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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

1名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/03/18(火) 23:56:08 ID:QU46JH2Y
馬・人物・キャラの誕生日はもちろん、過去の出来事や記念日、ホモが好きそうな商品の発売日などについて語るスレ
AILE君へのネタ提供になればよいのだけれど、やりすぎると逆にネタ潰しやまとめの催促にもなりかねないので、まったり雑談していきましょう
個別誕生日スレを否定するスレではないので、個別スレは予告や告知をどうぞ

341Republica de Venexia:2014/11/05(水) 00:45:14 ID:???
11月5日はロスバッハの戦いが行われた日です

>>319などで見たように、プロイセンはオーストリア継承戦争によってシュレジエンを獲得しましたが、オーストリアがこれを甘受するわけはありませんでした
オーストリアのマリア=テレジアは、長年ハプスブルク家の宿敵であったブルボン家のフランスと同盟します
これは「外交革命」と呼ばれるほどの出来事であり、オーストリアのシュレジエン奪回に対する執念が伺えます
一方のフランスもイギリスへの対抗からこの同盟を受け入れました
イギリス王はハノーファー選帝侯も兼ねており、ハノーファーをプロイセンに攻撃されることを恐れプロイセン支援を行うようになったことで、フランスにとってもプロイセンは脅威となったからでした
オーストリアはロシアとも同盟を結び、プロイセン包囲を固めました

味方がイギリスのみとなったプロイセンは、機先を制すため1756年8月、ザクセンに先制攻撃をかけ、ここに七年戦争が始まりました
不意を突かれたオーストリアが準備を整える前にプロイセンはザクセンを占領、ベーメンへ侵攻しますが、態勢を立て直したオーストリアは1757年6月にプロイセン軍に勝利、さらに7月にはフランス軍もプロイセン軍に勝利し、プロイセンは劣勢となっていきます

そして1757年11月5日、オーストリア・フランス連合軍はロスバッハにてプロイセン軍と会戦しますが、ここでプロイセン王フリードリヒ2世は斜行戦術を敢行します
これは少数の部隊で敵陣の片方を攻撃し、敵がそちらに気を取られているうちに主力が斜めに移動しもう片方を一方的に集中攻撃、側面に回り込み押し込んでいくというものでした
この戦術が功を奏し、プロイセン軍は2倍以上の連合軍を撃破、この一ヶ月後に行われ、より理想的な形で成功させたロイテンの戦いとともに、フリードリヒの斜行戦術は軍事史上の一大画期となったのでした


本日はプロイセン斜行戦術の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

342Republica de Venexia:2014/11/06(木) 00:18:00 ID:???
11月6日はアレックス・ファーガソンがマンチェスター・ユナイテッドの監督になった日です

1957-58シーズンのマンチェスター・ユナイテッドは、ダンカン・エドワーズを中心にイングランド代表を多数擁しヨーロッパに旋風を巻き起こしていました
チャンピオンズカップでもシャムロック・ローヴァーズ、デュクラ・プラハを破り、準々決勝でレッドスター・ベオグラードとの対戦を迎えます
強敵レッドスターに対し、ユナイテッドは第一戦は2-1、第二戦を3-3とし勝利しました
しかしその翌日に悲劇が起こります
ユナイテッドの選手達を乗せた飛行機がミュンヘンで墜落、エドワーズを含む8人が死亡し、4人が後遺症でプレー不可能となったのです

ミュンヘンの悲劇から10年後、奇跡的に生き残ったマット・バスビー監督やボビー・チャールトン、ビル・フォルケスらはチームを再建し、さらにデニス・ローやジョージ・ベスト、ジョニー・ジャイルズ、バット・クレランド、ブライアン・キッドらが活躍する魅力的なチームを作り上げます
この67-68シーズン、ユナイテッドは決勝でエウゼビオやコルナを擁するベンフィカを破り、念願のチャンピオンズカップ優勝を果たします

しかしこの後ユナイテッドは低迷し、国内外で優勝から遠ざかることになりました
そして1986年11月6日、アレックス・ファーガソンが監督に就任するとチームは再建の兆しを見せるようになります
92-93シーズンにはピーター・シュマイケル、エリック・カントナらを擁し約30年ぶりの優勝を果たしました
クライマックスとも言えるのが98-99シーズンで、シュマイケル、この年に獲得したヤープ・スタム、「恐怖の双子」アンディ・コール、ドワイト・ヨークに加え、ファーガソンが育て上げたガリー・ネビル、ポール・スコールズ、ライアン・ギグス、デイヴィッド・ベッカムらが躍動する素晴らしきチームに仕上がっていました
このシーズンのユナイテッドはチャンピオンズリーグ決勝でバイエルン相手に後半ロスタイムで2得点を挙げ逆転優勝を飾った「カンプ・ノウの奇跡」をはじめプレミアリーグ、FAカップも優勝し三冠を達成する輝かしいシーズンとなったのです
以後もファーガソン率いるユナイテッドはプレミアリーグ13回、FAカップ5回、リーグカップ4回、チャンピオンズリーグ2回など多くのタイトルを獲得することになるのでした


本日はマンチェスター・ユナイテッド黄金時代の誕生日です、おめでとうございます

343Republica de Venexia:2014/11/07(金) 00:35:43 ID:???
11月7日はレーニンが武装蜂起を始めた日です

ロシアは第一次世界大戦においてタンネンベルクの戦いに大敗し、その後押し返しはするものの戦線は膠着状態に陥り、国民の不満が増大していました
そのような状況で1917年3月、首都ペトログラードで起こったデモが発端となって革命が勃発します
ロシア暦で2月に起こったこの革命は二月革命と呼ばれ、皇帝ニコライ2世が退位させられロマノフ朝が断絶、ケレンスキーを首班とする臨時政府が成立しました

この二月革命後のロシアは臨時政府とソビエトが統治する二重政府状態であり、これを打開するためボリシェヴィキを率いるレーニンは「全ての権力をソビエトに」をスローガンに掲げ四月テーゼを発表します
しかしこの時はメンシェヴィキやエス=エルに弾圧され失敗、レーニンは7月にロシアから亡命します

しかし9月に臨時政府総司令官コルニーロフが反乱を起こすと臨時政府の求心力は低下し、ボリシェヴィキは勢力を回復していきました
ボリシェヴィキが多数派となったことでレーニンは帰国し、ソビエト議長となったトロツキーは軍事革命委員会を設置し臨時政府の武力討伐を画策します
そして1917年11月7日(ロシア暦10月25日)、レーニンはペトログラードにおいて武装蜂起を行い臨時政府を打倒、政権の奪取に成功します
レーニン率いるソビエト政権はこの後ロシア内戦を戦い抜き、1922年にソビエト社会主義共和国連邦を結成することになるのでした


本日は十月革命の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ニコラ・ヴェルト、石井規衛監『ロシア革命』創元社、2004年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・松戸清裕『ソ連史』筑摩書房、2011年

344名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/11/07(金) 22:26:02 ID:0Wc6G7jc
ソビエトロシアではAILE君があなたのアナルを狙う!

345Republica de Venexia:2014/11/08(土) 00:08:22 ID:???
11月8日は白山の戦いが行われた日です

>>124で見たように、1618年5月にプラハ窓外投擲事件が起こり、ボヘミアの新教徒はカトリック政策を強行したボヘミア王フェルディナントに対して反乱を開始、これが三十年戦争が始まりとなります
フェルディナントは翌年8月には神聖ローマ皇帝フェルディナント2世として即位しますが、そのためにボヘミアを留守にした隙にボヘミア新教徒はフェルディナントの廃位を宣言、プロテスタント諸侯であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を新国王に選出しました

これに対しフェルディナントはすぐさま鎮圧を決定、カトリック連盟の指導者であるバイエルン侯マクシミリアン1世に対し、ボヘミア反乱を鎮圧すればフリードリヒの選帝侯位を剥奪し、バイエルン侯を選帝侯とすることを約束し味方に付けます
これに同意したマクシミリアンはティリーに兵を与えボヘミアへ派遣しました

一方のフリードリヒは、ボヘミア王就任を支持したオランダ、デンマーク、ヴェネツィア、プロテスタント同盟の支援を期待しますが、プロテスタント同盟は皇帝との対決に消極的で中立を保ち、諸外国も他国との紛争等で支援を行える状況ではありませんでした
さらにボヘミア王位を狙っていたサヴォイア侯がスペイン軍の自領通過を認め、プファルツ侵攻の手助けをします
スピノラ率いるスペイン軍はプファルツを占領し、本国を失ったフリードリヒは窮地に追い込まれました

そして1620年11月8日、フリードリヒは白山の戦いにおいてカトリック軍に大敗を喫します
ボヘミアでは27人の貴族が処刑、広大な領地が没収され、選挙王制の廃止とハプスブルク家による世襲王制が敷かれます
フリードリヒはわずか1年4日で王位を失い、亡命を余儀なくされたのでした


本日は「フリードリヒ冬王」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

346Republica de Venexia:2014/11/09(日) 00:13:49 ID:???
11月9日はフィレンツェからメディチ家が追放された日です

十字軍運動によるイタリア都市勃興の時代、ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサ・ミラノなどと並び、フィレンツェも遠隔地交易や毛織物業・金融業などで発展し、トスカーナの中心都市へと成長していきました
14世紀には金融業がさらなる繁栄を迎え、メディチ銀行を興したメディチ家がフィレンツェの有力家門となっていきます
15世紀初頭にはピサを征服して海港を獲得、さらに教皇を擁立したことで教皇庁との取引も行うようになりました

メディチ家がフィレンツェを実質的に支配するようになったのはコジモ=デ=メディチの時代で、その孫ロレンツォの時代にフィレンツェのメディチ家支配は絶頂を迎えます
1454年にイタリア五大国、すなわちヴェネツィア共和国、ミラノ公国、ナポリ王国、教皇領、そしてフィレンツェ共和国の間で結ばれたローディの和によってイタリアに平和が訪れ、フィレンツェもロレンツォ支配の下でルネサンスの最盛期が現出しました

しかし1494年、フランス国内の混乱を収めたシャルル8世がナポリ王位を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が勃発します
この時メディチ家の当主はロレンツォの息子ピエロでしたが、市民に図らず独断でフランス軍の入城を許可したため人々の不満が高まり、修道士サヴォナローラがメディチ家の専横を批判し信望を集めていたこともあり、メディチ家追放の機運が広がります
そして1494年11月9日、ピエロ=デ=メディチはフィレンツェから追放されメディチ銀行も破綻、フィレンツェはサヴォナローラによる神権政治に移行するのでした


本日はピエロ=イル=ファトゥオ(愚昧なピエロ)の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・森田義之『メディチ家』講談社、1999年
・中嶋浩郎『図説メディチ家 古都フィレンツェと栄光の「王朝」』河出書房新社、2000年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

347Republica de Venexia:2014/11/10(月) 00:59:52 ID:???
11月10日はヴァルナの戦いが行われた日です

>>222のアンカラの戦いでオスマン帝国に大敗し、一時中断を余儀なくされました
オスマン帝国は小アジア・バルカン半島双方で勢力か縮小し、さらにスルタン位をめぐって内乱が起こる有様でした
この混乱を鎮め、帝国の再統一を進めたのがメフメト1世でした
メフメト1世は1413〜21年の治世の間に小アジアをほぼ平定し、帝国の再建を果たします
そしてメフメト1世の後を継ぎ、バルカン半島への再進出を進めたのがムラト2世です

ムラトは1422年、ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを包囲しますが、その堅固な城壁に手を焼き、小アジアでまたも反乱が起こったことで包囲を解除しました
この反乱を鎮圧し終えた後、1428年にはハンガリー・ポーランドの連合軍か侵攻してきます
これを撃退したムラトは、1430年からバルカン半島への侵攻を開始しますか、1440年、ベオグラードの包囲に失敗し撤退しました

これを見たローマ教皇エウゲニウス4世は十字軍を組織し、ハンガリーがこれに応じます
セルビアはハンガリー支援に同意し、アルバニアのスカンデルベグはオスマン帝国に宣戦布告し、カラマン君侯国は小アジアからオスマン帝国を攻撃します
ムラトがカラマン君侯国を討伐している間に十字軍はセルビアからオスマン帝国軍を一掃し、さらなる進軍を企図していました
ムラトは軍をバルカン半島に返し十字軍の迎撃に向かいます

そして1444年11月10日、ブルガリアへと進軍してきた十字軍軍と、これを迎撃するオスマン帝国軍はヴァルナにて激突、十字軍は指揮官であるハンガリー・ポーランド王ヴワディスワフ1世が戦死するという大敗を喫します
一方のオスマン帝国はドナウ川までの地域を再び支配下に収めるのでした


本日はオスマン帝国のバルカン半島再征服の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・スティーブン・ランシマン、護雅夫訳『コンスタンティノープル陥落す』みすず書房、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

348Republica de Venexia:2014/11/11(火) 00:57:27 ID:???
11月11日はオーストリア皇帝カール1世が退位した日です

ハプスブルク家は13世紀のルドルフ1世以来約700年間、オーストリアを支配し、15世紀のアルブレヒト2世以降は神聖ローマ皇帝位を独占、>>241で見たようにフランツ2世以降はオーストリア皇帝として君臨していました
しかし19世紀末のフランツ=ヨーゼフ1世の時代、数々の不幸に見舞われるようになります

まず1867年、>>177のようにフランツ=ヨーゼフの実弟マクシミリアンがメキシコにて処刑されます
さらに1889年、愛児であり皇太子でもあるルドルフが自殺した「マイヤーリングの悲劇」がフランツ=ヨーゼフに衝撃を与えました
その10年後の1898年には最愛の妃エリーザベトが暗殺され、フランツ=ヨーゼフは悲嘆に暮れます
そして1914年、第一次世界大戦の引き金となった>>191のサラエボ事件で、甥であり帝位継承者であるフランツ=フェルディナントが暗殺され、フランツ=ヨーゼフは打ちのめされました

それでも、開戦当時84歳のこの皇帝は死の直前まで皇帝としての政務をとりつづけ、1916年に崩御します
国民に深く愛され、ハプスブルク帝国の存続に尽力してきたフランツ=ヨーゼフの死によって、帝国は事実上の終焉となりました
彼の後を継いだカール1世には崩れゆく帝国を支えきれなかったのです
オーストリアの無条件降伏後の1918年11月11日、カールは退位し、ここにハプスブルク帝国は名実ともに終焉を迎えたのでした


本日はオーストリア・ハプスブルク朝の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・江村洋『ハプスブルク家』講談社、1990年
・加藤雅彦『図説ハプスブルク帝国』河出書房新社、1995年
・大津留厚『ハプスブルク帝国』山川出版社、1996年

349Republica de Venexia:2014/11/12(水) 00:56:21 ID:???
11月12日はゾエがロマノスと結婚した日です

ビザンツ帝国の最盛期を築いた>>232のバシレイオス2世が1025年に亡くなると、帝国の皇位はめまぐるしく変わる時代へと突入します
バシレイオスの後を継いだ高齢のコンスタンティノス8世が3年後に病没すると、その次女であるゾエに夫を迎え、帝位が継承されることになります
これが1028年11月12日にゾエと結婚したロマノス=アルギュロスで、彼はロマノス3世として即位します

ところがビザンツ宮廷で大きな勢力を持っていた美貌の宦官ミカエルがゾエに近づき、2人は謀ってロマノスを暗殺します
1034年、ゾエと結婚し皇帝となったミカエル4世は、自身も暗殺されることを恐れゾエを幽閉しました
しかし元々病持ちであったミカエルは1041年に病没してしまいます

続いて皇帝となったミカエル5世ですが、こちらもゾエを追放すると、コンスタンティノープル市民はユスティニアヌス1世時代のニカの乱以来となる暴動を起こし、ミカエル5世を追放しました
帝都に迎えられたゾエは妹テオドラとともに、エイレーネー以来となる女帝として即位します
これが1042年のことでしたが、2人の対立もあってわずか2ヶ月で破綻し、ゾエはコンスタンティノス=モノマコスと結婚し、コンスタンティノス9世とした即位しました
ゾエ自身は1050年に死去し、バシレイオス2世以来帝国政治の中心人物がこの世を去ったのでした


本日は「皇女ゾエ」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ皇妃列伝 憧れの都に咲いた花』白水社、2009年

350Republica de Venexia:2014/11/13(木) 00:21:33 ID:???
11月13日はエゼルレッド2世がデーン人を虐殺した日です

デーン人の侵入に苦しめられていたイングランドでは、9世紀にアルフレッド大王がデーン人を撃退し、休戦協定を結んで平和共存が採られるようになりました
アルフレッドはイングランド北東部をデーン人の支配地「デーンロウ地方」とし、デーン人の法慣習を認めたのです
アルフレッドはこの休戦状態の間に軍備拡大に努め、諸改革を行っていきます

アルフレッド以後の国王たちも、彼の政策を引き継いでいきます
デーンロウ地方の征服は着実に進められ、アゼルスタンの頃にはほぼイングランド統一がなされました
イングランド統一の完成は973年、エドガーの治世で、彼は「イングランド人の王」としてデーン人からも認められるのです

しかしエドガーの死後、10世紀末には再びデーン人の攻撃が再開されるようになります
イングランド王エゼルレッド2世にはアルフレッドやエドガーのようにデーン人を撃退するという戦意は無く、デーンゲルドと呼ばれる平和金を払ってデーン人がイングランドから退去するように計らいました
しかしデーンゲルドは巨額であり、その支払い費用を捻出するために重税が課されたことで臣下の不満は高まっていきます

そして1002年11月13日、エゼルレッドが局面を打開するためデーン人を虐殺したことが仇となりました
この虐殺に猛反発したデーン人のイングランド侵入が本格化し、エゼルレッドは一時ノルマンディーへの亡命を余儀なくされます
復位した後もデーン人の侵攻を撃退することができず、1016年、クヌートのイングランド征服へと至るのでした


本日は聖ブライスの祝日の虐殺の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・B.アルムグレン、蔵持不三也訳『図説ヴァイキングの歴史』原書房、1990年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年

351Republica de Venexia:2014/11/14(金) 01:27:16 ID:???
11月14日はユージン・バートン・イーリーが飛行機械で発艦した日です

戦闘機の歴史はまず20生気初頭に遡ります
アメリカ政府はスミソニアン協会理事の科学者サミュエル・ラングレーに資金を提供し、「飛行機械」の開発を進めていました
ラングレーはエアロドローム号を製作し1903年10月7日、首都ワシントンを流れるポトマック川にて飛行実験を行ないます
チャールズ・マンリーを乗せたエアロドローム号はしかし、射出後水面に激突し実験は失敗に終わってしまいました

とはいえ国家プロジェクトである飛行機械の開発は再開され、同年12月8日、二度目の飛行実験が試みられます
しかしこちらも失敗に終わり、飛行機械の開発プロジェクトは一時的に消極的となります
同年12月17日にはライト兄弟がライトフライヤー号によって飛行機械の初飛行に成功しますが、これは民間によるものであったため政府は関心を示しませんでした

