したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

web誌友会参考文献板

1トキ:2013/06/26(水) 09:56:44 ID:bcz1wXIA
web誌友会参考文献板 です。

 このスレッドは、同じ掲示板の「web誌友会」の参考になるような聖典やご高弟様の誤文章を
紹介するための専門の板です。原則として、web誌友会の指導講師や司会の方以外の方の投稿は
ご遠慮下さい。どうしても投稿を希望される場合は、事前に、場合によっては事後に、講師、司会
または管理人の許可を得て下さい。許可のない投稿は、他の適当な板へ移します。

 あらかじめご理解下さい。
 
 その他、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。

管理人「トキ」 敬白

4復興G:2013/06/26(水) 15:06:56 ID:AB6RqYXc

合掌 ありがとうございます。

元生長の家本部講師 榎本恵吾先生(故人)の書かれた論文
『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―』 というのがあります。
53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な量のご文章です。

これは、榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年から11年(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」宛に送っておられたそうです。

検討委員会では、教化部長・本部役職者・本部講師の人たちから「提言書」を募集していたのですが、「優秀提言の選考と褒賞」の対象としては平成10年6月末で締め切ったので、7月以降に提出された榎本先生の論文は選考の対象とはならなかったようですが、これを読んだ担当者は、非常な感銘を受けたと漏れ承っています。

今、私はそれを保存されていたのをいただき読み返してみて、実に「今」――行き詰まり・分裂状態を呈している(と思われる)生長の家の運動を根本から考え直すために、用意されていた光明化運動論ではないかと、深い感銘を覚えます。

「web誌友会板」は、『生命の實相』をテキストとして生長の家の真理を深く学ぶことを目的にしていますが、この榎本先生のご文章は、『生命の實相』の神髄を理会するためにも、読めば非常に助けとなるものだと思います。

それで、ここに「web誌友会参考文献板」を開設していただきましたので、まずは

榎本恵吾先生を偲び、感謝をこめて、その
『神癒の展開としての人類光明化運動』 のご文章を掲示させていただきます。

最初に、すでに「web誌友会板」に掲示させて頂いたものをまとめて転写させて頂き、明日からは毎日、その続きを1日分ずつ、ここに謹写掲載させて頂きたいと思います。

ありがとうございます。 合掌

5復興G:2013/06/26(水) 15:08:15 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          一

 生長の家の根本聖典である『生命の實相』には、あの「人類光明化運動発進の宣言」が載せられていないのは何故であるか、ということは、まことに厳かな意味で一考を要することではなかろうか。

 さて、そのことはひと先ず別にするとして、『生命の實相』第一巻、本論の冒頭には、高らかに、

   生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。

とうたい上げられているのである。

 生長の家人類光明化運動の根本聖典の冒頭において「神癒」について書かれているということは、生長の家人類光明化運動が神癒の展開として発進していることを意味すると同時に、ここには、その神癒とは何であり、如何にしてそれが起こり得るのか、ということが示されていると拝察させて頂くのである。

 神癒(メタフィジカル・ヒーリング)とは、生命の實相の自性円満を自覚した時に起こるところの、よろこばしき、明るきなにものか、であるということである。

 さて、神癒祈願部というのは尊師によって純粋宗教部門として出発しているのであるが、純粋とは何であろうか。純乎として純なるものとは、神であり、完全なる實在の相(すがた)であると言わなければならないのである。このことは、神癒の展開としての生長の家人類光明化運動においては、この世界及び人間について、純一に、自性円満なる實相として観じられていなければならないことを意味するのであって、現象処理が大切であるという名のもとに、いくらかでも、實相独在をはなれて、現象を認めた上での人類光明化運動であってはならないことを意味しているのである。

 この運動は 「今起て!」 という啓示によって起った光明化運動であるが、その天の声は、

 「無いものは無いのだ。知れ! 實相のみがあるのだ!」 という極まった唯神實相の自覚がそこに現成した、そのところが 「今」 であり、そこに出発が成り立ったのであり、いささかも現象への妥協によってではなかったのであることをはっきりと確認しておかなければならないのである。そのことは唯神實相、實相独在、光明一元であり、救われていないものは一人もいないということであればこそ始まったところの運動であることを意味するのである。

 ひるがえって想えば、「人類光明化運動発進の宣言」は、現象世界の状況を認めた上での方便的宣言であると言わなければならないのではないか。こちらの方は、世界が不完全であればこそはじまった運動であるというところに方便的要素があると言うことである。これはつまり状況論であると言わなければならないのである。

 一方、『生命の實相』 の方は、たとえ、そのような状況が無くなったとしても、それを超えて、神がこの天地を必要性や状況への対処のために創造され給うたのではなく、神はすべてのすべてであり、完全であればこそ、その完全なる相(すがた)の自己展開として天地創造が行われ、神は今に至るも創造され、生長されつづけているという、その創造としての、久遠の創造のすがたとしての人類光明化運動であることがそこに顕われているといわなければならないのである。

 それ故、「人類光明化運動発進の宣言」 の方は、苦しみ悲しみがあればこそ起たざるを得なかったという方便的表現であり、『生命の實相』 の方は、うれしいからこそ起たざるを得なかった、ということになっているのである。

 このことは、世紀を超え、状況を超えた運動のあり様が謳われているということなのである。そこに 『生命の實相』 が根本聖典であるゆえんがあると拝察されるのである。ここに尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 に、「発進宣言」 を載せられなかったゆえんの一つがあるのではなかろうか、という想いに至らざるを得ないのである。(1998.7.1)

6復興G:2013/06/26(水) 15:08:58 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          二

 二十一世紀を目前にして想うことは、二十二世紀を想うことである。

 当面の目前に迫った二十一世紀のことを考えることと並行して、百年をかけて二十二世紀を考えて行くこと、二十二世紀を迎えるための百年として、さまざまな実験的なことを行う百年と考えては如何なものであろうか。

 例えば、カトリックの世界公会議では、百年分の方針を決めるのである。百年単位で決定するのである。百年変更しないのである。そのために、たしか、十数年間くらい会議がつづけられるというようなことを読んだことがある。

 おそらく、百年かけて次の百年分を考えて行くということになっているのではないだろうか。

 さて、人類の歴史は、天動説を経て、地動説となっているが、やがてそれは心動説へと移って行くと想われて来るのであって、歴史の区分も、天動説時代、地動説時代、心動説時代という区分のしかたとなって行くと想われるのである。

 宇宙の動きの原因が天から地へとうつり、さらに心の中に近づくにしたがって、人類は遠くに到達するということになって来ているのであって、これは、心の内に宇宙を把握することの反影であると想われるのである。心の中にすべてがあることの反影であると観ることが出来ないであろうか。

 さて、吾々は時代を先取りするという観点からすれば次のようなことも浮かび上がって来るのではないか。

 つまり、医学が発達するということは如何に簡単に治し得るかということに帰するのであろう。そのことから考えると、神癒祈願に受付で申し込んだだけで治るということがあり、あるいは代理が申し込みに来て、受付で書類を書いて申し込みをするだけで、病気が消えてしまうというようなことが頻々と起きているというようなことになると、医学が如何に発達しても、受付で申し込むだけで治るというような時代は、果たして何百年後のことであるのだろうか。予想もつかないほどのはるか彼方の遠い先のことではないだろうか。そのはるか彼方を先取りしているのが生長の家であるということが出来るのではないかと想われるのであって、それを科学のレベルにおいて如何に説明し得るかということが重要な問題となって来るのである。

 さて、生長の家を如何にして新しい人に知らせるかということが根幹のテーマとなって来るのである。ここに 「伝わり方の研究」 ということが私のテーマとなって来ているのである。

 例えば、あの教えは“深い”とか、“崇(たか)い”とかというコトバはどのような時に、聴く人、あるいは読む人から、何を、どう受けとめたときに、自然と発せざるを得ないのであるか。

 あるいはまた、「ある時から、み教えが自分の心の内に入って来るようになった」 というコトバを発する人は、それは如何なる時にその言葉を発せざるを得ないのであるか。どのような時に、入って来るということが起きるのであろうか……等である。

 しかし、先ず心におくべきことは、『生命の實相』 の奇蹟的説法を永遠に古くなることのなきものとして参考にしなければならないことは、はっきりしているのである。何故ならば、生長の家は谷口雅春先生だけで他の全人類がすべて新しい人であった時に、感動を与え、病気さえ消えてしまうほど深く新しい人々に解せられることのできたすがたが、ここにあるからである。(1998.7.2)

7復興G:2013/06/26(水) 15:09:32 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          三

 来たる世紀は 「心の時代」 であるとか、「宗教の時代」 であるとか言われて久しいが、その心で悩み抜いたのが谷口雅春先生であり、その心を超えたのが尊師であり、生長の家なのである。宗教も心によってあるのであるから、心を超えたということは宗教をも超えたと言えるのである。すべてを超えたのが生長の家なのである。すべてを超えて、はじめのはじめの一つなるものに還ったのが万教帰一ということなのである。万教帰一とは万物帰一ということなのである。一つであることがすべてのすべてであることなのである。

 「国際平和信仰運動」 ということにおいても、世界が一つである實相なるものの上に立ってのことであり、バラバラなるものを一つにするというのではなく、一つなるもののあらわれ又は展開としての世界平和あるいは世界調和ということであって、明るさと平安なるよろこびがその運動には満ち満ちているのである。

 それははじめのはじめが今ここに生きている明るさなのである。

 聖書の 「ヨハネ伝」 の冒頭に 「はじめに言葉あり」 と書かれているが、「はじめ」 とは英語で 「Very Beginning」 と書かれているのであり、これは 「はじめのはじめ」 ということであり、一つであることを意味しているのである。

 神癒祈願の申込書を前にして祈っていて、この 「五千名」 の人々の苦しみをいっぺんで消せないものだろうか、いや一度の祈りで全宇宙の苦しみを消せないものだろうか……、と想った時、谷口雅春先生がニコニコとした表情で神想観の中に観じられて、

「それをやったのが私だよ」

「それをやったのが生長の家だよ」

という言葉をたしかに私は聴いたのである。これこそが、はじめにあるコトバであり、はじめに帰ったすがたであると拝察されたのである。そのよろこびに満たされて出発したのが、生長の家人類光明化運動であり、国際平和信仰運動なのである。一つなるもの、完全なるもの、光明なるものとは、このはじめのはじめの意味するものなのである。即ち實相ということである。

 谷口雅春先生と縁のある人々は、本によってであろうと、同時代に生まれたというだけでも、縁を得たという魂はすでに、「それをやったのが私だよ。それをやったのが生長の家だよ」ということを知っているのであると想われるのである。このお言葉を私はどれだけ受けとめ得たかということは別として、なぜ私たちは生長の家でなければならなかったのか、ということの根本に、このお言葉の中身をその魂が知っているからなのだ、ということだけは、はっきりとしたことであるのである。生長の家にご縁をいただいているすべての魂に無限の敬意をもって接せずにはいられないのである。

 『生命の實相』 は永遠のベストセラーであると仰がれるゆえんは、bestなる世界において、bestなる著者が、bestなる読者を拝んで書かれたものであるからなのであって、一冊でもbest sellerベストセラーなのである。

 『生命の實相』 の本論が 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまん)……」 ということからはじまっているということは、「これから生涯にわたって私の書くすべての説法は救うための本ではありません。ただただ祝福礼拝のための本であります」 ということの偉大にして荘厳きわまりなき宣言であると言わなければならないのである。bestとbestであればこそ通い合い、通じ合うということが現成しているのである。(伝わり方の研究) (1998.7.3)

8復興G:2013/06/26(水) 15:34:36 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四

 さて、今世紀最大の出来事はなんであったか。それは生長の家の出現であり、尊師谷口雅春先生が降誕されたこと、そしてご昇天されたことであると、私たち生長の家信徒は誰しもがうなずけることに違いないのである。

 「生長の家の出現は、宇宙はじまって以来の荘厳である!!」

 と思わず感嘆した人があったと聴くが、その人は、尊師の全宇宙の救済について、

 「それをやったのが私だよ」

 「それをやったのが生長の家だよ」

 というひびきの中身にふれた人であったのであろうと想われて、うらやましい限りである。

 さて、イエス・キリストの十字架上の昇天には色々の意味、解釈があってその違いによって宗派が別れているほどであるときくが、その一つであろうか。イエス・キリストは弟子の前で色々な奇蹟を起こされたのは、弟子たち一人一人の中に、神がましまし、そしてみ業(わざ)を為し給うのであり、「あなた方一人一人の中に神と神の国があるのである」 と弟子たち一人一人の内なるものを祝福し、拝み給うたのであった。

 しかし、弟子たちには、その師であるイエスがみ業をあらわせばあらわすほど、「あれは、イエスだからこそ出来るのである」 ということになってしまって、尊敬はするが自分のことではないことになってしまったのであるという。

 そこでイエスは、弟子たち(人類を含む)の前から、自分は一度は姿を消す必要がある。そして弟子たちが肉体上の自分(イエス)の方ばかりを向くのではなく、自分の内を向くようにとの願いをもって十字架につき給うたのである、という解釈である。

 これによると十字架のお姿そのものが、弟子たちの内なるものへの拝みであり、祝福であり、愛なるものの燦然たる輝きそのものであるということになるのである。

 さて、尊師谷口雅春先生は卒然として九十二歳でご昇天あそばされたのであった。そして肉体のお姿を消し給うたのであった。これは、

 「私の方ではない、皆様お一人お一人の中ですよ。自分の内を拝みなさい」

 との拝みのお姿であったのであると拝察するのである。最後に肉体をお消しになることによって、そのお消しになったそのことが、肉体を捧げるという姿において最大の拝みを成就され給うたのであるということである。

 自分の片腕を燃やして世界を明るく照らしたという御仏がいまし給うたという仏教の話があるが、尊師谷口雅春先生は、ご自分の肉体すべてを捧げ、お使いになって、それを消し給うということによって最後の拝みを成就し給うたのである。

 それはまことに燦然とした愛なるものの輝きそのものであったのである。そしてそれは今も尚、さらに私たちの中において輝きを増されつづけているのである。

 谷口雅宣先生が、そのご昇天の日、山の上に夕日が燦然と輝いているのを、たしか総本山に向かう車の中でごらんになられて、

 「尊師はあの山の上にいましたのである」

 という感慨をお述べになっておられるのを拝読させて頂いたことがあったが、まことに燦然たるものを尊師谷口雅春先生のご昇天のことの中に確かめられておられたのである、と拝察せずにはいられないのである。

 「すべてを為し終えた気がする」

 と、尊師谷口雅春先生は 『生命の實相』 を完結せられた時にお述べになっておられるが、その意味は、ただ単に 「私の役目を為し終えた」 というようなある部分としての役目を果たし終えたというようなことでは決してなくて、釈尊が

 「かつてすべてのものをして吾れと等しくしたいという願いを起こしたが、その願すでに満足せり」

 と宣(の)り給うたことを、尊師谷口雅春先生は全宇宙の一人の病むものなき救済について、

 「それをやったのが私だよ」

 「それをやったのが生長の家だよ」

 という中身をもって宣り給うたのであった。それが唯神實相、實相独在論の威厳であることを銘記しなければと想うのである。(1998.7.4)

          ○

 ――榎本恵吾先生もまた、自分の肉体すべてを捧げ、使い切って、肉体を捧げるという姿において、

 「皆様お一人お一人の中ですよ。自分の内を拝んでください」 という最大の拝みを成就されたと思われます。(復興G)

9復興G:2013/06/26(水) 15:35:19 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五

 例えば組織の問題であるか何の問題であるとかを問わず、問題そのもの、現象そのものを “無し” として解決しているのが生長の家なのである。

 “現象なし” “不完全なし” と全現象宇宙を斬り捨て、全現象を “無し” と完全に現象を処理し終えているのが生長の家なのである。

 この完璧なる解決の上に立って人類光明化運動が発進しているのである。それ故、あらゆる問題にあたっては、教えの中そのものに求めよ、ということなのであり、それは充分に用意されてはじまっているということなのである。晴れ渡って進んでいるのが生長の家人類光明化運動なのである。

 “現象処埋が大切” という言葉は、針の先ほども現象を相手とし、それを認めての言葉ではないのであって、全現象宇宙を “無し” と消し給い、処理し終えて “こと終われり” なのが生長の家なのである。そしてそこに一点の曇りなき、神そのもの、實在そのものとしての価値創造としての光明化運動が純粋に持続されているのである。それが 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出でましぬ」 ということなのである。

 ありとしあらゆるものが、今、天照大御神そのものとして拝まれているのが全存在であり、天照大御神が天照大御神しているのが、光明化運動の 「光明」 ということなのである。

 「光明とは何か」

 それは、はじめのはじめより、ありとしあらゆるものとして、平等に、すでに、今あるところの “よろこばしきさやけさ” ということである。

 光りとは神であり、神はすべてのすべてであり、神の外にあるものなしであり給えば、光りははじめからすべてのすべてなのである。その光りなるものの存在には、新しい者も古い者もないのである。

 この共通なるもの、しかもはじめからあり、完全なるものがあるということが 「伝わる」 ということの基なのである。

 それ故、あまりにも、新しい人とか外の人とかということをクッキリとしすぎて、相対的な運動になっては、勿体ないことになるのである。

 「神には、新しい人も、古い人もないのですよ」

 「神には、教えの内に居る人も外に居る人もないのですよ」

 「もしも神がいるとすれば、『信仰をしたものは生かすが、信仰をしないものは生かさない』 ということは不自然なことで、そんな神に対しては 『何故、神は、平等に信仰をするように生んでおかなかったのか!!』 という不平と裁きしか生まれないのです。生長の家が感謝の教えであるといわれていますが、それは、不平、裁きの起こらない神を発見しましたよ、ということであります」

 ということが、表現はその時、その人によって様々に展開されていくのであろうが、説法、表現の基礎になっていると拝察されて来るのである。

 あらゆることの前に 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」 と感謝して唱えるようになっていたり、また 『生命の實相』 の冒頭に 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」という言葉があり、また谷口清超先生の第一論文である 『文化の本源としての神想観』 の中に、「宗教は要するに、そのまま仏であり、神であることを知らせることである」 という意味のお言葉があるのは、内と外とを分けず、新しいものと古いものとを分けない拝みに立脚していることが、そこに尊師と基を一つにして表現されていると拝察されて来るのである。(1998.7.5)

10復興G:2013/06/26(水) 15:36:08 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六

 合掌
 さまざまな説き方の一つの試みとして、ここに『無神』という冊子を別便にてお送りいたします。
(後注参照)

 これは私が宇治に転勤して参りまして少したったころ、練成をしながら、その興奮状態の中で書きとめておいたものでした。どうせ興奮状態の中で書かれたものだから、その内に整理をして、語調も整えてと想って、想いのままに綴っておいたものでした。

 ところが、後になって、いざ整理をしようと想いますと、どうしてもそのままでしかあり得ないような気がして来たのでありました。それで句切り句切りを独立させたように、詩のような姿にして並べることにしたのでした。

 「無我」という言葉は非常に人間にとって憧れざるを得ない中身を示しているように想えるのであります。人間は何故「無我」にあこがれるか。それは元の神が「無我」であり給うから、そこから生まれ出でた人間も「無我」に憧れざるを得ないのではないか。人間のレベルで言えば「無我」ということになるが、神のレベルでは「無神」ということであります。

 生長の家の教え自体も自分を消していると想われるのであります。

 例えば、聖歌『生長の家の歌』にしても、生長の家という言葉は、ただ題名にあるだけでありまして、ご存じのように、一番はキリスト教讃歌、二番は仏教讃歌、三番は古事記讃歌、四番はこれら三つが素晴らしいとなっている万教帰一讃歌となっており、生長の家という言葉は一つもないのでありまして、ただただ万教(即ち万物)を讃え、拝むのが生長の家であることが示されていると拝察されるのであります。

 『生命の實相』 という書物にしてからが、その中に 「物質無し」 と書かれているのでありまして、本自体が 「私は無いのです」 とみずから消えているという、そこに無我の聖なる輝きのみがあって、それ故に、この書物は聖典と呼ばれているとも想われて来るのであります。

 さて、「人類光明化運動指針」の第九条

  「生長の家大神―総裁・副総裁―御教」

 という、この中には、大聖師谷口雅春先生は姿を消しておられるのであります。この指針が出来た時、これを承認なされたのは当の、谷口雅春先生でありますから、先生ははじめから、このように消え給うことの承認であったと拝察されるのでありましてまことに聖なるきわみでありまして、まことに 「大聖」 なる師という中身をもって 「大聖師」 とお呼び申し上げざるを得ないのであります。

 ご存じのように 『無門関』 の第一則の 「趙州狗子」 の公案の中に、「仏に逢いては仏を殺し、師に逢いては師を殺し……」 という一節が出てまいりますが、ある時の神想観の中にニコヤカに観じられた尊師谷口雅春先生は、
「あのね。生長の家では仏に逢いては仏を殺し、師に逢いては師を殺す、などという血生臭いことはしないんだよ。私は無いんだよ」

 と師みずから消えておられたのであります。ここに、生長の家は、教団自体がみずから消えて、澄み切っていて、まことに、「生長の家は感謝の教え」 であると言える姿がそこに拝せられるのである。澄み切りの教え即ち感謝、礼拝の教えということだと想うのであります。再拝三拝合掌 (1998.7.6)

 (注。『無神』 という冊子の内容は、「榎本恵吾記念館」 サイト
http://homepage2.nifty.com/hanabira/
の 「文書館 Ⅱ」 に公開されていますので、ご覧ください――復興G)

11復興G:2013/06/26(水) 15:37:03 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七

 『聖使命菩薩讃偈』 には 「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に、一切衆生を度さん」 とするものが最上、最尊、甚深微妙(じんじんみみょう)不可思議と讃えられているのである。

 しかしながら 『生命の實相』 の中には、自分が先ず救われなければ、救われたという状態はどのような状態であるかが解らないから他を渡しようがなく、救いようがないのであるということを、「自分に深切であれ」 という教えの言葉が引用されて説かれているのである。

 また別のところで、あるキリスト教の牧師が “神様と約束した人数を集めることが出来なかったので、神様に申し訳ない” と言って神経衰弱にかかっているのを尊師がお聞きになって、こういう人は、数という外のものによって傷つけられるところのものが自分であると想っているからであり、外が崩れると自分も崩れてしまうような気持になるのであって、その点キリストは、右の頬を打つ者があったら左をも打たせよ、と言われ、十里の公役を強(し)いられたならば二十里を行け、と言われて外の形によって決して傷つくことのない實相の自分というものの自覚があったために、イエスは悩み給わなかったのである。というふうにお説きになっているのである。

 このように、自分が救われることが先であるとし、数は外であり、形であり、すなわち現象であるから、それは無いのであるという観方は現在ゆるされるのであろうか、ということである。

 即ち、神想観で 「吾れ今五官の世界を去って……」 と言った時、『自分も他人も、光明化運動も去って……』 ということであるとしてよいかどうか、ということである。

 五官の世界の説明において 「五官の世界は現象と言って、不完全もあれば完全に近いものもあり、貧乏もあれば金持ちもある。病人もあれば健康な人もある。戦争もあれば平和もある。そして、人類光明化運動の進んでいるところもあれば、遅れているところもある………」 と言ってしまってよいかどうかということである。

 『生命の實相』 の全読運動をおしすすめるということは、このように書かれていることを見逃さず、全面的に拝読せよ、ということになっているのだ、ということを銘記すべきである、と想うのである。

 また、かつて終戦直後、尊師谷口雅春先生は愛媛県の宇和島にご進講になられた時の話であるが、外を歩いている時、雨が降って来そうだったのでお伴をしていた河野初喜(こうのはつき)さんというご婦人に傘を、家まで取りに行ってもらった。少しして引っ返して来たそのご婦人は傘を持っていないのである。事情をきいてみると、「主人は雨はふらんよ、と言いましたので持って来ませんでした」 ということであった。

 そのことについて 「無病常楽の神示講義」 の中で、これでこそ本当の妻の生き方であり、主人に向かってこのご婦人がもしも 「あなたより偉い谷口先生がおっしゃっているのだから持っていく」 ということになると 「お前、どこの奥さんじゃ?」 ということになってしまってそれは生長の家ではない、と言われ、本当に愛していたらその人のいうようにしてあげたくなるのであると話されて、ご講習会に奥さんが行こうとしている時、主人は映画を見に行く、と言われたら一緒に行ってあげたくなるのが愛であって、 「あなたは映画に行きなさい。私はご講習会に行きます」 では、生長の家ではないことになるというお話である。尊師谷口雅春先生のご講義を聴きなさいということは、このようなお示しを素直に聴き入れなさい、ということなのである。(1998.7.7)

12復興G:2013/06/27(木) 06:02:13 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八

 「實相顕現」という言葉は、實相は円満完全であるから、みずから顕現する力をもっている、その實相がみずから顕現して来ることを意味しているのである。

 實相のほかに、それをあやつり、それを顕現させる別の何ものかが必要であるというのでは、實相は自性(そのままで)円満ではないということになるのである。顕れて来る力がみずからの内に円満されていないということになるのである。

 實相は完全であり、神であり、すべてのすべてであるから、實相とはなれたところで、それを観じたり、自覚したり、しなかったりというようなはなれたもののはたらきは要らないのである。

 それ故、五官によって、本を読むことによって、話を聴くことによって、心の中にイメージされたところから予想されるところのものはいくら尊げなものであっても、それは實相ではないのである。五官がなければ成り立たないもの、五官という外のものによって認められなければ存在しないもの、何ものかによって、観じられ、自覚せられ、みとめられなければならないものは決して實相ではないのである。それは實相ではなく、現象であり、無いものなのである。

 實相は観じられなければ、自覚されなければ無い、というようなものではなく、観る観ない、自覚するしないを超えてみずから在りて在るところのものなのである。

 實相は観る必要のないもの、自覚する必要のないもの、知る必要のないもの、みずから存在するものである。そのようなものとしてよろこぶことが、そしてそれが自分そのものであって、はなれていない、従って今ここに既にはじめのはじめから“それでよい”ところのものとして、よろこぶことが、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 の中でお示し下さっている、「観ること」 であり、「自覚すること」 なのである。

 自覚するとは、自(みずか)ら覚めるという意味を表現した言葉なのである。

 自ら覚めるのであって、他から、五官を通して外から入って来たものによって覚めさせられるのは自覚ではなく他覚であると言わなければならないのである。

 實相なるもの、自性円満であるものが先ずあって、それが自(おの)ずから覚めて顕れ出て来て、本を読む姿となったり、話を聴く姿となって顕れて、自己展開しているのが 「自覚」 ということなのである。

 これが出龍宮顕斎殿(しゅつりゅうぐうけんさいでん)の建立が象徴しているものなのである。その建立の主旨として、「最早や人間の力では及ばない、神に直接お出まし願う」 ということが尊師谷口雅春先生のお言葉としてあるのであるが、即ち、神=實相には直接自分で顕現する力が備わっていると観じられているのである。

 人間の側の心によっていわゆる自覚や観ずることによって實相を引き出し、顕し出すということによってではなく、實相には自分で顕現し、展開する力が備わっているのであり、天照大御神は、天之岩戸(あまのいわと)を外の力によって開かれるというのではなく、外に居る神々も岩戸も高天原(たかあまはら)もすべては天照大御神が生み給い、生かし給うているのであるから、天之岩戸の内も外もすべては天照大御神そのものであるということであり、天照大御神はご自分の力で出(い)でまされたのであり、また、渾(すべ)ての渾てであり給う天照大御神は一度も隠れ給わず、露(ろ)堂々として全宇宙となって輝き出でましつづけであることを認めることが、あるべきものがあるべき姿にあること、浄まっていることなのである、と観じ、そして、はじめから 「天照大神出でましぬ」 となっていることを観じる時代(世紀)を迎えていることを象徴しているのが、出龍宮顕斎殿の建立なのであると拝察申し上げるのである。(1998.7.8)

13復興G:2013/06/28(金) 05:55:34 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九

 エマーソンがどこかで 「引用」 について書いていたことを、内容は憶えていないが想い出した。

 生長の家では引用するもしないも、聖典自体が 「物質無し」 と自分で消えてしまっているのである。

 神誌などに盛んに、聖典からの転載があるが、たとえば、尊師谷口雅春先生が生きておられて、直接ごらんになったならば 「私はここには別のを載せたかった」 とおっしゃるかも知れないのである。善い悪いは別としてそこには編集者の心が載せられているのである。

 これらすべて、五官の世界の出来ごとである。物質なし、肉体なし、本なし、に徹して實在の實相に帰っているとき、すべては自分自身の世界であり、自分の展開としてそこにあるのである。

 尊師谷口雅春先生が 「万教帰一要典」 をつくられ、聖書、仏典の言葉を用いられても、それは借りものの引用であるとはどうしても想われないのはなぜであるか。そこに書物みずからの死に切り、消え切りがあり、そこに實在なるものの聖なる輝きそのものがあるからなのである。

 現象を超えて實相なるもの、いのちなるものがそこに満ち、輝いている時、それは価値そのものであり、借りものでは決してなくなっているのである。「宗教のデパート」 と言われても、そこには無限の価値なる實在の實相が生きている絶対価値がそこには輝いているのである。

 万教帰一ということにおいて、万教は何故一に帰ることが出来るのであるか。それは一つなるものから発しているからなのである。一つなるものとは、現象即ち五官の世界を超えたところの實在の實相なのである。そこに帰って、自己と本源とが一つである、一つなるものの展開としてそこにある姿が万教となっているのであり、そこに、引用があっても、常の引用ではなく、『引用これ引用に非ず、これを引用と言う』 態(てい)の姿、輝きとなっているのである。

 著者が死に切り、書物が死に切り、読むものの澄み切りとなっているのが、聖典拝誦と言われているものなのである。

 聖なるものとは何か、ということである。聖なるものとは 「ひじりなるもの」 であり、ひじりとは 「日がいちじるしく輝く」 ことなのである。日とは神であり、自我が死に切り、消え去っている姿こそが聖なるものなのである。「物質なし」 と書物自体が死に切り、消え切っている。生長の家の書物はまさしく聖典と拝まれるのが自然なことなのである。

 現象としての自分に対立しているものとして見ているかぎりにおいて引用はやはり借り物であることから逃れることは出来ない。そこに引用するものの創造性から来るところの姿ではないものが出て来るのである。引用した文章が自分と対立的に存在しており、そしてそれと取り組んでいるかぎりにおいて、それは創造性の姿ではなく、依存のすがた、うめ合わせの姿、求めている姿であって、そこには生長と創造の輝きはないのである。

 五官を去り、現象を超え、物質無し、現象無しと去って本源に還ることによって吾々は、見るものすべて、その世界から借り物として引用するのではなく、本源よりの創造のすがたとして、そこに自己展開の解放を味わうことが出来、神と偕(とも)に創造するよろこびを味わうことが出来るのである。ここでは引用ではなく創造そのもののすがたと変わるのである。(1998.7.9)

14復興G:2013/06/29(土) 08:31:32 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ―「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十

 『真理』 第七巻の冒頭には、新体制が出来て 「聖使命」 会制度が出来て、はじめてのご講義と想われる、尊師のご講話からのご文章が載せられている。そこには人間が、神から生み出されたという、親が子を生むように神が人間を生んだというのは、哲学的思索の幼い人々に解りやすく説いたものであって、生んだものと生み出されたものとの相対関係のある見方からは、どこやらに許すものと許されるものとの対立があり、どこやらに人間そのものを神が審判するというような考えがひそんでいて、まだまだ本当ではないのであって、仏教の重無礙(じゅうむげ)の見方が正しいものであると説かれているのである。一つの鏡の前に百万の鏡を置けば、同時に百万のすがたが写るように神と人間とは同時、同一の存在であり、生むものと生み出されるものとの相対的な存在ではない観方を説かれているのである。

 尊師のこのような重無礙の説き方はそれまでもよくなされたことではあったが、神が人間を生んだという考えは本当ではない、という説き方をされたのは他にあまりなかったのではないかと想われるのであって、ここには、聖使命会制度の発進に当たって、はっきりとさせておかなければならないことをお想いになられたからであったと拝察するのである。それはちょうど 「発進宣言」 をなされた時に尊師がみずからに心定めをされた時のことと重なって想われていたのではないかと拝察申し上げるのである。

 即ち、人間は神そのものであって、神と人間とは、はなれた相対関係にあるのではないこと、会費によって神とくっついたり離れたりする存在ではないこと、そのことが聖なる存在たり得る唯一のすがたである、ということ、神は離れたところから、会費を沢山納めた者と、納め方の少ない者、納めない者を区別され給うというような考え方の起こることを懸念されたからではなかったかと拝察せずにはいられないのである。生きとし生けるものを平等に完全に生かし給えるみ親神は、生かすものと生かされるものとの離れたる相対関係ではないということを、はっきりとさせておかれたのではなかったか。「生かされている」ということは、決してはなれたる存在ではないことをよろこんでいる姿なのである。

 生かされるために聖使命会費を納めるのではないということである。神と人間とは一体不離、同体の存在であり、生かされていることは久遠の昔より久遠の未来に向かってつづいていることなのである。それでこそ聖なるものであり得るのであって、会費によって聖なる存在は買うことはできないのである。それ故に、聖経の 『四部経』 においては、「聖使命菩薩讃偈」 よりも先に、「招神歌」 が載せられているのである。

 「汝に面するものは誰ぞ!」 「山も川も草も木も国土も悉く仏である」 (『真理』第七巻) それは未来のことではないのである。一億七千万年後のことでは話にならない。今、現に成仏しているのである。今現に、山も川も草も木も有情非情(うじょうひじょう)皆聖なる命そのものである。先に度(わた)るものと後に度るものとの別はないのである。

 「己れ未だ度(わた)らざる前に他を度す」 というのはここでは、先なるものも後なるものも最高最尊なるものが、お互いに、「あなた様のお陰です」 と他を先に拝み合っている。その拝み合いの姿そのものが形にあらわれて 「聖使命会員」 の姿となっているのである。

 聖なるものとは何か。それは何ものによっても崩れることなく、汚れることなきものである。その崩れることなき切なるものの生きる姿が 「聖使命会活動」 ということなのである。聖になるための運動ではなく、聖なるものの運動なのである。聖なるものの運動が、よろこびなるものの運動であり、これが 「よろこびの光明化運動」 であり、このよろこびは神より来たった神であるよろこびなのである。(1998.7.10)

15復興G:2013/06/30(日) 07:20:18 ID:AB6RqYXc

  『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十一

 運動の目標は数によって表現せられているが、そもそも目標数という数はどうして決められたのであるか。

 新体制をつくる時に、全国を組織化するに当たって、何を基準にするかという時に、信仰というものは全く各人それぞれの個中の消息であって、外から計量し、判別することは出来ない。そこで数というものに着目したというのである。これは、新体制の生みの親である山口悌治先生が常々話されていたことである。その数によって、あそこは発展しているとか、していないとかを判定することにしたのである。そして、その頃の国会を動かすためには、このくらいの数の国会議員をつくらなければならない、その国会議員を出すためには、この位の選挙の得票数がなければならない、その得票数を全国に割り当てるというようにしたのである。そして、たしか、その時に算定した数は全国で五百万の票の獲得数であったのである。このことが基準となって 「神誌」 や 「聖使命会員」 や 「ご講習会」 の目標数が各県に決められていったのである。要するに、目標数の数の根拠というものはそこにあったのである。

