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【誕生日スレ】今日は何の日?【総合】

210名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/11(金) 23:02:24 ID:e20q1x2A
>>209
フランドル地方はけっこう中世史に出てきて面白いね

211名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/12(土) 00:41:58 ID:lk6tyLS6
7月12日はライン同盟が成立した日です

1805年12月に行われたアウステルリッツの三帝会戦でオーストリア帝国・ロシア帝国を破ったフランス帝国皇帝ナポレオンは、プレスブルクの和約によりオーストリアを屈服させます
オーストリアは領土の割譲を余儀なくされ、神聖ローマ帝国を構成する大邦であるバイエルン選帝侯国、ヴュルテンベルク選帝侯国、バーデン選帝侯国がナポレオンの影響下に置かれました

ナポレオンはこれを期にドイツに圧力をかけ、ドイツ諸侯は名目上の存在と成り果てていた神聖ローマ帝国から離脱し、フランス帝国と同盟します
ナポレオンは先の三選帝侯国を中心とする西南ドイツ諸邦を束ね、自信を盟主とするライン同盟を結成しました

ライン同盟はその後加盟国を増やし、ほぼ全てのドイツ諸邦が加盟するドイツ地域の一大勢力となるのです


本日は神聖ローマ帝国の実質的な命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・本池立『ナポレオン 革命と戦争』世界書院、1993年
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・ジェフリー・エリス、杉本淑彦・中山俊訳『ナポレオン帝国』岩波書店、2008年

212名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/13(日) 00:03:37 ID:69JQEOzQ
7月13日は第一回ワールドカップ・ウルグアイ大会が開会した日です

>>119で見たように、FIFAはサッカーの世界選手権を開催するために創設されました
その願いは第三代FIFA会長、ジュール・リメによって実現されました

開催国に選ばれたのはウルグアイで、ウルグアイには建国100周年を記念した近代的なスタジアムが存在し、またオリンピックサッカーにおいて1924・28年に連覇を達成、参加国の受け入れ態勢も十分と、開催国として申し分ありませんでした

まず近隣諸国であるブラジル、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ペルー、ボリビアが参加を表明、北中米のメキシコ、アメリカも参加しました
ヨーロッパ諸国は当初船での長旅などを理由に不参加を表明していましたが、リメの呼びかけによりフランス、ユーゴスラビア、ベルギー、ルーマニアが参加することとなりました

そして1930年7月13日、第一回ワールドカップが開催されました
記念すべき大会初ゴールを決めたのはフランス代表のルシアン・ローランでした
決勝に駒を進めたのは開催国ウルグアイと南米王者アルゼンチンで、これは4-2でウルグアイが勝利、ウルグアイは熱狂に包まれました
得点王には8得点でアルゼンチンのギジェルモ・スタビレが選ばれ、大会は大盛況のうちに終えたのでした

現在開催中の2014年ワールドカップはいよいよ明日7月14日のドイツ−アルゼンチンが決勝、好試合に期待したいですね


本日はFIFAワールドカップの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・井上忠恕・後藤信男『ビバ!ウルグァイ ワールドカップを制した人口300万人の小国』STEP、2003年
・千田善『ワールドカップの世界史』みすず書房、2006年
・FIFA「1930 FIFA World Cup Uruguay」〈 http://www.fifa.com/tournaments/archive/worldcup/uruguay1930/index.html 〉(2014年7月12日参照)

213名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/13(日) 08:39:00 ID:BIN/7usE
本日は柏原竜二さん(富士通)の誕生日です。
おめでとうございます

214名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/13(日) 09:34:15 ID:uPqTz8hw
柏ワ恋聴!

215名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/14(月) 01:53:31 ID:j96TnUgw
7月14はバスティーユ襲撃が起こった日です

18世紀末、フランスではルイ14世の度重なる対外戦争やルイ16世まで続く放漫財政により、多額の赤字となっていました
この赤字によって第三身分である平民に大きな負担を強いることとなりました
ルイ16世はテュルゴーを財務長官に任命、第一・第二身分である聖職者・貴族に課税しようとしますが、猛反発にあって失敗、辞任します

次いで財務長官となったネッケルは税制改革ではなく構造改革による財政改善を図りますが、これも特権階級の反発によって頓挫しました
ここに至りルイ16世は三部会を開催しますが、多数を占める第三身分の議決権に対し特権階級が反発、議論は平行線を辿ります

これに失望した第三身分は独自に国民議会を発足させ、球戯場の誓いによって結束を固めました
もちろんこれにルイ16世や特権階級は反発し、フランス国内は緊張が高まります
そしてルイ16世が国民に人気のあったネッケルを罷免すると民衆は怒りを爆発させ、1789年7月14日、バスティーユ牢獄を襲撃しフランスは激動の時代へと突入するのでした


本日はフランス革命の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・柴田三千雄他『世界歴史大系フランス史2 16世紀〜19世紀半ば』山川出版社、1996年
・安藤正勝『物語フランス革命 バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中央公論新社、2008年
・柴田三千雄、福井憲彦・近藤和彦編『フランス革命はなぜ起こったか 革命史再考』山川出版社、2012年

216名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/14(月) 23:13:12 ID:ddGlQutw
ということはアンドレの命日…と思って調べたら昨日やった

217名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/15(火) 00:12:04 ID:INd.GfNA
7月15日はタンネンベルクの戦いが行われた日です

>>189で見たように、13世紀以降のドイツでは東方植民が進められ、ドイツ騎士団がその中心となっていました
一方、その植民の対象地域となっていたポーランドでは、>>103で取り上げたカジミェシュ3世がドイツ騎士団に対抗し、枯れの死後成立したヤゲウォ朝ポーランド・リトアニア同君連合が引き続きドイツ騎士団と戦います

その最大の戦いとなったのが、1410年7月14日に行われたタンネンベルクの戦いです
タンネンベルク村周囲の平原で展開されたこの戦いは、リトアニア騎兵の先制攻撃で始まりました
ドイツ騎士団はこれを迎撃し撤退させ、さらに追撃戦に移ります
しかしこれは罠でした
追撃戦に移行したことでドイツ騎士団の軍勢は間延びした形となり、偽って撤退したリトアニア騎兵が反転しドイツ騎士団の側面を攻撃、本隊のポーランド軍も押し出し、ドイツ騎士団を散々に破ったのです

この戦いの勝利によりヤゲウォ朝はドイツ騎士団を服属させ、さらに黒海方面へも領土を拡大、その最盛期を築くことになるのでした
またこの戦いはポーランド国民にとっても非常に意義のあるもので、グルンヴァルト(タンネンベルクのポーランド語読み)村では毎年7月中旬に戦いを記念した祭りが開かれ、このグルンヴァルト歴史祭りはヨーロッパ最大で、周辺諸国民が多数参加する最も国際的な祭りの1つとなっているのです


本日はポーランドの歴史的勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・山内進『北の十字軍』講談社、1997年
・伊藤孝之他『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・阿部謹也『ドイツ中世後期の世界 ドイツ騎士修道会史の研究』未来社、2002年

218名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/16(水) 00:34:37 ID:5A1Ma2RU
7月16日は東西教会が相互破門を行った日です

395年のローマ帝国分裂以降、ローマ・カトリック教会とビザンツ教会はそれぞれ独自の道を歩み、対立を繰り返していました
例えば教皇首位権の問題、イコノクラスムなど様々なものがありますが、大きな対立点は2つ挙げられます

まず1つ目は、フィリオクェ問題です
これは第一回コンスタンティノープル公会議で定められたニカイア・コンスタンティノープル信条における「聖霊は父より出で〜」の部分に、ローマ・カトリック教会が「フィリオクェ(子からもまた)」と付け加えたことにビザンツ教会が反発したことで起こったものでした
ビザンツ教会にとって、ニカイア・コンスタンティノープル信条があくまで正統な信仰告白だったのです

もう1つが聖体拝領の問題です
ローマ・カトリック教会では、聖書に種なしパンの記述があることを理由に聖体拝領において種なしパンを用いていましたが、ビザンツ教はこれをユダヤ教的であると批判、酵母パンを用いていたのです
そしてビザンツ帝国が帝国内のローマ・カトリック教会に酵母パンの使用を求めたことで大問題となりました

ローマ教皇レオ9世はこれら2つの教義・典礼の問題においてローマ・カトリック教会の正統性を主張するため枢機卿フンベルトゥスをコンスタンティノープルに派遣します
しかしコンスタンティノープル総主教ケルラリオスとの協議で一致点を見出だすことはできず、フンベルトゥスはハギア・ソフィア大聖堂の祭壇に破門状を叩きつけ退去、ケルラリオスもフンベルトゥスを破門したのです

つまり1054年7月16日のこの事件は新しい対立が生まれたわけではなく、すでに存在していた教義・典礼の問題によってお互いが相容れないことが決定的となったのでした


本日は東西教会の相違の確認日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・高橋保行『東方の光と影』春秋社、1991年
・M・D・ノールズ他、上智大学中世思想研究所編訳『キリスト教史4 中世キリスト教の発展』平凡社、1996年
・堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』ミネルヴァ書房、2013年

219名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/17(木) 01:00:04 ID:y5X1FJE6
7月17日は百年戦争、カスティヨンの戦いが行われた日です

>>96で見たように、百年戦争は1429年のジャンヌ・ダルク登場によりフランスの優勢へと戦局が転換しました
1431年にはフランス優位の下休戦が成立、1435年にはアラスの和平を結びブルゴーニュ公国とイングランドとの同盟を解消させることに成功します
このブルゴーニュ公国はフランス王の封建領邦でありながら、フランス王に匹敵する権勢を誇り、百年戦争後期にはフィリップ善良公が最盛期を築いた強力な勢力であったため、その離脱はイングランドにとって大きな痛手でした

フランスは休戦期間が過ぎた後さらなる攻勢に乗り出し、ノルマンディーを制圧しました
さらにフランスは、12世紀のプランタジネット朝成立以降イングランド領として存続していたガスコーニュを攻め、1451年にはその中心都市ボルドーを陥落させます

しかしボルドー市民はイングランドによる統治を望み、イングランド軍を招き入れ、ガスコーニュの緒都市もこれに追随、イングランドはガスコーニュを最後の砦として抗戦します
しかしイングランドの劣勢はいかんともし難く、1453年7月17日、カスティヨンの戦いにて大敗を喫し、ガスコーニュにおける影響力を失います
10月には再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終結することとなるのでした


本日は百年戦争最後の戦いの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・山瀬善一『百年戦争 国家財政と軍隊』教育社、1981年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三他編著『中世英仏関係伺 1066−1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年

220名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/18(金) 00:37:13 ID:VSwD13SU
7月18日はローマ大火が起こった日です

54年にローマ皇帝に即位したネロは、哲学者セネカや近衛長官ブッルスの補佐を受け、その治世初期は善政を行っていました
64年7月18日に起こったローマ大火の際も、自らが陣頭指揮を行い鎮火を進め、被災者救済のための政策を実行するなど、ローマ市民の評判は良いものでした

しかし即位後間もなく、ネロは母アグリッピナの政治干渉を受けることになります
アグリッピナはネロに遠ざけられるようになると、帝位継承権を持っていたブリタンニクスを皇帝にしようと画策しました
このブリタンニクスはネロによって毒殺されたとされますが、これによってネロとアグリッピナの対立は決定的となったのです

ネロは59年にアグリッピナを殺害、続いて62年に不仲だった妻オクタヴィア、そして65年にはセネカも殺害します
そしてネロの悪名を決定的なものとしたのはローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害したことでした
ローマ大火に関し、一部の市民の間ではネロが故意にローマを燃やし、自分好みの新しい都を造り直そうとしているという噂が広がりました
この噂を払拭するためにキリスト教徒を犯人に仕立て上げたというのです
真意は不明ですが、ローマ大火を機に始め、以降も続けられた迫害で最も著名な使徒であるペテロやパウロも殺害したネロの評判が、キリスト教文化圏で低いことは確かでしょう


本日はキリスト教徒迫害の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・タキトゥス、国原吉之助訳『年代記 ティベリウス帝からネロ帝へ』岩波書店、1981年
・フィリップ・ファンデンベルク、平井吉夫訳『ネロ 皇帝にして神、芸術家にして道化師』河出書房新社、1990年
・青柳正規『皇帝たちの都ローマ 都市に刻まれた権力者像』中央公論社、1992年

221名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/19(土) 22:42:05 ID:x136ac9M
7月19日はフランス皇帝ナポレオン3世がプロイセンに宣戦布告した日です

>>82で見たように、プロイセンは普墺戦争に勝利した後、北ドイツ連邦を形成してドイツ統一を推し進めました
これに危機感を覚えたのがフランスでした
ヨーロッパ中央部、それも隣国に強大な統一国家が成立することはフランスにとって大きな脅威となるからです

ビスマルクはこの危機感を巧く利用しました
フランスを侵略者に仕立て上げ、ドイツが一体となって対抗するように仕向け、南ドイツの併合を円滑に進めようとしたのです
ビスマルクはエムス電報事件を起こし、フランス世論を煽ることに成功します

以後状況はビスマルクの思惑通りに展開します
フランス世論に押されたナポレオン3世は1870年7月19日、プロイセンに宣戦布告、これに対し南ドイツはプロイセン側として戦うことを表明したのです
戦争自体は>>198でも取り上げたモルトケの指揮によってプロイセン優位に進み、ケーニヒグレーツの戦いとともにモルトケの傑作とされるセダンの戦いによってナポレオン3世を捕虜とします
9月19日にはパリ包囲が始まり、翌1871年1月28にはパリが陥落し戦争は終結します
そして戦争中にプロイセン王がドイツ皇帝に推戴され、統一ドイツ帝国が成立したのでした


本日は普仏戦争の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治他『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1996年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年
・松井道昭『普仏戦争 籠城のパリ132日』春風社、2013年

222名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/20(日) 00:46:04 ID:cgDURJ5Q
7月20日はアンカラの戦いが行われた日です

オスマン帝国では1389年、コソボの戦いの最中にムラト1世が暗殺されるとその息子バヤジット1世がスルタンに即位しました
バヤジットはバルカン半島においてさらなる勢力拡大を進め、セルビア・ブルガリアを制圧するとコンスタンティノープル包囲にも着手します
これに危機感を覚えたキリスト教勢力はハンガリーを中心に十字軍を結成しますが、1396年、ニコポリスの戦いにおいて大敗します
オスマン帝国はバルカン半島においてほぼ覇権を確立し、ビザンツ帝国もコンスタンティノープルを開城する目前となっていました

しかしこの時、東方ではモンゴル帝国の後継者としてティムールが勢力を拡大していました
そしてティムール朝支配下の黒羊朝をバヤジットが攻撃したため、両者の対立が深まっていきます

この東西の二大帝国が激突したのが、1402年のアンカラの戦いです
この戦いでオスマン帝国は大敗、バヤジットも捕虜となるなど壊滅的な打撃を受けます
オスマン帝国は空位状態となり、滅亡寸前だったビザンツ帝国は延命することとなったのでした


本日はオスマン帝国一時中断の誕生日です、ビザンツ帝国の皆様おめでとうございます


参考文献
・加藤和秀『ティームール朝成立史の研究』北海道大学図書刊行会、1999年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・永田雄三編『世界各国史9 西アジア史2 イラン・トルコ』山川出版社、2002年

223名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/21(月) 00:34:32 ID:qRtHHaJ6
7月21日はパッサロヴィッツ条約が結ばれた日です

>>64で見た1204年の第4回十字軍を機に、ヴェネツィア共和国は東地中海に勢力を拡大し、その覇権を確立しました
しかし>>146で取り上げたように、1453年、オスマン帝国はビザンツ帝国を滅ぼし、東地中海世界のさらなる制圧に乗り出します
この2国による15〜18世紀に渡る一進一退の争いがヴェネツィア・トルコ戦争です

オスマン帝国と直接争ったもう1つの国がオーストリア帝国です
>>184で見たように、オーストリア・ハプスブルク家とオスマン帝国は16世紀末から対立を深め、交戦状態となっていました
オスマン帝国が1683年の第二次ウィーン包囲に失敗するとオーストリアは攻勢をかけ、1699年のカルロヴィッツ条約でついにオスマン帝国の領土を奪うことに成功します

そして18世紀、ヴェネツィアとオスマン帝国がペロポネソス半島を巡り争いを始めると、これを機にオーストリアがヴェネツィア側で参戦、二正面作戦を強いられたオスマン帝国はオーストリアに敗戦、ヴェネツィアとの戦争も決定打に欠き、1718年7月21日、両戦争の講和条約であるパッサロヴィッツ条約を結びました
これ以後オーストリアはオスマン帝国に対しさらなる攻勢を強める一方、ヴェネツィア共和国は領土割譲によりオスマン帝国と戦う力を失ってしまうのでした


本日は長期に渡るヴェネツィア−トルコ戦争の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・ジャン・モリス、椋田直子訳『ヴェネツィア帝国への旅』東京書籍、2001年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797』岩波書店、2004年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年

224名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/22(火) 00:09:23 ID:VMdZjKjg
7月22日はゴドフロワ=ド=ブイヨンが聖墳墓教会の守護者に選出された日です

>>160で取り上げたイェルサレム攻囲戦は、トゥールーズ伯レーモン、下ロートリンゲン公ゴドフロワ=ド=ブイヨンらを中心とする軍勢によって開始されました
一方イェルサレムを守るのはファーティマ朝でしたが、ファーティマ朝はシリアを巡るセルジューク朝との争いで疲弊しており、イェルサレムも十字軍が到着する1年前に奪還したばかりで、防衛態勢は十分とは言い難い状態でした

しかし十字軍もまた食料・水不足に苦しみ、イェルサレム攻撃は遅々として進みませんでした
しかし幾度にも渡る総攻撃、ジェノヴァ共和国の軍勢による攻城塔が投入されたこともあってイェルサレム守備隊は支えきれず、攻囲戦開始から約一ヶ月後の7月15日についに陥落、聖地イェルサレムはキリスト教徒の手に渡ったのです

そして十字軍による略奪・虐殺が一段落した7月22日、イェルサレム攻囲軍の指導者ゴドフロワ=ド=ブイヨンは「聖墳墓教会の守護者」に選ばれ、実質的な王となったのです


本日は実質的なイェルサレム王国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田広訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・ジョルジュ・タート、南条郁子他訳『十字軍 ヨーロッパとイスラム・対立の原点』創元社、1993年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年

225名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/23(水) 00:08:30 ID:xBrACThU
7月23日は青年トルコ革命が終結した日です

オスマン帝国は>>223で見たように18世紀以後ヨーロッパに対しての劣勢が決定的となりました
また>>205で取り上げた大北方戦争において、ポルタヴァの戦いに敗れたカール12世の亡命を受け入れ、戦争に関与したことでロシアの侵攻も受けるようになりました

こうしてオスマン帝国はオーストリア、ロシアに押され、>>112で見たようにエジプトの自立も許すようになってしまいます
オスマン帝国は状況を打開するため、タンジマートといわれる近代化改革を進め、その一環としてミドハト憲法を制定、憲政が始まりました

しかしスルタン専制政治復活を目指すアブデュル=ハミト2世は1878年、露土戦争敗北を口実にミドハト憲法を停止します
これに反発した「青年トルコ人」は憲法復活運動を展開、1908年7月3日に青年トルコ革命を起こし、同22日にはアブデュル=ハミト2世は専制政治を放棄、ミドハト憲法復活を認め、憲政が復活したのでした


本日は青年トルコ時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』青土社、2009年

226名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/24(木) 00:38:38 ID:aXJSWqes
7月24日はスチュアート家のジェームズが即位した日です

スコットランドでは13〜14世紀に行われた独立戦争によってイングランドから独立し、1371年にはスチュアート朝が開かれました
スチュアート家の起源はフランスにあり、対外的にもスコットランドはフランスと同盟・イングランドと対立という構図が伝統となっていました

1542年に女王となったメアリ=スチュアートもフランス貴族の娘で、彼女はイングランド女王エリザベス1世が庶子であるとしてイングランド王位を要求、スコットランドとイングランドとの対立は深まります
またスコットランド国内でもプロテスタントとカトリックによる内乱が繰り広げられ、メアリの治世は非常に不安定なものでした

その中で1567年7月24日、メアリはスコットランド王から退位させられ、わずか1歳の長男ジェームズが即位します
これがスコットランド王ジェームズ6世で、後>>197で見たように、イングランド王ジェームズ1世として騒乱の中心人物となっていくのです


