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創作メモ

1管理人:2012/03/08(木) 21:43:03
管理人の備忘用。

2管理人:2012/03/08(木) 22:22:31
ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/2048/1074525089/180
の続きをここでやります。

〜これまでのあらすじ〜
①管理人は古代史をネタに物語を作ろうと考えていた。
  物語の舞台は4〜5Cの予定であった。なぜなら、4Cは空白の世紀と呼ばれており、
 (266?年:台与の遣晋使から、413?年:倭王讃の朝貢まで、外国の記事に出てこない)
  管理人が勝手な想像を遊ばせるのには都合が良さそうと考えたからである。
②記紀の系譜を素直に信用するとなると、4〜5Cは15代16代の方の時代っぽい。
  考古学的にも誉田山が5C初頭、大仙が5C半ばらしいので、無理はなさそう。
③ところが、色々調べてみると、②の前提が間違いであるような気がしてきた。
  そもそも誉田山や大仙の被葬者が誰なのか分からん。(15代16代の方と記紀には書いてあるが)
④上述の「間違いであるような気がしてきた」理由は以下の点。
 ・16代と17-19代は親子であるはずだが、一緒に出てくる話がない。
 (17-21代の方々はいわゆる五王と考えられるので、この辺が5Cなのはほぼほぼ確定)
 ・10代あたりから16代あたりまでの記載がやたら詳しいので(13代除く)、一連の流れにあると推定。
 ・11代12代の宮は纏向であり、3C初頭から半ばの方々と考えられる。
 ・中身のない13代を無視すれば、12代の遠征と14代の客死は北九州で繋がっている。
⑤ってことは、15代の方は遅くとも3C後半になり、16代の方は4C前半になる。

3管理人:2012/03/08(木) 23:02:05
そもそも>>2の仮説に至るまで、管理人はどんな物語を作ろうとしていたのか?
それは以下のとおりである。

・主人公は15代16代の方々。
・5Cには百済と新羅を勢力下に置いているが、後に百済と親密、新羅と敵対するのは歴史の示す通り。
・その原因として、新羅と国内の反日マスコミが結託し、
 和−百ラインの切り崩しにかかるというクソみたいな寓話をむりやり設定。
・その対立を主軸に据えつつ、15代16代の記紀のエピソードを交えて、面白おかしく書くという寸法。

ところが>>2で書いたように、15代16代が3-4Cの方々ということになってしまったら、
せっかく書き進めていた上記のクソつまらん話に無理が生じてくるのである。
3-4Cには百済も新羅もまだ存在すらしていないではないか。これは駄目だ。
マスコミとか出てくる時点で時代背景もへったくれもないという
意見もあるかもしれないが、そういう細かい点にはこだわりたいのである。

というわけで、あえなくボツとなった。

4管理人:2012/03/09(金) 00:12:35
で、「あえなくボツとなった」で済めばいいのだが、そう簡単には済まない。
なぜなら、>>2の仮説は突っ込みどころ満載であり、15代16代の時世についても通説とは異なるからである。
ではなぜ、15代16代は4-5Cであることが通説となりえたのか?
それは以下のとおりである。

①記紀に三国史記からの引用記事(百済・新羅の朝貢)があり、
  それが15代16代の御世の出来事とされている。
 (直前の神功による三韓征伐から考えても、それは無理のない設定と思われる)
②16代は17-19代の父親である。
③誉田山も大仙も5Cである。
④他にもいろいろある。

②と③については>>2に書いたとおりである。問題は①である。
管理人は①について、記紀を編纂した不比等や武智麻呂あたりが
「百済史記における倭への朝貢がどの王の時代なのかは分からんが、
 有名どころの15代16代あたりにしておこうぜ!」ってな感じで取り決めたのではなかろうか。
或いは逆に、
「17-19代の親が誰なのか伝わっていないが、有名どころの16代ってことにしておこうぜ!」
ってな具合に系譜を策定したのではなかろうか。

5管理人:2012/03/09(金) 00:38:31
……とまあ、そんな風に考えたのである。
しかしこれは随分といい加減な推測でもある。
ただ、推測自体はいい加減であるが、可能性としては五分五分くらいじゃないだろうか。
そこで>>4の「④他にもいろいろある」について考えたい。

>>3で示したような物語を作るとすれば、15代16代の他にも描くべき人物がいる。
妥当なところでは、15代の母である神功皇后、16代の兄弟である大山守と宇治、
16代の嫁である磐之媛、そして重臣の武内宿禰。このへんは外せないだろう。

一番問題なのは、この武内宿禰である。
>>2において16代までは一連の流れを感じると書いたのは、この人物がずっといるからなのである。
そしてこの人物と15代16代が同時代人であるからこそ、
15代16代は3-4Cの方々だ、と、管理人は主張したいのである。

6管理人:2012/03/10(土) 01:04:16
「創作メモ」ではなく、単なる趣味的な古代史研究になりつつあるが、まあいい。

〜前回までのあらすじ〜 >>2-5
なんやかんやを調べているうちに、応神・仁徳の治世は通説より
百年くらい昔なのではないか、などと主張し始めた管理人。
その根拠として応神以前の流れと仁徳代までの流れに一連の繋がりがあることを
指摘し(武内宿禰の存在など)、仁徳代とそれ以降には同時代的な繋がりが見えず、
応神・仁徳代における記紀の対外記事は後代の予想に基づく
適当な繰り上げ挿入なのではないか?と推測したのであった。

今回は>>2の④に書いた、「10代あたりから16代あたりまでの記載が
やたら詳しいので(13代除く)、一連の流れにあると推定」という箇所について、
もうちょいツッコミを入れていきたいと思う。
実はこれ、単なる管理人の個人的な感覚からそのように推定しただけであり、
記紀の記述を真に受けた場合、ちっとも一連の流れにあるとは捉えにくいのである。
ではなぜ管理人の個人的な感覚はそのような結論に至ってしまったのであろうか。

7管理人:2012/03/10(土) 01:42:08
10代・崇神帝から、16代・仁徳帝までの系譜(記紀より)

①崇神(10):初めて国を治めた人だよ的な記載がある。
  勢力圏が畿内から一気に広がった? 都は磯城。
②垂仁(11):①の息子。都は磯城の一角である纏向。
③景行(12):②の息子。都は纏向。熊襲征伐のため九州へ長期遠征している。
④日本武尊:②の息子。英雄的人物。
⑤成務(13):②の息子。都は志賀の穴太と書かれているが怪しい。記事に中身なし。
⑥仲哀(14):④の息子。⑦の旦那。出てきたと思ったらすぐ死んだ。都は筑紫の香椎。
⑦神功:⑥の嫁。三韓征伐の後、筑紫で⑧を出産。畿内へ帰る際、
  ⑥の別腹の息子どもを倒している。本居宣長が出てくるまでは卑弥呼と考えられていた。
⑧応神(15):⑥と⑦の息子。都は軽島豊明宮(橿原市内?)。
⑨仁徳(16):⑧の息子。都は難波高津宮。
武内宿禰:上記③〜⑨に登場。特に⑦・⑧と深い繋がりが見える。

ここで注目すべきは、①〜③が纏向王朝のボスっぽいこと、④・⑤が作り話っぽいこと、
③と⑥・⑦が場所的に繋がっていること、⑧以降、纏向に住むのをやめたこと。
そのへんが気になりますな。

8管理人:2012/03/10(土) 02:14:57
>>7の時期を考えてみる。

①〜③は纏向遺跡の時期。纏向遺跡は3C初めに突然現れたらしく、
前方後円墳の始まりである箸墓(270頃)が最後のアレっぽい。ってことは200〜270頃の都か?

巻向と言えば、思い出すのはミカン狩りである。幼稚園時代の遠足の話である。
何でそんなもんを覚えているのかというと、
1.桜井線に乗って行ったと思われるが、マキムクという駅名が幼心に印象深かったという点。
2.ミカンの樹にでかい蛇が巻き付いており、おったまげた記憶があること。
  また、その様子がマキムクっぽかったと思った記憶があるという点。

随分昔の話だよなあ。そして>>7の記載が間違っておるではないか。
正しくは
④日本武尊:③の息子。英雄的人物。
⑤成務(13):③の息子。都は志賀の穴太と書かれているが怪しい。記事に中身なし。

④の熊襲征伐は③の分身なんじゃなかろうか。
古事記には④しかないが、書記には③も④も両方載っていて、なんか怪しい。

9管理人:2012/03/10(土) 02:29:37
>>7-8から単純に考えると、①〜③は3C前半と思われる。
そして、③の後半・⑥・⑦の前半は、3C中頃の九州の話。
⑦の後半〜⑧は3C後半の畿内の話で、⑨は4C前半だろうか?
⑨と履中(17)の間には忘れられた王が何人かいて、
応神・仁徳の事績の一部は(外交記事など)、本来そのへんの方々のものなのだと思われる。
神功の三韓征伐についても、忘れ去られた人々の時代ではなかろうか?
ちなみに百済史記の倭への朝貢が397?年、高句麗・広開土王碑における「新羅・百済は
もともと高句麗の属国だが、倭に属した」の記事は391?年。新羅史記の記載は全くアテにならん。

そうなってくると、次に問題になるのは魏志や晋書と記紀の絡みである。
また今度。

10管理人:2012/03/10(土) 14:06:53
〜前回までのあらすじ〜
創作メモのはずが古代史研究になってきつつあるが、
十年以上前に命名したサイト名に関係しなくもないトピックなので、
まあええかと思いつつ、今回は下記2点について話を進めたいのであった。

1.3Cに相当すると思われる記紀の該当部分の整理。前回間違えたから再掲。>>11
2.その「記紀の該当部分」が>>6で述べたように、一連の流れにあると捉えにくい原因。
3.記紀と魏書及び晋書との絡み。

余談だが、歴史教育における古代史の材料が考古学に偏りすぎているのが
管理人にとっては不満なのである。いわゆる狭義の史学的な箇所といえば、
奴国の王、卑弥呼、倭の五王などに限られ、これらは全て海外の記事である。
国産の史書に依拠するのは6Cくらいからで(継体、磐井の乱あたり)、
もうちょっと記紀をやってもいいんじゃないかとおもう。
結局、無意識裡には皇国史観と戦後民主主義史観の「あれかこれか」でしか語ることができないから、
こんな実りのない捉え方になっとるんだろうなあ、と思われる。

11管理人:2012/03/10(土) 14:13:12
10代崇神から、16代仁徳までの系譜(記紀より)

①崇神(10):初めて国を治めた人だよ的な記載がある。
  勢力圏が畿内から一気に広がった? 都は磯城。
②垂仁(11):①の息子。都は磯城の一角である纏向。
③景行(12):②の息子。都は纏向。熊襲征伐のため九州へ長期遠征している。
④日本武尊:③の息子。英雄的人物。
⑤成務(13):③の息子。都は志賀の穴太と書かれているが怪しい。記事に中身なし。
⑥仲哀(14):④の息子。⑦の旦那。出てきたと思ったらすぐ死んだ。都は筑紫の香椎。
⑦神功:⑥の嫁。三韓征伐の後、筑紫で⑧を出産。畿内へ帰る際、
  ⑥の別腹の息子どもを倒している。本居宣長が出てくるまでは卑弥呼と考えられていた?
⑧応神(15):⑥と⑦の息子。都は軽島豊明宮(橿原市内?)。
⑨仁徳(16):⑧の息子。都は難波高津宮。
武内宿禰:上記③〜⑨に登場。特に⑦・⑧と深い繋がりが見える。

前回間違えたので再掲。
この部分が管理人の言っている2C末から4C初頭の一連の流れだと思う。
ただ、ここには「一連の流れ」をぶった切っている箇所が存在する。
それがA.④ヤマトタケル、B.⑤成務、C.⑦神功の三韓征伐である。

12管理人:2012/03/10(土) 14:36:49
>>11における「C.⑦神功の三韓征伐」については>>9でもちょっと触れたから、手短に。
Cが3Cだと仮定すると、単純に時代が合わない。(百済も新羅も成立していない)
おそらくこれは後代の似たような事績を神功代の出来事にしただけなのではないかと思われる。
仮に「神功は3C」という前提が間違っていたとしても、三韓征伐の記事自体が胡散臭いので
(筑紫から出征、新羅叩きのめす、三韓を服属させる、冬の玄界灘を戻ってくる、
 応神出産、この流れを2〜3か月で済ませてしまっている)、やはりぶった切りを意図した記事では、と愚考する。

次にB.⑤成務について。これもいろいろ怪しい。
まず、記事に中身がない。加えて、③景行・⑥仲哀が九州で繋がっているにもかかわらず、
なぜか⑤成務は唐突にも滋賀に宮を構えている。したがって、これもぶった切りを意図した挿入と見る。

少し話は逸れるが、滋賀が出てくるところを考えると、
1.景行(12)- 成務(13)- 神功・応神(15)
2.天智(38)- 弘文(39)- 天武(40)・持統(41)
この流れが少し似ているような気がするのだが、どうだろうか。
つまり、天武のような劇的な政権交代を、神功もやったという予想。

13管理人:2012/03/10(土) 15:13:36
>>11におけるぶった切り記事のうち、BとCは>>12でやったので、最後にA.ヤマトタケルについて。
これについては、管理人も通説を支持する。以上!

というわけで、ABCのぶった切り箇所3点を除くと以下のような一連の流れが出来上がる。
<3C前半>
①崇神→②垂仁→③景行前半 ここまで纏向を拠点とした王権拡大期。
<3C中頃>
③景行後半→⑥仲哀→⑦神功前半 ここまで北九州を拠点とした遠征。
⑦神功中盤 神功東征に伴う仲哀の遺子との戦い? 天武のような王権乗っ取り?
<3C後半〜>
⑦神功後半→⑧応神→⑨仁徳 纏向王朝の終焉? これより安定期? 加えて空白期。

最後に、外国における3Cの倭関連記事について。<要出典!>だらけのwikiより。
<魏志>
238年:卑弥呼の遣魏使。240年:魏使派遣、倭王位の仮授。243年:女王の遣魏使。245年:遣魏使の難升米に軍旗下賜?
247年:この頃卑弥呼死去、内乱状態。遣魏使によるクナ国との戦いの報告。魏使張政派遣、檄文をもって台与を諭したとの記事?
?年:卑弥呼死後、男王が立ったが国内治まらず、台与が王に立てられ国が治まったとの記事。
<魏志および晋書>
266年:女王(台与?)の遣魏使、張政帰国?

14管理人:2012/03/10(土) 22:05:58
古代史おもしろすぎやろ。

〜前回までのあらすじ〜
>>11>>13

>>13で「記紀と考古学に基づいた一連の流れ」と「魏志・晋書」を並べて書いたわけだが、
まあ、察しのいい人には何が言いたいのか分かると思われる。今回は避けて通れぬ邪馬台国について。

まず、場所。
正直な話、何で畿内説と九州説で未だに決着がついていないのか、管理人にはさっぱり分からない。
魏志の記述を読む限り、どこでどう転べば畿内なるのか全く理解できないのである。
「南は東!」とか、ふざけた理屈だと思う。三十くらいの国名が出てくるが、みんな九州っぽいのに、
何で邪馬台国だけ畿内になるんだ? だとしたらもっとそれっぽい記述をするだろうが。
奈良出身の管理人がお国自慢的根性を捨ててまでそう言っているんだから、九州で間違いない。
そもそも「女王国から東の海の向こうには、同様の倭人の国が複数ある」と書いてあるではないか。
もし奈良出身で畿内説を推す歴史学者がいたとしたら、
お前には海のない県で生まれ育った誇りはないのか? と言ってやりたいところである。

15管理人:2012/03/10(土) 22:38:50
場所の次は人物比定。例によって、<要出典!>だらけのwikiから色んな説を取り上げてみる。

卑弥呼(170頃?〜247頃?)←意外に長生きだと思わんか?
wikiには7説ありました。
・神功皇后説 書記でもちょろっと触れている。江戸時代までは一般的な説であったらしい。
・熊襲の女酋説 本居宣長とかが言ってる。
 実は管理人も7割くらい支持。ただ「熊襲の女酋」という言い方は、本質的でないと思う。
・ミカヨリヒメ説 筑後風土記逸文に出てくる人らしい。よく知らん。
・倭姫命説 垂仁の嫁らしい。ってことは畿内説。
・倭迹迹日百襲媛命説 ヤマトトトヒモモソヒメという発音するだけで舌噛みそうな名前の主。
 近年の卑弥呼候補最有力らしい。理由は記紀に箸墓の被葬者とされているから。
 5代孝霊の娘で、崇神代の巫女。女王ってのとはちょっと違うような気もするが。
・ウナビヒメ説 これもよく知らん。ヒメノミコトとも呼ばれ、その音訳とする説があるとか。
・アマテラス説 これは分かりやすい。管理人も4割くらい支持。

「熊襲の女酋」という言い方は国学者の立場から発せられたものであって、本質的には
「九州の数十か国を邪馬台国が代表していて、そこの女王」という感じだと思う。だとすれば十割支持。
ちなみにアマテラス説を4割支持する理由は、卑弥呼とは「日の巫女」であり、
太陽神信仰とはまさに当時の北九州における信仰が起源だと思うからである。

16管理人:2012/03/10(土) 23:06:23
台与(235頃?〜没年不詳)←266年に遣晋使を出していると思われるので、没年はそれ以降か?
wikiには4説ありました。
・豊鍬入姫命説 崇神の娘。アマテラスを祀った初代斎宮らしく、>>15のヤマトトトヒモモソヒメ説と繋がっている。
・アマテラスその後に、説 岩戸隠れ前のアマテラスが卑弥呼、以後が台与とする説。
・万幡豊秋津師比売説 神話パートの登場人物。話すと長くなるので話さないが、ある程度反映されていると思う。
・天豊姫命説 >>15のウナビヒメと繋がっているらしい。

意外な感じがする。神功説もあるにはあるんだろうが、有力ではないということか?
そもそも卑弥呼はよく語られるのに、台与はいまひとつ話題に上らないのは何故なんだろう?

>>13を見たら予想できると思うが、管理人は神功説である。
台与は13歳で女王になったと魏志に記載がある。卑弥呼=神功とすると、言っちゃ悪いが、ばばあ過ぎる。
時代的に、台与=神功と見る方が、収まりがいいんじゃなかろうか。
卑弥呼の死後に国が乱れたというのは、九州陣営と纏向陣営との戦いであり、
仲哀の死によって神功の治世となるのは、これすなわち台与が女王となったってことではないのか?

>>13の<3C中頃>を書き換えると以下の通り。
⑦台与 台与陣営東征に伴う纏向王家残党との戦い? 天武のような王権乗っ取り?