 果たして、これが人類光明化運動にふさわしい目標の決め方であったかどうか。政治をもとにしたということがふさわしかったかどうか、ということも省察してみる必要があるかも知れないと想われるのであって、今ごろになって根本聖典である 『生命の實相』 の全読をあらためて呼びかけなければならない、というような状況であってみれば尚更のことなのである。また、来たる二十一世紀は 「心の世紀」 「宗教の世紀」 と言われていることは、あるいは 「個中の消息を重んずる世紀」 ということになるのかも知れないということも想えて来るのである。

 この数の決め方と、谷口輝子先生が伏見の稲荷神社に参詣されて 『生長の家』 誌の誌友が一万名になったら、稲荷神社をつくりますとお誓いされた時の、この一万という数の決め方とはどこか違っているように想われるのである。これは政治的な状況というよりも、内から自然に湧き上がって来た願いとして表現されたお言葉としての誌数であったと拝察されるのであるということは、それは何ヵ年計画で、昭和何年に達成するとかという、年限をおっしやっていないことからもうなずけるのではないだろうか。この目標は、天からの天降りであり、内からの自然なもよおしとして生まれているのではないかということを心新たに想うのである。

「汝、誓う勿れ」 ということは必ずしも目標を立てるな、計画するな、ということではないにしても、 「吾が内に神が今ここに、そして天国は今ここにある」 という、宗教的個中の消息の雰囲気とはおのずと様相を異にしていることはたしかなことであるであろう。釈尊が 「天上天下唯我独尊」 と宣り給い、 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と宣り給うている偉大なる個中の消息のことも想い起こされるのである。天皇の六合照徹光明遍照も中心(偉大なる、あるいは絶対なる、すべてのすべてなる個)の消息と言わなければならないのではないか。神は偉大なる一人であり給い、 『古事記』 の独神(ひとりがみ)のことも想われて来るのであるが、これらはすべて幽の幽なる入龍宮不可思議の境涯の消息なのである。

 尊師谷口雅春先生は宗教は全くの個中の消息である、とお説きになられていることは周知の通りである。神想観は個中の消息、ということが出来るであろうし、 「三界唯心所現」 の理からしてもそれは肯けることであり、 『甘露の法雨』 の 「内にのみ神の国はあるなり」 とは個中なるものの妙々不可思議境なのである。そして、新体制を発案した山口悌治先生も、宗教は各々の個中の消息である、ということを認めた上での発案であったということだけははっきりとしており、あの組織の中に居られながら悠々と 『萬葉の世界と精神』 という和歌という個中の消息を追いつづけ、讃嘆をつづけることが出来られたのであった。ここには国を憂え、 「自未得度先度他」 の急迫したとも見える状況の中に、不思議なゆとりを生きている生命の妙々さを想わずには居られないのである。

 谷口家のある渋谷区がきわだって組織的な発展があったかどうかということも問題にならなければ、隣保班をあれほど強調された山ロ先生の住んでおられた目黒区の鷹番町がきわだって運動が発展したかどうかということが問題になったということもついぞ聴かれないのであり、それが自然なことに想われるのである。( 『弟子像』 ―私の中の山口悌治先生―参照) (1998.7.11)

16復興G:2013/07/01(月) 07:54:57 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十二

 生長の家にいのち懸けとなるということは、 「……してから」 をいのち懸けで捨て切り、死に切ることにあるのである。そして、はじめのはじめのいのちを今ここに生きることなのである。

 實相、實在ははじめのはじめから、既に、完成せるものとして在りつづけなのである。それ故、 「自分が……してから」 というものは一切要らないのであり、一切入るスキ間は無いのである。自分そのものが要らないのである。如何に尊いと想えるものであっても、それを自分がしてから、ではないのである。

 すべてを捨てるのである。それこそ捨てて死ぬなら死んでもよいのである。神を信じてから、でもなければ、仏を信じてからでもないのである。先達が言ったように、捨てて無くなるような神であり、仏であれば、それははじめから神でもなければ、仏でもないのである。捨てれば捨てるほど生き生きと生きてくるのが、はじめのいのち即ち神であり、仏であるのである。捨てて捨てて死に切った時に生きて来るもの、自我の要らないものを、聖といい、光りというのである。

 私が以前、神癒祈願部に居た時のことである。それは大聖師谷口雅春先生が昇天されてから、七日目のことである。毎日の勤めの祈願の神想観中に、フッと想ったのである。

「谷口雅春先生は九十二歳で亡くなられたが、九十二年の間には一日ぐらいは曇った日もあったのではなかろうか……。いや、一日とは言わずとも半日くらいは、いや一時間くらいは……」

と、このような思いが浮かぶ反面、

「谷口雅春先生は、一時間でも曇ったらいやだ!!」

という思いも浮かぶのである。その曇りも 「もっと人類に役立ちたかった」 とか、あるいは 「もっともっと本を書きあらわしたかった」 とか、その崇高さにおいては自分とはくらべものにならないものではあるにしても、 「……したかった!!」 という悔いというか、心を曇らせるものがあったのではないか、と想った時であった。朝焼けのようなさえぎるものなき明るさの中に、満面笑みを浮かべて、尊師が観じられたといおうか、想われたといおうか、そのよろこばしさ、幸いなるものが私を包んだのである。そして、

「私は無いのだよ」

とおっしやったのである。細かい情景のようなものは憶えていないが、ただただ 「自分が無い」 ということはこんなにも嬉しいことなのかッ、ということだけがはっきりと想われたのであった。

 私が曇るも曇らぬもない。私そのものが無いのである。何年何月に自分が生まれて、その自分が悟って、光明化運動をはじめて、これだけの聖典を著して、これだけ人々によろこびを与えて、役だって………というものを捨てて、捨てて、死んで死んで死に切って素っ裸になって、はじめのはじめなるいのちがそこに在し給うたのであった。

 私はここに、光明という光明、よろこびというよろこびというものに包まれたのを、私の魂は観じたのであろう。一週間くらいの間、うれしくてうれしくて、まるで宙に浮いているような感じを味わったのである。

 自分がこうしたから、ああしたからを全く捨てて捨てて、超えて超えて、死に切って、全宇宙を無しと死に切って、はじめなるが故に、今であり、久遠であり、渾(すべ)ての渾てなるもの、それこそ自分のいのちと引き替えに、久遠の甦りそのものとして尊師は立ち給うたのであり、光明化運動も立ったのであった。(1998.7.12)

17復興G:2013/07/02(火) 06:46:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十三

「数は力なり」 というのは唯物論である、と言った人があったが、それは数を集めるためには時間がかかるからであり、時間のかかるものは完全ではなく、實在ではなく、 「現象無し」 の宣言によって、吹き消されているものであることを知ったいのちの言葉であったのだと信ずるのである。

 数はそれを使ってよろこばしさを顕わすためのものであって、それのあるなしによって、こちらの価値なるものが上がったり、下がったりするものではないのである。

 また、生長の家は、集める教えではなく、すべてのものの、そのままの相(すがた)を拝みに出て行く教えなのである。そして、全宇宙をそっくりそのまま生長の家であるとして拝んでいる教えなのである。

 ○○学会が十万人も集めてマスゲームを神宮外苑で挙行したことがあって、その十日も経たないうちに、私たち学生がお山の谷口雅春先生宅で座談会をしていただいて、ご指導に浴したことがあった。その時、一人の学生が尊師に、

「生長の家は世界一の教えであるのに、なぜ、○○学会のように集まらないんですか?」

とお尋ねしたのである。幸いに満ちたよろこばしさの雰囲気の中に、尊師は

「今のうちにあのように集める練習をしておいて貰って、そのうちにこちらが話しに行くようになるのです」

 と言われたのであった。それからもう三十年近くもたっているが、天地一切礼拝感謝の教えである生長の家は、集める教えではなく、そのままの完全な相(すがた)を拝みに行く教えであり、それであればこそ、全宇宙組織がそのまま生長の家の組織であると、そっくりそのまま置き換えることの出来る教えである、と尊師がお示し下さっていたのであると、日に日に新たに想えて来るのである。

 ここに、 「ある狭い範囲は多勢(即ち数)で救えるが、全宇宙の救いは一人によらなければならない」 という命題に逢着せざるを得ないのである。

 釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 もキリストの 「Kingdom of heaven is at hand」 も、個々の魂を救って行くのは、自分一人だけ救われればよいという声聞縁覚(しょうもんえんがく)に比べればやや上乗なれども 「佛の正覚(しょうがく)は全宇宙の成佛を一度に観る」 (谷口雅春先生著 『天皇絶體論とその影響』 ―謹序―)という尊師のお言葉、これらはすべて、一が渾(すべ)ての渾てである消息なのである。聖経 『甘露の法雨』 には 「悟れば忽ち此の世界は光明楽土となり、人間は光明生命なる實相を顕現せん」 と唱われているのである。

 これらはすべて、神はあるか否かということに帰着するのである。不完全があれば神は無いのであり、神があれば不完全は無いのである。それ故、如何なる種類のものであれ、不完全は無いのである。ただただこのことによってのみ、即ち、神は極楽そのものであり給うが故に、今ここに世界には救われていないものは一人もいない、ということはあり得るのである。それは多数の人間が集まって決めることでもなければ、造り出すものでもないのである。ただただ 「神は完全である」 というこの厳かなる真実がそれ自体で在りて在るのみなのである。

 天皇の六合照徹(りくごうしょうてつ)光明遍照の世界が 「今ここ」 に在るという 「今ここ」 が 「今上(きんじょう)」 ということなのである。天地(あめつち)の創り主なる、渾(すべ)ての渾てであり給うことが拝せられるのである。天皇は絶対にましまして、天皇によって救われていないものは一人もなき世界の統べみ親(すめらみこと)にましますのである。(1998.7.13)

18復興G:2013/07/03(水) 05:44:52 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十四

 誰が言い出したものか、生長の家の説く真理には、縦の真理と横の真理とがあるということを言われるのを時々ではなく、生長の家の常識のように聴く場合が多いのである。

 横の真理を説くということは、心の法則を説くことであり、いわゆる三界唯心所現を説くことであり、現在意識や潜在意識の話などもこれに当たっており、しかし、これは現象世界のことなのであるが、一応現象の法則として、現象を認めた上での話である、というのである。

 これに対して、縦の真理とは現象無しを説き、そして、實相の独在を説くことであるということになっているのではなかろうか。

「あの人は縦の真理を説く人である」

とか

「あの人は横の真理を説いた」

と云う場合は、この分け方をしていることになっているのではないかと想われるのである。しかしながら、尊師谷口雅春先生が 『生命の實相』 においてお示しになっていられるのは多少趣きを異にしているのに気づかされたのである。

 なるほど、生長の家の説く真理には縦の真理と横の真理とがある、ということは同じであるが、その説明は、尊師は縦の真理と横の真理とがあると言われたのであるから、その説明の順序としては、縦の真理からはじめられるのが順当であると想われるのであるが、ここでは違っていて 「横の真理とは」 と、横の真理の説明が先にされているのである。( 『生命の實相』 第十七巻の 「はしがき」 など)

 その説明によれば、横の真理とは三界は唯心の所現ということ、即ち、現象無しと悟ることである、と 「現象無し」 が横の真理であると説明されているのである。

 そして、縦の真理とは、人間は久遠不滅の神のいのちそのままである、と悟ることであると説明されているのである。即ち實相の独在を悟ることが縦の真理である、と説明されているのである。

 つまり、横の真理は 「現象無し」 であり、縦の真理は 「實相独在」 ということなのであって、現象を多少でも認められた部分は縦横の説き方の中には入っていないということなのである。 「現象無し」 「實相独在」 で縦横がつくされているということであって、私たちは通常 「現象無し、實相独在」 という順序で受けとっているのであるから、この通常の順序にしたがって、横の真理すなわち 「現象無し」 から先に説明されたものと拝察されるのである。

 それにしても、 『生命の實相』 の中には、私たちが通常よく耳にするほどにはひんぱんには縦横ということが説かれていないことを 『生命の實相』 を全読した方ならば気づかれるにちがいないのであるが、ひとたびご説明されるとこのようにはっきりとご説明下さっていることに心を新たにするのである。

「現象無し。實相独在」 で縦横がつくされているということは、これ以外に生長の家は無いということなのである。これこそが生長の家の人類光明化運動が神癒の展開として出発していることの根拠であると拝察させて頂くのである。

 現象無しと現象を超えた時にのみ、神=實相独在があり、そこに自性(じしょう)円満の生命の實相を認めた時にあらわれるメタフィジカル・ヒーリング(神癒)が認められるのであって、現象を何らかの意味において、横の真理として認めたところには、神なく、實相なく、したがって神癒は無く、そこには神なき迷妄の展開があるのみなのである。(1998.7.14)

19復興G:2013/07/04(木) 09:32:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十五  (1日1文ずつ謹写掲示。cf.>>4

 講師として講話をする時、誰しも一度は、 「自分が話しているところは、自分の都合のよいところを話しているのではなかろうか……」 という反省の想いにさそわれるのではないだろうか。

 ここに常に、尊師谷口雅春先生の悩みは何であったのか。そして、何によって、どのように道が開け給うたのであるか、ということを心新たに確かめつつ歩ませて頂きたいものとの念願が起こるのである。

 常に常にここに還りつつ、いのちをここより汲みつつ進みたいものである。

 お悟りになった、啓示を受けられたところの最後のところは、 「自分もまた明治26年の11月22日に母の胎内から生まれたのではなかった」 のであり、そして

「今はじめて悟ったのでもなく、久遠の昔より、そして今このまま久遠の仏そのものであった」 というよろこびで結ばれているのである。

 これは父母未生以前の自己の発見であったと拝察するのである。

 一切を超えられたお姿がここにあるのである。自分自身をも超えられたのである。

 神は何ものにも依らない、在りて在り給うそのいのちのよろこびをご自分自身に体現せられたのであった。

 それ故、組織のど真ん中にあっても次の言葉はゆるされる筈である。

「三正行すなわち、聖典を拝読すること、神想観をすること、そして愛行をすることは尊いことの極みではあるが、それをやってから私は生まれて来たのではない。」

 このことは、いつ如何なる時にも発せられることのゆるされている言葉であり、この言葉を発せられることが、よろこびということなのである。これは因縁を超えたる円相的自由ということなのである。このよろこびを以て進められるのが、いわゆる 「よろこびの光明化運動」 というものなのである。宇宙いっぱいの自由、神なる自由ということなのである。

「常に神なら如何にあり給うかを想え」 ということこそ、よろこびのもとなのである。それは決して、神のなし給うことを参考にして生きよ、ということではないのである。何故ならば、神は何ものにも依り給わない存在であり給うからである。それ故、神なら如何にあり給うか、とは何ものも参考として依ることの要らない姿として今ここにあれ、ということなのである。

「吾れ神の内にあり、神吾れの内にあり」 である。神に祈ると言えども、神吾れの内にありである。この上に立っての 「御祖神(みおやがみ)」 である。

「實相を成就せしめ給え」 との祈りは、實相が成り就(な)りひびくことであり、純粋なる實相なるもの、完成なるものの持続を、實相なる神の子が宣(の)りごとしているのである。

 ここには實相は現象に現れなければ何にもならぬ、もしくは、實相は現象に顕れはするが、しかし現象に顕れなければ値打ちがないというような、現象に価値づけして貰わなければならないというものでは決してないのである。
 もしそのようなものであれば、神もまた全宇宙的に實相を完全には顕してはおられないのであるから、神もまた完全全能ではないということになるのである。

 人生の目的は、實相を現象に投影し出すというような、影の創造ではないのであって、實相の成就すなわち、實在が實在し、實相が實相するのであって、尊師谷口雅春先生がお示し下さった 「愛行はむなしからず」 とは、影のための人生ではないことをお示し下さっているのである。諸行は無常ではないのである。諸行は實在にして常恒なのである。(1998.7.15)

20復興G:2013/07/05(金) 08:15:55 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―         榎 本 恵 吾 

         十六

 ここに 「光明一元」 であり、 「實相独在」 であり、 「救われていないものは一人もいない世界のみがある」 という世界において、何故、光明化運動というものが必要であるのかという問題になって来ざるを得ないのである。

 神想観において 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 と言ったとき、すでに五官の世界のすべては消えているのである。光明化運動のひろがっている世界もひろがっていない世界もないのである。現象を針の先ほどでも認めるということは、 “神はない” ということなのである。神のない光明化運動というものは有り得ないのである。

 神は天地創造を何の必要があってなされたもうたのであろうか。神は必要性のために天地を創造せられたのではないのである。神の前に、神より先に “必要性” というものが存在するとか、神以前に何かがあり、神がそれに従わなければならないということは決してないのである。神はただただ嬉しくて、よろこびで、創造したいから創造せられ給うたのである。

 人間は神の子であって完全であるのに何故迷うのか。それは神が人間に自由を与え給うたからである。神は強制され給うことはない。自由のないところには価値がないからである。迷う自由がありながら、自由性の中に迷わないところに善があるのである。一応この説明は方便説としては説かれているところではある。

 しかし、それならば聖経 『甘露の法雨』 の中の 「罪を犯さんと欲するも罪を犯すこと能わず」 ということはどうなるのであるか。

 神の前に、神がしたがわなくてはならないという法則などはないのである。 「自由のあるところにのみ善がある」 というような法則が神より先にあって、神はその法則に従って創造をしなければならないなどということは有り得ないことなのである。神は神のコトバの発し給う通りでよいのである。

 それ故、神は、迷う自由を無くして、しかもそこに善があり、無限のよろこびがあるという相に人間を創造したもうたのが本当の相なのである。

 人間は未だかつて迷ったことはないのである。迷う自由は無いのである。此の世もまた一度も不完全であったことも、暗であったことも、迷いのあったこともないのが真実の相なのである。

 ここに不完全であるからこそ救済しなければならない、という姿は消えてしまったのである。不完全を、暗をもとにする光明化運動ではなくなったのである。
『未だかつて、一度も一人も救ったことはない』 ということが光明化運動の本当のすがたなのである。
 ただただ、光明が光明し、實相が實相し、光明一元だからこそ、實相円満完全であり、迷うもの一人もなく、迷いそのもの、暗そのもの不完全そのものが存在しないからこそ、光明であり、光明化運動があるのである、ということが真実の運動のすがたなのである。

 唯神實相、光明一元であれば、なぜ運動の必要があるのか、ということの説明において、現象というものを針の先ほども持ち込まないで説明し得るか、ということは、二十一世紀の百年をかけて研究されてもされ尽くすことの出来ない、美しいテーマであろうと想われるのである。(1998.7.16)

21復興G:2013/07/06(土) 06:58:59 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十七

 實相は今すでに、はじめのはじめから完全円満なのである。これに引きかえ現象は時間をかけて徐々に良くなって行く存在である。それ故、時間をかけて、これから浄まって行くという、現在意識によって左右されるところの潜在意識というものは現象であって、無いのである。現象無しと言った時、潜在意識は無いのであり、それだからこそ實相はそのままで円満完全であるということが出来るのである。

 それ故に、實相円満完全という言葉は、事実なのであって、これを潜在意識にたたき込むためのものとしてしまってはならないのである。潜在意識を認めている以上は、實相の円満完全は實在の相ではなくなってしまっているのである。實相円満完全は真実、今ここに “ある” ものであるからこそ實相円満完全なのである。

 生長の家の説く實相円満完全論をすべて潜在意識のためのものとして、潜在意識のレベルにダウンさせてしまってはならないのである。生長の家の説くところは、潜在意識を超えて、読者の實在の實相の完全円満、自性円満を礼拝して説かれているのである。それは現象を認めての激励のものではないのである。

 あれほど沢山の本やご諧話によってもたらされた唯神實相の偉大なる説法も、潜在意識にたたき込むために聴き、受けとめていては、話す方と受け取る方とに食いちがいが生じていると言わなければならないのである。

 なるほど見えないものの存在の説明に潜在意識を持ち出すことは大変便利なように一見見えるのではあるが、潜在意識という現象を認めてしまうことになってしまっては、永遠にそれを超えた實相に超入することは出来ないのであって、遠まわりになってしまうどころではなくなってしまうのである。

 聖経 『甘露の法雨』 には 「罪は不完全なるが故に實在にあらず」 と歌われているのである。それ故 「潜在意識は不完全なるが故に實在に非ず」 ということなのである。

 ひるがえって想ってみれば、練成会で行われている浄心行は、この潜在意識を相手とする行事の最たるものではなかろうか。しかも、ともすればこれが練成会の最重要行事のようにさえ思われているということもなきにしもあらずなのではないだろうか。

 しかも、聖経 『甘露の法雨』 の一斉読誦のうちに焼却が行われるのである。聖経に鳴り響いている實相讃嘆のひびきと、本来具有している参加者本人の内なる實相円満とがひびきあって、實相がおのずから顕れて不完全が消えるということを想わないで、説明で聴いた潜在意識に、真理をたたき込んだが故に不完全が消えたと錯覚してしまうということが無きにしもあらずなのである。それでは生長の家の結論である唯神實相の説かれている聖経 『甘露の法雨』 の中身から遠ざかっていること、はなはだしいといわなければならないのである。

 なるほど聖典 『生命の實相』 には潜在意識という言葉は使われているところも確かにあるのである。しかし、それを超えることは現象はないこと、潜在意識は不完全なるが故に實在には非ざることを知ることによってのみなのである。潜在意識に實相の完全円満なる想いを注入するといえども、その中身は、潜在意識という現象は無い、ということを知ることにほかならないのである。 「現象無し」 が、 「實相のみ在り」 が生長の家である。知らぬ間に現象あり、したがって實相無しの中身にすり替わっていることのなきよう心すべき事とみずからに言いきかせているのである。(1998.7.17)

22復興G:2013/07/07(日) 03:29:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十八

 人間は新しさを求めるということは、それ自体が創造、生長が人間の本質であることをあらわしているのである。

 善い意味において、人間は自分も驚きたいのであり、またすべての人々に驚きを与えたいのである。ロマン派というのも常に形を破って、古い形式を超えよう超えようとしているかに見えるのである。

 ベートーヴェンの音楽を胎児に聴かせようと私が想わなかったのは、きっとそこに、どこかでスキあらば形を破って人を驚かせようという気配が、どんなに静かで、落ち着いた、安定したものを表現しようとしている部分についてもそれを感じていたからなのではないかと想われるのである。

 人はこの驚かせたいという願いをつきつめて行けば、神を驚かせたいのである。神に驚いて感動してもらいたいということになるのである。

 しかしながら、全知全能の神が、今さら驚いて感動するなどということがあってよいものだろうか。

 驚いてよいのである。神のご性質のうちで最初に来るのが、この驚き感動する無限の能力であるということなのである。それ故に、神は創造そのものであり、感動そのものであり、感謝そのものであり給うということが出来るのである。

 人間の為すことの一つ一つが神にとって、この世のどこにもなかった全く新しいことの誕生の連続なのである。一呼吸といえどもすべて、全く新しい出来ごとなのである。

 それ故、神の子人間の為すすべては、ペンを持つことであろうと、一文字を書くことであろうと、愛行のために歩く一歩一歩だろうと、すべてこの世のどこにも存在しなかった全く新しいことの誕生であって、神すなわち全宇宙を驚かせる内容をもって生まれているのであって、決して虚(むな)しいことではあり得ないのである。神すなわち全宇宙が知り給うところの出来ごとなのである。 「さすが吾が生みの子よ」 と讃えられ、 「さすが吾が教え子よ」 と尊師に讃えられ、 「さすがわが子よ」 と両親にたたえられ、天地万物一切にあがめられ感謝され、讃嘆されているのが、神の一人子人間の今、今、今なのである。神の無限のおどろきという極まりなき厳かさの内容をもって満たされているのが人間の生活の一歩一歩なのである。

 例えば、芸術家が腕を磨く過程としての練習と見ゆるその一コマ一コマも無限荘厳華厳なる尊さの、純粋なる、完成なるものの、神のおどろきの内容となっているのである。まして、人類光明化運動の内容においてをやである。

 いのちには練習というものはなく、限りもなき尊さ、完成なるもの、本番なるものの今、今、今があるのみなのである。草の一本にしても、花にしても、木の芽を出した姿にも、そこには練習でやっているものは一つもないのである。

 神が天地創造にあたって、リハーサルをされ給うたということは有り得るだろうか。神の子の創造もまた、神の天地創造の世嗣ぎとしてあるのである。今、今、今、絶対なるもの、完成なるものの歩みがあるのみなのである。

 神想観練習というのがあるが、祈りには練習はないのである。祈りとは命が宣べることであり、いのちは神であるからである。

 人類光明化運動練習というものは無いのである。荘厳なる今、今、今があるのみである。その荘厳なる今、今、今を光明というのである。(1998.7.18)

23復興G:2013/07/08(月) 07:45:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         十九

「与える生活を生きよ」 とは、求めることの要らない存在である相(すがた)を祝福した言葉なのである。それは、既に、内に、すべてが満足、自足している存在、即ち神と同じ相である、實在の實相の自性円満を祝福した言葉なのである。

 神は求め給わない。神は外という因縁を、自分が自分である原因なるものを求める必要のない、みずから在りて在るご存在にましますのである。

 求める必要のない存在でなければ、与えるということは成り立たないのである。

 宗教に求める必要なく、行に求める必要なく、人に求める必要なく、心に求める必要なく、一切の外界、一切の現象無しと斬ったそこに輝く、内なるものの展開あるのみの生活、即ち 「与える」 生活がここにあるのである。

 それ故、感謝を表現する 「ありがとうございます」 の 「ありがとう」 という言葉は、貰う言葉ではなく、与える生活とは矛盾しない言葉でなければならないのである。古来より、言霊の解釈によれば、 「アリガトウ」 の 「ア」 は天照大御神の 「ア」 であり、 「リ」 とは、その天照大御神のいのちのひかりがすべてを貫いて、六合照徹し給う、鋭利の 「リ」 であり、 「ガ」 とは真我のことであり、 「ト」 は止まることを意味し、 「ウ」 は生み出すこと、創造、生長を表現しているのである。即ち 「アリガトウ」 とは、天照大御神が我れとなって止まり、そこより無限の生み出しが行われて行くことを意味しているのである。これは天照大御神が、我が内にましますことを意味しているのであり、神は何ものをも求め給わないのであり、したがって 「アリガトウ」 の言葉には、求めること、外から与えられたものに対する要素は、どこにもないのである。

「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 に於いて、 「住吉大神すべてを浄め終りて天照大神出でましぬ」 と、完了形になっていることは、既に、今ここに、すべてとなって天照大御神が顕れ給うている世界に変貌していることが讃えられているのである。明るく丸い 「高天原(たかあまはら)」 そのものである、天照大御神―生長の家が、ここに全面的にあらわれていること、全宇宙が生長の家であることが明らかにされている宣ごとなのである。

 生長の家の根本は感謝である、ということは、 「ありがとう」 が本体であり、 「ありがとう」 とは天照大御神のおすがたそのものであるから、 「天照大神出でましぬ」 とは、天地一切万物として、 「ありがとう」 = 「感謝」 が輝き顕れていることを讃えていることになっているのである。

 二十世紀のうちに、この宣り言(のりごと)が発せられたということは、来るべき新しき世紀は、万物の中に 「天照大御神」 即ち 「ありがとう」 即ち 「生長の家」 が、既にそこに顕れ輝いていることを観じ礼拝し、祝福し、讃嘆して行く世紀の幕開けを象徴していると拝察されるのである。

「与えよ、さらば与えられん」 という言葉において、あくまでも 「与えよ」 が先になっているところ、与えるべき、貰う必要のない存在が先に拝まれていることに、深々妙々なる厳粛さがこもっているのである。これは何も、 「栄える会」 専用の言葉ではないのであって、富だけのことではなく、人間は人間ではなく、神である、求める必要のない絶対的存在なる實相の礼拝の極致の言葉であると拝察されるのである。(1998.7.19)

24復興G:2013/07/09(火) 04:50:01 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十

 神は何故、光りであり、聖であり給うのであるか。

 光りとは、それのみ渾(すべ)ての渾てであるよろこびであるからであり、聖もまた、それのみ渾ての渾てであり、その外にあるものなしなるよろこびであるからである。

 光りとは絶対に暗くならないものであり、聖とは絶対に汚れることなきものなのである。

 暗きこととは渾ての渾てでないことであり、汚れるとは渾ての渾てでないことなのである。光りとは“よろこび”ということである。それ以外ない宇宙いっぱいの自由をよろこびというのである。 「よろこびの光明化運動」 とは、この光りに起因し、このよろこびに起因するのである。

 聖とは、ひじりであり、ひじりとは 「日がいちじるしく輝く」 ということであり、日は神をあらわし、渾ての渾てである。そして渾ての渾てであることにおいて、神と光りと聖とはひとつなのである。

 聖と光りとは渾ての渾てなるが故に、はじめのはじめから在るところの存在なのである。それ故、光明化運動ははじめのはじめから在り、聖なる使命を生きる、聖使命なるものもはじめのはじめより、天地とともに窮まりなき存在なのである。

 神の子ははじめのはじめから聖そのものであり、世の光りそのものでありつづけているのが實相なのである。實相ということはそれのみすべてのすべてである神なのである。

 それ故、神の子人間は、神そのものであり、外より貰う必要のない存在であり、存在そのものが今、今、今、与えっ放しの存在であるのであるから、聖使命会への入会をすすめるにあたっては、

「あなたは日ごろ与えていないのだから、聖使命会に入会して、与える生活をしなさいよ」

 といって、説明する場合もあるが、それよりはむしろ、

「あなたは神の子であって、はじめのはじめから与えている存在があなたの本性なのですから、与えることが一番ふさわしいのですね。あなたこそ、聖使命会入会がふさわしいのです」

 という、すすめ方の方が新しい世紀、即ち、 「天照大神出でましぬ」 の世界観からすれば、この方が自然なすすめ方になるのではないかと拝察されるのである。

 与えていないことを前提としてしまえば、日ごろ与えていなくて、悩み多い人ばかりにすすめて行くようになり、悩みのある人、マイナスのところにいる人ばかりの集団となりかねないということはないであろうか。

 プラスなる存在を観て、プラスなる人にさらにプラスになっていただくということに生長ということの意味がある、ということに着目すれば、生長の家の光明化運動のすすめ方も、はじめからあるプラスなるものを先ず認め観じて、プラスが集まるというすがたにして行くことが出来るということになるのではないか。

 どこかにマイナスを認めて、世界についても、人についても、それをもとにすすめて行くという運動は、光明一元だからこそ、實相独在だからこそ、すべては完全だからこそ、もう救われていないものは一人もいない世界であればこそ、はじまった、プラスのよろこびの光明化運動とどこかにくいちかいがあるように想え、この僅かなくいちがいが、“天地はるかにへだたる”というようなものとして想えても来るのである。(1998.7.20)

25復興G:2013/07/10(水) 06:04:06 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十一

「光りは東方より」 ということは、 「光りは当方より」 ということである。

 全存在の発するところは吾が内にましますのである。自分は無いのである。当方のみが渾(すべ)ての渾てなのである。すべては内より出でて内に還るのである。

 時間も空間も、したがって二十一世紀も 「当方より」 ということなのである。いのちなるものは、二十一世紀という時間の流れの枠組みの中に規制されて生くるのではないのである。また、組織という空間的枠組みの中に部分として組み込まれているのでもないのである。時間空間と心とを組み合わせ、それを織りなしている創造的主体者として生かされているのである。組織人とは当方より組織を発しているいのちのことなのである。

 神癒の社・入龍宮幽斎殿に於ける神想観の中で、

「われ今、此処、龍宮界の龍宮城に坐して住吉大神より龍宮無量寿のいのちにて全身全霊浄めらる……」

 と念ずる。この 「全身」 とは 「全ての全てなる身」 ということであり、 「全霊」 とは 「全ての全てなる霊身」 ということである。吾れ今此処ということにおいて、自己のいのちが 「全身」 であり、 「全霊」 である。住吉之大神の祝福によりその本来の相に還ることが、“浄めらる” ということなのである。それが 「わが全身如意宝珠なり」 という言葉となって行くのである。

 即ち、全存在なる 「当方」 に帰ることが 「全身全霊浄めらる」 ということなのである。宇宙の中の部分である自分一人が浄めらるということは有り得ないことである。全宇宙と一つでないことが浄まっていないことであり、現象界の妄想即ち汚れなのである。一つなるもの、全ての全てなるものに還っていることのほかには浄まっている相(すがた)はないのである。全宇宙と偕(とも)に一つとなって浄まっていると言ってもよいかも知れない。一つが一つすることが浄まっていることなのである。

「吾ら現象界の妄想悉く浄められて本来の如意自在の實相顕わる、わが全身如意宝珠なり、一切の宝、吾が掌中にあり……」

 と唱えるのである。 「本来の如意自在の實相」 とは、渾ての渾てであることに他ならず、 「わが全身如意宝珠なり」 とは全ての全てなる身即ち如意宝珠即ち全宇宙にほかならず、 「一切の宝、吾が掌中にあり」 とは全ての全てにほかならず、吾れそのものがそれであることが浄まっている相(すがた)、本来の相なのである。それが荘厳の極みなる自己の自己なるものであり、内そのものであり、当方そのものなのである。

 吾が内の展開としての天地であり、組織であるのである。内が神であり、神が内である。 「神よ」 と呼ぶ時、それはすべてであるのである。神に祈りの成就を求める必要はないのである。渾(すべ)ての渾てであり、神は成就そのものであり給うのである。世界の平和を祈る時、 「神」 と言った時、成就そのものを呼んでいるのである。神が為し給うとは、成就そのものが為し給うているのである。

「神よ、二十一世紀を御心のままに」 と祈る時、御心は成就そのものなのである。祈りそのもの、願いそのものが、内なる神、内なる渾ての渾て、内なる成就そのもの、成就が展開して祈りとなっているのである。すべてが当方であり、当方が渾ての渾てなのである。これが如(にょ)であり、如意自在であり、今であり、天国浄土そのものなのである。願いとその成就が分裂していないのである。それが實在の實相なのである。ただただこのことの成り就りひびきがあるのみなのである。(1998.7.21)

26復興G:2013/07/11(木) 02:24:36 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十二

「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出でましぬ」

 と宣(の)りごとした時、コトバは神であり、渾(すべ)ての渾てであり、成就そのものなのである。決して、未来にそのようになるための何かとしてそこにあるのではないのである。それはハッタリでも、無いものをコトバによって造り出すためのものでもないのである。内なる渾ての渾てなる神、成就そのものである神がみずから鳴り鳴り響いている大實在の大事実なのである。

 無の門関に坐しての、無の無の無。 「無し」 と言葉で言えるすべてを 「無し」 と宣言した時、おのずと内の内より、 「無し」 と言えば言うほど輝き出づる大神。實在みずからがコトバとなって鳴り出ずる消息である。真空妙有であり、無一物中無尽蔵なる妙有實相、入龍宮不可思議なる消息である。

 新しき世紀における人々の発する言葉は斯くの如きものなのである。

 願いの中に成就そのものが實在し、成就が願いとなっているという願い即ちコトバなのである。

 願いは何処より来る――願いは成就より来る、である。成就のない願いは無いのである。成就のないのは願いではなかったのである。何故、“斯くの如き有り得べき”。ただ一つなること、神はコトバにして、コトバは渾ての渾てなり、との “そのままよりぞ” ということである。

 愛行は空しからず、成就即ち中身が先であるからである。あるいは 「ありがとうございます」 と唱え、あるいは 「實相円満完全」 と唱えること、空しからず。 「ありがたい」 中身が先であり、 「實相円満完全」 の中身が先であり、中身がみずから顕れて、唱えたくなったのである。

