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144復興G:2013/10/08(火) 21:46:34 ID:AB6RqYXc

お詫び、訂正です。

×真実に出遭(なまなま)った時
          ↓
○真実に出遭(であ)った時

145復興G:2013/10/09(水) 10:01:32 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 つづき>

      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     二

 凡(すべ)ての人間は、過去に於ても現在に於ても又未来に於ても、同様の考え方をする。ただ、それを表現する感覚(センス)は非常に変っている。それはあたかも、裸の人間のみをみては、過去の人と現代の人と大差はないが、衣服をつけた人をみると、過去の人と現代の人と大変異なっているようなものである。

 しかしながら、古きものは常に新しきものに連続しているのであるから、そこに何らかの共通点を見出すことが出来る。まして、裸のままの人間そのものの心は過去・現在・未来を問わず、永久に不変である。それ故に吾々は古典の美にうたれ、古き教えの真実に心打たれるのである。

 釈迦は世の中の生老病死(しょう ろう びょう し)の四苦を見て、現世をいとい、何とかして解脱(げだつ)に達せんとして苦行林(くぎょうりん)に入り六年間の苦行をした。キリストは荒野にて四十日四十夜の断食をして飢えたもうた。彼らはただ、ばくぜんと苦行したのではなく、「現在の自分」 というものに満足出来ず、何ものかによって現在の苦しみから脱却せんと希(こいねが)ったのである。

 釈迦に於ても、かつては苦しみがあり、キリストに於てもなやみがあった。釈迦やキリストが偉大であるのは、何もかかる悩みそれ自体によるのではなく、その苦しみを超克した偉大なる彼らの人間性(即ち神性の顕現)によるのである。

 かくの如く人間はすべてなやむ。しかし、人間が悩む故にその悩みが貴いと考えるのは馬鹿げた事だ。豚は悩まないが人間は悩む、悩みなき豚となるより、悩み多き人間となる方が貴いと言う人がいるが、それは勿論その程度の発達状態の人間にとっては、悩まざる痴呆(ちほう)より悩み多きインテリである事の方が好ましいにちがいない。

 しかし、吾々の要求している 「悩みなき人間」 の水準は、さらにその上にある。悩むことを知った人間が、更に昇華して、悩みなき神の子たる人間にまで到達する事を求めているのである。釈迦やキリストが到達した(或はある程度到達した)境地を、万人に求めているのが、吾々の精神運動である。

 諸君はそれを至難だと思うか。それは決して考えられている程に至難ではない。それは苦行(くぎょう)ではなく楽行(らくぎょう)である。それ以外の道が苦行であるのだ。吾々が、彼ら先達の道をふみしめ歩み行う時、それは安らかな道であるが、吾々が、彼らの切り開いたと同じ密林を自分の力で切り開いて行こうと思う時、至難道となるのである。

 人間は、だれでも、好むと好まざるとにかかわらず、何らかの形で神を自覚せしめられ、神の道を歩まぎるを得ない様に指導されるものだ。これが摂理であり、その摂理が 「悩み」 という形で人間に感得される。人間は本能的に 「悩み」 をさけ、「悩まざる道」 へと志向する。それは本能的にである。豚が本能的にトウガラシの辛さをさける如くに、人間は本能的に悩みをさける。それ故、悩みそのものが人間的であると考えるのは真理を知らざる者と言うべきであろう。人間の本性は永遠に 「悩まざる者」 である。

 <つづく>

146復興G:2013/10/10(木) 11:11:29 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 つづき>
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     三

 戦争は人間の悩みを最大限に拡大して、露呈する。戦争の破壊力は物質的の破壊力のみに止(とど)まらずして、人間の精神をも破壊する。人間の理想と夢とを戦争は無残にもふみにじる。そのあとには、何ものによってもきずつけられる事のない 「永遠なる真実」 と 「悪の華(はな)」 とが混沌として入りみだれる。

 しかしやがて 「悪の華」 は自ら消滅し 「永遠者」 のみが生きのこり繁栄する。「悪の華」 がいまだ完全に消滅せず、かえってこれに適当した温床が与えられる時には、やがてふたたび第二の自壊作用としての 「戦争」 が勃発するのである。

 第一次世界大戦の後に生じた一つの反逆精神があった。それは今までの理想、秩序、権威等、すべての力あるものに対する絶望であり、嘲笑であった。それは精神の不安である。

 一九一六年、チューリッヒに於てトリスタン・ツアラは 「ダダイズム」 という言葉を創始した。ダダ (dada) とは 「何事も意味しない事」 である。つまりカオスの象徴であり、釈迦が王宮を出た時の絶望と通ずるものがある。釈迦が絶望のうちに何か 「新しき光」 を求めて出家した如く、ダダも 「何事も意味しない」 とは言うものの、何事かを意味するために誕生した言葉であったのだ。そこに意識されざる矛盾がひそんでいた。これが大いなる禍(わざわい)の種となろうとは、誰一人として知らなかった。

 ダダイズムは何ものも神聖なるものをみとめない。dadaということばはフランス語で馬を追う時につかう 「ドウドウ」(ダダ) といういみであり、そこには 「既成概念を追っぱらう」 という「意味」がひそんでいた。

 戦争の原因となった旧(ふる)き観念を追いはらうという意味に於てダダが使われている限り、それは正しかったのであるが、彼ら同人の用いた 「ダダイズム」 は虚無にまで転落して、それ以上にはい上ることが出来なかった。

 かくしてダダイズムは自滅した。その反旧精神をうけついであらわれたのが、シュールレアリズム(超現実主義)であった。ツアラはこの運動に同志と共に加入し、アンドレ・ブルトンが主宰した。

 それは精神的に現実界を超越したより高き理想の世界を夢みる運動であり、それを直接的表現に移し植えたのであった。そこに、現実の暗黒と矛盾とに対して生じた革命精神を包含している。

 それは、正しく指導されれば、宗教的真実の彼岸に到達し、そこに真の超現実の実体を見出すことが出来たのであるが、当時のシュール・レアリスト達はあまりにロマンチシストでありすぎた。彼らは現実を超えたつもりで観念の世界に停(とどま)っていた。イマージュの世界に止っていたのだ。そこには何ら、現実を動かす所の力がなかった。彼らは彼岸の彼方を遠く眺望して、いたずらに幻想をたくましくしているにすぎなかった。彼らに欠けていたものは、もう一歩の前進であり、超現実と現実との立体的力学の把握であったのである。かくして、あくまでも現実の革命精神に燃えるアラゴン一派が、共産主義改革 即ち、政治革命へと満足を求めて離反して行った。

 結局彼らにとって最も欠けていたものはというと、彼らが何に反逆し、何に対して絶望し、何を求めて苦しんでいたかという、はっきりした対象を見出し難かった所にある。彼らが現実を超えんとした時、その現実とは如何なるものであるかという明瞭な認識を欠いていた点にあった。

 彼らがせっかく超現実を標榜(ひょうぼう)しながらも、神の国に投入し得なかった最大の理由は、「神の国」の感覚(センス)が彼らの近代感覚の触覚にこころよく感じられなかったからである。それは、神の国をとく宗教がフランス製のアラモードをつけていなかった点にもよる。しかし、根本の原因は、彼らの唯物論的残滓(ざんし)にあったのだ。

 彼らは何ものかを求めた。彼らの求めていたものはたしかに 「神」 であった。しかるに彼らはそれを 「意識しなかった」 或は 「意識しまいとつとめた」 のだ。何故であるか。それは、当時の宗教のとく神の衣裳の感覚が彼らの感覚(センス)に合わなかったからである。表現の問題である。そこに芸術的感覚と宗教的感覚との一致が要求せられる所以がある。

 吾々の思想運動、宗教運動が、一つの大いなる芸術運動を標榜しているのも、ここに原因がある。「宗教」 は宗教に関心をもつ者のみを救うのでは何にもならぬ。「宗教」 が宗教的臭味を脱した時、そこに凡ての人に接近しうる親近性が付与されるのである。
 <つづく>

147復興G:2013/10/11(金) 10:04:41 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 (昭和22年発表) つづき>
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     四

 第二次世界大戦は終った。そしてそのあとには第一次大戦の時と同様の混乱の世界が生じている。

 それは物資の欠乏にまつわる精神の不安である。この不安がかつて 「ダダ」 となって表現された如く、それは今 「実存主義」 等の面貌(めんぼう)を以て、日陰の草の如く青白く芽生えている。やがて日光が強くなれば、枯死してしまいそうな雑草ではあるが、それは、人間の精神の不安の告白であって、その告白を無視しているわけにはゆかない。ダダイズムも実存主義も共に虚無(ニヒル)をその根底にいだいている。

 それは失恋者の虚無感と通ずるものがあって、失恋者が売笑婦に走ってしみじみと 「恋の悲哀」 を自嘲するが如く、彼らは 「肉体的快楽」 に走らんとする。それは敗戦の世界に共通した現象であるが、ただそれだけの害毒にとどまらない。虚無はかならず物質的誘惑へと堕落して行く。それは闇にバイキンが繁殖するが如くである。

 彼らは精神的苦悩を物質によってまぎらわそうとする。そして一時、まぎらわしうるかの如くにも錯覚する。それはアラゴンが共産主義に走ったが如きである。共産主義は唯物論の塊だ。物的革命という誘惑は、精神の不安を感じている人々にとっては、最後の逃避場となる可能性がある、彼らは結局、ニヒルから拝物へ唯物へと転落して行くのである。

 吾々はこの悲劇を防止しなければならない。精神の不安に絶望的となっている人々へ、精神の安定と祥福とを与えねばならないのである。「永遠なる理想」 を与えねばならない。

 かかる悲劇は何によるのであるか。そして又、かかるニヒルが何故フランスに於て発生し、それがパリの流行が世界に伝播するごとくに、世界中にひろまったのであるかという事を考えてみる必要がある。その理由は、ヨーロッパ、ことにフランスに於て 「宗教」 「芸術」 「思想」 及び 「科学」 がお互いに遊離していた点にその原因がある。そしてこれらのものと又別個に 「政治」 が存在する悲劇にも依るのである。

 真の芸術は 「神」 を体得することによってのみ表現される。真の芸術は人間の世界に誕生する以前に、既に霊の世界に於て完成されている。人間のつくる芸術は、霊の世界の芸術の不完全な模写であるとは、『生命の實相』 に説かれている所だ。芸術を完成するためには、人間はただひたすらに神の声をきくところの無私なる境地に達すればよいのである。

 ニヒリストには 「神」 というものを与える必要がある。そして彼らに与えるところの神は真実の 「神」 でなければならない。唯一人の特権者にのみあらわれ給う神でもなく、何らか不思議なる大時代的秘法を修することによって知る事が出来る神でもなく、ただ、あたりまえなことを、あたり前に行ずる事によって顕れ給う神でなければならない。

 「臨済録(りんざいろく)」 に曰(いわ)く。

 「仏法は功を用ゆる処なし。祇(た)だ是れ平常無事なり。痾屎送尿(あしそうにょう)、着衣喫飯(きっぱん)、困(こん)じ来れば即ち臥(ふ)す。愚人は我れを笑う。智は乃(すなわ)ち焉(これ)を知る」

 ――即ち、あたり前のことをあたり前に、すらすらととどこおりなく行うところに仏法はある、そこに神が顕れ仏があらわれる。最も当り前な人間としての、行為の中に神は顕れ給うのである。ダダイストやシュール・レアリストや実存主義者やニヒリスト達には、このあたり前な事が出来なかったのだ。

 あたり前とは従前通りという意味ではない。不安、闘争、病苦、悲惨のあるような従前通りではない完全な理想の世界こそ、真に当然かくあるべきありのままの人間の姿である。その正しき本然の姿にしたがって、すらすらと不安も懸念もなく、安心して摂理のみ手に導かれつつ実行するところに、目に見えざる神があらわれ給うのである。

 <つづく>

148復興G:2013/10/11(金) 20:38:35 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」 (昭和22年発表) つづき>
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

 彼らに与えられる 「神」 は大時代的なごてごてした装束をつけている必要はない。フランス風な小粋な姿をしていても好い。必要な時には白装束をつけてもよいし、真裸になってもよい。何れにしても、神を限定してはならない。神の衣裳は無限のバラエティにとむ。「宗教」 はつねにしかつめらしく 「荘厳」 でなければならないことはないのである。時には 「軽快」 な機智をひらめかし、風刺と諧謔(かいぎゃく)に人を哄笑(こうしょう)せしめ、或は悲劇に涙をしぼらしめ、美しき言葉を奏し、絵画を制作するだけの無限の可能性を内包していなければ、十分とは言えないのである。

 そして又 「科学」 は 「宗教」 と一致しなければならない。唯物論者の食卓に配給する 「宗教」 は、やはり幾分か 「科学」 のバターでいためなくてはならない。そのバターは 「宗教」 の中に渾然(こんぜん)ととけこんでいないと彼らのお気にめさない。元来真の宗教は 「科学」 と一致する性質のものだ。科学の言う 「法則」 とは即ち 「神」 であった。スペンサーはその教育論に於て次の如くに言う。

 「科学が非宗教的であるのではなく、科学の蔑視が非宗教的なのである。(中略) こうして本当の科学は本質的に宗教的であるだけではない。万物が見せている行動の不変に対すろ深い尊敬と暗黙の信仰を生むが故に、科学は宗教的である」

 ――と。

 十九世紀イギリスの生んだ世界的科学者ハックスレー教授は次の如くに言う。

 「真の科学と真の宗教は、双生児である。だから一方を他方から引きわけることは、必ずや両者の死を招くのである。科学はそれが宗教的であるに正比例して栄え、宗教は、その基礎が科学的な深さがあり、しっかりしているに正比例して栄えている。哲学者達の偉大なる仕事は、彼らの知力の結果というよりも、すぐれて宗教的な精神が与える知力の傾向の結果である。真理は、彼らの鋭敏な論理よりも、彼らの忍耐、愛、真心、自己否定に身を任せるのである」

 科学と宗教のみならず、哲学と宗教との一致をも彼は説いた。相対性原理で有名なアインシュタインは道徳と科学の一致を強調し、科学的真理は、人間としての善をあたり前に行い、いやしくも正しからざる事を行わないことによって発見されるのだと言っている。更にスペンサーは言う。

 「あらゆる種類の芸術は科学に基礎をおいている、科学がなかったら完全な作品もつくれず十分な鑑賞も出来ないだろう。芸術の作品がすべて多かれ少かれ、客観的、主観的現象の表現であり、こういう現象の法則に合致して初めていいものとなることが出来、美術がこうして合致する前に芸術家はこういう法則の何たるかを知らねばならぬということをおもえば、科学が必然的に、芸術の基礎をなすということは先天的に明かである」

 かくの如くにして、宗教、科学、芸術、哲学、倫理は、渾然として融和し、一にして多、多にして一、その間にいささかの空白もゆるされない。これを個別にバラバラに分解し、芸術を芸術のみに分離して、その不安におびえたところにフランス近代の苦悩があり、ニヒルが生れ、唯物論が生れた。

 イギリスやアメリカに於てはさいわいに科学と宗教と芸術があまり分離せず、それが相おぎない合って円満な発達をとげたために、精神の安定がくずれにくかった。かくして今や、現代のたくましい生命力ある政治をかかる凡(すべ)ての精神分野の上に正しく安定せしめることが出来る国は繁栄し、国内及び国際両政治に大いなる成功をおさめることが出来るのである。

 <つづく>

149復興G:2013/10/12(土) 09:54:51 ID:AB6RqYXc

   < 「文化の本源としての神想観」
      (谷口清超先生 『神は生きている』 より)

     五

 吾々はここに、凡ゆる文化の本源である絶対真理を正確に完全に把握し、それを全身全霊を以て実行せんと努力する者である。

 その絶対真理とは、「人間は神の造り給うた完全なる神の自己顕現である」 という事だ。「凡ての人間は神の子である」。人間相互の間に何らの摩擦闘争もない。不和闘争があると思うのは、思う人の迷妄である。人生は観る通りにあらわれる。暗い人生観をもてば暗い人生が展開し、弱肉強食の闘争の世界観をいだけばその通りの世界があらわれる。

 すべての世界は、人間の心の内にあるのである。「環境は心の影」 である。まことに或る哲人の言った如く、「世界は無であり、人間が凡て」 なのだ。大宇宙は人間という小宇宙の中に併呑(へいどん)されているのである。

 吾々はただひたすらに、「実相」 を礼拝すればよい。神の造り給いし世界の完全無欠なる姿を心に描き、ただひたすらにその完全さを観じ礼拝する。現象の世界は、観た通りに顕れる。神の世界を心に描けば、神の世界が現実にあらわれ出るのであり、地獄の世界を心にえがけば、地獄の世界があらわれる。

 現れたものは仮りの姿であり、現象の地獄も極楽も、凡て仮りの姿であり無であり、幻である。本当の実在は、神の造り給いしままの、人間の脳髄智によってはうかがい知ることも出来ない程に完全精緻なる 「実相」 である。それは久遠の昔から永遠の未来に到るまで実在する不滅なる神の世界(くに)なのである。

 それは無限者そのものであり、神それ自体であり、無限の愛であり、無限の智慧である。この無限の智慧にそのままつらなる事が出来た時、神の生命が何の滞りもなくその人に流れ込むのである。かかる神の智慧に生かされてのみ、真の芸術、真の哲学、真の科学、真の政治、真の教育が行われる。凡てこれらの諸文化は、神に於ては完全に一致しているのであり、神に於いてのみ完全でありうるのである。

 この無限なる智慧につらなるにはいかにすればよいかといえば、先ず神の国の至福なる姿を心に思いうかべ、その実在を深く深く感情の底からわき出して来る情意をもって感得する。(これは神想観である。神の世界を、神が想うのである。)それは神の子が故郷(ふるさと)の神の国を望郷する。しかしてそこからわき出して来る、自然のままの、そのままの智慧にそって、そのまま素直に行う。

 それが神の智慧に導かれる事であり、その神の智慧は、自然にわき起ってくる内心の欲求であることもあるし、或は隣人の忠告であることもある。上司の命令である事もあるし、親の希望であることもある。吾々は、そのいずれであるかを論ずる必要はない、ただそのみちびきの通りに、素直にスラスラと従って居ればよい。

 そしてもし自分の正しいと思う事とくいちがう様な気のする時は、穏やかに自分の意見を言う。言論の自由とはただいたずらに激論をたたかわせて争議することではない。そしてお五いに了解し合って後(もし目上のものが了解せざる時は目上の者の言う事の方をとる。一見正しく思えなくてもそれは結局正しくなる)その結論に素直に従う。

 何よりも先ず 「神の世界を観る」(神想観) 事が大切であって、これ以上肝要なことは世界中何処にもない。凡ての根本がここにある。凡ゆる文化の根本が、神想観(メディテイション)にある。世界は観た通りの姿に現れる。而して観る観ないに拘らず世界の本然の姿である「実相」は完全無欠であり、至福そのものである。

