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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
438
:
愚鈍凡夫
:2005/01/18(火) 11:24
>>431
:に彰往考来さんが紹介下さった日蝕について、参考までに「吾妻鑑」と照合してみます。
ユリウス暦-------------------グレゴリオ暦-----旧 暦
1223(貞応2)年9月26日--------10月3日--------9月1日
1227(嘉禄3)年7月15日--7月22日--------6月1日
1237(嘉禎3)年12月19日--------12月26日--------12月1日
1245(寛元3)年7月25日---------8月1日--------7月1日
1252(建長4)年3月11日---------3月18日--------2月1日
1265(文永2)年1月19日---------1月26日--------1月1日
吾妻鑑の記述
貞応2年9月1日 庚子 今暁甚雨、日中に及び晴天
未の二刻日蝕、正現す。三分蝕と。
嘉禄3年6月1日 戊申 霽
日蝕正現す(四分)。
嘉禎3年12月1日 戊寅 雨降る
日蝕正現せず。昨日天晴、夜半以後陰雲、丑寅の刻より雨降る。蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立せらる。主計の頭これを奉行す。
寛元3年7月1日 癸巳 天霽
日蝕現ず。
建長4年2月1日 乙卯 天晴
巳の一点日三分正現す。
文永2年1月1日 辛未
日蝕なり。然れども去る夜より雨降り、蝕見えず。仍って御所を裹むに及ばず。椀飯(左典厩御沙汰)を行わる。但し御簾を垂れ出御無し(土御門大納言催すに依って、構え参らるると雖も、用意ばかりなり)。御劔役人は越後の守實時、御調度は越前の前司時廣、御行騰沓は秋田城の介泰盛。
一の御馬 陸奥の十郎忠時 工藤次郎左衛門の尉
二の御馬 越後の四郎顕時 武藤三郎兵衛の尉
三の御馬 城六郎兵衛の尉顕盛 同九郎長景
四の御馬 筑前四郎左衛門の尉行佐 同五郎左衛門の尉行重
五の御馬 相模の七郎宗頼 工藤三郎左衛門の尉
「吾妻鏡目次」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html
439
:
彰往考来
:2005/01/18(火) 12:19
>438
愚鈍凡夫さん、
ありがとうございました。『吾妻鏡』は」ネットで見られるのですね。
参考になりました。
440
:
彰往考来
:2005/01/18(火) 12:32
>434,436,437
顕正居士さん、犀角独歩さん、
ご教示ありがとうございます。前々から疑問に思っていた点でした。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
>434
犀角独歩さん
ご賛同いただきありがとうございます。
442
:
犀角独歩
:2005/01/18(火) 18:02
再度、顕正居士さん:
先のわたしのレス(437)は、特に二処三会と曼荼羅図示相伝の関係にのみに拘泥し、肝心要のご教示につき触れませんでした。この点をまずお詫び申し上げます。さて、
> 如意輪、不動、愛染の三尊
> 妙法曼荼羅の意趣は顕教(教相)と密教(観心)との二重構造
とは、途方もない慧眼であると拝しました。
容易く莠言を吐くわけには参りません。
熟考し、改めて、ご返信申し上げる所存でございますが、いまのところ、いつのことになるか、年末になるか、若しくは10年先になるか、申し上げることはできません。
実に深いご教示を賜りましたことを謹んで、深く御礼申し上げるばかりでございます。
一つの謎を解くご指南を賜ったことと衷心より嬉しく感じております。
有り難うございました。
443
:
愚鈍凡夫
:2005/01/18(火) 19:38
彰往考来さん、どうもです。
「吾妻鏡」で、こんなサイトもありますので紹介しておきます。
「吾妻鏡本文データ」
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/genpon/azumatop.htm
444
:
彰往考来
:2005/01/19(水) 08:18
>443
愚鈍凡夫さん、
ご紹介ありがとうございました。こちらの
データベースは充実していますね。原文
の雰囲気がよくでていて、よくぞここまで
と思いました。人物画像もおもしろかった
です。
445
:
ケン
:2005/01/21(金) 19:06
>421 彰往考来さん
いきなりで失礼します。
斉藤氏の『星の古記録』には「竜ノ口の法難」の際の光物や
「依智の星下り」に対する天文学者としての解釈なども書かれていますとのこと
ですが、どのように書かれているのか、簡単に教えていただくことは
できませんか。
なお、斉藤国治『星の古記録』(岩波新書)は、絶版とのことです。
また、本日、神保町の山陽堂(岩波ビル2F)に寄って、探して
もらいましたが、今は見あたらないということでした。
山陽堂のご主人は、「気をつけて探しておくので、しばらくしたら
寄ってみてください。」と言ってくれましたが、ないとなると、
内容が気になるものですから。宜しくお願いします。
446
:
ケン
:2005/01/22(土) 14:48
>445
彰往考来さん
斉藤国治『星の古記録』(岩波新書)は、区立図書館から借りました。
お騒がせしました。
447
:
祝8郎
:2005/01/23(日) 14:33
彫刻本尊は大石寺では日蓮直筆と主張しているのですよね。
しかもそれは「本門戒壇の本尊」である、と。
もしそうであるならば、真筆の立正安国論や観心本尊抄などの国宝よりも価値があることになりますね。
この掲示板は大石寺の僧や信徒、顕正会の人も見ているとのことなので、彼らは国宝認定の請願運動をすぐにでも起こしていいのではないでしょうか。
なぜそういったことをしないのでしょうか。不思議です。
これは犀角独歩さんの御説の反対するということではなく、大石寺僧俗が彫刻本尊を本物だと言うのであれば考えて当然のことではないか、という疑問です。
448
:
祝8郎
:2005/01/23(日) 14:52
すみません、447はスレッドをまちがえました。
449
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 15:44
>446
ケンさん、始めまして。
図書館で借りられたとのこと。了解です。なお、
『星の古記録』は追記があるので2刷以後がよい
です。
450
:
ケン
:2005/01/23(日) 16:20
>449
彰往考来さん
恐縮です。
区立図書館で借りた本は、「第1刷」でした。
「日蓮上人と星」の部分(109〜113頁)
にも、追記があるのでしょうか。
451
:
犀角独歩
:2005/01/23(日) 16:38
なんだか、どうでもいいですが、竜口法難の光り物をまさか事実であると思っての議論じゃないですよね、まさか。
452
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 16:59
>
ケンさんへ、
2刷以後の追記は「第一章 星月に入る−星食」の最後の頁(3刷では28頁)にあります。
その箇所を以下に引用します。「日蓮上人と星」の部分には追記はありません。
〔第二刷に際しての追記〕一版の時には前述の問題の回答が出せなかったが、その後キメこまかい検証をおこなったところ、確かな回答が得られた。それは永仁六年十二月十二日(ユリウス暦で一二九九年一月一五日)の夜半すぎに、火星が月の南縁の外○・三八度の距離に迫って「犯」がおきているとわかったことである。
この月火の犯は中国の『元史』「天文志」にも
成宗の大徳二年十二月乙丑(十二日、一二九九年一月一五日)、大陰●惑(●字は螢の虫のところが火)を犯す
とある。中国の官廷天文官は日本のお寺の童子のいう「月と星の相撲」を同夜に観察し、記録していたのである。このことの詳細は筆者の別著『古天文学の道』(一九九○)の一三七頁を見られたい。
以上です。なお、この計算結果により得られた「坊主御返事」の永仁六年という年次は『日興上人全集』(平成8年、興風談所)の156頁の頭注に記載されています。
今回の問題とは直接関係ありませんが、日興門流と関係する記事なので追記を指摘させていただいた次第です。
453
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/01/23(日) 18:36
竜口法難については、以下の顕正居士さんのご賢察がありました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/r430
まあ、この件も、ずいぶんと議論しあってきた話の一つとなりました。
やや余談ですが、それでも、斬首が行われそうになったことは事実で、このとき、蓮師はそれまでの自分は死んだのだという宗教的な自覚をもたれのであろうと拝察いたします。また、蓮師は頸を斬られたと思った人々もあった。そこに佐渡から手紙が届いて、幽霊から来たのかと恐ろしがった人もあった…、などという当時の模様が『開目抄』から窺えます。
「日蓮といいし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして、有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず。みん人いかにおじずらむ」
と記されるところは、そのような意味だと、わたしは読んだのですが、これは違っていますか。
また、学会を含む石山教学では、この宗教的な体験を本仏日蓮が凡夫身を発て本仏身を開顕したとして発迹顕本に充てます。しかし、『三沢鈔』には
「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」
とあります。発迹顕本、ならば、五重義でいえば本迹相待。しかし「爾前」とくれば、権実相待ということになり、さらに凡夫・仏身ではなく、「法門の事」の範疇です。
(『三沢鈔』、新訂などでは「日興写本」。『平成新修日蓮聖人遺文集』不掲載。
三沢鈔(三沢第二書)建治四年二月。五十七歳作。真蹟在京都妙覚寺。内一九ノ二〇。遺二四ノ三四。縮一七〇二。類五七八。としながら、写本扱)
454
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 20:07
>451
犀角独歩さん、
そうです、そのまさかです。(ワハハ、冗談!)
『星の古記録』には「龍の口の法難」の際の光物について天文学者の広瀬秀雄氏の研究を紹介し、氏の研究ではこのときおひつじ・おうし座流星群の一流星が出現したとしています。
また『星の古記録』では「依智の星下り」の際の「明星のごとき大星」について宵の明星、すなわち金星とし、このとき計算では日没後の西天に光度マイナス三・五等の金星が輝いていたはずであると記しています。
かかる故事が事実を伝えているかは別にして天文学者のアプローチは興味深いものがあります。「いずれにせよ日蓮にかかわる星の記事はそれぞれ事実の裏付けがあるようにみえる(113頁)」と指摘されています。
参考までに「龍の口の法難」の際の光物についての広瀬秀雄氏の研究は、「日蓮上人〝龍の口〟法難の時の天変について」と題して昭和29年の『天文と気象6月号』(地人書館、13頁)に掲載されています。
>453
難しいことはよくわかりませんが、犀角独歩さんがおっしゃているようなことが現実であったろうと思います。
455
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 20:10
自己レスです。
北林氏は『日蓮と最蓮房』第17章で「十一通御書」を取り上げ、「偽書だと言っている学者がいる(中略)偽書であると言う者が、後世に出ないために、しっかりと論破しておく必要がある」と述べています。一読して内容のないのに驚きました。開いた口が塞がらないとはこのことです。論破しておくといいながら偽書説の内容に触れるわけでもなく当然ながら論破のロの字も出てきません。自分の都合のよい字句を並べ立てただけの全く情けない文章だと思います。『日蓮と最蓮房』がインターネットで公開されているので、僭越ながら私の考えをインターネットの掲示板で述べたいと思います。
北林氏は『貞観政要』の引用が「北条時宗への御状」や「平左衛門尉頼綱への御状」に出てくることや、「北条時宗の御状」の中に、「暗中の錦衣」とあり、「強仁状御返事」に「暗中に錦」とあることから「十一通御書」が偽書ではないとしています。しかしこれは全く可笑しな論法です。『貞観政要』の引用が同じグループである「十一通御書」の「北条時宗への御状」や「平左衛門尉頼綱への御状」に出てくることは著者が同一人物である傍証にすぎませんし、類似の言葉が他の御書に出てくるから偽書ではないとはよく言えたものです。私が「暗中の錦衣」という言葉を使って偽書を作成したら北林氏は真蹟と思うのでしょうか? 偽作者は当然日蓮大聖人の御書に通じているはずで類似表現があったからといって真蹟である証明にはならないのです。『三大秘法抄なぜ真作か』のようにコンピュータを使って計量文献学として研究したのであれば話は別ですが今回のケースはたった一つの言葉を取り上げた単なる思いつきにすぎないものです。
私が目を疑ったのは、「大仏殿別当への御状」にある蒙古牒状の捉え方です。北林氏は「至元三年丙寅正月日と「大仏殿別当への御状」にあるが、東大寺の記録では八月であるから「八月」を「正月」と記載して間違っていることにより、東大寺に残されているような牒状そのものを引用して作出したものでないことがわかる(要旨)」としています。また北林氏は「中国の至元三年は文永三年にあたり、間違いなく丙寅だ」としてあたかもこれらが真蹟で有る証拠であるかの書きぶりです。彼がなぜ“間違いなく丙寅”と騒いでいるのか理解できませんが、恐らくは偽文書に干支の誤りが多いことによるのでしょう。しかしながらただ干支が合っているからといって真蹟である証明にはなりません。そんな単純なものではないのです。何より北林氏のいう“東大寺に残されている牒状”とは、宗性(しゅうしょう)という学僧が書いた『調伏異朝怨敵抄』という書物に収まっている写しであって実物ではないのです。まして川添昭二氏の『日蓮と蒙古襲来』50頁に掲載されている写真で明かなように牒状には至元三年八月日とあって干支の記載がないのです。北林氏には「しっかり目を開いて資料の写真を見なさい!」と言いたいですね。「大仏殿別当への御状」に干支の記載があるのは北林氏の主張とは逆に「十一通御書」が後世のものである疑いが発生します。もちろん『調伏異朝怨敵抄』とは別の異本があった可能性も否定できませんが。
456
:
彰往考来
:2005/01/23(日) 20:11
455の続きです。
浅井要麟氏は「十一通御書の研究」(『日蓮聖人教學の研究』354頁に集録)で種々の観点から疑問を投げかけておられます。これは「十一通御書」の真偽を議論する上で避けて通れない論文です。浅井氏は上記の正月についても、他の資料には後の正月(閏月)とあり「十一通御書」が閏正月でないのを疑問視しています。また「十一通御書」が最初に出てくる文献は『註畫讃』ですが脚色が多いので信用できないことや、『本満寺御書』に集録された経緯などを考察されています。北林氏は『本満寺御書』を『本満寺録外御書』と表現していますが、現行の録外二十五巻二百五十九通では「十一通御書」が除かれている(各種の録外御書を綜合統一する際に重複を避け偽筆の疑いのあるものを除いた)ことを彼はご存知ないようです。北林氏は『日蓮と最蓮房』第20章で「種種御振舞御書」に関して小川泰堂氏を批判されていますが、録外で除外されていた「十一通御書」を再び高祖遺文録に載録したのはほかならぬ小川泰堂氏なのですよ。そのためその後の縮刷遺文や類纂遺文録等に載録されているのです。(『日蓮聖人教學の研究』359頁参照)縮刷遺文にあるためでしょうか創価学会版御書全集や昭和定本にも載録されています。創価学会版御書全集の係年は縮刷遺文とほとんど同じですから関連しているといっても過言ではないでしょう。
北林氏が「偽書だと言っている学者がいる(中略)偽書であると言う者が、後世に出ないために、しっかりと論破しておく必要がある」というのであれば、少なくとも「十一通御書の研究」で指摘された事項をきちんと論破してから自論を展開しなさいと最後に申し上げておきます。それとも尻尾を巻いて逃げ去りますか?
by 彰往考来
<参考資料>
浅井要麟『日蓮聖人教學の研究』(昭和44年(第2刷、初版は昭和20年)、平楽寺書店)
川添昭二『日蓮と蒙古襲来』(昭和59年、清水書院)
『續群書類従 第九輯上 傳部(日蓮聖人註畫讃)』(昭和56年訂正3版、続群書類従完成会)
伊藤瑞叡『なぜいま三大秘法抄か』(平成9年、降文館)
伊藤瑞叡『三大秘法抄なぜ真作か』(平成9年、降文館)
加藤文雅編『霊艮閣版 日蓮聖人御遺文 縮冊御遺文』(昭和42年重刻新版、山喜房佛書林)
堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』(昭和46年67刷(初版昭和27年)、創価学会)
立正大學日蓮教學研究所編『昭和定本 日蓮聖人遺文 第一巻』(昭和63年改定増補版、身延山久遠寺)
457
:
犀角独歩
:2005/01/23(日) 22:52
454 彰往考来さん、そうでしたか(笑)
でも、まあ、たしかに名無し@富士門流さんも仰っていましたが、日蓮信仰を支えている物語の一つですね。わたしも感動したくちです。
455、456のご論功、たいへんに参考になりました。
ただし、本論からずれますが、伊藤瑞叡師の研究、わたしは山上師のほうに軍配を揚げます。
458
:
犀角独歩
:2005/01/23(日) 23:02
自己レスです。
以前のわたしのHPに転載していた文章です。
*** 以下、転載 ***
2001年8月、横浜で開催された、正信会による日蓮聖人の世界展において入手した同会の『これからの御書』というパンフレットに興味深い記述があったので、資料として、ここに転載した。
このコンピュータシステムのことはさておくが、このなかに記された『「三大秘法抄」の真偽』という山上師なる方の文章は石山系においては画期的なものであると感じる。
『三大秘法抄の真偽』正信会・山上師
「三大秘法抄」の真偽問題は、古来ずいぶん甲論乙駁されてきたが、山川智応氏が、文章表現に若干の違和感を示しつつも真撰御書と断定して以来、あまり議論がなされなくなった。しかし近時、伊藤瑞叡氏等がコンピューターによる使用語句等の分析を試み、その結果真撰説を支持し、新聞でも何度か報道され話題となった。御書の真偽判定は、いろいろな角度からなされるべきであり、コンピューターによる分析が試みられたこと自体評価されてしかるべきであろう。だがその分析方法が妥当であるか否かは慎重に検討されなければならない。伊藤氏等がおこなった方法は、諸御書の文体や言語の特徴を抽出分析し、「三大秘法抄」にその特徴が出ているか否かを判定するというものである。しかし、もとより偽書はそれらしく作られるのであるから、あまり妥当な方法とはいえないであろう。
そこでここでは、御書システムを使った「三大秘法抄」に関する一つの分析成果を提示して、真偽論の進展に供したいと思う。御書システムにはすべての御書を対象に10段階に種別されている。R0=真蹟完存からR5=上代諸師写本現存までが、一往信頼度の高い基準となるべき御書。R6は上記の御書と下記R7〜R9を除くすべての御書。ここには真偽未決御書が多く含まれている。R7〜R9は相伝書や偽書など聖人の筆とは認められないものである。
さてそこで、「三大秘法抄」に使われる言葉で、若干特徴的な仏教用語「無作三身」と「一身即三身」を使用している御書を検索すると、興味深い分析結果が得られた。すなわちこれらの仏教用語は、意外にも信頼度の高いR5までの御書には一度も使われず、R6の、中でも真偽未決御書である「当体義抄」「一念三千法門」「授職潅頂口伝抄」「十八円満抄」、さらにR9の「成仏法華肝心口伝身造鈔」「万法一如抄」「無作三身口伝抄」と、いずれも疑義濃厚な御書に使われているのである。この分析結果からは、「三大秘法抄」を真撰とするには少なからず疑問があるといわざるをえない。
この他にも、これほど決定的でなくとも、いくつかの特徴的な文言を抽出し、細かな分析をすればぱより確かな結果を得ることができるであろう。勿論この結果がすべてを決するというわけではない。思想的な面から来歴の問題等、いろいろな角度から再度研究される必要があろう。しかし御書システムによる分析結果は、今後「三大秘法抄」の真偽を論ずる上で、少なからず問題提起となることだけは確かであろう。(山上)
(『これからの御書』データベース型御書システム 11頁より転載)
459
:
彰往考来
:2005/01/24(月) 07:34
>457,458
犀角独歩さん、
ご教示ありがとうございました。山上氏の研究は説得力がありますね。
長年の疑問がひとつ氷解した思いでした。
重ねて御礼申し上げます。
460
:
犀角独歩
:2005/01/25(火) 13:17
日蓮聖人の三光天子物語、彰往考来さんのご紹介を拝読しながら考えたのですが、この成立、案外、顛末が逆かもしれませんね。
天文学者が指摘したり、また、古記録にでてくる天文気象上の事実がまずあり、それにあやかって物語が成立したという順番です。そうなれば、古記録、天文学的計算や、事実から導き出されることと一致するのは当然のこととなります。
関連しますが、たぶん、日蝕、月蝕を予言した支配者階級は、あたかも自分の祈りによって天変が生じたように、その時期に合わせて巧みに物語を紡ぎ、自分自身に関連させ、人々を恐怖と畏敬の念でひれ伏させ、支配を可能にしたのでしょう。
461
:
彰往考来
:2005/01/25(火) 18:06
>460
犀角独歩さん、
う〜ん、どうでしょうか。日蝕、月蝕あたりはそのようなことはあるかもしれません。
ただ、日蝕に関して卑弥呼は日蝕発生のため威厳がなくなり殺されたという説もあります。
金星(明星)の最大光輝では、あとからとってつけたような話を作るのはむずかしいでしょうね。
でもまあ、視点としては面白いですね。とても私に発想できる内容ではありません。
462
:
犀角独歩
:2005/01/25(火) 21:40:28
先だって、日蓮宗大本山の「御前様」と話していたのですが、「龍口法難の光り物…、事実じゃないでしょう。ああいった語り物語を、いまで言う講壇調に語られて、それが幾重にも伝説になって、物語になって、人々を感動させ、いつしか、聖人の御遺文のように編纂されたのでしょうねぇ。しかし、そうした聖人への恭敬の念は、信仰の糧となってきたのは事実でしょう」と語っておりましたね。
なかなか、冷静な遺文への姿勢、けれど、その伝承が紡いだ信仰心と、見事に整合性が取られた聞くに穏やかな感動を懐いた一幕でした。
たしかに卑弥呼が日蝕で殺されたとしても、それは日蝕が、そのような扱われてきた経緯があったればこそでしょうね。
わたしの棲む近くに「洗足池」という池があります。蓮師入滅の池上は、その池の上という意味であろうと思います。蓮師が、池上邸に向かう途中、この池で足を洗われたことに名が由来するといいます。辺の袈裟掛けの松が名所にもなっています。
この伝承、しかし、弘法大師信仰でも同じことが言われているのを知り、いささか驚いたことがあります。
まあ、伝承、伝説、物語、ここで常に意識しなければならないのは「肖り」ということでしょうね。いつも彰往考来さんのご論攷を拝見していると、「真面目一本にお考えだな」と(笑)
感見記の「日[虫*虫]」が日蝕か否か。龍口光物なんかから離れますが、蓮師が生身の虚空蔵菩薩から智慧の珠を授かった求聞持法という秘法は、秘薬として、水銀を使うわけですね。丹と関連の深い空海も然り、水俣病、あるいは奈良大仏造立鍍金でも知られますが、水銀は中毒症状を引き起こしますね。後付物語と言うより、蓮師は薬物中毒、若しくはその後遺症のなかで、種々の奇瑞を「見ていた」のかも知れませんね。そうなると、これまた、まったく天文気象とはかけ離れた話になるかも知れません。この辺は、雖念さんが、ご賢察をお持ちのところでしょう。
463
:
ケン
:2005/01/26(水) 06:34:41
>452
彰往考来さん
御丁寧なご回答をいただきありがとうございます。
また、お礼が遅れて申し訳ありません。
(区立図書館で本を借りた後、
仕事場にこもっていましたので、
拝見するのが遅れました。ところで、
「版」ではなく、「刷」にも追記のある
場合があることを始めて知りました。)
ボクは、難しいことは良く分かりませんし、
特に勉強をしているわけではありませんが、
以前、この掲示板で、竜口の光り物
について質問をさせていただき、
諸兄から色々教えていただいたことがあります。
その際に感じたことは、現在伝えられている
種種御振舞御書の少なくとも1部分は
真跡が存在した可能性があるという点に
一応、説得力を感じています。
一方で、処刑を防止させる程の光り物が
現実に起きたとする点には、従来から
疑問を感じていましたし、依智の星下りに
至っては論外と思っていました。
しかし、処刑を防止させる程の光り物が、
自然現象として、現実に発生可能であるとする説明が
自然科学の立場から可能であるなら、そのような
説明は、今でも聞いてみたいと思っています。
自然科学の立場から、説得力のある説明ができない
のなら、種種御振舞御書におけるこれらの記述部分が
真跡に由来しているという立場には説得力を
感じないと言わざるを得ません。
464
:
彰往考来
:2005/01/26(水) 07:55:31
>463
ケンさん、
>「版」ではなく、「刷」にも追記のある
そうなんです。ちょっと困ったものです。
浅井要燐氏の『日蓮聖人教学の研究』も同じです。
自然科学の立場からの話はひとつの考え方であって
伝説の存在を証明できるものではないと思っていま
す。それはともかく、色々は人のお考えを拝聴する
ことはとてもよいことです。小生の紹介が貴殿のお
役にたてたようでうれしく思っています。
彰往考来
465
:
彰往考来
:2005/01/26(水) 07:56:48
>464
訂正です。
誤:色々は
正:色々な
お詫びするとともに訂正いたします。
466
:
顕正居士
:2005/01/26(水) 12:14:14
>462
法華経信仰には教理の方面と霊験の方面があります。日蓮の滅後に霊験を中心とする祖師信仰が形成
された。これら伝説を排除した「純正日蓮主義」は智学居士田中巴之助によって近代に提唱された。智学
は「竜ノ口法難」は史実に非ずとする史学界に対し史実であると主張した。「竜ノ口法難」は日蓮宗の文献
以外には記録がないが日蓮の真蹟遺文から史実であったと想像される。しかし、『高祖遺文録』の本集に
ついてはすべて真撰と(仮に)扱う智学の教学が普及し、竜ノ口の奇跡も史実になった。次は明治時代に
著述された日蓮伝の説であります。
足立栗園著『赤裸にしたる日蓮大士』第18章「竜ノ口法難」
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049105&VOL_NUM=00000&KOMA=47&ITYPE=0
*『高祖遺文録』
小川泰道(1814-78)編。本集は真書と真偽未決書。続集は偽書。今日の凡ゆる遺文集はこの本集を根源
とする。というか、ほとんど変わらない。真偽未決書の解明は昭和時代の浅井要鱗の研究からはじまった。
467
:
犀角独歩
:2005/01/27(木) 00:10:33
顕正居士さん、ご教示、有り難うございます。
蓮師に係る一代記が、近代に出来上がったものであることは、案外知られていないことである反省は、わたしにもあります。
わたしが吃驚したのは、蓮師の随身仏が海中出現、船守弥三郎の寄進という類の話も、比較的新しい語りであることでした。
教理と霊験、しかし、光り物は…という、論の展開は簡潔ながら、重みがございました。
今後ともご教示のほど、よろしくお願い申し上げます。
468
:
名無し@富士門流
:2005/01/27(木) 02:29:35
「光もの」一つにも、皆様の博識にはただただ敬服するばかりです。
日興師筆「宗祖御遷化記録」によりますと、宗祖入滅時に大地震動があったと出てきますが、これもなにかの方便なんでしょうか?
それとも弘安五年十月十三日に池上近郊で、地震があったという記録はあるのでしょうか?