 先祖供養も大切中の大切であるが、たまには、これまでの自分の歩みを供養し、讃嘆することが尊いことの一つなのである。

 一冊の本を愛行のために持って歩いたその姿の中に無限の中身があったのであり、神が内實してい給うたのであり、久遠不滅の光りがそこにとどまりつづけているのである。

 あるいは受講券を持っておとずれたその家が留守であったとしても、その中身は神であり給い、その光りはその家に永遠久遠にとどまり、その輝きはその家をひき包み、その輝きはいのちであるが故に、その光りは生長しているのであり、何千年後においても観るべき眼のあるものにはそれが拝されるのである。

 神は既にある成就そのものである今そのものである。はじめのはじめから吾れの吾れなるものとしてここに在し給うのである。

「……してから」 ということではないのである。 「感謝してから」 「我を消してから」 「潜在意識を浄めてから」 「教えを実践してから」 あるいは 「実感してから」 「愛行してから」 「徳を積んでから」 「ゆるしてから」 「懺悔をしてから」 「實相を観じてから」 「神の子を自覚してから」 「与えてから」 等々。これを一所懸命やることが生長の家に命をかけていることであると想い、これによって神に近づこうとしていたのではないのであって、 「神」 がこれを為し給うていたのである。 「神」 は常に、はじめのはじめから、こちら側に在し給うているから、一瞬の愛行といえども無限なのである。ここのところをはずせば 「一体、どこまでやれと言うのか<」 という嘆きに終わらないとも限らないのである。

「よろこびの光明化運動」 とは、今よろこんでよい、ということの発見から来ている祝福の言葉であり、目標を達成し、行を達成したよろこびとは別なのである。神が今、今よろこびであるが故に、神の子もまた今よろこびそのものである、というよろこびなのである。感謝せよ、とは、よろこび、よろこべということなのであった。(1998.7.22)

27復興G:2013/07/12(金) 07:20:08 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十三

 神はみずからの消えきりであり給うのである。

 無の門関において、無の門関であることにおいて、幽斎殿はみずからの消え切りであり、門関それ自体がみずからの消え切りである。

 現象はみずからの死に切りである。肉体はみづからの消え切りであり、物質はみずからの消え切りであり、實相はみずからの消え切りであり、神想観はみずからの消え切りであり、祈りはみずからの消え切りであり、コトバはみずからの消え切りである。

 五蘊(ごうん)はみずからの消え切りである。そして、“現象無し”がみずからの消え切りであり、“五蘊皆空”がみずからの消え切りであるのであった。

 集団神癒祈願の祈りのことばの中に、 「病を消し、罪を消し、迷いを消し、死を消して……」 とあるのは、現象を去った實相世界の中での言葉としてはふさわしくないのではないかとの一抹の想いがあったが、今日の神想観において、 「祈りのコトバ」 全体がみずからの消え切りであった。

 すべてみずからの死に切り、消え切りであるとは、すべてのすべてが 「私は無いのである」 とみずから、おのずから、はじめから、澄み切りの聖なる輝きであったということである。

 そして更に、その、みずからの消え切りも、みずからの消え切りも、みずから、おのずからの消え切りなのである。

 宇宙はみずからの消え切りであり、みずからの脱落であった。時間も空間もみずからの消え切りであり、世紀なるものもまた、みずからの消え切りであった。

 イエス・キリストの架かり給うた十字架は、肉体みずからの死に切りであり、イエスみずからの死に切りであったのである。 『新約聖書』 の最初の 「マタイ伝」 の冒頭にあるアブラハムより、イエスの父親に至るまでの系譜はどこまでも父親の生まれる系譜であってイエスとは全く関係ないのである。何故ならば、イエスは処女マリアから生まれたからである。これは、系譜みずからの消え切りであり、因縁みずからの消え切りをあらわしているのである。みずからの消え切りこそ、 「聖」 なるものの輝きなのである。それ故の 『聖書』 なのである。

『維摩経』 の 「是の身は虹の如し、虹は久しく立つ能はず、須叟(しゅゆ)にして消ゆ」 とは、此の身みずからの死に切りであり、消え切りを表現しているのである。

 ここに、イエスはマリアの処女より生まれ出でたとあるが、それでは、処女という肉体だけは必要であったのか、という問題が残るのである。しかし、尊師谷口雅春先生が啓示を受けられてお悟りになった時 「私は明治二十六年の十一月二十二日に母の胎内から生まれたのではなかった」 と宣り給うているのである。この時、尊師は処女なるもの、子宮なるもののみずからの死に切りの消え切りの澄み切りをごらんになったのであった。

 このことをイエス自身は 「アブラハムの生まれぬ前より吾れは在るなり」 と、アブラハムから父親に至るまでの系譜のみずからの消え切りを拝んでい給うのである。系譜を書き録(しる)したのは、マタイの文学的表現である。

 釈尊が 「吾れ実に成仏してよりこのかた百千万億那由他劫(なゆたこう)なり」 と宣(の)り給うた時、 「百千万億那由他劫」 のみずからの消え切りをよろこび給うていたのである。

 幽斎殿の幽は、“幽の幽” の “幽” であり、隠り身の “隠る” ことを意味しているのである。

 天地(あめつち)の初めの時、高天原に鳴りませる七柱の神は、それぞれ独神(ひとりがみ)〈絶対神〉にして、身(みみ)を隠し給うているのである。

 この幽の幽なる神の詰まります高天原そのものが、みずから幽(かく)りそのものであり、消え切りであり澄み切りの輝きそのものであり給うのである。ここに龍宮不可思議の消息があり、知る必要のない澄み切りの真空なる妙有なる領域があるのである。(1998.7.23)

28復興G:2013/07/12(金) 07:30:12 ID:AB6RqYXc

今日は、榎本恵吾先生が

「多くの人々に魂の救いを与え

平成17年7月12日に卒然として天界へ旅立たれた」

その日からちょうど8年目の、祥月命日の日であります。

榎本先生に深甚の感謝を捧げ、聖経を読誦させていただきます。

ありがとうございます。

29復興G:2013/07/13(土) 04:51:43 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

          二十四

 幽の幽なる、身(みみ)を隠し給える、元の元より発し給うている、イザナギの大神が禊(みそ)ぎ祓(はら)い給うということは、消え切りの澄み切りのあるべき姿に還り給うことを意味しているのである。 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 において唱える言葉の一節に、

「畏くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓いたまう。

 その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う」

という言葉がある。住吉の大神が宇宙を浄め給うとは、宇宙がみずから消え切りの、澄み切りである、聖なるまことの相(すがた)を観じ給い、祝福し、その本来のまことの相がますます輝きを増すことを意味していると言わなければならないのである。

 かつて、幽斎殿において神癒祈願のための神想観中に、それは尊師が昇天されて一週間たった日のことであるが、ふと心の中に湧き上がった想いがあったのである。それは、

「尊師は九十二歳で卒然として昇天され給うたが、九十二年の間には、一日ぐらい、いや半日ぐらい、いや一時間くらいは曇った日もおありになったのではなかろうか……。その曇りが、もっと人類の役に立ちたかったとか、もっともっと聖典を著したかった、というような、とてつもなく崇い崇いことではあっても!」

 という想いであった。

 するとその時、私は、観たというか感じたというか、朝焼けのような光明遍照の中に、限りもないニコヤカさで、幸いに満ちた、さえぎるものなき、ただただ、在るものだけが在るのみというほかはない、宇宙いっぱいの自由とでもいわざるを得ない雰囲気で尊師のお顔があらわれられて、

「あのね。私は無いんだよ」

とおっしやったのである。

 そこには尊師御みずからの消え切りの、澄み切りの聖なる輝きがあるばかりであって、そのよろこばしさの中に私は浴しているのを味わったのである。

 そこには、何年何月何日に自分が生まれて、そして修行して悟って、その悟りを弘めるためにこれだけの本を書いて、そしてこれだけの人類への貢献をしてというような、ご自分をかかげておられる相は無かったのである。

 自分がやったということになれば、どれだけやっても 「それだけか」 ということになるのであろうが、そもそもそれが出来たか否かということに悩む自分そのものが無かったのであり、自分が要らなかったのだと消え切りの澄み切りに輝いておられたのであった。

 その時、私は自分が無いということはそんなにも嬉しいことであるのか、ということを想わされたのであった。自分は、このよろこびを味わう自分があるということは自分が消えていないことなのではないか、と想っていたが、自分がないということはそこに悦びがあることなのである。悦びがなければ自分が消えていないことなのだ。よろこぶ自分があるということと、自分が無いということとは矛盾しないのだということに目を開かされたのであった。

『無門関』 に、 「師に逢うては師を殺し、仏に逢うては仏を殺し」 という言葉がある。

 しかし生長の家はそんな血生臭い、大立ち回りはしないんだよ。私は無いんだよ」

 と師の方がみずからの消え切りの澄み切りの聖なる輝きそのものであることを拝ませて頂くのである。

『聖使命菩薩讃偈』 には、 「応化(おうげ)して仮りに聖姿を顕じ、広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂う」 と書かれているのである。これは生長の家でさえ仮に顕じられたものであること、生長の家みずからの消え切り、澄み切りを意味しているのである。

 生長の家が無我即ち感謝礼拝の教えである所以である。(1998.7.24)

30復興G:2013/07/14(日) 07:04:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十五

 入龍宮不可思議とは、入龍宮が不可思議であるということである。不可思議とは、思議そのものが不可すなわち無いことを意味し、これは思議そのもの、心そのものが、みずから 「私は無いのです」 との無我であり、消え切りの澄み切りの法悦そのものであるということなのである。これはいわゆる非思量底を思量する、ということである。非思量とは思量そのものが 「私はないのです」 とみずからの死に切りであり、消え切りであり、澄み切りの法悦であることを意味しているのである。

 私が味わった 「自分が無いということはそんなにも法悦そのものなのか<」 と感動せずにはいられなかったその尊師のお姿の輝きが、今日は、すべてのものに輝いていることを想ったのである。

 天地一切万物の一つ一つが 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、死に切りの、澄み切りの法悦そのものであるのであった。太陽の如く明るく丸く、満面法悦そのものであるすがたにおいて輝いているのであった。

 山も川も草も木も、全身の細胞の一つ一つも、存在するものすべてが 「私は無いのです」 の法悦そのものであったのである。

「無の門関」 とは門関みずからの消え切りの、死に切りの、澄み切りの法悦そのものであり、 「無の門関」 とは 「法悦の門関」 であることを感じたのである。

 天地一切に感謝し、礼拝するとはこの法悦を拝することにほかならなかったのである。その法悦の輝きに包まれること、浴することが感謝であることを知らされたのである。

 神想観そのものも消えているし、思念も消えているし、気合いも消えているのであった。

「菩薩は来たって来たるところなく、去って去る所なし。過去、現在、未来に非ず」 とは、時間、空間そのものの、みずからの消え切りの法悦の充満の世界であったのである。自分を取り巻くすべてのものが、消え切りの、澄み切りの法悦であることが、自分を取り巻く全てが観世音菩薩のお姿であることなのであった。その法悦の輝きが尽十方にひろがっている様そのものが、そのまま尽十方無礙光如来の姿そのものであったのである。

 神癒祈願の名簿そのものが、斯くの如き観世音菩薩なるものの名簿であったのである。申込者の一人一人が、みずからの消え切りの、澄み切りの法悦そのものの尽十方充満の姿そのものであったのである。

「私は無いのです」 ということが、何故そのような法悦であるのか。それは私には解らないが、神の子人間は限りなく、無我であることに憧れを持たざるを得ないのは、親様である神が無神であり給うからに違いないのである。

「高天原に神詰まり坐(ま)す」 とは、幽の幽なることにおいて、隠り身の消息において、神はみずからの消え切りの澄み切りの法悦であることにおいて、 「高天原に神詰まり坐す」 とは 「高天原に法悦詰まり坐す」 ということであったのであり、生長の家が高天原それ自体であることにおいて生長の家人類光明化運動がみずからの消え切りの、澄み切りの法悦そのものであることなのである。それが 「よろこびの光明化運動」 ということの基礎であること、その基礎が高天原にあるということは、まことにすがすがしくも、さやけくもありけるかなというほかはないのである。 「あなさやけ、おけ」 と歌いつつ、踊りつつ、また新しきよろこびの装いをして生長の家の人類光明化運動が新しき世紀となって天降るのを見るのである。(1998.7.25)

31復興G:2013/07/15(月) 04:46:32 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十六

「迷いなし、罪なし、病なし。これが生長の家の根本真理であります。……」

 これが尊師谷口雅春先生の最後のお言葉であったのである。

 それまでは周知のように、生長の家の根本は 「人間神の子」 の五文字であるという表現であったのである。中身は同じであるか、表現はこのようなものであったのである。

 これはご昇天に際して、尊師ご自身がいのちが解放されて感謝が湧き起こったその時のことを直接表現されたのであろうと拝察されるのである。

 先生は心がもとであって、いわゆる心仏衆生三無差別(しんぶつしゅじょうさんむしゃべつ)の想いで生活されたが、この心が浄まらないので困り抜かれたのであった。心がもとであり、日ごろの心がけが大切であることは解っている、しかし、その心が想うように行かない時は、その心が却って恐怖の種になるのである。このなげきのお姿は、人類を代表してのお悩みのお姿であったのである。

 私の三番目の娘が、幼稚園の終わりころだったと記憶するが、私と二人で 「日本の昔話」 をテレビで見ていた時のことである。一組のおじいちゃんとおばあちゃんは幸せになって行き、隣のおじいちゃんとおばあちゃんは惨々な目にあって終わったのである。これを見ている娘の姿を見ると、日ごろの心がけが大切であるということは幼稚園の子供にも解るのだなあー、と想ったことである。その話が終わった時、娘が私に向かって、

「お父さん、うつくしい心にはじめから生んでもらって幸せになった、おじいちゃんとおばあちゃんはいい。どうして神さまは隣のおじいちゃんとおばあちゃんもうつくしい心に生んでおかなかったの?!! 隣のおじいちゃんとおばあちゃんがかわいそう」

 というのである。その時この子の目に涙が光っていたのを憶えてはいるが、何と私はこたえたかは憶えていない。しかし、尊師谷口雅春先生のお悩みがこのお悩みであったのではなかろうか、と想うようになったのである。

 社会主義者は富の平等を追求するが、尊師は、そのもとである心の平等を追求されたのではなかったろうか。

「心がもとだというが、神はどうして心を平等に生み給わなかったのか」

 ということであり、そして、平等に生めなかった、差別をして生かす神を赦せなかったのであり、そしてその不平等なる神を審かざるを得なかったのだと拝察するのである。そして神は無いと断罪したのが小説 『神を審判(さば)く』 ではなかったかと想われるのである。

 つまり、このどうにもならない汚れた心を持って、閻魔(えんま)大王の前に立たされて、お前は心が汚れているから地獄行きだ、と言われた時、 「誰れがこのような心に生んだのか<」 と逆に訴訟をしたことになっているのである。

 とどのつまりは、改心して、懺悔して心をきれいにしてからでないと救われないのなら、自分は救われることは出来ない、

 「改心しないそのままで救ってくれる神が私は欲しいのです」

 と悲痛な声を上げなければならなかった尊師が、不完全を造らない神、改心しないそのままで救っていて下さる神を発見され、實相なるものとの出逢いによって、はじめて審いていた神を赦すことが出来給うたのであり、ここに感謝が湧出されたのであった。この時のよろこびを直接表現されたのが

「迷いなし、罪なし、病なし。これが生長の家の根本真理であります」

 というお言葉になられたのではないかと拝察するのである。そういうことから拝察すれば、生長の家の結論と言われる聖経 『甘露の法雨』 は、綿密さを尽くして 「罪なし」 が説かれているのである。

 新しい世紀には、尊師の 『神を審判く』 という小説に対して、尊師のみ心を表した 『神を赦す』 という小説が生まれるのを期待せずにはいられないのである。

 また閻魔大王は何を罪として審いておられるのか。生長の家から見れば、完全円満の實相を包んでしまって、それをよろこぶことを遠慮したところの、包みが罪である、ということから見れば、

「なぜお前は、そのまま円満完全の實相をよろこぶことを遠慮したのか<」

 といってよろこび方の足りなかったことを審いておられるということになるのである。

 地獄、極楽に関係のある閻魔大王の役目について、生長の家の實相哲学から見た新しい時代の小説が出現してほしいものである。

 また、ここから発してあるいは 『どこまで自分を赦せるか』 というような小説も、きっと現れるにちがいないと想われて来るのである。(1998.7.26)

32復興G:2013/07/15(月) 23:33:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十七

 「迷い無し、罪無し、病無し」 とは、迷いみずから、罪みずから、病みずからの 「私は無いのです」 との、消えきりであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであるのである。文字そのものが 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものなのである。

 「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」 とは、煩悩みずからの 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きそのものなのである。そのよろこびそのものが菩提なのである。

 「娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」 ということも、娑婆そのものが 「私は無いのです」 との、娑婆みずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。このよろこびの輝きそのものを寂光というのである。あまりにもよろこびの輝きが強烈すぎるので、親しみやすく、それをやわらげて 「寂光」 という文字を使ったのである。

 かつて、総裁谷口清超先生に質問して、

 「如意宝珠(にょいほうじゅ)観の中で、“欲(ほっ)するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの自から去る”と唱えますが、實相の世界には、善ばかりで、欲せざるもの、好ましからざるものは無いのではないでしょうか?」 といわれた方があって、自分もそのように想わないではなかったナと、それを聴いていて想ったことであったが、しかし、そのお言葉そのもの、ご文字そのものが

 「あのね。私は無いんですよ」

 とみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの充満そのものであることが解って来たのである。

 「大調和の神示」 においても、 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 とあるにもかかわらず、いざ感謝するところになると、 「皇恩」 即ち天照大御神の生かす力に感謝せよ、ということからはじまっているのである。

 また、神は何故、感謝できるものと出来ないものを差別して生み、差別して生かすのか? というようなこと等々……。

 しかし、この神示そのものが 「私は無いのである」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのであったのである。

 聖経 『甘露の法雨』 の中で、 「光明」 という字も尊ければ、 「無明」 という字も尊いかぎりなのである。それを差別している人はいないであろう。それは、聖経自体、文字自体が 「私は無いのである」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるからである。

 光明一元であるにもかかわらず、暗との相対関係によって表現がなされているような論理的に矛盾していると一見みゆるものも、方便として自然なことなのであるが、その自然というのは、すべて、説法、文字、矛盾がみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるのが、聖典の聖典たる所以であると拝察するのである。

 ここに論理みずからの消え切り、澄み切りのよろこびの輝きを想うのであり、釈尊が 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と宣り給うた時、 「論理の成仏」 ということが既に拝まれていたことを想うのである。

 新しき時代の言葉は 「論理の成仏」 ということを基礎に発せられるにちがいないのである。(1998.7.27)

33復興G:2013/07/17(水) 10:35:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十八

 姦淫の罪を犯したマグダラのマリアを石にて打ち殺そうとした群衆に向かってイエス・キリストは

「汝らの内、罪なき者まず石を擲(なげう)て」

と言い給いて、群衆が二人去り、二人去り、ついに一人も残らなかった。そこでマリアに

「われも汝を罪せじ、往け、この後ふたたび罪を犯すな」
 とイエスは言い給うたのであった。

 役人たちがイエスを法に背いているとして捕らえようとしていたのである。マリアに対するイエスの見解を示せと迫ったのである。罪はないと言えば法に背いたことになり、罪ありと応えれば、自分の信仰に背いたことになるのである。この時イエスは黙して、ただ地面に何かを書いてい給うたということである。

 聖書には何を書き給うていたかはたしか書かれていないと記憶する。尊師谷口雅春先生は戯曲 『イエスは十字架に架かり給わず』 の中では、 「大調和、大調和」 とお書きになったと描かれているのである。

 大調和の 「大」 とは、神によってそうあることなのである。人間が自分で作ったものではなく、神の責任において、はじめのはじめから神と偕(とも)にあるもの、神そのものが 「大」 ということであり、したがって、万人に同時にあるものであり、はじめのはじめから在る以上は永遠に消えることのない相(すがた)が 「大」 ということなのである。

 それ故 「大調和の神示」 は神によって、はじめのはじめから在りつづけている調和の相(すがた)を祝福した神示なのである。それ故聖経 『甘露の法雨』 を開けば、先ずはじめに 「招神歌」 が載せられているのである。即ち 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 からはじまるものであり、生くるも、為すもすべて神によってであるところの大人生、大生活というものが示されているのである。そして、その後に 「大調和の神示」 が出て来るのである。生きとし生けるものが生かされていること、もの皆が自分で生きているのではないことが 「大調和」 なのである。

 さて、イエスは 「汝らの内、罪なき者まず石を擲(なげう)て」 と言い給うた、その 「内」 とは、イエスみずから 「神の国は汝らの内にあり」 と言い給うた 「内」 であり、聖経 『甘露の法雨』 の 「 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり」 と録(しる)されている 「内」 のことなのである。この 「内」 は生きとし生けるもの、もの皆すべてに拝まれている 「内」 なのである。群衆にもマリアにもある 「内」 なのである。

 「内」 なる神の国には罪はありようがないのである。それ故、この罪なきものばかりがそこに立っていたのであり、そしてその罪なきものが罪を打ったのである。即ち

 「罪は無い<」

 と罪を打ち消したのである。そして、罪は無に帰したのである。その結果、罪なき状態が顕れたのである。この時全人類の罪は打たれて無に帰したのである。この時、人類の罪に対する贖(あがな)いの歴史は終わったのであった。

 「われも汝を罪せじ」

 と言ったのは、神がすべてを罪せじである故に、私もまた罪せじなのである。ただ単に自分のことを考えれば他人のことは言えないというようなものでは、結局は罪はゆるされていないのであり、罪はマリアにも群衆にもありつづけなのである。

 そうではなく、本当に罪なき大調和なる内なるものがあったればこそ、その罪なき姿があらわれたのである。マリアにも群衆にもそれは同じであったのである。
<つづく>

34復興G:2013/07/17(水) 10:35:40 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 この事件は、マリアにだけあったのではないのであって、群衆にも罪なき事件であったのである。内なる神性を拝まれ救われたのは、マリアだけではないのである。群衆も救われたのである。マリアは救われたが、群衆は救われない、という片手落ちなことをイエス・キリストは満足され給うであろうか。生きとし生けるものの、救われずみの實相なるもの、大調和なるものがそこに拝まれていたのである。

 現象界は、やったらやり返される世界であり、蒔いた種は刈り取らなければならず、一つの苦しみを与えた罪は一つのその同じ苦しみによって贖(あがな)わなければ消えない世界である。それは大地を打つ槌がはずれても、この法則からはずれることは出来ないのである。

 しかし、ここにやっていない世界、やっていない自分があるとしたならば、世界は贖いの歴史は要らないのであり、人間は贖いの人生は必要ではなくなるのである。

 そのやっていない世界、やっていない神の子なる人間、實相なる世界、實相なる人間を発見したのが生長の家であり、永遠に、世界から贖いの歴史を終わりにさせたのが生長の家なのである。

 いくら新しい種を蒔こうとしても、既に過去において犯された罪によって汚染されてしまっていて、永遠に新しい、けがれなき、贖いの必要のない種を蒔くことは出来ず、たえず、過去をひきずり、過去にひきずられていた歴史は終わりとなったのである。

 戦争によって民族的な罪を贖おうとするといわれる、その戦争はまことに必要がなくなったのである。

 二十一世紀は、まことの戦争の終わりの世紀のはじまりとしたいものである。(1998.7.28)

35復興G:2013/07/18(木) 07:29:17 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         二十九

 住吉の大神とは 「澄み切り」 を吉(よし)と實相を讃えることによって、本来のすがたを益々輝かせる大神という意味でもあるであろう。

 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 の中で唱えられる言葉

 「畏くも宇宙の大神イザナギの命(ミコト)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう。その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う」

 において、既に、實相の世界に居たまうイザナギの命が、これから浄めなければならないものを観給うということは有り得ないことなのであるから、そのみそぎ祓い、浄め給うはたらきが住吉の大神であるということは、住吉大神は、實相がそれみずから 「私は無いのです」 との澄み切りの輝きをますます祝福することを意味しているのである。實相みずからのますますの消え切りの澄み切りの輝きを輝かせる御はたらきが住吉の大神の御はたらきなのである。

 イザナギの命(ミコト)が禊(みそ)ぎ祓(はら)い給うということは、イザナギの大神が、はじめのはじめに還ることを意味しているのである。そのはじめのはじめとは、高天原(たかあまはら)であり、神詰まります神、即ち、七柱(ななはしら)の身(みみ)」を隠し給う、幽の幽なる神の御姿に還ることを意味しているのである。イザナギの命が 「私は無いのです」 と澄み切りになる御はたらき、 「無い、無い、無い」 と、そして、その 「無い」 も 「無い」 と澄み切りの澄み切りに澄み切る御はたらき、そしてそこに澄み切るよろこびが輝き顕れる、それが天照大御神の出でましているお姿なのであると拝察されるのである。

 天之岩戸(あまのいわと)隠れに際して、神々が咲(わら)いに咲った時に、出でまされたことは、天照大御神さまは、よろこびそのものであり給うことをあらわしているのである。

 その 「無い無い」 との澄み切りのはたらきが住吉の大神の御はたらきであるからこそ、 「無い無いずくしの教え」 と言われている生長の家の大神が住吉の大御神であり給うということになっているのである。そして、その 「無い無い」 の象徴として建立されたのが 「無の門関」 であるところの入龍宮幽斎殿となっているのである。

 ここにおいて、現象のみずからの消え切りは勿論、神御みずから、實相みずから、龍宮みずからもまた 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの澄み切りの輝きそのものを意味することとなるのである。

 この故にこそ、實相と現象は渾然(こんぜん)一体なのであり、 「大日本神国観(だいにっぽんしんこくかん)」 において、 「實相・現象渾然一体、實相・現象渾然一体……」 と唱えられるのである。

 即ち、 「實相」 もみずからの 「私は無い」 との消え切りの澄み切りのよろこびそのものであり、 「現象」 もみずからの 「私は無い」 との消え切りの澄み切りのよろこびであり、このよろこびの無限の輝きであることにおいて、ひとつのすがたであるのである。

 私は尊師の 「私は無いんですよ」 との澄み切りのお声の中に、お声と尊師とよろこびとの不可思議なるひとつなる幸いに包まれていた時、私は天照大御神(あまてらすおおみかみ)のよろこびの袖(そで)にふれていたのであることを、今日もまた、入龍宮幽斎殿に於ける神想観実修中に、畏(かしこ)みて想わされたのであった。

 まことに 「住み吉(よ)き世界に、住み吉きいのちとして生くる」 とは、 「私は無いのです」 との限りなき、みずからの消え切り、澄み切りに浴して生かされていることであったのである。

 この住み吉き世界の到来である新しき世紀の到来こそ、もっとも美(うま)し世紀の到来なのである。そして、それは常に、常に、 『今』 即ち自分なのである。この 『今』 の中から、世紀が展開しているのである。この 『今』 は澄み切りの 『今』 であり、久遠の 『今』 なのである。(1998.7.29)

36復興G:2013/07/19(金) 07:58:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十

 「無我」 ということについてどのように受けとり、生くるかということは宗教上の大きなテーマであるであろう。 「諸法無我」 という言葉もあって、あるいは、 「無一物中無尽蔵」 という言葉もあり、 「無限」 という言葉、あるいはただ単に 「無」 という一字が揮毫されている場合もあり、 「無常」 という言葉は 「無常観」 という言葉と共に仏教を特徴づけている言葉となっていると言っても過言ではないであろう。

 これらはすべて、 「私は無いのです」 とみずから死に切りの、消え切りの澄み切りのよろこびの、輝きそのものがそこに鳴り満ちている姿そのものなのである。

 例えば、 「無我」 ということは 「我」 そのものが、みずから 「私は無いのです」 と消え切りであることであり、澄み切りのよろこびの輝きがそこに鳴っていることなのである。

 斯くして、 「諸法無我」 とは、諸々の現象及び、實相は、それ自体、みずから 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りのよろこびの輝きの鳴り響きそのものであることなのである。

「無一物中無尽蔵」 とは、一物も残さずして、それ自体が 「私は無いのです」 と消え切り、それ自体の中に尽きることそのことが 「私は無いのです」 と消えていること、澄み切りのよろこびそのものが蔵されていることを表現しているのである。

「無」 とは無自体が、みずから 「私は無いそのものです」 とみずからの消え切りの、澄み切りそのものなのである。

「無常」 とは、常なるもの、實在なるもの、常恒なるものですら、 「私は無いのです」 との消え切りの澄み切りであり、 「無常観」 とは、常恒なるものを観ることそのことが 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りなのである。生長の家で言えば、神想観それ自体が 「私は無いのです」 と消え切りの澄み切りであることなのである。

「無常迅速」 という言葉が想い浮かんで来たが、これは、常なるもの、そして迅速なるものそれ自体が、 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものの鳴り響きなのである。

「無限」 ということは、限りなるもの、我なるものが、それみずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの鳴りひびきなのである。

『般苦心経』 に出て来る 「無――」 という言葉、それ自体が、みずから、 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りなのである。例えば 「無眼耳鼻舌身意(む げん に び ぜつ しん い)」 とは、眼耳鼻舌身意がそれ自体、みずから 「私は無いのです」 との、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きの鳴り響きであり、観自在菩薩は自在にそれを観じ、味わって、よろこびのひびきをもって、よろこびの輝きのひろがりとして、照見なるものがそこに現成しているのである。即ち、 「五蘊(ごうん)即ち現象は無かったのだー<」 と、そこに、五蘊即ち現象みずからの 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびをよろこび給うたのが観自在菩薩(かんじざいぼさつ)であり給うのである。

 この観自在菩薩は尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり 「無礙(むげ)」 は礙(こ)り自体が 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きであり、それが 「無礙光」 なのであり、そのよろこびの輝きが、尽十方世界そのものとなっていることであり、 「五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しょうけん)する」 とは、それはそのまま天照大御神(あまてらすおおみかみ)の照り輝きそのものを意味しているのである。

 しかも観自在菩薩は観自在の故に、みずからも 「私は無いのです」 と消えること自在、澄み切ること自在であり、自在のよろこびそのものなのである。

<つづくき>

37復興G:2013/07/19(金) 07:59:22 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 天照大御神は、隠れること自在であり、天の岩戸にお隠れになったとは、まことには 「身(みみ)を隠し給いき」 を意味しているのである。何故ならば、岩戸も、外の神々もすべては天照大御神が生み給うているのであり、天照大御神そのものであり給うからなのである。

 尊師谷口雅春先生の戯曲 『イエスは十字架に架かり給わず』 とは斯くして、 「天照大御神は岩戸に隠れ給わず」 ということをお示し下さったことと拝察させられるのである。即ち神の子人間・天照大御神のいのちなる、實相なる当方なるものは未だ一度も隠れたることなしであることへの祝福の 「事記」 なのである。

 しかも天照大御神は 「私は無いのです」 との消え切りの、隠れ切りの、澄み切りのよろこびそのものにましますのである。高天原(たかあまはら)に詰まります幽の幽なる神、七柱の独り神が、身(みみ)を隠し給うのであれば……である。(1998.7.30)

38復興G:2013/07/20(土) 09:47:35 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社“無”の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十一

 はじめは、生長の家本部だけに神癒祈願部があり、そのうちに宇治別格本山でも開設することになり、神癒の社である入龍宮幽斎殿に祈願部を置くことになり、その初代の部長を勤められたのが、尊師谷口雅春先生と大層親交のあった、教化部長を歴任されたあと宇治に来られていた、故小嶋博先生であった。

 私が本部から転任して来た時には、すでに個人指導部長をして居られた。私は練成部におり、小嶋先生は個人指導部だったが、部屋が同じだった関係もあって、この先生から尊師谷口雅春先生のエピソードなど、沢山お聴きすることが出来たのである。私は根ほり葉ほりして、一年ほどつきまとっていたような気がする。そして、二年たったある日のこと、私は感動して、

「小嶋先生のような人は、まさに谷ロ雅春先生の直弟子ですね」

 と思わず言ったのである。すると小嶋先生は感慨深げに、静まった雰囲気がただよって

「いや、先生は僕らのことを弟子だと想っておられないよ」

 と言われたのである。一呼吸あって、いぶかしがる私を見て、

「神だと想っているよ」

 と言われたのである。もう少しで小嶋先生の眼には涙が出そうな様子だった。

「本当に先生の拝みは大変なもんだよーッ」

 と慨嘆されたのであった。

 この人はよく、観世音菩薩の観世音とは 「完全音」 だと言っておられたが、生長の家の本尊は観世音菩薩であり、尽十方無礙光如来であり、その輝きに包まれながら、今私の前に居られるのだ、と想うと

 私には、この人の尊師谷口雅春先生より浴している恩というものは 「完全恩」 なのだな、と想わせて頂いて、私もまた合掌したい気持になったのであった。

「生命の實相の自性円満を自覚すれば……」

 からはじまる聖典 『生命の實相』 は、自性円満なる読者の實相生命を礼拝して書きはじめられていることを意味しているのであり、尊師ご自身

 「私は自分自身が罪の子ではなく、神の子であると解った時、すべての人も同じ罪なきものであることを拝みたくなった。しかし、いちいち拝みに行く訳には行かないので、本で拝んだのである」

 という意味のことが、その著 『美しき生活』 の中には書かれているのであり、気がついてみると自分も、すべての人から拝まれていたのであるとも書かれているのである。

 さて、総裁谷口清超先生は、大聖師谷口雅春先生より法燈を継承され給うたのであるが、 「何を継承されたのであるか」 ということは、いつも心あらたに想わしめられることである。

 結局のところ、ここまで書きとめて来たことは、何を継承されたのであるかということが根本テーマとなっているのではないかと想われて来るのであり、そのためには、そも大聖師谷口雅春先生が如何なるお方であり給うたのか、生長の家とは如何なるものなのであるか、ということから、はじめさせられていたのではないか、と今朝、早朝行事の中で想ったことであった。

 そのような意味において、大聖師のいのちに、先達がどのようにふれておられたかということは、私にとって、そのエピソード、話は宝物となっているのである。(1998.7.31)

39復興G:2013/07/21(日) 07:10:48 ID:AB6RqYXc

 合掌 ありがとうございます。

 ここに謹写掲示を続けさせて頂いている 元生長の家本部講師 榎本恵吾先生(故人)の書かれた論文
『神癒の展開としての人類光明化運動―「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―』 というのは、53字×19行×1000頁 すなわち約100万字にもなる膨大な量のご文章です。

 これは、榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年から11年(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

 榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた 「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」 宛に送っておられたそうです。

 検討委員会では、教化部長・本部役職者・本部講師の人たちから 「提言書」 を募集していたのですが、「優秀提言の選考と褒賞」 の対象としては平成10年6月末で締め切ったので、7月以降に提出された榎本先生の論文は選考の対象とはならなかったようですが、これを読んだ担当者は、非常な感銘を受けたと漏れ承っています。

 今、私はそれを保存されていたのをいただき読み返してみて、実に 「今」 ――行き詰まり・分裂状態を呈している(と思われる)生長の家の運動を根本から考え直すために、用意されていた光明化運動論ではないかと、深い感銘を覚えます。

 「web誌友会板」 は、『生命の實相』 をテキストとして生長の家の真理を深く学ぶことを目的にしていますが、この榎本先生のご文章は、『生命の實相』 の神髄を理会するためにも、読めば非常に助けとなるものだと思います。

