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TK師との会話
49
:
TK
:2013/09/16(月) 18:10:49
(続きです)
「神はいずこに」バーナーデット・ロバーツ
>その自己は、見返りを求めずに、絶えず与え続けることができます。それは自己満足のない生活です。
>
>しかし、ひとたび自己を超えたなら、もはや聖なるものはあり得ません。
>
>なぜなら、そこにはもはや与えるものも与える主体も存在しないからです。
>
> 合一生活の成就はめったに起こらないと言われてきました。
>
>しかし、恩寵を信頼する人とって、合一生活は予期されるべき当然の目標であり、
>献身が十分であればかなりすみやかに達成されるものです。
スッタニパータ
>「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。
>もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。
>そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。
なすべきことをなす実践の成就した先の段階として、
なすべきことをなしおえたという段階があるのですから、
なすべきことをなす、いわゆる途上の段階の人は、
素直にまだ至っていないその事実を認めた方が得策であると私は思います。
なすべきことをなす段階の人は、行為の全てが神への奉仕の実践であったとしても、
これが成就出来て、なすべきことをなしおえた段階に進むと、
信仰対象である神が目の前から消えるのですから、
神への奉仕の実践はなすべきことをなしおえた、
すなわち成就なのです、もはや再びこのような神を想定した実践を行う事は出来ません。
これで嘆いたのがマザーテレサだったのでしょうか、釈迦が生きていれば、
嘆かなくてすみましたね。マザーテレサほどの信仰のあつい人なら、
当然にたどり着ける「合一」の境地だったのです。
スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、
>「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
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