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44復興G:2013/07/23(火) 06:03:44 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十四

 今まで、神は解らない、解らない、と言っていた人が

  「なぜ神が解らないかが解ったんです!」

 と言って来た。その人は女性であったが、目には涙を浮かべていた。

  「神と一度もはなれたことがなかったからですね」

 と言われるのであった。私はとても感銘を憶え、その後、時々この話を皆さんにお話しさせて頂いている。

 今朝の早朝行事の時、

  「神は澄み切りであられるから解らなかったんですね」

 と言っているようなその方の表情が浮かんだのであった。

 離れたとか離れていないとか、また、澄んでいるとか澄んでいないとか、という言葉は、現象界のものをもとにした表現であり、この表現そのものも現象であり、しかし、その言葉自体が 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

  「猫の子は猫であり、牛の子は牛であり、犬の子は犬であるから、神の子は神なのである」

 という表現をするのであるが、しかし、まことには、猫の子は猫でなくとも、牛の子は牛でなくとも、犬の子は犬でなくとも、神の子は神なのである。神の子人間は、猫や牛や犬の真似をする必要はないのである。

 神の子人間は、現象の真似をする必要はないのである。

 神癒祈願を申し込んで来た人の中に、自分の娘の大学合格祈願に、 「首席合格」 と書かれており、よく見ると、私自身の娘の受ける大学と同じ大学であった。そして私自身も娘の 「首席合格」 という願いを持っているのであった。

 このような時の 「願い」 とそれに対する 「祈り」 というものは、果たしてゆるされるのであろうか。既にそれは實相において実現しているからこそ願いが起こって来たのである、ということもまた私の中から湧き上がって来る想いでもあった。

 現象的、あらわれから見れば、首席は一人であり、試合においても優勝は一つである。

 しかし、實相においては、首席は無限にあり、優勝も無限にあるのである。妙々の、一即多、多即一なる一切が無限にそなわり、満足されているのが實相の世界なのである。

 實相から出て来た願いを、現象に合わせて、願いを下げてはならない、ということである。現象の真似をする必要はないのであった。そう気がついて、私は両方の願いを祈ることにしたのであった。

 そうしたら、その 『祈り』 の結果はどうなるのであるか。それはこちらが聞きたいのであって、それから先が奇蹟ということになるのである。

 奇蹟とは何か。それは自分が全くそれに関して必要でなかった、ということの度合いが奇蹟的な度合いなのである。それ故、奇蹟は生かされている感謝になるのである。感謝の起こり得る度合いが奇蹟の度合いであるのである。

 自分が要らない度合いとは、既に一切が現成、充満され、完成されている、成就そのものである實相の妙有を観ずることにあるのである。實相が妙々の奇蹟そのものなのである。

 實相は当たり前の、神そのままであるから、奇蹟としては特に言う必要はないのである。実現しないことが却って奇蹟的なことと言われているのである。神が成就そのものであり、實相が成就そのものであり、自分が要らないことにおいて、奇蹟そのものなのである。

 地上天国建設の願いもまた、現象に合わせた、現象のあり方の真似をした姿ではじまっているのではないのである。 (1998.8.3)

45復興G:2013/07/24(水) 07:51:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十五

 今日、よく見ると、入龍宮幽斎殿に於ける神想観の唱える言葉の 無の門関 は “無の門関” になっていると想っていたが、 「“無” の門関」 となって 無 に “ ” がついていた。

  「無の門関は透過すべし」 とよく言われる場合は、無の門関として、あくまでも通過すべきものとして受け取ればよいのであるが、 「無より一切を生ず」 とか 「無一物中無尽蔵」 ということになって来ると、この “無” は通過すべきものではなく、行きつくべき堂奥または、一切が発して来る本源とでも言うべきものであると拝察されて来るのである。

 この場合の “無” は、有に対する相対の無ではなく、絶対の無、一切がそこより発生する、一切がそこに巻き納められているところの “無” であると言われているのである。 “絶対無” あるいは、“真空妙有” の “真空” にあたる言葉なのである。

 この絶対無は、龍宮さえも 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りの、よろこびなる天照大御神なるものの輝きを輝くところの一切生み出しの本源なのである。

 一切の元である 「如(にょ)」 なるものも 「口」 が書かれてあり、創造の本源なる 「龍宮」 の 「宮」 も、口が二つ連ねてあって、これは、真空なること、絶対無なることを表わしていると想われるのである。

 大聖師谷口雅春先生のご揮毫に 「自性空(じしょうくう)」 というのがあるが、自性なる空とは、自分みずからが 「私は無いのです」 そのものなること、即ちみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびそのものであることなのであり、この言葉、文字そのものも 「私は無いのです」 との、消え切りの澄み切りなのである。實相の世界が 「無限の歓喜の海」 であるとは、このみずからの消え切りの、澄み切りの 『無限のよろこびの海』 であることなのである。

 宇宙の大神であるイザナギの大神か、光明遍照の實相の世界において、浄(勢<きよ>)めのおはたらきをされている、そのはたらきが住吉の大神であり、その住吉の大神の霊光燦然として全宇宙を引きつつみ、全宇宙に流れ入り、宇宙そのものとなり給うているのである。そして、その全宇宙が、みずから消え切りの澄み切りの、よろこびなる天照大御神そのものであり給うのである。それ故、イザナギの大神とひとつなるものであり給うのである。そのすがたが、 「光明思念の歌」 となって、

  「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照(いてら)し宇宙(くに)静かなり」

 となっているのである。

  「静かなり」 とは、あるべきものがあるべき姿にあることであり、宇宙=天照大御神は、消え切りの澄み切りのそのままに、無限の創造をしている、あるべき姿にあることを意味しているのである。

 例えば、心臓は静かなる時が一番大活躍をしているのであり、音をたてて動悸が打っている時は、異常なる心臓であって、異常なる心臓は本来の心臓ではないのであって、本来のはたらきをしていないのである。

 それ故 「宇宙(くに)静かなり」 は何の創造もしない、静寂な、死滅した、静止の意味ではないのである。 「私は無いのです」 との無限の調和とよろこびなる創造そのものの宇宙の姿、天照大御神そのものなのである。

 これは。無の門関を通過した “無” そ のもの、“絶対無” の消息なのである。(1998.8.4)

46復興G:2013/07/25(木) 07:24:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十六

 故藤原敏之先生の話によると、大聖師谷口雅春先生のご講習を二回目に、尾道の道場で受けられた時のことであるが、その時は、谷口輝子先生もご一緒で、椅子に坐っておられる輝子先生のお姿を見ただけで泣けて泣けて、涙が滂沱と流れるのをどうしようもなかったそうである。

 やがて、輝子先生が先ず演壇に立たれて、前講のようにお話され、日常の大聖師のお姿を讃えて讃えてお話しされて話を終えられたのである。

 その後、すぐに大聖師が演壇に立たれたかと思うと、いきなりマイクを両手でつかんで

  「僕はそんな立派な人間じゃないんだー!!」

 と言って号泣されたのである。

 「人間で、自分の今までやって来たことによって、これでよいと言える人が果たしているでしょうかッ」

 と言われてまたお泣きになったそうである。

 それで尊師は、その日のご講習はとりやめにされたかというと、そうではないのであって、何とそのお姿を想うとき、輝きに満ちていられることであろう。何十年たっても、藤原先生の中ではその尊師のお姿はますます輝きを増しつつ、その日のご講演が想い出され、甦るのを感じていられるようであった。

 私は吉田國太郎先生に、十八歳の時に本部で個人指導を受けたことがあったが、革表紙の 『生命の實相』 を、まるで輝く宝物を持つように、抱きかかえるようにして個人指導室に入って来られた。しばらくして、

  「本当に生長の家やりたいんだったら、魂の底からすべてをぶちまけられる先生を一人でいいからつくりなさいよ」

 と言って下さったのであった。

 生長の家では、大聖師の方が先ず、

  「私は、心を自分の力で、改心してからでないと救われないのだったら、私は到底救われない。改心しないままで救って下さる神が、私は欲しいのです」

 と、人類の心を代表して、ぶちまけられているのである。

 そして、その神を発見されたよろこびが、

  「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)……」
 という感謝の歌となったのである。

 そして、荘厳きわまりなき、ご臨終の際の

 「迷いなし、罪なし、病なし。これが生長の家の根本真理であります……」

 というお言葉となったのである。

 浄心行において、心の底の底なるものをぶちまける、書いて消すといっても、この大聖師の言われたほどにまで、はっきりとぶちまけた人はあるであろうか。

 吉田先生もおそらく、尊師谷口雅春先生にいのちの底からすべてをぶちまけて、そして、そっくりそのまま受けとめていただけた有り難さというものを昧わった弟子の一人であったのであろう。

 尊師もまた、終戦の直前に、巡講先の旅館で、吉田先生に、

  「このままでは、日本は敗ける」

 ということをはじめて、涙ながらに話されたそうである。 「皇軍必勝」 の短冊を二万枚もお書きになられて出征する人々を送り出されて、言葉の力をもって必勝を念じつづけられたお方が、はじめて語られたお言葉であったという。

 しかし、そこには師の中に飛び込んでしまっている先達の姿を想い、うらやましさを憶えるのである。(1998.8.5)

47復興G:2013/07/26(金) 07:31:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十七

 聖典 『生命の實相』 の全読ということについて。

 これは全巻にわたって拝読するということは勿論のことであるか、必ずしもその回数ではないのであって全きものとして拝読、拝誦するという意味なのである。

  『生命の實相』 は自性円満(そのままでえんまんなこと)を讃えんがために、即ち全きもののために、全きものによって書かれたもの、即ち、聖なるものが聖なるもののために書かれたものであるが故に、これは聖典とお呼び申し上げ奉るのである。

 尊師谷口雅春先生が原稿をお書きになっているお姿を霊視出来た青年のことが 『生命の實相』 の第一巻に書かれていることは周知の通りである。光りの中で光りがお書きになっているということは、著者である尊師が読者を如何に観ておられるかということをあらわしているのであって、もしも、迷っているものを相手に、罪、けがれを相手に、それを打ち消すために、書いておられるのであれば、尊師は迷いや罪けがれの暗の中に居給わなければならない筈である。そこには、ただただ光りの中で光りとして坐されてお書きになっている姿しかなかったのである。

 これは、全きものが、全き世界の中に居て、全きものを讃嘆し、祝福、礼拝され給うて聖典 『生命の實相』 が誕生しているということを意味しているというほかはないのである。

 それをそのままのお姿で拝受し、拝読させて頂くところに全読ということの荘厳なる意味があることを想うのである。

  『生命の實相』 自体が、“物質無し” とみずから 「私は無いのです」 と、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのであれば、読者もまた 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りのよろこびそのものとしてそこにあり、ともに澄み切りであるのであって、ここに全きもの、自分の要らないものの姿としての全読なるものの姿があると言わなければならないのである。

 斯くの如きことの如何にして起こり得べきか。今、ハイと、はじめのはじめなる、そのままのいのちをよろこぶことによって忽然(こつねん)として起こるのである。

 常に時は今である。この 「ハイ」 を生きることによって、物質の、インクと紙との集合にすぎないものとして見ゆるものが、全きものへの無限の祝福なる神の愛の輝きそのもの、霊なるものと変貌するのである。まことの、甘露なるものの法雨と化するのである。

 手にした 『生命の實相』 を愛の霊なる光りとするか、物質のかたまりとするかは、はじめのはじめなる全きいのちを 「今」、ハイと受けるか否かに掛かっていると言わなければならないのである。

  「七回読め」 と言われたことがあったか、これは七即ち完成なるもの、完全なるものの展開の姿として聖典拝誦の姿があることを意味しているのである。

 このような全きものの消息においては、聖典の中の、 「暗(やみ)」 という文字も 「光り」 という文字も、光りそのものなのである。その文字の配列から来る意味以前の問題として、聖典を手にするだけで、既に聖なる光りに浴しているのである。もはや聖典は文章の意味以外において光りの聖典であると拝察されてくるのである。(1998.8.6)

48復興G:2013/07/27(土) 02:02:42 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十八

 聖典 『生命の實相』 の中には、現在行われている練成についての注による説明はあるが、この聖典全四〇巻が完成した時点では、いわゆる現在のような練成道場もなく、練成もなかったのである。 「『いのちのゆには』 の神示」 というのにもとづく集まりとしては、ご講習会や誌友会や花嫁学校や学生寮の生活などがあったのが、この神示に沿ったものであったのである。そして、生長の家は燎原の火のように広がって行くという表現がなされるほどの勢いをもってひろがって行ったのである。

 多くの人々は、聖典 『生命の實相』 に直接汲む以外はなかったというに近い状況であったがために、却って、尊師谷口雅春先生のお示し下さる真理に直接ふれるという度合いが強かったということが言えるのではないかと拝察するのである。

 練成というのは手っ取り早く入信していただく方法ではあるが、そこに指導者なるものを通している点において、直接 『生命の實相』 を読んで得るものとはおのずと異なったものが出て来るということにもなるのであって、そこは仲々複雑な問題を含んでいると想われるが、長い将来を見渡すと一考するだけのことはあるのではないかと想われるのである。

 神想観練習も 『詳説神想観』 がテキストに行われていることが多いと想われるのであるが、これはあくまでも便利的に出来ているものであって、やはり抜粋されているものは、もとのところにあった状態で読まれるのがよいのであって、抜粋された文章がはじめあった場所に帰りたがっているような気がしてならないのである。自然ないのちの流れの中で神想観が語られ、説明されているのであって、 『生命の實相』 では第八巻目に出て来るということは自然な美しい順序になっていると想われるのである。

 おおよそ、どなたからはじめられたのかは解りかねることではあるが、 「罪」 や 「神」 のことについてなど、ただ単に言葉の出て来たところを抜き出して並べれば、それが身につくであろうという期待と方法は、聖典なるものに対しての自然なあり方であるかどうかも一考してみる必要があるのではなかろうか。

 ある箇所について、そこに対しての自分の得た感動を表現するためや自分なりに受けとめるための掘り下げ方をするために引用するということは、ただ単に並べているのとはおのずから異なっていることは勿論のことであるであろう。

 抜粋集も、一度元のものを拝読している人にとっては全体の流れの中で昧わえることになるから、それはそれでよいのかも知れないが、大宗教になればなるほど、矛盾した表現が平気で一つの聖典におさめられているというぐらいのものであるから、微妙なニュアンスのちがいなど、切り取りの抜粋では汲み取りにくいものがあるにちがいないのである。

 とにかく、われも知らず、他(ひと)も知らず、ただただ便利だからと言ってそれに頼るような傾向が今後もつづいて行くならば、あまりにも勿体ないことになってしまうのではないかと懸念するのである。

 練成というものも、ある意味で、全生活上の抜粋であると言えるのであろうから、自然な生活の中で、聖典に直接汲みなから自ずと生活の中に光りを生かし込んで行くという姿とはまた異なったものが出て来るということもあるにちがいないのである。

 私自身も長年練成にたずさわって来たものであるが、一つの感慨として今、このような想いが浮かぶのである。

 練成会に依ることもさることなから、より一層直接聖典に汲め、という態度を涵養することか、特に著書による表現を特徴とする生長の家にとって自然であり且つ長い眼で見る時、結局は實(みのり)の多いものとなることなのではなかろうかと想えて来るのである。

 本が神殿であるということは、本そのものが道場そのものであることなのである。(1998.8.7)

49復興G:2013/07/28(日) 01:04:48 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         三十九

 生長の家は 「ねばならぬのない」 教えであるということは、 「ねばならぬ」 が無いことであって、 「ねばならぬのない」 とはどういう意味であるとか、こういう意味であるとかではなく、 「ねばならぬ」 そのものが非実在であるということなのである。無いということは、あっても大丈夫ということなのである。

  「ねばならぬ」 それ自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの輝きそのものであることなのである。

 また、 「不思善悪(ふしぜんあく)」 という言葉もあるが、これは、善悪そのものが無いこと、それを思うことも無いことであり、善悪も思いもそれ自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの澄み切りのよろこびの輝きそのものであるということである。

  『無量光』 という言葉があり、 「無辺光」 という言葉がある。これは 「量光」 が無いことであり、 「辺光」 が無いことであり、 「量光」 「辺光」 それ自体が 「私は無いのです」 との死に切りの、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであることなのである。

  「ねばならぬ」 と自分の願いに固執するのではなく 「み心の如くならせ給え」 と祈ることについては、イエス・キリストの 『ゲッセマネの祈り』 が典型的な祈りとされているのである。即ち、

  「若(も)し得(う)べくばこの杯を吾れより過ぎ去り給え。されど吾が意(こころ)を為さんとにはあらず、み心の如くならせ給え」

 との祈りである。

 イエスは 「吾が意」 には非ずであるけれども 「み心の如くならせ給え」 であったのである。即ち 「み心の如くならせ給え」 とは、

 「神よ、あなたの心と同じ心とならせ給え」

 ということであったのである。 「ねばならぬ」 という私心は、はじめから 「私は無いのです」 と消え切りであり、澄み切りであったのである。ただただみ心、神の心のみかすべてのすべてであったのである。神の子は神そのものであるのである。

  「私は神である」

 ということは、 「私は無い」 のであり、神のみであり、神のみ渾(すべ)ての渾てであり、有るのはただただ神のみであったということなのである。

  「ねばならぬ」 は無いのである。み心のみ、神のみがあるのである。 「ねばならぬ」 はみずからの、消え切りであり、澄み切りのよろこびの輝きそのものなのである。その死に切りの、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものが、神であり給うのである。

 現象はみずからの消え切りであり、不完全はみずからの消え切りであり、實相もまたみずからの消え切りである。

 不思善悪とは、善すなわち實相と悪すなわち不完全即ち現象とを相対させ、対立させるということ自体が 『私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものであることを表現しているのである。

 総裁谷口清超先生御著の 『正法眼蔵を読む』 の中で紹介されているが、 「無仏性」 という言葉がある。これが 「不思善悪」 で「不思實相現象」 の意味における、 「無實相」 ということにあたるのである。

  「無仏性」 とは仏性みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものである姿なのである。

 實相現象渾然一体にして 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。(1998.8.8)

50復興G:2013/07/29(月) 07:26:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十

 パウロは 「コリント人への手紙一の中で言っているのである。
 tたとえ山を動かすほどの信仰があっても愛なくば空しい。嗚るドラの如し。
 たとえ他のためにすべての財産を擲(なげう)っても愛なくば空しい。たとえ、
 他のために火に焼かるるとも愛なくば空しい」
と。
 これは、 「たとえ人類のために十字架に架かるとも愛なくば空しい」 と言っているのである。
 しかし、イエス・キリストが十字架に架かり給うたことには 「空しい」 とは言っていないことは確かであろう。
 何故、そこに愛があると拝まれているのであるか。愛には証明も説明も要らないのである。そして、まことに愛なるものがそこにある時、言葉は必要ではないのである。愛は一つであることであり、一つであるということは完全なる理解なるものそのものの現成であるからである。

  「愛行は空しからず」 と私たちの内なる實在なる愛なるものを拝んで下さっているのが生長の家であり、尊師谷口雅春先生であるのであった。
  「神は愛なり」 である。今ここに神が在(いま)してこそ愛ということは有り得るのである。今ここに完全なる神と實相を認めること、拝むことが出来る教えであってこそ 「愛」 ということは言い得るのである。愛は人間の力では有り得ないのである。

 「實相独在」 であってこそ 「愛独在」 なのである。
 それは、形からは来ないのである。形を超え、現象を超えたところに宇宙一パイに、存在一パイに成就しているものなのである。即ち、神はすべてのすべてであり、愛はすべてのすべてなのである。
 神は 「今」 である。 「今」 そのものである。それ故に愛もまた 「今」 でなければならないのである。 「今」 「すでに」 「はじめのはじめより」 ということでなければ、神でなく愛ではないのである。
 生長の家人類光明化運勁には、この愛が拝まれ、祝福されているのである。まことの光明即ち愛が拝まれているのである。それは形によって拝まれている以前の問題なのである。あるいは
  「愛があるからこそ山をも動かすことか出来るのである。山を動かすことの出来るのは愛がある証拠である」
  「愛があるからこそ、全財産を献資することが出来るのである。全財産を出し得るのは愛がある証拠である」
  『愛があるからこ他のために、火の中に飛び込むことが出来るのである。火の中に飛び込むことが出来るのは愛がある証拠である」
また
  「愛があるからこそ、赦すことが出来るのである。赦すことが出来るのは愛がある証拠である」
 ……等々。
 しかし、パウロは愛がなくともそれは出来る、と言っているのであり、それは愛がある証拠にはならない、と言っているのである。
 それは 「愛」 を行おうとしているからである。
 一たん一切の形(現象)を超えたとき、神が渾(すべ)ての渾てであり、自分が要らなくなり、愛がすべてのすべてであるのである。愛が神であり、愛がすべてを為し給うのである。神と愛と吾れとは別ではないのである。
  「愛」 が行っている姿がここにあるのである。生長の家で拝まれている 「愛行」 である。(1998.8.9)

51復興G:2013/07/30(火) 00:01:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書 ―
             榎 本 恵 吾 

         四十一

  「畏くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」

 と 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 では唱えられているのである。

  「光明遍照實相の世界」 においては汚れは無いのであるから、禊(みそ)ぎ祓いは必要ではないのではないか、なぜそれが必要なのか、ということは、ちょうど 「光明一元」 であり 「唯神(ゆいしん)實相」 であり、 「實相独在」 であるのに、そこには暗(やみ)はないはずなのに何故 「人類光明化運動」 が必要なのか、 「人類救済の運動」 は必要ではないはずではないか、というのと基を同じくした疑問であると想われるのである。

 ここには、完全・完成なるものは創造してはいけないか、生長してはいけないか、というテーマが出て来るのである。

 完全なるもの、完成なるもの、すべてのすべてなるもの、即ち神は生長し、創造そのものであるというのが生長の家の観方なのである。

 完全だからこそ生長し創造するのである。その生長は無限の生長であり、永遠久遠の創造そのものなのである。

 完全であって、しかも無限の生長、創造が満足されている、まことの妙々なる相(すがた)こそが實相なのである。それ故、生長そのものが教えの名前となっており、聖経 『甘露の法雨』 の天使(てんのつかい)の歌い給う、はじまりが 「創造の神は」 という言葉ではじまっているのである。

  『創造の神』 とは、創造し給うた神であり、創造する神であり、久遠に、無限に創造しつづく神であることを意味しているのである。

 それ故、宇宙の大神イザナギの命(みこと)が實相の世界において禊ぎ祓い給うとは、完全なる神が、みずから生長し、創造し、自己展開することであり、脱皮を行うことであると拝察せられるのである。

 脱皮するというと、皮に当たる部分が不完全なる部分と解せられないこともないであろうが、實相においては不完全はなく、完全のみの純粋なる創造的持続あるのみなのであるから、皮もまた完全であり、光りであるのである。

 皮そのものが 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

 實在の、實相の世界における生長とは過去を否定することではないのである。あくまでも完成なるもの、完全なるものが生長するのであり、創造するのであるから、マイナスなるものはどこにも認められないのである。

  「宇宙の大神イザナギの命」 は未だかつて一度も汚れたることなしと、大神ご自身がご自分をよろこぶことが禊ぎであり、脱皮であり給うのである。

 蚕(かいこ)が繭(まゆ)を食い破って羽化登仙(うかとうせん)する、と言えども、蚕も繭も光りそのものなのである。蚕も繭も 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

  「宇宙の大神イザナギの命」 も畏くも禊ぎ祓いをされ、脱皮され、生長され給い、 「生長の家人類光明化運動」 もまたみずから、おのずから禊ぎ祓いし、脱皮し、大いなる生長をする荘厳きわまりなき時を迎えているのであり、それを新しき世紀を迎えるという一つの節目が誘(いざな)っているのではないかと拝察されるのである。(1998.8.10)

52復興G:2013/07/31(水) 06:51:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十二

『住吉大神宇宙浄化を折る神想硯』 において

  住吉大神(すみのえのおおかみ)出でまして宇宙を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー、
  住吉大神わが日の本を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー、
  住吉大神ここにあつまれるすべての人々の生命(いのち)を浄め給う
  あー、おー、うー、えー、いー

 と唱えるのである。 「宇宙」 と 「日の本」 と 「一人一人のいのち」 とはひとつであり、同じことの中身を別の表現をして唱えているのである。

 浄まるとは、元(はじめ)の元(はじめ)に還り、一つであることにほかならないのである。また、

 住吉大神すべて(又は宇宙)を浄め終りて
 天照大神出でましぬ。

 と唱えるのであるが、 「天照大神」 と 「住吉大神」 と 「全宇宙」 とはひとつなのである。ひとつであることが浄まっていることなのである。ひとつであって、多として展開しているのであるが、やはり一つなのである。

 入龍宮幽斎殿における神想観において、

  天照大御神(十回繰り返す)
  住吉大御神(  〃   )
  塩椎大御神(  〃   )

 と唱えるのであるが、 「天照大御神」 も 「住吉御大神」 も 「塩椎御大神にもひとつなのである。そして 「龍宮海」 も 「龍宮城」 も 「吾れ」 もひとつなのである。ひとつに還っていることが全身全霊が浄まっていることなのである。

 さらに、 「神の無限の智慧の海」 も 「神の無限の愛の海」 も 「神の無限の生命の海」 も 「神の無限の供給の海」 も 「神の無限の歓喜の海」 も 「神の無限の調和の海」 もひとつなのである。一つであることが 「如(にょ)」 であり、 「如意宝珠(にょいほうじゅ)」 なのである。それが如意自在のいのちなのである。

  「わが全身如意宝珠なり」 とは自分のいのちが 「天照大御神」 であり、 「住吉大御神」 であり、 「塩椎大御神」 であり、 「龍宮海」 であり、 「龍宮城」 であり、 「一切の宝 即ち全宇宙」 であることであるのである。
 聖典 『生命の實相』 に出て来る 「あるのである」 とは 「實在(ある)ので實在(ある)」 ということなのである。實在即ち 「渾(すべ)ての渾て」 が 「渾ての渾て」 しているところのひとつなるものの、浄まり切りたるものの、天国なるものの純粋なる創造的持続を表現しているのである。

 尊師谷口雅春先生は、よろこびの余り、 「……であるのである……」 と 「ある」 を無限に並べて、続け給いたかったのであろう。そして最小限の複数として止められたのであると拝察するのである。

 聖典 『生命の實相』 はひとつなる、絶対なるものの純粋なる創造的持続として文字が配列されており、一文字が、渾ての渾てであることの、浄まり切りたる聖なるものの鳴りひびきであるのである。(1998.8.11)

53復興G:2013/08/01(木) 08:00:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十三

  『神癒の展開としての人類光明化運動』 であるということは、その 「運動論」 、その 「運動方針」 を読むだけで神癒がもたらされる、ということを意味しているのでなければならないのである。

 その試みの第一歩として 『試論・波状光明化への道―わが内なる神に捧ぐるレポート―』 を試みたのである。

  「神癒」 とは如何なるものであるか。 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」 を自覚したときに起こるところの 「よろこばしき何か」 であることを再びここで確認しておきたいのである。

 ここに全宇宙の神癒の現成(げんじょう)をすすめる運動である以上、全宇宙的 自性(じしょう)円満性を祝福礼拝出来る運動であることがその出発点でなければ、神の運動、すべてのすべてなるものの運動という訳には行かなくなるのであり、神癒の 「神」 が成り立たないことになるのである。

 尊師は 「既に神はすべてを救い給うたのである」 と言っておられるのであり、神ご自身は「はじめのはじめから癒やさなければならない世界は創造(つく)っていないのである」 と世界をあがめ給うているのであり、これが実相なのである。

 ここにまた再び、それならば何故に、 「人類光明化運動」 即ち 「地上天国建設運動」 が必要なのであるか、ということになるのである。むしろ、現象は無いのであれば 「地上」 もなく、したがって地上に天国を建設する運動も無いのではないか、ということになるのである。

 それはまことにその通り以上なのである。どのような姿であれ、無いものは無いのであり、無いものを無いとしたところに、実在があるのであり、自性円満の實相があるのであり、これは永劫に変わらざる真理なのである。

 それ故、實相の自性円満からのみ 「運動」 の意義は拝まれなければ、遂に 「神癒の展開」 即ち神なるものの運動とはならないことになるのである。

 そこに 「人類光明化運動」 「地上天国建設運動」 のみずからなる消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きを拝まなければならないのである。

  「人類光明化運動」 は、 「地上天国建設運動」 は “私は無いのです” との、みずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものである、その聖なる姿に、相(あい)まみえなければならないのである。

 ここに 「人類光明化運動」 の、 「地上天国建設運動」 の 「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相世界」 に於ける禊(みそ)ぎ祓(はら)いの姿を硯るのである。

 ここに 「人類光明化運動、人類光明化運動に非ず、是(これ)を人類光明化運動という」 「地上天国建設運動、地上天国建設運動に非ず、是を地上天国建設運動という」 態(てい)の、全宇宙的、全地上的神癒なるもの、神なる癒しそのものである、甦りそのものである運動の姿を先ず認めて出発することが出来るのである。

  『人類光明化運動』 という言葉、 「地上天国建設運動」 という言葉そのものが神であり天国であることを拝むのである。

 神癒は、ここに見よ、彼処(かしこ)に見よと、外に求めるものではないのである。白分が神癒そのものであり、世界が神癒そのものであり、 「人類光明化運動」 が神癒そのものであり、 「地上天国建設運動」 そのものが神癒そのものであるのである。

 それが生命の實相の自性円満を拝む、生長の家のあらゆる運動の、はじめであり終わりであり、すべてのすべてなのである。(1998.8.12)

54復興G:2013/08/02(金) 03:46:22 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十四

 光明にして光明なるもの。今にして今なるもの。此処(ここ)にして此処なるもの。はじめにしてはじめなるもの。渾(すべ)てにして渾てなるもの。在(あ)りて在るもの。

 暗(やみ)の要(い)らないもの。自分の要らないもの。限りそのものの無いもの。宇宙一パイの自由なるもの。

 神は今である。今でないものは神ではないのである。天国とは今である。今でない天国はないのである。完全とは今である。今でない完全はないのである。實在は今である。今でない實在はないのである。

 常に、常に、神は今ここ渾ての渾てである。

 神は癒しそのものである。神とは實相である。神とは 「現象無し」 である。

 今、幸せでない神は無いのである。

 神は今すべてのすべてであるが故に、神とは吾れの吾れなるものであり給うのである。

 聖経 『甘露の法雨』 にある 「されど如何に相(すがた)を現ずるとも……」 とは、如何に善と見える相を現ずるとも、今完全でないものは、それが宇宙的なまでの尊さの相に見えようとも 「仮相(かりのすがた)は永遠に仮相(かそう)にして実在となることを得ず」 なのである。

 今、完全がないということは神は無いということである。今ここに癒され切った世界が無いということは神は無いということである。

  「生長の家人類光明化運動」 は、神がおはじめになり、神が為し給うている運動である。完全なる癒しのみがあり、絶対の癒し、すべてのすべてなる癒しなるものそのもの即ち神が運動をおはじめになりて、癒しそのものが運動をしているのである。それ故、この運動は永遠久遠の運動なのである。永遠久遠なるものがおはじめになり、永遠久遠なるものが為し給うているのである。

  「元(はじ)めを元めとして、元めの元めに入る」 という古来からの言葉がある。元めが渾てなのである。元めとは神ということである。そして今ということである。なぜならば、神は渾ての渾てであり、神は今であるからである。

 神にはやり直しということは有り得ないのである。やり直しのない出発が 「生長の家の人類光明叱運動」 なのである。

 やり直しがないとは、神であり、實相ということである。

 神は 「そのままでよい!!」 と宣言されているのである。 「生長の家人類光明化運動の発進宣言」 とは、 「そのままでよい!!」 との神の宣言ただ一つなのである。

 「そのままでよい!!」 とは、まことの光りということである。

 「神、光りあれと言い給いければ光りありき」

 これが 「生長の家人類光明化運動」 の発進の宣言であり給うのである。それ故、生長の家は久遠の昔から在り、 「生長の家人類光明化運動」 も久遠の昔から在りつづけなのであり、天地(あめつち)と偕(とも)に窮(きわ)まりなかるべし、なのである。

 神には練習は有り給わないのである。神が 「光りあれ」 という練習をされ給うたであろうか。神が天地創造をされるに当たって、リハーサルをされ給うたということは有り得ないであろう。

 それ故、神の 「光りあれ!!」 との宣言によって発進した 「生長の家人類光明化運動」 には練習はないのである。ただただ偉大なる本番のみの純粋なる持続、完全の持続、天国の持続、完全なる癒しそのものの持続があるのみなのである。絶対の癒し、みずから癒しそのもの、みずから甦りそのものである 「人類光明化運動」 があるのみなのである。

 神には試行錯誤はあり給わない。それ故、神の宣言によって発進した 「生長の家人類光明化運動」 には試行錯誤は有り得ないのである。

 神は完全であり満点そのもの、天国そのものとして、前進し給うているのである。それ故、神によって発進した 「生長の家人類光明化運動の歴史」 は、満点の卒業の歴史であったということが出来るのである。斯く言い得るものこそ、まことにも、仮相(かりのすがた)に非ざる 「生長の家人類光明化運動」 なのである。(1998.8.13)

55復興G:2013/08/03(土) 04:58:25 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十五

 イエス・キリストが 「吾れは神の一人児(ひとりご)である」 と宣(の)り給うてはばからなかったのは、 「子」 であるのは自分お一人であって、自分を取り巻く、天地一切万物ことごとくが親様であるということを知ってい給うたからなのである。

 そこに親を観ずることの出来ることが、和解であり、調和であり、感謝であるのである。生長の家では 「神に感謝しても父母(ちちはは)に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 と『神示』が天降(あまくだ)っているのである。

 父母は神の愛のあらわれそのものであり、神そのものであり給うのであるから、父母に感謝し得ないことは、神に感謝し得ないことと “ひとつ” ことであるから、神の心にかなわないのは当然以上の自然なことなのである。

 尊師がお悟りになった時 「明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである」 と、因縁上の母の胎内即ち母親そのものを否定され、何ものにも因(よ)ることのない、神なるものそのもののまことの自分に還られたのであった。

 そして 「神に感謝しても父母に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 と言い出されたのであって、父母が神よりも尊いものであると言い出したことになっているのである。

 そして、その時こそ、神が 「わが意を得たり」 と手を打って讃えられる、神ご自身のよろこびを感じられ、はじめて自分が神の心にかなったことを味われたのであった。

 それ故、その意味において、生長の家は宇宙最高の教えであり、ただ一つの教え(ひとり児)であることをよろこんではばからないのである。即ち、その宇宙最高という意味は、 「生長の家が宇宙一、父母をはじめ天地一切万物のそのままの、神の神なる尊さを知っている」 ということにおいてという意味なのである。

 釈尊の 「天上天下唯我独尊(ゆいがどくそん)」 ということにおいても、釈尊は 「山川草木国土(さんせんそうもくこくど)、有情非情(うじょうひじょう)」 の悉くのものの尊さを知っていることにおいて自分以上のものは有り得ないのである、という、はばからないよろこびがそこに表現せられているのである。

