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TK師との会話
261
:
TK
:2014/01/05(日) 12:02:12
wai keiさんと以前話をしていた頃は、
私は私自身を途上の者と表現しておりました。
この表現は結構好きだったのですが、
最近自らの誤認によるエセ覚者とその一派のサイトを訪れた際、
この表現にケチを付けられましてね。
至っているのに、
途上の者とわけの分から無い頓珍漢な矛盾したことを言ってるなみたいな、
文句を言われたのです。
それでここでは、
此の岸から激流を渡って彼岸に至った者を略して「至った者」と言う表現になっています。
悟った者と言う表現も、私やラピ。さんの段階なら誤表現ではありません。
途上の者と言う表現を使っていたのは、
実は今私が確実に至っていると表現できる所のまだ先があります。
私はその所までたどり着けた経験は持っていますが、まだ確実なものと言えません。
それが以前wai keiさんにお話しした「0」の領域です。
しかし、ここまで来て対話を交わした者の中で、
誰一人私の足元にも及ばないものばかりの現実に照らしたら、
この前の自らの誤認によるエセ覚者に文句を言われた通り、
「至った者」と言う表現の方が混乱が起きなくていいと思いました。
なぜなら、私が途上と称しいるその先の段階の話など、ラピ。さん以外は誰一人、
一切必要な者などいないのですから。
ラピ。さん自身はこのことは話をしてありますから。
誤認のエセが「至った者」で本物の私が「途上の者」と言う表現と言うのも、
以前は内容によるガチンコ勝負を実験的にやっていた部分はあるのですが、
今は誤認のエセ本人はともかくとして、
それ以外の人には紛らわしい表現だろうと思いました。
必要な者がいて初めてできる話も、必要な者がいなければ用がありません。
このような不必要な先まで話をすると、
また酔っ払いのゾンビー人間が多数出現するだけです。
私はこの者たちが出現しても一切無視(無記)としますから。
私は気のふれた者たちを相手にするほど、物好きではありません。
ちなみに、仏典で言う彼岸を聖書では神の国と言いますが、
新約聖書ではここに至るまでの方法しか載っていませんが、
釈迦の仏典では私が述べるその先をターゲットとした話になっています。
これは決して聖書の教えが劣っているとかというものでは無く、
ここで前にも話しましたが、イエスの伝道期間の短さに起因すると思います。
恐らくイエスの活動期間は3年未満、
そうすればおのずと多くの者に必要である部分に話のターゲットは絞られるわけです。
スッタニパータ725
>かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。
>かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。
解脱も色々な分類法があるようなのですが、おおまかに二つあるのです。
これは、「個の存在の解脱」と「マインドの解脱」と表現を変えても良い。
激流の彼岸とは「マインドの解脱」で成就できるのです。
(続きます)
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