17管理人:2012/03/10(土) 23:42:49
話が当初の目的である応神・仁徳からどんどん離れておる。今後、近づけていきます。
でももう少し、神功皇后について。

14代仲哀の嫁である。この仲哀という王、名前のとおり哀しいお方である。
出てきたと思ったら、いきなり死ぬのである。その死に方が凄まじい。
1.仲哀・神功・武内宿禰の3人で、神寄せの儀式。神が神功に憑き、神功(神)が仲哀に新羅を攻めろと言う。
2.仲哀が神の言葉を疑う。神功(神)は仲哀に「ならば死ねえ!」と言う。
3.死ぬ。
物騒な話である。ともあれ、これは尋常ではない記事と思われる。
この時、神功は仲哀の子を身ごもっており(応神)、上述の神が「天下を治めるのは腹の中の子だ」と言っている。

⑥仲哀が③景行と同一人なのか、景行が遠征に連れてきた世継ぎなのかは分からんが
(世継ぎを戦場へ連れてくるか? 前者っぽいが不明)、書記において景行は九州を制圧しているのである。
魏書の「卑弥呼の死後、男王が立った」というのも、景行or仲哀のことだろう。
>>16から神功は九州陣営の次期女王候補だったと思われるが、戦いに負けたから手をつけられたと推測される。
したがって、神功の腹にいるのは仲哀の子、または、周囲には仲哀の子と思われている子、だったと思われる。

ところが征服者は死んだ。(暗殺にしか見えないが。)負けても勝つ方法がある訳だ。
また今度。

18管理人:2012/03/11(日) 20:29:16
〜前回までのあらすじ〜>>14-17
1.東の方から敵が攻めてきた。
2.数年に及ぶ戦争の末、負けた。←このへんも書記に詳しく書かれていて面白い。
3.しかしその後、色々あって征服者が死んだので、とりあえず当初の予定通り神功が女王となった。

ここからが問題なんですよ。このあとどうなるかというと、
新羅遠征→応神出産(筑紫・宇美)→移動(穴門・豊浦)→この頃、仲哀の子であるカゴサカ王・オシクマ王の挙兵
→摂津でカゴサカ王死亡(イノシシに食い殺されたとか)→オシクマ王が待ち構えているので、応神を武内宿禰に預ける
→難波で進めず(敗戦?)→オシクマ王は宇治へ戻り立て直し→神功は日高へ(御坊らへん?)
→武内宿禰とタケフルクマが山城でオシクマ王と対決→武内側の勝利・オシクマ王は瀬田で死亡
ってな具合である。

何だかよく分からん。色々と疑問点があるので以下に列挙すると、
1.>>16のとおり、神功が九州陣営の女王だとしたら、なぜ敵地へ向かうのか?
  征服の好機と捉えたとしても、戦争後間もなく、疲弊しているはずである。
2.動機だけでなく、東征の過程も曖昧である。景行の九州遠征があんなに克明に描かれていたのに、
  神功東征は何だかぼやけている。行程もいまひとつ不明。
3.武内宿禰は何者か?

ひとつひとつ考えてみる作業。

19管理人:2012/03/11(日) 21:06:42
>>18における神功東征の動機について。

これについては当時の状況を思い浮かべてみれば、何とかなるのではなかろうか。
あくまでも死んだのは仲哀のみであり、纏向軍に領地や人質を抑えられている状況は変わらない。
遠征には有力氏族が同行していた記述も見られ(中臣イカツ、大三輪オオトモヌシ、物部イクヒ、大伴タケモツの名が見える)、
そいつらは畿内へ帰りたいに決まっておる。加えて、応神は王子であり、その母である神功も連れて行かないわけにはいかない。

また、九州陣営からしてみれば、神功は女王であり、畿内勢に連れて行かれるのをただただ眺めているわけにもいかない。
だからといって、敗軍ゆえに人も土地も抑えられており、物は言えない立場である。それに応神は九州陣営にとっても王子なのだ。

そこで、仲哀と神功の婚姻、及び仲哀の死を契機として、畿内の遠征軍と九州陣営との間で同盟が結ばれたのでは、と推測してみる。
畿内へ戻って応神が即位すれば、両者にとって悪くない話であるはずだ。同盟に参加すれば応神政権の要職に就けるだろう。
そこで神功・応神を同盟軍の旗印に掲げ、東征に出たのでは……、と考えてみたがどうだろうか。
魏書による「台与が王に立てられ国が治まった」というのは、そういう意味なのではなかろうか。

そう考えると、仲哀は両陣営合意の下で暗殺されたような気もしてきた。おお怖い。

20管理人:2012/03/11(日) 21:45:57
>>19の展開で困ったことになったのは纏向留守番陣営である。
仲哀の遺子であるカゴサカ王・オシクマ王の反乱が起きるわけであるが、そりゃ当然だ。
留守番陣営にとってみれば>>19は寝耳に水の事態であり、神功・応神は所詮余所者に過ぎない。
その余所者が大伴・物部らの軍事氏族と結託し、なおかつ九州陣営の軍まで
いっしょくたになって来るわけだから、タダでは済まされない。

全然関係ない話なのであるが、奈良の北郊に押熊という地名がある。
オシクマ王とは関係ないと思うが、唐突に思い出した。
しかも「押熊」の隣には「神功」がある。ちなみに押熊は古い地名だと思うが、
神功はニュータウン造成時に新しく付いた地名である。もともとは「押熊」や「山陵」という
地名だったのが、伝・神功皇后陵が近くにあるので神功になったのだ。
以上、どうでもいい話であった。

21管理人:2012/03/12(月) 00:13:38
ちなみに今ここで繰り広げている話は、
「崇神代以降の記紀の記述はある程度史実を反映している」
という前提を踏まえた上での話ですよ。

もしこれが全て想像の産物だったとしたら、それこそどうしようもない。
作者に喝采を送るしかない。

まあさすがにそんなことはないと思いますがね。
そりゃ多少はあやふやな伝承を基にした話とか編纂者の意図が介入したりとかはあるだろうけど。
>>11のあたりなんかは前後の脈絡がちゃんと存在しているから、まあ、概ね大丈夫でしょう。

22管理人:2012/03/13(火) 22:45:30
前回までのあらすじ、は、とりあえず置いといて。

本来ここは創作メモの場である。今までの展開において、一つネタにしたい箇所が出てきた。
>>19-20留守番陣営の話。
結局留守番陣営は負けてしまうのであるが、この陣営が辿ることとなる葛藤や内部の確執には
なかなか面白いものがありそうである。留守番陣営内の有力者は誰だったのだろう?
①出雲系
 神話を読む限り、もともと王家のルーツの一つとして考えられそうなのが、この出雲系。
 しかし崇神代以降、王家が力を持ってくると、隅の方に追いやられるようになり、
 さらに大伴・物部らの軍事氏族が戦争により存在感を増したと考えられ、
 なおかつ九州陣営まで加わって来るので、このままでは権限がさらに低下してしまう。
 そこで留守番陣営に参画し、復権を目指すというもの。しかし結果は失敗。国譲り神話と絡めて。
②吉備系
 これも古代に有力とされていたらしいが、その後どうなったのかよくわからない人たちである。
 負け組の留守番陣営に加わってフェードアウトしていった感じで。
③濃尾系
 纏向遺跡の出土品の半数近くを占めるのが、東海地方の産であるらしい。
 景行の嫁であり成務の母である人物も美濃から来たらしく、留守番王権の中核にいたと思われる。
 熱田の起源とかもこのへんの人々なのではないか?

この①②③が時に協力し、時に仲間割れしながら各々好き勝手に景行・仲哀の遺子(成務など)を
担ぎ上げ、神功陣営と戦っては敗れていくという、負け組視点のストーリー。

23管理人:2012/03/13(火) 23:45:22
王位継承戦における当事者たちも大変だが(応神vs景行・仲哀の遺子たち)、
取り巻き連中の苦労も大変だろう。留守番陣営における>>22の①②③他にしてみれば
自陣営の存亡に関わる記紀だから、勝手に王子を担ぎ上げもするだろうし、
一方、大伴や物部にしてみれば、自分たちは戦場で苦労しているのにあいつらは後方でぬくぬくしやがって、
という気持もあるだろう。それに大伴や物部は軍事氏族だから、要は勝てばいいのである。
九州陣営はおそらく数で畿内陣営に負けたと思われるが、より後着の渡来だと思われるので、
装備等は従来の畿内陣営より勝れていると思われ、その力を支配下に入れたいと思うだろう。

物部の租とされるのにニギハヤヒという神武代の人物がいて、こいつがなかなかひどい。
神武より先に畿内へ来ていたのだが、当時の畿内には登美のナガスネヒコという土着のボスが居て(縄文系?)、
そいつらを「我らこそは天孫だ」と言って従えていた。おそらくは金属製の武器をちらつかせたんだろう。
つまりはギガゾンビとクラヤミ族の関係をやっていたわけだ。そこへ新たにドラえもん陣営(神武)が来た時、
最初は生駒でナガスネヒコに追い払わせていたのだが、神武が紀州周りで吉野からやってきて、
一部土着勢力の支持もとりつけていたので、勝てないと思ったニギハヤヒが
今まで忠実に従ってきたナガスネヒコを殺して神武に降るのである。まあ、戦乱の世なら、そんなもんだろう。

唐突に物部つながりから神武の話を持ってきたのにも訳があって、
>>18における神功東征の過程の鍵を握る人物は、実は神武だと思うのである。

24管理人:2012/03/13(火) 23:57:48
10代崇神よりも前の王様については記紀の記述もそれはそれは貧相なもので、
2代綏靖〜9代開化については欠史八代などと言われ、中身がなんにもない。
そりゃ崇神について「初めて国を治めた」と言っているくらいだから、
それ以前の話なんて何の伝承も残っていないのだろう。ただただ王家の起源を
より古くするためだけに突っ込まれた存在だと言われておる。しかも悉く百歳くらいまで生きており、
その結果、神武代が今から2600〜2700年前くらいになってしまっている。

そのかわり神武の伝承は豊富である。そりゃ初代なわけだから、豊富にしないわけにもいかない。
けれども本来は、なーんにも残っていなかったはずで、後代の色々なエピソードを繋ぎ合わせたのだろう、
と、通説では言われているし、おそらくその通りなのだと思う。
ヤマトタケルについても同様で、おそらく父親の景行による熊襲征伐とヤマトタケルの熊襲征伐は、元は同じなのだろう。
だいたい何度も何度も九州と畿内を行ったり来たりするのは恐ろしく面倒である。

簡単に結論が予想できる話になってきたが、神武東征は神功東征がモチーフになっているのではないかと思うのである。
神功は難波で思うように進めず紀州へ逃れており>>18、神武も河内で生駒を越えられずに紀州へ逃れている>>23

25管理人:2012/03/14(水) 00:30:32
つまり>>18で述べた「東征の行程が曖昧」な理由は、神武と神功に分かれて伝えられたために、
ただでさえぼやけていたものがさらにぼやけてしまったから、と考えているのである。
このへんを突っ突き合わせると相互補完によりいろいろ見えてくるのかもしれないが、
まあそういう面倒臭いことは専門の偉い人がやったらいいさ。

武内宿禰とは何者か?
①成務と同年同日生まれで②景行代より政権に参画し③仲哀の死の現場に居合わせ、
④神功代には反乱軍の鎮圧に功あり⑤応神代には政権の中枢におり⑥仁徳代にも長老的立ち位置で現れている。
⑦300年くらい生きている伝説的人物。

まず、①はどうでもいい。で、先に⑦についてなのだが、>>13の仮定を推すならば、
せいぜい普通の長生きじいさんという結論に収まりそうである。
③④⑤から考えて、このじいさんは九州陣営の実力者なのではなかろうか? となると②は半分虚構か。
⑥の頃にはちょうどいい感じに長老であろう。以前にも書いたが、特に神功・応神との繋がりが深いのだ。
このじいさんは葛城、紀、平群、巨勢、蘇我などの租と言われているが、
おそらくそのへんの氏族は九州陣営の末裔だろう。なんとなく大伴や物部より新しい感じがする。
神功・応神政権誕生を演出したうちの一人と思われる。

26管理人:2012/03/14(水) 21:16:50
〜前回までのあらすじ〜
とりあえず、神功陣営の勝利。

266?年:台与の遣晋使 →この時までに神功東征戦は終わったと思われる。
これで神功陣営は北九州から東海・北陸までを支配下に入れたわけだ。
おそらくこの戦いで留守番陣営の一部は東へ逃れたと思われ、それを追撃に出た者たちもいたであろう。
この後くらいから纏向生まれの前方後円墳が全国各地に一斉出現する。古墳時代の始まりだ。
ちなみに箸墓は270?年頃の築造とされており、記紀では被葬者が女性とされていること、
また、その規模を考えても、卑弥呼ではなく神功の可能性が高いのではないかと推測する。

さてさて、神功崩御後は応神政権が誕生したと思われるが、
なぜかこのあたりから記紀の記述がひたすらぼやけてきて、結局どのような流れになるのかよく分からない。
<古事記>
ヤマモリ・ササギと王の課題の話→ウジノワキの母親との恋の話
→カミナガヒメをササギがもらってく話→百済の朝貢(後代?)→ヤマモリ反逆→突然昔話
<書記>
内外の安定(蝦夷や百済の朝貢など、後代? 他、公共事業など)→讒言による武内宿禰の裁判
→カミナガヒメの話(古事記に同じ)→半島の朝貢(古事記に同じ、後代?)→さらに吉野・吉備・半島の話
→アチノオミとかも出てくる→ヤマモリ・ササギと王の課題の話

なんだか時系列も滅茶苦茶な気がするし(外交記事などは本来4C末〜5C初頭の物である)、
応神一家の描写に関しても順番がバラバラだ。急にやる気をなくした印象を受ける。
それに、妙に平和なのも気になる。きな臭い記事は武内宿禰反逆疑惑とヤマモリ反逆くらいだ。
応神政権は乗っ取りで誕生しているわけであり、旧留守番陣営との抗争や、旧九州陣営と旧纏向陣営の仲間割れとかもありそうだが。

27管理人:2012/03/14(水) 21:33:52
続いて仁徳代。
<古事記>
免税の話→嫁の嫉妬1→嫁の嫉妬2→ハヤブサワケ反逆→武内宿禰と茶番
<書記>
即位闘争(ヤマモリ反逆→ウジノワキ自殺)→免税の話→公共事業→嫁の嫉妬1
→新羅の朝貢(後代?)→嫁の嫉妬2(なぜかそのまま嫁死亡)→ハヤブサワケ反逆
→百済と襲津彦の話→武内宿禰と茶番→新羅遠征・蝦夷反乱→アチノオミ登場→よく分からん話

うーん。わからん。やはり全体的に平和で、ヤマモリ・ウジノワキの絡みが怪しいくらい。
ハヤブサワケの話はどちらかというと生々しさより神話っぽさが勝っているような気がする。
外交の話も後代の物のような気がする。倭王讃の応神・仁徳説があるのはこのへんの記事のせいだろう。

<結論>
崇神 - 垂仁 - 景行 - (仲哀) - 神功 - 応神 - (宇治) - 仁徳 - 応神仁徳2 - 応神仁徳3 - 応神仁徳4 - 履中
きっとこういう流れなんだよ。4Cが空白なのは印象的な事件があまりなかったからか?
で、誰が王様なのかおぼろげにしか伝わってなくて、結局有名な応神・仁徳の事績とされたが、
本当は他にもいろいろいたんだよ説、を推してみる。

28管理人:2012/03/14(水) 22:01:05
少し時代は飛ぶが、まず倭の五王について考える。
倭の五王とは東晋や宋の冊封に入ったため、海外の記事が残っている。
ほとんどが5Cである。讃・珍・済・興・武の五人。

讃:413年、421年、425年に朝貢。(430年にも?)
珍:讃の弟。438年に朝貢。
済:上との繋がりは不明。443年、451年に朝貢。(460年にも?)
興:462年、済の子が王に。477年に朝貢?(武かも)。
武:478年、武が王に。479年、502年の記事に登場。

基本的に、済=允恭(19)、興=安康(20)、武=雄略(21)、ってのは確定事項らしい。
讃には履中(17)が有力だが応神(15)・仁徳(16)説もあり、珍は反正(18)が有力だが、仁徳説もある。
管理人は履中・反正・允恭・安康・雄略で間違いないと思っているが(履中は仁徳の息子、反正は履中の弟)、
>>26-27の外交記事のせいで錯綜している感がある。まあそれ以上に管理には応神・仁徳と神功・武内の繋がりを重視しているので、
魏志の記述や纏向の年代から考えて、>>27の<結論>のとおり、仁徳と履中の間には一世紀の断絶があると考えているのである。

29管理人:2012/03/14(水) 22:23:22
もう一回年表作る。
<3C前半>
【1】崇神(10)→【2】垂仁(11)→【3】景行(12)
この流れは記紀における王宮所在地の記述と纏向の年代から考えて間違いないと思う。
<3C中頃>
【3】景行(12)九州遠征→[【?】仲哀(14)]暗殺?→【4】神功
これは魏書における「卑弥呼の死から台与が王となるまでの国の乱れ」と考える。
景行の九州遠征と神功の東征がそれにあたると思われる。仲哀は景行と同一か、または幼い景行の世継ぎと考える。
<3C後半>
【4】神功→【5】応神(15)→【6】宇治→【7】仁徳(16)
神功の畿内入りから、仁徳の難波王朝まで。神功・応神は乗っ取り政権であり、
色々ゴタゴタしたと推測する。武内宿禰反逆疑惑やヤマモリ反逆・ウジノワキ自殺がそれに該当か?
今後はこのへんのゴタゴタについて色々と妄想したいところ。
<4C>
【7】仁徳(16)→【8?】応神仁徳2→【9?】応神仁徳3→【10?】応神仁徳4
完全に推測でしかないな、これは。仁徳は事績のみならず、人間性についても好意的に言及されている部分が多いので、
安定した長期政権だったのではないかと思われる。しかし一人で百年頑張るのは辛そうなので、
他に3人くらいいたんじゃねえか? という予想。事績や応神や仁徳のものにされてしまっている。
<5C>
【10?】応神仁徳4→履中(17)→反正(18)→允恭(19)→安康(20)→雄略(21)
このへんはすっきりしているような気はするが。なお、履中代より書記官を設置したらしい。
この頃から文字記録がとられるようになったのだろう。だからそれ以前は極めて曖昧。

やはり神功や武内宿禰の存在を考えると、応神・仁徳は3Cだよなあ。仁徳は4C半ばまで生きていた可能性はあるが。
また今度。

30管理人:2012/03/15(木) 23:17:07
〜前回までのあらすじ〜
>>29

さて、>>3の時点では応神・仁徳が4-5Cは間違い! 3-4C! と言っていたわけであるが、
>>29のとおり、間違いっちゃあ間違いなのかもしれないが、別に間違いでもないのである。
ただ、いわゆるホムダワケは3C後半であり、いわゆるオホササギは4C前半、というのが結論である。

いよいよ当初の目的である応神・仁徳(いわゆるホムダワケ・いわゆるオホササギ)の話を進めていくのであるが、
神功代までは「記紀」に対して「考古学」と「海外記事」が両翼を担い、それっぽい仮説を立てることができたのだが、
応神代以降は「海外記事」が欠落するので、今後は妄想成分が多くなりそうである。
それに、一翼の「考古学」も4Cは何だかいまひとつである。これは王都が難波へ遷ったからであろう。
当時は湿地が多く、尚且つ現在は市街地に埋め尽くされているので、でかい古墳が沢山ある、
というくらいの成果しか上がっていない。もっとも、管理人が考古学について知らないだけだというのが実情だろうけど。

まあいいや。
通常、乗っ取り政権は短命に終わるものである。6C初頭の継体もそうだろうし、奈良時代なんてその最たるものだ。
平氏もすぐやられ、源氏もすぐ北条に乗っ取られ、戦国期には三日天下なんて言葉もある。
だとすると応神政権も相当なもんだったとは思うのだが、そのへんについて>>26-27をもとに妄想していきたい。

31管理人:2012/03/15(木) 23:28:38
応神〜仁徳期の主な登場人物
①武内宿禰 >>25
②ホムダワケ(応神)
③オオヤマモリ
④オホササギ(仁徳)
⑤ウジノワキ