このライト兄弟に続いたのがグレン・カーチスで、1908年7月4日にジューン・バグで飛行に成功します
カーチスはユージン・バートン・イーリーをパイロットとして雇い、アメリカ海軍のワシントン・チャンバース協力の下で飛行機械の発艦実験に漕ぎ着けました
そして1910年11月14日、カーチスの飛行機械ゴールデンフライヤー号は巡洋艦「バーミンガム」から発艦することに成功します
翌年1月18日には巡洋艦「ペンシルヴェニア」への着艦にも成功し、アメリカ政府による飛行機開発は軌道に乗っていきました
「ペンシルヴェニア」での運用実験の結果、全通甲板の必要性が確認され航空母艦の開発がすすめることになり、カーチスは海軍艦載機や陸軍機の開発に携わり、カーチス・ライト社を設立し数々の軍用機を開発していくことになるのでした


本日は飛行機の発艦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「世界の艦船 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
・白石光・おちあい熊一『歴群「図解」マスター 航空母艦』学研パブリッシング、2012年
・白石光『歴群「図解」マスター 戦闘機』学研パブリッシング、2013年

352Republica de Venexia:2014/11/15(土) 00:17:17 ID:???
11月15日は北キプロスが独立宣言を行った日です

キプロスでは古代よりギリシア人が居住し、ヒッタイト、アッシリア、ペルシア、プトレマイオス朝、ローマなどが支配してきました
12世紀末にはイングランド王リチャード1世によって征服されキプロス王国が成立します
この王国は15世紀末に断絶し、ヴェネツィア共和国が植民地として支配するようになります
1571年には>>308で見たようにオスマン帝国が征服し、このオスマン帝国支配下でトルコ人が多数移住し、キプロスはギリシア人とトルコ人という二民族が併存するようになりました

その後キプロスは1878年のベルリン会議によってイギリスが統治権を得、植民地化が進められました
この際にイギリスはギリシア人とトルコ人を分断して統治を行ったため、ギリシア人はギリシア王国、トルコ人はオスマン帝国への帰属を求めるようになります
イギリスは第一次世界大戦の勝利によりギリシアの併合を宣言し、1925年には直轄領とします

イギリスによる支配はますます本格化し、キプロスをスエズ運河防衛のための軍事拠点化を進めました
これに対しキプロスでは反英独立運動が盛んとなり、1960年にはキプロス共和国として独立を達成します
しかしこれにより、それまで反英でまとまっていたギリシア人とトルコ人との対立が表面化し、1964年に内戦が勃発します
1974年にはギリシア軍の介入によるクーデターが発生、これに対しトルコもトルコ人保護を名目に軍を派遣し北キプロスを占領しました
この北キプロスにトルコ人が移住し、残りの南キプロスにはギリシア人が移住、キプロスは南北に分断されたのです
そして1983年11月15日、北キプロスは独立を宣言し、キプロスの分断は決定的となるのでした


本日は北キプロス・トルコ共和国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・大島直政『複合民族国家北キプロスの悲劇』新潮社、1986年
・桜井万里子編『世界各国史17 ギリシア史』山川出版社、2005年
・澁澤幸子『キプロス島歴史散歩』新潮社、2005年

353Republica de Venexia:2014/11/16(日) 01:26:08 ID:???
11月16日はリュッツェンの戦いが行われた日です

三十年戦争は>>345の白山の戦いでファルツ選帝侯フリードリヒが敗れ、その後1625年にデンマーク王クリスティアン4世が参戦するも、皇帝軍の傭兵隊長ヴァレンシュタインによって撃退されます
しかしヴァレンシュタインによる軍の私兵化、強大な軍事力を背景とした専横に諸侯の不満は増大し、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世はヴァレンシュタインを罷します

この後の1630年に参戦したのがスウェーデン王グスタフ=アドルフで、>>285で見たように軍制改革が完成したスウェーデン軍は、1631年のブライテンフェルトの戦いで皇帝軍のテルシオを打ち破る大勝利を挙げました
>>68のレヒ川の戦いでも皇帝軍は敗北し、指揮官ティリーは戦死してしまいます
ここに至って皇帝フェルディナントはヴァレンシュタインの復帰を決定し、皇帝軍を預けグスタフ=アドルフに対抗します

そして1632年11月16日、グスタフ=アドルフとヴァレンシュタインが対峙したリュッツェンの戦いが起こります
これはヴァレンシュタインがパッペンハイムに軍を預けてハレ攻撃に派遣し、皇帝軍が二分された隙をグスタフ=アドルフが突いたものでした
スウェーデン軍はグスタフ=アドルフ率いる右翼が皇帝軍を圧倒するものの中央が押され、この救援にグスタフ=アドルフ自身が赴いたところで狙撃され、戦死してしまいます
戦場では霧が立ち込めていたためグスタフ=アドルフの戦死は知られず、両軍は交戦を続けました
午後になるとパッペンハイムが戦場に到着しスウェーデン軍に突撃を敢行しますが破れず、逆にパッペンハイム自身が戦死しました
やがてグスタフ=アドルフの戦死が知られるとスウェーデン軍は傭兵隊長ベルンハルトが指揮をとり、皇帝軍を撤退に追い込みました

こうしてリュッツェンの戦いはスウェーデン軍の勝利に終わったものの国王戦死の影響は大きく、その攻勢は鈍ります
軍の指揮はベルンハルトとグスタフ・ホルンが取るものの、両者の対立により>>149のネルトリンゲンの戦いでの敗北、プラハ条約締結へと至るのでした


本日は「北方の獅子」グスタフ=アドルフの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

354Republica de Venexia:2014/11/17(月) 01:27:43 ID:???
11月17日はエリザベス1世がイングランド国王に即位した日です

>>257で見たテューダー朝創始以降、ヘンリ7世は王権強化に努め、>>168のヘンリ8世、その次代のエドワード6世もヘンリ7世の諸政策を引き継いでいきました
しかしエドワード6世が若くして死去し、メアリ1世が即位するとその政策に変化が起きます

というのも、ヘンリ8世とカタリーナ・デ・アラゴンとの娘であるメアリは、カトリック国のアラゴン出身の母親に敬虔なカトリックとして育てられたからでした
ヘンリ8世の代にローマ教会から離脱し、独自のイングランド国教会を設立していたイングランドは、メアリの代でカトリックに復帰し
さらにメアリはスペイン王フェリペ2世と結婚します

この結婚に反発した人々は国教徒として育ったエリザベスを国王に即位させるため、1554年に反乱を起こしました
この反乱は鎮圧されエリザベスは投獄、さらにメアリは反対派の多くを処刑しカトリック政策を強行したため「ブラッディ・メアリ」と呼ばれました
エリザベスは翌年解放され、さらに1558年にはメアリが病死します
そして同年11月17日、エリザベス1世としてイングランド国王に即位することになるのでした


本日はエリザベス朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・今井宏『世界歴史大系イギリス史2 近世』山川出版社、1990年
・青木道彦『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』講談社、2000年
・長谷川輝夫他『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

355Republica de Venexia:2014/11/18(火) 00:21:07 ID:???
11月18日は桓武天皇が平安京へ遷都した日です

桓武天皇の時代、奈良から京都への遷都が計画されました
というのも、天智天皇系である桓武天皇は、それまでの天武天皇系の政権を支持してきた貴族・寺社勢力の牙城であった大和での政治を避けたからでした
こうして784年、桓武天皇は山城国に長岡京を造営し遷都します
しかし遷都して早々、重臣の藤原種継が暗殺され、弟の早良親王がこれに加担していたとして配流のち死亡、さらに飢饉・疫病が流行し親族が次々と死亡するなどの不幸に見舞われました
これを親王の怨念によるものとして鎮魂の儀式を行いますが、2度の大水害にも遭い、ここに至って和気清麻呂の建議により再遷都が決定します

そして794年11月18日、現在の京都市中心部にあたる地の平安京に遷都、明治時代に東京へと移るまで歴代天皇の所在地となったのでした


本日は平安時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・北山茂夫『日本の歴史4 平安京』中央公論新社、2004年
・川尻秋生『平安京遷都』岩波書店、2011年
・西本昌弘『桓武天皇 造都と征夷を宿命づけられた帝王』山川出版社、2013年

356Republica de Venexia:2014/11/19(水) 00:56:02 ID:???
11月19日はゲティスバーグ演説が行われた日です

19世紀、アメリカ合衆国では米英戦争により経済的自立が進み、工業化が進展を見せていました
特に北部でその傾向が顕著で、南部では奴隷制によるプランテーション経済が中心であり、南北の経済格差が広がっていきます
そして北部では奴隷制反対・保護貿易が主張され、南部で奴隷制・自由貿易が主張された結果南北の対立が激化し、南部諸州がアメリカ連合国を結成、1861年に南北戦争へと突入しました

戦争は当初、リー将軍が指揮する南軍が優勢であり、フランスやイギリスも南部を支援したため北部は劣勢を強いられました
しかし経済力に勝る北部は徐々に盛り返し、1862年5月にはアメリカ連合国の首都リッチモンド近郊まで侵攻します
しかしこの進撃は南軍に食い止められ、逆に8月には南軍は北部メリーランドへと侵攻しました
こちらも北軍の抵抗に遭い侵攻は失敗に終わり、これを機に北部大統領リンカーンは奴隷解放宣言を発し国際的な支持を得た結果、アメリカ連合国への支持は失われることとなりました

1863年7月にはゲティスバーグにて南北両軍が激突し、この戦いに北部が勝利したことで南北戦争の趨勢は決します
このゲティスバーグの地にて1863年11月19日、リンカーンは演説を行いました
アメリカの自由と平等を謳うこの演説は歴代大統領の演説のなかでも最も有名なものであり、アメリカ独立宣言、合衆国憲法と並びアメリカ合衆国の精神を体現するものとなるのでした


本日は「人民の、人民による、人民のための政治」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・有賀貞・大下尚一編『概説アメリカ史 ニューワールドの夢と現実』有斐閣、1990年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年
・明石紀雄・飯野正子『エスニック・アメリカ 多文化社会における共生の模索』有斐閣、2011年

357Republica de Venexia:2014/11/20(木) 00:55:45 ID:???
11月20日はメキシコ革命が始まった日です

>>177でメキシコ皇帝マクシミリアンが処刑された後、メキシコは民主主義勢力の指導者フアレスが大統領となり、実権を握りました
1872年にフアレスが急死するとレルドが大統領に就任したものの、これに反発したディアスが反乱を起こし、1877年に大統領に就任、独裁を開始します

ディアス独裁体制下では西欧に倣った近代化が進み、外国資本の導入もあって経済発展が達成されました
しかしその一方で労働者・農民は困窮し、次第にディアス独裁への不満が高まっていきます
1910年にはディアスに反対する勢力を集めたマデロが大統領選に出馬しますが、武装蜂起を扇動した罪で投獄されてしまいます

ディアス再選の後マデロは釈放され、アメリカへと亡命します
マデロは亡命先のテキサス州にて選挙の不正、ディアス再選の無効を主張し武装蜂起を呼びかけ、これに呼応してメキシコでは反ディアスの気運が高まりました
そして1910年11月20日、メキシコ各地で武装蜂起が起こり、サパタやビリャ、オロスコ、カランサ、オブレゴンなど、メキシコなど、その後のメキシコを導いていく人々が登場するメキシコ革命が始まっていくのでした


本日はラテンアメリカにおける社会革命の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・増田義郎・山田睦男『世界各国史25 ラテン・アメリカ史1 メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社、1999年
・大垣貴志郎『物語メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』中央公論新社、2008年
・国本伊代『メキシコ革命』山川出版社、2008年

358Republica de Venexia:2014/11/21(金) 00:10:14 ID:???
11月21日は毛利元就が月山富田城を攻略した日です

月山富田城は難攻不落の城として知られ、1542年には大内義隆が宿敵尼子氏と雌雄を決するため、
その拠城月山富田城を攻めますが失敗、大内氏は壊滅的な打撃を受け撤退します
この大内軍の中には毛利元就も含まれており、死を覚悟するほどの負け戦となりました
この戦いの後尼子氏は尼子晴久のもと全盛期が築かれます

一方の元就は大内氏からの脱却を進めます
1555年には大内氏の重臣陶晴賢を破り、57年には大内氏を滅ぼしその旧領を獲得、毛利両川体制を確立し、尼子氏との決戦に臨みます
1562年7月、元就は吉田郡山城を出撃し尼子の支城を次々と攻略、12月には白鹿城の攻略に取り掛かりました
重要拠点の1つである白鹿城は頑強に抵抗するものの翌年10には開城、月山富田城への攻撃準備は整えられました

1565年4月には月山富田城への総攻撃が開始され、いったんは尼子軍が撃退に成功するものの、元就は兵糧攻めに切り替えて再包囲、兵糧の減少に伴い城兵の士気は低下していきました
そして1566年11月21日、尼子氏当主義久は降伏し、月山富田城は開城されたのでした


本日は尼子氏の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年
・「毛利戦記 大内、尼子を破った元就の権謀」学研パブリッシング、2010年

359Republica de Venexia:2014/11/22(土) 00:31:28 ID:???
11月22日は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が即位した日です

1197年、シチリア王国を手に入れ、ホーエンシュタウフェン朝による世襲王朝確立を目指し、ビザンツ帝国征服の十字軍により地中海帝国の建設を夢見た神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が急死しました
この時嫡子のフリードリヒはわずか3歳、帝国を統治することはできず、母親のコンスタンツァはローマ教皇インノケンティウス3世にフリードリヒを預けます
帝国はハインリヒの弟であるシュヴァーベン公フィリップが統治し、フリードリヒはシチリア王として戴冠、摂政に助けられ王国を統治することとなりました

1208年、フリードリヒは14歳になり元服を済ませました
ラテン・ビザンツ・イスラーム文化が混在するシチリアで育ったフリードリヒは恐るべき青年へと成長していました
六カ国後を話し、乗馬・槍術・狩猟・芸術にも堪能で、後に「アンチ・キリスト」と呼ばれるほどに合理的な思想を持ったフリードリヒをインノケンティウスは脅威に感じました

1209年にフィリップが暗殺されると、インノケンティウスはフリードリヒの即位を阻止するため、ホーエンシュタウフェン家と対立するヴェルフェン家のオットーの戴冠を強行しました
フリードリヒ=バルバロッサと渡りあったハインリヒ獅子公の嫡子であるオットーはしかし、>>229で見たようにインノケンティウスに反逆する愚を犯したため破門され皇帝位から追われることとなります
そして1215年11月22日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世として即位、中世で最も開明的とされる君主が誕生したのでした


本日は「玉座に座った最初の近代人」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

360Republica de Venexia:2014/11/23(日) 00:08:21 ID:???
11月23日は2002年Jリーグ第14節が行われた日です

2002年のJリーグディビジョン1、そのファーストステージはジュビロ磐田が制し、セカンドステージへと臨みました
磐田は第1節でヴィッセル神戸を1-0で破ると、第2節では宿敵鹿島アントラーズを2-1で降す上々の立ち上がりを見せました
第3節で浦和レッドダイヤモンズに1-2で敗れるものの、第4節は清水エスパルスとの静岡ダービーを2-0で制し、第5節ではFC東京を高原直泰の4得点を含む6-1で大勝し連勝を伸ばしていきます

後半戦に入り第8節でジェフユナイテッド市原に1-2で敗れ浦和に首位の座を明け渡しますが、第10節はサンフレッチェ広島を1-0で破り、浦和は鹿島アントラーズに1-2で敗れたため首位奪還に成功します
浦和はこの節を境に失速し、代わってガンバ大阪と鹿島が磐田を追走する形となりました
ところが第12節はガンバと鹿島の直接対決であり、これに敗れたガンバは磐田との差を開けられます
一方の鹿島も第13節で広島に0-2で敗れ、第8節で敗れて以来全勝をキープする磐田が一歩抜け出しました

そして2002年11月23日、第14節の東京ヴェルディ1969との試合を福西崇史の延長Vゴールがそのまま優勝決定ゴールとなり、ファーストステージに続きセカンドステージもジュビロ磐田が制することとなりました
本来ならばファーストステージ王者とセカンドステージ王者が優勝決定戦を行うチャンピオンシップがありましたが、両ステージともジュビロ磐田が優勝したためチャンピオンシップが行われず、自動的にジュビロ磐田の年間優勝が決定したのでした


本日はJリーグ両ステージ完全制覇の誕生日です、おめでとうございます

361名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/11/23(日) 00:17:39 ID:mDk00k5g
>>360
唐突なJリーグで草
まだヴェルディがJ1にいた頃やな

362Republica de Venexia:2014/11/23(日) 00:20:37 ID:???
>>361
関心が湧くこれ!って歴史上の出来事が無くてつい
懐かしい時代ですよねー、随分と勢力図も変わりました

363Republica de Venexia:2014/11/24(月) 00:28:39 ID:???
11月24日は「進化の日」です

進化論については古代より様々な学者の間で論じられ、特に19世紀の生物学者ラマルクによって体系づけられました
そしてラマルク以降の進化論研究に大きな影響を与えたのがダーウィンでした

1831年、ダーウィンはイギリス海軍の測量船ビーグル号に乗船し、1836年まで世界一周の航海を行います
その途中で立ち寄ったのがガラパゴス諸島で、ゾウガメの甲羅の形が島ごとに異なることから、動物や植物の種の不変性に疑問を感じ、進化論への着想を得ました
1838年には、自然環境が生物の進化の方向性を決めるという自然選択説を考えつきます

しかし当時のヨーロッパはキリスト教が大きな影響力を持つ社会であり、生物は神が創造したと信じられていたため、ダーウィンは自説の発表を躊躇します
転機となったのはウォレスとの出会いで、ダーウィンと同様の説を持っていたウォレスがダーウィンに相談したことをきっかけに、1858年には共同で自然選択説の論文を発表します
そして1859年11月24日、ダーウィンはこの論文をもとに『種の起源』を出版、全世界に大きな影響を与えることとなるのでした


本日は『種の起源』の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ピーター・J・ボウラー、横山輝雄訳『チャールズ・ダーウィン 生涯・学説・その影響』朝日新聞社、1997年
・内井惣七『ダーウィンの思想 ─ 人間と動物のあいだ』岩波書店、2009年
・松永俊男『チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会』朝日新聞社、2009年

364Republica de Venexia:2014/11/25(火) 00:46:32 ID:???
11月25日は第三次ポーランド分割が行われた日です

>>239で見たように、18世紀のポーランドは隣国のロシア・オーストリア・プロイセンに干渉され、1772年8月に一回目の分割がなされました
この分割によりロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部を、プロイセンは「王領プロイセン」を獲得し、ポーランドは国土の約30%・人口の約35%を失います

ポーランドはこの後国制改革を進め、1791年、>>90で見た五月三日憲法制定などが制定されますが、ロシアとプロイセンが武力介入を行い、1793年1月に第二次ポーランド分割が行われ、この時点でポーランドは事実上国家としての機能を停止しました
94年には愛国者コシューシコが武装蜂起を起こしますが、あてにしていたフランスの救援が得られず失敗に終わります

