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創作メモ

95管理人:2012/03/28(水) 22:42:31
諦めると言いつつ、1点だけ補足。
軍事氏族といえば物部・大伴なわけだが、立ち位置的に前者は国軍、後者は親衛隊なわけですよ。
物部は王家が奈良盆地入りした時点では先着者であったわけだが、その際に王家へと降っている。
で、国軍となっている。ってことは、大伴はこの時点ですでに王家に近い存在だったと思うわけですよ。
王家と一緒に奈良入りしたのではないかと思われる。ミチノオミの話から考えて、王家奈良入りの際に
大伴の助力があったと思うのである。決定的な記述はないが、大伴が古参である状況証拠は揃っているように思う。

まあいいや。そんな大伴は5-6Cの室屋・金村が絶頂期。室屋は允恭・雄略代の重臣であり、
おそらく顕宗・仁賢擁立にも絡んでいるはず。また、その子(孫?)の金村は平群氏討伐や継体擁立に絡んでいる。
ところが欽明政権が誕生してすぐ、大伴金村は失脚してしまうのであった。外交上の失敗を物部尾輿に糾弾されてしまうのだ。
512年頃に百済から任那四県割譲要求があり、それに金村が応じて五経博士を渡来させている。
ところが527年頃に新羅と結んだ磐井の乱があり、その後、540年頃に新羅が任那を併合する事件が起きるのである。
おそらく半島情勢は相変わらずグダグダで、百済VS新羅が任那の取り合いという形になっていたんだろうと思われる。
倭国としては百済に肩入れしてたんだろうが、内乱等で結果失敗となった。しかも金村は百済に賄賂を貰っていた(尾輿談)。
だから金村は駄目なんだ、というのが尾輿の言い分である。言いがかりのようにも聞こえるが、結局金村は失脚、隠居した。

ここからは妄想だが、蘇我の台頭により、物部に危機感があったんじゃないかと思われる。
同クラスの大伴を蹴落としたかったんじゃなかろうか? また、尾輿は金村と共に動いていたアラカヒとは同じ物部でも
やや別系統であり、あまり抵抗もなかったのかもしれない。蘇我にとっても願ったりかなったりで、物部に同調したんだろう。
結果論だが、これでパワーバランスが大きく崩れたと思われる。そして欽明代のさらなる事件、仏教公伝は552年頃。


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