本日はスコットランド・スチュアート朝第9代国王の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・今井宏『世界歴史大系イギリス史2 近世』山川出版社、1990年
・リチャード・キレーン、岩井淳・伊藤早織訳『図説 スコットランドの歴史』彩流社、2002年
・高橋哲雄『スコットランド歴史を歩く』岩波書店、2004年

227名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/25(金) 00:33:08 ID:1OpnXoLk
7月25日はニカイア皇帝ミカエル=パレオロゴスがコンスタンティノープルを奪回した日です

>>64で見たように、1204年の第4回十字軍によりビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは征服され、各地にビザンツ亡命政権が建国されました
その中でも最有力となったのが、コンスタンティノープルの対岸を支配するニカイア帝国でした

ニカイア帝国はラテン帝国の脆弱な統治体制、バルカン半島でのブルガリア帝国の強勢もあって徐々に勢力を拡大していきました
そのような状況でニカイア帝国の実権を握ったのがミカエル=パレオロゴスで、この人物は>>40で取り上げたシチリアの晩禱においても影で反乱を操り、シャルル=ダンジューのコンスタンティノープル攻撃の十字軍計画を頓挫させるほどの智謀の持ち主でした
ミカエルは1260年のペラゴニアの戦いでラテン帝国・エペイロス専制侯国・ブルガリア帝国などからなる連合軍を破り、ニカイア帝国の優位を決定的なものとします

そして1261年7月25日、ラテン帝国軍及びヴェネツィア共和国海軍が遠征のためコンスタンティノープルを留守にした隙を突き、ミカエルは帝都を攻撃しその奪回に成功するのです
こうして約60年に渡り中断していたビザンツ帝国は再興され、ミカエルはビザンツ皇帝ミカエル8世として即位したのでした


本日はビザンツ帝国・パレオロゴス朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・スティーブン・ランシマン、榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩禱 十三世紀後半の地中海世界の歴史』太陽出版、2002年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年

228名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/26(土) 00:34:59 ID:JsWVFXkI
7月26日はブリスカの戦いが行われた日です

これは>>133のブルガリア帝国強勢より少し前の時代になります
ブルガリアは7世紀以降、ビザンツ帝国と抗争し、一進一退の攻防を展開していました
805年にはクルム=ハーンがアヴァール人を攻撃、バルカン半島で勢力を拡大し、トランシルヴァニア・パンノニアを支配、さらにビザンツ帝国領のマケドニアやトラキアへも侵攻するようになりました

一方ビザンツ帝国では女帝エイレーネーの治世で財政が破綻し、彼女の後を継いだニケフォロス1世が改革を行っていました
彼は減税廃止や徴税強化を始めとする経済政策を行い財政再建に着手しました
また帝国領への支配を強化し、バルカン半島・小アジアでの防衛力増強にも取り組みました
その中でブルガリアの攻勢は憂慮すべき事態だったのです

ニケフォロスは大軍を率いてブルガリア領に侵攻、811年7月にはその首都ブリスカを占領するなど成果は上々と思われました
しかしブリスカを焼き払い、さらにブルガリア領深くへと侵攻しつつあった7月26日、ブリスカ近郊のバルビツィア峠にてクルム率いるブルガリア軍の夜襲に遭いビザンツ帝国は大敗、皇帝ニケフォロスも討ち取られてしまいます

以後ブルガリアはトラキアを征服、帝都コンスタンティノープルを包囲するなどビザンツ帝国に対し攻勢を続けることとなるのでした


本日はビザンツ帝国初の皇帝戦死の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論新社、2009年

229名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/27(日) 00:31:15 ID:f6DOLRr6
7月27日はブービーヌの戦いが行われた日です

>>172で見たように、イングランドではジョンが即位した当時、フランス王フィリップ2世尊厳王によってフランスにおけるイングランド領の大部分が失われていました
一方神聖ローマ帝国ではホーエンシュタウフェン朝のハインリヒ6世の死後、シュタウフェン家のシュヴァーベン公フィリップとヴェルフェン家のオットーが争い、フィリップの急死によりオットー4世として即位したものの、その勢力基盤は脆弱でした

このジョンとオットーはともに教皇権の拡大を目指すインノケンティウス3世と対立・破門され、国内において窮地に陥ることとなります
また叔父・甥の関係でもあった両者は同盟を結び、共通の敵であったフランスへの攻撃を取り決めました

そして1214年、ジョンはギュイエンヌ、オットーはフランドルから侵攻しフランスを挟撃しますが、同年7月27日、ブービーヌにおいてイングランド・神聖ローマ連合軍はフィリップの率いるフランス軍に大敗しました
この結果神聖ローマ帝国ではオットー4世が皇帝位を追われフリードリヒ2世が戴冠することとなり、イングランドは大陸領の回復に失敗、マグナ=カルタを認めざるをえない状況となります
一方フランスは両国に対する優位を確立し、フランス王権はますます高まることとなるのでした


本日は中世最大の会戦の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ジョルジュ・デュビー、松村剛訳『ブーヴィーヌの戦い 中世フランスの事件と伝説』平凡社、1992年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年
・佐藤賢一『カペー朝 フランス王朝史1』講談社、2009年

230名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/27(日) 19:49:19 ID:B6tALqFw
黎明期からここにおるけど、このスレの存在を初めて知った…
凄すぎるやろ、歴史に自信ニキ…
しかもコピペじゃなさそうだし、参考文献もワイも読んだ本がチラホラあるが
確実に良書を揃えてきてる感があるし
これから応援しますんで、頑張ってください!

231名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/28(月) 01:06:14 ID:2LFUlGmQ
7月28日は呉軍港空襲が行われた日です

太平洋戦争の末期、聯合艦隊では燃料不足のため、その主力艦艇の多くが呉軍港に繋留されていました
燃料が無いため動かすこともままならず、敵からの発見を避けるため樹木や網などで覆い、甲板上に小屋を置いて居住区に見せかけ、道路を描いたりするなどの偽装を施すという状態でした
もちろん巨大な軍艦を隠し切ることはできず、空襲が行われ発見されるとそれぞれ対空射撃を行うことになります

最初の空襲は1945年3月19日で、ミッチャー中将率いる米軍第58機動部隊の襲撃を受けました
この空襲では各艦艇の損傷はさほどではなかったものの、7月24日・28日に行われたハルゼー大将率いる第38機動部隊の空襲によって呉軍港の聯合艦隊は壊滅することになります

「伊勢」「日向」「天城」「葛城」「鳳翔」「龍鳳」「青葉」「利根」「北上」「大淀」...聯合艦隊を支えてきた歴戦の艦艇が決死の対空戦闘を行うも次々と着底、転覆していきました

>>72で取り上げた「榛名」もその一艦で、主砲塔に縞状の迷彩、艦橋には網で偽装を行い、三式弾による対空射撃も及ばず、20発以上の命中弾を受け大破着底します
http://i.imgur.com/Q2Wsz6n.jpg
http://i.imgur.com/1MGmXxg.jpg
こうして高速戦艦として聯合艦隊を支え、太平洋戦争主要海戦の多くの最前線で戦い続けた金剛型戦艦、その最後の一艦となった武勲艦「榛名」はその役目を終えたのでした


本日は金剛型戦艦3番艦「榛名」の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・「歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.10 連合艦隊の最期」学習研究社、1995年
・「丸」編集部『写真太平洋戦争9 神風特別攻撃隊・本土防空決戦』光人社、1995年
・「丸」編集部『ハンディ判日本海軍艦艇写真集 戦艦榛名・霧島 戦艦時代の夜明け』光人社、1996年

232名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/29(火) 00:01:09 ID:KMz9w4Js
7月29日はクレディオン峠の戦いが起こった日です

>>133>>228で見たように、バルカン半島においてブルガリアの勢力拡大は著しく、ビザンツ帝国は劣勢が続いていました
しかし「ブルガリア皇帝」となったシメオン1世の死後は度重なる征服戦争による国力疲弊が表面化し、次第に衰退の兆しを見せるようになります

一方のビザンツ帝国ではブルガリアの後退とほぼ同時期に優れた3人の軍人皇帝が台頭します
すなわち、ニケフォロス2世・ヨハネス1世・バシレイオス2世です
ニケフォロス、ヨハネスは軍事改革を進め、積極的な対外政策に乗り出し、ビザンツ帝国の領土を回復していきます
この拡大路線が最高潮となったのがバシレイオスの代でした

ビザンツ歴代皇帝のなかでも最長、976年〜1025年、実に49年もの在位期間を過ごした彼は、全ての権限を一身に集めて独裁政治を行う、ビザンツ帝国を代表する専制君主であり、ビザンツ帝国の全盛期を現出した非常に有能な皇帝でした
彼はビザンツ帝国を悩ませてきたブルガリアにとどめを刺すべく、自ら先頭に立って遠征を推し進めました

そして1014年7月28日、クレディオン峠の戦いでブルガリアに大勝します
この戦いで1万5千人のブルガリア兵を捕虜にしたバシレイオスは、ブルガリア人捕虜を100人ずつのグループに分け、各グループのうち99人の両目をくり抜き、残りの1人だけは片目を残して道案内役をさせ、ブルガリアに送り返したたのです
ブルガリア王サムイルはその光景を見て卒倒し、死亡してしまいます
やがてブルガリアはビザンツ帝国によって完全に併合され、一方バシレイオスはその後輝かしい外征を展開していくのでした


本日は「ブルガロクトノス(ブルガリア人殺し)」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ロバート・ブラウニング、金原保夫訳『ビザンツ帝国とブルガリア』東海大学出版会、1995年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年

233名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/30(水) 00:29:23 ID:EgD0c5Ak
7月30日はアル=マンスールがバグダードを建設した日です

ムハンマド、正統カリフ時代を経て成立したウマイヤ朝は「アラブ帝国」と称されるように、アラブ人優遇政策をとっていました
そのため非アラブ人のムスリムであるマワーリーは不満を高め、またウマイヤ家の専横もあり、次第に反ウマイヤ家運動が高まっていきました

この反ウマイヤ家運動の主導者がアッバース家で、その当主アル=アッバースは反ウマイヤ家勢力を結集、ウマイヤ朝を打ち倒すというアッバース革命を成功させ、アッバース朝を開きました
アッバース朝はアラブ人の特権を廃止し、ムスリムのコーランの下での平等が達成されたことで「イスラーム帝国」が実現されたのです

このイスラーム帝国の都となったのか、アッバース朝第2代カリフ、アル=マンスールが建設したバグダードでした
ユーラシア大陸の中央部を支配し大帝国となったアッバース朝とともに発展したバグダードは、政治・経済・軍事・交易・文化の中心地として大いに繁栄し、中国の長安やビザンツ帝国のコンスタンティノープルなどと並ぶ世界屈指の巨大都市として君臨するのです


本日は「マディーナ=アッ=サラーム(平安の都)」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・家島彦一『イスラム世界の成立と国際商業 国際商業ネットワークの変動を中心に』岩波書店、1991年
・佐藤次高・鈴木董『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・宮崎正勝『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた世界』講談社、1994年

234名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/07/31(木) 00:39:38 ID:1wJNg.zM
7月31日はアウラングゼーブがムガル皇帝に即位した日です

ムガル帝国はバーブルによって1526年に建国されましたが、第2代フマーユーンの治世にはデリーから一時的に追われるなど、その支配は脆弱なものでした
しかし第3代アクバルの時代、異教徒に課されていたジズヤ(人頭税)を廃止し融和政策を進め、支配者層にラージプート族を加えるなど寛容な政治を行います

彼の後を継いだ第4代ジャハーンギール、第5代シャー=ジャハーンもアクバルの政策を踏襲し、宗教融和が継続されましたが、一方でムスリムから不満が出、また帝国領においても各地での劣勢が目立ちました

第6代皇帝として1658年7月31日に即位したアウラングゼーブは、このような状況を背景に宗教政策を転換、シャリーア(イスラーム法)に基づく厳格な統治を行い、異教徒勢力の弾圧に乗り出し、1679年にはジズヤを廃止します
さらに彼は大規模な外征を展開し、特にデカン高原方面への勢力拡大に尽力しました
この約20年間に渡る外征により、アウラングゼーブはムガル帝国を苦しめてきたマラーター族をインド南端に追いやり、ムガル帝国の最大領域を実現するのでした


本日はムガル帝国全盛期最後の皇帝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・小谷汪之『世界歴史大系南アジア史2 中世・近世』山川出版社、2007年
・小名康之『ムガル帝国時代のインド社会』山川出版社、2008年
・佐藤正哲・水島司・中里成章『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』中央公論新社、2009年

235名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/01(金) 00:44:47 ID:cGeAIprg
8月1日はユスティニアヌス1世がビザンツ皇帝に即位した日です

395年にローマ帝国が最終的に分裂して以降、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)はテオドシウス2世が帝都コンスタンティノープルに大城壁を築くなど守勢に回り、ゲルマン人やブルガール人の侵入に対抗していました
やがて帝国は財政破綻に陥り危機を迎えますが、491年に即位したアナスタシウス1世は財政改革を行い、帝国財政の再建に成功します
このアナスタシウスの帝国を引き継いだのが、527年8月1日に即位したユスティニアヌス1世でした

ユスティニアヌスはローマ帝国復興を掲げ、積極的な外征に乗り出します
彼は名将ベリサリウスを起用し、ササン朝ペルシアの攻勢を阻止し和平を結ぶことに成功します
続いてベリサリウスは北アフリカに軍を進めヴァンダル王国を滅ぼし、総督府となるカルタゴを奪回します
さらにベリサリウスはイタリア半島に侵攻、東ゴート王国を破りローマ帝国の都ローマを奪回、さらに総督府となるラヴェンナも奪回しました

これらの征服戦争によりビザンツ帝国は地中海沿岸地域の大部分を帝国領とし、部分的なローマ帝国復興が実現するのです
この外征によりビザンツ帝国の財政が傾き、拡大した帝国領の維持という問題が発生することでビザンツ帝国衰退の原因ともされますが、一時的とはいえ地中海帝国を復活させ、帝都ローマを帝国領としたことはビザンツ帝国のアイデンティティとなり、その後の帝国観に大きな影響を与えたといえるでしょう
「ローマ帝国」の伝統は生き続けることとなるのです


本日はビザンツ帝国「大帝」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・歴史学研究会編『幻影のローマ*顗氾租釥匹侶兢気肇ぅ瓠璽犬諒冤董拈通攴馘后*2006年
・井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

236名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/02(土) 00:36:18 ID:5S7MC0cY
8月2日はカンネーの戦いが行われた日です

前241年に終結した第一次ポエニ戦争でローマに敗れたカルタゴは、シチリアを奪われ地中海における覇権を失い、挽回の機会を伺っていました
まずヒスパニアをハミルカル=バルカが征服し、その娘婿ハスドルバル、そしてハミルカルの息子ハンニバルに引き継がれました

このハンニバルが前219年、ローマの同盟市サグントゥムを陥としたことで始まったのが第二次ポエニ戦争です
ハンニバルはアルプス越えという奇策で防備の薄いローマ北方を襲い、ティキヌスの戦い・トレビアの戦い・トラシメヌス河畔の戦いなどに勝利し、ローマ領内部への侵攻を進めました

ローマの独裁官ファビウスは当初持久戦によるハンニバル軍の消耗を狙いましたが、その作戦が臆病だと非難され、ローマでは決戦の機運が高まります
そして前216年8月2日、ハンニバル軍約5万人とローマ軍約8万人との間で行われた決戦がカンネーの戦いです

ともに重装歩兵を中央に、騎兵を両翼に配した陣形で行われたこの一大決戦は、ローマ軍重装歩兵がハンニバル軍中央を押し込むも、ハンニバル軍両翼の騎兵がローマ軍の両翼を突き崩し、ローマ軍の背後に回ったことでハンニバル軍による完全包囲が完成します
ローマ軍は混乱状態に陥り、戦闘後はハンニバル軍による一方的な殲滅戦となるのです
この戦いによるローマは約6万人の死傷者・約1万人の捕虜を出し、約80人の元老院議員を失うという壊滅的な大敗を喫したのでした


本日は包囲殲滅戦の模範の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ジョン・プレヴァス、村上温夫訳『ハンニバル アルプス越えの謎を解く』白水社、2000年
・テレンス・ワイズ、桑原透訳『カルタゴ戦争 265BC−146BC ポエニ戦争の軍隊』新紀元社、2000年
・長谷川博隆『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』講談社、2005年

237名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/03(日) 00:33:32 ID:NNrCPW22
8月3日は百年戦争、カレー包囲戦が終結した日です

>>96などで見てきた百年戦争、カレー包囲戦はその序盤にあたります
1337年の宣戦布告以降、イングランド王エドワード3世はガスコーニュや北フランスに侵攻しますが、フランス軍の抵抗に遭い膠着状態となっていました
しかし1340年のスロイスの海戦に大勝しフランス艦隊が壊滅したことで制海権を握り、作戦行動が容易となりました

1341〜45年のブルターニュ継承戦争において有利に休戦協定を結ぶと、1346年7月にはノルマンディーに上陸、本格的な侵攻作戦を開始します
同年8月、クレシーの戦いでイングランドの長弓隊がフランス騎士軍に大勝して陸上においても主導権を握ると、イングランドはカレー攻略に取り掛かりました

カレーはドーバー海峡に面するフランス側の重要な戦略拠点であり、フランスはここに城塞を構え防備を固めていました
イングランドにとっても、カレーはブリテン島への最短距離に位置する都市であるため、フランス軍によるイングランド侵攻という恐れがあると同時に、占領すればフランス侵攻の前線基地となる存在でもありました
1346年9月4日に始まったカレー包囲戦はフランス側のジェノヴァ海軍の撤退、海上・陸上におけるフランス軍の敗退もあって次第にイングランド優位に展開、ついに1347年8月3日、カレー市民は降伏し開城、イングランドの手に渡ったのでした


本日はイングランド領カレーの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年

238名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/04(月) 01:03:00 ID:2iy6.vAY
8月4日はアルカセル・キビールの戦いが行われた日です

大航海時代、インド航路を開拓したポルトガルはアジアとの貿易を維持し、ヴェネツィア共和国に対抗するため、北アフリカに植民地を求めていました
そこで目をつけたのがイベリア半島の対岸に位置するモロッコでした

モロッコはサード朝が支配しており、スペイン王国とオスマン帝国との地中海における覇権争いを利用し、勢力を拡大していました
しかし1574年、ムワッタキルがオスマン帝国の支援するアブドゥルマリクによって王位を奪われるという事件が起こります
ムワッタキルはこれに対しポルトガル王セバスティアンに支援を要請、北アフリカへの進出を希望していたセバスティアンはムワッタキルと同盟し、アブドゥルマリクとの戦いに臨みました

そして1578年8月4日、セバスティアン・ムワッタキルの連合軍とアブドゥルマリクのモロッコ軍がアルカセル・キビールで激突しました
この3人の王によって行われた「三王の戦い」は激戦の末モロッコ軍が大勝するものの、3人の王が戦死するという結果となりました

モロッコでは戦死したアブドゥルマリクを継いだアフマドがスペイン・オスマン帝国と渡り合いサード朝の最盛期を築きます
一方ポルトガルはセバスティアンの戦死によりスペインによる併合を招いてしまいます
しかしポルトガルではセバスティアンは戦死しておらず、いずれポルトガルに帰国するとの信仰が広がり、スペイン支配に対抗する際の心の拠り所となるのでした


本日はセバスティアン主義の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・那谷敏郎『紀行モロッコ史』新潮社、1984年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・金七紀男『図説ポルトガルの歴史』河出書房新社、2011年

239名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/05(火) 00:07:19 ID:i1umwnTM
8月5日は第一次ポーランド分割が行われた日です

>>196で見たようにヨーロッパにおいて強勢を誇ったポーランドでしたが、17世紀の大洪水時代によって衰退が決定的となり、次いで>>205の大北方戦争でスウェーデンの傀儡政権がたてられるなど混乱の時代が続きました

さらにこの傀儡政権が原因で、ポーランドはヨーロッパ列強のさらなる干渉を受けることとなり、18世紀に起こったポーランド継承戦争でもポーランド王位が列強の思惑に左右されるなど、ポーランドは衰退の一途を辿ります

ポーランドへの干渉は、特に隣国のロシア・プロイセン・オーストリアが積極的で、ロシア皇帝のエカチェリーナ2世は親ロシアの国王を即位させるなどの干渉を行います
プロイセン王フリードリヒ2世はポーランドがロシアに牛耳られることを危惧し、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世を誘いポーランド領の分割を提案しました
エカチェリーナもこれに応じ、1772年8月5日、3国によるポーランド分割が行われることとなったのでした

