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TK師との会話

21TK:2013/08/17(土) 11:09:04
(つづきです)

>善悪というものはない。

これも、以前、達成もしていない者が、酔っぱらって良い気分で、「善悪と言うものはない」と
この言葉を振り回しているのを見たことがあります。

しかし、これは厳密にいうと仏罰レベルの行為です、
釈迦の説いた善悪の相対を利用した実践法を無効にしてしまう、悪魔的な内容です。

ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

達成した後の状態として、同じ聖典の次の「善悪のはからいを捨てて、目ざめている人」の説明なのですが、
エゴに憑りつかれている者から、この達成した後の言葉だけが抜き取られたのです。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。


>信じる必要はない。

これも至った後の人の状態であり、これが至る前のスピ系かぶれらしき方の口から
自分が信じないための言い分けとして振り回せれていたように思います。
ちなみにラピ。さんは、「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」ので至れたのです。
至った後は「信じる」対象が無くなるので、「信じる」と言う行為そのものが無くなります。

参考までに次は聖典の至る前の人向けの実践方法の記述。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」


次は同じ聖典の信仰を激流を渡るための筏(イカダ)に譬えて、激流を渡ったから信仰(筏)を捨て去れと説いているのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


スピ系と思しき至ってもいない此の岸の者が「信じる必要はない」などと口にする事そのものが、
絶対に私は至れませんと言う証明のようなものであり、こちらからすると理論も何もわかっていない
彼らの態度は見るに忍びない。

>努力はしなくてもよい。

「無努力の境地」も、至った後の者の状態です。

スッタニパータ79
>努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。


聖典並び賢者の言葉をでたらめに拾い集めた結果、中には使えるものもあったとしても、
混ざりこんだ不純な部分が結果として、全体を全く何も使い物にならない内容にしてしまっているのです。
特に私が目にしたスピ系と思しき人たちは、私のここで取り上げた汚れた部分を教えとして
振り回す人を多く見たように思います。

このような言葉に振り回され続けた酔っ払いの方々、ご苦労様でした。
いつまでも寄り道して暇人そうに遊んでいないで、次に進んだ方が良いのかもしれませんよ。
真剣に求める人にとっては、この方々の取っている行為は迷惑千万なのです。

今は科学の時代ですから、昔に宗教と言う形で説かれていたものを、
同じ形ではなく「理論」で説かなければならない時代です。
これが言葉どおりの「ニューエイジ」「新しい時代」です。

>私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
>昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。
>
>苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。
>
>私の話しするのもこれだけです。
>
>全然変わってないですよね。
>
>そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。


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