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TK師との会話

268TK:2014/01/09(木) 19:43:46
(続きです)

私も実践時には全てが善になるものと思って善行を行っておりましたが、
最終的に善行も悪行も、
そもそも目の前から全ての「対象」が消えたもので何もできなくなりました。

アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。


善行をやって行くはずなのに、善行をやっていたらある時、善悪が消滅して、
すなわち経典にある内容「善悪を捨て去り」の通りになったのです。

私は決して初めからこれが分かっていたわけではありません、
最終的にそのようになって、
初めて善を為し悪を為さない行為の実践で善も悪も何もできなくなることで成就を迎えるものだな、
と言うことが、実現して初めてわかりました。

「為すべき事を為し終える」と言う事の成就です。

為そうと思えば為すことが出来るにもかかわらず、
善も悪も無いとか救いようのないデマの教えに従って、
善行を為さないのとは訳が違うのです。

私とて善行を為せるものなら、まだ、為しますよ、
為したくてももう為せないのです、このようにはっきり断言できなければ、
善も悪も捨て去っての成就、すなわちその人は覚者ではありません。

つまり、私は善行を為す行為は捨てていません、
どこまでもどこまでも善行を為そうとするその方向性で、
最終的に「行為そのものが」消えたのです。

これは、はっきり言いますが知者の解脱です、
理屈でわかった気になって持って行ってもそれは違いますから、
そのような事は絶対にやらないで下さい。

それよりも、至った我々から見たら、
全然至っていない人たちのそれは覚者のフリをしても、
丸裸同然にこちらには丸見えですから、どうか、
覚者のフリをして人々に間違いを教えばら撒くのではなく、
もう一度最初から修行をやり直してください。

特に商売をされている方なら、
背に腹は変えられません等の理由もあるかもしれませんが、
単なる覚者気分を味わいたい、そのようなつまらないエゴを捨てられずに、
自らを汚すことは愚かな事だと思います。

特に私の書込みを見るなりあわてて次々に削除する事で必死に逃げ回った自称覚者と名乗る方などは、
お早めにお気づきになられた方がよろしいかと思います。

はたで見ている分には皆がそろいもそろって妄想の中で遊び泳いでいる姿を目にするのは
ほのぼのとする部分が無いわけではありませんが、
本来激流の実践法に対してほのぼのとか楽しみ半分で接していたら、
その報いは必ず自らに永遠の罰と言う形で帰ってきます。

そのような姿勢や実践精度で接するものでは無いのですから。

まさに、豚に真珠を与えてはならないとイエスが言っていた通りです。


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