 諸君よ。偉大なる神想観の功徳に目ざめよ。而して人生の最も香気高き宗教・芸術・哲学・科学の神髄を把握せよ。吾々は諸君のために、ただ諸君の幸福のために、声を大にしてかく叫ぶのである。
 (昭和二十二年九月)

150復興G:2013/10/12(土) 09:55:38 ID:AB6RqYXc

 以上で、谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』 の謹写掲示を終わります。

 これは、>>140で、榎本先生が

<< 『文化の本源としての神想観』 という総裁谷口清超先生の第一論文の意味する 「文化」 とは、限りもなく崇(たか)く、深く、広く、すべてのすべてなるものと言わざるを得ないのであって、すべてのすべてであるということの意味は、ひとつなるものとしての、本源なるものそのものの展開として、すべてが生み出されるところのものを意味しているのである。限りなき澄み切りの、大調和の、 「ハイ」 なるものの展開として、文化なるものがとらえられているということである。

 神想観は神を想い観ると同時に、神が想い観給う故に、すべてのすべてなのである。>>

 と書いておられたので、その原文を6回にわたり謹写掲示させていただいたのでした。

 次からまた、榎本先生の 『神癒の展開としての人類光明化運動』 を続けさせて頂きます。合掌

151復興G:2013/10/12(土) 10:00:58 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百六

  手を挙げるのも、眼をしばたたくのも、
  歯をみがくのも、床(とこ)をたたむのも、
  笑うのも、鼻をつまむのも、
  ことごとくが芸術である世界、
  そのような世界に住んでいて、
  そのような生々(なまなま)しい真理のカケラを、
  血眼(ちまなこ)になって追いまわしている人々を、
  なぜ芸術家と呼ぶのでしょう。

   ――美しき生活の断章――

    〈谷口清超宗教論集3 『愛と祈りを実現するには』 より〉


 これは先生の第一論文(「文化の本源としての神想観」)よりも時間的には後に書かれたものであろうが、ここには、時空を超えた、時間空間さえもみずみずしいよろこびのすがたとして拝まれているのである。

 しかしながら、これは神想観によって、五官の世界を去ったところから拝めて来る世界なのである。一切を超えて一切がよろこべて来られた風光(ふうこう)なのであると拝察されるのである。このような地点から、総裁谷口清超先生のお言葉は出て来られているのである。

 神想観は、「神の世界を、神が想うのである」 とこの第一論文の中で書かれている。

 神は渾(すべ)ての渾てにましますのである。神はご自分を観じ給うのである。これは偉大なる自己讃嘆の極致のおすがたである。

 「招神歌」 を唱えているのは、最早(もは)や神であり給うのである。それ故、まことには神想観には練習はないのである。練習のない偉大なる本番そのものを神というのである。

 人間はどこにもないのである。人間がどこにも無いのを感謝というのである。神想観は感謝の当体なのである。 「神」 と書いて 「感謝」 と読んでもよく、 「神想観」 と書いて 「感謝」 と読んでもよいのである。

 「神の世界を、神が想うのである」 から、そこには神以外はなく、寸分のスキ間もないのであるから、神想観は 「ハイ」 そのものなのである。

 神は實在であり、實相であり給う故に 「神の世界を、神が想う」 ということは、實相が實相を想うことであり、本番が本番を想うことなのである。

 ただただ、實相あるのみ、神一元、實相一元なるところに、 「山これ山に非ず、これを山という」 態(てい)の、 “西山常運歩、東山水上行” なる自在の風光こそ、まことの文化なるもののすがたであることが讃えられて来ているのである。

 「此の世、此の世に非ず、これを此の世という」 態の、いわゆる御著 『神は生きている』 の中で讃えられている 現象なる地獄も極楽も超えた まことの光りの国なるものの礼拝がここに有り給うのである。

 「文化これ文化に非ず、これを文化という」 態の、 “山川草木国土悉皆成仏、有情非情同時成道” の風光、宗教も哲学も芸術も政治もすべてが 神が生きている風光として拝まれている、天地一切成仏の消息がここにあるのである。

 『文化の本源としての神想観』 といえども、神想観はただただ神想観なのである。ただただあるものこそが まことの文化そのものであることが拝まれているのである。

 何ものかのために神はあり給わず、ただただあり給うのであり、ただただ神の世界を、ただただ神が想い給うのが神想観であり給うからである。

 ただただ神想観である。(1998.10.14)

152復興G:2013/10/14(月) 10:24:59 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百七

 浄(きよ)め、 「無の門関」 の輝くはたらきが、住吉大御神(すみよしのおおみかみ)であり給い、肯定、創造の輝くはたらきが塩椎大御神(しおつちのおおみかみ)であり給い、すべてのすべてなることを輝き給うているのが、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御すがたであり給うのである。

 しかし、これは別々にある姿ではなく、これはひとつなるものの輝きであり、ひとつなること、すべてのすべてなることを体現され給うているのが天照らす、ということそのことなのである。

 塩椎(しおつち)のはたらきとして大御神は 「吾れは高天原(たかあまはら)である。吾れは天之御中(あめのみなか)である。吾れは高御(たかみ)むすびである。吾れは神むすびである。吾れはウマシアシカビヒコジである。吾れは天之常立(あめのとこた)ちである。吾れは国之常立(くにのとこた)ちである。吾れは豊雲(とよくも)野である」 と鳴りひびき給い、

 「吾れは實在である。吾れは龍宮海である。無限の智慧の海である。吾れは無限の愛の海である。吾れは無限の生命の海である。吾れは無限の供給の海である。吾れは無限のよろこびの海である。吾れは無限の調和の海である。吾れは龍宮である。吾れは如意宝珠(にょいほうじゅ)である。吾れは實相であり、渾(すべ)ての渾てである」 と鳴りひびき給うているのである。

 神が神ご自身を観じ給い、鳴りひびき給うのが神想観である。

 「無の門関」 の透過(とうか)がすべてのすべてである。「捨徳」 とは、捨てる徳であると同時に、徳を捨てるということである。

 一切の把(つか)みを捨てることが、「無の門関」 の透過である。

 一切である神を捨て、仏を捨て、實相を捨て、捨てるということも捨て、「無の門関」 をも捨てることが 「捨徳」 ということである。そこに肯定なる塩椎(しおつち)なるものがましますのである。

 住吉(すみよし)の浄めのはたらきも 「ア、オ、ウ、エ、イ」 となって輝くとき、すでに塩椎(しおつち)のはたらきであり給うのであり、これらひとつのはたらきが、天照大御神の輝きそのものなのである。

 「吾れは在りて在るものである」 とは塩椎のはたらきのひびきなのである。

 更に塩椎なるものは、

 「吾れはハイである。吾れは “ありがとう” である」
とひびき給い、

 「吾れは無限のすがしさである。吾れは無限のさやけさである。吾れは無限の聖(きよ)けさである。吾れは無限の安けさである。吾れは無限のかそけさである。吾れは幽(ゆう)の幽である。吾れは無の無である」

 と澄み切りであり給うことを肯定しているのが塩椎の御はたらきなのである。

 この澄み切り、であることは住吉なるもののはたらきなのである。

 これらすべては、ただただひとつなるもののはたらきなのである。

 高天原も、身(みみ)を隠し給う七柱の独神(ひとりがみ)もイザナギの神も、イザナミの神も、天照大御神も、住吉大御神も塩椎大御神もすべてはひとつなのである。

 ただただ 「無の門関」 を透過した、真空妙有(しんくうみょうう)、妙有實相、入龍宮不可思議(にゅうりゅうぐうふかしぎ)の消息なのである。

 神想観の 「吾れ今五官の世界を去って實相の世界に入る」 ことの荘厳行事を想うのである。その荘厳なるゆえんはただ一つ 「神の世界を神が想う」 という畏(かしこ)き消息にあるのである。(1998.10.15)

153復興G:2013/10/16(水) 19:58:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百八

 宇治別格本山の季刊紙 「宇治だより」 に 「神癒の展開としての人類光明化運動・入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)について」 と題して次のように書いた。


 “まこと畏(かしこ)き極み”

 大聖師谷口雅春先生は、入龍宮幽斎殿の 「竣工慶祝献堂(しゅんこう けいしゅく けんどう)の祝詞(のりと)」 の冒頭で 「まこと畏き極みにてありけり」

と書かれております。その畏き極みとは、ここが 「七次元」 即ち完全次元、無限次元、超次元の自覚の場所であるということがその一つの意味であると拝察されるのであります。

 時空超脱(じくう ちょうだつ)の本源世界、無限創造の世界がここでは 「幽(ゆう)」 なるものとして表現されているのであります。それは 「幽の幽なる世界」 を意味しているのであります。ここから直接、あらわれ出て来るのが奇蹟の湧出(ゆうしゅつ)なのであります。神想観や写経実修によろこびの体験が湧出しているゆえんであります。

 皆さまご存知のように、生長の家人類光明化運動の根本聖典であります 『生命の實相』 の第一巻本論の冒頭(ぼうとう)には

 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります」

 と書かれているのであります。神癒とは自性(じしょう)円満の實相を自覚した時に顕(あらわ)れるよろこばしき何か、であるということであります。

 聖典 『生命の實相』 の冒頭が神癒のことからはじまっているということを想います時、生長の家の人類光明化運動は、神癒の展開としてはじまっていると拝察されて来るのであります。そのことから想いますと無の門関である入龍宮幽斎殿が 「神癒の社」 と名づけられているということは、この社が如何に人類光明化運動にとっての厳かな意味を担(にな)って建立(こんりゅう)されているかに想いを馳(は)せざるを得ないのであります。

 自性円満の實相を自覚した時に神癒が顕(あらわ)れるのですから、神癒の社 「入龍宮幽斎殿」 は實相を観ずる神想観のために建てられたことは まことに自然なことなのであります。

 ここでは、早朝の四時半からと、午前十時からと、午後一時からとの三回の神想観が行われていますが、この社(やしろ)では特別に 「入龍宮幽斎殿にての神想観に念ずる言葉」 がつくられているということは、大聖師谷口雅春先生が如何に神癒のための場所としてこの 「入龍宮幽斎殿」 に篤(あつ)い想いを寄せられていたかを更にうかがい知らせて頂くのであります。

 岐阜県の宅間さんなどは、ここ十年近く、毎月十三日の朝四時半の神想観にご近所の誌友十名近くをお誘いされて参加しつづけておられ、ご当人の素晴らしい幸福、事業の繁栄は勿論のこと、一緒に参加されました方々によろこびの体験が生まれているのであります。

 神癒につきましては、神癒祈願の部門が設けられており、ただ今全国からの六千近いお申し込みを受けて、毎日祈願が行われております。

  <つづく>

154復興G:2013/10/16(水) 20:00:02 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 ここ入龍宮幽斎殿でのもう一つの大きな行事は、「写経」 部門が設けられていることであります。聖経 『甘露の法雨』 その他の生長の家の聖経の写経を行う写経室が拝殿の階下に設けられていて、ここで毎月(一月を除く)三日午後一時半から五日正午まで行われる写経練成会の時は勿論、自由に個人で訪れられて心浄らかに写経を実修されるのであります。正月には書き初(ぞ)めも行われております。

 生長の家総裁谷口清超先生は、宇治の宝蔵神社は 「生長の家の仏間(ぶつま)」 に相当すると言われておりますが、この入龍宮幽斎殿につきましては、その落慶奉堂の式典の祭のお言葉の中で、


「生長の家で一番大切なことは、實相直入(じきにゅう)ということでありまして、この龍宮界、即ち實相に直入する神殿が建設されたということは、生長の家の人類光明化運動の魂がここに入ったということになるのであります。

 霊界にいらっしゃる諸霊の御供養が宝蔵神社において十分行われ、そして今ここに實相界直入の素晴らしき神殿が建立されたということによって、正に生長の家の運動の本当の態勢がここに完成したということであります。」
 (『聖霊天降る宇治』 一六六頁より)

 とおっしゃられております。神癒の社(やしろ)として、神想観の場所として建てられたこの社は、「生長の家の祈りの間」 ということになっているのではないかと拝察されるのであります。

 いうまでもなく龍宮界は創造の本源世界であります。ここからあらゆるものが生み出され、創出されて行く一つの象徴的な場所ということが出来るのであります。あらゆる美しき文化の創造が開かれて行く創造の本源なるものに参入する神想観の場として、その象徴を担(にな)って建てられたと拝察されるのであります。

  (1998.10.16)

155復興G:2013/10/17(木) 22:08:27 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百九

 現象とは、 「こうありたい」 と願う心とその内容である。それは未来のことである。未来そのものが無いのである。時間そのものが無いのである。

 實相とは既に 「在る」 ものである。それ故にこそ神想観によって観じられることは、すべて 「……である」 ということであり、その念ずる言葉もすべて 「……である」 という言葉なのである。

 「……であろう」 という未来を予想した言葉は決して有り得ないのである。實相を観ずるのが神想観であり、神の世界を、神が観じ給うとは、實相の世界を、實相が観ずることにほかならないからなのである。

 ないものを観ずるということは有り得ないのである。 「観」 という言葉が出て来るということは既に 「在る」 ものがあるからなのである。

 神想観は、神が想い、神が観(み)給うのである。なぜ、想うことが出来るか。それは既にあるからなのである。その既にあるものが實相であり、観ずることの有り得る唯一の拠所なのである。

 神想観は 「今」 である。吾々は、過去において神想観するのか、未来において神想観するのか。過去なく、未来なく、現在無きことを観ずることが神想観であるのである。なきものをなしとしたところに 「今」 があるのである。 「今」 がすべてであり、 「今」 が神であり、 「今」 が神想観なのである。

 神想観の 「吾れ今」 がすべてのすべてなのである。 「今」 はすべてのすべてなるが故に、既に吾れはなく、 「今」 のみすべてのすべてなのが、神が想い観給うことの内実なのである。

 「今」 が立ったのが、神想観なのである。

 「時が来た」

 と 「完成(ななつ)の燈台の点燈者の神示」 の冒頭には示されているのである。それは 「無時の時」 なのである。 「時、是(こ)れ時に非ず、是れを時という」 態(てい)の 「久遠(くおん)なる時」 即ち 「今」 なのである。それ故、

 「今すべての病人は起つことが出来るのである」

 と示されているのである。この時とは 「今」 であったのである。 「今」 が 「すべて」 なのである。それ故、 「今すべて」 なるものは神であり、實相であり、完全であり、倒れている者は一人もいないのである。 「病人は起つことが出来る」 というのは方便なのである。

 神が、神の世界を観給う時、倒れている病人は一人もいないのである。それ故、 「すべては起つことが出来る」 のであり、既に立っているのである。成就そのものが、神であり、「今」 であり、「すべて」 であり、實相なのである。

 「病人是れ病人に非ず、これを病人という」 態の、吾れを取りまく天地一切のものは、吾れに真理を告げ給う観世音菩薩であり、尽十方無礙光如来(じんじっぽうむげこうにょらい)であり、生長の家の大神なのである。病んでいる人は一人もいないのである。それ故、

 「最早(もはや)、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである」

 と示されているのである。なぜならば、自分自身もまた観世音菩薩であるからである。

 「最早(もはや)」 とは、最も早いことであり、「今」 ということなのである。その時、もはや、時間はみずから 「私は無いのです」 と消え切りの、澄み切りであり、病気もまた、みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、よろこびの輝きそのもの、聖なる観世音菩薩そのものなのである。

 <つづく>

156復興G:2013/10/17(木) 22:09:12 ID:AB6RqYXc

<つづき>

 見渡すかぎり、既に起(た)っているものばかり、の世界に立って、方便の、慈悲の輝きそのものであるのが 「神示」 であるのである。

 この意味において、吾れを取り巻く天地一切は、観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばであり、「神示」 であり、「仏示」 であり給うのである。

 「現象は無い」 という表現を用いない場合は、實相の一度も倒れていないことは言えないのであり、言っても解らないのである。言ってもならないのである。言えないのである。それ故、「起つことが出来る」 という未来形にしているのである。その方が、聴くものにとって解り易いのであり、親しいのであり、深切であるのである。

 「現象」 を見ているものにとって、「一度も倒れていない」 と言っても、 「現に病気しているではないか。倒れているではないか」 と言って、却って反発するかも知れないのである。それで一応、「現象なし」 を知らない人には、「起つことが出来る」 と慈悲の輝きとして方便説法がなされているのである。

 しかしこれは決して 「實相を知らない者よ」 との軽蔑ではないのであって、むしろ相手は、こちらに方便の慈悲の輝きを引き出して下さる観世音菩薩であり、尽十方無礙光如来であると拝んでいるのが生長の家なのである。(1998.10.17)

157復興G:2013/10/18(金) 21:01:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十

 「二千年前、キリストが 『汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ』 と云う唯(ただ)一語で、遠隔の地にいる病人を癒やした其の真理が、すべての人類に開顕(かいけん)される時期が来たのである」

 と 「神示」 はつづいているのである。

 「二千年前」 とは、肉体イエスが生まれたという、今より二千年前ということであると同時に、二千年以前なるもの、ということ、「吾れはアブラハムの生まれぬ前(さき)よりあるなり」 とみずから言い給うたキリストなるものとしてのキリストを意味しているのである。

 まことのBC、すなわち肉体イエス以前、久遠の以前なるもののことが、「二千年前」 ということなのである。そのキリストなるものは、コトバそのものであり、コトバがキリストなるものであり、神であり、渾(すべ)ての渾てなのである。

 その神なる、キリストなる、コトバなるもの、渾ての渾てなるものとして、燦然(さんぜん)と輝いて 「汝の信仰によって、汝の信ずる如くなれ」 なるコトバが今ここに鳴り鳴りつづいているのである。その真理なるもの、コトバなるもの、光りなるものは、すべての人類に、天地の万物に、そしてすべての時に、久遠の昔より、今に至るまでに、顕(あらわ)れつづけであったのである。

 それ故にこそ、顕れない時はないからこそ、 「開顕される時が来た」 と言えるのである。

 すべての時が、開顕される時なのである。すべての時とは無時の時であり、時自身の消え切りであり、「今」 ということである。「今」 とは開顕なるものの純粋なる持続そのものをいうのである。

 開顕されるとは、自(おの)ずから、自(みずか)ら開顕されるということである。真理とは實相であり、神である。神、實相なるものは、みずから開顕する徳を備えているのである。

 真理は真理みずからが、みずからを証(あか)しするのである。

 二千年以前なるもの、キリストなるものは、真理そのものなのである。そのコトバもまた真理そのものなのである。

 「汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ」 とのコトバそのものが真理そのものであり、いのちそのものであり、天国そのものであり、神そのものであり、開顕そのものであり、成就そのものなのである。神は渾ての渾てであり、コトバは渾ての渾てなのである。

 これすべて、吾が内なる神 御自(おんみずか)らが、想い給い、観(かん)じ給い、コトバし給うていることなのである。これを 「入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)にての神想観に念ずる言葉」 で言えば 「われ今、塩椎大神(しおつちのおおかみ)に導かれて龍宮海に入る」 というのである。

