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TK師との会話

39ラピ。:2013/09/01(日) 22:39:24
38の続きです。


そこで第二の実践に出会います。
もう何もなかったので 次にこの実践が次の私の生き方そのものとなります。

ちなみにこの実践中もそれまで普通に考えなくてもできていたことが
できなくなっていました。
常に意図的にやっていくしかなかった。

今まで(習慣のように)当たり前にしていたことを
すべて自分の意思でしていくしかなかった。

とことん意思を振り絞っての毎日でした。

ちなみにこの実践は「能力開発」の目的で始めました。

自分の生きている意味がほしかったのでしょう。

それまでの「喜んで」の実践は自分を信じての実践でした。
第2の実践の頃は自分を信じることがほとんどできなくなってました。
でも、でも、今思い出すとやっぱり自分を信じていたからこそできた。

ほんの一ミリの自分を信じる気持ち。
どんなに否定されても残っているそのひとかけら。
ひとかけら、それだけでいい。
「私がやらなくて、誰がやる。私は私からは逃げられないのだ」
というもう逃げ場がない状態で
そのひとかけらの信念がなにがあっても実践を続けさせてくれた。

このひとかけらのエゴが私を助けてくれた。

そしてどんなときも実践でした。まさしく寝てるとき以外は何が何でも実践。

実践を忘れそうになったらすぐに意識を切り替えて実践。

息をすることと同じくらい、ひたすら実践でした。
息をするのをやめたら死んでしまうでしょう?
私にとってこの実践をやめることは「生きていけないこと=死んでしまうこと」と同じでした。

生きるために実践したのです。

(ちなみにこの実践の内容は私からはお伝えすることはできません。
かといってこの実践の情報は巷でも普通に手に入れられるものです。
普通の能力開発の実践だと思ってください。

ただ何が違うのかというと、それを中途半端に実践するか、とことん実践するか、それだけです。

ポイントはどんな実践も「とことん」することです。
そうすれば必ず得るものがあります。
中途半端では空振りで何も得るものはないでしょう。

どんなすばらしい教えも、実践しないと意味がない。
そしてどんな勘違いした実践でも自分が正しいと思ったらとことんしてみることです。
とりあえず実践です。)

私はもう、ある意味、命がかかっていたので進むしかなかった。
(ここで言ってる「命」もある意味エゴのことです。
それがなければ生きていけないなんて、至ってしまえばそういうことはありません)

だからその実践ができたのだと思います。

私はかなり、厳しい道を歩いてきました。

でも嫌々、仕方なく通ってきたのではなくて私にとっては
「その道しかなかった」のでした。

それ以外の道はないので何があってもいくしかなかったのでした。

そしてさらにこの第2の実践も行き詰まりをむかえます。

ある意味、ここで第2の実践もできなくなりました。
したくてもできない状態です。
もうできなくなってしまったんです。

実際、第4の実践のときにこの第2の実践の経験を生かしてはいますが
まったく同じには実践できていません。
でも工夫してポイントをずらして実践しました。

でも、このときは自我がなくなることはありませんでした。

実はさらにそのまま行けば消えてたのかも知れない。

でも、私をこの世界に踏みとどまらせたものがありました。


続きます。


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