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創作メモ

1管理人:2012/03/08(木) 21:43:03
管理人の備忘用。

24管理人:2012/03/13(火) 23:57:48
10代崇神よりも前の王様については記紀の記述もそれはそれは貧相なもので、
2代綏靖〜9代開化については欠史八代などと言われ、中身がなんにもない。
そりゃ崇神について「初めて国を治めた」と言っているくらいだから、
それ以前の話なんて何の伝承も残っていないのだろう。ただただ王家の起源を
より古くするためだけに突っ込まれた存在だと言われておる。しかも悉く百歳くらいまで生きており、
その結果、神武代が今から2600〜2700年前くらいになってしまっている。

そのかわり神武の伝承は豊富である。そりゃ初代なわけだから、豊富にしないわけにもいかない。
けれども本来は、なーんにも残っていなかったはずで、後代の色々なエピソードを繋ぎ合わせたのだろう、
と、通説では言われているし、おそらくその通りなのだと思う。
ヤマトタケルについても同様で、おそらく父親の景行による熊襲征伐とヤマトタケルの熊襲征伐は、元は同じなのだろう。
だいたい何度も何度も九州と畿内を行ったり来たりするのは恐ろしく面倒である。

簡単に結論が予想できる話になってきたが、神武東征は神功東征がモチーフになっているのではないかと思うのである。
神功は難波で思うように進めず紀州へ逃れており>>18、神武も河内で生駒を越えられずに紀州へ逃れている>>23

25管理人:2012/03/14(水) 00:30:32
つまり>>18で述べた「東征の行程が曖昧」な理由は、神武と神功に分かれて伝えられたために、
ただでさえぼやけていたものがさらにぼやけてしまったから、と考えているのである。
このへんを突っ突き合わせると相互補完によりいろいろ見えてくるのかもしれないが、
まあそういう面倒臭いことは専門の偉い人がやったらいいさ。

武内宿禰とは何者か?
①成務と同年同日生まれで②景行代より政権に参画し③仲哀の死の現場に居合わせ、
④神功代には反乱軍の鎮圧に功あり⑤応神代には政権の中枢におり⑥仁徳代にも長老的立ち位置で現れている。
⑦300年くらい生きている伝説的人物。

まず、①はどうでもいい。で、先に⑦についてなのだが、>>13の仮定を推すならば、
せいぜい普通の長生きじいさんという結論に収まりそうである。
③④⑤から考えて、このじいさんは九州陣営の実力者なのではなかろうか? となると②は半分虚構か。
⑥の頃にはちょうどいい感じに長老であろう。以前にも書いたが、特に神功・応神との繋がりが深いのだ。
このじいさんは葛城、紀、平群、巨勢、蘇我などの租と言われているが、
おそらくそのへんの氏族は九州陣営の末裔だろう。なんとなく大伴や物部より新しい感じがする。
神功・応神政権誕生を演出したうちの一人と思われる。


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