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創作メモ
84
:
管理人
:2012/03/25(日) 15:44:54
〜前回までのあらすじ〜
>>78-80
謎が多い500年前後について見ているわけだが、最後にその他の部分を少しだけ。
まず顕宗崩御後の記事に百済と任那の争いが見える。任那とはいわば倭国みたいなもんなので、そう考えると、
これは百済と倭国にいがみ合いがあったってことになる。変な感じである。
任那と高句麗が接触し、それと関係してかどうかは知らないが、百済と任那が戦い、ここでは任那が負けている。
また、仁賢代?にもヒタカノキシを高句麗に派遣して技術者を求め、連れ帰っている、とある。
武烈代?には百済の朝貢復活の記事がある。ある程度復興したのだろうか? 三国史記の引用もあるが、書記編纂者も混乱している感じである。
高句麗へ近づこうとしているのは百済第一の滅亡と関係あるのだろうか? どうにも分からん。
顕宗代?には佐伯部についての記載があり、これは捕まえた東国への逃亡民を管理する集団であるらしい。それを再編したか?
東国からの有力者が中央政権に食い込んでくるのもこの頃からだろうか?(北陸系の阿倍とか関東系の中臣とか)
阿倍の祖はオオビコという人とされており、これは崇神代の四道将軍の一人である。(さすがに崇神代は古すぎると思うが。
おそらく古墳が全国的に出現する3C後半以降の話であると思われる。)オオビコは北陸を主に制圧した人らしい。阿倍はその後裔か。
中臣については起源がよく分からんが、鹿島・香取を基盤としていたのは確からしい。もっとも允恭代から出てくるので、
昔からある程度は中央にいたと思われる。これがワニ系の春日あたりと結びついたと思われるが、ひょっとするとこの時期かもしれない。
まあ、このへんについてはあくまで推測であるが、後々有力氏族として出てくるので、この時期に布石があってもおかしくはない。
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