 二千年前とは、 「久遠の昔」 すなわち 「久遠の今」 なる、神想観の消息なのである。

 神想観は實相界への直入(じきにゅう)であり、入龍宮であり、時空超脱(じくう ちょうだつ)であり、因縁(いんねん)の度脱(どだつ)である。

 因縁の度脱こそ、まことの 「起つ」 ということであり、あらゆる病(やまい)の癒(いや)しそのものであり、癒しなるものそのものなのである。

 因縁の度脱とは 「今」 であり、 「今」 のみが起つことのすべてのすべてなのである。 「今」 が 「起つ」 そのものなのである。(1998.10.18)

158復興G:2013/10/19(土) 22:01:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十一

 「『生長の家』 を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ」

 『生長の家』 を読んでどころか、『生長の家』 を読まないうちに癒(いや)されて、その後で読む人さえあらわれて来た事実を見よ、ということである。これは読むことの最大なるものであると言わなければならないのである。

 ここには全托以上の全托があると云わなければならないのである。読んで神を知って、その後に全托をするということを一切超えてしまっている癒され方である。癒されている事実が先であることが、ここには体験されているのである。

 はじめから癒されている實在の實相が先であるから、斯(か)くの如きことが起こるというより外はないのである。

 そして、これはそのはじめからあるところの實在の實相を写したのが 『生長の家』 であり、生長の家の聖典の一切であるということになっているからなのである。

 生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を拝み、祝福して写し給うたのが 『生長の家』 であるからなのである。素晴らしい實相が先であればこそ、それを観ずる神想観があり、生かされているという感謝があり、礼拝があるのである。

 生長の家では懺悔(ざんげ)してから、生かされるのではないのである。既にはじめから生かされていた實相をよろこばなかったのが罪けがれなのであり、よろこぶことを遠慮したことを懺悔するのであって、生かされている實相をよろこぶことが機悔となっているのである。

 『生長の家』 を読まないうちに癒されたということの、もう一つの理由は、完全円満の既に完成なるもの、即ち實相の鳴りひびきを、神が先に読み給うて、そこに写されたことになっているのであり、神の方が先に、神の子のいのちを読み給うたのであって、その祝福、礼拝によって、神によってその事実があらわれたということになっているのである。

 「生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)」 によって生かされている事実がここに開顕されているということになっているのである。

 そのようなすがたとして、天地一切万物があると観ることが、生長の家が 「完成(ななつ)の燈台」 として人類の前に臨むことなのである。

 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 とは、完成すなわち、完成なる燈台が、完成なるものを照らし出すものという意味なのである。これはこのまま、神の世界を、神が想い給うところの神想観のすがたなのである。

 神の世界に、神が臨(のぞ)み給うのが、生長の家の人類の前に臨むすがたなのである。これが生長の家入類光明化運動なるもののすがたなのである。

 生長の家は久遠の昔から在る、ということは人類もまた久遠の昔から在る、ということであると観るのが、神が想い給う想いであり給うのである。

 「臨(のぞ)む」 とは、神が降臨し給い、神が臨み給うのである。神の臨在(りんざい)こそが生長の家人類光明化運動が、神想観なるものの展開として存在し、この世に臨んでいるすがたなのである。神想観は、神の世界を神が想い観じ給うすがたであり、生長の家人類光明化運動は、神の世界に神が臨み給うことであり、神想観と生長の家人類光明化運動はおなじ相(すがた)をしているのである。(1998.10.19)

159神の子さん:2013/10/28(月) 09:58:28 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十二

 「『生長の家』 は今かの黙示録(もくしろく)の予言した 『完成(ななつ)の燈台』 として人類の前に臨(のぞ)むのである。」

 生長の家が人類の前に臨むと言えども、生長の家と人類とは離れているのではなく、はじめのはじめにおいて、 “ひとつ” なのである。そして、永遠に、久遠に “ひとつ” なのである。

 一つであってそのままに、拝むものと、拝まれるものとの相(すがた)をとって展開しているのである。

 “ひとつ” が “ひとつ” しているのが、生長の家人類光明化運動であり、はじめのはじめがはじめのはじめしているのが、生長の家人類光明化運動なのであり、それがそのまま神想観の動いている相(すがた)なのである。

 神想観は、身(しん)、口(く)、意(い)のすがたをとって、神であることを顕わす、ということである。神であることを顕(あら)わすと言えども、顕われてから完成するのではないのである。神はすべてのすべてにましますのであるから、今、既に “神であること” のみ “完成であること” のみがあるのである。

 “神” と言ったとき “こと終われり” なのである。顕われるということは、神であるよろこびをよろこぶ相(すがた)であって、神であるだけでは足りないので、顕わすということによって完成するという意味ではないのである。

 神は今である。時間をかけてこれから完成する、ということは有り得ないのである。それ故、神の世界を、神が想い、観じ給う神想観は、手段、目標、過程というものとは無関係のすがたなのである。

 それ故、また、生きて動く神想観であるところの生長の家人類光明化運動なるものもまた、手段、目的、過程のための相(すがた)ではないのであって、 “ひとつ” であり、はじめのはじめであり、絶対であるものの相(すがた)そのものの輝きそのものなのである。

 臨むとは、ひとつに還り、はじめに還ることにほかならなかったのである。

 ここにおいても、神想観と生長の家人類光明化運動とはひとつであって、はなれてはいないのである。

 この “ひとつ” であることこそが、調和の極致であり、よろこびの極致なのである。このよろこびを生きるのが 「よろこびの神想観」 であり、 「よろこびの光明化運動」 なのである。

 “ひとつ” であるということは、神であり、 “ひとつ” であると同時に多であることなのである。 “ひとつ” であると同時に無限の多であり、無限の個性ある存在としての展開そのものなのである。

 一即多、多即一なる展開として、すべてはあるのであって、それはひとつなるものの自己展開としてあるのであって、求めるための相(すがた)ではないのである。

 顕れるということは、求める相ではないということなのである。

 それ故、最大の臨み方、臨在(りんざい)とは、ひとつなるものの、満足なるものの、渾(すべ)ての渾てなるものの展開としてあることなのである。

 神は今、渾ての渾てであるから、顕われてからよろこびであるのではない相(すがた)であり給うのである。そして神が生きてい給うのが神想観であり、生長の家人類光明化運動であり、万物のまことの相なのである。

 神が、神の世界を生き給うのが神想観であり、生長の家の人類に臨んでいる相(すがた)なのである。ここに 『完成(ななつ)の燈台』 たる生長の家なるものの相(すがた)があるのであって、『完成の燈台』 とは、すべてにおいて、ひとつなるものを拝み出して、照らし出している燈台ということなのである。

 真理がすべての人類に開顕されるとは、真理みずからの展開がそこにあることなのである。

 生長の家人類光明化運動は地上天国建設運動ともよばれているが、地上天国とは、天国なるものがみずから地上に降臨している相(すがた)を言うのであって、天国は地上に顕われる、顕われない以前に、すでに天国であり、そのままでよいそのままなのである。

 今、ここに、天国と人類と生長の家と光明化運動とは目無堅間(めなしかつま)しているのである。 “ひとつ” であるということである。(1998.10.20)

160復興G:2013/10/28(月) 10:01:25 ID:AB6RqYXc

>>159 は復興Gです。

163復興G:2013/10/28(月) 22:59:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十三

 「此の燈台より真理の光を受くるものは、創世記のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの 『罪』 と 『病』 と 『死』 との三暗黒を消尽(しょうじん)するのである。」

 此の燈台より真理の光りを受くることの出来るものは誰か。それは真理の光りのみなのである。何故、受けることが出来るのか。受けることの出来るのは既に、久遠の昔よりある、内なるエデンの楽園なるもののみなのである。

 エデンの楽園に入ることの出来ない、永遠に追放されたるものは、真実には、『罪』 と 『病』 と 『死』 とであったのである。永遠の追放を受けているものはこの三暗黒なのであった、と解るもの、受けるものがこの光りを受けるものなのである。

 未だかつて、エデンの楽園には罪人なし、罪そのものがないのが楽園天国なのである。

 未だかつて一人もエデンの楽園より追放されたるものなし。エデンの楽園は神と神より出でたる神の国であって、エデンの楽園はすべてのすべてであって、エデンの楽園の外なし。 「罪も病も死もなし」 と知ることが、この真理の光りを受けるものなのである。それは常に 「今」 なのである。それ故に 「今すべての病人は起(た)つことが出来る」 のである。

 この 「今」 というのは限りもない無時間無空間の 「今」 なのである。限りもなきすべてにあてはまる 「今」 なのである。

 「今」 を忘れたことが楽園からみずから追い出された夢を見ていたことにすぎなかったのである。

 これから生長の家の真理をよく知って、潜在意識にたたきこんでという時間は無いのである。無いものを無いとすることが、そこがそのままエデンの楽園の発見なのである。 「今」 と言ったら 「今」 なのである。これからではないのである。未来そのものが無いのである。

 神の国を、神が想い観(かん)じ給うそのままが 「今」 なのである。 「今」 のほかには何もなく、 「今」 とは、神以外に何もないよろこびをいうのである。

 「起つことが出来る」 とは未来のことでないごとく、エデンの楽園に帰るのも未来のことではなく、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天之岩戸(あまのいわと)からお出ましになるのも未来のことではなく、時間はないと知ることそのことが一切の成就なのである。

 倒れたるもの一人もなし。アダムとイブは未だかつて罪を犯したることなし、天照大御神は未だかつて天之岩戸に隠れたることなし。天照大御神を隠すもの何もなし。

 天照大御神が仮に岩戸に隠れ給うたという、この 「隠れる」 とは、七柱(ななはしら)の独神(ひとりがみ)が 「身(みみ)を隠し給いき」 の、この 「隠れ」 なのである。

 如何にも、アメノウズメのミコトや、八百萬(やおよろず)の神々によって岩戸の外に出ることが出来たように見えているままに、自分を消して、澄み切って、神々を拝んでい給う天照大御神のお姿がここに燦然(さんぜん)と輝いてい給うのである。

 それはちょうど、「生長の家の食事」 なる神示において、

 「食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式である」

 と神はみずから示し給うているのであるが、実は、捧げる神の子も、捧げ物もすべては神がお生みになっているものであるにもかかわらず 「捧げ物をして呉れて有り難う」 と神が拝み給う、神ご自身の消え切り、澄み切りのおすがたと同じなのである。

 天照大御神は八百萬(やおよろず)の神となって全宇宙を埋(うず)めつくしていることを知って讃えたのがアメノウズメのミコト様であったのである。

 エデンの楽園の外なし。エデンの楽園がすべてのすべてであり、追放すべき外はないのであった。(1998.10.21)

164復興G:2013/10/30(水) 12:13:29 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十四

 「光が近付くときすべての暗黒は消える」

 「光りは東方より」 ということは 「光りは当方より」 ということであり、「すべては当方より」 ということである。

 それ故、「光りが近付くとき」 とは 「あなたが近付くとき」 ということである。 「あなた」 とは神であり、實相であり、自分の自分である。

 「あなたが近付くとき」 とはまた、「生長の家人類光明化運動が近付くとき」 ということである。

 神は渾(すべ)ての渾てにましますが故に、神にとっては自己展開があるのみなのである。自己展開するものをコトバというのである。それ故、神はコトバであり、コトバは神なのである。

 イエス・キリストが祈り給う時、空から光りが射(さ)している絵があるが、あの光りは空からイエスに降りそそいでいるのではなく、イエス・キリストから出た光りなのであり、宇宙のはじまるところは自分の中になければならない、という文章を読んだことがあるが、一つの真理がここには語られているのである。

 「光りが近付くとき」 という、この 「光り」 とは、渾ての渾てなるが故に、今、ここに、吾が内に、既にあるところの完全なるものというものを意味しているのである。

  神は人間の光源(ひかりのみなもと)にして
  人間は神より出でたる光なり。
  光の無き光源はなく、
  光源の無き光はなし。
  光と光源とは一体なるが如く
  人間と神とは一体なり。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれている。

 光のなき光源はなく、光源のなき光はないということは、光りは光源であり、光源は光りであるということである。光源なるものの自己展開が光りであり、自己展開しているものにとってはすべては自分自身なのである。

 聖書には 「光りは暗きに照る、しかして暗は光りを知らざりき」 と録(しる)されている。そして光りもまた暗を知らざりき、ということである。 「近付く」 ということは、永遠に、光りと暗とは出逢うことはあり得ないことを意味しているとも言えるのである。

 光りは暗を一度も経験したことなく、暗もまた一度も光りを経験したことはないのである。

  生命は生を知って死を知らず。

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。生命なるものは一度も死を経験したることはないのであり、死もまた生を経験したることなし、なのである。何故ならば、死は無いからであり、無いものが在るものを経験するということは永遠に有り得ないことであるからである。

 光明一元である。生一元である。光明であることにおいて、生であることにおいて、すべては一体なのである。近付くということの最大なるものは一体であるとも言えるのである。光りに近付き得るもの、光りと一体となり得るもの、一体であり得るものは光りでなければならないのである。生に近付き、一体であり得るものもまた同じく生のみなのである。

  闇に対しては光をもって相対(あいたい)せよ。

 とも聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。光りに相対出来るものは光りのみなのである。それ故、この言葉の中身は、ただただ光りを生きよということであり、光りの自己展開を歌っているのである。それが 「今」 ということである。有り得るのは 「今」 のみなのである。ただただ在るものが在るのみなのが真理なのである。(1998.10.22)

165復興G:2013/10/30(水) 13:02:01 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十五

 「『真理』 が近づく時、すべての 『迷(まよい)』 が消える」。

 『迷』 は 『迷』 自身でみずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りなのであり、聖なる無我の輝きそのものなのである。煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)なのである。

 真理、光明だけが實在なのである。真理、光明だけが在ることが 『迷』 が消えたことであり、消えるとはしかし、 『迷』 みずからの消え切りなのである。

 智慧の言葉に 「實相を観よ。罪は自分から切り離される」 ということばがある。 「自分から切り離される」 ということは、自分みずから 「私は無いのです」 との消え切りの、澄み切りの、聖なる輝きがそこに輝いていることなのである。

 『迷』 は消す必要はないのである。みずからの消え切りなのである。真理を知るのみでよいのである。暗を知る必要はなく、消す必要もないのである。ただ光明のみを知ればよいのであり、光明を知ることのみがあり得るのである。

 不完全、善以外のものは存在しないのである。『罪』 も 『迷』 も 『死』 もそれ自体が不完全なるが故に存在しないのである。この真理が近付いたのである。その真理によってはじめて、「一羽の雀(すずめ)といえども父のゆるしなくしては地に墜(お)つること能わず」 ということは光明のコトバ、神なるコトバとして輝くのである。

 「雀が地に墜つるも、迷うも、罪を犯すも、病も、死も、堕胎(だたい)も、戦争も父のゆるしがあればこそ有り得ると、いうことになるのであるか?」 との想いは、現象ありの世界観からは決して解けてうなずけるものではないのである。

 しかし、また、現象なし、不完全なしの真理を通さなければ、一椀(わん)の食物すら光明のうちに食することは出来ないのである。そこにはただただ、良心の呵責(かしゃく)があるばかりであり、日々の糧(かて)を神のいのちの愛として受けとり、感謝することは有り得ないのである。

 父のゆるしがなければ、一食の食も、一秒の神想観も、一歩の光明化運動もなすこと能わずなのである。

 真理が近付いて、食べられるもののうめきも消えたのである。空気を吸うことさえ、ころされた細菌のうめきのかたまりとしか観えなかったものが、神の六つの御徳の輝きそのものと変じたのである。一歩進めば足の下にいる細菌を殺さなければならない世界に居て、光明化運動があり得るだろうか。ただただ、神の世界で、神が為し給う光明化運動が天降(あまくだ)ったのである。

 父のゆるしによる食事。父のゆるしによる神想観。父のゆるしによる光明化運動がここにあるのである。

 父のゆるし、とは、真理を知ることにほかならないのである。

 父のゆるしがなければ、神癒祈願を申し込むことも能わず、それを祈願することも能わずである。

 父のゆるしがあればこそ、現象的には何十人堕胎したと見える人でも、祭壇の前で大笑いさせることが出来、神想観をさせることの出来るのが生長の家の人類光明化運動なのである。

 ただただ父のゆるしのみが實在している世界なのである。父のゆるしこそ光明という光明なのである。それ故、光明が光明するのみなのが生長の家人類光明化運動なのである。

 神の世界を神が観じ給う神想観、神の世界に、神が為し給う光明化運動。父のゆるしによりてのみ有り得る相(すがた)である。(1998.10.23)

166復興G:2013/10/31(木) 15:18:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十六

  「『迷』 が消える時、『迷』 の産物なる 『罪』 と 『病』 と 『死』 とは消える。」

 聖経 『甘露の法雨』 には、

  最初の夢無ければ
  次の夢なし。

 と書かれているのである。在るものを無いとし、無いものを在る、とする夢が 『迷』 であり、最初の夢なのである。

 生長の家の荘厳さは、在るものを在りとし、無きものを無いとしたところに有るのである。いくら在るように見えていても不完全なものは存在しないのであり、いくら見えなくとも無限、完全なるもののみが存在するということを鮮明にしたのが生長の家なのである。これが最初の夢よりの目覚めなのである。ただただ不完全なるものは實在に非ずというこの真理によって、『罪』 も 『病』 も 『死』 も消えたのである。

  罪は不完全なるが故に實在にあらず、

 と聖経 『甘露の法雨』 には書かれているのである。

 「迷は不完全なるが故に實在に非ず」 「病は不完全なるが故に實在に非ず」 「死は不完全なるが故に實在に非ず」 ということである。

 ただただ 「不完全なるが故に實在に非ず」 なのである。種類や量の多さや、時間的に長くあるからとかによるのではないのである。ただただ 「不完全なるが故に」 ということによって、全宇宙の不完全をひっくくって 「實在に非ず」 すなわち 「無い!!」 と消してしまったのである。

 それはただただ、神が、今、ここに在(ま)します、というただひとつのことによるのである。神なら如何にあり給うか。ただただ神は、見渡すかぎりご自分を見給うのである。神の世界を神が観給うのみの世界なのである。

 實相の世界には 『罪』 『病』 『死』 という観念そのものが存在しないのである。はるばると、弥(いや)ひろびろと神のみの世界が今ここにあるのみなのである。

 神がいませば不完全は實在しない。これは疑いようのない自然なことであり、事実なのである。疑う必要のない、疑いそのものが實在しない世界のみがあるのである。

 疑う必要がないのは、神は解る必要も、さらに信ずる必要もないからである。ただただ、神はいたるところご自分のみであり、神は神ご自身であり給うのみであり、そこには信ずる信じないの余地はないのである。

 また、神の子が神を信ずる前に、神が神の子を信じ、愛し、生かし給うているということがあるのみなのである。

 これが信ずる信じないを超えた、そのままそのものなのである。解る解らない信ずる信じない、は無いのである。ただただそのままがあるのみなのである。この 「そのままを生きよ」 ということが 「疑わずに吾が光を受けよ」 ということなのである。