諸兄の御教示を賜れればと存じます。
469
:
犀角独歩
:2005/01/27(木) 11:39:08
名無し@富士門流さん:
蓮師逝去の際の地震、そのタイムラグはどれくらいかわかりませんが、御遷化記録は信頼できる記述であるとわたしは思います。他の諸賢はどのようにお考えでしょうか。
また、時ならぬ桜が咲いたといことですが、蓮師が亡くなったという場所に建つ本行寺には季節はずれに咲く桜があります。藁科さんが、このお花見のご報告を投稿されたと記憶します。
470
:
犀角独歩
:2005/01/27(木) 11:45:42
【469の訂正】
誤)藁科さん
正)ワラシナさん
失礼しました。
471
:
働き者
:2005/01/27(木) 11:50:03
みなさん、はじめまして。教学的な発言ができないのでこんなことで書き込みさせていただきました。
そういえば先日NHKで放送していたのですが、鯛の浦なんかも何かあるんでしょうか。
地元の漁業に携る人たちは、鯛は決してとらないそうで、万が一網にかかったりしたら、誕生寺で供養してもらっているそうです。
私は日蓮宗の信仰者ではありませんがここを拝見させて頂いて、そうゆうのも日蓮さんの御威光なのかな、ともおもいまして。
失礼しました。
472
:
犀角独歩
:2005/01/27(木) 12:14:06
働き者さん、はじめまして。
鯛ノ浦の遊覧船は、わたしも乗ったことがあります。
不思議な場所であると思います。
まあ、このような因果関係を460でその顛末が逆ではないのかとわたしは考えるわけです。
しかし、鯛が群生していれば、直ちに漁に出るところ、それを妨げたのは、あの場所が蓮師誕生の聖地であることと関連しているだろうとは想像できますね。
あと、蓮華淵でしたか、蓮師誕生の折、真水にしか咲かないはずの蓮が海中から咲いたという伝説が残る場所がありました。
473
:
名無し@富士門流
:2005/01/27(木) 21:56:54
犀角独歩さん、今晩は。
>本行寺には季節はずれに咲く桜があります
これは品種的にそのような桜なのでしょうか。
それとも全国的に稀にみる桜なのでしょうか。
十月に咲く桜ということは、秋桜(コスモス)でしょうか。
御教示くださいませ。
宗祖入滅時の大地震動や、季節外れの桜が咲く等は、かなりオカルトチックな伝承ですが、たまたま偶然宗祖入滅時におこった現象(現証ではありません)として、弘安五年十月十三日の池上近郊での地震が観測されていたりするのかな〜などと、これまでの議論を拝見してふと思いました。
貴重な御議論の邪魔をしてしまったならばすみません。
474
:
れん
:2005/01/27(木) 22:00:00
名無し@富士門流さん、蓮師御遷化の際の地震についてですが、日興師の宗祖御遷化記録の他に、大石寺四世日道師の御傳土代に「弘安五年みつのへむま十月十三日たつのとき聖人御遷化、此時に大地しんとうす、此時かまくらのはんみん(萬人)一同ニ日蓮の御はう(房)他界ト云々。ふしきふしき」の記述をみます。道師は蓮師滅後の弘安六年の出生で勿論、蓮師御遷化に立ち合ってないのですから、これは、興・目両師からの伝聞に属することですが、「此時に大地しんとうす、此時かまくらのはんみん一同ニ日蓮の御はう他界云々」が事実ならば、神奈川から東京にかけて揺れが観測?された関東南部の地震ということになりましょうか。しかし、この地震は他の当時代の記録に残っているのでしょうか?この地震を記録した興師の宗祖御遷化記録・道師の御伝土代は双方ともに筆者の正本が現存しますから、信憑性がありますが、逆にこの二件の記録だけでは、蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。
475
:
愚鈍凡夫
:2005/01/27(木) 22:16:01
名無し@富士門流さん今晩は。
いろいろと資料をあさってみたのですが、1282(弘安5)年に東海・関東方面で地震があったという記録は見つかりませんでした。
小生が去年の12月中頃、大阪の十三あたりをチャリンコで走ってましたら、公園の小さな桜の木が花を咲かせてましたよ。春先と同じような陽気が続いたせいでしょうか。内心、「こいつ変わったやっちゃなぁ、春になったらどないすんねんやろ」といらぬ心配をしてしまいました。 (^▽^;)
異常気象が原因で、植物の体内時計に狂いが生じているのかも知れませんね。
曖昧な記憶ですが、九州あたりに秋に咲く桜の木があったように思います。
476
:
名無し@富士門流
:2005/01/27(木) 23:21:03
れんさん、愚鈍凡夫さん、今晩は。
種々の御教示ありがとう御座います。
>逆にこの二件の記録だけでは、蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。
>1282(弘安5)年に東海・関東方面で地震があったという記録は見つかりませんでした。
やはりそうですか。
愚鈍凡夫さんの十二月の桜で思い出したのですが、銀座の柳の葉も季節をまちがえてまだ葉を音さずにいるとのことでした。
「大地震動」や「季節はずれの花が咲く」等は、いかにも聖者の入滅時らしいので、、、
できれば偶然でもいいので、事実として地震があってくれたなら嬉しかったのですが。
残念!!
477
:
名無し@富士門流
:2005/01/27(木) 23:22:46
訂正です。
>葉を音さずに
は
「葉を落とさずに」の誤りです。
失礼しました。
478
:
彰往考来
:2005/01/28(金) 07:31:33
愚鈍凡夫さんのスレッド424にありますように
ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿
1222(承久4)年02月28日----03月07日--------02月16日----01(誕生)
1282(弘安5)年11月14日----11月21日--------10月13日(入滅)
ですから新暦では入滅日は11月14日です。このころは関東では少し
寒いころです。10月ではありません。
700年前と現在で気象に差があるかどうかわかりませんが、季節はず
れの桜を議論されるのであれば、このあたりも考慮される必要がありま
す。もっとも475で12月に咲く桜を指摘されていますので、関係な
いかぁ〜。
479
:
犀角独歩[TRACKBACK]
:2005/01/28(金) 11:54:31
名無し@富士門流さん
本行寺さんに電話をして、お尋ねしたところ、旧暦の10月、新暦の11月ぐらいから咲き出し、いまも咲いているそうです。「御会式桜」という名称で親しまれているとのことでした。造園業者に、手入れもさせて大切に守っているそうです。
寺院の言い伝えでは、蓮師入滅に、時ならぬ花を咲かせたその桜の木を幾世代も守ってきたということでしたね。
たしかこの件は、ワラシナさんがご投稿なさっていたと思い、探してみましたら、ありました。
つぶやきすれっど2
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/r726
ワラシナさんのリリカルさが伝わるご投稿でした。
品種であるとのことでした。
いまも咲いているとのことですので、わたしも花見に行って観て来ようと思います。
480
:
彰往考来
:2005/01/28(金) 17:30:02
>479
へ〜え・・。 「御会式桜」ですか。伝説と合致する自然現象があるのですね。
481
:
犀角独歩
:2005/01/28(金) 18:59:45
474 れんさんのご投稿を読み飛ばしていました。
そうですか、「厳しい」ですか。
480 彰往考来さん
御会式桜で検索したら、本行寺以外でも植樹しているところがありました。
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/pltr/pl13846200434
http://homepage1.nifty.com/morino/sakura/2004/kyoto/041126_1.html
http://myojyuji.or.jp/syoryubyo/parts.html
#sakura
本門寺
http://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/kyuseki/hon_saku.html
ほかにもたくさんあるようで、蓮師入滅の桜の開花にあやかり、植樹されていったのでしょうね。
で、ここで疑問ですが、池上には蓮師入滅の時、この品種が偶然植わっていたのでしょうか。それをふつうの桜しか知らないお弟子が観て驚いて出来た伝承なのでしょうか。
まあ、時ならぬ桜が沙羅双樹のごとく…といったほうが風情がありますね。
482
:
名無し@富士門流
:2005/01/28(金) 19:10:18
犀角独歩さん、御教示ありがとう御座います。
遠方から駆けつけた弟子達は、時ならぬ桜の開花に宗祖の威徳が天をも動かしたものかと思ったでしょうね。
単なる偶然だとしても、いい話しだと思います。
483
:
犀角独歩
:2005/01/28(金) 19:27:15
名無し@富士門流さん、そうですね。賛同します。
484
:
れん
:2005/01/28(金) 20:45:59
481 犀角独歩さん、私の「厳しい」はちょっと言い過ぎた表現かもしれませんが、蓮師門下のみの記述だけでは、客観的にみて史実として立証は難しいかな?という意味で‘厳しい’と書きました。しかし、考えてみますと、宗祖御遷化記録は蓮師御遷化(地震があった時)から三日後の弘安五年十月十六日に興師が執筆したものであり、かつ、本紙裏の継ぎ目には昭師・朗師・興師・持師が花押を記していて、公文書とでも言うべきものですから、御遷化記録の記述は信用できるものと思いますので、蓮師御遷化時の地震は全くの作り話というわけではなく、やはり地震はあったのかもしれませんね。古代中世の考えとして、聖者がなくなる時には地震等が起きるみたいな話がありましたから、偶然とはいえ、蓮師御遷化時に起きた‘地震’は門弟達にとってある意味感慨深く受けとめられたものと思います。
485
:
犀角独歩
:2005/01/28(金) 21:08:44
れんさん、どうも。
それにしてもご指摘の通り、道師の記述まで信用すれば、少なくとも、池上から鎌倉を含む範囲で体感される地震があったことになります。なんか他の記録に残っていてくれればという思いに駆られます。
486
:
ケン
:2005/01/30(日) 06:55:09
れんさん
犀角独歩さん
日ごろから、勉強させていただいています(もっとも、当方の基礎知識が不足しているため、
理解できるのは、残念ながら1~2割以下ですが)。
さて、大石寺日道の『御伝土代』について、れんさんや犀角独歩さんが考えていらっ
しゃる信憑性の程度を、初心者向けに教えてください。もし、信憑性をかなり低くお考え
であれば、その理由もご教示いただけると幸いです。
質問させていただく所以は、れんさんや犀角独歩さんの以下のご発言です。
れんさんのご発言と、質問は以下の通りです。
>474 「この地震を記録した興師の宗祖御遷化記録・道師の御伝土代は双方とも
に筆者の正本が現存しますから、信憑性がありますが、逆にこの二件の記録だけでは、
蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。」
ここで、「筆者の正本が現存」の意味は、『御伝土代』の正本全篇が写真などで公開
されているということでしょうか。あるいは、どなたかが「正本(日道筆)である」と言明して
いるということでしょうか。
ところで、『御伝土代』の正本は、その全篇が大石寺に存在するのでしょうか。
>484 「御遷化記録の記述は信用できるものと思います」と仰っているものの、
「御伝土代」について特に言及されていないのは、100%の信憑性をおけない何らか
の理由があるからでしょうか。例えば、正本(日道筆)であることに100%の信頼をおけな
いということでしょうか、あるいは正本現存(日道筆)は100%確実だが、筆者(日道)に
100%の信頼をおけないということでしょうか。
487
:
ケン
:2005/01/30(日) 06:57:25
続きです。
犀角独歩さんのご発言と、『御伝土代』についての質問は以下の通りです。
>485 「道師の記述まで信用すれば」のご発言も、正本(日道筆)であること
に対してか、筆者に対してかのいずれか又は両方に何らかの疑問をお持ちの
ように感じられます。どのようにお考えでしょうか。
>451 「竜口法難の光り物をまさか事実であると思っての議論じゃないですよ
ね」とのご発言から、「光り物」が事実であるはずはないとのお考えをお示しい
ただいたものと思います。
一方で、以前、「光り物」に関する『御伝土代』の記述と『種種御振舞御書』の記述と
を対比されて、「比較してみれば、同じ所伝に従って、記述されたことは明らか
と思えます。・・・『御伝土代』の記述は看過できないものがありますね。」とご教示を
頂いたことがあります(素朴な疑問: 867名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/11/04(火) 06:09)。
独歩さんのお考えは、『種種御振舞御書』における「光り物」の記述部分については、
『御伝土代』の記述を看過することはできないが、『御伝土代』自体は、そもそもほとんど
信用に足るものではないということでしょうか。
なお、「素朴な疑問」における独歩さんのご見解(全文)を念のため、以下に
引用しておきます。
****** 引用開始 ******
>867名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/11/04(火) 06:09
ケンさん:
横レス失礼いたします。
なるほど、『御伝土代』ですか。この存在を忘れていました。
「江島の方より月の如く光りたる物鞠の様にて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日夜の明闇人の面も見えざりしが、物の光月夜の様にて人の面皆見え、兵士ども興醒て一丁許り馳せ除きて、或ひは馬より下りて畏こまり、或は馬の上にて蹲まる物もあり」
『種種御振舞御書』では
「江のしまのかたより月のごとくひかり物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ(味爽)人の面もみへざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れけうさめ(興醒)て一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくま(蹲踞)れるもあり」
でした。比較してみれば、同じ所伝に従って、記述されたことは明らかと思えます。
今成師は、この記述を「これはどうみても日蓮聖人ご自身の文体ではない」としています。
けれど、『御伝土代』は元弘3(1333)年の書と目され、となれば、竜口法難の文永8(1271)年から62年後、かなり信憑性は高いと思えます。『種々御振舞御書』の記述が蓮師の書でないとしても、たしかに『御伝土代』の記述は看過できないものがありますね。
****** 引用終わり ******
488
:
犀角独歩
:2005/01/30(日) 08:13:21
ケンさん、ほんじつ、わたしはこれから、東京より長岡に行かなければなりません。
帰りは明日です。ネット、モバイル環境はなく、掲示板の閲覧、メールのチェックもできません。恐縮ですが、明日以降、改めて管見を記させていただくことにします。ご了解ください。
489
:
犀角独歩
:2005/01/30(日) 08:25:03
わたしの大事な友人が、今回の地震議論をロムし、メールを送ってくださいました。
ご本人の了解を得て、転載させていただきました。
*** 以下転載 ***
…なにやら日蓮さんの没時にあったとされる地震の話が・・・。
…結論から申し上げますと、日蓮入滅(1282年=弘安5年10月13日)
に際して関東で大きな地震があったという信頼に足る客観的記録・資料は、
私の調べた限り、日蓮関係の伝承以外に確認できませんでした。
ただ当時の日本列島は、いわゆる(地殻変動の)大活動期の
まっただ中にあったと思われます(ちなみに、最近の日本も
またまた活動期に突入したといわれているようですが・・・汗)。
ご承知のことと思いますが、1257年=康元2年には
日蓮の伝記などにしばしば登場する『鎌倉大地震』が
起こったのをはじめとして、その前後の南関東では
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen02.htm
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30295/history/japan.html
にまとめられているように、やはり同じく『鎌倉大地震』と称せられる
大地震(1222、1223、1293年etc)や、おそらくそれら一連の
地殻・地震活動の一環と思われる大小様々な地震が頻発していますし、
さらに日本列島全体を見れば、大きなところでは京都大地震(1224年)や
阿蘇山噴火(1265年=文永2年、以降たびたび噴火を繰り返し、
日蓮没の前年1281年=弘安4年閏7月にも大噴火)、
さらに1281年=弘安4年6月には浅間山の歴史的大噴火
(一説には、現在の浅間山の姿はこの時の噴火でできあがったと
言われている
http://www.takamine-kougen.co.jp/page6.html
http://www3.ocn.ne.jp/~nippou/topics.htm
)
と、立て続けに天変地異が起こったといわれています。
――ただし1281年の浅間山大噴火に関しては、その事実そのもの、
あるいは少なくともその規模には近年大きな疑問が投げかけられており、
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/volcanoes/asama/asamasiryo/honbun.html
そんなことで上記リンク先の『天変地異年表』には記されていないのかもしれませ
ん)
そういうさなかの弘安5年10月に仮に関東で地震があったとしても
何ら不思議ではなく、いやむしろ当時の日本、とりわけ南関東では
地震など、日蓮入滅との関係を云々する以前に、
日常茶飯事の出来事だったとさえ言ってよいのではないかと思われます。
が、いずれにせよその地震は、仮に事実あったとしても、上記資料などを
眺める限り、当時として種々の記録にわざわざ特筆されるほどの規模では
なかったようですし、まあ(わざわざ独歩さんに言うまでもないことですが)
世界の歴史をひもとけば、この手の話は宗教家のみならず、
政治家などの偉人の伝説には付き物の話であり、
意地悪な言い方をすれば、もしも日蓮さんが前年に亡くなっていたら、
浅間山や阿蘇山の大噴火と関連づけられた伝説ができていたかもしれず、
またもしもこの年に運良く(笑)彗星でも現れていれば、
ここでも新たな『光り物伝説』が生まれていたかもしれず・・・
といったわけですな。(^^)…
*** 転載おわり ***
以上、ご参考までに
490
:
ケン
:2005/01/30(日) 18:09:08
>488
犀角独歩さん
お忙しい中を、余計なことをお願いして
申し訳ありません。
当方は、全く急いでいません。
1箇月や2箇月以上先でも構いませんので、
お時間ができてからということで、
宜しくお願いします。
491
:
れん
:2005/01/30(日) 22:40:21
ケンさん、はじめまして。486におけるご質問ですが、より適切なご解答は犀角独歩さんがご教示くださることと存じますが、私へのご質問につきまして、お答えします。先ず「筆者の正本が存在」の意味ですが、残念ながら「御伝土代」の正本全体の写真は公開されてませんが、正本の一部分の写真が石山や石山系の団体の出版物に掲載されています(継命新聞社刊「日興上人」など)。また、石山正本を活字翻刻したものは、日蓮宗宗学全書第二巻興門集道師の部に収録掲載されたものと、富士宗学要集宗史部・日蓮正宗歴代法主全書第一巻に収録掲載されたものがあり、興風談所の大黒喜道師編「日興門流上代事典でも正本富士大石寺としておりますから、信用してよいと思います。なお日興門流上代事典の記述によると正本の影写本が東大史料編纂所に所蔵とのことです。次に484において特に御伝土代に言及しなかったのは、御伝土代は興師目師よりの伝承をその直弟子である道師が記したという点では貴重ですが、著者日道師自身は蓮師滅後の出生で蓮師御遷化時の地震に居合わせなかったのですから、御伝土代における道師の地震の記述はあくまで伝聞に基づくものであり、地震のあったその場に居合わせた興師が地震のあったわすか三日後に記述した宗祖御遷化記録に比べると蓮師御遷化時の地震を証する史料としては価値が少しさがると見まして、特に言及しなかった次第です。以上適切な回答とはいきませんが、ご参考になれば幸いです。
492
:
ケン
:2005/01/31(月) 00:25:05
れんさん
分かりやすくご説明していただき有難うございます。
資料としては、信用のおけるものと考えてよろしいと
いうことですね。
有難うございました。
493
:
顕正居士
:2005/01/31(月) 05:44:44
>>487
三師御伝土代と種々御振舞御書
三師御伝土代には種々御振舞御書とほぼ同じ文があります。しかし「祖書に云く」とはありませんし
文章も全同でないから、種々御振舞御書からの引用ではなくて伝承の記載であろうかとおもいます。
三師御伝土代と種々御振舞御書に共通のなんらかの複数の伝承群があったのではないでしょうか。
文献学は新約聖書の成立についての研究から発達しました。共観福音書のイエス伝の記述には
異同が多い。もとの書式化された伝承が複数あったと考えます。
新約聖書のイエス伝はさまざまな過去の神々、英雄の神話と伝説を摂取し、イエスの没後約100年
に共観福音書として成立したと考えられています。
したがって三師御伝土代の真偽を疑う必要はなく日蓮伝説はこの頃にもとが形成されたのでしょう。
494
:
愚鈍凡夫
:2005/01/31(月) 06:35:22
顕正居士さん、おはようございます。
今に伝わる日蓮伝は、口伝・口授で伝えられていたものが、「御伝土代」「種種御振舞御書」などによって文書化され、現在のような日蓮像として伝承されてきたと考えられるのでしょうか。
495
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 01:02:45
ケンさん、本日は疲労困憊です。
明日、記させていただきます。
ここら辺は、実におもしろいところですね。
496
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 12:28:22
ケンさん、既にれんさん、また顕正居士さんが、ご賢察をご披露くださり、ここに愚見を陳べる用もございませんね。
やや論点を代えて申し上げます。
わたしは生まれながら、日蓮本仏論が身に滲みた一人でした。
物心ついたときに、語られる日蓮本仏、戒壇本尊、数々の奇跡物語は、至極当然の「現実」そのものでした。もっといえば、創価学会絶対、池田「先生」絶対、さらに石山絶対、法主絶対も至極当然のことでした。
それを再考し、実像に迫りだして、しばしの時間が経過しました。
わたしがいま感じる晩年の「日蓮」は、炯々とした密教的な要素は持つものの、老いさらばえ、やせ細った生身のその人です。夢破れ、それでも弟子の育成に晩年を過ごし、乏しい食に飢えを感じ、衰えた身体に供養の酒を含み、腹の熱くなることに涙を流す老僧です。本仏などという誇大表現からほど遠い、弱々しい死に行く病衰、老衰したその人です。けれど、数々の奇跡物語で彩られた本仏より、わたしはそんな「日蓮」にこそ、恭敬の念を抱きます。
いわば、いまのわたしにとって、蓮師の奇跡物語は、言葉は悪いのですが、「どうでもよいこと」に属します。
反面、これはたとえば、シャキャムニの超人化などでも同様ですが、自分の信念体系の中心者をどんどんと超人化させ、神格化(いや、仏格化というべきでしょうか)させていく人々の心理のからくり構造に滑稽さを感じるのも事実です。なぜ、そのような物語が紡がれていったのか…、むしろ、その奇跡物語を振り回し力説の裏にある、そのようなものでしか支えられない浮き草のような信仰の危うさばかりが目につきます。そこに見え隠れするのは、生老病死を恐れ、そのことを忘れ、「祈願成就」「不老不死」という願望という煩悩に現実から目を逸らす虚仮威しの威勢であり、それは裏を返せば、極端の戦(おのの)きと不安、弱さというコンプレックスがなせる態とすら覚えます。
『御伝土代』が道師真筆として、そこに記された「光り物伝説」はしかし、蓮師真跡に見られるところはありませんでした。興師もまた語りませんでした。となれば、このような物語を書き記す頃、既に蓮師にかかる超人化、潤色が既にその兆しを見せていたと歴史的経緯でとらえるほうが自然ではないのかと思えます。
光り物という奇跡で、斬首を免れた日蓮より、いざ、首の座に据えられた「ただいまなり」と覚悟したやさき、刑の執行が中止された日蓮の心中の変遷のほうが、よほど、人間味があるものです。
蓮師に係る奇跡物語に、なぜ自分は固執したのか?、そんな自己分析は、実は新たな目を見開かせてくれるものだった…、とその経験を語り、答えに代えさせていただきます。
497
:
ケン
:2005/02/01(火) 12:59:47
顕正居士さん、有難うございます。
ボクは、「光り物」が創作であるとすれば、その創作が行われたのは、日道の
時代から時間がかなり経過してからだと、なんとなく思っていました(もちろ
ん、根拠があるわけではありません)。したがって、『御伝土代』も偽作された
ものと思っていました。
しかし、「三師御伝土代の真偽を疑う必要」がなく、しかも「光り物」が創作
であるとなると、日興や日目、あるいは他の五老僧が活動していた時期に、
既に、伝説が創作されつつあったことになるのでしょうか。なんとなく、
早すぎるような気がするのですが、そんなものでしょうか。
498
:
ケン
:2005/02/01(火) 13:05:21
犀角独歩さん
お忙しい中を有難うございます。
497は、独歩さんからのご回答を見ていない状態で発信してしまい、
大変失礼しました。後で、もう一度良く、読ませていただきます。
取り急ぎ御礼まで。
499
:
れん
:2005/02/01(火) 19:42:37
ケンさん、先日、興風談所さんからお送り戴いた「興風」第十六号を拝見させていただいたところ、興風談所の池田令道師の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」という論文が掲載されておりました。師は御伝土代の筆者について、御伝土代と日時師筆との文字対照をおこない、その他御伝土代の内容の検討をされた上で、御伝土代を全文日時師筆と結論されておられます。私はこれまで、御伝土代を日道師の著作としてきましたが、池田令道師の興風第十六号に掲載された論考における結論が妥当であると考えますので、これまでの御伝土代=日道師著という認識・自説を改め、今後は私も御伝土代=日時師作と比定いたします。
500
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 23:09:52
れんさん、499の説を証憑する場合、では、なぜ時師は道師のなぜ仮託したのでしょうか。
また、そうなると、光り物伝説の成立は、だいたいいつ頃となりましょうか。
501
:
れん
:2005/02/02(水) 15:15:49
犀角独歩さん、御伝土代を時師は道師に仮託して制作したわけではないです。御伝土代には筆者による署名・花押は無く、江戸期前半までの石山歴代の認識は何れも日時師制作というものでした(興師伝に日興上人御遺告〇日道記之とありますが、これは引用にすぎず御伝土代を道師筆とする根拠にはならないと言えます)。すなわち、了玄日精師の家中抄の「日興伝」「日時伝」に三師の伝(御伝土代)を日時作と記録し、三玄日典師は御伝土代の奥書に「三師之傳 日時上人御制作御真筆 日典(花押)」とある通りです。江戸後期の経道日因師にいたりはじめて日道師制作説が唱えられ(因師の三四会合抄・新田南条両家之事)、堀日亨師により道師著述説が定着したものの如くです。今回、池田令道師が御伝土代正本の影写本をもとに時師筆との文字対照を行い御伝土代を時師筆と比定したことで、御伝土代にの作者執筆者について精師・典師の認識が正しかったことが証されたことになります。なお、竜口法難のひかりものについては、御伝土代が時師撰とした場合、御伝土代をもってその最古記録とすることは出来なくなります。とすると、偽書ながら西山日代師の置文により正平十五年(一三六0)以前の成立が確定している「法華本門宗要抄」に‘竜口のひかりもの’の記述が見えますから、‘竜口のひかりもの’の伝説の成立は一三六0年以前ということになろうかと思います。
502
:
犀角独歩
:2005/02/02(水) 15:47:11
れんさん、明確なご教示、深く感謝申し上げます。
また、池田師の研究に敬意を表します。
それにしても、光り物伝説は道師(蓮滅52年)に遡れず、1360年、すなわち蓮滅80年前後の成立ですか。わたしどもが明治天皇の逸話をあれこれと紡ぐ話…、いや、現在のわたしが熊田著『日蓮上人』を語り、彰往考来さんが応師の事跡を探る時間差に比せます。しかし、現代と蓮師門下上代、同じ時間差と見てはいけませんでしょうね。
勉強になりました。今更ながら、自分の浅識、不勉強を恥じ入るものです。
有り難うございました。
503
:
吉祥仙人
:2005/02/02(水) 22:59:59
素朴な疑問なのですが、
竜の口の法難に際し何等かの異常事態がなかったとすれば、なぜ日蓮大聖人は
首をはねられなかったのでしょうか?
そのへんをどう考察されているのか御教授ください。
504
:
ケン
:2005/02/03(木) 01:57:42
れんさん
地道にこつこつと研究されている方がいらっしゃり、それを
きっちりとフォローしている方もいらっしゃることがよく分かりました。
有り難うございました。
505
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 07:32:57
>501
横レス失礼します。
昨夜、自宅へ帰ると『興風』16号が届いていました。私も池田令道師の御伝土代=日時
師作が妥当であると思いました。
なお、同号には菅原関道師の「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」が記載されてい
て、『龍泉寺申状案』の異筆三紙の筆跡はこれまでいわれていた下野公日秀あるいは白蓮
阿閣梨日興ではなく富木常忍筆と推定してよいと思われるとされています。
池田師の御伝土代のご指摘と併せ非常に思うところがあり、ゆっくり考えてみたいと思い
ます。
506
:
名無し@富士門流
:2005/02/03(木) 11:42:46
>505
彰往考来さん、今日は。
>菅原関道師の「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」
これは、御書システムのコラムにも出ていました。
↓
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html
写真入で説得力のある論考ですね。
507
:
犀角独歩
:2005/02/03(木) 12:22:49
> 503
竜口刎頸中止については、古くから疑問視されていました。わたしは、学生時代に『創価学会のまちがいをただす』(−キリスト教折伏に答えて−森山諭著)で、この点に触れていたのを読んだのが初見でした。(30年前の話です)
「文永8年9月12日、竜の口の法難となった。このとき、江ノ島の方より不思議な光り物が現れて、死刑執行者が倒れ、日蓮は奇跡的に救われたとの伝説は、彼を不世出の傑僧に祭り上げさせているが、それは後生の偽作らしく…、鎌倉建長寺方丈道隆(大道禅師)の除名運動が功を奏して、死一等を減じられ、佐渡流罪になったという説が本当らしい」(26頁)
「平田篤胤の著『出定笑語附録の部』に、「竜の口の法難は後世の偽作である」と記し、「日蓮自身の筆には、その時の奇跡的な救いについては何も書いておられない。ただ、旅館まで行ったがそのうちに赦されたということのみを記しており、更に近江国(おうみのくに・滋賀県)の住人徳水如茂彦という人が来て、日蓮が鎌倉建長寺方丈に対して、『貴僧の助命運動によって死一等を減じられ、遠流で済んだことは、生々世々忘れない」という感謝状を、同寺に送っているものの写しを持って来て見せた」と記している」(162頁)
この感謝状の文面は尤もらしいのですが、しかし、文永10年佐渡にあって、『小乗大乗分別鈔』に
「道隆…法師等(ども)は鳩鴿(いえはと)が糞を食するが如し」(平成新修333頁)
と記されるわけで、竜口から2年ばかりしか経たず、感謝状を送った相手に、こんな裏腹なことを言うような真似を蓮師はしないであろうと思われます。
故高木豊師は、以下のように類推しています。
「断罪に処そうとする意図があったにもかかわらず、結局は死刑が免ぜられ、流罪に処せられたのは、北条時宗の妻の懐妊によると考えられる。事実、この歳、貞時が誕生している(辻善之助『日本仏教史』中世篇之二)。これに関連して、日蓮が「大がく(学)と申す人は普通の人にはにず、日蓮が御かんきの時身をすてヽかたうど(方人)して候し人」(『大学三郎御書』平遺784頁)と、大学三郎の行為について述べていることに注目したい。大学三郎については、伝承を除けば、ほとんど未詳だが、ただわずかに、大学允(だいがくじょう)という日蓮の檀越の子息であったろうこと、書に秀で、書を好んだ安達泰盛(あだちやすもり)と書を通じての交りをもっていたことがわかる程度である。ところで、大学三郎と親交のあった泰盛はほかならぬ時宗の舅(しゅうと)、つまり時宗の妻の父であり、解任した子(のちの貞時)の祖父に当たる人である。この関係と日蓮の大学三郎についての叙述とを重ね合わせれば、大学三郎が泰盛に働きかけ、泰盛は婿(むこ)時宗に孫の懐妊中における日蓮の刎頸中止を進言したのではなかろうか。「身をすててかたうど」した意味を、右の関係のなかに置いてみることは十分可能である」(増補改訂『日蓮』太田出版92頁)
わたしは、高木師の説が頷けます。
508
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 12:45:41
>506
名無し@富士門流さん、
コラムのほうが菅原師の心情がよく現れていますね。
ご紹介ありがとうございました。
509
:
名無し@富士門流
:2005/02/03(木) 13:21:02
>508
彰往考来さん、
「興風」には以下の部分は無いのでしょうか?