そして1795年11月25日、3度目の分割がロシア・オーストリア・プロイセンによって強行され、ポーランドは地図上から消えてしまうこととなったのでした


本日はポーランド・リトアニア共和国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・田中良英『エカチェリーナ2世とその時代』東洋書林、2009年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

365Republica de Venexia:2014/11/26(水) 00:51:34 ID:???
11月26日は第二回三頭政治が始まった日です

ローマでは>>244で見たように、ポンペイウスを倒したカエサルが独裁権を握ることになりましたが、その急速な改革は共和派の反感を買います
その急先鋒がカシウスやブルートゥスで、彼らの手により前44年、カエサルは暗殺されました

しかしカエサル派はすぐさま反撃を開始します
まずカエサル子飼いの将軍であるアントニウスがカエサル派を糾合し、元老院の主導権を握った後に共和派を追放します
これに対し、カエサルの遺言状にはよってその後継者に指名されていたオクタウィアヌスは元老院との争いを避け、協調姿勢を取りました
そのためアントニウスとオクタウィアヌスは対立し、アントニウスはレピドゥスと連合してオクタウィアヌス・元老院との対決姿勢を強めます

オクタウィアヌスは一見共和派であったものの、内心では元老院の勢力を排除した寡頭政、帝政の実現、つまりカエサルの後継者となりことを目指していたため、カエサル派の連携を第一と考えます
そして前43年11月26日、オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスの3人は連合して国家再建三人委員会を発足、三頭政治を開始するのでした


本日は第二回三頭政治の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

366Republica de Venexia:2014/11/27(木) 00:17:40 ID:???
11月27日はクレルモン教会会議が閉会した日です

クレルモン教会会議の開催に至るまでの流れは>>160で見ましたが、ここではクレルモン教会会議そのものに焦点を当てることにしましょう
クレルモン教会会議を主催したローマ教皇ウルバヌス2世は>>294で登場した教皇グレゴリウス7世在位中に枢機卿となり、彼に忠誠を誓い、その死後は教会改革を引き継いだ人物でした
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世に対しては巧みな外交でその力を封じ込め、フランス教会をローマ教会の支配下に収め、スペインに対しても大きな影響力を発揮しました

さらに東方、ビザンツ帝国との友好関係も復活させたウルバヌスは1089年のアマルフィ教会会議でビザンツ皇帝アレクシオス1世の破門を解き、1095年3月のピアチェンツァ教会会議でのアレクシオスの使節団による救援要請、イスラーム駆逐のための聖戦という提案に感銘を受け、壮大な計画を練り上げていきます

1095年11月18日にウルバヌスはクレルモンにて教会会議を開催し、約300名の聖職者が出席しました
会議では俗人による叙任権、聖職売買及び聖職者の婚姻禁止を定めた教令の決議がなされ、「神の平和」も支持されました
さらにフランス王フィリップ1世を不義の罪で破門し、カンブレー司教を聖職売買の罪で破門、そしてリヨン司教区のサンス・ランス司教区に対する首位権を確立します

そしてウルバヌスはこの教会会議を最も重要な目的のために活用します
会議の最終日である1095年11月27日、ウルバヌスは大群衆の前で演説を始めます
その内容は、東方のキリスト教徒たちを救う必要があるということから始まりました
トルコ人がキリスト教徒の土地に侵攻し住民を虐待、教会を冒涜し、そのために東方のキリスト教世界は救援を懇願しているということを聴衆に説いたのです
特に聖地イェルサレムの神聖さを強調し、その巡礼を行うことの艱難辛苦を語りました
こうして東方の状況を説明した後、ウルバヌスは東方キリスト教世界救出のために西方キリスト教徒が出征すること、正義の戦いを行い神の業をなすこと、聖戦に参加する者には恩赦が与えられることなどを呼びかけ、集まった群衆は熱狂に包まれました
こうして教会会議は閉会し、各地の司教が同じような呼びかけを行うことで、西方キリスト教世界で巨大な宗教的情熱が生まれることとなるのでした


本日は十字軍運動の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田廣訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・エリザベス・ハラム、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

367Republica de Venexia:2014/11/28(金) 00:22:08 ID:???
11月28日はアルバニアがオスマン帝国から独立した日です

>>296で見たように、オスマン帝国はバヤジット1世の時代からバルカン半島への進出を本格化させ、アルバニアもその侵攻対象となりました
アルバニアは1423年にオスマン帝国に従属し、その際に人質が送られました
この人質の一人が後にアルバニアの民族的英雄となるスカンデルベグでした

当時のオスマン帝国スルタンは>>347でも取り上げたムラト2世で、彼はスカンデルベグを小姓として遇しイスラーム教育を施します
スカンデルベグはムラトのバルカン半島征服戦争に参加し功績をあげ、1437年にはアルバニアの一部を封土として与えられます
しかしアルバニアとの繋がりを警戒したオスマン帝国は翌年その所領を取り上げられ、別の土地へと移されます
これに不満を持ち、またハンガリーのフニャディ=ヤノシュがオスマン帝国に対し攻勢をかけ失地回復を成し遂げたこともあり、1443年、スカンデルベグはオスマン帝国からの離脱を決行しました

すぐにオスマン帝国の討伐隊が派遣されるもスカンデルベグはこれを撃退、直後にハンガリーがヴァルナの戦いで敗れるものの、ヴェネツィア共和国と同盟しオスマン帝国への抵抗を続けます
1450年にはムラト2世自らが率いたオスマン帝国軍を撃退し、1453年のコンスタンティノープル陥落によるビザンツ帝国滅亡後は危機感を覚えた西欧からの支援も増加します
アルバニアにはオスマン帝国が度々討伐軍が送られますが、いずれもスカンデルベグが撃退、1466年には「征服者」メフメト2世率いる討伐軍をも撃退します

しかしスカンデルベグは1468年に病没し、アルバニアは大きな求心力を失うことになります
それでも10年間はオスマン帝国に抵抗を続けましたが、1478年、再びメフメト2世がアルバニアへと侵攻し、ついにオスマン帝国の軍門に降りました
以後約400年間、アルバニアはオスマン帝国支配下に置かれていましたが、>>293>>307などで見てきたように、アルバニアでもまた19世紀末からオスマン帝国に対する独立運動が盛んとなります
この独立運動でスカンデルベグが民族的英雄として象徴的存在となったのです
そして1912年11月28日、第一次バルカン戦争に乗じオスマン帝国からの独立を達成するのでした


本日は独立アルバニアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・柴宣弘編『世界各国史24 バルカン史』山川出版社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

368Republica de Venexia:2014/11/29(土) 00:01:31 ID:???
11月29日はオルミュッツ協定が結ばれた日です

1848年3月、ドイツではフランス二月革命の影響を受けベルリン三月革命が勃発しました
その中で>>114で見たように同年5月にフランクフルト国民議会が開かれました
12月にはプロイセンにて欽定憲法が制定され、プロイセンの政治的近代化が果たされます

1848年3月には国民議会によってドイツ憲法が採択され、国民議会はこの憲法に基づいてプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世を皇帝に選出しましたが、フリードリヒ=ヴィルヘルムは帝冠の受諾を拒否し、国民議会主導によるドイツ統一の試みは挫折しました
その後フリードリヒ=ヴィルヘルムはラードヴィッツを外相としオーストリア以外のドイツ諸侯との同盟によってプロイセン中心の連邦国家を建設しようとするウニオン政策を推進し、これにハノーファー、ザクセンなどが同調します
しかしこれは当然オーストリアの反発を招き、バイエルン、ヴュルテンベルクもオーストリア支持を表明しました
さらにオーストリアとともにウィーン体制維持に尽力してきたロシアがオーストリアと協調してプロイセンのウニオン政策を妨害します

そして1850年11月29日、プロイセン・オーストリア・ロシアの代表はチェコのオルミュッツで協定を結び、プロイセンはウニオン政策の放棄を余儀なくされました
翌年にはドイツ連邦が正式に復活し、小ドイツ主義によるドイツ統一は挫折することとなったのでした


本日は「オルミュッツの屈辱」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

369Republica de Venexia:2014/11/30(日) 00:15:30 ID:???
11月30日はナルヴァの戦いが行われた日です

>>285で見たように、スウェーデンは17世紀、グスタフ=アドルフの軍制改革により強力な近代的軍隊を保持していました
グスタフ=アドルフはその軍事力を背景に周辺諸国へと勢力を拡大し、リューリク朝断絶後に動乱時代を迎えていたロシアに介入、1617年にストルボヴァの和約を結びバルト海沿岸地域を掌握します
また三十年戦争中には>>327で見たようにトルステンソンの電撃戦によりデンマークを破り、ゴットランド島、ノルウェーを獲得しました
三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約によってポンメルンなども得、さらにポーランドに侵攻しリヴォニアを獲得、直後のデンマークとの戦争でスコーネを獲得、バルト海帝国を確立させました

このスウェーデンの勢力拡大に脅やかされた上述のロシア・デンマーク・ポーランドの三国は対スウェーデン同盟、北方同盟を1698年に結成し、1700年、三方からスウェーデンに同時攻撃をかけます
当時のスウェーデン王はカール12世、弱冠18歳の若き王であり北方同盟諸国は与し易いと見ての攻勢でしたが、このカール12世は「北方のアレクサンドロス」と讃えられる軍事の天才でした

1700年7月、カールはすぐさま反撃を開始、まず同盟国イギリス・オランダの艦隊によりデンマーク艦隊を退けると首都コペンハーゲンを急襲、デンマークは早くも8月に降伏し、トラヴェンタール条約を結んで北方同盟から離脱させられます
一方その頃ポーランドはリヴォニアのリガを、ロシアはエストニアのナルヴァを攻めていましたが、両都市は頑強に抵抗し攻城戦が長引いていました
カールはデンマークを降した後反転し、海路からロシア・ポーランド両軍の攻撃に向かいます
まず標的としたのはナルヴァのロシア軍、カールはエストニアのパルヌに上陸しナルヴァ救援に北上しました

そして1700年11月30日、吹雪が吹き荒れる中スウェーデン軍は包囲中のロシア軍を強襲、ロシア軍は隙を突かれて統率が取れず、多数の将兵と全ての大砲を失う壊滅的な敗北を喫したのでした
この後カールはポーランドへと転戦しこれも降すなど、破竹の進撃を続けることとなるのでした


本日は大北方戦争におけるスウェーデン優勢の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・土肥恒之『ピョートル大帝とその時代 サンクト・ペテルブルク誕生』中央公論社、1992年
・百瀬宏他『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『物語スウェーデン史 バルト大国を彩った国王、女王たち』新評論、2003年

370Republica de Venexia:2014/12/01(月) 00:12:57 ID:???
12月1日はポルトガルがスペインに反乱を起こした日です

スペインは16世紀、「太陽の沈まぬ国」と称される繁栄を享受していましたが、イタリア戦争でフランスと戦いで、ネーデルラントの反乱鎮圧に追われ、イングランドとの制海権争いを繰り広げ、そして三十年戦争に参戦したことで、その国力は疲弊しきっていました
スペイン王フェリペ2世は宰相オリバーレスの補佐を受け、莫大な戦費をやり繰りし財政破綻を凌いできましたが、やがて南アメリカの植民地で産出される銀の量が減少し始め、スペインの国庫は危機に瀕することとなります

にも関わらず戦費の支出は増え続け、さらにスペイン王国の中心であるカスティーリャは人口減少や不況に見舞われており、増税はとても望める状況ではありませんでした
そこでオリバーレスは「軍隊統合計画」を考案し、それまでカスティーリャが大半を支えてきたスペイン軍を再構成し、スペインを構成する各地域が割り当てられた人員を提供し軍事負担の均等化を図り、集団安全保障体制を築こうとしました
この計画は同時にスペインの各地域に残っていた特権を排除し、統一スペインの実現をも目指したものでした

しかしこの計画はスペイン各地での反乱を招くことになります
まず1640年5月、カタルーニャで大規模な反乱が発生し、スペインはこの鎮圧に苦慮します
そしてこのカタルーニャ反乱と三十年戦争にスペイン軍が駆り出されている隙を突き、1640年12月1日、ポルトガルでも反乱が起こったのです
ポルトガルではジョアン4世が国王となったことでスペインとの同君連合が解消され、またイタリアのアラゴン領、ナポリ王国とシチリア王国でもスペインに対する反乱が起こり、スペインが築いた帝国は完全に崩壊することとなったのでした
ポルトガルは独立運動を続け、1668年に正式に独立が認められることになります


本日はポルトガル王政復古戦争の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年

371Republica de Venexia:2014/12/02(火) 00:26:11 ID:???
12月1日はナポレオンがフランス皇帝として戴冠した日です

>>215で始まったフランス革命は、まず立憲王政派が立法議会を開き、91年憲法による91年体制が成立しました
しかし自由主義貴族主導のもとで行われた改革は第三身分の政治参加が遅々として進まず、また国内外の反革命勢力の運動が憂慮されていたため、急進派が台頭していくようになりました
さらにヴァレンヌ逃亡事件で国王ルイ16世は信望を失っており、ヴァルミーの戦いで第三身分の発言権が増し、1792年8月には王権が停止され、9月には立法議会も解散され新たに国民公会が成立します

この国民公会を主導したのがジロンド派でしたが、やがてより急進的なジャコバン派が台頭し、93年6月にはジロンド派が国民公会から排除されました
こうして独裁権を握ったジャコバン派はロベスピエール指導の下で恐怖政治を進め、反対はを次々と処刑していきます
しかし参政権の獲得や公職を得た第三身分や、農地を無償分配された農民は保守化し、ロベスピエールの恐怖政治に反感を持つようになっていきました
94年7月、ロベスピエールはテルミドールのクーデタにより失脚、処刑されます

このクーデタにより成立したのが総裁政府でしたが、選挙の度に方針が変わるその統治は不安定であり、また対外戦争での劣勢もあって不満が高まり、軍部によるクーデタが起こりました
これがブリュメールのクーデタで、主導者の一人ナポレオン=ボナパルトを第一統領とする統領政府が成立します
この統領政府は実質的にナポレオンによる独裁で、ナポレオンはコンコルダートでローマ教皇と和解し、ナポレオン法典により社会の安定を図り、アミアンの和約で対外平和を回復しました
これらの成果によりナポレオンは1802年に終身統領に就任、1804年5月には元老院決議と人民投票により皇帝へと推挙されます
そして1804年12月2日、ナポレオンはパリのノートルダム聖堂にて戴冠式を行い、正式に皇帝に即位したのでした


本日は「フランス人民の皇帝」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・柴田三千雄他『世界歴史大系フランス史2 16世紀〜19世紀半ば』山川出版社、1996年
・柴田三千雄『フランス史10講』岩波書店、2006年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年

372Republica de Venexia:2014/12/03(水) 00:32:49 ID:???
12月3日は華岡青洲が麻酔手術を成功させた日です

華岡青洲は1760年、現在の和歌山県紀の川市那賀町平山に、代々医者の家系の長男として産まれました
父親の直道は外科医で、青洲は幼少の頃より祖父や父のもとを訪れる患者に接し、難病に苦しむ患者を救いたいと考えるようになります

そんな青洲が23歳の時、最新の医学を学ぶために京都に出ます
ヨーロッパ医学や中国医学を研究した医学者の多くが集まる京都で青洲は最新医学を吸収しました
また古代中国の華陀が「麻沸湯」という麻酔薬のようなものを用い、患者の痛みを和らげて治療したということを知り、麻酔薬研究のヒントを得ます

京都で三年間勉強した青洲は和歌山に戻り、父親の後を継いで外科の治療を続けることになります
その合間に青洲は麻酔薬を作るための薬草を探し、研究に打ち込みました
そしてトリカブトやマンダラゲに麻酔効果があることを発見し、犬や猫に飲ませての実験が繰り返されます
やがて三毛猫の「まふつ」が麻酔薬を飲んで三日間過ぎた頃に目を覚まし、研究を始めてから15年にして麻酔薬の完成にこぎつけたのです

しかしその麻酔薬は動物には効いたものの人間に対しての効果は未知数でした
そこで青洲の母親於継と妻の加恵が自ら実験台になることを申し出、青洲はそれぞれの年齢や体調を考慮しながら麻酔薬の投与を行います
そして於継の死、加恵の失明という代償を払い、研究を始めてから約20年、ついに麻酔薬「痛仙散」が完成したのです
1805年12月3日には痛仙散を用いた手術を行い、実証されているなかでは世界初の麻酔手術を成功させたのでした


本日は麻酔手術の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・戸西葉子『郷土絵本No.40 華岡青洲』わかやま絵本の会、1995年

373Republica de Venexia:2014/12/04(木) 01:01:51 ID:???
12月4日はフランク王カールマンが亡くなった日です

フランク王国は、カロリング家の名称の由来となったカール=マルテルが716年、アウストラシアの宮宰となました
当時のフランク王国は、カール=マルテルの父親中ピピンを破ったネウストリアの宮宰、ラガンフリドが王国全体の覇権を握っていました
カール=マルテルはこのラガンフリドを破り、またフリーセン人やザクセン人を抑え、テューリンゲン、アレマニエン、バイエルンなどの諸部族を従え、さらにプロヴァンスなど南フランスにも遠征を続けました
カール=マルテルの最大の功績は732年のトゥール・ポワティエ間の戦いにおける勝利で、国内外の声望を高め、フランク王国最大の実力者となります

しかしカール=マルテルは王位に就くことはなくあくまで諸侯の一人であり続け、カロリング朝が開かれるのはカール=マルテルの息子小ピピンの代ででした
カール=マルテルの死後、その所領は分割相続され、アウストラシアをピピン、ネウストリアをカールマンが統治します
やがて747年、カールマンが俗世を捨ててモンテ=カシノ修道院に隠棲しピピンが単独の支配者となると、751年にはフランク王キルデリク3世を幽閉し自ら国王となるのでした

こうしてカロリング朝が開かれ、ピピンはアキテーヌやラングドックに勢力を広げ、ガリア全土へと支配権を拡大していきます
この小ピピンが768年に死去した後、再び分割相続によって領地を得たのがカールとカールマンでした
カールはアウストラシア、ネウストリア、アキテーヌを支配し、カールマンはブルゴーニュ、アレマニエン、プロヴァンス、ラングドックを得、共同王として分割統治が行われました
しかし771年、カールマンが急死し、カールが単独の国王となったのです
こうしてフランク王国全土の支配者となったカールはさらなる勢力拡大を行い、後に西ローマ帝国を復活させ、「シャルルマーニュ(カール大帝)」と称されるようになるのでした


本日は単独王カール1世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『世界歴史大系フランス史1 先史〜15世紀』山川出版社、1995年
・五十嵐修『地上の夢キリスト教帝国 カール大帝のヨーロッパ』講談社、2001年
・佐藤彰一『カール大帝 ヨーロッパの父』山川出版社、2013年

374Republica de Venexia:2014/12/05(金) 00:37:34 ID:???
12月5日はロイテンの戦いが行われた日です

>>341で見たように、1757年11月5日、プロイセンはザクセンにてロスバッハの戦いでオーストリア・フランス連合軍に勝利しましたが、その一方でシュレジエンでは22日、ブレスラウの戦いでオーストリアに破れ、シュレジエンの大部分を奪還されてしまいました
これに対しプロイセン王フリードリヒ2世はすぐさま軍をブレスラウに転じ、オーストリアとの決戦に臨みます

