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創作メモ

69管理人:2012/03/23(金) 00:07:25
>>66-68でまとめたわけだが、補足したいことが2点ある。
①倭王讃と②景行〜履中の間についてである。

①倭王讃について
「珍は讃の弟だろうが!」という声が聞こえてきそうなので、補足する。
(正直、履中が讃でも別に構わんのだが、一応。)
これは履中の治世が短いので、ないことにされてしまったと解釈する。「讃死して、弟珍立つ」の記事であるが、
「先代が死んだらしいよ」→「珍は先代の弟らしいよ」→「先代って誰だっけ?」
→「ええっと、たしか、(文献を漁る、)せやせや、讃やで讃」 となったものと推測する。
無茶苦茶な理屈であるような気もするが、讃=仁徳説を推す学者も、きっと同じように考えているのではなかろうか。

②景行〜履中の間について
1.景行・(倭武)・成務・仲哀・(神功)・応神・(宇治)仁徳・履中 ……これが記載順である。
2.景行(&仲哀)・神功・応神・宇治・仁徳・二世・三世・四世・履中 ……これが管理人の想定順である。
崇神〜景行の宮と考古学の一致(2C前半〜中頃)と、五王代記事と履中〜雄略の一致(5C)は誰もが認めるところ。
ではなぜ管理人は1でなく2を推すのかという点である。その理由だけを簡単に再掲しておこう。
魏志・台与と記紀・神功の状況的な近似。武内宿禰の年齢。ヤマトタケル遠征と神功三韓討伐における適当さ加減。
さんざん書いてきたことではあるが、そのへんが理由である。そのへんの理由の方が、
「応神・仁徳が誰か分からん」という問題よりも解決すべき点であると考えているからである。


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