******************************************************
二十四年前、私は高木豊先生に尋ねた。
「滝泉寺申状の異筆は日興筆といわれていますがどうでしょうか」
「それはあなた達がやるべき課題じゃないかね」
ようやく筆者にたどり着けた。生前にできなかったことを悔いながらも、今年七回忌を迎える恩師へご報告したい。
「先生、あれは富木常忍の筆でした」
******************************************************
(以上、御書システムコラムより転載。)
510
:
彰往考来
:2005/02/03(木) 19:08:52
>509
名無し@富士門流さん、
そうです。そのような内容はありません。最後にあるのは
**************************************
付記。私事ながら本稿を、本稿執筆中の平成一六年九月八日に逝去された元立正大学教授浅井圓道氏に捧げたい。氏には立正大学大学院の「法華玄義」講義を十年余りも聴講させて頂いた。謹んで速疾頓成を祈念申し上げ、生前の学恩に報いるため今後の精進をお誓いする次第である。
**************************************
でした。
511
:
犀角独歩
:2005/02/03(木) 22:01:45
507、打ち間違えました。
誤)除名運動
正)助命運動
除名のわけはありませんね。「除命」(こんな言葉はありませんが)なら、反対の意味になります。
スレッドの無駄遣いを避けるため、続けて記させていただきます。
名無し@富士門流さん:
彰往考来さん:
ご紹介のところを拝読させていただきました。ここに
「常忍はまさに訴訟に精通」とありますが、これは蓮師その人の特徴であると、わたしは思ってきました。興師観とともに頭の切り替えが必要と思った次第です。
『竜泉寺申状』について、高木豊師は「『日秀等陳状』と呼ぶべき」(『日蓮』208頁)と言い、この後文で「主導者日秀・日弁は日蓮の配慮で、下総の富木氏のもとに避難した」(同209頁)と記されています。
となれば、蓮師とともに陳状を記し、さらに身柄の受け入れまでも常師が行ったという一連の脈絡が、読み取れることになりましょうか。
513
:
名無し@富士門流
:2005/02/04(金) 02:41:24
犀角独歩さん、今晩は。
私は高木豊師の論考を呼んでいないのですが、これを機会に学んでみたいと思います。
514
:
名無し@富士門流
:2005/02/04(金) 02:45:39
>513
訂正です。
×呼んでいない
〇読んでいない
あわせまして、
「今晩は」を「おはよう御座います」に訂正いたします。
(恐らくこの書き込みを御覧になられるのは翌朝だと思いますので)
>510
彰往考来さん、
ご紹介ありがとう御座います。
私も「興風」16号を読んでみようと思います。
515
:
吉祥仙人
:2005/02/04(金) 07:09:49
犀角独歩さんへ
御教授有難うございました。
余計なことですが、安達泰盛については平左衛門尉の敵対者として、日蓮大聖人の
理解者とするコミックが手元にあります。
さらに御教授いただければと思うのですが、四条金吾への御書に「竜の口にいっしょに
来てくださってありがとうございました。」というのがあったと思いますが、これも
偽書なのでしょうか。
516
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 09:15:27
吉祥仙人さん:
実は蓮師の御一代というのは、ほとんどわかっていないというのが現状であることほど、驚く発見はありませんね。生まれた年月も、両親も、出生もよくわからず、四箇格言から遡って蓮師を崇拝し、紡がれた門下教学では修学当時のその影響がかき消されてきました。中世には持住崇拝の基礎理論として、派祖、さらに蓮師の崇重は病的に肥大します。その典型が日蓮本仏論です。ここで相伝類がその正当化を支えました。さらに中興の有寛二師の教学が蓮師の原形教学に取って代わられ、さらに偽書の混入もまた、その原形を曇らせていきました。この延長上に、もちろん、石山、法華講はあり、顕正会があります。また、創価学会の一般会員‘向け’教学もその影響下に留まっています。(しかし、創価大・菅野師『法華経入門』(岩波新書)などを読めば、すでに仏教学の成果を受け入れる将来的方途に向かっていることは看取できます。もう少し言えば、それ故、北林さんの件の本はお話にならないわけです。彼がその論の組立で、旧態依然とした100年前に崩壊した伝承神話をいまだ墨守するのは、その教学によって創価学会・池田さんを肯定してきた学会史から考えようとするからでしょう。しかし、このような論法は、結局、批判され、消え去るものにすぎません)
以上の背景で、ここ当板で議論されてきたのは、蓮師の実像を素描するということでした。
このような、前提があります。
> コミック
案外、こんな漫画は、創価学会員が蓮師一代を知る初歩的(もっと言えば、固定観念)知識の脚になっているのかもしれませんね。『希望の友』はそんな役割を担ってきたのかもしれません。しかし、基礎とする資料が上記のようなものでは致し方がありません。唯、コミックといっても、案外、これらの点を石山・創価教学にとらわれず、一般資料に基づいたのは手塚治師の『ブッダ』であったように思えます。学会教学眼から見ると首を傾げる仏伝に基づきながら、けれど、面白さに引き込まれた若いときの記憶があります。
> 四条金吾への御書
これは事実ではないでしょうか。真跡遺文に載るところですね。
先に挙げた高木師『日蓮』では、
「龍口(たつのくち)において、内意のとおり、日蓮はまさに頚を切られんとした。このとき、供をしてきた檀越四条頼基は日蓮の馬の口にとりついてなき悲しんだ。それは日蓮に「いかなる世にか忘(わすれ)なん」(『崇峻天皇御書』平遺694頁)といわせるほどの悲しみようであった」(92頁)
とあります。
以上、何度か、高木豊師『増補改訂版 日蓮 その行動と思想』を挙げましたが、同書は、一代記の、いまある書で、もっとも信頼がおける(と門下一般も考えている)からです。
学恩に基づき、興門の雄・上杉清文師がプロデュースしたものながら、生前にはその出版が間に合わなかった…、本のいずこにも上杉師は御自身のお名前を載せなかった…、そんな熱い情念を背負った1冊です。
『解題』を記された小松邦彰師(立正大学教授)は
万人に開かれた
公準として
日蓮聖人の生涯
「伝説のヴェールに包まれた
日蓮聖人伝を排し、
厳密な考証によって
その行動と思想の特色を論じ、
歴史としての客観的な
日蓮聖人像を作り上げた
高木仏教史学の画期的到達点。
旧版に「(二人の日蓮)改稿」、
「『立正安国論』再考」を増補した
決定版」(オビ文)
そして、このオビにだけ、本当に小さな字で「福神叢書(1)」と記されています。
上杉師、また、渋澤師の、人となりと思いが伝わる気がします。
この書を推薦します。
また、御遺文集としては『平成新修日蓮聖人遺文集』(発願編者・米田淳雄師/日蓮宗連紹寺不軽庵)を推薦しておきます。
517
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 10:50:23
516、一部、文書が落ちてしまいました。
「『解題』を記された小松邦彰師(立正大学教授)は」のあとに
−−「著者の高木豊先生は、先に『日蓮とその門弟』(昭和40年、弘文堂)を刊行し、宗教社会史的方法によって、従来の伝説のヴェールに包まれた日蓮聖人伝を排し、新たな日蓮聖人像を描き出そうとしていた。その姿勢は本書吸盤にも一貫するものであり…真跡遺文を中心に、厳密な考証によって日蓮聖人の行動と思想の特色を論じ、客観的な日蓮聖人像を作り上げた。…高木先生は『日蓮・日本思想大系14』(岩波書店)を刊行している。同書は日蓮聖人遺文の文献学的書誌学的研究に新しい時代を開いた画期的なものであったが、本書旧版にもその遺文研究の成果を見ることができる」(同鄱)
また、−−
という文章が入ります。
毎度、訂正、恐縮です。
518
:
愚鈍凡夫
:2005/02/04(金) 12:46:04
安達泰盛と言えば、「霜月騒動」を思い起こさせますが、平頼綱にとって泰盛は、さぞかし恨んでも恨み足りない相手だったんでしょうね。北条貞時を担ぎ上げ、奇襲を懸けて一族郎党を滅ぼすなんぞは、並の怨恨じゃないですね。 (((( ;゚д゚)))アワワワワ
519
:
犀角独歩
:2005/02/04(金) 22:23:45
愚鈍凡夫さん、それにしても、おもしろいと思うのは、蓮師というのは、そんな鎌倉時代の立て役者と、よくもまあ、関係していたなということです。
蓮師は、罪人ではありながら、やはり、その時代の表舞台を生きた人だったのでしょうか。
反面、まったくその歴史上では、生存が杳として明確ではない親鸞聖人とは好対照だと思うわけです。…、わたしは、聖徳太子とともに、親鸞、架空人物説に偏るのはそんな理由からですが…。
520
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 08:22:28
犀角独歩さん、レス有り難うございます。
蓮祖が平安時代に生きた法然についてはしつこいほど言及しているのに対し、時代は前後するものの、同じ鎌倉時代を生きた親鸞に対しては一言も触れていないのは奇妙ですね。
普通に考えれば、蓮祖は親鸞の存在を知らなかったと考えられますが、親鸞が実在の人物であったとしたら、そこそこの有名人であったと思われますから、不思議ですね。
ひょっして、親鸞の境遇に自分を重ね合わせて共感していたりして・・・・・。
「じゃぁ、何故そのことが遺文にないんだよ!!」(by 外野席)
「むむっ・・・・・。言葉が喉に詰まった。誰かお茶を・・・・」 (-""-;)ムム・・・
「続史愚抄」に親鸞のことが記されているそうですね。
1262(弘長2)年11月28日 庚戌
親鸞上人(範宴、また綽空。初め慈鎮和尚の弟子と為る。後法然上人の弟子。本故皇后宮大進有範の子、右中弁有信朝臣の)寂す(九十歳)。
「吾妻鏡弘長2年」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/126200.html
521
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 11:24:38
愚鈍凡夫さん:
ご紹介のサイトを拝見しました。
ここの文頭に「吾妻鏡に記載無し」とありますね。
これは、何を意味するのでしょうか。あとからの記載ということでしょうか。
《続史愚抄》ぞくしぐしょう
柳原紀光編の通史。81冊。正元元年(1259)から安永 8年(1779)までの521年間を記した朝廷の通史。寛政10年(1798)に自筆清書本が成立した。但しこの自筆清書本は既に焼失した。記事は簡略だが、元史料名を明記し、或は按文が附されている記事もある。引用元は「新訂増補国史大系(新装版)」(石狩市民図書館蔵)。
http://www.ep.sci.hokudai.ac.jp/~tsubota/chrono/kaidai_sa.html
ぜんぜん親鸞聖人とは関係ありませんが、お札図柄から聖徳太子が外れたのは、日本国政府として、その存在に確信が持てないから、というのは本当の話なんでしょうか。ほかには、5万円札、10万円札が出来たときのためのストックなんて、話もありますが。
皆さん、『興風』の熟読でお忙しいようで、愚鈍凡夫さんとわたしだけで、当スレッドから脱線したようなテーマで話し合っていますね(笑)
522
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 12:10:15
犀角独歩さん、どうも。
1262(弘長2)年に何があったのか分かりませんが、「吾妻鏡」には弘長2年がすっぽりと抜けていますね。
>>520
のサイトでは、「吾妻鏡」に記載がないから他の資料で弘長2年の出来事を補ったのではないでしょうか。
また、聖徳太子について、次の記述が真実であったとしたら、インド人にゴータマ・シッタルタは架空の人物であると言ってるようなものかも知れませんね。
**************************************************
厩戸王という一人の有力な王族が実在したことは確かだが、聖人として信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。その聖徳太子という人物が最初に登場するのは養老4年(720)に成立した『日本書紀』においてであり、その人物像の形成に関与したのは、藤原不比等・長屋王・道慈らであった。
その目的は、大宝律令で一応の完成をみた律令国家にあって、その主宰すべき天皇が、中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示すためであった。簡単に言えば、皇室の歴史の中に皇太子のモデルとして<聖徳太子>を創出し、これによって皇室の尊厳を確立しようとしたのである。その後不比等が亡くなり、長屋王の変後の天平年間に藤原武智麻呂・光明皇后を中心とした権力が確立するが、大地震・疫病流行など未曾有の危機に陥る。そのようなとき光明皇后は<聖徳太子>の加護を求めるため、行信の手引きで法隆寺に接近し、法隆寺を舞台とした新たな聖徳太子信仰を創出することになる。そこで成立したのが、薬師像・釈迦像・天寿国繍帳などの銘文や『三経義疏』などの法隆寺系の史料であり、さらに救世観音を本尊とした夢殿であった。
(『東アジアの古代文化』104号 「聖徳太子関係史料の再検討」・大山誠一 より原文抜粋)
**************************************************
吾妻鏡本文データ
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/genpon/azumatop3.htm
「聖徳太子の虚像と実像」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/ooyamasetu.html
523
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 13:08:34
愚鈍凡夫さんは実在説派ですか。
わたしもいたほうが面白いとは思っています。
殊に聖徳太子については、梅原猛著『隠された十字架』(新潮社)は、学生時代に夢中になって読んだ記憶があります。また、恥ずかしながら、山岸凉子著『日出づるところの天子』(白泉社)、これもなかなか面白かったですね(コミックですが)
ただ、反面、架空の人物、出来事が、あたかも事実として、定着してしまう「歴史」というものの面白さも感じます。菊水御国さん(懐かしいHNです)がロムされていたら「ムッ」と反論されるかもしれませんが、天皇でも「日本国天神七代・地神五代・百王百代、人王…」と、こう来ますが天神・地神とは?とか、考えるとその成立には興味が惹かれます。また、『日本現報善悪霊異記』の記述は、中世の人々にとって、かなりリアリティがあったと思います。
まあ、そんなことと、聖徳太子、親鸞聖人の実在・非実在と結びつけて論じられる部分と、そうでない部分もありますね。しかしながら、興味深いテーマではあります。
524
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 13:13:22
間違えました。@菊水護国」さんでした。失礼。
525
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 13:41:17
たぶん、日本武尊のように複数の人物の功績を、一人の人物に投影したのが聖徳太子であり、聖徳太子伝説ではないかと個人的には思っています。
古代から続く歴史の流れとして、人智を超えた昏迷の時代には、スーパーヒーローを求めるのが世の常なんだと思います。注目を集めた歴史上の人物が、歴史を重ねるごとに巨大化し、超人伝説として一人歩きしていくのかも知れません。
また、こうであってほしいといった願望が何時しか伝説化し、信仰と結びついたのが始祖信仰の始まりなのではないでしょうか。
526
:
犀角独歩
:2005/02/05(土) 14:03:12
> 525
そうでしょうね。
いまの時代は、それを、案外、コミックが担ってきたのかもしれません。
この前、ある学者さんと話していたら、「カルトごとに、信者が夢中になったコミック主人公がある程度、分類できそうだ」と。世界に誇る日本アニメが、実はアルカイダをモデルにしているという指摘まで飛び出していました。
こういう主人公、偉人伝が、投影される理想化された自画像(補助自我)と、分析できるのでしょうか。話は、さらに横道ですが、伏せ拝、長時間拍手なんかにご満悦という舞台装置に酔うのも、またその延長にあるのかもしれませんね。
527
:
彰往考来
:2005/02/05(土) 15:07:40
>521
犀角独歩さん、
お札から聖徳太子が消えたのは、聖徳太子非実在説よりも「聖徳太子および二王子像」(宮内庁所蔵)が、聖徳太子を現していないという説が主流になったことが一因と考えられます。
これについては、『肖像画をめぐる謎』(1998年、世界文化社)の22頁に加藤修さん(朝日新聞東京本社学芸部)が「聖徳太子および二王子像は誰を誰を描いたものなのか」という小論を書いています。そこから要点をかいつまんで引用しますと、
**************************************
「聖徳太子および二王子像」(宮内庁所蔵)が聖徳太子を描いたものではないのではないかと疑われている。タイミングを合わせたかのように高額紙幣の肖像からは、聖徳太子のカオが消えた。(中略)
日本の肖像画としてはあまり例のない立ち姿であることと、二人の王子を従えている構図などに、中国の影響がうかがえることが挙げられる。(中略)
製作年代に問題がある。聖徳太子が亡くなった六二二年。画像の製作時期は、八世紀中ごろとするのが一般的だが、服飾や法隆寺の再建時期などを考慮し、八世紀初頭とする説もある。いずれにせよ聖徳太子の没後一○○年ほどたってから描かれたものである。(後略)
**************************************
なお、同書24頁に
**************************************
お札に登場する聖徳太子は「聖徳太子および二王子像」をもとに大蔵省印刷局の磯部忠一氏が描いた肖像画がもとになっている。宮内庁本のイメージを変えずに、顔つきに陰影などが加えられている。聖徳太子は戦前から戦後に至るまで、紙幣への登場回数は7回に及び、最も登場回数が多い。
**************************************
とあります。
参考までに「源頼朝像」(神護寺所蔵)も源頼朝ではなく、足利直義(ただよし:足利尊氏の弟)を描いたものという説が現在では有力です。(同書12頁)一度茨城大学教授の鈴木暎一氏(鈴木氏は中学校歴史の教科書(東京書籍)を執筆しています)の講義を聴いたことがあるのですが、教科書で昔から「源頼朝像」として記載していたので、急にそうではないとは書けず現在の教科書では“源頼朝と伝えられる肖像画”という表現を使っているとのことでした。ちなみに愚息の教科書(『新しい社会 歴史』平成13年、東京書籍50頁)にこの表現がありました。35頁の聖徳太子像も“聖徳太子と伝えられる肖像”となっていました。 “〜と伝えられる”というのは“〜ではない疑いが強い”という意味なのですね。従って最近では「伝源頼朝像」(『肖像画をめぐる謎』13頁)と表現されています。『大田区史 資料編 寺社2』(昭和58年、東京都大田区)にある『伝・日蓮本尊』(1263頁)も同様の表現で、『大田区史 資料編 寺社2』のこの項に入集している御本尊は“日蓮大聖人の御真筆ではない疑いが強い”ということになろうかと思います。
by 彰往考来
528
:
愚鈍凡夫
:2005/02/05(土) 15:27:55
アニメと言えば、オウム真理教の幹部達が「宇宙戦艦ヤマト」世代でしたよね。空気清浄機に「コスモ・クリーナー」と名付けていたのには、ギャグかと思って笑ってしまいました。(^O^)
後で、恐るべきブラック・ユーモアと知って、ゾッとしましたが・・・・・。
> 話は、さらに横道ですが、伏せ拝、長時間拍手なんかにご満悦という舞台装置に酔うのも、またその延長にあるのかもしれませんね。
「伏せ拝」「長時間拍手」といった行為の中に、一般人と違う自分を見ているのかも知れませんね。在家教団独特の歪んだエリート意識と言いますか、「正しい信仰を持つ我々はあなた方とは違うのだ」といった、選ばれし者だけが共有する「至福の時?」に酔っているのでしょうか。そういった恐るべき勘違いをさせるための演出なんでしょうかね。
また、「正しい信仰」という根拠のない曖昧な言葉に、教団との間に「揺るぎない幸福」といった究極の現世利益が保証対象として存在すると思いこんでしまうんですよね。
529
:
吉祥仙人
:2005/02/05(土) 21:44:56
脱線を覚悟で書けば、オウムの最終戦争説・地震兵器はすべて山田ミネコ作
『ハルマゲドン伝説』シリーズからの引用と愚考いたしております。
530
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 00:06:39
527 彰往考来さん、有り難うございます。
なるほど、こういうことでしたか。わたしの又聞きより、説得度が違いますね。
また“〜と伝えられる”とは、所謂「伝・〜」という表記ですね。
この書き方が、載ると、所蔵者の誠実さを感じます。
531
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 03:16:42
吉祥仙人さん、『ハルマゲドン伝説』ですか。
わたしは、近くオウム問題をまとめなければならない仕事を抱えているのですが、これは一つ、読んでみようと思っています。また、本日は、島田先生にお会いするので、この因果関係は話題にしてみようと企んでいます(笑)
まあ、そのうち、オフ会(研究会)にもお運びください。歓迎します。
532
:
犀角独歩
:2005/02/06(日) 03:22:11
> オウム真理教の幹部達が「宇宙戦艦ヤマト」世代
愚鈍凡夫さん、そう、これはよく言われるところなんですね。
桃太郎と変わらない鉄腕アトムなんて、意見もあります。
年を食って、コミックを読まなくなり、久しい時間が経った自分ではありますが、将来、コミックは古典として扱われ、且つ時代に如何に反映したかなんて研究がなされるかもしれませんね。
考えようによっては、大乗経典はSF、コミックは鳥獣戯画のように扱って研究をする学書が現れる…、なんていう憶測は、あながち、外れていないかもしれません。
533
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 00:36:36
http://www.myouhouji.com/noukotudou/noukotudou.htm
板御本尊、何番かな?
534
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 12:14:37
533 通りすがりさん:
なんだか鑑識眼テストみたいですね。
これは第97漫荼羅の模刻ですか。
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/097.html
535
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 17:51:52
独歩さん
今晩は、東金本城寺の板御本尊もと同じ相貌なので大きさとも、略変わらないので
ビックリしています。彫りが石山系とはちょっと違いますね。
富久成寺の紙本を東金本城寺の板御本尊として安置していますが、こんな感じです。
http://www.myouhouji.com/noukotudou/noukotudou.htm
536
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 19:20:16
通りすがりさん:
そうすると、東金本城寺、本門法華宗蓮華山妙法寺と、第97大漫荼羅が同じであるという意味ですか。
> 彫りが石山系とはちょっと違いますね
ちょっとというより、まるで逆ですね。石山では、墨の部分を深く掘り取ってしまい、ご紹介の板本尊は墨の部分を浮き彫りにして金を張っているわけですね。
どなたかの話によると、石山の彫刻本尊も、胤師までは、こんな感じであったそうで、それを廃仏毀釈の時、掘り下げて脱魂し、その魂を遷したのが蓮華寺の紙幅であるとか。
しかし、影師代と言われる信行寺板本尊も掘り下げなので、どうもこの点は、わたしは納得がいっていません。ただ、文献が見る限り、弘安2年に仮託する彫刻本尊が浮き彫りが、掘り下げかは読み取れません。
537
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 21:27:14
独歩さん
すいません、同じというより相貌が非常に酷似しているという事です。
寸法も略同じぐらいで、特に首題と花押は妙法寺の御本尊と大差は無いです。
東金本城寺の御本尊様は猿島富久成寺さんのお写しという容になっています。
その猿島富久成寺の本堂安置の二十八世詳師の板御本尊は平彫りで、妙法寺
と同じ彫刻の手法で日蓮正宗寺院では大変に珍しい御本尊で有名です。
全く凹じゃなく凸で御文字の輪郭を彫り浮かび上がる姿は、猿島富久成寺さん
ぐらいでしょう。
538
:
通りすがり
:2005/02/12(土) 21:54:19
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~shokeiji/itaman1.htm
これも、妙法寺御本尊と同じ浮き彫り本尊になりますね。
539
:
犀角独歩
:2005/02/12(土) 23:09:43
通りすがりさん、わたし、勘違いしておりました。
石山末の浮き彫り(凸)の板本尊ですね。
しかし、こちらはだいぶ、整っておりますね。
540
:
彰往考来
:2005/02/19(土) 19:45:29
>533-537
通りすがりさん、犀角独歩さん
533に示された四条畷妙法寺蔵(本門法華宗蓮華山妙法寺)の板御本尊は534で犀角独歩さんが指摘されているように第97番御本尊のお写しであろうと考えます。
但し535と536で指摘されている相貌が同じであるということ、すなわち相貌は
富久成寺紙本(茨城富成寺蔵御本尊)=東金本城寺=四条畷妙本寺=第97番 であるというのはちょっと違うと思います。
私は、
茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺=第85番 と 四条畷妙本寺=第97番 の2系列と思います。
茨城富久成寺蔵御本尊の配座は、『三和町史 資料編 原始・古代・中世』(平成4年、三和町)の403頁に記載されています。この記載が確かなものであると仮定すると、茨城富久成寺蔵御本尊には、第97番御本尊にはみられない“阿闍世大王”と“提婆達多”が配座していて、第85番御本尊(大村本経寺蔵、弘安3年卯月)と類似しています。(第84番は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の右にありますが、第85番は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の左にあります。茨城富久成寺蔵御本尊は“南無伝教大師”が“阿闍世大王”の左にあります。よって第84番より第85番のほうが茨城富久成寺蔵御本尊と類似しています。)
茨城富久成寺蔵御本尊は弘安3年太才庚辰卯月日との脇書があり、(『富士宗学要集 第八巻 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会、178頁)図顕年月は第85番御本尊と同じです。また茨城富久成寺蔵御本尊の大きさは不明ですが、『三和町史 資料編 原始・古代・中世』によると弐枚続とのことです。なお、第85番御本尊は一紙(丈60.9センチ、幅38.2センチ)です。このことから、茨城富久成寺蔵御本尊が第85番御本尊の模写の類である可能性は低いと思います。ここで使用している“=”はあくまで相貌が同じという意味です。
私は茨城富久成寺さんと東金本城寺さんの御本尊は実物、写真とも拝見していないので、“茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺”との内容は537によります。
以上のことから相貌は
茨城富久成寺蔵紙本=東金本城寺 と 四条畷妙本寺=第97番 の2系列であるといたしました。
by 彰往考来
541
:
犀角独歩
:2005/02/19(土) 23:37:23
彰往考来さん、ご教示有り難うございます。
写真その他で考証いたしてみようと思います。
542
:
尾池
:2005/03/31(木) 21:41:18
http://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n14634453
に出品中の宗祖御本尊?真偽は如何
543
:
犀角独歩
:2005/04/01(金) 00:08:25
> 542
値段も笑えましたが、
> 日蓮大聖人が中山法華寺で修行中、本御曼陀羅を書かれ同寺で保存
蓮師の存命中に「中山法華経寺」があったのでしょうか(大笑)
544
:
尾池
:2005/04/01(金) 11:07:07
真偽は偽の方が濃厚ですね。
落札金額も笑えますね、落札するのであるなら、資産家か宗教団体しか
落札出来ませんね^。^
545
:
犀角独歩
:2005/04/01(金) 12:06:43
尾池さん、はじめまして。
仰るとおりであろうと思います。
546
:
彰往考来
:2005/04/01(金) 12:47:04
>542
写真が不鮮明なので、よくわかりませんが、
配座は19番御本尊に類似しているようです。
文永期の特徴がでていますが、経の字などは
弘安期の書き方のようで、まず偽筆でしょう。
価格は30万円といったところでしょうか。
表装のみの価格です。本体価値はありません。
彰往考来
547
:
がらくた@岐阜県
:2005/04/30(土) 17:33:09
この御書は偽筆なのでしょうか ?