 それ故に、生まれてすぐに七歩あるいて 「天上天下唯我独尊」 と宣(の)り給うたお方が、その最高のよろこびの時の表現として 「山川草木国土 悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)、有情非情 同時成道(しっかいじょうぶつ)」 と言い給うているのであって、何故に、何において、どのような姿において 「独尊」 であるかがここにうかがわれるのである。

 その世界、そのいのち、そのよろこびをそのまま拈華微笑(ねんげみしょう)によって継承したのが迦葉であったのである。

 大勢いる弟子たちの中で、釈尊の拈(ねん)じた蓮華を見て、たった一人迦葉(かしょう)のみがその真意を解したのであった。

 しかしながら、これはこれでよいとしても、釈尊ともあろうお方が、たった一人しか悟らせることが出来なかったのであろうか。これでは釈尊の教化力が疑われることになりはしないであろうか。

 しかしながら、迦葉は釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 そのものの世界をそっくりそのまま受けとってしまったのである。それ故に迦葉にとっては、自分の周囲に居る弟子たちも山も川もすべてのすべてが仏であるその世界をそっくり受けとってしまったのであれば、まことに、迦葉一人で充分である、 “ひとつ” なる世界、中心がすべてのすべてである世界、天皇の六合照徹(りくごうしょうてつ)の世界を拝み奉り、その世界を生きた姿が拈華微笑の消息であったということが出来るのであり、たった一人で必要且つ充分であったということが出来るのである。

 イエス・キリストに言わせれば、迦葉は釈迦の 「一人児(ひとりご)」 であったのである。 「子」 は迦葉一人であり、迦葉をとりまく天地万物ことごとくが釈迦であり、仏であり、親様であったのである。

 この世界こそが 「ハイ」 の消息であり、それ故、迦葉に 「ハイ」 とこたえた阿難(あなん)は、 「それでよし!!」 とされたのである。

 ここに中心帰一の極みの姿があるのである。

 即ち、中心に帰一したならば、自分が中心となっているということである。それ故、 「中心帰一せよ」 とは無限の祝福として聴こえなければならないのである。

 何故、中心帰一が可能であるのか。自分のいのちが、中心より出でて、中心でありつづけているからなのである。そのことを 「ハイ」 と受けることこそ 「そのままの心を大切にする」 ことなのである。(2013.8.14)

56復興G:2013/08/04(日) 05:42:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十六

 釈尊より 「實相無相微妙(みみょう)の法門」 を伝えられたのが迦葉(かしょう)であったのである。その悟っている筈の迦葉が、いよいよ釈尊が入寂(にゅうじゃく)され給う時、床に伏している釈尊に、

「あなたは日頃、仏身の金剛不壊(こんごうふえ)なることをお説きになりますが、私にはただ病んで死のうとしているあなたしか見えません」

 という意味のことを言っているのである。

 そこで、釈尊は、月が山の端に隠れて見えなくなっても月は本当に無くなったのではない、そのごとく肉体が消滅して見えなくなっても、實相の自分は永遠不滅なのであるという 「月喩品(げつゆほん)」 をお説きになられたのである。

 この様子では、迦葉の悟りは大したものではなかったということになりはしないだろうか。それとも迦葉は、衆生の心を代表して質問しているのだろうか。

 生長の家の人なら、入信して間もない人でも 「ああ、釈尊は實相のことをお説きになっているのだな」 と解って、迦葉のような言葉は発しないであろう。

 釈尊ご自身にしてからが、お生まれになってすぐに七歩あるき給うて 「天上天下唯我独尊(ゆいがどくそん)」 と最高のお悟りのお姿であられたかと想うと、成人して 「生老病死」 について悩まれて、妻子を捨てて出家され給い、六年間苦行されたが悟りが開かれ給わず、 「苦行は悟りの因に非ず」 と苦行林を出られ乙女のさしだす一杯の牛乳を飲んだ時に、悟りが開かれ給うたということになっているのである。

 「天上天下唯我独尊」 と悟られたお方がどうしてあらためて出家する必要があったのであろうか。

 釈尊も、イエス・キリストも文章は書いておられないのである。生きるお姿そのもので道を説き示されたのである。
 それ故、釈尊は、もう一度、衆生にはじめから、悩んだ姿から、道を味わい直させようとされ給うたと拝察されるのである。

 イエス・キリストご自身も、 「ゲッセマネの祈り」 において、 「もし得べくば、この苦(にが)き杯(さかずき)を吾れより過ぎ去り給え、されど我が意(こころ)をなさんとに非ず、み心のままに為さしめ給え」 と最大の光りの姿を現し給うたかと想うと、十字架の最後に 「神よ、神よ、何ぞ、吾れを見捨て給うや」 と号泣し給うたのであった。しかも、それを超えて、三日目に甦り給うて、生かされていることを示されたのであった。

 このお二人に比べると、大聖師は沢山(たくさん)文章をお書きになっていられるのである。しかしながら、ある日私の神想観の中に拝された大聖師は

 「私は無いんだよ」

 と、みずからの消え切りの、澄み切りの、聖なるよろこびの輝きそのものであり給うたのであった。

 尊師は一行(ぎょう)もお書きにならなかったどころか、肉体を持って生まれ給うて修行され給うた姿もなかったのであった。著書みずからもその中に 「物質なし」 と書かれており、著書みずから消え切りの澄み切りであり給うたのである。

 一物も残さず、全くの消え切りの、澄み切りであり給うているのである。

 この尊師のお姿、この御著書のお姿そのものが、消え切りの、澄み切りの、聖なる輝きそのものの現成そのものであり、生まれるものなくして生まれ給い、示すものなくして示し給い、説くものなくして説き、聴くものなくして聴いているご講習会の聖なる姿をここに拝むのである。(2013.8.15)

57復興G:2013/08/05(月) 07:29:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十七

 聖典 『生命の實相』 の完結したころまでは、 「練成会」 も 「組織」 も 「聖使命会」 という言葉も全く使われていないのである。勿論 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 もなかったのである。勿論、政治運動もなかったのである。

 その時、その時において、表現の仕方が異なって来るのは当然のことなのである。根本の教えは不変のものであっても、時代が変化すると変化してみ教えがそこに写し出されると言うことであろう。

 さて、 「聖使命菩薩讃偈」 には 「己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に、一切衆生を度(わた)さんと発願(ほつがん)修行する」 ところの菩薩のすがたが最上、最尊、甚深微妙(じんじんみみょう)と讃偈されているのである。

 自分が救われてから、他(ひと)を救うのではないのである。自分は救われていなくとも、他を救うことが運動の出発点とさえ想われて来たのである。自分が悟ってからではなく、他を先に悟らせる、ということである。

 しかし、 『生命の實相』 には、自分が先ず救われて、救われたとはどんな状態であるかが解らなければ、他(ひと)を救われた状態に導くことは出来ないのであって、めくらの手引きでは多勢を河に落としてしまうことになるのであり、生長の家の 「智慧の言葉」 に 「自分に深切であれ」 というのがあると、お説きになっていられるのである。

 さて、新しき世紀には、また新しき説き方というものが生み出される、ということは自然な流れであろう。

 その時代には、 「解っていないけれども伝える」 のではなく、神の子ははじめのはじめから完全であり、神そのものの相(すがた)であり、悟りそのものであり、救われていることそのものであるから、生長の家のみ教えと波長が合ってふれることが出来たのであり、解っているからこそ生長の家にふれることが出来たのであり、 『生命の實相』 が自分の中にあればこそ 『生命の實相』 にふれることが出来たのである。生長の家にふれるという運命さえ内なる、實相なるものが生み出したのである、という解釈から説いて行くということになって行くのではなかろうか。

 先ず頭で 『生命の實相』 を受け取り、それから胸のあたりで受けとめ、それから潜在意識の奥底で受けとり、いのちのどん底で実感して行くという順序は誰が決めたのであろうか。

 それは反対の順序であって、先ず、いのちのどん底にあるからこそ 『生命の實相』 なのであり、そのどん底にあるからこそ、それを讃えるために 『生命の實相』 があとから、その素晴らしさを映し出して呉れているのであるから、いのちのどん底のどん底なるものが先で、それが出て来て、最後に手で開いて頭で読むという姿が開花しているのである。

 チューリップが咲いているのを、もう一度球根にたたき込んで、もどさなければならないということは不自然なことである。それと同じことを生命の自然な花開きに対してもやってはならないのである。

 いのちのどん底のどん底とは、はじめのはじめということであり、神であり、實相ということである。實相を説いているのが生長の家であれば、解っているからこそふれられたのであり、どん底のどん底のいのちが先ずさきであって、聖典を開くということは、はじめのはじめなる、自分ではない神なるものの自己展開としてすべてはあるのであるという観方、讃え方で新しい人を迎えて行くという相(すがた)が新しい時代には展開されるのではなかろうか。

 解っているから教えに触れられたのであり、解っているから、運動をするのである。というよろこび方が基(もとい)になっての運動である。(2013.8.16)

58復興G:2013/08/05(月) 21:12:28 ID:AB6RqYXc

 訂正です。

>>55>>56>>57 の末尾の日付で、
(2013. ) とあるのは (1998. ) の誤りでした。
訂正し、お詫びいたします。

59復興G:2013/08/06(火) 06:04:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十八

 釈尊は 『発句経(ほっくきょう)』 の中で、

  「恨み心は恨み心では解くことは出来ない。恨みなき心のみが恨み心を解くことが出来る。これは永劫(えいごう)に変わらざる真理である」

 と説法され給うたと書かれているのである。

 しかしながら、 「お釈迦さんは、すぐに恨みなき心になれるからいいよ。その恨みなき心になれないから困っているのではないか」

 というのが多くの場合の受けとり方となっているのではあるまいか。

 そもそも 「恨みなき心」 というが、その 「恨みなき心」 なるものがあるのかどうか。また 「永劫に変わらざる真理である」 というが、そもそも 「永劫」 なるものがあるのかどうか、ということであるかも知れない。

 この問題は、實相ということが解らなければ、それこそ永遠に解くことの有り得ない問題なのである。

 「暗(やみ)を消すためには光りをつけることによってのみである。これは永劫に変わらざる真理である」

 しかしながら、人類は、暗を消してからでなければ、光りをつけること、お光りを頂くことは出来ない、という暗示にかかっていたのではなかろうか。

 そして、その暗(罪・迷い)を消すためにこそ宗教が必要である、というようなことになっていたのではなかろうか。しかし、それは、暗を袋につめて運び出して暗を減らそうとしているようなものであり、暗は一向に減らず、疲れはてて気がついてみると、袋の分だけ暗が増えている、ということになってしまっていたのではなかろうか。

 袋を開ける方法がわからなかったからである。また暗の中で、暗を入れた袋を開けて見ても、開けたという姿さえ見えないのである。

 そこに大聖師が出で給うたのである。そして、神は完全にして、はじめのはじめより今に至るも光りであり給い、よろこびであり給うのであるから、神の子もまた、はじめのはじめより、光りそのものであり、よろこびそのものであってよいのである、という大真理、を説かれ出したのである。そして、その真理そのものが、すべてのものの中にあったが故に、共鳴して、その本来の光りが光りし、よろこびがよろこびを輝いて、ここにいわゆる人類に恨み無き心のある生活というもの、光りを生きる生活が開かれたのである。

 総本山の落慶のとき、大聖師谷口雅春先生が 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 を先導され給い、その神想観中の説明の中で、

  「如意宝珠というのは、意の如く何でも顕わすことの出来る自在な神のいのちを珠(たま)にたとえたのであり、それを得たりということであるが、恨み心や、憎む心があったら、それが邪魔をして、それが出て来れないのです」

 と言われたのである。その時、私は 「その恨み、憎む心がとれなくて困って、最早(もはや)、人間の力では及ばないから、神(實相)に直接お出まし頂こうということで、その象徴として出龍宮顕斎殿を建立したのではないか。この説明では何も変わっていないではないか」 と想った時である。大聖師が、

「しかし、皆さん、今日からは、その恨み憎む心も、神様が除(と)って下さるのです」

 と言われたのであった。

 自分というものは無いのであった。神のみ、恨み無き、憎みなきもののみがあったのである。光りをつけるのも神がなし給うのであった。暗そのもの、憎み恨む心そのものが無かったのである。 “私は無いのです” とそれらみずからの消え切りのよろこびのみがあったのである。

 光明化の運動も神がなし給うのであった。世界の恨み、憎み心も神がとりさり給うのであった。(1998.8.17)

60復興G:2013/08/07(水) 06:18:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         四十九

 これから何をするとか、しないとかの前に、人間の存在そのものが、神であり、光明そのものであるという、人間存在の根本を決定したのが生長の家である。

 それ故、光明なるものと自分とがはなれていず、光明化運動と自分とははなれていない存在なのである。自分が世の光りそのものであり、自分が光明化運動そのものであるという生活が生長の家人の生活なのである。

 それ故に、一日の生活においても、この部分は光明化運動であるが、この部分はそれ以外である、というような、生活の中に光明化運動からはみ出た部分がないのである。それが 「聖使命菩薩」 の生活なのである。

「聖使命菩薩」 の 「聖」 とは 「ひじり」 であり、 「ひじり」 とは 「日がいちじるしく輝く」 という意味なのである。それは、何ものをもって来ても曇らせることの出来ない、日そのものであるのであって、一日の生活の変化によっては、わざわいされないところの、輝きっ放しの存在であることを讃嘆して付けられたのが 「聖使命菩薩」 という言葉なのである。

 一日の内に様々な姿をあらわして聖なるいのちは輝くのである。すべての人々のすべての姿は観世音菩薩であるとは、すべての人々の姿はそのままに尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)にましますということである。無碍なる光りをさまたげる何ものもないのであるから、聖使命菩薩の一日の生活の中で、その輝きをさえぎるものは何ものもないのである。

 様々の姿をとって一日の生活を送るということは、その様々の姿そのものが、観世音菩薩の説法であり、方便説法であるということである。

 イザナギの命(みこと)が筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界に禊(みそ)ぎ祓(はら)いをせられ給うたというのも、方便自在の説法であり、表現であるとみることが出来るのである。

 方便の方便たる所以(ゆえん)は、方便を表すものも、方便の姿も、言葉も、 「私は無いのである」 とのみずからの消え切りであり、澄み切りのよろこびの聖なる輝きそのものであるということである。

 説法者が消え切り、説法そのものが消え切り、言葉が消え切り、文章が消え切り、話を聴くものも消え切りであり、澄み切りの中に、忽念(こつねん)として生ずるよろこびの輝きの鳴りひびきが方便自在説法なのである。

 説くものなくして説き、聴くものなくして聴く、澄み切りの真空の中に妙有(みょうう)している姿こそが、智慧方便自在説法の現成なのである。

 イザナギの大神が禊ぎ祓いをされるはたらきが住吉の大神としてあらわれ給うていることは、如何にイザナギの大神が消え切りの、澄み切りのお姿の輝きであり給うかを表現しているのである。

 『古事記』 そのものが、方便的表現そのものであり、此の現象世界そのものが實相世界の方便的表現そのものであるのである。そして、 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものなのである。

 かつて、兵庫県の教化部(八祥(はっしょう)道場)を訪れた時、大聖師の初期のご揮毫(きごう)と拝察される横長の大きな御額を拝見したことがあったが、そこには

 「智慧方便自在説法」

 と書かれていたのである。

 ここに想われて来ることは 「生長の家人類光明化運動」 そのものが智慧方便の自在なる展開として出発しているのである、ということである。 「聖使命菩薩讃偈」 には、 「応化(おうげ)して仮りに聖姿を顕じ、広大の慈門を開き給えり、名づけて生長の家と謂う(い)」 と書かれていることは既に覚え書きした通りである。ここに 「聖の聖なる方便」 ということを拝ませていただくのである。(1998.8.18)

61復興G:2013/08/07(水) 06:26:49 ID:AB6RqYXc

訂正です。
× 名づけて生長の家と謂う(い)
            ↓
○ 名づけて生長の家と謂(い)う

62復興G:2013/08/08(木) 06:42:24 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十

「空中遊歩の神人」 とは、 「生長の家人類光明化運動」 の人格化した表現である。

 説くものなくして説かれ、伝えるものなくして伝えられ、聴くものなくして聴かれ、伝えられるのなくして伝えられる、消え切りの、澄み切りの、聖なる消息である。

 来たって来(きた)るところなく、去って去るところなく、過去、現在、未来にあらず、伝道はどの時点において行われるのであるか。

 過去・現在・未来に依らず、自によらず、他によらず、伝道はみずから伝道であるのである。在りて在る伝道。時空超脱(じくう ちょうだつ)、自他超脱の久遠の今。渾(すべ)ての渾てなる今ここに、みずから、おのずから鳴っている、輝いている伝道があるのである。

 自も無く、他も無く、時間なく、空間なく、伝道みずから消え切りの、澄み切りの聖なる輝きそのものである 「光明」 なるものの消息である。

 消え切りの、澄み切りであるが故に、久遠不滅なる 「光明」 がここにあるのである。

 ゼノンの運動の否定に依るまでもなく、運動自体が 「私は無いのです」 と、みずからの消え切りであり、澄み切りの聖なるよろこびの輝きのみがある 「空中遊歩の神運動」 が 「生長の家の人類光明化運動」 なのである。

 如何にして、ものが移動出来るか。運動が可能であるか。 『神誌』 は如何にして、こちらから相手に渡るのか。受講券は如何にして、自分から相手に移動し得るのであるか。

 ゼノンの “飛矢は飛ばず” ということから言えば、 『神誌』 は移動せず、 「受講券」 も相手に渡らず、ということになるであろう。

 五官の世界はみずから消え切りであり、時間も空間もみずからの消え切りである、實相の妙有(みょうう)において、一切がそこに巻きおさめられている 「久遠の今」 において、一時一切時、一処一切処、一仏一切仏、一即多、多即一、中心帰一の渾(すべ)ての渾てなる一より自在に放射し、顕わし得るところの真空妙有なるいのちの消息において、自と他とを結ぶ運動は運動として自在に成立するのである。時空超脱の實相、久遠の今においてのみ運動の成立は説明し得るのである。

 斯(か)くして、運動は成り立つことも自在であり、成り立たないことも自在であり、まことの意味において、運動自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、聖なるよろこびの妙有なのである。

 神の運動であるということは、實相の運動である、ということである。その運動は實相においてのみ説明し得るということは極めて自然なことであるであろう。

 運動に参加することにおいて、

「吾れ神を選びしに非ず、神吾れを選び給いしなり」

 ということは、自分というものがあって、その自分を神が選びとられた、ということではないのであって、自分は無いということであり、神のみ渾ての渾てであるということでなければ、何の意味もないことである。そこにあるのはただ単なる激励の言葉があるのみなのである。實相生命に対して激励は不要である。ただ拝みのみがあるのみである。

 自分は無いということは、全現象界が無いということであり、實相のみ独在ということであり、神のみ在(いま)すということである。

 そもそも、 「神吾れを……」 という、その神が、神と言える神であり給うかどうか、ということである。全現象界(自分)の、みずからの消え切りなくしては、實相は無く、神もまた、神ならざる神となってしまっているのである。(1998.8.19)

63復興G:2013/08/09(金) 07:05:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十一

  「便所に宿る神」 ではなく 「便所が神なのである」 と大聖師のお言葉があった。

  「生長の家人類光明化運動」 は神が導き給うのではないのである。 「生長の家人類光明化運動」 が神なのである。

 また、 「生長の家人類光明化運動」 という言葉、文字そのものが神なのである。

 神は自己展開あるのみであり給うから、 「生長の家人類光明化運動」 そのものが生きものであり、みずから、おのずから自己展開するのである。

 神すなわち實相は、みずから顕れる力をみずからに蔵しているのである。

  「生長の家人類光明化運動」 のどこにも人間力は要らないのである。

 しかも 「生長の家人類光明化運動」 自体が 「私は無いのです」 との消え切りの澄み切りなのである。 「魚行きて水濁らず」 なのである。

 神社に神を祀るのではないのである。神社そのものが草木一本一本に至るまで神なのである。

 偶像崇拝とは、神でないものを神として拝むのであって、まことに神であるから神であるというのである。

  「生長の家人類光明化運動」 の運動方針そのものが神なのである。それが書いてある印刷物が神であり、一字一字が神であり、實在宇宙なのである。そして、それみずからが 「私は無いのであるしとの消え切りの、澄み切りなのである。

 「實相」 という御額そのものが神なのである。實相という字が實相であり、神なのである。實相という字は、實相を指し示す、シンボルではないのである。實相という字が、實相そのものであり、神そのものなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 が神そのものであるということにおいて、 「吾れ神を選びしに非ず、神吾れを選び給いしなり」 ということは、 『吾れ 「生長の家人類光明化運動」 を選びしに非ず、 「生長の家人類光明化運動」 吾れを選び給いしなり』 ということなのである。

 自分というものはどこにも存在しないのである。自分はどこにも要らないのである。自分の要らない運動を聖なる運動といい、神なる運動というのである。

 「運動のみ渾(すべ)ての渾て」 と言い得るものであってこそ神の運動なのである。

 「神の外にあるもの無し」 とは 「運動の外にあるもの無し」 ということでなければならないのである。運動以外に自分というものが要るというのは神の運動、神なる運動ではないのである。

 運動と自分との分裂ということは有り得ないことである。運動が神であり、自分というものは無いからである。

 「神と偕(とも)に生くる」 とは、神のみが渾ての渾てであって、自分というものは無いということなのである。

 「無一物中無尽蔵(むいちぶつちゅうむじんぞう)」 とは、自分が無いということである。 「無一物」 の一物とは自分のことなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 という言葉は、 「南無妙法蓮華経」 という言葉と同じように、言葉そのものが、神であり、渾ての渾てなのである。

 渾ての渾てなるものが渾ての渾てしている、完成なるものの純粋なる創造的持続が 「生長の家人類光明化運動」 なのである。

 それ故、達成されない 「目標」 というものは無いのである。 「目標」 そのものが神であり、渾ての渾てであり、 「目標」 以外にあるもの無しであるからなのである。 「願い」 そのものが神であり、神は渾ての渾てであり給い、成就そのものであり給うのである。(1998.8.20)

64復興G:2013/08/10(土) 02:53:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十二

 流産児用の霊牌(れいはい)は 『實相妙楽宮(じっそうみょうらくぐう)地蔵○○童子』 となっていて、○○のところに名前を書くことになっているのは周知の通りである。

 さて、○○に関して、男か女か解らない場合はどうしたらよいか。命日の解らないのはどうすればよいか。あるいは、血の塊が下りたが、あれは流産児であったか、どう判断すればよいか。あるいはブドウ児でも流産児となるのであるか。また、霊牌は何枚書くのがよいのか。という質問はあるが、この 「實相妙楽宮地蔵」 というのは、どなたが付けられ、またどのような意味であるのか、ということを質問に来た人に未だかつて一度も私は出逢ったことがないということは、まことに残念なことにすら想われて来るのである。

 祀り方についての悩みはすべて、祀られる人を神と観ていないところから来るということである。神であるという實相を観ないが故に、やり方によって、相手が迷うのではないか、あるいは救いを求めて、まつわりついて来るのではないか、というようなことにもなりかねないのである。

 聖経 『甘露の法雨』 を読誦すること自体が罪なき實相、すなわち 「犯されたる罪もなく報いらるべき罪もなきこと」 を読誦しているのであって、それ以外のことは何も書かれていないのである。

 現象的に見るならば、堕胎児は何故、堕(お)ろされる運命となったのか、前世で自分自身が堕ろしていた、その因果応報で堕ろされる運命となったということになるのである。同じ親に宿りながら、一方は生んで育てられ、一方は堕ろされるという、運命の差はどこにあるか、ということになると、現象(因果)を認めている限りは、前世に差があったからだということにならざるを得ないのである。

 それ故、親が、現象を認めて、自分が悪かった、悪かったと言っているだけでは、因果の流れから超出することは永遠に出来ないのであって、ただただ、悪いものどうしが親子となって波長が合って、お互いに 「すまない。すまない」 と雲と雲とがあやまり合って雲の生活を永遠につづけてゆく以外は有り得ないのである。永遠に青空太陽としての新しい出発は出来ないのである。

 今ここに神の造り給うた、殺し合いの永遠に有り得ない、罪を犯せていない、青空、太陽から出発するのが、聖経 『甘露の法雨』 の中に説かれている、真理の供養ということになっているのである 『實相妙楽宮地蔵』 という見方である。

 實相から観れば、殺した親もなければ、殺された子も無いのである。それ故、妙楽宮の 「宮」 は親の子宮とみることが出来るのである。現象を観れば、屠殺場であり、地獄であるはずのところが 「妙楽宮」 すなわち 「極楽の宮」 となって、針の先ほども汚れていない實相が拝まれているのである。また、地蔵とは、如来であり、大仏であり、前世で罪を犯したという不完全は、完全に払拭されているのである。

 ここに聖経 『甘露の法雨』 の中身と同じすがたが拝まれているのであり、そのために聖経 『甘露の法雨』 が誦(あ)げられるのであり、それでこそ、聖経とよばざるを得ないのである。

 すべてに今あてはまらない真理というものは有り得ないのである。何の問題をもって来ても、唯神實相への堅信はゆらいでいないのが、尊師のお姿であり、生長の家人の道なのである。(1998.8.21)

65復興G:2013/08/11(日) 07:09:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十三

 ある理事が大聖師谷口雅春先生に、堕胎児(だたいじ)のある母親で、罪の意識に圧倒されてノイローゼ状態になっている人が多々あるので、その人たちに対して、 「あまり執われることはないのです。むしろ、水子は観世音菩薩であって、こちらを守護して下さっているのですよ、という風に指導しているが、これでよいでしょうか」 という意味の質問をしたところ、大聖師は烈火の如くお怒りになった語調で、

「あなたは男らしくない。本当のことを認めないで、誤魔化して、事実を事実としてはっきりと認めないでいる。本当のことを知らないのならばノイローゼのままでいて苦しむ方がよいのです。本当のことを知らないのなら救わない方がよいのです!!」

 という意味のご返事であったことは、知る人ぞ知るところの有名なる大聖師と弟子とのメモの往復の事実である。

 しかしながら、 「本当のこと」 とは現象的な、 「堕(お)ろした」 ということなのであろうか。このメモの往復の中には、 「實相」 という言葉は一度も出て来ないのである。

 ここで大聖師がこのようなお言葉を吐かれざるを得なかったのは、この質問の中に 「實相」 という言葉が出て来ないことにあるのであると拝察するのである。

 現象無しであればこそ、實相独在であればこその 「罪なし」 なのである。ここに言われている 「本当のこと」 とは 「實相」 ということなのである。その 「現象無し」 を通さずに 「罪なし」 ということは絶対に有り得ないことなのである。

 なるほど、子供を十人、二十人堕ろした人でも、笑いの練習をし、神想観で 「もはや吾れ生くるにあらず、神のいのちここにありて生くるなり」 と感謝し、聖経 『甘露の法雨』 では 「犯されたる罪も無く報いらるべき罪もなきことを教えよ」 という言葉さえ頂くのである。

 しかしながら、これはすべて 「本当のこと」 を知ったからこそなのである。この 「本当のこと」 すなわち實相なるものを知らないままで、 「罪を犯しているけれども、気にしないで喜ぶ」 ということは絶対に有り得ないのである。なぜなら 「罪を犯せていない」 というその感じが 「喜び」 であり、 「感謝」 のもとであるからなのである。

 それ故に、 「本当のことを知らないのなら救わない方がよいのである」 「その方が早く本当のことに目覚める機会を与えたことになるのである」 と言われているのは自然なことなのである。

 「生長の家の偉大なる唯神(ゆいしん)實相の教えにより、實相は未だかつて、犯された罪もなく、報いらるべき罪もなき本当のことを知らされた私たちは、どのような人が現れても 『罪なし』 と言えることがどんなに、光栄なことであるか……」

 という感謝、礼拝の心をもって、指導させて頂けていることを先ず、述べるべきであったと私には想えるのである。

 尊師は實相抜きの話に対しては、實相抜きの話で応対されているのであり、弟子としては、自分の心だけの答えを頂いたというべきであろう。現象ありの質問に対しては、現象ありの答えしか帰って来ないのは自然なことであろう。もし 「實相」 ということにおいて、ということになれば、 「よし」 とのお答えに相まみゆることが出来たはずなのである。

 なぜならば、大聖師みずからが、

 『實相妙楽宮地蔵○○童子』

 として、拝み給うているからである。

 まことに、本当のこと(實相)を知らないままで救われるということの有り得ないことは永劫に変わらざる自然の自然なることなのである。(1998.8.22)

66復興G:2013/08/12(月) 08:06:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十四

 「『迷(まよい)』 は捉われの相(すがた)にして苦患(くげん)多し」 である。それは 「迷」 のことであって、實在なる吾れの吾れなるものとは全く関わりの無いことである。

 「迷」 それ自身で 「私は無い」 とみずからの消え切りであり、澄み切りの、よろこびの輝きそのものなのである。

 ただただ實在は實在であり、迷は迷である。ただそれだけのことである。それが 「そのまま」 なのである。

 神であり、實在である光明化運動は未だかつて、一度も迷と相撲をとったことも、罪、暗(やみ)と関わったこともないのである。それ自身、ただただ光りであるのみなのである。

 「光りは闇に照る。されど闇は光りを知らざりき」

 と聖書には録(しる)されている。闇は 「光りを知らざりき」 であるが、光りもまた 「闇を知らざりき」 なのである。

 なぜならば、闇は、みずからの消え切りであり、澄み切りであり、よろこびの輝きそのものであるから、ただただあるのは光りばかりであり、光りは光りを知るのみなのである。ただただ光りが光りしている光りの自己展開があるのみなのである。

「光明化運動は光りを知って暗きを知らず」 である。暗を知らないものを光明というのである。

 神が 「光りあれ」 と宣(の)り給うた時、暗の世界に向かって、暗の中で斯くコトバされ給うたのではないのである。暗も無い、その無しもない、ただただ神のみすべてのすべてなるその、在るものがただただ在るのみなる中で神は 「光りあれ」 と宣り給うたのである。神が光りを生み得たのは、神が光りであり給うたからなのである。はじめから在りて在るものを光りというのである。

 「神 光りあれ」 と言い給いて、発進したところの 「生長の家人類光明化運動」 は、そのコトバなる源より発して、光りの清水の澄み切りの大河となって今ここに自分のすべてとなって流れているのである。未だかつて一度も汚染されたることもなければ、せき止められたることも、よどんだこともなき、聖流の大河なのである。

 その本当の姿を、はっきりと観つつたしかめ、拝まなければならないのである。 「久遠を流るるいのち」 とはこのことなのである。大河のあるのを忘れて、細い溝のようなところに水を求めてさまよう必要はないのである。ただただ大河が今ここに、自分となって久遠に流れつづけていることを讃えなければならないのである。

 何かしら、大きなダムに満々と水がたたえられて、いつでも発電が可能な状態でありながら、そのダムの下で、手動の発電機をまわして電気を起こそうとしている姿はこっけいであり、勿体(もったい)ないことであると想わざるを得ないのである。

 満々とたたえられた水が 『生命の實相』 であるのに、それをそのまま電気に変えられるのを待っているのに、すでにすべては完成され用意されているのに、なにか、どこかで、手動の発電をまわしているような無駄で、勿体ないことをしてしまっているのではないか、というようなことが想われてならないのであるが、どのようなことがそれに相当しているのかは解らないにもかかわらず、やはりその想いは、有りつづけているのである。

 二十年も以前のこと、全国代表者会議にオブザーバーで出席したことがあったが、その年度の運動方針の前文の冒頭に 「新天新地の神示」 の冒頭が引用されていた。 「見よ、われ既に天地を新たならしめたのである」 という部分である。そして、世界の危機的状況が次に述べられていて、この重大なる時期に吾々の為すべきことは……という文章であったが、この重大な時というのが 「既に天地が新たになった」 から重大な時期なのか、世界が危機的状態であるから重大な時期なのか、ということを質問すべきであったか、と後で想ったことであったが、今も時々想うことである。何かダムの喩えの話と関係がありそうな気がしてならないのである。

 この 「覚え書き」 もまた 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きの中で生まれ出ているのである。それ故、この 「覚え書き」 を書くものも、またお読み下さる方もこの輝きを味わいながら、であってほしいものである。

 「この覚え書きは無い」 と十回以上は心の内に唱えるようにした上で読んでいただきたいものである。そして、読まれている途中でも、なるべく、そのように心の内に唱えていただき、 「覚え書き」 みずからの 「私は無いのです」 という、消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きに浴していただきたいと念願するものである。

<つづく>

67復興G:2013/08/12(月) 08:06:49 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 『試論・波状光明化への道』 の注釈書のようなものがあって、十年ぶりぐらいに読みはじめたところ、やはり、はじめに、

 「ここに書いていることは、私のとらえた生長の家であり、尊師であり、日本であり、天皇であって、それがそれそのものであるということは永遠に言えないことなのである。ここのところを 『生命の實相』 は 「物質なし」 と本みずから死に切って、自分の立場、とらえるものの側という一つの立場を死に切っているのである」

 と書いている。

 私は、この注釈書のはじめに、 「この本は無い」 と十回くらいは唱えてから読んで下さい、ということを書こうと想って原稿には書いたのだったが、どういう訳か、その頃はそれをはぶいている。やはり時期ではなかったのであろう。最近この 「覚え書き」 をするようになって、この注釈書を読みはじめたところで、もう一度考えてみようと想っているところである。

 「行(ぎょう)ありて、願(がん)なきは仏の魔事(まじ)なり」 という言葉があるが、 「願い」 とは、自分が無くなって、澄み切りたいという 「願い」 が最も深いところにあるのではなかろうか。そしてそのあらわれとして 「感謝がしたい」 という 「願い」 となっているのではなかろうか。

 練成を受けに来た人に参加の動機を書いて貰ったり、聴かせて貰うと、色々と述べられるのであるが、しかし、究極の 「願い」 は 「感謝がしたい」 ということであり、それが参加の動機であるということは間違いのないことであると信じているものである。

 感謝がしたくないものは一人も居ないのである。しかし、それに心がこもらないので困っているのである、ということになっているのではないかと想うのである。

 ここでいう心とは “まこと” ということである。 “まこと” とは 「丸ごと」 であり、 「全て」 であり、 「無限」 であり、神ということである。神であるということは、自分は無いということである。自分が要らないことである。

 無限力を発揮するというが、それは為した量によって言うのではないのであって、自分は無く、神のみ渾ての渾てであり、神がここに生きてい給うという、その神が無限なのである。無限とは限りとしての自分というものが無いことなのである。

 無限なるもの、神なるものが為し給うているが故に、形は有限、微少であっても、無限なるもの、自分なきもの、神なるものが生き給うているが故に、 「無限力」 なのであり、 「無限」 の尊さの中身があるのである。

 この 「無限」 「丸ごと」 「神なること」 「完全なること」 が 「まことがこもること」 即ち 「心がこもること」 なのである。

 「まこと」 と 「自分なきこと」 と 「心がこもること」 とは一つのことであって、現象無し、我無し、完全なる實相のみあり、即ち神のみ在(いま)すことである。このことを “こらえ” たり、我慢しないで求めつづけよ、ということこそ仏の魔事にならない道なのである。

