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創作メモ

86管理人:2012/03/25(日) 19:23:19
書記における継体代は507-531年、崩御は534年。古事記では527年崩御となっている。
まず樟葉で即位し(書記507年)、以降、筒木(書記511年)、乙訓(書記518年)、磐余(書記526年)ってな感じでうごめいている。
大和に入るまで二十年もかかっているのである。執政についても、実際には大伴カナムラ、物部アラカヒ、
許勢オヒトらが携わっていたと思われ、継体は何にもしていなさそうである。本人も仁賢孫(後の欽明)が育つまでの
つなぎだと分かっていて、好きなところに住んでいただけなのかもしれない。ただ、安穏としていられなくなるような事件が起きる。

書記527年、半島へ進軍しようとした近江毛野の軍勢を筑紫の磐井が妨害し、翌年に物部アラカヒによって磐井が鎮圧される。磐井の乱である。
継体の大和入りもこの事件に関連してのことかもしれない。今まで見てきたとおり、百済第一の滅亡後、
半島情勢がよく分からないことになっている。近江毛野は新羅に奪われた任那の一部を取り戻す軍勢であり、磐井は新羅と結んで
それを妨害したとされる。磐井の出自であるが、全くの謎である。火の国・豊の国を制圧・懐柔し、半島航路を封鎖したというのだから、
かなりの大勢力である。乱以前から新羅の力を得ていたのだろうか? 新羅が磐井へ賄賂を贈っていたなどの記述もある。

・任那:最近旗色が悪く、よく負けている?
・百済:475年の第一滅亡以来、ぐちゃぐちゃになっている?
・新羅:相変わらず倭国とは仲が悪い? 磐井と結託?
・高句麗:別格の国。最近、倭国が関係を持とうとしている?

この辺は当時の半島情勢も考えないと見えてこないと思われる。上記はあくまで推測。とりあえずは置いておくか。


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