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TK師との会話

52TK:2013/09/19(木) 00:23:36
(続きです)

もし私が近くの者にあいつは愚か者だ、と叫んだところで、
実践者でなければどうってことないですよね。

詳しく解説をしておくと、
実は私はその者を愚か者と思わずに愚か者と言葉で言っているだけなのです。

実際は、愚か者と言っているだけで、愚か者だと思っていないのですよ。

お断りしておきますが、愚か者でないとも思っていないのです、さらに言えば、
言葉すらが私のものでは無いのです。

ですので、あの者の態度は実践者としてはおかしいではないか、
このようなピント外れの頓珍漢な事を言わないように。

もし、それを言った者が自称実践者なら、その言葉を発した瞬間に、
その者は私の事を裁いた事となり、私からエセ実践者と呼ばれることになります。

実践者に対する実践者でない者とは、実に気楽でいいものです。

私もこのようになりたくて実践したわけではありませんが、結果として、
実践者に再びなれない身の上に意識変容が起きてしまいましたので、
実践の本質とはそういうものでした。

ですから、私のようになりたくない者は、
釈迦やイエスの教えの実践は即刻やめることです。

もちろん、気分だけ実践者で酔っぱらいたい人は、
巷には多数うようよいる自らの誤認による自称覚者に従えば、
死ぬまで酔っぱらいのままで生きて行くことができます。
(実は死んでからもなのですが。)

それも一つの生き方としてはありなのでは無いでしょうか。

それか、全く実践者じゃありませんをやって生きて行く、
一般的にはそういう人が多いですね。

色々な生き方があるのだと思いますが、
実際に私が認める本当の実践者は私が見かけた中では極めて稀でした。

私は気持ちよく酔わせるような酒はふるまいませんから、
どん底に落とされても構いませんと言う者しか、私を必要とはしないでしょう、
本当の実践とはそのようなものだからです。

そして、釈迦はそれを「激流」と呼んだ、決して「緩流」とは呼ばなかった。

それとも釈迦は激流と呼んだが、緩流で達成できる教えを私は説くなどと言う人が、
釈迦より遥かに優れた人とかいるのでしょうか。(笑)

それはそれでまた、滑稽な話ですね。


スッタニパータ174
>「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、
>よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。

(続きます)


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