さんざん書いてきたが、4Cの事績が悉く応神・仁徳のものとなっているのは、やはり両者の存在感が
伝承において際立っていたからだろうと思われる。応神は劇的な政権交代を果たした新王として、
仁徳は長期安定政権を築いた主君として(証するものは記紀しかないが。管理人の妄想です。)。
そこで管理人は仮説を立てるのであるが、仁徳は応神政権成立までのゴタゴタを回収することができたのではないか? と思っている。
平たく言うと、旧纏向陣営と旧九州陣営の内輪モメを解決したのではないか、と考えているのだ。
それを暗に示すのが、オオヤマモリの反逆・謀殺、および、ウジノワキの自殺、なのではないかと思っている。

①武内宿禰について。これは>>25で述べたが、管理人の見立てでは旧九州陣営の実力者であり(王子とかかもしれん)、
神功・応神政権成立の功労者である。しかし、それゆえに、困ったことが起きてしまうのである。

32管理人:2012/03/16(金) 00:05:57
武内の弟であるウマシウチは政権の中枢にいる兄を排除しようとして、応神に対し、
「うちの兄貴が筑紫を乗っ取り、半島を仲間に入れて、天下を狙ってるで!」と言ったのだ。
武内宿禰の九州出張中に讒言を企てたわけである。結果、熱湯裁判で武内が勝つのであるが、
この記事は「乗っ取り政権が安定せず内部でゴタゴタしてます」という状況を表しているのではなかろうかと思う。
それとは別に、讒言の内容について、武内が旧九州陣営の実力者であるからこそ、
真に迫っているのではないか、という推測も成り立つかもしれない。
ともあれ、このゴタゴタ状況をどのように解決していくのか。次は>>31の②について見ていきたい。

②ホムダワケ。応神である。
母は言わずと知れた神功である。旧九州陣営の次期女王候補であり、つまりは卑弥呼ゆかりの者だろう。
父は仲哀、ということになっている。わざわざ勿体ぶって書くのには理由があって、記紀における神功懐妊から応神出産までのくだりが
見るからにスーパー言い訳臭いのである。まあ、それはいい。対外的には、父は仲哀! である。それだけでよい。
子供はいろいろいるうち、有力なのは>>31の③④⑤である。その③④⑤の母、つまり応神の嫁を見てみよう。
③の母はタカキノイリヒメ。④の母はナカツヒメ。両者は姉妹であり、その父は景行の息子イオキと
尾張系(つまり旧纏向陣営かつ留守番陣営)の女性の子である。つまり、徹底的に旧王権の出自なのである。

このへんに内輪モメを抑えたいという苦労が垣間見えるではないか。
ところが⑤の母は違うのである。そして応神は⑤の母に対し、圧倒的なまでにホの字(死語)であったことが古事記に書かれてある。

33管理人:2012/03/16(金) 00:26:05
>>31の⑤の母はヤカハエヒメ。和邇のヒフレノオオミの娘と書かれている。
この古墳時代にちょいちょい出てくるワニ氏というのは、なかなかに謎めいた連中なのだが、
まあそれはいいとして、>>18に出てきたタケフルクマという奴が和邇の祖ってことになっている。
タケフルクマは武内と共にオシクマ王を倒した人物であり、勝ち組サイドである。
神功東征軍に参画し、畿内平定後に山城あたりに根付いたのだろう。(ヒフレノオオミは宇治の木幡に住んでいる。)
まあ、ここでは、ヤカハエヒメは官軍タケフルクマ系の女である、というくらいに考えていればよろしい。

さて、>>26-27の王の課題の話である。これは応神が③ヤマモリと④ササギに対し、
「大きい子供と小さい子供はどっちが可愛いと思う?」などと尋ね、空気の読めない脳筋ヤマモリは「大きい子やろ」と答え、
そんなことはどうでもいいから女の尻でも追っかけていたいササギが適当に「若い娘の方がええわ」と答えたところ、
応神が「ササギよ、よくぞワシの考えを見抜いた! 末子のウジノワキを世継ぎにする!」などと言い出す茶番である。
こんな風に古事記には、応神にとってヤカハエヒメは最愛の妻であり、その子であるウジノワキは可愛くて仕方ないという感じで書かれている。

つまり応神は、内輪モメを抑えたいと苦労しつつも、動機が政治的なものなのか家庭的なものなのかは分からないが、
いずれにせよ争いの種を撒いてしまったわけだ。はたから見ればこの選択は旧王家軽視にしか見えなかっただろう。

34管理人:2012/03/17(土) 00:12:06
〜前回までのあらすじ〜
>>31-33

さて、>>33の展開の末、③ヤマモリが農水大臣、④ササギが総理大臣、⑤ウジノワキが王様になった。
応神の死後、ササギとウジノワキが何年も皇位を譲り合っているうちに、古事記では普通に死に、
日本書紀では自殺し、そんでもってササギが即位するのであるが、まあ、嘘だろう。
実際、ウジノワキは菟道に宮を構えたと記載されており、どこぞの風土記には「宇治天皇」が登場している。
応神の思惑通り、確実に即位していたと思われる。そして、応神以来のゴタゴタを確実に引きずっていたと思われる。

都が宇治ということは、きっとタケフルクマ系の庇護下にあったと察せられ、
畿内から逃れたこともゴタゴタを避けてのことじゃないかと妄想する。
ちなみに応神の宮は磐余(磯城エリア)であり、すなわち纏向の延長上である。
ウジノワキ政権は応神の妥協を一掃し、完全に旧九州陣営で固めたものだったのではなかろうか。

これは負け組である留守番陣営だけでなく、勝ち組であるはずの大伴や物部も不服に感じたであろう。
③ヤマモリは不満分子たちに担がれたのかもしれない。立場上、最も担がれやすそうではある。
一方、①武内宿禰や④ササギは、今後の展開を考慮すると、もうちょい長期的展望に立っていたのかもしれない。

35管理人:2012/03/17(土) 01:00:53
4Cは本当に分からん。3Cや5Cは記紀と海外の倭国記事を繋げることによって
予想を立てることもできるが、4Cは記紀から想像を広げて「だいたいこんな感じ」と
妄想を繰り広げることしかできない。困ったもんだ。

別の視点から考える。4Cを妄想することは、3Cと5Cを繋げる作業なのだ。
5Cの大和政権は、いつの間にやら半島の南半分を勢力下に組み込んでおり、
3Cに北九州の国がやっていたような大陸への遣使を始めたりもしている。
そのような流れになる必然性を3Cに成立した結果から導き出していくことが、
4Cの解明に繋がるのだろう。でもやっぱり、分からんもんは分からん。

36管理人:2012/03/17(土) 12:59:09
さて、>>34で宇治政権は旧九州陣営で固めたものかも、と書いたが、違うような気がしてきた。
なぜなら、旧九州陣営のボスである武内宿禰は、ややこしい経緯の末、仁徳を担いだ可能性が高そうだからである。
そもそもタケフルクマの出自がよく分からない。景行遠征に付いて行った畿内陣営かもしれないし、
景行に接収された九州陣営かもしれないし、神功東征の過程で降った出雲や吉備かもしれないし、全くの別物かもしれない。
とにもかくにもウジノワケの王位自体が記紀から消されているのを見ると、タケフルクマの余所者度は高かったと思われる。
それが神功東征戦の大功から急速に力をつけ、最終的にいろんな旧勢力を敵に回す形になったんだろうと妄想。

>>34にもう一つ間違いが。磐余で執政したのは神功であった。応神は明宮というところで、橿原市内らしい。
応神は明宮で崩御したらしいが、一説には難波でもあるらしい。後者は管理人の言う応神仁徳2〜4かもしれない。

③ヤマモリについて。父は応神、母や景行+尾張系の女性である。それ以上の情報がないのが辛い。
応神の死後に反乱を起こすので、旧留守番陣営に唆されたと妄想する。
以後、ヤマモリ挙兵→ササギがウジノワキに密告→ヤマモリが宇治川を渡河する際、ウジノワキが舟の漕ぎ手に化ける
→舟の底に汁を塗り、ツルツルにする→ウジノワキが舟を傾け、ヤマモリが落ちる→流されるヤマモリに一斉に矢が放たれる
→ヤマモリ死亡。となるのである。この時既にササギは難波に住んでいたとの記述が見える。

37管理人:2012/03/17(土) 13:29:23
④ササギについて。父は応神、母はヤマモリの母と姉妹である。ササギの嫁はいろいろ判明しているので、妄想しやすい。
正妻はイワノヒメ。葛城襲津彦の娘であり、つまりは武内宿禰の孫である。履中・反正・允恭の母。
側室のカミナガヒメについては、もともと応神が美人の噂を聞いて日向から呼んだのであるが、
ササギが彼女を見て気に入り、武内を通じて応神におねだりし、自分がもらったらしい。意味ありげなエピソードである。
側室の八田皇女は異母妹。ウジノワキの同母妹である。イワノヒメ嫉妬の話が有名。
他にもいろいろな女性にちょっかいを出しており、記紀には随分と好色であったかのように描かれている。

好色は別として、それ以外の仁徳に関する記紀の記述は、好意的を通り越して買い被りすぎのようでもある。
ただ、管理人は、仁徳はそれなりに有能であり、聖帝エピソードは極端すぎるにしても、
民心を掌握することに関してもある程度は成功していたのではないかと考えている。
1.応神はウジノワキを世継ぎにしたが、一方でササギを実務のトップに据えている。能力を認めていたのだろう。
2.神功・応神政権の中枢にいたと思われる武内系の女性を正妻としている。武内もササギの実力を分かっていたのだろう。
3.おそらくウジノワキ暗殺に成功しており、神功東征以来のゴタゴタを回収できたのではないだろうか。
4.多少の税軽減があったかもしれないし、大規模な公共工事の記載もあり、ある程度の富国を実現したのではないか。
5.難波を宮とし、造船の記事などもあり、富国強兵も相まって、4C後半に半島南部を勢力下に置く足掛かりになったのではないか。
6.たぶんイケメン。あと、墓がでかい。

38管理人:2012/03/17(土) 13:52:01
>>37で「あと、墓がでかい」と書いたが、大仙の築造時期は5C半ばとされており、
通説にはあうが、管理人説には合わない。以下、完全に妄想なのだが、5Cは五王の時代であり、
彼らにとって仁徳は祖であり、伝説の名君である。したがってこの時期に仁徳の墓をさらにでかくした、
などと考えてみるのも面白いかもしれない。応神の墓についてもありえるかも。
いずれにせよ、百舌鳥や古市の古墳群は増築も含め、4Cの富国強兵時代を反映してのものだろう。

日向のカミナガヒメについて。
日向は景行が九州遠征時に数年間滞在したところであり、神話における日向エピソードの殆どは、
景行の日向滞在が原因となって発生したのではないかと管理には考えている。根拠はない。
まあそれはともかく、カミナガヒメは景行ゆかりの者なのではないだろうか?
熊襲なのか隼人なのかクナ国なのかは分からんが、景行は南九州の勢力とも関係を持っていたようだ。

そう考えてみると、仁徳の嫁リストにはゴタゴタ回収の証拠が揃っている。
イワノヒメは武内系、カミナガヒメは景行系、八田皇女はタケフルクマ系、吉備系の女性(クロヒメ)にも
ちょっかいを出しているし、自身の出自は父方が神功系、母方は留守番系である。なかなか見事である。
イワノヒメの嫉妬というのは、本来最有力であるはずの武内系の力が、
婚姻政策を経て相対的に下がっていることを危惧してのことなのかもしれない。

39管理人:2012/03/17(土) 14:44:12
以上の流れにより、いわゆるホムダワケ・いわゆるオホササギの時代について、
その由来や背景がある程度解明できたと考えているのであるが、どうだろうか?

その後(4C半ば以降)は、仁徳の方針を引き継いだ「応神仁徳的な王」が数代続き、
半島南部の制圧、それに伴う知識人の渡来を経て、5C初頭の履中代に繋がると思われる。
しかし5C末、雄略の武断専制が始まると葛城氏や平群氏が失脚し、王権内部のパワーバランスが崩壊、
雄略の死後に滅茶苦茶になり、継体を担ぐも磐井の乱等で滅茶苦茶が加速し、
欽明代あたりからようやく取り繕いが始まったと予想する。その間にも6C半ばに半島の拠点を失い、大伴がいったん失脚。
さらにそれに伴う亡命渡来系が良くも悪くも争いの火種を持ち込み、次いで物部が失脚。
推古期には厩戸・馬子ラインで取り繕い再開。これはある程度成功し、煬帝の足元を見て国際的地位もジャンプアップする。
ってな具合に続いていくわけか。またしても適当なことを書いたかもしれんが、とりあえず>>40-41で2C末〜5C初頭をまとめます。

40管理人:2012/03/17(土) 15:03:10
<2C末〜3C前半>
【1】崇神(10)の立国。纏向建設開始。北九州ではこの頃に卑弥呼共立。
【2】垂仁(11)の治世。王家への権力集中が進む。
【3】景行(12)の治世。濃尾系と手を結び、瀬戸内から東海までを勢力下に。
<3C半ば>
古墳時代の権力体制に繋がる最も重要な時期。
【3】景行(12)の九州遠征。数年後に九州を平定する。その間、卑弥呼死亡。
【?】仲哀(14)の暗殺。北九州における畿内勢力と九州勢力の結託。【4】神功擁立。
この時期、北九州新勢力へと対抗するため、景行・仲哀の遺子を担いだ留守番勢力が挙兵。
【4】神功、東征へ。激戦の末、留守番勢力を平定し、畿内入り。神功政権誕生。
このことが「卑弥呼の死後、国が乱れたが、台与を女王になって国内が治まった」ことであるとする。
旧勢力の中でも勝ち組である大伴・物部の他、新勢力の勝ち組である武内系・タケフルクマ系の台頭。

41管理人:2012/03/17(土) 15:26:41
<3C後半>
【5】応神(15)の政権が神功崩御後に誕生。
新政権トップは武内系。婚姻政策によって旧勢力への懐柔も図る。
しかし結果的にタケフルクマ系へ肩入れすることとなり、禍根を残す。
【6】宇治が応神崩御後に山城で即位。政権トップはタケフルクマ系。
【7】仁徳(16)は既に難波入りしていたと考えられ、武内系と共に収拾へと動いていたか?
不遇の旧勢力が大山守を担いで反乱を企てるも失敗。
<4C前半〜中頃>
【7】仁徳(16)即位。宇治の自殺は考えられず、パワーバランスを考慮して暗殺されたか?
仁徳・武内ライン主導で婚姻政策による内部抗争の収拾達成。しかし武内系の地位も相対的に低下?
この頃、仁徳政権は富国強兵に努める。(造船・大規模公共事業・何らかの民心懐柔策など)
<4C中頃〜4C末>
【8〜】仁徳の遺志を継いだ王が数代に渡って前政権の政策を継承。半島南部制圧。
<5C初頭>
【不明】履中(17)即位。対外政策に伴う新着渡来の流入により、文字記録の開始。大陸への遣使開始。

42管理人:2012/03/17(土) 16:26:34
>>40-41で消された人についても整理しておきたい。名をあげると、
①開化(9)以前 ②ヤマトタケル ③成務(13) である。

①開化(9)以前
そりゃ崇神にも親父はいたわけだし、それが開化なんだろうけど、開化の段階では
まだ有力氏族の一派に過ぎなかったと思われる。神武については>>24-25あたりに書いた。
畿内を初めて制したのはやはり崇神だろう。この時、崇神に降ったのが>>23のニギハヤヒ一派なのではないだろうか。
ニギハヤヒ一派は縄文系を従えた先着弥生人と考えられる。そうだとすると、物部というのは随分古参なわけだ。

②ヤマトタケル
今までも書いてきたが、いろんな伝説のツギハギであろう。景行遠征、仲哀暗殺、神功軍による旧勢力の東国逃亡、
さらにその東国追撃、オシクマ王の悲劇死、このへんが元になっているのではなかろうか。
また、景行〜仲哀間のぶった切りを印象付ける役割も担っていると思う。
なぜなら、神功・応神は余所者度が高く、>>40をそのまま書くのは色々と不都合だからである。

③成務(13)
これもぶった切り要員。ただし、元ネタはあったと思う。一つは景行≠仲哀と考えた場合の成務=仲哀説。
もう一つは景行=仲哀と考えた場合の、ワカタラシヒコ(成務)=カゴサカorその他王子説(その場合、オシクマ=オシノワケ)。
滋賀というのがどうしても弘文と被り、ひどい話ではあるが、彼に悲劇死を与えたくなってしまう。

43管理人:2012/03/18(日) 15:22:54
〜前回までのあらすじ〜
>>40-41

当初の目的である15代16代の方々については、ある程度結論づけることができたわけだが、
>>28あたりをもう少し見ていきたいような気がしている。なんかね、どうもしっくりこないんですね。

海外記事については>>28に書いた程度のことしか出てこない。管理人が知っている範囲では、
次に出てくるのは7C初頭の裴世清の視察記録とかである(隋書)。で、五王にかんする宋書の記事であるが、
3Cの魏志と比べると、残念な仕上がりである。そりゃ当たり前だ。魏志の記事は実際に倭国へ行った奴の話を
もとにして作られているわけだから。>>13によると、張政は二十年近く滞在していたことになる。
つまり、>>40の<3C半ば>のことを目の前で見ていたわけであり、詳しいのも当然である。
ところが宋書の五王記事は来た奴の話を聞いているだけなので、残念な仕上がりになるのももっともである。

となると、例によって記紀を紐解くわけである。
<履中代・古事記>
弟・スミノエノナカツの反乱:難波から石上へ→弟・ミズハワケの隼人殺害、阿知値の重用→壬申年に崩御
<履中代・書記>
上に同じ(古事記よりも記事が詳細)→磐余で即位→重臣は平群ツク・蘇我マチ・物部イコフ・葛城ツブラ
→神の祟りの話→在位六年で死亡

44管理人:2012/03/18(日) 15:50:18
「壬申年に崩御」などとわざわざ書いたのは、wikiによると、在位:古事記427〜433年、書記400〜405年と
なるらしいからである。詳しくは読み取れなかったのだが、書記の在位年はおそらく
仁徳〇年とか履中〇年とかをもとにして計算しているのだろう。壬申年だと432年になるそうだ。

干支ってのは甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干と子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥の十二支を組み合わせて60年で一巡するやつだ。
丙午年生まれの女性はさげまんだという迷信があるから該当年の出生数がやたらと減る例のアレである。
<以下参考>
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
040506070809101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142434445464748495051525354555657585960010203西暦

つまり壬申年は12+60x年だから、372・432・492あたりになるわけで、432年というわけだ。
古事記の方が>>28とも相性がいい(あくまでも讃=履中と考えた場合)。ただ、古事記の干支がでたらめな可能性もある。
何でこんな話を持ち出すのかというと、実は履中と反正に関して古事記と書記で没年が全然違うのだ。
このへんの錯綜具合が讃と珍が誰なのか分からん原因になってるとも思うのだが、
管理人は応神を3C末、仁徳を4C前半としたので、あえて履中・反正に関しても検証しているというわけなのですわ。

45管理人:2012/03/18(日) 16:30:27
履中代から国史を記録する書記官を置いたそうだから、書記の「履中○年」より古事記の干支の方が
信用度は高いと思うんだが、どうでしょうかねえ。いずれにせよ、困ったことあある。>>28である。

>讃:413年、421年、425年に朝貢。(430年にも?)