 こらえたり、我慢するなということは 「神であること」 「自分無き澄み切りであること」 の 「願い」 をこらえるな、我慢するなという意味であると拝察されて来るのである。(1998.8.23)

68復興G:2013/08/13(火) 05:04:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十五

 「タバコを吸う」 ということは不自然なことである、ということは、物質なる外なるものに頼っているというところにあると想われる。しかしながら、 『生命の實相』 という、本という物質に頼ることもまた、同じように生命にとって不自然なことである、ということになるであろう。

 あるご婦人が 「薬を飲まなくても 『生命の實相』 を読んでいれば治る、と言われて、薬をやめて、読んでいますが 一向(いっこう)に治りません」

 ということであった。そのとき私は、 「あなたは薬は飲んでいないといいますが、 『生命の實相』 という本を飲んでいるのではありませんか」 と話したことであった。

 生命とは何か。それは、外からの助けをからず、内から展開、生長する智慧と力を備えているもの、ということが出来るであろう。草や木を見ても、外から教えた訳ではないのに、芽を出し、葉を出し、花を咲かせ、実を稔らせるのであって、内からの働きがここにあるのである。

 新幹線は大きな働きをするが、これは機械であるから、電線が一本切れれば死んだことになってしまうのである。

 これに反して、赤ちゃんは、母親から外に出て、臍(へそ)の緒を切って、外に何もつながらなくなった時 “おめでとう” となって、誕生したことになり、生命が出発すること、生命が生きることになっているのである。

 機械が外から助けられなければならないように、赤ちゃんも母親からお乳を貰わなければ生きて行けないではないか、と言うことになるかも知れないが、機械は、電気やガソリンを消化して、生かすことも全部外からの智慧によらなければならないのである。

 しかし、赤ちゃんは、どのように呼吸するか、どのようにしてお乳を吸えばよいか。それをどのように消化して栄養にするか、そして、それを適当に配分して、脳髄や内臓を形成してゆくか、この智慧と力は外から来たものではないのであって、百万人のお医者さんがよっても、本当の血液は製造することが出来ないかも知れないその智慧と力がはじめから備わっているのである。

 ただこれだけの話では、生まれつき不完全な働きしか出来ない赤ちゃんもあるから、その生命が完全なものであり、それが神のはたらきであるとは言えないのであるが、 「ある大いなる智慧と力」 がここには、はじめから備わってはたらいているということは言えるのである。

 もしも、神が完全であるならば、神は外から教えられるということのない存在であり、そこから生まれ出でている神の子の生命もまたはじめから完全である、ということは、事例、体験という一現象からは証明することは出来ないのである。体験というものは、過去の実験範囲内では、そうであったということにとどまるのであり、未来も永遠に必ずそうなるか、ということは保証してくれないのである。それ故、体験という現象に頼るということも、外のものに頼る不自然なことであるということであり、このような様々な生命に対する観方だからこそ、生命が生命として自然な姿で生きられなくなっているところに現代世界のストレスの根本があるのであって、その根本は、生命はみずから立っているという自然な姿をよろこぶことを忘れたところに原因しているのであると言えるのである。そこのところをはっきりと拝み得ているのが生長の家なのである。

 なるほど 「生命の實相は未だかつて、生まれたことも、タバコを吸ったこともないのである」 と 『生命の實相』 には書かれている。しかし、その實相が實相たるためには、 「生命の實相は未だかつて物質なる 『生命の實相』 という本を読んだことはないのである」 と言い得て、はじめて實相なのである。そこのところをはっきりしないと、どこかにタバコの煙のようなモヤモヤとした生命の出すくみがはじまるのである。(1998.8.24)

69復興G:2013/08/14(水) 05:34:02 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十六

 「本もの」 と吾々はよく、この言葉を使わざるを得ない時があるものであるが、それはどのような時に使いたくなるのであるか。また 「この教えは深い」 とか 「この教えは崇(たか)い」 とかいう言葉が思わず出て来るのはどのような時なのであるか。ということはいつもいつも私の中で繰り返している想いである。

 それはどのような時に人は発するのであるかの研究は別として、 「本もの」 であるとか、 「深い」 とか 「崇い」 とかということは、限りもなく、自分もそうでありたいと願わずにはおれないことであるということだけははっきりとしているのである。

 生長の家のみ教えについて 「本もの」 「深い」 「崇い」 ということは自然に出て来る想いであり、谷口雅春先生を 「大聖師」 とお呼びすることが自然なことであることも、まことにうれしいことであるにちがいないのである。

 本もの、とは實在するものでなければならず、實相そのものであることであり、既にはじめのはじめから在るものということであるであろう。

 そして、それは、はじめのはじめから在りて在るものであるが故に、自分というものの要らないものであるであろう。

 つまり、自分というものの要らないもの、自分というものの消えているもの、はじめのはじめだけがすべてのすべてであるもの、自分の無いものこそ 「本もの」 ということなのである。

 「深い」 とか 「崇い」 とかということは、如何に、はじめのはじめから、神が渾(すべ)ての渾てであり、それ以外にあるものなきこと、自分の要らないこと、自分は無いということを今、ここに味わい得せしめ得るか否かということにかかっているのである。本ものとは今ここにあるところのものでなければならないのであり、今ここにないものを 「深い」 とか 「崇い」 とか呼ぶことも不自然なことであり、有り得ないことである。

 神が渾ての渾てであり、神のみ在(いま)すのであるから、自分が無いのが自然であり、天然であり、法然であり、当然である。この自然、天然、法然、当然が、本ものなのである。

 「本もの」 とは 「本(もと)もの」 ということである。本とは、はじめのはじめであり、 「素(もと)もの」 であり、 「素のまま」 であり、 「神のまま」 である。

 「神のまま」 は 「今のまま」 である。 「今」 とは 「久遠の今」 であり、 「今なる久遠」 ということであり、渾ての渾てということである。

 それ故、迦葉(かしょう)が釈尊より 「本もの」 のいのちを受けとった時、渾ての渾てを受けとったすがたであったのである。それ故、迦葉一人でよかったのである。

 それ故また、 「本もの」 と言った時、そこに渾ての渾てなるもの、一つも残さずして、世界を込めて 「それでよい」 「そのままでよい」 という、はっきりとした、割り切れたものをいのちが感じた時なのである。神は渾ての渾てなる 「本もの」 にましますが故に、お一人でよいのであり、それを独神(ひとりがみ)と呼び奉るのである。

 天皇は 「本もの」 にましまし、お一人でよいのであり、それを中心と呼び奉るのである。(1998.8.25)

70復興G:2013/08/15(木) 08:10:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十七

 「神に隠るるもの」 という題名が心に湧き起こり、それを想って出て来た言葉をしばらくの間、書きつづけたことがあった。今再び 「神に隠るるもの」 という言葉がフトしたことから新たに想いにのぼって来たのである。

 「神に隠るる」 と言えども、神は天地のはじめのはじめより 「身(みみ)を隠し給いき」 であり給うのである。それ故 「神に隠るる」 とは、神はすでに身(みみ)を隠したまいて、みずからの消え切りであり、澄み切りであり給うのであるから、 「神に隠るる」 とは 「澄み切りに隠るる」 ことなのであり、澄み切りの澄み切りにあずかることなのである。

 澄み切りの澄み切りにあずかるとは、 「澄み切りも無い」 ということを受くることなのである。澄み切りみずからが 「私は無いのです」 と鳴りひびいているその鳴りひびきにあずかることなのである。あずかる自分もまた 「私は無いのです」 との消え切りの消え切りなのである。

 どこまでも、どこまでも、消え切りの消え切りであり、澄み切りの澄み切りなのである。

  朝みどり澄み渡りたる大空の
     広きをおのが心ともがな(明治天皇御製)

 大空が広いのではないのである。澄み切りが広いのである。澄み切りの澄み切りこそ広さの広さなのである。はじめのはじめであり、渾ての渾てなのである。

 何故 『聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)』 に、生長の家が 「広大の慈門(じもん)」 と録(しる)されているのであるか。 「広大の慈門」 とは 「澄み切りの慈門」 であるからである。 「光明化運動」 が 「私は無いのです」 とのみずからの、消え切りの、澄み切りであるからである。

 形のある澄み切りということは有り得ないのである。ここからここまでという区切りのある澄み切りということは有り得ないのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は 「神に隠るる運動」 であり、 「澄み切りの澄み切りなる運動」 なのである。

 身(みみ)を隠す、澄み切りの澄み切りは、独神(ひとりがみ)の絶対の真性なのである。それ故、澄み切りの澄み切りなる 「生長の家人類光明化運動」 は 「絶対の運動」 なのである。

 絶対なるもの、澄み切りの澄み切りなるものを 「光明」 というのである。

 絶対なるものとは、完成なるものであるから、 「絶対の運動」 である 「生長の家人類光明化運動」 は 「完成なる運動」 であるということが言えるのである。

 それ故、生長の家の大神は 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 であり給うのである。 「完成の燈台の点燈」 としての運動が 「生長の家人類光明化運動」 なのである。

 「点燈」 とは如何なることであるか。すべてのものが 「完成なるもの」 であることへの祝福礼拝なのである。祝福するものなくして祝福し、祝福されるものなくして祝福されるのである。礼拝するものなくして礼拝し、礼拝されるものなくして礼拝される。ともに消え切りの消え切りであり、澄み切りの澄み切りである。澄み切りの澄み切りが、澄み善し、であり、住吉である。生長の家人類光明化運動は住吉の大神の運動なのである。

 自分をとりまく天地一切万物万象ことごとくが観世音菩薩である。観世音菩薩は尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり、生長の家の大神にましますのである。即ち、天地一切万物万象ことごとくが生長の家の大神であるということである。このことを教えているのが生長の家であり、祝福礼拝ということの中身なのである。 「神に隠るるもの」 とは、すべてが生長の家大神であることをよろこぶもの、という意味なのである。(1998.8.26)

71復興G:2013/08/16(金) 00:10:48 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十八

 再び 「光明とは何か」 について。

 光明とは絶対に暗くならないものということである。五感で見ゆるものはすべて、点滅、消滅常なきものであるが故に、光明とは五感を超えた實相ということである。

 實相とは神であり、はじめのはじめから在りて在るものそのものなのである。

 外国に指導に行った講師の話によると、神想観の指導で、光りかがやく 「智慧の海、……」 と唱えることを話しても、 「どうして、海でなければならないのか?」 と言う人あり、 「自分は海を見たことがないから海と言われてもそれは出来ない」 という人あり、 「自分の知っている海は、大西洋の荒い波の海であり、それしか知らない」 という人ありで、仲々神想観に念ずる言葉を納得して貰うということだけでも至難なことであるらしいのである。

 そもそも、しかしながら、私たちは神想観をしてから生まれて来たのではないのである。はじめのはじめから、生きとし生けるものとして生かされて、生長しているのである。このはじめからあるところの 「生かす力」 を “ひかり” というのである。

 この光りは、 「神光りあれと言い給いければ光りありき」 の光りであり、神によってある光りであり、人間が念じて、観じて造り出すものではないのである。

 はじめのはじめから生かされていてよいのであり、生かされていることをよろこんでいると、そこによろこばしき明るきものがここに生まれて来るのである。

 光り、光り、神はひかりであり、すべては光りである。はじめのはじめから光りである。祈ってからでもなく、生まれてからでもなく、はじめのはじめから生かされていてよいのだということを想っている時、その時、 「人間は神の子であり、光りであり、神そのものである」 と言いたくなるのであり、その言葉の通りを受け取ることになるのである。 「ひかりですよ」 と言われて 「その通りである」 とはじめのはじめからあるところの内なるものが共鳴するのである。

 光りははじめからあるのである。神によりてはじめのはじめからあるのである。光りとは “ひとごと” ではなく、自分のことなのである。天地のはじめよりあるものを光りというのである。今、すでにあるものを光りというのである。

 それ故に、その人のいのちのはじめのはじめを礼拝し、祝福することによって、はじめなる、内なる光りが共鳴するのである。

 神想観は観法である。 「観る」 とは既にあるからこそ成り立つのである。既に、はじめのはじめより在るものとは神によりてあるものである。それ故、観は 「生かされている」 という感謝のよろこびがその中身なのである。すでにはじめより在り、生かされていたということのよろこびが光りなのである。

 「光りは東方より」 とは 「光りは当方より」 である。内なる、はじめのはじめよりあるものを当方と言うのであり、当方なるものを光りと言うのである。

 「招神歌(かみよびうた)」 で 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 と言ったとき.すでに、はじめなる、当方なる光りで祝福されているのである。それは、念想によって描く以前のすがたなのである。生かされていることが先で、それを観じ、感謝するのが神想観であり、生かす力が光りであり、光りになるための神想観ではないのである。 「なるための」 というものは、永遠に光りであることは出来ないのである。(1998.8.27)

72復興G:2013/08/17(土) 00:36:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         五十九

「光明化運動」 は、運動それみずからが光りなのである。運動の成果以前において、それみずからが価値であるのである。

 生長の家の生き方は、生長の家そのものが光りであり、宇宙そのもの、即ち全存在である故に、 「生長の家の」 と言った時、既にそこに渾(すべ)ての渾てがあるのである。

 神の子人間は神そのものであり、生長の家そのものであるのが 「そのまま」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 と 「 『生長の家』 信徒行持要目」 に解説せられているのである。

 今ここに渾ての渾て、なのが實相生命なのであれば、これからどう生くべきか、どう進むべきかの前に、今ここに渾てが満了されているのが本当の相(すがた)、即ち實在の實相なのである。これが 「今を生きる」 ということなのである。

 「今を生きる」 のが生長の家の生き方であり、 「未来を生きる」 ということは、そもそも有り得ないのである。生きるとは 「今」 しかないのである。今が生きているということが、生きることのはじめである。

 「天地(あめつち)は今をはじめとする理(ことわり)あり」 という。この 「はじめ」 とは、 「終わり」 に対する 「はじめ」 ではないのである。今、在(あ)ることのすべてのすべてを 「はじめ」 というのである。

 「はじめ」 「終わり」 を超越した、 「絶対のはじめ」 「絶対なるはじめ」 ということである。
とも
 「光明化運動」 の 「光明」 とは渾(すべ)ての渾てである、というのは、 「はじめにコトバあり。コトバは神と偕(とも)にあり。コトバは神なりき」 という、はじめとコトバと神とひとつであり、一切であることが光りであるからである。この光明が渾ての渾てであるということは、光明の中に渾ての渾てがあり、 「光明化運動」 の中に渾ての渾てがあることを意味していると言わなければならないのである。

 すべてに向かって 「光明化運動」 をするのではなく、 「光明化運動」 の中にすべてがあるのである。

 「神光りあれ、と言い給いければ、光りありき」 ということは、神と光りとコトバとはひとつであることを意味しているのである。神は渾ての渾てであり給うということは、コトバであり、光りであることを意味しているのである。その光りこそが 「光明化運動」 の 「光明」 ということなのである。

 「光明化運動」 というコトバそのものが神であり、渾ての渾てである以上は 「光明化運動」 は自分であり、自分そのものであり、自分と 「光明化運動」 とは離れていないのである。それ故、自分が存在すること自体が 「光明化運動」 そのものであり、生活において、 「光明化運動」 と、 「光明化運動」 でない部分との分裂はないのである。 「光明化運動」 が渾ての渾てであり、自分であり、それ以外に在るものなし、であるからである。

 今ここに渾ての渾てがあるのである。渾ての渾てがあるのを 「今」 といい、 「光明」 というのである。

 分裂は無いのである。分裂は非存在なのである。神の子は、生活において 「光明化運動」 からはみ出るということは有り得ないのである。自分と 「光明化運動」 とはひとつであり、 「光明化運動」 なるものの内に、世界があり、生活があり、渾ての渾てがあるのである。(1998.8.28)

73復興G:2013/08/18(日) 06:44:45 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十

 「住吉大神宇宙を浄め給う」 というと言えども、住吉大御神も宇宙も 「吾が内なる神の国」 として、吾が内にあり給うのである。

 「高天原(たかあまはら)に神詰まり坐(ま)す」 と言えども、高天原も、神もすべて吾が内にあるのである。

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓いたまう」 と言えども、イザナギの命も筑紫の日向の光明遍照の實相の世界もすべてのすべては吾が内に在り給うのである。

 絶対なるもの、無限なるものが吾が内に在るのである。

 「絶対を吾が内に握っている」 というのが、まことの自分の自分なるものなのである。

 絶対無限なるものが吾が内にあると同時に、龍宮無限なる龍宮城の中に吾れが坐しているのである。

 神は吾が内に坐(ま)し坐すと同時に、その内なる神に抱かれているのが自分なのである。

 至大にして、至小同時現成實相妙有である。

 「神が私を生み給うたと同時に、私が神を生んだのである」 と言うものがまことの自分の自分なるものなのである。

「天地の創造(つく)り主(ぬし)にましまし、吾が生みのみ親に坐(ま)します神よ」 ということは天地の創造主であり、私を生んだところの、み親に坐します神よ、ということと同時に、天地の創造主にましまし、私が生んだところのみ親にまします神よ、ということなのである。

 親なる神を生んだのが妙有實相なる自分の自分なるものであるのである。これが妙々實相不可思議の境涯なのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 なる神想観において、 「龍宮城が近づいて来て、すっぽりと自分の中に入ってきて、そして、その龍宮城の中に自分が坐している」 と観ぜよ、とは、まことに入龍宮不可思議である。

 それ故、 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照……」 と繰り返して唱えているのは、吾が全身は勿論のこと十方世界も自分なのであるということなのである。

 十方世界も吾れであり、吾が全身も吾れであるならば、吾れは渾(すべ)ての渾てであるということなのである。吾れが渾ての渾てであるということは、対立なきものであり、相対にあらざるものであるが故に、無我ということなのである。

 「私は無いのである」 と消えて、澄み切っているというよろこびは、渾ての渾てであるよろこびということなのである。吾れが渾ての渾てであるということは、対立なきものであり、相対にあらざるものであるが故に、無我ということなのである。 「私は無いのである」 と消えて、澄み切っているというよろこびは、渾ての渾てであるよろこびであったのである。

 まさしく、無我ということが無限ということであり、無限ということが無我ということであるとはこのような中身を言っていたのである。

 「すべてを放(はな)ったとき、全實在宇宙は掌の上に乗る」 と大聖師がお示し下さっているということは、全存在、すべてのすべては手の内にあること、即ち、吾が内にあることを表現されているのであると拝察させて頂くのである。

 放つとは如何なることであるか。自分の要らない、はじめのはじめ、既にあるもの、即ち内なるものを受くることなのである。自分がこうした、ああしたということの全く要らない、自分そのものの要らない、はじめのはじめを受くることである。

 自分が為したという過去の成績という外を無しとして、内のみ渾ての渾てとして、今、ここに、はじめのはじめを受くることなのである。放つということは、はじめに帰るということなのである。はじめのはじめなるものが、はじめのはじめに帰ることが放つということなのである。(1998.8.29)

74復興G:2013/08/19(月) 06:52:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十一

 無限、絶対なるもの、即ち神が自分の内にあり給うとは、無限よりも、絶対なるものよりも大きいものが自分であるということは、まことに矛盾したことにはちがいないが、それが何ら矛盾なく、澄み切りであるということが入龍宮不可思議なのである。

 それ故、吾れの吾れなるものは、外から見られている存在ではないということである。監視されているということは、生命にとってはまことに不自然きわまりなきことなのである。すべては自分の内にあり、自分の自分なるものは、全存在すべてを生み、創造し、それを見護っている方なのである。

 たえず、たえず、視られているという感じは、生命が不自然すなわち浄まっていないこと、汚れていることであり、解放、生長の反対なる拘束であり、後退であり、萎縮となるのである。

 さて、組織を形成し、数の概念を導入して、運動の進展の状況を測定し、統一するための価値基準とすることに対して、何かそこに違和感が発生せざるを得ないということがもしあるとすれば、それは、組織内にいるものが、たえず、監視され、測定されているという感じを持たざるを得ないのであり、そこに生命の本質である開放と生長の反対なるものを観じざるを得ないからであると言わなければならないのである。

 だんだんと冷え冷えとしたものを自分にも周囲にも感じはじめた時、 「あの入信当時のよろこびはどこに行ったのか」 とつぶやきはじめるが、監視の目を感じてそれを言おうと想っても、それを言えなくなっているのに気がつくのである。

 しかし、生長の家は、現象無し、五官の世界なしの宣言の時から、すべては取り払われているのである。このようなものを取り払ったところから生長の家は出発しているのである。そのような怯(おび)えさせ、そしてその故にちぢこまらなければならない幽霊なるものはどこにもなかったのである。

 『生命の實相』 の中に、ある熱心なキリスト教の牧師が、神様に約束した人数の聴衆を集めることが出来なかったので、神様に申し訳ないと言って、ノイローゼになっているという話に対して、それは数という外(現象)の成績に頼っているからであって、イエスは、外に頼らなかったところに偉大さがある、ということが説かれているのである。

 このことから拝察しても、生長の家は祝福礼拝こそあれ、監視したり、恐怖させるものの影におびえなければならないなどということはどこにも教えていないのである。

 知らず知らずの内に、この亡霊即ち監視の目なるものが現れていたのである。そしてそれを後生大事にその前に拝脆(はいき)していたのではなかったか。

 そして、自分の中のあるものに、それを納得させようとして、それに理由を申し上げて頭を下げて、納得してもらおうとしていたのではなかったか。

 そんなものは無いのである。納得するものもなければ、納得してもらわなければならないようなものなど、何一つなかったのである。

 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)であり給う神」 を生んだのが自分であり、斯く言えば、わが内にありて神が手を打って 「さすがわが世嗣ぎよ!!」 と賞(め)で給う荘厳きわまりなき神の大愛の中に浴しているのが生長の家人なのである。

 神の子が 「生みの親」 となる時、これを成人した、というのである。 「稚心(ちしん)を去る」 とは、このことであったのである。それがまことの 「今起て!!」 の御声として大聖師は聴き給うたお姿であったと拝察するのである。

 二十一世紀を 「生長の家人類光明化運動」 の成人の時としたいものである。稚心をはなれて独り立ちする時が来ているのである。(1998.8.30)

75復興G:2013/08/20(火) 03:45:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十二

 再び 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」 ということについて。

 實相の世界には禊(みそ)ぎ祓わなければならないような汚(けが)れは無いのではないか、というのは、やはり不完全が實在していると見る習慣にわざわいされているのである。そして、イザナギの命(みこと)ご自身もまた汚れているのではないかとの見方によるのである。

 それはちょうど、完全円満な實相には生長というものはないのではないか、ということとも似ている問いであると想われるのである。

 完全円満なる實相にも、禊ぎ祓いはあり、生長もあるのである。

 無いものを無いとするのが浄めであり、禊(みそ)ぎ祓(はら)いなのである。それ故、 「實相の世界にみそぎ祓いたまう」 とは 「實相も無い」 ということを宣言することなのである。そしてその 「實相は無い、ということも無い」 と、どこまでもどこまでも放(はな)って行くことが禊ぎ祓いなのである。

「實相、實相」 と實相さえも把(つか)んではならないという、最も深く、崇(たか)い放ちをされている故に 「畏(かしこ)き」 ということであり、この禊ぎ祓いは 「畏き禊ぎ祓い」 なのである。

 どこまでもどこまでも放ち、捨てて行くことに、 「畏さ」 があり、 「崇さ」 があるのである。

 宇宙自体もまた、自分で自分を放ち、捨て、 「私は無いのである」 と、みずからの消え切りの澄み切りであるのであって、それが 「畏き宇宙」 ということなのである。そこにあるのは 「畏き生長」 であり、 「崇き生長」 なのである。

 「有るものは皆吹払(ふきはら)え大空の、無きこそ元の住みかなりけれ」

 との黒住宗忠の歌がある。そして、

 無きこそ元の住家なる、その

 「無きものも皆吹き払え大空の無きの無きこそ元の元なれ」 (榎本)

 と、どこどこまでも、元に帰る生長というものこそイザナギの命(みこと)の禊ぎ祓いであり、生長であり給うのである。元の元こそ生長の本体なのである。そこに 「そのまま」 があるのである。

「そのまま」 とは 「素のまま」 であり 「もとのまま」 であり 「元のまま」 即ち 「神のまま」 なのである。神は無限創造であり、無限生長であり給うのである。

 完全円満なる實相それ自身の展開としての禊ぎ祓いということである。

 完全円満なる唯神實相独在の世界に何故、 「光明化運動」 が必要なのであるか。それは光明それ自身の展開としての運動であるのである。この 「化」 というのは 「展開」 ということなのである。實相は無限の創造であり、生長であり、展開なのである。

 「光明化運動」 は単なる、實相をこの世に写し出す、影を生み出す運動ではないのである。光明すなわち實在それ自体の自己展開、価値創造として存在するのである。

 實在であることは、神であることであり、それ自体で不滅の久遠の自己展開そのものであるということであり、 「光明化運動」 は久遠不滅の自己展開それ自体である “生きもの” であるということなのである。

 斯くの如き、生長、創造それ自体であるものを光明というのである。 「光明化運動」 がみずから 「光明化運動」 を実現するのである。自分というものはどこにも要らないのである。(1998.8.31)

76復興G:2013/08/21(水) 09:08:20 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十三

 光明遍照の實相世界においてのイザナギの命(みこと)が光明であれば、禊(みそ)ぎ祓(はら)いの水も光明であるのである。光明が光明する暗(やみ)なき禊ぎ祓いなのである。

 すなわち、暗(やみ)を知らない 「光明化運動」 なのである。 「光明化運動」 は未だかつて一度も暗と出会ったことはないのである。

 「化」 は 「人」 と 「ヒ」 であり、 「人」 は 「日止(ひと)」 であり 「日」 そのもの光りそのものであり、 「ヒ」 は 「日」 であり光明そのものなのである。

 「暗」 もまた実は 「日」 と 「音」 であり、 「日」 は光明そのものであり、. 「音」 は 「立っている日」 であり、光明そのものであり、そこには 「光明」 しかないのである。 「光明」 のみがあるのが本当なのである。 「やみ」 があるという目で見るから 「やみ」 があるように見えて来ているだけなのである。 「やみ」 とは 「無い」 ということの別名にすぎないのであって、 「無い」 ものは 「無い」 のである。

 むしろ 「暗」 という字は 「日」 が二つも輝いているに反して 「明」 という字は 「日」 は一つしかないのであって、どんなに 「くらい」 と見ゆるものも、倍した明るさがあるということなのである。

 これは 「暗(やみ)」 は夜明けを暗示するものであるとの見方とは違うのであって、 「暗」 そのものが 「明」 の二倍の明るさそのものである、 「今」 というものを表現しているのである。

 これはまた 「やみ」 によって引き立てられるところの相対の 「光明」 ではないということである。ただただそこには光明のみがみずから立っているのみなのである。

 「やみ」 があって、はじめて意義をもつという 「光明化運動」 ではないのである。 「光明化運動」 はみずから立っている 「光明化運動」 なのであり、どこにも 「やみ」 を必要としないのである。 「光明化運動」 そのものが神そのものであるからである。

 神は何故光明であり給うのか。光明であるから光明なのである。理由づけされる必要はないのである。原因、理由というものによってささえられる必要なく、みずから在(あ)りて在るからこそ光明なのである。

 「光明化運動」 は原因、理由は要らず、意義づけも何も要らずして、みずから在りて在る、みずから立って在る、みずから立っている運動なのである。

 「今」 立っているのであって、原因、理由が先にあってその後に生まれるということではない、みずから立っている光明なるものが立ったのが 「今立つ!!」 ということであったのである。それは 「光明化運動」 みずから立ったことなのである。大聖師谷口雅春先生の御いのちそのものが 「光明化運動」 であり給うたのである。

 「神光りあれ」 と言われた後、ある時間の経過の後に光りが生まれたのではないのである。そこに時間は無いのである。

 時間の無いのを 「今」 というのである。神も光りも 「今」 なのである。神に原因されての光りではないのである。神が 「今」 光りそのものなのである。存在するということと神であるということとは實在においては一つなのである。そこには時空のへだたりは存在しないのである。

 神であるからこそ光りであり、光りであるからこその神なのであり、生むものと生み出されるものとの相対関係はないのである。相対そのものが光りではないのである。絶対なるもの、みずからすべてのすべてなるものを光りというのである。それ故、 「光明化運動」 は渾ての渾てなのである。即ち神なのである。(1998.9.1)

77復興G:2013/08/22(木) 00:05:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十四

 「写経」 というのがあり、入龍宮幽斎殿に於いて聖経の筆写が行われているのであるが、生命の本当の姿の鳴りひびきを筆写され給うた、その第一、最大の写経なるものが、聖典 『生命の實相』 であり、聖経 『甘露の法雨』 ほかの生長の家の聖典であると言わなければならないのである。

 それ故、この筆写なるものと出逢う時、こちらもまた写経したくなるのである。聖典、聖経は、他人(ひと)ごとではなく、自分自身そのものであるからなのである。

 生きとし生けるものとして生かされてあることが先であって、その生かされている姿を写し給うて歌われたのが 「招神歌(かみよびうた)」 なのである。事実が先であって、それが写されるのである。

 雨が降るから傘をさすのである。傘をさすから雨が降るのではないのである。雨にもよおされて傘が開くのである。完全円満平等遍満の實相生命がはじめのはじめから、既に、今ここに輝いているのが先であって、それを讃え給うているのが聖典聖経なのである。

 呼吸も、久遠の流れ入りがありつづけているから吸うのである。流れ入るから吸うのであって、吸うから流れ入るのではないのである。 「神の無限の生かす力吾が内に流れ入るのを観(み)つめ観送る」 ということは、自分ならざる、はじめのはじめからありつづけている流れ入りの相(すがた)の消息なのである。

 神想観は観法なのである。観(かん)ずることの出来るのは、既に在るからなのである。在るのは、はじめのはじめより神によりて在るのである。即ち、すべては生かされて在るのである。それ故に、観法は感謝なのである。神想観の結論は感謝である、ということは、観法であることの意味をもつのである。

 その感謝から、よろこびに満ち、光りに満ちて、コトバを創造的に発する時、 「祈り」 即ち 「命宣(いのり)」 となるのである。その故に、神想観は 「観法」 であると同時に 「祈り」 であると言われているのである。

 感謝はすでに在(あ)るものを味わうこと観ずることによってのみ起こるのであるから、ノイローゼは感謝が出来た時、既に無いのである。ノイローゼは本来無いものを相手にする姿であるから、感謝が起きたとき、在るものにふれ、地に足がついたことになるからである。

 即ち、 「生長の家人類光明化運動」 は、實相なるものの上に立った 「観」 なるものを基(もとい)としていることによって、ただ単なる世界の時勢への取り越し苦労ではなく、一瞬一瞬みのりのある歩を進めているところの荘厳な相(すがた)となっているのである。 「愛行は虚(むな)しからず」 ということである。

 斯くの如く、 「観」 なるものを基としないとき、その行は、釈尊の宣り給うた如く、 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 の行となってしまうのである。生長の家では 「招神歌」 を唱える時、すでに實(じつ)のある真行となっているのである。

 生長の家の観からすれば、中身なる實相(まこと)が先にあって、實相(まこと)が、みずからおのずから顕れ出て来て行となっているのである。

 「實相円満完全」 と唱える時、實在なる實相の円満完全なる中身が先であり、その円満完全なる實相がみずから、おのずから顕れて 「實相円満完全」 と鳴りひびいて輝いているのである。

 如何にすれば、行(ぎょう)にそして人類光明化運動に 「まこと」 がこもるかということは、まことに尊くもある重大なる、且(か)つ厳粛なるテーマであると言わなければならないのである。(1998.9.2)

78復興G:2013/08/23(金) 07:02:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十五

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚する」 とは、自性(じしょう)円満なるもの、そのままえんまんなるものにとっては、そこにある 「自覚」 とは、自性円満なるものの中にすでにあるものの自己展開したものでなければならないのである。

「自発的」 という場合の 「自発」 なるものは、自性円満なるものの、自(みずか)らの展開ということでなければならないのである。

 ひと昔、後に本部理事長をされた山口悌治(やすはる)先生は 「自発的活動態勢」 という言葉をよく使われたものであった。

 この 「自発」 というものが生命の實相の 「自性(じしょう)」 ということであったのである。その自性円満を自覚するところに神癒なるものが存するのであれば、 「自発的活動態勢」 と仮に言うとすれば、それは神癒の展開としての人類光明化運動から出て来た言葉であったと言うことになるのである。

 自発なるものは、求めるのではなく与える相(すがた)なのである。与える生活ということの根本は、外に求めることの要らない存在、ということが根拠となっているのである。ここに奉仕ということの根拠があるのである。自性円満なるものこそ与えるということそのものの相(すがた)なのである。

 これから何をするしないの前に、今、存在していること自体が与えている存在なのが自性円満ということなのである。

 「光明化運動」 的に表現すれば、存在していること自体が “世の光り” であるということなのである。いわゆる 「聖使命」 の 「聖」 なる存在、 「ひじり」 即ち 「日がいちじるしく輝いている相(すがた)」 なのである。そのいのちを拝んでつけられたのが 「聖使命」 なのである。それが實相であり、實相のみの世界なのである。

 そのいのちは、神からさえ求める必要のない存在なのである。吾が内に神あり、神の内に吾れ在り、吾れはすべてのすべてであるところの存在なのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 なる龍宮観において、創造の本源世界、龍宮海の龍宮城が自分の内にすっぽりと入っていることを観ずる場所である入龍宮幽斎殿的見方をすれば、宇治というのは宇宙を治めるということではなく、 “宇宙が既に、自分の内に治(おさ)まっている” ということを観ずるところが、宇治別格本山の入龍宮幽斎殿であるということなのである。創造とは与えることそのものである。その本源が自分の中にすっぽりと治まっているのである。

 至大無外、至小無内なる全實在宇宙が吾が内に在(あ)りというものこそ、聖なるものであり、与えるものであり、自立なるものであり、自足なるものであり、奉仕なるものなのである。それが自発の自発なるものなのである。

 「自覚」 とは、自(おの)ずから覚める、と書かれているのである。自性円満、そのままでえんまんなるものが、みずから覚めるとは、自己展開することである。それ故、自性円満なるものが自覚そのものなのである。

 自覚とは時間を要する遠いところにあるのではないのである。みずからの自性円満の實相こそが自覚そのものなのである。

 イザナギの命(みこと)が實相の世界で禊ぎ祓いをされ給うたというのは、自性円満の實相そのものを自覚し給うたこと、即ち、自性円満の實相なるものがみずから展開したことを意味しているのである。

 イザナギの命の自性円満なる實相が自己展開して天照大御神となり、住吉大御神となり、塩椎大御神となり、 「生長の家人類光明化運動」 となっているのであり、これらは一つの相(すがた)なのである。

これらはすべて自性円満なる實相の自覚の相(すがた)、すなわち神癒なるものの相なのである。自分自身のことなのである。これすべて、入龍宮出龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうしゅつりゅうぐうふかしぎ)の境涯なのである。(1998.9.3)

79復興G:2013/08/24(土) 08:14:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十六

「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ。只今神癒祈願(しんゆきがん)申し込み中の方々に、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚せしめ給いて、神癒を実現せしめ給え」