1757年12月5日、プロイセン・オーストリア両軍はブレスラウ近郊のロイテンで激突しました
プロイセンは数において劣勢でしたが、ロスバッハの戦いでも用いた斜行戦術により戦局を掌握します
まずプロイセン軍左翼がオーストリア軍右翼に突撃をかけますがすぐに退却、オーストリア軍は追撃しますが、これはプロイセン軍の陽動作戦でした

オーストリア軍がプロイセン軍左翼に気を取られている隙に、プロイセン軍は右翼から左翼にかけて斜めに陣形を変え、オーストリア軍左翼を側面から攻撃します
左翼から中央部まで崩されたオーストリア軍は戦線を支えきれず敗走、プロイセンはロスバッハに続き、斜行戦術により大勝を収めるのでした


本日は「フリードリヒ大王の最高傑作」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
・フィリップ・ヘイソーンスウェイト、稲葉義明訳『フリードリヒ大王の歩兵 鉄の意志と不屈の陸軍』新紀元社、2001年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

375Republica de Venexia:2014/12/06(土) 00:34:31 ID:???
12月6日はバトゥがキエフを攻略した日です

9世紀に現在のロシアへと移住してきたルーシ族の首長リューリクはノヴゴロドに国家を建設しました
このリューリクの後継者がオレーグで、彼は882年にドニエプル川流域のキエフを占領し、この地にキエフ大公国を建てました

キエフ大公国が最盛期を迎えたのは聖公と称されるウラジーミル1世の時代で、彼によりスラヴ諸国、バルト・フィン族の大部分が併合され、さらにポーランドに遠征し諸都市を占領、オカ川流域のヴャチチ族、北方のヤトヴャギ族、東スラヴのラジミチ族、南方のペチェネグ族を討ち、領土を大きく拡大させました
そしてより重要なことは、キリスト教を受容したことでした
>>232で登場したビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹アンナを后に迎え、ギリシア正教を受容、ヨーロッパ世界の一員となったのです

キエフ大公国はヤロスラフ賢公の治世でも安定した統治が続きましたが、彼の死後国家は分裂し始めます
南方に出現したボロヴェツ族が大きな脅威となり、またヤロスラフの息子たちに大公位継承に関する明確な方式が無かったため内紛が勃発、以後国内で諸公間の争いが頻発するようになったのです

こうして衰退していったキエフ大公国にとどめを刺したのがモンゴルの侵入でした
>>63で登場した、チンギス=ハーンの長男ジュチの次男バトゥがモンゴル帝国第2代ハーン、オゴタイの命により1236年2月、ヨーロッパ遠征へと出発します
バトゥはルーシ諸国を次々と征服し、1240年9月にはキエフ包囲に着手します
弱体化していたキエフ大公国はこれに抗することができず、1240年12月6日、ついにキエフはモンゴルによって陥落、破壊されキエフ大公国は滅亡することになったのでした


本日はキエフ大公国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年

376Republica de Venexia:2014/12/07(日) 01:37:59 ID:???
12月7日は「カトリック教会と正教会による共同宣言」が発表された日です

>>218で見たように、1054年に東西教会は相互破門を行い、その相違が改めて確認されることとなりました
相互破門以降もこの分裂を解消する努力は続けられましたが、>>64で見た第4回十字軍が結果的にビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを征服したことにより、東西教会の分裂は決定的となりました

ビザンツ帝国がオスマン帝国に圧迫され滅亡の危機に瀕するようになると、ビザンツ皇帝は西欧の援助を得るためカトリック教会との和解を図るようになります
1431年から1449年まで行われた一連の公会議では東西教会統一の一歩手前までこぎつけましたが結局破談し、1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国に攻略されビザンツ帝国が滅亡したため東西教会統一の動きは中断することになります

時代は下り20世紀になると、プロテスタントから広がった教会一致運動、エキュメニズムが東西教会統一を主導するようになります
これに正教会が合流して世界教会協議会が設立され、カトリック教会もこの流れを受けて1962〜65年に第2バチカン公会議を開きます
そして1965年12月7日、ローマ教皇パウロ6世は「カトリック教会と正教会による共同宣言」を発表し、ここに東西教会の相互破門は解消されたのでした


本日は東西教会相互破門の命日です、おめでとうございます


参考文献
・高橋保行『東方の光と影』春秋社、1991年
・八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』朝日新聞出版、2012年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年

377Republica de Venexia:2014/12/08(月) 01:47:11 ID:???
12月8日は真珠湾攻撃が行われた日です

1941年11月、日米交渉が暗礁に乗り上げ、ハル・ノートを最後通牒と受け取った日本は開戦を決意しました
聯合艦隊司令長官山本五十六はかねてより構想していた、航空戦力によりハワイ真珠湾の米太平洋艦隊を一挙に叩くという作戦を実行に移します

11月23日、択捉島の単冠湾に南雲忠一中将率いる第一航空艦隊が集結します
その陣容は旗艦「赤城」、「加賀」の第一航空戦隊、「蒼龍」「飛龍」の第二航空戦隊、「翔鶴」「瑞鶴」の第五航空戦隊という6隻の航空母艦を中核とし、その護衛として戦艦「比叡」「霧島」の第三戦隊、重巡洋艦「利根」「筑摩」の第八戦隊が編成され、警戒隊として軽巡洋艦「阿武隈」率いる第一水雷戦隊に「谷風」「浦風」「磯風」「浜風」の第十七駆逐隊に「陽炎」「不知火」「霞」「霰」の第十八駆逐隊が組み込まれ、その他哨戒隊や補給隊などを擁するものでした

26日には単冠湾を出撃し、空母を中心とする輪形陣をとってやや南下しつつ東進を始めました
12月2日には「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電報が発され、当初の予定通り8日の攻撃が確認されます
そして1941年12月8日午前6時、ハワイ真珠湾に接近した機動部隊は、旗艦「赤城」に戦闘機が翻ると一斉に艦載機を発艦させます
「赤城」飛行隊長で真珠湾攻撃総隊長の淵田美津雄中佐率いる水平爆撃隊を中心に、右側には同じく「赤城」飛行隊長の村田重治少佐率いる雷撃隊、左側には「翔鶴」飛行隊長の高橋赫一少佐率いる急降下爆撃隊、そしてその上空を「赤城」飛行隊長の板谷茂少佐率いる制空隊が護衛する大編隊が真珠湾を目指しました

午前7時49分、淵田総隊長は「全機突撃」の無線を発し、52分には「我レ奇襲二成功セリ」を意味する「トラ・トラ・トラ」が打電されました
高橋少佐率いる急降下爆撃隊が基地施設への爆撃を行うと、続いて「雷撃の神様」村田少佐率いる雷撃隊が戦艦群を攻撃、淵田総隊長率いる水平爆撃隊も順次爆撃を続けます
この第一次攻撃隊が攻撃を終えると、続いて午前8時58分、第二次攻撃隊が真珠湾に突入しました
「瑞鶴」飛行隊長の嶋崎重和率いる水平爆撃隊は航空基地を攻撃し、「蒼龍」飛行隊長で「艦爆の神様」と称される江草隆繁少佐率いる急降下爆撃隊は米艦隊に爆撃を加えます

第二次攻撃隊が午9時45分に作戦を終え、母艦に収容されると攻撃作戦は終了されました
こうして米艦隊の戦艦4隻を撃沈、その他戦艦・巡洋艦など18隻に損害を与え、航空機200機を破壊し、乾坤一擲の真珠湾攻撃は成功に終わったのでした
このハワイ作戦と同時に行われたマレー作戦によって戦端が開かれ、日本は太平洋戦争へと突入していくのです


本日は太平洋戦争の誕生日です


参考文献
・「太平洋戦史シリーズVol.1 奇襲ハワイ作戦」学習研究社、1994年
・「丸」編集部「写真太平洋1 ハワイ作戦・南方攻略作戦」光人社、2003年
・「歴史街道2014年1月号 真珠湾と空母機動部隊」PHP研究所、2013年

378Republica de Venexia:2014/12/09(火) 01:24:24 ID:???
12月9日は藤原信頼一派が三条殿を襲撃した日です

1156年の保元の乱に勝利した後白河天皇は側近の藤原信西主導の下で保元新制を発令し、荘園の整理や寺社勢力の統制、内裏の再建などを進めました
また信西は保元の乱で活躍した平清盛を取り立て、平氏が台頭するようになりました

しかし信西が政権内で急速に勢力を拡大したことは近臣や貴族の反発を招き、やがて後白河天皇が譲位し二条天皇が即位すると、その近臣たちは二条親政派を形成し信西と対立します
一方後白河は上皇として実権を保ち、ここに後白河院政派が形成されます
後白河上皇は近臣として藤原信頼を取り立て、また信頼と繋がりのある源義朝や源師仲も後白河院政派に合流しました

しかし後白河院政派も一枚岩ではなく、独裁的な権限を握る信西への反発から、反信西派が形成されるようにもなります
彼らの信西への憎悪は深く、本来なら政権を握って争う相手である二条親政派とも手を組み、信西の排除へと動くことになるのです

そして1160年12月9日、藤原信頼・源義朝を中心とする反信西派が院御所である三条殿を襲撃、ここに平治の乱が勃発することになるとでした


本日は平治の乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・竹内理三『日本の歴史6 武士の登場』中央公論新社、2004年
・元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』日本放送出版協会、2004年
・上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』吉川弘文館、2007年

379Republica de Venexia:2014/12/10(水) 00:28:02 ID:???
12月10日はマレー沖海戦が行われた日です

1941年7月に日本は南部仏印進駐を行い、その後この方面の治安を目的として南遣艦隊を編成します
当初は軽巡洋艦や海防艦からなる微弱な艦隊でしたが、時局が緊迫するに伴い戦力を増強、新たに南遣艦隊司令長官を小沢治三郎中将とし、重巡洋艦「鳥海」を旗艦に重巡洋艦「最上」「三隈」「鈴谷」「熊野」からなる第七戦隊や軽巡洋艦「川内」を旗艦とする第三水雷戦隊などを加えます
さらに支援部隊として戦艦「金剛」「榛名」の第三戦隊第二小隊、重巡洋艦「高雄」「愛宕」の第四戦隊第一小隊などの南方部隊も合流し、12月にはマレー方面へと進撃しました

一方シンガポールを拠点とするイギリス東方艦隊は、司令長官フィリップス中将指揮の下、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」巡洋戦艦「レパルス」を中核とするZ部隊を出撃させ日本軍の迎撃に向かいますが、英空軍基地が日本軍の攻撃を受けていたため、航空機の護衛が無いままでの進軍となりました

9日になると両軍は接近し、日本軍は「鬼怒」「鈴谷」「熊野」から発信した索敵機によってイギリス艦隊を発見し、フィリップス中将は当初の計画であった日本艦隊の奇襲を断念し、シンガポールへの反転帰投を決定します
このイギリス艦隊を潜水艦「伊58」が発見しその位置を打電しますが、この電報は司令部に伝わらず、南方部隊司令長官の近藤信竹中将は敵艦隊に追い付けないと判断し反転、小沢中将はこれを受けてやむを得ず航空部隊による攻撃に委ねることになりました

そして1941年12月10日午前7時55分に元山航空隊の九六式陸攻26機、午前8時14分に鹿屋航空隊の一式陸攻26機、午前8時20分から9時30分にかけて美帆航空隊の九六式陸攻33機が発進し、イギリス艦隊を目指しました
午後12時45分にはまず美帆航空隊の8機が「レパルス」に爆撃を行い、続けて元山航空隊の17機のうち8機が「プリンス・オブ・ウェールズ」を、9機が「レパルス」に攻撃を加えます
航空機による護衛の無い両艦はその後も立て続けに爆撃、雷撃を受け、午後2時3分には「レパルス」が、午後2時50分には「プリンス・オブ・ウェールズ」が轟沈し、航空機による戦艦撃沈という史上初の快挙を達成したのでした
イギリス首相のチャーチルはこの2戦艦の喪失に大きな衝撃を受け、「インド洋にも太平洋にも英米の主力艦は一隻もない。この広漠たる水域にわたって日本は最強であり、我々は至る所で弱く、裸である」と記述しています
主力艦を失ったイギリス東洋艦隊はその後シンガポール、インド洋から撤退し、この方面において劣勢となるのでした


本日は航空機による作戦行動中の戦艦撃沈の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「歴史群像太平洋戦史シリーズVol.2 大捷マレー沖海戦」学習研究社、1994年
・「丸」編集部「写真太平洋戦争1 ハワイ作戦・南方攻略作戦」光人社、2003年
・別冊宝島編集部『日本海軍 全作戦記録』宝島社、2014年

380Republica de Venexia:2014/12/11(木) 00:26:17 ID:???
12月11日はザクセン公国が王国に昇格した日です

ザクセン人はフランク王カール1世(シャルルマーニュ)の時代にフランク王国に組み入れられ、シャルルマーニュの西ローマ帝国の分裂後は東フランクに属します
やがてハインリヒ1世がドイツ王となってザクセン朝を開き、その次代のオットー2世の代には、>>242で見たように神聖ローマ皇帝オットー1世として即位し、ハインリヒ2世までの4代が皇帝位に就きました

その後1106年にロタール3世として皇帝になった他はザクセン公国から皇帝が出ることはなかったものの、有力諸侯の1つとして影響力を保持し、特にハインリヒ獅子公は皇帝フリードリヒ=バルバロッサに対抗するなど強権を発揮しました

>>95で登場した皇帝カール4世の時代には金印勅書によってザクセン公は七選帝侯となり、帝国内で特別な地位を得ることになります
ザクセン選帝侯としてはフリードリヒ3世が著名で、ヴィッテンベルク大学を創設し、>>334で見たルターを保護するなど、宗教改革にも関心を持ち「賢公」と称されます

その後もザクセン公国は三十年戦争や>>205の大北方戦争、>>319
のオーストリア継承戦争、>>341の七年戦争、>>330のナポレオン戦争などに関わりました
そして1806年12月11日、ザクセン公フリードリヒ=アウグスト1世はナポレオン1世から王号を得、>>211で取り上げたライン同盟に加盟することになるのでした


本日はザクセン王国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年

381Republica de Venexia:2014/12/12(金) 00:04:37 ID:???
12月12日はハンガリー王ジギスムントがドラゴン騎士団を創設した日です

ジギスムントは>>296で見たように十字軍運動を主導したものの、1396年にニコポリスの戦いでオスマン帝国に大敗し、オスマン帝国のさらなる圧迫を受けるようになります
ジギスムントはハンガリー諸侯の信望を失い、さらに妻であるハンガリー女王マーリアの死によって窮地に立たされます
というのも、大王と称されるラヨシュ1世に男子がいないまま没した後にドイツからやって来たジギスムントはハンガリー貴族に支持されず、大貴族のほとんどがその即位に反発していたからです

これを救ったのがバルバラ=ツェリスカでした
バルバラはハンガリー王イシュトヴァーン5世をはじめ、多くの東欧王家の血を引いており、そんな彼女との結婚により、ジギスムントの王位に正統性が生まれたからです
バルバラは遠征に出ることの多かったジギスムントをよく補佐し、国内統治にも貢献しました

この2人が共同で創設したのがドラゴン騎士団でした
ジギスムントは忠誠を誓う貴族たちを団員とし、ハンガリー王家を護り、その敵に対抗するための騎士団を1408年12月12日に創設します
このドラゴン騎士団の団員にはワラキア公ヴラド2世もおり、ドラゴン騎士団にちなんでドラクル(竜公)と称されました
このヴラド=ドラクルの息子がヴラド=ツェペシュで、彼もまたドラゴン騎士団の一員として、オスマン帝国を度々撃退するのでした


本日はドラゴン騎士団の誕生日です、おめでとうございます

参考文献
・パムレーニ・エルヴィン、田代文雄・鹿島正裕訳『ハンガリー史1』恒文社、1990年
・南塚信吾『世界各国史19 ドナウ・ヨーロッパ史』山川出版社、1999年
・南塚信吾『図説ハンガリーの歴史』河出書房新社、2012年

382Republica de Venexia:2014/12/13(土) 01:07:11 ID:???
12月13日は教皇ケレスティヌス5世が退位した日です

ローマ教会では>>332で見たように、シチリアの王位継承争いではシャルル=ダンジューを支持していました
この時の教皇がマルティヌス4世でしたが、>>40で見た通りシャルル=ダンジューはシチリアを失います
マルティヌスはこのシチリアを奪還しようとしますが失敗し、次代の教皇ホノリウス4世の代でもこれを達成できず、ニコラウス4世がようやく一応の解決を見ることになります

またシチリア問題と並行して、伸張する王権、特にフランス王との対立が教会内で課題となっていました
ニコラウスもこの問題に取り組みましたが、志半ばで病没します
しかしニコラウスの死後に行われた教皇選挙は、枢機卿や諸侯の意向に振り回されたことで難航し、約2年間の空位期間が出現してしまいます

ようやく1294年7月にケレスティヌス5世が教皇として即位しますが、ケレスティヌスにとっては望まない教皇就任であり、また教会内での派閥争いに利用されることをよしとせず、退位を決意します
そして1294年12月13日、ケレスティヌスは教皇としては異例な存命のまま退位を行いました
教皇位は>>275で登場したボニファティウス8世に引き継がれ、ローマ教会は苦難の時代へと突入していくのでした


本日は存命教皇退位の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・フランチェスコ・シオヴァロ、ジェラール・ベシエール、鈴木宣明監『ローマ教皇 キリストの代理者・二千年の系譜』創元社、1997年
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

383Republica de Venexia:2014/12/14(日) 00:38:46 ID:???
12月14日はアムンゼンが南極点に到達した日です

極地における探検としては、大航海時代の頃からアメリカ大陸の北側を回ってヨーロッパからアジアへと到達する航路が開拓されてきました
ノルウェーのアムンゼンもその航路開拓に挑んだ一人で、1905年には世界で初めてこの北西航路によるアジア到達を達成しました

その後アムンゼンは北極点の到達を目指しましたが、1909年にアメリカのピアリが北極点に到達したため、その目標を南極点到達へと変更します
同じ頃イギリスのスコット、日本の白瀬矗も南極点到達を目指していましたが、アムンゼンはいち早く南極大陸に上陸しました
そして1911年12月14日、アムンゼンは史上初めて南極点への到達に成功します
これはスコットが同じく南極点に到達する約一ヶ月も前のことでした


本日は南極点到達の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・本多勝一『アムンゼンとスコット』教育社、1986年
・エドワール・カリック、新関岳雄・松谷健二訳『アムンゼン 極地探検家の栄光と悲劇』白水社、2002年
・フェリペ・フェルナンデス-アルメスト、関口篤訳『世界探検全史下 道の発見者たち』青土社、2009年