 また、神はご自分が疑われていることを前提として 「疑わずに」 と言っておられるのではないのである。ただただそのままであれ、天然、自然、法然、法爾(ほうに)であれ、と宣(の)り給うているのみなのである。神示は法爾であり、神爾(かんながら)なのである。(1998.10.24)

167復興G:2013/10/31(木) 15:31:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十七

 「疑わずに吾が光を受けよ」

 すべて完成なるものの観る世界は完成あるのみである。神の子人間には、疑う自由がある、と一応は方便として説かれているが、聖経 『甘露の法雨』 には、

  悉く夢なければ本来人間清浄(しょうじょう)なるが故に
  罪を犯さんと欲するも
  罪を犯すこと能わず、

 と書かれているのであって、本来清浄なる神の子人間には、疑うという罪を犯す自由はないのである。それははじめのはじめより神なるものと神の子は不離一体であるが故に、信ずる信じないを超えた相(すがた)であるからである。神の子人間は、自由をさえ超えて渾(すべ)ての渾てなる存在なのである。これが 「今」 なる相(すがた)なのである。

 「疑わずに」 ということは 「今を生きよ」 ということなのである。疑いを除くという時間は無いのである。「今」、疑う人類は一人も居ないのである。その 「實相を生きよ」 ということのみがあるのである。

 再び、「今すべての病人は起つことが出来るのである」 とのコトバを聴くのである。疑って、倒れているものなどは一人もいないのである。それ故に、「すべての」 と言い切れているのである。

 大聖師谷口雅春先生にとって、イエス・キリストの 「汝の罪ゆるされたり。起ちて歩め」 とのコトバは、万人に、すべての人に天降(あまくだ)されている言葉であったのである。全宇宙に向かって 「汝」 と言ってい給うことであったのである。

 これは神の 「光りあれ」 との宣言と同じであって、この時光りは暗(やみ)になる自由はないのである。光りは光りであるのみである。「今すべての病人は起つことが出来るのである」 という宣言。「汝の罪ゆるされたり。起ちて歩め」 の宣言。これはまことにも神の天地創造の 「光りあれ」 と同じことであることが 「神示」 といわれるゆえんなのである。

 イエスご自身も 「吾れは何ごとも為す能(あた)わず、天の父吾れにありて為し給うなり」 と宣(の)り給うていることが、何ものが語り示し給うているかを教えているのである。

 イエス・キリストの言葉と大聖師谷口雅春先生とは神においてひとついのちなのである。万教帰一とはこの意味でもあるのである。釈尊のいのち、日蓮、親鸞、道元、等々、すべての人々と一体のいのちである實相に帰り給うて、人々だけ、教えだけではなく、天地一切万物と一体であるその實相より鳴り出でたのが 「万教帰一」 ということそのことなのである。

 大聖師谷口雅春先生の説かれる如く、自分をとりまくすべてのすべては、観世音菩薩の吾れに告げ給うみことばなのであれば、天地一切万物がひとつであるということが万教帰一ということであるのであった。ここにおいて、万教帰一ということと、中心帰一ということは、ひとつのこととして拝受されて来るのである。(1998.10.25)

168復興G:2013/11/01(金) 10:42:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十八

 「われは 『完成(ななつ)の燈台』 に燈を点ずるものである。」
     (昭和六年一月十五日神示)」

 大聖師谷口雅春先生にとって、イエス・キリストが二千年前に説き給うたことのはじめの説法は如何なるものにうつってい給うのであろうか。それは大聖師が全人類に向かって説法をされているお姿と重なって想われて来るのである。戯曲 『耶蘇伝(やそでん)』 のイエスの説法のはじまりは、次のようなものになっているのを銘記すべきではなかろうか。


   諸君、わたしは生まれて間もない幼い稚(おさな)い時から神が好きであった。
   そして神を求め神を掴もうと思ってそれを探し求めていたのです。

   どうしたらそれを掴めるか、それがわたしの課題であったのです。
   わたしは断食をしてみたり水行(すいぎょう)をしてみたりしてみたけれどもわたしは神はどこにあるか、神の子がどこにあるかわからなかった。

   苦しんで索(もと)めても神はどこにも見出せなかった。ところが今日(こんにち)、今ここに、そのままに、このままで、ここに、神はあるのだということをわたしはたった今悟ったのだ。

   かつて神の国は近づいたと洗礼のヨハネは言ったが、神の国はすでにここにあると私は言うのだ。
   ヨハネは神の国を準備する役目としてこの世に出たから神の国は近づいたと言ったのだ。

   すでにわたしが出てこのままが神の国に変貌したのだ。
   わたしの内に、諸君の内に、ここにこのまま神の国はあるのだった。
   神とは何であるか。
   神とは 「人間のそのまま」 である。
   むつかしいことも何もない、「人間そのまま」 が神なのである。
   今、太陽は明るく照つている。そのままが日光の中であるように、われわれはこのまま神の生命(いのち)の中に存在を保ち、生き、神の生命を享け、それを生きているから、われわれ自身が初めからこのまま 「神の子」 なのである。
   その住む世界がこのまま 「神の国」 である。
   このままが 「神の子」 であり、このままが 「神の国」 であることに気がつかないで、どこかよそに神の子があり、神の国があるように思っていたのがまちがいだったのだ。
   ここに、この身が、このままに神の子であり、神が円満完全であり、神のみが創造主(つくりぬし)であり、神は全知全能であり、その創造に決して失敗がないということを知るならば、
   神の子であるこのわれわれが、すでに円満完全であり、すでに健全であり、すでに幸福であり、どんな病気も不幸も貧乏もこの世にないことは明らかであるのだ。
  (『生命の實相』 頭注版第31巻44〜45頁)


 これは聖典 『生命の實相』 第1巻冒頭のお言葉であるところの、

   生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば大生命の癒力(なおすちから)が働いてメタフィジカル・ヒーリング(神癒)となります。

 という相(すがた)と重なり合っているものがあると拝察されるのである。
 このイエスの言葉にもまた、生長の家人類光明化運動の発進の宣言が謳(うた)われていると拝察されて来るのである。(1998.10.26)

169復興G:2013/11/01(金) 11:00:40 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百十九

   諸君、わたしは生まれて間もない幼い稚(おさな)い時から神が好きであった。

 「諸君」 とは、舞台上の人物だけではなく、観衆全部に向かって語られているのである。

 天地一切万物に向かって、「今すべての病人は起つことが出来る」 というその 「すべて」 に向かって語りかけられ、拝みかけられている言葉であるのである。

 山川草木(さんせんそうもく)国土、有情(うじょう)なるもの非情(ひじょう)なるものに向かっての拝み、天地一切のものへの感謝、礼拝、祝福として語られているのであり、 『甘露の法雨』 なるものの降りそそぎとしてここに鳴り出した言葉なのである。

 「私は幼い稚い時から神が好きであった」 ということは、万人、万物の神聖にして、神性なるものへの拝みなのである。

 すべてのものははじめから神が好きなのである、神を嫌いなものなど一人もいないのだ、ということである。神と人とが一つである實相に帰っているものから観ればすべては、好き嫌いを超えて、神と人とは一体(ひとつ)であるのである。それが、今ここにある、神と神の国のそのままであり、人間のそのままの相(すがた)なのである。

 万人、万物は實相なる今ここにおいて、ひとつであり、ひとつなるもの、はじめのはじめなるものが展開して、万人万物、天地一切となっているのである。自分自身のいのちが展開して天地一切となっているのである。

 そのひとつなる はじめに帰り、はじめなるものの展開として、鳴りひびきとして一切のコトバは発せられているのである。発しながらもそこに一即多、多即一としてひとつなのである。

 それ故に、コトバそのものの中に天地一切万物がひとつなるそのままに存在しているのである。一語一切語である。一語以て天地を蔽(おお)う とはこのことである。

 この ひとつ なるところに立つことが、まことの 「起つ」 ことなのである。その意味における 「今すべての病人は起つことが出来るのである」 とのみコトバが天降(あまくだ)っているのである。

 しかも菩薩(ぼさつ)は三界(さんがい)に身を現さずであり、すがたも、言葉も、説法も消え切りの、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きそのものなのである。

 イエスは、はじめのはじめから自分というものを十字架にかけておられ給うたのである。それ故に、物質の十字架そのものも、十字架にかけ終わりのところから、イエスの説法ははじまっていたのである。

 大きくこの世全体を、全存在を十字架にかけて、抹殺(まっさつ)して、今そのまま、このままに神であり、神の国であり、神の子であり給うたのである。

 一切は 「今ここ」 からはじまるのである。 「天地(あめつち)のはじめは今をはじめとする理(ことわり)あり」 なのである。一切はこのままからはじまるのである。それがそのままなのである。

 今ここ、このまま、そのままである。 「そのままの展開」 が生長の家人類光明化運動であったのである。そのままは生命(いのち)それ自身の 「私は無いのです」 とのみずからの消え切り、澄み切りの、よろこびの聖なる輝きを輝く光栄に満ちているのである。

 「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり」 と 「『生長の家』 信徒行持要目(しんとぎょうじようもく)」 には解説されているのである。

 そのままの外には何ものもないのである。そのままが渾(すべ)ての渾てなのである。(1998.10.27)

170復興G:2013/11/01(金) 12:26:12 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十

   そして神を求め神を掴(つか)もうと思ってそれを探し求めていたのです。どうしたらそれを掴めるか、それがわたしの課題であったのです。


 そして、神は掴む方向には居給わなかったのである。生かされている、ということにあったのである。それ故、生長の家の教えは感謝の教えであると言われているのである。生きとし生けるものを生かし給うのが神であり給うたのである。

 やがてその神を発見された時、「招神歌(かみよびうた)」 が生まれたのである。すなわち、その第一首は、

   生きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)
   元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給え。

 と歌われているのである。

 神を知ることは出来なくとも、神を掴むことは出来なくとも、生かされていたことは厳然としているのである。

 それが實相である。知る知らない、掴む掴まないを超えているのである。信じる信じないを超え、あらゆることを超えて無条件ということが 「生きとし生けるものを」 ということなのである。

 そのような神を神の子なる實相は知っているのである。それは 知っているからこそ求めるのである ということではないのである。知っている神の子の實相だけでよい、のである。見渡すかぎり 知っている神の子があるばかりなのである。

 それが 神と一体(ひとつ)であるということなのである。

 神を知らない時は一度もなかったのである、ということをよろこんだのが、因縁を超えたことであり、悟ったことであった――それが大聖師谷口雅春先生であったのである。

 「私はまだ幼い稚(おさな)い時から神が好きであった」

とは、幼な児の心、稚い子供の心を言っているのである。

 「汝、幼な児の如くならずば神の国を見ること能わず」

 とイエス・キリストは宣(の)り給うているのである。すべての人間はみな幼な児なのである。それ故、万人は神を好きなのである。

 幼な児とは生れたそのままを意味しているのである。
 幼な児の如くならなければ」 とは永遠の憧(あこが)れの心境ではないのである。「幼な児の心」 はここに見よ、彼処(かしこ)に見よ、というが如くにはいないのである。今ここに既に、万人のうちに、生きとし生けるもののすがたそのままに幼な児の心なのである。

 万人の中の 「幼な児」 なる實相に呼びかけられ、拝まれたのが 「私は幼い時から……」 という言葉であるのである。その “幼い” ということは、生まれたそのままなる 「實相なるもの」 に語りかけられた言葉なのである。

 それ故、全人類の中で大聖師谷口雅春先生だけが生長の家であり、すべては外の人であった時に、語りかけられたお言葉がいきなり 「生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚すれば……」 というお言葉であったのである。万人の實相、すなわち 「幼な児なるもの」 に語りかけられているのである。

 「わたしは幼い稚(おさな)い時から……」 というお言葉のなんという自然なことよ。なんという 人間すべてに語りかけるのにふさわしいひびきであることよ。なんという そのままであることよ。その、そのままのすがたが實相なのである。

 この、そのままが流れ満ち満ちているが故に、大聖師の 『自伝篇』 の一行目から、啓示を受けられるまでのすべての相(すがた)がそのままに聖なる光りであり、この本を聖典と呼ばずにはいられないのである。(1998.10.28)

171復興G:2013/11/05(火) 20:30:51 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十一

  わたしは断食をしてみたり水行をしてみたりしてみたけれどもわたしは神がどこにあるか、神の子がどこにあるかわからなかった。


 それ故、神想観するのも、感謝するのも、愛行をするのも、神に生かされ、愛されるための準備のためのものではないということである。断食するのも、神を解るための、神に生かされるための、ものであることにおいてふさわしくないのである。

 この断食に比べて、イエスの荒野での四十日、四十夜の断食は、ヨハネの洗礼を受けた時に、霊(みたま)鳩の如くにイエスに天降ったその後の相(すがた)であって、これは天なる父と偕(とも)に、神がすべてとなって、神が為し給うている相(すがた)となっているのであり、これは準備のためのものではなくして、神の天地創造と全く同じ出来事としてこの姿をあらわされているということである。これは手段、目的、すなわち未来のためのものではなく、 「今」 が、神が、完成なるものが生き給うているすがたであるということである。

 その故に、生長の家の神想観は、神想観そのものが神の創造のお姿であると同時に、神想観そのものが創造されたるものでもあるのである。神想観は 「今」 そのものであるからであり、「吾れ今五官の世界を去って」 という吾れが 「今」 なることこそが神想観なるものの創造性そのものなる性格をあらわしているのである。

 それ故、同じ言葉をお使いになっておられても、因縁を超え、一切を超えて発せられているお言葉は、その意味以前の問題として言葉の姿、文字、ひびきそのものが光りの荘厳なる量なのである。それは無量の量であり、無量光なる無邊光(むへんこう)そのものなのである。まことにコトバは神であり、神はコトバであり給うことそのものなのである。

 このいのちは、断食どころか、出生以前より、父母未生(みしょう)以前よりありつづけている創造のいのちなのである。

 釈尊は 「成仏してより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)である」 と宣(の)り給い、イエス・キリストは 「吾れはアブラハムの生まれぬ先よりあるなり」 と宣り給い、大聖師はその 「釈尊より、キリストより以前から吾れは、天照大御神と偕にあるものなり」 と宣り給うていられるのである。久遠の釈迦、キリストを自在に生み給うたところの久遠の久遠なるものに立ち帰られたところから 「自在方便説法」 され給うて、この戯曲のセリフは生まれているのである。

 かつて、龍宮住吉本宮建立のとき、住吉大御神の 「みたましろ」 はどこの神社から、みたまうけしてまいりましょうか、という問いに対して、大聖師は

 「それはどこの神社からも、貰い受ける必要はない。私が直接、龍宮に行って住吉大御神をお迎えして来る」

 とのお言葉があったとのことである。大聖師の説法、おことば、いずこから出で来たるか、その消息を伝えているものと拝察申し上げるのである。

 大聖師のお言葉はすべて、龍宮本源より直接お持ち来たり給うたものであればこそ、すべてを生み出し給うコトバなのである。釈尊やイエス・キリストの戯曲に登場させ給うているこの久遠實成(くおんじつじょう)のお二方をたしかに生み出し給うたことの象徴をここに拝するのである。(1998.10.29)

172復興G:2013/11/06(水) 16:15:37 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十二

   苦しんで索(もと)めても神はどこにも見出せなかった。


 ある(はず)筈だと想って、現象のどこかに求めること自体が遠ざかっているのである。あるかぎりのものを否定して、「無い」 と言えるすべてを否定して超えた時に、「無い」 と言えないものとして、知る必要なくして在りつづけるところのものが實在なるものであり、神なるものであるのである。「無い」 と否定する自分も無いのである。

 「無い」 と言えるすべてのすべてが無いのである。 「無い無い無い……」 と進んでゆくとき、虚空(こくう)の中心より輝くひびきとして 「無い無い無い……」 と輝くものが鳴っており、「無い無い……」 と言えば言うほど、その中心なるものが強く輝く鳴りひびきとなるのである。

 すでに自分はなく、「無い無い……」 と輝く中心なるもののみがあり、それのみすべてのすべてなることを想わざるを得ないのであって、在るものはただただ 「無い」 と言えないものであり、それは 「無い……」 とみずから言っているものであり、輝いているものなのである。その輝いているものこそ實在なのである。

 「無い……」 とみずから言うもののみ、こちらが 「無い」 と言えないもののみがあると言うことなのである。

 「無い」 とこちらが言えば言うほど 「無い無い……」 と輝くもの。ただただ 「無い」 ことの光りの甦(よみが)えりの一筋のみあるのである。無の門関に坐す消息である。

 無の門関は無い門関であり、門関自身が消えているのである。

 神想観も自分もないのである。「吾れ今五官の世界を去って」 というとき、自分も神想観も幽斎殿(ゆうさいでん)もみずから、おのずからなる消え切りなのである。

 求めている意味での神は無いのである。なぜならば、 「神は無い」 と言えるからである。そして無いものを無いとし、その無いということも 「無い」 と超えて、そこに 「無い」 と言えない 「無い」 なるものの当体が輝いてみずから鳴っているのである。それは認められ、観じられて存在に入るものではなく、「無い」 と宣言されてはじめて存在するものなのである。「無い」 と言わなければ存在しないものなのである。「無い」 と言えば言うほどその輝きを増す態の存在なのである。この 「無」 こそ 「無一物中無尽蔵」 の 「無」 であり、 「無より 「切を生ず」 の 「無」 であり、龍宮本源、創造の本源そのものなのである。

 求めている間、どこにも見出せないのである。外に求めても、内に求めても、求めること自体が 「無い」 のであり、 「無の門関」 を通らなければ、神は外にも内にも居給わないのである。内に対する外もなく、外に対する内も無いのである。相対(そうたい)そのものが無いのである。求めるものと、求められるものとの相対はなく、認めるものと認められるものとの相対もないのである。相対の世界に神は居まさないのである。神は

  真理
  光明
  智慧
  絶対の愛。

 と聖経 『甘露の法雨』 に歌われているのである。絶対が愛であり、神であるのである。愛するものと愛されるものとの相対には愛は居まさないのである。.