ポーランドではこの後改革が進められ、>>90で取り上げた5月3日憲法の制定につながることになります


本日は3度に渡るポーランド分割の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1999年
・セバスチャン・ハフナー、魚住昌良・川口由紀子訳『図説プロイセンの歴史 伝説からの解放』東洋書林、2000年
・田中良英『エカチェリーナ2世とその時代』東洋書林、2009年

240名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/05(火) 00:27:01 ID:0lUD/nC2
見落としてたけど5月3日って憲法に縁のある日なんやな

241名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/06(水) 07:20:44 ID:4.JIgnzI
8月6日はフランツ2世が神聖ローマ皇帝位を放棄した日です

>>211で見たように、1806年に成立したライン同盟により、神聖ローマ帝国は実質的にその役割を終えていました

きっかけは1804年にもありました
この年、ナポレオンが「フランス皇帝」に即位、これまでヨーロッパの皇帝といえばローマ帝国の後継者が名乗るものとされていましたが、ナポレオンは初めてその慣習を破ったのです
これに対し神聖ローマ皇帝フランツ2世も神聖ローマ皇帝とは別に「オーストリア皇帝」を名乗り、フランツ1世として即位するのです

このような状況で起こったのが、「皇帝」ナポレオン1世との間で起こったアウステルリッツの三帝会戦での敗北、そして神聖ローマ帝国諸侯が帝国から離脱するというライン同盟の成立でした
もはや神聖ローマ帝国は皇帝という「名」も、帝国領という「実」も伴わないものとなり、1806年8月6日、神聖ローマ皇帝フランツ2世は皇帝位の放棄を宣言します
ヴォルテールによって「神聖でも、ローマ的でも、帝国でもない」と称された神聖ローマ帝国は何ものでもなくなったのでした


本日は神聖ローマ帝国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・成瀬治他編『世界歴史大系ドイツ史2 1648年〜1890年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ピーター・H.ウィルスン、山本文彦訳『神聖ローマ帝国 1495-1806』岩波書店、2005年

242名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/07(木) 00:08:27 ID:fFu2VNpA
8月7日はオットー1世が東フランク国王として戴冠した日です

シャルルマーニュが築いたローマ帝国の分裂は>>151でも取り上げましたが、ここではそのドイツ地域について見ていくことにしましょう
>>187で見たように東フランクはルートヴィヒが統治し、彼は東フランクの諸部族を統括し次第にドイツ王国を形成していきました
このルートヴィヒ「ドイツ人王」の王国は843年のヴェルダン条約によって承認されました

ルートヴィヒが亡くなるとカロリング家の血筋は断絶し、新たにコンラート1世が即位します
コンラートの国王選出は、カロリング家である西フランク王、シャルル単純王の東フランク王位継承権を否定したものであり、これはドイツ地域における独自の国家作りへの一歩でした

コンラートはフランク王国の支配者層であるフランク人でしたが、次の国王ハインリヒ1世はザクセン人であり、その支配がカロリング家に承認されたことでますますドイツ色が強まることとなります

そして936年8月7日、オットー1世が東フランク王に即位しますが、これには王国内の全てのドイツ部族の代表者が参加し、カロリング家から離反したことで「ドイツ王国」がより強調されるようになります
フランク王国の慣習である分割相続を否定し、オットーによる単独相続が行われたことも重要でしょう
オットーがドイツ人の王として戴冠したことで、東フランク王国からドイツ王国への移行がなされたのでした


本日は「ドイツ国王」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・リーベリヒ・ミッタイス、世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説』創文社、1971年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

243名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/08(金) 00:43:27 ID:.B3ZpQQk
8月8日はアルマダの海戦が終結した日です

16世紀のスペインは広範囲に領土・植民地を持ち、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれる繁栄を享受していました
そのなかでもスペイン領ネーデルラントの収益は大きく、新大陸からの銀収入をも上回るものでした

しかしそのネーデルラントにも宗教改革の波が押し寄せ、スペインに対し反乱を起こすようになると事態は複雑なものとなっていきます
ネーデルラントへの最短ルートはフランスが有していましたが、フランスは中立の立場を採り、スペインは通行できなかったのです
スペインはそのためミラノ公国を経由する迂回ルートをとりますが、そのためにサヴォイア家やスイス、その他アルプス街道沿いの諸侯との交渉が必要であり、さらにフランスはその迂回ルートによりスペインに包囲されていると感じ、ますますスペインに対し態度が硬化していきます

またこの迂回ルートをとらざるを得なかったのは、カトリックを敵視しスペインと対立するイギリスの存在がありました
イギリスはネーデルラントへの航路を妨害したため、スペインはイギリスとの交渉を行いますが頓挫、ここに至ってスペインはイギリス侵略の艦隊を派遣するのです

1588年7月31日、スペインから出港した「無敵艦隊」はイギリス海峡にてイギリス艦隊と交戦、そして8月8日、ついには敗北という結果に終わったのです
しかしこのアルマダの海戦でイギリスに覇権が渡ったわけではなく、スペインは海軍の軍事改革を進め、以降も無敵艦隊を編成しイギリス艦隊を度々撃破しイギリスに対する優勢を維持するのでした

なお、この海戦では従来の主戦法であった衝角攻撃に対し、大砲による砲撃戦が勝利を収め砲手の地位が向上したことから、海上戦闘における一大変革がなされた海戦であるといえるでしょう


本日は、近世海上戦闘の変革日です、おめでとうございます


参考文献
・マイケル・ルイス、幸田礼雅訳『アルマダの戦い スペイン無敵艦隊の悲劇』新評論、1996年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・アンガス・コンスタム、大森洋子訳『図説スペイン無敵艦隊 エリザベス海軍とアルマダの戦い』原書房、2011年

244名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/09(土) 01:19:10 ID:R0xr/tag
8月9日はファルサルスの戦いが行われた日です

共和政ローマでは大規模な改革に着手したグラックス兄弟と元老院が対立したことにより、内乱の1世紀と呼ばれる内乱状態が始まりました
この対立はグラックス兄弟が属する平民派と、元老院を支持する閥族派との争いに発展し、前者を代表するマリウスと後者の代表者スラとの内乱へと至ります

この内乱はスラの勝利に終わりますが、その間にマリウスによる軍制改革が行われ、スラが独裁政権を確立しローマを安定させたことで、強大な軍事力を持つ有力者が支配する体制へと変化していったのです

スラの死後、ローマはカエサル・ポンペイウス・クラッススによる第一回三頭政治が行われます
しかしクラッススが対パルティア戦で戦死するとその体制は崩れ、カエサルとポンペイウスは対立しローマ内戦が勃発することとなります
ポンペイウスは元老院と結びカエサルに対抗しますが、前48年8月9日、ファルサルスの戦いにおいてカエサルに敗れエジプトへと逃亡しました
この戦いでの勝利以降カエサルは元老院に対して優勢となり、ローマにおける覇権を確立することになるのでした


本日はローマ内戦最大の戦いの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・トム・ホランド、小林朋則訳、本村凌二監『ルビコン 共和政ローマ崩壊への物語』中央公論新社、2006年
・モムゼン、長谷川博隆訳『ローマの歴史4 カエサルの時代』名古屋大学出版会、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

245名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/10(日) 00:53:35 ID:Afeyl3K2
8月10日はレヒフェルトの戦いが行われた日です

9世紀にヨーロッパに移住し、パンノニアに定住したマジャール人は、アールパード朝を開いた大公アールパードの下で強勢を誇り、度々西欧へと侵攻していました
一方、その侵攻の最前線となったドイツ地域を支配していたのは、>>242でも取り上げたオットー1世でした
彼は東フランク王国における権威を高め、さらにはローマ皇帝権の復興を目指していましたが、当時ローマ皇帝への戴冠にはローマ教皇による認可が必要でした

そのような状況で起こったのが、955年8月10日のレヒフェルトの戦いです
アールパードの孫タクショニュを、オットーはレヒフェルト平原にて破り、以降西欧にとって脅威となっていたマジャール人の侵攻は途絶えることになります

彼は東欧・北欧の異教徒から西欧キリスト教を防衛することに成功し、西欧における優位を確立したのです
コルヴァイのヴィドゥキントによればオットーは軍隊によって「祖国の父にして皇帝」と称えられ、実質的に皇帝に昇格したとしています
ローマ教皇も「キリスト教国を異教徒マジャールの禍から救った聖なる戦士」オットーの権威を認め、ローマ皇帝としての戴冠を行うことになるのでした


本日はオットー大帝による「西欧キリスト教世界の防衛日」です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年
・歴史学研究会編『幻影のローマ “伝統"の継承とイメージの変容』青木書店、2006年

246名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/11(月) 01:16:17 ID:/s9HYC/U
8月11日はテルモピレーの戦いが終結した日です

前499年、ギリシアのイオニア植民市による、アケメネス朝ペルシアに対する反乱から始まったペルシア戦争は序盤、ペルシア王ダレイオス1世が反乱を鎮圧しエーゲ海の諸島、ペルシアに反抗的なギリシア諸ポリスを攻略していきました
ダレイオスはさらにアテネに近いマラトンに上陸しますが、前490、アテネ・プラタイア連合軍に破れ上陸作戦は失敗、一時ペルシア本国へ撤退します

やがてダレイオスが亡くなると、その後を継いだクセルクセス1世が再度ギリシアに侵攻します
ペルシア軍はギリシア軍を次々と破り、ギリシアはテルモピレーとアルテミシオン沖に防衛ラインを敷き抵抗を試みます
このテルモピレーを任されたのがスパルタ王レオニダスでした

ギリシア軍の先鋒として精鋭のスパルタ重装歩兵を率いるレオニダスは、テルモピレーの狭隘な地形を活かし、ペルシア軍を食い止めることに成功します
しかし多勢に無勢、数度に渡りペルシア軍を撃退したスパルタ軍も前480年8月11日に全滅し、防衛ラインは破られることとなります
しかし約一週間ペルシア軍の侵攻を食い止め、同時期に行われたアルテミシオン沖海戦でもギリシア海軍が善戦したことが、ペルシア戦争の決定的な戦いであるサラミスの海戦における勝利につながることになるのでした


本日はレオニダス以下スパルタ兵300人の玉砕日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

247名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/12(火) 00:40:58 ID:8.FBYgyI
8月12日はアスカロンの戦いが行われた日です

>>224で見たゴドフロワ=ド=ブイヨンの聖墳墓守護者への選出と、それに伴う実質的なイェルサレム王国の成立により、第1回十字軍の目的は達成されました
しかしイェルサレムを攻撃されたファーティマ朝も手をこまねいていたわけではなく、イェルサレム攻囲戦が行われていた段階で、大軍をイェルサレム向けて進発させていました

1099年7月15日のイェルサレム陥落時点でファーティマ朝軍はイェルサレムに到達しておらず、十字軍によるイェルサレム支配はその間に着々と進められていました
8月に入るとファーティマ朝軍はイェルサレム近郊のアスカロンに到着し、イェルサレムの明け渡しを要求しましたが、もちろん十字軍側はこれを拒否します

8月10日にはファーティマ朝軍を撃退するため、ゴドフロワ自ら軍を率い、イェルサレムを出撃してアスカロンへと向かいました
そして8月12日、十字軍とファーティマ朝の両軍が激突します
数においてはファーティマ朝軍が優勢でしたが、すでに衰退期に入っていたファーティマ朝軍は弱体で統率が取れておらず、十字軍の猛攻により潰乱し、多くの戦死者・捕虜を出して撤退します

こうしてアスカロンの戦いは十字軍の勝利に終わり、翌日にはファーティマ朝軍はエジプトへと撤退、十字軍はシリア・パレスチナでの支配を固めることとなるのでした


本日は第1回十字軍最後の戦いの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田広訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・ジョルジュ・タート、南条郁子他訳『十字軍 ヨーロッパとイスラム・対立の原点』創元社、1993年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全 年代記で読むキリスト教とイスラームの対立』東洋書林、2006年

248名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/13(水) 00:54:54 ID:ojFTFSLo
8月13日はコルテスによってテノチティトランが陥落した日です

コンキスタドール(征服者)として知られるエルナン・コルテスは1485年にスペインにて生まれ、その家系は後にイスパニョーラ島の統治者となるニコラス・オバンドの縁戚に当たっていました
15世紀末のスペインは海外進出に積極的で、特に新大陸、アメリカ大陸の植民地化が進められていました

コルテスも新大陸に渡ったスペイン人の一人で、1511年、ディエゴ・ベラスケスのキューバ征服に参加し、その秘書官としてキューバ経営に参画します
しかし次第にベラスケスとの関係が悪化し、1519年、コルテスは500の兵を率いてメキシコに侵攻することになります

一方、その当時のメキシコはというと、アステカ帝国が繁栄を享受していました
1428年に成立したアステカ帝国はモンテスマ1世が積極的な遠征を行い、メキシコ湾岸地域を次々と支配下に収めていきました
その後もアステカ帝国の版図は広がり、1502年に即位したモンテスマ2世は太平洋沿岸地域にも勢力を拡大、彼の代でアステカ帝国の最大版図が実現されます
首都のテノチティトランは大いに繁栄し、まさに絶頂期といえましたが、その繁栄の一方でアステカ帝国支配下の諸民族は重税に苦しみ、アステカ帝国への不満を高めていました

コルテスはそのような状況下におけるメキシコに侵入したのです
わずか500人の兵で進軍したコルテスでしたが、反アステカの諸民族が次々にコルテスと同盟を結び、その連合軍は大軍へと膨れ上がります
コルテスは当初テノチティトランに迎え入れられるもやがて追放され、さらに1520年にはアステカ人がスペイン人に対して反乱を起こし、反乱を止めるよう説得したモンテスマ2世も殺されてしまいます
コルテスはいったん退却し、1521年、改めて連合軍を率いて侵攻します
そして同年8月13日、数ヶ月間に渡る包囲の末テノチティトランは陥落し、アステカ帝国の広大な領土を獲得したのでした


本日はアステカ帝国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・モーリス・コリス、金森誠也訳『コルテス征略誌 「アステカ王国」の滅亡』講談社、2003年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・大垣貴志郎『物語メキシコの歴史 太陽の国の英傑たち』中央公論新社、2008年

249Republica de Venexia:2014/08/19(火) 00:43:07 ID:???
8月19日は楊玉環が玄宗の皇后となった日です

唐は第2代太宗が「貞観の治」と呼ばれる善政を敷き、唐は安定した時代となっていました
しかし第3代高宗は政治への関心に乏しく、その皇后である則天武后が実権を掌握し、実子である第4代皇帝睿宗を廃位して自ら皇帝に即位、国号を周としました

やがて則天武后が亡くなると中宗が第5代皇帝となり周は滅亡しますが、今度は中宗の皇后である韋后が中宗を毒殺、政治の実権を握ります
しかし韋后も殺され、この間皇帝が短期間で交代を繰り返す混乱時代となりました

この「武韋の禍」を収め、712年に第9代皇帝となったのが玄宗です
玄宗は「開元の治」と呼ばれる善政を行い、再び唐は安定期を迎えます
その勢威は中央アジアにも及び、また市舶司を設置して海上交易にも力を入れ、文化的にも盛唐と呼ばれる繁栄を見せ、都の長安も大いに栄え、まさに唐の全盛期を築いたのです

しかし最初の皇后である武恵妃が亡くなると、玄宗は新たな皇后を求めます
そして745年8月19日、楊玉環が皇后に迎え入れられ、楊貴妃となったのです
玄宗はこの楊貴妃を溺愛し、次第に政治への関心が薄れるようになっていきます
751年にはアッバース朝とのタラス河畔の戦いに敗れ、さらに755年に起こった安史の乱が決定的となりました
玄宗はこの反乱に有効に対応することができず長安を捨て逃走、唐の全盛期は終わりを迎えることとなったのでした


本日は「傾国の美女」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・村山吉広『楊貴妃 大唐帝国の栄華と暗転』中央公論社、1997年
・氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
・砺波護・武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論新社、2008年

250名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/19(火) 00:53:38 ID:cQpPfdWM
>>249
結婚記念日を悔やまれる女
残当

251名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/19(火) 00:56:53 ID:7p9v9sho
ご無沙汰じゃないですか!
このスレだいすき

252Republica de Venexia:2014/08/19(火) 01:14:00 ID:???
>>250
それまでが上手くいってただけに、楊貴妃以降がほんと残念ですよね

>>251
規制中書き込めなくて...
キャップ発行されたので再開できそうです!

253Republica de Venexia:2014/08/20(水) 00:40:41 ID:???
8月20日はヤルムーク河畔の戦いが行われた日です

>>235で取り上げたユスティニアヌス1世の死後、ビザンツ帝国は急速に衰えていくことになります
ユスティニアヌスの征服事業は帝国の国力を大幅に消耗するものだったのです
彼の後継皇帝は広大な領土経営に悩まされます
それぞれ文化・伝統が異なるイタリア・北アフリカ、シリア・エジプト、そしてギリシア・小アジア、これらの統合は困難で、イタリアにはランゴバルド族が侵入、シリア・エジプトにはササン朝が侵入するなど帝国は内外で混乱の極みに達していました

この状況を救ったのがヘラクレイオスでした
彼は帝都コンスタンティノープルで暴政を行っていたフォーカスに対しカルタゴから反乱を起こし、皇帝に即位します
即位当初はシリアでササン朝軍に大敗、聖地イェルサレムを攻略され十字架を奪われてしまいます
しかし622年、ヘラクレイオス自らが遠征を指揮し、6年間に渡る激闘の末ササン朝を撃破したのです

一方、奇しくもヘラクレイオスが遠征を開始したのと同じ年の622年、アラビア半島ではイスラームが勃興していました
イスラームは急速に勢力を拡大し、長年の激戦により疲れ果てていたビザンツ帝国とササン朝に対し攻撃を仕掛けます


そして636年8月20日、ヤルムーク河畔においてイスラーム軍はビザンツ帝国軍に大勝します
ヘラクレイオスは「シリアよさらば、何と素晴らしい国を敵に渡すことか!」と悲痛な叫びをあげたといいます
ヘラクレイオスが長年に渡って築き上げてきた事業がこの一戦で崩壊したのです
一方、イスラームはまたたく間にシリア・エジプトを制圧、地中海にも進出し、大帝国を築くことになるのでした


本日はイスラーム領シリアの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社、2008年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

254Republica de Venexia:2014/08/21(木) 00:55:16 ID:???
8月21日はスウェーデン王グスタフ3世がクーデターを起こした日です

スウェーデンでは>>205で取り上げたカール12世がポルタヴァの戦いに敗れたことで、大北方戦争において劣勢を余儀なくされました
カール12世は1718年に急死し、妹のエレオノーラが女王となりましたが、スウェーデンでは元老院が絶対王政を否定し、王権を制限する憲法を発布します
エレオノーラは1720年に退位し、その夫フレドリクが国王に即位しますが、その王権は極度に制限されたものでした

こうしてスウェーデンの国政は議会が握り、「自由の時代」が到来することとなりましたが、対外的な影響力は大きく低下し、かつての「バルト帝国」と称された頃の強勢ぶりは見る影もなくなってしまったのです

このようなスウェーデンの衰退を憂い、かつての強国を復活させようとしたのがグスタフ3世でした
彼は1772年8月21日、議会に対してクーデターを起こし、貴族から実権を奪取、さらに新憲法を発布させることで王権の強化に成功します
このクーデターによってスウェーデンの絶対王政は復活し、グスタフの指導によって対外影響力を強化、さらに「ロココの時代」と称されるように文化面でも大きな発展を見せることになるのでした


本日は「グスタフ朝絶対主義」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21 北欧史』山川出版社、1998年
・武田龍夫『北欧悲史 悲劇の国王、女王、王妃の物語』明石書店、2006年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

255名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/21(木) 01:13:39 ID:nVTvF/YA
ヴェネツィア共和国ニキが誕生日スレニキだったんか!
コンシーリオ・ディ・ディエチに所属してそう

256名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/08/21(木) 18:28:07 ID:vy.aqFWc
今日は僕のカッチャマ…の誕生日です
おめでとうございます。

257Republica de Venexia:2014/08/22(金) 01:02:34 ID:???
8月22日はボズワースの戦いが行われた日です

百年戦争後に勃発したイングランド王位の継承争い、薔薇戦争は>>173で扱いましたが、ここではその決定的な戦となったボズワースの戦いを見ていくことにしましょう

薔薇戦争においてヨーク派が一時的に勝利し、ヨーク朝を開くもののその治世が不安定であったことは先に述べましたが、ヨーク派に対する反乱の指導者の一人がヘンリ=テューダーでした
ランカスター家の血を引く最後の男子であったヘンリはヨーク派に命を狙われ、一旦はフランスに亡命します

