落居っている酔っ払いの酒を広く世間にばら撒こうとしている、
酔っ払い人間を多数産出しようとしている。

まさに、「末法の世」だ。

世の中には人々に危害を及ぼす怪物を倒す正義の味方ウルトラマンと言うのがいるとすると、
もう一方は風車が怪物になって見えてしまうドン・キホーテと言うものがいる。

自らの誤認によるエセ覚者とは、この風車が怪物になって見えてしまうドン・キホーテの事を言う。

つまり、自分が酔っ払った同じ酒をまた、世界に振る舞おうとしているのだ。

私がここで、大いに裁いて結構とか、感謝できないものに感謝しなくて良いと言うのは、
単なる風車が怪物に見えてしまい従者をその巻き沿いにするドン・キホーテではなくて、
前者の正義の味方ウルトラマンの方になってもらおうとしているからだ。

激流の彼岸とは、常に戦士である事をやめたら辿りつけない所だ。

私は達成するまで戦士である事を決して捨てなかった、
達成したら戦士が捨てることなく勝手に消えた、これが完全勝利だ。

ラピ。さんは、第2次激流の実践がうまくヒットしたので、そこで得るものもあり、
私の導きのもと彼岸へは僅か一日で至ることが出来た。

もし、この第2次激流が精度の劣った実践だったなら、
それは激流にすらならず緩流となり、単なる酔っ払いのままで何ら達成する事も無く、
やがて自らの誤認により何ら達成してもいないのに達成したと妄想を抱き、
酔っ払いの者になっていた。

その場合に今のラピ。さんはない。

何が誤認覚者とラピ。さんの大きな違いだったか、それは、第1次実践の際、
宗教書やスピ系に一切かかわっていなかったことが不幸中の幸いだったことだろう。

つまり、実践の内容は何ら精神世界の知識も無く、
純粋に自分の中から導き出されたものだ、
それが第2次実践の激流を創る事に大きく起因している。

つまり、多くの者たちは激流どころか、
激流に飛び込む崖っぷちにすら立っていない者たちが、激流の実践法を振り回し、
それでは、単に人間としての感覚がマヒして頭がボケた死ぬまで妄想狂だ。

宗教書やスピ系知識や誤認の覚者が無くとも、一たび激流にさえ飛び込んでしまえば、
あとはその者には進むしか手が無くなる。

バカな者たちよ、バカな者たちよ、
折角人間として生まれてきたと言うのに酔っ払いになるために生まれてきたのか、
お前たちは。

271 ラピ。 :2014/01/11(土) 11:21:30
☆TK師

>何が誤認覚者とラピ。さんの大きな違いだったか、それは、第1次実践の際、
>宗教書やスピ系に一切かかわっていなかったことが不幸中の幸いだったことだろう。

はい。確実にそうです。
本当にそうだと思います。
そんなもん、知らなかったですから。

でも普通に生きていて、自分自身の疑問にぶつかり、
自然に実践していました。

私が小学生の時でした。

これが私の後悔しない生き方でした。
それをしただけ。
それがいわゆる「実践」となりました。

実践、小学生でもできたんですよ。

これから言えることは、
スピ系は一度捨てて、
人間らしく人間として
自分の「善」を拠り所に
精一杯日々を生きることです。

スピ系の理論を振りかざして
のらりくらり
きれいごとを並べるだけ。

その時は心地よいかもしれませんが、、、、。

そんな楽ちん路線を行く人に激流が起こるはずがありません。
(それでいいという人には何も言うことはありません)

でも、せっかく人間の世界に生まれてこれたのだから
このチャンスを逃さないほうがいいのではないでしょうか。

頭で考えるのではなく
しっかり自分らしく精一杯頑張ってください。

単にそれだけ。

スピ系の本を買わなくてもいい。
自分の「善」を信じて頑張るだけ。

今世で至れなくても
その経験が次の世でそれが生かせるはずです。

無駄なことはありません。

私は常に精一杯やりました。

本当に精一杯やってよかった。

必死になってがんばってよかった。

ほんとうによかったと
今思います。

本当にあきらめず
精一杯がんばってよかったです。

ほんとうによかったです。


TK師、本当にありがとうございます。

TK師のかつての実践の書き込みがなかったら
TK師の実践を知ることもなく、
私がTK師にコンタクトすることもなかったと思います。

272 ラピ。 :2014/01/11(土) 12:18:25
ちなみに、
人それぞれに道がありますので
私の方法そのものが適していない方もいるかもしれません。

でも、少なくとも、
今、自分の中にある問題に対して
それを誤魔化すのではなく
ちゃんと向き合い、よく考えれば
どの様な方も今の状況でできることがあります。

人それぞれの段階があります。

私の精一杯も、その都度
自分のその時の精一杯でした。

激流の実践に比べたら
小学校から始めた第一の実践は
とても甘いです。
(でも それすらもできない人もいますが)

でも、それでもその実践が必要だったのです。

だから、まずは今の自分の問題がいったい何なのかを知り、
それに対して
今、できることからやっていく。

それが大切だと思います。

どんな時も「自分の善」を信じてくださいね。

私も自分を信じてがんばりました。

273 TK :2014/01/12(日) 10:34:17
激流の実践、これを私は約1年間で渡り彼岸を成就した。

ラピ。さんの激流はもっと長かったと言う。

この差は、たまたまテキストとしたものの違いであったと言える。

私はここにも書いたが、新約聖書と釈迦の僅か2冊の仏典。

私はあえて最低限を心がけ、これだけになった。

理論的に分かっていてそのテキストを利用したわけではなかった。

私にとっての一番の取り組み課題は、「悪魔(サタン)」対策だったのだ。

私は悪魔と戦う手段を探して、このテキストを取り入れる事としたのだった。

日常実践、禅定にタパス(苦行)。

ラピ。さんとの激流期間の違いは、
たまたま取り入れたテキストの違いによる先達が残した手掛かりの違いと言える。

例えば私は激流の実践時、釈迦の経典をテキストにしていたので、
有る時は純粋に空間認識を利用する実践をしていた。

空間を認識し、その空間に自分の思考を含む感覚が浮かんでいる、
そのような実践法です。

これは、この空間認識を利用する事により、
肉体と空間との境界線を無効にする実践でした。

形のある世界を脱出する第一プロセスですね。

つまり、ラピ。さんの激流時の実践より、
私は釈迦の経典と言う先達の手掛かりをもとに進めた分だけ、
効果的に進む事が出来たと言えることでしょう。

今の私やラピ。さんには私がこの際に利用した空間認識すらありませんが。

誤認覚者の前には世界はおろか空間すらあるのですよ。

完璧にふざけた、あれは従者を引き連れたちんどん屋の世界ですね。

こんな者が覚者と言う事態、バカも休み休みです。

「対象」を超えるためには、まず最初に空間認識は消滅させなければならないのです。

私が一番面食らったものは、私はある時、
全ての次元を次々と上昇し突き進んでいき、最終的にある領域に突入した。

突入したと言う表現より、様々な次元を突き進んだその果てに、
最終的にこの宇宙を全て脱ぎ捨ててしまったと表現するとちょうどピッタリの表現だ。

帰還した後、この経験がなんだったのか、文献類を探したが見当たらない。

至高体験のあの光のチャラチャラみたいな世界は、それとは違うし、
なんでそんな究極でもないまがい物を人々はさも究極の至高のように表現したりしているのだろうと思いました。

私はそれまで、世界各地に存在する様々な教えの究極はみな、
同一の所を指していて、至れば自分もそれが分かると思っていたからです。

それはこの宇宙に存在する言葉では一切表す事は出来ないものなのだが、
あえて便宜上「ゼロ」と表現するのが一番近い表現だ。

旧約聖書の光と闇が分かれるより以前だ。

そこでは時間が無い、僅か0.1秒も100億年も皆一緒だ、今すらない。

これが釈迦の教えを取り入れた結果として明らかになった究極だ。

それは、そこに至るまでの過程としての否定語でしか表すことが出来ない。

下手すれば、生還すら出来ない。

私は一旦死んで生き返ったんだ。

私の場合はその後に、フリダヤ(心臓又は心)の解脱、
次いで今いるマインドの解脱が明らかになった。

新約聖書だけでは、マインドの解脱までしか明らかには出来なかったんだ。

確かにイエスの3年未満の活動期間で取り上げるような内容では無い。

274 ラピ。 :2014/01/12(日) 18:12:10
☆TK師

いつもありがとうございます!


私はすっごく長〜い激流でしたね。
激流では一瞬も気が抜けなくて命がけです。

激流だからちょっとでも気を抜いたら流されてしまう。
気を抜いたら溺れ死んでしまう、ということです。

他人事みたいですが、よくやりましたねぇ(笑)

しかしかなりの遠回りをしていました。


師の「ゼロ」の体験についてのこの書き込みは
大変貴重だと思われます。

しかし私にはそれは明らかになっていないので
それを想像すれば、誤解しかねません。

だから、そうなんだ、とそのまま受け止めておきます。
あとで、分かるかもですしね。

師匠、ありがとうございます!

しかし、経典ってほんと見事ですね。

275 名無しさん :2014/01/12(日) 19:04:29
>273、274
あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?

276 ラピ。 :2014/01/12(日) 20:48:25
☆273さん

次元なんてありませんよ。

277 TK :2014/01/12(日) 21:18:17
面白い。

名無し
>>273、274
>あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?


>師の「ゼロ」の体験についてのこの書き込みは
>大変貴重だと思われます。
>
>しかし私にはそれは明らかになっていないので
>それを想像すれば、誤解しかねません。

対照的だ、しかし、ラピ。さんは想像できないから安心ですよね。

278 ラピ。 :2014/01/12(日) 21:46:40
☆TK師

はい、妄想できません。

@(*・ω・*)ポッ


ちなみに そうでないことを想像しても
それは単なる妄想になってしまいますので
それよりは現実的にしっかり生きて
日々、精進されたほうがいいと思いますよ。

はい!

279 275 :2014/01/12(日) 22:17:31
>276-278
あの〜想像も何も、私達が住んでいるこの世界は「3次元」なんですが・・

とにかく、少なくとも、ここで軽く100回以上登場している「次元」という言葉
「次元上昇」「低次元」「高次元」「異次元」などは、もう利用しない方がいいと思いますよ
何も知らない人達に妙な誤解や妄想を生むだけだと思います

280 ラピ。 :2014/01/12(日) 22:34:09
☆275さん

想像とは
>あなた方は、今日は何次元にいらっしゃるのですか?
これに関してのことですよ。

この疑問が浮かんだ、ということは
すでに想像(妄想)しているんです。

ちなみに何も知らない人達って誰ですか?
そして275さんは何か知っているのですか?

281 ラピ。 :2014/01/12(日) 22:38:47
276の私の書き込みは
275さんへのお返事でした。

訂正いたします。

@(*・ω・*)ポッ

282 TK :2014/01/12(日) 23:22:19
名無しってやっぱりバカだったんだ。

無視したほうが良いんじゃねーの。

うつると悪い。

表現の自由にまでちょっかい出してきた。

283 名無しさん :2014/01/12(日) 23:31:24
>281-282
実に面白いですねw

>この疑問が浮かんだ、ということは
>すでに想像(妄想)しているんです。

いえいえ、現実社会の常識的には異次元も人間の次元上昇もないんです
だから、逆にあなた方が想像(妄想)しているようにしか見えないんですよ

あなた方は、次元という言葉を誤用しているのではないでしょうか?
次元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A1%E5%85%83

百歩譲ったアドバイスとして、「意識のレベル」とかいった表現に
置き換えてはいかがでしょうか?そうすれば、大袈裟さも胡散臭さも
半減する可能性はありますよ

284 名無しさん :2014/01/12(日) 23:37:35
>名無しってやっぱりバカだったんだ。
>無視したほうが良いんじゃねーの。

私にはバカを相手にいい気になっているバカにしか見えないのですが、
そんなあなたがバカは無視した方がいいって思うのであれば、それは
それでいいんじゃないですか?私は、どうでもいいですからw

285 TK :2014/01/12(日) 23:44:26
名無しが力んでら。

おもしれぇ。

286 名無しさん :2014/01/12(日) 23:56:28
>285
ファイナルアンサー?w

マジでおもしれぇww

287 TK :2014/01/13(月) 00:16:10
やっぱりこいつバカだ。

288 名無しさん :2014/01/13(月) 00:33:55
>やっぱりこいつバカだ。

やっぱりTKって奴はバカだ

実に面白いよ、あんた方ww

289 TK :2014/01/13(月) 00:46:08
やーめた。

遊んでやるのもくだびれた。

こいつはいつも遊ばれるために出てくるんだ。

290 ラピ。 :2014/01/13(月) 08:36:18
☆283さん

>いえいえ、現実社会の常識的には異次元も人間の次元上昇もないんです

そう思い、そうだと信じてるのなら
それでいいんじゃないですか?

この掲示板を見る必要もないですね。

なぜならあなたの中ではそれが真実だからです。
こちらの言葉なんて、必要ないでしょう。

どうぞそれらを信じて生きてください。

>百歩譲ったアドバイスとして、「意識のレベル」とかいった表現に
置き換えてはいかがでしょうか?

別に100歩譲らなくてもいいですよ。
単刀直入にどうぞ。
どんな表現がぴったりなんです?

「意識レベル」という言葉も
聞く人によっては十分胡散臭いですね。

ちなみにあなたが言われている「意識レベル」の
意識ってなんですか?

「私」という意識だったりしますか?

それともエゴ?

意識レベルってそのエゴのレベルですか?

291 TK :2014/01/13(月) 12:51:29
「裁いてはいけません」これは聖書にイエスの言葉として出てきますし、
ごちゃ混ぜスピ系や精神世界は意味も分からず、
教相判釈をしようとする知恵さえ働かせない、
とても科学の時代の人間とは思えない愚行に酔いしれて拾って喜んでます。

あなたは酔っ払いになりたいですか、それともしらふで居たいですか。

酔っ払いになりたければ、死ぬまでスピ系で酒を浴びていて下さい。

これは、「裁いてはいけません」この言葉だけで完結している内容ではありません。

実は「裁きなさい」と言う指示も含んだ言葉なのです。

全く反対の言葉ではないですか、と思う近視眼の人もいるでしょうか。

しかし、並べ方を工夫すると一つの言い回しに、
両方の意味が矛盾せずに使える言葉なのです。

この件については「裁いてはいけません」がこの件については絶対的に「裁きなさい」なのです。

「やってはなりません」の規制用語のみが出てきているから、
今の時代では紛らわしいのです。

反対に、「裁きなさい」でこの言葉が表された方が、
今の時代には理解される言葉になります。

私もこのような事を教えてくれる協会があったら、探究者当時もしかしたら、
通ったかもしれませんが、あるいは宗教学者とかいたらと思いますが、
まず聞いたことないですね、
みんなイエスの名前だけ掲げたニセ者がやっているのです。

宗教学者にしろ教会にしろみなニセ者がやっているのです。


マタイの福音書 5章38-39
>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。

マタイの福音書 5章43-44
>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。


この内容にはある一つの共通した線があるのです。

「以前はこの内容の実践を続けてきましたが、あなたがたについては今度は次に進みなさい。」


マタイの福音書 5章17
>わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。
>廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

「イエスは律法や預言者を廃棄、即ち、
今までのその人たちが教えてきた内容を駄目だとしてしまうのではなく、
さらに次の段階に進ませるための内容をあなたがたに授けに来たのです。」

(続きます)

292 TK :2014/01/13(月) 12:51:59
(続きです)

このように読むと、これを言われたマタイと言う人たちはそうなんだと、
全ての人がそうだと言っているわけではありません。

つまり、2段階の教えの内容の内のマタイたちは1段階目はクリアーできたんだよ、
次2段階目だよ、と言う内容なのです。

これ、私の一次実践と二次実践にそのままあてはまります。

スピ系にバカな人たちが沢山出た理由は、一次実践をクリアーできてもいない人が、
直接二次実践内容に手を出した、また、手を出せと命令した、この禁を犯した罪です。

これで、イエスの教えはまともに伝わるどころか、
世界中に多くの酔っ払いを算出する結果となりました。

これ私が覚者と認めるEO氏が説いていた、まずは、
人間としてのサバイバル能力が必要だ、
と説いた事にもイエスの教えが合致するのです。


TK師との会話 - 悟りや幸せへの道
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12104/1373075256/226