 信じなくとも、解らなくとも、認めなくとも、観じなくとも、自覚しなくとも、あらゆることは無いのであって、それを超えて

  「私はお前そのものである」

 と神は宣(の)り給うていたのである。(1998.10.30)

174復興G:2013/11/08(金) 20:35:06 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十三

   ところが今日(こんにち)、今ここに、そのままに、このままで、ここに、神はあるのだということをわたしはたった今悟ったのだ。


 「今日(こんにち)」 とは 「今なる日」 すなわち 「久遠の今」 そのものを意味しているのである。それ故、 「今ここに」 という、 「今」 は 「久遠の今」、「すべてのすべてなる今」 ということである。

 このままといい、そのままといい、 「まま」 とは、 「間間」 である。 「間」 とは 「門」 に中に 「日」 が置かれているのである。 「門」 は 「門」 (原稿では門の日の部分が国旗)であり、日の丸が二本立てられてあり、この奥の家の中には 「日」 即ち神があることを示しているのが 「門」 という字であるのである。家には神の子即ち神そのものが住み給うていることを表現しているのである。

 それ故、 「間間」 とは、神なるものの、完成なるもの天国なるものの純粋なる持続をあらわしているといわなければならないのである。

 「たった今悟った」 というその 「今」 も 「久遠の今」 ということであって、自分のいのちが 「今」 そのものであることを観たことが悟ったことなのである。

 それは、悟ったが故に、 「今ここに、このままに、そのままで」 という言葉が発せられているのである。 「今」 は神そのものであり、 「まま」 も神そのものであるから、 「今」 と 「このまま、そのまま」 とはひとつのことなのである。

 ここには 「今」 そのものであり、 「今」 が立ったよろこびが歌われているのである。 「今」 なるイエスがここに立ち給うているのである。 「今」 起ち給うた大聖師谷口雅春先生のいのちがここにイエスとして立ち給うているのである。

 「今」 は、過去、現在、未来なる時空(じくう)なるものの超脱(ちょうだつ)なるが故に、 「今」 は 「このまま」 であり、 「そのまま」 なのである。

 神は 「今」 であり、 「今」 は 「このまま」 であり、 「そのまま」 なのである。 「今日(こんにち)」 は 「今・日」 なのである。「・」 は無時の一点であり、幽の幽なる、身(みみ)を隠し給える、 「目無堅間(めなしかつま)」 なる 「点である。点もなき一点である。

 「今日」、「生長の家」 と 「人類」 と 「光明」 と 「運動」 とは一つなるものなのである。一つなるものなるが故に、 「生長の家人類光明化運動」 は絶対なのである。 「生長の家人類光明化運動」 は 「神」 であり、 「絶対」 であり、そこに展開しているのは 「絶対の愛」 なのである。

 「絶対の愛」 とは相手に対する相対の愛ではないのである。みずから立っている愛であり、 「今」 立っている愛であり、みずから愛である愛であり、在(あ)りて在る愛であり、それは人間の今、そのまま、このままの相(すがた)そのものなのである。

 それ故、今そのものである人間のそのまま、このままが生長の家人類光明化運動の姿をしているのである。今ここに、そのままに、このままに、生長の家人類光明化運動は立っているのである。

 今このままに、そのままに、生長の家人類光明化運動は久遠の昔よりこの方、人のいのちにおいて立ちつづけであったのである。

 「吾れ起ちてより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)なり」 と生長の家人類光明化運動はひとつなるいのちにおいて言っているのである。

 「吾れは、アブラハムの生まれぬ先より在るなり」 と生長の家人類光明化運動は、ひとつなるいのちとして、今ここに、このままに、そのままに鳴りひびいているのである。(1998.10.31)

175復興G:2013/11/08(金) 20:49:55 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十四

   かつて神の国は近づいたと洗礼のヨハネは言ったが、神の国は すでにここにある とわたしは言うのだ。


 ひろびろとはるばると光り一元である。

 光りなるものには練習も準備もないのである。準備とは未来のための過程または手段の生活が意味されているのであって、「今」 なるものにのみ、手段、準備でない生活というもの、創造というものが在り得るのである。

 ここに不足の反対、すなわち感謝の生活があるのである。感謝は未来に神にあらわれていただくための準備のためにあるのではないのである。 「今」 ここに、既に、このまますべてのすべてであるところに自我が消え、感謝に満たされるのであって、神に来ていただく準備の生活には神はなく、我(が)があるのみとなっているのである。

 洗礼のヨハネは、すべてなるもの、神の国なるもの、神のための準備を生きているが故に、神ではないもの即ち自分、自我がどこかに残らざるを得ないのである。満たされたるもの、感謝なるもの、すなわち自我の要らない 「神の国は汝らの内にあり」 と言ったイエス・キリストの言葉こそが、生長の家の、光明一元、實相一元のすがたであるのである。イエスは感謝に満たされていたのである。

 準備の生活には天国は有り得ないのである。現象を超えている實相なるものにこそ、完成なるものの純粋なる持続のすがたがあり、これが天国ということ、神の国と言えるものなのである。準備の生活からの脱却こそ、神の国における神の子のすがたなのであり、感謝のすがたなのである。

 生長の家人類光明化運動は準備の生活ではないのである。地上天国建設運動と仮に言うといえども、地上は無いのであり、地上天国も無いのであって、あるのはただただ實相なる天上のみなのである。

 天国という天国、神という神は 「今」 であり、 「ここ」 であり、 「そのまま」 であるのであって、天国なるもの、神なるもの、實在なるものの純粋なる持続があるのみなのである。

 生長の家人類光明化運動は神そのものであるから、 「今」 すべてのすべてなのである。地上天国建設運動もまた神であるから 「今」 すべてのすべてであって、地上超脱の 「今」 があるのみである。

 天上と地上と相対しているのではないのである。相対そのものが無いのである。地上に対する天上もなければ、天上に対する地上も無いのである。それらはすべてみずからの消え切りなのである。

 不完全はなく、あるものはただただ聖なる、完成なる實相のみである。無相にして一切相なる澄み切りの聖なるよろこびの輝きそのものが神の国、實相の国、天国そのものなのである。

 ただあるのは天上のみ、神のみ、「今」 のみなのである。不完全を消すための運動はどこにも無いのである。不完全そのものが無いのである。

 イエス・キリストは 「み心の天に成るが如く地にも成らせ給え」 と祈ることを教え給うたが、み心の成る天のみが實在であり、實相であり、すべてのすべてなのである。ここに満ちたりの感謝の湧出(ゆうしゅつ)があり、「こと終われり」 なのである。

 「地にも成らせ給え」 とは、その満ち足りの上に立ってのよろこびの溢(あふ)れ出(い)での言葉なのであって、これは現象、地なるものに實在性を認めた祈りではないのである。(1998.11.1)

176復興G:2013/11/09(土) 13:26:08 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十五

   ヨハネは神の国を準備する役目としてこの世に出たから神の国は近づいたと言ったのだ。


 神は、神の国は永遠に近づくということは有り得ないのである。なぜならば、神と神の国は一度も神の子人間と離れたことはないからなのであり、はなれたことの無い渾(すべ)ての渾てなるものを神といい、神の国というのである。

 一体(ひとつ)であるものにおいて、近づくということは不可能なことなのである。その不可能なことを不可能ではないと想ってそれととり組むところに迷い、すなわち不自然が生ずるのである。有らざるものを有りと妄想するのが迷いであるからである。

 近づくことの反対は何であるか。それは遠ざかることではないのであって、天国ということにおいては、近づくことの反対は、内にあるということである。内とは、既に、はじめから、はなれずして實在しているという意味である。天国においては、近づくということほど遠く離れていることはないのである。

 それ故、感謝したら神があらわれる、ということは生長の家の實相の哲学においては、感謝すれば神が近づく、という意味ではないのであって、既に、内に、はじめのはじめからある神が、感謝となってあらわれ給うことを意味しているのである。あらわれるのは外からこちらの方に来るということではないのであって、こちらから、内側から、という意味なのである。

 それ故、感謝の神示であると言われている 「大調和の神示」 は、聖経 『甘露の法雨』 の経本においては、 「招神歌(かみよびうた)」 よりも後におかれているのであって、生きとし生けるものとして、神として生かされ、神がすべてを生き、為し給うことが歌われているのである。それ故、内より神があらわれ給いて、感謝を為し給うということがそのままのすがたなのである。

 また、四部経においては、愛行(あいぎょう)の神示とも云うべき 「聖使命菩薩讃偈(せいしめいぼさつさんげ)」 よりも 「招神歌(かみよびうた)」 は先におかれているのであって、神を迎えるための準備として愛行があるのではなく、神が内よりあらわれ給いて愛行を為し給うことが表現されているのである。

 それ故、愛行とは、愛すなわち神が行き給うという意味なのである。神が行くということは天国が行くということである。天国が行くということは無我が行くということである。

 み教えを実行するということも、実すなわち實在なる實相が行くということであり、實相すなわち神が行くということなのである。

 もしも、既に内にある神を観(み)ず、神に来ていただくための準備として行ずるならば、それは同じ行であっても、準備の行であり、神なき自我の行となり、神との間をちぢめるための、埋め合わせの行となり、感謝の湧きようがなく、感謝だけは自分でやらなければならないことになり、一方、自分の無いのが感謝であるから、準備の間は神が居給わないとなれば、永遠に自分が消えず、感謝にはあずかれず、神は西方(さいほう)極楽浄土よりも尚々遠くにはなれてしまうことになるのであって、この行は、同じ行であっても、釈尊が 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」 と言われた無常の行となるのである。

 大聖師は 「愛行は空(むな)しからず」 と私たちのすがたを拝み給うているのである。既に、はじめから、内において、神である實在の實相を祝福されている吾等は幸いなるかな、である。(1998.11.2)

177復興G:2013/11/11(月) 13:22:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十六

   すでにわたしが出てこのままが神の国に変貌したのだ。


 私が神癒祈願をさせて頂いていた時、申し込み者の名簿の人々、いや全世界、全宇宙の不幸不完全を一度の祈りで全て消せないものだろうか。との想いが湧いた時、

 「それを既にやったのが私だよ」

 「それを既にやったのが生長の家だよ」

 といっておられる、幸いに満たされた大聖師をたしかに私は観じさせて頂いたのである。

 そのお言葉には、やはり、

 「それをやるとかやらないとかという私自身が無いんだよ」

 という消え切りの、澄み切りの、聖なるよろこびの輝くひびきがあって私はそこに包まれて坐っていたのを、心あらたに想うのである。

 「こと終われり」 である。この 「こと終われり」 から生長の家人類光明化運動ははじまっているのである。既に変貌し給うたところから 「こと終われり」 「こと完成せり」 の純粋なる創造的持続として 「今」 生長の家人類光明化運動はありつづけなのである。

 それは 「今」 なる光明化運動であって 「未来」 なる光明化運動ではないのである。理想ではなく現実を超えた現実としての 「完成」 なる光明化運動なのである。それ故にこそ、生長の家人類光明化運動は神なのである。

 神の起こし給える運動とは、天国なるもの、完成なるものみずからの起こし給う、天国なる、完成なる運動であるということなのである。

 「吾が中に、神が今此処に、そして天国が今此処にある。」 (『日々読誦三十章経』 )

 これが最高の神想観に念ずる言葉とされていることは、神想観の中身の純粋なる持続が人類光明化運動であり、この自性円満の實相なるものを観ずる神癒の展開は、神想観の中身の展開であると言うことが出来るのである。

 今ここに神の国があり、天国があるということは、これから時間をかけて顕わして行くという時間の世界の話ではないということである。今ここにあるのである。これから時間をかけて顕わさなければならないという神はなく、天国もないのである。今ここであってこそ神であり給い、今ここであってこそ天国であるのである。

 それは 「現象無し」 を説く教えにして、はじめて、 「今ここ」 を説くことが出来るのである。それは針の先ほども自分というものの要らない既に完成している世界である。

 ただただ完全が完全なるものを自己展開することがあるばかりである。これを生長というのであるから、満足と感謝の展開が生長ということなのである。感謝して、満足したいのちほどよく生長を実現しているのが神の子のすがたであるのである。

 どこまでも、不完全の存在を認めないのが生長の家であり、その人類光明化運動である。イエスは方便を以て説いているが、そこにもまた完全と完全のいのちがあるばかりなのである。

 釈尊の 「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくど しっかいじょうぶつ)、有情非情同時成道(うじょうひじょう どうじじょうどう)」 とは、 「方便の成道」 ということも入っているのである。生長の家人類光明化運動が、時に応じ、所に応じて、様々なすがたをとって来たという、その姿そのものが 「悉皆成道(しっかいじょうどう)」 のすがたなのである。ただただ完全が完全し、完成が完成している相(すがた)があるばかりなのである。(1998.11.3)

178復興G:2013/11/11(月) 13:39:57 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十七

   わたしの内に、諸君の内に、ここにこのまま神の国はあるのだった。


 聖経 『甘露の法雨』 には、

 『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

 と言い切られているのである。

 釈迦、キリストを完成したのが生長の家である、と大聖師は宣(の)り給うているのである。この戯曲に登場しているイエス・キリストは生長の家によって完成し給うているキリストであると言えるのである。

 實相ははじめのはじめより完全である故に、實相には完成するということは有り得ないのである。それ故に、釈迦、キリストを完成したという、その完成された釈迦、キリストは現象の釈迦、キリストであり、実際には “完成した” ということは、その現象釈迦、キリストは “無い” ということをハッキリとしたということなのである。釈迦、キリストの出来なかったあれこれを出来たというエスカレーションの問題ではないのである。

 嘗(かつ)て二千年前のイエスは、 「神の国は汝らの内にあり」 と宣り給うたのであったが、これでは内にもあるが外にもあるということである。そこを 「汝らの内にのみ」 と言い切られたところが完成したるゆえんなのであって、この言葉を聴き給うて手を打って讃える

 「よくぞ言い切って呉れた!!」

 という實相イエス・キリストの声を確かに大聖師はお聴きになったのである。同じように實相釈尊のお声をも確かに大聖師はおききになったのである。天地一切万物が手を打ってよろこび讃える声をお聴きになったのである。天地一切を完成したもうたのが大聖師であり給うからなのである。

 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 はまことにも、完成した天地一切万物を照らし出し給うもののことであるのである。それを為し給うたのが大聖師谷口雅春先生にましますのである。「吾れ万物を完成せり」 と宣り給うものこそ 「完成(ななつ)の燈台の点燈者」 なのである。

 生長の家は一切を完成するのである。何故ならば、神をも完成し、ゆるしたのが生長の家であるからである。

 まことに神と言える神、實相なる神を見出し給うたのであり、この時まではまことにも神を審(さば)くことより仕方がなかったのである。不完全の神、神とは言えない神である以上、審く以外はなく、こちらが審くが故に、ただただ神に審かれているという想いしか有り得ず、 「愛されていた。生かされていた」 という、審き憎むことの反対であるところの、感謝と赦(ゆる)しというものは有り得なかったのである。ここに、神を完成し、神をゆるすという道が開かれたのである。

 「天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)にましまし、吾が生みのみ親にまします神よ」

 と宣(の)りごとするとき、このみ親は、「吾が生みの」 なのであって、「私が生んだみ親神よ」 と言い切れており、そして、

 「さすが吾が世嗣ぎよ!!」 と神が手を打ってよろこび給う、そのみ声をたしかにお聴きになったことが、神を完成し、天地一切を完成し給うた時であったのである。その意味においても、釈迦、キリストを完成したるものと言い切れているのである。

 ある誌友が、初期のころであろうと拝察されるのであるが、あまりにもおどろいて大聖師谷口雅春先生に、

 「あなたは一体どなたにましますのですか?」

 と想わず問(き)いた時、

 「本当のことを言うと、手が後ろにまわるよ」

 とおこたえになったということを、先達にお聴きしたことがあったのを想い出すのである。ピラトがイエスに、

 「汝はまさに王なるか?」

 と言う。イエスは

 「汝の言えるが如し」

 と答え給うているのである。いくらイエスが 「そうだ」 と言っても、ピラト自身が自身の言葉で 「まことその通りである!!」 と言い得なければ何にもならないことなのである。大聖師もまた、万人が王の王であることを拝み給うていることについて、

 「まことに先生はこの通りですか?」

 との問いに対して、

 「汝の言えるが如し」

 と私たちにお応えになりつづけであり給うのである。(1998.11.4)

179復興G:2013/11/18(月) 19:58:33 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十八

   神とは何であるか。神とは 「人間のそのまま」 である。むつかしいことも何もない、「人間そのまま」 が神なのである。


 何であるのが神であり給うか。人間であるのが神であり給うのである。人間でない神はあり給わないのである。「今」 ということである。「ここ」 ということである。「そのまま」 ということである。「そのままの人間」 が神であり給うのである。「そのまま」 なるものが神であり給うのである。斯(か)く書かしめているのが神であり給うのである。斯く書かしめられているいのちもまた神であり給うのである。

 「吾れまた、新しきエルサレムの花嫁の姿をして天降るを見る」 とは、神そのものが新しい、「今ここ」 「このまま」 「そのまま」 なる、完成なる 「吾れ」 の姿をとって吾が内より天降る厳(おごそ)かなる 「当方」 なるものの相(すがた)であり給うことを言っているのである。

 生長の家の聖歌 『神霊降誕譜』 の三番は、

  おしえおや うまれたまいて
  このせかい すがたかわりぬ
  やみおおき 世界は消えて
  ひかりみつる 此の世浄土と
  うちつどい かみをたたえん。

 と歌われているのである。

 既に此の世は変貌しているのである。教え親が生まれ給いてということである。お悟りになってということを超えているのであって、この 「生まれる」 とは、 「吾れ生まれてより已来(このかた)、百千万億那由他阿僧祇劫(なゆたあそうぎこう)以前なり」 というほどの意味であり、また 「吾れはアブラハムの生まれぬ前(さき)より生まれてあるなり」 というほどの意味なのである。「生長の家は久遠の昔よりある」 のであり、「私は母親の胎内より生まれたるに非ず」 であり、人みな 「女の子宮より生まれたることなし」 の祝福となって雨降っている讃嘆のコトバが聖経 『甘露の法雨』 となったのである。

 「おしえおやうまれたまいて」 の 「うまれたまいて」 ということは、限りない自分でありながら自分でない 「自分これ自分に非ず、是れを自分という」 態(てい)の内なるご存在、内なる臨在を拝するお言葉であり給うのである。

 この 『神霊降誕譜』 は、一応、生長の家本部がつくったことにはなっているが、当時のどなたかが歌詞を大聖師のもとにとどけて、それが帰って来たときには、殆ど、全部かわって、別のものになっていたという。大聖師が書き直されたのである。それ故、 「おしえおやうまれたまいて」 という、大聖師がご自分が何ものであり給うか、それを 「自分ならざる自分」 として崇め給うていたところから出で来たって、 「うまれたまいて」 となっていると拝察されるのである。

 四国に巡講され給うたとき、歯が痛まれたので、相愛会の連合会長のお兄さんが歯科医であったので,その人に診てもらわれたのである。弟は大聖師のことは知っていても、お兄さんの歯科医さんは、あまりよく大聖師のことを知らないものであるから、口を器具で治療しながら、「いくら偉い生長の家の谷口雅春先生でも、やっぱり歯は痛みますかねッ」 と言ったそうである。付き添っていたものは気が気でなかったであろう。すると大聖師は

 「谷口雅春は痛んでいても、谷口先生は痛んでいないよ」

 と言われたそうである。まことにみずから、「うまれたまいて」 と拝さずにはいられない、厳かなる 「自分ならざる自分」 なるものの消息である。(1998.11.5)

180復興G:2013/11/18(月) 20:09:26 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百二十九

   今、太陽は明るく照っている。そのままが日光の中であるように、われわれはこのまま神の生命(いのち)の中に存在を保ち、生き、神の生命を享(う)け、それを生きているから、われわれ自身が初めからこのまま 「神の子」 なのである。その住む世界がこのまま 「神の国」 である。