 と、自分は神癒を祈る時に唱えることにしている。

 それは 『生命の實相』 第一巻の本論の冒頭に

「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

 と書かれているからである。あらゆる神の癒しという癒しはすべて、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚することによって実現しているのである。

 自性円満の自覚によるのであって、不完全の自覚、罪の自覚によってではないのである。

 神癒の展開として生長の家人類光明化運動がある以上は、生命の自性円満の自覚運動であるのがこの運動なのである。

 そのままでえんまんなこと(自性円満)の自覚のひろまることが、光明化運動(自性円満)がひろまることなのである。

 實相の自性円満はそのままでえんまんなことにおいて、自ら目覚めて自覚となって展開し、一切の光明化運動の相(すがた)となって花咲いているのである。

 自性円満の自覚と言えども、その自覚も神が為し給うのである。實相の自性円満とは神であり給うことである故に、人間力の入る余地はいずこにもないのである。

 神自(みずか)らの目覚めとしての自覚として神癒があり、人類光明化運動がありつづけているのである。その自覚は久遠の昔から在りつづけている久遠の自覚なのである。

 久遠を流るるいのちの自覚こそ久遠の生長の家人類光明化運動なのである。神がおはじめになった運動とはこのことである。神は渾(すべ)ての渾てにましますが故に、自分の全く要(い)らないのが、神がおはじめになった運動なのである。

 既に完成している實相なるものの運動である時、はじめて、はじめのはじめから自分というものは消えている運動となっているのである。

 自分がいて、自分が支えてやらなければならない、というような運動は、我(が)の運動であって、神の運動、感謝の運動ではないのである。それはもともと無い運動だったのである。そんな運動であったためしのないのが生長の家人類光明化運動なのである。いのちが久遠に流るる運動なのである。

 生長の家の運動は感謝の運動であるということは、神がすべてのすべてであり給う運動であるということなのである。

 それはまた、神癒の運動であるということにおいて、神が癒しそのものである運動であって、ここにもまた自分の必要はどこにもないのである。

 自分なるものは未(いま)だかつて生長の家の運動をしたことは一度もなかったのである。自分そのものが無いからである。

生長の家の人類光明化運動は、天地(あめつち)の初発(はじめ)の時のまま、 「今」 をはじめとする天地(あめつち)のはじめに、神と偕(とも)にあったそのままの相(すがた)で、今ここに輝きつづけ、広がりつづけなのである。

 久遠を流るるいのちの 久遠を流るる人類光明化運動よ。(1998.9.4)

80復興G:2013/08/25(日) 07:25:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十七

 大調和という時、あるいは大懺悔(だいざんげ)、あるいは大祭(たいさい)等々という時、 「大」 とは何を意味しているのであるか。

 それは神が為し給う、神によりて在(あ)り給うところの自分の要(い)らない消息を意味しているのである。それ故、はじめのはじめから在るものであり、途中から決して無くなることのないことを意味しているのである。

 神によりて在るところの懺悔とは如何なるものであるか。神は罪を犯し給わない故に、暗(やみ)なる罪を消すという意味での懺悔というものはあり得ないことであるが故に、大懺悔とは、光りが光りすることでしか有り得ないのである。それを仏教では 「無罪相(むざいそう)懺悔」 ともいい、また 「荘厳(そうごん)懺悔」 とも言い、 「破壊心識(はえしんしき)」 ともよんでいるのである。

 「罪は無い」 ということが無罪相懺悔なのである。罪自身が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りであり、そこにはただただ神のみが渾(すべ)ての渾てなる荘厳なる相(すがた)があるばかりであるが故に、 「荘厳懺悔」 と言うのである。

 「破壊心識」 とは、心識すなわち自我意識がみずから無いと、みずからを破壊して、消え切りの澄み切りであり、神のみ渾ての渾てである相(すがた)である。即ち、これ大なるもの神なるもののみであるが故に、大懺悔と言うのである。

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう」 とは、大懺悔中の大懺悔であり、全宇宙そのものの大懺悔であると言えるのである。

 その大懺悔のはたらきが住吉大神となってあらわれて、神癒の展開としての生長の家人類光明化運動となっているのである。それ故、生長の家人類光明化運動は宇宙みずからの大懺悔運動であると言わなければならないのである。

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 とは大宇宙みずから、住吉大御神みずからが為し給う祈りであり、みずから為し給う大懺悔であり、大宇宙みずからの輝く鳴りひびきとして 「アーオーウーエーイー」 が唱えられているのである。

 「住吉大神宇宙を浄め給う」 と唱えている時、住吉大御神ご自身が自分となり、この声となって鳴りひびいてい給うということなのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は生長の家の大神、それ自体のみずからおのずからなる自己展開として輝き、ひろがっているのである。

 「宇宙を浄め給う」 と言えども、大宇宙みずからの大懺悔であり、大宇宙みずからの禊ぎ祓いなのである。それ故 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神出(い)でましぬ」 であり、大宇宙それ自体が天照大御神それ自体の相(すがた)となっているのである。大宇宙それ自体の天照大御神的甦りのはたらきが、住吉大御神の宇宙浄めの御はたらきとなっているのである。

 宇宙の大神イザナギの命(みこと)と天照大御神と住吉大御神は三つの呼び方による一つなる神にましますのである。

 これらは斯(か)く書きたくなったというだけのことであって、なにか内から覚めるようにして湧いて来る想いなのである。覚え書きというのは、外のものを覚えるためのメモであると同時に、内なるものの目覚めとして書きたくなったもの、というほどの意味合いなのかと想いつつ書きつらねている次第であって、あまり深い理由、証拠というものによって書いているのではないのである。(1998.9.5)

81復興G:2013/08/26(月) 07:31:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十八

 「大光明」 という言葉はあるであろう。 「大光明」 とは神である光明ということである。 「神 光りあれと言い給いければ光りありき」 と何故神は言葉したくなられ給うたのであるか。神が光りであり給うからなのである。光りである神の自己展開としてその言葉はあるのである。

 神が 「光りあれ」 と宣(の)り給うまでは、それまでは光りは存在しなかった、ということはどうしても想えないのである。何故ならば、はじめのはじめから在りて在るものを光りと言っているからである。はじめのはじめを光りと言っているからであり、神を光りと言っているからである。

 これは光り自体が 「私は無いのである」 と光りみずからの消え切りの澄み切りの、神のみ渾(すべ)ての渾てであるが故に光りであることの表現なのである。光りみずからが死に切っており、また、この聖書の言葉を書いたものも死に切って、神のみ渾ての渾てなることを表現しているのである。

 それ故 「大光明」 とは 「光明」 みずからの消え切りであるが故に、 「大」 のみ渾ての渾てであり、その意味において 「大光明」 とは神そのものなのである。

 「神は光りであり、光りは神である」 という場合は 「大光明」 のことを意味しているのである。

 これは光りみずからの禊(みそ)ぎ祓(はら)いということが出来るのである。生長の家人類光明化運動も 「神、今起て!! と言い給いければ、生長の家人類光明化運動ありき」 という時は、生長の家人類光明化運動のみずからの消え切り、澄み切りの、よろこびの輝きの充満を意味しているのであり、生長の家人類光明化運動みずからの禊ぎ祓いを意味しているのである。

 「今起て!!」 とは 「今なる汝よ、起て!!」 ということであったのである。この今は久遠(くおん)の今であり、渾ての渾てなる、はじめのはじめなる今であるが故に、大聖師谷口雅春先生は今そのものであり給い、その今なるものに天降った言葉であったのである。

 今はすべてのすべてであるが故に、生長の家人類光明化運動もまた今そのものであり、 「今なる生長の家人類光明化運動よ、起て!!」 ということであったのである。今と大聖師と生長の家人類光明化運動とはひとつであるのである。吾れと今とこことがひとつである久遠の今において、大聖師と生長の家人類光明化運動と自分とはひとつなのである。

 無の門関に坐して、時空超脱(じくうちょうだつ)の目無堅間(めなしかつま)の小船(おぶね)に乗るとはこのことなのである。

 生長の家に天降(あまくだ)った 「神示」 は数多くあって、これを拝誦(はいしょう)することはまことに尊いことであるが、 「神示」 は神が直接示したもうているのだから一番、神に近いのであるという見方だけで、他の聖典と区別して、近道を行くというようなことはまことに勿体(もったい)ないことなのである。

 生長の家の 「神示」 の尊いゆえんは、その神が自分である、ということが言い切れるところにあるのである。

 時空超脱、久遠の今なる實相において、神とひとつであることを説いて下さっているのが 『生命の實相』 その他の聖典、聖経なのである。久遠の今において、 「神示」 も聖典も聖経もひとつなのである。唯神(ゆいしん)實相の哲学によって、ひとつなることが解き明かされているのである。聖典も聖経もまた神に導かれて書かれたものであり、神が書き給うたことにおいて 「神示」 なのであり、大聖師そのものも久遠の今として立ち給うているのである。

 また、大聖師は、自分を取りまく天地一切、山も川も草も木も、風の音も山の色も有情非情(うじょうひじょう)すべては観世音菩薩すなわち尽十方無碍光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の説法であると説示されているのである。それ故、吾れを取り巻く天地一切万物の姿そのものが 「神示」 そのものであるということが出来るのである。天地一切万物が大光明であるということである。(1998.9.6)

82復興G:2013/08/27(火) 06:14:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         六十九

 「蓮華日宝王地観(れんげにっぽうおうじかん)」 なる神想観において、 「吾れ観世音菩薩、五蘊皆空(ごうんかいくう)と照見(しようけん)し、一切の苦厄(くやく)を度(ど)す」 と唱えたあと、

 「虚空(こくう)中に宇宙大の大日輪(だいにちりん)浮ぶ。光明遍照(こうみょうへんじょう)實相世界ここなり 〈と念じ大日輪が宇宙一杯に充満せる有様を観じ更にその大日輪中に千葉(せんよう)の蓮華(れんげ)が開花せる姿を観じ〉ここ蓮華蔵(れんげぞう)世界なり 〈と念じて、その花の中心上に観世音菩薩の坐っている姿を心に描き〉 この菩薩は自分自身なり」

 と念ずるのである。この菩薩がだんだんと近づいて来て自分とひとつに重なることを観ずることが大切であると書かれているのである。

 この宇宙大の大日輪(だいにちりん)の中心に蓮華の中心に坐している観世音菩薩は天地万物一切のことごとくの一つ一つのものであり、それがそのまま尽十方無碍光如来なのである。

 観世音菩薩は斯くの如きすがたにおいて観世音菩薩なのである。観世音菩薩は祝福礼拝の姿にましますのである。

 神に対して反省させてやろうという事件は有り得ないのである。どのようにして祝福し礼拝しようかという事件しか有り得ないのである。それ故、自分を取り巻くすべてが観世音菩薩にましますということは、神の子たる實相身に対しては祝福礼拝のための姿であることしか有り得ないということなのである。

 神癒祈願をする私に対して、申込者はすべて観世音菩薩であり、宇宙の中心坐に在(ま)します尽十方無碍光如来にましますのである。神癒祈願申込者の名簿は、尽十方無碍光如来の名簿であるということなのである。

 このように観じさせて頂くとき、申込者からの悪念波を受けるなどということは決して有り得ないことなのである。

 人類を光明化するという時、すべてのものは観世音菩薩であり、尽十方無碍光如来にましますのであるから、 「異類中行」 ではなく、光における、 「同類中行」 であり、同類どころではなく光りなる “ひとつ” なるすがたを生くるのみなのである。


  人間は光の子にして常に光の中にあれば
  暗きを知らず、
  躓き(つまず)を知らず、
  罣礙(さわり)を知らず、
  かの天人が天界を遊行するが如く
  また海魚が水中を游泳するが如く
  光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。

 天地万物のすべては宇宙の中心に坐する重無礙(じゅうむげ)の存在であり、中心とは渾(すべ)ての渾てなることを意味しているのである。

 斯くの如く観ずる時、そこにすべてが坐(ま)しますのであるから、最早(もは)や吾れが彼に対して光明化運動をするという相対的な姿ではなくなっているのである。このようなすがたを光りのすがたといい、光明化運動の光明とはこの “ひかり” のことを意味しているのである。

 この宇宙大の大日輪は自分の内にあり、同時にその宇宙大の大日輪の中心に観世音菩薩が坐し給い、その観世音菩薩の中にまた宇宙大の大日輪があるのである。重限無礙(むげ)同時現成なのである。

 全宇宙を光明化すると言えども、その全宇宙は自分の内にあるのである。自分と宇宙との分裂相対は無いのである。

 畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)が光明遍照の實相の世界に禊ぎ祓い給いて、その宇宙浄化の御はたらき顕れて住吉大御神となり給い、宇宙浄め終りて天照大御神出でましぬ、と言えども、これすべて吾が内なる神の国の消息なのである。

 吾が内なる神の国とは高天原(たかあまはら)のことであり、全宇宙も、イザナギの命(みこと)も、住吉大御神も、天照大御神もすべて吾が内なる實相世界のことなのである。しかも同時に、その内の内に自分があるのである。同時現成なのである。この實相の消息の上に立って行なわれるのが道元禅師の言われた 「証上(しょうじょう)の修(しゅう)」 ということなのである。生長の家の人類光明化運動もまた、証上の修の姿として輝いているのである。(1998.9.7)

83復興G:2013/08/28(水) 03:53:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十

 生長の家の出現は宇宙はじまって以来の荘厳である、と想わず心に叫んだ人があった。まことに羨(うらや)ましい限りである。

 この人は、宇宙はじまる以前、宇宙以前を言ったのであろう。宇宙を宇宙たらしめているもの、創造なるものの根源なるもの、即ち神を神たらしめたのが生長の家の唯神(ゆいしん)實相哲学であることをかい間観たにちがいないのである。この人の眼は実に、観るべからざるものを観てしまった、幽の幽なるものは観ること能わざるものにちがいないのに、それを観てしまった、神が神であるその全荘厳をのぞいてしまったという眼をしておられたのを想い出すのである。

 イザナギの命(みこと)が、イザナミの命の姿を見てはならないという言葉に反して見てしまった、その、のぞくべからざるものをのぞいてしまった時の眼はどのようなものであっただろうという想いに誘っていくその人の眼であった。そして、その眼は、暗(やみ)をのぞいたのではなく、光りの光りをのぞいてしまった眼であったのである。

 「今という不思議の光りを観た」 とその人は言っていた。

 過去、現在、未来、因縁、時空超脱の 「久遠の今」 こそ今という今なのである。

 今即久遠(いまそくくおん)、久遠即今(くおんそくいま)である。今という光りは久遠なる光りであり、光りである久遠であり、渾(すべ)ての渾てなる光りであったのである。

 その人の言った 「不思議の光り」 というこの不思議とは 「入龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうふかしぎ)」 の不可思議である。この久遠の今、今という不思議の光りなる生長の家の哲学によって多くの奇蹟的治癒がその人の周囲にもたらされたことは 『生命の實相』 にあまりにも有名である。そのことによって純粋宗教の部門として生長の家本部に 「神癒祈願部」 が開設された時の初代の部長となられたのであった。

 今という不思議の光りが、どのようにかかわって人々に神癒をもたらしたか、そのメカニズムははかり知り難いが、時空超脱(じくうちょうだつ)の今が實相であり、神そのものであること、その光りを伝えることによってもたらされた癒しは、まことに神癒と言える神癒であったことだけは疑いようのないことだと言えるのである。

 「今なる不思議の光り」 によって神癒がもたらされたということは、大聖師谷口雅春先生が 「今起て!!」 という不思議の御声によってはじまった生長の家の人類光明化運動であることを想えば、それに救われ、共鳴されたこの人が 「今という不思議の光り」 によって癒しをもたらして行ったということはまことに生長の家人として自然きわまりないことであると言わざるを得ないであろう。

 時間未(いま)だ発せず、空間未だ発せず、一切万象(ばんしょう)発生の枢機(すうき)を把(にぎ)る久遠の今、創造の本源世界を説き給うたのが 「入龍宮不可思議境涯録」 という名前がつけられたこ文章で聖典の中におさめられているのである。そして、

 生長の家の哲学の中で最も重要な哲学が 「今の哲学」 であるとも説かれているのである。神癒の部門である純粋宗教部門が 「今の哲学」 によってはじまっているということは、 「今」 という不思議の光りこそが純粋ということの本体であるということを意味していると拝察させて頂くのである。

http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes

 一方、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)の自覚によって神癒がもたらされるのであれば、生命の實相とは 「久遠の今」 ということであるということになるのである。

 神癒の展開としての人類光明化運動が 「今起て!!」 ということによって、 「今」 なるものが起(た)ったことであることの不思議を想うのである。(その人とは服部仁郎先生のことであり、この弟子のことは 「弟子像Ⅰ」 として拙著 『弟子像』 中に書きとめてあり)(1998.9.8)

84復興G:2013/08/29(木) 07:08:05 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十一

 神想観において、神の無限の生かす力が光り輝くものとなって吾が内に流れ入り、満ち満つることを観つめ観送(みおく)るように観(かん)ずることが教えられているのである。これは自分は全く要(い)らない、それみずから實在する實相であるから可能なのである。観送(みおく)るとはもはや自分でない自分、観るものなくして観じ、吸うものなくして流れ入るところの自我不要の消息なのである。

 人類光明化運動の進展を観ずるのも、これと同じすがたでなければならないということである。観つめ、観送ることの出来る久遠の昔より在りつづけ、進みつづけの實在なる實相なる生長の家人類光明化運動なるものとして観じ得なければならないのである。

 それは、呼吸みずからの呼吸である。それは運動みずからの運動である。生きものとしての呼吸であり、生きものとしての運動である。

 「今、光明燦然(こうみょうさんぜん)として人類光明化運動の聖旗は輝きながら我等の前を進み行くのである。……」

 という大聖師から発せられた言葉は、言葉それ自体が實在の實体を有して、それみずからが進展する生きものであり、神であるのである。

 大聖師には厳然として、この人類光明化運動の實在なる進展のすがたが観つめ、観送られ、拝まれているのである。それが神がおはじめになった、神の運動であり、神なる運動の相(すがた)なのである。豊雲野神(とよくもぬのかみ)の相(すがた)として、進展、拡大きわまりなき、豊かなる進展の相として観つめ観送られているのである。それは観送るものなくして観送るところの、運動それみずからの観送られている相(すがた)であるが故に、澄み切りの相、浄まり切りの相なのである。

 大聖師は澄み切りの生活を、無色透明の生活と表現され給うことがあるが、この観つめ観送られるところの人類光明化運動とは無色透明の人類光明化運動なのである。

 それは真空にして妙有(みょうう)なる運動なのである。真空にして尽十方無礙(じんじっぽうむげ)なる相(すがた)を展開するところの妙々不可思議のはたらきなのである。忽然(こつねん)として生まれ出でるところの展開の相(すがた)なのである。

 忽然といえども神にとっては無限時間の余裕のあるすがたなのである。そのような相として神の中に神によって観つめ観送られているのが生長の家の人類光明化運動の姿なのである。

 「生命は生を知って死を知らず」 と聖経 『甘露の法雨』 には録(しる)されているのである。生長の家の人類光明化運動なるものは、生長を知って後退を知らないのである。進展伸展あるのみなのである。このことが神によって観つめ観送られているのである。

 神想観は、神を想い観ると同時に、神が想い観じ給うのである。生長の家人類光明化運動は生長の家なるものそのものが運動し給うのである。それ故、神とは何か、生長の家とは何かということがすべてのすべてとなって来るのである。

 渾(すべ)ての渾てなるものを神と言い、渾ての渾てなるものを生長の家というのである。それ故、生長の家は 「完成の教え」 となっているのである。 「完成の教え」 とは 「完成なる教え」 ということである。完成を教えるのではなく、完成そのもの、渾ての渾てであるのが生長の家なのである。

 生長の家人類光明化運動とは、完成なるものの、渾ての渾てなるものの運動であればこそ、澄み切りの澄み切りに明るいのである。(1998.9.9)

85復興G:2013/08/30(金) 07:33:00 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十二

 練成会では、神想観練習というのがある。しかし、練習と本番との境はどこにあるのであろうか。祈りには一体練習というものがあるのであろうか。

 生命から見れば、練習というものはないのである。そこには厳粛きわまりなき、神なるいのちが輝き、持続しているばかりである。

 練習で咲いている花はあるだろうか。練習で動いている心臓はあるであろうか。神は天地創造をするにあたってリハーサルをされたとはどうしても想えないのであって、いのちの宣べる 「命宣(いのり)」 には練習はないと言わざるを得ないであろう。

 さて、それでは、練習と本番(実修)とはどう違うのであるか。それはやはりコトバによる宣言にあるということになるであろう。

 司会が出て来て、

 「只今から神想観の練習をします」

 と宣言すれば、それは練習なのであり、

 「只今から、神想観の實修をいたします」

 と宣言すればそれは實修(本番)なのである。

 すべて、自分ではないということである。實修は書かれた字の通り、實修の實は實相ということであり、神ということなのである。即ち神・實相はまことであり、本番そのものであり.完成そのものなのである。

 神によって生かされているということは、本番が生きているということなのである。

 「實修します」

 という言葉が天降った時、はじめての人だろうが、練習中の人だろうが、その時知っていること、出来ることが、そのまま本番なのである。はじめての人が他のやっていることを見よう見まねをしようが、それ以上知りすぎても、出来すぎてもいけないのであって、本番とは神によってあるということであって、自分で選んで、自分で行っているのではないのである。

 すべて自分ではないのである。練成でも、 「こんなに素晴らしいのだったら、もっと早く来ればよかった」 と言ってよろこんで下さる方が居るということは有り難いことであるが、しかし、自分で選んで来たのではないのである。一秒早くても、一秒遅くてもいけないのであって、神なる本番に生かされて、本番が来られたのである。

 また、集まりにおいても、司会が、

 「ただ今から、はじめます」

 と宣言したならば、その時点において、一人多くても、一人少なくてもいけないのであって、人間が選んだものではない、そこに本番そのものが天降っているということなのである。ただただ、神、渾(すべ)ての渾て、本番がそこにあるのであって、未来への手段、過程としての姿ではないということなのである。ここに生長の家の集まりが今、明るいもの、感謝に満ちているすがたがあるのである。

 「新しい世紀は祈りの世紀」 という言葉を神想観中に聴いたような気がしたが、ここまで書いて来たことは、結局 「祈ってもよいのだ」 「神想観してもよいのだ」 「聖典をよんでもよいのだ」 「愛行(あいぎょう)してもよいのだ」 ということであったのではないか。今、ここにすべてのすべてがある、ということである。本番そのものである、ということである。

 自分は要らないのである。神のみなのである。神はすべてのすべてであって、分裂はないのである。神想観していても、聖典読誦していても、愛行していても、部分をやっているのではないということである。それは決して、他を後にして自分が先に渡ろうとしている姿ではないということである。

 「吾が内に神が今ここに、そして天国が今ここにある」 (『日々読誦(にちにちとくじゅ)三十章経』)

 ととなえるのが最大最高の祈りであるとされているゆえんである。(1998.9.10)

86復興G:2013/08/31(土) 07:07:17 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十三

 「最早(もは)や人間の力では及ばぬ。神に直接お出まし願う」

 ということが主旨主願となって建立されたのが龍宮住吉本宮であった。

 神、實相は円満完全であるが故に、ご自分みずからに顕現する権能(ちから)を具有(ぐゆう)してい給うという。もっともはじめにして最大の神への尊敬、全托(ぜんたく)の美しさを顕わす象徴として建立されたと拝察されるのである。

 宇宙の大神イザナギの命(みこと)の宇宙浄化の御はたらきが住吉大御神となってあらわれられたそのままの霊なる働きが生長の家人類光明化運動となっているのである。そこには人間の力はどこにも無いのである。中身は、宇宙の本体であるイザナギの命であり給い、住吉大御神であるのが、生長の家人類光明化運動なのである。

 生長の家人類光明化運動と書いて、イザナギの大御神と読んでもよく、住吉大御神と読んでもよいのである。

 またそのことを潜在意識にたたき込むという必要はないのである。潜在意識は無い、と浄め終わったのが生長の家なのである。

 實相が自己展開して、教えとなり、諸々の行となっているのであって、自己展開には相手はいらないのである。

 實相の円満完全を自分の心に納得させるとか、潜在意識を相手にたたき込みをやるとかいうことの全く要らないのが、實相ということであり、それであればこそ、まことに實相は円満完全と言えるのである、というこのことは、まことに何度繰り返しても繰り返し足りない嬉しさであるのである。

 嬉しさとは如何に自分が要らないか、ということなのである。 「最早や吾れ生くるに非ず、生長の家人類光明化運動ここに在りて生き給うなり」 というのが、 「よろこびの光明化運動」 ということの中身なのである。

 生長の家人類光明化運動が神そのものであるということは、 「生長の家人類光明化運動よ、あなたのみ心の如く生かし給え」 ということでなければならないのである。

 神は渾(すべ)ての渾て、生長の家人類光明化運動は渾ての渾てということである。光明化運動は自己展開あるのみなのである。

 斯くの如きことを今私は自分の潜在意識にたたき込んでいるのではないのである。生長の家人類光明化運動が今ペンとなって輝いて顕(あらわ)れて動いているのである。光明化運動が全身となり、呼吸となって輝いているのである。

 「自分が光明化運動をする」 ということは、要らないことであり、有り得ないことなのである。

 「生長の家人類光明化運動の運動方針」 の一字一字は、神の自己展開であり、延長であり、神そのものなのである。

 神癒祈願の人型の 「實相円満」 と書かれているのは、その言葉を潜在意識にたたき込むためのものではないのである。

 實相円満なるものが、みずから顕れてその文字となって輝いているのである。

 實相はみずから實相するのみである。 「實相を實相たらしめよ」 という、きわめて自然きわまりなき姿であり、そこには祈る方にも祈りを受ける方にも自分は要らないのである。

 それ故、ただただ實相円満の光りにあずかるのが神癒祈願であり、受ける人の過去の心の成績や、先祖の成績を調べるなどということはなく、ただただ實相のそのまま円満を受くるのみなのである。

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)」 を自覚した時に神癒となるという、ただただ實相を實相たらしめよ、というみ教えのひろがりがあるのみなのである。これが實相の成就ということなのである。(1998.9.11)

87復興G:2013/09/01(日) 05:05:20 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十四

 「時間を生かせ」 という大切中の大切なる言葉がある。何故大切であるか。それはまことには私が時間を生かすのではなく、時間は神が私に与え給うた自己表現のための愛念そのものであって、時間が私を生かすのである。それ故に、時間を生かすことは、愛を受けて、神の愛によって生かされることにほかならないのである。

 時間を生かせということと同じ意味において、空間を生かすということは、空間が私を生かして下さる、その神の愛に包まれ、浴することにほかならなかったのである。

 時間というものは、こちらの都合で生かすも殺すも勝手次第というようなものではないのである。神の愛は久遠不滅であって、生かすほかはないのである。生かされるほかは無いのである。このように観ずることが 「時間を生かせ」 ということの第一歩なのである。

 「今を生かせ」 というのも同じ意味において尊いかぎりのことなのである。今が渾(すべ)ての渾てであり、渾ての渾てでないものは今ではないのである。これは久遠の今であり、今である久遠なのである。實在なる今ということである。

 そのように今なるものの展開として、今なるものによって在らしめられ、生かされているのであって、そのように観ずることが 「今を生かせ」 あるいは 「今を生きよ」 ということを生きる第一歩なのである。

 斯(か)くの如き意味、相(すがた)において、吾々によって生長の家人類光明化運動があるのではなく、生長の家人類光明化運動によって吾々があるのである。

 光明化運動を生かすも殺すもこちらの勝手次第というようなものでは決してないのである。光明化運動は神そのものであり、不滅であり、生かすほかはなく、吾々もまた生かされるほかは有り得ないのである。

 自分みずから在り、自分みずから顕れるのが光明化運動なのである。光明なるものがみずから運動しているのが光明化運動なのであり、吾々によって光明があるのではないのである。みずから在りて在るものを光明というのである。

 生長の家人類光明化運動に加わりたいとの願いが起こること自体が、既に、はじめのはじめより、久遠の昔より自分の内にある生長の家人類光明化運動なるものが、みずから現れ出て来て、その願いとなって輝いているのである。既に全宇宙、全實在に根をもった生きた芽が出て、その願いとなっているのである。

 これに反して、自分ではじめたという光明化運動は造花の芽のようなものであって、虚(むな)しいものなのである。

 全實在に根をもった生きた芽と、造花の芽との違いは、生きた芽の方は、 “忘れていても伸びている” ということである。

 生命の特徴はみずからの内に伸びる智慧と力とを備えているということである。

 そのような生きものとして生長の家人類光明化運動なるものはあるのである。生長の家人類光明化運動はみずから生長する力を円満具足しているということである。このように観ずることが光明化運動を自分の力でかつがなくなることなのである。

 これが我(が)の要(い)らない、感謝の当体(とうたい)としての生長の家人類光明化運動の輝きなのである。

 全托(ぜんたく)するとは、全てを托すことである。全宇宙を神に托すことが全托ということである。それは自分が要らないという相(すがた)でなければならないのである。全宇宙の光明化を生長の家人類光明化運動それ自身に全托することの出来る道がここにあるのである。(1998.9.12)

88復興G:2013/09/02(月) 07:10:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十五

 「最早(もは)や人間の力では及ばず。神に直接お出まし願う」 という主旨がうたわれて、龍宮住吉本宮のこ造営がはじまった時、生長の家人類光明化運動なるもの、そのものにみずから顕れて頂き、それみずからのはたらきによって人類を光明化して地上天国を顕現していただく、という観方の運動観が唱道された時であったのである。それが顕斎(けんさい)の時代に入ったことを意味していると言ってもよいであろう。

 「招神歌(かみよびうた)」 によって 「吾が生くるは吾が力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」 と歌われた時から、既に、はじめより宣言(のりごと)されていたことであったが、このような建立によって、それが心新たにさせられたと拝察するのである。

 機械は外から智慧と力を貰わなければ作動しないから、外からのつながりを切った時が停止した時であるが、赤ちゃんは、臍(へそ)の緒(お)を切って、外とつながらなくなった時、誕生ということになって、生長がはじまるのである。すでに内にすべてが備わっているのが生命であるのである。

 それ故、 「あなたは生長の家に入らなければ救われませんよ」 という扱い方は、相手の人を機械として扱っているということになるのである。

 「あなたの中に全てがあって、あなたの中にはじめからある生長の家が出て来て、生長の家に来られたのですよ」

 という扱い方が、はじめからある生長の家人類光明化運動によって生かされている生命であるとして扱っていること、拝んでいることなのである。

 「他(ひと)からすすめられたように見えていても、すすめられる運命はやはり、あなたの中の生長の家人類光明化運動なるものがみずから展開しているのです」

 ということもまた、生長の家人類光明化運動にすべてを托した観じ方拝み方、祝福の仕方であると言えるのである。

 「宗教によらなければあなたは救われませんよ」

 という扱い方は、外からのものに頼ることであるから、機械として扱っているのであり、

 「あなたは宗教をやってから生まれて来たのではないでしょう。もしも神がいるとすれば、はじめから平等に、完全に生かして下さっているのが自然なことですよ。宗教をやったものは生かすが、宗教をやらないものは生かさないという神がいるとしたら、

 “何故、平等に生んで呉れなかったか” という、不満と裁きと恨みしか出て来ないのですよ。生長の家は感謝の教えであるということは、はじめから平等完全に生かして下さっている神を発見したからなのです。むしろ、今日から “私には宗教は要らなかった” と思っていただく方がうれしいのですよ」

 という表現は、はじめからある生長の家なるもの、人類光明化運動なるものの、みずからなる顕現としての、いのちを拝んでいるということになっているのである。

 解放する運動であるということは、はじめのはじめから在りて在るものが、みずから目覚めてはじまっているということを認めることが出発点となっていることを意味しているのである。

 「神のものは神に」 「生長の家人類光明化運動のものは生長の家人類光明化運動に」 ということである。

 今、生長の家人類光明化運動なるものそのものが、それみずからによってあるべき相(すがた)に甦る時を迎えているのである。(1998.9.13)

89復興G:2013/09/03(火) 06:14:09 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十六

 釈尊が 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 と宣(の)り給うたのは 「運動の成仏」 ということでもあったのである。

 生長の家人類光明化運動はそのまま成仏の相(すがた)なのである。成仏とは成っている仏、鳴りひびいている仏、説法しつづけている仏ということであるから、生長の家人類光明化運動はそのまま仏であり、鳴りつづけであり、神そのものであるのである。

 人類光明化運動そのものに対する合掌の相(すがた)こそ最もふさわしい私たちの相であるということはまことに厳かな有り難さなのである。

 人の手によってはじめられた運動ではないということは、 「人事を尽くして天命を待つ」 ということ以前の運動であるということである。

 「今」 によって起こった運動であるとは、運動そのものが時空超脱であり、因縁を超えて立っている運動であるということなのである。何ものにも依らずして、みずから在りて在る運動であるということである。久遠の今なるものが立った運動であるということである。

 立教とは、教えなるものが自ら立ったということである。真理みずからが立っていることが立教ということなのである。そのまことの立教なるものを大聖師谷口雅春先生は自己の内に拝み給うたのである。

 「生長の家は久遠の昔からある」 ということは 「生長の家の立教は久遠の昔からある」 ということであり、 「生長の家人類光明化運動も久遠の昔から在りつづけである」 ということである。 「天地(あめつち)とともに窮(きわ)まりなかるべし」 とは生長の家人類光明化運動のことであるのである。 「窮まりなし」 とは時空みずからが超脱され、脱落していることなのである。

  人間は光の子にして常に光の中にあれば
  暗きを知らず、
  躓(つまず)きを知らず、
  罣礙(さわり)を知らず、
  かの天人が天界を遊行するが如く
  また、海魚が水中を游泳するが如く
  光の世界に光に満たされ法悦に満たされて遊行す。

 とは、生長の家人類光明化運動の遊行している相(すがた)そのものなのである。

 未(いま)だかつて生長の家人類光明化運動は、暗(やみ)と出逢ったことも、躓(つまず)いたことも、障礙(さわり)をされたことも無いのである。空中遊歩の神人(しんじん)なるものがこの運動なのである。空中とは真(まこと)の無、無の無の無なることそのことなのである。空(くう)なるものが空であるとき、真(まこと)なるものが真(まこと)なのである。真空にして妙有している運動が生長の家人類光明化運動なのである。

 尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)の説法の充満そのものが生長の家人類光明化運動なのである。

 この運動は 「今」 起(た)った運動であり、すべてのすべてなるが故に、自分自身のいのちそのものなのである。

 今、ここ、吾れ ひとつに鳴っている久遠なる 「今」 こそ生長の家であり、人類光明化運動なのである。自分の生活において、この運動と自分との分離はどこにも存在しないということは、まことに厳かな事実なのである。神は渾(すべ)ての渾て。生長の家人類光明化運動も渾ての渾て。自分の自分なるものも渾ての渾て。久遠の今なるもの、中(みなか)なるもの、ひとつなるもの、大調和(みすまる)の宇宙(くに)なるものの澄み切りの實相の消息である。(1998.9.14)