>このように正反対の教えですが、
>実はEO氏という賢者もまず悟りの実践よりも前にサバイバル能力の実践が必要なのだと説いていました。
>
>悟った我々の所では永遠の戦いの放棄の実現なので、
>サバイバル能力のような戦闘力は一見まるで逆の内容ですが、
>これこそがまずは必要なのであると説いているのです。
>
>理由として、この実践をする事でチャクラの機能が成熟して整うのだと言うことです。
>
>チャクラはともかく、考えてみても人間らしいまともな生き方ですよね。
>
>この実践こそ必要なのです。
>
>EO氏によるとこの過程を飛ばして行法に飛びつくような者においては、
>頭がぼけてゆきそれを安心と勘違いし、
>その者には何ら知的成熟すらも起こることは無いという事である。
>
>私が酔っ払いと表現する状態と酷似しています。
>
>私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。
>
>何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
>物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。


ちなみに次が「裁きなさい」の実践内容です。

>『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

>『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。


次が「裁いてはなりません」の実践内容に合致するものです。

>しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。
>
>あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
>
>しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

一見すると「裁きなさい」と「裁いてはなりません」
この二つは全く別の共通点の無い実践内容に思えるかもしれませんが、
実は一つの共通ラインに乗っています。

(続きます)

293 TK :2014/01/13(月) 12:52:29
(続きです)

この共通点は両方を「裁きなさい」と言う一つの言葉で表す事によって見えてきます。

その為に「裁いてはなりません」の実践内容を「裁きなさい」と言う表現を使って説明します。


>しかし、並べ方を工夫すると一つの言い回しに、両方の意味が矛盾せずに使える言葉なのです。
>
>この件については「裁いてはいけません」がこの件については絶対的に「裁きなさい」なのです。


「物質的な現象」について裁いてはなりません、
「自分の内面の悪魔(サタン)」を裁きなさい(悪魔又は煩悩と識別しなさい)、
と言う意味なのです。


マタイの福音書 15章11
>口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。

(自分の外から入る情報が汚れているのではなく、自分の中が汚れているのです。)

マタイの福音書 15章18-20
>しかし、口から出るものは、心から出てきます。それは人を汚します。
>悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
>これらは、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」


スッタニパータ439
>ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。
>勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。


わかりましたか。

「裁いてはなりません」と言う言葉が独り歩きをしたおかげで、
本当のイエスの実践はほとんどの人が出来なかったので神の国へは至れませんでしたね。

「裁きなさい」と言う言葉で両方の第1次実践と第2次実践をくくれば、
共通ラインは見えてきます。

すなわち、第1次実践では物質的現象を裁きながら実践しなさい、
これがクリアーできた人は第2次実践として自分の内面を裁きなさい、
という事になります。

実は私がここで「裁いて大いに結構です」、このように説明したのは、
これが本当のイエスの教えだからです。

つまり、ニセ者は自分が至っていないので、受け売りしかできないと言う手段では、
こういう間違いを世の中にばら撒くという事をしでかすのですから、
ニセ者は止めて下さい。

あなたたちは罪を犯すだけなのです。

本当に世の中には至った私の眼で見ても、ニセ者はあっちにもこっちにも居ますが
驚くほどに至った人はいません。

聖書がこれだけ全国に普及しているにもかかわらずです。

つまり、本当の聖書が説ける人はいないのですから、
私の教えはさも珍しい類のものである事でしょう。

天然記念物と言った方が良いのか、私、ニセ者と違って本物ですから。

294 wai kei :2014/01/13(月) 15:14:25
TK師、素晴らしい教えを、有難うございます。

295 TK :2014/01/13(月) 22:39:47
wai keiさん

久々ですね。

ラピ。さんと言う人が成就したのです。

私が言うのもなんですが、奇蹟に等しいと思います。

言葉では表現できないくらいに尋常ではない事をしないと、成就できませんから。

うれしくて、私もまた、掲示板を少し汚してます。

296 wai kei :2014/01/14(火) 00:22:36
> wai keiさん

> 久々ですね。

ほんとうに、お久しぶりです。
その節は、大変お世話になりました。

貴方が私の前に現われてくれなかったら、
わたしは釈尊の真の教えに、出会うことが出来なかったでしょう。
そして、当時、密教の「ゾクチェン」に傾倒していた私に
「ゼロ」を教えて下さったのも貴方でした。
再び、ネットの世界で、こうしてお会いすることが出来て、
大変うれしく想っております。


> ラピ。さんと言う人が成就したのです。

はい、おめでとうございます。
とても、素晴らしいことだと思います。
mixiメールが、ラピさんから届いたときは、本当に驚きました。


> 私が言うのもなんですが、奇蹟に等しいと思います。
> 言葉では表現できないくらいに尋常ではない事をしないと、成就できませんから。

そうでしようね。
昔よりも現代の方が、遥かに難しくなっていますから。
私を含めて、「 酔っぱらい 」 のオンパレードですからね。
まさに「 百鬼夜行 」 の世界になってすますから。


> うれしくて、私もまた、掲示板を少し汚してます。

いえいえ、毒も薬も自在に使い分けて操るあなたの姿は、
それだけで、私を含めた、多くの人々の道しるべとなってます。
これからも、大いにご活躍下さるよう心よりお願い申し上げます。

私も、最後の「激流」に、これから足を踏み入れつつあります。
TK師が説いて下さった「ワクワクの実践」を、これから本格的に始めます。
これからも、どうぞよろしく、ご指導のほど、お願い申し上げます。

和井恵 拝

297 ラピ。 :2014/01/14(火) 07:48:16
みなさまおはようございます!
いかがお過ごしでしょうか?
@(*・ω・*)ポッ


☆TK師

いつもすばらしいお話をありがとうございます!


☆wai keiさん

先日はブログに拍手、ありがとうございます。

こうやってwai keiさんとTK師の会話を見れるのが
とてもうれしいです。

wai keiさんはこれからワクワクの実践を本格的に始められるのですね。
応援しています!



今日もよい日ですねぇ!

@(*・ω・*)ポッ

298 TK :2014/01/14(火) 23:44:26
wai keiさん

今考えると、二段階の実践の中の一段階目は重要でした。

全然苦しくなくて生きがいのある楽しめる実践ではありますが、
それでも意気込みは、自分の全人生をかけて挑むくらいの姿勢は必要です。

これは「理想」だけが全ての骨格ですから、
「自己犠牲」とか「人のため」とか「弱きを助ける」とか、
「平和」とか理想というものは色々なものがあります。

この自分の理想のために、全精力で臨んでいく、
このような姿勢で進んで行くのです。

宗教書は全く不要、実は内容的に害になります。

第一次実践は善を求める基本があれば、それだけで充分です。


大パリニッバーナスッタンタ(ブッダ最後の旅)5・27

>スバッダよ。わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。


聖書にしろ仏典にしろ、
人間から卒業する為の方法が主流に書かれているようなものですが、
人間としての幸せを追求できるものがそれをしようともしないで手を出すと、
現状のようになる訳です。

ヤゴが水の中での生活をしっかりしなければ、
やがて空に飛び立つこともできないように、
幼虫のままの生き方を全うする事をほっぽらかして、
飛び上がる方法ばかり研究しても、
結局いつまでたっても成長できず空に舞う事は出来ませんが、
それとは反対に幼虫としての生活をしっかり全うすれば、
時期が来れば羽で空を飛べるようになっているのです。

やがてすっかり成長することが出来れば、それ以上水の中で生きたくても、
生きることが出来なくなってくる、
その時にはテキストを利用して上に上る方法を学び空に羽ばたけます。

熟する前に、本来やるべき事を捨てて本見て空を飛ぼうとしても、無理ですね。

熟して空に出れば、今ままで水(エゴ)が無ければ動けないと思っていたのに、
水(エゴ)が無くても動けるんだ、何と快適なんだろうとなる訳です。

第1段階目の実践は重要であり、これをなおざりにした者が酔っ払いとなるのです。


大パリニッバーナスッタンタ(ブッダ最後の旅)3・33

> アーナンダよ。これらの八つの解脱がある。その八つとは、どれどれであるか?
>
>(内心において)〈物質的なもの〉という想いをいだいている者が(外において)〈物質的なもの〉を見る。
>これが第一の解脱である。


我々は精神体である前に、
物質としての人間が物質としての周囲に働きかける幸せの求め方というものがあったわけですね。

(続きます)

299 TK :2014/01/14(火) 23:45:14
(続きです)

私もラピ。さんもこのプロセスを踏んでました。

「現実的な行為」を主体とした実践です。

反対に「内面」に比重をかけたら元も子もありません。

ですから、不快が出たら、それを理想実現の原動力として、
行為で解決していくということで、ここで内面重視の感謝して喜んでとやったら、
その不快を受け入れてしまった分行為はもう不要なのです、
つまりこれが酔っ払いですよ。

まず、外を自分の理想で裁く実践もしない者が、自分の中を裁こうとしても、
そんなのうまく行くわけがない、これがバカの始まりです。

自分も物質、周りも物質、ここで物質同士の理想実現のための第一の戦場なのです。


居るんですね、不快も含む全てに感謝してとか、この手のものにかぶれて、
世界にそれを広めるんだ、この手の酔っ払い集団が。

誰しも見えない先を進んでいくのですから、
この人たちのように外れくじを引いてしまっても仕方がありませんが。

私は本当に、あの一時実践のままでずっと行けたら、
それでも良かったと思っています。

たぶんラピ。さんもそうだと思います。

所が、
ウルトラマンの前にどんな必殺技を駆使しようとも倒せない強大な敵怪獣ゼットン(理想を阻む最大の障害)が現れると、
さすがの無敵も無敵では無くなってしまう。

私もラピ。さんもそうプロセスなんですね。

お先真っ暗の崖っぷち、ここが、ようやく激流のスタートラインでした。

でも、ほんとに、あのままで行けたらそれはそれで私は幸せでしたので、
私はそれでも良かったです。

それくらいの生き方をしていて、心からの充実感も自信も、味わってましたから。

ま、再びあの時の幸せは、もうここに至ってしまうと逆立ちしても味わえませんが、
人間としての幸せは人間としての幸せで、それは良いものでした。

今は良いも悪いもありませんから。

人間としてそこまでの生き方が出来た人が、
場合によっては次に進むのだと思いました。

見えない先を進んでいく中でも、
私は引くクジ引くクジが運よくみな当たっていたみたいな恵まれたところがあったと思います。

ラピ。さんは1次実践○、2次実践△、3次実践×、4次実践○、
私の評価ではこんな感じでしょうか。

特に3次実践は、
2次で少し空いたところ(空っぽ)に変なものが入り込んでしまった魔境と言う所です。

失敗は成功の母と言いますから、それはそれで、
貴重な経験としてこれから接する人たちのために活かしていけると思います。

300 ラピ。 :2014/01/15(水) 08:50:23
みなさま、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

>熟して空に出れば、今ままで水(エゴ)が無ければ動けないと思っていたのに、
>水(エゴ)が無くても動けるんだ、何と快適なんだろうとなる訳です。

まさしくそうです。
今とても快適です。嘘みたいです。

「エゴ」が消滅して初めて「エゴ」というものが何なのかが
わかりました。

その「エゴ」を本当の私だと思ってたのですが
それがある時突然消えた。

そしてこれは何?

となりました。

>ラピ。さんは1次実践○、2次実践△、3次実践×、4次実践○、
>私の評価ではこんな感じでしょうか。

まさしく私の第3の実践は×で使えないですね。

私は常に実践はしていました。
でもその実践の方向が正しくないと意味がない、ということですね。

かつてのブログはまさしく第3の実践のひとつです。
ちなみにそれがなければ、ブログを書いてませんでした、、、。

第2次は「エゴ」が消えるのが怖かった。
だから中途半端でした。だから△

第3はスピの実践。
私はこの時、人としてそれまでやっていなかったことを
やり遂げました。

十分やったので、その分時間はかかりましたが
手放せました。

十分やったからこそ、手放せたのですかね。

私の道のりは時間がかかってますが
それでもその都度、がんばりました。

それらは単にそれだけで私には問題ないのですが
でも、これから人にお伝えするものとしては
第3の実践はよくない。

そう今判断しています。

>特に3次実践は、
>2次で少し空いたところ(空っぽ)に変なものが入り込んでしまった魔境と言う所です。

そうですね。
第2の実践で一部、空っぽになりましたが
エゴは消滅できていなかったので
宙ぶらりん。

そこで一部からっぽのまま スピ系の知識を
何の困難もなくできていたわけです。

この「何の困難もなく」が問題で
まだあるエゴを消滅させるのに「激流」が必ず必要なのですが
そのころの私にとって激流は縁遠いものでした。

激流はスピ系やってる時では起こらなかったです。

まぁ、「幸せ〜」とかやっていたのだから
起こるはずないですかね(笑)

ということはスピ系、ずっとやってると
緩流に永遠に浸かっているだけ、という感じになりますかね。

地に足がついてない感じ、とも言えるかもしれません。。

だから師に出会ってスピをすべて手放し
一からやり直し。→激流

第2の実践の「一部空っぽ」が
すべて第4で「空っぽ」になったというわけです。

今、はっきり言えることは
スピ系やめて、
今の境地に至れてよかった、ということです。

TK師 ありがとうございます。

301 ゆうこ :2014/01/16(木) 19:25:03
TK様ラピ様 こんばんわ。

上記、拝読致しましたが
酔っ払いの定義について改めて確認させて頂いていいですか?

不快を理想実現の原動力として、
行為で解決していくべき所で、それをやらず
内面重視の対処をしてしまうと
行為がなくなり、物質同士のぶつかりのチャンス(激流)を逃すということでしょうか?