 太陽は明るく照って、そのままが日光の中である。そして、太陽は日光を自分みずから出しているのである。太陽と日光は同じなのである。日光は太陽であり、太陽は日光なのである。神と人と神の国とはひとつなのである。

 生長の家のみ教えなる太陽は久遠の昔から照っている。そのまま神の子はみ教えの中なのである。み教えが先か、いのちが先か。何故、これを分ける必要があり、それを知る必要があるのか。

 太陽はただただ照っているのであり、いのちはただただいのちしているのである。そこには自分というものは無いのである。ただただその通りなのである。

 想えば、み教えの内も外も無いのである。ただただひとつなるものがありて、伝える方と聴く方との相(すがた)となって、ひとつなるものが自己展開しているのである。説法しているイエスもひとつなるものであれば、聴いている聴衆もひとつなるものなのである。

 ひとつなるものの展開であるが故に、ひとつがひとつであることがそのまま中心帰一なのである。ひとつなるものの展開したそのままに、ひとつであるのである。展開しているいのちそれ自体の内にひとつなるものがあるのである。

 内なるひとつが渾(すべ)ての渾てであり給うが故に、イエスのすべては内に向かっているのであって、外は既に久遠の昔より、アブラハムの生まれ出でぬ前(さき)より既に十字架に架けられているのである。

 一切は内より出でて内であるのみなのである。すべてのすべてなるものを内といい、神といい、神の国というのである。

 今ここに神の国を生きているいのちにとっては、不完全はどこにもないのである。不完全という概念そのものが存在しないのである。イエスは水の上を歩く前に、神の国を歩き給うていたのである。完全なる世界に完全なるものとして歩き給うていたが故に、水の上を歩き給うという自在なる完全の一分があらわれたのである。

 果たして、イエスが水の上を歩き給うたことは善であったかどうか。病を治したことが安息日に仕事をしたということは善であったか否か。

 イエスは善悪を問題にし給うたのではないのである。善のみなる神と神の国を生き給うたのである。それ故、パリサイ人に善悪をきめて貰う必要はなかったのである。

 パリサイ人は善悪を見ているのである。しかしイエスの前にはその善悪を問題にしているパリサイ人もなかったのである。それ故、無いようにふるまわれたのである。今ここに神の国、それ以外何ものも存在しない善のみの国を生き給うているすがたがあるのみなのである。

 因縁、現象の世界から見れば、何故、イエスの前に、病人が現れるか。パリサイ人があらわれるか。右の頬を打つものがあらわれ、上着をとるものがあらわれ、十字架につけるものが現れるのか。それはすべてイエスの心の影であるということになるのである。

 しかし、それが正に影であり、影にすぎないことを知っていたイエスは、やはり 「アブラハムの生まれぬ前(さき)より」 心と心の影である全現象界を十字架につけ、抹殺し給うていたのである。(1998.11.6)

181復興G:2013/11/19(火) 09:34:13 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十

   このままが 「神の子」 であり、このままが 「神の国」 であることに気がつかないで、どこかよそに神の子があり、神の国があるように思っていたのがまちがいだったのだ。


 自分の行いの中に、自分の行(ぎょう)の中に、それをつづける時間と回数の中に、神の子と神の国があるのではなく、 「自分」 というものの要らない、自分というものが全く入る余地のない、 「今」 が神の子であり、神の国であるということは何という厳かな発見であろう。

 それに 「気がつく」 ということと 「気がつかない」 ということとはその領地をせめぎ合っているのではない、ということが 「今」 ということなのである。

 結局は、 「気がつけば」 あるが、 「気がつかなければ」 無いという存在が神の子や神の国ではないと受けとるのが 「今」 ということであり、 「今」 を生きるということなのである。

 「今を生かす」 というのは行(ぎょう)中の最大の行である、というのは、 「今」 が神であり、 「今」 が神の国であり、 「今」 が神の子であり、 「今」 が渾(すべ)ての渾てであるからなのである。

 「気がつく」 「気がつかない」 ということは自覚するかしないか、観ずるか観じないかの問題と同じことであるが、その問題そのものが 「不完全なるが故に實在に非ず」 ということであると受けることこそが 「今」 が生きることなのである。

 神も、神の国も、神の子も すなわち實相は、気がつけばあるが、気がつかなければ無い、ということになれば、その 「気がつくのがなかなか!!」 ということになって、結局は、神も神の国も神の子も遠い存在となってしまうのであるが、 「神の創造には失敗はない」 のであり、 「不完全はない」 ということにおいて、 「今」 文句なしの世界と人間がここにある、ということによって、この問題を超えるのが生長の家の實相哲学なのである。

 ここのところを如何に説明し得るか、ということが、繰り返しになるが二十一世紀に与えられた美しい、光栄あるテーマであるが、これはあくまでも創造的テーマであって、テーマを解決しなければ今、完全な生活はない、神の子ではないということではないのである。テーマさえも完全なるものの自己展開として創造しているというすがたなのである。

 これは二十一世紀にだけのテーマではなく、世紀を超えて、すべての人々のアタックして来たテーマであると言えるのではないか。

 神は割り切れていないということはないのである。「天地一切のものに感謝せよ」 とのコトバは神より出でて神そのものである。神は完全なるが故に、このコトバも完全であり、すべてのすべてなのであって、天地(あめつち)を貫き、天地(あめつち)を天地(あめつち)たらしめてこのコトバは鳴りひびいているのである。

 食前にのぼるものが、野菜であろうと、魚であろうと、肉であろうと、「感謝せよ」 なのである。まことには、野菜は野菜ではなく、神なのであり、魚は魚ではなく神なのであり、肉は肉でなく神なのである。どこにも犠牲になったものの呻(うめ)きはないのである。

 「若(も)しも神のゆるしがなければ、一片の野菜も、魚も、肉も、食前にのぼること能わず」

 である。そこに 「感謝せよ」 が鳴っているのである。

 「現象無し」

 によって宇宙を割り切れている 「生長の家の食事」 である。(1998.11.7)

183復興G:2013/11/29(金) 19:47:11 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十一

   ここに、この身が、このままに神の子であり、神が円満完全であり、神のみが創造主(つくりぬし)であり、神は全知全能であり、その創造に決して失敗がないということを知るならば、神の子であるこのわれわれが、すでに円満完全であり、すでに健全であり、すでに幸福であり、どんな病気も不幸も貧乏もこの世にないことは明らかであるのだ。


 それ故に、完全円満なるものを観る生活のみがあるのである。これは實相のことである。このイエスの言葉には實相という言葉は出て来ないのであるが、神の創造には失敗はあり得ない “そのまま” ということでそれが表現されているのである。

 實相とは何か。そのままでよい、ということである。そのままでよいと言えないものは、實相ではないのである。不完全をあると認めることは、神の創造に失敗があり、神は全知全能ではないことを証明するものであるが故に、完全全能の神を発見した生長の家から観れば、そのままでよいといえないものは實在しないのであり、無いのである。

 何々から観る ということは決して一つの立場に固執した観方ではなく、固執という、そのままでよいと言えないものは不完全なるが故に無いのであり、「無いと言えるすべては無い」 という無の門関を透過したところから観れば、ということが、生長の家から観ればということなのである。

 ここには、生長の家の説法、表現が、すべて神が完全であるから創造に失敗は有り得ないという、当たり前の、当然の、自然の、天然で法然なる、そのままの流れにあるということが示されているのであって、イエス・キリストと大聖師谷口雅春先生とが全く一つの相(すがた)に帰一していると拝察されて来るのである。

 結局、大聖師の追求せざるを得なかった、テーマ、悩みとは、

「完全なる神は何故不完全の世界をつくったか。不完全なものしか造れなかった神は神とは言えず、神は無いのである。
 しかし、何故、完全というものは無いはずであるのに、人間は完全を希求せざるを得ないのか。完全をどこかで知っていなければ求める筈はない。しかし、現実には完全はない」

 この悩みを解決したのが大聖師であり給うたのである。その大聖師の解決したよろこびをそのままここに語り出されていると想われるのである。

 それを自分の力で解決しようとしている間は、ヨハネの悩みを悩みとして悩まなければならなかったのである。既にはじめから完全円満なる實相が内より目覚め、自ずから覚めて自覚なるものが顕現した時、自我が消え、自力が消滅したのである。

 自力、自我が消滅して、實相の完全円満が自覚されたのではないのである。自力、自我を消さねばならぬということになれば、それだけは自分でしなければならないという、一点の自我を残すことになり、それだけは必要であるということになり、自我は永遠に消えないのである。

 ただただ、時満ちたのである。宇宙的に時が満ちたのである。宇宙が時を迎えたのである。「今」 起つ時を恵まれたのである。「今」 が起ったのである。みずから、おのずから起つべくして起ったのである。それは自我を無くしたから、ではなく、ただただ起つべくして起つべきものが立ったのである。

 ここに、自力なき神想観、自力なき聖典読誦、自力なき光明化運動、が起ったのである。よろこびの神想観、よろこびの聖典読誦、よろこびの光明化運動の誕生、発進であった。「私は無いんだよ」 との大聖師のよろこびを大本源として発進した、久遠のよろこびの発進であったのである。(1998.11.8)

184復興G:2013/11/30(土) 15:38:16 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十二

 「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」 は正(まさ)しく、字の通りであって、住吉大御神が吾が内にあってこの祈りをされて 「ア、オ、ウ、エ、イ」 の鳴り響きを鳴り響き給うているのである。それは絶対なる神の絶対なる行(ぎょう)としてのお姿であって、人間力の努力精進をもとにして考えるべきものではないのである。

 神の天地創造は雄渾(ゆうこん)きわまりなき力強さであるが、それは暗(やみ)を相手に光りをすすめて行くという意味での 「光りあれ」 の相(すがた)ではないのである。神の前には何ものも存在しないのであり、克服すべき何ものもないのである。神の前には暗は無く、その無いという空間もなく、ただただ在るものが在りて在るというご存在が神であり給う故に、「今に至るも働き給う」 というすがたには、「疲れ給う」 ということはどこにも有り得ないのである。

 大聖師はお疲れになってお亡くなりになったのではないのである。「自分」 なるものがあれば疲れ給うかも知れないが、

  「私は無いんだよ」

 ということにおいて、ただただ、疲れ給わず、休み給わない神のみがあり給うそのままであり給うたのである。

  若しと思う者は忽(たちま)ち若返り、
  老いたりと思う者は忽ち老い朽つるも宜(むべ)なるかな。

 と聖経 『甘露の法雨』 にお書きになられた、ご本人が、

  「それでは眠らせて頂きます」

 と現象を超え、自我を超えて、堂々とこ昇天されたところ、説法はこれ何ものが為し給うかを指し示し給い、却ってこちらの永遠久遠なる相(すがた)すなわち

  迷いなし、罪なし、病なし

 のすがたを指し示し祝し給うのを感ずるのである。

 ここに永遠に久遠に疲れを知らない生長の家人類光明化運動の自然な姿を拝させて頂くのである。

  「永遠の構図に於て神と偕(とも)に創造するの喜びを感じてゐます」

 というところには、すでに 「自分」 なるものは微塵(みじん)も無く、神のみ すべてのすべてであるが故に、永遠であるところの、よろこびなるもののみが輝いているのである。「自分が要(い)らない」 ということ、「自分が無い」 ということが、永遠ということ、久遠ということ、無限ということであることを、このお言葉は示しているものと拝察されて来るのである。

 「不完全が存在するならば神はない」 という想いは、神が大聖師の中に起こし給いて、『神を審判(さば)く』 を書かしめ給うたのである。その神が再び、聖経 『甘露の法雨』 の中において、

  “汝は罪を以て完全となすや?”

 というみコトバによって、却って、「不完全があれば神は無い」 ということを童子に言わせようとされ給うているのである。そして、童子みずからに、

  『師よ、罪は完全に非ず』

 とみずからの答えとして、言わしめ給うているのである。そして、「汝の言えるが如し」 とお応(こた)えになってい給うのである。大聖師が生まれ給うてよりこの方のお姿は、すべて神が為し給うていたことを通して、吾々もまた神縁というもの、神なる根本因縁というものを指し示されていることを想うのである。(1998.11.9)

185復興G:2013/12/02(月) 11:08:21 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十三

 今朝の早朝行事の先導で、聖経 『甘露の法雨』 の読誦(とくじゅ)において、内より湧き出でた明るい想いだった。

 聖経を誦(あ)げる前に、宝蔵神社に向かっての礼拝の後、この聖経 『甘露の法雨』 を、日ごろ先祖を護り、導き給う、本尊神霊なる生長の家大神、大国主大神、観世音菩薩、地蔵大菩薩、阿弥陀如来……に感謝し奉りて誦げる、という主旨の 「祝詞」 を拝読してから、聖経が読誦されるのである。

 今朝、この 「本尊神」 は、しかし、自分の内にましますのである、と想った時、わが内に大きな大きな、黄金色の合掌があらわれたのである。

 それは、感謝して聖経を拝読してくれる人々への感謝の合掌であると同時に、全存在を如意宝珠(にょいほうじゅ)としてその合掌の内に持されて、限りない 「生かす力」 をもって生かし給うているすがたであった。

 そして、その時、総裁谷口清超先生の 「神想観は、神の世界を神が想い給うのである」 というお言葉を想い出したのである。

 すると、自分はどこにもなく、ただよろこびだけがあって、自分は全く要(い)らなく、ただただ神の眼を以て神が観給い、神が神の合掌で神のつくり給える實在なる姿を観じ、拝し給うのである、という安らぎ、全托の想いが私を満たしたのである。

 それから後、神癒祈願の人型を合掌にはさんだ時、自分ではないもう一つの輝く厳かさで大きな合掌がその一枚一枚の人型をはさんで祝福礼拝して下さっているのを感じたのである。しかも、すでに、その人型は人型でなく、如意宝珠となって、合掌の、掌と掌の間に輝いて存在している感じとなっていったのである。その感じは今も、祈願を終えたあともそれがつづいているのである。

 神が人型を観給うように、私もそれを感じていたのではないかと想うのである。祈りも神が為し給うのであった。

 「……し給え」 と神に祈るとは、神でないものが神に求めているように、たしかに見えるのであるが、そうではなかったのだ。「……したまえ」 とねがうことも神が神に語りかけていたもうたのであった。

 それ故に 「……せんと楽(ねが)わば」 ということばが仏典にあるのであると想えて来たのである。祈りもねがいも神が為し給うのであれば、神はよろこびそのもの、楽しさそのものであり給うのであるから、「ねがい」 は、楽しさそのものがしていることなのであった。

 「……せん」 と欲すること、ねがうことは、楽しさ、よろこばしさから来ている姿であったのである。

 それ故、「ねがう」 ことは、楽しさが楽しさに、よろこびがよろこびにねがっていたことであったのである。

 「願(がん)なき行(ぎょう)は仏(ほとけ)の魔事(まじ)なり」 とは、願(楽<ねがい>)神なき、仏なきものは魔事であることはきわめて自然なことと想われるのである。

 それ故にまた、「地上天国建設を楽(ねが)う」 こと、「人類光明化運動の展開を楽(ねが)う」 ことは、よろこびそのものがねがっていることであったのであり、楽そのものがねがっていることであったのである。

 「よろこびの人類光明化運動」 なるものの明るさということを想わされるのである。(1998.11.10)

186復興G:2013/12/03(火) 09:26:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十四

 「神の世界を、神が想い給う」 (総裁谷口清超先生の第一論文 『文化の本源としての神想観』)、そこには全く自分というものは無いのであり、ただただよろこびと感謝だけがあるのである。天地一切が神であり、感謝そのものなのである。これを観ずることを、天地一切感謝といい、天地一切礼拝というのである。

 「天地一切」 という字は 「天地の一(ひ)ト切れ」 と書かれているとも言えるのであって、これは、一即多、多即一の相(すがた)を表現しているのであって、「一ト切れ」 とみえているままに 「天地」 すなわち、すべてのすべてであることを意味しているのであり、 「天地である一ト切れ」 ということであり、一人すなわち 「一ト切れ」 としての個性的存在でありながら、そのままにすべてのすべてである、大調和の相(すがた)を表現したものであるということになるのである。

 更に、「一切」 とは 「一つに切る」 ということでもあるのであって、現象と實相の二つに切るのではなくて、切った結果が一つであるのであって、現象は無いのであって、切った結果、残っているのは實相一つであるということである。實相の独在ということなのである。

 更に 「一切」 とは 「一つが切る」 ということであり、一つなるもの、即ち絶対なるものが切る、ということであって、ただただ實在なる一つなるすべてのすべてなるものが、光りの自己展開の相(すがた)として 「無い」 と輝いているのである。「般若心経(はんにゃしんぎょう)」 の 「観自在菩薩(かんじざいぼさつ)行深般若波羅密多時(ぎょう じんはんにゃはらみったじ)照見五蘊皆空(しょうけん ごうんかいくう)」 という時の、観自在菩薩が光明燦然として照り輝いている、その輝きの、よろこびの展開として 「現象は無い」 すなわち 「五蘊皆空」 と照らし観てい給う相(すがた)であり、ただただ光りのみの充満展開があるのみなのである。

 またイエス・キリストの 「吾が国は此の世の国に非ず」 とのおコトバにおいて、先ずはじめに 「吾が国」 という、吾れと国との光明燦然たる神の国と吾れとが厳然としてあり、その神と神の国そのものであるよろこびが 「此の世の国に非ず」 すなわち 「此の世(現象)は無い」 との輝きのひろがりとなっているのである。

 「五蘊皆空」 にしても、 「吾が国は此の世の国に非ず」 にしても、ただ常に、「無い」 というだけではなく、先ずはじめに、光明燦然たる實在、實有なるものがあり、その自己展開としての光りのコトバとして発せられているいのちのコトバであるということである。それが 「一切」 ということの一つの意味であると言えるのである。

 また、仏教に 「一切衆生悉有佛性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」 という語があり、一切の衆生は悉く仏性を有(も)つ、という風に解せられていたのを道元禅師は 「一切衆生悉有は佛性である」 と解されたのであったが、生長の家では、「衆生悉有佛性」 を一切してしまったのである。衆生だとか、悉有だとか、それを一つなるものがすべて 「無い」 と切りすててしまったのである。切りすててしまって、「一」 だけが残って、すべてのすべてなるもの、實相独在を實相独在としての成就、すなわち、成り就(な)りせしめたのである。それ故に、ここにまことの 「一切」 の意味、すべてのすべてなるものが露呈して来たのである。

 これらのことを述べた時、大聖師谷口雅春先生は、 「君の直観的解釈は素晴らしい」 と言って下さったあと、そこに居た一同のために實相独在の話しをして下さったことであった。

 昭和三十九年の秋のことだった。(1998.11.11)

187復興G:2013/12/03(火) 09:27:54 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十五

 幽斎殿(ゆうさいでん)での感謝行を終えて下に降りて来て、食堂で話をしている時に湧いたよろこびがあった。

 生長の家人類光明化運動は神である。本源絶対なる神が色々なはたらきをされるその御はたらきにつけたのが神名であれば 「住吉大御神(すみよしのおおみかみ)」 「塩椎大御神(しおつちのおおみかみ)」 とお呼びする意味において 「生長の家人類光明化運動」 ということである、という、それはなぜかよろこびであった。