http://www.kosho.ne.jp/~kotenkai/tokusen/gazo/gp2805.html
日蓮宗寺院やその他門流にも宗祖筆という断簡や曼陀羅本尊が随所に格護
されていますけど、お分かりになる方ご教示願います。
548
:
れん
:2005/04/30(土) 20:14:34
皆さんお久しぶりです。
がらくた@岐阜県さん、初めまして。御提示の断簡を拝見しました。保存状態が多少悪いためでしょうか、画像の映りが悪いですが、一応見た限りでは、真筆のようにも見えます。これが蓮師の真筆ならば御書=著作ではなく、聖教(仏教文献)写本の類と思われます。立正安国会の故山中喜八師の研究によると、蓮師は文永から弘安元年にかけて注法華経編纂のため、各宗の聖教類の収集・書写を集中的に行っていましたから、これが真筆ならば当該時期の聖教写本と見るのが至当と存じます。
伝蓮師筆の曼陀羅・著作・写本の真偽判定については、所謂宗派教学によることなく、安国会の片岡随喜師・山中喜八師の如く、真筆をもって真筆か否かを判断するのが一番確実だと思います。以上ご参考までに。
549
:
がらくた@岐阜県
:2005/04/30(土) 23:56:15
れんさん、ご教示有難う御座います。
写本類などは、宗祖が数多にわたり残されていたのですね。
未だに発見されていない断簡などは、今後の研究が期待されますね。
筆法などでは、上記の断簡は宗祖の特徴が、法蔵館日蓮聖人真蹟集成5巻に
紹介されている断簡類に酷似しているので私は間違いないと思います。
有難う御座いました。
550
:
犀角独歩
:2005/05/01(日) 06:55:28
れんさん、ご無沙汰しています。お元気そうで何よりです。
わたしごとですが、数年前、とある本山格の寺院で宮崎英修師が鑑定し、真筆と断じたという、何と『開目抄』の断片を、個人的に間近に拝観しました。これがほんものであったかどうか。文字はたしかに蓮師のものに似通っていました。何より、その時に印象に残ったのは、紙の質、墨の色、また筆の走りでした。こうした点は、やはり、現物を手に取らない限り判らないと実感したものでした。
蓮師、真跡の現物を一々に手に取ってきた人の経験値は、そんな具合で蓄積されているのだろうと思ったものでした。
551
:
れん
:2005/05/02(月) 22:24:43
犀角独歩さん、ご無沙汰しております。仕事が忙しくこのところはロム専でおりました。
宮崎英修師が蓮師真筆と鑑定された開目抄の断簡を拝観されたのですか。それは貴重なご経験をされましたね。
開目抄については真筆は身延曽存ですが、身延曽存の本(日乾師写本により原型がうかがい知れます)より現行流布本の系統の写本の方が文章が整足しており、身延曽存本は草案本で流布本は清書本ではないかとの学説がありますが、独歩さんが御覧になられた「開目抄断簡」がどちらの系統に属するものか、少しばかり興味が湧きました。
真筆か否かの判定は、やはり、独歩さんの仰るとおり多くの真筆に直接ふれた経験がものをいうでしょうね。その点、宗派教学によらず、専ら真筆によって真筆か否かを鑑別するという方法によって多くの蓮師の真筆を発掘してその写真版を刊行された立正安国会の故片岡随喜師・故山中喜八師の業績は、近現代における蓮師真筆研究の基礎を固めたものとして素晴らしいものと思います。
552
:
犀角独歩
:2005/05/03(火) 00:59:44
551 れんさん、浅学の浅はかさ。ご指摘の点はまったくわたしにはわかりませんでした。ただ、たしかに現代では見たことのない紙質、緑がかって見えるの古色、筆の走りがわずかに見える墨色など。目を惹くとことろは多くありました。
しかし、宮崎師真跡お墨付きと言っても直ちに信じないのが私という人間であることはご承知のとおり。鑑定というのであれば、せめて紙の繊維の拡大写真、紙と墨の成分分析結果、年代判定と言った科学資料が付されて然りであると思います。
彫刻本尊のように鮮明な写真すら公開しないで本物だと豪語するばかりであれば、不鮮明な写真から類推するほかありませんが、現物がありながら検査・調査・分析もしないというのは、学的態度としては、怠慢以外の何ものでもありません。率直に言えば、学者の風上にに置けません。これはいまでは蓮師漫荼羅の鑑定の第一人者と相成った例の御仁に特に言えることです。殊更、御書真偽を論ずるに「こんな格調の高い文章は日蓮大聖人をおいて書けるはずはない」と言った類の思い込みには付き合う気も起きません。
けれど、たしかにれんさんが、挙げられるお二方の研究には、そのような科学的アプローチはないものの敬意を表します。しかし、旧態依然に属するでしょう。百年一昔前の鑑定を21世紀になった今でも踏襲するだけで事足りたする古文書研究の有様には納得が行きません。
もちろん、これはれんさんのお言葉を返す意図に基づく投稿ではないことはおことわりしておくことにしておきます。ご返信を深く感謝申し上げるものです。
553
:
れん
:2005/05/03(火) 11:45:42
犀角独歩さん、仰るとおり現代における「鑑定」に於いては、‘見た目’だけではなく、放射性炭素による年代測定をはじめとする科学技術を用いた鑑定で万全を期すべきことは言うまでもありませんね。真筆といわれるもののなかには精密な模写や形木もありえますし。
とはいえ、今から七十年程昔、多大な私財を費やしてくまなく全国の蓮師門下寺院を探訪し、片岡師山中師が真筆資料(中には戦災により焼失してしまったものもあります)を写真版として刊行したことは、今日の真筆の学的研究の先鞭をつけ、その基礎資料を学界に提供したという点において、私は評価しております。
554
:
犀角独歩
:2005/05/04(水) 00:06:03
れんさん、仰るところはまったく賛同します。
そのうえで、今は70年前ではありませんので、70年経ったところから、過去を敷衍した上で研究がなされるべきであるというのがわたしの申し上げていることです。
555
:
鳥辺野
:2005/05/06(金) 23:53:51
皆さんはじめまして、鳥辺野と申します。399で彰往考来さんが発表されました、要山の大聖人筆御本尊の中の、「符法本尊」でしたら要山の宗務院にて御守として販売されているはずです。御守の外観は神社等で売っている物とほぼ同様ですが、「本山要法寺御守」と書かれた和紙の包み紙の中に、小さな曼荼羅が入っています。曼荼羅に書かれている文字は小さすぎてよく読み取れませんが、虫眼鏡で見れば確かに左下に「建治二年太歳丙子正月元日」と書いてあります。曼荼羅の相貌はどちらかというと、本尊集ナンバー26番や27番に似ているように見えます。ただこの時期にはない四天玉の上に「大」の字が冠さっていますので私自身購入した当初から不自然に思っていました。購入したのは平成15年の12月頃でしたが、そのときはほかの書籍「日宗年表」や「日大上人」等も一緒に購入しましたので御守の値段ははっきり覚えておりませんが、確か400円〜800円位だったと記憶しています。真偽未決の曼荼羅ではありますが私にとっては大事な御守であります。いつも仕事の時は肌身離さず持っております。余談ですが昨年末には再び要山に参詣し、その近くにある末寺、実法寺(尊師、郷師建立の鳥辺山御廟所:目師、要山歴代の御墓)にもお参りしてきました。
556
:
鳥辺野
:2005/05/07(土) 00:00:42
555の訂正
×実法寺 ○實報寺
失礼いたしました。
557
:
孤高之求道人
:2005/05/07(土) 01:20:46
鳥辺野さん、はじめまして。
私は失敬ながら、そのお守りの曼荼羅部分を、知人からコピーをいただきました。
次回オフ会に参加させていただくときには持参し、彰往考来さんはじめ、皆様に見ていただきたいと思います。
鳥辺野さんの仰る通り、かなり不自然な相貌だと思います。
558
:
鳥辺野
:2005/05/07(土) 08:30:09
孤高之求道人さん、はじめまして。今後も宜しくお願い申し上げます。
559
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/05/07(土) 08:52:24
555鳥辺野さん、557孤高之求道人さん
そのようなものがあるのですか。一度拝見させて
いただきたく存じます。
彰往考来
560
:
鳥辺野
:2005/05/07(土) 23:27:26
559彰往考来さん、はじめまして。いつも貴重な資料そして分析、興味深く拝見させていただいております。今後も宜しくお願い申し上げます。御守本尊の件ですが、大変申し訳ありませんが、私、恥ずかしながら自宅パソコンを設置したばかりですので、画像をお送りする事ができないのであります。もし機会があればオフ会等で直接お会いして、お見せできればなぁと思っております。
561
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/05/08(日) 10:11:52
560鳥辺野さん
ぜひ、オフ会で拝見させてください。
彰往考来
562
:
犀角独歩
:2005/05/08(日) 10:23:07
鳥辺野さん、オフ会のご参加、歓迎します。
563
:
鳥辺野
:2005/05/08(日) 23:12:05
561彰往考来さん
562犀角独歩さん
その時はどうぞよろしくお願い申し上げます。
あ、犀角独歩さんは、はじめましてでしたね。今後も宜しくお願い申し上げます。
564
:
犀角独歩
:2005/05/09(月) 10:10:26
鳥辺野さん、こちらこそ、よろしくお願いいたします。
565
:
パンナコッタ
:2005/06/18(土) 11:40:17
偽作説についてのスレで、きゃからばあさんの投稿と独歩さんのブログでふと思ったのですが、
「曼陀羅の用途が違う」というのは、護りはともかく自分にとってハッとした思いでした。
きゃからばあさんのお名前は梵字で、空・風・火・水・地を表したものであると思うので、それでふと思ったのですが、
本尊集第八番の上部に梵字が勧請されていますね。これは『アーンク・胎蔵界大日如来』と『バーンク・金剛界大日如来』
を表しています。 佐渡百幅の形式とは違いますし、真言批判は文永六年の「法門可被申様之事」に出てきている事
(蓮祖と同時代の真言師についてですが)を考えれば文永八年の筆とされていますが、かなり遡る事が出来るのではないでしょうか?
566
:
れん
:2005/06/19(日) 17:19:41
独歩さんのブログに記された中尾師の蓮師の曼陀羅本尊に関する御見解は、殊にその用途についての御教示は、大いに参考になりました。
私は六・七・八月は多忙なのでオフ会に参加できませんが、秋になれば多少は時間がとれると思うので、秋以降のオフ会から少しずつ参加させて戴ければと思っております。
さて、パンナコッタさんが提示された本尊集第八番の曼陀羅の系年についての疑問ですが、文永八年説については私も疑っています。「日蓮聖人真蹟集成」によって蓮師のバン字花押の変遷を見ますと、バン字の上に記される空点が、観心本尊抄副状の花押を境としてそれ以前はヽ点あるいは棒の様な点であるのに対し、それ以後は鍵手であることが分かります。第八番の曼陀羅を見ますと、その花押はまさに観心本尊抄副状以前の形態のもので、しかも類似する花押を真蹟集成で探しますと、署名・花押ともに文永五年(1268)四月五日執筆の安国論御勘由来に酷似しており、この頃の図顕にかかるものではないかと愚考しております。もっとも、この曼陀羅には本化四菩薩は記されていませんから、蓮師は観心本尊抄に見られる「本朝沙門」の立場ではなくあくまで天台沙門(台密僧)の立場で図顕されたものであろうと思います。以上ご参考になれば幸いです。
567
:
犀角独歩
:2005/06/19(日) 18:00:58
パンナコッタさんのご賢察を読み、考えているうちに、れんさんのご投稿となりました。
この漫荼羅については『御本尊目録』に「当御本尊は、一応第8に順列したが、御図顕の年代からすれば、更に遡るものと考える」(P12)とあります。
また第18大漫荼羅の備考を参照にせよとあるわけで、実はこれがパンナコッタさんが金胎大日であるという指摘とつながるわけですね。
そして、小松師の講義でも触れられているとおり、蓮師は文永5年の段階ではまだ天台法華沙門の立場、6年『御輿振御書』で揺らぎ、『安国論奥書』では、その期待を離れるという、つまり、れんさんが仰る台密僧としての図顕であり、かつ、金胎大日の勧請があるという、奥の深いやり取りであるわけですね。お二人のご賢察に改めて敬意を表します。
参)
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/25679747.html
また、れんさんには、秋頃にはオフ会にご参加くださる由、心から歓迎すると共に嬉しく存じます。楽しみにお待ち申し上げております。
568
:
パンナコッタ
:2005/06/19(日) 20:05:18
れんさん、ご指摘ありがとうございます。 自分はまだ、うすぼんやりとしか見えていませんので
非常に参考になります。
独歩さん、佐渡以前の文永中頃の思想変遷は、富士門系では一寸軽く見られてしまうようですが、
なにやら重要な意味がありそうですし曼陀羅図顕にも関わりが大のようですね。
やはり時系列的な蓮祖の思考的変遷(キーワードとしては真言批判)、曼陀羅図示の変化と真筆遺文
内容の変遷を改めて検討、整理することにより、新たに意外な事実が浮かび上がってくる事も在ろうかと
思います。
第18番の大日如来が勧進されている本尊の図顕は文永11年となっていますが、佐渡後は一貫して
真言批判をしていたのにヘンじゃない? という自分の単純な動機もやがて重要な意味を持ってくるかも
しれませんね。
569
:
松栄堂薫香
:2005/07/27(水) 00:51:22
http://www.zephy.com/M050307.147.jpg
伝宗祖筆建治二年の曼陀羅御本尊みたいですが、真偽は如何 ?
570
:
パンナコッタ
:2005/07/28(木) 11:55:54
>569
真偽の判定は鑑識眼のある方にお任せするとして(即断されるだろうけど)、本尊集の建治二年NO、31〜33と
その前後の物と比較してみて考えてははどうでしょうか。 すると、
・太字の四大天玉が四隅に勧進されている形式はこの時代ではない。
・愛染の形式がこの時代の物ではない。(上下分離している形である)
・日付の位置が左右逆である。
・主題の蓮の字の書き方。(行書体である)
・主題の経の字の形。
・花押の蕨手。(まん丸だ)
等がパッと見に、大きく相違しますね。 更に細かく見ていけば色々あるでしょうね。
善徳如来の勧請は時代的には合っているが、その上の南の崩し字は前時代的なものではないのか、
(亀若護に使用例があるが用途その物に違いがあるのではないか、どうか)とか、やけに掠れ字、光明点は妙の字以外は
一筆書き? などのややこしい点なども出てくると思いますけれど、
みなさんは、どうお感じになりましたか?
571
:
大勇者
:2005/07/30(土) 10:16:58
パンナコッタ さん
珍しい花押として、NO41と比較してみてはどうでしょう?
572
:
パンナコッタ
:2005/07/30(土) 11:26:29
大勇者さん、
バン字を形成しているか、否か というご指摘でしょうか?
573
:
大勇者
:2005/07/30(土) 20:17:55
パンナコッタさん どうもです。
いえいえ、どちらもバン字型と思います。
NO41は、花びらのような三枚のあとに右に跳ねるのは珍しいかな、、と。
>569の曼荼羅は左に跳ねるがそのあとのウエーブが、、かな、、と思ったので。
574
:
パンナコッタ
:2005/07/30(土) 21:23:08
大勇者さん、お世話さまです。
NO41の花びら3枚とは、どれのことでしょうか?
>569のウエーブというのも、どれなんでしょうか? 蓮の字のしんにょうの
部分でしょうか。
575
:
大勇者
:2005/07/30(土) 22:09:21
あぁ すみません。花びら三枚は自分で勝手につけた名前でした(笑
花押の m みたいなところの事です。 m次の ○ の囲み方です。
の→m→○
576
:
パンナコッタ
:2005/07/30(土) 22:47:28
大勇者さん、
”日蓮”を囲む大きな丸囲みの左半分のRが扁平した形で、
しんにょうの下部に沿うようにしてS字を描いている という感じでよろしいでしょうか?
577
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/08/01(月) 07:31:04
>569 松栄堂薫香さん
この御本尊(建治2年2月13日)の出処が明らかでない以上、責任のある鑑定はできないでしょう。トラブルになりかねません。従って、主として現存御本尊の特徴との相違点という形で述べます。
詳細な分析は570でバンナコッタさんが記述されていますので一部重複しますが、
①日付の位置は通常と逆です。弘安3年9月8日の第99番本尊のように例外はありますが、建治期の御本尊には見あたりません。
②諸尊の勧請は建治期と弘安期が混ざっているようです。建治期の特徴である“十方分身諸仏”の配座がみられるのですが、“明星天玉”や“大六天魔王”の勧請が見られます。『御本尊集』によれば現存の御本尊中、“明星天玉”の初出は弘安元年8月の第53番本尊からです。また“大六天魔王”の初出は建治3年2月の第41番本尊からです。但し、“大六天魔王”は身延嘗存の建治元年11月本尊などにその列座がみられますので、建治期の御本尊に“大六天魔王”が勧請されていてもおかしくはないでしょう。
③“経”の字は建治2年ではなく弘安元年8月の書き方に似ているように思います。
④“四天王”の書き方で、“増長天玉” と “広目天玉”に“大”を存するのは、建治3年卯月の第44番本尊からです。
⑤“愛染明王”は建治期では上下分離しています。“愛染明王”がハート型のように左右が対称のような形になるものは弘安2年4月の第62番本尊が初出でしょう。弘安元年8月の第53番本尊もこれに近い形ではあります。
⑥花押も建治期ではないでしょう。典型的な蕨(わらび)手形式は、弘安元年7月以後の特徴でしょう。
⑦特筆すべきは “南無”の崩し方です。松本佐一郎氏は第112番本尊から第114番本尊に丸形になっているお筆の乱れがあることから、「弘安四年の秋、相当御病状が悪かったことは上野母尼書(艮2082)に見える。・・・・丸形のほうが書き易い」(『富士門徒の沿革と教義』昭和54年覆刻第1刷、大成出版社、219頁)と指摘しています。つまり、丸型のほうが力が入らないので書きやすく蓮祖がご病気時の図顕の特徴ということです。この観点から蓮租御本尊をみますと建治期では丸形は建治2年8月13日の第38番と39番だけで、翌日14日の第40番では通常形に戻っています。また建治2年2月の第31番から33番は通常形です。
あえて私の愚論をのべます。今回ご紹介の御本尊は建治2年8月頃の御本尊と弘安元年8月頃の2幅の御本尊をお手本に作成された可能性があるのではないでしょうか。ただそうだとすると、なぜ建治2年の日付に弘安期の特徴を混ぜるというような複雑なことをしたのか理由は不明です。
「古美術、古玩の世界では、偽物を本物と間違う罪は、本物を偽物として葬る罪よりはるかに軽い」(村松友み(“み”は示扁に見)『永仁の壺』2004年、新潮社、106頁)ということだそうです。私は今回ご紹介の御本尊は偽物と考えますが、あくまで個人的見解です。万が一本物でしたら罪は重いということになりますので慎重な判断が必要です。ただ偽物はあくまで偽物です。私見ですが今回のはあまり出来がよろしくないと感じました。偽物のもつ何ともいえないイヤラシさが全体から滲み出ているようでイヤです。じっくり見たいとは思いません。日顕さんのいう二級以下の偽筆本尊と思います。
御法主日顕上人猊下御説法
日女御前御返事 平成4年9月21日 法観寺寺号公称・落慶入仏法要の砌
****************************************
ニセものにも、もし等級をつければ、超一級から一級、二級、三級、五級、さらには十級くらいまでありまして、まず二級から下は全く話になりません。
****************************************
−『大日蓮』平成11年11月号、41頁
578
:
古池
:2005/09/11(日) 09:09:28
独歩さん
はじめまして
独歩さんのプログで紹介されている今成師の「如説修行抄」は日蓮在世時の内紛により日蓮でない門下の誰かがしたためたものではないかという説に大変興味を持ちました。よろしければ内紛の事情等について教えていただけないでしょうか。
579
:
犀角独歩
:2005/09/11(日) 13:44:04
小池さん、はじめまして。
「今成師は、日蓮在世に既に偽書として成立し、しかも日蓮その人を批判することを目的にしていたと大胆な推測を載せる。考えさせられる説だった」
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/29698771.html
と、わたしが記したことでしょうか。この御説に関してのみ絞って言えば、わたしは「考えさせられる説」と記したとおり、気分としては落着していません。弟子檀那などの文献的証拠がここでは示されていないからです。ただし、「有りえるのではないか」という思いがないということではありません。わたしにとっても、日蓮の山林隠棲は「我不愛身命但惜無上道」「不自惜身命」「寧喪身命」と言った所説に違反するものであると思えるからです。故に今成師のご説呈示の勇気に敬意を表すると言うことです。
ご参考の便宜に、以下、今成師の原文を転載します。
*** 転載はじめ ***
…佐渡にあって、鎌倉在住の弟子檀越たちを叱咤激励していた日蓮には、自分が遠からずして山林に籠る身になろうとは夢にも思われなかったでしょう。ところが、文永11年(1274)3月26日に佐渡から鎌倉に帰着した日蓮は、5月12日には鎌倉を立って身延山中に隠棲してしまいます。
結句は一人になりて日本国の流浪すべきみにて候。(文永11年5月17日付『富木殿御書』)
度々あだをなさるれば、力をよばず山林まじはり候ひぬ。(文永11年11月11日付『上野殿御返事』)
鎌倉中に且らく身をやどし、迹をとどむべき処なければ、かゝる山中の石のはざま、松の下に身を隠し、(建治元年4月付『法蓮抄』)
去年かまくらより此ところへにげ入り候。(建治元年7月12日)
などといった。不本意な入山を歎く文言が散見されるのですが、日蓮が、このような苦境に立たされることになった原因は一つしか考えられません。それは、門弟間に不協和音が増幅して収拾がつかなくなったことです。
日蓮の流刑地佐渡からの帰着、それを待ち受けた門弟といえば、度重なる弾圧に屈することなく、ひたすらに日蓮の教えを信奉し、教線の拡張に挺身しようとする精鋭たちであった筈です。
彼らが純心であればあるほど、教団の運営方針の意見対立は先鋭化したに違いありません。即ち、教団壊滅の危険を省みずに強硬路線をばく進すべきであるとする、いわば折伏派と、教団百年の計を慮って迂回路線も組み込むべきであるという、いわば摂受派との対立です。
580
:
犀角独歩
:2005/09/11(日) 13:44:30
―579からつづく―
日蓮が、いかなる困難にもめげずに信念を貫く人であったことは、その受難の人生を語って余りあるところですが、その日蓮が、「鎌倉中に且らく身をやどし、迹をとどむべき処なければ」「力およばず山林に」「にげ入り候」と告白しなければならなかった事態とは、日蓮が且て経験したことのない危機であったことは間違いないでしょう。とするならば、それが外部からの圧力ではなくて、教団に於て、にわかに決着のつきかねる対立が発生し、日蓮は、その何れにも組みすることのできない立場に追い込まれてしまった――と考えざるを得ないのです。
日蓮の山林隠棲は、「結句は一人になりて日本国の流浪すべきみにて候」になるかも知れないと危ぶまれるほどに、確たる見通しの立たないところの苦渋の選択であったわけですが、そのような道を選んだ日蓮に対して、直ちに従者を遣わしたり、供物を贈ったりする弟子もいました。然し、その反面、強固な反対の烽火をあげる人びともいたのです。
「権実雑乱の時、法華経の敵を責めず山林に閉じ籠り、摂受を修行せんは、あに法華修行の時を失う物怪にあらずや」とは、まさに、身延山に退いた日蓮、および日蓮の行為を容認する弟子たちに対する非難の攻撃であると考えざるを得ません。つまり、日蓮の身延山入山を不満とする折伏派の人たちによって作られたのが、今日話題にしている偽書であると思われます。
それらの偽書は、日蓮教団内部の、主として摂受派の人々を対象として発信されたものですから、広く社会に通用するものである必要はありません。一般性を欠いていても構わないのであります。『開目抄』で、常不軽菩薩の礼拝行を折伏であるとしているのも、それが無道に落ちた母を救う盂蘭盆会の行事として7月14日に盛行していた(閑居友』上の九。『名月記』)という当時の習俗に背くものですし、『如説修行鈔』が、日蓮の一度も口にしなかったところの「法華は折伏にして権門の理を破す」や「如説修行」という言葉を平然として多く用いているのも、社会性を逸脱していることなのです。
『如説修行鈔』の宛名が「人々御中へ」となっており、「此の書、御身を離さず、常にご覧あるべく候」という注意書きを伴っているのも、この遺文の閉鎖性を示すものとして注目されるところであります。…
『開目抄』の、常不軽菩薩を折伏の人であると特定している部分と、全篇一貫して折伏に徹することを勧めている『如説修行鈔』とは、身延山に籠った日蓮を、摂受に堕した者として非難し、折伏路線に邁進すべきであると主張する弟子たちによって作られた偽書であることが明らかになったと思います。
彼らの営みは、強烈な信仰に支えられたものであり、師匠の名誉と教団の発展を願ってなされたものであることは間違いないでしょうが、もともとが山籠という日蓮の実践を否定するところから出発した行動なのですから、そこに理想とされている折伏者像が、日蓮の実像に反するものであることは云うまでもありません。…
(教団における偽書の生成と展開―日蓮の場合― 『佛教文学』第29号 P146)
*** 転載おわり ***
581
:
古池
:2005/09/11(日) 14:06:34
独歩さん
ありがとうございます。
>この御説に関してのみ絞って言えば、わたしは「考えさせられる説」と記したとおり、気分としては落着していません。弟子檀那などの文献的証拠がここでは示されていないからです。ただし、「有りえるのではないか」という思いがないということではありません。わたしにとっても、日蓮の山林隠棲は「我不愛身命但惜無上道」「不自惜身命」「寧喪身命」と言った所説に違反するものであると思えるからです。故に今成師のご説呈示の勇気に敬意を表すると言うことです。
同感です。
>身延山に籠った日蓮を、摂受に堕した者として非難し、折伏路線に邁進すべきであると主張する弟子たち
との御指摘は考えさせられるものがあります。このような強硬派がいたとしたらですが。
大変参考になりました。
582
:
古池
:2005/09/11(日) 14:41:56
独歩さん
偽書は後世に生まれたものとのみ思っていた固定観念を揺さぶられました。
いままで議論されてきた摂受・折伏説について、曼荼羅は本尊か否かについても、固定観念を捨てて読んで見たいと思います。
583
:
犀角独歩
:2005/09/11(日) 21:25:22
小池さん
「固定観念」につき、まったく仰るとおりですね。
わたしはここ10年、「何で自分は、こう考えていたのか、こう信じていたのか」という自問自答を繰り返してきました。
584
:
犀角独歩
:2005/10/24(月) 23:51:59
彰往考来さん
本日は、立正大学情報センターに行き、大崎学報130余号を検索し、目についた20余点の掲載文書に目を通してきました。実に平易な文書で分かり易く、これ全部の読破は取り敢えず、日蓮近代教学の入口とすれば、さほとでもない(そんなことはないかもしれませんが)創刊号から順次、読み飛ばしているところを読破していこうと思った次第です。
近年で、わたしが腑に落ちるというか問題意識、文章の調子などで、興味が惹かれたのは小林是恭師、いままでぜんぜん気に留めたことはなかったのですが、この方の論文は荒削りながら実に面白いと思いました。
第93号『最蓮房賜書管見』、第112号『二明王と曼荼羅』はお読みになりましたか。
特にこの2書は、日頃、思っていたツボにピタリと嵌りました。
パンナコッタさん
感動したのは、第109号の山中喜八師『注法華経私考』でした。
その『結語』に
「注法華経に引きたまえる経釈には、本経の扶釈を目的としたものの有ることは論を俟たないが、経釈それ自体の開会のために引文されたものも、また尠くないようである。…或は本経を能摂として、之に比況しておのずから諸経の次位を定め、或は本経の能判として、之に照鑑しておのずからに諸釈を匡し、以て三国仏教の精要をして、法華経に注帰せしめようとと図られたのが、注経御選集の宏謨ではなかろうか。若しこの信解にして誤りなければ、注経全十巻に充満する聖聚を、渾べて本経の規拒として、何のためにその経釈を引かれ、また何の故にその処に注記されたかを、至心研鑽する必要がある。この用意があってこそ、始めて聖訣は顕示され宣授されて、古今東西に類型を絶せるこの一大撰著は、名実倶に「此宗末代規模」となるであろう」(昭和34年2月15日発行 P62)
といいます。
「此宗末代規模」とは『註』に拠れば昭尊遺蹟之事(宗全上聖部 P12)に載る「註法華経一部者。先師聖人以自筆註勘文記奧旨。此宗重宝末代規模也」という一文を指すとのことでした。
なお、御義口伝に関する考証も秀逸でした。
かつて顕正居士さんもご教示くださいましたが、就注法華経御義口伝(注法華経に就いての御義口伝)と言いながら、まったく、この編者は注法華経に拠っていない点を明瞭に説明しています。
その他、瞥見した書は多数ありますが、これは後日とまた、記そうと思います。
585
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/25(火) 06:54:44
>584 犀角独歩さん
>
第93号『最蓮房賜書管見』、第112号『二明王と曼荼羅』はお読みになりましたか
これは残念ながら拝読いたしておりません。表題だけを見る限り面白そうですね。
このころの大崎学報は良い論文がたくさんありますね。