今までを振り返ってみて
「もうお手上げ」とか「死ぬか生きるか」という局面で
いわゆる「苦しいときの神頼み」や
精神修行のつもりで本を読んで考え方を変えたり
「感謝して喜んで」をやったりしてました。

何の力も(考えも)頼らず
自力のみで真正面から受け止めた事はなかったかもしれません・・・

全部自己責任と受け入れる事と
神様に頼ったり精神修行する事の違いがわかりませんでした。

少なくとも今回のお二人からのアドバイスのように
「一切の精神世界を断って自分の力(考え)だけで」
と意識したことはなかったです。

あくまでも
「自分が向上する途上で良かれと思って何かを参考にしたのだから、
それも自力本願のうち」
みたいな、曖昧な対処だったわけです。

今は自力での『結果主義生活』を送っていますが

これまで何度か経験したアレは、激流だったんでしょうか・・。
死ぬ程の辛さや頭が真っ白になったあの時に
神様に祈ったり感謝したら、
とても救われたような気持ちになって楽になったんですが

それは、
せっかくのチャンスを暖流として処理してしまったということなんでしょうか。

302 TK :2014/01/16(木) 19:59:41
ゆうこさん

>それは、
>せっかくのチャンスを暖流として処理してしまったということなんでしょうか。

そう言う事ですね。

つまり、あなたはその時に負けたのです。

過酷な現実からの逃避の一手段で他のものを掴んだだけです。

気持ちが弱くなり、逃げ場を探して掴んだものですね。

我々は崖っぷちに立ち、さらなる激流の中に身を投じ先に進みました。

我々はその追い詰められた時逃げ場を見つけよう等としたのではなく、
さらに命を落しても仕方がないような実践をしてましたから。

気持ちが負けなかったのです。

ラピ。さんも崖っぷちでは宗教とかスピ系とか精神世界ではなく、
さらなる能力開発にトライしたのですから、
あなたたち現状から逃げ腰になった人たちとは違うのです。

303 ラピ。 :2014/01/16(木) 21:45:32
☆ ゆうこさん

>神様に祈ったり感謝したら、
>とても救われたような気持ちになって楽になったんですが

救われたのだとしたら
ゆうこさんを救う存在があった、ということになりますね。

楽になった=自分を救う存在を求めてしまって激流終了
と言えます。

祈ることは「対象」の存在を認める行動となっていた
とも言えます。

対象がなければ祈れない。
祈る対象がなければ、何を何に祈ればいいのでしょうか?
対象がなければそれはできません。

別の言い方だとゆうこさんを救う存在=対象 と言えます。

救える対象があるから救えるのであり、
救ったり、救われたりは
対象が消滅したらできないのです。


だからそういう存在(神)すらも捨てて進まなければなりません。

でもゆうこさんがその激流を経験しているのなら
激流は並大抵の出来事ではないことをわかってらっしゃると思います。

だからそういう存在を捨てても突き進むということは
とても大変なこと。

何にも頼れないのだから 自己責任で進むしかありません。

TK師と同じく、私も命がけでした。

ちなみに、激流が起こった時、
本当につき進むのなら祈る暇はないんですね。

祈ってる間に流されてしまいます。

その時にある意志すべてを使って
激流に逆らって渡らなければならないのです。

304 TK :2014/01/16(木) 22:11:28
テレビのヒーローものが模範です。

テレビのヒーローは強大な敵が現れ負かされる事も時にはありますが、
その後やがて不死鳥のように再びよみがえりと言う筋書きです。゜

つまり負けたままではいない、真剣に倒す術を考え、
そして鍛錬を積み再び問題に不死鳥のように立ち向かう。

ヒーローが敵に負けて、その時の精神状態をごまかすすべとして、酒飲んだり、
やれスピ系だ、感謝して喜んで、こんなお話聞いても面白くもありませんし、
したくもありませんね。

こんなことやっていたら、そのうち誰か現れて、
主人公のほっぺたを平手打ちして「目を覚ませ」なに、逃げているんだ、
物語ならこのようになりますね。

こういう負け犬人生を歩んだ人がいたという事です。

ちなみに私が激流に飛び込む崖っぷちに立った時には、
私にはまだ足りないものがある、それが何か、
まずそれを何か掴まなければならない、
このように戦う姿勢の放棄はしませんでした、テレビのヒーロー的な進み方でしたよ。

今の、この苦しさから逃げるすべは、こんな負け犬な生き方は私はしませんでした。

305 ゆうこ :2014/01/17(金) 07:35:56
お返事ありがとうございますm(__)m

20代の頃、病気で激痛の日々
やけになって投薬を止めた頃に友人に連れられて初めて入った教会で
牧師が偶然、同じ病名の癒しを話しておられ
席についたあと、イエス様のような幻が近寄ってこられて
言葉でない言葉をかけられお腹も暖かくなって
後日、すっかり病理が消えていて医者を驚かせた経験をしました。
(当然、洗礼を受けましたが)

あの頃は、身体の痛み程度で
悩みといっても青いものでしたから、あれを激流とは言えないと思いますが

いとも簡単に、外の対象に見を委ねる経験の始まりだったかもしれません。

お手上げになった時は大いなる何かに丸投げして気を楽にする、という
無意識の思考回路を見直す機会を
今、頂いているので
これから起こる事に対して自力で勝てるよう
心身の精進、怠らずに今日もがんばってきます!

306 ゆうこ :2014/01/17(金) 19:14:34
>激流に飛び込む崖っぷちに立った時には、
私にはまだ足りないものがある、それが何か、
まずそれを何か掴まなければならない、
このように戦う姿勢

イエッサーです!(敬礼!)

(最近ほんとに、心身ともにフル稼働な感じで
それで風邪がうつらないかもしれません^^;)

採用の件で、何日も悩んで
以前なら、やっぱり「神頼み」的なスタンスが無意識に出たと思うんですが
今朝、TK様のヒーロー物語になぞらえた例えで考え直してみました。

現場が大変、という時に
「なるようになるさ」とか『引き寄せの法則』とか「神社に祈りに行く」
とか言う上司が居たら
もう、OH人事OH人事、引き寄せならぬ、どん引きですよねw

幸い、今の私は、そういうスタンスはとらずに
現実的にあの手この手を尽くしておりましたが
さきほど、以前勤務されていたベテランの方がヘルプできると返事をくれて
明日は皆に良い報告ができそうです。

結果はどうあれ、
ぽやぁ〜っとした『大いなるものに丸投げ姿勢』を
きっぱり捨てるよう意識することは
組織の中でも大事な姿勢だと改めて感じています。

ベテランさんに頼らざるを得ない日以外は
無休で、できる限りのカバーは続きますが
「逃げない」前提で動いていると、お客様にも楽しい笑顔で対応できるし
キャパの限界を試している途中の感じがしています。

てことは、まだ、キャパの端っこの、崖っぷちではないようです。

・・・がんばりますm(__)m

307 TK :2014/01/18(土) 08:38:09
ゆうこさん

>(最近ほんとに、心身ともにフル稼働な感じで
>それで風邪がうつらないかもしれません^^;)

一たび「理想」の向けて走り始めたら、忙しくなり、むしろ望むところになっていきます。

その「理想」が本当の意味で自分の生きている事実の甲斐になったという事です。

全身全霊を込めて、打ち込めると言う事です。

それが生きている事の幸せです。

308 TK :2014/01/22(水) 17:55:48
ラピ。さん

実践│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1758.html

これ少し内容が変ですよね。

>自分の理想に向かってできることが何かあるのに
>しないのはもったいないですよ。
>
>今できることを
>どんどんやっていくべきです。
>
>とことんやって
>やり尽くしたところが
>
>彼岸

彼岸の前に「崖っぷち」が来なければ、激流には入れません。

ラピ。さんは私に出会うことがなければ、残念ですがあのままずっと行ってました。

私に出会ったばかりのラピ。さんは、私の話に対して上から目線だし、
聞く姿勢は無いし、
その部分に関してはこの掲示板のゆうこさんの方ができてましたよ。

断言いたしますがスピ系ほど駄目な教えはありません。

感覚が麻痺して頭がボケたことを平安を得たと捉え違いしているような人たちが、
「彼岸」の訳が無い。

ラピ。さんの第三次実践は第二次実践で少し空いた穴に、
あなたの今までの経験や免疫の無い種類のエゴがはまり込んだ典型的な魔境状態でしたね。

今の所までくればともかく、あの第二次の中途半端状態は、
更に今の所まで進まない限りそのようになるのです。

ヒットした実践は、第二次でした。

スピ系を一生懸命やるのが理想ですは、私は死ぬまで酔っ払いです、と同じです。

いくら一生懸命にやっても、
やればやるほど酔っ払いになるだけと言う考えれば末恐ろしい実践が世の中には存在していて、
現実に右見ても左見ても悟った人が見当たらないその主な原因がこれですね。

309 ラピ。 :2014/01/22(水) 20:22:15
☆TK師

私の第2の実践がヒットしたのなら
そしてそれだけではなぜ至れなかったのかを
思い出していました。

その都度精一杯やっているので
忘れていることが多いのです。

まず、第2は自分を信じて
自分の限界に挑戦でした。

自分を信じていました。

それでは至れなかった。

第4の実践は何も信じることなく
ひたすら実践しました。

この時、私の気持ちは
「死んでも構わない」
これほどの決心でした。

それによって
うまく自分を捨てて実践することができたのですね。

そして実際「自分」は消滅しました。

ちなみにこの道は私の道であって
他の人にいいのかどうかは定かでありません。


師が引用された私の記事は
言葉が足りないですね。

やり尽くした、というのは
私の第2や第4の実践中でのことです。

だから激流が起こった後のことです。


私ってほんとダメダメでした。

すみませんでした。

310 TK :2014/01/22(水) 22:13:01
ラピ。さん

>まず、第2は自分を信じて
>自分の限界に挑戦でした。
>
>自分を信じていました。
>
>それでは至れなかった。
>
>第4の実践は何も信じることなく
>ひたすら実践しました。

激流段階の実践は、それ以前の理想段階の実践と、当然異なる部分が出てきます。

何も信じることが無かったのではなく、
導師である私を徹底的に信じてもらいました。

疑問を私にぶつける事すら禁止しましたね。

信じると疑うは相対の原理の上に成り立つ立派な激流突破のための実践法なのです。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。
>勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」

スッタニパータ186
> [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、
>聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。

スッタニパータ559
>わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。
>もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。

311 TK :2014/01/23(木) 07:17:09
ラピ。さん

ちなみに、ラピ。さんの第二次激流のスタートは、
第一次実践の自分が一心に信じてきた生き方が否定されたことにより、
何が何だか分からなくなったところからスタートを切っています。

これが激流に飛び込む前の崖っぷちに相当していました。

312 ラピ。 :2014/01/23(木) 08:40:36
みなさん、おはようございます。

☆TK師

私の最後の激流の流れですが
まず師の言葉によって私の中に葛藤が起こりました。

その葛藤が第2の実践の時と同じ状態であったのを思い出し
(ちなみにこの頃、その激流の様子をほとんど忘れていました)
第2の実践が激流を渡り、彼岸へ足を突っ込んだ出来事であったのなら
この葛藤が私の「道」であろう、と直感しました。

第2の時はとても怖かった。
自分が消えそうで怖かったのです。

だから自分にしがみついてしまい
「エゴ」が消滅しきれませんでした。

ただし、そこでの経験が私の経験となって
私は彼岸からそれを持って帰りました。

私の経験として残りました。

そして私は第4の実践の開始前、その経験により
この実践が激流を起こすものだと わかりました。

さて、ここで第2の激流を思い出しました。

言葉にしてしまえば軽く聞こえるかもしれませんが
第2の激流は本当に、本当に命を懸けるとはこのことで、
一秒たりとも気が抜けない
真剣勝負そのものでした。

その激流にまた飛び込むのです。

ただし、第2と第4の実践に大きな違いがありました。

まず第2の実践によって得たこと(=消滅したもの)があること。

(私はこの頃、第2の経験のおかげで
思考が起こらない、空っぽができるようになってました。
最後の激流の時、起こった思考は1日で3個くらいです。
ただし、私の特性でしょうか、
そういう思いすらも切り捨てることができていましたので
起こった思考も数秒です。
思考が起こったら、あるいは起こる前に即座に切り捨てることができました。
あとはひたすら実践のみ。)

そしてTK師の存在です。

TK師はあの激流を渡り終え、今生きている。

私はTK師の存在が私の道を保証してくれる気がしてなりませんでした。

TK師が渡った道を私も渡るのだ。

TK師のいるところに私も行くのだ、と思いました。

なにより、TK師の言っていることがわからないので
それがわかるようになりたかった、、、。
(これが一番の動機だったりする。(笑)

そして激流に飛び込みました。

師を信じることによって激流に飛び込めたのですね。

激流中は
「死んでも構わない。
ここでやめたら死ぬのも同じだ」という気持ちでした。

激流中は死ぬ決心ができていましたので
ひたすら実践しました。

「何があってもやめない」

という決心でした。

大げさに聞こえるかもですが本当にそうでした。

あとはなにも信じず、何も思わず
ひたすら実践を自分に命令し続け
実践し続けました。

(ちなみにこの時点で 
そう命令する自分が本当の自分だと思ってました。
ところがどっこい、でした(笑)

だから正直言って
本物の激流に飛び込むなんて私からはお勧めできません。

どうしようもなくなって飛び込まざるを得ない人が
自分の意志で飛び込むのです。

命を懸けなくても渡れる激流は偽物です。

なぜなら激流によって確実に「エゴ」が消滅するのです。
それほどのものなんです。

消滅する覚悟が必要です。

ちなみに本物の激流が起こること自体もまれかもしれません。


>第一次実践の自分が一心に信じてきた生き方が否定されたことにより、
>何が何だか分からなくなったところからスタートを切っています。

はい。
第1の実践の生き方が私のすべてだと思って
精一杯しました。

だからそれを否定されたことは
私自身の存在を否定されたのも同じでした、その時は。

そこから何を信じていいかわからなくなりました。
なにもわからなくなりました。

ここからですね。

@(*・ω・*)ポッ


激流を渡り終えたら彼岸です。

私は今はおかげさまでくつろいでおります。

TK師、ありがとうございます。

313 TK :2014/01/25(土) 10:52:42
人には善悪識別というものがあります。

もちろん解脱した我々にはこれはありません。

その個人において善と判断できることはやった方が良い事、
悪と判断したことはやるとまずい事と言う、
これが最も根源的な部分の理想の元なのですが、
解脱した者以外はどんな人間にもある訳で、
極悪犯罪人の死刑囚みたいな人であってもこれはあるのです。

つまり、悪と分かっていてやるから悪なのです。

法律に触れるような事であったとしても、善と言う判断の元の行為なら、
たとえ法で裁かれるような行為であったとしてもそれは善行なのです。

ここで善を拠り所とした理想とあえて話をしているわけで、
確かに理想と言うと外見的には未来を切り開く行為なのですが、実は、
この理想そのものが自らの過去に起こったものを原因として、
今その者の中に理想として結晶化しているものですから、
善を拠り所とした理想に取り組むという事は、
自らの過去に対して挑戦している事をそのまま意味しています。

例えば、私などは、
子供時代は談笑ひとつない家族同士がいがみ合っているようなドロドロした環境に生まれ虐げられながら生きてきて、
「対人恐怖症」とか、子供の頃から様々を経験してきています。

あれが悪いこれが悪い、理想の環境ではなかった、
私に言わせればですが、
そんなアマちゃんみたいなことを言っていても仕方がありません、
こんな虐げられ続けた子供時代を通ってきた私が解脱できて他の多くの者が解脱できないのですから、
みなさん大丈夫です。

私は家のドロドロしたカルマ全てと戦うつもりで解脱しましたら、
解脱と同時に家の中からあのドロドロとした雰囲気が一掃されすがすがしいものになりました。

自分の生きてきた環境に決してめげることは無い、
だったら捻じ曲げられ続けた私の子供時代はどう説明するのだという事になりますね。

例えば過去に虐待を経験した、例えば私などは善を拠り所とした理想として、
弱い者をかばおうと言うような理想の形になって私の中に結晶化しておりました。

子供時代に親に話を無視され寝たふりされ続けたり、
私のこのような経験も、弱い者の言葉を立場をしっかり保障する、
守って見せると言うような理想の形となって私自身の中に結晶化しておりました。

ですから、その者の理想をどこまででも追及すると、その中には、
その者の過去が全てあらわれていると言う原理です。

その意味で、みなさん、自分の善を拠り所とした理想というものに、
思いっきり取り組んでみて下さい。

私もそのプロセスを通って、解脱までたどり着けたのです。

今は善悪の彼岸に私はいます。


タイッティリーヤ・ウパニシャッド
知者の解脱
>「人間のうちに坐ますこの神人は太陽のうちに坐ますかの神人と同一なり」かように知る者は此の世から去った後、
>この食精所成の自我に入り、次にこの生気所成の自我に入り、
>次にこの意所成の自我に入り、次にこの識所成の自我に入り、
>次にこの歓喜所成の自我に入るのである。
>
> かような人間はもはや「私は何か善行でなさなかったことがあるか?」
>「私は何か悪事を為したことがあるか?」などという心遣いに悩まされるということはない。
>
>かように知る者は善悪の両者から自己を離脱する。
>
>まことに、かくの如く知る者はこの両者から自己を脱離する、というのが秘儀である。


スッタニパータ715
>(輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。
>なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」




くれぐれも、解脱もしていないのに、善も悪も無いんだ、
このようなバカな酔っ払いにだけはならないで下さい、
死ぬまで酔っ払いのままでその人は人生を無駄に終わらせる事になります。


ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、
>──これが諸の仏の教えである。


まずは、為すべき事を為す前に、為し終えた段階の人のまねしたらお終いです。

宿題が終わってもいないのに、終わって楽々遊びまわっている人の真似をして、
「善も悪も無いんだ」そんな都合の良い話があるようにホラを吹くのがスピ系でしたね。

人々をたぶらかす、悪魔サタンですね。

314 ゆうこ :2014/01/25(土) 20:07:24
TK様







泣きました。




今、『家族や会社のために一生懸命やる事』を標榜しているのは
まさしく
今まで、自分が至らなかったために悔んでいる事に対する挑戦です。


仕事にかまけて長男との時間を失なった事。
離婚した事。
伴侶への思いやり。(前夫・現夫)
娘に障害を持たせた事。
親への感謝が薄かった事。
家業の手伝いが遅くなった事。
組織の中で足りないあれこれ。
気遣いの足りなさ。
お客様への奉仕。

>その者の理想をどこまででも追及すると、その中には、
その者の過去が全てあらわれていると言う原理です。

>理想そのものが自らの過去に起こったものを原因として、
今その者の中に理想として結晶化しているものですから、
善を拠り所とした理想に取り組むという事は、
自らの過去に対して挑戦している事をそのまま意味しています。





宿題はまだ終わっていません。

夏休みなんか夢見ず
一生かけて精進しますm(__)m

315 ラピ。 :2014/01/26(日) 10:28:46
☆ゆうこさん

ゆうこさんの清き道をこれからも応援しています。

精一杯生きていれば、
どんな人も必ずその道を歩いているのですね。

かつての私もそんなことを知らずも、精一杯がんばり、
その道を歩いてきました。

精一杯生きることは素晴らしいことですよね。

316 TK :2014/01/26(日) 14:13:15
ゆうこさん

>泣きました。

それはそうですよ。

今、ようやく青春ドラマを演じようと言うわけですから。

一体どこへ寄り道をしていたのやら。

317 ゆうこ :2014/01/26(日) 18:31:00
TK様

・・・^^;泣いたのは・・・

TK様の辿られた道を読んで泣いたのです・・

私なんかアマちゃんも甘ちゃん、激甘人生だと痛感しました。

だから、TK様の過去を読んで奮い立ったのです。
こんなもんでヘコたれてる場合やない、と。

一生かかっても卒業できないくらいの宿題抱えてんのに
就活してた自分のあほさがわかったのです。

そんなあほにも

>みなさん大丈夫です。

と、優しい言葉をかけてもらったので泣いたのです。

タイッティリーヤ・ウパニシャッドの引用は
正直、理解できませんでしたが
TK様のわかりやすい言葉に心がぎゅーっとしました。

>らぴたん
>精一杯生きることは素晴らしいことですよね

・・・おばちゃんはね、
「しらけ世代」とゆー青春時代を送った人間で
どっかに「一生懸命ダサイ」的な刷り込みが残ってたりして
そーゆーカケラを粉砕するのも、意識しなきゃいけないんですよ。

しらけ→バブル→バブル崩壊て、
ろくな青春じゃありませんでしたが^^;

>今、ようやく青春ドラマを演じようと

老体にムチ打って、
心身ともにフルスロットル(←どっかで聞いたなぁ)です(*`‥´*)=3
       ↑
   ・・・煩悩が少なくなってるのは『老い』のメリットですけどね!