誰だよお前?w 430年にも?の人は、きっと履中なんだろうなあ、と思う。
ってことはだ。讃≠履中なのか? 考えられる理由は以下4点。
①古事記の干支が間違っている説。②履中の在位は長かった説。③宋書の記事が適当説。
④讃は履中の前の王(管理人の言うところの「応神仁徳4」。4なのかどうかは知らんが。)説。

いろいろ考えてみて、管理人的には②か④、或いはその合わせ技を使用したい気分である。
合わせ技とは、応神仁徳4=讃は譲位こそしていなかったが、おじいちゃんなので履中が半ば摂政化していた説である。
ちなみに古事記における応神・仁徳の没年はそれぞれ、274年or334年or394年、317年or367年or427年である。
管理人はこれを、応神仁徳3が394年崩御?、応神仁徳4が427年崩御だと考える。
なぜなら、履中代から文字記録を始めたはずであり、その際に先代・先々代の没年を記したはずだからである。
したがって、いわゆるホムダワケ・いわゆるオホササギの没年は不明である。

46管理人:2012/03/18(日) 17:03:00
そもそも応神や仁徳の年齢ってどんなもんだったのか?
長生きなのか早死になのか普通なのか、それすらも分からんからどうしようもないが、
他の親族との関わりからある程度は推測できるのではないだろうか? ちょっと試みてみよう。

台与の生年は235年頃とされている。これは卑弥呼が247〜248年頃に没し、台与が13歳でどうのこうの、
という記事があるからであろう。ただ、台与の女王戴冠は以下3つの時点が考えられるので、何とも言い難い。
①卑弥呼死去の時点 ②仲哀崩御の時点 ③畿内入り&政権樹立の時点
ここから先は管理人の予想でしかないのだが、おそらく①の時点で13歳だったのではないかと思う。
つまり通説同様235年頃の生まれと見るわけである。②の時点で13だと、何となく教育上よろしくない気がするのだ。
後は当てずっぽうだが、②が16〜17歳、③は24〜25歳だろうか?(神武東征は出発から即位まで6〜7年かかっている。)

そう考えると、ホムダワケは神功17〜18歳で生まれているので、253年頃生まれとなる。
ヤマモリとササギは別腹だが、ヤマモリの方が年上で、なおかつヤマモリにも兄貴がいるので、
まあ、ササギ誕生はホムダワケ22〜23歳の頃だろうか。とすると、275年頃生まれ。
ホムダワケ崩御年は不明だが、だいたい世紀の変わり目ぐらいだろうか。
宇治政権が仮に5〜6年くらいだったとすると、ササギは30歳くらいで即位したのだろうか。
70まで生きたとしても、崩御は345年くらいか。完全に空想でしかないが、当たらずとも遠からず、ってな感じか。

47管理人:2012/03/18(日) 17:20:03
というわけで、管理人の見立てでは、在位年は以下の通りになる。ただの妄想。
神功:252?〜269?
応神:270?〜299?
宇治:299?〜305?
仁徳:305?〜345?
子仁徳:345?〜370?
孫仁徳:370?〜395?
曾孫仁徳:395?〜427
履中:427〜432
あくまでも全て直系の相続と仮定しての話。実際は夭折による兄弟相続もあったと思うけど、確かめようがないわな。
内輪モメにしても、小競り合い程度はあったかもしれんが、ヤマモリやウジノワキに匹敵するくらいの話があれば
せめて多少の伝承に反映されるんじゃないだろうかと思うんだが、どうだろうか。

48管理人:2012/03/18(日) 18:09:05
済=允恭、興=安康、武=雄略。これはまあいいとして、
珍=反正、と、なるわけだ。そして、
讃=仁徳四世!

まさか自分でもこんな結論が出てくるとは思わなんだわ。学界が鼻で笑いそうな結論だなこれは。
四世かどうかは知らんけどね。さすがに仁徳一族が全員長生きってのは考えられん。
つまり、記紀の応神・仁徳代における外交関係記事ってのは、仁徳三世・仁徳四世代の記事というわけだ。
応神・仁徳の記事は悉く「応神・仁徳・二世・三世・四世」のどれかに振り分けられるのかもしれない。
場合によっては、二世の子供がヤマモリ・ササギ=三世、ウジノワキ、ってなことになる可能性もあるわけか。
ただ、武内宿禰と茶番をやったり、襲津彦の娘と結婚したりする仁徳は
存在したと考えられるので、その仁徳は真・仁徳でいいと思われる。

また、4C末に百済・新羅の覇権を高句麗と争うくらいになるわけであるから、その時期までに国内で
3Cのような大きい乱れがあったとは考えにくく、宇治大王崩御以降は、仁徳系王朝が継続していたと思われ、
不確定要素が大きいのは承知であるが、宇治は真・仁徳の前に置きたいところである。

49管理人:2012/03/18(日) 23:58:33
とは言ってみたものの、風呂に入りながら、応神・仁徳は4-5Cだよ派(通説派)の批判をかわせるかどうか考えた。

①サチヒコ=襲津彦だよ派
 サチヒコとは三国史記に名前が見える新羅を攻めてきた倭人。通説ではサチヒコ=葛城襲津彦である。
 この場合、四世の嫁が仁徳となり、襲津彦は武内の息子ではなく遠い子孫になる。
②ヤマモリ・ウジノワキの死が300年前後なら、そんな古い伝承が残っているはずないよ派
 この場合、三世=応神、四世=仁徳、となる。そもそも履中の親父の代ですらよくわからんのに、
 百年も昔のお家騒動なんて覚えているわけないだろ。ヤマモリ・ウジノワキはもっと直近、ということになろう。
③仁徳と武内の茶番はただの創作だよ派
 雁が卵を産んでどうのこうの談笑したり歌を詠んだりする話である。
 確かに内容的にどうでもいい話なので、創作というのはいかにもありそうではある。
④アコゴの存在を忘れているよ派
 仁徳代と履中代の記事に出てくる。確かに忘れてたわ。

うーん、どの批判ももっともだと思われる。少なくとも、四世はかなり仁徳度が高そうではある。
その場合、神功が筑紫で生み、神功崩御後に畿内で即位したホムダワケと、
ヤマモリ・ササギ・ウジノワキの父親である応神は別物になるわけだ。応神=ホムダワケ、三世=応神。
つまり、応神・仁徳4-5C説が違うと思うから始めた当スレにおける考察は、堂々巡りしたというわけなのか?

50管理人:2012/03/19(月) 00:22:14
結論として、ホムダワケも三世も応神的であり、オホササギも四世も仁徳的なのである。
誉田山は三世、大仙は四世の墓かもしれない。要は、名前だけの問題なのだ。
神功の息子と履中の祖父のどっちをホムダワケ、或いは応神と呼ぶか、
同様に、神功の孫と履中の親父のどっちをオホササギ、或いは仁徳と呼ぶか、それだけの問題である。
個人的にはどっちでもいいので、ヤマモリとウジノワキがどっちの時代なのかを知りたいところである。
ウジノワキは実際に即位したと思われるので、年次を示す他の史料や考古学の成果があれば教えてほしいものである。

とりあえずこの件は保留ということで、機会があれば記紀の応神・仁徳記事を全て分類してみたいと思っている。
新しい発見があるまでは、神功-応神-宇治-仁徳-二世-三世-四世-履中であると仮定して進めていきます。
呼び名がないと困るしね。

随分脱線したが、>>43の履中の話をしていきたいところ。履中・反正の話は少ない。
履中。本名イザホワケ、父は仁徳、母はイワノヒメである。
記事を読む限り、鈍そうである。まず、弟のスミノエノナカツに嫁を寝取られる。
スミノエノナカツは履中が何らかの手を打つと考え、軍勢を集めて履中の家を取り囲むのであるが、
当の履中はやけ酒を飲んで酔い潰れている。この後、一体どうなってしまうのか!?

51管理人:2012/03/19(月) 22:40:36
〜前回までのあらすじ〜
>>50
一体どうなってしまうのか!?

実は王様の家はもぬけのからでした。スミノエノナカツの反逆に気付いた平群ツク、物部オホマエ、アチノオミは
履中に報告するが、履中はへべれけである。そこで仕方なしに三人で王様を担ぎ上げ、馬に乗せて逃げさせた。
「神輿やないねんから!」ってな状態だろうか? 一説によると、物部オホマエが一人で背負って逃げたとも。物部すげえ。
羽曳野辺りでようやく履中は目を覚まし、燃えとる難波を見て、一大事に気付いたらしい。
で、なんやかんやがあった後、石上まで逃げたとさ。石上は物部の本拠地である。

さて、そこに弟のミズハワケ(後の反正)が兄貴が心配でやって来た。履中はすっかり疑心暗鬼に陥っており、会おうとしない。
二心は無いと言うミズハワケに対し、「スミノエノナカツを倒したら信じたるわ!」と言ってひきこもってしまった。
ミズハワケは履中が信頼している平群ツクを同行させ、やれやれだぜ、ってな感じで難波へ赴いた。
さて、スミノエノナカツにはサシヒレ(書記/古事記ではソバカリ)という名の隼人に近衛役をさせていたのだが、
こいつを金品で釣り、スミノエノナカツが用を足している隙に殺させた。

ところが、サシヒレに功はあるが、主君殺しの罪もある。どないしょ? ってな理屈が生まれ、
サシヒレを盛大にもてなした後、処刑した。ひでえ。その後、履中は磐余で即位する。

52管理人:2012/03/19(月) 23:32:37
履中は五〜六年後に病気で崩御するのであるが、とりあえず登場人物の嫁や部下を見ておきたい。
このへんをチェックしておくと、だいたいの勢力図が見えるので、便利である。
・イザホワケ(履中)
 嫁はクロヒメ。>>50で弟に寝取られた嫁である。本人は暗くて気付かんかったらしい。
 これの父親はアシタ。羽田ヤシロと書かれている箇所もあり、だとすれば武内系氏族である。
 子供は市辺のオシハの他、青海皇女=飯豊皇女の名が見える。
 臣下では平群、物部が信頼を得ているようだ。即位時には重用したのは>>43のとおり。平群・蘇我・葛城が武内系、物部は古参。
・スミノエノナカツ
 父母ともにイザホワケに同じ。臣下に阿曇連ハマコ、倭直アコゴがいる。どっちも許されたらしい。
 阿曇はよく分からんが、倭直は神武代あたりに出てくる水軍集団だったはず。アコゴも先代の世に半島へ派遣された記事がある。
 墨江ってのは難波の港であり、スミノエノナカツは水運系を管理していたのではなかろうか。
・ミズハワケ(反正)
 これも父母ともにイザホワケと同じ。履中崩御後に近つ飛鳥エリアを宮としたらしい。
 歯並びが良く、身長が280センチくらいあったらしい。化けモンじゃねえか。他に大した記事はない。
 嫁は二人いるが、どっちもワニ系。丁丑年に崩御なので、437年没か。珍の朝貢は438だが、当時の交通ならそんなもんだろう。

アチノオミについて。>>51に出てきた人。東漢氏の祖である。近来の渡来人(大陸系)と思われる。
書記の応神二十年に大勢で渡来したと書かれており、応神三十七年に呉(東晋or宋)に派遣したと書かれてある。
書記の○年はアテにならんのだが、この応神三十七年は>>28のどれかに当たるのであろう。

53管理人:2012/03/20(火) 14:21:25
ちなみに>>51の展開は書記なのだが、古事記では阿知直(=アチノオミ?)が一人で履中を連れ出して逃げている。
そして羽曳野辺りで履中が目を覚まし、「ここ何処?」などと言ってくれる。
古事記では阿知直を大蔵大臣みたいな役職に据えたことも書かれてある。

履中代・反正代はこんなもんである。(それにしても反正とは、後代に付けたものだが、妙な名前だ。)
どっちも短い。推測するに、履中・反正・允恭と兄弟が続くので、先代(四世)が長生きしたのではなかろうか。
したがって、要介護、みたいな状態になってるのではと無茶苦茶な妄想をしておく。
個人的には、履中にはかなり好感が持てる。慕ってくれる臣下がいっぱいいるというのは、素晴らしいこと思う。
やっぱり讃≠履中であってほしい。(何故?)

<允恭代・古事記>
宮は遠つ飛鳥→氏姓の統制→甲午年崩御→木梨軽王子の話
<允恭代・書記>
允恭は病弱→反正没→誰が王様になる?→四世の子には允恭とオホクサカがいるよ→允恭「俺、病弱やからいらんわ」
→允恭の嫁「(允恭に)おまえがやれよ」→允恭「しゃあないなー」→嫁のために刑部制定→新羅の医者が允恭を診察
→氏姓の統制→允恭の浮気話→木梨軽王子の話→崩御→新羅の弔使・オホハツセとトラブル

54管理人:2012/03/20(火) 15:04:19
甲午年崩御、ということは454年没か。それにしても履中・反正とも早く死んだと思ったら、
允恭は出てくるなり病弱である。それを理由に即位を渋っていたりもする。
でもまあ、渡来の医者に診てもらったからかどうかは知らないが、履中・反正よりは治世が長いようである。

・ワクゴノスクネ(允恭)
 履中・反正の同母弟。嫁はオシサカノオオナカツヒメ(長いから忍坂姫と呼ぶわ)。嫁の出自は応神系。主要な子供をあげると、
 木梨軽、クロヒコ、アナホ(安康)、カルノイラツメ、シロヒコ、オホハツセ(雄略)、といったところ。

さて、よく分からんのだが、上のカルノイラツメの扱いが古事記と書記とで違う。
どっちも木梨軽の近親相姦事件の相手であることは一致しておるが、古事記では別名:衣通姫とされ、事件は允恭崩御後に起こり、
木梨軽の伊予道後流刑時にカルノイラツメは彼を追っかけていき、最終的には心中するのである。
ところが書記ではカルノイラツメと衣通姫は別人で、衣通姫は允恭の浮気相手であるオトヒメ(忍坂姫の妹)の別名である。
また、木梨軽事件は允恭存命時に起こっており、流罪にされるのはカルノイラツメの方である(木梨軽は失脚するだけ)。
古事記では木梨軽は事件後、物部オホマエの家に逃げ込み、オホマエから連れ出され、伊予に流されている。
書記では允恭死後、木梨軽が失脚してオホマエの家に逃げ込み、オホマエの家がアナホの軍勢に囲まれ、木梨軽が自害して安康即位となる。

允恭の浮気話も、なんとなく謎めいている。どうってことはない話なのだが、なんかヘンなのである。
古事記に記載がなく、衣通姫の扱いが異なることもそうなのだが、書記の記載はやたら詳しく、いろんな人名地名が出てくる。
それがなんかヘンなのである。

55管理人:2012/03/20(火) 15:27:42
<允恭の浮気話(書記)>
・ワクゴノスクネ:允恭である。
・オトヒメ:忍坂姫の妹。超絶美人。あまりにも美しいので、その美しさが衣を透けて
 見えるほどだという。だから衣通姫とも呼ばれている。允恭が一目惚れ。
・中臣イカツ:允恭の舎人(雑用係)。渋るオトヒメを允恭の元へ連れて行こうと頑張る。
・皇后:忍坂姫。激しく嫉妬。
・大伴ムロヤ:允恭にオトヒメとのノロケ話を聞かされることになる。

オトヒメ登場・允恭一目惚れ→オトヒメを呼び寄せるためイカツ派遣→姉の心中を察して渋るオトヒメ
→飯も食わず(かれいひのみ)粘る一週間イカツ→折れるオトヒメ・厚遇されるイカツ・闇のオーラを放つ皇后
→オトヒメを藤原に住ませる→皇后がオホハツセ出産中に允恭が藤原訪問→怒って産屋に火をつけ、死のうとする皇后
→慌てて皇后のご機嫌取りに走る允恭→事なきを得たものの、その後もしょっちゅう藤原へ行く允恭
→気が引けて遠くへ引越したいオトヒメ→オトヒメが泉州引越→しょっちゅう泉州へ行く允恭→ムロヤにときめきを熱弁する允恭

以上なのだが、やっぱりどうってことはない話である。
ちなみにこの皇后には、「ガキの頃に馬鹿にされた男に対し、皇后になった後、怒ってその男を格下げする」という
エピソードもある。随分と気性の激しい女性であるように書かれている。そういや允恭は病弱で即位を渋っていたのに、
「お前が王様になれよ(>>53)」などと言っている話もあった。なんとなく、ある意味で典型的なキャラではある。

56管理人:2012/03/20(火) 16:49:50
病弱だとか言ってたのに、医者に診てもらった後は随分と盛んですこと。
それはともかく、このどうってことはない話の何が「なんかヘン」なのかというと、
①皇后の出産と神話のコノハナノサクヤ姫が被る。垂仁妃のサホヒメとも被る。
②中臣は下っ端。
③皇后と磐之媛も被る。允恭と仁徳も被る。オトヒメと磐之媛も状況的に被る。

ってな点だろうか。だいたい記紀には同じネタの使い回しが多い。
まず①なんだが、これは神話によくあるパターンらしく、この時生まれた王は大抵すげえ感じになるのだ。
サクヤ姫は天孫ニニギの嫁。一夜だけで身ごもったサクヤをニニギが訝しんだところ、
怒ったサクヤは火をつけて出産するのである。その時に生まれたホオリは別名山幸彦であり、神武の祖父である。
サホヒメは垂仁の嫁である。サホヒメの兄であるサホヒコは垂仁に反逆し、サホヒメは兄につく。
サホヒコが討ち取られる際、運命を共にしたサホヒメが火の中で垂仁の子供を産むのである。
その子はホムツワケというらしいが、その後の神話っぽいエピソードに絡んでくるのみで、詳細はよく分からない。

まあ、そんな感じなわけだが、サクヤ姫・サホヒメ・忍坂姫の話を3つ並べて、その相関を調査すると、
いろいろ見えてくるのではないか、と思う。結局管理人は何も分からんかったが。
オホハツセ=雄略に凄さを与えるエピソードだろうか? 気合い入れて検証した割に、何も分からんかったのが悲しい。

57管理人:2012/03/20(火) 17:23:02
>>56の②について。これは結構重要だと思うのだ。
中臣は允恭代以前、下っ端だったわけだ。もしくはこの時期の新参か? 中臣の出自がよく分からんのだが、
おそらくこの頃から台頭しはじめたと思われる。が、しかし、問題がある。>>19である。
仲哀の重臣が中臣、大三輪、大伴、物部なのだ。しかも中臣の名前が同じイカツである。
仲哀代に重臣だった中臣が允恭代に落ちぶれているのもおかしいんじゃないか?
これは推測ではあるが、記紀の製作に不比等一族が絡んでいるわけであり、さも古くからの重臣であったように
見せかけるため、仲哀代に勝手なことを書いたと思うんだが、どうだろうか。
だとしたら名前くらい変えとけよ、ってなことになるが、うっかりミスってことでええやん。

中臣氏ってのは忌部氏とともに神事・祭祀を司ってた氏族、などとwikiに書かれており、アメノコヤネを祖とする、
などと書かれている。中臣氏に押し出された忌部氏が腹癒せに『竹取物語』を作った、などとよく言われている。
この允恭浮気のエピソードに藤原という地名が出てくるのも、中臣イカツと関係があるのだろうか?
管理人が頻りにこの記事について「なんかヘン」と言っているのは、いわくありそうでなさそうで、実態が掴みづらい点である。
何かを隠蔽しているような、逆に示唆しているような、実は何も意味していないような、そういう造りになっている点が不気味なのだ。

アメノコヤネ。藤原氏のルーツってことで、春日大社や枚岡神社に祀られている。ニニギと一緒にやってきた神らしい。
ところで春日大社は藤原の氏神である鹿島・香取・枚岡をまとめ併せて祀ったような由来があるのだが、
もともとは春日氏の基盤であったらしい。東からやって来た中臣がワニ系の春日と結託したんだろうか?