山中氏の注法華経については、氏の関連論文一覧を追ってレクチャーします。
『日蓮聖人真蹟の世界 下』に入集していますので、大崎学報にたよらずとも読むことはできます。
下巻のほうです。
586
:
犀角独歩
:2005/10/25(火) 08:45:00
彰往考来さん
> 山中氏の注法華経…関連論文一覧…レクチャー
有り難うございます。楽しみにしております。
ところで、彰往考来さんは、稲田海素師の『御本尊写真鑑』(大正元年12月20日印刷/大正元年12月23日発行/須原屋書店)はお持ちですか。
この本は見開きで右に稲田師の解説が、左にその漫荼羅が配されて編集されています。
惜しくも、立正大学情報センター蔵書の第8番目が破り取られれています。そのために1枚は写真が、1枚は解説がわからなくなっています。
写真が失われた解説は「大聖人御年五十八弘安二年乙卯六月身延山ニ於テ書シテ尊師日顕法師ニ授与シ給タル御真蹟ニシテ京都本宗大本山本圀寺ノ霊宝ナリ、今考ルニ此御本尊ハ恐ハ房州清澄山ノ住人ナル浄顕房ニ授与シタルモノナルベシ、何トナレハ尊師ノ二字ハ法兄ニ対スル敬語ナルベク、日号ノ題ノ字ハ浄顕ノ顕ヲ取リ、又帰伏ノ後チ師弟ノ関係ヲ以テノ故ニ法師ト称シ給ルナルベシ、今暫ク愚見ヲ附シテ以テ世ノ識者ノ高見ヲ待ツ」(原文、旧仮名遣い)
となっています。以上の漫荼羅は、この写真帖以外、入集されているものはあるでしょうか。
この破り取られた写真の裏が次の写真の解説になっているために、こちらは文が失われています。以下、写真です。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/misho_mandara.JPG
(ジャンプしないときはコピペしてください)
ご承知のところがあれば、ご教示いただければ有り難く存じます。
587
:
パンナコッタ
:2005/10/25(火) 12:36:26
独歩さん、
注法華経はやはり蓮祖の法華第一の思想を考察する上で、より研究がなされなければいけないの
でしょう。テキストとして最高の部類の物を、自宗内信徒には存在すら知り得ないようにしている
態度は、大いに問題ありです。
>法華経に注帰せしめようと は、妙法蓮華経の意だと思いますが、現代の我々の場合は、
区別して(種種の梵本や他の漢訳と分ける意味)押さえておいた方がよいと思います。
御義口伝を金言とするのはもはや論外ですが、漢文の注法華経を読むより御義の口伝形式の書式の方が、
直感的にも”わかりやすい”のではないでしょうか。 普及を目的とするならば優れた物であると
思われます。 ある意味、富士系を後代に存続させる役割をも果たしたのかもしれません。
個人的には御書システムには、早くver upしてもらい掲載して欲しい所です。
588
:
犀角独歩
:2005/10/25(火) 14:21:05
587 パンナコッタさん
ご意見にまったく賛同いたします。
しかし、そういうわたしも注法華経については手を着けずに来ましたから偉そうなことは言えません。
なお、ご承知のことと思いますが、注法華経にほぼ忠実に基づくのは日向『金綱集』であるとのことです。先に紹介した山中喜八師『注法華経私考』にもこの点が触れられています。
「金綱集との関連について
現伝する上足諸聖の遺著のうち、注法華経と最も密接なる関係を有するものは、恐らくは向尊の金綱集ではあるまいか」(大崎学報109 P55)
と記されています。
日向を悪人視する富士の風潮が、この重書から目を遠ざけたのかと思案します。また、日興は盗まれたものは、そこから考えない…、というか、日興已後に属するのかも知れませんが、ないものは軽視してあるものを重視するという風潮が富士においては特に顕著ですね。つまり、一体仏を日朗が持ち去れば仏像は廃され、日昭が注法華経を持ち去れば、その重書を省みないと言った具合です。
日興門下における注法華経研究はどのようなものか、わたしは不勉強でまったく知らずに来ました。個人的な認識としてはほとんどないというように考えてきました。しかし、もし、わたしの管見の如く、日興門下に注法華経に関する論及がなければ、日蓮教学を語るうえではまったく画竜点睛を欠くというほかありません。
愚にもつかない門派意識など捨てて、注法華経と、金綱集に取り組むべきであろうと思います。まず、そのためには仰るように、資料の整備からということになります。
わたしは存じ上げませんが、興風談所では、この2書について、どんな言及が為されているのでしょうか。
589
:
パンナコッタ
:2005/10/25(火) 15:30:25
やはり五人所破抄をまともに受け取っているからでしょう。しかし、何で日頂の行動に
富士系の現代人が文句を付けているのか不思議になってしまいます。
ちなみに興風談所のQ&Aでは、
Q1 「五輪九字秘密釈」「円多羅義集唐決」などが表示さません。
A1 現在御書システムでは、写本類を収録していません。「円多羅義集唐決」や
「五輪九字秘密釈」等についても、写本ということで、註法華経や諸要文集とともに未収になっています。
Q2 「白木御返事」は真蹟がある御書なのに表示されません。
A2 「白木御返事」も含め、近年、新出の真蹟には御書システムに収録していないものがあります。
今後、検討したうえで収録していきたいと思います。
Q3 御書の現代語訳表示はできますか。
A3 御書システム2005年版a より、一部の御書について、現代語訳に対応いたしました。今後、バージョンアップごとに
現代語訳対応の御書を追加していく予定です。
との事。やはり検索機能の利便性は代えがたい物があります。
590
:
れん
:2005/10/25(火) 21:00:37
横レス失礼します。
注法華経については山中師「定本注法華経」がありますが、これは絶版で東陽堂あたりでないと出ないとおもいます。私の手元にあるのは東陽堂で入手した本満寺発行の「私集際最要文注法華経」上下巻です。
「図録 日蓮聖人の世界」には−入魂のご持経『注法華経』−の項目で注法華経についてふれられています。
金鋼集については、興風第十一号 「日興上人全集」正篇編集補遺 に
−「金鋼集」そのもの、特にその附録・雑録の成立およびその流伝形態に関しては全くの疑問無しとはしないが、今は極めて日向師に近い上代の作品と規定して置きたい−
とあります。私見では、金鋼集の原本は日向の編纂と考えますが、写伝される過程で補筆等の後人の加筆が加えられた可能性はあると思います。身延山には日蓮自筆の莫大な量の仏典写本があったと聞きますが、明治の大火で焼失してしまったことで、注法華経や金鋼集との関連を知ることが出来なくなったのは至極残念なことです。
591
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/25(火) 21:03:29
>586 犀角独歩さん
> 稲田海素師の『御本尊写真鑑』
「蓮祖及び門下の曼荼羅について」 のスレッド57を参照ください。
ここでいう『御本尊寫眞帖 全』(=『御本尊写真鑑』)はかつて私が国会図書館でコピーしたものが手元にあります。
それのコピーを犀角独歩さんに送ります。日顕法師授与御本尊も入っています。ちょっと写りは悪いですけど。現在国会図書館で『御本尊寫眞帖 全』はマイクロフィッシュ(マイクロフィルム)になっており、写りは極めて悪く資料として使えるレベルではありません。私のものはマイクロフィッシュになる前のコピーと思いますので何とか使えます。
併せて「御本尊集目録」の第63番本尊の注記を参照ください。
しかし心無いことをする人がいるものですね。図書館の本は人類の共通財産であるということがわからないのですかね。
>この破り取られた写真の裏が次の写真の解説になっているために、こちらは文が失われています
該当箇所の文は
「大聖人御年五十九即弘安参年庚辰貮月彼岸第六番身延山ニ於テ書シテ藤原清正ニ授興リ給タル三枚續ノ御真蹟ニシテ京都本宗本山妙覚寺ノ霊寶ナリ」(引用者注:一部現代かな使いに改めました)
で、第73番本尊の解説です。
彰往考来
592
:
犀角独歩
:2005/10/26(水) 00:18:36
> パンナコッタさん、御書システムのご案内、有り難うございます。
わたしは個人的には、現代語訳はどうでもいい気がするんですが、それより、注法華経を、という気分です。
> れんさん、お久しぶりです。ご案内、有り難うございます。
わずかな蔵書のなかで、ご案内の書は手元に置いていました。実によく編集されており、一般、初学者にも解りやすい良書ですね。注法華経については、掲載の立正安国会の複製本から正本が偲ばれます。(P80)
ただ、ここに載る解説は、なんだか他人事のようで、注法華経に積極的に取り組もうという意気込みが伝わってこないのは残念でした。
あと、弁明臭いのですが、わたした金綱集を重書と言ったのは、注法華経と密接に関わっているからです。仰るよう、後加文その他の峻別研究も十分に究明されなければなりませんね。その点で賛同いたします。
> 彰往考来さん、有り難うございます。
既に独学徒さんと議論されていらっしゃったところと重なったわけですね。
よく人に過去ログを読みなさいと言っておきながら、つい最近のことにうっかりしてお恥ずかしい限りです。
ご送付のこと、お手数をおかけします。有り難く拝受させていただきます。
また、失した文章をご案内いただき、併せて感謝申し上げます。
一点、確認なのですが、「…授興リ…」は、文脈からすると、「…授與シ(授与し)…」ではないかと思うのですが、どうでしょうか。
593
:
犀角独歩
:2005/10/26(水) 08:02:41
参考までですが、『御本尊写真鑑』に載る、以下の模写は見事だと思いました。
もし、花押まで模写され、右下に「日等花押」となければ、一見では御筆と見間違えそうです。
稲田師が記す解説は、なかなか物騒でした。
漫荼羅盗難という話題は、よく出てきますが、信仰対象を盗んだら御利益は消えてなくなると考えられそうなものなのですが、昔の人にはそんな発想はなかったのでしょうか。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitto_mosha_nikejuyomandara.html
594
:
れん
:2005/10/26(水) 11:47:46
犀角独歩さん
注法華経と金鋼集の関連ですが、注法華経は日蓮滅後早い時期に身延から日昭のもとに移蔵してますから、私見では注法華経と日向の接点は日蓮在世の身延であると思います。よって金鋼集の草稿の成立は注法華経を参考資料に日蓮在世の身延で、ということになろうかと思います。その意味で金鋼集は後人の筆が加わるも、独歩さんの仰るとおり重書であることは動きません。
注法華経には、三ヶ所ほど異筆があり、山中師は日興筆と推定していたようです。この異筆が日興筆であることが確定するならば、日蓮の注法華経の編纂作業に日興が加わっていたことになり、それはそれで興味深く思います。
日等写本は日蓮筆の模写としては大変秀逸ですね。私は寺尾師の著書からコピーしましたが、私も中山からの日蓮曼陀羅類の盗難は身延の大火による日蓮真筆の焼失とともに、非常に惜しく思います。
597
:
犀角独歩
:2005/10/26(水) 21:22:04
れんさん、ご教示有り難うございます。
そうですか、異筆は日興の可能性があるのですか。
なにか、日蓮在世の身延、また、その門下の有様の想像を逞しくさせるところがありますね。
日蓮の注法華経を手に取った講義、最長老の日昭が控え、訥々とその聞き書きをまとめる日向、その校閲を日興がし、不足を書き込んだ…、本当に憶測を超えるものではありませんが、六老分裂という嘆かわしい事態以前の、日蓮を中心とする弟子たちの往時がそうであったのであれば、すばらしい光景であると思います。そんな当時に思いを馳せることができました。
有り難うございました。
598
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/26(水) 22:40:56
>592 犀角独歩さん
>「…授興リ…」は、文脈からすると、「…授與シ(授与し)…」ではないか
私もちょっと変だとは思うのですが、原本は明かに“リ”ですね。
599
:
犀角独歩
:2005/10/26(水) 23:04:08
彰往考来さん
‘リ’ですか。有り難うございました。
600
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/28(金) 07:39:47
>593 犀角独歩さん
>もし花押まで模写され、右下に「日等花押」となかったら・・・
寺尾英智師の『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』(平成9年、雄山閣出版、真蹟の形態と伝来と略します)によれば、日等師はこの御本尊の花押も模写していて『日蓮大士御判写』に納められています。その写真は『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』の89頁で公開されています。
日等師は中山法華経寺の蓮祖御本尊を5種類6幅(1幅は重複)模写していますが、593で紹介された日家授与漫荼羅以外は日蓮在御判と記されています。
不思議なことに稲田海素編『御本尊写真鑑(御本尊写真帖)』には5種類の日等模写御本尊のうち、日蓮在御判とない日家授与漫荼羅だけが入集しているのです。稲田氏は日興門流から指摘される恐れのある日蓮在御判とある4幅の御本尊を『御本尊写真鑑(御本尊写真帖)』に載せなかったのではないかと私は推測しています。
日等師が在御判とお書きになった意義はわかりませんが、犀角独歩さんがご指摘されているように蓮祖御本尊とみがまうばかりの素晴らしい出来です。私は後世のものが御真筆とすることがないように、花押を書かず在御判と記すことで書写であることを明確にされたのではないかと拝しています。
>稲田師が記す内容・・・物騒・・・漫荼羅盗難
山中喜八師の「房総に現存する日蓮聖人の自筆文書について」(千葉県郷土史研究連絡協議会編『郷土研叢書Ⅱ 日蓮 房総における宗派と文化』(昭和55年、千秋社、217頁)に、
「市川市中山の法華経寺は、おびただしい真蹟御書を所蔵するのに対し、大漫荼羅は一幅も現存しないので、いささか奇異の念を抱かしめるものがあるが、同寺三世日祐師の「本尊聖教事」(略称『祐師目録』。定本遺文第三巻に収載)や、日観師の『正中山法華経寺御霊宝目録』等の古記録によれば、同寺には古来八幅乃至十二幅を儲蔵していたことが明かであり、明治三十二年五月、盗難にあって全部を失ったものである」とあります。
また、『御本尊鑑 遠沾院日亨上人』(昭和45年、身延山久遠寺、193頁)に「明治三十二年五月七日盗難に依って「一夜に失われて了った」とあります。
601
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/28(金) 07:40:29
>594 れんさん >597 犀角独歩さん
>注法華経には3箇所ほど異筆があり山中師は日興筆と推定
『山中喜八著作選集Ⅱ 日蓮聖人真蹟の世界 下』(平成5年、雄山閣出版、5頁、以下「真蹟の世界 下」と記します)に
「この十巻の表裏に注記したまえる経論釈の要文は、合計二千百七章(4)の多数に上り、日興師の筆と想われる三章(5)を除けば、他は悉く聖人の御自筆である。
〔注〕
(4)連続して同一書を引かれた場合でも「又云」と標したものは別章に数え、表題のみのものもこれを一章と見做し、聖祖の附加せる設問または標目等は章数に加えなかった。
(5)他筆による注記は、第一巻に般若経(一−七)、第二巻に大品経(二−一七八)、第四巻に大論(四−一二三)の各一章ずつが存する。なお括弧内の数字は、定本注法華経が附した御注記番号である。」とあります。
「真蹟の世界 下」に入集している「定本注法華経解説」は、昭和55年に法蔵館より刊行された山中喜八編著『定本注法華経』(上下二巻)からの転載です。
この「定本注法華経解説」の前半部分は『大崎學報 第109号』(昭和34年、立正大学仏教学会、43頁)の山中喜八氏による「注法華経私考」と内容的には同じです。但し随所に推考の跡があります。上記引用箇所と同じ部分は「注法華経私考」(44頁)では
「この十巻の表裏に注記したまえる経論釈の要文は、筆者の数えるところでは(3)合計二千百○七章の多数に上り、第一・第二及び第四巻に存する各一章ずつの他筆を除けば、他は悉く聖筆によって埋め尽くされている。
註
(3)連続して同一書を引かれた場合でも「又云」と標したものは別章に数え、表題のみのものも之を一章と見做し、設問又は標目の祖語は章数に加えなかった。」とあり、特に「真蹟の世界 下」で“日興師の筆と想われる”の箇所が「注法華経私考」では“他筆”となっています。
宮崎英修・茂田井教亨編『日蓮聖人研究』(昭和47年、平楽寺書店、461頁)に「注法華経について」と題する論文が入集していますが、「注法華経私考」を下書きにして推考した形になっていて「定本注法華経解説」の前半部分と「注法華経について」はよく一致します。「注法華経について」で上記相当部分がどうなっているかというと、
「この十巻の表裏に注記したまえる経論釈の要文は、合計二千百○六章(4)の多数に上り、日興師の筆と思われる三章(5)を除けば、他は悉く聖人の御自筆である。
〔注〕
(4)連続して同一書を引かれた場合でも「又云」と標したものは別章に数え、表題のみのものもこれを一章と見做し、聖祖の附加せる設問または標目等は章数に加えなかった。
(5)他筆による注記は、第一巻に般若経(一−七)、第二巻に大品経(二−一七八)、第四巻に大論(四−一二三)の各一章ずつが存する。なお括弧内の数字は、清書本注法華経が附した御注記番号である。」とあり、「定本注法華経解説」と「注法華経について」とは数えた章数が一章異なる点、“想われる”と“想われる”の差、『定本注法華経』と『清書本注法華経』など枝葉の如き差しかありません。
602
:
犀角独歩
:2005/10/28(金) 08:48:29
まず、先のわたしの投稿
> その校閲を日興がし、不足を書き込んだ…、
というのは、やや不適切な表現でした。単に「日興が書き込んだ」とするほうが、まだ適切であったかも知れません。
> 600〜601
彰往考来さん、いつもながら、克明なご教示有り難うございました。
殊に、日等模写と稲田師の配慮のご観察、興味深く拝読しました。
注法華経のこと、これはれんさんにもお尋ねしたいところですが、日興が書き込みをしたタイミングは、いつのことなのでしょうか。日蓮の在世、はたまた、身延の廟に置かれ、日昭が持ち去るまでの間でしょうか。
先に取り上げた小林是恭師『二明王の曼荼羅』に「それにしても添書をする日興なる者」(大崎学報 112 P31)という表現があり、目を引きました。実はわたしも、はじめて日興が日蓮真筆漫荼羅ほかに書き込み(添書)をしていた事実を知ったとき、強い違和感を覚えたものでした。石山僧に問うたところ、「日興上人は僧宝にましまして、日蓮大聖人と一体の関係にある唯受一人血脈相承を受けているわけだから、日興上人のみがその権能を有する」云々といった説明を受け、当時、石山信念体系にあり、納得したのです。
しかし、今となっては、やはり、この日興の書き込みには違和感があります。裏書きでも、脇書きでもなく、聖筆に交えて書き込むことに対する嫌悪感です。もちろん、このことは上古から既に問題になっていたようで、『富士一跡門徒存知事』にも
「一、日興弟子分の本尊に於ては一々皆書き付け奉る事、誠に凡筆を以て直に聖筆を黷す事最も其の恐れ有りと雖も、或は親には強盛の信心を以て之を賜ふと雖も子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬いて之を授与すと雖も弟子等之を捨つ。之に依って或は以て交易し、或は以て他の為に盗まる。此くの如きの類其の数多きなり。故に賜はる所の本主の交名を書き付くるは後代の高名の為なり」
という弁明から窺えます。ですから、多の五老門派ではどう感じているのか興味がありました。よって、小林師の言は「やはり」という感じでした。
仮に、注法華経への日興書き込みが蓮師滅後の彼の期間であったとすれば、それを見咎めた日昭が慌てて聖筆保護のために持ち去った…等という類推は当たらないものでしょうか。もちろん、まるで思いつきです。お二方のご賢察を伺いたく思います。
なお、質問の趣旨とは、別に思い出したところを、書き付ければ、中尾師は、この日興の御筆漫荼羅への書き込みと『白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事』から、
御筆漫荼羅授与は、日興教化の弟子檀那から日興へ、日興から日蓮へと手継ぎを経て願い出、授与者本人が死去、退転をした場合は日興の元にいったん、戻され、そこで、添書をし、あらたな意義付けをして、再授与されていた…、と説明されていました。
まあ、そのための添書であっても、裏書きで十分ではないのかという思いはやはり拭えません。
603
:
れん
:2005/10/28(金) 19:07:35
注法華経の日興書き込みの時期…
私見では、日蓮在世、注法華経編纂時とみることも可能と存じます。というのも石山蔵の日蓮真蹟「諫暁八幡抄」第三十二紙から第三十三紙の間に十行程日興が代筆した箇所があることから、注法華経においても日蓮の編纂作業中において日興が代筆した可能性も無きにしもあらずと思えるからです。
日蓮図顕曼陀羅における日興添書については、中尾師のご見解が妥当と思います。私が94年に実見した日興書写曼陀羅(埼玉本法寺蔵)に弟子(日目と推定されている)が添書した例があり、日蓮の曼陀羅に日興が添書したように日興の曼陀羅に弟子が添書した史実があります。これも、中尾師の説の如くであろうと思います。日蓮が書した文字に対する信仰が定着した後世においては、日蓮の筆に異筆が交じることは不快に感じることも止む終えないと思いますが、日蓮や日興の曼陀羅における「…申与之」の添書は、それぞれ許可・許諾のもと、その在世に行われたと見るべきと思いますから、ことさらに問題視することもないと思いました。
604
:
犀角独歩
:2005/10/28(金) 19:52:31
れんさん、ご教示、有り難うございます。
> 許可・許諾のもと
なるほど。説得性のあるご教示でした。
このような例は、他の五老方の門派でもあったことなのでしょうか。
605
:
れん
:2005/10/28(金) 20:52:49
犀角独歩さん
現在公開されている資料で、私の管見にはいったものでは、日昭・日朗・日向・日頂・日持並びにその門下の曼陀羅に日興ならびにその門下の如き曼陀羅添書の例は無いようです。
606
:
犀角独歩
:2005/10/28(金) 21:10:21
れんさん、有り難うございます。
以上のことからすると、日興は、少なくとも文書漫荼羅に関して、日蓮から特別な許可を得ていたと考えられますでしょうか。
607
:
れん
:2005/10/28(金) 22:01:18
犀角独歩さん
日興は日蓮が図顕した曼陀羅の内、日興が教化した弟子・檀越のために日蓮に申請して下付された曼陀羅に添書する“許可・許諾”は師僧日蓮から得ていたと思いますか、現存する日蓮真蹟資料によるかぎり、日興は文字曼陀羅について何らかの“特別な許可”なるものは受けていなかったと考えております。これは他の老僧も同様と存じます。
608
:
れん
:2005/10/28(金) 22:18:25
蛇の足一本を加えるならば、現存する各種の日蓮自筆の経釈の要文類には日興のみならず、日蓮執筆部分に交じって他の門下の執筆(代筆?)部分がありますから、特に、日興だけが文書に関して特別な許可を得ていたというわけではないと考えます。
609
:
犀角独歩
:2005/10/28(金) 22:33:50
れんさん、重ね重ねのご教示、有り難うございました。
たいへんに参考になりました。
610
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/30(日) 15:59:52
>603 日蓮や日興の曼陀羅における「…申与之」の添書は、それぞれ許可・許諾のもと、その在世に行われたと見るべき
れんさん、
私は興師の蓮祖御本尊への添書時期は蓮祖滅後ではないかと考えています。もちろん蓮祖在世当時のものがある可能性を否定できませんが、すべてを在世当時のものとするには下記疑問点があります。
(1)興師の「弟子分帳」に記載がないのに、添書のある御本尊が存在し、第53番本尊などは蓮祖滅後と思われる興師の添書であること
(2)興師の「弟子分帳」に記載がありながら、添書のない御本尊が存在すること
の2点です。
まず(1)の「弟子分帳」に記載がないのに興師添書のある御本尊が存在することです。これは高木豊師がすでに指摘しています(『研究年報 日蓮とその教団 第4集』所収、「日興とその門弟」34頁)が、6幅(うち1幅曽存)あります。
(一)第12番本尊・・・「佐渡国法花東梁阿仏房彦如寂房日満相伝之」
(二)身延曽存(文永11年11月)・・・「因幡国富城五郎入道日常息寂仙房申与之」
(三)第53番本尊・・・「因幡国富城五郎入道息伊予阿闍梨日頂 舎弟寂仙房付嘱之」
(四)第55番本尊・・・「因幡国富城寂仙房日澄母尼弘安三年九月申与之」
(五)第100番本尊・・・「紀伊国切目刑部左衛門入道相伝之 子息沙弥日然譲与之」
(六)第111番本尊・・・「遠江サカラノ小尼給本尊也」
の6幅です。
これらは、「弟子分帳」の成立した永仁6(1298)年以後の添書であると考えると辻褄はあいます。詳細にみてみましょう。
(一)の第12番本尊ですが、“阿仏房彦(阿仏房のひ孫)日満”とあることから、蓮祖在世中の添書記載は有り得ないでしょう。
(二)の身延曽存の本尊ですが、“日常”とあることから、蓮祖滅後の添書と示唆されます。菅原関道師が指摘しているように「確実な資料による限り、富木日常の名乗りは永仁3年図顕の本尊が初見 」(『興風 第11号』平成9年、興風談所、365頁)であるからです。
(三)の第53番本尊ですが、弘安元年8月に頂師に授与されたものです。ここにはとの興師の添書があります。
頂師の富士への帰伏は正安4(1302)年とされ((『富士年表 』昭和56年、富士学林、62頁)、他)、寂仙房日澄の富士への帰伏は頂師帰伏の2年前の正安2(1300)年(『富士年表 』61頁、他)で、澄師は延慶3(1310)年3月14日寂((『富士年表 』67頁、他)です。頂師の寂年は文保元(1317)年(『富士年表 』70頁)ですから頂師が亡くなった後澄師に第53番本尊を付嘱されたのではないことは明白です。従って第53番本尊の澄師への付嘱、すなわちこの添書記載は頂師が富士に帰伏した正安4年になされたのではないかと推測するわけです。
(四)も上記(二)、(三)を考えると、同じ頃の記載ではないかと推測します。
(五)、(六)も永仁6年以後のものであることを否定できる内容ではありません。
次に(2)の「弟子分帳」に記載がありながら添書のない御本尊が存在することです。これも高木豊師が上述の論文ですでに指摘していますように日弁師に授与された第63番本尊で、「弟子分帳」には「富士下方市庭寺越後房者日興弟子也。仍所申与如件。但弘安年中背白蓮了」とあります。「弟子分帳」の記載から、当然第63番本尊に興師の添書があってしかるべきですが、弘安年中には弁師は興師の袂を離れていたわけで、興師の添書がないのは添書が蓮祖滅後に書かれたものであるからという考えを支持します。
以上のことから、蓮祖御本尊の興師添書のうち少なくとも何点かは蓮祖滅後の時期に書かれたと判断されます。
by 彰往考来
611
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/31(月) 07:28:35
>610 訂正です。
誤:(三)の第53番本尊ですが、弘安元年8月に頂師に授与されたものです。ここにはとの興師の添書があります。
正:(三)の第53番本尊ですが、弘安元年8月に頂師に授与されたものです。ここには「舎弟寂仙房付嘱之」との興師の添書があります。
612
:
れん
:2005/10/31(月) 12:09:29
彰徃考来さん。
ご教示、深く感謝しております。
勿論、日蓮図顕曼陀羅における日興の添書は、師日蓮の滅後になされたものも存することは存じ上げております。
私が、日蓮在世に日興が添書したと考える日蓮曼陀羅の記載は以下です。
本尊集第二六「南条兵衛…所申与如件」(別紙)
同第三二「富士西山…日興申与之」
同第三二の二「日興祖父河合入道申与之」
第六0「日興」(大廣目天玉の玉の點の中に残存)
第七六「富士下方…所申立如件」
第九二「甲斐国…申与之如件」
第九八「富士上方…日興」第一0四「富士上野…申与之」
第一0七「甲斐国…仍申与之」
第一一六「遠江サカラノ小尼給本尊也」
御本尊集収録のものでは、以上の添書以外は、上記の曼陀羅の他の日興添書を含め、彰徃考来さんのご指摘の通り、日蓮滅後の添書と考えます。
何れにしましても、私の舌足らずで、彰徃考来さんに、ご指摘の労をなさしめてしまったこと、深くお詫びするものです。
613
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/10/31(月) 12:36:09
>612 れんさん
なるほど、この10幅が在世の添書と考えておられるわけですね。
よく解りました。ありがとうございました。
ただ、私は第一一六「遠江サカラノ小尼給本尊也」(610で第111番本尊としたのは誤記でした。すみません。)については、在世であるかどうか確証はないと考えています。
高木師も滅後のものというご見解であったと記憶しています。
今後ともよろしく。
614
:
れん
:2005/10/31(月) 19:30:11
>613 彰徃考来さん
本尊集第一一六につきましての重ねてのご教示有難うございました。たしかに「…申与之」との表記と殊なる「遠江サカラノ小尼給本尊也」の添書は高木師並びに彰徃考来さんのご指摘の如く日蓮滅後の念記と見るほうが自然ですね。ご教示感謝いたします。
それにしましても、御本尊集一一六の日興添書で大曼陀羅を本尊と記していることは興味深いです。日興は自筆書写の大曼陀羅(上野本応寺蔵・元徳二年五月一日付)に「きしんたいふの□□□五郎太夫□子にさつけたふほんそんなり」と授与書を書し、やはり大曼陀羅を本尊と表記しています。第一一六の日興添書と上記の日興自筆の大曼陀羅の授与書によると、日興は日蓮図顕の大曼陀羅を本尊としていたことになるのですが、すると日興が日蓮図顕の大曼陀羅=本尊と規定した時期が気になるところです。その点、第一一六の添書が日蓮滅後と推定すると、日興における大曼陀羅=本尊という教義は師日蓮の滅後に、その成立をみたということになりましょうか。その点においても彰徃考来さんのご指摘・ご教示は参考になりました。有難うございました。