・・昨日TK様に泣かされて目が腫れてた1日でしたが^^;
熱血青春時代、明日もがんばりますm(__)m

318 TK :2014/01/27(月) 01:02:45
ゆうこさん

>TK様の辿られた道を読んで泣いたのです・・

お涙ちょうだいのつもりではありませんでしたが。

私は子供の頃から自分の悩みとか人に相談する事は無いのです。

親に悩んだりしている素振りすら察しられないようにして平然としていました。

姉と比較されて私の方は常に親からバカ扱いされてましたし、
環境がそういうものでは無かったので、しかし、それが幸いして、
人を頼らず自分で考え抜く習性を獲得しました。

一番最悪なのは、
苦労も何もないよく金持ちのボンボンとか言われる人種だと思いますね。

子供の頃にドロ沼のような虐げられた環境におかれて苦労ができているほど、
良い経験できていると思いますよ。

苦労に感謝しなくてはね。

私は雰囲気で異次元言葉は豊富使い回すので、
言葉で私を見抜くのは困難かもしれません。

病弱で病院から小学校通ってたこともありましたが、あの時も実は楽しかった。

恵まれてますよ。

病気で苦しくても体育の授業は休みません、
弱みを人に見せない習性がありましたから、
表面平然とした顔を繕ってやり過ごしてましたので、
その無理から骨格異常が起きてました。

今は懐かしい当時のレクレーションです、子供心で、
いくら無理しても身体というものは耐えてくれるものなのだと信じていた部分がありました。

今考えると、
不思議な事に激流の実践を子供の頃にデモンストレーションしていたようなものでした。

それでも、第一次探求では、死んだ方が楽なのかもしれないし、
人類は滅亡するのが幸せになる方法なのかもしれないと真剣に考えていました。

そんな中で手に入れた生き方が善を拠り所にして理想で生きると言うものでしたので、
ここで紹介しているわけです。

319 ラピ。 :2014/01/27(月) 07:25:33
みなさん、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ


☆ゆうこたん

>「しらけ世代」とゆー青春時代を送った人間で
>どっかに「一生懸命ダサイ」的な刷り込みが残ってたりして

なるほどです。
どの時代にもそういう人はいるものです。
でも私からしたら そう人が「かわいそうだなぁ」って思います。

せっかく生きてこられたのにもったいないです。

今、このできるチャンスを逃してしまったら
次のチャンスも逃してしまう可能性大です。

今この世界に生きているということだけで
確実にチャンスを得ているのですから
それをいかさないともったいない。

私からしたら、しらけている人のほうがかっこ悪いです。

私は後悔だけはしたくなかったから、
「あの時、がんばっていれば、、、」という風にだけはなりたくなかったから、
どんな時も自分の決めたことを一生懸命しました。

ただ、ぼんやりとしらけて生きるなんて
かつての私ではそんな生き方 耐えられませんね(笑)

私は精一杯生きて本当によかったです。

精一杯生きることをしっかりしないと、
それを卒業することはできないです。

ゆうこたん、これからも応援しています!

@(*・ω・*)ポッ


あ、ちなみにですが しらけて生きるのも自由だと思います。

ただ、「私」はそういう生き方が「嫌だった」というだけです。
でもそのおかげで、今があります。

320 ラピ。 :2014/01/27(月) 07:47:17
☆TK 師

私も第一の実践開始が小学校の時でした。

誰かに言われたわけでもないけど
自分が幼いながらもそれまでに経験してきたことを元に
自分なりに考え 得た答えを精一杯実践しました。

この実践は私にとっては特別なものではなく
当然の流れだったと思います。

この「私」という人間であったなら、当然でした。

この「私」に生まれてよかったです。

TK師、いつもありがとうございます!

@(*・ω・*)ポッ

321 TK :2014/01/29(水) 06:50:36
私はドロ沼の過去に拘るより、未来に進む、その方が好きです。

どうせ与えられたコマの中でしか動けない、しかし、
それでも精一杯やれば切り開けます。

悟ったところで、
行動面の出すパターンは今までの持ち駒の中の組み合わせでしかない。

過去の自分の泥沼にこだわるより、未来に、私はそのような歩み方をしました。

だから、自分の過去にバツ印を付けまくるスタンスは私は好みではありません。

確かにトラウマはありましたが、しかし、それは、
決して虐待された経験のない者の憶測するようなものではありません。

私は自分が虐げられた事より、
自分を虐げた者の真似をして私自身が幼い頃に弱い生き物などを虐めたことがずっと大人になってまで、
この時の罪悪感がトラウマとなって私の無意識下にまとわりついていました。

それは、
激流の実践時来る日も来る日も私の前に巨大な亡霊になっては現れて私を襲ってきました、
発狂すれすれとはこの事です。

私の理想は弱者を守り抜くと言うのは、
こういうものの結晶化した形だったのです。

ですから、善を拠り所とした理想の中には過去の全てが現れてきます、
それに思いっきり取り組めば、必ず開ける、そのように思います。

私は自分の生まれ生きたドロ沼環境など恨んだこともありません。

家は貧しく、こずかいも大してもらえませんでしたので、
他の者がアイスキャンディー買うのを指咥えて見てたら店の人がくれたとかありましたが、
唯一子供心ながら他の者がうらやましいと思ったことは、
他の者が母親と遊んでいるのを目にして、
私もあんな風に自分の母親に相手してもらいたかったと言う思いが子どもの時に確かにありました。

私が最初に恋愛をした時に、
なぜかこの「甘えたい」と言う気持ちがこみ上げてきて、
相手の女性に自分の中からおかしな気持ちがこみ上げてくるが、
自分でもなんだかよく分からないこれは一体何だろうとか言ってました。

相手の女性からもそういうものなんじゃないとか言われてましたけど、ですから、
いまだに私は人に甘えるのは下手です。

私の持ち駒の行動パターンの中に「人に甘える」と言うパターンが欠如しているのです。

ま、もっとも、人に甘えるより、自分の力で先を切り開く事の方が私にはあっています。

解脱にまでこぎつけたのも、この「末法の世」において人を頼らなかった点が幸いしたものです。

人を手掛かりに利用して成就出来たラピ。さんは、今の世にあっては凄く運が良かったのです。

人をたよって成就にこぎつける人は今の世では恐らく稀です。

至った眼で右見て左見て、この事実を知るというものです。

自らが苦悩する大元は親の行動パターンを無意識の内に収集してしまっている事に原因はあります、
しかし、私が想起で来た私の前世と照らしたら、
それはしてしかるべき必要な苦悩なのです。

みんな意味があるのです。

デタラメにドロ沼過去にバツ印を付ければ良いというものではありません。

過ぎた過去より、
その経験を有効に活かして善を拠り所とした理想で未来を構築する方が私は好きです。

322 ラピ。 :2014/01/30(木) 08:19:41
みなさま、おはようございます!
@(*・ω・*)ポッ

私にも私の出力パターンがあります。

ただし、スピ系の実践の時に
パターンがちょっと変わりました。

第1、第2の実践の時は
どちらかというと私は黙々と実践する 静かな人でした。

でも第3のスピリチュアル実践の時は変わりたくて
一生懸命、自分の殻を破ることに専念しました。

その時なりの、「こうありたい」という理想の自分がありましたから
そうであるよう、がんばりました。

その時のパターンが今、生かされています。


私の激流は「私」との戦いでした。

TK師も書かれているように
激流は発狂すれすれの状態です。

だから激流と言います。命がけです。

「私」には「私」の命がかかっていますから
「私」はかなりの抵抗をしてきます。

「私」が悲鳴を上げても私は実践をやめませんでした。
私が「私」に負けるわけにはいかなかった。

「私」も自分が消滅したくないからかなりの抵抗を見せます。

それでも私はやめませんでした。

私と「エゴ」の真剣勝負でした。

ちなみに私の至れた理由のひとつに
本物に接することができた=師匠に出会うことができたこと
があると思います。

@(*・ω・*)ポッ

323 TK :2014/01/31(金) 07:07:17
ズラズラと書いてはきたが、人間忘れてはならないもう一つの重要な事がある。

それは、
今までの生きてきた中で悪い部分だけをさらけ出してはならないという事だ。

親は、親だから絶対に子供である自分に、飯を食べさせる義務があるとか、
面倒見る義務があるとか、私は子供であるから、
親が子供である自分の面倒を見るのは当然だ当たり前だと思っている人間は最低だ。

確かに親も人間だ、自分の思い通りにだけ動くなどと思ったら大間違いだ。

世間一般の常識に照らしたら評価でき出来ない部分もあれば評価できる部分もあるだろう、
これを両方合わせ持って人間であるという事を忘れてはならない。

つまり、必ず自分も恩を受けているというものだ。

私は受けた恩を横において、
悪い部分だけをああだこうだ言いまくる人間は1000回、
いや10000回地獄に落ちて生まれ変わって出直して来いと言う。

我々のテーマは、受けた善、受けた悪、それを無意識に吸収し、
その中で受けた善を伸ばし、悪を減らす、
これが人間としての理想的な進み方というものだ。

324 TK :2014/02/02(日) 09:31:20
ラピ。さんに、最初に出会ったころは聞く姿勢もないし、まだ、
ラピ。さんが激流の地獄に突き落とせかどうかも分からなかった。

実は激流の地獄に突き落とすには「聞く姿勢」は必要不可欠な要素の一つなのである。

4カ月が過ぎた頃、機は熟してきていた。

スッタニパータ
>(師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、
>この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、
>完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住む。
>四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、
>諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。
>しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」


それまでの私は、他所で激流実践の内容を解説はしても、これは、
普通の者が実践できるものではないと思っている所もあって、
どこか全貌を明かせずに公開していた部分があった。

しかし、この時ばかりは、
この人物こそ激流の地獄に突き落とす事をためらう必要が無いとの判断から、
その実践内容の全貌で踏み切った。

このような判断が私の中に起きたのは、私が至ってから初めての出来事だった。

進めていくうちに、本人の過去の経験である第2次激流実践の成果で、
激流の基礎段階は既にクリアーできている事も判明した。

実は独自の第2次激流実践で中途半端な空っぽ状態を獲得したまま終了していた結果、
おかしなものを掴んで魔境状態に陥っていたのだった。

それは一種のチャネリング、
低次元階層に意識の焦点を合わせる事で意識にある種の平安状態の反応を起こさせると言う程度の低いものに捕まっていた。

それと精度の劣ったスピリチュアルだ。

汚染の発生源となっていたのである。

それと激流でできた空っぽの中に、
今まで免疫のない種類の世俗の汚染が容易に入り込んでしまっていたと言う点だ。

私も、EO氏の書籍で、この手の魔境の実例がある事は知っていたが、
実はラピ。さんが至るまでラピ。さんがそれと同じものだと気が付かなかった。

本物が係わる事で抜け出せる、
それは本物はそれが全て魔境である事をEO氏の書籍によらずとも当たり前の事として知っているからだ。

だからこそ、本物なのであるが。

独力でこの状態から抜け出すことは至難の業だ。

お前は死ぬまで酔っ払い、何度この言葉を浴びせたか知れない。

心当たりの人物は、ニセ者では無く本物に相談する事だ。

本物はその状態から、抜け出させてあと残りの一歩を踏ませる事が可能だ。

ラピ。さんは残りのあと一歩は僅か一日で、
第2次実践で終了の際に持ち帰っていた独自の経典(至るための方法)をヒントに激流の彼岸に渡る事に成功した。

元々激流の実践は精神の極限状態を発生させる特殊性から、
その時その時にオリジナルな技法が出現する可能性が極めて高い。

ちなみに、悟るための手段は、悟りとは求めたら得られない、だから、
「悟りを求めず他者の幸せのために自分を捨てて」、
これが無限ループを交わすための悟りに至るための真っ当なスタンスという事になるのだが、
ある言い回しと似てるだろ、
つまり大乗から「救済」と言う上から目線の言葉一つを除くとこの悟りに至るためのスタンスに早変わりすると言うわけだ。

折角の悟りに至るためのポイントを掴んだこの工夫された方法も、
この「救済」と言うゴミのおかげで単なるガラクタに色あせてしまう。

このように大乗もその一環から考案されたものと言えなくもない特性を持っている。

小乗にしがみ付く者もいるだろう、しかし、時代の変遷による大乗の流れは必然、
なぜなら、
今の組織化した社会は在家環境で悟りに至るための「激流」を発生させる事が可能だからだ。

悟りに至るためには「求めたら絶対的に得られない」、
自分を捨てる手段として他者の存在を利用する(相対の原理による利他)、
これが悟るためには最も効果的な方法である。

現代の在家環境、
こんなに優れた悟りに至るための環境的な特色を活かさない手は無い事になる。

325 ラピ。 :2014/02/02(日) 15:59:10
みなさま、こんにちは!@(*・ω・*)ポッ

TK師、いつもありがとうございます。

TK師にはじめてメールをしたのが昨年の1月14日でした。
そして私が至ったのが5月13日でした。

スッタニパータに書かれているように、偶然でしょうか?
どうなんだろう。
本当に4か月の出来事でした。


>本物が係わる事で抜け出せる、
>それは本物はそれが全て魔境である事をEO氏の書籍によらずとも当たり前の事として知っているからだ。

>だからこそ、本物なのであるが。

まさしくそうだと思います。

私も至った今だから分かるのですが
私たちにないものがある人は
私たちにからしたら不自然なのでわかっちゃうんですね。

「おかしい」(例えば魔境である)と。

でもご本人はとっても真面目にそうであることを信じているので
指摘しても受け入れられないことが多々あります。

そしてそれはかつての私もそうでした。

はい、本当に聞く姿勢がなかったです、初めは。
師匠の言っていることのほうが変で
「この人、何言ってるんだろう?」というのが
初めのころの私の感想でした。(すみません(笑)

そして至り、掲示板を始めていろんな人と対話する中でそれは
「そういうことだったんだ」とわかりました。

師も言われているとおり、聞く姿勢は大切ですね。

私もそうでしたが
まだ至ってない時は師匠より自分のほうが正しいと思ってましたので
師から言われる言葉にかなり反抗していました。

でも、あまりにもそれが続くので
「まてよ?何かがおかしい。
私は何か違っているのではないか?」
という思いがよぎりました。

ここからやっと聞く姿勢ができてきました。

今まで私が正しいと思っていることを一度捨てて
師の言葉を信じてみよう、と決心しました。

実はTK師を「師匠」と呼び始めたのは実は
5月11日でした。(おそい!(笑)

この時、初めて「この方は師と呼べる人だ」と
私の中で確信しました。

私は一度も師を求めたことがありません。
そんな私が師と出会えるとは!