 それで、「web誌友会参考文献板」 を開設していただきましたので、ここに

榎本恵吾先生を偲び、感謝をこめて、その
『神癒の展開としての人類光明化運動』 のご文章を掲示させていただいております。

 ご愛読くださいまして、皆さま神の子としての光明生活に、一層の輝きが、喜びが、いや増しますことをお祈り申し上げます。

 ご感想や、疑問の点がありましたら、どうぞ web誌友会板 の方へ、ご投稿ください。

ありがとうございます。 合掌

41復興G:2013/07/21(日) 07:15:23 ID:AENtSm/U

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十二

 一切を放てば一切が手の平の上に乗る、ということばがあり、尊師谷口雅春先生は、 「一切を放てば實在宇宙が手の平の上に乗る」 とおっしやっているのである。放つとは 「無し」 と捨てることである。

 一切を捨てれば却って一切が手の平の上に乗るという、この一切の中には、實相も入っており、實相を 「無し」 と切った時、實相宇宙が手の平の上に乗るということであったのだと今朝、無の門関である人龍宮幽斎殿での神想観の中で感じさせられたことである。

 この一切ということは限りもなく広いことになっており、 「一切」 という文字にしてからが、 「一(ひ)ト切れ」 と見えているままに、そのままに 「すべて」 ということであることを人間が納得しているということは、一即多、多即一の妙々のいのちのあり方をいのちが知っていることなのである。

  「天地一切」 は 「天地の一卜切れ」 であると同時に 「天地である一ト切れ」 ということなのである。天地の万物ことごとくは一ト切れと見えているままに天地であり、すべてのすべてであるということなのである。

 そこに天地なる一切なる、すべてのすべてなるものを認めること、観ずること、想うことが礼拝であり、感謝であると想われて来るのである。

  「一切」 とは 「一つ」 が 「切る」 ということである。一つとは絶対を意味するのであり、絶対なるいのちがそこに立って、 「無い」 と天地を一切(ひときり)するということが 「天地一切」 ということでもあるのであって、 『般苦心経』 において、先ずはじめに、観自在菩薩が光明燦然たるお相(すがた)で登場され 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」 と照見され給うのである。照見とは照らし見るということであるから、 「五蘊皆空」 「現象無し」 というこの文字は、観自在菩薩の光りのひろがり、展開としてあるのであって、何もない空々漠々たることではなく、光りなる内実のひろがりなのである。また 「現象は無かったのだ!!」 というよろこびの輝きのひろがりであると見ることも出来るのである。

  「一切」 とは一つなるもの、絶対なるものが切るということであると仮に言うのであるが、絶対なるものには切るべき相手はあり得ないのであって、ただただ自らが自らすること以外にはあり得ないのであるから、絶対なるものは、切るべき相手を知らないというべきであるから、すべては、みずからおのずから 「私は無い」 のであると消え切りの、澄み切りのよろこびである、そのよろこびのみがあるということなのである。

 一切を放った時、一切は手の平の上に乗る、とは、しかし、すべては自分でみずから 「私は無いのです」 と消え切りであり、澄み切りのよろこびであることなのである。絶対なるもの、實相なるものもまた 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りであり、澄み切りのよろこびそのものなのである。

 道元禅師が 「一切衆生悉有佛性」 ということを、それまでは 「一切衆生は悉く佛性を有す」 というふうに読まれていたのを、 「一切衆生悉有は佛性」 とお読みになられたのであった。仏性がすべてであり、有るものはすべて仏性である、と読まれたのであった。

 生長の家では 「一切衆生悉有佛性」 について、 「衆生悉有佛性」 を一切してしまったのである。ただただ一なるもののみの独在であり、 「衆生」 も 「悉有」 も 「佛性」 もことごとく一ト切りにしてしまったのである。そして、一のみとなったのである。

 今朝の 「無の門関」 である幽斎殿での神想観中に想いに浮んだことであったが、 「一切衆生悉有佛性」 この言葉そのものが 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りのよろこびそのものであったのである。釈尊も道元も 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りであり給うのである。

  「生長の家人類光明化運動」 も 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびなる天照大御神の輝きそのものである、聖の聖なる照り渡りそのものであることを感謝したのである。

 消えている、澄み切りの、手あかのつかない運動がここにあるのである。(1998.8.1)

43復興G:2013/07/22(月) 07:11:10 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十三

  『生長の家の歌』 はその題名にのみ “生長の家” という名前があって、四番までの歌詞には一ヵ所も “生長の家” という名前は出て来ないのである。

 即ち、ここには、自分をどこにもかかげていない、消え切りの、澄み切りがあるのみなのである。

  「生長の家人類光明化運動よ。汝は何処(いずこ)より来たれるや?」

 何処よりも来たらず。来たって来たるところなく、去って去るところなし、過去、現在未来に非ず、である。三界に身を現わすことなき、生長の家人類光明化運動である。

 来たらずして来たり、去らずして去る。姿形なき、はじまりなきはじめのはじめなる、今なる、肉によらずして生まれたる、浄まり切りたる、聖(ひじり)の聖なる人類光明化運動の姿が今や、その姿を顕わそうとしているのである。

 尊師谷口雅春先生が 「自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった」 とのよろこびに帰った時、人類光明化運動も、はじめなきはじめなる久遠の、肉によらざる浄まれる運動として誕生していたのである。

 それは世界的状況という、現象の必要性、肉の状況にさそわれて出発した運動ではなかったのである。

 宇治別格本山の新練成道場が出来、多目的ホールに 「實相」 額を置くことになり、それまで長い間、幽斎殿に置いてあった 「實相」 をもって来て、壁にはめ込みの額に入れることになったのである。

 その時、もとの額縁(がくぶち)が要らなくなったので私はそれを貰い受けて、素晴らしいその額縁に、私の描いた絵を表装屋に出して、入れてもらったのである。

 その絵には 「東雲燦然神霊遍満」 と揮毫しており、総本山の東雲台から眺めた朝焼けの雲に乗ったようにして神霊が合掌の姿で天降りつつあるその光景であり、それぞれが合掌してい給うのである。この絵は今、幽斎殿の私の “祈りの間” の 「實相」 軸と向かい合って、私の背中の方の壁に立てかけて置いているのである。

 この額には、数十年おさまっていた大聖師の 「實相」 の字は既にないのであるが、 「實相」 の文字そのものが、 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りであることを知らされた今、その象徴として、額から 「實相」 の字は姿を消して、そこには、万物礼拝の澄み切りの合掌がそこに輝いている大聖師のお姿があり、完全円満なるものを礼拝し祝福する運動であるところの汚れなき生長の家の人類光明化運動のすがたがそこに輝いていて下さっているのであると拝察させて頂いているのである。

 姿、形なくして、吾れも知らず、他も知らず、全地上が澄み切りの、聖なる光に覆われているのである。そして、それがますます輝きを増し、生長して行くのである。 「世界平和の祈り」 はこのような内実を持ったものであることに心を新たにしたのである。このような光りは、誰も、何ものも反対することは出来ないのである。(1998.8.2)

44復興G:2013/07/23(火) 06:03:44 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十四

 今まで、神は解らない、解らない、と言っていた人が

  「なぜ神が解らないかが解ったんです!」

 と言って来た。その人は女性であったが、目には涙を浮かべていた。

  「神と一度もはなれたことがなかったからですね」

 と言われるのであった。私はとても感銘を憶え、その後、時々この話を皆さんにお話しさせて頂いている。

 今朝の早朝行事の時、

  「神は澄み切りであられるから解らなかったんですね」

 と言っているようなその方の表情が浮かんだのであった。

 離れたとか離れていないとか、また、澄んでいるとか澄んでいないとか、という言葉は、現象界のものをもとにした表現であり、この表現そのものも現象であり、しかし、その言葉自体が 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

  「猫の子は猫であり、牛の子は牛であり、犬の子は犬であるから、神の子は神なのである」

 という表現をするのであるが、しかし、まことには、猫の子は猫でなくとも、牛の子は牛でなくとも、犬の子は犬でなくとも、神の子は神なのである。神の子人間は、猫や牛や犬の真似をする必要はないのである。

 神の子人間は、現象の真似をする必要はないのである。

 神癒祈願を申し込んで来た人の中に、自分の娘の大学合格祈願に、 「首席合格」 と書かれており、よく見ると、私自身の娘の受ける大学と同じ大学であった。そして私自身も娘の 「首席合格」 という願いを持っているのであった。

 このような時の 「願い」 とそれに対する 「祈り」 というものは、果たしてゆるされるのであろうか。既にそれは實相において実現しているからこそ願いが起こって来たのである、ということもまた私の中から湧き上がって来る想いでもあった。

 現象的、あらわれから見れば、首席は一人であり、試合においても優勝は一つである。

 しかし、實相においては、首席は無限にあり、優勝も無限にあるのである。妙々の、一即多、多即一なる一切が無限にそなわり、満足されているのが實相の世界なのである。

 實相から出て来た願いを、現象に合わせて、願いを下げてはならない、ということである。現象の真似をする必要はないのであった。そう気がついて、私は両方の願いを祈ることにしたのであった。

 そうしたら、その 『祈り』 の結果はどうなるのであるか。それはこちらが聞きたいのであって、それから先が奇蹟ということになるのである。

 奇蹟とは何か。それは自分が全くそれに関して必要でなかった、ということの度合いが奇蹟的な度合いなのである。それ故、奇蹟は生かされている感謝になるのである。感謝の起こり得る度合いが奇蹟の度合いであるのである。

 自分が要らない度合いとは、既に一切が現成、充満され、完成されている、成就そのものである實相の妙有を観ずることにあるのである。實相が妙々の奇蹟そのものなのである。

 實相は当たり前の、神そのままであるから、奇蹟としては特に言う必要はないのである。実現しないことが却って奇蹟的なことと言われているのである。神が成就そのものであり、實相が成就そのものであり、自分が要らないことにおいて、奇蹟そのものなのである。

 地上天国建設の願いもまた、現象に合わせた、現象のあり方の真似をした姿ではじまっているのではないのである。 (1998.8.3)

45復興G:2013/07/24(水) 07:51:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十五

 今日、よく見ると、入龍宮幽斎殿に於ける神想観の唱える言葉の 無の門関 は “無の門関” になっていると想っていたが、 「“無” の門関」 となって 無 に “ ” がついていた。

  「無の門関は透過すべし」 とよく言われる場合は、無の門関として、あくまでも通過すべきものとして受け取ればよいのであるが、 「無より一切を生ず」 とか 「無一物中無尽蔵」 ということになって来ると、この “無” は通過すべきものではなく、行きつくべき堂奥または、一切が発して来る本源とでも言うべきものであると拝察されて来るのである。

 この場合の “無” は、有に対する相対の無ではなく、絶対の無、一切がそこより発生する、一切がそこに巻き納められているところの “無” であると言われているのである。 “絶対無” あるいは、“真空妙有” の “真空” にあたる言葉なのである。

 この絶対無は、龍宮さえも 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびなる天照大御神なるものの輝きを輝くところの一切生み出しの本源なのである。

 一切の元である 「如(にょ)」 なるものも 「口」 が書かれてあり、創造の本源なる 「龍宮」 の 「宮」 も、口が二つ連ねてあって、これは、真空なること、絶対無なることを表わしていると想われるのである。

 大聖師谷口雅春先生のご揮毫に 「自性空(じしょうくう)」 というのがあるが、自性なる空とは、自分みずからが 「私は無いのです」 そのものなること、即ちみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものであることなのであり、この言葉、文字そのものも 「私は無いのです」 との、消え切りの澄み切りなのである。實相の世界が 「無限の歓喜の海」 であるとは、このみずからの消え切りの、澄み切りの 『無限のよろこびの海』 であることなのである。

 宇宙の大神であるイザナギの大神か、光明遍照の實相の世界において、浄(勢<きよ>)めのおはたらきをされている、そのはたらきが住吉の大神であり、その住吉の大神の霊光燦然として全宇宙を引きつつみ、全宇宙に流れ入り、宇宙そのものとなり給うているのである。そして、その全宇宙が、みずから消え切りの澄み切りの、よろこびなる天照大御神そのものであり給うのである。それ故、イザナギの大神とひとつなるものであり給うのである。そのすがたが、 「光明思念の歌」 となって、

  「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照(いてら)し宇宙(くに)静かなり」

 となっているのである。

  「静かなり」 とは、あるべきものがあるべき姿にあることであり、宇宙=天照大御神は、消え切りの澄み切りのそのままに、無限の創造をしている、あるべき姿にあることを意味しているのである。

 例えば、心臓は静かなる時が一番大活躍をしているのであり、音をたてて動悸が打っている時は、異常なる心臓であって、異常なる心臓は本来の心臓ではないのであって、本来のはたらきをしていないのである。

 それ故 「宇宙(くに)静かなり」 は何の創造もしない、静寂な、死滅した、静止の意味ではないのである。 「私は無いのです」 との無限の調和とよろこびなる創造そのものの宇宙の姿、天照大御神そのものなのである。

 これは。無の門関を通過した “無” そ のもの、“絶対無” の消息なのである。(1998.8.4)

46復興G:2013/07/25(木) 07:24:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十六

 故藤原敏之先生の話によると、大聖師谷口雅春先生のご講習を二回目に、尾道の道場で受けられた時のことであるが、その時は、谷口輝子先生もご一緒で、椅子に坐っておられる輝子先生のお姿を見ただけで泣けて泣けて、涙が滂沱と流れるのをどうしようもなかったそうである。

 やがて、輝子先生が先ず演壇に立たれて、前講のようにお話され、日常の大聖師のお姿を讃えて讃えてお話しされて話を終えられたのである。

 その後、すぐに大聖師が演壇に立たれたかと思うと、いきなりマイクを両手でつかんで

  「僕はそんな立派な人間じゃないんだー!!」

 と言って号泣されたのである。

 「人間で、自分の今までやって来たことによって、これでよいと言える人が果たしているでしょうかッ」

 と言われてまたお泣きになったそうである。

 それで尊師は、その日のご講習はとりやめにされたかというと、そうではないのであって、何とそのお姿を想うとき、輝きに満ちていられることであろう。何十年たっても、藤原先生の中ではその尊師のお姿はますます輝きを増しつつ、その日のご講演が想い出され、甦るのを感じていられるようであった。

 私は吉田國太郎先生に、十八歳の時に本部で個人指導を受けたことがあったが、革表紙の 『生命の實相』 を、まるで輝く宝物を持つように、抱きかかえるようにして個人指導室に入って来られた。しばらくして、

  「本当に生長の家やりたいんだったら、魂の底からすべてをぶちまけられる先生を一人でいいからつくりなさいよ」

 と言って下さったのであった。

 生長の家では、大聖師の方が先ず、

  「私は、心を自分の力で、改心してからでないと救われないのだったら、私は到底救われない。改心しないままで救って下さる神が、私は欲しいのです」

 と、人類の心を代表して、ぶちまけられているのである。

 そして、その神を発見されたよろこびが、

  「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)……」
 という感謝の歌となったのである。

 そして、荘厳きわまりなき、ご臨終の際の

 「迷いなし、罪なし、病なし。これが生長の家の根本真理であります……」

 というお言葉となったのである。

 浄心行において、心の底の底なるものをぶちまける、書いて消すといっても、この大聖師の言われたほどにまで、はっきりとぶちまけた人はあるであろうか。

 吉田先生もおそらく、尊師谷口雅春先生にいのちの底からすべてをぶちまけて、そして、そっくりそのまま受けとめていただけた有り難さというものを昧わった弟子の一人であったのであろう。

 尊師もまた、終戦の直前に、巡講先の旅館で、吉田先生に、

  「このままでは、日本は敗ける」

 ということをはじめて、涙ながらに話されたそうである。 「皇軍必勝」 の短冊を二万枚もお書きになられて出征する人々を送り出されて、言葉の力をもって必勝を念じつづけられたお方が、はじめて語られたお言葉であったという。

 しかし、そこには師の中に飛び込んでしまっている先達の姿を想い、うらやましさを憶えるのである。(1998.8.5)

47復興G:2013/07/26(金) 07:31:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十七

 聖典 『生命の實相』 の全読ということについて。

 これは全巻にわたって拝読するということは勿論のことであるか、必ずしもその回数ではないのであって全きものとして拝読、拝誦するという意味なのである。

  『生命の實相』 は自性円満(そのままでえんまんなこと)を讃えんがために、即ち全きもののために、全きものによって書かれたもの、即ち、聖なるものが聖なるもののために書かれたものであるが故に、これは聖典とお呼び申し上げ奉るのである。

 尊師谷口雅春先生が原稿をお書きになっているお姿を霊視出来た青年のことが 『生命の實相』 の第一巻に書かれていることは周知の通りである。光りの中で光りがお書きになっているということは、著者である尊師が読者を如何に観ておられるかということをあらわしているのであって、もしも、迷っているものを相手に、罪、けがれを相手に、それを打ち消すために、書いておられるのであれば、尊師は迷いや罪けがれの暗の中に居給わなければならない筈である。そこには、ただただ光りの中で光りとして坐されてお書きになっている姿しかなかったのである。

 これは、全きものが、全き世界の中に居て、全きものを讃嘆し、祝福、礼拝され給うて聖典 『生命の實相』 が誕生しているということを意味しているというほかはないのである。

 それをそのままのお姿で拝受し、拝読させて頂くところに全読ということの荘厳なる意味があることを想うのである。

  『生命の實相』 自体が、“物質無し” とみずから 「私は無いのです」 と、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのであれば、読者もまた 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りのよろこびそのものとしてそこにあり、ともに澄み切りであるのであって、ここに全きもの、自分の要らないものの姿としての全読なるものの姿があると言わなければならないのである。

 斯くの如きことの如何にして起こり得べきか。今、ハイと、はじめのはじめなる、そのままのいのちをよろこぶことによって忽然(こつねん)として起こるのである。

 常に時は今である。この 「ハイ」 を生きることによって、物質の、インクと紙との集合にすぎないものとして見ゆるものが、全きものへの無限の祝福なる神の愛の輝きそのもの、霊なるものと変貌するのである。まことの、甘露なるものの法雨と化するのである。

 手にした 『生命の實相』 を愛の霊なる光りとするか、物質のかたまりとするかは、はじめのはじめなる全きいのちを 「今」、ハイと受けるか否かに掛かっていると言わなければならないのである。

  「七回読め」 と言われたことがあったか、これは七即ち完成なるもの、完全なるものの展開の姿として聖典拝誦の姿があることを意味しているのである。

 このような全きものの消息においては、聖典の中の、 「暗(やみ)」 という文字も 「光り」 という文字も、光りそのものなのである。その文字の配列から来る意味以前の問題として、聖典を手にするだけで、既に聖なる光りに浴しているのである。もはや聖典は文章の意味以外において光りの聖典であると拝察されてくるのである。(1998.8.6)

48復興G:2013/07/27(土) 02:02:42 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十八

 聖典 『生命の實相』 の中には、現在行われている練成についての注による説明はあるが、この聖典全四〇巻が完成した時点では、いわゆる現在のような練成道場もなく、練成もなかったのである。 「『いのちのゆには』 の神示」 というのにもとづく集まりとしては、ご講習会や誌友会や花嫁学校や学生寮の生活などがあったのが、この神示に沿ったものであったのである。そして、生長の家は燎原の火のように広がって行くという表現がなされるほどの勢いをもってひろがって行ったのである。

 多くの人々は、聖典 『生命の實相』 に直接汲む以外はなかったというに近い状況であったがために、却って、尊師谷口雅春先生のお示し下さる真理に直接ふれるという度合いが強かったということが言えるのではないかと拝察するのである。

 練成というのは手っ取り早く入信していただく方法ではあるが、そこに指導者なるものを通している点において、直接 『生命の實相』 を読んで得るものとはおのずと異なったものが出て来るということにもなるのであって、そこは仲々複雑な問題を含んでいると想われるが、長い将来を見渡すと一考するだけのことはあるのではないかと想われるのである。

 神想観練習も 『詳説神想観』 がテキストに行われていることが多いと想われるのであるが、これはあくまでも便利的に出来ているものであって、やはり抜粋されているものは、もとのところにあった状態で読まれるのがよいのであって、抜粋された文章がはじめあった場所に帰りたがっているような気がしてならないのである。自然ないのちの流れの中で神想観が語られ、説明されているのであって、 『生命の實相』 では第八巻目に出て来るということは自然な美しい順序になっていると想われるのである。

 おおよそ、どなたからはじめられたのかは解りかねることではあるが、 「罪」 や 「神」 のことについてなど、ただ単に言葉の出て来たところを抜き出して並べれば、それが身につくであろうという期待と方法は、聖典なるものに対しての自然なあり方であるかどうかも一考してみる必要があるのではなかろうか。

 ある箇所について、そこに対しての自分の得た感動を表現するためや自分なりに受けとめるための掘り下げ方をするために引用するということは、ただ単に並べているのとはおのずから異なっていることは勿論のことであるであろう。

 抜粋集も、一度元のものを拝読している人にとっては全体の流れの中で昧わえることになるから、それはそれでよいのかも知れないが、大宗教になればなるほど、矛盾した表現が平気で一つの聖典におさめられているというぐらいのものであるから、微妙なニュアンスのちがいなど、切り取りの抜粋では汲み取りにくいものがあるにちがいないのである。

 とにかく、われも知らず、他(ひと)も知らず、ただただ便利だからと言ってそれに頼るような傾向が今後もつづいて行くならば、あまりにも勿体ないことになってしまうのではないかと懸念するのである。

 練成というものも、ある意味で、全生活上の抜粋であると言えるのであろうから、自然な生活の中で、聖典に直接汲みなから自ずと生活の中に光りを生かし込んで行くという姿とはまた異なったものが出て来るということもあるにちがいないのである。

 私自身も長年練成にたずさわって来たものであるが、一つの感慨として今、このような想いが浮かぶのである。

 練成会に依ることもさることなから、より一層直接聖典に汲め、という態度を涵養することか、特に著書による表現を特徴とする生長の家にとって自然であり且つ長い眼で見る時、結局は實(みのり)の多いものとなることなのではなかろうかと想えて来るのである。

 本が神殿であるということは、本そのものが道場そのものであることなのである。(1998.8.7)

49復興G:2013/07/28(日) 01:04:48 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十九

 生長の家は 「ねばならぬのない」 教えであるということは、 「ねばならぬ」 が無いことであって、 「ねばならぬのない」 とはどういう意味であるとか、こういう意味であるとかではなく、 「ねばならぬ」 そのものが非実在であるということなのである。無いということは、あっても大丈夫ということなのである。

  「ねばならぬ」 それ自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの輝きそのものであることなのである。

 また、 「不思善悪(ふしぜんあく)」 という言葉もあるが、これは、善悪そのものが無いこと、それを思うことも無いことであり、善悪も思いもそれ自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの澄み切りのよろこびの輝きそのものであるということである。

  『無量光』 という言葉があり、 「無辺光」 という言葉がある。これは 「量光」 が無いことであり、 「辺光」 が無いことであり、 「量光」 「辺光」 それ自体が 「私は無いのです」 との死に切りの、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであることなのである。

  「ねばならぬ」 と自分の願いに固執するのではなく 「み心の如くならせ給え」 と祈ることについては、イエス・キリストの 『ゲッセマネの祈り』 が典型的な祈りとされているのである。即ち、

  「若(も)し得(う)べくばこの杯を吾れより過ぎ去り給え。されど吾が意(こころ)を為さんとにはあらず、み心の如くならせ給え」

 との祈りである。

 イエスは 「吾が意」 には非ずであるけれども 「み心の如くならせ給え」 であったのである。即ち 「み心の如くならせ給え」 とは、

 「神よ、あなたの心と同じ心とならせ給え」

 ということであったのである。 「ねばならぬ」 という私心は、はじめから 「私は無いのです」 と消え切りであり、澄み切りであったのである。ただただみ心、神の心のみかすべてのすべてであったのである。神の子は神そのものであるのである。

  「私は神である」

 ということは、 「私は無い」 のであり、神のみであり、神のみ渾(すべ)ての渾てであり、有るのはただただ神のみであったということなのである。

  「ねばならぬ」 は無いのである。み心のみ、神のみがあるのである。 「ねばならぬ」 はみずからの、消え切りであり、澄み切りのよろこびの輝きそのものなのである。その死に切りの、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものが、神であり給うのである。

 現象はみずからの消え切りであり、不完全はみずからの消え切りであり、實相もまたみずからの消え切りである。

 不思善悪とは、善すなわち實相と悪すなわち不完全即ち現象とを相対させ、対立させるということ自体が 『私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであることを表現しているのである。

 総裁谷口清超先生御著の 『正法眼蔵を読む』 の中で紹介されているが、 「無仏性」 という言葉がある。これが 「不思善悪」 で「不思實相現象」 の意味における、 「無實相」 ということにあたるのである。

  「無仏性」 とは仏性みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものである姿なのである。

 實相現象渾然一体にして 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。(1998.8.8)

50復興G:2013/07/29(月) 07:26:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十

 パウロは 「コリント人への手紙一の中で言っているのである。
 tたとえ山を動かすほどの信仰があっても愛なくば空しい。嗚るドラの如し。
 たとえ他のためにすべての財産を擲(なげう)っても愛なくば空しい。たとえ、
 他のために火に焼かるるとも愛なくば空しい」
と。
 これは、 「たとえ人類のために十字架に架かるとも愛なくば空しい」 と言っているのである。
 しかし、イエス・キリストが十字架に架かり給うたことには 「空しい」 とは言っていないことは確かであろう。
 何故、そこに愛があると拝まれているのであるか。愛には証明も説明も要らないのである。そして、まことに愛なるものがそこにある時、言葉は必要ではないのである。愛は一つであることであり、一つであるということは完全なる理解なるものそのものの現成であるからである。

  「愛行は空しからず」 と私たちの内なる實在なる愛なるものを拝んで下さっているのが生長の家であり、尊師谷口雅春先生であるのであった。
  「神は愛なり」 である。今ここに神が在(いま)してこそ愛ということは有り得るのである。今ここに完全なる神と實相を認めること、拝むことが出来る教えであってこそ 「愛」 ということは言い得るのである。愛は人間の力では有り得ないのである。

 「實相独在」 であってこそ 「愛独在」 なのである。
 それは、形からは来ないのである。形を超え、現象を超えたところに宇宙一パイに、存在一パイに成就しているものなのである。即ち、神はすべてのすべてであり、愛はすべてのすべてなのである。
 神は 「今」 である。 「今」 そのものである。それ故に愛もまた 「今」 でなければならないのである。 「今」 「すでに」 「はじめのはじめより」 ということでなければ、神でなく愛ではないのである。
 生長の家人類光明化運勁には、この愛が拝まれ、祝福されているのである。まことの光明即ち愛が拝まれているのである。それは形によって拝まれている以前の問題なのである。あるいは
  「愛があるからこそ山をも動かすことか出来るのである。山を動かすことの出来るのは愛がある証拠である」
  「愛があるからこそ、全財産を献資することが出来るのである。全財産を出し得るのは愛がある証拠である」
  『愛があるからこ他のために、火の中に飛び込むことが出来るのである。火の中に飛び込むことが出来るのは愛がある証拠である」
また
  「愛があるからこそ、赦すことが出来るのである。赦すことが出来るのは愛がある証拠である」
 ……等々。
 しかし、パウロは愛がなくともそれは出来る、と言っているのであり、それは愛がある証拠にはならない、と言っているのである。
 それは 「愛」 を行おうとしているからである。
 一たん一切の形(現象)を超えたとき、神が渾(すべ)ての渾てであり、自分が要らなくなり、愛がすべてのすべてであるのである。愛が神であり、愛がすべてを為し給うのである。神と愛と吾れとは別ではないのである。
  「愛」 が行っている姿がここにあるのである。生長の家で拝まれている 「愛行」 である。(1998.8.9)

51復興G:2013/07/30(火) 00:01:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書 ―
             榎 本 恵 吾 

         四十一

  「畏くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」

 と 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 では唱えられているのである。

  「光明遍照實相の世界」 においては汚れは無いのであるから、禊(みそ)ぎ祓いは必要ではないのではないか、なぜそれが必要なのか、ということは、ちょうど 「光明一元」 であり 「唯神(ゆいしん)實相」 であり、 「實相独在」 であるのに、そこには暗(やみ)はないはずなのに何故 「人類光明化運動」 が必要なのか、 「人類救済の運動」 は必要ではないはずではないか、というのと基を同じくした疑問であると想われるのである。

 ここには、完全・完成なるものは創造してはいけないか、生長してはいけないか、というテーマが出て来るのである。

 完全なるもの、完成なるもの、すべてのすべてなるもの、即ち神は生長し、創造そのものであるというのが生長の家の観方なのである。

 完全だからこそ生長し創造するのである。その生長は無限の生長であり、永遠久遠の創造そのものなのである。

 完全であって、しかも無限の生長、創造が満足されている、まことの妙々なる相(すがた)こそが實相なのである。それ故、生長そのものが教えの名前となっており、聖経 『甘露の法雨』 の天使(てんのつかい)の歌い給う、はじまりが 「創造の神は」 という言葉ではじまっているのである。

  『創造の神』 とは、創造し給うた神であり、創造する神であり、久遠に、無限に創造しつづく神であることを意味しているのである。

 それ故、宇宙の大神イザナギの命(みこと)が實相の世界において禊ぎ祓い給うとは、完全なる神が、みずから生長し、創造し、自己展開することであり、脱皮を行うことであると拝察せられるのである。

 脱皮するというと、皮に当たる部分が不完全なる部分と解せられないこともないであろうが、實相においては不完全はなく、完全のみの純粋なる創造的持続あるのみなのであるから、皮もまた完全であり、光りであるのである。

 皮そのものが 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

 實在の、實相の世界における生長とは過去を否定することではないのである。あくまでも完成なるもの、完全なるものが生長するのであり、創造するのであるから、マイナスなるものはどこにも認められないのである。

  「宇宙の大神イザナギの命」 は未だかつて一度も汚れたることなしと、大神ご自身がご自分をよろこぶことが禊ぎであり、脱皮であり給うのである。

 蚕(かいこ)が繭(まゆ)を食い破って羽化登仙(うかとうせん)する、と言えども、蚕も繭も光りそのものなのである。蚕も繭も 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

  「宇宙の大神イザナギの命」 も畏くも禊ぎ祓いをされ、脱皮され、生長され給い、 「生長の家人類光明化運動」 もまたみずから、おのずから禊ぎ祓いし、脱皮し、大いなる生長をする荘厳きわまりなき時を迎えているのであり、それを新しき世紀を迎えるという一つの節目が誘(いざな)っているのではないかと拝察されるのである。(1998.8.10)

52復興G:2013/07/31(水) 06:51:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十二

『住吉大神宇宙浄化を折る神想硯』 において

  住吉大神(すみのえのおおかみ)出でまして宇宙を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー、
  住吉大神わが日の本を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー、
  住吉大神ここにあつまれるすべての人々の生命(いのち)を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー

 と唱えるのである。 「宇宙」 と 「日の本」 と 「一人一人のいのち」 とはひとつであり、同じことの中身を別の表現をして唱えているのである。

 浄まるとは、元(はじめ)の元(はじめ)に還り、一つであることにほかならないのである。また、

 住吉大神すべて(又は宇宙)を浄め終りて
 天照大神出でましぬ。

 と唱えるのであるが、 「天照大神」 と 「住吉大神」 と 「全宇宙」 とはひとつなのである。ひとつであることが浄まっていることなのである。ひとつであって、多として展開しているのであるが、やはり一つなのである。

 入龍宮幽斎殿における神想観において、

  天照大御神(十回繰り返す)
  住吉大御神(  〃   )
  塩椎大御神(  〃   )

 と唱えるのであるが、 「天照大御神」 も 「住吉御大神」 も 「塩椎御大神にもひとつなのである。そして 「龍宮海」 も 「龍宮城」 も 「吾れ」 もひとつなのである。ひとつに還っていることが全身全霊が浄まっていることなのである。

 さらに、 「神の無限の智慧の海」 も 「神の無限の愛の海」 も 「神の無限の生命の海」 も 「神の無限の供給の海」 も 「神の無限の歓喜の海」 も 「神の無限の調和の海」 もひとつなのである。一つであることが 「如(にょ)」 であり、 「如意宝珠(にょいほうじゅ)」 なのである。それが如意自在のいのちなのである。

  「わが全身如意宝珠なり」 とは自分のいのちが 「天照大御神」 であり、 「住吉大御神」 であり、 「塩椎大御神」 であり、 「龍宮海」 であり、 「龍宮城」 であり、 「一切の宝 即ち全宇宙」 であることであるのである。
 聖典 『生命の實相』 に出て来る 「あるのである」 とは 「實在(ある)ので實在(ある)」 ということなのである。實在即ち 「渾(すべ)ての渾て」 が 「渾ての渾て」 しているところのひとつなるものの、浄まり切りたるものの、天国なるものの純粋なる創造的持続を表現しているのである。

 尊師谷口雅春先生は、よろこびの余り、 「……であるのである……」 と 「ある」 を無限に並べて、続け給いたかったのであろう。そして最小限の複数として止められたのであると拝察するのである。

 聖典 『生命の實相』 はひとつなる、絶対なるものの純粋なる創造的持続として文字が配列されており、一文字が、渾ての渾てであることの、浄まり切りたる聖なるものの鳴りひびきであるのである。(1998.8.11)

53復興G:2013/08/01(木) 08:00:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十三

  『神癒の展開としての人類光明化運動』 であるということは、その 「運動論」 、その 「運動方針」 を読むだけで神癒がもたらされる、ということを意味しているのでなければならないのである。

 その試みの第一歩として 『試論・波状光明化への道―わが内なる神に捧ぐるレポート―』 を試みたのである。

  「神癒」 とは如何なるものであるか。 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」 を自覚したときに起こるところの 「よろこばしき何か」 であることを再びここで確認しておきたいのである。

 ここに全宇宙の神癒の現成(げんじょう)をすすめる運動である以上、全宇宙的 自性(じしょう)円満性を祝福礼拝出来る運動であることがその出発点でなければ、神の運動、すべてのすべてなるものの運動という訳には行かなくなるのであり、神癒の 「神」 が成り立たないことになるのである。

 尊師は 「既に神はすべてを救い給うたのである」 と言っておられるのであり、神ご自身は「はじめのはじめから癒やさなければならない世界は創造(つく)っていないのである」 と世界をあがめ給うているのであり、これが実相なのである。

 ここにまた再び、それならば何故に、 「人類光明化運動」 即ち 「地上天国建設運動」 が必要なのであるか、ということになるのである。むしろ、現象は無いのであれば 「地上」 もなく、したがって地上に天国を建設する運動も無いのではないか、ということになるのである。

 それはまことにその通り以上なのである。どのような姿であれ、無いものは無いのであり、無いものを無いとしたところに、実在があるのであり、自性円満の實相があるのであり、これは永劫に変わらざる真理なのである。

 それ故、實相の自性円満からのみ 「運動」 の意義は拝まれなければ、遂に 「神癒の展開」 即ち神なるものの運動とはならないことになるのである。

 そこに 「人類光明化運動」 「地上天国建設運動」 のみずからなる消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きを拝まなければならないのである。

  「人類光明化運動」 は、 「地上天国建設運動」 は “私は無いのです” との、みずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものである、その聖なる姿に、相(あい)まみえなければならないのである。

 ここに 「人類光明化運動」 の、 「地上天国建設運動」 の 「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相世界」 に於ける禊(みそ)ぎ祓(はら)いの姿を硯るのである。

 ここに 「人類光明化運動、人類光明化運動に非ず、是(これ)を人類光明化運動という」 「地上天国建設運動、地上天国建設運動に非ず、是を地上天国建設運動という」 態(てい)の、全宇宙的、全地上的神癒なるもの、神なる癒しそのものである、甦りそのものである運動の姿を先ず認めて出発することが出来るのである。

