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TK師との会話

226TK:2013/12/28(土) 09:14:12
精神世界系の中ではワクワクの教えが一番的を得た教えであると評価しています。

ただし、
説いている者と聞いている我々の環境との違いをつくづく感ずるものではあるのです。

それ以外は、聞く者の段階とピントの合ってない教えです。

私は、探求の結果光の存在から、精神世界への関心を捨てさせられました。

そこでは確実に一つの教えを与えられましたが、それは、
激流の段階の教えと比較すると、完璧な教えでは無く落ち度のある教えであり、
しかし、その時の私には当然そのような事などわからず、
ただ有難い教えなのだろうと思って信じて歩みを進めました。

それが「理想的な生き方」を拠り所として自分の足で人生を切り開いて生きる生き方です。

それから自分の足で踏み出したらとても素晴らしい世界が私の前に広がりました。

生きていると言うのはなんと素晴らしい事か、このような生き方が広がってきたのです。

なぜ、私がこの時に完璧な激流レベルの教えでは無く、
程度の下の不完全な教えを光の存在から与えられたのでしょうか。

光の存在が、
程度の低い存在でその程度の教えしか私に教えられなかったという事なのでしょうか。

しかし、これは、聖書レベルの教えをこの当時の私程度の精神で実践したら、
完璧な酔っ払いとして一生死ぬまで生きる事になるからなのです。

世間の多くの酔っ払いの者達と自らの誤認による覚者を目にし、
それとは対照的にラピ。さんの成就と、至った本物が稀という事実で、
それはほぼ確実である事が確信できました。

光の存在の導きは正しかったのです。

それは全くもって表現上は聖書のイエスの教えとは正反対の内容となるものです。

聖書のイエスの教えでは「裁いてはならない」ですが、
この段階の実践では「大いに裁いて結構、どんどんと自分の理想に照らして裁きなさい」
というものなのです。

スピ系で「感謝して受け入れて」と言う内容を聞きますが、
この段階では「不快」こそ理想実現のための行動原理なので
「不快な事に感謝などする必要はなく」それを解決するぺく自分の足で動くという事なのです。

このように正反対の教えですが、
実はEO氏という賢者もまず悟りの実践よりも前にサバイバル能力の実践が必要なのだと説いていました。

悟った我々の所では永遠の戦いの放棄の実現なので、
サバイバル能力のような戦闘力は一見まるで逆の内容ですが、
これこそがまずは必要なのであると説いているのです。

理由として、この実践をする事でチャクラの機能が成熟して整うのだと言うことです。

チャクラはともかく、考えてみても人間らしいまともな生き方ですよね。

この実践こそ必要なのです。

EO氏によるとこの過程を飛ばして行法に飛びつくような者においては、
頭がぼけてゆきそれを安心と勘違いし、
その者には何ら知的成熟すらも起こることは無いという事である。

私が酔っ払いと表現する状態と酷似しています。

私に出会ったばかりのラピ。さんもこのような状態でした。

何かおかしなものに憑りつかれて酔っ払っていて
物事に対するまともな照準の合わせられない人のようでした。

ワクワクの実践は「知的」な実践であるのに対して、
激流の実践とは正反対の「バカ」になる実践なのです。

いい気になってやってますが、
スピ系の振り回している実践内容はバカになる要素のものですから、
自らの誤認による覚者にしても、
ドンキホーテとその従者のサンチョ達に譬えるとちょうどぴったりの状況に傍からは見えるのですよ、
本人たちは酔っ払っているからまともだと思い込んでいる、
まさにドンキホーテとその従者のサンチョです。

私はバカになる事の恐怖に打ち勝ちながら、実践に臨んだものですが、しかし、
私は過程を飛ばす事無く踏んでいたので、酔っ払いにはならずに、今に至りました。

EO氏のような私が覚者と認める方は、このように私が言う酔っ払い現象について、
同じように語っているのです。

今も誤認の覚者とその関係の一派が一生懸命に死ぬまで酔っ払いコースで歩んでますが、
その者たちにはこの事実を知る術はありません。

(続きます)


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