すごく不思議な気持ちになりました。

そして師との出会いに感謝しました。

そこから師の言葉のみを信じて進む決心をしました。
自分を信じることなく。

そして激流が起こったのをきっかけに
師すらも手放して一人で激流に勝手に飛び込みました。


>お前は死ぬまで酔っ払い、何度この言葉を浴びせたか知れない。

懐かしいですね。ほんと何度も言われました。

そういわれるのが嫌で
「師と同じ状況になりたい!師の言っていることがわかるようになりたい!」
と思ったことを思い出します。


>心当たりの人物は、ニセ者では無く本物に相談する事だ。

>本物はその状態から、抜け出させてあと残りの一歩を踏ませる事が可能だ。

そうですね、そうだと思います。

ニセ物では無理でしょうね。
いろんな掲示板やブログを見ていたらわかるのですが
ニセ物では激流を起こすことはできないでしょうね。

ニセ物は激流を渡っていないので
人を激流に突き落とすことはできないでしょう。当たり前です。

ちなみに残りの一歩を踏ませるのは
至った誰もができるものではないかも、と思っています。

私は今はそれができるかどうか微妙です。
これからの流れに身を任せます。

でももし、そういう出会いがあったら
私も迷わず、激流に突き落とすかもしれませんが。


私は師匠のおかげで無事、至ることができました。

もし、本当にこの道を進みたいのなら
このチャンスを逃すべきではないと思います。

そしてどれだけ真剣であるかも大切なポイントになると思います。

326 ラピ。 :2014/02/02(日) 15:59:51
ちなみに私がまだ至ってないスピ系をしていたころ、
実はその時に感じていたことを書きます。

スピ系によって人は「願望を持たされている」ようです。

本当は求めてもいないものを「持たなければ損だ」と願望を持ち、
そしてその願望を実現するために
スピ系で言われていることを実践し続けている。

私は実は別に特に願望がなかったのですが
(この頃、空っぽが成就できていたから
そうだったのかもしれませんが。)
スピ系を見ていると「お金」や「愛」などの願望を
「持たなければならない」という感じを受けました。

だからスピ系をしていた私は
何かしらの願望を「持っていなくてはならなかった」。

スピ系には「求めることが必要だ!求めなくてはならない!」
という思想があったのではないかと思います。

私はもともと興味のなかった「相対世界での願望」をある意味持たされ
それに向かって頑張っていました。

変な言い方ですが
無理やり願望を持っていました。願望なんてないのに。(笑)

酔っぱらって信じるって、
自分の判断すらも麻痺させてしまうのです。

持ちたくもない願望を持たされて
本当に酔っ払いのように、言われるがままに進んでしまう。
そして私はそれを「実践」としていました。

でもそれは決して激流を起こすものではなかった。
だからダメなんですね、成就の道を歩きたい人にとっては。

(酔っ払いがいいのなら
それはそれで自由だとは思いますが。
でも永遠に酔っ払いでしょうけど、そのままなら。)

ちなみにこのスピ系の実践では 何度も言われていますが
相対世界を卒業することはできません。

求め続けて
永遠に求め続けて。

一つがかなったら次の願望。

束の間の喜びを得るけども
それも束の間。

そして叶わない願望もあるけど
さらにポジティブシンキングで進んでいく。

スピ系をしている人ならわかると思いますが
そこでは永遠に続く幸せなんてないのです。

だから束の間の幸せが終わったらすぐに次に向かってがんばる。

自分の「幸せでない感情」にふたをして幸せだけを求めて
ひたすら奴隷のように歩き続けるのです。
(奴隷という例えは厳しいでしょうか?
でもある意味、願望の奴隷となっているのです。
私はそうだったかもしれません)


>それは一種のチャネリング、
>低次元階層に意識の焦点を合わせる事で意識にある種の平安状態の反応を起こさせると言う程度の低いものに捕まっていた。

この私の状態は、至った師匠からしたら、
酔っ払い以外のなにものでもなかったでしょうね。

そして、かつての私のブログから、
その私の状態について違和感を感じていた人もいたかもしれません。

今の私にならわかります。
スピ系の酔っ払い。

偽物の平安に酔いしれて
師匠の言葉に反抗していた私。

「私はこんなに楽しいのに、(この「楽しい」は曲者です(笑)
この人は何を言っているのだ。
この状態がおかしいわけがない」

これはその頃気づかなかった私の本音でした。

でも至った今の私からすると、
かつての師匠とのやり取りは
「あ〜。私ってバカやなぁ、、」としか言いようがないものでした。

でも師匠はそんな私にもちゃんと対応してくれました。

ちなみに至ってない時は
師匠がちゃんと対応していてくださっていたにもかかわらず、
私はそれに気づかず、まともに聞けてませんでした。

ちなみにこの掲示板でも
師匠はきちんと皆さんに対応してくださっています、実は。
(そうだとわからない人もいるでしょうか?いそうです(笑)


もし、かつての私と同じような状態の人がいるなら
ちょっと立ち止まってみてください。

そしてこの掲示板に書き込んでみてください。

私たちからして、どう見えるかがわかります。

私たちは書き込んでくださった人のエゴがまるわかりですので。

あと、「至った」人も募集しています。
対話してみませんか?
スレッド「悟りに至った方たちとの対話」でお持ちしていますよ!

@(*・ω・*)ポッ

327 ラピ。 :2014/02/02(日) 22:07:29
>実は独自の第2次激流実践で中途半端な空っぽ状態を獲得したまま終了していた結果、
>おかしなものを掴んで魔境状態に陥っていたのだった。

この頃を思い出していました。

これから書くことは言葉に表すと
誤解を受けるかもしれませんが
例えを使いながら書いていきます。

だから「そうなんだ〜。ふぅ〜ん。」というくらいで読んでもらったら、と思います。

第2次の激流実践で「その頃の私にとっての限界」に至った後、
(実はまだまだ限界ではなかったのですが、その頃はそう思っていました。
まだ消滅したくなかったのかもしれない。)
私は人間に戻ることを決心し、
いろんな周りにいる人の様子から学びながら
人間に戻りました。

ま、この言い方も例えですが
実際、第2の実践で私は人間でなくなっていました。(笑)

普通ができなくなっていた。
普通がどういうことかわからなくなっていました。

でも第2の実践でぎりぎり(でもまだまだ)のところに行った後、
まだ残ってる意志で人間に戻る決意をしました。

戻る時は周りにいる人たちから学びました。

人の意識の場所はどのあたり、とか
人はどのように存在しているのかとか
人とはどういうものだとか
学びながら戻ってきました。

まっさらな赤ちゃんが人間を見て そこからある意味学び
人間になっていくのと同じような感じです。

その頃の私と 赤ちゃんの違っている点は
私は人間になる様子を「私」という意志のある状態で通ってきたということです。

この道も実は数年単位です。

激流を渡り終えたわけではなかったので
戻ってくる間中、激流の残骸があり とても大変でしたが。

でも意志を落としながらその意志が落ち着くところまで
戻ってきました。

意志を落としました。

ある意味、落としたのです。落ちたのです。

そして戻ってきた理由は覚えていますが
「まだ、私がやっていないことがあるからやってみたい」というものでした。

私は小さいころから実践づくしだったので
人として持つであろう願望があまりありませんでした。
(ちょっとはあったけど、実践優先でした)

それをきちんとしっかり味わってみたかった。

だから戻る決意をしました。

そして戻って来てそれまでやっていなかったことにいろいろ挑戦しましたが、
(前にも書いている通り、)
結局その願望を無理やり持って
それを叶えるためにスピ系で言われている
「こうすればとい」というものを実践していくだけでした。

ある意味、願望が叶ったときは幸せでした。
でもそれは相対的世界の幸せで
それに私は違和感を持っていました。

「絶対的幸せがいい!」って常に思っていました。

わたしが人間になって思ったことは
終わりのない願望を持ち続けるって
大変だなぁ、ってことでした。

もう、私はその世界からは卒業して
そこから解放されていますが、
「人」として生きることは大変なんだなぁって思いました。

328 ラピ。 :2014/02/02(日) 22:10:05
>それを叶えるためにスピ系で言われている
>「こうすればとい」というものを実践していくだけでした。

「こうすればとい」は
正しくは「こうすればいい」です。

@(*・ω・*)ポッ

329 TK :2014/02/03(月) 18:41:08
ピッタリ4カ月とは、ゴロが良かったですね。

成道記念は5月13日、これも5月12日の翌日なので覚えやすい。

>進めていくうちに、本人の過去の経験である第2次激流実践の成果で、
>激流の基礎段階は既にクリアーできている事も判明した。

実はここはポイントの一つで利点でもあり難点でもありの部分でした。

うまく行き僅か1日で渡れましたが、
中途半端であれ曲がりなりにも以前の実践で至れている部分が災いして、
下手すると激流が起こし難く先に進む推進力が発生させられ無い可能性が無きにしも非ずでした。

それが次の判断の理由の一つ。

>しかし、この時ばかりは、
>この人物こそ激流の地獄に突き落とす事をためらう必要が無いとの判断から、
>その実践内容の全貌で踏み切った。

とにかく推進力(激流)が得られなければ、停滞するしかありません。

いよいよとなれば、タパスと言う切り札が無いわけではありませんでしたが、
そのカードは切らずに済みました。

確かに第2次実践は良く頑張りました。

ただ者ではありません、しかし、激流の実践とはそういうものなのですから、
軽はずみな気構えで踏み込める領域では無いのです。

この中途半端な成就でフローを手に入れたのです。

ちなみに、体が動かせなくなった、これ、
エセ覚者にどういうものか回答してもらって本物判定の審査基準の一つにしたらどうですかね。

どうも、この世界、公的資格制度みたいなものが無いと、
でたらめがあちこち出回っていて、既に収拾がつかずの状況ですから。

この件についてなら、日常生活に影響が出る内容についてですし、
私はそういうものには関心が無いんだ、では済ませられません。

私の書き込みを削除しまくりながら、必死に逃げたあのエセ、
信者ゴロゴロひきつれて、みんなで一緒に地獄ツアーも良いかもしれませんが、
あんなデタラメが、世も末です。

末法の世と言いますから、善意なら許される、
むしろあれがでたらめと知っている我々の方が責任があるようなものですね。

我々は善意すらありません。


君の不完全な成就は「自分を捨てて」これが無かったのです、なぜなら、
君は「自分を捨てて」の実践を否定されて、
その代りに第2次実践がスタートしたのですから。

その時の最後に君が乗り越えられなかった壁、つまり恐怖心の正体は保身でした。

どのみち頑張っても、あの段階では超えられない壁でしたね。

自分を捨てないイコール保身ですから。

ベクトルが違っていたのです。

確かに、私に出会ったばかりの君に、
人のためと言う言葉を最初にぶつけた時の反応は、
全く持って自分のため以外ほとんど関心ありません的な反応でしたからね。

それが至れない原因でした、最後の恐怖心の正体が「保身(自分を大事にしたい)」なのですから。

その結果、個人的な部分の空っぽだけが成就して、すなわち、
EO氏の言う所の魔境がその空っぽの中に入り込んだ訳です。

私は「自分を捨てて」、これを君に成就させたわけです。

激流の実践は強烈なインパクトがあり印象強いものではありますが、
最近私が重要視しているのはむしろ、
激流に飛び込む前の此の岸の外れの崖っぷちに至るまでの方です。

ラピ。さんにしろ、
激流に飛び込む以外に無いところまで追いつめられたわけですね。

ここに立った者は否が応でも激流に進みますが、
この飛び込み台に立ってもいない者はやはり激流の実践内容に手を出す資格が無い。

このあたりは私もEO氏と同様の結論です。

資格が無い者は、
本当の意味での激流は作り出せないで形だけを真似した精度を落した緩流で、
やっている気分だけの酔っ払いになっていました。

相手にするだけ無駄と言うだけに済まず、害を及ぼす事になる事が、
今までの実験でほぼ確実であることが掴めています。

しかし、私にとっては激流の実践だけが全てではありません、
光の存在から教えられたその前の第1次実践も充分に幸せで私にとっては価値のあるものでした。

それが善を拠り所とした理想の実現です。

スピ系の実践が理想ですは単なる酔っ払いですが、
地に足つけた人間としての生き方を精一杯生きぬくという事です。

330 ラピ。 :2014/02/03(月) 21:26:48
☆TK師匠

師匠、いつもありがとうございます。

師匠と出会ったころ、
私は激流というものがどんなものだったのかを忘れており、
激流とは縁の遠い日々を送っていました。

師匠のおかげで激流を思い出せたのです。
激流が起こったのです。

師匠、ほんとうにお見事でした。

本物でなければ私に激流を起こすことはできなかったでしょう。


>君の不完全な成就は「自分を捨てて」これが無かったのです、なぜなら、
>君は「自分を捨てて」の実践を否定されて、
>その代りに第2次実践がスタートしたのですから。

そうですね!
今思い出すと私は第2の実践は「捨てる」どころか
「どんな苦境にあっても自分を捨てない」
というスタンスでした!

消えそうになる「自分」を保つよう
意志を使っていましたから。

その通りです!!!!