  『人類光明化運動』 という言葉、 「地上天国建設運動」 という言葉そのものが神であり天国であることを拝むのである。

 神癒は、ここに見よ、彼処(かしこ)に見よと、外に求めるものではないのである。白分が神癒そのものであり、世界が神癒そのものであり、 「人類光明化運動」 が神癒そのものであり、 「地上天国建設運動」 そのものが神癒そのものであるのである。

 それが生命の實相の自性円満を拝む、生長の家のあらゆる運動の、はじめであり終わりであり、すべてのすべてなのである。(1998.8.12)

54復興G:2013/08/02(金) 03:46:22 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十四

 光明にして光明なるもの。今にして今なるもの。此処(ここ)にして此処なるもの。はじめにしてはじめなるもの。渾(すべ)てにして渾てなるもの。在(あ)りて在るもの。

 暗(やみ)の要(い)らないもの。自分の要らないもの。限りそのものの無いもの。宇宙一パイの自由なるもの。

 神は今である。今でないものは神ではないのである。天国とは今である。今でない天国はないのである。完全とは今である。今でない完全はないのである。實在は今である。今でない實在はないのである。

 常に、常に、神は今ここ渾ての渾てである。

 神は癒しそのものである。神とは實相である。神とは 「現象無し」 である。

 今、幸せでない神は無いのである。

 神は今すべてのすべてであるが故に、神とは吾れの吾れなるものであり給うのである。

 聖経 『甘露の法雨』 にある 「されど如何に相(すがた)を現ずるとも……」 とは、如何に善と見える相を現ずるとも、今完全でないものは、それが宇宙的なまでの尊さの相に見えようとも 「仮相(かりのすがた)は永遠に仮相(かそう)にして実在となることを得ず」 なのである。

 今、完全がないということは神は無いということである。今ここに癒され切った世界が無いということは神は無いということである。

  「生長の家人類光明化運動」 は、神がおはじめになり、神が為し給うている運動である。完全なる癒しのみがあり、絶対の癒し、すべてのすべてなる癒しなるものそのもの即ち神が運動をおはじめになりて、癒しそのものが運動をしているのである。それ故、この運動は永遠久遠の運動なのである。永遠久遠なるものがおはじめになり、永遠久遠なるものが為し給うているのである。

  「元(はじ)めを元めとして、元めの元めに入る」 という古来からの言葉がある。元めが渾てなのである。元めとは神ということである。そして今ということである。なぜならば、神は渾ての渾てであり、神は今であるからである。

 神にはやり直しということは有り得ないのである。やり直しのない出発が 「生長の家の人類光明叱運動」 なのである。

 やり直しがないとは、神であり、實相ということである。

 神は 「そのままでよい!!」 と宣言されているのである。 「生長の家人類光明化運動の発進宣言」 とは、 「そのままでよい!!」 との神の宣言ただ一つなのである。

 「そのままでよい!!」 とは、まことの光りということである。

 「神、光りあれと言い給いければ光りありき」

 これが 「生長の家人類光明化運動」 の発進の宣言であり給うのである。それ故、生長の家は久遠の昔から在り、 「生長の家人類光明化運動」 も久遠の昔から在りつづけなのであり、天地(あめつち)と偕(とも)に窮(きわ)まりなかるべし、なのである。

 神には練習は有り給わないのである。神が 「光りあれ」 という練習をされ給うたであろうか。神が天地創造をされるに当たって、リハーサルをされ給うたということは有り得ないであろう。

 それ故、神の 「光りあれ!!」 との宣言によって発進した 「生長の家人類光明化運動」 には練習はないのである。ただただ偉大なる本番のみの純粋なる持続、完全の持続、天国の持続、完全なる癒しそのものの持続があるのみなのである。絶対の癒し、みずから癒しそのもの、みずから甦りそのものである 「人類光明化運動」 があるのみなのである。

 神には試行錯誤はあり給わない。それ故、神の宣言によって発進した 「生長の家人類光明化運動」 には試行錯誤は有り得ないのである。

 神は完全であり満点そのもの、天国そのものとして、前進し給うているのである。それ故、神によって発進した 「生長の家人類光明化運動の歴史」 は、満点の卒業の歴史であったということが出来るのである。斯く言い得るものこそ、まことにも、仮相(かりのすがた)に非ざる 「生長の家人類光明化運動」 なのである。(1998.8.13)

55復興G:2013/08/03(土) 04:58:25 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十五

 イエス・キリストが 「吾れは神の一人児(ひとりご)である」 と宣(の)り給うてはばからなかったのは、 「子」 であるのは自分お一人であって、自分を取り巻く、天地一切万物ことごとくが親様であるということを知ってい給うたからなのである。

 そこに親を観ずることの出来ることが、和解であり、調和であり、感謝であるのである。生長の家では 「神に感謝しても父母(ちちはは)に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 と『神示』が天降(あまくだ)っているのである。

 父母は神の愛のあらわれそのものであり、神そのものであり給うのであるから、父母に感謝し得ないことは、神に感謝し得ないことと “ひとつ” ことであるから、神の心にかなわないのは当然以上の自然なことなのである。

 尊師がお悟りになった時 「明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである」 と、因縁上の母の胎内即ち母親そのものを否定され、何ものにも因(よ)ることのない、神なるものそのもののまことの自分に還られたのであった。

 そして 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 と言い出されたのであって、父母が神よりも尊いものであると言い出したことになっているのである。

 そして、その時こそ、神が 「わが意を得たり」 と手を打って讃えられる、神ご自身のよろこびを感じられ、はじめて自分が神の心にかなったことを味われたのであった。

 それ故、その意味において、生長の家は宇宙最高の教えであり、ただ一つの教え(ひとり児)であることをよろこんではばからないのである。即ち、その宇宙最高という意味は、 「生長の家が宇宙一、父母をはじめ天地一切万物のそのままの、神の神なる尊さを知っている」 ということにおいてという意味なのである。

 釈尊の 「天上天下唯我独尊(ゆいがどくそん)」 ということにおいても、釈尊は 「山川草木国土(さんせんそうもくこくど)、有情非情(うじょうひじょう)」 の悉くのものの尊さを知っていることにおいて自分以上のものは有り得ないのである、という、はばからないよろこびがそこに表現せられているのである。

 それ故に、生まれてすぐに七歩あるいて 「天上天下唯我独尊」 と宣(の)り給うたお方が、その最高のよろこびの時の表現として 「山川草木国土 悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)、有情非情 同時成道(しっかいじょうぶつ)」 と言い給うているのであって、何故に、何において、どのような姿において 「独尊」 であるかがここにうかがわれるのである。

 その世界、そのいのち、そのよろこびをそのまま拈華微笑(ねんげみしょう)によって継承したのが迦葉であったのである。

 大勢いる弟子たちの中で、釈尊の拈(ねん)じた蓮華を見て、たった一人迦葉(かしょう)のみがその真意を解したのであった。

 しかしながら、これはこれでよいとしても、釈尊ともあろうお方が、たった一人しか悟らせることが出来なかったのであろうか。これでは釈尊の教化力が疑われることになりはしないであろうか。

 しかしながら、迦葉は釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 そのものの世界をそっくりそのまま受けとってしまったのである。それ故に迦葉にとっては、自分の周囲に居る弟子たちも山も川もすべてのすべてが仏であるその世界をそっくり受けとってしまったのであれば、まことに、迦葉一人で充分である、 “ひとつ” なる世界、中心がすべてのすべてである世界、天皇の六合照徹(りくごうしょうてつ)の世界を拝み奉り、その世界を生きた姿が拈華微笑の消息であったということが出来るのであり、たった一人で必要且つ充分であったということが出来るのである。

 イエス・キリストに言わせれば、迦葉は釈迦の 「一人児(ひとりご)」 であったのである。 「子」 は迦葉一人であり、迦葉をとりまく天地万物ことごとくが釈迦であり、仏であり、親様であったのである。

 この世界こそが 「ハイ」 の消息であり、それ故、迦葉に 「ハイ」 とこたえた阿難(あなん)は、 「それでよし!!」 とされたのである。

 ここに中心帰一の極みの姿があるのである。

 即ち、中心に帰一したならば、自分が中心となっているということである。それ故、 「中心帰一せよ」 とは無限の祝福として聴こえなければならないのである。

 何故、中心帰一が可能であるのか。自分のいのちが、中心より出でて、中心でありつづけているからなのである。そのことを 「ハイ」 と受けることこそ 「そのままの心を大切にする」 ことなのである。(2013.8.14)

56復興G:2013/08/04(日) 05:42:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十六

 釈尊より 「實相無相微妙(みみょう)の法門」 を伝えられたのが迦葉(かしょう)であったのである。その悟っている筈の迦葉が、いよいよ釈尊が入寂(にゅうじゃく)され給う時、床に伏している釈尊に、

「あなたは日頃、仏身の金剛不壊(こんごうふえ)なることをお説きになりますが、私にはただ病んで死のうとしているあなたしか見えません」

 という意味のことを言っているのである。

 そこで、釈尊は、月が山の端に隠れて見えなくなっても月は本当に無くなったのではない、そのごとく肉体が消滅して見えなくなっても、實相の自分は永遠不滅なのであるという 「月喩品(げつゆほん)」 をお説きになられたのである。

 この様子では、迦葉の悟りは大したものではなかったということになりはしないだろうか。それとも迦葉は、衆生の心を代表して質問しているのだろうか。

 生長の家の人なら、入信して間もない人でも 「ああ、釈尊は實相のことをお説きになっているのだな」 と解って、迦葉のような言葉は発しないであろう。

 釈尊ご自身にしてからが、お生まれになってすぐに七歩あるき給うて 「天上天下唯我独尊(ゆいがどくそん)」 と最高のお悟りのお姿であられたかと想うと、成人して 「生老病死」 について悩まれて、妻子を捨てて出家され給い、六年間苦行されたが悟りが開かれ給わず、 「苦行は悟りの因に非ず」 と苦行林を出られ乙女のさしだす一杯の牛乳を飲んだ時に、悟りが開かれ給うたということになっているのである。

 「天上天下唯我独尊」 と悟られたお方がどうしてあらためて出家する必要があったのであろうか。

 釈尊も、イエス・キリストも文章は書いておられないのである。生きるお姿そのもので道を説き示されたのである。
 それ故、釈尊は、もう一度、衆生にはじめから、悩んだ姿から、道を味わい直させようとされ給うたと拝察されるのである。

 イエス・キリストご自身も、 「ゲッセマネの祈り」 において、 「もし得べくば、この苦(にが)き杯(さかずき)を吾れより過ぎ去り給え、されど我が意(こころ)をなさんとに非ず、み心のままに為さしめ給え」 と最大の光りの姿を現し給うたかと想うと、十字架の最後に 「神よ、神よ、何ぞ、吾れを見捨て給うや」 と号泣し給うたのであった。しかも、それを超えて、三日目に甦り給うて、生かされていることを示されたのであった。

 このお二人に比べると、大聖師は沢山(たくさん)文章をお書きになっていられるのである。しかしながら、ある日私の神想観の中に拝された大聖師は

 「私は無いんだよ」

 と、みずからの消え切りの、澄み切りの、聖なるよろこびの輝きそのものであり給うたのであった。

 尊師は一行(ぎょう)もお書きにならなかったどころか、肉体を持って生まれ給うて修行され給うた姿もなかったのであった。著書みずからもその中に 「物質なし」 と書かれており、著書みずから消え切りの澄み切りであり給うたのである。

 一物も残さず、全くの消え切りの、澄み切りであり給うているのである。

 この尊師のお姿、この御著書のお姿そのものが、消え切りの、澄み切りの、聖なる輝きそのものの現成そのものであり、生まれるものなくして生まれ給い、示すものなくして示し給い、説くものなくして説き、聴くものなくして聴いているご講習会の聖なる姿をここに拝むのである。(2013.8.15)

57復興G:2013/08/05(月) 07:29:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十七

 聖典 『生命の實相』 の完結したころまでは、 「練成会」 も 「組織」 も 「聖使命会」 という言葉も全く使われていないのである。勿論 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 もなかったのである。勿論、政治運動もなかったのである。

 その時、その時において、表現の仕方が異なって来るのは当然のことなのである。根本の教えは不変のものであっても、時代が変化すると変化してみ教えがそこに写し出されると言うことであろう。

 さて、 「聖使命菩薩讃偈」 には 「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に、一切衆生を度(わた)さんと発願(ほつがん)修行する」 ところの菩薩のすがたが最上、最尊、甚深微妙(じんじんみみょう)と讃偈されているのである。

 自分が救われてから、他(ひと)を救うのではないのである。自分は救われていなくとも、他を救うことが運動の出発点とさえ想われて来たのである。自分が悟ってからではなく、他を先に悟らせる、ということである。

 しかし、 『生命の實相』 には、自分が先ず救われて、救われたとはどんな状態であるかが解らなければ、他(ひと)を救われた状態に導くことは出来ないのであって、めくらの手引きでは多勢を河に落としてしまうことになるのであり、生長の家の 「智慧の言葉」 に 「自分に深切であれ」 というのがあると、お説きになっていられるのである。

 さて、新しき世紀には、また新しき説き方というものが生み出される、ということは自然な流れであろう。

 その時代には、 「解っていないけれども伝える」 のではなく、神の子ははじめのはじめから完全であり、神そのものの相(すがた)であり、悟りそのものであり、救われていることそのものであるから、生長の家のみ教えと波長が合ってふれることが出来たのであり、解っているからこそ生長の家にふれることが出来たのであり、 『生命の實相』 が自分の中にあればこそ 『生命の實相』 にふれることが出来たのである。生長の家にふれるという運命さえ内なる、實相なるものが生み出したのである、という解釈から説いて行くということになって行くのではなかろうか。

 先ず頭で 『生命の實相』 を受け取り、それから胸のあたりで受けとめ、それから潜在意識の奥底で受けとり、いのちのどん底で実感して行くという順序は誰が決めたのであろうか。

 それは反対の順序であって、先ず、いのちのどん底にあるからこそ 『生命の實相』 なのであり、そのどん底にあるからこそ、それを讃えるために 『生命の實相』 があとから、その素晴らしさを映し出して呉れているのであるから、いのちのどん底のどん底なるものが先で、それが出て来て、最後に手で開いて頭で読むという姿が開花しているのである。

 チューリップが咲いているのを、もう一度球根にたたき込んで、もどさなければならないということは不自然なことである。それと同じことを生命の自然な花開きに対してもやってはならないのである。

 いのちのどん底のどん底とは、はじめのはじめということであり、神であり、實相ということである。實相を説いているのが生長の家であれば、解っているからこそふれられたのであり、どん底のどん底のいのちが先ずさきであって、聖典を開くということは、はじめのはじめなる、自分ではない神なるものの自己展開としてすべてはあるのであるという観方、讃え方で新しい人を迎えて行くという相(すがた)が新しい時代には展開されるのではなかろうか。

 解っているから教えに触れられたのであり、解っているから、運動をするのである。というよろこび方が基(もとい)になっての運動である。(2013.8.16)

58復興G:2013/08/05(月) 21:12:28 ID:AB6RqYXc

 訂正です。

>>55>>56>>57 の末尾の日付で、
(2013. ) とあるのは (1998. ) の誤りでした。
訂正し、お詫びいたします。

59復興G:2013/08/06(火) 06:04:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十八

 釈尊は 『発句経(ほっくきょう)』 の中で、

  「恨み心は恨み心では解くことは出来ない。恨みなき心のみが恨み心を解くことが出来る。これは永劫(えいごう)に変わらざる真理である」

 と説法され給うたと書かれているのである。

 しかしながら、 「お釈迦さんは、すぐに恨みなき心になれるからいいよ。その恨みなき心になれないから困っているのではないか」

 というのが多くの場合の受けとり方となっているのではあるまいか。

 そもそも 「恨みなき心」 というが、その 「恨みなき心」 なるものがあるのかどうか。また 「永劫に変わらざる真理である」 というが、そもそも 「永劫」 なるものがあるのかどうか、ということであるかも知れない。

 この問題は、實相ということが解らなければ、それこそ永遠に解くことの有り得ない問題なのである。

 「暗(やみ)を消すためには光りをつけることによってのみである。これは永劫に変わらざる真理である」

 しかしながら、人類は、暗を消してからでなければ、光りをつけること、お光りを頂くことは出来ない、という暗示にかかっていたのではなかろうか。

 そして、その暗(罪・迷い)を消すためにこそ宗教が必要である、というようなことになっていたのではなかろうか。しかし、それは、暗を袋につめて運び出して暗を減らそうとしているようなものであり、暗は一向に減らず、疲れはてて気がついてみると、袋の分だけ暗が増えている、ということになってしまっていたのではなかろうか。

 袋を開ける方法がわからなかったからである。また暗の中で、暗を入れた袋を開けて見ても、開けたという姿さえ見えないのである。

 そこに大聖師が出で給うたのである。そして、神は完全にして、はじめのはじめより今に至るも光りであり給い、よろこびであり給うのであるから、神の子もまた、はじめのはじめより、光りそのものであり、よろこびそのものであってよいのである、という大真理、を説かれ出したのである。そして、その真理そのものが、すべてのものの中にあったが故に、共鳴して、その本来の光りが光りし、よろこびがよろこびを輝いて、ここにいわゆる人類に恨み無き心のある生活というもの、光りを生きる生活が開かれたのである。

 総本山の落慶のとき、大聖師谷口雅春先生が 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 を先導され給い、その神想観中の説明の中で、

  「如意宝珠というのは、意の如く何でも顕わすことの出来る自在な神のいのちを珠(たま)にたとえたのであり、それを得たりということであるが、恨み心や、憎む心があったら、それが邪魔をして、それが出て来れないのです」

 と言われたのである。その時、私は 「その恨み、憎む心がとれなくて困って、最早(もはや)、人間の力では及ばないから、神(實相)に直接お出まし頂こうということで、その象徴として出龍宮顕斎殿を建立したのではないか。この説明では何も変わっていないではないか」 と想った時である。大聖師が、

「しかし、皆さん、今日からは、その恨み憎む心も、神様が除(と)って下さるのです」

 と言われたのであった。

 自分というものは無いのであった。神のみ、恨み無き、憎みなきもののみがあったのである。光りをつけるのも神がなし給うのであった。暗そのもの、憎み恨む心そのものが無かったのである。 “私は無いのです” とそれらみずからの消え切りのよろこびのみがあったのである。

 光明化の運動も神がなし給うのであった。世界の恨み、憎み心も神がとりさり給うのであった。(1998.8.17)

60復興G:2013/08/07(水) 06:18:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十九

 これから何をするとか、しないとかの前に、人間の存在そのものが、神であり、光明そのものであるという、人間存在の根本を決定したのが生長の家である。

 それ故、光明なるものと自分とがはなれていず、光明化運動と自分とははなれていない存在なのである。自分が世の光りそのものであり、自分が光明化運動そのものであるという生活が生長の家人の生活なのである。

 それ故に、一日の生活においても、この部分は光明化運動であるが、この部分はそれ以外である、というような、生活の中に光明化運動からはみ出た部分がないのである。それが 「聖使命菩薩」 の生活なのである。

「聖使命菩薩」 の 「聖」 とは 「ひじり」 であり、 「ひじり」 とは 「日がいちじるしく輝く」 という意味なのである。それは、何ものをもって来ても曇らせることの出来ない、日そのものであるのであって、一日の生活の変化によっては、わざわいされないところの、輝きっ放しの存在であることを讃嘆して付けられたのが 「聖使命菩薩」 という言葉なのである。

 一日の内に様々な姿をあらわして聖なるいのちは輝くのである。すべての人々のすべての姿は観世音菩薩であるとは、すべての人々の姿はそのままに尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)にましますということである。無碍なる光りをさまたげる何ものもないのであるから、聖使命菩薩の一日の生活の中で、その輝きをさえぎるものは何ものもないのである。

 様々の姿をとって一日の生活を送るということは、その様々の姿そのものが、観世音菩薩の説法であり、方便説法であるということである。

 イザナギの命(みこと)が筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界に禊(みそ)ぎ祓(はら)いをせられ給うたというのも、方便自在の説法であり、表現であるとみることが出来るのである。

 方便の方便たる所以(ゆえん)は、方便を表すものも、方便の姿も、言葉も、 「私は無いのである」 とのみずからの消え切りであり、澄み切りのよろこびの聖なる輝きそのものであるということである。

 説法者が消え切り、説法そのものが消え切り、言葉が消え切り、文章が消え切り、話を聴くものも消え切りであり、澄み切りの中に、忽念(こつねん)として生ずるよろこびの輝きの鳴りひびきが方便自在説法なのである。

 説くものなくして説き、聴くものなくして聴く、澄み切りの真空の中に妙有(みょうう)している姿こそが、智慧方便自在説法の現成なのである。

 イザナギの大神が禊ぎ祓いをされるはたらきが住吉の大神としてあらわれ給うていることは、如何にイザナギの大神が消え切りの、澄み切りのお姿の輝きであり給うかを表現しているのである。

 『古事記』 そのものが、方便的表現そのものであり、此の現象世界そのものが實相世界の方便的表現そのものであるのである。そして、 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものなのである。

 かつて、兵庫県の教化部(八祥(はっしょう)道場)を訪れた時、大聖師の初期のご揮毫(きごう)と拝察される横長の大きな御額を拝見したことがあったが、そこには

 「智慧方便自在説法」

 と書かれていたのである。

 ここに想われて来ることは 「生長の家人類光明化運動」 そのものが智慧方便の自在なる展開として出発しているのである、ということである。 「聖使命菩薩讃偈」 には、 「応化(おうげ)して仮りに聖姿を顕じ、広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂う(い)」 と書かれていることは既に覚え書きした通りである。ここに 「聖の聖なる方便」 ということを拝ませていただくのである。(1998.8.18)

61復興G:2013/08/07(水) 06:26:49 ID:AB6RqYXc

訂正です。
× 名づけて生長の家と謂う(い)
            ↓
○ 名づけて生長の家と謂(い)う

62復興G:2013/08/08(木) 06:42:24 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十

「空中遊歩の神人」 とは、 「生長の家人類光明化運動」 の人格化した表現である。

 説くものなくして説かれ、伝えるものなくして伝えられ、聴くものなくして聴かれ、伝えられるのなくして伝えられる、消え切りの、澄み切りの、聖なる消息である。

 来たって来(きた)るところなく、去って去るところなく、過去、現在、未来にあらず、伝道はどの時点において行われるのであるか。

 過去・現在・未来に依らず、自によらず、他によらず、伝道はみずから伝道であるのである。在りて在る伝道。時空超脱(じくう ちょうだつ)、自他超脱の久遠の今。渾(すべ)ての渾てなる今ここに、みずから、おのずから鳴っている、輝いている伝道があるのである。

 自も無く、他も無く、時間なく、空間なく、伝道みずから消え切りの、澄み切りの聖なる輝きそのものである 「光明」 なるものの消息である。

 消え切りの、澄み切りであるが故に、久遠不滅なる 「光明」 がここにあるのである。

 ゼノンの運動の否定に依るまでもなく、運動自体が 「私は無いのです」 と、みずからの消え切りであり、澄み切りの聖なるよろこびの輝きのみがある 「空中遊歩の神運動」 が 「生長の家の人類光明化運動」 なのである。

 如何にして、ものが移動出来るか。運動が可能であるか。 『神誌』 は如何にして、こちらから相手に渡るのか。受講券は如何にして、自分から相手に移動し得るのであるか。

 ゼノンの “飛矢は飛ばず” ということから言えば、 『神誌』 は移動せず、 「受講券」 も相手に渡らず、ということになるであろう。

 五官の世界はみずから消え切りであり、時間も空間もみずからの消え切りである、實相の妙有(みょうう)において、一切がそこに巻きおさめられている 「久遠の今」 において、一時一切時、一処一切処、一仏一切仏、一即多、多即一、中心帰一の渾(すべ)ての渾てなる一より自在に放射し、顕わし得るところの真空妙有なるいのちの消息において、自と他とを結ぶ運動は運動として自在に成立するのである。時空超脱の實相、久遠の今においてのみ運動の成立は説明し得るのである。

 斯(か)くして、運動は成り立つことも自在であり、成り立たないことも自在であり、まことの意味において、運動自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、聖なるよろこびの妙有なのである。

 神の運動であるということは、實相の運動である、ということである。その運動は實相においてのみ説明し得るということは極めて自然なことであるであろう。

 運動に参加することにおいて、

「吾れ神を選びしに非ず、神吾れを選び給いしなり」

 ということは、自分というものがあって、その自分を神が選びとられた、ということではないのであって、自分は無いということであり、神のみ渾ての渾てであるということでなければ、何の意味もないことである。そこにあるのはただ単なる激励の言葉があるのみなのである。實相生命に対して激励は不要である。ただ拝みのみがあるのみである。

 自分は無いということは、全現象界が無いということであり、實相のみ独在ということであり、神のみ在(いま)すということである。

 そもそも、 「神吾れを……」 という、その神が、神と言える神であり給うかどうか、ということである。全現象界(自分)の、みずからの消え切りなくしては、實相は無く、神もまた、神ならざる神となってしまっているのである。(1998.8.19)

63復興G:2013/08/09(金) 07:05:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十一

  「便所に宿る神」 ではなく 「便所が神なのである」 と大聖師のお言葉があった。

  「生長の家人類光明化運動」 は神が導き給うのではないのである。 「生長の家人類光明化運動」 が神なのである。

 また、 「生長の家人類光明化運動」 という言葉、文字そのものが神なのである。

 神は自己展開あるのみであり給うから、 「生長の家人類光明化運動」 そのものが生きものであり、みずから、おのずから自己展開するのである。

 神すなわち實相は、みずから顕れる力をみずからに蔵しているのである。

  「生長の家人類光明化運動」 のどこにも人間力は要らないのである。

 しかも 「生長の家人類光明化運動」 自体が 「私は無いのです」 との消え切りの澄み切りなのである。 「魚行きて水濁らず」 なのである。

 神社に神を祀るのではないのである。神社そのものが草木一本一本に至るまで神なのである。

 偶像崇拝とは、神でないものを神として拝むのであって、まことに神であるから神であるというのである。

  「生長の家人類光明化運動」 の運動方針そのものが神なのである。それが書いてある印刷物が神であり、一字一字が神であり、實在宇宙なのである。そして、それみずからが 「私は無いのであるしとの消え切りの、澄み切りなのである。

 「實相」 という御額そのものが神なのである。實相という字が實相であり、神なのである。實相という字は、實相を指し示す、シンボルではないのである。實相という字が、實相そのものであり、神そのものなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 が神そのものであるということにおいて、 「吾れ神を選びしに非ず、神吾れを選び給いしなり」 ということは、 『吾れ 「生長の家人類光明化運動」 を選びしに非ず、 「生長の家人類光明化運動」 吾れを選び給いしなり』 ということなのである。

 自分というものはどこにも存在しないのである。自分はどこにも要らないのである。自分の要らない運動を聖なる運動といい、神なる運動というのである。

 「運動のみ渾(すべ)ての渾て」 と言い得るものであってこそ神の運動なのである。

 「神の外にあるもの無し」 とは 「運動の外にあるもの無し」 ということでなければならないのである。運動以外に自分というものが要るというのは神の運動、神なる運動ではないのである。

 運動と自分との分裂ということは有り得ないことである。運動が神であり、自分というものは無いからである。

 「神と偕(とも)に生くる」 とは、神のみが渾ての渾てであって、自分というものは無いということなのである。

 「無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)」 とは、自分が無いということである。 「無一物」 の一物とは自分のことなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 という言葉は、 「南無妙法蓮華経」 という言葉と同じように、言葉そのものが、神であり、渾ての渾てなのである。

 渾ての渾てなるものが渾ての渾てしている、完成なるものの純粋なる創造的持続が 「生長の家人類光明化運動」 なのである。

 それ故、達成されない 「目標」 というものは無いのである。 「目標」 そのものが神であり、渾ての渾てであり、 「目標」 以外にあるもの無しであるからなのである。 「願い」 そのものが神であり、神は渾ての渾てであり給い、成就そのものであり給うのである。(1998.8.20)

64復興G:2013/08/10(土) 02:53:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十二

 流産児用の霊牌(れいはい)は 『實相妙楽宮(じっそうみょうらくぐう)地蔵○○童子』 となっていて、○○のところに名前を書くことになっているのは周知の通りである。

 さて、○○に関して、男か女か解らない場合はどうしたらよいか。命日の解らないのはどうすればよいか。あるいは、血の塊が下りたが、あれは流産児であったか、どう判断すればよいか。あるいはブドウ児でも流産児となるのであるか。また、霊牌は何枚書くのがよいのか。という質問はあるが、この 「實相妙楽宮地蔵」 というのは、どなたが付けられ、またどのような意味であるのか、ということを質問に来た人に未だかつて一度も私は出逢ったことがないということは、まことに残念なことにすら想われて来るのである。

 祀り方についての悩みはすべて、祀られる人を神と観ていないところから来るということである。神であるという實相を観ないが故に、やり方によって、相手が迷うのではないか、あるいは救いを求めて、まつわりついて来るのではないか、というようなことにもなりかねないのである。

 聖経 『甘露の法雨』 を読誦すること自体が罪なき實相、すなわち 「犯されたる罪もなく報いらるべき罪もなきこと」 を読誦しているのであって、それ以外のことは何も書かれていないのである。

 現象的に見るならば、堕胎児は何故、堕(お)ろされる運命となったのか、前世で自分自身が堕ろしていた、その因果応報で堕ろされる運命となったということになるのである。同じ親に宿りながら、一方は生んで育てられ、一方は堕ろされるという、運命の差はどこにあるか、ということになると、現象(因果)を認めている限りは、前世に差があったからだということにならざるを得ないのである。

 それ故、親が、現象を認めて、自分が悪かった、悪かったと言っているだけでは、因果の流れから超出することは永遠に出来ないのであって、ただただ、悪いものどうしが親子となって波長が合って、お互いに 「すまない。すまない」 と雲と雲とがあやまり合って雲の生活を永遠につづけてゆく以外は有り得ないのである。永遠に青空太陽としての新しい出発は出来ないのである。

 今ここに神の造り給うた、殺し合いの永遠に有り得ない、罪を犯せていない、青空、太陽から出発するのが、聖経 『甘露の法雨』 の中に説かれている、真理の供養ということになっているのである 『實相妙楽宮地蔵』 という見方である。

 實相から観れば、殺した親もなければ、殺された子も無いのである。それ故、妙楽宮の 「宮」 は親の子宮とみることが出来るのである。現象を観れば、屠殺場であり、地獄であるはずのところが 「妙楽宮」 すなわち 「極楽の宮」 となって、針の先ほども汚れていない實相が拝まれているのである。また、地蔵とは、如来であり、大仏であり、前世で罪を犯したという不完全は、完全に払拭されているのである。

 ここに聖経 『甘露の法雨』 の中身と同じすがたが拝まれているのであり、そのために聖経 『甘露の法雨』 が誦(あ)げられるのであり、それでこそ、聖経とよばざるを得ないのである。

 すべてに今あてはまらない真理というものは有り得ないのである。何の問題をもって来ても、唯神實相への堅信はゆらいでいないのが、尊師のお姿であり、生長の家人の道なのである。(1998.8.21)

65復興G:2013/08/11(日) 07:09:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十三

 ある理事が大聖師谷口雅春先生に、堕胎児(だたいじ)のある母親で、罪の意識に圧倒されてノイローゼ状態になっている人が多々あるので、その人たちに対して、 「あまり執われることはないのです。むしろ、水子は観世音菩薩であって、こちらを守護して下さっているのですよ、という風に指導しているが、これでよいでしょうか」 という意味の質問をしたところ、大聖師は烈火の如くお怒りになった語調で、

「あなたは男らしくない。本当のことを認めないで、誤魔化して、事実を事実としてはっきりと認めないでいる。本当のことを知らないのならばノイローゼのままでいて苦しむ方がよいのです。本当のことを知らないのなら救わない方がよいのです!!」

 という意味のご返事であったことは、知る人ぞ知るところの有名なる大聖師と弟子とのメモの往復の事実である。

 しかしながら、 「本当のこと」 とは現象的な、 「堕(お)ろした」 ということなのであろうか。このメモの往復の中には、 「實相」 という言葉は一度も出て来ないのである。

 ここで大聖師がこのようなお言葉を吐かれざるを得なかったのは、この質問の中に 「實相」 という言葉が出て来ないことにあるのであると拝察するのである。

 現象無しであればこそ、實相独在であればこその 「罪なし」 なのである。ここに言われている 「本当のこと」 とは 「實相」 ということなのである。その 「現象無し」 を通さずに 「罪なし」 ということは絶対に有り得ないことなのである。

 なるほど、子供を十人、二十人堕ろした人でも、笑いの練習をし、神想観で 「もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」 と感謝し、聖経 『甘露の法雨』 では 「犯されたる罪も無く報いらるべき罪もなきことを教えよ」 という言葉さえ頂くのである。

 しかしながら、これはすべて 「本当のこと」 を知ったからこそなのである。この 「本当のこと」 すなわち實相なるものを知らないままで、 「罪を犯しているけれども、気にしないで喜ぶ」 ということは絶対に有り得ないのである。なぜなら 「罪を犯せていない」 というその感じが 「喜び」 であり、 「感謝」 のもとであるからなのである。

 それ故に、 「本当のことを知らないのなら救わない方がよいのである」 「その方が早く本当のことに目覚める機会を与えたことになるのである」 と言われているのは自然なことなのである。

 「生長の家の偉大なる唯神(ゆいしん)實相の教えにより、實相は未だかつて、犯された罪もなく、報いらるべき罪もなき本当のことを知らされた私たちは、どのような人が現れても 『罪なし』 と言えることがどんなに、光栄なことであるか……」

 という感謝、礼拝の心をもって、指導させて頂けていることを先ず、述べるべきであったと私には想えるのである。

 尊師は實相抜きの話に対しては、實相抜きの話で応対されているのであり、弟子としては、自分の心だけの答えを頂いたというべきであろう。現象ありの質問に対しては、現象ありの答えしか帰って来ないのは自然なことであろう。もし 「實相」 ということにおいて、ということになれば、 「よし」 とのお答えに相まみゆることが出来たはずなのである。

 なぜならば、大聖師みずからが、

 『實相妙楽宮地蔵○○童子』

 として、拝み給うているからである。

 まことに、本当のこと(實相)を知らないままで救われるということの有り得ないことは永劫に変わらざる自然の自然なることなのである。(1998.8.22)

66復興G:2013/08/12(月) 08:06:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十四

 「『迷(まよい)』 は捉われの相(すがた)にして苦患(くげん)多し」 である。それは 「迷」 のことであって、實在なる吾れの吾れなるものとは全く関わりの無いことである。

 「迷」 それ自身で 「私は無い」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

 ただただ實在は實在であり、迷は迷である。ただそれだけのことである。それが 「そのまま」 なのである。

 神であり、實在である光明化運動は未だかつて、一度も迷と相撲をとったことも、罪、暗(やみ)と関わったこともないのである。それ自身、ただただ光りであるのみなのである。

 「光りは闇に照る。されど闇は光りを知らざりき」

 と聖書には録(しる)されている。闇は 「光りを知らざりき」 であるが、光りもまた 「闇を知らざりき」 なのである。

 なぜならば、闇は、みずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるから、ただただあるのは光りばかりであり、光りは光りを知るのみなのである。ただただ光りが光りしている光りの自己展開があるのみなのである。

「光明化運動は光りを知って暗きを知らず」 である。暗を知らないものを光明というのである。

 神が 「光りあれ」 と宣(の)り給うた時、暗の世界に向かって、暗の中で斯くコトバされ給うたのではないのである。暗も無い、その無しもない、ただただ神のみすべてのすべてなるその、在るものがただただ在るのみなる中で神は 「光りあれ」 と宣り給うたのである。神が光りを生み得たのは、神が光りであり給うたからなのである。はじめから在りて在るものを光りというのである。

