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TK師との会話
5
:
TK
:2013/08/10(土) 09:58:33
(前の続きです)
私は釈迦の我々に残した最後の言葉の「怠らず努めなさい」を成就した者です。
努力に努力を重ねて努力し尽したのでもう逆立ちしても努力ができません、努力不要(不能)の者となりました、
そして、ラピ。さんも私の教えを受けてこれを成就しました。
もしかしたら、私たちのこの「私達は逆立ちしても努力などしません」の成就した後の表現を、
至る前の人が勝手に「努力」するのは駄目なんです不要ですと取った人もいるのかもしれません。
ですが、釈迦が最後に我々に残した言葉は「怠らず努めなさい」の言葉なのです。
本当にスピ系にかぶれて私と同じところまで来た人はいるのでしょうか、
当然スピ系の分からない私に導かれたラピ。さんは私の取り入れた方法で至りました。
それは、私が成就したと認めたとかではなくて本人が自分自身でこの状態に、
意識そのものが変容してなってしまったのです。
次は至った直後のラピ。さんの言葉です。
[師匠への報告 (復活版)] by 大好き!ハッピー! な毎日☆
http://daisukirapisu.blog87.fc2.com/blog-entry-1652.html
>この私はだれですか?
>
>師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?
>
>何もできないのですが
>この私はなんですか?
>
>師匠、これはなんですか?
>
>と送りました。
実は次の至った人と同じ状態を成就したのでした。
アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>私は無だ。
>
>何も持たず何も出来ない。だが、すべてはわたしから立ち現れる。その源が私だ。その根底と源泉が私なのだ。
ただし、的を得た導師とは、ただ普通に暮らしていてこれらの努力や忍耐を要するような出来事をやり過ごさせるのではなく、
あえて、これらの事が過剰に実践者の前に起こる方法を作り出すのです。
それが、ラピ。さんの言っている「激流」と言うものの正体です。
じつはラピ。さんに関して言えば、私と出会った時には、
恐らく私と出会う前の様々な努力によってかなりメンタルは出来上がっていて、
すなわち「楽」と言うものを実現できていたように思います、あと「理解」したり「屁理屈」、
たとえば「この世界は私だ」とか、「実態が無いのだ」とか「私はあなた」とか、
ちょっと違ったかもしれませんが、この手の類の完璧に「屁理屈」ですね、
そのような屁理屈な低次元に縛られて超えられないで居た、
だから私が手を貸して理解(理屈)と言う低次元行為をすっかりと捨てさせて、
意識の状態が変容するレベルまで超えさせたのです。
もっともこの屁理屈も、ある段階の者には激流を渡るための筏(イカダ)として機能しますが、
同じ屁理屈でも使い回す者が悟ってないとこれが全く同じ言葉なのに筏(イカダ)の機能も果たせない
駄作の単なる屁理屈に大変わりしてしまいます。
達成した私達には内面(心)と言うものが無い、これがほんとうの無心です。
内面が無いから従って外面もないのです、よってヴィパッサナなどの内面観察系の実践は
逆立ちしても実践不可能(完了)です。
アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話より
>質問者 この知識はあなたの内側からやってくるのでしょうか、それとも外
> 側から来るのでしょうか?
>
> マハラジ
> その表現は当てはまらない。
> 私の内側は外側であり、私の外側は内側なのだ。
> 必要な知識をあなたから得るかも知れない。
> だが、あなたは私から離れていないのだ。
私は以前これを、あなたの前には私がいる、だが、私の前にはあなたはいないと言う言語化で表していました。
至った私達の意識状態は精神の集中の次です、意識の拡散と言う状態になります。
至った私達には精神の集中と言う言葉はありません。
私がここで「努力」と言う表現を使いまわしていますが、それ自身も私は成就者なのでそうでない人とは違うのです、
人間のメンタルの構造の上でどのような作用が起きた時に、この「努力」と言う感覚が発生するのかまで、
熟知したうえでこの表現を使いまわしています。
(長いので続きます)
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