384Republica de Venexia:2014/12/15(月) 00:37:30 ID:???
12月15日は嶋清一が誕生した日です

1915年に始まった全国高校野球選手権、その和歌山大会は、来年春の甲子園の21世紀枠候補に選ばれた桐蔭(当時和歌山中)が一時代を築いていました
第一回大会から14大会連続出場、第7回・第8回には史上初の連覇を果たし、特に第7回大会は圧巻でした
県予選では海草中を32-0、和歌山工を39-0で破り紀和大会で郡山を11-0で下して甲子園に進出すると、神戸一中を20-0、釜山商を21-1、豊国中を19-2、京都一商を16-4で破るという、圧倒的な成績で優勝を果たしたのです
総得点75、得失点差68というのは今でも破られていない記録で、まさに和歌山中は初期の甲子園において最強と呼べる存在でした

そんな和歌山中の快進撃を阻止したのが、嶋清一が入学することになる海草中(現向陽)でした
第15回大会、初めての甲子園に挑んだ海草中は惜しくも広島商に0-3で敗れ準優勝に終わります
その後第21回大会に出場し、第23回からは4大会連続出場を果たしますが、嶋清一が在学したのがこの頃でした

嶋にとって初出場となった第21回大会は一塁手としての出場で初戦敗退に終わります
翌年投手に転向した嶋は次第に主力投手として成長し、第23回・第24回大会と投手としての経験を積んでいきます
そして嶋にとって最終学年となった第25回大会、嶋は高校野球史に残る偉業を達成するのです
初戦の嘉義中を5-0で破ると、続いて京都商も5-0で完封し、準々決勝では米子中を3-0とまたもや完封し、準決勝の島田商を8-0でかつノーヒットノーランで降しました
そして決勝の下関商では2人のランナーを四球で出すもののいずれも塁上で刺し、結果的には打者27人、5-0のノーヒットノーランを達成するという、甲子園史上唯一の偉業を成し遂げたのでした

嶋が卒業した翌年の海草中は再び優勝して2連覇を達成し、向陽と校名が変わってからも夏の出場は無いものの春には4回出場し、2010年の選抜では21世紀枠ながら開星を2-1で破り45年ぶりの勝利を収めたことは記憶に新しいでしょう
また嶋清一は2008年に野球殿堂入りを果たしました
戦争で戦死してしまったためプロ野球選手としての活躍は惜しくもありませんでしたが、間違いなく日本の野球史を代表する名選手の一人といえるでしょう


本日は伝説の大投手嶋清一の誕生日です、おめでとうございます

385Republica de Venexia:2014/12/16(火) 00:00:34 ID:???
12月16日は「大和」が竣工した日です

イギリスで戦艦「ドレッドノート」が竣工して以来、世界は建造競争の時代へと突入していきました
日本は八八艦隊計画、アメリカではダニエルズ・プランを構想するなど各国が海軍力の増大に努めましたがその費用は莫大であり、次第に軍縮が主張されるようになります
1922年のワシントン海軍軍縮条約締結から1936年のロンドン海軍軍縮条約失効までの間は海軍休日と呼ばれ、各国は巨艦の建造を自粛します
しかしこの間、日本は戦艦はアメリカの6割、補助艦はアメリカの7割以下という制限を加えられ、軍縮条約への不満を募らせていました

戦艦「大和」の建造が計画されたのはこのような状況下においてでした
日本は財政においても資源においてもアメリカに圧倒的に劣っており、建艦競争となれば日本が不利なのは明白でした
そこで日本は個艦優越、すなわち敵艦を圧倒的に上回る性能を備えた主力艦を建造し、それを中核としてアメリカ艦隊を打ち破るという構想を立てます
そこから生まれたの巨大戦艦「大和」だったのです

1937年11月4日、「大和」は起工されます
「大和」はアメリカ艦を上回る性能を想定して建造されますが、これにはアメリカの戦艦建造における制約も関係していました
太平洋と大西洋に艦隊を展開するアメリカは、双方を結ぶパナマ運河を通行できる大きさに収める必要があり、そのためにアメリカの戦艦は最大でも40.6㎝の主砲しか搭載できなかったのです
「大和」にはこれを上回る主砲を搭載、防御面も当然それに耐えられる装甲を備える想定であり、完成すればアメリカの戦艦を遥かに凌ぐものとなります

この巨大戦艦「大和」は当時の日本の技術の粋をつぎ込んで建造され、その巨体にも関わらずブロック工法の採用により順調に建造されていきます
そして1941年12月16日、ついに「大和」が竣工します
史上最大の46cm三連装砲を3基9門備え、バイタルパートには46cm砲に耐えられる装甲を施し、基準排水量も史上最大の64,000トンという巨大戦艦が誕生したのです
当時他国で建造されていた戦艦が、主砲が35.6〜40.6㎝、基準排水量が35,000〜42,900トン出遭ったことからも、「大和」がどれほど他国を凌駕していた戦艦かがわかるでしょう


本日は史上最大の戦艦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「歴史群像太平洋戦史シリーズVol.11 大和型戦艦」学習研究社、1996年
・雑誌「丸」編集部編『ハンディ版日本海軍艦艇写真集 戦艦大和・武蔵・長門・陸奥』光人社、2003年
・「歴史人2013年1月号 戦艦大和と連合艦隊の真実」KKベストセラーズ、2012年

386Republica de Venexia:2014/12/17(水) 00:15:10 ID:???
12月17日はライト兄弟が動力飛行に成功した日です

>>351で見たように、飛行機は20世紀初頭から開発が進められ、サミュエル・ラングレーによる飛行実験が試みられましたが、これは失敗に終わりました
グライダーパイロットであったライト兄弟は、同じくグライダーパイロットであったオットー・リリエンタールの影響を受け、動力飛行の研究を進めます
この研究には上述のラングレーも資料提供などの支援を行い、ライト兄弟は飛行実験を重ねていきました

ラングレーのエアロドーム号による飛行実験が失敗に終わった後の1903年12月17日、ライト兄弟はノースカロライナ州キティホーク近郊のキルデビルヒルズで、ライトフライヤー号による飛行実験を成功させたのです
これは民間によるものであったため政府は関心を示さず、ライト兄弟に対抗したグレン・カーチスによって飛行機開発は進展していきましたが、ライト兄弟による科学的な飛行機開発の試みは、航空史において大きな一歩だったと言えるでしょう


本日は有人動力飛行の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ラッセル・フリードマン、松村佐知子訳『ライト兄弟 空を飛ぶ夢にかけた男たち』偕成社、1993年
・佐貫亦男『不安定からの発想』講談社、2010年
・白石光『歴群「図解」マスター 戦闘機』学研パブリッシング、2013年

387Republica de Venexia:2014/12/18(木) 00:23:48 ID:???
12月18日はフビライがモンゴル帝国の国号を大元とした日です

モンゴル帝国第4代ハーン、モンケが1259年8月に急死すると、モンゴル帝国では後継者争いが勃発しました
後継者として有力であったのはモンケの弟であるフビライ、フレグ、アリクブケでしたが、このうちフレグは遠く西アジアにいたため対応が遅れ、フビライとアリクブケによる内戦が始まりました

フビライは金蓮川、アリクブケはカラコルムでそれぞれ独自にクリルタイを開いて大ハーン即位を宣言します
この時点ではモンゴル本土でクリルタイを開き、モンケの葬儀を取り仕切ったアリクブケに正統性がありました
しかし戦力的にはフビライが優勢で、チャガタイ家がアリクブケから離反したこともあってアリクブケは降伏、1264年7月、フビライは単独の大ハーンとなります

4年間にわたる内戦によってモンゴル帝国は分裂し、フビライは帝国の再統合を進めます
モンゴル本国を中心にジョチ・ウルス、フレグ・ウルス、チャガタイ・ウルスがゆるやかに連合するこの新帝国は陸・海の通商路が通され、商業と流通により結合されるユーラシア大交易圏を成立させました
その結合点となったのが、フビライが1266年に造営された首都、大都でした

大都を中心に新帝国は機能し始め、フビライはさらなる試みに着手します
それが1271年12月18日に行われた、「大元」への国号改称でした
大元は「乾元」という言葉に由来し、それは天や宇宙を意味し、モンゴル族の間で全ての源として崇められる「テングリ」という言葉に通じるものでした
つまりフビライは、自らが治める国がモンゴル族の頂点であることを強調し、この大元を中心にモンゴル帝国の再統合がさらに進められることになったのでした


本日は大元ウルスの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡上 軍事拡大の時代』講談社、1996年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年
・ジャン=ポール・ルー、田辺希久子訳『チンギス・カンとモンゴル帝国』創元社、2003年

388Republica de Venexia:2014/12/19(金) 00:10:09 ID:???
12月19日はヘンリ2世がイングランド王に即位した日です

>>315で見たように、ヘースティングズの戦いに勝利したノルマンディー公ウィリアムはイングランド王ウィリアム1世となり、ノルマン朝を開きました
ウィリアム1世が死去すると、その遺領であるノルマンディー公領は長男ロベールが、イングランドは三男ウィリアムが受け継ぎます
しかしこの2人はともに両地域を単独で支配することを目論んで対立しました

ロベールが第1回十字軍への参加を表明すると、ウィリアムはロベールに資金提供を行う代わりにノルマンディーを担保として得、一時的にイングランドとノルマンディーを支配しましたが、ロベールが十字軍から帰国する前に急死してしまいます
ここですぐさま国王に即位したのが、ウィリアム1世の末子ヘンリでした

ヘンリはローマ教皇と妥協し聖職叙任権闘争を終結させたことで教会と友好関係を築き、行政機構の整備や法典の編纂を行い、さらに1106年にはロベールを破ってノルマンディーを併合し、両地域の統一を実現しました
ヘンリ1世が亡くなると、その甥のスティーヴンが即位しましたが、ヘンリの娘マティルダは反発し、イングランドではスティーヴン派とマティルダ派に分かれる内乱が勃発します
この内乱はマティルダの息子アンジュー伯アンリとスティーヴンとの間で和平協定が結ばれ終結しました

そしてスティーヴンが死去すると協定に基づき、アンリは1154年12月19日、イングランド王ヘンリ2世として即位し、プランタジネット朝を開きます
ヘンリはすでにノルマンディー公として認められており、アキテーヌ女公アリエノールとの結婚によりアキテーヌ公領も獲得、アンジュー伯としてアンジュー、メーヌ、トゥレーヌなども保持し、フランスの約半分を領していました
そしてイングランド継承により、イングランドからピレネー山脈に至る広大な領土を統治する一大国家が成立したのでした


本日はアンジュー帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年

389Republica de Venexia:2014/12/20(土) 00:52:06 ID:???
12月20日はマカオが中国に返還された日です

ポルトガルは15世紀後半から海上進出を進め、インド航路開拓により大航海時代を牽引していました
中国にも16世紀には到達し、マカオに居住権を得ます
以後、ポルトガルはここを拠点に対中国・対日本交易を行い、マカオは大いに繁栄することとなります

17世紀になると中国の清では康煕帝が台湾の鄭成功に対抗するため遷界令を敷き、日本も鎖国政策を採ったため、一時的にマカオは衰退します
しかし鄭成功の死後台湾が清に降伏し、>>370のポルトガル王政復古戦争が終結し植民地支配が強化されると、マカオは再び交易の中心地となります

19世紀にはマカオは完全にポルトガルの植民地となり中国の行政権が及ばないようになり、以降20世紀後半までこの状態が続きます
しかし第二次世界大戦後、マカオでは中国系住民による反ポルトガル暴動が起こり、さらにポルトガル本国の革命でサラザール以来の独裁政権が倒れると、新政府は植民地の放棄を宣言します
1979年には中国とポルトガルとの間で国交が樹立し、そして1999年12月20日、ついにマカオはポルトガルから中国へと返還されることとなったのでした


本日は特別行政区マカオの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊間潤吾『マカオ歴史散歩』新潮社、2004年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年

390Republica de Venexia:2014/12/21(日) 00:56:46 ID:???
12月21日はピルグリム=ファーザーズがプリマスに上陸した日です

イングランドでは>>168で見たように、ヘンリ8世の時代にイングランド国教会が設立され、エリザベス1世の時代に確立されました
しかし国教会の勢力拡大は国内のプロテスタント、ピューリタンの反発を招き、両派の対立が深まっていきます
これに対しジェームズ1世はピューリタン急進派の弾圧を決定、迫害を進めていきます

このため、ピューリタンの一部は信仰の自由を求め、アメリカへと旅立ちます
このピューリタンはピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖)と呼ばれ、1620年11月にアメリカへと到達、プロビンスタウンに上陸しました
しかし原住民との争いが起こったためプロビンスタウンを起ち、新たな入植地を探します
そして1620年12月21日、ピルグリム=ファーザーズは現在のプリマスに上陸し、その際に最初に踏んだ岩をプリマス・ロックと名付けます
こうしてアメリカに入植したピューリタンはニューイングランド植民地の建設を進めていくのでした


本日はプリマス・ロックの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』講談社、1998年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・紀平英作『世界各国史24 アメリカ史』山川出版社、1999年

391Republica de Venexia:2014/12/22(月) 00:46:45 ID:???
12月22日は三方ヶ原の戦いが行われた日です(旧暦)

1571年、将軍足利義昭は各地の大名に書状を送り、信長包囲網の結成を呼びかけます
これに応じた武田信玄は翌1572年約3万の兵を動員し、織田信長領の美濃、徳川家康領の遠江へと進軍します
このうち信玄率いる本隊は遠江へと侵攻し、一言坂で徳川軍を破ると二俣城を包囲、これを陥としました

家康の拠城浜松城の近郊である二俣城の陥落により、家康は次の標的が浜松城であると判断し籠城戦の準備を整え、同盟者である織田信長の援軍を待とうとしていました
しかし1572年12月22日、二俣城から出陣した信玄は浜松城に迫るものの欠下で転進し、三方ヶ原台地へと向かいます
これに対し家康は籠城策を放棄し武田軍を追撃するため浜松城から出撃しました
ところが信玄はまたもや反転して三方ヶ原に陣を構え、徳川軍を迎撃します

おびき出される形での戦闘に突入した徳川軍は数においても劣勢であり、家臣の多数を失う完膚なきまでの大敗を喫しました
家康は討死の危機にさらされながらも浜松城に逃げ帰り、その際に脱糞したという逸話もあります
家康は籠城戦の備えを命じるとともに、みじめな負け戦に顔をしかめている姿を絵に描かせました
家康はその絵を常に座右に置き、自分に心の隙が生じた際にその絵を見、気を引き締め直したと言われています
また信玄がこの戦いで採った戦法を関ヶ原の戦いで応用したともされ、家康にとっては得るものも多かった戦だといえるのでしょう


本日は「三方ヶ原戦役徳川家康画像」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・小和田哲男『三方ヶ原の戦い』学習研究社、2000年
・「新・歴史群像シリーズ12 徳川家康 大戦略と激闘の譜」学研マーケティング、2008年
・若桜木虔・山中將司『図解戦国武将別日本の合戦40』東洋経済新報社、2010年

392Republica de Venexia:2014/12/23(火) 00:36:00 ID:???
12月23日はミドハト憲法が発布された日です

>>223で見たように、オスマン帝国はカルロヴィッツ条約、パッサロヴィッツ条約を通じてオーストリアに対し劣勢となり、>>205の大北方戦争に関わったことからロシアの侵入も招き、19世紀に入ると>112で見たようにムハンマド=アリーが事実上独立するなど、衰退が決定的となっていきました

これに対しオスマン帝国はスルタンマフメト2世がイェ二チェリを廃止して軍隊の近代化を進め、アブデュル=メジト1世の代ではムスタファ=レシト=パシャを起用し、ギュルハネ勅令に基づく近代化改革、タンジマートを進めていきます
そして1876年12月23日、アブデュル=ハミト2世の時代に宰相ミドハト=パシャによってミドハト憲法が発布されました
この憲法は西欧化を目指すオスマン帝国近代化改革の集大成ともいえ、アジア最初の憲法となったのでした


本日はアジアにおける憲法の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年

393Republica de Venexia:2014/12/24(水) 00:05:36 ID:???
12月24日はボニファティウス8世が教皇に即位した日です

>>382で見たケレスティヌス5世退位の後、新たに教皇に即位したのがボニファティウス8世でした
ボニファティウスは前任教皇が抱えていた問題の1つ、シチリア問題に着手します
一時はアラゴン王ハイメ2世のシチリア王位廃棄にこぎつけ、シチリア奪回を図りハイメの弟フェデリーコ2世を追い詰めますが、結局シチリア奪回は失敗に終わりました

またシチリア問題と並ぶフランス王権との対立では、フランス王フィリップ4世が行った聖職者への課税を許さず、教皇至上主義を掲げて真っ向からフランス王権と対立したことは>>275で見た通りです
結局ボニファティウスはアナーニ事件で捕らえられ、やがてアヴィニョン捕囚、大シスマへとつながっていくのでした


本日は代193代ローマ教皇の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『世界歴史大系フランス史1 先史〜15世紀』山川出版社、1995年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

394Republica de Venexia:2014/12/25(木) 00:01:22 ID:???
12月25日はクリスマスです

800年のこの日、フランク王カール1世が戴冠しました
>>373で単独王となったカールはその後も征服戦争を続け、西ヨーロッパ世界の大半を支配する強大な国家を建設します
そしてカールはローマ教皇レオ3世によって戴冠され、「ローマ皇帝」の称号を得ました
これは>>270で見たように、西ローマ皇帝位が東ローマ帝国に返上されて以来のものであり、西ヨーロッパはゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化が統合された西ヨーロッパ文化圏の成立をも意味しました
これらの功績により、カールはシャルルマーニュ(カール大帝)と称されるのです


1000年のこの日はイシュトヴァーン1世が戴冠しました
これまで見てきたように、ハンガリーは中世の強国として繁栄しましたが、その礎を築いたのがイシュトヴァーンでした
>>245のレヒフェルトの戦いで敗れた後、マジャール人はキリスト教化を進め、パンノニアに国家建設を始めます
この動きを完成させたのがイシュトヴァーン1世で、彼はローマ教皇シルウェステル2世によって戴冠され、ハンガリー国王として認められました
この功績によりイシュトヴァーンは聖イシュトヴァーンと称されます
また代々のハンガリー王は「聖イシュトヴァーンの王冠」を受け継ぎ、その支配領域は聖イシュトヴァーンの王冠の地と呼ばれ、ハンガリー人の拠り所となったのです


1066年のこの日はウィリアム1世が即位した日です
>>315のヘースティングスの戦いに勝利したノルマンディー公ウィリアムは、ノルマン=コンクェストを支持したローマ教皇アレクサンデル2世の承認を得てイングランド王に即位します
ウィリアムはカンタベリ大司教ランフランクと協力して統治を行い、イングランドにおける教会改革を進めていくのでした


1100年のこの日はボードゥアン1世が即位した日です
>>224で見たように、第1回十字軍におけるイェルサレム攻略とゴドフロワ=ド=ブイヨンの「聖墳墓教会の守護者」就任により実質的にイェルサレム王国が成立しましたが、正式にイェルサレム王に就任したのがゴドフロワの弟エデッサ伯ボードゥアンでした
イェルサレム王に即位したボードゥアン1世はエデッサ伯領、アンティオキア公国、トリポリ伯領などへの宗主権を有し、十字軍国家の中心的存在となったのです