90復興G:2013/09/04(水) 05:03:22 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十七

 生長の家人類光明化運動なるものの大實体に生かされている實在の価値創造が神の子の生活なのである。聖書の 「吾ら、つらつら手ざわりしところのものを語る」 というところの實在なる大賞体が生長の家であり、人類光明化運動なのである。

 住吉大御神は浄まりの当体であり給うのである。澄み切りの当体であり給うのである。宇宙浄化なるものの、浄なるものの大實体こそ生長の家人類光明化運動の、 「吾らつらつら手ざわりしところのもの」 なのである。

 無の門関において、すべてを放った時、大實在宇宙が手のひらの上に乗る、という大聖師のお言葉こそ、イザナギの大神=住吉大御神=大實在宇宙=生長の家人類光明化運動なるものの大實体を手ざわりし給うたお言葉であったのである。

 入龍宮幽斎殿における神想観において、龍宮本源において、「一切の宝、吾が掌中(しょうちゅう)にあり」 と感謝することは、如意宝珠(にょいほうじゅ)なる大宇宙大實在=生長の家人類光明化運動の大本体、創造の大實体を掌中に手ざわりしていることの観法となっているのである。

 神の子のいのちは、龍宮の創造の本源たる生長の家人類光明化運動なるものの中に坐すると同時に、創造の大實体なる生長の家人類光明化運動を如意宝珠として.わが掌中に持(じ)しているのである。同時現成なのである。これが 「十方世界光明遍照、わが全身光明遍照……」 の中身であり、生長の家人類光明化運動の光明の相(すがた)なのである。

 その光明化運動の大實体の大なるゆえんは、聖経 『甘露の法雨』 の

  真理
  光明
  智慧
  絶対の愛。

の真理、光明、智慧なる 「絶対の愛」 がこの運動の實体であるからである。絶対なるものを大というのである。

 絶対の愛とはみずから輝いている愛ということであり、在りて在る愛ということである。相手との相対関係によって成り立つ相対の愛ではないということである。みずから愛である愛ということである。

 吾れも知らず、他も知らず、三界(さんがい)に身を現さざるところの、渾(すべ)ての渾てなる澄み切りの絶対の愛が生長の家人類光明化運動の大實体なのである。

 ここに.対立するものなくして、全地上を覆(おお)うところの生長の家人類光明化運動の一つの相(すがた)を拝むのである。

 形にあらわれたるものによらざる光明化運動のひろがりというものをここに拝むのである。

 善悪は別として形によってその大いさを計量しようとすると、どれだけそれがあっても 「それだけか」 ということになってしまうかも知れないのであるが、そうならないのが 「絶対」 なるが故に、幽(ゆう)の幽なると同時に顕(けん)の顕なる、三界に身を現さざるが故に、渾ての渾てなる生長の家人類光明化運動の厳かさをここに拝ませて頂くのである。

 知らない内に、知られない内に、光明がすべてを覆い尽くしてしまっているという、姿、形なき、澄み切りの運動ということである。本当の断食とは、 「物質なし」 を知ることである。形で食物を断つことではないのである。大いに感謝して食するのである。そのように、姿、形なき運動とは、姿、形をとらないということではないのである。 「姿、形なし」 と知ることによって、 「姿これ姿に非ず、是を姿という」 ということであり、 「形これ形に非ず、是を形という」 ということである。(1998.9.15)

91復興G:2013/09/05(木) 05:55:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十八

 普通 「○○運動」 と言えば、目標を未来におき、それを達成してこそ価値を生ずるというものであるが、 「今」 そのものである生長の家人類光明化運動は 「今を生きる」 ことが運動であるのであり、 「今が生きる」 ことが運動そのものであり、価値それ自体が生きることであるのである。

 目的のための手段としての生活ではなく、 「今が渾(すべ)ての渾て」 であることそのことの成就、すなわち 「今」 なる實相が成り就(な)り生きている、完成なるものの純粋なる持続、天国なるものの純粋持続が生長の家であり、人類光明化運動なのである。

「今」 であるということは、神であり、渾ての渾てであるが故に、 「今」 である生長の家人類光明化運動は、吾が内において、

「私は渾ての渾てである」

 とみずから宣(の)り給うているのであり、

 「私は汝そのものである」

 と宣り給い、

 「汝は汝と顕れた私である」

 と宣り給うているのである。また、

 「私はみずから在りて在るものである」

 と宣り給うているのであり、

 「私は汝の内なる創造の本源そのものである」

 と宣り給い、

 「私は渾(すべ)ての渾てなるが故に、自己展開し、みずから顕れる力を円満しているのである」

 と宣り給うているのである。そして、

 「汝は私の生みの子であり、私の世嗣(よつ)ぎであり、渾ての世嗣ぎなのである」

 と宣り給うているのである。

 生長の家人類光明化運動のコトバ現れて一切万物万象となっているのである。生長の家人類光明化運動は實相であり、實相なるコトバ展開して實在の實相世界が展開しているのである。

 ここにおいて道元禅師の言われたごとく、

 「身も心も入れずして、仏の側から行われもてゆく」 ということは 「身も心も入れずして、光明化運動の方から行われもてゆく」 ということとなるのである。

 「身も心も入れずして」 とは、身も心も要らないことであり、身自身、心自身が 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りのよろこびの、安らかさの輝きに浴することなのである。

 また 「非思量底(ひしりょうてい)を思量する」 ということも、思量みずから 「私は無いのです」 との思量みずからの脱落であり、脱落中を遊歩しているいのちの消息なのである。脱落中を遊行(ゆぎょう)している生長の家人類光明化運動ということである。これは

 光りの中の光りの遊行であって、 「異類中行(いるいちゅうぎょう)」 ということではないのである。生長の家人類光明化運動は光りにおける 「同類中行」 なのであり、法悦(よろこび)の中を法悦が遊行しているのである。

 何故ならば、生長の家人類光明化運動は神であり、渾ての渾てであり 「それ以外にあるものなし」 なるものにとって、異類なるものは無いからである。ひとつなるものにとって異なるものは有り得ないからである。

 ここにおいて、光りにおける同類の集りである 「誌友会」 なるものが如何に尊くも素晴らしきものであるか、ということが心新たに想われて来ざるを得ないのである。

 光りとは何か。光りとははじめのはじめからあるところのよろこばしき全て、ということである。はじめのはじめからある光りなるものを生長の家人類光明化運動というのである。

 人々は光りとして、内在の生長の家人類光明化運動なるものそのものとして誌友会に 「行ってみよう」 という願いを起こすのである。それを、はじめての人にも、既に来ている人にも、すべての人々について拝んでいるのが 「誌友会」 なのである。( 『誌友会についての所感』 別冊子参照)(1998.9.16)

92復興G:2013/09/06(金) 06:31:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         七十九

 何が光明化運動であるか。どうすることが光明化運動となるのであるか。そう問う前に 「今」 「自分」 「生長の家人類光明化運動」 が “ひとつ” であるということである。自分なる存在そのものが光明化運動そのものであるのであるから、

 太陽が行けば、何処(どこ)も彼処(かしこ)も昼であるように、自分なるものが行けば何処も彼処も光明化運動ばかりなのである。

 「光明化運動とはあなたのことであり、あなたのすべてが光明化運動なのです」

 と言い切れているのがこのみ教えなのである。それ故、 「この運動に協力せよ」 ではないのである。

 「あなたがますます、あなたらしく」

 ということがあるばかりなのである。

 「光明化運動は光明化運動らしく」

 ということがあるのみでよいのである。

 神は神らしくあるそのままであり給うのである。ただただ、天然、法然、自然、当然、本然であり、忽然(こつねん)忽然現成(げんじょう)あるのみなのである。忽然とは無原因ということである。

 忽然なるものには歴史的背景などというものは無いのであり、要らないのである。

 忽然の 「忽」 とは 「心に勿(なか)れ」 と書かれているのであり、非思量底であり、心によって認識投影された時間空間無きこと、現象無きことが忽然ということなのである。

「忽然忽然光明現成」 が生長の家人類光明化運動なのである。目無堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗って行われているのが生長の家人類光明化運動なのである。

 「未(いま)だかつて實相を観たものは無いのである」 と大聖師のおコトバは鳴り響いているのである。それは幽の幽なるものであり、不可思議の不可思議なるものであり、妙(みょう)の妙なるものであり、みずからの消え切りの澄み切りであるからである。そして、その相(すがた)なるが故に、観るものと観られるものとの分離はなく、目無堅間である故に、観るということそのことが無いのである。それは自分そのものであるからなのである。

 それと同じ意味において、 「未だかつて生長の家人類光明化運動そのものを観たものはないのである」 ということなのである。三界に身を現さざる澄み切りの光明であるからである。このような消息において、生長の家人類光明化運動はそれらしく、ということなのである。それ自身光明であるものにとっては、陰影も背景も要らないのである。

 観じられることによって現れるという 「観じる」 という前景も要らないのである。忽然現成なのである。忽然忽然現成の純粋なる創造的持続が光明化運動の 「運動」 というものなのである。

 これが 「生長の家人類光明化運動は生長の家人類光明化運動らしく」 という相(すがた)なのである。それはそれをそのまま生きている相(すがた)なのである。それを 「そのまま」 というのである。手段のための運動ではないということである。それ自身がそれ自身である運動ということである。

 「……のための」 ということから解放されたよろこびとしての光りの運動なるものの消息である。これは現象人間のよくする相(すがた)ではなく、現象運動のよくする運動ではないということである。 「天より天降った火だ!!」 と大聖師が宣(の)り給うている實相なるものとしての火であり、光明ということである。世の常ならぬ運動とはこのことである。

 「……のための運動」 ではなく 「運動それ自身」 の成就としての運動ということである。 「蕾(つぼみ)は花のためならず」 ということである。蕾が渾ての渾てなのであり、花はすべてのすべてなのである。渾ての渾てなるものの純粋なる持続あるのみである。(1998.9.17)

93復興G:2013/09/06(金) 23:44:43 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十

 「神想観それ自体の神想観」 「聖経読誦それ自体の聖経読誦」 「光明化運動それ自体の光明化運動」 である。手段、目的のためのものではない相(すがた)である。

 神は目的、手段のための生活にはないのである。神はそのようには在(いま)し給わないからである。

 神は如何に在(あ)り給うか。神は 「今」 すべてのすべてであり給うのである。生長の家人類光明化運動も 「今」 すべてのすべてなのである。純一無雑(じゅんいつむざつ)、純乎(じゅんこ)として純なる光明なる運動とは目的と手段超脱の 「今」 である。

 運動方針を立てると言えども、その運動方針は 「私は無いのです」 とのみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きであり、一切死に切りの、真空妙有なる無限充足の輝きとしてあるのである。 「運動方針これ運動方針に非ず。これを運動方針という」 である。運動方針の一文字一文字は神であり、神の国そのものであり、無限充足の天国そのものなのである。

 斯(か)くの如きが 「生長の家人類光明化運動」 の運動方針なるものなのである。それ自身がそれ自身でそれ自身を完了している 「今」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 のそのままの一字一字なのである。ただただ零なのである。ただただ一切なのである。ただただ○なのである。

 黄檗(おうばく)禅師の 「衆について求めず、法について求めず、悟りについて求めず、ただただ礼拝することを為す」 との言葉が想い起こされるのである。

 ただただが 「光明」 である。ただただが 「化」 である。ただただが 「運動」 である。ただただが神である。ただただが充足である。ただただなる無限充足なるものの自己展開としての運動である。

 絶対の愛としての光明化運動とは、それみずからで成立している光明の相(すがた)であるから崩れることなき久遠そのものなる運動なのである。

 「数これ数に非(あら)ず、是(これ)を数という」 ということは、数に非ざる消息なのである。数という形そのままに、それはみずからの消え切りの脱落であり、澄み切りであるとは目的、手段のための数ではないということである。目的、手段と見ゆるままに、目的、手段は 「私は無いのです」 とみずからの消え切りであり、澄み切ってしまっている聖なる何かと出合っているところに 「今」 なる光明化運動は成り立っているのである。光明という光明のすがしさ、さやけさ、かそけさがここに満たされているのである。

 数が数字が黄金色燦然と輝いているのである。 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 ということは、数の成仏ということなのである。

 総裁谷口清超先生がその御著 『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読む』 の 「山水経の巻」 において、東山水上行(とうざんすいじょうぎょう)、西山常運歩(せいざんじょううんぼ)をお説きになられ、山も川も渓(たに)も水も空も自在に運歩している自在無碍(むげ)實相生命をお示しになって、教化の相(すがた)もこの運歩の相であるとお書きになっていられるのである。

 この自在のお姿がご講習会のおすがたであったのである。会場も人もその心もすべては大光明實相生命の運歩であり、菩薩の雲集(うんじゅう)をそこに拝み給うて、斯(か)くお示しになられたことと拝察申し上げるのである。

 「数は力」ではないのである。「数は神」 なのである。「数は渾(すべ)ての渾て」 なのである。「数は光り」 なのである。神でなく、渾ての渾てでなく、光でないものは「数」 ではないのである。(1998.9.18)

94復興G:2013/09/07(土) 06:12:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十一

 「行(ぎょう)ありて願(がん)なきは仏の魔事(まじ)なり」 という仏典の “願” という言葉は、 “願い” という目的とその手段に引きすえられた生活とは違うのである。

 それは自我なき、神なる 「今」 なる “願い” なのである。今ここに完成そのものであるという “願い” なのである。

  “願い” は神であり、神が “願い” なのである。 “願い” は神であればこそ、 “願い” なきことは神なきことであり、魔事どころではなく全くの無なのである。

 「今」 を生きず、未来を生きようとすることが魔事なのである。神を生きず、自分を生きようとすることが魔事なのである。過去、現在、未来という無いものの上に立って生きようとすることが魔事なのである。神を生きること、 「今」 なるものを生きることが魔事でないことなのである。

 生長の家人類光明化運動が魔事でなく聖なる相(すがた)であるのは、生長の家人類光明化運動が神そのものであり、成仏そのものであるからなのである。

 神、仏の発したコトバが “願” なのである。天国、極楽なるものが発しているのが “願” なのである。神になりたい、仏になりたいと願うことそのことが既に神が、仏が為し給うているのである。

 まことの “願” とは、 「今」 神であること、仏であることであり、 「今」 .天国であることであり、極楽であることなのである。

 「吾れもと一切衆生をして吾れと等しくせんとの願を発せり。その願既に満足せり」 との釈尊の “願” なるものは、時空超脱の自分と同じくあらしめる願いであるから、釈尊の前には時間空間はないのである。それ故、願いを発してから、ある時間の経過の後に満足したという、願いと実現との間の時間はないのである。願いそのものが神であり仏であり、満足そのものであり、願いと成就との同時現成なのであり、これこそがまことの “願” なのである。

 吾れと彼、願いと成就との分離相対を超えてあることが釈尊が釈尊であることなのである。 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょうどうじじょうどう)」 と拝み給うた時が、 “願” なるものの成仏を拝んだ時であり、まことの “願” なるものの成就であったのである。神(仏)=願=成就なのである。成就とは成り就(な)り輝くことであり、願いの成就とは願い即ち神(仏)の鳴り鳴り輝くことにほかならないのである。

 斯(か)くのごときまことの “願(がん)” なき行(ぎょう)はまことに魔事(まじ)であり、釈尊の観じられた 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 の行なのである。どこまでも実りはなく、 「いったいどこまでやれと言うのか!!」 とのなげきに終わるのである。

 これを超えたところから出発しているのが、生長の家人類光明化運動なのである。ただひとつ 「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)」 ということであるのである。

 自分ではないということである。自分は要(い)らないということである。既に完成している世界であるということである。

 まことにも 「完成(ななつ)の燈台」 とは自分の要らない燈台ということなのである。(1998.9.19)

95復興G:2013/09/07(土) 06:36:44 ID:AB6RqYXc

 榎本恵吾先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 が、80回を超えました。

 上記の論文と申しますか、『「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書』 とされているご文章は、最初に書きましたように、(>>5

<<榎本先生が宇治別格本山の神癒祈願部長をされていたとき、平成10年7月1日から11年11月29日(1998.7.1〜1999.11.29)に、毎日 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 で神想観・神癒祈願をされたあと、この論文を書かれたのだということです。論文といっても頭で考えた論文ではなく、祈りからほとばしり出た、内なる神の声と言ってもよいものでしょう。これは、平成10年大晦日の12月31日にも、11年元日の1月1日にも、1日も休みなく書かれております。

榎本先生はパソコンは使われず手書きで書かれる。それを職員がパソコンで打ち込み、プリントアウトしたものを、当時本部に設けられていた 「光明化運動・21世紀を考える検討委員会」 宛に送っておられたそうです。>>

 というもので、ここまでに謹写掲載し終えたのは全体の1/30程度かと思います。まだ1年と数ヵ月続くのですが、ここでちょっと小休止し、これからしばらく、谷口雅春先生の御文章の謹写に変えさせて頂きたいと思います。

 ありがとうございます。合掌

96復興G:2013/09/07(土) 07:07:22 ID:AB6RqYXc

  人 生 の 秘 訣

(谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より)

   ある傷痍軍人の實例

 ここで、今ちょっと思い出したのでありますが、戦争直後でしたが、あれは、多分、九州の福岡で講習がありましたときでした。傷痍軍人(しょういぐんじん=戦地で傷つき身体障害者となられた元軍人)の方で、脚に弾丸を受けて、傷は治ったが、その一方の脚が曲らないで、坐れないので脚を投げ出しておられた受講生がありました。

 そのときに、私は、高千穂(たかちほ)の峰(みね)に登った時の話をしたんです。あの高千穂の峰へ、日向(ひゅうが)の方から、霧島山を登って行きますと、頂上に天逆鉾(あまのさかほこ)というのが祀ってある。天から逆さまに宇宙を貫いて落ちてきた剣だとして祀ってあるのですが、そこへ達する少し前の所に、 “馬の背越え” という所があるんです。ちょっと馬の背中みたいな恰好(かっこう)に、土が高く盛り上がっていて、そこから坂が急になって登るんです。その “馬の背越え” という処に暫(しばら)く立って崖を俯瞰(ふかん)すると、その崖が、これは豪雨でもあったときに、山津波(やまつなみ)でも起こしてシャーッと山の一部が切断するように壊(くだ)けてズリ落ちて、その土の滑り落ちた跡が截(き)り立ったような垂直の壁面を山肌に作っているのです。それには速力の感じが出ていて、速力はやくサーッと画筆を名画家が墨痕淋漓(ぼっこんりんり)と走らせたような力の感じの美しさというものがその崖の壁面にあらわれていたんです。その光景を私は話して、

 「神様のお創造(つく)りになったものは全て美しい。そこには神の生命が動いておって、皆んな美しいんだ。この截(き)り立った山の肌は山の一部が崩れて落ちた跡で、謂(い)わば、これは山の傷痕(きずあと)である。此の山の傷痕でさえもこんなに美しいのである。

 それなのに、天皇陛下のために大東亜戦争で戦って、そして負傷した傷痕を、 “私はこんな見苦しい身体(からだ)になっている” と思って怨みに思っている人があるかしらんけれども、それを、みる眼で見たならば、此の山の肌の傷痕が美しいのと同じように、實に美しいのである。その傷痕にも、生命の動きがあらわれているのである。

 すべて生命の動きのあらわれているものには何でも、なんとも言えない美しさがあるんだ。それがわからないのは、観る眼がないからである」 ――というような話をしたんです。そしたら、その瞬間に、その脚を投出しておった人が、ちゃんと坐って、それから今まで跛(ちんば)ひかなければ歩けなかったその人が、講習が終ると、跛をひかないで、ちゃーんと歩けるようになって、礼を言ってお帰りになったので、受講生一同が大騒ぎでこの傷疲軍人を祝福したのでありました。

 この人が今まで、脚が硬直して曲らなかったのは、 “自分は、戦争のお蔭(かげ)でこんな目に遭(あ)わされて……” と思って、国家を怨(うら)んだり、軍を怨んだり、或いは敵のアメリカ兵を怨んだりしておったので、その硬直した心が、肉体にあらわれていたのでしょう。ところが私が、 「この山肌の、崖の崩れた傷痕でさえもこんなに美しい、いわんや天皇陛下の御いのちのために働いて傷ついたその傷痕というものは、決して見苦しいことはないのである。美しいんだ。それがわからないのは、吾々の心の眼が開かないからである」 ――という話をしたときに、

 “私は戦争のために傷ついた。自分は被害者だ” と考えて怨んだり憎んだりしていた今までの一切の怨みや憎しみが消えて、 “自分のいのち” が大いなる天皇の “大御(おおみ)いのち” の中に融け込んで、そしてこうして国家のために、天皇のために働いたお蔭でこうなったんだ。これは却(かえ)って有難いんだ、ここに私の忠誠のシルシがあるという、傷痕を祝福する気持が起ったらしいんです。そうすると、その脚が治って跛(ちんば)をひかないで起ち上がって当り前に歩けた、というのであります。だから肉体はまことに “心の影” であると、いうことがわかるのであります。
<つづく>

97復興G:2013/09/07(土) 22:01:14 ID:AB6RqYXc

>>95
>> 「ここまでに(『神癒の展開としての人類光明化運動』を)謹写掲載し終えたのは全体の1/30程度かと思います」<<

と書きましたのは勘違いで、「1/7程度」 の誤りでした。

98復興G:2013/09/07(土) 22:07:29 ID:AB6RqYXc

>>96 谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より謹写 つづき>

    “無限” と “有限” との自己同一

 さて、 “永遠の生命(いのち)” が “今” “ここ” に生きているという “無限” と “有限” との自己同一、 “永遠” と “今” との自己同一を自覚しなければ、現象的には有限のいのちしか生きることのできない自分が “今、ここ” に “永遠の生命” を生きているということがわからないのであります。つまり、キリストが 「我はアブラハムの生れぬ前(さき)よりある者なり」 といったことや、釈尊(しゃくそん)が 「我れは五百塵点劫(じんてんこう)以前から生き通している自分だ」 といったことがわからないのであります。(中略)

   現象時間は存在しない、従って非存在の現象時間の中にある事物も存在しない

 (中略)

    “今” を生かせということ (過去の業を消す)

 私たちが 「“今” を生かせ」 といったり、或は又 「“今” に生きる」 といったりするその “今” というのは、そのような現象時間の流れの中にある “現在” というようなものを上手に生きようという簡単な意味じゃないのであって、その過去・現在・未来の一切がいまここに把(つか)まれているところの “久遠即今(くおんそくいま)” の生命(いのち)を生きよ であるのです。

 「これを握れば一点となり、これを開けば無窮となる」

 と聖経に書かれているところの、 “無窮” が常にあるところの “今” の一点であるのです。

 現象時間の流れの中で “無窮” を生きようと思うと、肉体の寿命は無窮には生きられないけれども、 “今” の一点に “久遠” の絶対時間を生きると、過去も現在も未来も今ここに一つに把(つか)まれてしまう、ということになるのであります。

 そうすると、吾々は今ここの自己の内に過去も現在も未来も把んでいるから、過現未が自分の掌中にあるのです。普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる。そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業(ごう)を消すことが出来るということがわかる。

 未来は無論、これから起るのだから変化できる。現象の流れの中にあるものは、全部こうして自分の内に “心のハンドル” をもって把(つか)んでいるんですから、吾々が欲(ほっ)して変化できぬものはない。

 吾々は、現象に対しては幻術師の立場にある。現象は仮(けげん)であって、心の現すところであるから、心によって自由に変化することが出来るのであります。

 さて、この 「 “今” を生きよ」 という “今” は、唯今説明いたしましたように、過去・現在・未来という現象時間の流れのうちの “現在” を生きよというような浅い意味での “今” ではないのであります。過去・現在・未来のすべての時間がその内に握られており、そこから過去・現在・未来が発して来るところの “本源の今”、 “源の今” “永遠を内に含む今” を自己の掌中に握ることであります。この “永遠を内に含む今” が “永遠の今” 、 “今即久遠(いまそくくおん)”、 “久遠即今”、 “未発の中(ちゅう)” というものなんです。

    “未発の中” に入ること

 何事でも本源に還って、本源の叡智(えいち)を受けてくることにしますと、する事為(な)す事、急所に中(あた)るのであります。この本源の中心を儒教では “未発の中(ちゅう)” といった。

 “未発の中” というのは、これは支那の 『中庸(ちゅうよう)』 という古書の中に書かれているところの 「喜怒哀楽(きどあいらく)未だ発せざるを “中(ちゅう)” という、発して節(せつ)に当る、これを “和” という」 と表現されているところの、あの一切のものが “未(いま)だ発せざる” 根元の 「中」、いまだ陰陽に剖判(ぼうはん)せざる未発の本源世界ということを意味するのであります。この本源の未発の “絶対無” (有無相対の無ではない) の中へ吾々が入っていくのが、神想観の 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 ということなんです。
<つづく>

99復興G:2013/09/07(土) 22:37:25 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より謹写 つづき>

 これは、 『古事記』 に於いては 「無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗る」 というように書かれているのであります。これは、日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)様が鉤(つりばり)を失われて、それは御兄の命(みこと)から借りた鉤であるから、それを返さなければならない、というときに、魚に鉤を取られていて、取り返す道がない。どうにも仕方がないので、自分の佩(は)いていられた剣(つるぎ)を鍛(う)ち直して、五百本の鉤をこしらえて、

 「これで我慢して下さーい」 と、御兄君のところへ持って行かれた。御兄の命(みこと)は 「そんな代用品をいくら持って来ても駄目だ。もとの鉤を返せ」 と言われる。

 もとの鉤といったって魚が食って行ったものを取戻しようがないのです。そこで日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は仕方がないのでもう五百本新しい鉤をこしらえて、合計一千本にして 「これでどうぞ我慢して下さーい」 と持って行かれたけれども、御兄の命は 「もとの鉤を返せ」 と言われる。

 そこで日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は途方にくれて、海辺に立って泣いておられた時に、住吉大神、別のお名前は塩椎神(しおつちのかみ)――この神様は龍宮の大神でありますが、その龍宮の大神が出て来られて、 「如何(いか)にぞ虚空津日高(そらつひだか)の、泣き患(うれ)いたまう所由(ゆえ)は?」 と言ってお訊きになった。

   万教帰一を象徴する “目無堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)”

 “虚空津日高(そらつひだか)の……” というのは、御空(みそら)から天降(あまくだ)って来られたところの、日の輝く日の本の嫡嗣子(ちゃくしし)――即ち天津皇位(あまつみくらい)を継ぎたまう皇太子にあらせられるところの 「日嗣(ひつ)ぎ御子(みこ)」 がお泣きになっておられるというのは、ただ事でない、一体何事がございましたんでございますか、と言ってお伺い申し上げたのであります。すると、

  「これこれ云云(しかじか)、魚に鉤(つりばり)を食われて鉤が行方不明になってしまったのに、兄命(あにみこと)の火照命(ほでりのみこと)が “もとの鉤を返せ” と言われるので困って泣いているんだ」 とお答えになるのでした。

 すると塩椎神(しおづちのかみ)さまは、 「私に善き謀(はかりごと)がございます。 “無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)” というのにお乗せ申し上げますから、八重(やえ)の汐路(しおじ)の中に一条の水路がございます。その汐の路(みち)に沿うてずっとこの舟に乗っておいでなさいましたならば、龍宮海(りゅうぐうかい)に達します。

 龍宮海は實相の世界、生みの底、一切のものを創(う)み出す “創造の根底世界” だから、何ものも失われたものはないのでございますから、そこへ御案内申し上げましょう」 と言って、塩椎神さまは 「無目堅間(めなしかつま)の小舟」 を拵(こしら)えて御案内申し上げた。

 その 「無目堅間の小舟」 が、この十字であります。(註。黒板に十を書く)。十字はこれ、キリストの十字架でもあるし、これが少し動き出すと佛教の卍(まんじ)にもなるし、もう一つはげしく動き出して回転すると日の丸になる。

 神佛耶(しんぶつや)、佛教もキリスト教も神道も、 「無目堅間の小舟」 に乗れば、一つになるのであります。

 佛教ではこれを 「如来(にょらい)の願船(がんせん)」 とも言う。 『旧約聖書』 では 「ノアの方舟(はこぶね)」 となっています。こののりものの中心――十字交叉(こうさ)の一点が “無の門関” です。

 禅宗の公案の本に 『無門關』 というのがある。私は、 『無門關解釋(むもんかんかいしゃく)』 という本を書いたが、この “無” の門関を超えて、時空を超越する境に達すれば、人間は自由を得る。図解を見て下さい。(黒板に縦横十字の線を描き)

 この縦の線は時間である。時間には目盛がある。時間の目盛のないのが “目無(めなし)” 即ち無時間――未(いま)だ時間発せずであります。

 それから横の線は、横ひろがりの世界、空間を表しているのであります。(掌を聴衆に向け、指をひらいて、指と指との間に空間を作って見せながら) 空間はこう開(あ)けると、空間ができますね、(次に指と指との間を堅く密着して示しながら) こうして堅く空間が詰まって空間が無くなったのが “堅間(かつま)” 即ち無空間で、未(いま)だ空間発せずの 「絶対無」 (未発の中 <みはつのちゅう>) であります。

 この十字交叉(こうさ)の中心の無空間・無時間の 「絶対無」 の一点に入るとき吾々は時間に捉われず、空間に捉われず、自由自在を得るのであります。
<つづく>

100復興G:2013/09/08(日) 00:52:06 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』 より つづき>

 聖経に 「これを握れば一点となり」 と書かれているその一点が 「未発の中(みはつのちゅう)」 であって、一切が、その一点の中に掴(つか)まれている。ひろがりも長さもなにもない “無” である。現象としては何もないが、實相としては一切がそこにある。この “無” の関門を通ってですね、その奥に超入すると超時空の實相世界 (龍宮海) に達するのです。

   龍宮海――創造の本源世界へ入るには

 図解というものは時間空間面に描くので、その表面に現れているところはみな現象界だから、龍宮海(りゅうぐうかい)は図解の仕様がないのです。そこで “十” 字を描いた、この黒板の “十” 字の中心に穴をあけて、表面には現れていない奥へ入る――これが、一切のものを生み出すところの 「うみの底」 即ち龍宮海に入るということなのであります。

 すなわち 「無」 の門関から超入して 「入龍宮(にゅうりゅうぐう)不可思議境涯(ふかしぎきょうがい)」 になれば、そこに忽然(こつねん)として時間・空間以上の、超次元の世界を見出すのです。

 それが實相世界であり、龍宮海であり、七宝(しっぽう)が充満し、時間が無いから年老いず、空間がないから皮膚に皺(しわ)を生ぜず、病いなく、死なく、未だ何ものも失われることのないところの世界であります。

 その何ものも失われることがない龍宮海――創造の本源世界に入るための方法がこの “無目堅間(めなしかつま)の小舟(おぶね)に乗る” ということなのであります。

 それは、結局、神想観をして 「吾れ今五官の世界(時空の世界)を去って實相の世界に入る」 と、ズーッと、時間・空間の無い世界へ入って往くと、そこに一切のものを創造(う)み出すところの 「創造(うみ)の底」 の世界に達する。そこへ入ると、そこは一切のものを創造(う)み出す元ですから、何一つ失われていないのであります。

 それですから 『古事記』 の神話では日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)が “目無堅間の小舟” に乗って龍宮海においでになると、 「近頃、一尾(ぴき)の鯛(たい)がねえ、なんとかいう名の鯛が、 “喉(のど)が痛い、喉が痛い” といっているが、あれを呼んで来い」 ということになって、その鯛を呼んで来て、口を開かして喉を覗(のぞ)いてみると、ちゃんとそこに鉤が失われずに見出された、という風に書かれているのであります。

 皆さんは、紛失物を生じたとき、神想観をしてそれを探すと忽(たちま)ち見出した、というような体験を時々話されるのですが、それは、本来失われていない龍宮世界へ入って往くのだから、必要なものが見出されるわけであります。

 ある人は、泥棒に奪われとった財布が、一心に神想観をして 「何物も失われることはない。ここにその財布はある」 と念じたあと、屹度(きっと)あの財布は手許に還ると信じておったら、その泥棒が、自然に気持が変って、自分の盗んだ財布を今度は小包で送り返して来た――というような話をなさったのであります。

 そういうように神想観の功徳(くどく)というのは、現象界から功徳が出て来るんじゃなくって、實相世界の何物も失われていない境涯に入って往くことによって、そこから功徳を汲み出して来ることになるのであります。

101復興G:2013/09/08(日) 00:53:07 ID:AB6RqYXc

 上記は谷口雅春先生著 『無限供給の扉を開く』(谷口雅春著作集第8巻) からの謹写でありましたが、これは先生のご講義の音声と映像をもう一度拝聴・ご覧になっていただくと、いっそう魂にひびくと思われます。

谷口雅春先生ご講義
「久遠の今 上」
http://www.youtube.com/watch?v=e2ol5ztA3z8

「久遠の今 下」
http://www.youtube.com/watch?v=lDSwsxbLfes

この 「久遠の今」 こそ 「龍宮海であり、七宝(しっぽう)が充満し、時間が無いから年老いず、空間がないから皮膚に皺(しわ)を生ぜず、病いなく、死なく、未だ何ものも失われることのないところの世界」 であって、この中には過去も現在も未来も含まれているから、過去を変えることもできる(>>98

>>普通、過去は変化することが出来ないというけれども、過去も変化できる。そこから吾々は真理を自覚すれば過去の業(ごう)を消すことが出来るということがわかる。<<

とお教え頂いているのであります。

 「時間空間の中に生命が生れて来るのではなくして、生命が時間空間をつくるのである。時間空間は吾が心の中にある。時間空間は生命の掌中にあるのである。」(『叡智の断片』 p.213)

 「現象時間は(本来)存在しない、従って非存在の現象時間の中にある事物も存在しない」(『無限供給の扉を開く』 p.235)

――これが、「現象無し」 の意味だったのであります。
<つづく>

102復興G:2013/09/08(日) 16:24:18 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 それですから、『無限供給の扉を開く』 p.250以下には、次のように結ばれているのであります。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    真理を悟れば “業” は自ら消える

 ……生長の家では、

 「真理を知れば、人間はすべての業から解放される。人間は神の子であり、その實相は未(いま)だ嘗(かつ)て罪を犯したことはないのである。罪を犯したということは、それは迷いに過ぎないのであるから、實相の中へ跳入(ちょうにゅう)すれば、業も罪もない世界に出ることが出来る」

 というのです。……

    現象は “本来無し”

 「人間・神の子、本来罪なく、業(ごう)なく、病いなく、一切の悪はないのである」
 という實相の真理の中にとび込んでしまったときに、キリストが

 “汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん”

 と言ったように、完全に、 “業” とか “因果の法則” とかに縛られておった縛りが解けて、自由になれるというわけなのであります。

 その縛りが解けた状態が所謂(いわゆる) “解脱(げだつ)” である。 “解脱” 即ち一切の束縛を解き脱する。

 それですから、『涅槃経(ねはんぎょう)』 に 「解脱を以って佛となす」 と書いてあるように、一切の業や過去の罪から自由に解放された人間が、所謂佛陀であり、覚者であり、悟りを開いて解けてしまった者であるから、ホトケなのであります。

