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TK師との会話
227
:
TK
:2013/12/28(土) 09:16:32
(続きです)
聞く耳は無いでしょうから、寿命に達して死ぬ時に後悔する事になります。
悟りに至るためには、単純ではないこのような入り組んだ仕組みがあるのです。
この前段の実践を終了出来た者だけが次の釈迦並びイエスの教えが実践できる状態が整うのです。
人間としての基本的な生き方ができてもいないのに、
手を出すことは絶対に厳禁です。
ヨハネの福音書14・21
>わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
>わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自信を彼に現わします。
これで私はイエスからも釈迦からもこの聖書の言葉のような奇瑞を得ることができました。
これは私自身の奇瑞経験ではありますが、
私の述べている事がイエス本人から承認されている内容である事の根拠として下さい。
誤認の者はいくら一生懸命にやっても、
その一派も含めてイエスが目の前に現れるなど、絶対にこれは起きません。
誤認の者は同じまともな感覚を麻痺させられた者同士で、ドンキホーテとサンチョを演じるのみです。
間違っている内容を目の前で繰り広げられるのを目にするのも切ないものがあります。
なぜなら、自らの誤認による覚者と私との違いは、
単なる運が良くて私は自らの誤認による覚者と同じ道を歩まなくて良かっただけのようなものですから。
それは僅かな違いなのですが、
しかしその僅かな違いが両者の明暗を大きく分けたのです。
なぜなら、片方は一生誤認の者として生き、そしてまた、
係わる多くの人たちに対して虚偽を説き罪を積み続けるからです。
仏罰と言う文字が頭に浮かびます。
私は迷路を抜けた稀な一人という事になってしまいました。
決して望んでなったわけではありません、
なぜなら望んだら永遠になれない原理のものだったのですから。
私ごときには大それた事だとも思うのですが、それでも、
一生自らの誤認による覚者で生きて行こうとしている者たちに対しての、
気付かせるためのチャンスを握る僅かな者の中の一人なのです。
この私が、釈迦やイエスの眼鏡にかなった実践において奇瑞を得た者なのです。
私と接する誤認の者の中には、そうである事に気付くことができた者もいました。
また、私の力が及ばなかった自らの誤認による覚者のままの者もいます。
適当な口実を作って、私の前から逃げた誤認の者もいました。
ラピ。さんのように私の導きで至った者もいます。
私は現在は「釈迦もイエスも一切を信じていません。」
これこそが至った者だからこそ宣言できる真実の言葉ですが、
誤認による者たちよ、自ら、この宣言が出来るか、もしできなくば、
それがお前たち自らの誤認による覚者であることの証なのだ。
(続きます)
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