 「神 光りあれ」 と言い給いて、発進したところの 「生長の家人類光明化運動」 は、そのコトバなる源より発して、光りの清水の澄み切りの大河となって今ここに自分のすべてとなって流れているのである。未だかつて一度も汚染されたることもなければ、せき止められたることも、よどんだこともなき、聖流の大河なのである。

 その本当の姿を、はっきりと観つつたしかめ、拝まなければならないのである。 「久遠を流るるいのち」 とはこのことなのである。大河のあるのを忘れて、細い溝のようなところに水を求めてさまよう必要はないのである。ただただ大河が今ここに、自分となって久遠に流れつづけていることを讃えなければならないのである。

 何かしら、大きなダムに満々と水がたたえられて、いつでも発電が可能な状態でありながら、そのダムの下で、手動の発電機をまわして電気を起こそうとしている姿はこっけいであり、勿体(もったい)ないことであると想わざるを得ないのである。

 満々とたたえられた水が 『生命の實相』 であるのに、それをそのまま電気に変えられるのを待っているのに、すでにすべては完成され用意されているのに、なにか、どこかで、手動の発電をまわしているような無駄で、勿体ないことをしてしまっているのではないか、というようなことが想われてならないのであるが、どのようなことがそれに相当しているのかは解らないにもかかわらず、やはりその想いは、有りつづけているのである。

 二十年も以前のこと、全国代表者会議にオブザーバーで出席したことがあったが、その年度の運動方針の前文の冒頭に 「新天新地の神示」 の冒頭が引用されていた。 「見よ、われ既に天地を新たならしめたのである」 という部分である。そして、世界の危機的状況が次に述べられていて、この重大なる時期に吾々の為すべきことは……という文章であったが、この重大な時というのが 「既に天地が新たになった」 から重大な時期なのか、世界が危機的状態であるから重大な時期なのか、ということを質問すべきであったか、と後で想ったことであったが、今も時々想うことである。何かダムの喩えの話と関係がありそうな気がしてならないのである。

 この 「覚え書き」 もまた 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きの中で生まれ出ているのである。それ故、この 「覚え書き」 を書くものも、またお読み下さる方もこの輝きを味わいながら、であってほしいものである。

 「この覚え書きは無い」 と十回以上は心の内に唱えるようにした上で読んでいただきたいものである。そして、読まれている途中でも、なるべく、そのように心の内に唱えていただき、 「覚え書き」 みずからの 「私は無いのです」 という、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きに浴していただきたいと念願するものである。

<つづく>

67復興G:2013/08/12(月) 08:06:49 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 『試論・波状光明化への道』 の注釈書のようなものがあって、十年ぶりぐらいに読みはじめたところ、やはり、はじめに、

 「ここに書いていることは、私のとらえた生長の家であり、尊師であり、日本であり、天皇であって、それがそれそのものであるということは永遠に言えないことなのである。ここのところを 『生命の實相』 は 「物質なし」 と本みずから死に切って、自分の立場、とらえるものの側という一つの立場を死に切っているのである」

 と書いている。

 私は、この注釈書のはじめに、 「この本は無い」 と十回くらいは唱えてから読んで下さい、ということを書こうと想って原稿には書いたのだったが、どういう訳か、その頃はそれをはぶいている。やはり時期ではなかったのであろう。最近この 「覚え書き」 をするようになって、この注釈書を読みはじめたところで、もう一度考えてみようと想っているところである。

 「行(ぎょう)ありて、願(がん)なきは仏の魔事(まじ)なり」 という言葉があるが、 「願い」 とは、自分が無くなって、澄み切りたいという 「願い」 が最も深いところにあるのではなかろうか。そしてそのあらわれとして 「感謝がしたい」 という 「願い」 となっているのではなかろうか。

 練成を受けに来た人に参加の動機を書いて貰ったり、聴かせて貰うと、色々と述べられるのであるが、しかし、究極の 「願い」 は 「感謝がしたい」 ということであり、それが参加の動機であるということは間違いのないことであると信じているものである。

 感謝がしたくないものは一人も居ないのである。しかし、それに心がこもらないので困っているのである、ということになっているのではないかと想うのである。

 ここでいう心とは “まこと” ということである。 “まこと” とは 「丸ごと」 であり、 「全て」 であり、 「無限」 であり、神ということである。神であるということは、自分は無いということである。自分が要らないことである。

 無限力を発揮するというが、それは為した量によって言うのではないのであって、自分は無く、神のみ渾ての渾てであり、神がここに生きてい給うという、その神が無限なのである。無限とは限りとしての自分というものが無いことなのである。

 無限なるもの、神なるものが為し給うているが故に、形は有限、微少であっても、無限なるもの、自分なきもの、神なるものが生き給うているが故に、 「無限力」 なのであり、 「無限」 の尊さの中身があるのである。

 この 「無限」 「丸ごと」 「神なること」 「完全なること」 が 「まことがこもること」 即ち 「心がこもること」 なのである。

 「まこと」 と 「自分なきこと」 と 「心がこもること」 とは一つのことであって、現象無し、我無し、完全なる實相のみあり、即ち神のみ在(いま)すことである。このことを “こらえ” たり、我慢しないで求めつづけよ、ということこそ仏の魔事にならない道なのである。

 こらえたり、我慢するなということは 「神であること」 「自分無き澄み切りであること」 の 「願い」 をこらえるな、我慢するなという意味であると拝察されて来るのである。(1998.8.23)

68復興G:2013/08/13(火) 05:04:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十五

 「タバコを吸う」 ということは不自然なことである、ということは、物質なる外なるものに頼っているというところにあると想われる。しかしながら、 『生命の實相』 という、本という物質に頼ることもまた、同じように生命にとって不自然なことである、ということになるであろう。

 あるご婦人が 「薬を飲まなくても 『生命の實相』 を読んでいれば治る、と言われて、薬をやめて、読んでいますが 一向(いっこう)に治りません」

 ということであった。そのとき私は、 「あなたは薬は飲んでいないといいますが、 『生命の實相』 という本を飲んでいるのではありませんか」 と話したことであった。

 生命とは何か。それは、外からの助けをからず、内から展開、生長する智慧と力を備えているもの、ということが出来るであろう。草や木を見ても、外から教えた訳ではないのに、芽を出し、葉を出し、花を咲かせ、実を稔らせるのであって、内からの働きがここにあるのである。

 新幹線は大きな働きをするが、これは機械であるから、電線が一本切れれば死んだことになってしまうのである。

 これに反して、赤ちゃんは、母親から外に出て、臍(へそ)の緒を切って、外に何もつながらなくなった時 “おめでとう” となって、誕生したことになり、生命が出発すること、生命が生きることになっているのである。

 機械が外から助けられなければならないように、赤ちゃんも母親からお乳を貰わなければ生きて行けないではないか、と言うことになるかも知れないが、機械は、電気やガソリンを消化して、生かすことも全部外からの智慧によらなければならないのである。

 しかし、赤ちゃんは、どのように呼吸するか、どのようにしてお乳を吸えばよいか。それをどのように消化して栄養にするか、そして、それを適当に配分して、脳髄や内臓を形成してゆくか、この智慧と力は外から来たものではないのであって、百万人のお医者さんがよっても、本当の血液は製造することが出来ないかも知れないその智慧と力がはじめから備わっているのである。

 ただこれだけの話では、生まれつき不完全な働きしか出来ない赤ちゃんもあるから、その生命が完全なものであり、それが神のはたらきであるとは言えないのであるが、 「ある大いなる智慧と力」 がここには、はじめから備わってはたらいているということは言えるのである。

 もしも、神が完全であるならば、神は外から教えられるということのない存在であり、そこから生まれ出でている神の子の生命もまたはじめから完全である、ということは、事例、体験という一現象からは証明することは出来ないのである。体験というものは、過去の実験範囲内では、そうであったということにとどまるのであり、未来も永遠に必ずそうなるか、ということは保証してくれないのである。それ故、体験という現象に頼るということも、外のものに頼る不自然なことであるということであり、このような様々な生命に対する観方だからこそ、生命が生命として自然な姿で生きられなくなっているところに現代世界のストレスの根本があるのであって、その根本は、生命はみずから立っているという自然な姿をよろこぶことを忘れたところに原因しているのであると言えるのである。そこのところをはっきりと拝み得ているのが生長の家なのである。

 なるほど 「生命の實相は未だかつて、生まれたことも、タバコを吸ったこともないのである」 と 『生命の實相』 には書かれている。しかし、その實相が實相たるためには、 「生命の實相は未だかつて物質なる 『生命の實相』 という本を読んだことはないのである」 と言い得て、はじめて實相なのである。そこのところをはっきりしないと、どこかにタバコの煙のようなモヤモヤとした生命の出すくみがはじまるのである。(1998.8.24)

69復興G:2013/08/14(水) 05:34:02 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十六

 「本もの」 と吾々はよく、この言葉を使わざるを得ない時があるものであるが、それはどのような時に使いたくなるのであるか。また 「この教えは深い」 とか 「この教えは崇(たか)い」 とかいう言葉が思わず出て来るのはどのような時なのであるか。ということはいつもいつも私の中で繰り返している想いである。

 それはどのような時に人は発するのであるかの研究は別として、 「本もの」 であるとか、 「深い」 とか 「崇い」 とかということは、限りもなく、自分もそうでありたいと願わずにはおれないことであるということだけははっきりとしているのである。

 生長の家のみ教えについて 「本もの」 「深い」 「崇い」 ということは自然に出て来る想いであり、谷口雅春先生を 「大聖師」 とお呼びすることが自然なことであることも、まことにうれしいことであるにちがいないのである。

 本もの、とは實在するものでなければならず、實相そのものであることであり、既にはじめのはじめから在るものということであるであろう。

 そして、それは、はじめのはじめから在りて在るものであるが故に、自分というものの要らないものであるであろう。

 つまり、自分というものの要らないもの、自分というものの消えているもの、はじめのはじめだけがすべてのすべてであるもの、自分の無いものこそ 「本もの」 ということなのである。

 「深い」 とか 「崇い」 とかということは、如何に、はじめのはじめから、神が渾(すべ)ての渾てであり、それ以外にあるものなきこと、自分の要らないこと、自分は無いということを今、ここに味わい得せしめ得るか否かということにかかっているのである。本ものとは今ここにあるところのものでなければならないのであり、今ここにないものを 「深い」 とか 「崇い」 とか呼ぶことも不自然なことであり、有り得ないことである。

 神が渾ての渾てであり、神のみ在(いま)すのであるから、自分が無いのが自然であり、天然であり、法然であり、当然である。この自然、天然、法然、当然が、本ものなのである。

 「本もの」 とは 「本(もと)もの」 ということである。本とは、はじめのはじめであり、 「素(もと)もの」 であり、 「素のまま」 であり、 「神のまま」 である。

 「神のまま」 は 「今のまま」 である。 「今」 とは 「久遠の今」 であり、 「今なる久遠」 ということであり、渾ての渾てということである。

 それ故、迦葉(かしょう)が釈尊より 「本もの」 のいのちを受けとった時、渾ての渾てを受けとったすがたであったのである。それ故、迦葉一人でよかったのである。

 それ故また、 「本もの」 と言った時、そこに渾ての渾てなるもの、一つも残さずして、世界を込めて 「それでよい」 「そのままでよい」 という、はっきりとした、割り切れたものをいのちが感じた時なのである。神は渾ての渾てなる 「本もの」 にましますが故に、お一人でよいのであり、それを独神(ひとりがみ)と呼び奉るのである。

 天皇は 「本もの」 にましまし、お一人でよいのであり、それを中心と呼び奉るのである。(1998.8.25)

70復興G:2013/08/15(木) 08:10:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十七

 「神に隠るるもの」 という題名が心に湧き起こり、それを想って出て来た言葉をしばらくの間、書きつづけたことがあった。今再び 「神に隠るるもの」 という言葉がフトしたことから新たに想いにのぼって来たのである。

 「神に隠るる」 と言えども、神は天地のはじめのはじめより 「身(みみ)を隠し給いき」 であり給うのである。それ故 「神に隠るる」 とは、神はすでに身(みみ)を隠したまいて、みずからの消え切りであり、澄み切りであり給うのであるから、 「神に隠るる」 とは 「澄み切りに隠るる」 ことなのであり、澄み切りの澄み切りにあずかることなのである。

 澄み切りの澄み切りにあずかるとは、 「澄み切りも無い」 ということを受くることなのである。澄み切りみずからが 「私は無いのです」 と鳴りひびいているその鳴りひびきにあずかることなのである。あずかる自分もまた 「私は無いのです」 との消え切りの消え切りなのである。

 どこまでも、どこまでも、消え切りの消え切りであり、澄み切りの澄み切りなのである。

  朝みどり澄み渡りたる大空の
     広きをおのが心ともがな(明治天皇御製)

 大空が広いのではないのである。澄み切りが広いのである。澄み切りの澄み切りこそ広さの広さなのである。はじめのはじめであり、渾ての渾てなのである。

 何故 『聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)』 に、生長の家が 「広大の慈門(じもん)」 と録(しる)されているのであるか。 「広大の慈門」 とは 「澄み切りの慈門」 であるからである。 「光明化運動」 が 「私は無いのです」 とのみずからの、消え切りの、澄み切りであるからである。

 形のある澄み切りということは有り得ないのである。ここからここまでという区切りのある澄み切りということは有り得ないのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は 「神に隠るる運動」 であり、 「澄み切りの澄み切りなる運動」 なのである。

 身(みみ)を隠す、澄み切りの澄み切りは、独神(ひとりがみ)の絶対の真性なのである。それ故、澄み切りの澄み切りなる 「生長の家人類光明化運動」 は 「絶対の運動」 なのである。

 絶対なるもの、澄み切りの澄み切りなるものを 「光明」 というのである。

 絶対なるものとは、完成なるものであるから、 「絶対の運動」 である 「生長の家人類光明化運動」 は 「完成なる運動」 であるということが言えるのである。

 それ故、生長の家の大神は 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 であり給うのである。 「完成の燈台の点燈」 としての運動が 「生長の家人類光明化運動」 なのである。

 「点燈」 とは如何なることであるか。すべてのものが 「完成なるもの」 であることへの祝福礼拝なのである。祝福するものなくして祝福し、祝福されるものなくして祝福されるのである。礼拝するものなくして礼拝し、礼拝されるものなくして礼拝される。ともに消え切りの消え切りであり、澄み切りの澄み切りである。澄み切りの澄み切りが、澄み善し、であり、住吉である。生長の家人類光明化運動は住吉の大神の運動なのである。

 自分をとりまく天地一切万物万象ことごとくが観世音菩薩である。観世音菩薩は尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり、生長の家の大神にましますのである。即ち、天地一切万物万象ことごとくが生長の家の大神であるということである。このことを教えているのが生長の家であり、祝福礼拝ということの中身なのである。 「神に隠るるもの」 とは、すべてが生長の家大神であることをよろこぶもの、という意味なのである。(1998.8.26)

71復興G:2013/08/16(金) 00:10:48 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十八

 再び 「光明とは何か」 について。

 光明とは絶対に暗くならないものということである。五感で見ゆるものはすべて、点滅、消滅常なきものであるが故に、光明とは五感を超えた實相ということである。

 實相とは神であり、はじめのはじめから在りて在るものそのものなのである。

 外国に指導に行った講師の話によると、神想観の指導で、光りかがやく 「智慧の海、……」 と唱えることを話しても、 「どうして、海でなければならないのか?」 と言う人あり、 「自分は海を見たことがないから海と言われてもそれは出来ない」 という人あり、 「自分の知っている海は、大西洋の荒い波の海であり、それしか知らない」 という人ありで、仲々神想観に念ずる言葉を納得して貰うということだけでも至難なことであるらしいのである。

 そもそも、しかしながら、私たちは神想観をしてから生まれて来たのではないのである。はじめのはじめから、生きとし生けるものとして生かされて、生長しているのである。このはじめからあるところの 「生かす力」 を “ひかり” というのである。

 この光りは、 「神光りあれと言い給いければ光りありき」 の光りであり、神によってある光りであり、人間が念じて、観じて造り出すものではないのである。

 はじめのはじめから生かされていてよいのであり、生かされていることをよろこんでいると、そこによろこばしき明るきものがここに生まれて来るのである。

 光り、光り、神はひかりであり、すべては光りである。はじめのはじめから光りである。祈ってからでもなく、生まれてからでもなく、はじめのはじめから生かされていてよいのだということを想っている時、その時、 「人間は神の子であり、光りであり、神そのものである」 と言いたくなるのであり、その言葉の通りを受け取ることになるのである。 「ひかりですよ」 と言われて 「その通りである」 とはじめのはじめからあるところの内なるものが共鳴するのである。

 光りははじめからあるのである。神によりてはじめのはじめからあるのである。光りとは “ひとごと” ではなく、自分のことなのである。天地のはじめよりあるものを光りというのである。今、すでにあるものを光りというのである。

 それ故に、その人のいのちのはじめのはじめを礼拝し、祝福することによって、はじめなる、内なる光りが共鳴するのである。

 神想観は観法である。 「観る」 とは既にあるからこそ成り立つのである。既に、はじめのはじめより在るものとは神によりてあるものである。それ故、観は 「生かされている」 という感謝のよろこびがその中身なのである。すでにはじめより在り、生かされていたということのよろこびが光りなのである。

 「光りは東方より」 とは 「光りは当方より」 である。内なる、はじめのはじめよりあるものを当方と言うのであり、当方なるものを光りと言うのである。

 「招神歌(かみよびうた)」 で 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 と言ったとき.すでに、はじめなる、当方なる光りで祝福されているのである。それは、念想によって描く以前のすがたなのである。生かされていることが先で、それを観じ、感謝するのが神想観であり、生かす力が光りであり、光りになるための神想観ではないのである。 「なるための」 というものは、永遠に光りであることは出来ないのである。(1998.8.27)

72復興G:2013/08/17(土) 00:36:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十九

「光明化運動」 は、運動それみずからが光りなのである。運動の成果以前において、それみずからが価値であるのである。

 生長の家の生き方は、生長の家そのものが光りであり、宇宙そのもの、即ち全存在である故に、 「生長の家の」 と言った時、既にそこに渾(すべ)ての渾てがあるのである。

 神の子人間は神そのものであり、生長の家そのものであるのが 「そのまま」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 と 「 『生長の家』 信徒行持要目」 に解説せられているのである。

 今ここに渾ての渾て、なのが實相生命なのであれば、これからどう生くべきか、どう進むべきかの前に、今ここに渾てが満了されているのが本当の相(すがた)、即ち實在の實相なのである。これが 「今を生きる」 ということなのである。

 「今を生きる」 のが生長の家の生き方であり、 「未来を生きる」 ということは、そもそも有り得ないのである。生きるとは 「今」 しかないのである。今が生きているということが、生きることのはじめである。

 「天地(あめつち)は今をはじめとする理(ことわり)あり」 という。この 「はじめ」 とは、 「終わり」 に対する 「はじめ」 ではないのである。今、在(あ)ることのすべてのすべてを 「はじめ」 というのである。

 「はじめ」 「終わり」 を超越した、 「絶対のはじめ」 「絶対なるはじめ」 ということである。
とも
 「光明化運動」 の 「光明」 とは渾(すべ)ての渾てである、というのは、 「はじめにコトバあり。コトバは神と偕(とも)にあり。コトバは神なりき」 という、はじめとコトバと神とひとつであり、一切であることが光りであるからである。この光明が渾ての渾てであるということは、光明の中に渾ての渾てがあり、 「光明化運動」 の中に渾ての渾てがあることを意味していると言わなければならないのである。

 すべてに向かって 「光明化運動」 をするのではなく、 「光明化運動」 の中にすべてがあるのである。

 「神光りあれ、と言い給いければ、光りありき」 ということは、神と光りとコトバとはひとつであることを意味しているのである。神は渾ての渾てであり給うということは、コトバであり、光りであることを意味しているのである。その光りこそが 「光明化運動」 の 「光明」 ということなのである。

 「光明化運動」 というコトバそのものが神であり、渾ての渾てである以上は 「光明化運動」 は自分であり、自分そのものであり、自分と 「光明化運動」 とは離れていないのである。それ故、自分が存在すること自体が 「光明化運動」 そのものであり、生活において、 「光明化運動」 と、 「光明化運動」 でない部分との分裂はないのである。 「光明化運動」 が渾ての渾てであり、自分であり、それ以外に在るものなし、であるからである。

 今ここに渾ての渾てがあるのである。渾ての渾てがあるのを 「今」 といい、 「光明」 というのである。

 分裂は無いのである。分裂は非存在なのである。神の子は、生活において 「光明化運動」 からはみ出るということは有り得ないのである。自分と 「光明化運動」 とはひとつであり、 「光明化運動」 なるものの内に、世界があり、生活があり、渾ての渾てがあるのである。(1998.8.28)

73復興G:2013/08/18(日) 06:44:45 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十

 「住吉大神宇宙を浄め給う」 というと言えども、住吉大御神も宇宙も 「吾が内なる神の国」 として、吾が内にあり給うのである。

 「高天原(たかあまはら)に神詰まり坐(ま)す」 と言えども、高天原も、神もすべて吾が内にあるのである。

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓いたまう」 と言えども、イザナギの命も筑紫の日向の光明遍照の實相の世界もすべてのすべては吾が内に在り給うのである。

 絶対なるもの、無限なるものが吾が内に在るのである。

 「絶対を吾が内に握っている」 というのが、まことの自分の自分なるものなのである。

 絶対無限なるものが吾が内にあると同時に、龍宮無限なる龍宮城の中に吾れが坐しているのである。

 神は吾が内に坐(ま)し坐すと同時に、その内なる神に抱かれているのが自分なのである。

 至大にして、至小同時現成實相妙有である。

 「神が私を生み給うたと同時に、私が神を生んだのである」 と言うものがまことの自分の自分なるものなのである。

「天地の創造(つく)り主(ぬし)にましまし、吾が生みのみ親に坐(ま)します神よ」 ということは天地の創造主であり、私を生んだところの、み親に坐します神よ、ということと同時に、天地の創造主にましまし、私が生んだところのみ親にまします神よ、ということなのである。

 親なる神を生んだのが妙有實相なる自分の自分なるものであるのである。これが妙々實相不可思議の境涯なのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 なる神想観において、 「龍宮城が近づいて来て、すっぽりと自分の中に入ってきて、そして、その龍宮城の中に自分が坐している」 と観ぜよ、とは、まことに入龍宮不可思議である。

 それ故、 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照……」 と繰り返して唱えているのは、吾が全身は勿論のこと十方世界も自分なのであるということなのである。

 十方世界も吾れであり、吾が全身も吾れであるならば、吾れは渾(すべ)ての渾てであるということなのである。吾れが渾ての渾てであるということは、対立なきものであり、相対にあらざるものであるが故に、無我ということなのである。

 「私は無いのである」 と消えて、澄み切っているというよろこびは、渾ての渾てであるよろこびということなのである。吾れが渾ての渾てであるということは、対立なきものであり、相対にあらざるものであるが故に、無我ということなのである。 「私は無いのである」 と消えて、澄み切っているというよろこびは、渾ての渾てであるよろこびであったのである。

 まさしく、無我ということが無限ということであり、無限ということが無我ということであるとはこのような中身を言っていたのである。

 「すべてを放(はな)ったとき、全實在宇宙は掌の上に乗る」 と大聖師がお示し下さっているということは、全存在、すべてのすべては手の内にあること、即ち、吾が内にあることを表現されているのであると拝察させて頂くのである。

 放つとは如何なることであるか。自分の要らない、はじめのはじめ、既にあるもの、即ち内なるものを受くることなのである。自分がこうした、ああしたということの全く要らない、自分そのものの要らない、はじめのはじめを受くることである。

 自分が為したという過去の成績という外を無しとして、内のみ渾ての渾てとして、今、ここに、はじめのはじめを受くることなのである。放つということは、はじめに帰るということなのである。はじめのはじめなるものが、はじめのはじめに帰ることが放つということなのである。(1998.8.29)

74復興G:2013/08/19(月) 06:52:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十一

 無限、絶対なるもの、即ち神が自分の内にあり給うとは、無限よりも、絶対なるものよりも大きいものが自分であるということは、まことに矛盾したことにはちがいないが、それが何ら矛盾なく、澄み切りであるということが入龍宮不可思議なのである。

 それ故、吾れの吾れなるものは、外から見られている存在ではないということである。監視されているということは、生命にとってはまことに不自然きわまりなきことなのである。すべては自分の内にあり、自分の自分なるものは、全存在すべてを生み、創造し、それを見護っている方なのである。

 たえず、たえず、視られているという感じは、生命が不自然すなわち浄まっていないこと、汚れていることであり、解放、生長の反対なる拘束であり、後退であり、萎縮となるのである。

 さて、組織を形成し、数の概念を導入して、運動の進展の状況を測定し、統一するための価値基準とすることに対して、何かそこに違和感が発生せざるを得ないということがもしあるとすれば、それは、組織内にいるものが、たえず、監視され、測定されているという感じを持たざるを得ないのであり、そこに生命の本質である開放と生長の反対なるものを観じざるを得ないからであると言わなければならないのである。

 だんだんと冷え冷えとしたものを自分にも周囲にも感じはじめた時、 「あの入信当時のよろこびはどこに行ったのか」 とつぶやきはじめるが、監視の目を感じてそれを言おうと想っても、それを言えなくなっているのに気がつくのである。

 しかし、生長の家は、現象無し、五官の世界なしの宣言の時から、すべては取り払われているのである。このようなものを取り払ったところから生長の家は出発しているのである。そのような怯(おび)えさせ、そしてその故にちぢこまらなければならない幽霊なるものはどこにもなかったのである。

 『生命の實相』 の中に、ある熱心なキリスト教の牧師が、神様に約束した人数の聴衆を集めることが出来なかったので、神様に申し訳ないと言って、ノイローゼになっているという話に対して、それは数という外(現象)の成績に頼っているからであって、イエスは、外に頼らなかったところに偉大さがある、ということが説かれているのである。

 このことから拝察しても、生長の家は祝福礼拝こそあれ、監視したり、恐怖させるものの影におびえなければならないなどということはどこにも教えていないのである。

 知らず知らずの内に、この亡霊即ち監視の目なるものが現れていたのである。そしてそれを後生大事にその前に拝脆(はいき)していたのではなかったか。

 そして、自分の中のあるものに、それを納得させようとして、それに理由を申し上げて頭を下げて、納得してもらおうとしていたのではなかったか。

 そんなものは無いのである。納得するものもなければ、納得してもらわなければならないようなものなど、何一つなかったのである。

 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)であり給う神」 を生んだのが自分であり、斯く言えば、わが内にありて神が手を打って 「さすがわが世嗣ぎよ!!」 と賞(め)で給う荘厳きわまりなき神の大愛の中に浴しているのが生長の家人なのである。

 神の子が 「生みの親」 となる時、これを成人した、というのである。 「稚心(ちしん)を去る」 とは、このことであったのである。それがまことの 「今起て!!」 の御声として大聖師は聴き給うたお姿であったと拝察するのである。

 二十一世紀を 「生長の家人類光明化運動」 の成人の時としたいものである。稚心をはなれて独り立ちする時が来ているのである。(1998.8.30)

75復興G:2013/08/20(火) 03:45:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十二

 再び 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」 ということについて。

 實相の世界には禊(みそ)ぎ祓わなければならないような汚(けが)れは無いのではないか、というのは、やはり不完全が實在していると見る習慣にわざわいされているのである。そして、イザナギの命(みこと)ご自身もまた汚れているのではないかとの見方によるのである。

 それはちょうど、完全円満な實相には生長というものはないのではないか、ということとも似ている問いであると想われるのである。

 完全円満なる實相にも、禊ぎ祓いはあり、生長もあるのである。

 無いものを無いとするのが浄めであり、禊(みそ)ぎ祓(はら)いなのである。それ故、 「實相の世界にみそぎ祓いたまう」 とは 「實相も無い」 ということを宣言することなのである。そしてその 「實相は無い、ということも無い」 と、どこまでもどこまでも放(はな)って行くことが禊ぎ祓いなのである。

「實相、實相」 と實相さえも把(つか)んではならないという、最も深く、崇(たか)い放ちをされている故に 「畏(かしこ)き」 ということであり、この禊ぎ祓いは 「畏き禊ぎ祓い」 なのである。

 どこまでもどこまでも放ち、捨てて行くことに、 「畏さ」 があり、 「崇さ」 があるのである。

 宇宙自体もまた、自分で自分を放ち、捨て、 「私は無いのである」 と、みずからの消え切りの澄み切りであるのであって、それが 「畏き宇宙」 ということなのである。そこにあるのは 「畏き生長」 であり、 「崇き生長」 なのである。

 「有るものは皆吹払(ふきはら)え大空の、無きこそ元の住みかなりけれ」

 との黒住宗忠の歌がある。そして、

 無きこそ元の住家なる、その

 「無きものも皆吹き払え大空の無きの無きこそ元の元なれ」 (榎本)

 と、どこどこまでも、元に帰る生長というものこそイザナギの命(みこと)の禊ぎ祓いであり、生長であり給うのである。元の元こそ生長の本体なのである。そこに 「そのまま」 があるのである。

「そのまま」 とは 「素のまま」 であり 「もとのまま」 であり 「元のまま」 即ち 「神のまま」 なのである。神は無限創造であり、無限生長であり給うのである。

 完全円満なる實相それ自身の展開としての禊ぎ祓いということである。

 完全円満なる唯神實相独在の世界に何故、 「光明化運動」 が必要なのであるか。それは光明それ自身の展開としての運動であるのである。この 「化」 というのは 「展開」 ということなのである。實相は無限の創造であり、生長であり、展開なのである。

 「光明化運動」 は単なる、實相をこの世に写し出す、影を生み出す運動ではないのである。光明すなわち實在それ自体の自己展開、価値創造として存在するのである。

 實在であることは、神であることであり、それ自体で不滅の久遠の自己展開そのものであるということであり、 「光明化運動」 は久遠不滅の自己展開それ自体である “生きもの” であるということなのである。

 斯くの如き、生長、創造それ自体であるものを光明というのである。 「光明化運動」 がみずから 「光明化運動」 を実現するのである。自分というものはどこにも要らないのである。(1998.8.31)

76復興G:2013/08/21(水) 09:08:20 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十三

 光明遍照の實相世界においてのイザナギの命(みこと)が光明であれば、禊(みそ)ぎ祓(はら)いの水も光明であるのである。光明が光明する暗(やみ)なき禊ぎ祓いなのである。

 すなわち、暗(やみ)を知らない 「光明化運動」 なのである。 「光明化運動」 は未だかつて一度も暗と出会ったことはないのである。

 「化」 は 「人」 と 「ヒ」 であり、 「人」 は 「日止(ひと)」 であり 「日」 そのもの光りそのものであり、 「ヒ」 は 「日」 であり光明そのものなのである。

 「暗」 もまた実は 「日」 と 「音」 であり、 「日」 は光明そのものであり、. 「音」 は 「立っている日」 であり、光明そのものであり、そこには 「光明」 しかないのである。 「光明」 のみがあるのが本当なのである。 「やみ」 があるという目で見るから 「やみ」 があるように見えて来ているだけなのである。 「やみ」 とは 「無い」 ということの別名にすぎないのであって、 「無い」 ものは 「無い」 のである。

 むしろ 「暗」 という字は 「日」 が二つも輝いているに反して 「明」 という字は 「日」 は一つしかないのであって、どんなに 「くらい」 と見ゆるものも、倍した明るさがあるということなのである。

 これは 「暗(やみ)」 は夜明けを暗示するものであるとの見方とは違うのであって、 「暗」 そのものが 「明」 の二倍の明るさそのものである、 「今」 というものを表現しているのである。

 これはまた 「やみ」 によって引き立てられるところの相対の 「光明」 ではないということである。ただただそこには光明のみがみずから立っているのみなのである。

 「やみ」 があって、はじめて意義をもつという 「光明化運動」 ではないのである。 「光明化運動」 はみずから立っている 「光明化運動」 なのであり、どこにも 「やみ」 を必要としないのである。 「光明化運動」 そのものが神そのものであるからである。

 神は何故光明であり給うのか。光明であるから光明なのである。理由づけされる必要はないのである。原因、理由というものによってささえられる必要なく、みずから在(あ)りて在るからこそ光明なのである。

 「光明化運動」 は原因、理由は要らず、意義づけも何も要らずして、みずから在りて在る、みずから立って在る、みずから立っている運動なのである。

 「今」 立っているのであって、原因、理由が先にあってその後に生まれるということではない、みずから立っている光明なるものが立ったのが 「今立つ!!」 ということであったのである。それは 「光明化運動」 みずから立ったことなのである。大聖師谷口雅春先生の御いのちそのものが 「光明化運動」 であり給うたのである。

 「神光りあれ」 と言われた後、ある時間の経過の後に光りが生まれたのではないのである。そこに時間は無いのである。

 時間の無いのを 「今」 というのである。神も光りも 「今」 なのである。神に原因されての光りではないのである。神が 「今」 光りそのものなのである。存在するということと神であるということとは實在においては一つなのである。そこには時空のへだたりは存在しないのである。

 神であるからこそ光りであり、光りであるからこその神なのであり、生むものと生み出されるものとの相対関係はないのである。相対そのものが光りではないのである。絶対なるもの、みずからすべてのすべてなるものを光りというのである。それ故、 「光明化運動」 は渾ての渾てなのである。即ち神なのである。(1998.9.1)

77復興G:2013/08/22(木) 00:05:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十四

 「写経」 というのがあり、入龍宮幽斎殿に於いて聖経の筆写が行われているのであるが、生命の本当の姿の鳴りひびきを筆写され給うた、その第一、最大の写経なるものが、聖典 『生命の實相』 であり、聖経 『甘露の法雨』 ほかの生長の家の聖典であると言わなければならないのである。

 それ故、この筆写なるものと出逢う時、こちらもまた写経したくなるのである。聖典、聖経は、他人(ひと)ごとではなく、自分自身そのものであるからなのである。

 生きとし生けるものとして生かされてあることが先であって、その生かされている姿を写し給うて歌われたのが 「招神歌(かみよびうた)」 なのである。事実が先であって、それが写されるのである。

 雨が降るから傘をさすのである。傘をさすから雨が降るのではないのである。雨にもよおされて傘が開くのである。完全円満平等遍満の實相生命がはじめのはじめから、既に、今ここに輝いているのが先であって、それを讃え給うているのが聖典聖経なのである。

 呼吸も、久遠の流れ入りがありつづけているから吸うのである。流れ入るから吸うのであって、吸うから流れ入るのではないのである。 「神の無限の生かす力吾が内に流れ入るのを観(み)つめ観送る」 ということは、自分ならざる、はじめのはじめからありつづけている流れ入りの相(すがた)の消息なのである。

 神想観は観法なのである。観(かん)ずることの出来るのは、既に在るからなのである。在るのは、はじめのはじめより神によりて在るのである。即ち、すべては生かされて在るのである。それ故に、観法は感謝なのである。神想観の結論は感謝である、ということは、観法であることの意味をもつのである。

 その感謝から、よろこびに満ち、光りに満ちて、コトバを創造的に発する時、 「祈り」 即ち 「命宣(いのり)」 となるのである。その故に、神想観は 「観法」 であると同時に 「祈り」 であると言われているのである。