58管理人:2012/03/20(火) 17:53:38
なんでこんなに細かいことにこだわっているのかというと、履中代・反正代は身内の反乱こそあるものの、
何となく王家を中心とした一体感があるように感じるのだが、今後、雄略朝に向けて破綻していくぽいからである。
当然、有力氏族が争ったわけで、雄略の武断専制はそれへの巻き込まれ型、またはアンチテーゼとしての親政にも見えるのだ。

今まで見てきたところでは、履中代・反正代までは古参(大伴、物部など)、神功代からの参画①(武内を祖とする葛城、平群、蘇我など)、
神功代からの参画②(タケフルクマ系のワニ)、新参の渡来(アチノオミを祖とする東漢はここに入るか)、あたりが割と付かず離れずで
活動しているようなのだが、一気に雲行きが怪しくなってきたような気がする。
この後、木梨軽・オホクサカ・安康・マヨワ・クロヒコ・シロヒコ・市辺のオシハなどと主要人物がガンガン死んでいき、
国内も大いに乱れたと推測される。しかも雄略代以降、継体代を挟んで欽明代頃まで、いまひとつどうなっているのかよく分からない。
葛城→平群→大伴→物部→蘇我の順で今後二百年くらいかけて没落していくので、その先生きのこる中臣の祖が気になった、という次第である。

>>56の③である。仁徳代・磐之媛の嫉妬のエピソードにも同じような話があるのである。
ただし、嫉妬する側とされる側が仁徳と允恭では逆になっている。
磐之媛のキャラに忍坂姫のキャラが投影されていると思うのだが、どうだろうか? 前にも書いたが、国史記録を始めたのが履中以後であり、
仁徳の嫁を描く際、直近の出来事を参考にしてキャラ付けをした、なんていかにもありそうではないか。
また、その使い回しシステムは近過去である応神代・仁徳代をますますややこしくしていくことにも繋がっただろう。
そのせいで管理には困っているのだ。

59管理人:2012/03/20(火) 21:00:39
さて、木梨軽はスキャンダルのため人気がなく、やがて流罪or死亡となる。そこで弟のアナホ(安康)が即位。
この先はもう、ひどいものである。AがBに殺され、BがCに殺され、Cが……、の繰り返しである。
それまでは、ヤマモリやスミノエノナカツのようなお家騒動くらいはあったようだが、
臣下のメンツを見る限り、大した動きはなかったようだ。ところが今後はそうはいかない。滅茶苦茶である。

・オホクサカ:履中・反正・允恭の弟である。ネノオミの讒言により、アナホに討たれる。オホクサカの嫁もアナホの皇后になる。
・アナホ(安康):嫁(上記・オホクサカの元嫁)との会話を連れ子のマヨワ(オホクサカの子)に聞かれ、寝ている間に首を切られる。
・マヨワ:当時7歳。大王暗殺後、葛城ツブラの家に逃げる。アナホの弟であるオホハツセ軍に囲まれ、抵抗するも諦めて自害。葛城氏滅亡?
・クロヒコ&シロヒコ:マヨワ討伐前のオホハツセに、ついでに殺される。雄略キャラ付けのための創作だと思われる(名前が適当すぎ)。
・市辺のオシハ:履中の息子。狩の最中にオホハツセに暗殺される。オシハの息子二人が播磨へ逃亡。

全部が全部信用できるとも思わないが、ひどいもんだ。ただ、継体に正統性を与えるため、雄略系をひどく書いている部分もあるのかも。
ちなみに安康没年は古事記に書いていない(?)ようだ。まあ、いずれにせよ、治世は数年で終わったと思われる。

60管理人:2012/03/20(火) 21:50:36
いよいよオホハツセ=雄略である。この人は割と有名である。本名:オホハツセ=ワカタケル。
初瀬朝倉宮で即位。即位前に政敵を潰しまくっている。良くも悪くも強烈な個性の持ち主であっただろう。
記紀には「人々から大悪天皇と呼ばれた」などと書かれている。異常なほど逞しかった、とも書かれている。

政権がゴタゴタしてきたときに個性的な王が立つと、親政をやりたがるものである。
そしてその結果はあまり芳しくないのが常である。称徳もそうだし、後鳥羽もそうだし、後醍醐もそうである。
雄略の場合、生前は何とか保っていたようだが、死後に出てくる、顕宗・仁賢にしろ、継体にしろ、
取って付けたような印象を受ける。おそらく一つの時代が終わったのであろう。

父は允恭、母は忍坂姫である。嫁はクサカノハタヒヒメ(オホクサカの妹)である。
他に側室が三人おり、一人目がカラヒメ。葛城ツブラの娘で、子にシラカ(後の清寧)がいる。
二人目は吉備系のワカヒメ。子にイハキとホシカワ。三人目は春日・ワニ系で、カスガ皇女。
重臣は、平群マトリを大臣に、大伴ムロヤと物部メを大連にした、とある。

重臣から葛城が消えたわけだが、その娘を娶っているのはなかなか凄い。即位前に潰した家である。
責任を感じたんだろうか? もっとも、オホハツセが討ちに出たのはマヨワであり、葛城自体を攻めたわけではない。
吉備とか、懐かしい響きすらする。ワニは相変わらず。物部目っていう名前も凄い。

雄略代は出来事が沢山あるので、のんびり見ていきたいところである。

61管理人:2012/03/22(木) 00:48:47
〜前回までのあらすじ〜
>>51-60履中から安康まで

今回から雄略を取り上げようと思ってたけど、ちょっと脱線しますわ。
>>40-41のまとめでは崇神代から書いてるわけだけど、今回は趣向を変えて、それ以前について考えてみようと思う。
ちなみにこの先で書くことは、今まで以上にひどい、管理人の勝手な妄想である。
日本史の授業は大抵、縄文・弥生から始まるわけだ。旧石器時代とかもあるけど、それはまあいい。
・縄文人:列島が陸続きであった頃に入ってきた先着の民。古モンゴロイド。
・弥生人:海を渡って来た民。新モンゴロイド。
だいたいこれが通説であると思われるし、管理人も概ね同意である。
さて、昔の渡海は危険だと思われるが、そうまでして海を渡る理由とは何か。考えられるのは以下の3点。
①もともと住んでいた所が寒くなってきたから南下。
②もともと住んでいた所が水浸しになってきたから北上。
③もともと住んでいた所で戦乱が起きたり征服されたりしたから亡命。

だいたいこんなもんでしょう。
①は北方から。昔の寒さは厳しいだろうし、農作物も今より弱かったはず。切実な問題である。
②は南方から。こうなってしまったら海を渡るしかない。ただ、絶対数は①に比してかなり少ないと思うが、どうか。
おそらく弥生初期はこんな感じだったろう。これらの波が断続的に来たわけだ。
先住の縄文人は、おそらく疫病であらかたやられてしまったと思うが、
生き残りは追われて逃げるなり、緩やかに弥生系と融合するなりしていったのかと思われる。

62管理人:2012/03/22(木) 01:13:38
>>61の③については、当然このタイプも初期からちょいちょいいたんだろうけど、
より大陸の人口も増え、支配体制も複雑化した後代に、大量にやって来たと思われる。
この連中は数も装備も従来の縄文系や先着弥生系を上回っていたはずだから、クニ的なものを形成し始めたのは
このあたりからだろう。(いつ頃からなのかは分からんが。)こいつらも断続的にやってきたと思われ、それは7Cくらいまで続くと思われる。
(ちなみに管理人は生物学的成果については全くの無知なので、適当なこと言ってる可能性が高いよ。)

さて、>>40以前の時代についての史料となると、大陸の史書と記紀神話があるくらいだ。まず大陸の史料。
有名なのは漢書地理誌。「楽浪海中に倭人あり」ってやつだ。百余りの国に分かれていたと。BC1C頃だろうか?
実はそれ以前にも記事はあるのだが、やや信憑性に欠ける上、書いてあることも
海の向こうに倭人がいるってことが書かれてあるくらいで大差はない。

本格的に動き出すのはAD1Cからである。後漢書東夷伝。57年。漢委奴國王の金印のアレである。
その後、2Cに倭国王師升が出てくる(107年)。この107年の件については他の歴史書にも出てくる。
そして次に来るのが、魏志になるわけである。

63管理人:2012/03/22(木) 01:35:29
記紀におけるいわゆる天孫は、単純に後着の強烈な渡来だと思うのだが、あくまでも推測でしかないが、
なんとなく紀元前後あたりなんじゃなかろうかと思うのである。金印の記事あたりから、より広範な支配を狙う層が
出てきたような気がする。東洋史に詳しい人なら、強烈な渡来が列島に亡命するくらいのでかい戦乱を
当時の歴史から見つけることができるのではなかろうか。もちろんそれは単一のセクトではなく、
時期的にも前後しながら複数やってきて、ナ国だのイト国だの出雲だの吉備だのを作って行ったのではなかろうか。

さて、神話にはいろんな人間(神も含む)が出てくるが、天つ神(天孫)のほか、国つ神とかクズとか土蜘蛛とかが出てくるが、
これらは、天つ神=強烈な後着の渡来、国つ神=先着の渡来や強烈じゃない後着の渡来、
クズ&土蜘蛛=縄文系(初期弥生との混合含む)であると思われる。
記紀の描写を見ていると、まあそれらは想定できるところであろう。

さて、この状況が2Cにどうなるか、ってことなのだが、それは魏志や考古学を見れば分かりやすい話である。

64管理人:2012/03/22(木) 20:35:28
〜前回までのあらすじ〜
>>61-63

ちょいと>>63を訂正、というか追記。天孫降臨は紀元前後、というようなことを書いたが、遅くて紀元前後、ってな感じです。
まあ、記紀神話を完全な創作ではなく、多分に伝承が反映されているとみなした場合(管理人もそう見てます)、
さすがにどんだけ古くてもBC2Cまでは遡らないとは思うが。風化的な意味で。

しつこくも繰り返すが、管理人は生物学的成果について全く知らんので、適当な物言いになるが、
>>61-63の流れを見る限り、いわゆる日本人というのは、地理的な条件も相まって、血筋的には相当カオスな連中だと思われる。
基本は半島経由の北方系が主軸だと思われるが(それでも満系蒙系シベリア系その他もろもろが雑多に混入していると思う)、
それに加えて少量の南方系(海洋系やら呉越系)とか先着弥生系とか土着縄文系とかがいっしょくたに煮込まれているので、
同じ極東圏の民族の中でもかなり特異な感じがする。ちっとも均一的ではないが、それは文化的に選択肢が多いというメリットもあるように思われる。
神様が沢山いるのも頷けるし、今日の日本人の志向や嗜好に思いを馳せてみても、納得できる部分は多々あるではないか。

さて、>>63から続く2Cの話であるが、単純なことである。従来よりあった環濠集落に加えて、高地性集落、挙句の果ては倭国大乱記事である。
雑多なクニが犇めいていた列島内に、天孫なる起爆剤が投与され、近隣の統合が進み、支配体制が整いつつあったのだろう。
これは2C末の北部九州における卑弥呼共立や、畿内における崇神の立国に繋がってくる。そして>>40へ続く。

65管理人:2012/03/22(木) 21:00:34
いわゆる天孫は北方系だと考えられるが、当然列島は地理的にどん詰まりなので、先住民はあまり逃げ場がない。
となると、一部は東国や南洋に逃げたにしても、戦闘だの和睦だのを経て、多くは取り込まれていったのではなかろうか。
もちろん天孫も一度にひとところへ結集したわけでは決してなく、断続的に、北九州やら、山陰やら、北近畿やらに、
ちょいちょいお出まししたものと思われる。天孫同士のいがみ合いも当然あるわけで(そもそも便利だから天孫という語を用いているが、
別にセクトが違えば同士ではない)、大乱にもなっただろう。>>23に書いたイワレビコとニギハヤヒにしたところで、天孫同士の抗争→結託である。

1Cに北九州へ来た連中はナ国の王となり、他勢力へ対抗するため皇帝の権威を借りようとしたわけだ。
さらに天孫は続々とやって来るわけだが、ナ国がやばそうだから日本海や瀬戸内つたいに出雲や吉備へ行った連中もいるだろうし、
無理やり九州に割り込んでイト国やらフミ国やらを作った連中もいただろう。出雲や吉備の動きに呼応して畿内へ進出した連中もいただろう。
ニギハヤヒなんてまさにそれだ。やがて国がまとまっていくと、大乱の時代は終わる。
その契機となったのは、卑弥呼共立や崇神立国であったわけだ。高地性集落も消え、新たな展開を迎えるわけだ。

なぜ脱線して2C以前をやろうとしだしたかというと、>>40の出だしが唐突なので、もう少し流れを分かりやすくしたかったわけです。
歴史の勉強とは流れを掴むことだよ、なんて風によく言われなかったかい?

66管理人:2012/03/22(木) 21:20:21
<〜紀元前後>
天孫降臨。先着者による小国の統廃合が始まる。今後7〜8C頃まで断続的に新着が渡来する。
<1C〜2C>
ナ国王や倭国王師升の記事。小国の統廃合がさらに進む。
2C半ば、倭国大乱の記事。覇権争いへ突入か。
<2C末>
【1】崇神(10)の立国。北九州ではこの頃に卑弥呼共立。勢力図が固まり、大乱収束。
<3C前半>
【2】垂仁(11)の治世。畿内では王家への権力集中が進む(纏向)。
【3】景行(12)の治世。吉備・尾張と手を結び、瀬戸内から東海までを勢力下に入れたか。
<3C半ば>
景行の九州遠征。数年後に九州を平定する。その間、卑弥呼死亡。
【?】仲哀(14)の暗殺。北九州における畿内勢力と九州勢力の結託。神功擁立。
(この時期、北九州新勢力へと対抗するため、景行・仲哀の遺子を担いだ留守番勢力が挙兵。)
神功東征。激戦の末、留守番勢力を平定して畿内入り。神功政権誕生。
この一連の流れが「卑弥呼の死後、国が乱れたが、台与を女王に立てて国内が治まった」ことである。
旧勢力の中でも勝ち組である大伴・物部の他、新勢力の勝ち組である武内系やタケフルクマ系(ワニ系?)の台頭。

67管理人:2012/03/22(木) 21:31:14
<3C後半>
【4】神功、崩御。
【5】応神(15)政権誕生。
新政権トップは武内系。婚姻政策によって旧勢力の懐柔も図る。
(※しかし結果的にタケフルクマ系へ肩入れすることとなり、禍根を残す。[応神=応神説])
(※【6】宇治が応神崩御後に山城で即位。政権トップはタケフルクマ系。[応神=応神説])
(※仁徳は既に難波入りしていたと考えられ、武内系と共に収拾へと動いていたか?[仁徳=仁徳説])
(※不遇の旧勢力が大山守を担いで反乱を企てるも失敗。[応神・仁徳=応神・仁徳説])
<4C前半〜中頃>
(※【7】仁徳(16)即位。宇治は暗殺? パワーバランスの回復。[仁徳=仁徳説])
内部抗争の収拾達成。しかし武内系の地位も相対的に低下?
この頃、政権は富国強兵に努める。(造船・大規模公共事業・何らかの民心懐柔策など)
<4C中頃〜5C初頭>
【8】仁徳二世。【9】仁徳三世。【10】仁徳四世。
仁徳の遺志を継いだ王が数代に渡って前政権の政策を継承。半島南部制圧。
*なお、上記(※……[〜説])記事については、【9】と【10】の間に入る可能性あり。[応神・仁徳=三世・四世説]
*その場合、宇治大王の時代がかなり変わってくる。現在保留中の問題。

68管理人:2012/03/22(木) 22:03:05
<5C前半>
【11】履中(17)即位。対外政策に伴う新着渡来の流入により、文字記録の開始。
【12】反正(18)即位。百年以上続いた安定期もこの頃までか。
<5C中頃〜5C後半>
【13】允恭(19)即位。この頃から中臣氏登場?
【14】安康(20)即位。血みどろの時代へ突入。安康も含め、
王位後継者の有力どころが次々に死亡(半分くらいは雄略のせい)。葛城氏没落。
【15】雄略(21)即位。
なお、倭の五王に関しては、
讃=【10】仁徳四世、珍=【12】反正、済=【13】允恭、興=【14】安康、武=【15】雄略、に比定。

紀元前後の天孫降臨を契機として、なんやかんやあった末、3C半ばに基盤(王統)が成立。
その後は王統の取り巻き連中が入れ代わり立ち代わり、調和と反発を繰り返して自己の維持に努めていく。
3C半ばの取り巻き勢力図と(古参の大伴・物部、新参の葛城・平群・蘇我、同じく新参のワニ)、
5C前半の勢力図とは、あまり変化が見られないようなので、小競り合いはあっただろうが、概ね安定していたと思われる。
ところが安康暗殺に伴って葛城が消え、以降、とりあえず雄略専制があり、その後の清寧から宣化くらいまでは
何が何だかワケ分からん意味不明時代へと突入していくのであった。

69管理人:2012/03/23(金) 00:07:25
>>66-68でまとめたわけだが、補足したいことが2点ある。
①倭王讃と②景行〜履中の間についてである。

①倭王讃について
「珍は讃の弟だろうが!」という声が聞こえてきそうなので、補足する。
(正直、履中が讃でも別に構わんのだが、一応。)
これは履中の治世が短いので、ないことにされてしまったと解釈する。「讃死して、弟珍立つ」の記事であるが、
「先代が死んだらしいよ」→「珍は先代の弟らしいよ」→「先代って誰だっけ?」
→「ええっと、たしか、(文献を漁る、)せやせや、讃やで讃」 となったものと推測する。
無茶苦茶な理屈であるような気もするが、讃=仁徳説を推す学者も、きっと同じように考えているのではなかろうか。

②景行〜履中の間について
1.景行・(倭武)・成務・仲哀・(神功)・応神・(宇治)仁徳・履中 ……これが記載順である。
2.景行(&仲哀)・神功・応神・宇治・仁徳・二世・三世・四世・履中 ……これが管理人の想定順である。
崇神〜景行の宮と考古学の一致(2C前半〜中頃)と、五王代記事と履中〜雄略の一致(5C)は誰もが認めるところ。
ではなぜ管理人は1でなく2を推すのかという点である。その理由だけを簡単に再掲しておこう。
魏志・台与と記紀・神功の状況的な近似。武内宿禰の年齢。ヤマトタケル遠征と神功三韓討伐における適当さ加減。
さんざん書いてきたことではあるが、そのへんが理由である。そのへんの理由の方が、
「応神・仁徳が誰か分からん」という問題よりも解決すべき点であると考えているからである。

70管理人:2012/03/24(土) 00:31:32
〜前回までのあらすじ〜
>>66-68

ようやく>>60及び>>68の続きへと突入していくわけであるが、ちょっと足りない部分があったので、付け加えておきたい。
雄略即位前の「眉輪王の変」について。これは記紀の中でもかなり衝撃的な事件であろう。七歳児が時の大王を暗殺するのである。
何が足りなかったかというと、「即位前に潰した家から嫁を娶っている」と>>60で書いたが、よく読んでみると、
これはマヨワを匿う葛城ツブラがオホハツセ軍に囲まれた際、「娘と領地をやるから皇子は助けてやってくれ」的なことを言っている。
なるほど、そういうことなのね。ちなみにクロヒコの扱いも古事記と書記では違っており、古事記ではついでに殺されるだけだが、
書記では身の危険を感じたクロヒコがマヨワと一緒にツブラの家へ逃げ込み、そこで死んでいる。ちなみに葛城ツブラの描写は何かとカッチョいいぞ。
あと、オシハの同母弟でミマ皇子というのがおり、この人は外出時の休憩中、井戸のそばで不意に謎の軍勢に襲われ、
殺される寸前、近くの井戸を指して「この井戸水は人民だけが飲める、君主は飲めない」という呪詛を放っている。
まあ、つまり、誰の軍勢に襲われたのか明かしているようなもんである。ま、雄略即位前にはこんなにいろいろとあったわけだ。