しかし亡命先のブルターニュで庇護・援助を受け、さらにヨーク派を支援するブルゴーニュ公国と対立するフランス王ルイ11世の支援もあり、ヨーク朝のリチャード3世に決戦を挑みます
ランカスター派の拠点でありヘンリーの出身地でもあるウェールズに上陸したヘンリはランカスター派諸侯をまとめ、さらにヨーク朝リチャード3世に不満を持つ貴族も糾合し、ロンドンへと進軍します

そして1485年8月22日、ボズワース近郊で両軍が激突、戦いはリチャード3世の戦死によりヘンリが勝利を収めました
この決定的な勝利によって薔薇戦争は実質的に終結し、ヘンリ=テューダーはヘンリ7世として国王に即位、イングランドにおける絶対王政を開始するのでした


本日はイングランド・テューダー朝の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・エドマンド・キング、吉武憲司他訳『中世のイギリス』慶應義塾大学出版会、2006年
・水井万里子『図説テューダー朝の歴史』河出書房新社、2011年

258Republica de Venexia:2014/08/23(土) 01:11:50 ID:???
8月23日はチャルディラーンの戦いが行われた日です

16世紀の西アジアでは、オスマン帝国とサファヴィー朝という2大イスラーム国家が興隆し、互いに覇権を争っていました
オスマン帝国は>>146で見たメフメト2世によるコンスタンティノープル征服後も各地に勢力を拡大、バルカン半島の諸地域を制圧し小アジアのビザンツ亡命政権も滅ぼしました
メフメトの後を継いだバヤジット2世は勢力拡大には消極的だったものの、クーデターによりスルタンとなったセリム1世は再び対外積極策を展開、西アジア方面への征服を開始しました

一方、西アジアでは>>222でも登場したティムール朝の衰退後、アゼルバイジャンより興ったサファヴィー朝が台頭していました
サファヴィー朝はキジルバシュと呼ばれる強力な騎馬軍団を擁し、建国者イスマイール1世はこのキジルバシュを駆使し連戦連勝、オスマン帝国も手を焼いた白羊朝を滅ぼし、さらに東方のシャイバニー朝も破り西アジアに強力な国家を築きます
サファヴィー朝はシーアの一派十二イマーム派を国教とし、スンナ派を信奉するオスマン帝国は軍事的・政治的・宗教的にもサファヴィー朝は宿敵として登場したのです

オスマン帝国・サファヴィー朝両国間の緊張は高まり、1514年8月23日、小アジア東部のチャルディラーンにおいて激突しました
サファヴィー朝軍の主力はもちろん、その勃興当初より無敵を誇る騎馬軍団キジルバシュ
一方のオスマン帝国はスルタンの直属部隊、最新鋭の火器で武装したイェ二チェリを中核とし、コンスタンティノープル攻囲戦でも威力を発揮した大砲も配備されていました
戦いは一進一退でしたが、火力にと数に勝るオスマン帝国が勝利し、不敗神話が崩れたイスマイール1世は対外消極策に転じることとなりました
一方セリム1世は火力の充実に自信を深め、西アジア地域における征服活動を本格化させていくのでした


本日は火器による騎馬軍団に対する決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・永田雄三編『世界各国史9 西アジア史2 イラン・トルコ』山川出版社、2002年
・永田雄三・羽田正編『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』中央公論新社、2008年

259Republica de Venexia:2014/08/24(日) 01:19:50 ID:???
8月24日はアラリックがローマを攻略した日です

ローマの攻略・略奪は>>93でも取り上げましたが、遡ること約1100年、同じような事件がローマを襲っていました
375年、本格的に大移動を開始したゲルマン人はローマ帝国の各地に定住しましたが、その最初の集団となったのが、アラリックが属する西ゴート族でした

西ゴート族は378年のハドリアノポリスの戦いでローマ軍を壊滅させ、ローマ皇帝ウァレンスが戦死するなど、ローマ帝国にとって危険な存在となっていました
それでも皇帝テオドシウス1世は西ゴート族に対して妥協し、その勢力を抑えることに腐心していました

しかしテオドシウスが亡くなり、アルカディウスが後を継ぐ頃には西ゴート族の独立心は高まり、アラリック王の下で攻勢に出ます
アラリックはギリシアの各地を略奪するとさらに西方へと向かいます
このアラリックの軍勢は、いったんは西ローマ帝国の将軍スティリコによって撃退されます
しかしエピルスで力を蓄えたアラリックは再び西方へと進軍し、ついにイタリアへと侵入します

この西ゴート族の侵入に対し西ローマ皇帝ホノリウスは宮廷を捨ててラヴェンナに逃亡するなど消極策を取ることしかできませんでした
アラリックによるローマ包囲に対し、ホノリウスは和平交渉を進めるものの成果は芳しくなく、宮廷内の混乱もあって交渉は破綻します
そして410年8月24日、ローマはアラリックによって攻略され、「永遠の都」が蛮族によって蹂躙されるという衝撃を人々に与えたのでした


本日は西ゴート族による「ローマ劫掠」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・ブライアン・ウォード=パーキンズ、南雲泰輔訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』白水社、2014年

260Republica de Venexia:2014/08/25(月) 01:09:14 ID:???
8月25日はベルギーで独立運動が始まった日です

>>164で見たように、ナポレオン戦争の終結後ウィーン議定書がまとめられ、ヨーロッパはウィーン体制と呼ばれる国際体制に移行しました
しかし自由主義・国民主義を抑制するこの体制も、その動きを抑えきることはできず、1830年7月、フランスにおいて復古王政打倒の革命が勃発します
反動的な復古政策を進めていたブルボン朝のシャルル10世は追放され、自由主義に協力的なオルレアン公ルイ=フィリップが国王に即位し立憲君主制が成立しました
この7月革命と呼ばれる市民革命はヨーロッパ各地に波及することとなりました

その地域の一つがベルギーです
ベルギーはウィーン議定書によってオランダとともにネーデルラント連合王国に再編されましたが、カトリックのベルギーとプロテスタントのオランダという宗教上の相違が存在し、また王国の支配が全てオランダ人によって行われていたこともあって、ベルギー地域では不満が高まっていました

そこに起こったのが先に挙げたフランス7月革命であり、この革命の成功はベルギー市民を大いに勇気づけたのです
そして1830年8月25日、ブリュッセルにおいてオランダ支配に反対する暴動が発生、独立を求める革命へと発展します
同年10月には独立が宣言され、翌1831年2月には憲法が制定されます
オランダはこの独立運動を鎮圧しようとするものの、ヨーロッパ列強はベルギーの独立を事実上承認し、オランダは単独で戦わざるを得なくなります
また同じカトリックのフランスがベルギーを支援したこともあってオランダは鎮圧を断念、1839年にはベルギー独立を正式に認めることになるのでした


本日はベルギー独立革命の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ジョルジューアンリ・デュモン、村上直久訳『ベルギー史』白水社、1997年
・森田安一編『世界各国史14 スイス・ベネルクス史』山川出版社、1998年
・松尾秀哉『物語ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路』中央公論新社、2014年

261Republica de Venexia:2014/08/26(火) 00:48:30 ID:???
8月26日はマンジケルトの戦いが行われた日です

ビザンツ帝国は>>232で見たように、バシレイオス2世によって全盛期を迎えていました
しかし彼の死後、ビザンツ帝国は衰退へと向かっていきます
バシレイオスは徹底した緊縮財政、貴族や官僚を抑圧した専制政治によって国力を増強していましたが、彼の死によって不満が表面化し、反動的な状態となったのです

後継皇帝たちは放漫財政を続け、特に大規模な建築事業によって浪費、やがて財政が破綻します
貴族もバシレイオスの抑圧から解放され、自分たちに都合の良い皇帝を次々と擁立、その結果、>>46で見たアレクシオス1世の即位までの約50年間に皇帝交代が4年に一度の頻度で行われる混乱時代となったのです
さらにマケドニア朝時代の軍人皇帝とは対照的に、この時代の皇帝は財政難から軍事費を削減、ビザンツ帝国の強兵は解体されていったのです

このような状況で東方より襲来したのがセルジューク朝でした
トゥグリル=ベクに率いられたセルジューク族はイランを制圧、さらにバグダードに入りスルタンの称号を得ます
トゥグリル=ベクの死後はアルプ=アルスランが継ぎ、侵略は一層激しくなりました
そして1071年8月26日、小アジア東部のマンジケルトにおいてビザンツ帝国軍とセルジューク朝軍が激突、ビザンツ帝国は壊滅的な敗北を喫し、その衰退が決定的となります
一方セルジューク朝は順調に侵略を進め、小アジア全域を支配することとなるのでした


本日は「ビザンツ帝国史上最大の災厄」の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・スティーブン・ランシマン、和田廣訳『十字軍の歴史』河出書房新社、1989年
・井上浩一・栗生沢猛夫『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』中央公論社、1998年
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年

262Republica de Venexia:2014/08/27(水) 01:07:20 ID:???
8月27日はプラタイアの戦いが行われた日です

イオニア植民市の反乱をきっかけに始まったアケメネス朝ペルシアによる征服戦争、ペルシア戦争は、>>246で見たテルモピレーの戦いの後、サラミスの海戦に勝利したことでペルシア王クセルクセス1世が撤退し、ギリシア側有利へと傾いていました

ペルシア軍は王の撤退後もギリシアに残り、将軍マルドニオスが指揮をとっていました
マルドニオスは占領したアテナイの街を破壊し、テーベに拠って挽回しようとしましたが、ギリシア諸ポリスの指揮は高く、マルドニオスの派遣したペルシア騎兵を度々撃退しました
ここに至ってマルドニオスは自身が率いる本隊を進出させ、ギリシア諸ポリスとの決戦を挑みます

そしてテルモピレーの戦いからほぼ1年後の前479年8月27日、プラタイアにおいてペルシア軍とギリシア連合軍が激突しました
ギリシア連合軍を率いるのは、テルモピレーで玉砕したレオニダス王の甥パウサニアスで、彼の指揮によりギリシア重装歩兵がペルシア軍を撃破、指揮官マルドニオスも戦死しします
この戦いの後、ペルシア側についていたテーベはギリシア連合軍によって攻略され、さらにほぼ同時期に行われたミュカレ海戦でもギリシア連合軍が勝利、この陸海での勝利によりペルシアはギリシア本土からの撤退を余儀なくされるのでした


本日はペルシア戦争におけるギリシア側決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・馬場恵二『ペルシア戦争 自由のための戦い』教育社、1982年
・伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と凋落』講談社、2004年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

263Republica de Venexia:2014/08/28(木) 00:59:57 ID:???
8月28日は西ローマ提督の将軍オレステスが皇帝ネポスを追放した日です

>>259で見た、西ゴート族のアラリックによるローマ劫掠の衝撃を受け、西ローマ帝国は混乱状態に陥りました
これは西方への侵入を進めていたゲルマン人にとって好都合となり、西ゴート族は南ガリア・ヒスパニアを領有します
イタリア・ガリアにもゲルマン人が侵入し、この対処に追われることになった西ローマ帝国はブリタニアの支配を放棄、ここにはアングロ・サクソン族が入りました
ガリアも西ローマ支配の弱体化に乗じてフランク族やブルグント族が侵入します

特に強力だったのがヴァンダル族で、ガイセリックが率いるこのゲルマン人の一派は、西ローマ帝国支配下の地域を縦横無尽に暴れ回り、439年にはカルタゴを征服しヴァンダル王国を建国します
455年にはローマも占領し、さらにヴァンダル王国討伐に派遣された東ローマ帝国艦隊も壊滅させ、地中海地域を掌握する一大勢力となったのです

西ローマ皇帝にユリウス・ネポスが即位したのはこのような状況においてでした
ダルマツィアに勢力基盤を持つこの皇帝は西ローマ帝国領の統合を試み、西ゴート族との交渉をまとめ、講和することに成功します
しかし軍務長官にアッティラの重臣であったフラウィウス・オレステスを任命すると、この野心的な将軍は475年8月28日、ネポスに対し反乱を起こし、ロムルス・アウグストゥルスを皇帝に即位させます
帝都ラヴェンナから追放されたネポスはダルマツィアに渡り、アウグストゥルスは僭称皇帝であり、正当な皇帝は自分であると主張しました
東ローマ皇帝ゼノンもアウグストゥルスの皇帝位を認めず、ネポスを支持します
ここに、西ローマ帝国には実質的に2人の皇帝が並立するという事態となったのでした


本日は対立皇帝ネポスの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・ブライアン・ウォード=パーキンズ、南雲泰輔訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』白水社、2014年

264Republica de Venexia:2014/08/29(金) 00:34:03 ID:???
8月29日はモハーチの戦いが行われた日です

>>258で見たチャルディラーンの戦いの後、オスマン帝国はさらなる領土拡大を続け、1517年にはエジプトのマムルーク朝を征服、聖地メッカをも支配下に収めます
セリム1世は1520年に病没しますが、その後を継いだのが、「壮麗者」と呼ばれ、ヨーロッパ世界を恐怖のどん底に叩き込むことになるスレイマン1世でした

スレイマンはスルタンとなると、バルカン半島への進出を開始します
彼はビザンツ帝国を滅ぼし「征服者」と恐れられたメフメト2世が攻略できなかった要衝、ベオグラードとロードス島の攻略に取り掛かりました

ベオグラードはハンガリー平原への入り口にあたり、トランシルヴァニアやオーストリアに進出する際の拠点となる都市で、ここを1521年に陥とします
ロードス島は聖ヨハネ騎士団の根拠地であり、小アジアの喉元に位置するこの島から騎士団は度々出撃、イスラームの商船を襲撃していました
しかしロードス島もスレイマンにより1522年に征服され、いよいよヨーロッパ世界へ進出する際の障害は無くなったのです

1526年、ついにスレイマンは大軍を率いてハンガリーへと侵攻します
これに対抗するのはハンガリー王ラヨシュ2世でしたが、当時ハンガリーは農民運動が激化しており、さらに貴族の対立によって不安定な状態でした
弱冠20歳のラヨシュではこれを制御し切れず、統制の取れないままオスマン帝国軍を迎え撃つことになります
そして1526年8月29日、ハンガリー王国の首都ブダの南に位置するモハーチにおいて、ラヨシュ率いるハンガリー騎馬隊を、大量の大砲を有するオスマン帝国軍が完膚なきまでに粉砕し、ラヨシュは戦死します
これによりハンガリーはオスマン帝国に従属し、スレイマンはこの後オーストリアのウィーンまで侵攻することになるのでした


本日はオスマン帝国による本格的な西欧進出の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・柴宣弘編『世界各国史24 バルカン史』山川出版社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年

265Republica de Venexia:2014/08/30(土) 00:58:39 ID:???
8月30日は東ゴート王テオドリックが死去した日です

西ローマ帝国は>>263で見たネポス追放、ロムルス=アウグストゥルス即位の翌年、476年にゲルマン人親衛隊長オドアケルによって皇帝位が廃され、滅亡します
ダルマツィアに逃れ皇帝権を保持していたネポスも480年に暗殺され、オドアケルはダルマツィアを併合しました
オドアケルは自ら皇帝に即位することはなく、西ローマ皇帝位を東ローマ皇帝ゼノンに返上し、イタリア王となります

しかしオドアケルが東ローマ帝国の内政に干渉するようになるとゼノンはオドアケル討伐を決定、これを命じられたのがしたら東ローマ帝国の軍事長官、東ゴート族のテオドリックでした
テオドリックは488年にオドアケル討伐に着手し、493年にはラヴェンナを攻略、イタリア王となります
この王位は497年、東ローマ皇帝アナスタシウス1世によって正式に認められ、ここに東ゴート王国が成立したのです

テオドリックはこの功績により「大王」と称され、東ローマ帝国に従属しつつ、西ローマ帝国の継承を意識した国家作りを進めました
ローマ法の理念も引き続き適用され、混乱していた旧西ローマ帝国地域におい安定した時代を現出しましたが、男子の後継者が産まれなかったことが東ゴート王国に暗い影を落とすことになります
526年8月30日にテオドリックが亡くなると、王国の諸問題は次第に表面化、後継者を巡る争いも激化したことで王国は没落、やがて>>235で見たように東ローマ帝国によって滅亡するのでした


本日は東ゴート王国衰退の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・松谷健二『東ゴート興亡史 東西ローマのはざまにて』中央公論新社、2003年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年

266Republica de Venexia:2014/08/31(日) 00:52:27 ID:???
8月31日はアル=カーミルがアイユーブ朝のスルタンに即位した日です

アイユーブ朝は>>199で取り上げた始祖サラディンが1169年に建国して以来、十字軍との抗争を繰り広げました
1193年にサラディンが病没すると、アイユーブ朝の領土はその弟や息子たちによって分割相続され、実質的な分裂状態となります

そのなかで勢力を伸ばしたのがアル=アーディルでした
アーディルはシリア・エジプトを基盤に勢力を拡大し、十字軍勢力に対しては通商関係を持ち和平協定を結ぶことで共存を図ります
このアーディルの死後、1218年8月31日にスルタンとなったのがアル=カーミルでした

彼はアーディルの政策を継承・発展させ、十字軍勢力や西欧との通商関係を維持し、さらに領内のキリスト教徒を保護するなど、異教徒に対して寛容な姿勢で臨みました
その最も顕著な例が、フリードリヒ2世の「破門十字軍」への対応です
カーミルと同じく異文化に理解を示し、「玉座に座った最初の近代人」と称される神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、聖地イェルサレムを交渉によって奪還しようと試みます
カーミルはこの異文化に理解があるフリードリヒとの書簡を交わし、学問も含めた議論を行ううちに、互いの想いが同じであると認識しました
ここにおいて和平交渉がまとめられ、10年間の休戦協定と、イェルサレムの返還、双方の宗教的寛容を内容とする協定が成立しました

これに対する周囲の反応は冷たく、フリードリヒは異教徒との戦いを避けたことを非難され、カーミルもイェルサレムの放棄を糾弾されます
しかし異教徒に対する理解が十分に進んでいない時代において、2人の指導者が異文化理解に基づく和平協定を行ったことは特筆すべきことでしょう


本日はアイユーブ朝第5代スルタンの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・アミン・マアルーフ、牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』筑摩書房、2001年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全』東洋書林、2006年
・エルンスト・カントロヴィッチ、小林公訳『皇帝フリードリヒ2世』中央公論新社、2011年

267Republica de Venexia:2014/09/01(月) 10:13:56 ID:???
9月1日はフランス王ルイ14世が死去した日です

>>106で見たように、1643年5月14日に即位したルイ14世の治世は苦難から始まりましたが、宰相マザランの補佐もあって難局を乗り切ることに成功します
1661年にマザランが亡くなるとルイは親政を開始し、ブルボン朝絶対王政の絶頂期を築き、「太陽王」と呼ばれることになるのです
ここでは、ルイ14世の治世を簡単に見ていくことにしましょう

親政を開始したルイは財務総監にコルベールを起用し、その重商主義政策によって財政を再建します
またコルベールは海軍大臣にも就任し、フランス海軍の強化にも貢献しました
陸軍の強化も並行して行われ、陸軍大臣ルーヴォワ侯によって軍制改革が進められ、フランス陸軍もまた強力なものとなります

ルイはこの強大な軍事力を背景に征服戦争を進め、ネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争によって領土を拡大、ヨーロッパに対する影響力を大きく高めます
さらに彼は王権神授説に基づいた絶対王政を展開、その権威は最高潮となります
1682年に築いた絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世絶対王政の象徴といえるでしょう

しかしルイ14世の晩年はその栄光に陰りが見えるようになります
ファルツ継承戦争やスペイン継承戦争では成果を得られず、戦争による出費や贅沢な暮らしによって財政難に陥ったのです
そして1715年9月1日、ルイ14世は72年110日という長い治世の幕を下ろしました
これはフランス史上最長のみならず、国家元首としても最長記録ということで、ギネス世界記録にも認定されています


本日は「中世以後の国家元首として最長の在位期間」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『世界歴史大系フランス史2 16世紀〜19世紀なかば』山川出版社、1996年
・長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

268Republica de Venexia:2014/09/02(火) 00:45:32 ID:???
9月2日はアクティウムの海戦が行われた日です

ローマでは>>244で見たように、ポンペイウスを倒したカエサルが独裁権を握ることになりました
しかしカエサルによる急速な改革は共和派の反感を買い、カシウスやブルートゥスらがカエサルの暗殺を計画しました
前44年にカエサルは暗殺され、その遺志は彼の後継者たちに引き継がれます