>その時の最後に君が乗り越えられなかった壁、つまり恐怖心の正体は保身でした。
>どのみち頑張っても、あの段階では超えられない壁でしたね。
>自分を捨てないイコール保身ですから。
>ベクトルが違っていたのです。


そうですね。
第2実践の時はとても怖かったです。
消えそうになる自分を保つのをがんばっていましたが
それは恐怖と隣り合わせでした。
怖い感情が常に付きまとっていました。
でも怖くてもあきらめず実践し続けました。
私、しつこいのです。(笑)

そしてかなり自分を追い込みましたが
そのままでは自分を捨てることができなかった故に
超えられない壁がありました。

だからその時は至り切ることができませんでした。

でも第4の実践は 師のおかげで
いつの間にかその壁を飛び越えていました。

うんと、壁そのものが消滅したのです。

ちなみに師匠からいただいた
私を変えた言葉の一つは「下から」でした。

この言葉はすごいと思います。



>最近私が重要視しているのはむしろ、
>激流に飛び込む前の此の岸の外れの崖っぷちに至るまでの方です。

ほんと、そうですね。
まずはそこからですね。

だから私の激流の話なんて
「へぇ〜。そうなんだ」くらいにしていただいて、
皆様はしっかりと「今の自分」を生きていただきたいと思います。

どうぞ、真実の自分でいてください。

@(*・ω・*)ポッ

331 TK :2014/02/03(月) 22:13:08
>ほんと、そうですね。
>まずはそこからですね。

この界隈誤認覚者も含めて、右も左も次のような人ばかり見るのです。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


こうのように酔いしれて、
そうだと信じ込んでいる人たちばかりを沢山目にするのです。

だいたい、このようなことしてて至れると思いますか。

本人は彼岸か彼岸の近くにでもいるつもりなのでしょうが、
彼岸に上がるまでは、激流の中です。

激流が一番彼岸に近いのです。

私は理想時代から激流の彼岸に至るまで最初から最後まで戦いを捨てませんでした。

これは腑抜けと言うのか酔っぱらっているだけですね、
このようなことをしてても永遠に彼岸には行けずに単なる頭がボケた人のままで寿命が終えるだけです。

これでは、死ぬまで酔っ払いと言われてもしかたありません。

だから、公的資格制度でも作ってもらいたいと思うのです。

なぜなら、至る前の人はこのような人たちに惑わされます。

至った我々から見たら、とてもではないが、まともではない、
夢遊病者か亡霊かと呼ぶしかありませんが。

332 ラピ。 :2014/02/04(火) 00:53:19
師匠、酔っ払いの模範的な記事を引用してくださいましたね。(笑)

かつての私、、、。

「あ〜あ、、、」です。

みなさん、こんな記事をかつて書いてごめんなさい。
ここで訂正させていただきます。

この記事は全く的を得ていません。


ちなみにこの記事、
誤認覚者と同じようなことを書いているなぁ、、、。

このレベルにとどまると、どうしようもなくなっちゃうよ。
そんな人のなんと多いこと、、、。

そして私にもその可能性があったのね、、、。
(-_-;)


>今まで 「私」と思っていたものが
>無くなってしまうのれす。
>そして 真実の私 に気づきます。

この文、とってもへんてこりんです。

誤認覚者(かつて師の記事を削除しまくって逃げた人もそうでした)が
そう表現しているのをよく見ます。

私もそう表現していたんですね。

すみません。

これはまったくの間違いです。
そしてかつての私はそうだと思い込んでいただけなんですね。

単なる妄想にひたっているだけですね、これは。

333 TK :2014/02/04(火) 07:07:32
>誤認覚者(かつて師の記事を削除しまくって逃げた人もそうでした)が
>そう表現しているのをよく見ます。
>
>私もそう表現していたんですね。

そうですね、ですから、私に出会うより先にこちらの人に出会ってしまうと、
同類同士で変に話が合う分、一緒に世の中変えましょうとか言う事になって、
今は無かった可能性があると思います。

始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ベースになっているのは覚者の文献だと思います。

だから一番ベストはそれは違うんだと言う、判定する人の存在が必要なのですね。

公的資格制度でもあれば、多くの人たちの混乱は起きなくて済みます。

メンタルの修得の尺度を計る資格は人類にとっては必要なものですが、
なぜこうも、軽く見られているのか、これこそ現代科学の遅れの部分です。

人材を採用する企業も、重要な人間判定要素の一つになりますね。

現代の人類の行き詰まりの突破口はここだと思います。

ただ何々宗の僧侶の資格とかは何の目安にもなりません。

家によくお経読みに来る坊さんも、単なるしきたり上の存在ですから、
読経してもらってお礼を言って、その方々の生活の糧であるお布施を渡して、
その後はこちらがお話を聞かせてあげて終了、このようなものですからね。

他のサイトでは、このような誤認による覚者に付き従うもの多数いました。

我々から見たらこの人たちは永遠にさまよい続ける亡者の群れです。

虚しいですね、この人たちに未来は無い、
本来は現象を裁きながら実践しなさいとか、
不快な事に感謝などする必要ありませんとか、
こちらを歩ませなければならない人たちなのですから。

334 TK :2014/02/04(火) 19:15:54
これ、本当にすごいですね。

私が無くなる幸せ│大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1259.html


悟る前のラピ。さんの文を読んで、
悟ってなくても悟ったと言う想いこみだけでこれだけ紛らわしいものが書けるのです。

我々が見ればこんなガセ、
私の書込み削除しまくったあの人物と全く同じ完全100パーセント酔っ払いだと分かりますが、
残念ながら一般の方々には例のサイト同様見分けがつくはずがあまりせん。

しかも、言っている本人も自分が至った覚者だと信じているのです。

これ、何を勘違いしいるのかも私には手に取るように分かります、
私の前ではみんな丸裸ですね、
この人には「無」と言う対象となる意識がしっかりとあって、
それが至った状態だと思い込んでいるのです。

>今この瞬間に溶け込んでると

これがこの「溶け込んでいる」と言う表現の根拠なのです。

これは至った我々とは全く別物です。

本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

このように、至った覚者の状態などを書いた物を読むと、
自分もそれと同じだと勝手に錯覚して思い込んで、
酔っぱらいのエセの覚者が一丁出来上がりとなるわけです。

簡単に人間と言うのは誤認が起きますから、
至った覚者の状態を書いてあるものなどできるだけ読まない事です。

エセに従う信者たちもいい加減に目を覚ましたらいいのにと思うのですが。

私はこの者たちとそれにつき従う者たちを、
風車が怪物に見えるドンキホーテと従者のサンチョと呼ぶのです。

至ってしまえば楽々ですが、至る前の人たちにとっては、
このようなトンでも勘違いの人たちが沢山いるので、
手探りで断崖絶壁を歩いているようなものです。

恐ろしや恐ろしや。

はやく、公的な認定制度が出来ることを切に望みます。

剣禅一致、すなわち技術の修得とメンタルの修得、この二つが一致して、
本当のその者の能力の尺度なのです。

現代の科学は、技術の修得の部分しか解明できてない劣ったものですから、
早くもう一つの方にメスを入れることが出来なければ、
「フロー(ゾーン)」と言う現象も解明できないし、この先社会はもっと悪い方に行きます。

現代の状態は、これみんな劣った科学がもたらした醜態というものですよ。

情けない。

335 ラピ。 :2014/02/04(火) 21:19:22
みなさま、こんばんは!

TK師、いつもありがとございます!


>これ、本当にすごいですね。

訳すると
「これ、本当に妄想すごいですね。」
になりますかね。


>>今この瞬間に溶け込んでると

今の私たちの状態ではあり得ない状況ですねぇ。



>始末に負えないのは、自分自身がそうだと信じてしまっていると言う所です。

ほんとそうなんです。

師の言葉を早くからちゃんと聞いていたら
間違っていたことが早くわかっていたかもしれませんが
初めのころは大まじめにそうであると信じていたのです。

だからちゃんと話を聞けていませんでした。

でもどうにか
自分の信じていたものを捨てることができてよかったです。


私の昔のブログに賛同できる方は
スピ系による被害を受けています。

私の昔のブログは偽の情報です。

昔の記事を削除してしまってもいいのですが
参考になると思い今は残しています。

かつての私の記事のような話が
全く参考にならないということの
参考になると思っています。

それに、昔のラピ。と今のラピ。の違いが
記事を比べたらわかると思います。

えらい違いです。次元が違いますから。(笑)

でも、将来 記事を削除するかもしれませんが
そうでないかもしれません。

@(*・ω・*)ポッ

336 TK :2014/02/04(火) 22:26:02
>本物の我々には残念ながら「無」と言う対象となる意識はありません。

無想と想に非ずは全くの別物ですからこれが悟りだなどと、
この界隈はかなり滑稽な状態です。

それにつき従う信者の群れ、あれもかなり悲しい。

私は独学ですが、何でまあ信者と言う人たちは、そろいもそろってエセの後を追う、
ああも悲しい定めにいるのでしょう。

あの人たちから見ると、こちらがエセに見えているでしょうから、
現実とはそんなものですよ。

337 TK :2014/02/07(金) 18:24:23
袋小路に追い込まれた者には私は激流の門を開くだろう。

私は人と寄り添う事を求めているような者に、
ここで寄り添う相手になるつもりはない。

理由は簡単だ、精神世界のテーマで寄り添う相手になるなど、真っ平御免だからだ。

同士をもとめるなら、精神世界以外のテーマでの同士を求めるべきだ。

酔っ払いの烏合の衆というのが、それだからだ。

これが世の中一番最悪のごちゃ混ぜグループ。

私は理想で生きる事を説くが、それは精神世界以外で実行するという事だ。

これをやらずして精神(内面)世界をテーマにたむろする人間など真っ平御免だ。

だから、当たり障りのない適当な理由を付けて、
はいさようならをしたケースは今までもあったかもしれない。

人のぬくもりを求める者もいるだろう、しかし、それは精神世界以外で求める事だ。

人が仲良く寄り添って、そういう理想の実現は精神世界に求めるものでは無い。

それを卒業した者が、次の段階として精神世界の「孤立」に入る。

私など理想時代は、まず、
寝る時以外は家になど居る事はほとんど無く
常に誰かと活動をしていて一人で居る事はほとんどなかった。

その後の、激流の実践時代は、理想時代とは打って変わって孤立に入った。

だから、この界隈狂ってるんだ、
精神(内面)世界を寄合のテーマに傷を舐めてくれる友を求めたり、
その者は精神世界では無くて違う所でそれをやってくれ。

精神世界は、理想の実践段階とは打って変わって、
世からの孤立が本質的なスタンスだ。

スッタニパータ
> そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、
>完全な戒律を受けた。それからまもなく、
>このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、
>怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、
>無上の清らかな行いの究極
>──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが
>──を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。
>なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。



私はこのような中途半端な要素を少しでも感じた者に対しては、
まともに取り合わずに、
当たり障りのない適当な理由を付けてはいさようならとする事だろう。

心当たりの者がいたら、自らの内面を良く見てみろ、私の前では丸裸だ。

激流段階の者にとっては、
現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
他者を自分の実践対象として存分に利用し、
なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私やラピ。さんはその実践の成就者という事になる。

激流段階の者にとって、在家環境で日常生活のまま、孤立の立場の実践が可能なのだ。

338 ラピ。 :2014/02/07(金) 23:05:11
TK師、いつもありがとうございます。

>激流段階の者にとっては、
>現在は出家などしなくても在家環境で日常生活を家族と同居しながら、
>他者を自分の実践対象として存分に利用し、
>なおかつ「孤立の立場で」激流の実践も出来てしまう、
>このような激流段階の者にとって優れた実践面の特色が在家環境で得られる。

私も似たような感じです。

例え家族がいても
私の実践の妨げにはなりませんでした。

妨げにしませんでした。

それが私のポリシーでした。

そして日常はちゃんと過ごしていました。


この掲示板に
もし、私自身の実践をそのまま書き込むなら
かなり厳しい内容になります。

実はここに私が書き込んだ内容はまだまだ甘いものです。

私がこれまでに書いた内容で逃げるくらいなら
まだまだですね。


私は自分が決めたことは決して曲げず
我が道を歩く人でした。

至る前、周りの人に
私の本性はばれていなかったかな、どうだろ。
本性の気配を感じても
たんなる気のせい、くらいに思われただけの程度かもしれません。

実践は自分自身のことであって
周りの人には関係なかったから
別に周りの人に厳しさを表現する必要はなかった。

自分に厳しくさえいればよかったから。

でもそうだったからこそ、表現していないつもりでも
微妙に気配は感じられたかもしれませんが。


至ってから かつての自分を思いだすと、
ほんと笑えるくらい真剣に
エゴ丸出しでエゴがとても強かった。

でもこんな自分でよかった。

こんな自分だからこそ しつこくあきらめることなく
自分の決めたことをやり遂げることができた。

みなさんはしっかり「自分」を生きて
「自分」を成長させてください。

まずはそこからのようです。

そこをしっかりやらないと扉は現れない。

@(*・ω・*)ポッ

339 TK :2014/02/08(土) 09:35:18
理想(物質)段階の実践と激流(内面)段階の実践では大きく異なる部分がある。

理想段階の実践では、同じ利他でも人への執着が根幹となる。

他者を大事にしたいとか、他者をいたわりたいとか、他者を守りたいとか、
このように、そのベースにあるのは人への執着となる。

これとは打って変わって、激流段階の実践では、
人に対する依存そのものを一切断ち切る実践段階に入る。

よって、釈迦の時代は先に進むために独り離れる実践が出てきたものであろう。

激流段階は妄想を駆使した実践となる。

美女を見たら汚らしいものだと思えとか、つまり、
このような妄想を駆使した特性が故に在家の人がいる環境でも、
人がいてもいない事に出来たりが可能となる。

例えば依存心を断ち切る実践の一つとしてラピ。さんの実践した下からとか、
激流の場合の利他とは、人を人と思わないのがベストと言える。

世俗感情は一切禁止だ。

一例としては全ては神である、この妄想を駆使する事で人への執着を断ち切る。

もともと我々の段階までくれば、
人が大勢いても誰もいない(何も無い無所有処)としか言いようが無いのだから、
人を人と認めない全てが神であると言う妄想も我々の所に至るための有効なプロセスと言える。


ヨーガ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AC

>バクティ・ヨーガ (Bhakti yoga)
>
>神への純粋な信愛を培い、グルがいる場合はグルを、
>その他の普遍的な愛の対象がある場合はその対象を、
>超意識(宇宙的な意識)の化身とみなし、全てを神の愛と見て生きるヨーガ。
> 古典文学『マハーバーラタ』(Maha Bharata)にある有名なクルクシェートラの戦いで、
>クリシュナが勇者アルジュナに説いたとされる
>『バガヴァッド・ギーター』(The Bhagavad Gita=神の詩)は、
>バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの本質を謳っているため、
>ヴィシュヌ(ナラヤン)の転生として実在したとされるクリシュナが開祖とも言える。
>また、近代の大覚者ラーマクリシュナとシヴァーナンダ、
>現代のサッティヤーナンダは、
>現代においてはこのバクティ・ヨーガこそ最も必要であると説いている。

(中略)

>新興宗教の中には、インド人の信頼できるグルの指導を受けずに、
>このヨーガを取り入れている団体が多いが、
>自らのエゴが消滅できていないことを理解できない団体運営者によって独自の解釈がされており、
>大変危険である。
>間違った「自称グル」(大抵そのグルのグルが誰であるか、
>公表できない)を師と仰ぐと、一生を棒に振ることにもなりかねないため、
>事前に十分調査をし、常に一般常識に照らし合わせることが重要とされる。


私が何度も繰り返しているが、
この実践法を初め激流段階の実践法はどれをとってもニセ者にこの指導をされたら、
妄想を駆使する部分が災いとして作用し、
単に頭がボケたことを平安と勘違いして「貴重な一生を無駄に生きる事が確定してしまう」ので、
くれぐも、ニセ者覚者には要注意すること。

このような危険と背中合わせの実践法を、
手当たり次第のごちゃ混ぜの精神世界知識の収集により、
まともな教相判釈もせずに取り扱えるものでは無いのだから、
自分が大事なら、ニセ者をニセ者と見ぬことだ。

(続きます)

340 TK :2014/02/08(土) 09:35:54
(続きです)

その一番の見抜き方は、
この者に付き従ってもいつまでも自らの中に「激流」が発生せず「緩流」しかおきない、
この状態の場合はその師はニセ者であると判断し速やかにはなれよ。

酔っ払いとして一生を棒に振る事になる。


さらに、これは物質としての実践、つまり、
「人への執着を拠り所とした理想段階の実践」を限界までやりぬいた者が進む道であり、
つまり、理想段階をやり抜いている者以外、ご法度という事だ。

私などは、激流の実践段階において、教会やキリスト教の集会に顔を出してみたが、
そこにはとても優しく親切で良い人たちしかいなかった。

ここに魅力を感じるかどうかだ、
人の温もりを欲している段階の者はここに引っかかる、
その者はこのような所に出入りしてはならない、
宗教色抜きにした理想段階の実践をもっとやらなければならない、実は私は、
それを精一杯やってこれ以上先に進めなくなったことによりここに参加したわけで、
その優しくて親切な人たちの集まりには、欠片も魅力を感じることは無かった、
このような者はもはや激流に進むしか手が無いのだ、
これが激流に進んで良い段階か悪い段階か否かの判定法だが、
私はこのような所には寄り道せず一人歩む事を選択した。

その時の私にはそのような親切で優しい人たちの集まりには、
全く欠片も魅力を感じなかった。

それをやり尽くしてこのようになった者以外は、
激流に踏み込んではならないものと心得ておけ。

人の温もりを求めて喜んでいる者たちに、
宗教や精神世界そのものがご法度なのだ、よく心得ておけ。

所がこの界隈、右見ても左見ても、
ニセ者とそれにつき従う酔っ払い集団しかいないのだ。

この界隈の狂った者と言うのは、世界を何とかするのだとか、
このように世界に執着するのは良いとして、不快な事にも全てに感謝せよとか、
そのための仲間とか、理想段階、激流段階ごちゃまぜの完全に狂っている。