<雄略代・古事記>
即位→恋愛話が数件→葛城山に関する話→飲み会の際に無礼のあった巫女を殺そうとするけど許す事件→己巳年に崩御
実は古事記はこれだけである。己巳年没なので、489年か。となると、>>28の502年は雄略ではないのかも。

71管理人:2012/03/24(土) 01:32:23
<雄略代・書記>
即位→側室・カスガ皇女に関する話、物部メの説教→虐殺1→虐殺2、料理人の話、独断・殺人に対する人々の不評
→恐怖政治の影響→葛城山に関する話→百済のコニキの来朝→呉(南宋)からの使者→スガルの話→吉備の反逆(かなり謎な話)
→呉への遣使→高句麗VS新羅→新羅出兵→鳥の話→その他もろもろの話→呉からの使節
→ネノオミ処刑→行政の話→朝日郎の討伐→百済の滅亡・復興→浦嶋子の話→崩御(雄略二十三年)→蝦夷反乱

もりだくさんである。端折っている部分もあるが、こんなことになってしまった。
古事記と被っているのは葛城山の話くらいか。とにかく人を殺すが、後年は殺しかけるけど止めるというパターンが多くなる。
年とって多少は丸くなったからだろうか? 上記では、吉備反乱と新羅出兵が重要っぽい感じである。
かなりのボリュームがあり、登場人物も多い。

それにしても古事記と書記での量の違いは何なんだろう。よく言われるのが、雄略系は後に乗っ取られるので、
後代の王統に都合のいいよう、悪い創作を挿入しまくった、という話。ま、雄略系が潰えるのは管理人も概ね同意であるし、
そういう創作が多少はあるとも思うが、かといって書記には面白いエピソードもあるし、いかにも事実らしい話が多いので、
これら全部を悪評のための創作だとも思わないのである。まあ、一つ一つ見ていけばいいだろう。

72管理人:2012/03/24(土) 13:57:05
まず年次について。これからして、すでに厄介である。安康の没年がよく分からない。
書記の安康在位は逆算から454-456年。古事記の安康在位は允恭没年から考えて454年からの数年間。(記&紀が合致!)
宋書では倭王興の462年頃。あらっ、今までは書記が仲間外れだったのに、安康は宋書が仲間外れだ。ますます分からん。興は安康じゃないのか?
一方、雄略没は書記が479年、古事記が489年、海外記事では502年にはまだ生きてる? 478・479年あたりの在位は確実か?
結局わからんので、とりあえず5C後半ということで話を進めますか。

書記の中でも吉備反逆、新羅出征、及び外交記事に関してはかなり面倒臭そうなので後回しにするとして、先に他を見たいところである。
記紀両方に記載のある葛城山の話から。
・射た猪が死なずに唸りながら寄って来たのにビビッて、木の上へ逃げ、歌を詠んだ。
(書記では逃げるのが舎人であり、猪は雄略に倒される。命に背いて逃げた臆病な舎人は雄略に斬られかけるが、嫁が雄略を諌める。)
・大王一行とそっくりの集団が現れ一触即発の事態に。名を名乗ると、相手は葛城一言主の神だという。恐縮した雄略は非礼を詫びて物品を献上。
(書記では一触即発の記載はなく、雄略の紳士的なふるまいを指して人々が「有徳天皇」と称した、とある。)

葛城は当然、葛城氏の本拠である。ありきたりな解釈では、雄略が葛城氏の怨念や祟りを怖れている、と見えなくもないし、そういう要素もあるだろう。
ただ、一言主は賀茂氏系である。この賀茂というのは謎めいた連中であり(神武代から出てくる)、三輪山の祭祀を担当する三輪氏もこの賀茂の系列である。
つまり賀茂は相当古参である。賀茂系の神社はいっぱいある。もともとは葛城地方を本拠地としてたらしいから、
古参の賀茂を新参の葛城が駆逐した、或いは、両者が結託したのだろうか? いずれにせよ、意味深な話である。

73管理人:2012/03/24(土) 14:38:13
書記は雄略をどのように扱いたいのかよく分からん。だからして、創作を並べているとは全然思わんのだ。
次に嫁の話。
皇后のハタヒヒメは安康代に罪なく死んだオホクサカの妹。そもそもオホクサカの死はこの婚礼に絡んでいる。
安康が弟オホハツセにハタヒヒメを娶らせようとする→ネノオミを介してオホクサカにうかがいを立てる
→オホクサカは快諾し、安康に冠を献上→ネノオミが冠を奪い、讒言(安康に「誰が大事な妹をお前らにやるかボケ!」)
→怒った安康がオホクサカを討伐→ついでにオホクサカの嫁を安康が奪う→連れ子のマヨワが安康暗殺、となるわけである。

側室1のカラヒメは葛城ツブラの娘。これは>>70のとおり。
側室2の吉備の女性については、ややこしい部分と絡んでいるので後回し。
側室3のワニ・春日系の女性について。物部メの説教の話に登場する。
春日系の采女と一晩だけ関係を持つ→カスガ妊娠・出産→一晩だけなので疑って認知しない雄略
→成長して歩けるようになったカスガの娘を見て、メがその立ち居振る舞いを大王そっくりだと思う
→メだけではなく、誰もが同じことを思っている→雄略「一晩で子供ができるわけないやろ」→メ「一晩で何回した?」
→雄略「七回」→メ「そんなにしときながら疑うとは。その采女は純な心を捧げたんやで。妊娠しやすさは個人差らしいで」
→雄略「正直すまんかった」→后に迎え入れる、となるわけである。なかなか面白い話だ。

スガルの話。これも面白い。
1.養蚕を推進しようとした雄略はスガル(出自分からん)に「蚕(こ)を集めろ」と言う→勘違いしたスガルは
  孤児を集めてくる→雄略「お前が責任もって育てろwww」→スガルに少子部という姓が与えられる
2.雄略「三諸岳の神が見たい。捕まえて来い」→スガル「頑張るぜ」→この神はオオモノヌシと言われているので三諸岳=三輪山か?
  →大蛇を捕まえて戻るスガル→雄略が身を清めていなかったので大蛇が爆音とともに目を光らせた
  →雄略びびって、名を雷とした(山の神の名? スガルの名?)

74管理人:2012/03/24(土) 15:53:52
>>73の1の話は、孤児院のようなものの由来について記載しているのだろうか?
2も不思議な話である。霊異記にこれを元ネタとした説話があり、スガルを「雷神を捕まえた男」として紹介されている。
それにしてもこの話は>>8を思い出す。幼少の管理人が巻向のみかん園で見たのはオオモノヌシだったのかもしれない。

三輪山について。
大神神社は日本最古の神社とされており、三輪山そのものがご神体である。三輪山は古代における最高神だったと思われる。
その由来は3C前半の纏向時代に遡るだろう。垂仁・景行は三輪山をバックに宮を立てている。
当時の王権と三輪山の神が結びついたのは容易に想像できる。また、記紀ではオオモノヌシ≒オオクニヌシとする記載もある(詳細は省略)。
崇神代の記事には三輪山に関する極めて重要な記述もある。疫病や民の流出が続く理由を
アマテラスとオオモノヌシを一緒に祀っているからだとしており、国の神であるオオモノヌシの祟りが猛威を振るうのである。
結局アマテラスを笠縫へ移すのだが、それでも治まらず、最終的には引越を繰り返した上、伊勢まで飛ばされるのである。
荒ぶるオオモノヌシは三輪の祖であるオオタタネコに祀らせることによって、ようやく休まるのである。

つまり、アマテラスは元来余所者なのである。じゃあいつやって来たのか、って話になるのだが、おそらく神功が畿内へ持ってきたのだと思う。
なぜなら神功は日の巫女のゆかりの者だからだ。ところが反発が大きく、引越させたというわけだ。
管理人はこの反発(崇神代記事の疫病や民の流出)を、応神代のゴタゴタだと考えている。
アマテラス分祀は>>67で書いた「旧勢力の懐柔」策の一つだろう。じゃあ、いつアマテラスは皇祖神になったのか? ってことになるが、
正式には天武代であろう。『火の鳥』にそう描いてあった。(急に参考文献がおかしくなったが。)日の本という国号がまさにそれだ。
よく言われることだが、天孫降臨神話が形になったのは持統代とされ、それについては管理人も同意である。
持統にとって都合のいい神話をより確固たるものにするため、この時にアマテラス≒持統が皇祖神となったはずである。

75管理人:2012/03/24(土) 16:31:49
またしても脱線したが、要は雄略代における三輪山の神様は当然最高神なのである。
別に雄略代に限らず、仁徳系大王(仁徳〜武烈)の時代はずっとそうであるし、その後の時代についても、
7C後半の壬申乱まではずっとそうなのである。もちろん、その間にアマテラスがいなかったわけではなく、
応神系や武内系においてある程度は重要視されていただろう。ただ、表立って持ち上げることはできなかったのである。

>>70の飲み会事件についても、無礼のあった采女が斬られそうになる寸前、纏向の日代の宮を讃える歌を采女が詠い、許されている。
日代の宮とは景行の宮であり、三輪の権威そのものである。それは雄略を含む王統権威を裏付けるものであり、
だからこそそれを讃えた采女は許されたわけだ。(神功・応神が余所者だとしても、仁徳は三輪王権の色も濃いのである。>>32>>37
※ただ、実は別の仮説も想定している。反正と允恭の間に断絶を見て、四世河内系と允恭畿内系の対立が背景にあるという仮説である。
  当然この場合、畿内系は三輪王権系との繋がりを保っていると考える。この仮説はややこしいので割愛というか無視。

とにかく雄略は三輪王権の末裔なのだよ。それがスガルや飲み会の采女に関する逸話から窺えるので面白いなあ、と思う次第。
マヨワやクロヒコを担いだ葛城が滅ぼされたり、葛城の祟りを怖れたりするのも、これに関係しているのかもしれん。葛城は当然武内の子孫だ。
でも大臣は武内子孫の平群なのよね。平群も雄略没後に滅ぼされるけど。
まあ、昔の禍根が後々にも尾を引いているんだとすると、3C中頃の事件がいかに重要だったかってことになる。管理人は相当重要だと思っている。

76管理人:2012/03/24(土) 18:43:29
次に吉備反逆と新羅出征の話である。雄略の側室2は吉備系なのだが、これはある時、吉備のタサが嫁自慢をしていたのを
雄略がこっそり聞いて、自分のものにしたいと思い、タサを任那へ赴任させ、その隙に奪ってしまうのである。ひでえ。
(なお、このエピソードの前にも吉備系と大王系の不仲が書かれており、雄略を敵視した吉備系の一部を物部に討たせている。)
また、タサの嫁を襲津彦の孫と書いている説もあり、だとするとここにも対葛城的なアレがあると思われる。

さて、ここからの展開が意味不明なのである。
当時、新羅と敵対しており、雄略は新羅征討メンバーにオトキミ(タサの嫁の連れ子)を選ぶ→それを聞いた西文氏(5Cの渡来系)が
「百済を使った方がええで」と助言→結局、オトキミと西文氏のカンインチリが一緒に百済へ向かう→その頃、嫁を奪われたことを知った
任那のタサが新羅と内通し、雄略に対抗しようと考える→オトキミは面倒臭くなり、百済にとどまる→タサは新羅が攻められず喜んだが、
ひそかに百済のオトキミ(自分の息子ですな)へ忠告し、一緒に雄略へ抵抗しようと提案→オトキミの嫁が反対し、オトキミ殺害(!)
→他の新羅征討軍勢が百済の技術者を伴ってそのまま帰国→大伴ムロヤの提案で東漢ツカに百済の技術者を管理させる

結末は!? よく分からない謎な話である。三国史記には5C半ば(462年?)に倭国が新羅へ攻め込んで捕虜を連れ帰ったという記事があるらしい。
百済の技術者=新羅の捕虜だろうか? ちなみに雄略代にはこの後にも新羅出征の記事がある(①481?年、②482?年)。
これも①では高句麗にやられそうな新羅を倭国が伽耶経由で助けている。しかし②では普通に新羅を攻めており、倭国が敗北している。
ちなみにそれは三国史記の記述とも一致しているらしい。記紀が三国史記を参考にしてこの記事を挿入したとも考えられるが、
だとしても戦ったり助けたり、忙しいことこの上ない。このへんの混乱具合は475年の百済滅亡その1に絡んでいるのかも。

77管理人:2012/03/24(土) 19:21:56
雄略即位以降、新羅の朝貢がなかったらしく、これが吉備のタサによる反乱(?)にも反映されている。
この後もずっと新羅は相変わらずだったので、>>76の①の後に、これからはちゃんと朝貢するよう新羅に忠告している。
ちなみにこの際の新羅救援メンバーは膳イカルガ、吉備オナシ、難波アカメコらしい。膳氏(かしわでし)は
宮廷料理人みたいな存在、吉備はそのまんま、難波は「難波吉師」などと書かれている連中が他にも出てきており、
河内王朝時代以降に参画した中堅氏族だろうか? 新羅に上述の忠告したのは膳イカルガである。

ところが新羅はウンともスンとも言わない。それが翌年?の出征に繋がったのだろうか?
あるいは百済復興と連動したものかもしれない。ところが>>76の②では味方の不和が生じ、敗れている。
メンバーは、紀オユミ、蘇我カラコ、大伴カタリ、オカヒ(姓不明?)である。まず、大伴カタリが戦死。続いて紀オユミが病死。
その後、父の死を知った紀オオイワが新羅入り。このオオイワが勝手にオカヒの家来を指揮したため、オカヒがカラコに不平を漏らす。
百済勢はヤマト勢を仲直りさせようとしたが、時すでに遅く、カラコとオオイワが喧嘩して、カラコ死亡。で、結局新羅から退くこととなった。

百済との関係は? 当時の百済の王はガイロ王。
・百済から提出された采女が雄略を嫌がって他の男と関係を持ったため、その男ともども処刑された。(>>71の虐殺1)
・女子を提出するのは嫌になったガイロ王が弟のコニキを派遣することにした。コニキは雄略に仕えた。
・475年、高句麗に攻められ、百済一度目の滅亡。漢城は陥落し、ガイロ王も死亡。
・雄略が百済の復興に協力。コニキの子のマタを百済国王となるよう告げ、本国へ行かせ、王となった。(三国史記とも共通するらしい)

基本的に百済とは仲が良いようである。477年・478年あたりの倭王武による遣宋使は緊迫する半島情勢にどう対処するか、
ってなことをなんやかんやする目的があったのかもしれない。

78管理人:2012/03/24(土) 20:06:17
とりとめもなくダラダラ書いてきたが、だいたい雄略代はこんなもんである。
他にも物部メによる伊勢の朝日郎討伐とか、なぜか浦島太郎の話とかがある。
記紀を見ただけでは、この後に雄略系が潰える予兆はあまり感じられない。
いちおうまとめると、
1.重用されているのは大伴ムロヤと物部メである。大臣であるはずの平群マトリはあんまり出てこない。何故だ?
  他には渡来系を重用している感じがする。(前述しなかったが、アオとかハカトコとか。)
2.一方、武内系の扱いはよろしくない。即位前に滅ぼされた葛城氏や、新羅出征で仲間割れしている紀・蘇我あたり。
3.神様は三輪山。(これは上述の1と2に関係しているのかもしれない。王政復古的なアレ。)
4.百済復興など、半島への影響力も保持し続けている。どちらかというと反新羅だが、新羅とはよく分からん関係。

全くの思いつきなのだが、
①崇神系・仁徳系・大伴系・物部系・百済系は比較的近い存在であり(仁徳系の雄略はこのグループ)、
②神功系・武内系・新羅系も比較的近くて①とはやや距離があり、
③東漢系・西文系などの新しい渡来勢力は①と仲が良く、
④吉備系などのもっと昔から独自性を持っている勢力が①に反して②に寄っている、
って風に考えられるかもしれない。
デタラメかもしれないが、1〜4を見てるとそんな気がしないでもない。
つまり、崇神立国は主に馬韓経由の渡来を起源に持つ側の最終形態であり、卑弥呼共立は主に辰韓経由の渡来を
起源に持つ側の最終形態なのではなかろうか? 当然、それぞれお互い同士やら土着やら後着渡来やらとの結託等も経ているので、
一概には言えないかもしれないが、だいたいそんな感じ?と思うのである。まあ、ただの思い付きですわ。流れ的に。

雄略崩御後は全くどうなっているのか分からなくなる。清寧・顕宗・仁賢・武烈を一気に見ていきたいところである。

79管理人:2012/03/24(土) 21:52:44
>>78の①はオオモノヌシ系、②はアマテラス系と総称することもできるわな。

<清寧・顕宗・仁賢・武烈代、古事記>
清寧即位(磐余)→妻子なく崩御→履中娘の飯豊が執政(忍海)→播磨で市辺のオシハの息子二人(後の顕宗・仁賢)を発見
→ヲケ(弟・後の顕宗)が平群シビと歌垣(カラオケ合コン)現場にて好みが被ってしまい喧嘩→翌朝、兄弟がシビを殺す
→譲り合いの末、弟の顕宗即位(近つ飛鳥)→近江のオキメという婆さんのおかげでオシハの遺骨発見
→父の仇(雄略)の墓を申し訳程度に壊す事件→顕宗崩御→仁賢即位(石上)→仁賢崩御→武烈即位(初瀬)→武烈崩御

<清寧・顕宗・仁賢・武烈代、書記>
シラカ(後の清寧)を世継ぎに指名し、雄略崩御→ホシカワ(シラカとは別腹の弟)反逆→清寧即位(磐余)、大臣:平群マトリ、大連:大伴ムロヤ
→オシハの息子発見、後継とする→飯豊の初体験談→清寧崩御→オケとヲケの譲り合い、その間、飯豊執政(忍海)→飯豊崩御
→顕宗即位(近つ飛鳥)→オキメの話→雄略の墓の話→顕宗崩御→百済vs任那→仁賢即位(石上)→高句麗に使者派遣
→仁賢崩御→平群マトリの専横・傲慢→歌垣事件(古事記と配役が異なる)→平群氏討伐→武烈即位(初瀬)、大連:大伴カナムラ
→武烈による猟奇事件の数々→武烈崩御→百済の話

このへんは年次の特定が難しく、500年前後、としか言いようがなくなる。そもそもどこまで史実どおりなのかさっぱり分からない。
記紀における在位年数は、清寧五年、顕宗三年、仁賢十一年、武烈八年である。どれも短い。
仮に雄略が489年没とすると、清寧493〜494年頃没、顕宗496〜497年頃没、仁賢507年頃没、武烈514年頃没、といったところか。

80管理人:2012/03/25(日) 00:39:18
>>79で重要なのは、飯豊執政と歌垣事件に伴う平群氏討伐か。顕宗・仁賢の発見話は
いかにも創作臭いが、どうなんだろう? ちなみに播磨国風土記にも記紀と同じように描かれてある。
とりあえず現段階では、史実は概ね記紀通りと仮定して、いろいろ見ていくか。考えが変わるかもしれん。

シラカ、清寧である。父は雄略、母はカラヒメ(葛城ツブラの娘)。生まれつき白髪だったらしく、
雄略は霊威を感じて世継ぎに指名したという。アルビノかもしれん。妻も子もいない。