まずカエサル子飼いの将軍、アントニウスがカエサル派を糾合し元老院の主導権を握り、カエサルを暗殺した共和派を追放します
またカエサルの遺言状には彼の甥であるオクタウィアヌスを養子・財産継承者とする旨が書かれており、カエサルを継承するリーダーとして台頭するようになります
当初この2人は対立していましたが、オクタウィアヌスはカエサル派の連携を第一と考え、同じくカエサルの部下であったレピドゥスを誘い第二回三頭政治が成立しました

こうしてローマではカエサル派による支配が確立しましたが、オクタウィアヌスとアントニウスは互いに勢力を競い合い、オクタウィアヌスはイタリア・ヒスパニアを、アントニウスは全東方・ガリア・ナルボンネンシスの統治権を握ります
レピドゥスはこの2人に対抗するには非力で、やがて三頭政治から退き、いよいよ2人の直接対決へと向かいます

イタリアと西方での支配権を確立しローマの最有力者となったオクタウィアヌスはアントニウスと結んだプトレマイオス朝に宣戦布告、前31年9月2日、アクティウムの海戦が勃発します
この海戦に敗れたアントニウスは逃亡しその後自殺、プトレマイオス朝の女王クレオパトラも自殺し、オクタウィアヌスによってローマによる地中海世界統一が達成され、ローマの内乱に終止符が打たれたのでした


本日は「内乱の一世紀」の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・北原敦編『世界各国史15 イタリア史』山川出版社、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

269Republica de Venexia:2014/09/03(水) 01:10:33 ID:???
9月3日はアイン・ジャールートの戦いが行われた日です

モンゴル帝国初代、チンギス=ハーンの代より行われてきた大西征は一時中断されていたものの、第4代モンケの代に再び計画され、西アジア方面にはモンケの弟フレグが派遣されました
フレグはイラン北西部、アラムートを拠点にモンゴル帝国に対抗していた二ザール派(暗殺教団)を破ると、1258年にはアッバース朝を滅ぼし、バグダードを潰滅させました

フレグは続いてシリアに侵入し、1260年2月にはアレッポとダマスクスを相次いで陥落させ、いよいよマムルーク朝が支配するエジプトへと侵攻する段階となっていました
しかしここでモンケが死去したとの報が伝わり、フレグはモンゴルへの帰還を決意します
フレグ率いるモンゴル軍は、中東地域において恐れられていた二ザール派、そしてイスラームの最高権威アッバース朝を葬り、まさに無敵の軍団と見えたことでしょう
しかし、そのモンゴル軍が引き上げていった...このフレグの旋回により、シリア以西の諸地域は救われたのです

モンゴルの大西征が決定的に食い止められたのは、アイン・ジャールートの戦いによってでした
フレグの本隊が引き上げた後も、先鋒部隊としてキト=ブカの手勢がシリアに駐留していました
キト=ブカは雑多な諸民族・諸教徒からなる混成軍が崩壊するのを恐れたのか、自身の手勢のみで南下を開始、マムルーク朝への攻撃を試みます
一方のマムルーク朝もフレグ本隊の引き上げを好機とみて北進を開始しており、両者は1260年9月3日、アイン・ジャールートにおいて激突します
寡勢のモンゴル軍は、マムルーク朝の英雄バイバルスによって大敗を喫し、潰走しました
バイバルスはその後もモンゴルとの戦いにおいて連戦連勝を重ね、モンゴルはこれ以後シリアを確保できず、中東にはフレグ=ウルスとマムルーク朝の均衡状態が生まれることになるのでした


本日はモンゴルの大西征の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・杉山正明『モンゴル帝国の興亡』講談社、1996年
・牟田口義郎『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』中央公論新社、2001年
・ロバート・マーシャル、遠藤利国訳『図説モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』東洋書林、2001年

270Republica de Venexia:2014/09/04(木) 00:01:31 ID:???
9月4日はロムルス=アウグストゥルスが廃位された日です

西ローマ皇帝ネポスが廃位され、ロムルス=アウグストゥルスが即位したのは>>263で見ました
このロムルスはネポスを追放したオレステスの実子で、実権はオレステスが握る傀儡政権でした
このオレステスの支配も長くは続かず、ロムルスが即位して1年足らずの476年9月3日、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルの反乱によってオレステスは殺害され、ロムルスはローマ皇帝位を追われました

その後の経緯は>>265で見た通りで、西ローマ皇帝位は東ローマ皇帝が保持し、名目上統一ローマ帝国が実現することとなります
この統一ローマ帝国は、>>235で取り上げたように、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によるイタリア支配により一時的に実現しますが、それも長続きしなかったのはこれまで見てきた通りです
西ローマ帝国の復活は、800年のシャルルマーニュの戴冠によって果たされることになるのです


本日は西ローマ帝国の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・ブライアン・ウォード=パーキンズ、南雲泰輔訳『ローマ帝国の崩壊 文明が終わるということ』白水社、2014年

271Republica de Venexia:2014/09/05(金) 01:33:56 ID:???
9月5日はマルヌの会戦が行われた日です

>>221で見た普仏戦争での勝利により、ドイツの統一は達成され、以後ビスマルクは対外戦争を控え外交政策に専念、フランスを孤立させるためロシアとも条約を結んでいました
しかし1890年にビスマルクが失脚しヴィルヘルム2世が親政を始めると、ロシアとの再保障条約更新を拒否し、その結果フランスとロシアが同盟、ドイツは東西に敵を抱える形となりました

この状況において参謀総長シュリーフェンはシュリーフェン・プランを考案します
その内容はまずフランスを全力を挙げて早期に攻略し、その後鉄道網を活用してロシアに軍を送るというものでした
シュリーフェンは1905年に退任し、第一次世界大戦におけるシュリーフェン・プランは>>198でも取り上げたモルトケの甥小モルトケが実行することになります

1914年に第一次世界大戦が勃発するとドイツ軍は計画通りフランスに侵入しますが、9月5日、マルヌ河畔においてフランス軍の抵抗に遭います
フランスはタクシーを活用した輸送作戦を実施、強固な防衛線を築き、ドイツの侵攻を食い止めることに成功します
ドイツ軍はフランス軍を突破できず、当初の計画は失敗に終わります
以後両軍は塹壕を築いて対峙し、長期にわたる塹壕戦に突入することになるのでした


本日はシュリーフェン・プランが挫折した会戦の誕生日です、フランスの皆さんおめでとうございます


参考文献
・木村靖二・長沼秀世・柴宣弘『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年
・アンリ・イスラン、渡辺格訳『マルヌの会戦 第一次世界大戦の序曲 1914年秋』中央公論新社、2014年
・木村靖二『第一次世界大戦』筑摩書房、2014年

272Republica de Venexia:2014/09/06(土) 01:42:42 ID:???
9月6日はマゼラン艦隊がスペインに帰港した日です

スペインでは1492年にナスル朝を滅ぼしレコンキスタ(再征服運動)を完遂すると、ポルトガルが先行していた新航路開拓に本格的に乗り出しました
同年8月にはスペインの支援でコロンブスば西回り航路での航海に出発し、10月には西インド諸島に到達しました
その後もスペインは南北アメリカ大陸への進出に力を入れることになります

1519年8月にはスペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の命でマゼラン(マガリャンイス)が同じく西回りでのアジア到達を目指します
マゼラン艦隊は南アメリカ大陸の南端を回り、太平洋に進出しました
この際通った大西洋・太平洋を分かつ海峡は後にマゼラン海峡と命名されます

マゼランは1521年には現在のフィリピンに到達し、フィリピンの諸部族を征服していきました
しかし部族長の一人ラプ=ラプはこれに抵抗おし、マゼランは討伐に赴きますが、逆に敗れ戦死してしまいます
マゼランの死後、艦隊の指揮官はエルカーノが引き継ぐことになります
フィリピン出発後のマゼラン艦隊は苦難の連続でした
インド洋海域はポルトガルの勢力圏であり、マゼラン艦隊は補給に苦労し、さらに壊血病や栄養失調により乗組員が次々と死亡、出発当時5隻265人だった艦隊は1隻18人にまで減少してしまいます

それでも1522年9月6日、エルカーノ率いるマゼラン艦隊はついにスペインに到着しました
エルカーノにはカルロス1世より、地球の図に「我を一周せし最初の者」と刻まれた紋章が与えられ、その功績が讃えられることになるのでした


本日は世界一周の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・岩根圀和『物語スペインの歴史 海洋帝国の黄金時代』中央公論新社、2002年
・アントニオ・ドミンゲス・オルティス、立石博高訳『スペイン 三千年の歴史』昭和堂、2006年
・増田義郎『図説 大航海時代』河出書房新社、2008年

273名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/09/06(土) 11:05:35 ID:lAG07cCg
やっぱり地中海世界が多いですね

274Republica de Venexia:2014/09/06(土) 11:28:00 ID:???
>>273
基本的に自分の関心ある分野から選んでますねー

275Republica de Venexia:2014/09/07(日) 00:59:41 ID:???
9月7日はアナーニ事件が起こった日です

1285年にフランス王となったフィリップ4世端麗王の治世は、フランス王権と教皇権との対立が激化した時代でもありました
これは11世紀のグレゴリウス改革や叙任権闘争における皇帝権と教皇権との対立から続くものであり、世俗君主と教皇のどちらが優位にあるかという首位権を巡る論争でした

またフィリップ4世の治世では、封建貴族・王族との妥協的性格を持つかなクリア・レギス(王室諮問会議)から脱却し、絶対主義的王権を支持するレジスト(ローマ法学者)をブレーンとする中央集権的な官僚制が整えられていきました
フィリップ4世の顧問としてはギョーム=ド=ノガレ、アンゲラン=ド=マリニー、ギョーム=ド=プレジアンらがおり、彼らは国王をローマ皇帝の絶対権力の継承者とみなし、教皇や聖職者全てを国王の支配下に置くことを主張していました

フィリップはこれらの顧問団に支えられ、教皇への圧力を強めていきます
対イングランド戦争の軍資金調達のため、聖職者に課税したのもその1つでした
これに教皇至上主義を主張する教皇ボニファティウス8世が真っ向から対立し、1302年、教皇権の優位を認めさせる教皇回勅を発布します
これに対しフィリップは同年に三部会を開催し、フランス王国の独立と国王の権威を確認が決議されました
さらに翌1303年3月、王政顧問会議でノガレによってボニファティウスを弾劾する宣言が行われ、国中に徹底させます

こうして教皇に対抗する基盤が確立され、ついに1303年9月7日、フィリップはノガレに軍勢を与え、アナーニ城にてボニファティウスを捕縛させます
ボニファティウスは救出され難を逃れますが、後に憤死してしまいます

このアナーニ事件により教皇権威は大いに失墜します
フィリップは十字軍騎士団であるテンプル騎士団を解散させ、さらに教皇庁をアヴィニョンに移転させる(教皇のバビロン捕囚)など、フランス王権の教皇権に対する優位が確立していくのでした


本日はフランス早期絶対王政の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦『世界歴史大系フランス史1 先史〜15世紀』山川出版社、1995年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

276Republica de Venexia:2014/09/08(月) 00:53:58 ID:???
9月8日はオスマン帝国がマルタ島から撤退し始めた日です

>>264で見たように、1522年、オスマン帝国スルタンのスレイマン1世は聖ヨハネ騎士団の本拠地ロードス島を攻略し、東地中海の支配を確立していきました
聖ヨハネ騎士団は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)への従属を条件にマルタ島を与えられ、ここを新たな本拠地としました

一方オスマン帝国は西地中海にも進出し、1538年にはプレヴェザの海戦によりヴェネツィア共和国その他の連合艦隊を破り、地中海における覇権を確実なものとします
これに対し、聖ヨハネ騎士団はロードス島に拠点を構えていた頃と同じく、イスラーム商船への襲撃を行います
これは先のカール5世の要請によるものでもあり、オスマン帝国海軍の中核をなすバルバリア海賊への対抗は必要不可欠なものだったのです

この聖ヨハネ騎士団の活動に業を煮やしたスレイマン1世は、ロードス島に攻撃した時と同じく、大艦隊をマルタ島へと派遣します
1565年5月、ムスタファ=パシャ率いるオスマン艦隊がマルタ島への包囲を開始しました
しかし、かつてロードス島を攻撃した時と同じようにはいきませんでした
というのも、帝都イスタンブールからマルタ島までの距離はロードス島までの約2倍であり、補給が困難だったのです
ロードス島は小アジアに近いこともあり、途中までは陸路で物資を運ぶことができましたが、マルタ島までは海路で送る必要がありました
北アフリカはオスマン帝国領とはいえ実態はバルバリア海賊の委任領であり、オスマン帝国が自由に活動できるわけではありませんでした
またマルタ島にほど近いシチリア島はスペイン領であり、オスマン帝国の西地中海進出を恐れるスペインはマルタ島の死守を期し、聖ヨハネ騎士団に援軍を派遣したのです

そして包囲戦が始まって約4ヶ月後の1565年9月8日、オスマン帝国はついにマルタ島攻略を断念し、撤退を開始しました
ロードス島包囲戦やプレヴェザの海戦などを通じ無敵を誇ってきたオスマン帝国海軍を撃退したことで西欧世界の指揮は上がり、1571年のレパントの海戦における勝利へと繋がります
この勝利は現在でも讃えられており、マルタ共和国では9月8日は「勝利の日」として祝日になっています


本日はオスマン帝国海軍不敗神話崩壊の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・アーシル・ブラッドフォード、井原裕司『マルタ島大包囲戦』元就出版社、2011年

277Republica de Venexia:2014/09/09(火) 00:54:58 ID:???
9月9日は「伊号第二五潜水艦」がアメリカ本土を空襲した日です

日本海軍は昭和16年12月に真珠湾攻撃を行った後、潜水艦をアメリカ本土に派遣し、攻撃を行わせました
昭和17年2月には「伊号第十七潜水艦」をはじめとする潜水艦10隻がカリフォルニア州のエルウッド製油所への砲撃に成功し、アメリカ国民に動揺を与えました
さらに同年6月22日には「伊第二五潜水艦(伊25)」がオレゴン州のスティーブンス基地に砲撃を加え、これは1812年の米英戦争以来となる、アメリカ本土の基地への攻撃となりました

これらの攻撃によりアメリカ国民は日本軍が本土に上陸するのではないかという恐怖にかられ、これを払拭するため、日本本土への空襲が計画されました
これが昭和17年4月18日に行われたドゥーリットル空襲で、日本海軍はこれに対抗して伊25によるアメリカ本土空襲を計画します

そして昭和17年9月9日、伊25は零式水上偵察機を発艦させ、オレゴン州ブルッキングスの森林に焼夷弾を投下、延焼させることに成功します
この空襲はアメリカ史上初の敵軍機による本土空襲であり、アメリカ国民に大きな衝撃を与えたのでした


本日はアメリカ本土空襲の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・「丸」編集部『ハンディ判日本海軍艦艇写真集19 潜水艦 伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型』光人社、1997年
・福井静夫『日本潜水艦物語』光人社、2009年
・槇幸『伊25号出撃す アメリカ本土を攻撃せよ』光人社、2009年

278Republica de Venexia:2014/09/10(水) 01:14:17 ID:???
9月10日はフィリップ善良公がブルゴーニュ公に即位した日です

ブルゴーニュはドイツとフランスの間に位置する地域で、その領域の東側が神聖ローマ帝国に属するブルグント伯領、西側がフランス王国に属するブルゴーニュ侯領となっていました
フィリップ善良公の出身であるヴァロワ=ブルゴーニュ家で、フランス王ジャン2世が4男フィリップにブルゴーニュ公位を与えたこの家系がブルゴーニュを支配する頃には、先のブルゴーニュ侯領とブルグント伯領は統合された状態となっていました

このブルゴーニュ公国初代のフィリップ豪胆公はフランス王国の内政に深く関わり、ブルゴーニュ家がフランス諸侯の筆頭であろうとしました
彼とその後継者ジャン無怖公の時代、ブルゴーニュ家はフランスにおける党派対立に奔走し、1419年、ジャンは党派対立のもつれから暗殺されてしまいます

そして1419年9月10日、新たにブルゴーニュ公となったのがフィリップ善良公でした
フィリップはフランス王国内での対立を避け、北方へと領土を広げていきます
その結果フィリップはブルゴーニュ公に加え、ブルグント伯、エノー伯、ゼーラント伯、アルトワ伯、ホラント伯、ブラバント公、ルクセンブルク公を兼ね、フランス王国からの離脱が進みました
先にも書いた通り、ブルグントは神聖ローマ帝国に属しており、ブラバント、ホラント、ゼーラント、エノーもまた神聖ローマ帝国に属しました
フィリップの時代、ブルゴーニュ公は神聖ローマ帝国の有力諸侯でもあったのです

こうして最盛期を迎え、強大となったブルゴーニュ公国は>>219で見たように百年戦争の戦局をも動かす存在でした
またフィリップは文化面にも力を入れ、金羊毛騎士団創設により騎士道文化が隆盛し、フランドル派絵画やネーデルラント楽派が活躍する北方ルネサンスも展開され、ホイジンガがその著作『中世の秋』で讃える時代が現出されたのでした


本日はブルゴーニュ公国最盛期の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・堀越孝一『ブルゴーニュ家 中世の秋の歴史』講談社、1996年
・ジョセフ・カルメット、田辺保訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、2000年
・堀越孝一編『新書ヨーロッパ史 中世篇』講談社、2003年

279Republica de Venexia:2014/09/11(木) 00:34:34 ID:???
9月11日はスコットランド独立戦争、スターリング・ブリッジの戦いが行われた日です

スコットランドはイングランド王リチャード1世獅子心王によって独立を認められたものの、13世紀を通じて事実上イングランド王の主権下にありました
スコットランドはイングランドを共通の敵とするフランスと同盟を結び、1244年にイングランド王ヘンリ3世がスコットランドに攻撃を加えた際にはフランスの援助を受けました

ヘンリの後を継いだエドワード1世もスコットランドへの介入を進め、スコットランド王位継承問題に干渉してジョン・ベイリアルを王位につけさせ、イングランドに臣従させます
その後もエドワードはスコットランドへの威圧的政策を進めたため、1295年、スコットランドはフランスと対イングランド攻守同盟を結びました

これに対しエドワードはベイリアルを捕らえ、スコットランド総督を設置して統治下に置くなど強圧的な措置を行います
スコットランドではイングランドへの不満が高まり、エドワードがフランスへの遠征にスコットランドの参加を求めたことをきっかけに、スコットランドでは大規模な反乱が勃発しました

この反乱の指導者となったのがウィリアム=ウォレスで、彼に率いられた反乱軍は1297年9月11日、スターリング・ブリッジにおいてイングランド軍を破り、反乱軍は大いに勢いづくこととなりました
ウォレスはナイトに叙され、「ジョン王のスコットランド王国の守護官」に任じられます

その後反乱軍は翌年フォルカークの戦いに敗れ、ウォレスもイングランドによって捕らえられ処刑されるものの、それはスコットランドの国民感情をますます燃え上がらせることになりました
ウォレスはイングランドを破り、スコットランドの愛国精神を呼び覚ました英雄として、今でも崇拝されているのです


本日はスコットランド愛国精神の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ナイジェル・トランター、杉本優訳『スコットランド物語』大修館書店、1997年
・川北稔『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・高橋哲雄『スコットランド 歴史を歩く』岩波書店、2004年

280Republica de Venexia:2014/09/12(金) 00:12:38 ID:???
9月12日は第二次ウィーン包囲が失敗した日です

スレイマン1世の時代に全盛期を迎えたオスマン帝国ですが、>>276で見たようにその治世の末期には繁栄に陰りが見え始め、1571年のレパントの海戦でも敗北を喫しました
一方陸地の方では、>>184で見たハプスブルクとの「15年戦争」がバルカン半島で展開され、そして東方ではサファヴィー朝との抗争が行われていました
>>258のチャルディラーンの戦いでは大勝したオスマン帝国でしたが、サファヴィー朝はアッバース1世の下で最盛期を迎え、タブリーズやバグダードをオスマン帝国から奪うなど、攻勢を見せていました

さて西方に視点を戻すと、15年戦争が終結した後、オスマン帝国はポーランドとの断続的な戦争状態に入ります
ポーランドの王家は>>264でオスマン帝国に敗れたラヨシュ2世が属するヤゲウォ家という因縁深いものでした
ポーランドはハプスブルク家と協力し、一方オスマン帝国はハプスブルクを共通の敵とするフランス・ブルボン朝と同盟します
当時のブルボン朝はルイ14世の時代で、彼は>>267で見たように積極的な対外戦争を進め、オスマン帝国の対ハプスブルク・ポーランド戦争と連携しました