このごちゃ混ぜの人たちは残念ながら、一生を無駄に終える人たちなのです。

同じ仏教は仏教でも正反対の実践が入り込むのですから、
仏教以外のどんな教えであっても、ただしい教相判釈は必要不可欠でありごちゃ混ぜは地獄行きです。

あなたは何でもかんでも手当たり次第取り入れてごちゃ混ぜをやっていませんか。

残念ながら公的資格制度はありませんが、エセでは無く、正しい師の元で学びましょう。

私はこのような話をする時には、今までに遭遇した現実の人物を題材に話をしています。

手当たり次第のごちゃ混ぜのエセ覚者がいたのです。

教相判釈に価値を認めていないようでした、と言うより、その者に出来るはずなどない。

だからこそ、その者から段階的な教相判釈の内容が飛び出すことは無い。

その捉え方は科学的な常識に照らしても欠点大ありですが。

まともな実践者に応じた段階的な教相判釈もなしに、何でもかんでも手あたりしだい精神世界知識を取り入れて、
それで害が無い訳が無いのです。

341 TK :2014/02/09(日) 13:17:37
私には経典知識は大して無い。

理由は簡単だ、経典学者(釈迦の語録研究家)になど成るつもりは無いからだ。

そもそも当たり前だが、
本家本元の釈迦は経典学者(釈迦の語録研究家)を育てたくて教えを説いたわけではない。

親の心子知らずと言って、思い違いをしている者もいるのかもしれない、
それを本末転倒と言う。

釈迦は100万の自分の言葉を暗記してくれる者より、
僅かの言葉を利用して至った者を輩出する事が本質だったはずだ。


中部経典 無畏王子経より

>「世尊よ、寸分違わない、鋭い答えでした。
>このような答えは、前から用意するのですか。
>どこまで用意すれば、こんな答えを出せるのか。」
>
> 「王子よ、本質を悟る者は、細部が分かる。
>すべてを用意しなくとも、真実を悟れば良い。
> 真実から辿れない、現実など無いと知りなさい。」


私は私に足りないその何かわからないものを何とかしたかった、
だから膨大も無い釈迦の経典の中の極々一部だけしか利用しなかった。

あえて絞り合いに絞って、そうしたのだが、私にとってはそれで充分だった。

それでも、それがあると無いでは全く違っていた。

おかげでラピ。さんのように横道にそれることなく何倍も短期間で成就に至れた。

それよりも、100万の経典の文句を勉強して一つの解脱も得られない者の方が、
可哀そうだな。

これは自慢にはならない。

私は極々僅かな釈迦の言葉を手掛かりに至れた。

至った私にラピ。さんに、
釈迦の残した膨大も無い経典の中の極々一部で充分用が足りた。

1を聞けば10を悟ると言う。

100万を聞いても未だ1も悟れない者もいる。

才能のある無しは仕方がないとして、
至れない者にとって100万の経典文字の教えより1つの生の教えという事だ、これは真実だ。

もしラピ。さんが100万の経典を手に入れたとしても至れなかったかもしれない、
しかし、1つの生の教えは100万の経典を超える。

私を1つの生の教えとして利用できる者は、ラピ。さん同様に幸運と言えるのかもしれない。

正直経典だけではたとえ100万の経典を並べたとしても難しいだろうな。

私には武器として悪魔を見抜ける眼があったんだ。

342 TK :2014/02/11(火) 14:07:43
まず、釈迦は最高を表す言葉として、
「無」と言う言葉は使わないだろうと思います。

「非」あるいは「滅」です。


無我 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

>無我(むが、パーリ:anattā、サンスクリット:अनात्मन् anātman)は、
>仏教用語で、「我」に対する否定を表し、
>文字通りには「我ならざるもの」という意味である。
>「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる。
>一方で、あらゆるものを非我(我ではない)とすると、
>どこにも我を見出すことはなく、
>必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので、
>非我と無我は同じことを指しており、
>非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる。


Wikipediaもかなりでたらめな説明です。

「非我」と「無我」と言う言葉がありますが、
これをごちゃ混ぜに同じ言葉として使い回している人がいます。

分かりもしないのに、無知なら無知ででたらめ言うより、
私知識があまり無いものでわかりませんの方が良いですね。

よくラピ。さんが我が有りませんと言いますが、改めて言えばこれが「無我」、
しかし、実はこれは釈迦の最高の境地ニルヴァーナではありません。

釈迦の最高の境地を表す言葉は「非我」なのです。

あるいは、「滅」でもいい。

どちらも、直接それを表す言葉では無く、
そこへのアプローチも含む間接的にそれを表す言葉だという事です。

非我と言うのは、
「ニルヴァーナは我ならざるもの」でも「ニルヴァーナは我ではない」でもありません。

これはでたらめ解釈です、嘘八百の大外れです。

Wikipediaというものはこのようなでたらめはっちょう、
結局信頼の出来ないもので、
この情報は参考以上に値するものにはなりえない価値のものです。

非我というのはニルヴァーナそのものを表す言葉ではありません。

確認できる対象を全て我に非ずと否定して行って、
最後は言葉に表すことが出来ない、これが真実です。


ダンマパダ279
>「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、
>ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


確かにそれは理論的には我が無い状態と言えそうですが、言えません。

我が無いと表現した段階でそれは、
我が無い「状態がある」と言っている事と同じになりますから。

それは、我で有るとも非ずともいかなる言葉に表す事も出来ない、これが真実です。

それは我に非ずでしたとか、それは無我でしたとか、
でたらめをさも正しい事のようにしてばら撒くのはやめてほしいですね。


ダンマパダ218
>ことばで説き得ないもの(ニルヴァーナ)に達しようとする志を起し、
>意(オモイ)はみたされ、諸の愛欲に心の礙げられることのない人は、
>(流れを上る者)とよばれる。


「ことばで説き得ないもの」これは実に良い表現、
だから資格が無い人が話したらウソがばら撒かれることになる、
さしずめWikipediaはその典型的な見本という事です。

(続きます)

343 TK :2014/02/11(火) 14:08:18
(続きです)

昔はある資格以上のものが結集を執り行った、当たり前ですね。

究極とは分からないものなのです。

分からないものに対して我が有るとか無いとか非ずとか、どちらも外れです、
分からないものはただ分からない、それだけです。

全ては我ならざるものである、すなわちそれは無我である。 ×

全ては我ならざるものである、その先は分かりません。 〇

これは一見するととてもナンセンスな表現なのですが、なぜなら、
分からないものが釈迦の究極の発見なのかと、これが無限ループの一つですから、
ここに引っかかると釈迦のように七転八倒することになります。

ボディー達磨は無限ループを交わす手段で「不立文字」と言う言い回しを使いましたね。

不立文字 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%AB%8B%E6%96%87%E5%AD%97

>不立文字(ふりゅうもんじ)は、禅宗の教義を表す言葉で、
>文字や言葉による教義の伝達のほかに、
>体験によって伝えるものこそ真髄であるという意味。


何かを見つけようと言うベクトルではいつまでたっても辿り着くことが出来ません。

ですから、
探究者は見つけようとするベクトルを捨てなければ決して辿り着く事はありません。

なお、「非我」と言う言葉が存在する以上ここから明らかになる事は、
恐らく釈迦は最初にニルヴァーナを発見した時は「我」があったという事です。

右往左往していたのですから当たり前ですが、
「我」の推進力を利用して涅槃入りしたと思われます。

そこから、「非我」と言う言葉が生まれたはずです。

例えば、ラピ。さんならアプローチの方法として「我」と言う言葉は使えませんから、
この場合はあえて言うなら「非在」と言う言葉になります。

釈迦はさらに、
ニルヴァーナを発見した後に滅想受定がそれよりも劣るものとして釈迦に発見された。

さらにそれよりも劣るものとして「無我」(常住)におちついた。

順序から行けばこのようになるものと思われますね。

これは、実は私のプロセスと同じですから、私も釈迦をテキストとした関係で、
意図せずにこのプロセスを辿りました。

ですから、「非」あるいは「滅」と「無」は別物ですから、
混同して使い回す事の無いようにして下さい。

例えばニルヴァーナとは異なりますが、滅想、非想、無想の順ですね。

無は表現した段階で「無い状態がある」と表現している言葉ですから、
釈迦の世界では最高より下の次元を表す言葉として使われていると思います。

つまり、最高の境地は状態を表す言葉で表す事は出来ない、
同時に至るまでのプロセスも表すような間接的表現として「非」あるいは「滅」と言う言葉で表されるのが適切です。

波梨経
>「スナカッタよ、無想有情の創造説がある。
> 彼らは、無想定を修めて、無想に陥っている。
> 無に囚われるため、徐々に、徳が尽きてしまう。」
>
> 「徳が尽きた者は、無想天から落ちて行き、
> 天より苦しみが多い、人間界に生まれ変わる。
> 彼らは、苦しみを覚え、出家して無を思い出す。」


間違った解釈をさも本当ですみたいにやられている人は、
多くの人たちからニルヴァーナへのアプローチを閉ざしてしまう行為に繋がります。

話は変わりますが、私も久々に風邪をひいたようです。

土曜日、頭痛、喉痛し、日曜日 症状同じく 
月曜日 頭痛軽減し午前中で頭痛終了、午後カラオケしてたら何と声が出ない。
火曜日完璧声出ない、鼻が詰まる、痰が出る。

私は子供の頃から、病気の時も普通に動く習慣があるのです。

たまに風邪も良いですね、メンタルのメンテに活用できる、
体は病気になっても心は病気にはならないってね。

表面に苦痛を表す事無く人にそれを悟られることなくです。

しかし、声が出ないのは仕方ないですね。

風邪は楽しい。

習慣とは恐ろしいもの、染みついている。

344 ラピ。 :2014/02/11(火) 22:13:28
みなさま、こんばんは!

TK師、
よくなりますように。

声は出るようになりましたか?

はい、そうですよね。
やはり、至る前の習慣って至っても残っていますよね。


私も今の自分の状態をうまく言葉では表せず、
言葉になりません。
言葉に表そうとするならやはり「否定形」を使えば
なんとなく表せると思います。

「私がありません」
と言う「私」も消滅している、という感じです。


>確認できる対象を全て我に非ずと否定して行って、
>最後は言葉に表すことが出来ない、これが真実です。

はい。
言葉に表そうと思っても表せません。
何の言葉でも表せない。

いったい、なんなんだ、これは?

という状態です。


師匠が紹介されていたWikipediaにこう書かれていますね。

>「無我」は我執の否定を意味し、そのように、あらゆるものが我ではないと観察し、
>これを智慧(prajNa)によって理解すると、清浄(しょうじょう)で平安な涅槃の理想に到達できるとする。

この文、適切に表せていませんね。
「あらゆるものが我ではない」と観察できるということは
あらゆるものが存在していますから
「あらゆるものが我ではない」と観察する時点で
違いますね。

あと、智慧によって理解することはできません。
そもそも理解することではないからです。

この文はもっともらしく書かれていますが
これらを鵜呑みにしてしまうとちょっと違う方向に行ってしまいそうですね。



>例えば、ラピ。さんならアプローチの方法として「我」と言う言葉は使えませんから、
>この場合はあえて言うなら「非在」と言う言葉になります。

はい。「非在」ですね。

師匠、いつもありがとうございます!
@(*・ω・*)ポッ

345 TK :2014/04/26(土) 09:07:47 ID:drNPBZVQ0
私はラピ。さんに出会ってしばらくは精神世界の人的だったと思う。

しかし、その前は精神世界の人的ではなかったし今もまたそのようになりつつある。

メンタルを出来上がらせたおかげで、
人と比べて劣等感を感じなければならないレベルの能力ではなくなった。

大まかに言えば「瞬間」というものを確実にものに出来たと言う点だ。

瞬間的な対応、瞬間的な反応、瞬間的な察し、あるがままの情報。

メンタルを改造した、そこから私の人生はまた新たなスタートを切っている。

もちろん精神世界などという、そのような辛気臭そうな気持ち悪そうなものは、
はいさようならのカラッとした人生だ。

釈迦もイエスもそのようなものはもう一切私には用が無い。

そのようなものを必要とした私にとっては幼児期に当たるような時代も過去にはあった。

精神世界など、
そんなつまらないものにいつまでもしがみついているちんけでバカな者達。

悟りに至るための実践は、カルマの先取りをする仕組みには出来ているが、
それでも悟ったからと言っても果たさなければならないカルマは残る。

阿羅漢となったアングリマーラやモッガラーナもカルマを背負っていたし、
私の想起できた前世と今の環境を照らしてみてもそれは分かる。


目連 - Wikipediaより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E9%80%A3

>舎利弗は「世尊第一の神通の弟子であるのに、
>なぜ神通を以って避けられずや」と問うと、
>「我が宿業極めて重く、我れ神の字に於いて尚憶ふと能わず、
>況(いわん)や通を発せんをや、我れ極めて疼痛を患う。
>来たって汝に辞して般涅槃を取る」といった。


悟って物事を処理できる能力は上がっても、
それがストレートに自らの境遇に反映してこない部分がある、
まるで環境の方が必死に変わるまいと頑張って抵抗しているようだ、
だからこそ人生は面白い。

まるでアングリマーラのようだ。

その部分は、メンタルのメンテ素材としてフィードバックし利用できるわけだが、
かと言って以前に味わった種類の苦悩がそこで発生することは無い。

そのような苦悩を発生する原理の生き方はしていないからだ。


央掘摩経より
>アングリマーラは、独り静かに精進をして、
> 梵行の究極の目的である、阿羅漢に到達した。
> 彼は、もはや、生まれ変わらないことを知った。
>
>ある日のこと、彼が、托鉢に回っていると、
> 昔の彼を知る人が、彼に石を投げ付けて来た。
> 彼の頭は血が流れて、彼の衣は裂けてしまった。
>
>それを見た、仏陀は、彼に、このように言った。
>
> 「アングリマーラよ、忍辱せよ、忍耐せよ。
> 以前、汝が為した罪が、今、返ったのである。
> 地獄で味わう苦悩を、現世で味わった過ぎない。」


さて、私は精神世界的な内容からは再び離脱する。

人生というものは自らの能力で切り開いていくと言うのが私の理論だ、
精神世界系の辛気臭い話はうざくて、そういう連中をかまうのも真っ平ごめんだ。

世の中の落ちこぼれの者たちはどうぞどうぞそのまま落ちこぼれていて下さい、
嫌になるまで、どうぞご自由に、
落ちこぼれる事の自由の権利はあなたたちに与えられた特権的自由だ。

そもそも精神世界のその「精神」と言う中核が無いこちらにしてみれば、
精神世界?何妄想こいているんだの世界です、
そのような与太話に私がお付き合いするつもりはありません。

落ちこぼれる事の自由を私はあなたたちに認める、
自由の女神がいてよかったですね。

精神世界、気持ち悪い。

一人の人物を輩出できたのは確かだが、
やがてそのうち私同様に変わっていくのかもしれない。

346 ラピ。 :2014/04/26(土) 11:56:55 ID:DaF3LKxc0
みなさまこんにちは!