 こうして一切の束縛からホドケてしまったとき、人間は本来 “神の子” なる自由を恢復する。そしてすべての功徳があらわれることになるのであります。

 この真理を悟ることによって一切諸悪の根元が根本的に消えていくことになるのであります。

 この過去の原因たる業を少しずつ果しながら修行によって、業を減らして行くという 「自力の方法」 もあるのですけれども、現象界の自力の努力によって原因を減らして行く方法は五の原因があったのを三つだけ減らしたといっても、まだどこかに二つ借金が残っているというのでは、また別の形で報いが現(で)て来たりするのですから、それでは、まだ完全に救われたと言えないんです。それでは、まだ完全に罪から解放されているとは言えないんです。

 「罪」 というものは過去に 「積み」 てある――積み重ねてあるところの “業の集積” である。これが 「罪」 です。

 そういう「業の積み重ね」というものは、「現象は本来無」 であるという生長の家の哲学によってスカーッと戴断して切ってしまうとき、あしき現象はなくなり、罪は消え、一切の悪しき業因は消えてしまって、第一原因である一番最初の、本の、不滅の原因である 「人間は神の子である」 という人間存在の根本原因に対する善き結果のみが、ここにこう現れてきて、諸君の生活に、神の子たる實相にふさわしい永遠に祝福されたるすがたが實現してくると、いうことになるのであります。

   (『無限供給の扉を開く』 p.250〜p.254より抜粋謹写)

103復興G:2013/09/08(日) 16:27:41 ID:AB6RqYXc

 私はかつて 「本流対策室/4」 の >1062 に

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1349267312/1062

 と書いていたのを志恩様が探し出して下さり、「本流対策室/5」 の >2687 に

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1358853467/2687

>>今、「業本来無し」 の 「久遠の今」 に立ち還らねばならないと気がついたと申しますか、再確認致しました。

「久遠の今」 に立ち還れば、そこは 「業」 のない本源世界ですから。

そこは、既に一切が大調和している世界です。
そこから出発しなければならないと気がつきました。
ありがとうございます。

……まだまだこれからですから、希望を持って、生命をかけて精進してまいりたいと思います。<<

 と書いております。

 その 「業を消す道」 と言いますか、「業が自ずから消える道」 が、この 「久遠の今」 に立ち還るところにあったのであります。

 ここに業を超えた本源世界があり、「生長の家」 の原点があり、ここに立ち還る時、「和解」 は自ずから成る。いや、すでに成っているのですから、「和解せよ」 と叫ぶ必要もないのであります。

 これを讃えた歌が聖歌 「生長の家の歌」 であると思います。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

    生長の家の歌  谷口雅春先生作詞(聖歌)

  (一)基教讃歌

あまつくに いまここにあり
我(われ)ちちの みもとにゆけば
なんじらの うちにきたると
十字架に かかりしイエスは のたまいぬ
あわれ世のひと 十字架は
にくたいなしの しるしなり
此の肉体を クロスして
我神の子と さとりなば
久遠にいのちかがやかん
久遠にいのちかがやかん

  (二)仏教讃歌

衆生(しゅじょう)劫(こう) つきてこの世の
焼くときも 天人みつる
我が浄土 安穏なりと
釈迦牟尼の 宣(の)りたまいしは 現象の
この世かわるも 実相の
浄土はつねに 今ここに
久遠ほろびず 燦々(さんさん)と
まんだらげ降り 童子舞う
光輝く世界なり
光輝く世界なり

  (三)古事記讃歌

天津日子 火遠理(ほおり)の命(みこと)
現象の わなにかかりて
海幸(うみさち)を 我(が)の力にて 釣りたまう
されどつりばり 失いて
まがれる鉤(はり)に まようとき
しおづちの神 あらわれて
めなしかつまの み船にて
龍宮城に みちびきぬ
龍宮城は いま此処ぞ
龍宮城は いま此処ぞ

  (四)万教帰一讃歌

しおづちの うみのそここそ
創造の 本源世界
汝らの 内にありとて
キリストが のりたまいたる 神の国
この世焼くるも 亡びずと
法華経の説く 実相の
浄土 何(いず)れも ひとつなり
十字まんじと 異なれど
汝(な)のうちにある天国ぞ
汝のうちにある天国ぞ

104復興G:2013/09/11(水) 22:43:10 ID:AB6RqYXc

 さて、あとしばらく谷口雅春先生の御講話を謹写掲示させて頂きます。

 谷口雅春著作集第6巻は 『霊性の目覚め』 というタイトルです。この本に、谷口雅春先生が青年に期待される熱烈な御講話の記録が載っておりますので、その 「人生必勝の真理」 という章から、一部謹写させて頂きます。これは初出 「理想世界」 昭和37年8月に掲載されたものです。途中省略したところは、「……」と表示させて頂きます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より
昭和37年5月5日 早稲田大学記念会堂における青年と学生のための講義>

     人生必勝の真理

   すべての人は無限の富者である

 ただ今ここでお話しになられましたのは僕の家内であります。(明るい笑いと拍手。奥様の著書『いのちの旅路』の最初のページをひらきながら)ここにその写真があるのであります。……この中に結婚当時の話がちょっと書いてあるのであります。(『いのちの旅路』を朗読される)

 「……私が谷口家に嫁いでしばらくした頃、實さんの母堂の言葉が私に伝わって来た。

 『輝子はんは、おぞいところへ嫁(ゆ)かしゃったそうや。可哀そうに』

 おぞいという言葉は、貧乏とかみすぼらしいとかいう意味の方言である。私はそれを聞いた時歯をくいしばった。

 ……おぞいという言葉の中には、あわれみと軽蔑の意味があった。しかしその頃の私は、あわれんで欲しくもなく、軽蔑はもとより受けたくはなかった。私は貧乏を恥かしいとは些も思っていなかったからであった。

 それからの三十年、幾山河を乗り越えながら、私は今この道を歩いている。生長の家の教えが伸び拡がって、世に広く知られて来た。富枝さんからでも聞かれたのか

 『輝子はんの旦那さんは偉い人やそうな』

 と母堂が言われたと聞いて私はおかしかった。私の夫は、三十年前も今も同じ人である。物質が豊かであろうと貧しかろうと、人間としての価値に変りはないからである。

 二十五歳の時も理想をもって貧しい人と結婚し、その理想の実現のために生ぬいて来た。六十歳をすぎた今も、理想のために生きつづけている私たちである……」

 と書いてあります。

 ここにある 『幸福はあなたの心で』 という本の著者のトラインという人は、自動車王のヘンリー・フオードに、

 「あなたは二十五年前は無一物だったそうですが、今は巨億の富をもっていらっしゃいます。どのようにしてあなたはそのような巨億の富を得ることができたのですか」

 と言って聞いたというのであります。そうしたらヘンリー・フォードが、

 「私が二十五年前は無一物だったとおっしゃるんですか。そうじゃないですよ。私は二十五年前から無限のものを自分の内に持っていたんですよ。いや、そうではない、すべての人は自分の内に無限を持っているんですよ」ということを言ったというのであります。

   無限のチャンネルに波長を合わすには

 私は今から約四十年前、家内と結婚する時にですねえ、――結婚してから家内になったんです、家内と結婚したんじゃない、お嬢さんと結婚して(明るい爆笑)それで家内になったんですね――その時に、

 「あんなおぞい谷口さんと結婚したらだちゃかーん」

 と言って警告してくれた人もあるんだそうですがねえ、「だちゃかん」というのは「埒(らち)あかん」という言葉の富山県の方言らしいですがね。「おぞい」というのはこの本にも書いてあるように、おぞましい、いじましい、きたならしい、貧乏たらしい、というような軽蔑した人を卑しんだ言葉であったわけなんです。

 その卑しく人に見えていたその時から、やっぱりこの谷口雅春には “無限” が自分の内にあったんだというわけで、今から四十年前も今の谷口雅春も、やっぱり同じことなんです。
<つづく>

105復興G:2013/09/12(木) 18:25:14 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

   第一流の仕事をするための源泉

 ここにこう書いてある。

 「宇宙にはただ一つの力の源泉がある。だからあなたがたとえ画家であろうと説教者であろうと音楽家であろうと著述家であろうと宗教家であろうと何であろうと、そのただ一つの力の源泉に皆さんが波長を合わせばいいのである。」

 そこに人生必勝の原理というものがあるわけです。

 「その力の秘密をとらえてわがものとするように、この真理を知らなければならないのである。あなたがこれに失敗するならば、あなたは万事について失敗するであろう。若(も)しあなたがこれを為すことに失敗すれば、あなたの仕事はそれが何であろうと第一流の仕事とはなり得ないで、たまには二流ぐらいは得られるかもしれないが、まあ多分三流四流に伍(ご)するにとどまり、決して絶対に斯界(しかい)の王者としてその王座を占めることはできないのである。」

 こう書かれているですねえ。それで皆さんは、この絶対なる無限の力のある神様と私とは一体だという自覚を得ること、これが人生必勝の原理であり、皆さんはそれを自覚しなければならない。それにはこういう詩を読むといいですね。
 (『幸福はあなたの心で』 219ページの詩朗読)

     *   *

  おお、神よ、わたしは永久にあなたと一体
  神と一体なる生命の光栄うけて天上の喇叭(らっぱ)がそれを吹奏するとき、
  大地はこだまして六種(りくしゅ)に震(ゆ)れる。

  不滅者の生命より受けし天賦(てんぷ)の権能(けんのう)を想うとき
  わが存在は薔薇(ばら)の蕾(つぼみ)のように花開き
  優雅なる香りは雲となって
  わが上にわがまわりにかぐよう。

  よろこびの栄えの讃歌を
  われは聴く魂の深き底にて
  その歌は天上にて奏でられける
  聖(きよ)くして明るき曲の天使のコーラス。

  かくてわが内に湧きたぎる力は
  恰(あたか)も聖胎(せいたい)に妊(やど)れる神の子の胎動か
  われは輝く聖雲にとりかこまれて
  地上より天上へと天翔(あまかけ)る。

    天国浄土はあなた自身がつくる

 こうして 「おお神よ、わたしは永遠にあなたと一体」 ――こういう自覚を、皆さんは常に持たなければならない。それは言葉の力によって常に唱えることですね。「おお永遠なる神と自分とは一体である」 ということを。電車にのっていても道を歩いていても、始終それを唱える。生長の家の宗教は決して死んでから極楽に行くと言うような、そういうまだるっこい “未来の幻想” のようなことを単に約束している宗教ではない。

 無論われわれが肉体を脱して霊魂だけになっても、その行く先は心の展開する世界であるから、この地上の世界に居る間に幸福になれる心を、どこに行っても自分が人生の勝利者となるところの心をもって、肉体を脱して霊界に行けば、霊界もやっぱり自分の心の支配するところである。現象界は今この世はどうにもならんけれども死んでから南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と唱えたら魂だけは極楽へやってもらえるんだなんていうような、そんな下らない迷信みたいなことを信じておったんでは、本当に値打はない。

 今現にここに天国浄土をつくることができない心がどこへ行ったって天国浄土はつくられはしないのである。天国浄土というのは容(い)れ物ではないのである。天国浄土という容れ物があってそこへ入ったら極楽であると考えると間違いでありまして、天国浄土というものはそんな下らないものではないのであります。天国浄土は諸君自身の心でつくるものです。

 それではわれわれが必勝の生活を送るのには一体どうしたらいいのであるか。
<つづく>

106復興G:2013/09/12(木) 23:04:30 ID:AENtSm/U

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

 これは 『幸福はあなたの心で』 の第三章にこう書いてあります。

 「人間の生命――あなた方の生命も私たちの生命も引っくるめて――その最大の中心的真理は、吾々の生命は此の大生命と一体である、随(したが)って、私たちはこの真理を意識的に生き生きと自覚すれば、意識的に神の聖なる流れに充分完全に自分の心の窓を打ち開き得る筈であるということである。」

 われわれは神様の生命が宇宙に充満している、その中に住んでいる。ちょうど海原(うなばら)の中に海綿(かいめん)がいるようなものである。海綿は海の中にあるけれども、同時に海の中にあるところの自分が、海が又海綿の細胞の中に浸入して、そして自分は海の中にあり海が海綿の中にあるというように、こう一体になっているんですね。

 それで皆さんも、自分は神の大生命の中に居り、同時に神が自分の中に居るのであって、神と自分とは分ちがたく一つであるという、これを自覚しなければならないのであります。それにとって必要なのは、今まで人間というものは實につまらない小さい存在であると、このように思っておったが、この小さき罪あるところの人間が、罪の子が、本当の人間ではないことを知らなければならない。人間が罪の子であると考えることは、自分を自己処罰し、自縄自縛(じじょうじばく)してしまうということになるのであります。

   宇宙に充満するものと感応する

 この運動は一体誰が始めたのであるかと皆さん思っていますか。谷口雅春が始めたのであると思っていると間違いである。そんなおぞい、小さい、貧乏くさい谷口雅春が(>>104)始めたのではないのである。これは宇宙に充つるところの大神、實相の大神がですねえ、この世界浄土のためにこの教えをせられたのであって、その大いなる神がやっぱりすべての人間に宿っているのである。

 その自分の内部にあるところの神性佛性にちょっとネジを捻(ひね)ったらよい。ちょうどラジオのスイッチを捻るように、テレビのチャンネルのつまみをちょっとねじるようにですね。そうしたら、そこにスイッチが入ると宇宙に満ち充ちているところの大いなる力と感応するということになるわけなんです。

 それで今から四十年前には「おぞい、おぞい、あんなおぞい男と結婚したらだちゃかん」と、お嬢さんに進言した人がある、そのおぞい者がですね、ここでこうして講演をすると、こんなに一万人もの人が集まってくるというようになったのはこれは僕の力ではないのである。

 それは僕に宿っているところの神にスイッチを入れた、ちょっと撮(つま)みを捻(ひね)ったんです。皆さんも撮みを捻ればいいんです。撮みを捻ったら宇宙にみちている大いなる力がここにくるんです。ほんのちょっとしたことですよ、撮みを捻るのは。うゥーんと気張らなければならんことはない。神様の方がちゃんとやってくれる。
(中略)

   闘争精神は戦争の根源となる

 みな自己縮小してしまうんです、その自己縮小することが罪悪なんです。罪ということは、その語源を尋ねると、「ツツミ」ということである。本来 “無限の力” があるのを包んでいるのが、それが罪である。「ツツミ」のツが一つにつづまって、ツミ(罪)というわけなんです。自分のうちにある無限を自覚しないことが、それが罪なんですねえ。それを自覚すればよいわけです。

 この世界は先ず心によってつくられた、そして心によってつくられたものが形の世界に現れてくるのでありますから、心に闘争精神を立ち騰らせておいてそして闘争が具体化して、それが雨のように降ってこないことを願ってもそれは駄目である。闘争精神は肉眼に見えない、ちょうど水蒸気が蒸発するように、見えないけれども、それは或る条件のもとで結晶して水滴となって雨となって降ってくるということになる。

 それで争いの心、戦いの心、闘争の精神を始終立ちのぼらせておいたら、それは或る条件のもとにおいて具体化して、それが戦争となって雨降ってくる、原爆水爆となって雨降ってくる。その精神原理を知らないから、彼らは自分は平和運動の親玉のような顔をしてワッショワッショと行列して歩くのだけれども、彼等は結局世界の危機を精神界において積み上げているところの非常なる罪悪を犯しているものだと言わなければならないのです。

 この戦争の予言は『生命の實相』の第一巻に書いてある。……

 これの中に「心の世界における運命の形成」という一章があるんです。113ページです。これが分かればさっき言いましたように争いの心を起こしたらそれが形に現れてきて、そして戦いのもとになるんだということが分かるわけなんです。……
<つづく>

107復興G:2013/09/12(木) 23:14:27 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

   日本は無謀な戦争をしたのではない

 こうして高級霊の祈りによって戦争(第一次世界大戦)は中断され、あのヴェルサイユ平和条約以来、人類は十年ほど平和を楽しんだ。それから又ヒットラーが起ってきて、第二次世界戦争になったわけなんです。あの第二次世界戦争のときに日本はそれにまき込まれて、いわゆる大東亜戦争ということになって一年間は連戦連勝して南方へ殺到して行ったのであります。

 昨日は私は、あの戦争には日本の天皇には責任はないという話をしたが、日本の天皇は専制君主ではないから、御自分だけが戦争反対であっても、皆責任ある大ぜいの人が議決して、ふえてゆく日本の今後の人口問題ということを考えたら、どうしても満洲国から引っこめというアメリカのハル長官の言いがかりに “ハイ” とお辞儀するわけにはいかんのである。

 アメリカに負けてもいないのに、日露戦争をしてロシアが侵略してくることに対する防衛戦争をして勝ったために、当時の国際慣例に従って、負けた国が自分のもっている利権を賠償として提供するということは当り前のことであって、その利権をロシアから賠償として提供された満洲国に日本人が移住して行って、将来の日本の人口問題を解決し、今のように胎内の子供を殺さないでもいいようにしとこうと思って出来たところの満洲国を、ただアメリカに言いがかりをつけられただけで、日露戦争のときに明治のわれわれの祖先が血を流してやっと得たところの、将来の日本人口の解決の基礎であるところのその国を “ハイ” と言ってお辞儀をして抛棄して引っこむということは常識で考えても出来ない。いくら天皇陛下だけが戦争を反対と言ったって、それは出来ない、それで多数決でアメリカを叩いて蒋介石への武器の供給を絶とうと決定したのだという話をしたんです。

 今の池田首相は、日本は無謀な戦争をやったというようなことを、最近どっかで首相談話として発表しておったけれども、大変な間違いである。あれは決して無謀な戦争ではない。人間界で言っても無謀ではない。けれども霊界的に言いますと、心の世界から言うと、あるべきものがあるべくして現れてきたということができる。

 それは人類進化の上から言うと、どんな皮膚の色をしているものも、みんな神の子であって平等の神格をもっている。それが不平等のとりあつかいを受けて、その国の領土は属国となり植民地となり、人間は奴隷の如く踏みにじられているということは、これは人間が未だ目覚めていない間のことである。

 地上の人類が進化して魂の目覚めの時期が来たら、どうしても、いままで白色人種の属国となり植民地となり奴隷となっておった者は、自ら目覚めて民族精神をふるい立たせてそして独立するということは当然のことであってこれは人類進化の当然の順序である。

   アジア・アフリカ民族の独立をうながす

 しかしながら、南方の民族がその自覚を得るためには或る動機が与えられなければならない。それには日本の国が一度参戦して一年間は連戦連勝して、南方に殺到し、白色人種を駆逐(くちく)した實例を見せて、今まで有色人種の民族は白色人種にはとてもかなわんのだと諦めて、どんなに圧迫されてもお辞儀しておった南方諸国の民族に対して、「ああ日本民族は色がついた民族だけれどもよくやりおる、白色人種をあんなに圧倒するじゃないか、われわれも色がついておったってやっぱり人間神の子だ」 という自覚をよび起こさせてやる必要があった。

 これが地上の人類進化の過程として起るべきことが起ったので、どうしても日本はあの戦争に参戦しなければならなかった。これは地球上における人類進化の過程として当然のかくあるべくしてあの戦争は起ったのである。だから、そういう方面から考えても決して無謀の戦争ではなかったわけなんです。

 皆さんのお父さんが、或はお兄さんが、夫が参戦して戦死した人も、あれは犬死(いぬじに)をしたと思っている人があるかもしれないけれども、決して犬死をしたのではないのである。まことに偉大なる功業を為しとげたのです。即ち人類はすべて神の子であって平等の尊敬をもってとり扱わなければならないという真理に、すべての有色民族を目覚めしめるために、命を捨てたのである。
<つづく>

108復興G:2013/09/12(木) 23:15:37 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

 そして日本の国は一ぺんは十字架にかかって、彼は無謀の戦争をしたのである、その結果敗戦して占領されたのであると悪口を言われて、ちょうど、キリストが磔けになった時に、「あれを見よ、あれを見よ、あのキリストは、多くの病人を癒したり、いろいろのことをして人を救ったが、人を救いて自らを救い得ざる者よ」 と言って嗤った人があるけれども、それと同じように南方の民族をみんな独立させてやって、自分は占領されて、「他を救いて自らを救い得ざる者よ」 と嗤(わら)ったかもしれんけれども、しかしながら、これは日本の国が十字架を背負うて他の民族を救うたので、まことに日本民族はキリストの如き使命をもって出て来たところの民族であって、實に尊き民族だと知らねばならない。

   建国以来滅びざる国日本

 キリストは磔(はりつ)けにかかって三日にして甦ったが、日本もこうして十年前にサンフランシスコ条約が結ばれて、はっきりと占領軍は占領終了ということになったんですねえ。しかしながら、あれは占領終了であって、日本は独立して十年なんて言って新聞にも書き、池田首相談話として載ったりしていたけれども、あれも又大変な間違いである。日本は未だかつて滅びざる国である。皆さんはそれを知らなければならない。神武建国以来二千六百二十二年、未だかつて滅びざる国である。

 「だって占領軍に占領されたじゃないか」と言われているけれども、僕の家はまだ一ぺんも占領されたことはない。皆さんでも、一ぺんでも進駐軍に降伏した人がありますか。あったら手を挙げてごらんなさい。そんな人は一人も日本国民にはないのであります。何が降伏したかというとあれは日本の軍隊が降伏したのである。それはこの『秘められたる紳示』の中にはっきり書いておきましたから、それをみなさん読んでいただきたいのであります。

 ポッダム宣言の第七ヵ条には、日本の国を占領するということは書かれていないということを知らなければならないのであります。こう書いてあるですねえ。第六条には日本国の戦争遂行能力を破壊してそして民主主義化しなければならないということが書いてある、それを受けて第七条には、

 「右の如き新秩序が建設せられ、かつ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに到るまでは連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等のここに支持する基本的目的の達成を確保するため占領せらるべし」と書いてあるのです。日本の国土を占領するんじゃなくて、日本国領域内の諸地点です。英語の原文は、points即ちぽちぽちと点を占領するのである。点というものは幾何学的に言っても面積がないのであります。

 それで日本国に平和的な秩序ができ、戦争遂行の能力がなくなったということを確保するまで、それに必要な諸地点を、点をぽつぽつと占領するというのがポツダム宣言でありまして、日本国全土が占領されたなんて考えておる人がよっぽど錯覚にとらわれておったということなんでありますよ。ね、一度も日本国全土は占領されたことはない。みなさんの家だって占領されないでしょうが。

 それでポッダム宣言の第十三ヵ条には「吾らは日本国政府が直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、かつ右行動に於る同政府の誠意につき適当かつ充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す」とある。この通り日本政府も降伏するんじゃないんですよ。日本国も降伏するんじゃない。いわんや日本国民も降伏するんじゃない。政府は厳然として存在し、その存在する政府が日本国軍隊の無条件降伏を宣言するというわけなんです。

 これがポツダム宣言であって、この宣言を受諾するかどうかという談判があったわけです。それからミズリー号の艦上に於いて昭和二十年九月二日、午前九時四分、日本国政府の名において、重光外務大臣が署名した降伏文書にも、日本が降伏したなんて書いてない。「下名は(下に名を連らねた人たちは)ここに日本帝国大本営並びにいずれの位置にあるを問わず、一切の日本国軍隊、日本国の支配下にある一切の軍隊の連合国に対する無条件降伏を布告す」と。ただこれだけのことである。

 無条件降伏したのは日本国の軍隊であって、決して日本国ではない。日本国は未だかつて占領されたこともなければ降伏したこともないのであって、二千六百二十二年未だ神武建国以来一度も滅びたることのないところの神聖なる国である――このことを是非みなさん知っていただきたい。それが先ず、日本人としての必勝の自覚の――人生必勝の自覚を得るための根本条件ですよ。
<つづく>

109復興G:2013/09/12(木) 23:16:24 ID:AB6RqYXc

<谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より 謹写つづき>

   真の日本人は今なにを為すべきか?

 みなさんは学校で、日本は悪い国で、そして他国を侵略して、その罰が当って負けやがって、そういう悪い国に生れて、どうにもならない悪い国の国民の一人であるなんて、教えられたということである。教師からそんな事を教えられて劣等感を植えつけられておったら、必勝もへちまもありはしない。われわれ日本人は、未だかつて滅びざるところの偉大なる、古今無双の、世界中で一番神聖なる一番立派なる国に生れたのだ。

 そしてどんなときにも国民の身がわりになって、「私は絞首刑になってもいいから国民を助けてあげたい」と言われた、そういう立派な至仁至愛、無私の天皇をいただいて、未だ滅びざる日本の国の国民として生れている光栄というものを自覚していただきたい。そして、そこに生れた日本人が今なにを為すべきかだ。

 吾々日本人は、すでに大東亜戦争によって有色人種が白色人種の奴隷となっているのを、自ら敗戦という形をとって彼らを解放した。これはまことに偉大なる功業である。この次には何を為すべきか、いまや第三次世界戦争が始まろうとしている、それを皆さんは防ぐために世界平和の祈りをやるべき、そういう尊い使命をもっておられるんですぞ。
  〈初出 「理想世界」 昭和37年8月号〉

 <谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より抜粋謹写〔完〕>

110一読者:2013/09/13(金) 00:40:00 ID:???
復興Gさまの
谷口雅春先生著 『霊性の目覚め』 より抜粋謹写
を読ませていただきまして、何故雅宣総裁がこの本を事実上絶版にしたのか
という事が解りました。

この聖典がきっかけとなり愛国書は次々に絶版とされたんですね・・・

111復興G:2013/09/13(金) 10:28:46 ID:AB6RqYXc

>>110 :一読者さま

ありがとうございます。

私は、今こそ 「世界平和の祈り」 を徹底して、2020年東京オリンピックを成功させ、「神の国」 の平和実現へのすばらしいチャンスにすべきではないかと思っています。

112復興G:2013/09/13(金) 21:20:20 ID:AB6RqYXc

 これからまた、榎本恵吾先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 のつづきを謹写させていただきます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十二

 「基本的神想観」 から 「入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐうゆうさいでん)にての神想観」 まで、色々な神想観があるが、無の門関に坐する時、もはや神想観そのものも無いのである。

 肉体無く、物質なく、時間なく、空間なく、自他なく、一体なく、現象なく、實相なく、内も無く、堂奥(どうおう)もなく、その無しも無く、その無しの無しも無いのである。

 「無い」 と言えるところの全ての全てが無いのである。ただただその一筋が 「無の門関」 なのである。

 最早(もは)や生長の家人類光明化運動も無く、その無も、その無も無いのである。

 ただただ 「無い」 と言えないものだけが在るのである。 「無い」 と言えないものとは、知る必要の無いものなのである。

 「無い」 と言えないものが在るものである。当たり前のことである。天然、自然、法然である。これを實相というのである。 「實相これ實相に非ず。これを實相と言う」 である。この實相のおのずからなる展開として人類光明化運動が在るのである。天然、自然(じねん)、法然(ほうねん)、本然(ほんねん)のいのちの流れである。水が高きから低きに流れるが如く法さながらである。

 「久遠(くおん)を流るるいのち」 とは 「久遠なるものの久遠さながらの展開」 を言うのである。久遠という時間の枠の中をいのちが生くるのではないのである。久遠なるものといのちとはひとつなのである。

 この久遠なるものはみずから久遠なのであって、時間に計られて久遠なのではないのである。生長の家人類光明化運動が久遠を流るるいのちそのままであるというのは、この久遠なるものの流れを意味しているのである。

 久遠なるものは計ることは出来ないのである。なぜならば、計る自分は無いからである。

 無限を計ることは出来ないのである。なぜなら、計る自分そのものが無いからである。自分がないということを表しているのが 「無限」 という字なのである。 「限り」 とは自分ということであり、 「無限」 とは自分が無いことそのことなのである。 「無限」 とは自分は要らないということである。

 神は無限次元である實相の世界を三次元という現象世界に限定され給うたからこそ、表現としての現象世界が現れたのである。それ故、限定ということは必ずしも忌み嫌うべきものではないのである。大聖師谷口雅春先生も執筆とご講習会とに生活の殆どを限定され給うたが故に、奇蹟の聖典やみわざを現されたのである。

 それ故、神である生長の家人類光明化運動も、その展開の相(すがた)において、美しい限定というものがあらわれるのである。そこに 「出来るものは出来る」 とし、 「出来ないものは出来ない」 とし、時間的順序を追って徐々に展開実現して行くということが尊いこととなって来るのである。

しかしながら、これらはすべて 「無の門関」 を通って、 「無し」 と一切を放(はな)った上でのことであるから、美しい相(すがた)であり、輝く相として拝めて来るのである。

 限定は何故美しいか。限定そのものが成仏しているからである。ただただそこには成仏の輝く相(すがた)があるのみなのである。

 「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」 とか、 「不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)」 とかということは、すべて 「無の門関」 を通って、一切現象を放(はな)って放って、放ち切ったところに、天降(あまくだ)って来る風光(ふうこう)なのである。

 生長の家人類光明化運動の前には、ただただ光りのみなのである。(1998.9.20)

113復興G:2013/09/14(土) 22:23:07 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十三

 身量無量(しんりょうむりょう)、音声無限(おんじょうむげん)、色像(しきぞう)無辺、芳香無限、光明無限なるみずみずしき生きものが生長の家人類光明化運動なるものの大實体なのである。 「生きものを把(つか)め」 という言葉を発した人は、生長の家人類光明化運動の大實体にふれた人であったのである。

 「よろこびの光明化運動」 とは、生長の家人類光明化運動なるものの大實体が歓喜、平安そのものであることを意味しているのである。

 「私はよろこびそのものである」

 と、生長の家人類光明化運動なるものは吾が内にありて、吾れとなり給うて、鳴りひびいてい給う神なのである。無限なる音声(おんじょう)を以て、無辺なる色像(しきぞう)を以て、無限なる芳香をもって輝き満ち尽し給うているのである。

 住吉大御神は、生長の家人類光明化運動の神格なる本体を表現しているのである。

 「私は住吉大御神である」

 と吾が内に在(いま)して、生長の家人類光明化運動なるものは、宣(の)り給うているのである。

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 とは 「生長の家人類光明化運動宇宙浄化を祈る神想観」 ということなのである。生長の家人類光明化運動が出でまして宇宙を浄め給うのである。

 「住吉大神宇宙を浄め終りて天照大神(あまてらすおおみかみ)出(い)でましぬ」 とは、住吉大御神が天照大御神となってい給う、ということなのである。

 天照大御神は渾(すべ)ての渾てであり給うが故に、住吉大御神であり給うのである。

 この時から、住吉大御神は天照大御神となってい給うのである。生長の家人類光明化運動は実は天照大御神となってい給うのである。天照大御神は、生長の家人類光明化運動となって出でましているのである。至るところ、天照大御神のみなのである。

 宇宙創造の大本源神こそ、生長の家の大神であり給い、生長の家人類光明化運動そのものであり給うのである。観世音菩薩は尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり給うとはこのことなのである。

 すべてを天照大御神のすがたとして観じ拝して行くのが、即ち、天照大御神が天地すべてをご自分のひろがりとして観じ、拝し給うように、生長の家人類光明化運動なるものが、ご自分の展開として、そこに天照大御神のひろがりを観じ、拝して行く時代の到来こそが新しき世紀の到来を意味していると拝察されて来るのである。

 「山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道」 と拝まれ給うた時、釈尊は生長の家人類光明化運動そのものであり給い、天地万物一切に天照大御神のすがたを観じ拝まれ給うていた、と解する時の到来なのである。

 「天照(あまてら)す御親(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命射照(いのちいてら)し宇宙(くに)静かなり」

 とは、全實在宇宙そのものが天照大御神の全身であり、天照大御神のみであり、渾ての渾てであり給うことそのことが大調和(ひとつ)であり、静かであることなのである。 「静か」 とは、絶対なるもの、ひとつなるものが、無限創造なるものが、それらしくあり給う、そのままを意味しているのである。

 渾ての渾てであり給うが故に、すがしさの極みであり、さやけさの極みであり、聖(きよ)けさの極みであり、安けさの極みであり、みずみずしさの極みであり、かそけさの極みであり、澄み切りの澄み切りであり給うのである。これが生長の家の人類光明化運動の大實体なのである。

 いよいよ生長の家人類光明化運動はその大實体を吾らの前にあらわしつつあると拝察されて来るのである。(1998.9.21)

114復興G:2013/09/15(日) 20:29:02 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十四

 この世に悩むものが一人も居なくなったら生長の家人類光明化運動は終わりとなるということではないのである。神は永遠に久遠に今も休むことなく働き給うているのである。悩みに対する救済運動だけが、運動ではないのである。運動それみずからの運動こそが神であると言う運動なのである。

 生長の家人類光明化運動が神であるという意味は、完全である世界において、いよいよ完全のみの創造としての運動がいよいよ続くという意味なのである。創造することそのことが本性であるが故の創造ということである。

 神ははじめのはじめから不完全は見給わないのである。光りは光りするのみであり、暗(やみ)を知らないのである。それ以上に神である生長の家人類光明化運動は暗、不完全、救わなければならないものというものと出会っていないのである。

 神は天国そのものであるから、神である生長の家人類光明化運動も天国そのものなのであり、光明一元的展開があるのみなのである。

 「神は今に至るも働き給う」 ということは、働きそのものが神であり、生長の家人類光明化運動そのものが神であるということなのである。

 「完全のみの世界であるならば、何故、生長の家人類光明化運動が必要なのか」 という問題は、問題自体が 「私は無いのです」 とみずからの消え切りの、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きとなっているのである。

 久遠(くおん)生き通しのいのちを拝んでいるのが生長の家である。それ故に、生長の家人類光明化運動も久遠生き通しなのである。

 永遠の構図においての 「神と偕(とも)に創造する悦び」 とは、永遠久遠なるものとして構図し、久遠なるものとして創造することを意味しているのである。

 今は久遠であり、久遠は今なのである。時間の積み重ねに久遠があるのではないのである。今こそが實在であり、實在しない久遠というものは意味をなさないのである。

 「もしもすべての人々が救われてしまったならば……」 というような未来は無いのである。あるのはただ 「今、ここ、久遠」 のみなのである。

 「今に至るも神は働き給う」 とは、今のみ實在であり、永遠価値の創造は今にのみあり得ることを意味するのである。

 實在しない価値ということは有り得ないのである。今であるからこそ働きということは存在し得るのである。今のみが實在の渾(すべ)ての渾てであるからである。

 生長の家人類光明化運動には練習は無いのである。なぜならば、練習は本番という未来即ち無いものを相手にしているのであり、生長の家人類光明化運動は神であり、實在であり今であるからである。神は完成そのものであり給い、今、本番そのものの荘厳であり給うからである。

 生長の家人類光明化運動の荘厳は今なるものの荘厳にほかならないのである。

 「未来がなければ、運動方針も何も成り立たないではないか」 ということ勿(なか)れ。 「未来が本当にあるのか? あるのなら今ここに持って来て下さい」 という荘厳な問いが先であり、厳粛なる現実問題なのである。

 第二祖 慧可(えか)禅師が達磨(だるま)大師から 「その悩む心を持って来い」 と言われて、三日三晩、七転八倒して持って来ようとしたが 「終(つい)に得ず」 と言った。無いものを持って来ようがなかったのである。