1683年7月、オスマン帝国はルイ14世の要請もあり、またハプスブルクとの決着をつけるため、その都ウィーンを大軍をもって包囲しました
ルイ14世もハプスブルク領であるオーストリア・スペインに圧力をかけ、支援します
しかしウィーンは第一次ウィーン包囲の時よりも城壁は強化されており、またオスマン帝国軍に攻城兵器が不足していたこともあって包囲戦は長引きます
その間にハプスブルク側はポーランドを中心に反撃の準備を整え、ウィーンへの援軍が到着します

そして1683年9月12日、ポーランド王ソビエツキ率いる重装騎兵隊を先鋒にポーランド・ハプスブルク・ドイツ諸侯の連合軍がオスマン帝国軍を急襲、オスマン帝国軍は包囲を破られ、壊滅的敗北を喫したのでした
この敗戦によりオスマン帝国の衰退は決定的となり、>>223で見たカルロヴィッツ条約・パッサロヴィッツ条約を通じ、バルカン半島での勢力を後退させていくのでした


本日は「トルコの脅威」からの解放日です、おめでとうございます


参考文献
・アラン・パーマー、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・長谷川輝夫・土肥恒之・大久保桂子『世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花』中央公論新社、2009年

281Republica de Venexia:2014/09/13(土) 01:26:34 ID:???
9月13日はハドリアヌスの長城が建設され始めた日です

>>268で見たように、ローマにおける「内乱の一世紀」はオクタウィアヌスによって終結しました
オクタウィアヌスはアウグストゥスの称号を与えられ、帝政を開始しました
ローマによって地中海世界が統一されたこの時代はパクス=ロマーナ(ローマの平和)と呼ばれ、特に五賢帝の治世はローマ帝国が最も繁栄した時代とされます

この五賢帝の2人目、トラヤヌスの代ではダキア、アラビア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアを征服し、ローマ帝国の最大版図が実現されます
しかしこれらの地域を維持するには軍事的にも財政的にも大きな負担であったため、次代のハドリアヌスはアルメニア、メソポタミア、アッシリアの放棄を決定、東部国境の安定化に努めました

このようにハドリアヌスの治世はローマ帝国は帝国拡大路線から国境安定化路線へと転換した時代でした
122年9月13日、ブリタニアで建造が開始されたこの長城は、ハドリアヌスの政策転換の象徴的存在と言えます
ハドリアヌスの長城は、>>263で見たローマ帝国のブリタニア放棄後も活用され、スコットランドに対する防壁として機能、イングランドとスコットランドとの国境にも影響を与えているのです


本日はローマ帝国政策転換の象徴的建造物の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・南川高志『ローマ五賢帝』講談社、1998年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

282Republica de Venexia:2014/09/14(日) 00:21:59 ID:???
9月14日はハールーン=アッラシードがカリフに即位した日です

アッバース朝の成立と首都バグダードの建設については>>233で見ましたが、ハールーン=アッラシードの登場はその少し後のこととなります

バグダードを建設した第2代カリフ・マンスールの死後、代3代カリフとなったマフディーの代にはティグリス川東岸の新市街が発展し、西岸の旧市街を凌ぐほどとなりました
そして短命の第4代カリフ・ハーディーを経て786年9月13日、カリフに即位したハールーン=アッラシードにより、バグダードおよびアッバース朝はその最盛期を迎えます

ハールーン=アッラシードの時代、バグダードは「全世界で比肩するもののない都市」と称され、市内には6万の礼拝所、3万の公衆浴場が存在し、大市場には帝国各地の物産が集められ、また中国・東南アジア・中央アジア・アフリカ・ヨーロッパの特産物も見られる、世界有数の繁栄を見せることになります

この繁栄を支えていたのがアッバース朝の大ネットワークでした
・インド洋ネットワークを形成するバスラ道
・シルクロードや草原の道、ロシア方面へも繋がるホラーサーン道
・メッカへと至る宗教ネットワークの中心となるクーファ道
・旧ササン朝ネットワーク・ビザンツ帝国ネットワークを結びつけるシリア道
これら4つの幹線道路がネットワークの中心地バグダードから伸び、大量の物資、人々が行き交うことになったのです
その繁栄ぶりはハールーン=アッラシード時代を物語の中心とする、『千夜一夜物語』でも描かれるのでした


本日はアッバース朝最盛期の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・宮崎正勝『イスラム・ネットワーク アッバース朝がつなげた全界』講談社、1994年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

283Republica de Venexia:2014/09/15(月) 00:50:52 ID:???
9月15日(旧暦)は関ヶ原の戦いが行われた日です

豊臣秀吉の死後、豊臣家では石田三成らを中心とする文治派、加藤清正らを中心とする武断派の対立が激化し、徳川家康はその武断派と接近し、豊臣政権内での勢力を拡大していきました
三成はこれに危機感を覚え、家康が会津征伐のため上方を留守にしている間に反家康勢力を結集、毛利輝元を総大将として挙兵しました

この「西軍」はまず伏見城を陥とし、家康方の諸城を攻め落としながら東へと進撃します
一方、家康率いる「東軍」は小山評定にて会津征伐を中止し引き返すことを決定、両軍激突へと向かっていきます
1600年9月14日、家康は美濃赤坂に本陣を構え、決戦の準備を整えます
しかし徳川秀忠率いる、徳川譜代の武将を中心とする別働隊は到着しないままでした
一方の西軍は大垣城に集結し、14日夜には関ヶ原に進出、陣を構えましたが、小早川秀秋が松尾山の西軍を追い出して布陣、また大津城攻めにより立花宗茂や毛利元康らが本戦に参加できないという状況でした

そして1600年9月15日東西両軍は関ヶ原にて相対し、東軍井伊直政の鉄砲隊の射撃により決戦の火蓋が切って落とされました
西軍は松尾山の小早川隊、南宮山の毛利勢が動かないという数的劣勢のなか、笹尾山の石田三成、北天満山の小西行長、南天満山の宇喜多秀家、松尾山山麓の大谷吉継らを中心に、それぞれ黒田長政・細川忠興、織田有楽斎・古田織部、福島正則、藤堂高虎・京極高知を相手に善戦し、戦局は膠着状態となります

三成はここで総攻撃をかけるべしと判断し、狼煙を打ち上げますが、半ば中立の立場をとっていた松尾山の小早川秀秋はもとより、吉川広家の内応により南宮山の毛利勢も動きませんでした
秀秋はその後、家康側につくことを決め、西軍を「裏切り」大谷隊に攻めかかります
吉継はこれを予測していたため一旦は押し返すものの、脇坂安治らが秀秋と同じく東軍側につき、これにより大谷隊は総崩れとなります
大谷隊の壊滅により西軍諸隊は次々と崩れ、敗走することとなります
島津義弘が正面突破による撤退を試み、島津豊久が捨て奸で討死したのもこの時です

こうして東西両軍の決戦は一日で決着し、徳川家康は天下人へとのし上がることとなったのでした


本日は天下分け目の戦いの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・外川淳『完全制覇関ヶ原大合戦 この一冊で歴史に強くなる!』立風書房、2000年
・笠谷和比古『戦争の日本史17 関ヶ原大合戦と大坂の陣』吉川弘文館、2007年
・光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』日本放送出版協会、2009年

284Republica de Venexia:2014/09/16(火) 00:03:51 ID:???
9月16日はエルトゥールル号事件が起こった日です

>>225でも見たように、19世紀のオスマン帝国はヨーロッパ列強に対し守勢に回り、衰退の一途を辿っていました
これを挽回するため専制政治を始めたアブデュル=ハミト2世は汎イスラーム主義を掲げ、イスラーム諸国にオスマン帝国の威容を示すべく、軍艦エルトゥールル号の東洋派遣を決定します
これは1887年の小松宮夫妻のイスタンブール訪問に応えるため、日本への親善大使派遣も兼ねて行われました

1889年7月にイスタンブールを出港したエルトゥールル号はイスラーム諸国を歴訪しつつ、翌年6月に日本に到着し、日本国民の大歓迎を受けます
そして9月にはオスマン帝国に帰還するため横浜から出港しますが、ここで悲劇が待ち受けていました

1890年9月16日、エルトゥールル号は和歌山県・紀伊大島沖で台風に遭い座礁沈没、多くの乗組員が亡くなりました
生存者は大島村(現在の串本町)に辿り着き、村民に発見されます
この時の村民の行動は迅速でした
直ちに村民総出で生存者の救助にあたり、わずかな食料や衣服を与え、さらに非常用のニワトリまで提供、懸命に救護を尽くしたのです
その結果乗組員69人の生命が救われ、無事オスマン帝国に帰還することができたのです

オスマン帝国はこれに深く感謝し、トルコ国民の間ではエルトゥールル号事件に際しての日本人の救命活動に対する感謝の念が語り継がれることとなります
そしてエルトゥールル号地毛から約100年後の1985年、イラン・イラク戦争の際にトルコ国民の恩返しが行われました
イラクで孤立した215人の日本人救出のため、トルコが航空機を提供し無事に日本へと帰還することができたのです
その後も日本とトルコは、トルコ大地震や東日本大震災の際にお互いに協力するなど友好関係を築いています
また和歌山県串本町では、エルトゥールル号事件以来5年ごとに慰霊の大祭を催し、現在に至っているのです


本日はエルトゥールル号事件の誕生日です、お悔やみ申し上げます

同時に、日本・トルコ友好関係の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・山田邦紀・坂本俊夫『東の太陽、西の新月 日本・トルコ友好秘話「エルトゥールル号」事件』現代書館、2007年
・秋月達郎『海の翼 トルコ軍艦エルトゥールル号救難秘録』新人物往来社、2010年
・森永堯『トルコ 世界一の親日国 危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空』明成社、2010年

285Republica de Venexia:2014/09/17(水) 00:22:05 ID:???
9月17日はブライテンフェルトの戦いが行われた日です

1618年5月に始まった三十年戦争ですが、プロテスタント側のベーメン王フリードリヒ5世は1620年の白山の戦いで皇帝軍に敗れ、ベーメンのハプスブルク家支配が確立します
続いてデンマーク王クリスティアン4世がプロテスタント側として参戦しますが、傭兵隊長ヴァレンシュタインの大軍勢により撃退されます

このように苦戦が続くプロテスタント側でしたが、これを救ったのがスウェーデン王グスタフ=アドルフでした
さて、スウェーデン軍の躍進を見る前に当時の軍事事情についても触れておきましょう
三十年戦争当時に主流となっていた戦術は「テルシオ」でした
これは1534年にスペインの将軍コルドバが考案した、横に百列・縦に十五列程の槍兵が並ぶ密集方陣で、その四方を銃兵が囲み、さらに四隅に銃兵の密集部隊を配置する、まさに動く要塞というべきものでした

このスペインと対決したのがオランダであることは>>124でも見ましたが、そのオランダの指導者マウリッツが進めたのが軍制改革でした
マウリッツは銃兵が槍兵を守るというそれまでの発想を覆し、槍兵が銃兵を守り火力を最大限に高める戦術を考案します
槍兵の方陣の代わりに、約十列の銃兵による縦列陣を編成、槍兵はこれを守るための存在となりました
そして銃兵は発射後すぐに隊列の後ろに回り、再装填するようにし、最前列は常に火力を発揮できるようにしたのです

このマウリッツの軍制改革を完成させたのがグスタフ=アドルフでした
グスタフ=アドルフはマウリッツの考案した陣形を訓練によってさらに洗練させ、銃兵の発射・装填速度の高速化を実現、銃兵の隊列を十列から六列以下にまで減らすことができました
さらに騎兵のカラコール戦術を改め、抜刀突撃による集中攻撃を徹底、これにより騎兵隊に機動力と打撃力がもたらされました
そして砲兵にも改良の手が加えられます
砲の射程は必ずしも砲身の長さとともに増大するものではなく、砲の有効性を損なわずに砲身の長さ・重さを半分にできるという発見を活かし、より機動的な野戦砲を導入したのです
そしてグスタフ=アドルフは歩兵・砲兵の火力、騎兵の打撃力を最大化しつつそれらを機動的に運用する三兵戦術を有効性に活用し、これをもって軍制改革が完成されました

そして1631年9月17日、テルシオを採用する皇帝軍と、三兵戦術のスウェーデン軍がライプツィヒ近郊のブライテンフェルトにて激突、戦いはスウェーデン軍の圧勝に終わったのでした
これはプロテスタント側に初めての勝利をもたらしただけではなく、戦術史上においても画期的な勝利といえ、ヨーロッパの勢力図を大きく塗り替えることとなったのでした


本日はプロテスタント側勝利の誕生日と同時に、近世戦術転換の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『傭兵の二千年史』講談社、2002年
・B.H.リデルハート、森沢亀鶴『世界史の名将たち』原書房、2009年
・マイケル・ハワード、奥村房夫・奥村大作訳『ヨーロッパ史における戦争』中央公論新社、2010年

286Republica de Venexia:2014/09/18(木) 00:03:34 ID:???
9月18日はネルウァがローマ皇帝に即位した日です

ローマ帝国は>>220で見たネロの死によりユリウス=クラウディウス朝が断絶し、その後一年間で3回皇帝が交代する「四皇帝の年」と呼ばれる内戦状態に陥ります
これを鎮圧したウェスパシアヌスがフラウィウス朝を開きますが、元老院と敵対したドミティアヌスが暗殺されたことで断絶してしまいます

このフラウィウス朝断絶後、元老院により皇帝に推挙されたのがネルウァでした
ネルウァは即位当時すでに65歳と高齢で、その治世も15ヶ月と非常に短いものでしたが、トラヤヌスを後継者に指名するという重要な役割を果たすのです

トラヤヌスは>>281で見たようにローマ帝国の最大版図を築いた皇帝で、軍・民衆からの人気も高く、現在に至るまで高い評価を得る皇帝ですが、当時のローマ帝国では前列の無い属州出身の皇帝でした
ネルウァには嫡男がいなかったため、このトラヤヌスを養子に迎え後継者としたのです
これはローマ帝国最盛期を築く王朝成立のきっかけであり、ネルウァの短い治世での最大の功績と讃えられることとなるのでした


本日はローマ帝国五賢帝時代の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・南川高志『ローマ五賢帝』講談社、1998年
・エドワード・ギボン、中倉玄喜編訳『新訳 ローマ帝国衰亡史』PHP研究所、2008年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年

287Republica de Venexia:2014/09/19(金) 00:34:41 ID:???
9月19日はポワティエの戦いが行われた日です

>>237で見たように、百年戦争におけるイングランドは1346年8月、長弓隊の活躍によりフランス騎士軍に大勝、翌年8月にカレーを陥としました
カレー陥落と同時期にはアキテーヌ地方の諸都市を征服、ブルターニュではラ・ロシュ=デリアンの戦いでブルターニュ公シャルル=ド=ブロワを捕虜とし、スコットランドにおいてネヴィルズ=クロスの戦いでもスコットランド王デイヴィッド2世を捕らえるなど、イングランド優勢のままに戦局を進めていました

しかし休戦の試みもなされ、1347年には既に教皇クレメンス6世の仲介により休戦が成立し、これが毎年更新されることとなります
この間にフランスでは黒死病が大流行により人口が激減、一時的な休戦ではなく戦争そのものの和平条約締結が模索されます
1354年4月にはアヴィニョンにて和平会議が開かれ、イングランド王エドワード3世はアキテーヌ領の保持、ポワトゥー・トゥーレーヌ・アンジュー・メーヌの割譲を条件として提示しますが、フランス王ジャン2世はこれを拒否、イングランドはフランス侵攻を再開します

このイングランド軍を率いたのはエドワード黒太子で、彼はボルドーから出撃しブルターニュのランカスター公ヘンリーの軍勢との合流を図りました
しかしこれはフランス軍の妨害に遭い、黒太子は態勢を立て直すため一旦ボルドーへ退却します
しかしフランス軍の追撃は速く、逃れられないことを悟った黒太子はポワティエに陣を敷き、迎撃の準備を整えました

そして1356年9月19日、イングランド軍に追いついたフランス軍の突撃により、ポワティエの戦いが始まりました
数にまさるフランス軍でしたが、戦いの展開はまさにクレシーの戦いの再現でした
イングランド長弓隊の活躍により再びイングランドが大勝し、フランス王ジャン2世は捕虜となるのです
この戦いによりイングランドの優位が確立し、1356年にはロンドン条約が結ばれ、ノルマンディー・ブルターニュ・アンジュー・メーヌ・アキテーヌがイングランド領となり、かつてのアンジュー帝国が復活することとなったのでした


本日は百年戦争序盤におけるイングランドの決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年

288Republica de Venexia:2014/09/20(土) 00:49:48 ID:???
9月20日は対立教皇クレメンス7世が即位した日です

>>275で見たように、フランス王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世の捕縛を図ったアナーニ事件の後、1308年にはフィリップによって教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移されます
これを新バビロニア王ネブカドネザル2世がユダ王国のユダヤ人をバビロンへと連行した「バビロン捕囚」に倣い、「教皇のバビロン捕囚」と称されました

このアヴィニョン教皇庁時代は約70年間に渡り、アヴィニョンに教皇座を置いたクレメンス5世から数えて7代目のグレゴリウス11世の時代、ようやくローマへの帰還が実現します
1378年4月にはローマでの教皇選挙によりイタリア人のウルバヌス6世が選出され、イタリア人枢機卿の増員を試みます
しかしフランスの圧力により、それまで枢機卿団の多数を占めていたフランス人枢機卿はこれに反発しました

そして1378年9月20日、フランス人枢機卿により対立教皇クレメンス7世の選出が宣言され、クレメンスはアヴィニョンに教皇座を置き、ローマ教皇と対立することとなります
この事態を収拾するため1409年にはピサ教会会議が開かれ、ローマ教皇グレゴリウス12世とアヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世を廃位し、アレクサンデル6世の選出が決定されますが、ローマ・アヴィニョンの両教皇はこれを拒否、結局ピサにも教皇が立ち三教皇鼎立という事態となります
この分裂状態は、1414年から始まるコンスタンツ公会議で収拾されるまで続くこととなるのでした


本日は教会大分裂(大シスマ)の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・樺山紘一『パリとアヴィニョン 西洋中世の知と政治』人文書院、1990年
・P.G.マックスウェル=スチュアート、高橋正男監『ローマ教皇歴代誌』創元社、1999年
・佐藤彰一・池上俊一『世界の歴史10 西ヨーロッパ世界の形成』中央公論新社、2008年

289名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/09/20(土) 06:49:54 ID:oCXHJDRk
ローマに帰してクレメンス(激寒)

290名前なんか必要ねぇんだよ!:2014/09/20(土) 07:43:02 ID:0s1/hvFM
お前AILEくんかよぉ!?