 感謝はすでに在(あ)るものを味わうこと観ずることによってのみ起こるのであるから、ノイローゼは感謝が出来た時、既に無いのである。ノイローゼは本来無いものを相手にする姿であるから、感謝が起きたとき、在るものにふれ、地に足がついたことになるからである。

 即ち、 「生長の家人類光明化運動」 は、實相なるものの上に立った 「観」 なるものを基(もとい)としていることによって、ただ単なる世界の時勢への取り越し苦労ではなく、一瞬一瞬みのりのある歩を進めているところの荘厳な相(すがた)となっているのである。 「愛行は虚(むな)しからず」 ということである。

 斯くの如く、 「観」 なるものを基としないとき、その行は、釈尊の宣り給うた如く、 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 の行となってしまうのである。生長の家では 「招神歌」 を唱える時、すでに實(じつ)のある真行となっているのである。

 生長の家の観からすれば、中身なる實相(まこと)が先にあって、實相(まこと)が、みずからおのずから顕れ出て来て行となっているのである。

 「實相円満完全」 と唱える時、實在なる實相の円満完全なる中身が先であり、その円満完全なる實相がみずから、おのずから顕れて 「實相円満完全」 と鳴りひびいて輝いているのである。

 如何にすれば、行(ぎょう)にそして人類光明化運動に 「まこと」 がこもるかということは、まことに尊くもある重大なる、且(か)つ厳粛なるテーマであると言わなければならないのである。(1998.9.2)

78復興G:2013/08/23(金) 07:02:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十五

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚する」 とは、自性(じしょう)円満なるもの、そのままえんまんなるものにとっては、そこにある 「自覚」 とは、自性円満なるものの中にすでにあるものの自己展開したものでなければならないのである。

「自発的」 という場合の 「自発」 なるものは、自性円満なるものの、自(みずか)らの展開ということでなければならないのである。

 ひと昔、後に本部理事長をされた山口悌治(やすはる)先生は 「自発的活動態勢」 という言葉をよく使われたものであった。

 この 「自発」 というものが生命の實相の 「自性(じしょう)」 ということであったのである。その自性円満を自覚するところに神癒なるものが存するのであれば、 「自発的活動態勢」 と仮に言うとすれば、それは神癒の展開としての人類光明化運動から出て来た言葉であったと言うことになるのである。

 自発なるものは、求めるのではなく与える相(すがた)なのである。与える生活ということの根本は、外に求めることの要らない存在、ということが根拠となっているのである。ここに奉仕ということの根拠があるのである。自性円満なるものこそ与えるということそのものの相(すがた)なのである。

 これから何をするしないの前に、今、存在していること自体が与えている存在なのが自性円満ということなのである。

 「光明化運動」 的に表現すれば、存在していること自体が “世の光り” であるということなのである。いわゆる 「聖使命」 の 「聖」 なる存在、 「ひじり」 即ち 「日がいちじるしく輝いている相(すがた)」 なのである。そのいのちを拝んでつけられたのが 「聖使命」 なのである。それが實相であり、實相のみの世界なのである。

 そのいのちは、神からさえ求める必要のない存在なのである。吾が内に神あり、神の内に吾れ在り、吾れはすべてのすべてであるところの存在なのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 なる龍宮観において、創造の本源世界、龍宮海の龍宮城が自分の内にすっぽりと入っていることを観ずる場所である入龍宮幽斎殿的見方をすれば、宇治というのは宇宙を治めるということではなく、 “宇宙が既に、自分の内に治(おさ)まっている” ということを観ずるところが、宇治別格本山の入龍宮幽斎殿であるということなのである。創造とは与えることそのものである。その本源が自分の中にすっぽりと治まっているのである。

 至大無外、至小無内なる全實在宇宙が吾が内に在(あ)りというものこそ、聖なるものであり、与えるものであり、自立なるものであり、自足なるものであり、奉仕なるものなのである。それが自発の自発なるものなのである。

 「自覚」 とは、自(おの)ずから覚める、と書かれているのである。自性円満、そのままでえんまんなるものが、みずから覚めるとは、自己展開することである。それ故、自性円満なるものが自覚そのものなのである。

 自覚とは時間を要する遠いところにあるのではないのである。みずからの自性円満の實相こそが自覚そのものなのである。

 イザナギの命(みこと)が實相の世界で禊ぎ祓いをされ給うたというのは、自性円満の實相そのものを自覚し給うたこと、即ち、自性円満の實相なるものがみずから展開したことを意味しているのである。

 イザナギの命の自性円満なる實相が自己展開して天照大御神となり、住吉大御神となり、塩椎大御神となり、 「生長の家人類光明化運動」 となっているのであり、これらは一つの相(すがた)なのである。

これらはすべて自性円満なる實相の自覚の相(すがた)、すなわち神癒なるものの相なのである。自分自身のことなのである。これすべて、入龍宮出龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうしゅつりゅうぐうふかしぎ)の境涯なのである。(1998.9.3)

79復興G:2013/08/24(土) 08:14:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十六

「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ。只今神癒祈願(しんゆきがん)申し込み中の方々に、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚せしめ給いて、神癒を実現せしめ給え」

 と、自分は神癒を祈る時に唱えることにしている。

 それは 『生命の實相』 第一巻の本論の冒頭に

「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

 と書かれているからである。あらゆる神の癒しという癒しはすべて、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚することによって実現しているのである。

 自性円満の自覚によるのであって、不完全の自覚、罪の自覚によってではないのである。

 神癒の展開として生長の家人類光明化運動がある以上は、生命の自性円満の自覚運動であるのがこの運動なのである。

 そのままでえんまんなこと(自性円満)の自覚のひろまることが、光明化運動(自性円満)がひろまることなのである。

 實相の自性円満はそのままでえんまんなことにおいて、自ら目覚めて自覚となって展開し、一切の光明化運動の相(すがた)となって花咲いているのである。

 自性円満の自覚と言えども、その自覚も神が為し給うのである。實相の自性円満とは神であり給うことである故に、人間力の入る余地はいずこにもないのである。

 神自(みずか)らの目覚めとしての自覚として神癒があり、人類光明化運動がありつづけているのである。その自覚は久遠の昔から在りつづけている久遠の自覚なのである。

 久遠を流るるいのちの自覚こそ久遠の生長の家人類光明化運動なのである。神がおはじめになった運動とはこのことである。神は渾(すべ)ての渾てにましますが故に、自分の全く要(い)らないのが、神がおはじめになった運動なのである。

 既に完成している實相なるものの運動である時、はじめて、はじめのはじめから自分というものは消えている運動となっているのである。

 自分がいて、自分が支えてやらなければならない、というような運動は、我(が)の運動であって、神の運動、感謝の運動ではないのである。それはもともと無い運動だったのである。そんな運動であったためしのないのが生長の家人類光明化運動なのである。いのちが久遠に流るる運動なのである。

 生長の家の運動は感謝の運動であるということは、神がすべてのすべてであり給う運動であるということなのである。

 それはまた、神癒の運動であるということにおいて、神が癒しそのものである運動であって、ここにもまた自分の必要はどこにもないのである。

 自分なるものは未(いま)だかつて生長の家の運動をしたことは一度もなかったのである。自分そのものが無いからである。

生長の家の人類光明化運動は、天地(あめつち)の初発(はじめ)の時のまま、 「今」 をはじめとする天地(あめつち)のはじめに、神と偕(とも)にあったそのままの相(すがた)で、今ここに輝きつづけ、広がりつづけなのである。

 久遠を流るるいのちの 久遠を流るる人類光明化運動よ。(1998.9.4)

80復興G:2013/08/25(日) 07:25:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十七

 大調和という時、あるいは大懺悔(だいざんげ)、あるいは大祭(たいさい)等々という時、 「大」 とは何を意味しているのであるか。

 それは神が為し給う、神によりて在(あ)り給うところの自分の要(い)らない消息を意味しているのである。それ故、はじめのはじめから在るものであり、途中から決して無くなることのないことを意味しているのである。

 神によりて在るところの懺悔とは如何なるものであるか。神は罪を犯し給わない故に、暗(やみ)なる罪を消すという意味での懺悔というものはあり得ないことであるが故に、大懺悔とは、光りが光りすることでしか有り得ないのである。それを仏教では 「無罪相(むざいそう)懺悔」 ともいい、また 「荘厳(そうごん)懺悔」 とも言い、 「破壊心識(はえしんしき)」 ともよんでいるのである。

 「罪は無い」 ということが無罪相懺悔なのである。罪自身が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りであり、そこにはただただ神のみが渾(すべ)ての渾てなる荘厳なる相(すがた)があるばかりであるが故に、 「荘厳懺悔」 と言うのである。

 「破壊心識」 とは、心識すなわち自我意識がみずから無いと、みずからを破壊して、消え切りの澄み切りであり、神のみ渾ての渾てである相(すがた)である。即ち、これ大なるもの神なるもののみであるが故に、大懺悔と言うのである。

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」 とは、大懺悔中の大懺悔であり、全宇宙そのものの大懺悔であると言えるのである。

 その大懺悔のはたらきが住吉大神となってあらわれて、神癒の展開としての生長の家人類光明化運動となっているのである。それ故、生長の家人類光明化運動は宇宙みずからの大懺悔運動であると言わなければならないのである。

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 とは大宇宙みずから、住吉大御神みずからが為し給う祈りであり、みずから為し給う大懺悔であり、大宇宙みずからの輝く鳴りひびきとして 「アーオーウーエーイー」 が唱えられているのである。

 「住吉大神宇宙を浄め給う」 と唱えている時、住吉大御神ご自身が自分となり、この声となって鳴りひびいてい給うということなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は生長の家の大神、それ自体のみずからおのずからなる自己展開として輝き、ひろがっているのである。

 「宇宙を浄め給う」 と言えども、大宇宙みずからの大懺悔であり、大宇宙みずからの禊ぎ祓いなのである。それ故 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出(い)でましぬ」 であり、大宇宙それ自体が天照大御神それ自体の相(すがた)となっているのである。大宇宙それ自体の天照大御神的甦りのはたらきが、住吉大御神の宇宙浄めの御はたらきとなっているのである。

 宇宙の大神イザナギの命(みこと)と天照大御神と住吉大御神は三つの呼び方による一つなる神にましますのである。

 これらは斯(か)く書きたくなったというだけのことであって、なにか内から覚めるようにして湧いて来る想いなのである。覚え書きというのは、外のものを覚えるためのメモであると同時に、内なるものの目覚めとして書きたくなったもの、というほどの意味合いなのかと想いつつ書きつらねている次第であって、あまり深い理由、証拠というものによって書いているのではないのである。(1998.9.5)

81復興G:2013/08/26(月) 07:31:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十八

 「大光明」 という言葉はあるであろう。 「大光明」 とは神である光明ということである。 「神 光りあれと言い給いければ光りありき」 と何故神は言葉したくなられ給うたのであるか。神が光りであり給うからなのである。光りである神の自己展開としてその言葉はあるのである。

 神が 「光りあれ」 と宣(の)り給うまでは、それまでは光りは存在しなかった、ということはどうしても想えないのである。何故ならば、はじめのはじめから在りて在るものを光りと言っているからである。はじめのはじめを光りと言っているからであり、神を光りと言っているからである。

 これは光り自体が 「私は無いのである」 と光りみずからの消え切りの澄み切りの、神のみ渾(すべ)ての渾てであるが故に光りであることの表現なのである。光りみずからが死に切っており、また、この聖書の言葉を書いたものも死に切って、神のみ渾ての渾てなることを表現しているのである。

 それ故 「大光明」 とは 「光明」 みずからの消え切りであるが故に、 「大」 のみ渾ての渾てであり、その意味において 「大光明」 とは神そのものなのである。

 「神は光りであり、光りは神である」 という場合は 「大光明」 のことを意味しているのである。

 これは光りみずからの禊(みそ)ぎ祓(はら)いということが出来るのである。生長の家人類光明化運動も 「神、今起て!! と言い給いければ、生長の家人類光明化運動ありき」 という時は、生長の家人類光明化運動のみずからの消え切り、澄み切りの、よろこびの輝きの充満を意味しているのであり、生長の家人類光明化運動みずからの禊ぎ祓いを意味しているのである。

 「今起て!!」 とは 「今なる汝よ、起て!!」 ということであったのである。この今は久遠(くおん)の今であり、渾ての渾てなる、はじめのはじめなる今であるが故に、大聖師谷口雅春先生は今そのものであり給い、その今なるものに天降った言葉であったのである。

 今はすべてのすべてであるが故に、生長の家人類光明化運動もまた今そのものであり、 「今なる生長の家人類光明化運動よ、起て!!」 ということであったのである。今と大聖師と生長の家人類光明化運動とはひとつであるのである。吾れと今とこことがひとつである久遠の今において、大聖師と生長の家人類光明化運動と自分とはひとつなのである。

 無の門関に坐して、時空超脱(じくうちょうだつ)の目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)に乗るとはこのことなのである。

 生長の家に天降(あまくだ)った 「神示」 は数多くあって、これを拝誦(はいしょう)することはまことに尊いことであるが、 「神示」 は神が直接示したもうているのだから一番、神に近いのであるという見方だけで、他の聖典と区別して、近道を行くというようなことはまことに勿体(もったい)ないことなのである。

 生長の家の 「神示」 の尊いゆえんは、その神が自分である、ということが言い切れるところにあるのである。

 時空超脱、久遠の今なる實相において、神とひとつであることを説いて下さっているのが 『生命の實相』 その他の聖典、聖経なのである。久遠の今において、 「神示」 も聖典も聖経もひとつなのである。唯神(ゆいしん)實相の哲学によって、ひとつなることが解き明かされているのである。聖典も聖経もまた神に導かれて書かれたものであり、神が書き給うたことにおいて 「神示」 なのであり、大聖師そのものも久遠の今として立ち給うているのである。

 また、大聖師は、自分を取りまく天地一切、山も川も草も木も、風の音も山の色も有情非情(うじょうひじょう)すべては観世音菩薩すなわち尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の説法であると説示されているのである。それ故、吾れを取り巻く天地一切万物の姿そのものが 「神示」 そのものであるということが出来るのである。天地一切万物が大光明であるということである。(1998.9.6)

82復興G:2013/08/27(火) 06:14:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十九

 「蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)」 なる神想観において、 「吾れ観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しようけん)し、一切の苦厄(くやく)を度(ど)す」 と唱えたあと、

 「虚空(こくう)中に宇宙大の大日輪(だいにちりん)浮ぶ。光明遍照(こうみょうへんじょう)實相世界ここなり 〈と念じ大日輪が宇宙一杯に充満せる有様を観じ更にその大日輪中に千葉(せんよう)の蓮華(れんげ)が開花せる姿を観じ〉ここ蓮華蔵(れんげぞう)世界なり 〈と念じて、その花の中心上に観世音菩薩の坐っている姿を心に描き〉 この菩薩は自分自身なり」

 と念ずるのである。この菩薩がだんだんと近づいて来て自分とひとつに重なることを観ずることが大切であると書かれているのである。

 この宇宙大の大日輪(だいにちりん)の中心に蓮華の中心に坐している観世音菩薩は天地万物一切のことごとくの一つ一つのものであり、それがそのまま尽十方無碍光如来なのである。

 観世音菩薩は斯くの如きすがたにおいて観世音菩薩なのである。観世音菩薩は祝福礼拝の姿にましますのである。

 神に対して反省させてやろうという事件は有り得ないのである。どのようにして祝福し礼拝しようかという事件しか有り得ないのである。それ故、自分を取り巻くすべてが観世音菩薩にましますということは、神の子たる實相身に対しては祝福礼拝のための姿であることしか有り得ないということなのである。

 神癒祈願をする私に対して、申込者はすべて観世音菩薩であり、宇宙の中心坐に在(ま)します尽十方無碍光如来にましますのである。神癒祈願申込者の名簿は、尽十方無碍光如来の名簿であるということなのである。

 このように観じさせて頂くとき、申込者からの悪念波を受けるなどということは決して有り得ないことなのである。

 人類を光明化するという時、すべてのものは観世音菩薩であり、尽十方無碍光如来にましますのであるから、 「異類中行」 ではなく、光における、 「同類中行」 であり、同類どころではなく光りなる “ひとつ” なるすがたを生くるのみなのである。


  人間は光の子にして常に光の中にあれば
  暗きを知らず、
  躓き(つまず)を知らず、
  罣礙(さわり)を知らず、
  かの天人が天界を遊行するが如く
  また海魚が水中を游泳するが如く
  光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。

 天地万物のすべては宇宙の中心に坐する重無礙(じゅうむげ)の存在であり、中心とは渾(すべ)ての渾てなることを意味しているのである。

 斯くの如く観ずる時、そこにすべてが坐(ま)しますのであるから、最早(もは)や吾れが彼に対して光明化運動をするという相対的な姿ではなくなっているのである。このようなすがたを光りのすがたといい、光明化運動の光明とはこの “ひかり” のことを意味しているのである。

 この宇宙大の大日輪は自分の内にあり、同時にその宇宙大の大日輪の中心に観世音菩薩が坐し給い、その観世音菩薩の中にまた宇宙大の大日輪があるのである。重限無礙(むげ)同時現成なのである。

 全宇宙を光明化すると言えども、その全宇宙は自分の内にあるのである。自分と宇宙との分裂相対は無いのである。

 畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)が光明遍照の實相の世界に禊ぎ祓い給いて、その宇宙浄化の御はたらき顕れて住吉大御神となり給い、宇宙浄め終りて天照大御神出でましぬ、と言えども、これすべて吾が内なる神の国の消息なのである。

 吾が内なる神の国とは高天原(たかあまはら)のことであり、全宇宙も、イザナギの命(みこと)も、住吉大御神も、天照大御神もすべて吾が内なる實相世界のことなのである。しかも同時に、その内の内に自分があるのである。同時現成なのである。この實相の消息の上に立って行なわれるのが道元禅師の言われた 「証上(しょうじょう)の修(しゅう)」 ということなのである。生長の家の人類光明化運動もまた、証上の修の姿として輝いているのである。(1998.9.7)

83復興G:2013/08/28(水) 03:53:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十

 生長の家の出現は宇宙はじまって以来の荘厳である、と想わず心に叫んだ人があった。まことに羨(うらや)ましい限りである。

 この人は、宇宙はじまる以前、宇宙以前を言ったのであろう。宇宙を宇宙たらしめているもの、創造なるものの根源なるもの、即ち神を神たらしめたのが生長の家の唯神(ゆいしん)實相哲学であることをかい間観たにちがいないのである。この人の眼は実に、観るべからざるものを観てしまった、幽の幽なるものは観ること能わざるものにちがいないのに、それを観てしまった、神が神であるその全荘厳をのぞいてしまったという眼をしておられたのを想い出すのである。

 イザナギの命(みこと)が、イザナミの命の姿を見てはならないという言葉に反して見てしまった、その、のぞくべからざるものをのぞいてしまった時の眼はどのようなものであっただろうという想いに誘っていくその人の眼であった。そして、その眼は、暗(やみ)をのぞいたのではなく、光りの光りをのぞいてしまった眼であったのである。

 「今という不思議の光りを観た」 とその人は言っていた。

 過去、現在、未来、因縁、時空超脱の 「久遠の今」 こそ今という今なのである。

 今即久遠(いまそくくおん)、久遠即今(くおんそくいま)である。今という光りは久遠なる光りであり、光りである久遠であり、渾(すべ)ての渾てなる光りであったのである。

 その人の言った 「不思議の光り」 というこの不思議とは 「入龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうふかしぎ)」 の不可思議である。この久遠の今、今という不思議の光りなる生長の家の哲学によって多くの奇蹟的治癒がその人の周囲にもたらされたことは 『生命の實相』 にあまりにも有名である。そのことによって純粋宗教の部門として生長の家本部に 「神癒祈願部」 が開設された時の初代の部長となられたのであった。

 今という不思議の光りが、どのようにかかわって人々に神癒をもたらしたか、そのメカニズムははかり知り難いが、時空超脱(じくうちょうだつ)の今が實相であり、神そのものであること、その光りを伝えることによってもたらされた癒しは、まことに神癒と言える神癒であったことだけは疑いようのないことだと言えるのである。

 「今なる不思議の光り」 によって神癒がもたらされたということは、大聖師谷口雅春先生が 「今起て!!」 という不思議の御声によってはじまった生長の家の人類光明化運動であることを想えば、それに救われ、共鳴されたこの人が 「今という不思議の光り」 によって癒しをもたらして行ったということはまことに生長の家人として自然きわまりないことであると言わざるを得ないであろう。

 時間未(いま)だ発せず、空間未だ発せず、一切万象(ばんしょう)発生の枢機(すうき)を把(にぎ)る久遠の今、創造の本源世界を説き給うたのが 「入龍宮不可思議境涯録」 という名前がつけられたこ文章で聖典の中におさめられているのである。そして、

 生長の家の哲学の中で最も重要な哲学が 「今の哲学」 であるとも説かれているのである。神癒の部門である純粋宗教部門が 「今の哲学」 によってはじまっているということは、 「今」 という不思議の光りこそが純粋ということの本体であるということを意味していると拝察させて頂くのである。

http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes

 一方、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)の自覚によって神癒がもたらされるのであれば、生命の實相とは 「久遠の今」 ということであるということになるのである。

 神癒の展開としての人類光明化運動が 「今起て!!」 ということによって、 「今」 なるものが起(た)ったことであることの不思議を想うのである。(その人とは服部仁郎先生のことであり、この弟子のことは 「弟子像Ⅰ」 として拙著 『弟子像』 中に書きとめてあり)(1998.9.8)

84復興G:2013/08/29(木) 07:08:05 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十一

 神想観において、神の無限の生かす力が光り輝くものとなって吾が内に流れ入り、満ち満つることを観つめ観送(みおく)るように観(かん)ずることが教えられているのである。これは自分は全く要(い)らない、それみずから實在する實相であるから可能なのである。観送(みおく)るとはもはや自分でない自分、観るものなくして観じ、吸うものなくして流れ入るところの自我不要の消息なのである。

 人類光明化運動の進展を観ずるのも、これと同じすがたでなければならないということである。観つめ、観送ることの出来る久遠の昔より在りつづけ、進みつづけの實在なる實相なる生長の家人類光明化運動なるものとして観じ得なければならないのである。

 それは、呼吸みずからの呼吸である。それは運動みずからの運動である。生きものとしての呼吸であり、生きものとしての運動である。

 「今、光明燦然(こうみょうさんぜん)として人類光明化運動の聖旗は輝きながら我等の前を進み行くのである。……」

 という大聖師から発せられた言葉は、言葉それ自体が實在の實体を有して、それみずからが進展する生きものであり、神であるのである。

 大聖師には厳然として、この人類光明化運動の實在なる進展のすがたが観つめ、観送られ、拝まれているのである。それが神がおはじめになった、神の運動であり、神なる運動の相(すがた)なのである。豊雲野神(とよくもぬのかみ)の相(すがた)として、進展、拡大きわまりなき、豊かなる進展の相として観つめ観送られているのである。それは観送るものなくして観送るところの、運動それみずからの観送られている相(すがた)であるが故に、澄み切りの相、浄まり切りの相なのである。

 大聖師は澄み切りの生活を、無色透明の生活と表現され給うことがあるが、この観つめ観送られるところの人類光明化運動とは無色透明の人類光明化運動なのである。

 それは真空にして妙有(みょうう)なる運動なのである。真空にして尽十方無礙(じんじっぽうむげ)なる相(すがた)を展開するところの妙々不可思議のはたらきなのである。忽然(こつねん)として生まれ出でるところの展開の相(すがた)なのである。

 忽然といえども神にとっては無限時間の余裕のあるすがたなのである。そのような相として神の中に神によって観つめ観送られているのが生長の家の人類光明化運動の姿なのである。

 「生命は生を知って死を知らず」 と聖経 『甘露の法雨』 には録(しる)されているのである。生長の家の人類光明化運動なるものは、生長を知って後退を知らないのである。進展伸展あるのみなのである。このことが神によって観つめ観送られているのである。

 神想観は、神を想い観ると同時に、神が想い観じ給うのである。生長の家人類光明化運動は生長の家なるものそのものが運動し給うのである。それ故、神とは何か、生長の家とは何かということがすべてのすべてとなって来るのである。

 渾(すべ)ての渾てなるものを神と言い、渾ての渾てなるものを生長の家というのである。それ故、生長の家は 「完成の教え」 となっているのである。 「完成の教え」 とは 「完成なる教え」 ということである。完成を教えるのではなく、完成そのもの、渾ての渾てであるのが生長の家なのである。

 生長の家人類光明化運動とは、完成なるものの、渾ての渾てなるものの運動であればこそ、澄み切りの澄み切りに明るいのである。(1998.9.9)

85復興G:2013/08/30(金) 07:33:00 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十二

 練成会では、神想観練習というのがある。しかし、練習と本番との境はどこにあるのであろうか。祈りには一体練習というものがあるのであろうか。

 生命から見れば、練習というものはないのである。そこには厳粛きわまりなき、神なるいのちが輝き、持続しているばかりである。

 練習で咲いている花はあるだろうか。練習で動いている心臓はあるであろうか。神は天地創造をするにあたってリハーサルをされたとはどうしても想えないのであって、いのちの宣べる 「命宣(いのり)」 には練習はないと言わざるを得ないであろう。

 さて、それでは、練習と本番(実修)とはどう違うのであるか。それはやはりコトバによる宣言にあるということになるであろう。

 司会が出て来て、

 「只今から神想観の練習をします」

 と宣言すれば、それは練習なのであり、

 「只今から、神想観の實修をいたします」

 と宣言すればそれは實修(本番)なのである。

 すべて、自分ではないということである。實修は書かれた字の通り、實修の實は實相ということであり、神ということなのである。即ち神・實相はまことであり、本番そのものであり.完成そのものなのである。

 神によって生かされているということは、本番が生きているということなのである。

 「實修します」

 という言葉が天降った時、はじめての人だろうが、練習中の人だろうが、その時知っていること、出来ることが、そのまま本番なのである。はじめての人が他のやっていることを見よう見まねをしようが、それ以上知りすぎても、出来すぎてもいけないのであって、本番とは神によってあるということであって、自分で選んで、自分で行っているのではないのである。

 すべて自分ではないのである。練成でも、 「こんなに素晴らしいのだったら、もっと早く来ればよかった」 と言ってよろこんで下さる方が居るということは有り難いことであるが、しかし、自分で選んで来たのではないのである。一秒早くても、一秒遅くてもいけないのであって、神なる本番に生かされて、本番が来られたのである。

 また、集まりにおいても、司会が、

 「ただ今から、はじめます」

 と宣言したならば、その時点において、一人多くても、一人少なくてもいけないのであって、人間が選んだものではない、そこに本番そのものが天降っているということなのである。ただただ、神、渾(すべ)ての渾て、本番がそこにあるのであって、未来への手段、過程としての姿ではないということなのである。ここに生長の家の集まりが今、明るいもの、感謝に満ちているすがたがあるのである。

 「新しい世紀は祈りの世紀」 という言葉を神想観中に聴いたような気がしたが、ここまで書いて来たことは、結局 「祈ってもよいのだ」 「神想観してもよいのだ」 「聖典をよんでもよいのだ」 「愛行(あいぎょう)してもよいのだ」 ということであったのではないか。今、ここにすべてのすべてがある、ということである。本番そのものである、ということである。

 自分は要らないのである。神のみなのである。神はすべてのすべてであって、分裂はないのである。神想観していても、聖典読誦していても、愛行していても、部分をやっているのではないということである。それは決して、他を後にして自分が先に渡ろうとしている姿ではないということである。

 「吾が内に神が今ここに、そして天国が今ここにある」 (『日々読誦(にちにちとくじゅ)三十章経』)

 ととなえるのが最大最高の祈りであるとされているゆえんである。(1998.9.10)

86復興G:2013/08/31(土) 07:07:17 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十三

 「最早(もは)や人間の力では及ばぬ。神に直接お出まし願う」

 ということが主旨主願となって建立されたのが龍宮住吉本宮であった。

 神、實相は円満完全であるが故に、ご自分みずからに顕現する権能(ちから)を具有(ぐゆう)してい給うという。もっともはじめにして最大の神への尊敬、全托(ぜんたく)の美しさを顕わす象徴として建立されたと拝察されるのである。

 宇宙の大神イザナギの命(みこと)の宇宙浄化の御はたらきが住吉大御神となってあらわれられたそのままの霊なる働きが生長の家人類光明化運動となっているのである。そこには人間の力はどこにも無いのである。中身は、宇宙の本体であるイザナギの命であり給い、住吉大御神であるのが、生長の家人類光明化運動なのである。

 生長の家人類光明化運動と書いて、イザナギの大御神と読んでもよく、住吉大御神と読んでもよいのである。

 またそのことを潜在意識にたたき込むという必要はないのである。潜在意識は無い、と浄め終わったのが生長の家なのである。

 實相が自己展開して、教えとなり、諸々の行となっているのであって、自己展開には相手はいらないのである。

 實相の円満完全を自分の心に納得させるとか、潜在意識を相手にたたき込みをやるとかいうことの全く要らないのが、實相ということであり、それであればこそ、まことに實相は円満完全と言えるのである、というこのことは、まことに何度繰り返しても繰り返し足りない嬉しさであるのである。

 嬉しさとは如何に自分が要らないか、ということなのである。 「最早や吾れ生くるに非ず、生長の家人類光明化運動ここに在りて生き給うなり」 というのが、 「よろこびの光明化運動」 ということの中身なのである。

 生長の家人類光明化運動が神そのものであるということは、 「生長の家人類光明化運動よ、あなたのみ心の如く生かし給え」 ということでなければならないのである。

 神は渾(すべ)ての渾て、生長の家人類光明化運動は渾ての渾てということである。光明化運動は自己展開あるのみなのである。

 斯くの如きことを今私は自分の潜在意識にたたき込んでいるのではないのである。生長の家人類光明化運動が今ペンとなって輝いて顕(あらわ)れて動いているのである。光明化運動が全身となり、呼吸となって輝いているのである。

 「自分が光明化運動をする」 ということは、要らないことであり、有り得ないことなのである。

 「生長の家人類光明化運動の運動方針」 の一字一字は、神の自己展開であり、延長であり、神そのものなのである。

 神癒祈願の人型の 「實相円満」 と書かれているのは、その言葉を潜在意識にたたき込むためのものではないのである。

 實相円満なるものが、みずから顕れてその文字となって輝いているのである。

 實相はみずから實相するのみである。 「實相を實相たらしめよ」 という、きわめて自然きわまりなき姿であり、そこには祈る方にも祈りを受ける方にも自分は要らないのである。

 それ故、ただただ實相円満の光りにあずかるのが神癒祈願であり、受ける人の過去の心の成績や、先祖の成績を調べるなどということはなく、ただただ實相のそのまま円満を受くるのみなのである。

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」 を自覚した時に神癒となるという、ただただ實相を實相たらしめよ、というみ教えのひろがりがあるのみなのである。これが實相の成就ということなのである。(1998.9.11)

87復興G:2013/09/01(日) 05:05:20 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十四

 「時間を生かせ」 という大切中の大切なる言葉がある。何故大切であるか。それはまことには私が時間を生かすのではなく、時間は神が私に与え給うた自己表現のための愛念そのものであって、時間が私を生かすのである。それ故に、時間を生かすことは、愛を受けて、神の愛によって生かされることにほかならないのである。

 時間を生かせということと同じ意味において、空間を生かすということは、空間が私を生かして下さる、その神の愛に包まれ、浴することにほかならなかったのである。

 時間というものは、こちらの都合で生かすも殺すも勝手次第というようなものではないのである。神の愛は久遠不滅であって、生かすほかはないのである。生かされるほかは無いのである。このように観ずることが 「時間を生かせ」 ということの第一歩なのである。

 「今を生かせ」 というのも同じ意味において尊いかぎりのことなのである。今が渾(すべ)ての渾てであり、渾ての渾てでないものは今ではないのである。これは久遠の今であり、今である久遠なのである。實在なる今ということである。

 そのように今なるものの展開として、今なるものによって在らしめられ、生かされているのであって、そのように観ずることが 「今を生かせ」 あるいは 「今を生きよ」 ということを生きる第一歩なのである。

 斯(か)くの如き意味、相(すがた)において、吾々によって生長の家人類光明化運動があるのではなく、生長の家人類光明化運動によって吾々があるのである。

 光明化運動を生かすも殺すもこちらの勝手次第というようなものでは決してないのである。光明化運動は神そのものであり、不滅であり、生かすほかはなく、吾々もまた生かされるほかは有り得ないのである。

 自分みずから在り、自分みずから顕れるのが光明化運動なのである。光明なるものがみずから運動しているのが光明化運動なのであり、吾々によって光明があるのではないのである。みずから在りて在るものを光明というのである。

 生長の家人類光明化運動に加わりたいとの願いが起こること自体が、既に、はじめのはじめより、久遠の昔より自分の内にある生長の家人類光明化運動なるものが、みずから現れ出て来て、その願いとなって輝いているのである。既に全宇宙、全實在に根をもった生きた芽が出て、その願いとなっているのである。

 これに反して、自分ではじめたという光明化運動は造花の芽のようなものであって、虚(むな)しいものなのである。

 全實在に根をもった生きた芽と、造花の芽との違いは、生きた芽の方は、 “忘れていても伸びている” ということである。

 生命の特徴はみずからの内に伸びる智慧と力とを備えているということである。

 そのような生きものとして生長の家人類光明化運動なるものはあるのである。生長の家人類光明化運動はみずから生長する力を円満具足しているということである。このように観ずることが光明化運動を自分の力でかつがなくなることなのである。

 これが我(が)の要(い)らない、感謝の当体(とうたい)としての生長の家人類光明化運動の輝きなのである。

 全托(ぜんたく)するとは、全てを托すことである。全宇宙を神に托すことが全托ということである。それは自分が要らないという相(すがた)でなければならないのである。全宇宙の光明化を生長の家人類光明化運動それ自身に全托することの出来る道がここにあるのである。(1998.9.12)

88復興G:2013/09/02(月) 07:10:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十五

 「最早(もは)や人間の力では及ばず。神に直接お出まし願う」 という主旨がうたわれて、龍宮住吉本宮のこ造営がはじまった時、生長の家人類光明化運動なるもの、そのものにみずから顕れて頂き、それみずからのはたらきによって人類を光明化して地上天国を顕現していただく、という観方の運動観が唱道された時であったのである。それが顕斎(けんさい)の時代に入ったことを意味していると言ってもよいであろう。

 「招神歌(かみよびうた)」 によって 「吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」 と歌われた時から、既に、はじめより宣言(のりごと)されていたことであったが、このような建立によって、それが心新たにさせられたと拝察するのである。

 機械は外から智慧と力を貰わなければ作動しないから、外からのつながりを切った時が停止した時であるが、赤ちゃんは、臍(へそ)の緒(お)を切って、外とつながらなくなった時、誕生ということになって、生長がはじまるのである。すでに内にすべてが備わっているのが生命であるのである。

 それ故、 「あなたは生長の家に入らなければ救われませんよ」 という扱い方は、相手の人を機械として扱っているということになるのである。

 「あなたの中に全てがあって、あなたの中にはじめからある生長の家が出て来て、生長の家に来られたのですよ」

 という扱い方が、はじめからある生長の家人類光明化運動によって生かされている生命であるとして扱っていること、拝んでいることなのである。

 「他(ひと)からすすめられたように見えていても、すすめられる運命はやはり、あなたの中の生長の家人類光明化運動なるものがみずから展開しているのです」

 ということもまた、生長の家人類光明化運動にすべてを托した観じ方拝み方、祝福の仕方であると言えるのである。

 「宗教によらなければあなたは救われませんよ」

 という扱い方は、外からのものに頼ることであるから、機械として扱っているのであり、

 「あなたは宗教をやってから生まれて来たのではないでしょう。もしも神がいるとすれば、はじめから平等に、完全に生かして下さっているのが自然なことですよ。宗教をやったものは生かすが、宗教をやらないものは生かさないという神がいるとしたら、

