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TK師との会話
231
:
ゆうこ
:2013/12/28(土) 19:56:37
皆さまこんばんわ(*^_^*)
楓さんのように私も(聖書と仏典以外の)書籍を捨て、
神棚も片づけて自分を信じて歩み始めておりますm(__)m
職業柄、繁忙期に突入しており、年末年始ノンストップですが
風邪ひとつひかず、心身ともに充実している昨今です。
らぴさんからのアドバイスで
「人を裁かず」なんて甘いこと言ってて仕事ができるか?という問いも
最初は戸惑いがありましたが
全体の向上のために、という気持ちで取り組んでいます。
そこには、まだ感情が絡んでいて
本当に全体の為か、自分の気が済まないから裁いているのか
見極めに注意を払いつつですが・・。
>この段階の実践では「大いに裁いて結構、どんどんと自分の理想に照らして裁きなさい」
>というものなのです。
>スピ系で「感謝して受け入れて」と言う内容を聞きますが、
>この段階では「不快」こそ理想実現のための行動原理なので
>「不快な事に感謝などする必要はなく」それを解決するぺく自分の足で動くという事なのです。
上記の言葉は
この掲示板で最初に歩みかけた実践の考えとは反対のことなので
確かに戸惑いもありましたが
らぴさんからもTK師からも
私の段階に対するアドバイスの修正を頂いたので整理して進路変更しました。
現在は、毎日一緒の先輩が『結果主義』の人で精神世界に無縁のため
問題の解決法のよい勉強ができています。
おそらく、以前の『ごちゃ混ぜ』の目だったら
つい見えない世界に照らしてしまい、
この先輩すらも、心のどこかで過小評価のままだったと思います。
今は、自分の可動域と行動の結果が全てなので
忘れていた特技まで持ち出して問題解決(=営業結果)に取り組めており、
状況としては、TK師の書かれている
>自分の足で踏み出したらとても素晴らしい世界が私の前に広がりました。
に近い心境です。
そこで、今、ふと質問が湧いたので書き込ませて頂いております。
「このまま現実主義でベストを尽くしていく日々を送っても
いずれ壁にぶちあたる。
そこで自分の力ではどうにもならなくなった時に
聖典などを開くのが
タイミングとして適切」
ということでしょうか?
これまでも多くの挫折や失敗のたびに
聖書を含めたいろんな本に答えを求めてきましたが
「同じ聖書(聖典)でも、他の情報と混ぜずに実践すること」が大きな違いを生む、
ということなのでしょうか?
実は、この掲示板でブッダの言葉を初めて知って感動したため、
今でもつい開いてしまって
「自分の善は、この戒めを原型としているから」と言い訳しています。
実際、仕事や家事での集中に役だってもいます。
この状態は、OKでしょうか?
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