本日は西ローマ帝国、ハンガリー王国、ノルマン朝、イェルサレム王国の誕生日です、おめでとうございます

395Republica de Venexia:2014/12/26(金) 00:25:43 ID:???
12月26日はハインリヒ6世の息子が産まれた日です

神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝は、フリードリヒ=バルバロッサの時代にドイツでの王朝権力を固定化し、その王権に対抗しようとする教皇権に挑戦し、皇帝権の新たな段階へと踏み出そうとしていました
フリードリヒは皇帝指揮による十字軍を成功させ、皇帝権の確立を図りましたが、第3回十字軍において遠征中に溺死するという不運な最期を遂げます

フリードリヒの後を継いだハインリヒ6世は先代の帝国・皇帝政策をさらに発展させ、地中海世界に強大な皇帝権を打ち立て、古代ローマ帝国を復活させるという「世界支配計画」を打ち出します
同時に帝国を選挙王制から世襲王制に変更し、「世襲帝国計画」をも実行に移そうとしました
1194年12月26日には皇后コンスタンツェとの間にフリードリヒが誕生し、さらにイェルサレム、そしてビザンツ帝国征服の十字軍の準備を進め、ハインリヒの計画は実現に向かおうとしていました

しかしこの壮大な帝国計画はドイツ諸侯やローマ教皇の反発によって難航し、さらに十字軍遠征準備中にハインリヒが36歳で急死したため挫折、皇帝位もまたホーエンシュタウフェン家から宿敵であるヴェルフェン家へと移ってしまいました
幼いフリードリヒは>>359で見たようにやがてフリードリヒ2世として皇帝に即位し、ローマ教会から「アンチ・キリスト」と恐れられ、「玉座に座った最初の近代人」と称される開明的な君主へと成長していくのでした


本日はフリードリヒ2世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

396Republica de Venexia:2014/12/27(土) 01:18:06 ID:???
12月27日は航空母艦「鳳翔」が竣工した日です

空母の歴史は、1911年のフランス艦「フードル」まで遡ります
水雷艇母艦兼工作艦として竣工した「フードル」は水上機母艦へと改装され、初めて水上機を搭載しました
これに続いたのが日本海軍の海防艦「若宮」で、1914年に水上機母艦へと改装されると青島作戦に参加し、初めて航空機を実戦で出撃させました
第一次世界大戦では、鈍重な水上機よりも陸上機の方が優位であることが認められ、陸上機の艦載化が進められるようになります

1917年、イギリスは軽巡洋艦「フューリアス」の設計を変更し、世界で最初の航空母艦を竣工します
しかし軽巡洋艦からの改装であるため艦載機の発着艦には困難が伴い、イギリスはさらに客船「アーガス」を改装し、世界で初めて全通甲板をもつ空母となりました
イギリスはこれらの改装空母建造の経験に基づき、「ハーミーズ」を最初から空母として1918年1月15日に起工しました

日本海軍も「若宮」での経験を活かし、そしてイギリス海軍から技術を導入し、1919年12月16日に「鳳翔」を起工します
この「鳳翔」の建造には「ハーミーズ」の設計資料が重要な役割を果たしました
「鳳翔」の基本計画はこの設計資料によるものが多かったのです
こうして2国で純粋な空母が建造されることになりましたが、イギリスではすでに「アーガス」が完成し、また当時としては大型空母である「イーグル」の艤装工事も行われていたため、「ハーミーズ」の竣工がやや遅れることとなります
そして1922年12月27日、日本で航空母艦「鳳翔」が竣工し、世界で初めて最初から空母として設計された艦が完成したのでした


本日は正規空母の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・雑誌「丸」編集部編『写真日本の軍艦3 空母』光人社、1989年
・福井静夫『日本空母物語』光人社、2009年
・雑誌「丸」編集部編『軍艦メカ 日本の空母』光人社、2012年

397Republica de Venexia:2014/12/28(日) 00:30:08 ID:???
12月28日はウェストミンスター修道院が竣工した日です

ウェストミンスター修道院は1065年の今日、>>299で登場したエドワード懺悔王によって建設されました
エドワード懺悔王はそのあだ名が表すように非常に信仰心の篤い王で、後にカトリック教会によって列聖されるほどの人物でした
現在もイギリス王室で用いられている聖エドワード王冠はこのエドワード懺悔王に由来するものであり、王位継承者は代々この王冠によって正当な王位継承を行ってきたのです

>>315で見たノルマンディー公ウィリアムもこのウェストミンスター修道院で聖エドワード王冠を戴冠し、以後イングランド歴代の国王はウェストミンスター修道院で同様の戴冠式を行うのが慣例となります
またウェストミンスター修道院にはウェストミンスター宮殿が併設され、イギリスの政治の中心地として発展していきました
エドワード懺悔王のウェストミンスター修道院建設は、今日まで続くイギリス王室の基礎となったのです


本日はウェストミンスター修道院の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・森護『英国王室史話』中央公論新社、2000年

398Republica de Venexia:2014/12/29(月) 00:17:11 ID:???
12月29日はアイルランド憲法が施行された日です

イギリス史におけるアイルランドは、>>388で登場したヘンリ2世の時代から始まります
ヘンリはローマ教皇ハドリアヌス4世にアイルランド領有の認可を受け、同地に侵攻したのです
このヘンリと、その息子で>>53でも取り上げたジョンの時代、アイルランドは政治・行政・司法面でイングランド化が進んでいきました
しかしプランタジネット朝の王権弱体化に伴い、14世紀以降はイングランドによるアイルランド支配は弱まります

アイルランド支配が再び強まったのはテューダー朝ヘンリ8世の時代で、アイルランドでは反乱が頻発するものの、テューダー朝・スチュアート朝諸王はこれを鎮圧しアイルランド支配を確立していきます
決定的となったのが>>197で登場したクロムウェルによるアイルランド侵略で、カトリックが大多数を占めるアイルランドでは少数派の支配層プロテスタント優位の体制が成立し、植民地としてのアイルランドが確立しました

イギリス重商主義時代は搾取されるアイルランドという側面が強まり、これに対し19世紀、オコンネルらによるアイルランド解放運動が進みます
1914年にはアイルランド自治法案が成立し、1916年にはダブリンでイースター蜂起が起こり、ナショナリズムが高揚しました
これを受けアイルランドではシン=フェイン党が第一党となり、1921年にはイギリス−アイルランド条約が結ばれます
これによってアイルランド自由国が成立し、イギリス内の自治領という地位を獲得しました

しかしこの自治領という地位を巡ってアイルランドでは賛成派と反対派に分かれて内戦が勃発します
このうち反対派に属していたデ=ヴァレラはフィアナ=フォイルを結成して政権を握り、独立国アイルランドを目指しました
そして1937年12月29日、デ=ヴァレラはアイルランド憲法を成立させ、アイルランドを英連邦王国からの独立を達成したのでした
この後、アイルランドは1949年に英連邦からも離脱し、完全な独立を達成することになります


本日はアイルランド(エール)の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・波多野裕造『物語アイルランドの歴史 欧州連合に賭ける"妖精の国"』中央公論社、1994年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・上野格『図説アイルランド』河出書房新社、1999年

399Republica de Venexia:2014/12/30(火) 00:04:27 ID:???
12月30日はソヴィエト社会主義共和国連邦が成立した日です

>>343で見た十月革命の後、1918年1月に憲法制定議会が開かれましたが、ここで反ソヴィエトであるエス=エルが第一党を占めることとなります
これに対しレーニン率いるボリシェヴィキは憲法制定議会を閉鎖し、ソヴィエト体制を強行しました
さらにドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱し、ボリシェヴィキを共産党へと改称、首都をバルト海沿岸のサンクト=ペテルブルグから内陸のモスクワへと移しました

このような共産党の独裁に対し、それまで共闘してきたエス=エル左派は武装蜂起を行いますが鎮圧され、その結果共産党による一党独裁体制が確立します
1919年には社会主義者の国際組織であるコミンテルンを結成し、全世界への社会主義拡大を目指すようになりました
資本主義諸国はこれに警戒心を抱き対ソ干渉戦争を開始、イギリス・フランス・日本・アメリカなどがロシアへと出兵しますが、ソヴィエト政府は赤軍を組織して反撃、戦時共産主義を採って対抗します

この干渉戦争と戦時共産主義は農業・工業生産の低下を招き、飢饉や農民反乱、水兵反乱が起こります
このためレーニンは反革命政権を鎮圧し干渉軍が撤兵した1921年3月にネップ(新経済政策)を採用し、経済は回復していきます
そして各地のソヴィエト政権が統合へと向かう動きの中、1922年12月30日、ロシアを中心にウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースの4ソヴィエト共和国が連合し、ソヴィエト社会主義共和国連邦が成立することとなったのでした


本日は社会主義国家の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・和田春樹『世界各国史22 ロシア史』山川出版社、2002年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・松戸清裕『ソ連史』筑摩書房、2011年

400Republica de Venexia:2014/12/31(水) 00:03:01 ID:???
12月31日は日本軍のガダルカナル島撤退が決定した日です

日本は>>377の真珠湾攻撃で米太平洋艦隊を叩き、>>379のマレー沖海戦で英東洋艦隊の主力艦を撃沈したことで南方攻略戦を優位に進めます
1942年2月には太平洋戦争最初の大規模海戦とされるスラバヤ沖海戦でABDA艦隊を撃破し、第一段作戦を完了しました

しかしその後の作戦構想は陸海軍、さらに軍令部と聯合艦隊との間で一致が見られず、結局軍令部主導の下米豪遮断作戦が実施されることとなります
その一環として発動されたポートモレスビー攻略作戦では、5月の珊瑚海海戦で史上初の空母戦が行われました
この海戦で米空母「レキシントン」を撃沈、「ヨークタウン」を撃破するものの日本も「祥鳳」が撃沈され「翔鶴」が損傷し、攻略作戦自体は失敗に終わります
続く6月のミッドウェー作戦では>>155で見たように「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」を失い、こちらも目標を達成できずに終わりました

ミッドウェー海戦で機動部隊に大打撃を受けた日本は攻勢能力を失い、第二段作戦は全面的な見直しを迫られます
日本は米豪遮断作戦の一環としてガダルカナル島に飛行場の設営を進めていましたが、アメリカは日本軍の対応策が実行される前の8月に同地を占領、以後日本はガダルカナル島奪回を図ります

日本は第一次ソロモン海戦では米豪連合軍を夜戦で破るものの輸送作戦には失敗し、>>312で見たように第二次ソロモン海戦、サボ島沖海戦でも輸送作戦は失敗に終わります
10月の南太平洋海戦では米機動部隊を一時的に壊滅に追い込むものの日本も多数の艦載機と搭乗員を失い、11月の第三次ソロモン海戦では戦艦「比叡」「霧島」などを失ってまたもや輸送部隊上陸に失敗し、以後は駆逐艦や潜水艦による鼠輸送に切り替えました
しかしこの鼠輸送も、第一次でルンガ沖夜戦で完勝したものの輸送自体は失敗し、第二次・第三次の鼠輸送も失敗、第四次鼠輸送は一部の物資補給に成功しますが成果はごくわずかなものでした

ここに至り、聯合艦隊司令部では基地不足、航空機不足、護衛艦艇不足に加え、兵器・弾薬・食糧の継続的な補給の目処が立たないことからガダルカナル島奪回には成算が無いと判断します
そして1942年12月31日、御前会議にてガダルカナル島奪回作戦の断念、以後ガダルカナル島から全部隊を撤退させることに決定したのでした


本日はガダルカナル島奪回作戦の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・佐藤和正『太平洋海戦2 激闘篇』講談社、1988年
・「歴史群像太平洋戦史シリーズVol.6 死闘ガダルカナル」学習研究社、1995年
・「世界の艦船No.803 連合艦隊 太平洋戦争を振り返って」海人社、2014年

401名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/12/31(水) 10:03:35 ID:noIGyQwE
今日は西暦2014年、平成26年の命日です
お悔やみ申し上げます

402名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/12/31(水) 13:19:04 ID:.IWXMdQU
西暦2014年、平成26年は死ぬんじゃない
生まれ変わるんだ

403Republica de Venexia:2014/12/31(水) 15:37:31 ID:???
今年も色々なことがあった一年でしたね
歴史上でも様々な出来事があって...それぞれが関わり合ってきてるんだなあと実感します

来年も良き年となりますよう!

404Republica de Venexia:2015/01/01(木) 08:01:51 ID:???
1月1日はユリウス暦が制定された日です

>>244で見たように、カエサルは第一回三頭政治を行い、その後前48年のファルサルスの戦いでポンペイウスを打倒して元老院に対する優勢を確立、独裁政治を始めました
カエサルは次いでエジプトの内乱に介入し、その平定後エジプト女王のクレオパトラ7世と親密になり、しばらくの間エジプトに滞在します
しかしこの間、子飼いの将軍アントニウスが統治していたローマでは経済状態か悪化し、民衆の借財問題も深刻化していました

カエサルはローマに帰還すると、すぐさま民衆や兵士に対し金や小麦、オリーブ油などを配給して暴動を収め、その後も次々に改革を進めていきます
職人組合を解散させ、貧民の流入で増大した穀物の無償配給の対象者を減らすことで保守派を支持を得る一方、退役兵や貧民には植民地に土地を提供することで救済を行いました
ローマにおける公共事業も拡大し日雇労働者にも対策し、元老院の議事録公開なども実行に移すなど、改革が進んだのです

前45年1月1日のユリウス暦制定もその一環でした
それまで使われていたローマ暦は前153年に制定されていましたが、長い年月の間に大きなズレが生じていました
カエサルはこのズレを修正して新しい暦を作成し、彼の名にちなんでユリウス暦と呼ばれるようになったのです
前1世紀末にはローマ全土で施行され、ヨーロッパでは1582年にグレゴリオ暦が制定されるまで用いられることとなったのでした


本日はユリウス暦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・佐藤幸三『図説 永遠の都・カエサルのローマ』河出書房新社、2004年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年

405名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/01(木) 10:33:05 ID:gYEKyO3.
今日は西暦2015年、平成27年の誕生日です
おめでとうございます

406名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/01(木) 13:38:01 ID:Zsb4tPWs
2014年も歴史上の出来事になると思うと不思議な気持ちになりますね

あけましておめでとうございます

407Republica de Venexia:2015/01/02(金) 00:47:43 ID:???
1月2日はナスル朝の都グラナダが陥落した日です

イベリア半島では>>259で見た西ゴート族が定着し、5世紀初頭に西ゴート王国が成立しました
しかし711年、ウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻し西ゴート王国は滅亡してしまいます
ウマイヤ朝はキリスト教徒の支配に苦心し、また支配者層間での内紛が頻発するものの、後ウマイヤ朝が成立した後の8世紀半ばには統治が安定するようになりました
929年にはアブド=アッラフマーン3世がカリフを名乗って後ウマイヤ朝は全盛期を迎え、1031年まで存続、以後イベリア半島のイスラーム王朝はムラービト朝、ムワッヒド朝と変わっていきます

一方イベリア半島のキリスト教徒はというと、イスラーム支配を逃れた勢力が北部山岳地帯にアストゥリアス王国を建国します
これが718年のことで、ここからアストゥリアス王国を中心とした再征服運動、レコンキスタが展開されていくのです
レコンキスタは>>131で見たようにアルフォンソ7世のカスティーリャ王国が主導するようになり、アラゴン王国、ポルトガル王国も南下を進め、12世紀後半にはイベリア半島のほぼ北半分を支配するようになりました

劣勢に陥った当時のイスラーム王朝は、イベリア半島最後のイスラーム王朝であるナスル朝で、1232年に成立したこの王朝は1492年まで存続することになります
というのも、>>170の通りアラゴン王国はシチリアの反乱に干渉して同地を支配下に置くなど地中海方面へと勢力を伸ばしており、>>40で見たようにポルトガルはイングランドから航海技術を学んで大西洋方面への進出を目指しており、ナスル朝と正対していたのは実質カスティーリャ王国のみだったからでした
しかしあくまでイベリア半島における小国であるナスル朝は次第に追い詰められ、1479年にはアラゴン王フェルナンドとカスティーリャ女王イサベルのカトリック両王の結婚によりスペイン王国が成立すると、レコンキスタは最後の展開を迎えます
1492年1月2日、ついにナスル朝の都グラナダが陥落し、イベリア半島からイスラーム王朝が駆逐されることとなったのでした


本日はレコンキスタの完成日です、おめでとうございます


参考文献
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・高山博『ヨーロッパとイスラーム世界』山川出版社、2007年
・W.モンゴメリ・ワット、三木亘訳『地中海世界のイスラム』筑摩書房、2008年

408名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/02(金) 01:50:31 ID:Txy7EFPI
カスティーリャの女王様は某レコンギスタの姫よりはずっと有能やろなあ

409Republica de Venexia:2015/01/02(金) 02:09:01 ID:???
そういえば新しいガンダムはレコンギスタって名前でしたねー
レコンキスタと関係あるのかな...?