291Republica de Venexia:2014/09/20(土) 10:17:03 ID:???
アナーニ事件といい、憤死といい、この辺は何かとワードが面白いですよね

292Republica de Venexia:2014/09/21(日) 00:33:57 ID:???
9月21日はマルタがイギリスから独立した日です

>>276で見たように、マルタ島はロードス島を終われた聖ヨハネ騎士団の本拠地となり、1565年にはオスマン帝国の侵攻を撃退しました
このマルタ防衛戦を指揮した騎士団長がジャン=ド=ラ=バレッテで、彼の名にちなみマルタの首都はバレッタと名付けられることとなります

その後のマルタ騎士団は存在感を失っていきます
三大騎士団のうちテンプル騎士団は既にフィリップ4世によって解散させられ、ドイツ騎士団は世俗のプロイセン公国となり騎士団としての主権は失われていきました
マルタ騎士団のみが主権を持つ騎士団として存続しましたが、1798年、ナポレオンがエジプト遠征中にマルタを奪い、マルタ騎士団は本部はシチリア島のカターニャに置きつつもモスクワへと逃れます
1826年にはその本部がイタリアのフェラーラに移転され、1834年にはローマに移転し現在に至ることとなります

マルタ騎士団が追われた後のマルタ島はナポレオン失脚の後イギリス領となり、第二次世界大戦中にはイタリア軍の包囲を受けますがこれを撃退します
戦後はイギリスからの独立運動を進め、1964年9月21日、イギリス連邦王国としてついに独立を達成します
1974年12月13日にはイギリス連邦内の共和国となり、現在に至るのです

マルタ騎士団とマルタ島、現在は別々の道を歩むこととなっていますが、冷戦末期の時期にはマルタ共和国がマルタ騎士団に国土の一部を割譲するという噂も流れました
今後も双方の関係に注目ですね


本日はマルタ国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・アーシル・ブラッドフォード、井原裕司『マルタ島大包囲戦』元就出版社、2011年

293Republica de Venexia:2014/09/22(月) 00:42:36 ID:???
9月22日はブルガリアがオスマン帝国から独立した日です

ブルガリアは>>133で見た第一次ブルガリア帝国、>>227で登場した第二次ブルガリア帝国が繁栄し、中世東欧の強国として存在感を放っていました
しかし14世紀になるとオスマン帝国が台頭し、>>222で見たように
バヤジット1世の治世にバルカン半島への進出を本格化させます
1396年に行われたニコポリスの戦いの後、ブルガリアはオスマン帝国に征服されました

オスマン帝国支配下のブルガリアでは度々反乱が勃発しますが、その都度オスマン帝国によって鎮圧されます
しかし>>280で見た第二次ウィーン包囲失敗の後オーストリアがバルカン半島で攻勢を見せ、ブルガリアもオーストリアの支援を受けるようになります
さらに>>80で取り上げた露土戦争によって、ブルガリアは1878年にブルガリア大公国として自治領となりました
しかしロシア帝国の影響を強く受け、ロシアの南下政策の鍵となったブルガリア大公国はヨーロッパ列強に警戒され、その領土は3つに分割され、オスマン帝国の影響力も復活することとなります

しかし高まった独立の気運は萎むことなく独立運動は続けられました
そして1908年9月22日、>>225で見た青年トルコ革命に乗じ、オーストリアの支援を得て、ついに独立を達成したのでした


本日はブルガリア王国の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森安達也・今井淳子訳編『ブルガリア─風土と歴史』恒文社、1981年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・柴宣弘『図説バルカンの歴史』河出書房新社、2011年

294Republica de Venexia:2014/09/23(火) 01:50:41 ID:???
9月23日はヴォルムス協約が結ばれた日です

神聖ローマ帝国では>>245で登場した初代オットー1世の代から、ローマ教会組織を通じて帝国統治を行う帝国教会政策が進められました
これはザクセン朝断絶後のザリエル朝時代でも継続され、ザリエル朝初代コンラート2世は帝国教会政策の強化に努めました
第2代ハインリヒ3世も父の政策を継承し、彼の時代に神聖ローマ皇帝権は強大なものとなりました

ハインリヒ3世の強権はイタリアにも及び、堕落していたローマ教会を正すべく、教会改革運動を積極的に支持します
しかしハインリヒはあくまで帝国統治のために教会の改革を求めたのに対し、改革運動の主導者たちは世俗権力からの脱却を主張したのです
その中心がクリュニー修道院であり、クリュニー修道院出身のイルデブラント、後のグレゴリウス7世でした

こうして教会と皇帝の対立が始まろうとしていた矢先の1056年、ハインリヒ3世は急死し、わずか6歳のハインリヒ4世が後を継ぎます
これを好機と、イタリアでは皇帝権排除の運動が高まり、イルデブラントがグレゴリウス7世として教皇に就任、グレゴリウス改革と呼ばれる改革運動を推し進めます
それは教皇権の皇帝権に対する優越を目指すものであり、帝国教会政策が機能する鍵となる聖職叙任権を教会の権利とする運動でした
すなわち、叙任権闘争の始まりでした

グレゴリウスはハインリヒに対し、叙任権が皇帝ではなく教皇にあることを通達し、ハインリヒがこれに従わなかったため破門を通告します
神聖ローマの諸侯はこれを好機とばかりに皇帝に叛旗を翻し、ハインリヒは窮地に追い込まれます
しかし1077年にハインリヒが教皇に謝罪したことで破門解除が認められ(カノッサの屈辱)、態勢を立て直したはハインリヒは教皇に逆襲、1085年、グレゴリウスはローマを追われサレルノで客死します

一方のハインリヒも諸侯反乱には悩まされ続け、さらに2人の息子にも裏切られることとなり、1105年、息子ハインリヒ5世によって廃位され、翌年急死します
皇帝となったハインリヒ5世は叙任権闘争の解決を図り、ローマ教会と交渉を進めます
そして1122年9月23日、ヴォルムス協約が成立し、世俗的な権利を皇帝が掌握する代わりに、聖職叙任権は教皇が保持することとなり、グレゴリウスが始めた叙任権闘争が一応の解決をみることとなったのでした


本日は叙任権闘争の終結日です、おめでとうございます


参考文献
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年
・ハンス・K・シュルツェ、五十嵐修他訳『西欧中世史事2 皇帝と帝国』ミネルヴァ書房、2005年

295Republica de Venexia:2014/09/24(水) 01:27:55 ID:???
9月24日はムハンマドがメディナに移住した日です

ムハンマドは570年頃、メッカを支配するクライシュ族の有力支族、ハーシム家に生まれました
彼が生まれた当時既に父親は亡くなっており、母親も彼が6歳の時に亡くなり、孤児となってしまいます
後にコーランが孤児への慈善を推奨するのは、ムハンマドの生い立ちに由来するものといえます

孤児となったムハンマドは祖父アブドゥル=ムッタリブに保護され、祖父の死後はその息子のアブー=ターリブがムハンマドを保護しました
その後の彼は商人として至って平穏な日々を送りますが、610年、彼が40歳の頃にアッラーの啓示を受けます
ムハンマドはまず近親者に啓示の教え、すなわちイスラームを説き始めました
最初に妻のハディージャ、そして従兄弟のアリーや友人のアブー=バクルらが入信します

しかしクライシュ族全体としての反応は冷たいものでした
彼らは元々多神教を崇拝しており、一神教であるイスラームは祖先以来の宗教を否定するものであったからです
さらにクライシュ族内での主導権争いも絡み、ムハンマドは迫害を受けるようになりました
やがて妻のハディージャ、ムハンマドを保護していた伯父のアブー=ターリブが亡くなり、最大の支持者を失ったムハンマドはメッカを脱出します

そして622年9月24日、ムハンマドは信徒と共にメディナへと移住し、彼はここを拠点にイスラーム共同体を形成し、イスラーム国家として発展していくこととなるのでした


本日はヒジュラ(聖遷)の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・佐藤次高・鈴木董編『新書イスラームの世界史1 都市の文明イスラーム』講談社、1993年
・小杉泰『イスラームとは何か その宗教・社会・文化』講談社、1994年
・佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』中央公論新社、2008年

296Republica de Venexia:2014/09/25(木) 00:57:00 ID:???
9月25日はニコポリスの戦いが行われた日です

>>222で見たように、ムラト1世が暗殺された後スルタンとなったバヤジット1世はバルカン半島における征服活動を本格化させました
バヤジットは「雷帝」の異名を持つように、その行動は迅速果敢、次々とバルカン半島を攻め取っていきました

一方のキリスト教勢力はというと、十字軍最後の拠点アッコンを1291年に失ったものの、聖地奪回の希望を捨てず、十字軍運動を継続させていました
バルカン半島における十字軍運動で指導的役割を担ったのが中世の強国ハンガリーで、後に神聖ローマ皇帝となるジギスムントが国王となっており、キリスト教世界防衛を期していました

ハンガリーの重要性は、ビザンツ帝国がオスマン帝国に屈したことでさらに高まります
バルカン半島征服を進めるバヤジットに対しビザンツ帝国は防戦一方で、1391年、ビザンツ皇帝マヌエル2世はバヤジットに帝都コンスタンティノープルを包囲されるとオスマン帝国に対する融和策を打ち出し、バヤジットの軍事行動にビザンツ軍を率いて参戦することを約束、さらにコンスタンティノープルにイスラーム教徒居住区やイスラーム法廷を設置するなど、オスマン帝国への従属を余儀なくされたのでした

ここにおいてジギスムントはヨーロッパ各国に援軍要請を行います
これに応えたのがローマ教皇ボニファティウス9世で、彼はこのオスマン帝国に対する防戦戦を十字軍として布告します
>>288で見た通り、当時教皇庁はローマとアヴィニョンに分かれていましたが、そのアヴィニョン教皇のベネディクトゥス8世もフランスの十字軍士に贖宥を与えるなど、支援を行ないました
こうした活動の結果、ジギスムントの下にはベーメン、ポーランド、イタリア、フランス、スイス、イングランド、スコットランドなどから兵が集まり、オスマン帝国の拠点ニコポリスを包囲しました

決戦は1396年9月25日、ニコポリスを救援に到着したバヤジット率いるオスマン帝国軍へのフランス騎士軍への攻撃で始まりました
バヤジットはスルタン直属軍のイェ二チェリ歩兵軍を中心に前方に非正規軽騎兵、その周囲に正規騎兵を配置、さらに両翼にも小アジア・バルカン半島から徴収した騎兵を置いて迎え撃ちました
フランス騎士軍は正面から突撃し、オスマン帝国軍の軽騎兵を蹴散らしますが、バヤジットはイェ二チェリを後退させてフランス騎士軍を誘い込み、包囲殲滅します
残る十字軍団も壊滅しジギスムントは敗走、戦いはオスマン帝国の大勝に終わったのでした

この戦いの後、カイロでマムルーク朝によって保護されていたアッバース朝カリフは、バヤジットの勝利を讃え「スルタン」の称号を与えたとの伝承もあります
以後バヤジットは小アジア・バルカン半島での征服活動をさらに進めていくのでした


本日はニコポリス十字軍の命日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・八塚春児『十字軍という聖戦 キリスト教世界の解放のための戦い』日本放送出版協会、2008年

297Republica de Venexia:2014/09/26(金) 01:57:09 ID:???
9月26日はヴェネツィア共和国がパルテノン神殿を砲撃した日です

>>276で見たように、オスマン帝国はスレイマン1世の治世末期からその繁栄に陰りが見えていましたが、1571年のレパントの海戦における敗北後もすぐさま海軍を再建し、依然として脅威であり続けました
一方のヴェネツィア共和国はというと、レパントの海戦後にオスマン帝国と講和し、その間に地中海における制海権の回復に乗り出します
1613年から始まる対オーストリア戦争ではオーストリアが支援する海賊を討伐し、1619年の時点でアドリア海の制海権を再び握ることに成功します

しかし1645年、約70年の間保たれてきたオスマン帝国との平和が破れます
オスマン帝国がヴェネツィア共和国最重要の植民地、クレタに攻撃してきたのです
ヴェネツィアは各方面に援軍を要請し、自らも投入可能な全ての戦力をクレタに集結させ、徹底交戦の構えを取ります
しかしヨーロッパ諸国は互いに交戦状態であったため援軍は送れず、クレタ防衛戦はほぼヴェネツィア一国のみで続けられました
それでもクレタは15年間耐え、その間にフランスとスペインとの戦争が終わったため、クレタへの援軍が送られるようになります
しかし国力の限界を超える防衛戦によりヴェネツィアは疲弊し1669年、25年間の防衛戦の末ついにクレタは降伏しました

しかし>>280で取り上げたオスマン帝国の第二次ウィーン包囲によりヴェネツィアは反撃のチャンスを得ます
陸においてはオーストリアとポーランドがオスマン帝国に対し攻勢に出、海からはヴェネツィア海軍が沿岸地域を攻撃しました
このヴェネツィア海軍を率いるのが先のクレタ防衛戦の指揮官モロシーニで、彼は捲土重来とばかりにかつてヴェネツィアが支配していた拠点を次々と回復していきます
「ヴェネツィア共和国の2つの眼」モドン・コロンも奪還し、アルゴスやナウプリオンも攻略、1686年にはペロポネソス半島の旧ヴェネツィア拠点の全てを取り戻したのです
モロシーニはさらに進軍し、パトラス、レパント、コリントも征服し、1687年にはミストラ、スパルタ、アテネも陥としました
このアテネ攻略の1687年9月26日、オスマン帝国が弾薬庫としていたパルテノン神殿にモロシーニ艦隊が砲撃し、甚大な被害を被ったのでした

オスマン帝国との戦いは>>223で見たように1699年のカルロヴィッツ条約でいったん終結し、モロシーニによって奪還された地域の領有が認められるのでした
しかしこれらの領土を維持する国力は既にヴェネツィアには存在せず、反撃に出たオスマン帝国によって再び征服され、1718年のパッサロヴィッツ条約で割譲を余儀なくされるのでした
ヴェネツィアが死力を振り絞ってオスマン帝国に対抗したクレタ防衛戦、そしてモロシーニによるオスマン帝国に対する攻勢は、ヴェネツィア共和国最後の輝きとなったのでした


本日はパルテノン神殿の崩落日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・ジャン・モリス、椋田直子訳『ヴェネツィア帝国への旅』東京書籍、2001年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』岩波書店、2004年
・アルヴィーゼ・ゾルジ、金原由紀子他訳『ヴェネツィア歴史図鑑 都市・共和国・帝国 697〜1797年』東洋書林、2005年

298Republica de Venexia:2014/09/27(土) 01:16:49 ID:???
9月27日はオスマン帝国がウィーンを包囲した日です

オスマン帝国のスレイマン1世は>>264で見たように、1526年のモハーチの戦いでハンガリーを破り、その後ハンガリーの地はオスマン帝国とハプスブルク家との争奪戦の舞台となります
目下の問題はモハーチの戦いで戦死したハンガリー王ラヨシュ2世の後継者選出で、ハンガリー貴族の多数派はトランシルヴァニア侯サボヤイ=ヤノシュを国王に選出しましたが、神聖ローマ皇帝カール5世はハプスブルク家のオーストリア大公フェルディナントを推し、国王に即位させます
サボヤイ=ヤノシュは追放され、オスマン帝国を頼るのでした

また、フランス王国と神聖ローマ帝国との関係もオスマン帝国によるオーストリア攻撃のきっかけとなりました
カール5世が神聖ローマ皇帝となった際の皇帝選挙で帝位を争って敗れたフランス王フランソワ1世が、その後もカールと抗争を続けていたのです
1525年のパヴィアの戦いに敗れ劣勢が明白となったフランソワ1世はオスマン帝国を頼り、同盟を結んだのです

もともと西方への進出を目論んでいたスレイマンはこれらの要請を受け入れ、1529年5月、イスタンブールを発ちオーストリアへと進軍を開始しました
7月にはベオグラードに到着し、ハンガリー王フェルディナントを破りハンガリーの再征服を進め、9月にはオーストリアへと侵入します

そして1529年9月27日、スレイマンの軍勢がハプスブルク家の都ウィーンを包囲します
しかしウィーンの守りは堅く、長距離の輸送が困難であったため大砲が不足していたオスマン帝国軍は攻めあぐね、10月半ばにはウィーンの早い冬が訪れ、包囲が困難なものとなりました
10月14日、スレイマンは包囲を解き、撤退することとなります

オスマン帝国によるウィーンの包囲は、1453年のコンスタンティノープル陥落以来の衝撃を与えました
コンスタンティノープルのそれは西欧にとって遠い東方での出来事であったのに対し、ウィーンは神聖ローマ帝国を統べるハプスブルク家の都であり、その衝撃は絶大なものでした
折しも西欧ではルターらによる宗教改革が進んでおり、神聖ローマ皇帝カールもその対応に苦慮していました
しかしオスマン帝国に対抗するためにはルター派の協力も不可欠であり、彼らに対し妥協せざるを得ない状況となったのです
オスマン帝国に対して完全に優勢となるのは1699年カルロヴィッツ条約締結であり、その時が訪れるまでオスマン帝国は西欧に脅威を与え続けることになるのでした


本日は第一次ウィーン包囲の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・鈴木董『オスマン帝国 イスラム帝国の「柔らかい専制」』講談社、1992年
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社、2003年

299Republica de Venexia:2014/09/28(日) 00:03:46 ID:???
9月28日

9月28日はノルマンディー公ウィリアムがイングランドに侵攻した日です

イングランドでは5世紀頃からゲルマン人の一派アングロ=サクソン人が定住し始め、9世紀にはウェセックス王エグバートの下で統一国家が形成されました
しかしエグバートの治世末期からヴァイキングであるデーン人の侵入を受け、次第に定着していきます
このデーン人に対し、アングロ=サクソン勢力を結集して撃退したのが、エグバートの孫アルフレッド大王でした
しかしアルフレッドもデーン人を完全に駆逐することはできず、彼の死後再びデーン人の侵入は激しさを増していきます

11世紀にはエゼルレッド2世がノルマンディー公国と連携してデーン人に対抗するものの、彼の死後デーン人の王子クヌートが即位し、デーン朝が成立します
しかしデーン朝はクヌートの死後急速に衰退し、エゼルレッド2世の息子でノルマンディーに亡命していたエドワード懺悔王が即位しました
ところがエドワードは男子がいないまま病没し、その後継者を巡って争いが勃発します

次王の候補となったのはエドワードの義弟ウェセックス伯ハロルド、ノルウェー王ハーラル、そしてノルマンディー公ウィリアムでした
1066年4月、イングランド王として即位したのはウェセックス伯ハロルドでした
しかしこれに対しノルマンディー公ウィリアムが反発します
というのも、彼はエドワードから王位継承の約束を得ており、またウェセックス伯ハロルドがノルマンディー公ウィリアムに服従する誓いを行ったとされるからでした
またノルウェー王ハーラルもウェセックス伯ハロルドの即位を不満に思い、王位継承を狙っていました

1066年9月、まずノルウェー王ハーラルがイングランドに上陸し、ヨークを占領しますが、9月25日、スタンフォード・ブリッジの戦いでハロルド2世(ウェセックス伯ハロルド)に敗れ戦死します
続いて9月28日、ノルマンディー公ウィリアムがイングランド南部のペヴェンジに上陸しました
これを受けハロルドはヨークから南下し、ヘースティングズ近郊のセンラックの丘に布陣します
10月14日、ノルマンディー公ウィリアムとハロルド2世の軍が激突し、丸一日にわたる戦闘の末ハロルドは戦死するのでした
このヘースティングズの戦いに勝利したウィリアムはイングランド南東部を制圧してロンドンに入り、イングランド王ウィリアム1世征服王として即位、ノルマン朝を開くのでした


本日はノルマン=コンクェストの誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・川北稔編『世界各国史11 イギリス史』山川出版社、1998年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争まで』創元社、2012年

300Republica de Venexia:2014/09/29(月) 01:19:28 ID:???
9月29日はオーレの戦いが行われた日です

百年戦争が始まってすぐの1341年、ブルターニュ公領を支配していたブルターニュ公ジャン3世が嫡子を残さずに病死したことで、ブルターニュ継承問題が発生しました
公位継承権を巡って争ったうちの1人がジャン3世の異母弟にあたるモンフォール伯ジャンで、これをイングランドが支援します
一方がジャン3世の姪にあたるパンティエーヴル女伯ジャンヌで、彼女の夫がフランス王フィリップ6世の甥であるブロワ伯シャルルであり、こちらをフランスが支援することとなりました

モンフォール伯ジャンはブルターニュ公領の首都であるナントを占拠しますが、これに対しフィリップ6世は長子のノルマンディー公ジャンの軍勢を派遣し、ここにブルターニュ継承戦争が勃発しました
フランス軍はナントを奪還し、さらにモンフォール伯ジャンを捕虜としたことでブロワ伯シャルルの公位継承が確定したと判断、軍を引き揚げました
しかしモンフォール伯ジャンに代わってモンフォール伯妃ジャンヌが指揮を取り、ブロワ伯シャルルはこの対応に苦慮します
そうしているうちにイングランド王エドワード3世が介入、ローマ教皇の仲裁により停戦が成立しました

その後モンフォール伯ジャンはイングランドへと逃亡、ブロワ伯シャルルはラ・ロシュ=デリアンの戦いでイングランドの捕虜となり、双方の当主がいないまま戦争が継続されることとなります
やがてモンフォール伯ジャンの息子ジャン4世が成人しブルターニュ公となりますが、ブロワ伯シャルルも釈放されたことでこちらもブルターニュ公を名乗り、ブルターニュ公領を分割するという条件で和平交渉が進められましたが決裂、ブルターニュ継承戦争が再開されました

そして1364年9月29日、イングランド軍が支援するモンフォール伯ジャン4世とフランス軍が支援するブロワ伯シャルルがオーレにて激突、この戦いでフランス軍は敗れ、ブロワ伯シャルルは戦死します
ブロワ伯シャルルの妻パンティエーヴル女伯ジャンヌも公位継承権を放棄し、ジャン4世が唯一のブルターニュ公となったのでした


