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創作メモ
77
:
管理人
:2012/03/24(土) 19:21:56
雄略即位以降、新羅の朝貢がなかったらしく、これが吉備のタサによる反乱(?)にも反映されている。
この後もずっと新羅は相変わらずだったので、
>>76
の①の後に、これからはちゃんと朝貢するよう新羅に忠告している。
ちなみにこの際の新羅救援メンバーは膳イカルガ、吉備オナシ、難波アカメコらしい。膳氏(かしわでし)は
宮廷料理人みたいな存在、吉備はそのまんま、難波は「難波吉師」などと書かれている連中が他にも出てきており、
河内王朝時代以降に参画した中堅氏族だろうか? 新羅に上述の忠告したのは膳イカルガである。
ところが新羅はウンともスンとも言わない。それが翌年?の出征に繋がったのだろうか?
あるいは百済復興と連動したものかもしれない。ところが
>>76
の②では味方の不和が生じ、敗れている。
メンバーは、紀オユミ、蘇我カラコ、大伴カタリ、オカヒ(姓不明?)である。まず、大伴カタリが戦死。続いて紀オユミが病死。
その後、父の死を知った紀オオイワが新羅入り。このオオイワが勝手にオカヒの家来を指揮したため、オカヒがカラコに不平を漏らす。
百済勢はヤマト勢を仲直りさせようとしたが、時すでに遅く、カラコとオオイワが喧嘩して、カラコ死亡。で、結局新羅から退くこととなった。
百済との関係は? 当時の百済の王はガイロ王。
・百済から提出された采女が雄略を嫌がって他の男と関係を持ったため、その男ともども処刑された。(
>>71
の虐殺1)
・女子を提出するのは嫌になったガイロ王が弟のコニキを派遣することにした。コニキは雄略に仕えた。
・475年、高句麗に攻められ、百済一度目の滅亡。漢城は陥落し、ガイロ王も死亡。
・雄略が百済の復興に協力。コニキの子のマタを百済国王となるよう告げ、本国へ行かせ、王となった。(三国史記とも共通するらしい)
基本的に百済とは仲が良いようである。477年・478年あたりの倭王武による遣宋使は緊迫する半島情勢にどう対処するか、
ってなことをなんやかんやする目的があったのかもしれない。
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