410それが世界の選択か…:2015/01/02(金) 02:15:04 ID:???
>>409
再征服とか回帰って意味だから金星人が地球に侵攻するんじゃないスか?(適当)

411Republica de Venexia:2015/01/02(金) 02:26:28 ID:???
>>410
なるほど、異星人との征服再征服の物語なんですね
物語が進むにつれてその意味が明らかになってきそうで、なんだか面白そうです

412Republica de Venexia:2015/01/03(土) 01:02:25 ID:???
1月3日はルターが破門された日です

>>334で見たように、ルターは1517年10月に『九十五箇条の論題』を発表し、これがきっかけとなって宗教改革が始まりました
ローマ=カトリック教会はこれに反論し、1518年8月にローマに出頭するようルターに命令しますが、彼はこれを拒否します

ルターは1520年以降積極的に教会批判の著作を書き、『ローマ教皇論』では現実の教会の権威を否定し、『ドイツのキリスト教貴族に与える書』では君主・貴族がキリスト教を改善するよう主張し、教会のバビロン捕囚について』ではキリスト教会の7つの秘跡のうち洗礼と聖体の秘跡のみを残すよう要求し、『キリスト者の自由』ではキリスト者は自由に福音に近づけるものと訴えました

これに対しローマ教皇レオ10世は当然反発し、1521年1月3日、ルターを破門します
次いで神聖ローマ皇帝カール5世も4月にルターをヴォルムス帝国議会に召喚し、彼に自説の撤回を求めますが、結果的にルター派の弾圧を決定することとなりました
しかしルターは>>380でも登場したザクセン公フリードリヒ賢公の拠城ヴァルトブルク城に匿われ、ここで新約聖書のドイツ語訳を行うなど、宗教改革を進めていくのでした


本日はルターへの破門宣告日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論社、2009年

413Republica de Venexia:2015/01/04(日) 00:45:30 ID:???
1月4日は露仏同盟が結ばれた日です

>>325で見たように、ドイツ帝国宰相ビスマルクは巧みな外交戦略を駆使してフランスの孤立化を図り、ビスマルク体制と呼ばれる国際体制を作り上げました
しかし1873年にドイツ・オーストリア・ロシア間で締結された三帝同盟は、バルカン半島を巡るオーストリア・ロシアの対立で揺らぎ、81年に新三帝同盟として復活するものの87年には更新されず、崩壊してしまいます

これに対しビスマルクはロシアと再保障条約を結んでロシアとの関係を維持し、フランスへの接近を防ぎました
オーストリアとはイタリアとともに三国同盟を形成し、こちらとの関係も保つことに成功します
しかし88年にドイツ皇帝となったヴィルヘルム2世はビスマルクとは異なる外交方針を打ち出したのです
そのため2人は対立し、90年にはビスマルクが更迭されヴィルヘルムによる親政が開始されます
ヴィルヘルムはロシアよりもオーストリアとの関係を重視し、オーストリアと対立するロシアとの再保障条約更新を拒否、さらに同じくロシアと対立するイギリスへの接近を試みたのです

これはロシア・フランス双方にとって僥倖でした
ロシアはドイツに代わる新たな同盟国を欲し、またシベリア鉄道建設など国内の近代化促進のため外国資本導入が必要だったのです
一方フランスもビスマルク体制による孤立状態からの脱却するため、ロシアと結ぶことは渡りに船といえるものでした
その結果1894年1月4日、露仏同盟が成立し両国の関係が強化され、後の英仏露三国協商へと発展していくのでした


本日は露仏同盟の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

414Republica de Venexia:2015/01/05(月) 00:08:36 ID:???
1月5日はナンシーの戦いが行われた日です

>>278で見たように、ブルゴーニュ公国はフィリップ善良公の下で最盛期を迎え、フランス王権に匹敵するほどの勢力を誇るようになります
公領には最高裁判所も設置され、そこでの決定はフランス王権でさえ干渉を受けなかったのです
1467年にフィリップ善良公の後を継いだシャルル突進公は、そのあだ名が示すように勇猛果敢な人物で、ブルゴーニュ公国のさらなる拡大を目指します
当時のブルゴーニュ公国はディジョンを中心とするブルゴーニュ地方とブリュッセルを中心とするフランドル地方に大きく分かれ、それらを統合しようと目論んだのです

しかしこのシャルルの征服活動に対し、その対象となった領主たちは当然反発し、低地連合を結成してシャルルに対抗します
また
>>278で見た通り神聖ローマ帝国諸侯でもあったシャルルは皇帝フリードリヒ3世に「ローマ人の王」の称号を要求するなど皇帝に挑戦するような行為も行い、帝国諸侯から一定の支持を得たものの、フリードリヒはこれを黙殺し、逆に低地連合に加わってコンスタンス連合を結成、シャルルに対抗しました
シャルルは各方面に敵を抱え、戦争は泥沼化していきます

一方、フランスはといえば、百年戦争を終結させたシャルル7世の下で中央集権化が進んでおり、彼の後を継いで1461年に即位したルイ11世はその事業をさらに発展させます
そして王権拡大のためには大諸侯の存在は邪魔そのものであり、特にフランス王権を脅かしていたブルゴーニュ公は真っ先に排除したい存在でありました
ルイはブルゴーニュ公シャルルに対抗する勢力を煽動し、同盟を結び、巧みにシャルルと渡り合いました
一時はシャルルによって捕虜となったものの、その際に結ばされた条約も三部会を味方につけてあっさり破棄し、シャルルは孤立していくのです

ルイはさらにスイス諸州と同盟を結び、スイス傭兵を引き入れることに成功します
当時強力無比な軍隊として恐れられていたスイス傭兵隊はシャルルの軍を度々破り、シャルルは追い詰められていきました
そして1477年1月5日、シャルルはロレーヌ公レネ・スイス傭兵隊の連合軍とナンシーをめぐって激突しますがこれに大敗し戦死してしまいます
これによりブルゴーニュ公国は崩壊、ルイ11世はこれを見てブルゴーニュ公国の併合に乗り出し、後にアラスの和約でブルゴーニュはフランス王領となるのでした


本日はブルゴーニュ公国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・佐藤賢一『フランス王朝史2ヴァロワ朝』講談社、2014年

415Republica de Venexia:2015/01/06(火) 00:29:34 ID:???
1月5日はベーメン王カレル1世が神聖ローマ皇帝に戴冠した日です

>>332で神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の死後、シチリアでは騒乱が起こりホーエンシュタウフェン朝が断絶したことを見ました
ドイツでも同様の混乱が起こり、コンラート4世の死によりこちらでもホーエンシュタウフェン朝が断絶すると、その対立王ホラント伯ヴィルヘルムも死去し、帝国に大空位時代が到来しました
1257年に始まるこの時代は、1273年の選挙でハプスブルク伯ルドルフがドイツ王に即位したことによりひとまず終結します

しかしその後も王位は安定せず、様々な家系から次々と選出され、対立王も出現することになり、跳躍選挙時代とも呼ばれました
そのような状況で単独王となったルートヴィヒ4世に対し、ローマ教皇ヨハネス22世は彼の即位の非合法性を主張し国王選挙のやり直しを要求しました
これに対し選帝侯たちは反発し、国王選挙法を発布します
その内容は国王選出は選帝侯によるものとし、教皇の同意を必要としないというものでした

このような状況で1355年1月5日、皇帝に即位したのが>>95でも登場したカール4世でした
カールは先の国王選挙法を強化した金印勅書を発布します
まず国王選出議会に際しては選帝侯の過半数の賛成で全会一致と見なされ、国王選挙が安定するようになりました
また選出された国王は自動的に皇帝になるものとされ、この選挙だけで皇帝が決定する仕組みが整えられました
そして選帝侯に大幅な特権が認められ、いわゆる領邦君主としての側面が強くなることになりました
カールは強大化する諸侯を抑えつけるのではなく、譲歩することでその見返りに皇帝即位を認めさせ、皇帝位の安定化を図ったのでした
このようにカールの時代に皇帝権は大きく変化し、神聖ローマ帝国は新たな展開を迎えることとなったのでした


本日は神聖ローマ皇帝カール4世の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

416Republica de Venexia:2015/01/07(水) 00:07:32 ID:???
1月7日はフランスがカレーを奪還した日です

>>388で見たように、フランスのアンジュー伯であったアンリがイングランド王となったことで、フランスに広大な領土を持ったアンジュー帝国が成立することとなります
一方、当時のフランス王朝はカペー朝、>>151で見た通り当初は弱体でしたが次第に王権拡大が進み、アンジュー帝国の領土を併合をする機会を伺っていました
12世紀後半のフィリップ尊厳王の時代になると、>>229で見たようにイングランド王ジョンからイングランド大陸領の多くを奪ったのです

14世紀から始まった百年戦争ではイングランド大陸領はほぼ全てが失われ、わずかに>>237で獲得したカレーが残るのみでした
そしてカレーがフランスに渡る契機となったのがイタリア戦争です
イタリア戦争は>>93で見たように、イタリアをめぐるフランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世との対立で始まった戦争でした

イタリア戦争におけるイングランド・フランス関係は、スペインとの関わりが大きなものとなります
オーストリアとスペインのハプスブルク領を統合していたカール5世ですが、その相続に際しスペインは長子フェリペに譲り、フェリペ2世として即位しました
そしてフェリペは父の遺志を受け継ぎ、フランスとの戦いを継続するのです
このフェリペがイングランド女王メアリと結婚し、イングランドとスペインが同盟関係になったのは>>354で見た通りです
イングランドはこの同盟関係により1557年6月、スペインと敵対しているフランスに宣戦しました

ところがこの対フランス戦争、イングランドにとってほぼ益の無いものとなってしまいます
フランスはギーズ公フランソワが南イタリアでスペイン軍に連勝しており、その間にスペイン側のサヴォイア公エマヌエーレ=フィリベールによって1557年8月、王都パリに程近いサン=カンタンを奪われましたが、急ぎ北上してきたギーズ公がサヴォイア公を撤退させました
ギーズ公は北方の障害を取り除くため、そのまま北上しイングランド領のカレーを包囲します
そして1558年1月7日、ギーズ公フランソワによってカレーは陥落し、百年戦争で失ってから約200年ぶりにフランス領に復帰することとなったのでした


本日はイングランド領カレーの命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

417Republica de Venexia:2015/01/08(木) 00:12:57 ID:???
1月8日はインノケンティウス3世がローマ教皇に即位した日です

>>294で聖職叙任権闘争がひとまずの終息をみて以降、教皇権は皇帝権に対してやや劣勢が続いていました
というのも、神聖ローマ皇帝となったホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ=バルバロッサが皇帝権からの独立を図り、「神聖帝国」という名称を用いるなど、皇帝がキリスト教世界を支配するという姿勢を前面に出していたからでした
バルバロッサは第3回十字軍で急死するものの、その後を継いだハインリヒ6世がその政策を受け継ぎ、強力な皇帝権を打ち立てようとしたのは>>395で見た通りです

ところがこのハインリヒも急死し、後に残されたのはわずか2歳のフリードリヒ2世でした
1198年1月8日、ローマ教皇インノケンティウス3世が即位したのはこのような状況においてでした
インノケンティウスはその在位中、教皇権の新たな方向づけを行います
彼はローマ教会の書記局を再編成、優秀な教会法学者をブレーンとして教皇権による集権的な統治を実現します
西欧世界に対しても、混乱が続く神聖ローマ帝国を尻目に教皇の至高権に基づく支配を進め、各地の教会に対し教皇君主政と称される支配体制を確立させたのです

インノケンティウスはその在位中、フランス王フィリップ尊厳王やイングランド王ジョン欠地王に対抗し、特にジョンに対して破門を行い、赦免の引き換えにイングランドを封土として差し出させるなどの強権を発揮しました
また12世紀において皇帝が主導していた十字軍ですが、インノケンティウスは教皇の名の下で第4回十字軍を実現させ、異端のカタリ派に対するアルビジョワ十字軍も行いました
そんなインノケンティウスのハイライトは1215年に開かれた第4回ラテラノ公会議で、彼は一千人以上の司教、修道院長などの聖職者、その他俗人の代表者の前で「教皇は太陽、皇帝は月」という演説を行い、教皇権の絶対性を示したのでした


本日は教皇権絶頂期の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・堀越孝一編『新書ヨーロッパ史 中世篇』講談社、2003年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

418名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/08(木) 02:01:19 ID:zP0.YDBk
分裂するわ俗権と張り合うわ十字軍やるわイタリア統一で不利益被るわ

これら乗り越えて未だ存在し続けるから教皇ってすげーわ
やっぱカール大帝への戴冠って英断だったんだな

419Republica de Venexia:2015/01/08(木) 10:08:38 ID:???
教皇にとってはしてやったりの出来事ですよね、カールの戴冠
コンスタンティヌスの寄進状をでっちあげて教皇権を正当化したりと、本当に強かに渡り合ってきた印象があります

420名前なんか必要ねぇんだよ!qwerty2014:2015/01/08(木) 11:39:19 ID:???
趣味系スレの数少ない生き残りですね

421名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/08(木) 12:03:28 ID:nc4ELsTQ
こんな良スレがあったとは
読みますよ〜読む読む

422Republica de Venexia:2015/01/09(金) 01:41:03 ID:???
1月9日は靖康の変が起こった日です

>>249で見たように、唐では玄宗末期からその支配に揺らぎが生じ、安史の乱はウイグルの援軍などもあって鎮圧したものの、支配領域は縮小しウイグルや吐蕃の圧迫を受けることとなります
こうして9世紀のユーラシアの東部は唐、ウイグル、吐蕃の三国鼎立となりましたが、やがてウイグル・吐蕃が滅び唐も大規模な反乱にあって滅亡します

この三国滅亡後の空白地帯は、北方ではトルコ系、モンゴル系の諸民族が興亡し、南方でも漢民族を中心に王朝が興亡する五代十国時代となります
この混乱を収め、960年に南北統一を果たしたのが宋でした
宋は貴族や武人勢力を排除し、官僚制度を整備して皇帝専制体制を強化し、周辺異民族に対しては遼と西夏に歳賜を送って平和を得るするなど、それまでの朝貢・冊封とは異なった関係が生まれました

しかし大規模な官僚制の維持や周辺異民族に対する防衛費などに莫大な費用がかかったため、宋は次第に財政難に陥っていきます
そのため新法による改革が試みられましたが反対派の抵抗も強く、国内は分裂することとなります
対外関係に関しても新興の金と結んで遼を滅ぼしたものの、その後は約定の歳賜を払わず遼の残党と結んで金の弱体化を図るなどしたため、逆に金の攻撃を受けることになります
そして1127年1月9日、宋の都開封は金によって陥落、皇帝の欽宗と先帝の徽宗が金に連行されるという靖康の変が発生、宗は華北を奪われ南方へと逃れることとなるのです

ここまでの8〜12世紀を通じて中国では大きな変化が起こっていました
中華帝国の支配領域は中国本土を越えた領域から中国本土へと縮小し、遊牧民の支配地域は中国とはほぼ切り離されることになります
経済の中心も南方に移行し、政治を担う勢力は貴族から官僚へと移るなど、「唐宗変革」と称される大きな変革期となったのでした


本日は北宋の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・中島敏・周藤吉之『五代と宋の興亡』講談社、2004年
・小島毅『全集中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流』講談社、2005年

423Republica de Venexia:2015/01/10(土) 01:19:24 ID:???
1月10日はカエサルがルビコン川を渡った日です

ローマではグラックス兄弟の改革のが失敗に終った後、民会を中心とする民衆派と、元老院を中心とする閥族派の対立が激化し、「内乱の一世紀」と呼ばれる時代に突入しました
まず民衆派のマリウスが軍制改革を行いローマの軍事力向上を達成しますが、皮肉にもその軍制改革により勢力を拡大した閥族派のスッラによってマリウス派は一掃され、元老院が復権されます

しかし保守的な支配を続ける元老院に対する不満が高まり、前60年には民衆派のカエサル、閥族派のポンペイウス、大富豪貴族のクラッススによる三頭政治が成立します
このうちカエサルはガリア、ポンペイウスはヒスパニア、クラッススがシリアへの軍事遠征を受け持ち、特にカエサルはガリア遠征の成功によりローマ市民の間での人気が高まっていきました

このカエサルの活躍にポンペイウスは危機感を覚え、それにつけ込んだ元老院はポンペイウスを懐柔、反カエサル派へと転向させます
また前53年にクラッススがパルティアとの戦いで戦死したことで三頭政治の均衡が崩れ、カエサルとポンペイウスの対立は激化することとなります
この間カエサルはガリア統治のためずっとローマ不在でしたが、ポンペイウスが元老院によって異例の単独執政官に就任すると2人の対立は決定的となり、カエサルはローマ帰還を決断します

当時、ルビコン川はガリア属州の南の境界であり、そこを越えればローマ領内でした
その境界線を武装解除せずに渡ることはすにわち国家反逆罪にあたるにも関わらず、カエサルは前49年1月10日、あの有名な言葉とともにルビコン川を渡り、ローマへと進撃するのでした


本日は「賽は投げられた」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・長谷川博隆『カエサル』講談社、1994年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

424Republica de Venexia:2015/01/11(日) 01:10:09 ID:???
1月11日は洪秀全が清に反乱を起こした日です

イギリスと戦ったアヘン戦争後の清では上海をはしめとする5港か開港され、それまで清の貿易を担当していた公行が廃止されたことで自由貿易が導入されました
イギリスは香港などを獲得し、さらに清の関税自主権を喪失させるなどの不平等条約を締結します
このような不平等条約はアメリカ、フランスとも結ばれ、清は貿易の自由化を認めさせられることとなります

その結果清では銀が流出したことで国内における銀の価格が高騰し、納税の際に銀によって支払わなければならない民衆は生活を圧迫されることになりました
このため民衆の清に対する不満が高まり、キリスト教の影響を受けて拝上帝会を組織し、土地の配分などを主張した洪秀全が民衆のなかで勢力を拡大していきます
そして1851年1月11日、洪秀全は広西省金田村で挙兵し、「滅満興漢」を掲げて清打倒の反乱を開始します
やがて反乱は>>4で見たように南京を制圧するなど大規模な運動へと発展し、清の国家体制に大きな影響を与えることとなったのでした


本日は太平天国の乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・菊池秀明『太平天国にみる異文化受容』山川出版社、2003年
・井上裕正・並木頼寿『世界の歴史19 中華帝国の危機』中央公論新社、2008年

425Republica de Venexia:2015/01/12(月) 00:51:53 ID:???
1月12日は隋が陳を滅ぼした日です(旧暦)

280年、三国の呉を滅ぼして晋が中国を統一しましたが、初代皇帝司馬炎の死後八王の乱が起こるなど混乱し、五胡十六国が興亡する時代となりました
この五胡というのは、この時代中央ユーラシアから中華世界に進出してきた遊牧民で、そのうちの鮮卑は拓跋部に率いられ5世紀に華北を統一し北魏を建国します
その後も華北では鮮卑系の王朝が興亡し、これが北朝と呼ばれます

一方で華中・華南は漢人系の王朝が南方の諸民族とつながり、長江下流域の開発が進むことになりました
その過程で南海貿易も発展し、東南アジアやインド洋海域との新たな関係が生み出されていきます
こうして中国は北朝と南朝とに分裂した南北朝時代となりましたが、このうち北朝から出てきたのが隋でした

北朝では北魏が東魏と西魏に分裂し、このうち西魏に代わって成立した北周が東魏に代わった北斉を滅ぼし、その北周の外戚として権力を握った楊堅が581年に隋を建国したのです
そして589年1月12日、隋は南朝の陳を滅ぼし、晋以来の中国統一を達成します
その後隋は秦漢帝国とは異なる新たな帝国の形成を目指し、>>422で少し触れたように、中華世界を超えた広大な支配領域の実現を図っていくのでした


本日は隋による中華世界統一の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・尾形勇・岸本美緒編『世界各国史3 中国史』山川出版社、1998年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年

426名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/12(月) 14:30:05 ID:c/vecSYU
煬帝「運河作るで!!」
唐「煬帝 無能 暴君 唐沢」

なお中華の国力が増大した模様

427Republica de Venexia:2015/01/12(月) 19:54:21 ID:???
後々の発展を考えると、大運河が造られたこと自体は大きな功績ですよね
性急に過ぎた感はあるとはいえ

428Republica de Venexia:2015/01/13(火) 00:47:08 ID:???
1月13日はニカの乱が起こった日です

>>100でコンスタンティヌス1世がビザンティオンを改修しローマ帝国の都に定めたコンスタンティノープルは、皇帝の直轄地となったことでそれまでの都市自治が失われました
しかし自治の精神が完全に失われたわけではなく、その伝統は脈々と受け継がれていきます
テオドシウス2世によって建設された大城壁にも都市参事会が建造や維持の責任を持ち、帝都防衛の際にも市民が軍団を編成して参加していたのです
そしてこのような都市自治を行う際の単位となったのがデーモスという集団でした