615
:
独学徒
:2005/11/11(金) 16:51:38
投稿場所が適切でないかも知れませんが、日蓮宗新聞11月10日号に以下の趣旨の記事が出ていました。
日蓮宗大本山中山法華経寺の、新井日湛貫首の発願によって制定された「富木学術奨励賞」に、第1回目の受賞者として日蓮教学研究所の都守基一師が選ばれました。
受賞対象となったのは、大崎学報159号所収「日蓮聖人書入『秘蔵宝鑰』古写本の影印と解題」、および昨年の日蓮宗教学研究発表大会にて発表された、「『善無畏三蔵抄』再考」との事です。
これまで真偽不明とされていた「善無畏三蔵抄」ですが、断簡149が当御書の一部であることが都守師の研究によって確認され都守師の発表後、興風談所「御書システム」も6⇒2へと当御書の信頼度をアップしています。
616
:
犀角独歩
:2005/11/11(金) 22:34:47
どこに記してよいか迷いましたが、こちらにさせていただきます。
彰往考来さん
頂戴した『大崎学報』第86号掲載、影山堯雄著『日蓮宗の絵曼荼羅について』、同掲載、稲田海素著『祖書鑽仰史談(2)』は前号掲載の(1)と併せ読み、また、第105号掲載、山中喜八著『註法華経の御所引と御義・向記並に金綱集との関連について』、『棲神』第32号『注法華経の注記年代について』も目を通しました。あとは、執行海秀師の注法華経に係る論文も拝読しようと思っております。
影山師が絵曼荼羅に拘るのは、字像漫荼羅圏にあった自分には新鮮でした。一塔両尊の奉安に就き、塔外に二仏が置かれることに異議を唱えていたわたしにとって、この点に既に昭和29年時点で確りと見識を示されていたのは、納得がいきました。
稲田師の禄内・禄外、殊に二箇相承、日朗譲状に関する鑑識眼は参考になりました。また、山中師の注法華経に関する分析もまた、然りです。
それにしても、彰往考来さんの図画に関する‘目利き’には改めて敬服します。
有り難うございました。
617
:
犀角独歩
:2005/11/11(金) 22:39:14
615 独学徒さん
都守の受賞、喜ばしいニュースだと思いました。
わたしが声援を送っても知り合いではないので、あまり、意味はありませんが、昨年の師の発表は拝聴していますから、あの研究であれば、当然という思いがあります。
小松師は、遺文講義の折、『善無畏三蔵抄』から同師に触れ、「彼は遺文のほとんどが頭に入っているのではないのか」とその能力を高く評価されていたことが思い出されました。
わたしも心から喝采を送るものです。
618
:
犀角独歩
:2005/11/11(金) 23:03:28
【617の訂正】
尊称を落としてしまいました。
誤)都守の受賞
正)都守師の受賞
619
:
独学徒
:2005/11/12(土) 17:00:46
617犀角独歩さん、
私も都守師の受賞に心から喝采を送ります。
そしていつの日か、「富士門流信徒の掲示板」参加者より、受賞者が出られることに胸を膨らませる思いです。
620
:
ラスカル
:2005/11/13(日) 07:41:44
初めまして。日蓮聖人の遺文・御書に関心ある者です。私が思う所は「仏像には勤行、文字曼陀羅には唱題」としか考えられない。分派の経緯、教義の別は一先ずおくとして「日蓮の思想哲学」を記した文章がどれくらいチェックできるのか。其れが気になる所です。貴方々の議論を全て読んだわけではないのですが、此こを見つけ以前よりも気になりました。いきなりですが、日蓮聖人の文書を読めるHPサイト、貴方々の議論の成果がわかるHPサイトがあれば教えてもらいたいです。我儘書いてすみません。
621
:
パンナコッタ
:2005/11/13(日) 15:27:08
ラスカルさん、とりあえず、
現宗研 文献資料
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/bunken.htm
御書システム コラム
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html
Gohonzon Shu
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html
日蓮聖人御本尊集 http:////www.lbis.jp/gohonzon/
あとは、膨大ですが過去スレを順に見ていくのが、いいかと思いますけど。
622
:
ラスカル
:2005/11/13(日) 15:55:17
パンナコッタさん、ありがとうございます。
623
:
犀角独歩
:2005/11/15(火) 19:36:32
彰往孝来さん
資料のご送付、誠に有り難うございました。
山中氏は両編、浅草寺はしっかりと全部。妙光寺百年史は該当箇所を、日興上人の御入門時期拝考はざっと眼を通しました。
山中師の‘注’法華経の賢察、ようやくと落着しました。有り難うございました。また、同封の清書本注法華経数葉、あれだけ丁寧に浄書されていますので、あまり苦もありません。影本と対照して読んでみたいと思います。「なんだ、いまさら」と言われそうですが、山中師は由比一乗と交流があったことを略歴を読み、始めて知りました。
浅草寺の御前立本尊の説明、こんな次第かと面白く思いました。それにしても、あの東京大空襲で燃やされた五重塔、優美な姿だったんですね。最上段の屋根のそり返りが、いいですね。
妙光寺百年史、該当のもの、現物、見られませんかね。
最後の日興上人の御入門時期拝考、これは論文として落第点ですね。『法華本門宗要抄』の真偽論考をしているのはまだいいとして、『三大秘法抄』『日蓮一期弘法書』を手放しで真筆扱い、問題外ですよ、これは。高木説に疑義なんていえるレベルじゃありません。初めの一歩で躓いている門派の牽強付会から脱却できていません。
まあ、しかし、彰往孝来さんが「読め」と仰るわけですから、なにかよいところもあるのでしょうね。しかし、砂利や、ごみが入った飯を白米だけで箸でつまみながら食べるようなもので、食傷するのはわたしのわるいところでしょうか。
余計なことを記しました。ともかくも、一言御礼まで申し上げます。
624
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/16(水) 07:56:15
犀角独歩さん
>623 日興上人の御入門時期拝考、これは論文として落第点です
論文として考えると石山という枠に閉じこもった議論でとても通用するものではなく、おっしゃるとおりと私も思います。まあしかし、石山の見解ではないものの『法教学報』に載せていますので、石山はおおよそこのような考えであろうと思量します。あと、種々引用資料を記載していますので、それらを追って読んでみるつもりです。喧嘩両成敗ではありませんが、双方の意見は聞くべきですから、その意味であるテーマに対して幅広く色々な方の先行論文を読む必要があると考えます。その上で批判すべきは批判するということでしょう。でなければ何を言っても北林氏のように“犬の遠吠え”にすぎませんからね。
今、蓮祖の岩本入蔵を調べていまして、今回の論文はその調査中の資料の一環です。この論文だけ貴殿へ送るのではそれこそアホみたいですから、おまけとして送付いたしました。それほど他意はありません。
送付しました資料にありますように、鶴岡八幡宮にありました一切経は現在浅草寺にあります。これは元の時代の版ですので、蓮祖在世当時にあった可能性が大です。
それに対して現在の岩本実相寺のものはいつのものなのでしょうか?後世のものであれば、蓮祖が岩本入蔵した証拠にはならないわけです。
先行論文を丹念に調べながら調査中ということでご理解ください。
なお、浅草寺では右に不動、左に愛染を配置しているのですね。ちょっと面白いなと思いました。
625
:
犀角独歩
:2005/11/16(水) 09:58:52
彰往考来さん
> 意味であるテーマに対して幅広く色々な方の先行論文を読む必要がある
もちろん、仰るとおりですね。
> 一切経は現在浅草寺
この記述は、見落としませんでした。
「宝蔵門所蔵の『元版一切経』5428巻は、鎌倉の鶴岡八幡宮の所蔵であった。源頼朝の夫人北条政子が息子頼家の追善回向のために奉納したもので、そのため各巻ごとに『鶴岡八幡宮』の朱印が捺(お)されている。これが浅草寺が所有するようになったのには理由がある。明治になって神仏分離例が発せられるや、あわや焼却処分にされるところを、貞蓮尼が托鉢によって得た資金で買い求め、浅草寺へ明治4年(1872)に奉納した。さて、鎌倉から浅草までの道のりは長い。まず『百八十函』の一切経を品川まで船で、それから大八車で寺に運んだ。その時大いに力を貸したのが新門辰五郎であった。か弱い尼僧の捨身の行、鳶の頭の心意気…」(図説『浅草寺 今むかし』 1996年11月21日初版第1刷、編集・発行:金龍山浅草寺)
資金で買ったとありますが、焼却しようとしたわけだからロハで出せばよいものを思ったのはげすの勘ぐりでしょうか。しかし、鶴岡八幡宮から海路、品川まで、そこから火消しの親方が一肌脱いで、大八車(今の若い人は読める?)で浅草まで。これはけっこうな距離があります。品川まで船が大きいものであっても、積み直して小さな船で隅田川に入れば、もっと楽だったのではないか…。余計な想像を膨らませて、楽しい思いになりました。わたしはあのポンポン蒸気が好きだったもんですから、隅田川を船と考えたわけです。面白いと思ったのは、八幡宮一切経奉納も女性、それを浅草寺に移したのも女性と言うことです。
それはともかく、彰往考来さんのご論攷で、ポイントになるのは北条政子が一切経を八幡宮に奉納した時期の正確な特定、さらにそれを青年僧・日蓮が閲覧できるかどうかから始まるのでしょうか。
岩本実相寺は、本年の夏、本化ネットワークの夏季合宿の観光コースに入っていたので行きました。上杉師が「高木先生は、日蓮聖人は、ここで一切経を見ていないといったんだ」とコメントされて、向かいました。「では、何のために聖人は、この地方にやってきたんでしょうか」という質問になったわけですが、すると「富士を間近にする日本最勝の景、本門戒壇の建立候補地として」みたいなことを仰って、にやりと笑っていらした。どこまで本心かわかりませんが、ロマンがある展開だと思ったものでした。
> 調査中ということでご理解
もちろん。それは理解しております。
ただ、『法教学報』の如く、時代に取り残されて、純粋な学問のような体裁を取りながら、あれだけ丹念に調べても、結局は、嘘を書かなければいけないのは‘お気の毒’という、まあ、同情のようなものです。しかし、これはもちろん、彰往考来さんにもの申すなどということではなく、キリスト教の中世暗黒時代の説教のように、狩られないように、お上に触れないように、当初からある結論に向けてまとめる文章が如何に虚しいかということへの憤慨を書いたのに過ぎません。もとより、北林氏など問題外ですが、このようなものまで、丹念に渉猟される彰往考来さんには、改めて敬意を表します。研究成果をお待ち申し上げます。
626
:
パンナコッタ
:2005/11/17(木) 12:55:48
すみません、単純な愚問なのですが、北条政子が元版一切教を奉納というのは
時間的に無理なのではないでしょうか。
元の建国は1271年ですし、政子とチンギス・ハーンはほぼ同世代の人ですから、
奉納するとすれば蜀版大蔵経あたりだと思うのですが。
面白そうなので是非、纏まった時点で研究成果をご披露していただきたいと切に願います。
627
:
犀角独歩
:2005/11/17(木) 22:18:46
パンナコッタさん、なるほどというご指摘でした。
たしかに時系列が合いませんね。
しかし、いま浅草寺にあるのが元版であるというのが動かず、北条政子奉納が加上、もしくは伝説ということはないでしょうか。取り敢えず、専門家がこれを見ていないとは考えられず、版を読み違えるというのは、あり得そうもない気がするのです。
いや、しかし、これは単なる感想に過ぎません。ちゃんと調べてみたほうがよろしいですね。
628
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2005/11/19(土) 10:19:03
>626, 627 パンナコッタさん、犀角独歩さん
>蜀版大蔵経
http://www.nagoya30.net/temple/kyosin/sin-iti/lekcio/aboutsutra.html
「木版印刷による最初の大蔵経は、宋の太祖・太宗の両朝、971年から983年にかけて蜀で印刷出版された。これは「蜀版大蔵経」と呼ばれ、毎行14字詰の巻子本の形式であった。」
「平安時代末から鎌倉時代にかけては、栄西、重源、慶政その他の入宋僧の努力で、『宋版一切経』が輸入された。」
とあるように「蜀版大蔵経」は巻子本です。『図説 浅草寺』(1996年、金龍山浅草寺、34頁)の写真で判断する限り、浅草寺蔵元版一切経(鶴岡八幡宮旧蔵)は折本ですので、北条政子が「蜀版大蔵経」を奉納したということでははないでしょう。
「元版一切経」は1269年〜1285年にかけて出版されたようです。
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/taka0210/daizou.htm
に「元版も1269年〜85年にかけて出版」とあります。
1269年は文永6年で、蓮祖が立正安国論を幕府に献したのが文応元(1260)年ですから、蓮祖が鶴岡八幡宮旧蔵の一切経を閲覧したというのは「元版一切経」の発行年から判断する限り時代が合いません。パンナコッタさんがご指摘されているように、元の建国は1271年ですから、蓮祖がご覧になった一切経は時代的にみて「宋版一切経」ではなかったかと考えていますが確証はありません。南宋は1127年 〜1279年です。
浅草寺蔵元版一切経(鶴岡八幡宮旧蔵)で北条政子ウンヌンというのは後世に付託された縁起の類でしょう。
629
:
パンナコッタ
:2005/11/19(土) 15:42:43
なるほど、「宋版一切経」ですか。
参考に、似た様な話で「宋版一切経」が鹿島神宮に奉納されたという、
http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/ken/syoseki/5-16/5-16.htm
県指定文化財なので出所は確かだと思いますが。
630
:
とんび
:2005/12/20(火) 19:44:25
みなさん、こんばんは。
蓮祖の御書に於いて、真跡ないし信頼できる古写本のない御書をあげます。
(平成新編日蓮大聖人御書、大石寺版から)
これは、みなさん宛ではなく、ここにアップして印刷し、私自身の参考資料にしたい
と思いました。いちいち前ページをめくり確認では、大変なので。
631
:
とんび
:2005/12/20(火) 20:03:25
真跡ないし信頼できる古写本のない御書。その一。(平成新編大石寺版御書から)
これは、個人的見解なので皆さんの指摘を受けます。
戒体即身成仏義
戒法門
色心二法抄・・・・・日春筆・・・この人を知りません。
蓮盛抄
念仏無間地獄抄
一生成仏抄
主師親御書
十二因縁御書
三種教相事
衣座室御書
六凡四聖御書
一念三千理事
十如是事
一念三千法門
総在一念抄
武蔵公御房御書
念仏者追放宣旨御教事
十法界事
爾前得道有無御書
二乗作仏事
十法界明因果抄・・・・・日進筆・・・この人しりません。
今此三界合文
後五百歳合文
日本真言宗事
船守弥三郎殿許御書
同一鹹味御書
632
:
とんび
:2005/12/20(火) 20:13:45
真跡ないし信頼できる古写本のない御書。その二。(平成新編大石寺版御書から)
これは、個人的見解なので皆さんの指摘を受けます。
四恩抄
教機時国抄
持妙法華問答抄
月水御書
法華真言勝劣事
当世念仏者無間地獄事
念仏無間地獄事
題目弥陀名号勝劣事
禅宗天台勝劣抄
秋元殿御返事
上野殿後家尼御返事
女人往生抄
女人成仏抄
星名五郎太郎殿御返事
宿屋入道許御状
北条時宗への御状
(以下十一通御書と呼ばれる、各人・寺宛のものは
全部真跡なしで省略)
633
:
とんび
:2005/12/20(火) 20:24:38
真跡ないし信頼できる古写本のない御書。その三。(平成新編大石寺版御書から)
これは、個人的見解なので皆さんの指摘を受けます。
弟子檀那中への御状
聖愚問答抄上・下
真間釈迦仏御供養遂状
富木殿御返事(文永7年)
善無畏三蔵抄
真言天台勝劣事
真言七重勝劣
月満御前御書
南部六郎殿御書(文永8年5.16)
四条金吾女房御書
四条金吾殿御書(文永8年7.12)
一昨日御書
四条金吾殿御消息(文永8年9.21)
佐渡御勘気抄
土籠御書
富木入道殿御返事(文永8年11.23)
早勝問答
生死一大事血脈抄
草木成仏口決
634
:
とんび
:2005/12/20(火) 20:40:17
真跡ないし信頼できる古写本のない御書。その四。(平成新編大石寺版御書から)
これは、個人的見解なので皆さんの指摘を受けます。
佐渡御書
最蓮房御返事(文永9年4.13)
得受職人功徳法門抄
同生同名御書
四条金吾殿御返事(文永9年5.2)・煩悩即菩提書
真言見聞
経王御前御書
最蓮房御返事(文永10年1.28)・祈祷経送状
諸法実相抄
義浄房御書
如説修行抄・・・・・日尊筆・・・・・信頼できる人に入るか?
経王殿御返事
大果報御書
妙法曼陀羅供養事
当体義抄
当体義抄送状
呵責謗法滅罪抄
弥源太殿御返事(文永11年2.21)
弥源太入道殿御返事
主君耳入此法門免与同罪事
635
:
とんび
:2005/12/20(火) 22:33:47
真跡ないし信頼できる古写本のない御書。その五。(平成新編大石寺版御書から)
これは、個人的見解なので皆さんの指摘を受けます。
顕立正意抄・・・・・日春筆・・・・・信頼できる人か。
三沢御房御返事(文永12年2.11)
立正観抄・・・・・日進筆・・・・・信頼できる人かな
日朝筆・・・・・ 〃
立正観抄送状・・・日進筆・・・・・信頼できる人かな
日朝筆・・・・・ 〃
四条金吾殿御返事(文永12年3.6)・此経難事書
阿仏房御書
曾谷入道殿御書(文永12年.3)・方便品長行事
四条金吾殿御返事(建治1年7.22)
乙御前御消息(建治1年8.4)・与日妙尼書
上野殿御書(建治1年8.18)
単衣抄
阿仏房尼御前御返事
蒙古使御書
観心本尊得意抄
除病御書
上野殿御消息(建治1年)・本門取要抄
其中衆生御書
上行菩薩結要付嘱口伝
大井荘司入道御書
南条殿御返事(建治2年3.18)
妙密上人御消息
舂麦御書
四条金吾殿御返事(建治2年6.27)
報恩抄送状
曾谷殿御返事(建治2年8.2)・成仏用心抄
道妙禅門御書
四条金吾殿御返事(建治2年9.6)・有智弘正法事
九郎太郎殿御返事
松野殿御返事(建治2年12.9)・十四誹謗抄
本尊供養御書
西山殿御返事(建治2年)
松野殿御消息(建治2年)
破良観等御書(建治2年)
兵衛志殿女房御書(建治3年3.2)
六郎次郎殿御返事
教行証御書
弥三郎殿御書
松野殿御返事(建治3年9.9)
四条金吾殿御返事(建治3年秋)・告誡書
兵衛志殿女房御返事(建治3年11.7)
太田殿女房御返事・八寒地獄事
曾谷入道殿御返事(建治3年11.28)・如是我聞抄
大白牛車書
法華経二十重勝諸教義
四条金吾殿御返事(建治3年)
四条金吾殿御書(建治4年1.25)
636
:
とんび
:2005/12/20(火) 23:06:18
真跡ないし信頼できる古写本のない御書。その六。(平成新編大石寺版御書から)
これは、個人的見解なので皆さんの指摘を受けます。
太田左衛門尉御返事
華果成就御書
妙法尼御返事
阿仏房御返事(弘安1年6.3)
米穀御書
六難九易抄
弥源太入道殿御消息
妙法比丘尼御返事
上野殿御返事(弘安1年9.19)
大田殿女房御返事
四条金吾殿御返事(弘安1年10)・所領書
千日尼御前御返事(弘安1年閏10.19)・青鳧書
四条金吾殿御返事(弘安1年閏10.22)
法華初心成仏抄
根露枝枯御書
松野殿後家尼御前御返事
上野殿御返事(弘安2年4.20)・杖木書
新池殿御消息
四菩薩造立抄
出家功徳御書
曾谷殿御返事(弘安2年8.11)・五味主抄
日女御前御返事(弘安2年8.23)
異体同心事
寂日房御書
四条金吾殿御返事(弘安2年10.23)・剣形書
三世諸仏総勘文教相廃立
中興入道御消息
右衛門大夫殿御返事
本門戒体抄
秋元御書
新池御書
日住禅門御返事
上野殿御返事(弘安3年3.8)
妙一尼御前御返事
浄蔵浄眼御消息
妙一女御返事(弘安3年7.14)
内房女房御返事
松野殿女房御返事(弘安3年9.1)
妙一女御返事(弘安3年10.5)・法華即身成仏抄
四条金吾殿御返事(弘安3年10.8)
刑部左衛門尉女房御返事
十八円満抄
日厳尼御前御返事
637
:
とんび
:2005/12/21(水) 23:51:36
真跡ないし信頼できる古写本のない御書。その七。(平成新編大石寺版御書から)
これは、個人的見解なので皆さんの指摘を受けます。
四条金吾許御文
椎地四郎殿御書
八幡宮造営事
小蒙古御書
治部房御返事
南条殿御返事(弘安4年9.11)・鶏冠書
上野殿御返事(弘安4年9.20)
大夫志殿御返事(弘安4年12.11)
大白牛車御消息
妙法尼御前御返事(弘安4年)・明衣書
春初御消息
三大秘法禀承事・・・・・日時筆・・・・・微妙だと思います。
慧日天照御書
三種教相
一代五時鶏図(不詳)
一代五時継図(不詳)
釈迦一代五時継図
その他
大石寺に伝わる相伝書は、すべて偽書の疑いありとします。
日興上人の御教示から
富士一跡門徒存知事
五人所破抄・・・・・日時筆・・・・・大石寺六代の法主なので疑問
日興跡条々事・・・・・日興筆・・・・日興筆とあるが、指摘のごとく偽書の可能性
日興遺誡置文
638
:
ROM専
:2005/12/22(木) 11:53:20
ttp://www.hct.zaq.ne.jp/renjouji/goibunhyo.html
↑ここのサイトに、サイト管理人氏が作った御書の真筆度表がありました
(サイトの管理人さんは“独断と偏見”と断りを入れています)。
が、現在は残念ながらウィンドウズ版はなくなってしまっていますね。
639
:
パンナコッタ
:2005/12/22(木) 12:34:57
とんびさん、
導入された御書システムを使えば、今思っている疑問は
ほぼ解消されると思いますよ。
640
:
とんび
:2005/12/22(木) 19:15:21
訂正。その七にて
上野郷主等御返事(弘安5年1.11)を追加します。
古写本が、形木だというので、日蓮さんの真筆または、直弟子のものではないと思います。
641
:
とんび
:2005/12/22(木) 19:24:59
パンナコッタさん、こんばんは。
まだ御書システムの機能を使いこなせているわけではなく、桐自体縁がなかったせいか
時々、終了しなくてはならない事態になったりしています。
これは、真跡にない「言葉」を検索して検討する..ということでしょうか。
たとえば、良く聞く「無作三身」とか「三身即一身」とか。
真偽の検討は、教学や法門をよく理解した上で、また、特定の宗派の教義に偏らない
姿勢が大事だと思うので、なかなか難しい問題ですよね。
642
:
パンナコッタ
:2005/12/23(金) 01:16:06
とんびさん、
いえ、御書システムの辞書機能で検索すれば大抵のことが解るはず(例えば日朝本録外目録とか)
と言うことです。
やはり前提として、C0〜C9(クラス)という概念を頭に叩き入れておいた方がいいでしょうし、
2資料 で、その遺文の大まかな成り立ちを掴んでから本文に入ったほうが良いですね。
真蹟のある物は 1本文 画面で、↓やpgDnで比較しながら見られますし、無いものは
直読表示されませんので判断出来る材料になります。(通常は 3通読 画面の方がよいでしょう)
>特定の宗派の教義に偏らない姿勢
富士系は寛師文段や六巻抄等の、後世の概念が初めにありきなのでずいぶん偏っていますから、
真摯に真蹟部分の遺文を読むことが何よりも大事になってくるでしょう。
643
:
犀角独歩
:2005/12/23(金) 09:27:32
真跡遺文について、『平成新修日蓮聖人遺文集』が、取り敢えず、いちばん、信頼度が高いことになります。しかし、それでも、この編纂も不完全で、現在、立正大学小松邦彰師によって御遺文講義が行われ、その可否が補われています。小松師は、同書編纂の顧問の一人です。わたしは、この講義を聴講していますが、特に執筆年代については、しばしば異見が提示されています。
また、パンナコッタさんとも議論になりましたが、日蓮は、独自、または当時の慣用的な記述が多く見られ、その点を現代字に書き換えてしまうと、実は本意を変えてしまっているものもあります。
省書
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/nitiren_sinseki_shyohsho.jpg
(クリックしても飛びませんので、アドレスバーにコピペしてください)
以上の点は山上ゝ泉師著『日蓮聖人遺文全集講義』第29巻(別巻1)日蓮聖人遺文の文章法研究に出ています。この書をわたしは三学無縁師に勧められ、拝読し、まさに目から鱗が落ちる思いをなしたものでした。しかし、同書は新疑偽の峻別を目的にしていないので、この点では別に学ぶ必要があります。
なお、小松師は、遺文上、明らかに誤りと思える記述、また、引用文書の不揃いもそのままとして、研究したほうがよいという見解を示されていました。もっともであると思った次第です。
いずれにしても、これは各出版に言えることですが、誤植もありますので、一出版遺文集に頼る蛮勇はわたしは生じません。殊に大石寺版などは、何ら証憑性もないのであって、学術論文の対照文献としても採用されていないものです。この手の門派出版は批正のための資料にすることはあれ、中心に据えれば、その時点から既に躓くことになります。
わたしは、この点では御書システムといえどもも無謬ではないと考えます。
なお、無作三身、三身即一身等について問題がありましたが、この点を考えるとき、中古天台本覚思想の知識なくしては一歩も進めません。また、最低でも法華六大部を読んでいなければ、この点は捌けません。さらに教学は時代を経て成句と思想が醸造されるわけですから、いつの時代、誰、どの集団から言われるようになったかを知らなければ、捌くことはできません。その意味で執行海秀師『日蓮宗教学史』は必読書です。
無作三身は真跡遺文になく、疑偽書にあります。しかし、三身の使用は真蹟に見られます。三身即一身は天台・法華文句に見られ、注法華経に見られます。それにも拘わらず、真蹟では見られません。
また、一念三千という成句は真疑偽通じて散見できますが、言葉が同じであっても意味するところが違います。たとえば、御義口伝で言う一念三千は日蓮があずかり知らない(たぶん、偽書である)秘密荘厳論にいう一念三千であり、これは真蹟で見られる日蓮の用法とは違っています。
なお、日蓮の場合、天台文献をそのまま墨守するのではなく、採るものは用い、採らざるは用いずという取捨選択に教学の特徴があります(片岡・山中説)故に、日蓮が、台学の、何を採り、何を採らなかったを知る必要があります。そのためには『注法華経』の知識が必要になります。
以上、雑駁ながら、日蓮門下一般では、以上の点は最低限の基礎として議論されています。ですから、あれこれ、思案し、類推し、想像を逞しくするより、まずは、最低限の基礎文献を十分に読み込むことに尽きます。そのためには数年の歳月は要するでしょう。議論というのは、それからの話です。
644
:
パンナコッタ
:2005/12/23(金) 11:38:53
”法花経”なんてのは、典型例でしょうか。 日興写本にもありますがケースバイケースですし
これも蓮祖真蹟とは当然区別して考えなければ当然ダメでしょう。
むろん御書システムの 2資料 でも、未決文に関してお茶を濁すような記述が多々見られますので
注意が必要ですし、HPのコラムを参考にしていかなければいけない点でしょう。
645
:
犀角独歩
:2005/12/23(金) 12:48:34
ここのところ、風邪を引いていて、(こんなことを書くと、仏敵・魑魅魍魎、頭破七分とか言われそうですが(笑))資料手放しで失礼します。
パンナコッタさん、真跡遺文では法花経、妙法蓮花経、華の使用なしで一環でしたか。
文章上の5字、法華経の成句と信仰対象のそれを書き分けていたと言うことでしょうか。となれば、これを継承されてしかるべきであったことになります。
判の形も漫荼羅と消息だと違っていました。この辺は彰往考来さんが詳しかったでしょうか。
たしか問答さんと議論したことがあったと思うのですが、論文の場合、書名花押なしで、抄文は冒頭に地位と署名といった体裁でしたか。まあ、ここら辺の文章法は当時一般を倣っているのでしょうね。
646
:
犀角独歩
:2005/12/23(金) 13:02:58
先ほど、挙げた山上師の記述に
「聖人の遺された有らゆる文篇には『法華経』の『華』の字を必ず『花』と書いてある。『太田殿女房御返事』(1,272)や、『曽谷入道殿御返事』(1,653)に見える『妙法蓮華経』といふ五字の中の『花』も、佐渡夷港妙法寺伝来聖筆題目板木の『南無妙法蓮花経』の『花』も『華』ではない。たゞし、大聖人図顕の大曼荼羅には、(一遍首題や初期の本尊などに見えるような一二の例外はあるが)『華』の書体を以てせられるのが恒例であつた」(日蓮聖人遺文全集講義第廿九巻第二篇第一章第十四節第九項、大林閣印刷部、昭和7年5月1日発行 P83)
と、ありました。前に引用したことがあったかも知れません。
647
:
パンナコッタ
:2005/12/23(金) 16:24:25
独歩さん、
ちと時間の都合が今とれないためチェックするのには、しばし猶予をお願いします。
差異の典型的な例としては、建治元年七月二日 平賀本土寺蔵の”大学三郎殿御書”の部分で、
如佛/説勘之法花經之外花嚴經/大集經般若經大日經深密經/等諸經但小衍相対也但/限法花經計以已今當爲/眷属修多羅
(嚴 般若 密 羅 は略字) 北山蔵の日興写本では、
如佛説勘之法華/經之外華嚴經/大集經般若經大日經深密經等諸/經但小衍相對也但限法華經計以已今當為眷属修/多羅
とのことで、筆使いの癖による略字なのかとも思いましたがどうなんでしょうか?