 “何故、平等に生んで呉れなかったか” という、不満と裁きと恨みしか出て来ないのですよ。生長の家は感謝の教えであるということは、はじめから平等完全に生かして下さっている神を発見したからなのです。むしろ、今日から “私には宗教は要らなかった” と思っていただく方がうれしいのですよ」

 という表現は、はじめからある生長の家なるもの、人類光明化運動なるものの、みずからなる顕現としての、いのちを拝んでいるということになっているのである。

 解放する運動であるということは、はじめのはじめから在りて在るものが、みずから目覚めてはじまっているということを認めることが出発点となっていることを意味しているのである。

 「神のものは神に」 「生長の家人類光明化運動のものは生長の家人類光明化運動に」 ということである。

 今、生長の家人類光明化運動なるものそのものが、それみずからによってあるべき相(すがた)に甦る時を迎えているのである。(1998.9.13)

89復興G:2013/09/03(火) 06:14:09 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十六

 釈尊が 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 と宣(の)り給うたのは 「運動の成仏」 ということでもあったのである。

 生長の家人類光明化運動はそのまま成仏の相(すがた)なのである。成仏とは成っている仏、鳴りひびいている仏、説法しつづけている仏ということであるから、生長の家人類光明化運動はそのまま仏であり、鳴りつづけであり、神そのものであるのである。

 人類光明化運動そのものに対する合掌の相(すがた)こそ最もふさわしい私たちの相であるということはまことに厳かな有り難さなのである。

 人の手によってはじめられた運動ではないということは、 「人事を尽くして天命を待つ」 ということ以前の運動であるということである。

 「今」 によって起こった運動であるとは、運動そのものが時空超脱であり、因縁を超えて立っている運動であるということなのである。何ものにも依らずして、みずから在りて在る運動であるということである。久遠の今なるものが立った運動であるということである。

 立教とは、教えなるものが自ら立ったということである。真理みずからが立っていることが立教ということなのである。そのまことの立教なるものを大聖師谷口雅春先生は自己の内に拝み給うたのである。

 「生長の家は久遠の昔からある」 ということは 「生長の家の立教は久遠の昔からある」 ということであり、 「生長の家人類光明化運動も久遠の昔から在りつづけである」 ということである。 「天地(あめつち)とともに窮(きわ)まりなかるべし」 とは生長の家人類光明化運動のことであるのである。 「窮まりなし」 とは時空みずからが超脱され、脱落していることなのである。

  人間は光の子にして常に光の中にあれば
  暗きを知らず、
  躓(つまず)きを知らず、
  罣礙(さわり)を知らず、
  かの天人が天界を遊行するが如く
  また、海魚が水中を游泳するが如く
  光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。

 とは、生長の家人類光明化運動の遊行している相(すがた)そのものなのである。

 未(いま)だかつて生長の家人類光明化運動は、暗(やみ)と出逢ったことも、躓(つまず)いたことも、障礙(さわり)をされたことも無いのである。空中遊歩の神人(しんじん)なるものがこの運動なのである。空中とは真(まこと)の無、無の無の無なることそのことなのである。空(くう)なるものが空であるとき、真(まこと)なるものが真(まこと)なのである。真空にして妙有している運動が生長の家人類光明化運動なのである。

 尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の説法の充満そのものが生長の家人類光明化運動なのである。

 この運動は 「今」 起(た)った運動であり、すべてのすべてなるが故に、自分自身のいのちそのものなのである。

 今、ここ、吾れ ひとつに鳴っている久遠なる 「今」 こそ生長の家であり、人類光明化運動なのである。自分の生活において、この運動と自分との分離はどこにも存在しないということは、まことに厳かな事実なのである。神は渾(すべ)ての渾て。生長の家人類光明化運動も渾ての渾て。自分の自分なるものも渾ての渾て。久遠の今なるもの、中(みなか)なるもの、ひとつなるもの、大調和(みすまる)の宇宙(くに)なるものの澄み切りの實相の消息である。(1998.9.14)

90復興G:2013/09/04(水) 05:03:22 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十七

 生長の家人類光明化運動なるものの大實体に生かされている實在の価値創造が神の子の生活なのである。聖書の 「吾ら、つらつら手ざわりしところのものを語る」 というところの實在なる大賞体が生長の家であり、人類光明化運動なのである。

 住吉大御神は浄まりの当体であり給うのである。澄み切りの当体であり給うのである。宇宙浄化なるものの、浄なるものの大實体こそ生長の家人類光明化運動の、 「吾らつらつら手ざわりしところのもの」 なのである。

 無の門関において、すべてを放った時、大實在宇宙が手のひらの上に乗る、という大聖師のお言葉こそ、イザナギの大神=住吉大御神=大實在宇宙=生長の家人類光明化運動なるものの大實体を手ざわりし給うたお言葉であったのである。

 入龍宮幽斎殿における神想観において、龍宮本源において、「一切の宝、吾が掌中(しょうちゅう)にあり」 と感謝することは、如意宝珠(にょいほうじゅ)なる大宇宙大實在=生長の家人類光明化運動の大本体、創造の大實体を掌中に手ざわりしていることの観法となっているのである。

 神の子のいのちは、龍宮の創造の本源たる生長の家人類光明化運動なるものの中に坐すると同時に、創造の大實体なる生長の家人類光明化運動を如意宝珠として.わが掌中に持(じ)しているのである。同時現成なのである。これが 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照……」 の中身であり、生長の家人類光明化運動の光明の相(すがた)なのである。

 その光明化運動の大實体の大なるゆえんは、聖経 『甘露の法雨』 の

  真理
  光明
  智慧
  絶対の愛。

の真理、光明、智慧なる 「絶対の愛」 がこの運動の實体であるからである。絶対なるものを大というのである。

 絶対の愛とはみずから輝いている愛ということであり、在りて在る愛ということである。相手との相対関係によって成り立つ相対の愛ではないということである。みずから愛である愛ということである。

 吾れも知らず、他も知らず、三界(さんがい)に身を現さざるところの、渾(すべ)ての渾てなる澄み切りの絶対の愛が生長の家人類光明化運動の大實体なのである。

 ここに.対立するものなくして、全地上を覆(おお)うところの生長の家人類光明化運動の一つの相(すがた)を拝むのである。

 形にあらわれたるものによらざる光明化運動のひろがりというものをここに拝むのである。

 善悪は別として形によってその大いさを計量しようとすると、どれだけそれがあっても 「それだけか」 ということになってしまうかも知れないのであるが、そうならないのが 「絶対」 なるが故に、幽(ゆう)の幽なると同時に顕(けん)の顕なる、三界に身を現さざるが故に、渾ての渾てなる生長の家人類光明化運動の厳かさをここに拝ませて頂くのである。

 知らない内に、知られない内に、光明がすべてを覆い尽くしてしまっているという、姿、形なき、澄み切りの運動ということである。本当の断食とは、 「物質なし」 を知ることである。形で食物を断つことではないのである。大いに感謝して食するのである。そのように、姿、形なき運動とは、姿、形をとらないということではないのである。 「姿、形なし」 と知ることによって、 「姿これ姿に非ず、是を姿という」 ということであり、 「形これ形に非ず、是を形という」 ということである。(1998.9.15)

91復興G:2013/09/05(木) 05:55:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十八

 普通 「○○運動」 と言えば、目標を未来におき、それを達成してこそ価値を生ずるというものであるが、 「今」 そのものである生長の家人類光明化運動は 「今を生きる」 ことが運動であるのであり、 「今が生きる」 ことが運動そのものであり、価値それ自体が生きることであるのである。

 目的のための手段としての生活ではなく、 「今が渾(すべ)ての渾て」 であることそのことの成就、すなわち 「今」 なる實相が成り就(な)り生きている、完成なるものの純粋なる持続、天国なるものの純粋持続が生長の家であり、人類光明化運動なのである。

「今」 であるということは、神であり、渾ての渾てであるが故に、 「今」 である生長の家人類光明化運動は、吾が内において、

「私は渾ての渾てである」

 とみずから宣(の)り給うているのであり、

 「私は汝そのものである」

 と宣り給い、

 「汝は汝と顕れた私である」

 と宣り給うているのである。また、

 「私はみずから在りて在るものである」

 と宣り給うているのであり、

 「私は汝の内なる創造の本源そのものである」

 と宣り給い、

 「私は渾(すべ)ての渾てなるが故に、自己展開し、みずから顕れる力を円満しているのである」

 と宣り給うているのである。そして、

 「汝は私の生みの子であり、私の世嗣(よつ)ぎであり、渾ての世嗣ぎなのである」

 と宣り給うているのである。

 生長の家人類光明化運動のコトバ現れて一切万物万象となっているのである。生長の家人類光明化運動は實相であり、實相なるコトバ展開して實在の實相世界が展開しているのである。

 ここにおいて道元禅師の言われたごとく、

 「身も心も入れずして、仏の側から行われもてゆく」 ということは 「身も心も入れずして、光明化運動の方から行われもてゆく」 ということとなるのである。

 「身も心も入れずして」 とは、身も心も要らないことであり、身自身、心自身が 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびの、安らかさの輝きに浴することなのである。

 また 「非思量底(ひしりょうてい)を思量する」 ということも、思量みずから 「私は無いのです」 との思量みずからの脱落であり、脱落中を遊歩しているいのちの消息なのである。脱落中を遊行(ゆぎょう)している生長の家人類光明化運動ということである。これは

 光りの中の光りの遊行であって、 「異類中行(いるいちゅうぎょう)」 ということではないのである。生長の家人類光明化運動は光りにおける 「同類中行」 なのであり、法悦(よろこび)の中を法悦が遊行しているのである。

 何故ならば、生長の家人類光明化運動は神であり、渾ての渾てであり 「それ以外にあるものなし」 なるものにとって、異類なるものは無いからである。ひとつなるものにとって異なるものは有り得ないからである。

 ここにおいて、光りにおける同類の集りである 「誌友会」 なるものが如何に尊くも素晴らしきものであるか、ということが心新たに想われて来ざるを得ないのである。

 光りとは何か。光りとははじめのはじめからあるところのよろこばしき全て、ということである。はじめのはじめからある光りなるものを生長の家人類光明化運動というのである。

 人々は光りとして、内在の生長の家人類光明化運動なるものそのものとして誌友会に 「行ってみよう」 という願いを起こすのである。それを、はじめての人にも、既に来ている人にも、すべての人々について拝んでいるのが 「誌友会」 なのである。( 『誌友会についての所感』 別冊子参照)(1998.9.16)

92復興G:2013/09/06(金) 06:31:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十九

 何が光明化運動であるか。どうすることが光明化運動となるのであるか。そう問う前に 「今」 「自分」 「生長の家人類光明化運動」 が “ひとつ” であるということである。自分なる存在そのものが光明化運動そのものであるのであるから、

 太陽が行けば、何処(どこ)も彼処(かしこ)も昼であるように、自分なるものが行けば何処も彼処も光明化運動ばかりなのである。

 「光明化運動とはあなたのことであり、あなたのすべてが光明化運動なのです」

 と言い切れているのがこのみ教えなのである。それ故、 「この運動に協力せよ」 ではないのである。

 「あなたがますます、あなたらしく」

 ということがあるばかりなのである。

 「光明化運動は光明化運動らしく」

 ということがあるのみでよいのである。

 神は神らしくあるそのままであり給うのである。ただただ、天然、法然、自然、当然、本然であり、忽然(こつねん)忽然現成(げんじょう)あるのみなのである。忽然とは無原因ということである。

 忽然なるものには歴史的背景などというものは無いのであり、要らないのである。

 忽然の 「忽」 とは 「心に勿(なか)れ」 と書かれているのであり、非思量底であり、心によって認識投影された時間空間無きこと、現象無きことが忽然ということなのである。

「忽然忽然光明現成」 が生長の家人類光明化運動なのである。目無堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗って行われているのが生長の家人類光明化運動なのである。

 「未(いま)だかつて實相を観たものは無いのである」 と大聖師のおコトバは鳴り響いているのである。それは幽の幽なるものであり、不可思議の不可思議なるものであり、妙(みょう)の妙なるものであり、みずからの消え切りの澄み切りであるからである。そして、その相(すがた)なるが故に、観るものと観られるものとの分離はなく、目無堅間である故に、観るということそのことが無いのである。それは自分そのものであるからなのである。

 それと同じ意味において、 「未だかつて生長の家人類光明化運動そのものを観たものはないのである」 ということなのである。三界に身を現さざる澄み切りの光明であるからである。このような消息において、生長の家人類光明化運動はそれらしく、ということなのである。それ自身光明であるものにとっては、陰影も背景も要らないのである。

 観じられることによって現れるという 「観じる」 という前景も要らないのである。忽然現成なのである。忽然忽然現成の純粋なる創造的持続が光明化運動の 「運動」 というものなのである。

 これが 「生長の家人類光明化運動は生長の家人類光明化運動らしく」 という相(すがた)なのである。それはそれをそのまま生きている相(すがた)なのである。それを 「そのまま」 というのである。手段のための運動ではないということである。それ自身がそれ自身である運動ということである。

 「……のための」 ということから解放されたよろこびとしての光りの運動なるものの消息である。これは現象人間のよくする相(すがた)ではなく、現象運動のよくする運動ではないということである。 「天より天降った火だ!!」 と大聖師が宣(の)り給うている實相なるものとしての火であり、光明ということである。世の常ならぬ運動とはこのことである。

 「……のための運動」 ではなく 「運動それ自身」 の成就としての運動ということである。 「蕾(つぼみ)は花のためならず」 ということである。蕾が渾ての渾てなのであり、花はすべてのすべてなのである。渾ての渾てなるものの純粋なる持続あるのみである。(1998.9.17)

93復興G:2013/09/06(金) 23:44:43 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十

 「神想観それ自体の神想観」 「聖経読誦それ自体の聖経読誦」 「光明化運動それ自体の光明化運動」 である。手段、目的のためのものではない相(すがた)である。

 神は目的、手段のための生活にはないのである。神はそのようには在(いま)し給わないからである。

 神は如何に在(あ)り給うか。神は 「今」 すべてのすべてであり給うのである。生長の家人類光明化運動も 「今」 すべてのすべてなのである。純一無雑(じゅんいつむざつ)、純乎(じゅんこ)として純なる光明なる運動とは目的と手段超脱の 「今」 である。

 運動方針を立てると言えども、その運動方針は 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きであり、一切死に切りの、真空妙有なる無限充足の輝きとしてあるのである。 「運動方針これ運動方針に非ず。これを運動方針という」 である。運動方針の一文字一文字は神であり、神の国そのものであり、無限充足の天国そのものなのである。

 斯(か)くの如きが 「生長の家人類光明化運動」 の運動方針なるものなのである。それ自身がそれ自身でそれ自身を完了している 「今」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 のそのままの一字一字なのである。ただただ零なのである。ただただ一切なのである。ただただ○なのである。

 黄檗(おうばく)禅師の 「衆について求めず、法について求めず、悟りについて求めず、ただただ礼拝することを為す」 との言葉が想い起こされるのである。

 ただただが 「光明」 である。ただただが 「化」 である。ただただが 「運動」 である。ただただが神である。ただただが充足である。ただただなる無限充足なるものの自己展開としての運動である。

 絶対の愛としての光明化運動とは、それみずからで成立している光明の相(すがた)であるから崩れることなき久遠そのものなる運動なのである。

 「数これ数に非(あら)ず、是(これ)を数という」 ということは、数に非ざる消息なのである。数という形そのままに、それはみずからの消え切りの脱落であり、澄み切りであるとは目的、手段のための数ではないということである。目的、手段と見ゆるままに、目的、手段は 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切ってしまっている聖なる何かと出合っているところに 「今」 なる光明化運動は成り立っているのである。光明という光明のすがしさ、さやけさ、かそけさがここに満たされているのである。

 数が数字が黄金色燦然と輝いているのである。 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 ということは、数の成仏ということなのである。

 総裁谷口清超先生がその御著 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読む』 の 「山水経の巻」 において、東山水上行(とうざんすいじょうぎょう)、西山常運歩(せいざんじょううんぼ)をお説きになられ、山も川も渓(たに)も水も空も自在に運歩している自在無碍(むげ)實相生命をお示しになって、教化の相(すがた)もこの運歩の相であるとお書きになっていられるのである。

 この自在のお姿がご講習会のおすがたであったのである。会場も人もその心もすべては大光明實相生命の運歩であり、菩薩の雲集(うんじゅう)をそこに拝み給うて、斯(か)くお示しになられたことと拝察申し上げるのである。

 「数は力」ではないのである。「数は神」 なのである。「数は渾(すべ)ての渾て」 なのである。「数は光り」 なのである。神でなく、渾ての渾てでなく、光でないものは「数」 ではないのである。(1998.9.18)

94復興G:2013/09/07(土) 06:12:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十一

 「行(ぎょう)ありて願(がん)なきは仏の魔事(まじ)なり」 という仏典の “願” という言葉は、 “願い” という目的とその手段に引きすえられた生活とは違うのである。

 それは自我なき、神なる 「今」 なる “願い” なのである。今ここに完成そのものであるという “願い” なのである。

  “願い” は神であり、神が “願い” なのである。 “願い” は神であればこそ、 “願い” なきことは神なきことであり、魔事どころではなく全くの無なのである。

 「今」 を生きず、未来を生きようとすることが魔事なのである。神を生きず、自分を生きようとすることが魔事なのである。過去、現在、未来という無いものの上に立って生きようとすることが魔事なのである。神を生きること、 「今」 なるものを生きることが魔事でないことなのである。

 生長の家人類光明化運動が魔事でなく聖なる相(すがた)であるのは、生長の家人類光明化運動が神そのものであり、成仏そのものであるからなのである。

 神、仏の発したコトバが “願” なのである。天国、極楽なるものが発しているのが “願” なのである。神になりたい、仏になりたいと願うことそのことが既に神が、仏が為し給うているのである。

 まことの “願” とは、 「今」 神であること、仏であることであり、 「今」 .天国であることであり、極楽であることなのである。

 「吾れもと一切衆生をして吾れと等しくせんとの願を発せり。その願既に満足せり」 との釈尊の “願” なるものは、時空超脱の自分と同じくあらしめる願いであるから、釈尊の前には時間空間はないのである。それ故、願いを発してから、ある時間の経過の後に満足したという、願いと実現との間の時間はないのである。願いそのものが神であり仏であり、満足そのものであり、願いと成就との同時現成なのであり、これこそがまことの “願” なのである。

 吾れと彼、願いと成就との分離相対を超えてあることが釈尊が釈尊であることなのである。 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 と拝み給うた時が、 “願” なるものの成仏を拝んだ時であり、まことの “願” なるものの成就であったのである。神(仏)=願=成就なのである。成就とは成り就(な)り輝くことであり、願いの成就とは願い即ち神(仏)の鳴り鳴り輝くことにほかならないのである。

 斯(か)くのごときまことの “願(がん)” なき行(ぎょう)はまことに魔事(まじ)であり、釈尊の観じられた 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 の行なのである。どこまでも実りはなく、 「いったいどこまでやれと言うのか!!」 とのなげきに終わるのである。

 これを超えたところから出発しているのが、生長の家人類光明化運動なのである。ただひとつ 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」 ということであるのである。

 自分ではないということである。自分は要(い)らないということである。既に完成している世界であるということである。

 まことにも 「完成(ななつ)の燈台」 とは自分の要らない燈台ということなのである。(1998.9.19)

95復興G:2013/09/07(土) 06:36:44 ID:AB6RqYXc

 榎本恵吾先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 が、80回を超えました。

 上記の論文と申しますか、『「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書』 とされているご文章は、最初に書きましたように、(>>5

<<榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年7月1日から11年11月29日(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた 「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」 宛に送っておられたそうです。>>

 というもので、ここまでに謹写掲載し終えたのは全体の1/30程度かと思います。まだ1年と数ヵ月続くのですが、ここでちょっと小休止し、これからしばらく、谷口雅春先生の御文章の謹写に変えさせて頂きたいと思います。

 ありがとうございます。合掌

96復興G:2013/09/07(土) 07:07:22 ID:AB6RqYXc

  人 生 の 秘 訣

(谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より)

   ある傷痍軍人の實例

 ここで、今ちょっと思い出したのでありますが、戦争直後でしたが、あれは、多分、九州の福岡で講習がありましたときでした。傷痍軍人(しょういぐんじん=戦地で傷つき身体障害者となられた元軍人)の方で、脚に弾丸を受けて、傷は治ったが、その一方の脚が曲らないで、坐れないので脚を投げ出しておられた受講生がありました。

 そのときに、私は、高千穂(たかちほ)の峰(みね)に登った時の話をしたんです。あの高千穂の峰へ、日向(ひゅうが)の方から、霧島山を登って行きますと、頂上に天逆鉾(あまのさかほこ)というのが祀ってある。天から逆さまに宇宙を貫いて落ちてきた剣だとして祀ってあるのですが、そこへ達する少し前の所に、 “馬の背越え” という所があるんです。ちょっと馬の背中みたいな恰好(かっこう)に、土が高く盛り上がっていて、そこから坂が急になって登るんです。その “馬の背越え” という処に暫(しばら)く立って崖を俯瞰(ふかん)すると、その崖が、これは豪雨でもあったときに、山津波(やまつなみ)でも起こしてシャーッと山の一部が切断するように壊(くだ)けてズリ落ちて、その土の滑り落ちた跡が截(き)り立ったような垂直の壁面を山肌に作っているのです。それには速力の感じが出ていて、速力はやくサーッと画筆を名画家が墨痕淋漓(ぼっこんりんり)と走らせたような力の感じの美しさというものがその崖の壁面にあらわれていたんです。その光景を私は話して、

 「神様のお創造(つく)りになったものは全て美しい。そこには神の生命が動いておって、皆んな美しいんだ。この截(き)り立った山の肌は山の一部が崩れて落ちた跡で、謂(い)わば、これは山の傷痕(きずあと)である。此の山の傷痕でさえもこんなに美しいのである。

 それなのに、天皇陛下のために大東亜戦争で戦って、そして負傷した傷痕を、 “私はこんな見苦しい身体(からだ)になっている” と思って怨みに思っている人があるかしらんけれども、それを、みる眼で見たならば、此の山の肌の傷痕が美しいのと同じように、實に美しいのである。その傷痕にも、生命の動きがあらわれているのである。

 すべて生命の動きのあらわれているものには何でも、なんとも言えない美しさがあるんだ。それがわからないのは、観る眼がないからである」 ――というような話をしたんです。そしたら、その瞬間に、その脚を投出しておった人が、ちゃんと坐って、それから今まで跛(ちんば)ひかなければ歩けなかったその人が、講習が終ると、跛をひかないで、ちゃーんと歩けるようになって、礼を言ってお帰りになったので、受講生一同が大騒ぎでこの傷疲軍人を祝福したのでありました。

 この人が今まで、脚が硬直して曲らなかったのは、 “自分は、戦争のお蔭(かげ)でこんな目に遭(あ)わされて……” と思って、国家を怨(うら)んだり、軍を怨んだり、或いは敵のアメリカ兵を怨んだりしておったので、その硬直した心が、肉体にあらわれていたのでしょう。ところが私が、 「この山肌の、崖の崩れた傷痕でさえもこんなに美しい、いわんや天皇陛下の御いのちのために働いて傷ついたその傷痕というものは、決して見苦しいことはないのである。美しいんだ。それがわからないのは、吾々の心の眼が開かないからである」 ――という話をしたときに、

 “私は戦争のために傷ついた。自分は被害者だ” と考えて怨んだり憎んだりしていた今までの一切の怨みや憎しみが消えて、 “自分のいのち” が大いなる天皇の “大御(おおみ)いのち” の中に融け込んで、そしてこうして国家のために、天皇のために働いたお蔭でこうなったんだ。これは却(かえ)って有難いんだ、ここに私の忠誠のシルシがあるという、傷痕を祝福する気持が起ったらしいんです。そうすると、その脚が治って跛(ちんば)をひかないで起ち上がって当り前に歩けた、というのであります。だから肉体はまことに “心の影” であると、いうことがわかるのであります。
<つづく>

97復興G:2013/09/07(土) 22:01:14 ID:AB6RqYXc

>>95
>> 「ここまでに(『神癒の展開としての人類光明化運動』を)謹写掲載し終えたのは全体の1/30程度かと思います」<<

と書きましたのは勘違いで、「1/7程度」 の誤りでした。

98復興G:2013/09/07(土) 22:07:29 ID:AB6RqYXc

>>96 谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より謹写 つづき>

    “無限” と “有限” との自己同一

 さて、 “永遠の生命(いのち)” が “今” “ここ” に生きているという “無限” と “有限” との自己同一、 “永遠” と “今” との自己同一を自覚しなければ、現象的には有限のいのちしか生きることのできない自分が “今、ここ” に “永遠の生命” を生きているということがわからないのであります。つまり、キリストが 「我はアブラハムの生れぬ前(さき)よりある者なり」 といったことや、釈尊(しゃくそん)が 「我れは五百塵点劫(じんてんこう)以前から生き通している自分だ」 といったことがわからないのであります。(中略)

   現象時間は存在しない、従って非存在の現象時間の中にある事物も存在しない

 (中略)

    “今” を生かせということ (過去の業を消す)

 私たちが 「“今” を生かせ」 といったり、或は又 「“今” に生きる」 といったりするその “今” というのは、そのような現象時間の流れの中にある “現在” というようなものを上手に生きようという簡単な意味じゃないのであって、その過去・現在・未来の一切がいまここに把(つか)まれているところの “久遠即今(くおんそくいま)” の生命(いのち)を生きよ であるのです。

 「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる」

 と聖経に書かれているところの、 “無窮” が常にあるところの “今” の一点であるのです。

 現象時間の流れの中で “無窮” を生きようと思うと、肉体の寿命は無窮には生きられないけれども、 “今” の一点に “久遠” の絶対時間を生きると、過去も現在も未来も今ここに一つに把(つか)まれてしまう、ということになるのであります。

 そうすると、吾々は今ここの自己の内に過去も現在も未来も把んでいるから、過現未が自分の掌中にあるのです。普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる。そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業(ごう)を消すことが出来るということがわかる。

 未来は無論、これから起るのだから変化できる。現象の流れの中にあるものは、全部こうして自分の内に “心のハンドル” をもって把(つか)んでいるんですから、吾々が欲(ほっ)して変化できぬものはない。

 吾々は、現象に対しては幻術師の立場にある。現象は仮(けげん)であって、心の現すところであるから、心によって自由に変化することが出来るのであります。

 さて、この 「 “今” を生きよ」 という “今” は、唯今説明いたしましたように、過去・現在・未来という現象時間の流れのうちの “現在” を生きよというような浅い意味での “今” ではないのであります。過去・現在・未来のすべての時間がその内に握られており、そこから過去・現在・未来が発して来るところの “本源の今”、 “源の今” “永遠を内に含む今” を自己の掌中に握ることであります。この “永遠を内に含む今” が “永遠の今” 、 “今即久遠(いまそくくおん)”、 “久遠即今”、 “未発の中(ちゅう)” というものなんです。

    “未発の中” に入ること

 何事でも本源に還って、本源の叡智(えいち)を受けてくることにしますと、する事為(な)す事、急所に中(あた)るのであります。この本源の中心を儒教では “未発の中(ちゅう)” といった。

 “未発の中” というのは、これは支那の 『中庸(ちゅうよう)』 という古書の中に書かれているところの 「喜怒哀楽(きどあいらく)未だ発せざるを “中(ちゅう)” という、発して節(せつ)に当る、これを “和” という」 と表現されているところの、あの一切のものが “未(いま)だ発せざる” 根元の 「中」、いまだ陰陽に剖判(ぼうはん)せざる未発の本源世界ということを意味するのであります。この本源の未発の “絶対無” (有無相対の無ではない) の中へ吾々が入っていくのが、神想観の 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 ということなんです。
<つづく>

99復興G:2013/09/07(土) 22:37:25 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より謹写 つづき>

 これは、 『古事記』 に於いては 「無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗る」 というように書かれているのであります。これは、日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)様が鉤(つりばり)を失われて、それは御兄の命(みこと)から借りた鉤であるから、それを返さなければならない、というときに、魚に鉤を取られていて、取り返す道がない。どうにも仕方がないので、自分の佩(は)いていられた剣(つるぎ)を鍛(う)ち直して、五百本の鉤をこしらえて、

 「これで我慢して下さーい」 と、御兄君のところへ持って行かれた。御兄の命(みこと)は 「そんな代用品をいくら持って来ても駄目だ。もとの鉤を返せ」 と言われる。

 もとの鉤といったって魚が食って行ったものを取戻しようがないのです。そこで日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は仕方がないのでもう五百本新しい鉤をこしらえて、合計一千本にして 「これでどうぞ我慢して下さーい」 と持って行かれたけれども、御兄の命は 「もとの鉤を返せ」 と言われる。

 そこで日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は途方にくれて、海辺に立って泣いておられた時に、住吉大神、別のお名前は塩椎神(しおつちのかみ)――この神様は龍宮の大神でありますが、その龍宮の大神が出て来られて、 「如何(いか)にぞ虚空津日高(そらつひだか)の、泣き患(うれ)いたまう所由(ゆえ)は?」 と言ってお訊きになった。

   万教帰一を象徴する “目無堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)”

 “虚空津日高(そらつひだか)の……” というのは、御空(みそら)から天降(あまくだ)って来られたところの、日の輝く日の本の嫡嗣子(ちゃくしし)――即ち天津皇位(あまつみくらい)を継ぎたまう皇太子にあらせられるところの 「日嗣(ひつ)ぎ御子(みこ)」 がお泣きになっておられるというのは、ただ事でない、一体何事がございましたんでございますか、と言ってお伺い申し上げたのであります。すると、

  「これこれ云云(しかじか)、魚に鉤(つりばり)を食われて鉤が行方不明になってしまったのに、兄命(あにみこと)の火照命(ほでりのみこと)が “もとの鉤を返せ” と言われるので困って泣いているんだ」 とお答えになるのでした。

 すると塩椎神(しおづちのかみ)さまは、 「私に善き謀(はかりごと)がございます。 “無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)” というのにお乗せ申し上げますから、八重(やえ)の汐路(しおじ)の中に一条の水路がございます。その汐の路(みち)に沿うてずっとこの舟に乗っておいでなさいましたならば、龍宮海(りゅうぐうかい)に達します。

 龍宮海は實相の世界、生みの底、一切のものを創(う)み出す “創造の根底世界” だから、何ものも失われたものはないのでございますから、そこへ御案内申し上げましょう」 と言って、塩椎神さまは 「無目堅間(めなしかつま)の小舟」 を拵(こしら)えて御案内申し上げた。

 その 「無目堅間の小舟」 が、この十字であります。(註。黒板に十を書く)。十字はこれ、キリストの十字架でもあるし、これが少し動き出すと佛教の卍(まんじ)にもなるし、もう一つはげしく動き出して回転すると日の丸になる。

 神佛耶(しんぶつや)、佛教もキリスト教も神道も、 「無目堅間の小舟」 に乗れば、一つになるのであります。

 佛教ではこれを 「如来(にょらい)の願船(がんせん)」 とも言う。 『旧約聖書』 では 「ノアの方舟(はこぶね)」 となっています。こののりものの中心――十字交叉(こうさ)の一点が “無の門関” です。

 禅宗の公案の本に 『無門關』 というのがある。私は、 『無門關解釋(むもんかんかいしゃく)』 という本を書いたが、この “無” の門関を超えて、時空を超越する境に達すれば、人間は自由を得る。図解を見て下さい。(黒板に縦横十字の線を描き)

 この縦の線は時間である。時間には目盛がある。時間の目盛のないのが “目無(めなし)” 即ち無時間――未(いま)だ時間発せずであります。

 それから横の線は、横ひろがりの世界、空間を表しているのであります。(掌を聴衆に向け、指をひらいて、指と指との間に空間を作って見せながら) 空間はこう開(あ)けると、空間ができますね、(次に指と指との間を堅く密着して示しながら) こうして堅く空間が詰まって空間が無くなったのが “堅間(かつま)” 即ち無空間で、未(いま)だ空間発せずの 「絶対無」 (未発の中 <みはつのちゅう>) であります。

 この十字交叉(こうさ)の中心の無空間・無時間の 「絶対無」 の一点に入るとき吾々は時間に捉われず、空間に捉われず、自由自在を得るのであります。
<つづく>

100復興G:2013/09/08(日) 00:52:06 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より つづき>

 聖経に 「これを握れば一点となり」 と書かれているその一点が 「未発の中(みはつのちゅう)」 であって、一切が、その一点の中に掴(つか)まれている。ひろがりも長さもなにもない “無” である。現象としては何もないが、實相としては一切がそこにある。この “無” の関門を通ってですね、その奥に超入すると超時空の實相世界 (龍宮海) に達するのです。

   龍宮海――創造の本源世界へ入るには

 図解というものは時間空間面に描くので、その表面に現れているところはみな現象界だから、龍宮海(りゅうぐうかい)は図解の仕様がないのです。そこで “十” 字を描いた、この黒板の “十” 字の中心に穴をあけて、表面には現れていない奥へ入る――これが、一切のものを生み出すところの 「うみの底」 即ち龍宮海に入るということなのであります。

 すなわち 「無」 の門関から超入して 「入龍宮(にゅうりゅうぐう)不可思議境涯(ふかしぎきょうがい)」 になれば、そこに忽然(こつねん)として時間・空間以上の、超次元の世界を見出すのです。

 それが實相世界であり、龍宮海であり、七宝(しっぽう)が充満し、時間が無いから年老いず、空間がないから皮膚に皺(しわ)を生ぜず、病いなく、死なく、未だ何ものも失われることのないところの世界であります。

 その何ものも失われることがない龍宮海――創造の本源世界に入るための方法がこの “無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗る” ということなのであります。

 それは、結局、神想観をして 「吾れ今五官の世界(時空の世界)を去って實相の世界に入る」 と、ズーッと、時間・空間の無い世界へ入って往くと、そこに一切のものを創造(う)み出すところの 「創造(うみ)の底」 の世界に達する。そこへ入ると、そこは一切のものを創造(う)み出す元ですから、何一つ失われていないのであります。

 それですから 『古事記』 の神話では日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)が “目無堅間の小舟” に乗って龍宮海においでになると、 「近頃、一尾(ぴき)の鯛(たい)がねえ、なんとかいう名の鯛が、 “喉(のど)が痛い、喉が痛い” といっているが、あれを呼んで来い」 ということになって、その鯛を呼んで来て、口を開かして喉を覗(のぞ)いてみると、ちゃんとそこに鉤が失われずに見出された、という風に書かれているのであります。

 皆さんは、紛失物を生じたとき、神想観をしてそれを探すと忽(たちま)ち見出した、というような体験を時々話されるのですが、それは、本来失われていない龍宮世界へ入って往くのだから、必要なものが見出されるわけであります。

 ある人は、泥棒に奪われとった財布が、一心に神想観をして 「何物も失われることはない。ここにその財布はある」 と念じたあと、屹度(きっと)あの財布は手許に還ると信じておったら、その泥棒が、自然に気持が変って、自分の盗んだ財布を今度は小包で送り返して来た――というような話をなさったのであります。

 そういうように神想観の功徳(くどく)というのは、現象界から功徳が出て来るんじゃなくって、實相世界の何物も失われていない境涯に入って往くことによって、そこから功徳を汲み出して来ることになるのであります。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板