ヲケ、顕宗である。父は履中息子の市辺のオシハ、母は葛城系の女。おかんが葛城系ってパターン、多くないか?
履中・反正・允恭の母も葛城系の磐之媛であるし、清寧・顕宗・仁賢もかよ。
ヲケの嫁は難波小野王。たいそうな名前である。イハキの娘らしい。
イハキとは雄略と吉備系ワカヒメ(タサの元嫁)の子である。子供はいないらしい。

オケ、仁賢である。顕宗の同母兄。父母は顕宗に同じ。嫁は春日大娘皇女、これは雄略と春日系との間の子である(>>73)。
子供にタシラカ(継体の嫁)、ワカササギ(後の武烈)、タチバナ(宣化の嫁)などがいる。
他に一人側室がおり、ワニ系である。この子供にカスガヤマダ(安閑の嫁)がいる。
雄略要素を除くと、ヲケは吉備系、オケはワニ系で周囲を固めている感じがする。

ワカササギ、武烈である。父は仁賢、母は春日系(ワニ系)である。妻子はいないようだ。
書記における扱いは、完全に暴君そのものである。古事記には何にも書いていない。書記の記述はさすがに創作だと思われる。

81管理人:2012/03/25(日) 01:13:59
書記における武烈の書かれようは、まあ、継体の正統性を主張するためだと思われるが、
だとすると顕宗・仁賢がやたら好意的に描かれているのもヘンである。

たった今、調べて知ったのであるが、播磨王朝説というのがあるらしい。顕宗・仁賢が播磨から出てきて、
雄略没後の王権を乗っ取ったとする説だそうだ。播磨サイドにそんな兵力があるのか? この場合、地理的要因を考慮すると、
播磨の後ろ盾に吉備がいたと考えられそうだ。雄略代から続く畿内と吉備の不仲や清寧即位前のホシカワ反乱も傍証になりはするだろう。
それでもやはり、大伴・物部を抱える畿内軍に勝てると思えない。或いは雄略没後に乗じて、古参が吉備と結託し、
調子こいている平群を討つために顕宗・仁賢を担いだとか? どのみち清寧に子はいないわけであるし。清寧自体がいないかもしれないが。
その場合、顕宗・仁賢がオシハの子というのはどういうことだろう?
ちなみに清寧崩御後に執政を行っていた飯豊もオシハの子なのだが、播磨王朝説だと顕宗または仁賢が飯豊と関係を持って、
結果的に顕宗or仁賢もオシハの子になったということの暗示だろうか? 書記には飯豊初体験に関する謎な記述もあるわけだし(相手不明)。
また、仁賢が春日系で固めていることから、二皇子擁立に春日系が強く加担していることも考えられる。

顕宗・仁賢の発見話を創作とする説の中に、地方出身の王に違和感をなくすためだよ派、ってのがある。
つまり越or近江から担がれた継体を登場させやすくするための創作と考えるわけである。この場合は、オシハ死後のくだりは創作で、
清寧死後、普通に飯豊・顕宗・仁賢の履中系が天下を治めただけだというパターンと、そもそも顕宗・仁賢なんていないというパターンが考えられる。

①記紀や風土記の記述通り。
②播磨王朝説的な乗っ取りがあった。
③貴種流離譚は創作だが、系譜自体は疑わない。
④顕宗・仁賢はいない。ってことは、武烈もいない。

82管理人:2012/03/25(日) 02:12:52
では>>81の①〜④のうち、管理人はどれを支持するのかというと、実は①≧③>>②>>>>>④の順なのである。
もちろん、現段階では、である。変わるかもしれない。確かに①はドラマティックに過ぎるきらいはあるけれども、
多少なりとも似たような展開があったとしても、別に驚くほどではない。顕宗即位後の二人の描写を見ていても、
①の展開であってもおかしくないな、と思わせる何かがあるのだ。創作の可能性も当然あるが、だとしたら製作者に拍手である。
ただ、②も捨て難いのは事実。特に飯豊初体験の記述が引っ掛かる。思わせぶりなのは、止めてくれ。

飯豊皇女。青海・忍海とも。父母ともに顕宗・仁賢と同じ。清寧死後に執政。ただし、古事記では二皇子発見が清寧死後なのだが、
書記では清寧存命中であり、顕宗と仁賢がお互い譲位したため飯豊が執政した、とある。書記には二皇子発見後に飯豊初体験の記述があり、
「試しにしてみたが大したことない。もう一度してみたいと思わない」と言っている。
相手は分からないが、分かったとしたらそれはそれで相手がかわいそうである。②説だと顕宗の可能性が高い。

まあいいや。ともあれ、この顕宗・仁賢兄弟はやたら譲り合ったり、やたら弱者に優しかったり、やたら温厚だと評されたり、
やたら父の仇である雄略の墓を壊そうと考えるけれども清寧には恩があるから馬鹿馬鹿しくなってやめたり、
と、とにかくやたら好意的に描かれているのが印象深い。何でだ?
ホンマのことやから!ってのが最も説得力があるが、だとしたらそれがホンマなこともかなり謎ではある。
前述の飯豊の件もそうだが、こういう点に②説的な裏があるのではないかと勘繰ってしまいそうになる。思わせぶりなのは、止めてくれ。

83管理人:2012/03/25(日) 03:08:39
歌垣事件とそれに伴う平群氏討伐について。まず、これは古事記と書記で全然違う。
・古事記
ヲケ(即位前の顕宗)と平群シビがオウオという娘を巡って争う。翌朝、オケとヲケの二人で相談し、
「朝の間は臣下はみんな宮に行くけど、昼はみんな平群の家に来るから(!)、今のうちにやっちまおうぜ」
ってな具合になり、その勢いでシビを殺してしまうのであった。それで終わりである。
・書記
ワカササギ(即位前の武烈)と平群シビがカゲヒメ(物部アラカヒの娘)を巡って争う。カゲヒメは既にシビとできている。
歌垣での対決時にワカササギはそのことを知り、以前からマトリ・シビ親子が無礼だったことをも思い出して腹が立ち、
大伴カナムラの軍勢を差し向けてシビを殺害。この時、カゲヒメは嘆き悲しんだという。
ついでにカナムラはマトリ討伐を提案し、平群氏は滅亡するのであった。

この違いはかなり謎である。武烈は存在しないのかもしれない。顕宗・仁賢の作戦会議の内容からして、
この時期、平群氏が強かったことは確実と思われ、それが王家にとっても、他の有力氏族にとっても、好ましくなかったようだ。
しかし因果なものである。平群真鳥は大伴金村にやられ、大伴金村は物部尾輿に糾弾され失脚し、
尾輿の子・守屋は蘇我馬子に討たれ、馬子の子と孫・蝦夷と入鹿は中臣鎌子の策に掛かるわけである。

雄略以後、王家の状況が分かりにくいのは、こういう連中が続々と出てきたから、というのもあるんだろうなあ、と思う。
別にそれは清寧から始まったわけではないんだろうけど、雄略の反動は相当大きかったことは確かなようである。

84管理人:2012/03/25(日) 15:44:54
〜前回までのあらすじ〜
>>78-80

謎が多い500年前後について見ているわけだが、最後にその他の部分を少しだけ。

まず顕宗崩御後の記事に百済と任那の争いが見える。任那とはいわば倭国みたいなもんなので、そう考えると、
これは百済と倭国にいがみ合いがあったってことになる。変な感じである。
任那と高句麗が接触し、それと関係してかどうかは知らないが、百済と任那が戦い、ここでは任那が負けている。
また、仁賢代?にもヒタカノキシを高句麗に派遣して技術者を求め、連れ帰っている、とある。
武烈代?には百済の朝貢復活の記事がある。ある程度復興したのだろうか? 三国史記の引用もあるが、書記編纂者も混乱している感じである。
高句麗へ近づこうとしているのは百済第一の滅亡と関係あるのだろうか? どうにも分からん。

顕宗代?には佐伯部についての記載があり、これは捕まえた東国への逃亡民を管理する集団であるらしい。それを再編したか?
東国からの有力者が中央政権に食い込んでくるのもこの頃からだろうか?(北陸系の阿倍とか関東系の中臣とか)
阿倍の祖はオオビコという人とされており、これは崇神代の四道将軍の一人である。(さすがに崇神代は古すぎると思うが。
おそらく古墳が全国的に出現する3C後半以降の話であると思われる。)オオビコは北陸を主に制圧した人らしい。阿倍はその後裔か。
中臣については起源がよく分からんが、鹿島・香取を基盤としていたのは確からしい。もっとも允恭代から出てくるので、
昔からある程度は中央にいたと思われる。これがワニ系の春日あたりと結びついたと思われるが、ひょっとするとこの時期かもしれない。
まあ、このへんについてはあくまで推測であるが、後々有力氏族として出てくるので、この時期に布石があってもおかしくはない。

85管理人:2012/03/25(日) 16:35:09
古代史の謎ランキングがあるとしたら、オホド擁立はベスト5に食い込むと思われる。
応神五世の孫ってことになっている。何者なんだろうか?

オホド、継体である。父は彦主人、近江高島の人らしい。母は越前の三国やら坂井やらあたりの人で、
父が早くに死んだため、越前で育ったらしい。大伴カナムラや物部アラカヒの推薦で擁立されたらしい。
父・彦主人の祖父がオホホドであり、これは允恭嫁の忍坂姫・衣通姫姉妹と同母の兄妹である。
オホホドの父がワカヌケフタマタ、その父が応神である。怪しいと言えば怪しいし、大したことないと言えば大したことない。
また、オホホドは息長、坂田、酒人、三国、米多などの祖であるらしい。継体については息長氏出身説もあるそうだ。
息長氏はオホホドを祖とする近江坂田あたりの豪族らしい。神功本名のオキナガタラシは関係あるんだろうか?
いずれにせよ、継体は上記の近江・越前集団に関係があることは疑いえない。
さて、ここで言う応神とは、管理人の言う仁徳三世該当者のことなのではないだろうか? だとすれば「五世の孫」であることについても
そんなに怪しくないような気がする。真・応神の五世の孫だと、間に入っている連中が長生きすぎることになるし、系譜も極めて怪しくなる。

また、継体の母は三尾氏系であるらしい。この三尾氏について調べると、その祖は垂仁の子・イワツクワケであるらしい。
イワツクワケの子孫は近江〜北陸エリアに根付いたらしく、つまり息長系+三尾系が継体というわけだ。
まあ、カナムラもアラカヒも馬鹿じゃないんだから、それなりに裏付けはあったとは思うが、正統性が薄いのは確かである。
継体の即位前の嫁も三尾氏系であるようだ。古事記を見ると嫁は他にもいっぱいいて、尾張系の女(子に後の安閑・宣化)、
仁賢の娘であるタシラカ(子に後の欽明)、息長系の女、坂田系の女、三尾系の別の女、阿倍系の女がいる。
息長・坂田・三尾あたりの嫁は、おそらく即位前からのものであろう。この時期に近江・北陸系が勢力を伸ばしており、
大伴や物部が結託または牽制を図るため、入り婿をとったと考えることもできるかもしれない。

この継体大王であるが、なぜか樟葉で即位した。これまた意味不明である。

86管理人:2012/03/25(日) 19:23:19
書記における継体代は507-531年、崩御は534年。古事記では527年崩御となっている。
まず樟葉で即位し(書記507年)、以降、筒木(書記511年)、乙訓(書記518年)、磐余(書記526年)ってな感じでうごめいている。
大和に入るまで二十年もかかっているのである。執政についても、実際には大伴カナムラ、物部アラカヒ、
許勢オヒトらが携わっていたと思われ、継体は何にもしていなさそうである。本人も仁賢孫(後の欽明)が育つまでの
つなぎだと分かっていて、好きなところに住んでいただけなのかもしれない。ただ、安穏としていられなくなるような事件が起きる。

書記527年、半島へ進軍しようとした近江毛野の軍勢を筑紫の磐井が妨害し、翌年に物部アラカヒによって磐井が鎮圧される。磐井の乱である。
継体の大和入りもこの事件に関連してのことかもしれない。今まで見てきたとおり、百済第一の滅亡後、
半島情勢がよく分からないことになっている。近江毛野は新羅に奪われた任那の一部を取り戻す軍勢であり、磐井は新羅と結んで
それを妨害したとされる。磐井の出自であるが、全くの謎である。火の国・豊の国を制圧・懐柔し、半島航路を封鎖したというのだから、
かなりの大勢力である。乱以前から新羅の力を得ていたのだろうか? 新羅が磐井へ賄賂を贈っていたなどの記述もある。

・任那:最近旗色が悪く、よく負けている?
・百済:475年の第一滅亡以来、ぐちゃぐちゃになっている?
・新羅:相変わらず倭国とは仲が悪い? 磐井と結託?
・高句麗:別格の国。最近、倭国が関係を持とうとしている?

この辺は当時の半島情勢も考えないと見えてこないと思われる。上記はあくまで推測。とりあえずは置いておくか。

87管理人:2012/03/25(日) 19:51:40
近江毛野について。近江というからには、継体と繋がりを持っているのかもしれない。
wikiによると、この人は武内系波多氏(羽田氏?)の出自であるらしい。さらに波多氏について調べてみると、
それが武内系だったり、息長系だったり、いろんなのが出てくる。いずれにせよ、継体と関係はありそうだ。
ということは、息長の祖であるオホホドは武内系なのか? そもそもオホホド・忍坂姫・衣通姫の兄妹は
応神息子のワカヌケフタマタの子なのだが、一つ考えられるのは、ワカヌケフタマタの母(仁徳三世の嫁)が
羽田系だということである。仁徳以降、武内系を嫁にもらう例が多いので、多分そうだろう。
4Cは全く分からんので推測だが、そう考えると収まりがいいような気がする。もちろん、ワカヌケの親父が仁徳三世でなく
真・応神だとしても結局は同じことが言えるので、まあ、どっちでもいいのである。

近江毛野が継体と同陣営の勢力であり、それにさしあたって継体が磐余入りしているので、半島情勢が悪化しており、
何らかの手をうたなければならなかったことは容易に想像できる。それを磐井が邪魔をしたという話なのだ。
書記には磐井が近江毛野に対して「かつて同じ釜の飯を食った仲ではないか」と言ったとされている。これはどういうことだろう?
①昔、一緒に中央で研修を受けていた。
②同族、または、近い氏族である。
③書記の記述が嘘っぱちである。
どれもありそう。③だとどうしようもないわけだが、発言が事実なら①か②であろう。個人的には②を推したい。
磐井は新羅と繋がったので、>>78の妄想から考えると、アマテラス系(仮)である。近江毛野は武内系なのでアマテラス系(仮)である。
>>78自体が妄想なので無茶苦茶書いているかもしれないが、書記にわざわざ発言を載せているくらいだから、なんかあるんだよ、きっと。

88管理人:2012/03/25(日) 22:24:36
脱線します。>>87>>78の考察を取り上げたが、それについてもうちょっと考えてみたい。
>①崇神系・仁徳系・大伴系・物部系・百済系は比較的近い存在であり(仁徳系の雄略はこのグループ)、
>②神功系・武内系・新羅系も比較的近くて①とはやや距離があり、……
と、こう書いたのち、①をオオモノヌシ系、②をアマテラス系、などと勝手に称したのであるが、
①の仁徳系については言葉足らずなので、もう少し考えてみたいのである。

仁徳系は単純に①というわけではない。父方が①、母方が②である。もっと言えば、①と②の調和を完成させたものと考える。
ちなみに仁徳系とは何を指すかというと、以下の系譜である。
(仁徳-二世-三世-)四世-履中-反正-允恭-安康-雄略(-清寧-飯豊)
( )内については、記紀にしか記述がないので、エポケー的な取り扱いになっていると思ってください。(そもそも前半部は記紀にすら記述はない。)
応神までは②が主力であったものを、第三勢力の宇治を経て(※後代の可能性あり)、主①従②のバランスを確固たるものにしたのが仁徳だと思うである。
・応神:父①?、母②(実際は父母ともに②だと思う。だから応神は完全に②)
・宇治:父②、母⑤(⑤は第三勢力。治世時の実験は⑤にあったと推測)
・仁徳:父②、母①(母は景行系。対⑤のために、①+②を実現、主①従②の関係を構築。今後の父系は①となる。)
以後、分からなくなるが、富国強兵を実現したとみて、仁徳システムを継承したと考える。宇治が後代のものとしても、結果は同様のものとなったと仮定。
・履中/反正/允恭:父①、母②(母は葛城氏である。)
・安康/雄略:父①、母②(母は忍坂姫。>>85-87より、応神系・武内系の色が濃い。つまり正統としての①、外戚としての②、という構図は変わらず。)
ただし、ここで雄略によってバランスが崩壊する。皇后は允恭娘①、側室は葛城②(しかし滅ぼした)、吉備④(しかし喧嘩した)、春日⑤、である。
嫁に②はいるが、嫁の実家を滅ぼしているので意味がない。また、景行代の宮を讃える巫女を許すエピソード(>>75)等を考慮してみても、
かなり①に偏った専制であったと推測される。うまく機能していた仁徳システムは終わりを迎えるわけである。
・清寧:父①、母②(清寧しか王の条件を満たす者がいなかった、と考えることもできる。)
・飯豊/顕宗/仁賢:父①、母②(無理にでも条件を満たす者を立てている、と考えることもできる。)
武烈は①+⑤である。ちなみに管理人は、武烈の実在は高確率で怪しいと考えている。もし実在なら、夭折したと思っている。

89管理人:2012/03/25(日) 23:29:28
>>88の続き。>>78参照。
景行以前はおそらく①+④でやりくりしていたと思われる。当時の④はいわば①'みたいなものであり、
大伴や物部も①'のグループであろう。ところがそこへ強烈な余所者がやって来た。②神功陣営である。
神功と武内宿禰は①'の大伴・物部を取り込んでいる。留守番をしていた①'の吉備や尾張は①の景行・仲哀遺子を担いで抗うが、
奮戦虚しく敗れてしまう。神功陣営は①+②の応神を連れているが、本当に①+②なのか怪しいものだ。
大伴や物部も半笑いでシラを切っている。これは何かあるに違いない。

案の定、政権運営は上手くいかない。相次ぐ天災、疫病、民の逃亡。こんなに日照りが続くのは、連中の祀っている太陽神とやらのせいに違いない。
とりあえず、太陽の神様を三輪山から遠ざける。それでもまだ足りない。応神に対し、これでもか!ってなくらいに、
①系の嫁を与え続ける。これで一安心、って思っていたのも束の間、別系統(⑤)の小娘にウツツを抜かし始めた。
②の女ではないようだが、このままじゃオオモノヌシ様も再びお怒りになられるだろう。
やがて応神崩御、宇治政権樹立、となったが、当然上手くいくわけはない。今度は①と②が結託する。
こういうのはどうだろう? ②武内長老が提案する。まず現政権を早々に幕引きさせる。次代の王はササギでいいだろう。
彼は有能であり、確実に②+①だ。これを①の正統として前面に押し出そう。今後は彼の子孫を世継ぎとさせる。我々はサポートに徹しよう。……。

かくして、政権運営は安定することとなった。ところが二百年後、みたび危機が訪れるのである。

90管理人:2012/03/26(月) 00:17:36
>>88-89の続き。
カナムラとアラカヒは困ったはずだ。もう駒がないのである。こうなると、入り婿しかないわけだが……。
「石上陛下のご具合は?」「よろしくないな」「困ったな。世継ぎおらんで」
「二十年前の危機の際は、親父がうまいことやってくれたんだが、もうこれは駄目かもわからんね」
「誰か他に初瀬朝倉の大王にやられた世継ぎ候補っていたっけ? その人の遺子がいれば、また同じ作戦が使えるんだが」
「いるかもしれんが、さすがにもう昔すぎて分からんわ。もう入り婿しか無理やろ」「幸い陛下にはちょうどいい娘さんがいるが……」
「そそ。でも相手が難しい。一時は平群にその座を渡すことになりそうだったが……」
「やっこさん、黒かったからなあ。バカ息子が俺の娘に手を出しやがるし。潰して正解やったわ」
「お前が入り婿になるのはどう?」「勘弁してくれ、矢面に立ちたくないわ」「まあな。それは俺もや。ってか俺らは無理やし」
「蘇我は?」「駄目駄目。平群と同じ臭いがするわ。俺の叔父が死んだときの話知ってるか?」「なんか聞いたことあるわ。新羅やっけ?」
「そそ。叔父が戦死して、ただでさえやばかったのに、紀と蘇我が功を競るあまり殺し合いになったらしいから」
「確かにあいつらはあざとすぎるよな」「中央にいる奴は駄目だよ。地方にいいのがいたかなあ?」
「知らんわ」「……、あ、ええのおるわ。しかも高確率で王家の枝分かれやで」「お、ええやん。誰?」

以上が継体擁立の経緯である(大嘘)。つまり脱線してこの話をしたのは、継体擁立は緊急手段であるものの、
あながち変ではないような気がしたので、ちょっと妄想してみたのだ。

91管理人:2012/03/27(火) 00:35:46
〜前回までのあらすじ〜
>>88-90

それにしても男子王族が全然おらん。オホド以外に誰かいないかと探してみたが、全然おらん。
男はもともと病死しやすい上、安康・雄略代の世継ぎ抗争でほとんどいなくなってしまっておる。ひどいもんだ。
もっとも系譜に書かれていない男王がいるのかもしれないが、現状で調べうる限り、
王族と②の両方を兼ね備えているのはオホドぐらいのもんだ。案外あっさりオホドで決まったのかもしれない。
当然、血が薄いのは自明なので、書記における武烈の記述とかが出てくるんだろうけど。
前にも書いたが、あくまでも仁賢孫(=欽明)までのつなぎなのだ。

安閑・宣化の母方は尾張系である。管理人ははじめ、>>78で言えば旧①'=④の尾張なのだから、
尾張系は即位後の嫁だろうかと考えていた。しかし④では意味がないのだ。安閑・宣化は継体即位前からの子だろう。
したがって、安閑・宣化が即位していたのだとしたら、欽明が成長する前に継体が崩御した場合のみと考える。
実際、宣化にも別の仁賢娘があてがわれており、やはりつなぎとしての役割を期待しているように思うのだ。
考えが甘いだろうか? 学者がよく言うように、安閑・宣化と欽明との間に世継ぎ抗争があったと見る方が自然だろうか?