ぜひ、この辺のことについては、れんさんのご見解もお願いしたいと思います。
648
:
とんび
:2005/12/23(金) 21:15:25
パンナコッタさん、こんばんは。
まだまだ、システムの使い方はよくわかっていません。いろいろとこれから試して
みたいと思います。
それから、同じ御書でも、大石寺版の御書の年代と御書システムの年代とズレのある
御書があります。やはり真蹟がなくはっきりとした年代が特定できないものは、見解が
わかれるのでしょうか。
C0〜C9(クラス)というのは、御書システムで調べればわかるのですか?。
649
:
とんび
:2005/12/23(金) 21:43:33
犀角独歩さん、こんばんは。
とにかく、ここで論じられることについて、いろいろな文献が示されるので、大変有意義
なことであると思います。
その引用先をみるにつけ、頭の下がる思いがします。
>執行海秀師『日蓮宗教学史』は必読書です。
機会があれば、この所ぐらいは読んだ方がいいのかな..と思います。
法華六大部などは遠く及ばず、注法華経は、よく知らないのですが、御義口伝のことではなく、
その御義口伝は、注法華経を日蓮さんが解釈したものなのだ..と推測します。
教学的なことは、ここにおられる先輩諸氏、学識あり知識ある人には、遠く及ばす、また恐らく、
一生かかっても追いつくことはないでしょう。ゆえに皆さんにとって有意義な議論的なものは提供
できないのかな..と思います。
真偽未決の問題、偽書の疑いの程度については、信頼のある学者の意見を参照にするのが早いと
思います。ただ一人の意見を参考に..ではなく、できれば複数の人の意見を参考にした方が良いと
思います。
得意でない分野は、やはり専門家の意見を聞いた方が早いと思います。
正宗の人と、話をする場合に於いては、日蓮さん=仏なので、日蓮さんの御書=経文 ですから
同じ御書を用いて、蓮師の遺文にあるように、
経文に明らかなのに釈を訪ねるか。(趣意)で、いわば御書だけで議論ができます。
いわば、御書の遺文と違う解釈の、日興上人の遺文や、六巻抄や、金口の相承なるものがあっても
(そんなことは知らなくでも)、経に背いて釈を信ずるのか..といえますが、そんなレベルではありま
せんね。
650
:
れん
:2005/12/23(金) 22:42:38
パンナコッタさん。
ご指摘の蓮師真蹟と興師写本との字の表記の相違は、仰る通り基本的には興師本人の筆癖によるものと思います。蓮師における花の表記が興師写本では華になっている等は、花を華に改めても本文の流れや意味そのものは変わりませんから、本文の改竄という性質のものではなく、蓮師の使用した略字をごく一般に使用される表記にしたのは、読者の拝読の便を考えての処置ということも考えられると思います。やや雑駁ながら、以上ご参考まで。
651
:
犀角独歩
:2005/12/23(金) 22:58:23
とんびさん、こんばんは。
掻い摘んで。
> 御義口伝は、注法華経を日蓮さんが解釈した
さにあらず。御義口伝は正式名を『就註法華経口伝』、すなわち、註法華経に就(つ)いての口伝となっていますが、実は、注法華経とは対照していません。
つまり、御義口伝の作者は、注法華経を読んでいないと言うのが、片岡・山中両師の研究の結論です。これは信憑性で言えば、100%に限りなく近いと、わたしは考えます。
ですから、日蓮の解釈と言うことも成り立ちません。
> 皆さんにとって有意義な議論的なものは提供できないのか
こんなことは考える必要はないと思いますよ。
あなたが書いていることは、ああ、数十年前にこんなことを考えていたこともあったっけということばかりですから。
> …信頼のある学者
なにをもって信頼とするのでしょうか。信頼を見極めるためには、自分の学識と素養が必要です。
> ただ一人の意見を参考…複数の人の意見を参考
これは当然のことです。
> そんなレベルではありませんね。
そうですね。そんなレベルの話ではありませんね。
652
:
犀角独歩
:2005/12/24(土) 10:51:16
パンナコッタさん
この対照、実に興味深いですね。
日興の写本の姿勢というのは、案外、実質的と思えました。
嚴は「ム」、般若は「舟*若」(偏に舟、旁に若)、密は「宀」、さて、羅は「四/タ」(四の下にタ)?でしょうか。
日興は写すに当たり、日蓮の省借、訛、略音、古語、異称、御勢的表音的言語等について、どれくらい、訂しているのか、ロムの研学者の嗤いを誘いそうですが、正直、わたしはまだまるで当たっていません。ご教示いただければ幸甚です。
日興がどれほど、いわば校正しながら訂したかわからないのですが、ご紹介いただいたわずかな行でも「花」を「華」に訂しています。つまり、日興はこれを略としてとらえていたことのようですね。「經」を「経」と書く類です。
わたしは、日蓮が、漫荼羅以外では「華」を使わないのは、文字の持つ神秘的な力を消息では発揮せず、漫荼羅では活かすためなのかと思っていたのですが、日興は案外、合理的ですね。いや、逆に更に神秘的力を書き注ぎ込んでいるのかも知れませんが。
653
:
パンナコッタ
:2005/12/24(土) 19:18:17
とんびさん、
◆[C]: (部類 = class の頭文字) 御書を真蹟・写本の存否、内容の種別、システムの必要性等の理由から10に分類したものです。
「御書本文」「御書通読」の各行にも付してあります。
C=0 真蹟が完全若しくはほぼ完全な形で現存し、活字御書と対応するもの。
C=1 真蹟が断簡で現存し、活字御書の断簡と対応するもの。
C=2 真蹟の断片が現存し、活字御書の一部分と対応するもの。
C=3 真蹟が明治8年の火災まで身延山久遠寺に存在していたもの。
C=4 真蹟は現存しないが日興書写本の現存するもの。
C=5 日興上人以外の上代諸師の古写本の現存するもの。
C=6 上記の0〜5と下記の7〜9以外の全てのもの。
C=7 御義口伝と御講聞書。
C=8 富士門流の相伝書類。
C=9 偽書と云われるもの。(昭和定本第三巻の第二輯続篇分)
御書システムのタイトル脇の数字が、Cですよ。
654
:
パンナコッタ
:2005/12/24(土) 19:20:52
れんさん、ご教示ありがとうございます。
独歩さん。おおざっぱに見たところで蓮祖筆の”法華経”は、33編ぐらいあるでしょうか。中には
災難対治抄・立正安国論・曾谷入道殿許御書のように”華”と”花”が混じっている物もあるようです。
(書き出しは華で、集中力が鈍って途中略字の花になって、又戻ったんだろうか?)
妙法蓮華経の書き方は”花”の36に対して、11編というところでしょうか。安国論広本・本尊抄
秀句十勝抄・曾谷入道殿許御書・四教略名目などに書かれているようです。
主観としては、やはり固有の略字のような気がしますが、全く無意味ではなさそうな気がしますし、
漫陀羅とのかね合いや、対合者に対する意味付けがあったのかもしれませんね。
興師については蓮祖直伝を頑なに と言うよりも、ある意味独自の信仰体系と言っても良いような部分が
やはりあると思います。 例えば法華行者値難事の一部分で、
各々為我弟子者々深存此由設及身命莫退転
日興写本では、
各々為我弟子ト者々深存此理設及身命莫退轉
※為我弟子ト に返り点あり
この辺も、順に比較して確認する必要はあるでしょうし、時系列的な思考の変化も
注意しなければと思います。
655
:
顕正居士
:2005/12/24(土) 19:40:02
今われわれが使っている漢字仮名混じり文というスタイルは明治時代に出来たもので、
漢文直訳体がそのもとです。この文体では漢字は正確に使うのが原則です。つまり、
聞くと聴くなどを区別します。その以前は漢文か和文であった。和文は仮名書きの文
と観念されており、漢字はアバウトに使用された、今いう宛字と区別をきちんとしない。
また活版印刷以前の文書は通常は草書で書かれます。草書は活字体とは違います。
たとえば顯と顕の区別などはありませんし、簡単な方で代用することがある(華/花)。
後代に発見された日蓮遺文と写本を比較すると、写本はもと仮名で書かれた部分の
多くが漢字になっています。現代人のようにオリジナルテキストを厳密に保存すると
いう思想はかつてはありませんでした。これは活版印刷の時代になって発生したもの
でしょう。
656
:
パンナコッタ
:2005/12/24(土) 20:15:20
略字に関しては、やはり集成で確認しないとダメですね。
参考に法華行者値難事の比較、
http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html
法花経が、確認出来ますね。
657
:
とんび
:2005/12/24(土) 22:34:44
パンナコッタさん、こんばんは。
早速のご指摘、ありがとうございます。よくわかりました。
大石寺版に収録されていて、C−9クラスの御書がいくつかみられます。
658
:
とんび
:2005/12/24(土) 22:53:40
犀角独歩さん、こんばんは。
注法華経を、日蓮大聖人御書辞典(創価学会版平成6年9.25、35刷)にて調べました。
これも所蔵していました。御書要文集などは、手放してしまいましたが。
法華経十巻の余白に、蓮師が、論師・人師の経釈の要文を入れたもの・・・玉沢の妙法華寺にある。
とありますが、このことを指すのでしょうか。
皆さんに、とっては初歩的な質問だと思われますが..。
信頼できる学者..まだ存じているわけではないですが、ここで皆さんが引用したり、披露している
○○師とか言われる人で、かつ皆さんが一定の評価をしている人は、その信頼できる学者・参考にする
ことのできる意見として持ち出すことができるのでは..と思います。
659
:
パンナコッタ
:2005/12/25(日) 00:30:01
顕正居士さんのご指摘を踏まえれば、現代人のある種の悩ましいバイアスも、
きちんと認識していかなければいけませんね。 ご教示ありがとうございます。
とんびさん、注法華経は、
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/bunka/myohokkeji/myouhokkejibunka.htm
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/database/bunken/goibun/ibun_tyu.htm
660
:
犀角独歩
:2005/12/30(金) 13:17:58
○パンナコッタさん
御礼が遅くなりました。
有り難うございます。
○顕正居士さん
有り難うございます。
661
:
犀角独歩
:2006/03/04(土) 12:09:03
彰往考来さん
資料のご送付有り難うございました。
都守師の論文『「法華主要抄」の草案について』(『大崎学報』第154号P73)から読み出しました。
覚え書き一部を、先ほど、少しブログに載せたのですが、それとは別に、以下の点、「どちらだろうか」と思案しています。
『法華主要抄』に、日蓮は佐渡の国の人々が言うには二つ、三つの太陽が出現し、二つの明星が出現したというとします。
ところが草案とされる『以一察万抄』では、ここに「此災日蓮見之」とあります。しかし、この日蓮自身が見たという記述は、同抄のみで『主要抄』にも、『法華主要抄』にもありません。
どうなのでしょうか、日蓮本人は見たのでしょうか、また、見たのであれば、『主要抄』『法華主要抄』では、この記述をどうして削ったのでしょうか。
お考えをお聞かせいただければ幸甚です。
662
:
犀角独歩
:2006/03/04(土) 12:10:59
【661の訂正】
誤)法華主要抄 主要抄
正)法華取要抄 取要抄
663
:
犀角独歩
:2006/03/05(日) 11:21:53
彰往考来さん
れんさん
その他諸賢
彰往考来さんが、種々資料を送ってくださり、そのなかに山口範道氏『日蓮正宗史の研究』のうち『書写の難しさ』(P69)が含まれておりました。
再読して、「ひどい内容だ」と思ったのですが、この点は、ブログで記そうと思っております。
ちょっと出先で、いま手許に石山の御書全集がないので、確認できないのですが、『開目抄』の古写本に、日興書写本というのは、この全集では含まれていないのでしょうか。山口氏はこれを含めていません。
もう一点。山口にいわせると日奧本(聖滅320年)に「秘シテ」とあるので、石山の文底秘沈の伝承が正しかったことが証明されたのだそうですが、山口氏がもっとも古いと数える日存本(聖滅135年)にはこの記載がない、それにも拘わらず、「大石寺の伝承が肯定される」(P72)という氏は、いったい何を言っているのか理解に苦しみます。(余談ですが、小松邦彰師は先の遺文講義で、古写本に「秘シテ」とないので、『平成新修日蓮聖人遺文集』の編纂に当たり、これを不載とした述べていました。わたしはもっともなご賢察であると思いました)
それはともかくとして、この点、日興本では、どのようになっているのでしょうか。「秘シテ」の文字があるのでしょうか。また、「しふし(主師)父母」はどうなっているのでしょうか。
この点に就き、ご教示いただければ幸甚です。
664
:
犀角独歩
:2006/03/05(日) 12:04:29
【663の訂正】
誤)山口氏がもっとも古いと数える日存本
正)山口氏が2番目に古いと数える日存本
665
:
れん
:2006/03/05(日) 16:15:45
犀角独歩さん
開目抄写本についてですが、開目抄については、残念ながら日興による完本の写本は現存しません。
私は正本・影本等ともに未見ですが、北山本門寺に伝蔵される日興筆「開目抄要文」の内容は開目抄に引用されるインド・中国の古典籍や仏典の抜書であったと記憶しております。ですので、実見しても、たぶん文底秘沈の文としうし父母の文の該当箇所にはあたれない可能性があります。参考にならずにすみません。
666
:
パンナコッタ
:2006/03/05(日) 19:34:22
開目抄要文に”如常不軽品”は、無かったみたいですが、該当部分はないんでしょうかねぇ。
http://home.att.ne.jp/blue/houmon/yamagami/yamagami.htm
直接関係はありませんけど、間接的な参考として、
下野阿闍梨聞書
【一、仰ニ云ク、西山方ノ僧大寶律師来ツテ問テ云ク、日尊門徒也。
開目抄ニ云ク、一念三千ノ法門ハ本門寿量品ノ文底ニ秘シテシツメタリ 云云】
開目抄上愚記本
【文に「二十の大事」とは、異本に「二箇の大事」と云云。末師皆「二十の大事」を
以て正と為す云云。今謂く「二十の大事」とは恐らくは文に便しからざる故に
「二箇の大事」を以て応に正と為すべきなり】
【故に、「但法華経の本門・寿量品の文の底」というなり。「但法華経」の一句は即ち二意を含む。
一には一経三段、権実相対の第二なり。二には迹門三段、即ち権迹相対の第三なり。応に順逆を以て
この二意を知るべし。「本門・寿量品」とは本門の三段、本迹相対の第四なり。「文底秘沈」は即ち
文底に三段、種脱相対の第五なり。豈浅きより深きに至る次第、差わざるに非ずや。
一、文底秘沈(文の底にしづめたり)文】
開目抄下愚記本
【一、したしき父母なり文。 異本に云く「しうし父母なり」等云云。
今謂く、異本最も然るべきなり】
勿論、日寛の言う異本が日興要文ではないのですけど、末師達が正とした物は日存・平賀本系であり、
秘シテは、既に書き込まれているのが、うかがい知れますね。
667
:
犀角独歩
:2006/03/05(日) 19:47:24
れんさん
有り難うございました。
パンナコッタさん
> 日存・平賀本系であり、秘シテは、既に書き込まれている
山口さんは、日存には「秘シテ」がなく、日奧本にあるとしていますが、この記述は間違いで、日存本に、既に「秘シテ」があった、山口さんの記述は間違っているということでしょうか。
668
:
犀角独歩
:2006/03/05(日) 20:11:23
二箇の大事か、二十の大事かは、先の小松師の遺文講義で話題になりました。
遠乾対照本では「二十」で、真蹟が二十であったことは、ほぼ間違いなさそうです。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50408762.html
669
:
パンナコッタ
:2006/03/05(日) 22:09:57
独歩さん、
あー、すみません。
そう言う意味ではなくて、下野阿闍梨聞書が書かれた時期には、という意味です。
遠乾対照本といえば、庵谷教授が「日蓮上人における摂受と折伏について」で、
【要言本は百部摺本の模刻本でございまして、奥書に「身延山秘蔵以御真筆御書一字一点無相違令再校合者也」
とあります。そこに「常不軽品ノゴトシ」とあります。
百部摺本は日蓮聖人の御真蹟を更に校合して印刷したものであるということが分かります。ところがその
百部摺本の中には「常不軽品ノゴトシ」とあります。発願をしたのは日乾・日遠両師です。そうしますと、
本満寺本の中には「ない」と書いておきながら、百部摺本の方には、更に御真蹟と照合して「ある」のは
どういうことでしょうか。そういう問題が残ります。】
これ又、悩ましい指摘をしていますね。
670
:
犀角独歩
:2006/03/06(月) 00:04:21
パンナコッタさん、有り難うございます。了解しました。
671
:
犀角独歩
:2006/03/06(月) 00:44:44
まあ、しかし、不軽菩薩を折伏としか見えない感覚というのは、どういったものでしょうか。
折り伏せるのがそんなに好きなら、では、やってもらいましょうかと言いたくなりますね。
教学上のことでがたがた言っていないで、創価学会を折り伏せてみたらどうかと、進言することにしましょうか。
さて、創価学会は受けて立つか、折り伏せられるのは、どちらとなるか、興味深いところです。
これは何も立正・創価に限りません。顕本でも、どこでも、折伏を言うのであれば、実際にやってみればよいのです。
672
:
独学徒
:2006/03/06(月) 01:06:37
犀角独歩さん、諸兄の皆さん、今晩は。
法華宗興隆学林より発行(昭和51年6月13日)された、「日隆聖人分科 主要御書 全」には、「凡例」の最後に以下のように出ています。
一、御書本文は、昭和定本、縮刷、類纂の三本に依り厳密に校合を行ったが観心本尊抄の如く御真蹟の現存するものは其写真等を照合して誤りなきを期した。又開目抄の如き、御本書が既に逸失して居るものについては大本山本興寺宝蔵に現存する宗門第七祖日存上人が応永二十三年(西一四一六祖滅一三五)七月十七日の日付ある御写本によりその相違ある個所を一々上欄に記載して参考に資した。
そして、話題に上がっています箇所につきましては、上欄は以下の通りとなっています。
法華経の本門寿量品の文の底にしづめたりは、法華経本門寿量品ノ文ノ底に秘してしづめ給ひたり(「法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」は日存本では「法華経本門寿量品ノ文ノ底に秘してしづめ給ひたり」となっているの意)
諸人にしたし父母也は、主師父母也(「諸人にしたし父母也」は日存本では「主師父母也」となっているの意)
したがいまして、法華宗興隆学林発行「日隆聖人分科 主要御書 全」によりますと、二番目に古い開目抄写本である、日存本では、「秘して」が入っており、「したし」は「主師」と書かれていることになります。
また弘経寺日健の「御書抄」巻之五「開目抄」(西暦1669年 寛文9年祖滅後 388年)「(文)夫法華経ノ宝塔品ヲ至日蓮ハ日本國ノ諸人ノ主師父母也」と有りますので、日奥・日乾からそれほど離れていない時代に、「したし」部分を「主師」とした写本が、富士系以外のところでも使用されていた可能性があると思われます。(「御書抄」は私が所持していますのは、大正2年2月5日発行の日蓮宗全書出版会編です。)
以上、なにかの参考になれば幸です。
673
:
独学徒
:2006/03/06(月) 01:32:17
犀角独歩さん、上記に追加させていただきます。
672の投稿にて、日存本が二番目に古い写本としましたが、最古の写本である「精進院日道」本は、下巻欠となっています。
したがいまして、「秘して」や「したし」は、開目抄下巻に収録される部分ですので、開目抄下巻の最古の写本は「日存」本という事になりますので、山口師の以下の文書は「日存」本をさしていると思われます。
何れにせよ現存する最古の写本が当家の解釈通りに「秘沈」「主師父母」となっていたということは何かすっきりとしたような、有難いような思いがするのである。(日蓮正宗史の基礎的研究P732行目〜3行目)
つまり、山口師は「秘して」を「秘沈」と解釈しているようですが、「日存」本に「秘して」と「主師」が有った事を認識はされていたものと思われます。
674
:
独学徒
:2006/03/06(月) 01:34:14
すみません、訂正です。
誤(日蓮正宗史の基礎的研究P732行目〜3行目)
正(日蓮正宗史の基礎的研究P73 2行目〜3行目)
675
:
独学徒
:2006/03/06(月) 01:45:49
すみません、「秘して」は上巻でした。
「したし」の方だけ下巻でした。
676
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/06(月) 07:56:03
>661 犀角独歩さん
>『法華主要抄』に、日蓮は佐渡の国の人々が言うには二つ、三つの太陽が出現し、二つの明星が出現した
本件はちょっと文献を調べてみます。最終的には白旗をあげるかもしれませんが。
677
:
犀角独歩
:2006/03/06(月) 11:26:35
672 独学徒さん
お久しぶりです。
ご説明、有り難うございました。
山口さんの該当文を挙げます。
「日奧本は「寿量品ノ文ノ底ニ秘シテシツメタリ」となっており、日存本と日言本では共に「文ノ底ニシツメ給ヘリ」で、日遊本、日乾本は「文ノ底に沈メタリ」となっていて、「秘して」の語はない…その「秘して」の文が日奧本に正しく書写されていることによって大石寺の伝承は肯定されたことになる」(P72)
つまり、日存本になく、日奧本にあるというのです。
そして、そのうえで
「現存する最古の写本が当家の解釈通りに「秘沈」「主師父母」となっていた」(P73)
というのが、山口さんの記述です。この記述からは、『開目抄』全文書者としては最古の本を恰も日奧本の如くに扱った文章になっているというのが、わたしの指摘です。
いま手許に資料がないために確認できませんが、独学徒さんが仰るとおり、「秘シテ」は、日存本にあったのでしょう。そのことから、小松師は、「文底秘沈」という考えは、日寛、もしくは石山の独自のものではなく、古来より言われていたことを、恰も石山秘伝のように日寛が語った点を指摘されていました。
いずれにしても、山口さんの文章は上記の通りですので、わたしは「ひどい内容だ」と記したのです。
676 彰往考来さん
ご賢察、期待しております。
678
:
独学徒
:2006/03/06(月) 11:50:29
犀角独歩さん、今日は。
山口師の論文は、仰せの通りですね。
「日蓮正宗史の基礎的研究」から、犀角独歩さんご指摘の箇所を確認しました。
山口師は、何を勘違いしたのでしょうか。
山口師が見た、最古の写本とはなんのことなのでしょう。
「何れにせよ現存する最古の写本が当家の解釈通りに「秘沈」「主師父母」となっていたということは何かすっきりとしたような、有難いような思いがするのである。」
良くわかりませんね。
犀角独歩さんのご批判通りですね。
679
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/07(火) 07:53:05
>661 犀角独歩さん
>都守師の論文『「法華取要抄」の草案について』(『大崎学報』第154号P73)・・・『法華取要抄』に、日蓮は佐渡の国の人々が言うには二つ、三つの太陽が出現し、二つの明星が出現したという・・・草案とされる『以一察万抄』・・・「此災日蓮見之」・・・『取要抄』にも、『法華取要抄』にもありません。・・・日蓮本人は見たのでしょうか、また、見たのであれば、『取要抄』『法華取要抄』では、この記述をどうして削ったのでしょうか
天文学者の斉藤国治氏(元東京大学東京天文台教授)は『星の古記録』(1997年3刷(1982年1刷)、岩波書店(岩波新書)、112頁)に「法華取要抄」の天文記事について以下の解説をしています。(漢数字を数字に改めました)
****************************************
日蓮は幕府の召に応じて評定所に出頭して、従来の主張を説いたが、そのときの問答をまとめた「法華取要鈔」という手記に、つぎのような星の古記録が挿入されている。
しかるを佐渡の国の土民口々に言う。今年(文永11年)正月23日の申の時に、西方に2つの日出現す。或いはいう3つの日出現すなどと。2月5日には東方に明星2つ並び出る。その中間は3寸ばかりなどうんぬん。
日蓮はこの天変を申しのべて、天の気色は重大な国難の近きことを示すものだと訴えた。かれはつづけて、
この大難は日本国先代にも未だこれ有らざるか。(中略)日と日と競い出づるは四天下一同の争論なり。明星の並び出づるは太子と太子との争論なり。かくの如く国土乱れてのち、上行等の聖人出現するなり。
と断定している。
右の文章にある2日(じつ)または3日(じつ)の同時出現は「幻日」という気象現象と説明される。一方、2月5日(3月14日)暁方の東天に明星が二つ並んで出たという記事は古天文学の検証の対象になる。
計算の結果、3月11日の早暁に、金星(このとき光度マイナス3.7等)と木星(光度マイナス1.7等)とが、太陽の西37度のへんで黄径合となり、金星が木星の北0.3度にまで接近していたとわかった。これは記事の「三寸」ともピタリと合う。記事の日付はユリウス暦3月14日に当たるが、これでは黄径合の時期を過ぎていて、金星が木星の東へ3度ほど離れてしまう。日付に誤記があるらしい。
いずれにせよ日蓮に関わる星の記事はそれぞれ事実の裏付けがあるように見える。
****************************************
さて、ご質問ですが、私は「佐渡の国の土民口々に言う」とあることから「幻日」と考えられる気象現象を蓮祖は見られておらず、金星と木星が並んで見えた現象のほうは「その中間は3寸ばかり」と具体的な記述であることから、見られたと考えます。つまり2つの気象現象のうち蓮祖は片方のみごらんになったので、草案に「此災日蓮見之」と記述したものの正本では削除されたのではないかと考えます。
by 彰往考来
680
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/07(火) 09:05:53
>679
「幻日」については下記HPなど参照ください。
http://www.sapporo-jma.go.jp/ah/asahika/data/topics/mamemame/genjitu.html
http://www.mukaitaki.com/photograph/gokinjyo/text/genjitsu011.html
彰往考来
681
:
犀角独歩
:2006/03/07(火) 11:34:44
独学徒さん
共通認識に立てて成果がありました。
彰往考来さん
興味深い資料のご紹介有り難うございました。
『立正安国論』を‘勘文’ということにつき、これは陰陽師が為政者に上申する文書を指す成句であるという指摘を、かつて紹介したことがありました。
「日と日と競い出づるは四天下一同の争論なり。明星の並び出づるは太子と太子との争論」というのは、日蓮のオリジナル考えと言うより、当時の占いでいうところを採用したのでしょうか。しかし、「かくの如く国土乱れてのち、上行等の聖人出現」という点は、オリジナルな発想と感じます。