TK師、書き込みありがとうございます。

おかげさまで私は至ることができ
大変穏やかに過ごしています。

本当にTK師のおかげです。

私は日常、表面上はいろいろな表現をしているように見えるかもしれませんが
何も起こっておりません。

だから苦悩しようがない。

いわゆる苦悩のシステムが消滅した、ということです。


これからのラピ。ですが はい、変わっていくでしょう。

変わるものがなく、変わっていくように見えるだけですが。

だから、これからラピ。が表現していく時に
それまでのラピ。を知っている方は違和感を感じるかもしれませんね。


思い出すのですが
私が初めて師にメールをしたとき
精神世界の人間である私への返事は大変そっけなかったです。(笑)

懐かしいです。

結局、自分が経験したから言うのですが
精神世界論にいては至れません。

精神世界の話なんて
まったく邪魔になるだけ。

頭でっかちでわかったふりをして生きていくのも自由ですが
それどまりになってしまう。

頭でっかちで満足してその気になっている人をたくさん見かけます。
(それで幸せだというのなら、それも自由ですが)

そうなるくらいなら精神世界論は必要ないと私もそう感じております。

あきらめなければ道は必ず開けます。

私がそうであったように。

347 TK :2014/04/27(日) 09:52:38 ID:drNPBZVQ0
大企業のような大組織になればなるほどに、
どこまで行っても上が居て下が居ての世界だ。

特定の人物からほとんど誤解のような理由から、
一方的に敵外視されそれをあかるさまな態度に現わされ、
それが業務の支障の一つになっているような事もある。

自分が誰しもに誇れるレベルの能力差を身に付けたところで、
それでも目に見える評価をしない上の立場の者の存在。

突然自分の前に業務遂行の障害となって立ちはだかる人物が出現したりもする。

アングリマーラやモッガラーナのように、悟っても、人から敵意の目を向けられる、
これが自らの宿したカルマというものだ。

確かにやられるだけの事を過去に自分もやったのだから、
その意味では甘んじてやりすごすべきものだ。

それでもスローペースではあるが環境は確実に変わっているし、
変わらざる得ない状況と言えるものだろう。

敵意を向けるものに敵意で返さない、
立ちはだかる障害と思われるものも甘んじてやりすごす、
時に孤立に追いやられたりもしたがその時は独り居を楽しむ。

それでも、悟っていれば堂々として居れるし、
人に誇れる能力差もありエネルギーにも満ちている。

私は悟っていなかったらこのような環境で、
カルマと苦悩の堂々巡りの泥沼のような日々を繰り返していたことだろう。

やはり、悟りは快適だ。

実は、これらは悟る前の実践段階で現れる種類の障害では無い、
これは悟った後に現れる種類の障害だ。

だからこそ、ここから先は身に付けた能力差で臨み解決していく必要がある。

まるでドラマの主人公のようだ。

楽しいものだ。

根底にあるものは「ゆとり」だ。

傷害は大きければ大きいほど、活躍の舞台もより大きくなる。

大いに結構、腕の見せ所というものだ。

だからこそ人生は面白いゲームだ。

348 ラピ。 :2014/04/27(日) 22:36:41 ID:KL1N1kb.0
私も至った後、とても快適に過ごしております。

悟る前は何かが私を邪魔しているようで
何をしてもそれを感じており
何をするのにもそれに打ち勝つ意志が必要だった。

言い方を変えれば、がんばることが必要だった。
「嫌だなぁ」と言う声を無視し続ける必要があった。
行動の前に「意志」が必要だった。

しかしそれが消滅したおかげで
邪魔するものがなくなりすごく楽です。

いわゆる「ありのまま」という状態です。

ただし、このありのまま
「私はありのままだ」という意味ではありません。

「私はありのままだ」と言うそれが消滅した状態です。


悟る前までは私は「私らしさ」というこだわりがあまりにも強かったため
あるパターンにはまっていました。

我(=エゴ)が強かったため(ほんと、ほんと強かったです)
なんでも自分の中で意志を通しすぎるところがありました。
(でも、そのおかげで実践をとことんできたのですが)

そしてそれによる出来事の影響下にばっちりおりました。

でもその頃はそれが当たり前だと思っていて、なにも見えておりませんでした。
はい、見えていませんでした。

しかし今は「見るものがなくて 見えてしまう」ので
今までのことがどういうことだったのかわかってしまうのです。

悟ってもそれまでのパターンが残っているので
悟る前のパターンで出来事が起こり
それによってそのパターンがどういうものなのかが見えてしまいます。

空っぽですからパターンがありのままに見えてしまうんですね。
からくりが見えてしまうのです。

カルマの名残があることはある意味、とてもありがたいことです。

名残がないならないで、それでもいいのですけどね。
どっちにしろ問題はありません。

こんなふうに過ごせるなんて 激流突入時には想像もできなかった。
(ちなみに正しく言えば想像する暇もなかったのですが)

なんだかおもしろいですね。

349 魔王 :2014/05/29(木) 08:24:57 ID:001mTVu60
>では、悟りとはどんなものかというと、
簡単に言うと今述べたようなことがその人にとってどうでもよくなってしまうということです。

答えを見つけたわけじゃない、疑問そのものがどうでもよくなってしまった。



TKはなかなかの癖があるタイプとみた。

350 魔王 :2014/05/29(木) 08:26:27 ID:001mTVu60
>根底にあるものは「ゆとり」だ。
傷害は大きければ大きいほど、活躍の舞台もより大きくなる。
大いに結構、腕の見せ所というものだ。
だからこそ人生は面白いゲームだ。



神の遊戯的風貌のある人だなあ。

351 :2014/06/01(日) 15:51:45 ID:2OB2rbPY0
悟りは、言葉であらわせない。
「悟り」という言葉ひとつとっても、もう真実から離れてしまっている。
では、われわれは悟れないかというとそうではない。
言葉を発しない、言葉の元となる想念さえもない沈黙。
それです。

352 嵐山 :2014/06/01(日) 17:37:26 ID:njdwPOGQ0
いえいえ 悟りとは 梵我一如 である

353 ラピ。 :2014/06/01(日) 22:35:54 ID:o9R.myHw0
某さん

書き込みありがとうございます。

なるほどです。

>「悟り」という言葉ひとつとっても、もう真実から離れてしまっている。

そうですね。そしてその真実といわれるものすらない状態がさとりです。

>言葉を発しない、言葉の元となる想念さえもない沈黙。

のそのさらなるものがない状態がさとりです。

354 ラピ。 :2014/06/01(日) 22:37:27 ID:o9R.myHw0
嵐山さん

魔王さんのお友達ですか?

「梵我一如」って言葉、
私にとっては聞きなれない言葉です。

355 嵐山 :2014/06/02(月) 00:22:09 ID:njdwPOGQ0
ブラフマン とか アートマンとか 聞いた事ないですか?

356 ラピ。 :2014/06/02(月) 07:45:40 ID:srMrMveM0
嵐山さん

梵我一如、ブラフマン、アートマン
これらの言葉、検索してしまうレベルです。

「梵我一如」検索してもよくわからなかった、、、、。

もともと言葉にできないことですから
そういう言葉を知らなくても今に至れたのかな。

357 嵐山 :2014/06/02(月) 08:22:46 ID:njdwPOGQ0
ヒンドゥ的考え方で インドの三大天の一人 ブラフマー って神様がおります

この神様宇宙を想像した神様らしいのですが この神さまと同じものが

あらゆる物体に宿っている それがアートマンです

ブラフマー=アートマン これがヒンドゥの悟りらしいのですが

ちなみに ブラフマーは仏教の梵天様の事です

仏教でいう悟りは違いますのであしからず

358 嵐山 :2014/06/02(月) 08:33:31 ID:njdwPOGQ0
悟りについて で 書き込めばよかったですね
あちらに 移動します

359 ラピ。 :2014/06/02(月) 12:40:20 ID:TYoEs5Ls0
嵐山さん

>>357

わかりやすく教えていただきありがとうございます。

なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。

>>358

ありがとございます。
そちらでもよろしくです!
@(*・ω・*)ポッ

360 riri :2014/06/02(月) 19:55:53 ID:33MxHT3s0
何度か、過去に質問させていただいた、ごくごく一般人です。

>梵我一如
私もこの言葉は初めて聞いたのですが、検索してみるととても分かりやすいなと感じました。
私的には、梵=素粒子みたいな感じなのかもしれないなと・・

>真実といわれるものすらない状態。言葉を発しない、言葉の元となる想念さえも
>ない沈黙のそのさらなるものがない状態。
とありましたが、これを読んで私のイメージに浮かんだのは死人でした・・
少なくとも、この現実社会で生きているリアルな人間に繋がるイメージは持てませんでした

思うのですが、私達一般人にとって、言葉で伝えるということはとても大切なことだと思います。
それがあるから人類は古代から現在まで発展することができたのではないでしょうか。
どう言葉にすればいいか分からないことや理解していない人に対してどうすれば分かりやすく
伝えることができるんだろうといったことは、一般人が一般社会の中で生きていくために避けては
通れないことだと思うんです。

>なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。
ですので、その違うさとりというものを今一度もう少し分かりやすい言葉で表現してみていただけませんか?

361 嵐山 :2014/06/02(月) 20:17:40 ID:njdwPOGQ0
仏教的に言うと「仏性があるか」 と書けばよいのでしょうか?

362 ラピ。 :2014/06/02(月) 21:52:13 ID:fhZcLxbQ0
>>360 riri さん

>何度か、過去に質問させていただいた、ごくごく一般人です。

ようこそいらっしゃいました。
ちなみにごくごく一般人は、さとりなんて興味持ちませんよ。

現実の私の周りにさとりに興味を持つ人はほとんどいません。
普通に生活しています。

>>梵我一如
>私もこの言葉は初めて聞いたのですが、検索してみるととても分かりやすいなと感じました。
>私的には、梵=素粒子みたいな感じなのかもしれないなと・・

>感じなのかもしれないなと・・

そう想像している時点で実は離れてしまっています。

>なるほど、私の言っているさとりとは違うみたいですね。
>ですので、その違うさとりというものを今一度もう少し分かりやすい言葉で表現してみていただけませんか?

riri さんが「わかる」というとき
それは「想像できる」ということです。

梵我一如がわかりやすいとのことですが
それがわかった、というのはriri さんの理解の範囲内でのことです。

でももし、自分の想像以上の世界があるとき
それを想像できたり
わかったりすることができるでしょうか?

想像できる時点で想像内のものになりますので。
想像以上のことは想像できないはずです。

私がriri さんにさとりの定義を伝えてriri さんが納得したのなら
その納得したさとりはもうさとりではありません。

さとりは納得したりわかったりするものではないからです。

私がriri さんにどんなに伝えても
(今までもこの掲示板で何度も、そしてこの最近も伝えているんですが、、、。)
riri さんは勝手に自分で解釈してしまうでしょう。

「わからない」ことがさとりへの道です。
「わかった」といった時点でそうではなくなってしまう。

この答えもたぶん、riri さんは納得しないでしょうね。

riri さんは何を求めているのでしょうか?
悟ることを求めているのですか?
それとも知識として求めているか、興味本位?

riri さんが私の言葉から死人を想像したように
今のriri さんにはさとりの境地はあっていません。

まずは精一杯生きることをお勧めします。
死ぬことではなく生きることです。(これも例えの言葉ですよ)

さとる必要なんてないんです。

まずはしっかりと自分を生きた人が
そうせざる得ない状態になって初めて
さとりの道が開かれます。

わたしがそうであったように。

363 ラピ。 :2014/06/02(月) 21:56:30 ID:fhZcLxbQ0
>>361

嵐山さん

私は仏教はちょっとわかります。

TK師にいろいろ教えていただいたから。

「激流」って言葉知っていますか?
(私はTK師から聞くまで知らなかった、、、)
まさしく私はその言葉のとおり
激流を渡って彼岸にわたりました。

この「激流を渡って彼岸にわたる」という言葉
釈迦はうまく表現してるなぁなんて思います。

>「仏性があるか」

なんもないんです。
ほんとうになんも。

364 riri :2014/06/02(月) 22:01:41 ID:33MxHT3s0
ラピさん、ご回答ありがとうございました。

365 riri :2014/06/02(月) 22:50:58 ID:33MxHT3s0
質問させてください。

ラピさんがいうさとりの境地というものは、それを理解したり同じ境地に至った人間が
増えていくことによって、より良い社会に発展していくといったものではないとお考えですか?

たまたまか意図的にか分かりませんが、ごく一部の人間にしか至れない、理解できないもの
のままでいいのですか?

変な例えかもしれませんが、昔の人は地球が丸かったとか、なぜ雨が降るのかとかなどなど
現代では当たり前のことでも、科学が発展するまでは、理解も想像もできなかったことだと
思います。そういう類いのものではないのかどうかが知りたいところです。

366 ラピ。 :2014/06/03(火) 00:09:53 ID:ZDDtW07.0
ririさん

ご質問ありがとございます。
@(*・ω・*)ポッ

>ラピさんがいうさとりの境地というものは、それを理解したり同じ境地に至った人間が
>増えていくことによって、より良い社会に発展していくといったものではないとお考えですか?

さとれば苦悩から解放されます。
とても楽に生きていけます。
そういう人が増える、ということですね。

>たまたまか意図的にか分かりませんが、ごく一部の人間にしか至れない、理解できないもの
のままでいいのですか?

まず、さとりは理解できないものです。
たださとってしまえばそれがどんな状態かわかります。

だからさとればいい。

ではどうしたらさとれるか。

ここです。

さとりの道は決して楽なものではありません。

釈迦の言う「激流」がさとる前に必要なのは私も経験しています。

激流とは言葉のとおり激流で
一瞬でも気を抜いたら流されてしまう。


>変な例えかもしれませんが、昔の人は地球が丸かったとか、なぜ雨が降るのかとかなどなど
>現代では当たり前のことでも、科学が発展するまでは、理解も想像もできなかったことだと
>思います。そういう類いのものではないのかどうかが知りたいところです。

誰でも簡単に普通にさとれる時がくるか?ということですかね。

それはないでしょうね。

さとりそのものが簡単ではないからです。

さとりはどんなことも極めて、さらにそれを超えることとも言えるかもしれません。
なんでも極めるためには努力が必要ですよね。

そしてその努力すらも越えることです。

さとりが何かによってもたらされることはありません。

「もたらされる」ということ自体が
さとりから離れてしまっているからです。

だから「自分」が実践するしかないです、どんな時も。

367 嵐山 :2014/06/03(火) 12:04:34 ID:njdwPOGQ0
ラピさん 彼岸などに渡れませんよ 激流など妄想です
仏がなければ仏教ではありません

368 ラピ。 :2014/06/03(火) 12:35:12 ID:4w9Dm3860
>>367 嵐山さん

彼岸も激流も例えの言葉であり、
もちろん彼岸なんてありません。

しかし激流は別の表現ができます。

私にとっては「葛藤」というものでした。

私が決めたこと実践するに当たって
その実践を「したくないな」と思うことがあったとき
その「したくない」思いも無視して実践する。

ここでかなり葛藤が生まれます。

「したくないよ〜」と言う自分に
「いや、やれ!」と命令して実践し続けるんです。

嫌がる自分を無視して実践し続けたら
なんと実践そのものが消えてしまいました。

嫌になるもの、そのものが消滅してしまったのでした。

なんじゃこりゃ?です。

>仏がなければ仏教ではありません

そうなんですね。
嵐山さんの言う仏ってなんですか?

369 嵐山 :2014/06/03(火) 19:15:04 ID:njdwPOGQ0
涅槃を彼岸と取り違えてないでしょうか?
ラピ様の中では 色即是色なのでしょう 色というのは物質世界の事なのです
物質世界 六識では認識出来ない事もございます それが理解できるようになりましたら
仏様のお話をしましょう

370 ラピ。 :2014/06/03(火) 19:16:27 ID:4w9Dm3860
>>273 あやふやさん

>低俗高尚さまざまに心に起こる願望を
>行動に移しあらわし続ける生き方というのは
>悟りに何か役立ちますか?

あっちこっちをさまよって思いのままに行動するよりは
何か目標などを持ったほうがいいと思います。

そのあやふやさんの生き方は
スピリチュアル系から得たものですか?


>最近は自分が何を求めているのか全然わからないが
>ちょっと病気をしちゃったので病気に対処して動いてるだけのことが多い
>最近ようやく体を動かしやすくなってきたので今日は数時間歩けたのでとてもうれしい

少しずつ、よくなってきてよかったですね。

371 ラピ。 :2014/06/03(火) 19:22:06 ID:4w9Dm3860
>>嵐山さん

私はそういう話はわかりません。

ちなみに「嵐山さんの言う仏ってなんですか?」という私の言葉は
私にそれを教えてほしい、という意味ではないんです。

372 ラピ。 :2014/06/03(火) 19:53:42 ID:4w9Dm3860
>>369 嵐山さん

言葉が足りませんでした。

私がわからないところは
>ラピ様の中では 色即是色なのでしょう 色というのは物質世界の事なのです
です。

そうなのかな。

彼岸と涅槃の違いはわかります。

373 あやふや :2014/07/01(火) 06:35:12 ID:ZDoFNhv60
このスレに書き込んどいて忘れていました
すいません
>>370
> >>273 あやふやさん
> あっちこっちをさまよって思いのままに行動するよりは
> 何か目標などを持ったほうがいいと思います。

そのとおりのようですね
結構自分にがっかりしました
>
> そのあやふやさんの生き方は
> スピリチュアル系から得たものですか?

少しこのスレをよんだところ
スピリチュアル系からというか
自分が現実でしたいことを精神的なものと
混ぜごぜにしていたかなと思います

> 少しずつ、よくなってきてよかったですね。
ありがとう
病気のおかげで何もかも変わってしまったようです
結構ありがたいです


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