管理人はどっちでもいいと思っている。実際、重臣たちは①+②の欽明につくだろうし、どっちであっても結果は同じだ。
安閑・宣化の即位があったかどうかについても、どっちでもいいと思っている。

92管理人:2012/03/27(火) 01:10:15
>>91に付け加えてだが、安閑・宣化が即位していなかったと仮定した場合、系譜に組み込む意味は何だろう?
ここで一つ妄想を提示したいのだが、例外という名の前例づくりをしたかったのではないだろうか、と思うのである。
欽明によって復活した>>88の仁徳システムは、いずれ途絶えるのである。その際、安閑・宣化をいたことにしておけば、前例として使えるのだ。

……。ここにきて管理人の主張がやたらシステマチックになってきたのが、なんか萎えるなあ。
んなこたーない、って言われそうだし、自分でもそう思う。5C(おそらく4Cも)の葛城、及び6Cの蘇我が、当然のように
外戚として居座っているので、そう見えてしまうのである。古参であり、なおかつ6C半ばまで最有力氏族である大伴や物部が
全然王統に絡んでこないのもヘンだ。軍事氏族だからか? なんとなく暗黙の了解があるような気がしてしまうのである。許してくれ。

まあいいや。それにしても磐井である。
他者との繋がりを見る限り、北九州・新羅の磐井系も②であるし、息長・近江の継体系も②なのだ。それに加えて磐井の謎めいた台詞。
これは単なる仲間割れじゃないのか? 継体の甘受っぷりにブチきれた磐井が……、とか、
同系の不満分子に唆された安閑・宣化が欽明に……、とか、何とでも考えられそうだが、どう転んでも結果は一つしか見えそうにない。

さて、欽明の嫁は悉く蘇我である。つまり葛城の代わりに蘇我が立てられたわけだ。別に違和感はない。
宮は磯城。全く違和感なし。当然すぎて困るくらいだ。重臣は大連が大伴カナムラ・物部オコシ、大臣が蘇我イナメ。もはやテンプレである。
だいたいにおいて管理人が、播磨王朝的な顕宗・仁賢の乗っ取りやら、近江・越前王朝的な継体の乗っ取りやら、
継体系の安閑・宣化における欽明乗っ取り(或いはその逆)やら、それらにあまり食指が動かないのは、
どの新政権にも普通に大伴と物部がいて、加えて②の有力者(今回は蘇我)が当たり前のようにいるからである。
ふつう、内乱やクーデターっていったら、有力皇子を担いだ氏族間抗争になるんじゃなかろうか? 何も変わってないぞ。

93管理人:2012/03/27(火) 23:19:10
〜前回までのあらすじ〜
何も変わってないぞ。

ところがどっこい、今後、変わるのである。ついに大伴さんが失脚してしまうのである。
欽明代は三十年くらい続くのであるが、他にも仏教公伝や任那滅亡などという重大事件もこの頃である。
欽明の父は継体、母はタシラカ(仁賢娘)である。タシラカの母は雄略+春日系である。
では、例によって嫁リストの作成を。主だったところを挙げる。
・嫁1:石姫(宣化娘)……これは妥当なところである。宣化は②継体系であり、欽明は①王家正統系なので、
 出自としては完璧であろう。石姫の母は仁賢娘(欽明母と同母の姉妹)である。ここの子には後の敏達がいる。
・嫁2:ワカヤ姫(宣化娘)……嫁1と同母の姉妹。
・嫁3:キタシ姫(蘇我稲目娘)……母不明。嫁4や蘇我馬子と兄妹である。欽明とキタシ姫の間には子が十三人もいる。
 主な子には、後の用明、後の推古がいる。
・嫁4:オアネ(蘇我稲目娘?)……嫁3の叔母と書かれるのもあるが、たぶん嫁3とは姉妹。
 主な子には、後の崇峻、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子など。

他にもいるかもしれんが、だいたいこんなもん。蘇我の食い込みっぷりが半端ない。
このあたりからは教科書的な有名人も増えてくるので、ざっくり見ていくことにする。

94管理人:2012/03/28(水) 22:06:17
再度脱線タイム。
大伴氏について考えてみたい。この人たちはいったいどこからやって来たのか?
管理人は当初から大伴は古参だ古参だと言い続けているか、それが本当かどうかは分からなかったりする。
ただ、何となく、扱われ方が物部と似ているので、古参のような気がするだけである。その点について、ちょっと考えたい。

物部が古参なのは、まあ、分かる話である。彼らは王家が奈良盆地にやって来る前から、そこに居たわけであり(>>23)、
言い換えれば王家よりも古参なのである。記紀がそれを書いちゃってるんだから、おそらく間違いないのである。
じゃ、大伴は? 確かに古参っぽいが、物部ほど明確なものがあるわけでもない。謎である。

天孫降臨時にニニギと一緒にやって来た?アマノオシヒってやつが大伴の祖と書かれてある。しかしそれだけじゃ分からん。
もう少し分かりやすい登場は神武代であり、神武東征時に功のあったミチノオミ(大伴道臣)である。やはり分からん。
また、ヤマトタケル東国遠征時にタケヒ(大伴武日)ってのが書記に出てくる。これも怪しい。
その次はようやくまともな感じなのだが、仲哀代の九州遠征同行者タケモツ(大伴武以)である。
そしてその後が5Cの大伴室屋である。これはいくらなんでも離れすぎだ。
しかしあれだ。実態は分からんが、ニニギ、神武、ヤマトタケルあたりと一緒に出てくるくらいだから、
よほど古参だと思うんだが、どうだろうか。これが1個だけなら怪しいが、3回はかなりだと思われる。知らんけど。

大伴タケモツは仲哀代の偉いさんとして、仲哀崩御時に名前が出てくるので、おそらく景行の九州遠征時の武将なんだと思う。
そして、>>19のようになったと。もし大伴がこの時、九州サイドの勢力であれば、武内宿禰の子孫と書かれるはずだから、
きっと畿内の旧勢力であろう。天孫降臨、神武東征、ヤマトタケル東征に絡んでいるのだから、
三輪の旧王権を軍事的に支えた存在だと思われる。ちなみに「祭神 アメノオシヒ」「祭神 道臣」で検索してみたが、
大した情報は得られなかった。残念だが、「脱線タイム」などとほざいておきながら、結局何も分かりませんでした。諦める。

95管理人:2012/03/28(水) 22:42:31
諦めると言いつつ、1点だけ補足。
軍事氏族といえば物部・大伴なわけだが、立ち位置的に前者は国軍、後者は親衛隊なわけですよ。
物部は王家が奈良盆地入りした時点では先着者であったわけだが、その際に王家へと降っている。
で、国軍となっている。ってことは、大伴はこの時点ですでに王家に近い存在だったと思うわけですよ。
王家と一緒に奈良入りしたのではないかと思われる。ミチノオミの話から考えて、王家奈良入りの際に
大伴の助力があったと思うのである。決定的な記述はないが、大伴が古参である状況証拠は揃っているように思う。

まあいいや。そんな大伴は5-6Cの室屋・金村が絶頂期。室屋は允恭・雄略代の重臣であり、
おそらく顕宗・仁賢擁立にも絡んでいるはず。また、その子(孫?)の金村は平群氏討伐や継体擁立に絡んでいる。
ところが欽明政権が誕生してすぐ、大伴金村は失脚してしまうのであった。外交上の失敗を物部尾輿に糾弾されてしまうのだ。
512年頃に百済から任那四県割譲要求があり、それに金村が応じて五経博士を渡来させている。
ところが527年頃に新羅と結んだ磐井の乱があり、その後、540年頃に新羅が任那を併合する事件が起きるのである。
おそらく半島情勢は相変わらずグダグダで、百済VS新羅が任那の取り合いという形になっていたんだろうと思われる。
倭国としては百済に肩入れしてたんだろうが、内乱等で結果失敗となった。しかも金村は百済に賄賂を貰っていた(尾輿談)。
だから金村は駄目なんだ、というのが尾輿の言い分である。言いがかりのようにも聞こえるが、結局金村は失脚、隠居した。

ここからは妄想だが、蘇我の台頭により、物部に危機感があったんじゃないかと思われる。
同クラスの大伴を蹴落としたかったんじゃなかろうか? また、尾輿は金村と共に動いていたアラカヒとは同じ物部でも
やや別系統であり、あまり抵抗もなかったのかもしれない。蘇我にとっても願ったりかなったりで、物部に同調したんだろう。
結果論だが、これでパワーバランスが大きく崩れたと思われる。そして欽明代のさらなる事件、仏教公伝は552年頃。

96管理人:2012/03/29(木) 21:28:32
有名な書記の翻訳サイトがあるんだけど、武烈代までしか載ってないから
残念ながら継体以降はwiki情報多めであるとお伝えしておきます。

よく言われることだけど、仏教公伝ってのは、まさに公伝であって、私的な伝来は以前からあったわけだし、
また、それはいわゆる廃仏派と言われる集団に属する個人においても、私的な信仰はあったのである。
そりゃホトケも数多いる神様の一つとしか思われていなわけである。
崇仏派と廃仏派の対立というのは、国家を挙げて祭祀するか否かの争いである。

そうなってくると、やはり廃仏派に分があるわけだ。当時、国家レベルの信仰対象の中でも最高位にあるのは三輪山である。
これはもう崇神代から、つまり三百年以上続いているのだ。かつて神功陣営がアマテラス祭祀を持ち込んだこともあったが、
オオモノヌシ様がお怒りになられて、マイナー落ちしてしまった。別にアマテラス信仰が潰えたわけでもなく、
伊勢へ引越して生き続けてはいるものの、やはり最高の神様はオオモノヌシ様なのだ。
神功陣営ですら妥協のオオモノヌシ祭祀によって民心を掌握したわけである。三輪山信仰は王家と切り離せないのである。

欽明は当初、仏像の見事さに関心を持ち、臣下に問うたそうである。以下、臣下の感想を管理人が代弁。
・蘇我イナメ:近来の渡来人と関係を持つのがええやろ。それにホトケをアレにアレしたらアレやで。
・物部オコシ:こっちは古くから王家=三輪の権威に仕えとるんじゃい。ホトケはマイナーでええやろ。
・中臣カマコ:ウチらは伝統的祭祀でメシを食ってますんで。ホトケとかないわー。

ちなみにこのカマコはカマタリとは違う方のカマコである。根拠はないが、管理人はこのカマコの存在を若干怪しんでいる。

97管理人:2012/03/29(木) 22:03:34
古代において神権と王権は切っても切れない関係にある。信仰を集めることは大事だ。
つまりホトケをアレにアレしたらアレになるわけである。仏教を国教として国家的祭祀をし、成功すれば王権と結びつくわけだ。
蘇我稲目がそう考えたかどうかは知らないが、王家の次に王権の近くにいるのは、間違いなく蘇我稲目である。(>>93

欽明「じゃ、試しにやってみっか!」 → 大失敗。

疫病が流行してしまうのである。仏像の廃棄、仏寺の焼却が黙認されることとなってしまうのであった。
そんなこんなで蘇我はしょんぼりである。といっても、別に蘇我が悪いわけではないので(本心は知らんけど)、
失脚したわけではない。蘇我イナメは財政手腕に長けていたらしく、この争いは後々に再燃するわけである。

一方、ぐちゃぐちゃの半島であるが、百済が大ピンチ。百済弱体化に乗じ、新羅が勢力を伸ばす。
560〜62年頃に、残った任那も新羅に全て滅ぼされてしまう。大和の新羅討伐軍も失敗。任那復興策も遅きに失した感がある。
大陸もこの時期は隋建国前のぐちゃぐちゃ期なんだろうなあ、きっと。ちなみに任那滅亡の際、半島から戻ってきた勢力もいたと思われるが、
そいつらの出自はどういう陣営が多いんだろうね? 少なからず国政に影響力を持ったとは思うんだが。
やがて、イナメも死に、オコシも死に、欽明も崩御となる。次の敏達は①王家正統+②継体系であり、やはり廃仏派だったそうだ。
敏達代の大連は物部モリヤ(オコシの子)、大臣はウマコ(イナメの子)である。二頭体制だな。相変わらず争ってます。

98管理人:2012/03/29(木) 22:32:18
4C以前は>>66-67
<5C前半>
【11】履中(17)即位。対外政策に伴う新着渡来の流入により、文字記録の開始。
【12】反正(18)即位。百年以上続いた安定期もこの頃までか。
<5C中頃〜5C後半>
【13】允恭(19)即位。この頃から中臣氏登場?
【14】安康(20)即位。血みどろの時代へ突入。安康も含め、
王位後継者の有力どころが次々に死亡(半分くらいは雄略のせい)。葛城氏没落。
【15】雄略(21)即位。王政復古的?な専制(やりすぎ)。吉備と不和。
大伴室屋・物部目や渡来系を重用。百済第一の滅亡とその復興に尽力。
【16】清寧(22)即位? 雄略的国家経営の終焉。
【17】飯豊、執政。謎のつなぎ役。
【18-1】顕宗(23)即位。履中系。
【18-2】仁賢(24)即位。顕宗の兄。6C初頭の王統存続にかかわるキーマン。春日系と結びついている感あり。
【?】武烈(25)即位? 汚れ役? つなぎ役? この頃、平群氏滅亡。武内系の次代は蘇我へ。

99管理人:2012/03/29(木) 22:58:24
<6C前半>
【19】継体(26)即位。男手不足による傍系王族の採用。出自は武内→羽田→息長系。
仁賢娘への入り婿により、仁徳型の王統継承を実現。大伴金村を重用。つなぎ役?
半島情勢悪化も、磐井の乱(壮大な仲間割れ?)により手つかず。継体系弱体化にも作用か?
【20-1】安閑(27)即位?
【20-2】宣化(28)即位? 系譜を見る限り仁徳型の王統継承。継体と同じにつき、つなぎ役か。
<6C中頃>
【21】欽明(29)即位。正統型王位継承の復活。大伴金村失脚。蘇我稲目・物部尾輿重用。
外戚として蘇我氏台頭も、仏教公伝から廃仏気味の流れへ。任那滅亡。
<6C後半>
【22】敏達(30)即位。王家正統(欽明)と継体系(宣化娘)による継承(正統型)。

この先になって来ると、系譜がまるで蜘蛛の巣のようになっていて、力関係が逆に分かりづらい。
まあ、元をたどれば、殆どが欽明と蘇我に行きつくんですけどね。

〜次回予告〜
己が存続を賭けた氏族間抗争! そして血で血を洗う継承闘争!
陰謀渦巻く王宮に降り立った傑物は所詮踊らされているだけに過ぎないのか!?
次回「ウマウマの王宮」、乞うご期待!

100管理人:2012/03/30(金) 00:42:55
次回、乞うご期待! などと言っておきながら、一つだけ脱線話を。
>>92で以下のように書いた。
>安閑・宣化が即位していなかったと仮定した場合、系譜に組み込む意味は何だろう? ここで一つ妄想を提示したいのだが、
>例外という名の前例づくりをしたかったのではないだろうか、と思うのである。欽明によって復活した>>88の仁徳システムは、
>いずれ途絶えるのである。その際、安閑・宣化をいたことにしておけば、前例として使えるのだ。

仮にそうだったとしてみようよ。仮にね。そんな前例を作りたいのは一体誰なんだ?
そりゃ、もう、あの人しかいないわけですよ。もう一度>>78の妄想分類を整理する。
①正規の王統。馬韓経由の渡来グループ? 具体的には、纏向王家、物部、大伴、国家としての百済。他、三輪や賀茂もこのグループか?
②北九州勢。辰韓経由の渡来グループ? 具体的には、神功・応神系、武内系(葛城・平群・蘇我・紀など)、国家としての新羅。
③近来の渡来グループ。時代によって主力は違うと思う。具体的には、5Cの東漢や西文など。その後もいろいろと出てくる。
④もともと①のグループだが、①+②に負けた? 具体的には、吉備系、尾張系など。かつては大伴・物部らとともに①'であった。賀茂はこっちかも?
⑤いちおう①+②に協力した別陣営と想定。宇治王権時代の主力? 具体的には、ワニ系。後に春日や小野となる。春日は中臣との関係も怪しい。

つまり前例を作りたいあの人は、①でもなけりゃ②でもないのよ。④もかなり薄いでしょう。
となると、③か⑤なのよ。全くの別陣営、という考えもあるかもしれないが、だとすると③なのよ。
少なくとも縄文系や隼人でもない限りは、別陣営なら③だろう。つまりあの人の一族の起源は、③か⑤か③+⑤だと思われる。
いや、春日が⑤なので、⑤か③+⑤でしょうな。「+⑤」以前は東国にいたっぽいので、やはり③+⑤か。大穴で④+⑤や③+④+⑤もあるが。

きっと8C前半くらいには、まだ、①+②が正統というかつての暗黙の了解が、まだ人々の記憶に残っていたんだと思う。
だからこんな小細工を仕込んでいるのだ。仮にそうだったとすればの話だが。他にも、あの人が自身の一族の起源を
あたかも①'であるかのように見せかけている箇所が、記紀には結構見受けられたりするのだ。


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