[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
創作メモ
45
:
管理人
:2012/03/18(日) 16:30:27
履中代から国史を記録する書記官を置いたそうだから、書記の「履中○年」より古事記の干支の方が
信用度は高いと思うんだが、どうでしょうかねえ。いずれにせよ、困ったことあある。
>>28
である。
>讃:413年、421年、425年に朝貢。(430年にも?)
誰だよお前?w 430年にも?の人は、きっと履中なんだろうなあ、と思う。
ってことはだ。讃≠履中なのか? 考えられる理由は以下4点。
①古事記の干支が間違っている説。②履中の在位は長かった説。③宋書の記事が適当説。
④讃は履中の前の王(管理人の言うところの「応神仁徳4」。4なのかどうかは知らんが。)説。
いろいろ考えてみて、管理人的には②か④、或いはその合わせ技を使用したい気分である。
合わせ技とは、応神仁徳4=讃は譲位こそしていなかったが、おじいちゃんなので履中が半ば摂政化していた説である。
ちなみに古事記における応神・仁徳の没年はそれぞれ、274年or334年or394年、317年or367年or427年である。
管理人はこれを、応神仁徳3が394年崩御?、応神仁徳4が427年崩御だと考える。
なぜなら、履中代から文字記録を始めたはずであり、その際に先代・先々代の没年を記したはずだからである。
したがって、いわゆるホムダワケ・いわゆるオホササギの没年は不明である。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板