 生長の家人類光明化運動は、先ず、それみずからに、久遠不滅(くおんふめつ)、金剛不壊(こんごうふえ)なる体(たい)を具(ぐ)しているということである。これがまことの具体ということである。實在の實相なる体を具しているということである。

 この金剛不壊の具体なるものは、自己展開し、みずから顕(あらあわ)れざるを得なくて顕れたのがいわゆる人類光明化運動なのである。

 それ故、生長の家人類光明化運動の自発的活動態勢を、という言葉は、人類光明化運動の展開は、運動なるものそれみずからの、自発によってあるということなのである。神は 「光りあれ」 と宣(の)り給うその自発なるものを表現していたのである、ということである。

 「“自発的活動態勢” の “自発” の “自” は、“自転島(おのころじま)” の “自” ということなのである」 と言った先達があったのを想い出すのである。この人は生長の家人類光明化運動そのものが神の相(すがた)をしていること、久遠不滅、金剛不壊なる体(たい)を具有(ぐゆう)しているその、實体にふれていられた魂であったのではないか、と想われて来たのであった。

 合わせて、再び、人類光明化運動の 「光明とは何か」 ということをさらに深く想わせて頂けたような気がするのである。追求しても追求してもし切れないもの、讃えても讃えても讃え切れないもの、という想いとよろこび、そして光栄というようなものを想ったのである。

 「光明とは何か」 という言葉は、如何にも疑いのコトバであって、満たされたものの、解けたものの言葉ではないように見えているが、今の場合は、嬉しくてその自分自身の中にある、實在なる、神なる、光明化運動に語りかけ、讃えかけ、拝(おろが)みかけているという気がしているのである。

 「神の国は汝らの内にあり」 とは

 「生長の家人類光明化運動なるものは汝らの内にあり」 ということであると想えて来るのである。そして、それが神であるが故に、神である自発なるものに自発されて自分はここに生かされてあり、すべての運為(うんい)が存在するのである、ということであった。

 「光明とは何か」 と問うていることそのことが、光りの實体を有し、光りを放(はな)っている姿であるのであるということである。

 「實在とは何か」 ということも、 「感謝とは何か」 と深く参ずるのも、その姿そのものが光りのすがたであるのだ、ということも想えて来るのである。

 「自転島(おのころじま)」 とは、地球をあらわし、全宇宙の實相を表現しているとも言えるであろうが、それがそのまま如意宝珠の姿であり、潮満(しおみ)つ、潮干(しおひ)るのはたらきを具有し、自(みずか)ら、自(おの)ずからなるはたらきそのものを具有している、その意味をもって 「自発的活動態勢」 ということが新たに想えて来たのであった。(1998.11.12)

188復興G:2013/12/03(火) 10:05:04 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十六

 神想観の中で 「私は無いんだよ」 と宣(の)り給いて、みずからの消え切りであり、澄み切りの聖なる聖なる大聖師が、すべてを救い給うたことについて、「それをやったのが私だよ」 と宣り給うたのであった。それ故、それを宣り給うたのは神であり給うたのである。「見よ、吾れすでに天地を新たならしめたのである」 との 「神示」 のコトバと同じ相(すがた)がそこにあったのである。神のみがそこに在して、渾(すべ)ての渾てであり給うたのである。

  「時が来た。」

 とは、その時であったのである。そして全宇宙が 「今」 そのまま起ったのであった。全宇宙を吾が身体としてそこに起ち給うた大聖師であり給い、神であり給うたのである。それはそこに、そのまま生長の家人類光明化運動の起った相(すがた)であったのである。

 「こと終われり」 「こと完成せり」 が生長の家人類光明化運動の中身なのである。「こと終われり」 「こと完成せり」 が運為(うんい)、展開しているのである。「こうありたい」 「ああありたい」 の不完全、不満足がもとになってはじまっている運動ではないということを更に更に想うのである。それが感謝行としての人類光明化運動である。感謝なるもの、即ち不足ではなく満たされたものの行であり、感謝なるものが為す行(ぎょう)が感謝行なのである。

 感謝なるものとは神なるものであり、自分なきものであり、完成なるもの、渾(すべ)ての渾てなるものの行なのである。

 「神は今に至るも働き給う」 という天のコトバが鳴りひびいている。

 「今」 に至って 「今」 であってはじめて神なのである。「今」 が神なのである。神は常に 「今」 なのである。過去、現在、未来超脱の 「今」 である。すべてのすべてなる 「今」 である。

 「今に至るも働き給う」 ということが何故、永遠に働き給うという意味に受けとれて来るのか、ということである。「今に至るも働き給う」 だけでは、それは現在までのことであって未来は保証出来ないのである。それは、「今」 が神であり、神が永遠久遠であることは直観によって知っているのである。それは現象を超えているということである。この 「今」 が 「久遠の今」 であればこそ、永遠にという意味を味わうことが出来るのである。

 現象の積み重ねだけでは、永遠に永遠ということは出来ないのである。経験することが出来るとすれば、それはすでにそこまでということになって了(しま)うのであって、永遠、久遠は時間のトータルではなく、「今」 が 「神」 が 「實在」 が久遠なのである。時間を超えていることが永遠、久遠なのである。「完成」 なるものが永遠、久遠なのである。「完成」 なるものは完全であるが故に、永遠、久遠を満足しているのである。

 それ故、 「生長の家人類光明化運動はいつ完成するのか」 という問いには、「生長の家人類光明化運動は今に至るも働き給う」 ということなのである。完成のためにではないのである。完成なるが故に、完全なるが故に、 「今」 なる久遠なるものが展開しているのが生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.13)

189復興G:2013/12/03(火) 10:18:19 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十七

 「今すべての病人は起つことが出来るのである」 ということと言い、「『生長の家』 を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ」 と言うことといい、これはすべて神癒についての 「神示」 であることをあらわしているのである。

 「神癒」 とは、神が癒しそのものであるということである。神が癒しそのものであり、甦りそのものなのである。 「吾れは甦りなり」 とのコトバは、神が癒しそのものであることの光明の鳴りひびきなのである。

 「遠隔の地にいて」 と仮に云うといえども、神には遠くも近くもないのである。すべてのすべてが神であり、神には距離はないのである。へだてそのものがないのである。目無堅間(めなしかつま)そのものであり給うからである。

 「神癒」 には、神と人間とのへだてはないのである。 「遠くにいて」 とは、遠くにいても遠くではないことのよろこばしさの表現なのである。「“遠く” そのものが無い事実を見よ」 ということなのである。ただただひとつなるもの、完成なるものの自己展開があるばかりなのである。「既に、吾れ全宇宙を癒し終りたり」 という事実が,久遠の昔より、神そのものとしてあるばかりなのである。

 「神癒」 とは、神が癒しそのものであり、神は渾(すべ)ての渾てなるが故に、天地一切のものはみずから神癒そのものであるということである。いたるところに神が、癒しそのもの、甦りそのものを観じ給うことを、「神が癒し給う」 と仮に言うのである。

 時空超脱の 「今」 には距離はないのである。その意味をもって、「今、起つことが出来る」 というコトバが発せられているのである。「遠くにいて」 ということは既にはじめより無いのである。

 この 「今」 なる 「ひとつ」 なるものの展開こそが、生長の家人類光明化運動の荘厳なのである。荘厳とは、中心帰一、ひとつなること、渾ての渾てなることそのことにほかならないのである。

 中心帰一なるものそのものの展開、運動が光明化運動なのである。

 すべてのもの悉くはみずから癒しそのものであり、甦りそのものであることを祝福し礼拝する一筋なのが、「今」 起った生長の家人類光明化運動なるものなのである。

 「神癒」 とはひとごとではなかったのである。今ここ吾れなる栄光そのものなるすがたであったのである。神癒はここに見よ、彼処(かしこ)に見よ、というようにはないのであった。今ここ吾れにしかないということであった。

 「神癒」 とは神そのものであり、自分はどこにも要らない、全くの零(ゼロ)なのである。この自分が全く要(い)らない、この自分の要らない度合いが奇蹟的である度合いであるのである。

 それ故 「奇蹟」 的なることは、中身が必ず感謝となるのである。自分は無く、「生かされている」 というよろこびの中身があるばかりなのである。感謝の度合いが奇蹟的なるものの度合いである。感謝そのものが奇蹟そのものなのである。

 しかしながら、神のみすべてのすべてであって、自分は全く要らない、ということは天地を貫き満ちている当たり前のことであり、それを奇蹟的なこととして、大さわぎしないのが生長の家なのである。(1998.11.14)

190復興G:2013/12/11(水) 07:19:47 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十八

 今朝の、神癒の社入龍宮幽斎殿における神想観実修の時に湧いたよろこびであったが、「無の門関」 とは一切を去るということである。「無し」 と宣言することである。「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無い」 とすることである。天照大御神も無く、住吉大御神もなく、塩椎大御神も無し。高天原も龍宮海も龍宮城も無し、如意宝珠もなし、欲するものも、好ましからざるものも無し。生長の家もなし、光明化運動も無し。現象も實相も無し。そして、その 「無し」 も無し。

  「ただだた光明遍照」

  「ただただ、そのまま」

  「ただただ生み出すもの」

  「ただただ創造(つく)り出すもの」

  「ただただ龍宮」

  「ただただ高天原」

  「ただただ中(みなか)」

  「ただただ大神」

 ただただ澄み切り、晴れ切りにましまして、渾ての渾てなるもの。ただただ 「吾が国は此の世の国に非ず」 とのキリストなるものの久遠のコトバ。「吾が国なるもの」 の、ただただよろこびの鳴りひびきである。ここに、最終的に、初元的に、完成的に、「ただただ生長の家人類光明化運動」 ということである。

 久しぶりに、十六歳の時に聖経 『甘露の法雨』 の中の

  キリストは又云い給えり、
  『吾が国は此の世の国にあらず』 と。

 のコトバにふれた時の、限りもない崇(たか)く崇く晴れて晴れて澄み渡った、未だに超えることの出来ない、あの荘厳なるものが内に甦るのを憶えたのである。

  『汝らの内』 にのみ神の国はあるなり。

 と示されている。「内」 にあるとは、まことの吾れの吾れなるものの 「生んだ」 ものとしてあるということであり、自分の自分なるものが創造したものとしてあるということである。

 神と神の国が 「汝らの内にのみあり」 とは、自分の自分なるものが生んだところの、神と神の国ということなのである。

 創造の本源世界すなわち龍宮は 「汝らの内にのみあり」 とは、自分の自分なるものが生んだところの龍宮ということなのである。

 天照大御神も住吉大御神も塩椎大御神も、自分の自分なるものの生んだところのこ存在にましますということであったのである。

  或る日天使(てんのつかい)生長の家に来りて歌い給う――

 というこの實相の世界の相(すがた)において、天使(てんのつかい)は自分の自分なるものの生んだところの、自分の自分なるものより生まれ出でたもうたところのこ存在にましますのである。

 斯くの如き想いが湧いた時、

  「さすが、吾が世嗣ぎよ!」

 との更に更に晴れ渡った、澄み切った、幽の幽なる祝福に包まれて、やっと自己の自己をとりもどした安堵感に満たされるのを憶えたのであり、それは懐かしい限りのものであった。

  「すべてを超えて、今此処に」

 というのが 「“無” の門関」 の意味するものであることを、心新たに想うのである。

 今朝は、雲一つない日本晴れである。幽斎殿で仰ぐ青空の崇さよ。限りもなく底深い崇さというものである。

 生長の家人類光明化運動なるものの裸のすがたの崇さというものをかい間見る想いである。(1998.11.15)

195復興G:2013/12/12(木) 16:52:49 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百三十九

 「神癒祈願」 の申し込みの内容をどう観るか。神は如何に観じ給うていられるであろうか。イエス・キリストは、病者を前にして 「この病は誰の罪の結果ならんか」 と問う弟子たちに向かって 「神の栄光あらわれんがためなり」 と言い切っておられるのである。

 神の栄光はいずくにあらわれるのであるか。イエス・キリストの中に神の栄光はあるのである。それが更に更に輝きあらわれんがために、その栄光を祝福し、礼拝せんがためにイエスの前に天降り、あらわれられた観世音菩薩すなわち尽十方無礙光如来がイエスの前に立つ人であったのである。更にイエスにとって、そのように問うている弟子たちをも含めてすべてイエスの内なる栄光を祝福せんがためにあらわれた、それこそ神の栄光そのものであったのである。ただただ、すべては、イエスの内なる愛なるものの光りが更に更に輝きあらわれんがためであったのである。

 如何なる姿をとって現れ、如何なる姿になって行くかは、み心のままであって、イエスはそこに輝いている、實在の實相なる中身だけを観じつづけられていたのである。それが全托の姿ともなってい給うたのである。

 「み心の天に成るが如く、地にも成らせ給え」 とイエスは祈り給うていたであろう。また、「わが意をなさんとにはあらず、み心のごとくならせ給え」 と祈り給うていたであろう。

 しかしながら、このお姿は、そこに既に成っている天なる栄光を観給い、自分は既になく、み心のみが渾(すべ)ての渾てであり給う上に立ってのお姿であり給うたのである。

 神なる栄光のみが渾ての渾てなのである。神の栄光のみ独在なのである。

 「この地上に、不幸、災難があるのは、誰れの罪によるのか」

 との問いに対しても、やはり、

 「誰の罪にも非ず、神の栄光あらわれんがためなり」

 と言い切っているのが、生長の家なのである。即ち聖経 『甘露の法雨』

  此の世界に犯されたる罪もなく
  報いらるべき罪もなきことを教えよ。

 となっているのであり、

  善のみ唯一の實在

 とうたわれているのである。(これは決して同慈同悲の自然な心を無視せよ、ということではないのである。同慈同悲の自然な心こそ観世音菩薩の観世音菩薩たる輝きなのであり、神の栄光そのものなのである)

 ここにおいて、神癒祈願申込者の名簿なるものは、観世音菩薩の名簿であり、尽十方無礙光如来の名簿であり、生長の家の大神の名簿であるということになっているのである。それはそのまま、神なる栄光そのものであるということになっているのであり、それを表現、祝福して、人型はただただ 『實相円満』 とだけ書かれているのである。そして、祈らせて頂くものの内なる神なる栄光が更に更に生長、展開せんがために、天降り給うた名簿であるということになっていると拝察させて頂けるということは何という光栄なることであろう。

 ただただ為すべきことは、神の栄光そのものなる 「實相円満」 をひたすら、一体となって讃え、悦ぶことにある、という想いがつよくなるのを憶(おぼ)えるのである。

 實相円満を観じ、憶念することが全托ということなのである。

 神は如何に観給うか。神はただただ神ご自身を観給うのみなのである。(1998.11.16)

196復興G:2013/12/14(土) 18:31:39 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十

 みずからにして、おのずからなるものとは、「現象無し」 と、捨てて捨てて、超えて超えて、死んで死んで、死に切って、はじめに帰って帰って、そして、その 「現象なし」 と捨てることも、超えることも、死に切ることも、はじめに帰ることも 「無し」 と超えて超えて超え切った 「無い」 と言えるすべてのすべてを 「無し」 として、神、仏、實相も 「無し」 として、その 「無し」 も 「無し」 としている、そこにそのままがあり、それがみずから、おのずからなのである。それが、實相なるもの、神なるもの、仏なるもの、創造するものなのである。

 そこにおのずからなる、みずからなる、そのままなる光明化運動なるものが久遠(くおん)を流れているのである。久遠なるものとしての生長の家人類光明化運動のすがたがそこにあるのである。

 みずから、おのずからなるものこそが創造であり、生長であり、唯一の善であり、価値なのである。自然(じねん)、法然(ほうねん)、天然(てんねん)なる光明化運動なるものの発進である。

 斯(か)くのごとき発進は久遠の発進なるものであり、「今」 なる発進なるものなのであり、すべてのすべてなる発進である。

 これは過去、現在、未来の流れの中の発進ではなく、「久遠」 なる、「今」 なる、「渾(すべ)ての渾て」 なる発進なのである。この渾ての渾てなるものが、みずからであり、おのずからなるものなのである。時空超脱の発進である。

 「発心(ほっしん)正しからざれば万行(ばんぎょう)空(むな)しく施す」 というよろこびの言葉はまことにも、みずから、おのずからなる発進、すべてのすべてなる発進の久遠なる実体がそこに鳴っている言葉なのである。

 五官の世界すなわち現象には、みずから、おのずからはないのである。それはすべて外より来たったものによって成り立っている、相対的にして、有限、局限なるものなのである。それは時間的にして、空間的なるものであるが故に、「久遠」 ではなく 「今」 ではなく、「渾ての渾て」 なるものでは有り得ないのであり、みずから、おのずからでは有り得ないのであり、そのままではないのである。

 みずからはおのずからなるが故に、相対を超えて 「在りて在る」 ものであるが故に、未だかつて崩れたることは無いのである。「今」 起った、みずから、おのずからそのものなる生長の家人類光明化運動なるもののまことのすがたがここにあるのである。

 「如意宝珠観(にょいほうじゅかん)」 に於いて 「欲(ほっ)するもの好ましきもの自(おのず)から集り来たり、欲せざるもの好ましからざるもの自(おのず)から去る」

 と観じ念ずる。この如意宝珠なるもののはたらきを称して、おのずからと言い、みずからと言うのである。おのずから、みずからがすべてのすべてであり、おのずから、みずからのみがあるのである。
 みずから、おのずからが神なのであり、天国なのであり、龍宮そのものなのである。

 去るも来るも、欲するも、欲しないも、好むも好まざるも、すべておのずから、みずからなのであり、神ばかり、光りばかり、善ばかりなのである。おのずから、みずからが、そのままであるから、「そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり、」 と 「『生長の家』 信徒行持要目」 には「そのまま」について解説されているのである。

 みずから、おのずから、そのままの、如意なる運動が生長の家人類光明化運動なのである。(1998.11.17)

197復興G:2013/12/16(月) 14:32:00 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十一

 何ごとのおわしますかは解らないのであるが、「吾れ今、神癒(しんゆ)の社(やしろ)、無の門関に坐して、癒(いや)しなる、甦(よみがえ)りなる大いなるものの中にいることを感ずる」 という安らかにして安らかなる想いの湧くのを憶(おぼ)ゆるのである。たしかに神秘なるあるものの中に、吾れもまた神秘なる存在(もの)としてあることを嬉しく想い、座を解いて書きつけざるを得ないのである。

 祈願の申込者と偕(とも)に、すべてのものと偕にその大いなるものの中にいる、ということも書きつけておきたくなるのである。これは私の大いなる発進の基なるものを成していることを想うのである。

 「吾れはまた全宇宙という社(やしろ)すなわち神癒なるもの、甦りなるものの中にいる」 ということも想えるのであり、不思議な想いであるが、宇宙すべてとひとつとなって大いなるものの中にいると同時に、宇宙をすべてのすべてとして、大いなるものとして、その中に自分が抱(いだ)かれていることも想えるのである。そして、「これでよい」 という安らかなるものに満たされているのである。