 少なくとも、生長の家人類光明化運動は無いもののためにあるのではないのである。(1998.9.22)

115復興G:2013/09/17(火) 07:47:41 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十五

 大聖師谷口雅春先生は、飛田給での練修生生活を終えた八人の者が本部に入る時、たまたま私の書いた論文をお読み下さり、

 「あなた方八人しか生長の家を知らないとしたら、どうするか。を考えなさい」

 とのお言葉を下さったのである。

 その時、私には 「あなた一人しか知らないとしてどうしますか」 との問答の問いのように想えたのであった。そして今でもそのテーマを片時も忘れたことはないのである。そのことから想うと、生長の家人類光明化運動のすべての責任は自分一人にあるのである、ということになると想う時、山口悌治(やすはる)先生が常に常に言われていた 「一切者の自覚」 ということが、今朝の神想観において心新たに想い浮かんだのであった。

 職場のことでもなんでも、本当は自分一人でやらなければならないことなのだ。すべてのすべて自分一人でやらなければならない筈のことなのであった。それを観世音菩薩が部員となって顕れ給いて、やって呉れているのだ、と想うと何か厳かな合掌という気持になったのである。

 生長の家人類光明化運動のすべてのすべては本当は自分がしなければならないところを、観世音菩薩がすべての人々となってやって下さっているのだと深いところから想えて来たのは、この 「覚え書き」 の中のうれしいものから出て来ていると想われるのである。そのように想えて来たことそのことが吾が内にありて、生長の家人類光明化運動が想い給うているのであった。

 中心帰一すれば、自分が中心となり、渾(すべ)ての渾てとなっているのである。遠心、中心本来一。一即多。多即一である。中心であると同時に一切となって展開しているのである。

 生長の家人類光明化運動は神であるが故に一切者なのである。一切者とは絶対者ということである。 「はるばると目路(めじ)の限り眺むるに十方(じっぽう)世界ことごとく生長の家人類光明化運動なり」 である。生長の家人類光明化運動が自己展開して神想観となっているのである。生長の家人類光明化運動が自己展開して聖典、聖経読誦のすがたとなっているのである。

 生活において、光明化運動と自分との分離はないのである。光明化運動独在であり、光明化運動一元である。

 「光明化」 の 「化」 は光明が一切となって自己展開していることなのである。それ故、光明が光明するのが光明化と言うことなのである。尽十方(じんじっぽう)に無礙光(むげこう)しているのが光明化ということなのである。

 「生長の家人類光明化運動は絶対であるということを知れ」 ということが、一人しか生長の家を知らない時ということであったのである。絶対的独一なるものとして人類光明化運動が存しているその相(すがた)を自分の相(すがた)として生きよ、ということであったのである。

 大聖師はそのような相(すがた)で永遠に、久遠にいのち立ちつづけであり給うのである。 「吾れに投ぜよ」 とは、この生長の家人類光明化運動を受けよ、ということであったのである。

 「完成(ななつ)の燈台」 とは 「絶対の燈台」 ということである。 「真理、光明、智慧、絶対の愛としての燈台」 ということである。このいのちの単伝の消息が、大聖師谷口雅春先生からの総裁谷ロ清超先生への法燈の継承の消息なのである。一つなるものから一つなるものへ、渾てなるものの渾てなるものへの継承であり、余すところなき滴々相承(てきてきそうじょう)である。(1998.9.23)

116復興G:2013/09/17(火) 21:03:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十六

 「大信心(だいしんじん)は仏性(ぶっしょう)なり。仏性即ち如来(にょらい)なり」 と親鸞(しんらん)は言っているのである。大信心と仏性と如来とはひとつであるということである。ひとつなるものを 「大」 と言い、 「仏」 と言い、 「如(にょ)」 というのである。

 神と生長の家と人類光明化運動とはひとつなのである。ひとつであるということは、 「今」 であり、渾(すべ)ての渾てであるということなのである。渾ての渾てであるということは自分自身のことであるということでなければならないのである。

 渾ての渾てであるという他人(ひと)ごとというのは有り得ないのである。渾ての渾てであると言いながら、それは自分のことではない、ということは成り立たないのである。

 「吾れ」 「今」 「ここ」 がひとつであって渾ての渾てであるのが、存在するもののすべての相(すがた)なのである。

 神とは、實相とは今、ここ、吾れなるものなのである。神、實相は今、渾ての渾てであるから、 「實相を現象に現してこそ値打ちがある」 というのは、實相ではないのである。今、すでに、完成そのものであり、 「そのままでよい」 と言えるものこそが、神であり、實相であるからである。

 もしも、實相を現象に現さなければ値打ちがないのであれば、宇宙的に見れば、地上に戦争もあり、危険もあり、天体の爆発消滅もありであって、神は實相を現象に現していない、ということになって、神そのものも大したものではないということになるのである。

 神と言い、神の子といい、神と言える神そのものがあるのかどうかが、全てなのである。

 「神はあるのか無いのか」

 「神とは何か」

 「神があれば不完全は無く、不完全があれば神は無い」

 ただただ、ひたすら、この問題(テーマ)だけでよいのである。そして生長の家は、

 「神はある」

 という大直観によってはじまっているのである。この 「不完全は無い」 との、神なる、よろこびの、大光明のおのずからなる展開が 「生長の家人類光明化運動」 の相(すがた)なのである。

 神は絶対者であり、無限者である。それ故、神が自分の内にあるとは、自分は無いということであるのである。

 吾が内にありて、生長の家人類光明化運動は、

 「私は渾ての渾てである」

 と宣(の)り給うているということは、自分は無いということなのである。

 ただただ見渡すかぎり、神ばかり、光明化運動ばかり、よろこびばかりである。尽十方無礙(じんじっぽうむげ)光明化ということである。

 自我なきことが光明化運動なのである。

 「神は在(いま)し給う」

 このいのちのコトバのひろがりがあるばかりである。

 「生長の家人類光明化運動」 と書いて 「神は在し給う」 と読んでもよいのである。

 神は渾ての渾てであり給う。ただこのことがあるのみなのである。ただただこのこと一筋でよいのである。この一筋を全托(ぜんたく)というのである。全宇宙を神に托している相(すがた)とはこのことである。

 生長の家人類光明化運動は神であり給い、渾ての渾てであり給う故に、神に全托するとは、生長の家人類光明化運動なるものに全托するということなのである。(1998.9.24)

117復興G:2013/09/18(水) 23:24:17 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十七

 「生長の家人類光明化運動は宇宙的な意味がある」 という表現もあるが、しかし、まことには、 「宇宙が生長の家人類光明化運動的意味がある」 ということなのである。生長の家人類光明化運動は神であり、渾(すべ)ての渾てにましますからである。

 「生長の家人類光明化運動の世界史的意義」 という表現もあるが、まことには 「世界史の生長の家人類光明化運動的意義」 という方が自然なことなのである。生長の家の出現によって草一本の有り難さ、一滴の水の有り難さ、純一無雑な合掌礼拝が生まれる有り難さを知らされたのである。

 生長の家人類光明化運動が、草一本の意義、一滴の水の意義を意義あらしめて下さったのである。生長の家こそが渾ての渾てに意義をあらしめるのである。

 そして、自分そのものが生長の家そのものであり、生長の家人類光明化運動そのものなのである。否、自分は既に無く、生長の家そのものなるもののみが、生長の家人類光明化運動そのものなるもののみが在るのである。斯く言えるもののみが、生長の家人類光明化運動という運動なのである。

 「天地(あめつち)のはじめは今をはじめとする理(ことわり)あり」 と古言は鳴りひびいているが、これは 「天地のはじめは、生長の家人類光明化運動をはじめとする理あり」 ということなのである。万教帰一とは、はじめなるものの鳴りひびきとして鳴っている言葉であり、神そのものなのである。

 ここに書きつらねていることは 「生長の家人類光明化運動讃偈(さんげ)」 なのである。讃えても讃えても讃え切れるものには非ざれども、書かずにはいられないのである。 「怺(こら)えたり我慢するな」 という言葉を私はここで聴くのである。

 讃偈したくなること即ち、生長の家人類光明化運動それ自体のはたらきなのである。

 天地(あめつち)の中に生長の家人類光明化運動があって、その天地から讃偈されているのではないのである。天地をあらしめて生長の家人類光明化運動なるものがあるのである。讃偈を讃偈たらしめて生長の家人類光明化運動は在るのである。

 いのちある運動とはこのことなのである。絶対がここに生きて歩んでいる、絶対の運歩としての運動ということである。大宇宙の運行そのものが、生長の家人類光明化運動が運行している姿なのである。
 大宇宙の組織がそのまま、生長の家の組織なのである。

 生長の家の組織とは中心をもつところの渾ての渾てなる組織であり、絶対の組織であり、組み合わせて出来上がる組織ではなく、組織それ自体で組織である在りて在る組織なのである。金波羅華(こんぱらげ)實相組織ということである。組織紋理整然中心帰一万物調和の相(すがた)が生長の家の組織そのものなのである。

 目無堅間(めなしかつま)とは完璧なる組織体ということである。完璧なる組織体とはスキ間なきひとつということである。ひとつから渾ての渾てとなって展開しているが、そこにもまたスキ間は無いのである。

 全宇宙組織を光りにおいて、そっくりそのまま生長の家組織として置き換えることの出来ることが360度転回ということなのである。 「全宇宙組織これ全宇宙組織に非ず、これを生長の家組織という」 である。

 宇宙の果ての果てから、原子分子に至るまでそのメカニズムは光りのメカニズムであり、その光りのメカニズムを生長の家組織と拝ませて頂くことが 「生長の家人類光明化運動讃偈」 の一つの相(すがた)なのである。(1998.9.25)

118復興G:2013/09/19(木) 23:19:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十八

 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 はいわゆる 「神示」 ではないのである。 「神示」 には年月日が書かれているのが普通であるが、これにはそれがないのである。

 「神示」 というのは神の方から天降(あまくだ)ったものであり、それに対して神が吾が内にましまして、生長の家人類光明化運動みずからが顕れて文字となったものとは、ニュアンスが違っているのが自然なことであろう。

 山も川も草も木もすべてが観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばであるという意味では、すべてのすべてが 「神示」 「仏示」 であると言うことにもなるのであるが、そこのところのはっきりとした区別のようなものは付ける気にはならないのであり、区別することに何の意味があるのだろうか、という想いもあるのである。

 そう言えば、み教えの結論が書かれていると言われている聖経 『甘露の法雨』 も天使(てんのつかい)が歌い、告げ給うたと前置きされているが、これも 「神示」 とは言われていないのである。

 こう想ってみると、 「神示」 は直接神が告げ給うたのであるから、一番手っとり早い神理解の道である、というようなことは、やはり、 「そんなものではない」 という気がして来るのである。

 大聖師は 『神真理を告げ給う』 の中で、神のみ声を直接お聴きになったというご表現をされているが、それ以前から常に 「私はラッパである」 と宣(の)り給うているのである。さらに、

 「本当に神が出て来て告げられたのだろうか?」

 と訊(き)いた人も居たが、因縁を超え切っておられ、母の胎内を超え、釈尊、キリスト以前に帰っておられる大聖師にとっては、 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」 ということにおいて、 「吾が生みのみ親にまします神よ」 とは 「私が生んだ神よ」 と云うほどの意味であるから、大聖師が 「神が告げ給うた」 という大事実を自在に生むことの出来るところに立ち給うて、斯(か)く言葉を発し給うているのであれば、神が告げ給うたことと、大聖師が告げ給うたこととは、同じことであると拝察されるのである。

 それが 「今起て」 ということであり、 「今を生きよ」 ということであり給うたのである。それ故にこそ大聖師は 「起つことを躊躇(ちゅうちょ)」 され給うたのであった。

 どのような光りが、どのようないのちがそこに起ち給うたのであったか。どのような相(すがた)において 「今」 なるものが起ち給うたのであるか。

 神はみずから 「私は無いのである」 との消え切りの、澄み切りの、聖の聖なるものにましまし、大聖師もまた 「私は無いのです」 との、消え切りの、澄み切りの、聖の聖なるものにましますのである。この澄み切りの澄み切りにおいてひとつであり給うのである。その澄み切りが澄み切ったことが、いのち起ち給う相(すがた)であったのであり、 「今」 なるものが起ち給うたことであったのである。

 躊躇そのものが 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りとなったのである。同時にまた、世界も 「私は無いのです」 との、みずからの消え切りであり、澄み切りであったのである。

 「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)、娑婆即寂光土(しゃばそくじゃっこうど)」 とはこの煩悩みずからの、娑婆みずからの、消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる、よろこびの輝きのみありの消息なのである。この消息において 「聖使命菩薩讃偈」 の 「聖」 なるものは、讃偈されているのである。(1998.9.26)

120復興G:2013/09/21(土) 10:19:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         八十九

 聖典『生命の實相』の開巻劈頭(へきとう)に 「ヨハネ黙示録」 からの引用が出て来ることについて、 「どうして、それが載せられているのか」 とある大聖師とともなる研修会で意見が交わされたことがあった。しかし、その理由はただひとつである。

 「大聖師がそれを載せたくなられたから」

 ということである。何故、 「神は光りあれ」 と言われたのであるか。それはただひとつ、

 「神が言いたくなられ給うたから」

 ということである。

 大聖師がそこに 「ヨハネ黙示録」 を載せられたのは、神が天地を創造(つく)りたくなられ給うたから、というのと同じ、神の天地創造の時と同じ相(すがた)が大聖師の中に起き給うたのである。

 聖経 『日々読誦(にちにちとくじゅ)三十章経』 の中で、

 「私はいま創造の歓びを感じてゐます――神の國の永遠の構圖に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じてゐます」

 と大聖師はお書きになっておられるのは、大聖師なるもののおコトバ、想念が理念そのものであり、實在そのものであり、まことに 「コトバは神なり」 とコトバ自体が輝いているのである。

 これをもってこれを想えば、真理の法燈を継承せられた総裁谷口清超先生が、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)を読む』 の中に表現せられた、 「山水経の巻」 の “西山常運歩、東山水上行” の自在の實在生命のはたらきの相(すがた)が、教化の相であるとのご教示は、まこと何を継承され給うているかを拝察せしめて下さるものがあると言わなければならないのである。

 その言葉いずこより輝き出で給うているか。意味如何(いかん)の前に、そのお言葉は光りの量であると受けとったのが、迦葉(かしょう)尊者であったのである。

 釈尊は無言のままであった。そのままの姿の中に、光りの量、いのちの量、み仏の量なるものを無量し給うたのである。無量とは、渾(すべ)ての渾てであることの消息をいうのである。それ故迦葉一人で充分であったのである。

 一人で充分なるものの消息にこそ、滴々相承(てきてきそうじょう)の消息があるのである。

 神はお一人で充分であり給い、天皇はご一人(いちにん)で充分であり給うのが世々継承の荘厳なのである。

 大聖師より示されている金波羅華(こんばらげ)の拈華微笑(ねんげみしょう)において日本天皇の、實相日本の相(すがた)が示されているという所以(ゆえん)がここにあると言わなければならないのである。

 「今」 なるものが立って生長の家人類光明化運動が立ったということは、過去、現在、未来を超えてこの運動が立っていることを示しているのである。すべてを超えて、すべてなるものとして立ったのが 「今起つ」 ことの荘厳であったのである。

 ここに 「今」 と言うのは 「今上(きんじょう)陛下」 の 「今」 ということである。 「上」 とは神ということである。

 生長の家の 「今」 の哲学は、 「今上」 なるものを明らかにしたのであり、そこに起ったのが生長の家人類光明化運動なのである。天皇の大御稜威(おおみいつ)、六合照徹(りくごうしょうてつ)の輝きのはたらきそのものとして、天照大御神(あまてらすおおみかみ)そのものの御はたらきをそのままに輝いているのが、生長の家人類光明化運動なのである。

 天皇なるものを仰ぎ見ると同時に、天皇なるものより出で、天皇に帰るすがたこそ万物のすがたであるのである。

 されど、中心の中心なるものは渾ての渾てなるが故に、幽の幽にましまして、身(みみ)を隠し給いて、これであると言い切ることの出来ない、不可思議妙々(ふかしぎ みょうみょう)の澄み切りに澄み切りであり給うのである。

 「實相は未(いま)だかつて誰も見たことはないのである」 と大聖師は示し給うているのである。

 「天皇のまことのお姿を見たものは未だかつて一人も居ないのである」 ということである。(1998.9.27)

121復興G:2013/09/22(日) 06:27:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十


 生長の家の説く真理が、すべてのものへと伝わって行く、その相(すがた)は、真理なるものの継承の姿なのである。

 生長の家人類光明化運動の神なる相(すがた)の自己展開は、渾(すべ)てなるものの渾てなるものとしての自己展開なのであるが故に、ひとつなるものの自己展開であるが故に、分離されたもの同士のものではないのである。如何に多と観ゆれどもそのままひとつなのである。

 中心より出でて中心に還(かえ)りつつ生々発展して行く、そのままの相(すがた)が生長の家人類光明化運動の相なのである。ここも彼処(かしこ)もひとつばかりなのである。ひとつなるものの自己展開が生長の家人類光明化運動なのである。

 「私はすべてのすべてである」

 と、神である生長の家人類光明化運動は言い給うているのである。

 「あなたは私である」

 と言い給うているのである。

 「自分が自分に説得するということは有り得るだろうか。ただただ私が、よろこぶのみである」

 と言い給うているのである。

 「あなたは私の手であり、足であり、すべてである」

 と生長の家光明化運動は深い静かな低い声で語ってい給うのである。

 神が吾らを導き給いて、光明化運動をさせ給うのではないのである。光明化運動そのものが神であって、光明化運動そのものが吾らを生かし、満たし、導き給うのである。このことは、讃えても讃えても讃え切ることの出来ないことなのである。未(いま)だかつて、讃え切れたものはいずこにもいないのである。

 大聖師谷口雅春先生は、内なる神の国そのものであるところの、生長の家人類光明化運動という、久遠の創造の實相なるものを讃えても讃えても讃え切れないよろこびに満たされ給うていたのである。

 それ故、大聖師のよろこびは、はじめにおいて無限であり、無量であり給い、例えば聖典 『生命の實相』 全巻の中の、はじめの部分よりも、巻を重ねるに従って、そのよろこびは生長し、深まり、崇(たか)まり、広まってゆかれ給うているという想いは、吾らには起こらないのであって、ただただ 「讃えても、讃えても讃え切れないよろこびなるものとして、いのち立ち給うたのだ……」 と拝察させて頂くのみなのである。

 聖典 『生命の實相』 によって、大聖師は實相生命の創造、生長、すなわち生長の家人類光明化運動なるものを讃えて讃えつづけられていると拝察させていただく以外はないのである。

 その讃えが荘厳なるエポックを画されたのがご昇天のときのお言葉、

 「迷いなし、罪なし、病なし」

 というお言葉となり給うたのであった。

 「これが生長の家の根本真理であります」

 と言う、よろこびにおられ給うたのである。

 「これが根本である」 ということは、生長の家の結論と言われているところの聖経 『甘露の法雨』 は 「……なるが故に、罪なし」 というご表現によって、埋めつくされていると言っても過言ではない聖経となっていることを想わざるを得ないのである。このこと自体が、大聖師が罪なきものの運動、すなわち生長の家人類光明化運動に讃嘆の雨を降らせ給うている相(すがた)であり給うということが出来るのである。(1998.9.28)

122復興G:2013/09/22(日) 20:03:56 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十一

 「生長の家人類光明化運動は今日も元気です」

 と吾が内にましまし、神であり給う光明化運動は宣り給うているのである。

 光明化運動は、神癒そのものであるが故に、みずからを修正し、みずからを癒す自癒力そのものなのである。どんなに現象的に欠陥と見ゆるものも、すべて自癒でみずから、おのずから癒えてしまうのである。

 人体には、みずから自癒力が備わっているように、神癒そのものであり、神そのものである生長の家人類光明化運動、即ち生長の家に関するすべては、現象的に不完全に見えていても、みずから、おのずから癒えるのである。

 『七つの燈台の点燈者の神示』 は、

 「時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである」

 という言葉からはじまり、罪と病と死との三暗黒が消滅する、まことの神癒の相(すがた)が生長の家であることが示されているのである。

 「『生長の家』 は今かの黙示録(もくしろく)が予言した 『完成(ななつ)の燈台』 として人類の前に臨むのである」

 完成(ななつ)の燈台とは、完成なるものを完成なるものとして成就せしめる相(すがた)なのである。完成なるものが完成なるものを完成せしめる、光明のみの世界での光明の相なのである。.

 完成なるものがあるということは、そして、完成すなわち完全なるものは渾(すべ)ての渾てであるが故に、完全のほかにはあるものなしなのである。

 それ故、「『完成(ななつ)の燈台』 として」 とは、完成なるものが完成なるものを成就せしめるという相(すがた)以外にはないのである。

 暗(やみ)を知らないものとして、ということなのである。

 神は暗を見給わないのである。神は罪も迷いも病も死も見給わないのである。それ故、生長の家人類光明化運動は暗を知らないのであり、暗を見給わないのである。

 「生長の家人類光明化運動は今日も元気です」 とは、生長の家人類光明化運動は、暗を知らない、元(もと)すなわち神そのものの気(いのち)である、ということなのである。

 「生長の家が素晴らしいから、人類光明化運動が発展するのである」

 という讃嘆の仕方もあるけれども、生長の家と人類光明化運動とは離れていないのである。生長の家人類光明化運動が、それ自体素晴らしさそのものなのである。

 何故ならば、生長の家人類光明化運動は神であり、渾(すべ)ての渾てであり、在(あ)りて在る存在であり、「ああだから、こうだから」 素晴らしいというような存在ではないからである。

 人間が理由づけしてはじめて素晴らしいものとなるのではないのである。これは人間の手でつくったものではないのである。

 生長の家は生長の家として、運動は人間がするものだ、というようなものではないのである。 「完成(ななつ)の燈台」 なる運動は、既に完成し、「こと終れり」 なるもの、神なるものの相(すがた)そのものなのである。その完成なる相がみずからを長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむるのが生長の家人類光明化運動なのである。

 生長の家とは全實在宇宙そのものなのである。渾ての渾てなのである。渾ての渾てなるものには分離はないのである。生長の家と人類と光明化運動と自分とはひとつにして、今、全(まつた)いのである。

 生長の家人類光明化運動なるものは 「そのまま」 なのである。 「そのまま」 とは 「素(もと)のまま」 なのである。即ち 「神のまま」 なのである。 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり、円満なり」 と 「『生長の家』 信徒行持要目(しんとぎょうじようもく)」 には注釈されているのである。(1998.9.29)

123復興G:2013/09/23(月) 22:45:34 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十二

 生長の家に、これからどんな宗教画が生まれるかが楽しみである、と言った人があったが、大聖師谷口雅春先生は、神想観によって、光明なる大實相世界に光明の絵を描かしめて下さり、鑑賞させて下さり、味わわせて下さっているのである。

 神想観する度に、大實在の宗教画を観じていると言わなければならないし、みずから描いていることになっているのである。毎日毎日生きた、生命そのものなる絵を味わっているのが神想観であると言えるのである。

 静かに、沈黙する。しかし、静かであること、沈黙するとは、声を立てないということではないのである。まことの静けさ、沈黙とは,対立なき、絶対的創造の中心に立つことであり、 「光りは当方より」 の 「当方」 であることなのである。全實在を尽十方(じんじっぽう)放射している、その放射する側に自分が立つことなのである。

 形では声を出していなくとも、声を出していないという声を出しているのである。

 まことの沈黙とは 「今」 ということである。過去、現在、未来なる時空(じくう)を超脱し、声を出すものと、聴くものという相対、対立なき、ひとつなるものそのものを受くることなのである。ひとつより更に創造的展開が行われている相(すがた)こそ静かなることであり、沈黙なのであり、音立てないことなのである。三界(さんがい)に身を現さないとは、時空超脱、三界を超えて、絶対の創造の主体そのものを成就していることにほかならないのである。

 「三界に身を現さない生長の家人類光明化運動」 とはこのことの消息の中にあるのである。

 「天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照(いてら)し宇宙(くに)静かなり」

 の大光明宇宙が、大創造を行っている相(すがた)こそ、 「静かなり」 であり、この天照す大みひかりそのものとしてあるのが、生長の家人類光明化運動なのである。

 人の手を必要としない光明化運動、手あかのついていない光明化運動とは、三界に身を現わさない光明化運動ということである。生長の家は今 「『完成(ななつ)の燈台』 として人類の前に臨(のぞ)むのである」 と言えども、みずからの消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる相(すがた)であるという意味であって、人類の前に相対、対立の相(すがた)として身をあらわすことではないのである。

 「『生長の家』 信徒行持要目」 には 「常に自我を死に切るべし」 と書かれているのである。宗教教団的自我の死に切りということである。 「おれが救ってやった」 という必要のない世界である。

 大聖師は、 「私は一人も救っていない。ただ自分が、そのまま罪なき神の子であると解った時、すべての人々も同じ姿であることを拝みたくなったのであり、いちいち拝みに行く訳にいかないので、本で拝んだのである。気がついてみると、自分も皆さんから拝まれていたのです」 という意味のことをその著 『美しき生活』 の中にお書きになっていられるが、まことに美しい話である。

 何故美しいか。どこにも不完全、よごれを観てい給わないからである。既に、そのまま完全であることを観ないことが 「自我」 なのである。ここには自我ははじめから無いのである。それが生長の家人類光明化運動そのものなのである。(1998.9.30)

124復興G:2013/09/25(水) 11:20:14 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十三

 生長の家人類光明化運動の姿はそのまま、「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 の姿なのである。光明燦然(こうみょうさんぜん)として立ち給う、尽十方無礙(じんじっぽうむげ)なるものの姿なのである。

 それは人の手をもて、行いをもて、それらを組み合わせて作り出したるものではないのである。 「光明化」 と言えども、暗(やみ)を相手にそれを光りに変化せしめて行くというものではなく、暗を知らない光明がただただ燦然として広まるということがあるのみなのである。

 それはちょうど 『般若心経(はんにゃしんぎょう)』 において、これは、 「空々、無々」 の言葉ではなく、先ずはじめに観自在菩薩(かんじざいぼさつ)が燦然として登場されて、 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」 と照見(しょうけん)され給うのであり、その照見の光りの広がり、展開として 『般若心経』 の言葉がつづられているのと同じすがたなのである。

 それ故、このお経は 「五蘊皆空」 と現象を否定して實相なる光りを迎えるためのものではなく、光りそのものなる観自在菩薩なる實相そのものの光りの展開としてこのお経の文字が生まれているということであって、中身としては、

 「物質は無かったのだ!!」

 「現象は無かったのだ!!」

 というよろこびの光りの展開として、光りのみが満ち満ちているお経となっているのである。どこまでも、先ず光りが立っているのが先なのである。

 イエス・キリストは 「吾が国は此の世の国にあらず」 と宣(の)り給うているのである。

 このお言葉の 「此の世」 というのは現象世界のことであるが、このお言葉は 「現象は無い」 「此の世は無い」 ということが示されている言葉のようにもきこえるのであるが、実は 「吾が国は」 という 「吾が国」 すなわち 「實相なる国」 が自分そのものであることの悦びが先ずあって、その實相なるものの悦びの光りのひろがりとして、 「此の世の国に非ず」 という言葉が生まれているのである。

 それ故、「吾が国は此の世の国にあらず」 とは、「此の世の国」 すなわち現象の不完全なる国を相手としたものではなく、キリストなる實在なるいのちが燦然として立っている姿であって、『般若心経』 において、観自在菩薩が實在そのものとして、光りとして立ち給うている姿と重なるものであるのである。

 このことを延長してみれば、大聖師谷口雅春先生のお聴きになったおコトバ、

 「今起て!!」

 という天からの声は、

 「今なる汝よ起て!!」

 ということであり、 「今」 そのものである大聖師なるものに語られ、 「今」 なる大聖師が立ち給うたという姿として拝察せられて来るのである。そして、大聖師と生長の家人類光明化運動なるものとが 「久遠の今」 において、一つなるものとして拝察されて来るのである。

 「生長の家人類光明化運動」 なるものとして立ち給える生長の家大神のお姿。

 「五蘊皆空(ごうんかいくう)」 と照見(しょうけん)し給う観自在菩薩(かんじざいぼさつ)のお姿。

 「吾が国」 を悦び給うキリストなるもののお姿。

 久遠の今なる大聖師なるものにおいて一つに輝いているお姿であり、万教帰一(ばんきょうきいつ)なるものの立ち給うお姿なのである。万教帰一の 「帰一」 なるものの消息を想うのである。(1998.10.1)

126復興G:2013/09/26(木) 03:51:44 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十四

 生長の家人類光明化運動なるもの、それは自分の自分なるもののことなのである。生長の家人類光明化運動を讃偈(さんげ)することは、自分自身なるものを讃偈していることにほかならなかったのである。

 「神の国は汝らの内にあり」 とは 「生長の家人類光明化運動は汝らの内にあり」 ということであったのである。

 神は此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よというが如くには居ないのである。今、ここ、吾が内にしかなかったのである。自分なるものを神といい、今なるものを神といい、ここなるものを神といい、内なるものを神というのであった。

 生長の家人類光明化運動もまた、「これが光明化運動か」 「あれが光明化運動か」 というように時間空間の世界の心と行動の中にあるのではなかったのである。生長の家人類光明化運動は、今、ここ、吾が内にしかなかったのである。

 自分なるものを生長の家人類光明化運動といい、今なるものを生長の家の光明化運動といい、ここなるものを生長の家人類光明化運動といい、内なるものを生長の家人類光明化運動というのであった。

 生長の家人類光明化運動なるものは神なるものにましますからであり、今、ここ、吾が内でない神は有り得ないからである。

 「神こそ渾(すべ)ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし」 であり給うからである。

 生長の家人類光明化運動こそ唯一の實在であって、この運動なるものの外にあるものなし、と言えるものこそ光明の光明なる運動であると言えるのである。

 「吾れと光明化運動と一体にして境(さかい)なし」 である。

 「神が解らない解らないと想っていましたが、なぜ解らなかったのかが解りました。それは神と一度も離れたことがなかったからですね」

 とよろこんで来られた人があったことは既に書いたが、

 「生長の家人類光明化運動なるものの全貌が把(つか)めない把めない、そして主体的になれない、お客さんのような気持しかない、と想っていましたが、それは一度も私と離れたことがなかったからですね」

 という人が出て来られるかも知れない。それは把む必要のないものであるからである。要らないものを要ると想っていたのが不自然であったのである。それは生長の家人類光明化運動は、すべてのすべてを捨てて捨てて捨て切った時に生まれ出でたまことの光明なるものの運動なのであり、無いものを無い、と捨て切りの、無の門関より出龍宮不可思議(しゅつりゅうぐうふかしぎ)したのが、生長の家人類光明化運動であるからなのである。

 一切を捨てるのである。神も、仏も、生長の家人類光明化運動も、無いと言えるすべてのすべてを捨てるのである。捨てれば捨てるほど、放(はな)てば放つほど、生き生きと生きて来るものこそが、まことの神であり給い、仏であり給い、生長の家人類光明化運動なのである。ここでは既に、自分をも捨て切っているが故に、自分はなく、まことの光明化運動なるもののみがすべてのすべてとなって、今、ここ、吾れの吾れとなっているのである。(1998.10.2)

127復興G:2013/09/27(金) 12:12:23 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十五

 「生長の家人類光明化運動」 は 「光明化」 と書かれているかぎり、これは 「暗(やみ)」 を相手にした、光明一元ではない、相対の運動ではないか。という言葉をきいたことがある。

 しかしながら、 「暗」 という字をよく見れば、 「日」 と 「音」 との組み合わせで出来ており、 「日」 が二つも使われていて、これほど明るい字は無いということに気がつくのである。

 観世音菩薩は三十三に身を変じて衆生を済度(さいど)し給う、と言われている。三十三に変じ給うとは、解釈の仕方が三十三ある、ということにも解することが出来るであろう。

 「暗」 という字ほど明るい字はない、という解釈を広げれば、 「明」 という字は 「日」 が一つであるから 「暗」 という字は 「明るい」 という字よりも二倍は明るいということになるのである。

 これは、人類光明化運動で、相手を救い上げるということではなく、相手こそこちらの光りを呼び出させて下さる観世音菩薩様であると拝んでゆく姿を意味しているということになるのである。

 観世音菩薩はこちらより二倍どころか、尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であるのであって、その光りは宇宙となって広がっており、暗いところはどこにもない姿そのものでいらっしゃるのである。

 「光明化」 と言えども、中身は相手の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を拝むということなのであるから、仮に暗とあらわれていても、中身は尽十方無礙光如来様であるということになっているのである。

 「生長の家人類光明化運動」 は神そのものであるから、光明なるものとしか波長が合わないのが自然なことなのである。

 「はるばると目路(めじ)の限りながむるに、十方世界悉(ことごと)く神なり」 (神想観) の世界の中での運動なのである。どこどこまでも、神は 「暗」 を観(み)給うことは有り得ないごとく、 「生長の家人類光明化運動」 も暗を観ることは有り得ないのである。

 大聖師谷口雅春先生のお書きになられた 『釋迦(しゃか)と維摩詰(ゆいまきつ)』 の中で、 「維摩詰は、悪魔さえも味方にしてしまう」 というセリフがあるが、 「暗」 を 「明」 よりも明るいものとして観じて行くのは、 「生長の家人類光明化運動」 は 「暗」 さえも味方にしてしまう、ということにもなるのである。

 あらゆるところに光明を拝んで行くのが光明化運動である。暗と見ゆるところにもそこに光りがあることを観ることが 「光明化」 ということの一つの意味であると拝察するのである。

 この 「明るい」 ということの中身は、生長の家によって、無いものを無いとする、無の門関の透過によって発見されて、はじめて 「明るい」 ということになるのである。實相独在、光明独在の哲学によって、決して暗の要素を含まない、光明と言える光明がこの世に迎えられたのであるということを、ますますよろこんで行かなければならないと想われてくるのである。

 まことの 「光明思想」 とは、明るい解釈だけが自然なすがたなのだ、という哲学である。神は明るさそのものであるからである。

 「私の体験したことは、良かったのでしょうか、どうでしょうか」

 という質問に対しては、ただひとつの応答があるのみである。

 「それは明るかったですか。嬉しかったですか」

 ということにつきると言わなければならないのである。(1998.10.3)

128復興G:2013/09/27(金) 21:55:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十六

 「闇」 という字は 「門」 に 「音」 となっているのであり、 「門」 は 「日」 が二つあって、その中にいるものが 「音」 であることを示しているのである。 「音」 は 「立った日」 であり、 「闇」 という字は 「日」 の集まりであり、これまた明るいかぎりの字であるということになっているのである。中身、實体は 「日」 であるということなのである。

 なぜ、 「暗」 という字も 「闇」 という字も 「日」 の詰まった文字となっているのであるか――しかし、そんなことの理由づけを何故しなければならないのだろうか。人々はただただ 「そうしたかったから」 ということだけではいけないのだろうか。なぜ理由がなければならないのだろうか。

