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TK師との会話

60TK:2013/09/21(土) 11:11:15
この低い次元の第一次実践はそれより先の次元に進むためには必要なプロセスです。

特徴は、エゴを精一杯自分の良いと思う方向で利用すると言う実践なのです。

もちろん、これは今我らの次元からの目で見た解説ですから、
実際はこの低い次元の実践が必要な段階の人は、
我らと違ってエゴの動きが見えません。

これをイエスは「盲人」と言う表現を使っていましたが。


マタイの福音書 15章14
>彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人の手引きをする盲人です。
>もし、盲人が盲人の手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」

今になって考えてみたら放っておくことには意味がありました。

穴に落ち込んでから次が始まるのですから。

私ももがく以外に身動きのできない、真っ暗な穴に落ちた経験者です。

その後にイエスの教えに出会いました。


>まず、第一の実践のきっかけは
>わがままな自分を反省して
>(自分としてはめちゃくちゃわがままだった。
>でも今思えば、そんなわがままな人、反省もせずにいくらでもいます。)
>「こんな私はどう生きていけばいいか?」との問いから
>得た答えでした。



第1次実践時のラピ。さんもそうでしたが、それまでの散漫なエゴの在り方に、
一定の正しい方向性(目的)を持たせることが特徴です。

主な特徴はエゴの中の人間でエゴの動きが見えていないので、
エゴを利用して正しさを実現しようとする点ですね。

最初はやはりここからです。

「自分を捨てて、なんでも心から喜んでしよう。」、ラピ。さんの話しを聞いて、
この言葉を私が最初に目にした時には完璧過ぎてうまくないだろうと思いました。

なぜなら、最初からエゴ殺しの完璧な内容になっていたからです。

ただ、当然ながらエゴの動きが見えてない上での実践なので、
実践の不完全実行になっていましたから、結局同じ事だったのです。

ただ、精一杯があったから、
やがて盲人が落ちる真っ暗闇の穴に落ちることが出来ました。

穴に落ちる事も出来ない「盲人」は同じ盲人でもダメ「盲人」です、
箸にも棒にも落ちる穴にさえも見放されています。

我々の教えの次元は、ほとんど、「穴」に落ちた段階の者にしか用が無いものです。

ラピ。さんにもう一度私がこの実践を踏ませた時には、
エゴの動きを見抜ける私の悟った目を使いましたから、
エゴ殺しの手段であるこの実践内容の完全実行が行われました。

しかし、この完全実行をさせるかどうかのために、
約4カ月の期間を費やしましたが。

(続きます)


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