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創作メモ

81管理人:2012/03/25(日) 01:13:59
書記における武烈の書かれようは、まあ、継体の正統性を主張するためだと思われるが、
だとすると顕宗・仁賢がやたら好意的に描かれているのもヘンである。

たった今、調べて知ったのであるが、播磨王朝説というのがあるらしい。顕宗・仁賢が播磨から出てきて、
雄略没後の王権を乗っ取ったとする説だそうだ。播磨サイドにそんな兵力があるのか? この場合、地理的要因を考慮すると、
播磨の後ろ盾に吉備がいたと考えられそうだ。雄略代から続く畿内と吉備の不仲や清寧即位前のホシカワ反乱も傍証になりはするだろう。
それでもやはり、大伴・物部を抱える畿内軍に勝てると思えない。或いは雄略没後に乗じて、古参が吉備と結託し、
調子こいている平群を討つために顕宗・仁賢を担いだとか? どのみち清寧に子はいないわけであるし。清寧自体がいないかもしれないが。
その場合、顕宗・仁賢がオシハの子というのはどういうことだろう?
ちなみに清寧崩御後に執政を行っていた飯豊もオシハの子なのだが、播磨王朝説だと顕宗または仁賢が飯豊と関係を持って、
結果的に顕宗or仁賢もオシハの子になったということの暗示だろうか? 書記には飯豊初体験に関する謎な記述もあるわけだし(相手不明)。
また、仁賢が春日系で固めていることから、二皇子擁立に春日系が強く加担していることも考えられる。

顕宗・仁賢の発見話を創作とする説の中に、地方出身の王に違和感をなくすためだよ派、ってのがある。
つまり越or近江から担がれた継体を登場させやすくするための創作と考えるわけである。この場合は、オシハ死後のくだりは創作で、
清寧死後、普通に飯豊・顕宗・仁賢の履中系が天下を治めただけだというパターンと、そもそも顕宗・仁賢なんていないというパターンが考えられる。

①記紀や風土記の記述通り。
②播磨王朝説的な乗っ取りがあった。
③貴種流離譚は創作だが、系譜自体は疑わない。
④顕宗・仁賢はいない。ってことは、武烈もいない。


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