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TK師との会話
106
:
TK
:2013/10/14(月) 18:32:26
(続きます)
「ワクワク」は私が見る限り低次元アストラルで、
釈迦やイエスの教えのレベルと比べれば、それより遥かに下の次元の内容です。
物事には順番と言うものがあって、
この「ワクワク」と言う低次元の段階を精一杯やりもしない者は、
その先には進む事はできません。
その意味で「ワクワク」と言う低次元の段階の実践は必要な実践という事になります。
ここだけはスピ系は当たりだったと思います。
自分の親から与えられた「エゴ」のコマを充分に利用して「理想的」な生き方をしてみるという事です。
釈迦やイエスの教えは、「ワクワク」の実践を終了した段階の者のための教えです。
もちろん当人は釈迦やイエスの教えの実践に入るまで、
自分は親とは正反対だと思い込んではいるのですが。
ワクワクの次の段階に進んだ者の実践内容を記します。
マタイの福音書 15章4
>神は『あなたの父と母を敬え』、
>また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。
反発する事で同じエゴを収集して来たのですから、
「従順」にする事によってエゴが解けていくのです。
エゴの中にいる人にはこの理論分かりませんね。
この実践をしていると面白いように、
自分の反発は親の特性とそっくり同じであったことをまざまざと思い知らされます。
この実践では親に神をオーバーラップさせて、敬い従順を実践する形となります。
親に対して馴れ合いでは無く、礼儀を重んじた他人行儀の接し方となります。
自らの中のエゴを落す手段は、
自分の外の人のエゴを利用するしか手が無いと言う原理があります。
即ち、自分にエゴをふるってくれる人が居なかったら、
自分の中のエゴは落とす事は出来ません。
自分に対してエゴをふるってくれるその振るわれたエゴに対抗せず、
従順に接する事によって、エゴは落ちるのです。
これはすごく科学的な理論です。
「従順」と言う行為そのものが、
「対抗」があって初めて成立する相対の原理でエゴを減らす作用の善玉エゴですから。
これは、本当に凄い実践でしたね、親からも気持ち悪がられるし、
反対にやめろと言われるし、
それでも実践は最優先なのでこの場合は実践を優先していいのです。
「従順」の実践中であったとしても、方向性のぶつかり合った選択肢の場合は、
優先順位を付けた選択と言う手段が許されます。
実践者を続けたければ実践は命に代えても最優先事項です。
親を神のように敬い他人行儀に礼節をもって従順にするたびに、
親のこの性格が自分の中にもあった、親のあの性格が自分の中にもあったと、
次々と親から収集した自分の性格の客体化が自らの中で起きてきます。
間違ってもこの実践の際は、駄目親と言う判断は許されません。
どんな親の行為に対しても神として敬い従順です。
実践とは「激流」なので、当然危険も付きまといますし、
アセンションを志す者はそれを自己責任でやってもらうしかありません。
いやなら、アセンションはあきらめる事です。
このような奥義の数々を、気安くさらしていいものかとも思うのですが。
この先を、どうしてもという者は、メールという事になりますが、しかし、
それほどの志の者がいるとも思えませんし。
危険な部分も無いような行法など、
真実の行法とは言えないしそれをあえて仰々しく「激流」などと呼びはしません。
聖書というものがほとんどどこの書店でも売られていますが、
あれを真実に解釈できたなら、
あのような危険な本を良くどこの書店でも置きますねの話しになると思います。
つまり、いかに真実は何も伝わっていないという事を指します。
至った者は至れるような読み方をしているわけですが、
至れない者は至れるはずの無いような読み方をしています。
本質的にあの聖書に記載されている実践法をやれば誰でも至れるはずなんですが、
ただし「激流」です。
イエスは磔にされましたし、踏み絵を踏めなくて拷問にあった者も過去に居たし、
この「激流」と言う言葉は生易しいものでは無いと言いたいのです。
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