本日はブルターニュ継承戦争終結の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・青山吉信編『世界歴史大系イギリス史1 先史〜中世』山川出版社、1991年
・佐藤賢一『英仏百年戦争』集英社、2003年
・朝治啓三・渡辺節夫・加藤玄『中世英仏関係史 1066-1500 ノルマン征服から百年戦争終結まで』創元社、2012年

301Republica de Venexia:2014/09/30(火) 01:06:24 ID:???
9月30日はビスマルクが「鉄血演説」を行った日です

>>114で見たように、1848年に開かれドイツ統一が議論されたフランクフルト国民議会では、大ドイツ主義・小ドイツ主義・シュヴァルツェンベルク構想が打ち出されましたが、このうちまず大ドイツ主義・小ドイツ主義が挫折して議会は活動を停止します
プロイセンはその後小ドイツ的な統合を目指しザクセンやハノーファーなど27邦国の同意によってエアフルト連合を結成しました
しかしバイエルンがこれに反発し、さらにオーストリアがシュヴァルツェンベルク構想を打ち出して対抗すします
オーストリアはロシアの支持も取り付け、これによりエアフルト連合は放棄を余儀なくされ、やがてシュヴァルツェンベルク構想も挫折し、ドイツでは旧体制が復活しドイツ統一は先延ばしとなりました

この後ドイツ連邦内ではプロイセンとオーストリアの覇権争いが繰り広げられ、プロイセンはドイツ連邦議会のプロイセン代表となったビスマルク指揮の下、オーストリアの優位を覆し対等の地位を得ることに尽力します
一方のオーストリアは1854年のクリミア戦争で役割を果たせず、1859年のイタリア統一戦争に敗れて領土を割譲するなど、その威信は低下していきました

イタリアやフランスと結びオーストリアを牽制し徐々に影響力を増大させていったプロイセンは1861年、新国王にヴィルヘルム1世が即位し、軍制改革を進めましたが、プロイセン議会は軍備拡張の予算案を否決します
この状況を打開するため、ヴィルヘルムは1862年9月にビスマルクを首相に任命します

そして1862年9月30日、ビスマルクは予算委員会において
「ドイツが注目しているのはプロイセンの力なのである ─ 現下の大いなる諸問題が決せられるのは、演説や多数決によってではなくて ─ これこそが1848年と1849年の大きな間違いだったのだが ─ 鉄と血によってなのである」
という、いわゆる「鉄血演説」を行い、富国強兵を強行していきます
その後のプロイセンは>>198で見たように普墺戦争でオーストリアを破り、>>221で取り上げた普仏戦争でも勝利しドイツ統一を達成するのでした


本日は「鉄血政策」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・谷川稔他『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』中央公論新社、2009年
・大内宏一『ビスマルク ドイツ帝国の建国者』山川出版社、2013年

302Republica de Venexia:2014/10/01(水) 01:14:02 ID:???
10月1日はガウガメラの戦いが行われた日です

>>262などで見てきたように、ギリシアの諸ポリスは連合してアケメネス朝を撃退し、ペルシア戦争に勝利しましたが、アケメネス朝は依然として影響力を保持し、度々ギリシアに干渉しました
アケメネス朝はギリシア諸ポリスの対立を利用し、その共倒れを狙います
スパルタとアテネが覇権を争ったペロポネソス戦争ではスパルタを援助し、戦争はスパルタが勝利しますが、その後に起こったコリントス戦争では当初アテネを支援しアテネが一時は優位を取り戻します
しかし再びスパルタを支援し、アテネを圧迫して講和を結ばせ、アンタルキダスの和約が成立します
この和約はペルシア王によって発布され「大王の和約」と呼ばれるように、ギリシアにおけるアケメネス朝の存在は大きなものだったのです

やがて前4世紀頃になると北方のマケドニアが国王フィリッポス2世の下で強大化し、前338年、カイロネイアの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破りギリシアの覇権を握ります
ギリシアを統一したフィリッポスは続けてアケメネス朝を打倒すべく遠征の準備に取り掛かりましたが、その半ばの前336年に暗殺されてしまいます

フィリッポスの後を継いだのがアレクサンドロス3世(大王)で、彼は前334年、東方遠征に出発しグラニコス川でアケメネス朝の小アジア駐屯軍を破ります
ついで前333年にイッソスの戦いでダレイオス3世率いるアケメネス朝軍本隊を破り、エジプトへと進軍しました
アレクサンドリアを建設するなどエジプトでの支配を固めたアレクサンドロスはペルシアへの進軍を再開します

そして前331年10月1日、アレクサンドロスはティグリス川上流のガウガメラにおいて再びダレイオス3世率いるアケメネス朝軍を破りペルシアへと侵入、バビロンやスサ、そして都ペルセポリスを占領・略奪しペルシアを制圧しました
ダレイオスはガウガメラで敗れた後カスピ海方面へと逃走していましたが、前330年に側近ベッソスによって暗殺され、ここにアケメネス朝ペルシアは滅亡したのでした


本日はアレクサンドロス大王の決定的勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・森谷公俊『興亡の世界史1 アレクサンドロスの征服と神話』講談社、2007年
・桜井万里子・本村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、2010年
・澤田典子『世界史リブレット人5 アレクサンドロス大王 ─ 今に生き続ける「偉大なる王」』山川出版社、2013年

303Republica de Venexia:2014/10/02(木) 00:57:22 ID:???
10月2日はサラディンによってイェルサレムが陥落した日です

>>199で見た、1187年7月4日のヒッティンの戦いに勝利したアイユーブ朝スルタンのサラーフッディーン(サラディン)は、ほぼ無傷で進軍することができました
一方の十字軍はイェルサレム王ギー=ド=リュジニャンやアンティオキア公ルノー=ド=シャティヨン、テンプル騎士団総長、聖ヨハネ騎士団総長らが捕虜となり、軍事力をほぼ失うこととなりました

そのためサラディンの征服活動は大きな抵抗に遭うことなく進められ、1189年までにトリポリ以南の港市はティルスを除いて全て奪還され、内陸においてもティベリアス以南がサラディンによって占領されました

サラディンは1189年9月20日に聖地イェルサレムの包囲に取り掛かり、守将であるイェルサレム王代理バリアン=ディプランに無条件降伏を突き付けました
この時の内容は、第1回十字軍の際に十字軍がイェルサレム入城後に行った残虐行為の報復ともいえる過激な内容でしたが、これに対し守将バリアンは徹底抗戦の構えを見せたためサラディンは条件を和らげ、身代金と引き換えに住民の安全を保証することとなりました
そして1189年10月2日、交渉が妥結されイェルサレムの十字軍は降伏、サラディンの入城が果たされたのです

このイェルサレム奪還は十字軍における転機となりました
まずサラディンによって十字軍国家・諸都市の大半が征服されたことで、十字軍の経済力・軍事力・政治権力が低下し、当地の十字軍勢力のみでは十字軍活動が困難となりました
また十字軍国家の防衛に大きな役割を果たしていたテンプル騎士団・聖ヨハネ騎士団の勢力が大きく削減され、十字軍における活動が限定的となりました
さらに第1回十字軍以前とは異なり、聖地におけるイスラーム勢力は統一が達成され、単なる軍事力だけでは対抗が困難となり、政略・外交・謀略などが必要となったのです
そして聖地ではキリスト教徒と異教徒・原住民との交流が深まり、いわゆる「聖戦」の意識が薄れ、共存共栄の思想や寛容主義が生まれ始めたのもこの時期でした

これ以後の十字軍は、主に西欧の皇帝や国王が率いるものへと変化し、>>266で見たようにイスラームとの交渉も行われるようになったのでした


本日はサラディンによる聖地奪還の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・橋口倫介『十字軍騎士団』講談社、1994年
・アミン・マアルーフ、牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』筑摩書房、2001年
・エリザベス・ハラム編、川成洋他訳『十字軍大全』東洋書林、2006年

304Republica de Venexia:2014/10/03(金) 00:45:12 ID:???
10月3日は東西ドイツが統一された日です

>>114のフランクフルト国民議会で挫折したドイツ統一は、>>301で見たようにビスマルク主導のプロイセン主導で進められ、>>221の普仏戦争中におけるドイツ帝国の誕生によって達成されました

こうしてヨーロッパの中央部に強力な国家が出現しましたが、その存在は当然列強に警戒されることとなります
ビスマルクは巧みな外交を行うことでドイツの孤立化を回避しましたが、ヴィルヘルム2世がビスマルクを失脚させ親政を開始し軍備拡張を進めると各国との関係が悪化、>>271で見たように第一次世界大戦へと突入します

第一次世界大戦に敗れたドイツは帝政が崩壊し、多額の賠償金支払いと経済破綻に苦しみます
また政界をリードする政党が存在をせず、議会が不安定さを露呈したこともあり、ヒトラー率いるナチスの台頭を許しました
ヒトラーはドイツの経済を再建、軍備拡張を進めドイツの復興を実現しましたが、それは第一次世界大戦後の国際秩序を破ることでもあり、再びドイツは孤立への道を辿ります

ヒトラーによって引き起こされた第二次世界大戦でドイツは再び敗北し、ドイツは東部がソ連の、西部がアメリカ・イギリス・フランスの統治下に置かれます
これらはそれぞれドイツ民主共和国(東ドイツ)、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立によって主権を回復しますが、ベルリンの壁が築かれるなど東西が分断された状況となります

やがて西ドイツでは東方政策が打ち出され、東西ドイツ間の経済交流が実現し、双方の関係は正常化へと動いていきます
さらに1989年に起こった東欧革命によって東欧諸国で共産党独裁が打倒され、民主化の動きが進展します
ドイツでもこの動きを受け、同年11月にはベルリンの壁が崩壊するという象徴的な事件が起こります
そして1990年10月3日、西ドイツが東ドイツを編入するという形で、再び統一ドイツが実現するのでした


本日はドイツ再統一の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・木村靖二編『世界各国史13 ドイツ史』山川出版社、2001年
・坂井栄八郎『ドイツ史10講』岩波書店、2003年
・石田勇治『図説ドイツの歴史』河出書房新社、2007年

305Republica de Venexia:2014/10/04(土) 00:48:53 ID:???
10月4日はヴィットストックの戦いが行われた日です

>>285で見たように、三十年戦争はスウェーデン王グスタフ=アドルフの参戦により初めてプロテスタント側が勝利し、快進撃を続けました
しかし>>149にあるようにグスタフ=アドルフはリュッツェンの戦いで戦死し、その後皇帝軍はヴァレンシュタイン暗殺によりその私兵を皇帝軍直属とし反撃、ネルトリンゲンの戦いでプロテスタント軍に大勝し、プラハ条約によって一時的に帝国を統一しました

しかしスウェーデンの宰相オクセンシェルナはフランスの宰相リシュリューと会談し、それまでハイルブロン同盟に資金援助を行うなど間接的に三十年戦争に関与していたフランスを、直接参戦させることを目論みます
フランスにとっても北イタリアからネーデルラントを結ぶ、ライン川沿いのスペイン街道は脅威であり、隣国であるドイツとスペインを支配するハプスブルク家に対抗するため、参戦を決意します

1635年4月、スウェーデンとフランスは1631年に結んだベールヴァルデ条約を更新し、同年5月にはフランスはスペインに宣戦布告しました
一方のスウェーデン軍はバネールを指揮官に、ネルトリンゲンでの敗戦後ポンメルンを死守し、スウェーデン本国との連絡を維持していました
反ハプスブルク同盟の反撃を阻止するため、皇帝軍はここを奪取すべく進軍します

そして1636年10月4日、ヴィットストックにおいてスウェーデン軍と皇帝軍が激突します
スウェーデン軍は劣勢ながらもバネール、そして後にスウェーデン軍元帥となり輝かしい戦果を挙げることになるトルステンソンの指揮により皇帝軍を撃破します
この勝利によりオクセンシェルナはスウェーデンに帰還し、本国と遠征軍との連携をより強固なものとすることに成功、フランス軍もかつてスウェーデン軍に属していた傭兵隊長ベルンハルトが攻勢に転じ、さらにネーデルラントでも皇帝軍のブレダ要塞を奪うなど、皇帝軍は劣勢に立たされていくのでした


本日は反ハプスブルク同盟攻勢の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・菊池良生『戦うハプスブルグ家 近代の序章としての三十年戦争』講談社、1995年
・成瀬治・山田欣吾・木村靖二『世界歴史大系ドイツ史1 先史〜1648年』山川出版社、1997年
・C.ヴェロニカ・ウェッジウッド、瀬原義生訳『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年

306Republica de Venexia:2014/10/05(日) 01:16:34 ID:???
10月5日はヘラクレイオスが東ローマ皇帝に即位した日です

>>235で見たように東ローマ帝国はユスティニアヌス1世の征服事業による、名実ともに「ローマ帝国」の姿を取り戻しました
しかしその帝国が彼の死後急速に衰退し、ヘラクレイオス時代には新興のイスラーム勢力に敗れ劣勢に陥ったのは>>253で見た通りです

このヘラクレイオス時代は、ササン朝やイスラームとの勢力関係のみならず、東ローマ帝国内部にも変化が起こった時代でした
まず、古代ローマ帝国以来の伝統である「パンとサーカス」が廃止されます
多数の観客を集め競技が開催されていた競馬場は寂れ、公衆浴場や劇場も同様の衰退を見せていました
穀物の配給もすでにユスティニアヌス時代から切り詰められていましたが、穀倉地帯のエジプトを失ったことで618年、ヘラクレイオスの勅令によって廃止されたのです

また、帝国の公用語が古代ローマ帝国で使われていたラテン語に代わり、ヘラクレイオスによってギリシア語となりました
皇帝の称号もギリシア語の「バシレウス」となり、ここにも古代ローマ帝国との違いが見られます

そして軍管区制(テマ制)の採用も東ローマ帝国の変容を示しています
ヘラクレイオスの時代までは、東ローマ帝国の領土は古代ローマ帝国と同じく属州に分けられ、行政権のみを持つ総督が統治していました
ところがイスラーム勢力の侵入により、新たに軍管区制が採られます
イスラームの侵入を受け、シリア軍団・アルメニア軍団は小アジアに撤退し、そこで防衛体制を築きました
さらにトラキア軍団・皇帝直属軍も防衛に動員され、その期間が長期にわたったため、そのまま小アジアに定着し軍管区が成立していったのです
ヘラクレイオスはこの各軍団の司令長官に行政権を与え、軍事と行政の双方を持つ軍管区制が誕生したのです

このようにヘラクレイオス時代の東ローマ帝国は古代ローマ帝国と相違が随所に見られ、新しい国家へと変容していったのでした


本日は「ビザンツ帝国」の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・ゲオルク・オストロゴルスキー、和田廣訳『ビザンツ帝国史』恒文社、2001年
・歴史学研究会編『幻影のローマ ─ “伝統"の継承とイメージの変容 ─ 』青木書店、2006年
・井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年

307Republica de Venexia:2014/10/06(月) 00:34:16 ID:???
10月6日はオーストリア=ハンガリーがボスニア・ヘルツェゴビナを併合した日です

これまで>>225などで見てきたようにオスマン帝国は第二次ウィーン包囲失敗の後衰退が決定的となり、バルカン半島のオスマン帝国領はオーストリアやロシアによって奪われていきました
そのなかでオスマン帝国からの独立運動も盛んとなり、>>97のルーマニア、同時期にセルビア、>>293でブルガリアが独立するなど、バルカン諸国は次々と独立を達成していきます

なかでもセルビアはセルビア人の統一国家建設を目指し、勢力拡大を目論んでいました
>>69で見たセルビア帝国の領域復活も視野に入れたこの運動は大セルビア主義と呼ばれ、オーストリアが主導するパン=ゲルマン主義、ロシアが主導する大スラヴ主義と衝突するようになっていきます

このセルビアとオーストリアとが激しく対立したのがオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合でした
>>225で取り上げた青年トルコ革命によりオスマン帝国が動揺すると、その機に乗じてブルガリアが独立、ギリシアはクレタ島を編入します

そして1908年10月6日、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのです
セルビア人も多く在住するボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリアに併合されたことは大セルビア主義を掲げるセルビアを憤慨させ、オーストリアとの対立が決定的となります
セルビアには同じくオーストリアと対立するオスマン帝国・フランス・ロシアが加担することとなり、バルカン半島における列強の強調関係は完全に崩壊、>>191で見た第一次世界大戦勃発へと進んでいくのでした


本日はボスニア危機の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・柴宣弘『世界各国史18 バルカン史』山川出版社、1998年
・林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
・木村靖二『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論新社、2009年

308Republica de Venexia:2014/10/07(火) 00:35:51 ID:???
10月7日はレパントの海戦が行われた日です

第4回十字軍以降確立したヴェネツィア共和国の地中海における覇権は、15世紀半ばになると揺らぎ始めました
すでに15世紀初頭からヴェネツィアと抗争し、海上では劣勢ながらも陸上において優位に立っていたオスマン帝国は、>>146のメフメト2世によるコンスタンティノープル征服後、本格的に海上進出に乗り出しました
オスマン帝国が新設した大艦隊との1463〜79年の戦争の末、ヴェネツィアは重要拠点ネグロポンテを失い、オスマン帝国領での交易するのに貢租を支払うことに同意し、東地中海における権威・特権が後退したのです

それでも、ヴェネツィアは1489年にキプロスを獲得し、損失を補って余りある利益を得ることに成功します
再びオスマン帝国との戦争が始まり、1503年までにモドンとコロンを失いますが、これも南イオニア諸島、ケファロニア、ザンテの獲得により補いました
しかしこの頃には地中海の戦いはより大規模なものとなり、大国同士の抗争が中心となっていきました
>>298で見たように、オスマン帝国はフランスと同盟し、フランスと対立するスペインは、同じくフランスに対抗していたイタリア初勢力と結びます
その結果、1530年代までには、地中海における対立はオスマン帝国・フランス同盟と、スペイン・イタリア同盟のいずれかに結集し、ヴェネツィアはこのどちらかについて生き延びるという状況となったのです

1538年にはプレヴェザの海戦でオスマン帝国が勝利し、さらに1570年にオスマン帝国はキプロスを攻撃、1年以上にわたる包囲戦の末これを征服します
これを奪回するためにヴェネツィアがスペインに援助を求め、連合艦隊を編成してオスマン帝国艦隊に挑んだのがレパントの海戦でした
1571年10月7日に行われたこの海戦で連合艦隊はプレヴェザの雪辱を果たしますが、オスマン帝国はすぐさま艦隊を再編成しキプロスに進出させ、スペインはヴェネツィアの利益に貢献することに消極的だったため、ヴェネツィアは1573年にキプロスをオスマン帝国に明け渡すことを決定します
このようにヴェネツィア共和国はもはや単独ではオスマン帝国などの大国に対抗できなくなっていったのです

しかしレパントでの勝利が決定的な役割を持てなかったとはいえ、ヨーロッパにおいては熱狂的に歓迎され、このオスマン帝国に対する勝利は大いに喧伝されることとなったのでした


本日はオスマン帝国に対する勝利の誕生日です、おめでとうございます


参考文献
・新井政美『オスマンvsヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか』講談社、2002年
・W.H.マクニール、清水廣一郎訳『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797』岩波書店、2004年
・アルヴィーゼ・ゾルジ、金原由紀子他訳『ヴェネツィア歴史図鑑 都市・共和国・帝国 697〜1797年』東洋書林、2005年

309Republica de Venexia:2014/10/08(水) 00:42:08 ID:???
10月8日はカルケドン公会議が開かれた日です

>>116で取り上げたニケーア公会議で見られるように、キリスト教会はイエス=キリストの神性に関する論争を繰り広げていました
325年のニケーア公会議ではアリウス派が異端となり、431年のエフェソス公会議ではニケーア信条の正統性を改めて認め、ネストリウス派を異端としました

ネストリウス派は、キリストの位格には神格と人格という2つが分離して存在していると主張しましたが、これに対抗したのが単性説でした
単性説ではキリストは単一の性のみを有すると主張されましたが、これもキリスト教会によって否定されます
ローマ教皇はキリストの位格は1つのみであり、その1つの位格の中に神性と人性が存在しているという両性説の立場を示し、ネストリウス派と単性説の双方を否定したのです

451年10月8日に開かれ、11月1日まで続けられたカルケドン公会議において、教皇は改めてネストリウス派を排斥、単性説も異端として排斥されることとなったのでした


本日は異端単性説の誕生日です、お悔やみ申し上げます


参考文献
・甚野尚志『中世の異端者たち』山川出版社、1996年
・クラウス・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社、2000年
・小田内隆『異端者たちの中世ヨーロッパ』日本放送出版協会、2010年


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