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創作メモ

76管理人:2012/03/24(土) 18:43:29
次に吉備反逆と新羅出征の話である。雄略の側室2は吉備系なのだが、これはある時、吉備のタサが嫁自慢をしていたのを
雄略がこっそり聞いて、自分のものにしたいと思い、タサを任那へ赴任させ、その隙に奪ってしまうのである。ひでえ。
(なお、このエピソードの前にも吉備系と大王系の不仲が書かれており、雄略を敵視した吉備系の一部を物部に討たせている。)
また、タサの嫁を襲津彦の孫と書いている説もあり、だとするとここにも対葛城的なアレがあると思われる。

さて、ここからの展開が意味不明なのである。
当時、新羅と敵対しており、雄略は新羅征討メンバーにオトキミ(タサの嫁の連れ子)を選ぶ→それを聞いた西文氏(5Cの渡来系)が
「百済を使った方がええで」と助言→結局、オトキミと西文氏のカンインチリが一緒に百済へ向かう→その頃、嫁を奪われたことを知った
任那のタサが新羅と内通し、雄略に対抗しようと考える→オトキミは面倒臭くなり、百済にとどまる→タサは新羅が攻められず喜んだが、
ひそかに百済のオトキミ(自分の息子ですな)へ忠告し、一緒に雄略へ抵抗しようと提案→オトキミの嫁が反対し、オトキミ殺害(!)
→他の新羅征討軍勢が百済の技術者を伴ってそのまま帰国→大伴ムロヤの提案で東漢ツカに百済の技術者を管理させる

結末は!? よく分からない謎な話である。三国史記には5C半ば(462年?)に倭国が新羅へ攻め込んで捕虜を連れ帰ったという記事があるらしい。
百済の技術者=新羅の捕虜だろうか? ちなみに雄略代にはこの後にも新羅出征の記事がある(①481?年、②482?年)。
これも①では高句麗にやられそうな新羅を倭国が伽耶経由で助けている。しかし②では普通に新羅を攻めており、倭国が敗北している。
ちなみにそれは三国史記の記述とも一致しているらしい。記紀が三国史記を参考にしてこの記事を挿入したとも考えられるが、
だとしても戦ったり助けたり、忙しいことこの上ない。このへんの混乱具合は475年の百済滅亡その1に絡んでいるのかも。


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