 「祈願申込書に書いてある祈りの内容はすべて私が摂取する。ただ實相の円満完全を祈れ」

 という声を内にたしかに聴いたのである。そして、申込者と一体である相(すがた)において龍宮海に入り、龍宮に坐して本来の實相(じっそう)の姿を観ずることが浄まるということだと拝察しているのである。それ故に、入龍宮幽斎殿における神想観では、次のように念ずるのである。

 「吾ら現象界の妄想悉(ことごと)く浄められて本来の如意自在(にょいじざい)の實相顕(あら)わる」

 “吾ら” となっていることは却ってこの場合、一体のいのちということをあらわしているのである。それ故、つづいては、一体であることにおいての今度は 「吾れ」 となっているのである。すなわち

 「わが全身如意宝珠(にょいほうじゅ)なり、一切の宝、吾が掌中(しょうちゅう)にあり」

 と。この吾れはすべてとひとつなる吾れなのである。

 入龍宮幽斎殿(にゅうりゅうぐう ゆうさいでん)は 「神癒の社(やしろ)」 となっているのである。これは 「社」 なるものが癒しそのものであるということなのである。社の中に入る、ということは、ここにおいては癒しの中に入ること、甦(よみがえ)りの中に入ることを意味しているのである。そして宇宙全体が神なる癒しの中にあると同時に、宇宙全体もまた癒しそのものであり、吾れを包んでいるのである。

 この意味において、「世界平和の祈り」 の中の、神の愛が 「全地上を覆(おお)い」 というその蔽(おお)い具合の中身の安らかさ、いうことを想わざるを得ないのである。

 また、 「伊勢神宮の神前(しんぜん)に於ける神想観」 の中の

 「畏(かしこ)くも宇宙の大神イザナギの命(みこと)筑紫(つくし)の日向(ひむか)の光明遍照の實相の世界にみそぎ祓(はら)いたまう。

 その宇宙浄化の御はたらき現われて住吉の大神となり給う。

 …………

 天照大御神われに流れ入り給いて、その愛の霊光燦然(れいこうさんぜん)として宇宙を照らしたまい、その光いよいよ輝きを増して全人類を引きつつみ、全地上既に愛と平和と地上天国を実現せり」

 という。これは結局、イザナギのミコトが全宇宙を蔽い給うていることをあらわしているのである。そのイザナギのミコトの御はたらきが 「神癒」 ということになっているのであった。

 宇宙の大神とは、宇宙が大神であり、大神が宇宙である。宇宙それ自体のみずから、おのずからなる、それがそれらしくある宇宙自体の甦りが、畏くも宇宙の大神イザナギのミコトの禊(みそ)ぎ祓(はら)いとして表現せられているのである。(1998.11.18)

198復興G:2013/12/25(水) 14:42:18 ID:AB6RqYXc

   『神癒の展開としての人類光明化運動』
     ― 「神癒の社 “無” の門関・入龍宮幽斎殿」 にての覚え書―
             榎 本 恵 吾 

         百四十二

 神癒とは、生命の實相の自性円満(そのままでえんまんなこと)を自覚した時に、あらわれるよろこばしき何かであるということである。自性円満なるもの(神=實相)はみずからあらわれるということなのであれば、神癒とは、内より神が癒しなるものがみずから、おのずからあらわれて実現するものであるということなのである。

 例えば、神癒祈願の申込みにおいても、申込みたくなること、そのことが既に内より神があらわれられ、神癒なるものがみずから、おのずからあらわれて申込書を書いているということになっているのである。

 はじめからある神そのものであればこそ、人型の 「實相円満」 という言葉があるのである。「實相円満」 がみずからあらわれて申込書となっているということなのである。

 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の 「信心よろこぶその人を如來とひとしと説き給う。大信心は佛性なり。佛性即ち如來なり」 という言葉は、このあたりのことを表現しているとも言えるであろう。神癒祈願の申込書を書いただけで病気が消えてしまって、お礼状だけが来るというようなことがあるのもまた、あるいはこのことの側面を教えているとも言えるのである。

 生長の家の人類光明化運動の出現は、宇宙的癒しの周期がめぐって来たことを意味していると言えるのである。宇宙の實相がみずから、おのずから顕れ給いて、生長の家人類光明化運動の出現となっているということである。

 ここにおいて、吾々は、二度三度、 「それを為し終ったのが生長の家だよ」 という声を聴くのであり、この 「為し終わり」 より発しているのが生長の家人類光明化運動なるものなのであることに、心を新たにしなければならないのである。

 そして 「こと完成せり」 「こと終われり」 の完全持続として、宇宙的自性円満の自己顕現のすがたとして、神癒なる光明化運動が實在していることを讃嘆し、拝みまつりたく 斯(か)く書かずにはいられないのである。

 斯く、繰り返し、繰り返し言いたくなるのは、生長の家人類光明化運動は神であり、實在そのものである、ということを讃嘆したい願いによるのである。

 生長の家人類光明化運動は實相そのものであって、實相と現象との中間あたりにあって實相を現象に持ち来たすための仲介の役目をする中有的な存在では決してあり得ないのである。

 神は暗(やみ)を知り給わず、悩みを知り給わないのである。それ故、神である生長の家人類光明化運動なるものは、暗を知らず、悩みを知らないのである。癒しそのものであり、甦(よみがえ)りそのものなのである。

 癒しと言えば、病悩を前提とした言葉のようであるが、 「神癒」 ということは、神である癒しなのであるから、この癒しとは、相対的なるものではなくして、神は絶対なるが如く 「神癒」 の癒なるものは、病悩に対する相対の癒しではなく、絶対の癒しそのものなのである。それはみずから、おのずからの新生そのものである、甦りというものなのである。

 それは、生長の家人類光明化運動と言えば、暗を光明化するという、相対の光明のように見えているままに、生長の家という言葉がついている以上は、神そのものであり、この光明も絶対の光明であり、相対の光明ではないということと同じように 「神癒」 もまた同じすがたなのである。(1998.11.19)

199「訊」:2014/12/17(水) 16:19:50 ID:???

『幸福をひらく鍵』55頁より謹写――

 都合が悪いときにも感謝できる者でないと本当に幸福な者になれないのである。誰でも順潮に事が運ぶような時には勇気が出るが、一つつまづくと勇気が無くなり勝(がち)である。順潮に事が運ばず困難が重なる時にも勇気を失わず、正念を失わず、前進する者が最後の勝者となるのである。
 「失敗」だと考える暇に、これが實相をあらわす「機会」だと考えよ。「病気」だと考える暇に、これが實相をあらわす「機会」だと考えよ。イエスはそのように教えたのである。即ち盲目の少年がイエスに近づいて来たときに「この少年が盲目にて生まれたのはこの少年の罪であるか、親の罪であるか」とたづねたときに、「本人の罪にもあらず、親の罪にも非ず、神の御業の顕れんがためである」とイエスは答えているのである。神の御業にて出来た世界が「實相」であるから、「神の御業の顕れんがため」とは「實相をあらわす好機会だ」という意味である。罪を見ないのがキリストの愛である。
 あなたの心の奥底ふかく湧き上がってくるところの願いは、既に「實相」に於て在るものが表現を求めて浮かび上がって来つつあるのである。だから、それは必ず実現すると信じて努力すれば必ず実現する。しかしその願いが実現した場合、他の人が不幸になったり、損害を受けたり、他の人への愛に背くような願いは、「我」の願いであって「實相」の底深く既に在るものではないのである。このような我の願いは必ずしも実現するものではない。

200「訊」:2014/12/17(水) 16:20:44 ID:???


『生命の實相』第三十八巻・8月23日頁より謹写――

 不満足さえも、またまことにありがたいことではある。不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、救われることができたのである。不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。
 
 陰極陽転の理は昭々として明らかである。資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。不足は増大の本である。窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。 


『人類無罪宣言』133頁より謹写――

罪を解放する道

 罪がなぜその姿を現象界の不幸として、具象化して現わすかといいますと、罪それ自身がその存在を主張するためではないのであります。罪とは「実相を包みて顕わさざるもの」でありますから、理解の便宜上「包み」という字を当てはめて考えてください。「包み」が形にあらわしているのは、「包み」を開いて中の進物(実相)をただ「ありがとう」と受け取ってもらうためであって、「包み」そのもの「包装」そのものに執着してもらうためではありません。(中略)罪が形を顕わすのは、罪自身が自壊するためである。「包み」が形を顕わすのは「包み」自身がその結びのほどかれんがためである。病状が形をあらわすのは病自身が治らんためである。足が痺(しび)れたと気づく不快感は、足の痺れの治ろうとする時起こる――そのように罪が現象界に不幸としてその姿をあらわすのは罪それ自身が存在を主張するためではなく、「神の創造り給いし実相のあらわれんためである」といいうるのであります。
 
 以上の叙述で解明されましたごとく、「罪」が現実的不幸として客観化して現れるのは、罪自身がその存在権を主張するのではなく、神のみ業――すなわち神の創造り給いし完全なる実相のあらわれんためであるとしますと、「悔改める」すなわち心が「実相の方」へ完全に転回(コンヴァージョン)してしまいますと、さらに換言すれば「われ神の子なる実相」と「神の創造り給える実相浄土」とを直接体験で把握してしまいますと、罪はそのまま超越されてしまいまして、「包み」の模様はもう問題とならない。「包み」はその模様などに頓着なく解かれて捨てられてしまうのであります。

201「訊」 1:2014/12/18(木) 10:39:35 ID:???


『常楽への道』(吉田國太郎先生著)185頁より謹写――

◆ 幼な児のこころ

 生長の家では何でも思う通りになると申します。思う通りになると云われたら、『ハイそうですか思う通りになるのですか、有難うございます』、と受けたらそれでよいのです。それを、ただ思うだけでよいのだろうか、などと余計な分別の心をさしはさむ、これだけの一寸した気持の相違が、実は本当に思う通りになるか、ならないかの天と地の岐(わか)れ路になってまいるのであります。

202「訊」 2:2014/12/18(木) 10:41:04 ID:???

 ある日、福田さんが何でも思う通りになると云う話をしておりますと集りの中にいた、村田宗一さんと云われます方が、『先生思うだけでよいのですか、思う位ならば私にだって思える』と云うのだそうです。『本当に思うだけでよいのですね。思う位ならば、皆さん、それ位出来るではありませんか。自分は神の子必ず幸福になる、それだけでよいのですね。これ位ならば出來るじゃありませんか。さあ皆さん思いましょうよ』と申したそうです。(笑声)実際涙が出るほど、澄み切った素直さだと思うのです。先程導かれる者として及第することだけが大切だと申しましたが、これは完全にそこが及第しております。重味があります。その村上さんは永い間の風邪なのですが思えばよいと云われた通り、風邪は無いと思っていたら、そういう意味のことを思っていたら、その風邪が治ってしまったのです。御教を受けさえすればそこに結果がちゃんと現れる。だから力を入れずに、努力もせずに、本当に七つの灯台の点灯者の御言葉の開かれている、その中へすっと私達は入って行ったら、力を入れず努力もせず自分がすっかり変わってしまう。生長の家はそう云う救いであります。自力で励んで苦しみもだえて、やっと救われる救いではない。こちらの力の要らない救いであります。ここが生長の家の真面目であります。その辺には塩田が多く、村上さんは、塩浜の浜子と云う仕事をして居られた。浜子と云うのはどんな仕事か存じませんが、農村の小作人か、あるいは使用人の様な立場に当られるのかと思います。ある日、この村上さんが奥さんの代りに八百屋さんへ買物に行きますと、店頭に松茸がならべられてある。如何にもその松茸が美味しそうなので買って帰りたいと思われたのですが、値段が如何にも高い。これは駄目だと断念して帰られたのですが、その時、思う通りになると云う生長の家の話を思い出されて、松茸は食べられる松茸は食べられると思っていたそうです。何でも無いことですが素直にすーっとそのまま行じた処が尊いと思います。つまり御教の中に融(と)けこんだのですね。するとその翌々日とか翌々々日とか云いましたが、久しぶりに訪ねて来た友人がこれはお土産だと云って放り出したものを開けてみると、それが松茸なのです。やはり思う通りになったのです。それから思う通りになることがぼつぼつ出て来る。あまり有難いので鎮守さまにもお礼詣りに行ったのです。もう霜の来る頃の事でして、鎮守様の鳥居の前に一本の柿の木があって、真赤にすき透る程に熟した一箇の柿が梢についていて、実に美味そうな色をしている。それをみた時に、あれを食べたいなあと思われたそうです。しかし落したらべしゃんこにつぶれてしまうしと思って参詣を済ませて帰って来て、柿を仰いだ時に、又食べたいなあと思ったそうです。

203「訊」 3(終):2014/12/18(木) 10:41:48 ID:???

 しかし手がとどかない。落とせばつぶれてしまう。これは少々無理な願だと思って帰りかけたのですが、その時、そうそう思う通りになるのだったと思い出して、その柿を眺めながら、これは食べられるのだと思われたそうです。その状景を思い、柿の木の下でこの柿は食べられるのだと、素直に念じている村上さんの姿に何とも云えない尊い光がみえる様な気がするのであります。こういうことを馬鹿馬鹿しいとか、薄ッぺらだなどと思わないことです。そんなこと余り馬鹿馬鹿しいとか、お伽噺じみているとかそんな風に思う心が自分を殺してしまうのであります。村上さんはそんな風には思わなかった。そこが偉いところです。食べられるのだと思い、思う通りになると思って、四五歩歩いていきますと、その柿の木の下にせまい溝があってそこを綺麗な水がさらさらと流れているのですが、素直にいまのように思って四五歩歩いた時に後でバシャッと音がした。ひょっと振返っていたら、その熟柿が水の中へ落ちて(笑声)水の中を流れている。それを拾いあげた。その時に村上さんの心に何でも思う通りになると云う心がサーッと入って来て、強い強い信念となったのであります。そして今迄にない信念のこもった心で、力強く何でも思う通りになるぞと思ったのです。思う通りになるのだと云われたら、そんな気がしてもしなくても、思う通りになるのだと、一応乗って行ってみたらちゃんとこうした信念に入ったのです。素直な心根に神のはからいが自然と与えられて、こうなってきたのであります。その時村上さんはようし何でも思う通りになるのだ、俺はいつ迄も浜子ではいない、必ず浜親方になるのだと信念を固めたのであります。そして自分の信じた通り遂にこの村上さんは浜親方になりまして、西伯方村北浦の二番浜と云う浜を自分のものとしたのであります。ところが二番浜という浜は今まで扱った人が誰も成績をあげたことがない。しかし、俺はこの浜でも必ずよい成績をあげる、欠損などはしない、と云う信念で通しました処が、今まで三番塩も取れないようなところから一番塩ばかりが採れるようになった、と云うのであります。本当にこの世界は心ばかりが生きている世界で物質と云うものは無い世界であって心の内容通り、その通りに現われてくるのであります。

 この体験談でも証明されているように御教の中へすーっと自分を入れて行く、後は神が好いようにして下さいます。

<了>

211「訊」:2014/12/18(木) 14:37:55 ID:???

 思わしくないのは貴殿のメンタルであって、私の方はなんともございません。ですんで、

>>>4年経っても神がよくしてくれない人は単なる能書きマンの証明して
るのでしょうか?<<<

 とは、意味がわかりませんね。

 以上です。

 あとこちらは「WEB誌友会用の資料」を、確認するための場所です。痴呆症である点を考慮し「後日の削除要請」と致しましょう。

 それでは、がんばってください。

221神の子さん:2014/12/19(金) 19:22:57 ID:BSasglMk
web誌友会参考文献板 と云うんだよねここは 昨日は専用版に嵐に入るし、今日は此処だ

やはり名の通り どこかしこ関係なく鬱憤晴らす、「本流派」スポンサー トンチンカン あらし

またまた嘘つきトキ&訊けが喜んでいるよ

227トンチンカン:2014/12/19(金) 19:38:34 ID:r6TJQSCM

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221 :神の子さん :2014/12/19(金) 19:22:57 ID:BSasglMkweb

誌友会参考文献板 と云うんだよねここは 昨日は専用版に嵐に入るし、今日は此処だ
やはり名の通り どこかしこ関係なく鬱憤晴らす、「本流派」スポンサー トンチンカン
 あらし
またまた嘘つきトキ&訊けが喜んでいるよ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・「どこかしこ関係なく鬱憤晴らしている」のは、<曳馬野お爺さん>の方ですよ!!


・八方破れの <八つ当たり> なのですよね、、、 マサノブ爺さん・・・

228トンチンカン:2014/12/19(金) 19:44:20 ID:r6TJQSCM

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『総裁追放』というコトバに ピリピリ している、マサノブ爺さん・・
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・講習会の「受講者数」の、減少に次ぐ減少・・


・マサノブ爺さんを非難する「外部組織」の、急激な拡大・・


・「教団組織」から「外部組織」への、「信徒達の流出」が止まらないばかりか、尚一層
 加速してきたのであります・・


・マサノブ爺さんに迫り来る『総裁追放』の声を、今までのように <無視> 出来なく
 なってきたのであります。


・独裁者としての強がりを演じてはおりますが、「小心者のマサノブ爺さん」にとっては、
 内心 ビクビク しているのです、、、 居ても立ってもおられないのであります。


・「人間智」の限界に来ているのであります・・・




(参考) web誌友会参考文献板
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213 :神の子さん :2014/12/19(金) 18:42:43 ID:pF4uezM2

只今 訊けさん推薦で広報活動に参っています 耳触りのいい話で釣っておいて 実はこ
こだけの話ですが 版が荒れ 教団と本流両方にダメージを与えて 漁夫の利を狙ってい
るのよ 私たち嘘つきトキ&訊けは

この最後のところは 雅宣総裁が承知で、訊けとして出てきているか、知らないとすれば、
総裁追放を狙いその後の教団でおいしい目を見ようとする奸臣でしょう。訊けのすること
を100%肯定するトキの態度が解せない
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

229るん吉:2014/12/20(土) 07:38:16 ID:p..UGkhA
復興G様

何と膨大な量の御文章!!こんな大変な作業をして下さって
ホントにほんとに有難うございます。
保存させて頂きました。外に出たときでも、いつでも見れるように印刷しておきます。

有難うございます。大事にします!!

230るん吉:2014/12/20(土) 08:27:40 ID:p..UGkhA
訊けさん

読ませて頂きました。
また、お邪魔しますね。ブログ。そいで、また保存させてもらおうっと。
有難うございまーす。

231「訊」:2014/12/20(土) 08:53:20 ID:???

>>るん吉

 作戦成功です。るん吉みたいな人が現れてくれるのが、私の目的でした。復興Gさまの御文章が過去送りではもったいなかったので、曳馬野サマにご協力頂いたのです。(曳馬野サマは私が書くとドンドン、そのスレを上げてくださる有難い方です)

 素晴らしい御文章ですんで、一緒に読みましょうね。また、ご協力頂いた曳馬野サマには、深甚なる謝意を表し挨拶とさせて頂きます。




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