デーモスはコンスタンティノープルで行われる戦車競争の応援団やファンからなる市民集団であり、このデーモスは都市政治にも大きな役割を果たしていました
>>235で登場した皇帝ユスティニアヌス1世は市民の人気を得るためデーモスに支援を行い、即位式の際にもデーモスの歓呼によって迎えられたのです
またデーモスは皇帝の政治にも関わりをもっていました
競馬場は皇帝と市民が直接対面する場であり、そこで皇帝に対し政治的な請願や抗議が行われ、デーモスが音頭をとってそれを先導したのです
これが反乱にまで発展したのがニカの乱でした

ユスティニアヌスは>>235で見たようにかつてのローマ帝国の再建を目指し、大規模な征服戦争の準備を進めていましたが、そのためにコンスタンティノープル市民の間では不満が募り、またユスティニアヌスの方針に反発する元老院議員もデーモスを煽動していたのです
532年1月13日、競馬場ではデーモスが主導してユスティニアヌスの政策に対し抗議が繰り返され、やがて市民は「ニカ!(勝利せよ)」と叫び暴動を起こし、これがコンスタンティノープル全体に広がっていきます
ユスティニアヌスは暴動を収拾しようとするものの市民の怒りは収まらず、前々帝の甥ヒュパティウスを擁立し皇帝歓呼を行う有様となりました
ユスティニアヌスはここに至りコンスタンティノープルからの逃亡を図りますが、これは皇后テオドラによって制止され、また将軍ベリサリウスの献策により競馬場への軍団突入を決意します
18日、ベリサリウスは軍を率いて競馬場に集まっていた約30,000人の市民を虐殺し暴動を鎮圧しました
ユスティニアヌスはその治世で最大のピンチを脱し、ローマ帝国復活を目指して地中海世界への征服戦争を開始するのでした


本日はビザンツ帝国最大の市民反乱の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・渡辺金一『コンスタンティノープル千年 革命劇場』岩波書店、1985年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

429Republica de Venexia:2015/01/14(水) 00:45:54 ID:???
1月14日はマドリード条約が結ばれた日です

この条約の当事者、神聖ローマ皇帝カール5世とフランス王フランソワ1世の対立は、>>40のシチリアの晩鐘に遡ります
ホーエンシュタウフェン朝が断絶したシチリアを一旦はシャルル=ダンジューが支配するものの、アラゴン王国によって奪われたこの事件以降、フランスとスペインとの対立関係が形成され、これ>>346で見たフランス王シャルル8世のナポリ侵攻によりさらに激化することとなりました

一方スペインはというと、アラゴン王フェルナンドが娘フアナを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子ブルゴーニュ公フィリップと結婚させて同盟関係となり、南北からフランスを包囲することに成功します
そしてこのフェルナンド、マクシミリアン双方の孫となり、その政策を継承することとなったのが、後の神聖ローマ皇帝カール5世だったのです

1519年、マクシミリアン1世が亡くなりカールが皇帝候補となると、フランス王フランソワ1世は危機感を覚えます
というのも、カールはすでにスペイン王カルロス1世となっており、さらに皇帝に即位するとなればスペイン・ドイツ・イタリアの連合国家が成立し、フランスは完全に包囲される形となるからでした
これを阻止するためフランソワはなんと皇帝選挙に出馬しますが、票を得られずあえなく惨敗、カールが皇帝へと即位します

フランソワは次の手として、休戦状態であったイタリア戦争を再開させます
1521年に始まったこの戦争は、カールがスペイン・イタリア・ブルゴーニュの各方面から攻勢をかけたことでフランスは劣勢に陥り、フランソワは一旦はミラノを攻略したものの1525年12月にパヴィアの戦いで大敗し捕虜となってしまいます
ここで休戦条約として結ばれたのが、1526年1月14日のマドリード条約でした
フランソワは捕虜からの解放と引き換えにイタリアやブルゴーニュなどの宗主権を放棄することを余儀なくされたのです
こうしてカールとの争いに敗れたフランソワですが、>>298で見たようにオスマン帝国のスレイマン1世と結び、再びカールに対抗するのでした


本日はイタリア戦争の一時的休戦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年

430Republica de Venexia:2015/01/15(木) 00:58:49 ID:???
1月15日は日本がロンドン海軍軍縮条約から脱退した日です

>>77で見たように、1922年のワシントン海軍軍縮条約で主力艦の制限を受けた日本は、巡洋艦や航空母艦、駆逐艦など補助戦力の充実を図り、>>396の「鳳翔」や戦艦から改装した「赤城」などの空母が建造され、巡洋艦では古鷹型や妙高型などの条約型巡洋艦が誕生し、特に従来の駆逐艦の常識を覆す「吹雪」をはじめとする特型駆逐艦の登場は世界に脅威を与え、1930年にロンドン海軍軍縮条約で補助艦にも制限が加えられたのです

日本はこのような状況で、>>385見たように徹底的に個艦性能の追求に努め、条約の制限下で極限まで重武装化することに心血を注ぎました
その結果初春型駆逐艦や空母「龍驤」など、小さい船体に巨大な上部構造物と重武装を備えた、高い戦闘能力を誇る艦艇が次々と建造されていくのです
しかしこれらの艦艇は兵装過多により復元力不足が深刻な問題となり、これは1934年の友鶴事件で露呈します
事件後多くの艦艇が全面的な再設計を余儀なくされ、「龍驤」は大幅な兵装削減を行い、特III型駆逐艦や初春型駆逐艦は上部構造物縮小などの改善工事が施されました

さらに翌年には第四艦隊事件も発生し、船体の強度不足や溶接の不備が明らかになるなど、再び艦艇の再設計に迫られることとなります
このような状況下でも「蒼龍」「飛龍」などの空母、高雄型重巡洋艦、重巡の制限を避けるため当初は軽巡洋艦として開発された最上型・利根型、駆逐艦では白露型・朝潮型などが条約下で建造されていきましたがそれも限界となり、海軍内における不満は高まっていきました

そして1936年1月15日、日本はロンドン海軍軍縮条約からの脱退を宣言することになるのです
条約による制限から開放された日本は翔鶴型航空母艦や陽炎型・夕雲型などの傑作艦の開発を始め、>>385の史上最大の戦艦「大和」も建造が進められていくのでした


本日は無条約時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「歴史群像シリーズ 決定版太平洋戦争1 『日米衝突』への半世紀」学習研究社、2008年
・「丸1月別冊 連合艦隊艦艇入門」光人社、2014年
・「世界の艦船No.803 連合艦隊 太平洋戦争を振り返って」海人社、2014年

431Republica de Venexia:2015/01/16(金) 00:51:12 ID:???
1月16日はオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を贈られた日です

>>268で見たように、オクタウィアヌスはアントニウスを討伐してプトレマイオス朝も滅ぼし、内乱の一世紀を終結させ地中海世界の統一を果たしました
オクタウィアヌスはエジプトを平定した後前29年にローマに帰還し、市民によって歓呼をもって迎えられ、大規模な凱旋式も挙行されました
オクタウィアヌスは全ての敵を排除したことで実質的に独裁権力を手中に収めたものの、カエサルの二の舞いを避けるため独裁を避け、あくまでも共和政の復興を前面に押し出しつつ、権力を固めていきます

前27年1月13日、オクタウィアヌスは元老院会議にて戦争中の非常時特権を全て元老院とローマ市民に返還し、共和政を復活させることを宣言します
しかし放棄したのはあくまで非常時特権であり、執政官職にはそのまま就いており、終身職であった大神祇官の役職も保持していたのです
またオクタウィアヌスは元老院からローマの全軍団に対する最高指揮権を与えられ、「インペラトル」となります
元老院はオクタウィアヌスに対し引き続き執政官となることを要請し、護民官職権も与えます

そして同年1月16日、元老院はオクタウィアヌスに尊厳ある者を意味する「アウグストゥス」の称号を与え、実質的に君主の地位を認めることになります
当のオクタウィアヌスはあくまでも市民の第一人者であることを強調し、そのために彼の統治はプリンキパトゥス(元首政)と称されることになりますが、この時点でオクタウィアヌスはほぼ皇帝権力を手にし、ローマにとっての初代皇帝が生まれることとなったのでした


本日はローマ帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

432Republica de Venexia:2015/01/17(土) 01:35:32 ID:???
1月17日は三木城が陥落した日です(旧暦)

三木城城主別所安治は1568年、織田信長の播磨侵攻に際しこれに従い、以後別所氏は信長によって畳用されることになります
しかし中国地方の毛利が播磨へと勢力を伸ばしてくると、別所家中は次第に分裂していきます
というのも、安治の死により家督を継いだ長治はまだ若く、2人の重臣別所重棟と別所吉親が補佐していましたが、このうち重棟が織田方、吉親が毛利方として争っていたからでした
長治は当時の情勢から毛利へと接近し、さらに足利義昭による離反工作もあり、ついに1578年2月、信長から離反することを決断します

信長は羽柴秀吉に別所討伐を命じ、秀吉は約5,000の兵を率い、三木城北東の平井山に陣を置きました
しかし三木城は前方に美嚢川、後方には丘陵を擁し、周囲を崖に囲まれた台地に位置する天然の要害であり、容易に陥とせる城ではありませんでした
そこで秀吉は三木城の支城から攻め落とす作戦を採り野口城を陥としますが、ここで毛利の援軍が播磨に到着します
毛利は上月城を攻略し、秀吉は結果的にこれを見殺しにすることとなりましたが、毛利はそれ以上東進はせず、秀吉は三木城攻略に専念するようになりました

秀吉は三木城の周囲に付城を築いて長期戦の構えを整え、三木城の兵糧攻めに取り掛かります
いわゆる「三木城の干殺し」です
三木城からは兵糧攻めを阻止するため平井山の秀吉本陣に攻撃をかけますが、秀吉はこれを撃退します
同時期には荒木村重が信長から離反し、姫路の小寺政職も毛利に寝返りましたが、平井山合戦での敗北はこれらを活かす好機を失うこととなったのです
やがて備前の宇喜多直家が織田方となり、毛利の三木城への援軍も撃退されたことで三木城の劣勢は決定的となり、兵糧が枯渇していきます
1580年1月6日には三木城の最高地に位置する宮丿上砦を、11日には吉親が守る鷹尾山城も攻略し、長期にわたる兵糧攻めにより疲弊していた三木城は支え切れませんでした
ついに三木城主別所長治は降伏を申し出、1月17日、長治の切腹とともに三木城は開城、「三木城の干殺し」は幕を下ろしたのでした


本日は戦国大名別所氏の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・「歴史人 2013年5月号 戦国 城の合戦の真実」KKベストセラーズ、2013年
・「歴史人 2013年12月号 敗者の戦国史」KKベストセラーズ、2013年
・小和田哲男『戦国の城』学研パブリッシング、2013年

433Republica de Venexia:2015/01/18(日) 00:57:18 ID:???
1月18日はフリードリヒ1世、ヴィルヘルム1世が戴冠式を行った日です

>>327で見たように、「大選帝侯」と呼ばれたブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムは三十年戦争以降独自の道を歩み、スウェーデンとポーランドがバルト海の覇権を巡って争った北方戦争にも関与しました
この際、大選帝侯は軍事力の提供に反対する領邦等族を押し切り、戦争終結後も動員した軍隊を常備化しようとします
当然これに対し領邦等族は猛反発しますが、大選帝侯はこれに打ち勝ち君主権の大幅な強化に成功、プロイセン絶対王政の基礎を築いたのです
この大選帝侯の後を継いだのがフリードリヒ3世で、彼は>>107でハプスブルク家を支援し、その見返りとして神聖ローマ皇帝レオポルト1世から王号を名乗ることを許されました
そして1701年1月18日に戴冠式が行われ、フリードリヒ3世は「プロイセンの王」となり、フリードリヒ1世として即位したのでした


またここから時代は下り、>>221の普仏戦争においても新たな君主が誕生します
セダンの戦いでフランス皇帝ナポレオン3世が捕虜となった後も、パリで樹立された国防政府の抵抗や、ドイツ側によるアルザス・ロレーヌの併合要求などもあって戦争は継続され、翌1871年にパリで休戦条約が結ばれました
この間にプロイセンは南ドイツ諸国とのドイツ統一に関する交渉が進められ、北ドイツ連邦を拡大する形での連邦国家の形成でまとまります
そして1871年1月18日、プロイセン王ヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿にて戴冠式を行い、「ドイッチャー・カイザー(ドイツ皇帝)」という称号で初代皇帝に即位したのでした


本日はプロイセン王国、ドイツ帝国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

434Republica de Venexia:2015/01/19(月) 00:59:42 ID:???
1月19日は咸臨丸が浦賀から出港した日です

1858年、江戸幕府の大老井伊直弼はアメリカ合衆国との間での日米修好通商条約を締結し、ハリスとともにポーハタン号上で条約に調印します
その際に条約批准書の交換はアメリカのワシントンで行うことが取り決められたため、幕府はアメリカへ使節団を派遣することになります
この万延元年遣米使節団の旗艦となったのが先のポーハタン号でしたが、その別船として選ばれたのが咸臨丸でした

咸臨丸は幕府がオランダに製造を依頼した軍艦で、1857年に完成した後日本に届けられ、以後は長崎海軍伝習所において幕府の練習艦となっていました
万延元年遣米使節団としての咸臨丸には、名目上の艦長として勝海舟、提督として木村芥舟が乗船し、福澤諭吉やジョン万次郎も乗組員として加わっていました
1860年1月19日に浦賀を出港した咸臨丸は約一ヶ月半の航海の末サンフランシスコに入港し、そこでワシントンへ向かう使節団の正使と別れ、5月5日に浦賀へと帰還します
こうして咸臨丸は太平洋の往復に成功たことになりますが、これは幕府の船としては初の快挙でした


本日は咸臨丸太平洋往復航海の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・宮永孝『万延元年の遣米使節団』講談社、2005年
・小西四郎『日本の歴史19 開国と攘夷』中央公論新社、2006年
・井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末改革』講談社、2009年

435名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/19(月) 22:06:28 ID:O4ZrtfwA
勝海舟など旧幕臣の方々が反骨心からか新政府に与しないなか、朝敵のはずなのに逓信大臣など重臣を勤め続けた榎本武揚さん

安部公房『榎本武揚』は是非ともお読みください。
冷徹な政治家榎本武揚を面白く描いてます

436Republica de Venexia:2015/01/19(月) 22:26:19 ID:???
>>435
おすすめの本ありがとうございます!
日本史、なかでも古代や幕末には疎くて...面白く幕末の人物を知れそうでいいですね

437名前なんか必要ねぇんだよ!:2015/01/19(月) 22:30:21 ID:.fXzr9G6
小西先生の開国と攘夷は手堅くバランスが取れてて読みやすいですね

438Republica de Venexia:2015/01/19(月) 22:37:34 ID:???
>>437
中公文庫の歴史シリーズは読みやすくて重宝してます
世界の歴史の方は読む機会が多いですが、日本史の方も良さそうですねー

439Republica de Venexia:2015/01/20(火) 00:10:31 ID:???
1月20日はシモン=ド=モンフォールが議会を招集した日です

>>172で見たようにイングランド王ジョンの代にマグナ=カルタが制定され、王権は制限されることとなりました
しかしジョンはやがてマグナ=カルタの無効を宣言したため諸侯は反発し、イングランドでは内乱が勃発します
この内乱の最中にジョンは急死し9歳のヘンリ3世が即位、ヘンリの摂政ペンブルック伯ウィリアム=マーシャルは宥和政策を採り、マグナ=カルタが再確認されたため内乱は終結しました

しかしマーシャルの死後、ヘンリはガスコーニュやポワトゥーへの遠征のための軍資金徴収などのためにマグナ=カルタを無視し、行政長官ヒューバート=ド=バーグも王権の利益を優先した統治を支持しました
これはピータ=デ=ロッシによる改革で是正されましたが、ヘンリが親政を開始したことでロッシは失脚します

親政開始後のヘンリはフランス人貴族を重用し、1242年と1253年には南フランスへの遠征を行うなど、大陸政策を重視していきます
南フランス遠征が失敗に終わった後も、>>332で見たマンフレーディと対立するローマ教皇に協力し、対立王として次子エドマンドを擁立しマンフレーディに対する十字軍への参加を表明、さらには弟のコーンウォール伯リチャードを神聖ローマ皇帝に擁立するなど、大陸政策はますます強化されていきました

この大陸政策にレスター伯シモン=ド=モンフォールを中心とするイングランド諸侯は反発し、1258年にヘンリが十字軍費用徴収のための諸侯会議を招集した際にヘンリを非難、国政改革を要求するとヘンリはこれに同意、オクスフォード条款が成立し翌年のウェストミンスター条款によって王権の制限が進みました
しかし教皇の支援もあって1261年にヘンリが勢力を回復するとシモン=ド=モンフォールは一時失脚、1263年に反国王派を糾合して再び改革を主張します
このような改革をヘンリは断固拒否し両派による武力衝突に発展、リュイスの戦いでヘンリは捕虜となりました
そして1265年1月20日、シモン=ド=モンフォールはイングランド各州の領主や市民の代表からなる議会を招集したのです
この後シモン=ド=モンフォールは戦死しヘンリが王権を回復しますが、この議会はイングランドにおける議会制度の起源とされ、受け継がれていくことになるのでした


本日はイングランド議会の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・城戸毅『マグナ・カルタの世紀 中世イギリスの政治と国制1199-1307』東京大学出版会、1980年
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

440Republica de Venexia:2015/01/21(水) 00:36:52 ID:???
1月21日はフランス王シャルル5世が生誕した日です

フランス王ジャン2世の息子として産まれたシャルルは、フランス王位継承者が名乗るドーファンという称号を最初に与えられ、王太子として育てられました
1356年には>>287で見たようにジャン2世がイングランドの捕虜となったことで、シャルルは摂政としてフランスの統治を行うことになります
ジャックリーの乱、エティエンヌ=マルセルの乱に苦しめられながらもこれを鎮圧したシャルルは、フランスの財政改革に乗り出しました

ジャン2世が捕虜となったことでイングランドはシャルルに対し莫大な身代金を要求していましたが、シャルルはこれを利用し、恒常的な徴税制度の整備を図りました
というのも、当時のフランスの慣習では王が捕虜となった場合に臨時課税することが認められており、シャルルは三部会でこれを主張し税金の徴収を可能としたのです
また当時のフランスは王家の財政難により解雇された傭兵が跋扈しており、民衆の生活を脅かしていました
シャルルはこの傭兵を追い払う、諸地方の防衛という名目での徴税にも成功し、この他にも様々な名目が駆使され、次第に定期的な徴税制度が整えられていきます

こうしてシャルルが整えた諸税は後にタイユ(人頭税)、エード(消費税)、ガベル(塩税)と呼ばれるようになり、フランス革命まで続けられることになります
またシャルルは恒常的な収入を得たことで常備軍・官僚も保持するようになり、後の絶対王政の基礎固めをすることにもなったのでした


本日は「賢明王」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・福井憲彦編『世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年
・佐藤賢一『フランス王朝史2 ヴァロワ朝』講談社、2014年


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