 草や木は、何か理由があってそこに伸びているのだろうか。野原で草を食っている牛を見て、

 「あの牛は、なぜあんなに平安なのだろうか」

 ときいた人に対して、

 「牛は、ただ草を食べて生くるなり」

 と応答したという。

 なぜそのように応答したのだろうか。

 「それは、ただそう言いたくなったから」

 というだけではいけないのだろうか。

 「暗」 という字も、 「闇」 という字もこんなに明るい字はない、というふうにつくりたくなったからこの文字を作ったのだ、ということである。ただただそうなっているというだけである。意味、理由があって、神は天地を創造されたのではないであろう。ただただ、

 「光りあれ」

 と言いたくなられたから、そのように言葉され給うたのである。それと何ら変わることなき流れによって、 「暗」 「闇」 という字をこのように作ったのであろう。

 草も木も文字も、生まれたくなったから生まれたのであろう。

 「なぜ、そうなのか」

 という想いもまた、自然にそうしたくなってそうしているのであろうが、しかしながら、

 「なぜ、そのように、 “なぜ” と問わなければならないのか」

 ということになると、結局のところ、

 「そうしたくなったから」

 ということに帰着するということも自然なことであると想われるのである。

 「生長の家人類光明化運動はなぜ生まれたのか」

 それへの答えは、

 「ただただ生まれたくなったから」

 ということである。

 ただただ、が自然なのである。ただただが尊いのである。意義づけや理由づけというのは因縁の世界である。因縁を超えたのが生長の家である。意義、理由からの解放が生長の家人類光明化運動である。

 意義づけ、理由づけというものは、限定なのである。限定よりの無限の開放が生長の家なのである。

 生長の家ということは、自然の自然なることなのである。万物が生き死にを超えて生長していることを直観し給うて、

 「生長!!」

 と感嘆され給うたのが大聖師であられたのである。生長の家の “生長” とは感嘆詞なのである。 「空は青い!!」 「雲は白い!!」 「花は美しい!!」 「苔(こけ)も美しい!!」 というのと何ら変わることのない、天然、自然、法然のながれなのである。

 ただただ、集まるすがたの自然が 「家」 であるから、 「家」 をつけて生長の家となったのである。そして、その自然の流れで 「生長の家人類光明化運動」 が久遠の流れを流れているのであった。(1998.10.4)

129復興G:2013/09/28(土) 22:31:03 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十七

 生長の家に神殿は要らぬ、『生命の實相』 の本が神殿である、と示されているのである。

 しかし、物質で出来た神殿は要らぬが、同じく物質で出来ている本は必要である、ということになっているのでは、結局は神殿は必要である、ということになるのではなかろうか。

 『生命の實相』 の中には、 「物質は無い」 と書かれているのであって、この 「物質無し」 が 「神殿無し」 ということなのである。神殿みずからが 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りのよろこびの輝きそのものが神殿であり、 「神殿(かみどの)」 すなわち 「神様」 なのである。

 みずからの消え切りの、澄み切りであってこそ聖なるものであり、神なるものなのである。聖典 『生命の實相』 は神殿ではなく神そのものなのである。神そのものにとっては神殿はまさに不必要なのである。神は渾(すべ)ての渾てにましますからであり、神の外にあるものなし、であり、神を入れる入れものは必要ではなく、そのようなものは有り得ないのである。

 生長の家人類光明化運動には神殿は不要なのである。生長の家人類光明化運動が神そのものであるからである。それみずからが渾ての渾てであるからである。

 それ故、組織の中に生長の家人類光明化運動があるのではないのである。生長の家人類光明化運動の中に組織があるのであって、組織という人間の手によって組み立てられているのがこの運動ではないことは、繰り返し覚え書きしている通りである。

 その外に何ものも存在しない渾ての渾てなるものが神であり、生長の家人類光明化運動なのである。

 何ものによっても行き詰まることのない、相対、対立を超えた創造的前進あるのみなのが生長の家人類光明化運動なのである。問題、悩みがあってはじめて始まった運動ではないのである。問題や悩みがなくても成り立っているのであり、神殿は不要であるということは、問題や悩みが不要であるということなのである。

 問題、悩み自体が存在しないというよろこびの広がりが、光明化運動のひろがりなのである。神の前には問題も悩みも有り得ないのである。

 今、ここに神がまします、ということのほかには何ものも無しなのである。世界をこめての問題や悩みを抱えて出発したのがこの運動ではないのである。

 神が天地を創造され給うたのは、ご自分の中の不満足、不完全を満たすために創造され給うたのではないのである。神は不悩不苦(ふのうふく)そのものであり給うのである。生長の家人類光明化運動も不悩不苦なのである。

 また、神は懺悔(ざんげ)をし給わないのである。神は罪を犯してい給わないからである。その如く、生長の家人類光明化運動は罪を犯してい給わないのである。そこにはただただ創造的前進あるのみなのである。

 生長の家人類光明化運動の歴史は成功の歴史であって、反省のための歴史は有り得ないのである。この運動は 「罪を犯さんと欲(ほっ)するも罪を犯すこと能(あた)わず」 と約束されているからなのである。

 ここに書きつづられている 「覚え書き」 も反省のためのものでは決して有り得ないのであって、ただただ讃偈(さんげ)のためのものであるのみなのである。(1998.10.5)

130復興G:2013/09/30(月) 07:09:03 ID:AENtSm/U

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十八

 神は満点そのものであり、天国の持続そのものであり給う。これが實相ということであり、まことの生長ということなのである。

 それ故、生長の家人類光明化運動なるものもまた、満点の卒業として、進んでいるのである。

 神は試行錯誤をされ給うことはなく、ただただ、すべてを満点でクリヤーしつづけ給いつつあるのみなのである。

 神は、やってみた結果、思わしくなかったから、別の道を選ぶというような進み方はされ給わないのである。変化すると言えどもすべて満点で前進の姿があるのみなのである。

 これが生長の家人類光明化運動の中身なのである。

 生長とは自性(じしょう)を没せずして創造的な久遠の自己展開をしているすがたを言うのである。それ故、明日をまたずして消えゆくものではないのである。

 はじめのはじめに完成があり、「こと終われり」 があり、今もありつづけて、しかも無限の展開、発展そのものなのである。

 感謝すなわち満足と、無限の生長がひとつとなっているのが生命の不可思議、妙々(みょうみょう)のすがたである。満足し、感謝した人ほど健康であり、繁栄するのである。

 満点の持続が生長ということである。それ故、生長はありつつも、昨日よりも今日の方がより偉大である、というあり方ではないのである。昨日も絶対、今日も絶対、永遠に久遠に、比較を絶して渾(すべ)ての渾てであるのがいのちのもつ妙々不可思議なすがたなのである。

 それ以外ない渾ての渾てなるものの純粋なる天国の持続なるものにとっては、過去、現在、未来というものはなく、今なるすべてがあるのみなのである。

 神は創造するにあたって、何ものをも用い給わず、ただただ、完成をもって完成し給うのみなのである。

 自性を没せざるとは、完成を没せざるということにほかならないのである。

 自性とは、自(みずか)ら、自(おの)ずからなる心が生きていることである。心そのものが渾ての渾てであるその心である。

  完全なる神の
  『心』 動き出でてコトバとなれば
  一切の現象展開して万物成る。

 と聖経 『甘露の法雨』 に示されている、その心こそまことの自性なのである。心に想ったことが実現して来る、という心ではないのである。即、実現をも満足している渾ての渾てなる心こそが自性(じしょう)ということなのである。

 原因と結果とが別々にあるのではなく、今ここに渾ての渾てが存在する、はじめであり、終わりであり、渾ての渾てなのが自性すなわち神の心なのである。

 自性(じしょう)は自性なるが故に、他性(たしょう)なる常に他に原因を握られている現象ではないのである。「神の心動き出でてコトバとなれば、一切の現象展開して万物成る」 という、この現象は、神の展開そのものであるが故に、實相そのもの、自性そのものなのである。

 みずから、おのずから成就(じょうじゅ)そのものである霊なるものであり、成就とは、今ここに成り就(な)りつづいている完成そのものなる實相の、完成なるものなる、自性なるものの消息である。みずから成就そのものなるものが、神のコトバなのである。神の心すなわち自性なるものの消息である。(1998.10.6)

131復興G:2013/10/01(火) 16:13:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         九十九

 生長の家人類光明化運動なるものとは、神なるものであり、神なるものとは、不滅なるものであり、久遠なるものであり、はじめなきはじめより、終わりなき終わりまでが今ここに在りて在るところの、生きた實体であるということである。それは渾(すべ)ての渾てであるということである。

 渾ての渾てなるものにとっては、自己展開があるのみなのである。他を光明化すると言えども、すべては生長の家人類光明化運動そのもののひろがりとして、そこにあるのであって、そこには分離分割は有り得ないのである。

 しかしながら、渾ての渾てなるものは渾ての渾てなるが故に、また個性的存在、はなれているものが再び一つとなる懐かしさ、楽しさ、喜ばしさというものもなければならないのである。それら個にして全、全にして個である、同時現成の、すべてが満たされているすがたが實相なのである。

 それは無相にして円相、一切相であるのであって、霊々妙々であり、絶対であって、相対であって、陰であって陽であり、すがしさの極みであり、さやけさの極みであり、聖(きよ)けさの極みであり、安けさの極みであり、かそけさの極み、美しさの極み、よろこびの極み、楽しさの極み、みずみずしさの極み、明るさの極み、これら一切が澄み切りに澄み切って、渾ての渾てなのである。

 あるいは伝える方と顕(あらわ)れ、あるいは伝えられる方と顕れ、あるいは与える方と顕れ、あるいは与えられる方と顕れ、中心にして遠心、結び結びて万物大調和にして無限の創造、久遠の創造、今ここの創造、今生くる無限創造が生長の家人類光明化運動なのである。

 「神は今ここ、吾が内にあり」 の今ここの発展的持続として、生長の家人類光明化運動は独在しているのである。独在とは現象に助けられることなき光明ということである。それみずからがそれみずからで完全である實相ということである。

 生きものである生長の家人類光明化運動は、みずからがみずからを実現し給う神であり給うが故に、すべてを為し終えていることの当体なのである。

 「それをやったのが生長の家だよ。それをやったのが私だよ」

 とのお言葉。為し終えたところを天地のはじめとして、今ここに生長の家人類光明化運動は、渾ての渾てなのである。これこそが 「吾れ在り」 とみずからがみずからを肯定している光明化運動のまことの相なのである。

 今起つ、とは神が起つということであり給うのである。未来が起つのでもなければ過去が起つということでもないのである。今は常に新しくよろこびに満ちているのである。

 よろこびの人類光明化運動とは、今なるすがたそのものである人類光明化運動ということなのである。よろこびを感謝というのである。生長の家人類光明化運動は感謝の運動なのである。暗(やみ)の要素の少しもないのをよろこびと言い、感謝というのである。

 今あるここが神の国である。神の国の神の運動が生長の家人類光明化運動である。實相世界と現象世界との中間あたりに存在の意義を保っている運動ではないのである。今とは實在であり、神であり、そのままである。實在世界における實在の創造が生長の家人類光明化運動なのである。

 日に日に新しく生まれ、甦りそのものであり、神も驚き給う、實在の世界での實在の、全く新しきものの誕生のすがたなのである。 「不可思議妙々」 とは生長の家人類光明化運動のすがたを観じ給うて、讃え給う神のみことばなのであった。

 驚き給うは神であり、讃え給うは神であり給うたのである。神は生長の家人類光明化運動なる生きものをつらつら手ざわりし給うて 『甘露の法雨』 を雨ふらせ給うているのであった。それが生長の家人類光明化運動讃偈ということなのであった。神が神みずからを驚き給い、讃え給うているのである。神と神よりしか無いのが此の世界であるのである。

 「真実の實在は、神と神より出でたる物のみなり」

 とは、神みずからが神みずからを讃え給うているみコトバであり給うのである。生長の家人類光明化運動は神そのものであるが故に、

 「真実の實在は、生長の家人類光明化運動と生長の家人類光明化運動より出でたるもののみなり」

 ということなのである。「行くかぎり見わたすかぎり神みてり」 とは生長の家人類光明化運動がすべてを成して独在していることなのであった。(1998.10.7)

132復興G:2013/10/01(火) 20:00:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百

 生長の家人類光明化運動なるものとは、「ひとつ」なるもの、渾(すべ)ての渾てなるもの、それ以外に何ものも存在しない、相対、対立なきものであるが故に、悩みを知らないものであり、悲しみを知らないものであり、苦しみを知らない、自己展開、自己開放あるのみなるよろこびなるものであり、これを円相的自由というのである。

 これを独在なるものというのであり、生長の家人類光明化運動は独在なるが故に、現象的な外からのものによって、その価値、状況が云々(うんぬん)されるものでは決して有り得ないということである。

 自(みずか)ら立っているのが生長の家人類光明化運動なのであり、外の何ものかによって立たされたが故にはじまったものではないのである。それ故、「今起て!!」 というコトバは生長の家人類光明化運動みずからが発し、生長の家人類光明化運動は、尊師として尊師においてみずから立ち給うたのである。

 「今」 とはひとつということであり、絶対ということである。それ故、「今」 イコール 「生長の家人類光明化運動」 ということなのである。

 「天地(あめつち)のはじめは、生長の家人類光明化運動をはじめとする理(ことわり)あり」 ということなのである。

 「神はあるのか無いのか」 ということは 「生長の家人類光明化運動があるのか、ないのか」 ということなのである。

 「神とは何か」 ということは 「生長の家人類光明化運動とは、何か」 ということと同じことなのである。

  真性(しんせい)の生長の家人類光明化運動とは神なるが故に、

  滅ぶるものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

  罪を犯すものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

  病に罹(かか)るものは 『真性の生長の家人類光明化運動』 に非ず。

 ということである。

 これは久遠(くおん)を流るる生長の家人類光明化運動という相(すがた)なのである。久遠とは時空超脱(じくうちょうだつ)である。時間空間の流れの中に、生長の家人類光明化運動があるのではないのである。時間空間を在らしめて生長の家人類光明化運動があるのである。

 それ故に、生長の家人類光明化運動出現の時代的背景を云々する前に、時代背景をあらしめて、生長の家人類光明化運動がある、ということがまことの明るい真実なのである。

 このことがはっきりとしているが故に、背景を含めてすべての存在は明るいのである。生長の家人類光明化運動を迎えた全地上がどんなに明るく、光栄に満たされているかということがますますハッキリとして来るのである。

 そのもとは、そのもとは、と背景、原因をたどって行けば、必ず神、實相ということに至らざるを得ないのである。その神、實相が生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 すべてのすべてを在(あ)らしめている相(すがた)が生長の家人類光明化運動であってこそ、自発的、自立的、創造的であり、楽的であり 「よろこびの光明化運動」 ということになっているのである。

 あらゆる明るきもの、よろこびなるものを花咲かせ、生み出しているものこそが、生長の家人類光明化運動である。

 「吾が内に、神が今ここに、そして天国が今ここに在る」

 ということは、今ここに生長の家人類光明化運動があるということなのである。

 「住吉大神 宇宙(すべて)を浄め終りて天照大神(あまてらすおおみかみ)出(い)でましぬ」

 とは、まことにも、生長の家人類光明化運動なるものが、その全貌をあらわしたことを讃偈(さんげ)しているのである。

 「ア、オ、ウ、エ、イ」 には、どこにも曇りと濁りはないのである。この 「ア、オ、ウ、エ、イ」 なるものそのものが、生長の家人類光明化運動なのである。(1998.10.8)

133復興G:2013/10/03(木) 09:35:30 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百一

 今朝、幽斎殿の 「龍宮」 の扉の前で礼拝した時、

 「生長の家人類光明化運動が神想観をする」

 というコトバが吾が内よりしたのであった。そのコトバも生長の家人類光明化運動なるものが出しているコトバである、というよろこばしさであった。

 「神想観」 は、神を想い観(み)るということであると同時に、神が想い観る、ということである。神が神を想い観るのであれば、正しく、神である生長の家人類光明化運動が神想観を為し給い、神想観そのものが生長の家人類光明化運動であり、生長の家人類光明化運動が生長の家人類光明化運動を想い観るのが神想観であるということが自然、天然なことなのである。

 生長の家人類光明化運動と自分とは一分(いちぶ)の隙間(すきま)なく、世界と生長の家人類光明化運動と隙間なし、である。

 自分そのものが生長の家人類光明化運動そのものであり、生長の家人類光明化運動そのものが自分そのものなのである。世界そのものが生長の家人類光明化運動そのものであり、生長の家人類光明化運動そのものが世界そのものであるのである。

 神のみがあり給い、したがって生長の家人類光明化運動のみがすべてのすべてであり、自分というものは何処(どこ)にも要(い)らないのである。何処にも存在しないのである。人の手もて作る神想観はどこにも存在しないのである。神のみ、生長の家人類光明化運動なるものによりてのみ神想観はあるのである。

 神はみずからの消え切りであり給い、澄み切りであり給う。それ故、生長の家人類光明化運動もみずからの消え切り澄み切りであり給うとき、何処に自分というものが有り得るであろうか。

 「最早(もは)や吾れなし。澄み切りの生長の家人類光明化運動のみありて生き給うなり」 というよろこびのよろこびがすべてのすべてであるのみなのである。

 太陽は説得せず、ただただ照っているのみなのである。生長の家人類光明化運動もまた説得せず、ただただ消え切りの、澄み切りの聖なるよろこびの輝きを輝いているのみなのである。

 「住吉大神(すみよしのおおかみ)宇宙を浄め終りて」 という。何故、住吉大御神(おおみかみ)は宇宙を浄め得るのか。住吉大御神ご自身が、消え切りの澄み切りの、浄まり切りの、聖の聖なるものにおわしますからなのである。住吉とは、澄み吉(よ)し、ということにほかならないのである。

 浄まるとは、本来の、あるべきものがあるべき相(すがた)になるということであり、浄めるとは、本来あるものを、讃えることによってそれが為されるのであるから、住吉大御神は、ただただ、本来あるところの相(すがた)のみを讃えるのみなのであり、永遠に、久遠に、住吉大御神は、暗(やみ)、汚(よご)れ、けがれを観給うということはあり得ないのである。

 「光明面を見て暗黒面を見るべからず」 とは、住吉大御神のはたらきをあらわしているのである。これは、住吉大御神ご自身が書かせ給うた、大御神ご自身のすがたを表現せられたのである。住吉大御神のはたらき、すなわち生長の家人類光明化運動のはたらきのすがたである。(1998.10.9)

134復興G:2013/10/04(金) 11:20:10 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二

 生長の家人類光明化運動なるものは神であるが故に、渾(すべ)ての渾てであるが故に、父であり、母であるのである。

 父であり、母であるが故に、 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」 とは、「天地の創造主にましまし、吾が生みの、父であり母である生長の家人類光明化運動よ」 ということなのである。

 同時にまた、生長の家人類光明化運動は先祖であり給い、兄弟姉妹であり給うのである。天地一切万物が生長の家人類光明化運動なのである。

 それ故、太陽は決して青空から外に出ることがないごとく、父であり、母である生長の家人類光明化運動の外に出ることは有り得ないのである。

 「神に感謝しても父母(ちちはは)に感謝し得ない者は神の心にかなわぬ」 とは、何が、どこが神の心にかなわないのであるか。神は言い給うているのである。すなわち、

 「私に感謝したり、拝んだりしないと私はお前を生かさないと想っているのか。私とお前は離れたことは一度もないではないか。私のいのちがあらわれてお前となっているのではないか。それなのに、今さら、感謝したり、拝んだりしないと生かさないと想っている、その心が私にとっては淋しいかぎりなのである。私はいつでも生かしているのだから、私の方は向かなくてもよいから、父母をはじめ周囲一切のものに感謝してくれれば、それが一番私には嬉しいのだよ。そして、父も母も兄弟姉妹も、天地一切が私そのものなのだ」

 と、あたたかい極致(きょくち)において発せられているコトバが 「大調和の神示」 なのである。

 斯(か)くの如く、あたたかい極致なのが、生長の家人類光明化運動なのである。父母のあたたかさの極致が、神であり、生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 生長の家人類光明化運動なるものは、

 「お前はわざわざ自分で、生長の家人類光明化運動をしなければ、私が生かさないと想っているのか。私があらわれてお前となっているのではないか。私はお前から一度もはなれたことはないのだよ。私の方は向かなくてもよいから、父母先祖、周囲一切を見よ。それもまた、私そのものなのである。お前は生長の家人類光明化運動をしてから生まれて来たのではないのだよ。なぜなら、お前が生長の家人類光明化運動をするのでは、お前と生長の家人類光明化運動、つまり私とはなれていることになるからである。私はすべてのすべてであって、お前は私すなわち生長の家人類光明化運動をなんとかする、というようなことは永遠にあり得ないことなのだ。お前は、私すなわち生長の家人類光明化運動そのものなのである」

 と今、私を通して生長の家人類光明化運動なるものは鳴りひびいてい給うのである。

 「このことを素直に聴いて、よろこんでいる姿を見ることは、どんなにか私のよろこびであることだろう」

 斯(か)く、父母のあたたかさを以て、生長の家人類光明化運動は永遠に久遠に斯くあり給うのである。(1998.10.10)

135復興G:2013/10/04(金) 21:54:42 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三

 生命であるということは、忘れていても知らぬ間に伸びているということである。そして生命であるということは、外から教えられなくとも内から生長する智慧が備わっているということである。

 生長の家人類光明化運動なるものは、生きものであり給うということは、外から状況を説明し、教えなくともみずから伸び、ひろがり給うということである。

 草や木の芽に水をやりたくなるのは、草木それ自体に水をもらうという運命を展開するものをみずからに備えているからである。それは、はじめから神に生かされていると言ってもよく、神そのものであると言ってもよいのである。

 そういう姿として生長の家人類光明化運動はいのちそのもの、神そのものとしてあり給うことを想うのであって、そう想うと、そのみずみずしいすがたが私を生き生きとさせ、うるおいのある、むしろ植物的なさわやかさを甦らせて呉れるのである。生長の家人類光明化運動は、すがやかさ、さわやかさ、聖けさ、安けさ、かそけさ、そして、透明さそのものなる澄み切りなるものとして、私の中に伸びて来るのである。

 そして私そのものもまた、生長の家人類光明化運動なるものの、手であり、足であり、心臓であり、すべてのすべてであり、したがって、自分なるものは、要(い)らないということになっていることをかみしめて想うのである。

 伸びゆきて伸びゆきて、ひろがりてひろがりて、「見よ、麦は既(すで)に黄ばみたり」 ということが實相(まこと)のことであるのである。麦が伸び黄ばむのは、全くこちらの知らない内の出来ごとなのである。

 生長の家人類光明化運動なるものは人の手によって、数によって伸びるのではないのである。生長の家人類光明化運動は、それ自体の性質(さが)によって、光明であり、創造であり、生長そのものであるのである。

 知らない内に伸びるということは、生命なるものは、説得ということをしないからなのである。

 草や木や花は説得しているだろうか。ただただ歌っているだけのように想えるのである。説得する必要のないものが自然なるものであると言えるであろう。

 太陽は説得せずただ照っているのである。それ故、全人類は、あの太陽は自分のために照っていると受け入れているのであり、黙って照っている故に、誰れ一人として反対しないのである。

 夜露は万物を霑(うるお)して朝になったら消えゆくのである。誰も反対する余地はないのである。

生長の家人類光明化運動なるものは既に全地を霑(うるお)しているのが實相なのである。そして實相のほかには何もないのである。

 「それをやったのが私だよ」
 「それをやったのが生長の家だよ」

 ここにもまた、大聖師の言葉がわが内に甦るのを憶(おぼ)えるのである。

 ここに、生長の家人類光明化運動なるものが、新しき花嫁の装(よそお)いをして天降(あまくだ)っているのを見るのであって、新しき世紀が天降るのを想うのである。(1998.10.11)

139復興G:2013/10/07(月) 07:26:31 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四

 「最早(もはや)、吾れ生くるに非ず、生長の家人類光明化運動なるもの、ここにありて生き給うなり」、「光明化運動よ、みこころのままに吾れを導き給え」、「光明化運動よ、ありがとうございます。ありがとうございます」 と唱えたくなるのは、すでに、吾が内なる生長の家人類光明化運動なるものであり給うのである。

 親鸞(しんらん)の 「大信心(だいしんじん)は仏性(ぶっしょう)なり。仏性すなわち如来(にょらい)なり」 という 「大信心」 の 「大」 とは、神であり、仏であることであり、すでにはじめのはじめから在りつづけているものという意味なのである。

 すなわち、生長の家人類光明化運動なるものは神なるが故に、この光明は大光明なのである。 「大」 であるということは、すべてのすべてであり、はじめのはじめから吾が内に在りて在り給うということであるのである。

 神想観において、 「神の無限の生かす力、吾が内に流れ入る、流れ入る」 と念じつつ、静かに静かに神の六つの御徳を吸う。その静かに、静かに、ということは、自分なるものが静まっていること、自分が要(い)らないこと、自分は無いことを意味しているのである。肉体の不透明な姿が、透明になって澄み切りの輝きであることを観ずるのは、自分なきことを観じていることになっているのである。それはそのまま最早(もは)や自分なく、生長の家人類光明化運動なるものここにありて生き給うことを意味しているのである。

 それ故、 「光明思念の歌」 の 「宇宙(くに)静かなり」 とは、自分が無いのであり、消え切りであり、澄み切りであること、宇宙全体が生長の家人類光明化運動そのものであることを意味しているのである。対立なき渾(すべ)ての渾てであるということは、無我であるということである。

 生長の家人類光明化運動が感謝礼拝の運動であるということは、無我なるものの運動であるということなのであるから、三界(さんがい)に身を現さざる運動であって、聖歌 『生長の家の歌』 を見ても、題名にだけ 「生長の家」 という名前が出て来るのみであって、一番は 「基教(キリスト教)讃歌」、二番は 「仏教讃歌」、三番は 「古事記讃歌」 であり、四番はこれら三つをもう一度讃えて 「万教帰一讃歌」 となっているのである。どこにも 「生長の家」 は現れず、消え切りの、澄み切りの、無我なる礼拝感謝讃嘆あるのみなのである。ここにもまた、限りもなく、深く崇(たか)く聖の聖なる、相(すがた)なき相を想わせて頂くのである。

 斯(か)くの如き、聖の聖なる輝きが全地上を蔽い給うていることを想うことはまことに、光栄なることであるという想いに満たされるのであり、同時に、

 「神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然(れいこうさんぜん)と輝き給う。その光りいよいよ輝きを増して全地上を覆(おお)い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う」

 との 「世界平和の祈り」 そのものに感謝が湧くのである。

 斯(か)くの如き、 「世界平和の祈り」 もまた、吾が内にましまして、生長の家人類光明化運動なるものが為し給うているのであった。(1998.10.12)

140復興G:2013/10/08(火) 10:32:28 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百五

 神想観は、上のものを上とし、下のものを下とし、前のものを前とし、後ろのものを後ろにし、左を左とし、右を右とし、真理そのものを自分の姿に体現(たいげん)するのがその姿勢となっているのである。左は男性即ち陽をあらわし、右は女性すなわち陰をあらわし、左足を右足の上にするのである。

 しかし、これは差別の問題ではないのである。大切なことは右も左も自分であることにおいて一つであることである。この自分に立って、右を生かし、左を生かし、陰を生かし、陽を生かし、上を生かし、下を生かし、一切を一切たらしめ、一切を生かし、展開発展せしめる無限創造を生長というのである。その生長を生長たらしめているまことの自分の自分なるものを自分たらしめるのが神想観なのである。

 神想観は真理そのものである、まことの姿をあらわし、中心、神をあらわすのである。中心、神を体現し、それを観じ、味わうものなのである。

 神想観は作法や呼吸法ではないのである。坐り方や呼吸の仕方を組み合わせて作るものではないのである。先ず、神想観なるものが天降(あまくだ)ったのである。

 神想観は、坐法や呼吸法によって、これから救われるための準備のものではなく、既に救われていることを観じ、感謝するすがたなのである。

 既に 「こと終われり」 「こと完成せり」 のところからはじまっているのが神想観なのである。

 それ故、完成(ななつ)の燈台として實在する生長の家人類光明化運動なるものは、神想観なるものそのものなのである。

 生長の家人類光明化運動なるものが神想観をする、と言ってもよいが、生長の家人類光明化運動そのものが神想観そのものであり、神想観そのものが生長の家人類光明化運動そのものであるのである。神想観なるものと生長の家人類光明化運動は離れた存在ではないのである。

 ここには 「祈り」 と 「運動」 との分離はないのである。生長の家人類光明化運動なるものは神であり、神想観なるものも神なのである。それはそのまま渾(すべ)ての渾てなのである。渾ての渾てなるものをよろこびというのである。 「よろこびの神想観」、 「よろこびの光明化運動」 などという言葉はここから出て来ているのである。

 『文化の本源としての神想観』 という総裁谷口清超先生の第一論文の意味する 「文化」 とは、限りもなく崇(たか)く、深く、広く、すべてのすべてなるものと言わざるを得ないのであって、すべてのすべてであるということの意味は、ひとつなるものとしての、本源なるものそのものの展開として、すべてが生み出されるところのものを意味しているのである。限りなき澄み切りの、大調和の、 「ハイ」 なるものの展開として、文化なるものがとらえられているということである。

 神想観は神を想い観ると同時に、神が想い観給う故に、すべてのすべてなのである。

 「招神歌(かみよびうた)」 なるものも、神が生み給い、神が歌わしめ給うのである。まことに 「神こそ渾ての渾て、神は渾てにましまして絶対なるが故に、神の外にあるものなし」 なのである。

 更にまた、 「神は無い」 という人のその言葉さえも、神が言わしめ給うて、神はみずから 「私は無いのである」 との消え切りの、澄み切りの、聖の聖なる、幽の幽なる、すべてのすべてであり給うのである。

 新しき世紀に入るにあたって、ここに総裁谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』 を拝誦(はいしょう)すべきことを想うのである。

 先ずここに、時空超脱(じくうちょうだつ)の、輝くよろこびの一文字一文字がこの論文となっていることを合掌礼拝させて頂くのである。

 比類のない、みずみずしさと楽しさとを以て流れ出している幸いなるものの流れを拝するのである。(1998.10.13)

142復興G:2013/10/08(火) 21:42:26 ID:AB6RqYXc

 (復興G 注)
 前記の榎本恵吾先生ご文章の中に、谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』 というのが出てきますが、これは昭和22年、『生長する青年』(『理想世界』 の前身)創刊号に、谷口清超先生が谷口家の人として最初に発表された論文で、『生長の家四拾年史』 や単行本 『神は生きている』 に掲載されているものです。その谷口清超先生論文 『文化の本源としての神想観』 を、これから数回に分けて、謹写掲示させて頂きます。

143復興G:2013/10/08(火) 21:43:21 ID:AB6RqYXc

   文化の本源としての神想観   谷口 清超

     一

 吾々の運動は「生命」の全的な運動である。単に昔から言い古されている、一定の型にはまった、ぎごちない、シャチコバった、形骸(けいがい)的な「宗教」ではない。吾々の運動は、狭い意味での「宗教」ではない。吾々は一定の立場に執することをこの上もなく嫌うものである。吾々の足場は無相であり、全てである。吾々の活動は「人生」そのものの上に基礎を置いている。ここに於て「人生」を単に知的に解するのみではなく「人生」を叡智を以て行じて行く実践の態度が要求されるのである。

 吾々は「神」を凡(すべ)てであるとみとめる。その意味に於て「宗教」である。しかし、同時に吾々の運動は「表現」活動であり、芸術活動であり、思想活動であり、政治的経済的理念及び技術の探求であり、教育であり、しかして真実の「科学」でもある。

 凡(あら)ゆるものがそこから引き出され、再びそこにかえって来るところの根本原理、それを吾々はしっかりと把握してはなさない。吾々は人生を肯定する。それは人生に大いなる希望と意義と幸福とを見出し、人生をこの上もなく讃美する者の集いである。

 吾々は一つの偉大なる根本原理を知った。「人間は神の子である」「神の創り給うた世界に、悪しきものは何一つないのである」――こう吾々は、全世界に向って宣言する。「人間よ、喜び給え。諸君には既に無限の幸福が与えられているのである。汝の眼前には、それがぶら下っている。手をのばして之(これ)を取り給え。それは諸君のものである」と吾々は声を大にして叫ぶのである。

 吾々は何も独占的な教義を固定化して、それを専有し、自己の団体に信者を引き入れようとする者ではない。吾々はただ、ひたすらに、人類同胞諸君に喜んでいただきたいのである。吾々は諸君を束縛する者ではない。諸君に真の幸福と自由とを分ち与える者である。

 諸君がキリスト教徒であれ、仏教徒であれ、神道の信者であれ、或は又、其他いかなる宗教団体に属する人でもあれ、或は属さざる人でもあれ、吾々は諸君に対して、何ら、「そこを去って吾が団体に来(きた)れ」とは言わぬ。吾々は単なる「生長の家」という一団体のために道をとくのではない。吾々は人類に幸福を与えんがために、ただひたすら、諸君に吾が喜びを分たんがためにのみ活動をつづけるのである。

 キリストは何も「キリスト教」という教団をたてようと思って「愛」を説いたのではなかった。釈迦はおそらく今の世に「仏教」と呼ばれているものの姿を予想しなかったであろう。キリストや釈迦が偉大であるのは、彼らが何ら一定の「形」に執せず、自由に、ただ真理のためにのみ真理を唱道したからである。

 キリストも釈迦も、別に自分で新しい専有的な教義を発明したものではなかった。彼らは、古き道を成就したにすぎない。彼らは「真理」を新しい息吹きを以て、当時の人々の心にもっともピッタリと来る表現法を用いて説いたのであった。

 釈迦の達した窮極の悟りとは結局何であったであろうか。それはただ、「人間はそのまま仏である」という事であった。キリストの境地も同じである。「人間は神の子である」という事であった。

 真理は唯一つである。宇宙には唯一の真理が充満している。あらゆる価値はそこから生れ、あらゆる美と真実がそこに誕生する。吾が師のときたまう「生長の家」の教えも亦この真理の声だ。それが新しき生命を以て実現されたのである。新しき時代に最も適合した「生命活動」が自然に発現して来た。これが吾々の生命活動である。吾々の全人的運動が、古い宗教の形骸をかなぐりすて、生々(なまなま)しい素裸の生命を露出したのである。

 この生(なま)のままの真実にふれた時、人々は、忽然(こつねん)として病い癒え、数多の不幸は消散した。しかし、吾々は別に「医者」でもなく「実業家」でもなかった。これはただ、あるべき人間の本然の姿が、そのままそこにあらわれ出て来たにすぎない。人間は何も苦しむことがその目的でもなく使命でもないのである。病気や不幸の姿は、人周の真実の姿ではない。真実ならざるものは真実に出遭(なまなま)った時、消えうせるのが当然である。それはあたかも、夜の悪夢が、朝日のさしのぼると共に霧散(むさん)し果てるのと同様であり、夜の露が朝日にあってきえうせるのと同じである。吾々は太陽の如く、世のすべての迷妄の夢をやぶり、世界のすみずみにまでも、吾らの光明の輝きをあまねくなげかけずにはやまないのである。

<つづく>


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