682
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/07(火) 16:55:20
>679 誤記訂正
誤:太陽の西37度
正:太陽の西0.7度
683
:
犀角独歩
:2006/03/09(木) 12:34:51
彰往考来さん
他 諸賢
『大崎学報』第128号所蔵『「開目抄」「撰時抄」「報恩抄」の分巻をめぐって』を拝読したのですが、このなかで高木師は『富士一跡門徒存知事』を応永29年(1416)、すなわち、日蓮示寂後140年としていました。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/takagi_nenpyo.html
(上記、ジャンプしない場合は、アドレスバーにコピペしてください)
ところが、石山御書全集を見ると、延慶2年(1309)、示寂後27年後の日付を謳っています。
ここら辺の事情を記した資料をどこかで読んだ記憶があるのですが、失念しました。
応永年間といえば、『開目抄』書写3本(道・存・出)が出そろった直後のことで興味が惹かれます。
存知事の成立特定に関して、ご承知のところがございましたら、ご教示ください。
684
:
顕正居士
:2006/03/09(木) 13:38:53
犀角独歩さん。
富士年表の応永29(1422)年に「12.27 日算富士一跡門徒存知事を写す」とあります。
これは富要集の底本である永正18年の日誉写本に
「御本応永廿九年極月廿七日に書写せしめ畢んぬ 筆者日算六十八歳」とあるからです。
すなわち「門徒存知事」が文献として成立した確実な年は応永29年である意味でしょう。
富士年表の延慶2(1309)年に「日興の命により寂仙房日澄富士一跡門徒存知事を草す」
とあるのは、括弧内に「聖535・日淳全集」と注され、堀米日淳師の説によったものでしょう。
「草す」というのは、「門徒存知事」には「寂仙房日澄始めて盗み取つて己が義と為す」とあり、
現行の「門徒存知事」が日澄作であることはあり得ないからです。
685
:
犀角独歩
:2006/03/10(金) 01:20:53
顕正居士さん
ご教示、有り難うございました。
この延慶の草案と、応永の成本と、如何ばかりの相違があるのか、興味が惹かれました。
686
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 00:36:29
> 665 れんさん
カメレス、失礼。
彰往考来さんから頂戴した資料を読んでいましたら、日興の開目抄要文を、宮崎師は日堯師(不詳)のものであると判断しているようでした。
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/50447281.html
687
:
れん
:2006/03/12(日) 02:48:55
犀角独歩さん
>686
たしかに日興「開目抄要文」の公開されている冒頭と末尾の写真を見ますと、末尾に「日堯」の署名があり、一見すると、宮崎師のご判断の如く開目抄要文が日堯師なる人物の手になる書のように見えますが、「日堯」は異筆ですので、日堯師の行実は不明ながら、日堯の署名は後世のものと判断されます。
688
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/12(日) 08:12:52
>683 犀角独歩さん
富士一跡門徒存知事の成立年について
高木豊師は「富士一跡門徒存知事」の成立について、『大崎学報128号』(昭和51年)の「『開目抄』『撰時抄』『報恩抄』の分巻をめぐって」で「日算による応永29年(1422)の写本のあったことが知られるから、少なくとも応永当時」(49頁)、「富士門流における応永段階の伝承をしめすものとして考える」(50頁)と間接的表現ながら、「富士一跡門徒存知事」が応永年間の成立であると推定されているようです。応永29年は大石寺は第9世日有師の時代です。しかしながら、これは少々強引な結論ではないかと考えますので検証してみます。
『日蓮宗宗學全書第2巻興尊全集興門集』(昭和43年第2版(初版昭和34年)、山喜房佛書林)に入集している「富士一跡門徒存知事」の末尾(128頁)には、
****************************************
【奥 書】
御本 應永廿九年極月廿七日令書寫畢
筆者 日 算 六十八歳
【原 本】 重須本門寺大夫公日譽の寫本に校合せる堀慈琳氏寫本
【對校本】
一 要法寺智傳志師の寫本
一 富士大石寺所藏古寫本
***************************************
とあり、原本は重須日譽本を堀慈琳(堀日亨)師が写した写本で、奥書に応永29年の写本であることが読み取れます。これ以外に要法寺本と大石寺本の写本があるようです。ただあくまで応永29(1422)年との記載は写本成立年にすぎず、これをもってして「富士一跡門徒存知事」について「富士門流における応永段階の伝承をしめす」とは云いきれないでしょう。文献上、「富士一跡門徒存知事」が応永29(1422)年までさかのぼって確認できるという程度でしかありません。
さて、上記で堀師が校合した「重須本門寺大夫公日譽の寫本」とはどういう素性でしょうか。堀日亨編『富士宗学要集 第1巻 相伝・信条部』(昭和52年第3刷(初版昭和49年、創価学会)に入集している「富士一跡門徒存知事」の末尾(59頁)には、
****************************************
御本応永廿九年極月廿七日に書写せしめ畢ぬ 筆者日算六十八歳
永正十八年六月四日に之を書き畢ぬ、この抄は九州日向の国日知屋の定善寺より相伝す、同じく細島妙谷寺に堪忍の境節、北向の御堂の部屋にて之を書写し畢ぬ。駿河国重須本門寺衆大夫公日誉在判。
編者曰く大石寺蔵日誉写本に依つて之を写し他の数本を以て校訂を加ふ。
****************************************
とあります。
689
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/12(日) 08:13:59
>688 の続きです。
ここで、応永29(1422)年の日算写本を重須(北山)本門寺の日誉が日向定善寺の末寺である細島妙谷寺で写したのが永正18(1521)年であることが解ります。そして「大石寺蔵日誉写本」と堀師が述べているようにこの日誉写本が富士大石寺蔵なのです。恐らく『日蓮宗宗學全書第2巻興尊全集興門集』(以下、『日宗全書2巻』と略します)でいう「重須本門寺大夫公日譽の寫本」が「大石寺蔵日誉写本」でしょう。つまり『日宗全書2巻』の底本は「大石寺蔵日誉写本」に校合した堀師の写本であって、「大石寺蔵日誉写本」ではないということです。但し、『日宗全書2巻』でいう「對校本」の「富士大石寺所藏古寫本」とは「大石寺蔵日誉写本」のことであると推定します。少々まわりくどいですが、『日宗全書2巻』では「大石寺蔵日誉写本」を底本にしたとは諸般の事情で書けなかったのでしょう。
興風談所の『日興上人全集』(平成8年、興風談所)目次11頁によれば、「古写本所在」は「日誉筆 富士 大石寺」です。この『日興上人全集』の凡例に「「富士一跡門徒存知事」は日誉写本(東京大学史料編纂所蔵影写本)を底本として改めて解読した」とあります。つまり『日興上人全集』では東京大学史料編纂所にある日誉本の影写本を翻刻したということです。『日興上人全集』の<<頭注>>では□誉=日誉筆「富士一跡門徒存知事」としていますので、東京大学史料編纂所にある日誉本の影写本は富士大石寺蔵の日誉本を影写したものと考えられます。
『日興上人全集』に入集している「富士一跡門徒存知事」の末尾(314頁)には、
****************************************
「御本 応永二十九年極月二十七日令書写畢。 筆者日算六十八才」
「 永正十八年六月四日書之畢。
此抄ハ九州日向国日知屋従定善寺作相伝也。同細島妙谷寺堪忍之境節、北向之御堂之遍屋ニテ書写之畢。
駿河国重須本門寺□内 大夫公日誉 花押」
「明暦二丙申閏卯月十三日 前大石寺 日精 花押」
****************************************
とあります。(引用者注:レ点と一二点は省略しました。)ここで注目すべきは日精師の明暦2(1656)年の書き込みの存在で、これにより寛文2(1662)年に成立した日精師の『富士門家中見聞上』(『富士宗学要集 第5巻 宗史部』昭和53年、創価学会、157,165頁)に引用されている「富士一跡門徒存知事」の記載は日誉本(大石寺蔵)によったものと判断できます。『富士門家中見聞上』には「富士一跡門徒存知事」の「日興集むる所の証文の事」の箇所を引用した後、「述作の時代未だ分明ならず旧記にも載せず御自筆は紛失して残る所纔なり」(158頁)と記しています。さらに日精師は「富士一跡門徒存知事」の「追加八箇条」を引用し4番目の後に、「私に云く是より巳下御自筆今当山(引用者注:大石寺)に在るなり」(167頁)と記しています。これは日精師の時代には「富士一跡門徒存知事」の御自筆(興師筆?)の「追加八箇条」断簡が纔(わずか)に残っていたという記載なのです。これに関連した記載が日蓮正宗56世の日淳師による「日亨上人御講「富士一跡門徒存知事」聞書」(『日淳上人全集下巻』(昭和57年改訂分冊(初版:昭和35年)、日蓮正宗仏書刊行会、1510頁)にあり、ここには「この門徒存知事の原本は今日のところでは何処にも見当らない。唯最後の追加八箇条の半巳下の文だけは本山の御宝蔵に日精上人時代までは保存されてあつたそうである」とあります。
690
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/12(日) 08:14:49
>689 の続きです。
このことなどから高橋粛道師が『日興上人御述作拝考Ⅰ』(昭和58年、仏書刊行会、138頁)で日淳師の説をまとめているように、石山(富士大石寺)では、
本文−日澄作―延慶二年成立
追加文−日興上人作−延慶三年成立
としているものと思われます。(本文−日澄作―延慶二年成立の論考はここでは略します)
なお、本文を日澄師作とする石山(富士大石寺)の説について石山の高橋粛道師は、「もしかしたら日澄師にはごく簡単な草案のようなものがあったかも知れないが、追加条を除いた全文を日澄師のものとするには無理があるようである。(中略)日澄師には草案としての『五人所破抄』のもとになったひな形か、或は数条の未刊の『門徒存知事』のようなものがあったか、どちらとも断定こそ出来ないが、かりに日澄師の未完本があったとしても現在見られるような『門徒存知事』の完成本は澄師によるものではない。それでは誰人によって成されたかと言えば日興上人を措いて他にはいないのではなかろうか。どう考えても追加条を除いた『門徒存知事』を日澄師が作成したとすることには説得力がないように思われる。当時にあってこれを記せるのは日興上人が最適であると思う」(「『富士一跡門徒存知事』の著者と成立の考察−新しい視野にたって−」(『道心 第17号』平成11年、道心編集室、70頁))と本文の日澄作説を否定しています。
私は『富士年表』(昭和56年、富士学林)の延慶2(1309)年に「日興の命により寂仙房日澄富士一跡門徒存知事を草す(聖535・日淳全集)」(66頁)とある日澄師の草本とされる内容は追加文のない「富士一跡門徒存知事」であって、興師による追加文を併せて「富士一跡門徒存知事」成本の内容であると考えますので高橋粛道師の説には同意できません。なお、「聖535」は『日蓮正宗聖典』((昭和53年再販(初版:昭和27年)、聖典刊行会、535頁)のことで「富士一跡門徒存知事」の箇所です。また日淳師の説は「富士一跡門徒存知事の文について」(『日淳上人全集下巻』1187頁)に記載されています。
さて、高木氏をはじめとする日蓮宗の「富士一跡門徒存知事」は後世のものとする説と石山(富士大石寺)の草本が延慶二年成立とする説のどちらが正しいのでしょうか? 村上重良氏が『創価学会=公明党』(1967年、青木書店、66頁)で「室町時代注記、大石寺の復興に74年の生涯を賭けた日有は、北山本門寺日浄と対抗して興門における大石寺の地位確立に心血を注いだ。大石寺の正統性を示す文書、曼荼羅等のいわば物的証拠がいっせいに登場するのも、日有の時代である」とされる一環なのでしょうか。「富士一跡門徒存知事」の原本が失われている以上確定できませんが、私は「追加八箇条」の箇所は延慶三年頃に成立した可能性はあると思います。日精師の『富士門家中見聞上』は宗史などでは誤りが多いのですが日精師当時の自山(大石寺)分の記載はかなり正確であるからです。ただ仮に「追加八箇条」が興師筆(但し嘗存)であったとしても、これに附属させる形で後世の者が「富士一跡門徒存知事」として偽書を作成することもできるわけで、どちらが正しいのか私には判断がつきません。もう少し内容を精査して著者などを考証する必要があります。
by 彰往考来
691
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/12(日) 08:21:31
>689の表記注
①『日興上人全集』の<<頭注>>では□誉の箇所 □誉:原文では□の中に誉を記して日誉本の略を表しています。
②駿河国重須本門寺□内の箇所 □内:原文では□の中に内を記し欠字の推定を示しています。
692
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/12(日) 08:26:27
>690 誤記訂正
誤:室町時代注記
正:室町時代中期
693
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 09:53:48
687 れんさん
すると、宮崎師は、その「日堯」の書名を見て、文全体をその人物のものであると勘違いしたということでしょうか。
鑑定でも名高い宮崎師が、北山本門寺当地で、現物を手に取りながら、間違えて、さらに『大崎学報』にまで書き留めてしまったということでしょうか。
694
:
れん
:2006/03/12(日) 10:27:22
犀角独歩さん
宮崎師の蓮師真筆等の筆跡鑑定は確かなものと拝察しますが、興師のものについてはどうでしょうか?
ただ、宮崎師の鑑定云々とかの以前に、今のところ開目抄要文そのものの本格的かつ専門的な書誌学的な考察は遂げられていませんから、それを立正大学か興風談所あたりの研究者さんに、ぜひお願いしたいですね。そうすれば、北山蔵の開目抄要文の底本となった開目抄の形態と、乾師本から伺われる真蹟の形態との比較対照の研究とその価値が確実なものとなると考えます。
695
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 10:32:24
彰往考来さん
詳細なご教示有り難うございます。
『富士一跡門徒存知事』については、執行海秀師も論攷されており、これをわたしのサイトでアップしていました。
日興の著作と真偽論
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_004.html
初期の興門教学に於ける本尊意識の展開
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/kaishu_003.html
以下、『五人所破抄』も含めて、やや抜粋します。
*** 転載はじめ ***
『五人所破抄』についても古来よりその筆者については疑義があり、従って日代の作とする説もあったが、近代になって日順の草案とされるに至った。しかし、最近宮崎英修著の『五人所破抄の作者について』の論文において、本書真書の年号と日順の追記があって、本書を日代作と推定している。…)もっとも日代筆の直筆が北山に現存するというので、日代作というのが至当のようであるが、わたしは日順の草案を日代が清書したものではないかと思う。(本書は「六人立義草案」とも呼ばれた)
次に『富士一跡門徒存知之事』は大体『五人所破抄』と同調のものであるが日澄が日興の義を付嘱されたというように「追加分」が初めからあったとすれば、『五人所破抄』が重須系で成立したのに対し、『一跡門徒事』は大石寺系ではないかと思う。
…『富士一跡門徒存知之事』では日興の集録したものと伝えているが、日順の『日順阿闍梨血脈』では
「貴命ニ応ジテ数帖自宗所依ノ肝要ヲ抽ツ、所以本迹要文上中下三巻、十宗立破各一帖十巻、内外所論上下二巻、倭漢次第己上二巻、且ツ之ヲ類聚シ試ニ興師献ズ」といって、日興の弟子、日澄が要文を集めてこれを日興に献じたと伝えている。
*** 転載おわり ***
以上、執行師の論攷は、直接の研究であるというより、引用ですが、
『五人所破抄』―――――日順作(日代清書)―北山
『富士一跡門徒存知事』―日澄――――――――石山
となりますか。
わたしは個人的に、これらが日興の言説、それを受けた代・澄・順といった弟子がまとめたという興門初期の成立という点には、疑問を持っています。(草案があったことを否定するわけではもちろんありません)
その理由は五一相対思想で、どうも上代では、このような異轍が闡明であったとするのは、事実に反するように思えるからです。
日宗全で『申状』を拾い読みすると、五老方でも日蓮聖人の弟子と名乗っている文章は散見できます。ところが、上述二書ではその点がまるで考慮されていません。また、日朗、日頂、また日円との日興の交流は、五一相対、身延離山のドラマとは別にその事実があったようで、上述二書の内容は、孤立化したあとの富士方の様子が窺えます。
また、彰往考来さんも引用されていましたが、浄有二師の争いというのは、その根拠を見ません。これは『重須日浄記』を引用する『宝冊』、『大石寺誑惑顕本書』といった中世以降の引用からの類推であって、日浄本の真偽がまるで考慮されていないわけです。つまり、作られたドラマであるとわたしは考えます。(板マンダラ日有造立説もこの一環にあります)
以上のことから、上記2抄の成立は、日興からはかなりあとのことになるようになるのではないのかと思えるわけです。その意味において、日蓮寂140年、日興寂90年をいう高木説には一定の説得性を感じます。
696
:
独学徒
:2006/03/12(日) 10:52:23
諸兄の皆様、こんにちは。
話題に上がっています、「日堯」について詳細は不明ですが、富士門関連の僧侶では1560年前後の保田妙本寺の住侶に、「日堯」という僧侶がいたようです。
保田「日堯」は、「日順雑集」「日眼御談」そして「日本図」と興尊の安国論問答と一筆で書かれた、「高麗百済賊来事」などの写本を残しており、北山を含め冨士諸山と通用があったことが知れます。
その意味では、伝興尊抜書「開目抄」に何らかの関係をもった可能性があるかも知れないと思いました。
保田「日堯」に関しましては、興風談所の坂井法曄師が「金沢文庫研究」311にて紹介されています。
http://fujikyougaku.blog22.fc2.com/blog-entry-2.html
697
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 10:58:55
れんさん
宮崎師の鑑定と書きましたが、師は書誌学的立場で考証されているのだと思います。
書誌史からいえば、興師本とする説が先行し、宮崎論文で昭和26年に、これを覆したと見ることになりませんか。
となれば、それを日興筆とする研究がここ60年間にあってしかるべきですが、興風談所が、どう言っているのか寡聞にして知りません。ご承知のところがあれば、ご教示ください。
わたしは宮崎説を墨守しようというのではなく、現代の書誌学からする『開目抄要文』の位置は日堯本となっている、しかし、富士門流では、この点を考慮せず、60年も古い書誌学の立場から抜け出ていないではないかと、指摘したということです。
698
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 12:11:47
独学徒さん
「日堯」のこと、参考になりました。
有り難うございます。
699
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 14:31:10
重ねて、彰往考来さん
> 『門徒存知事』…日興上人を措いて他にはいない…当時にあってこれを記せるのは日興上人が最適
という高橋さんの論法は、またぞろ何でも日興落着思考ですね。
このような短絡は、その他の富士門下の古文書研究でもしばしば散見できますね。仰るとおり、わたしもまったく同意できません。
正本があるあると言って、真筆説を強行することと何ら変わりません。
未決御書の真偽を考えるのに、「あれだけの文章は日蓮大聖人でなければ書けるはずがない」といった短絡と何ら変わることがない信仰心情に囚われた感情論を出ないものであると考えます。
700
:
顕正居士
:2006/03/12(日) 17:52:12
「五人所破抄」は三位日順の文章に見えます。そうであれば日興の晩年には五一異見の思想
が成立していた。ならば内容が多く重なる「門徒存知事」も同じ頃に出来可能性があります。
しかしこの五一異見が実に疑問である。身延離山は日向対他の五老の不和である。これとは
別の時期、別の内容ではある。だが五一異見なるものが史実に確認できない。日持は行方が
不明、日頂は日興に与同、日朗も日興と盟約の伝説がある。「門徒存知事」のほうにある叡山
戒壇踏不は「六人立義草案」には浜(日昭)門徒といい、「大石記」には西山門徒だという。
祖書尊重に実績があったのは中山門徒であろう。五一異見という史実は見当たらないのだ。
それでも「五人所破抄」は日順の文章に見える。実に不可解、不思議です。
「門徒存知事」は日澄誹謗があるから、日澄作でないのは当然だが、日興や日順の作であると
も考えられない。北山と対立するようになってからの大石寺か、保田などで出来たのではないか
とおもう。「門徒存知事」が伝承されていたという日向門徒は今も日蓮正宗であるが日郷門徒の
分流ですね。
701
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 18:16:52
顕正居士さん
700の仰せの点、わたしもそのような意図で記しました。
補完いただいた形になりました。
有り難うございます。
702
:
れん
:2006/03/12(日) 20:35:56
犀角独歩さん
独歩さんが697で述べられておられる点は、重々承知しております。ご指摘ご教示かたじけなく存じます。
さて、開目抄要文はその末尾の写真と日興上人全集の日興書写御書一覧の注記によりますと、「正和六年二月二十六日於御影堂」とあり、日堯筆としても、その日付を信用すれば日興在世の鎌倉末期の正和六年の成立であって、この推定が的を得たものであるならば、開目抄要文の日堯は696にて独学徒さんが指摘された保田日堯ではなく、日興弟子分の日堯(事績不明)の可能性があり、日堯が底本としたのは日興書写あるいは所持の開目抄写本の可能性が出て来るので、鎌倉末期の成立と推定される開目抄要文と乾師の真蹟対照本の比較対照は決して無価値ではないと存じます。以上ご参考まで。
703
:
犀角独歩
:2006/03/12(日) 21:59:36
702 れんさん
このご指摘はたいへんに興味深いですね。
> 開目抄要文と乾師の真蹟対照本の比較対照は決して無価値ではない
そう思います。
ところで、このような試みは行われていないのでしょうか。
この要文には、文底秘沈、大願、常不軽品、しうし父母といった箇所は抜き書きされているのでしょうか。
704
:
独学徒
:2006/03/13(月) 00:59:48
犀角独歩さん、れんさん今晩は。
金沢文庫研究311号P24掲載の「日堯」の自署花押と、「日蓮大聖人御書十大部講義第二巻 開目抄 上」(創価学会版)の巻頭に掲載された、興尊筆「開目抄要文」の末尾の「日堯」の字を見比べてみました。
金沢文庫研究の方は、かなり小さい写真で、完全な照合とはいえませんが、「堯」の字の最終画のはね方など良く似ています。
本文の照合も可能な限りしてみたいと思いますが、おそらくれんさんご教示の通り、原本は興尊の御筆による「開目抄要文」であったと思いますが、現在出回っている伝興尊筆「開目抄要文」は、興尊開目抄要文の保田日堯写本である可能性はあると思います。
保田の貫首にもなっていない「日堯」が、他山の霊宝ともいえる興尊御筆の開目抄要文に自署を書き入れることは、確かに考えずらいです。
705
:
れん
:2006/03/13(月) 07:14:15
犀角独歩さん
開目抄要文は、開目抄に引用されている内外典の文を抜き書きしたもので、本文はほとんど引用されてないようですので、文底…としうし父母?には当たれないようです。常不軽品…については興風十四号所収の山上師寄稿文に「身延山に曽存した『開目抄』には、日乾の対校本によれば「常不軽品のごとし」の語が無かったようである。それは北山本門寺蔵、日興本『開目抄要文』の当該部分にも「不軽品のごとし」の文が無く、それを裏付けている」とあり、開目抄要文の当該部分には“常不軽品のことし”はないとの指摘があるので、開目抄要文の底本は身延曽存の真蹟の転写本の可能性があります(山上師は身延曽存の真蹟を草案、“常不軽品…”は日蓮自身の再治の際に書き入れられたものとしておりますが、故山口範道師の“日蓮正宗史の基礎的研究”の記述によれば、身延曽存の開目抄真蹟は、開目抄を送られた四条金吾が晩年に隠棲した現在の山梨内船寺に伝来したものを、のちに身延山に納めたものとのことで、これが事実ならば、以一察万抄や取要抄などの例とはことなり、身延曽存の開目抄を草案と断定するのはちと無理があると考えます)。独学徒さん
704におけるご指摘ご教示有難うございます。ただ私が不審に思うのは、現存の開目抄要文が、保田系の日堯師による写本ならば、奥書にたとえば「本云、正和六年…。天文〇年〇月〇日、以日興上人御自筆本書写畢、筆者日堯」云々とあるべきと思いますが、現存の開目抄要文は「正和六年…日堯」とのみあり不自然の感があります。日堯の署名が後世のものでなければ、開目抄要文の日堯は正和当時の人と推定したほうが自然と思われます。
現開目抄要文は日興本、日堯本の二説が提出されていますので、日興真筆と保田日堯真筆との照合し、どちらの人物の筆か、あるいは正和年間生存の日堯筆かはっきりさせたほうが、開目抄要文の文献的価値が安定すると思います。
706
:
犀角独歩
:2006/03/13(月) 09:51:59
れんさん
有り難うございます。
記すまでもありませんが、宮崎師は、
「『開目抄要文』は北山本門寺で拝見した所によると表に「開山御筆」とあり本書の要文を集めたものであるが抄者は日堯(不詳)と云はれる人で興師の自筆ではなかつかたが鎌倉末期の興門の古い讃仰資料であることは問題のないところである」(『大崎学報第98号27頁)
「編集者:鈴木一成/発行人:望月歓厚」、さらに記述に当たっては、本門寺住職、さらに単独で調査参詣したとは考えづらく、この記述を覆すことは、わたしは困難を感じます。
> 現存の開目抄要文は「正和六年…日堯」とのみあり
という点に、わたしは同意で、興師本であれば、安直に自著のみ施すなどということはしないであろうと考えます。その意味から、日堯本という説は自然です。ただ、そうなると表紙の「日興御筆」とはなんぞやということになります。「日興が要文化した文章」ほどの意味とすることは出来ますが、変な語法ですね。
山上さんのあとから書き込みという説は納得できませんね。そもそも、あの文脈からすれば、「常不軽品の如し」は不相応ですし、今成説を採れば、日蓮は「不軽」「不軽品」を採用し、“常”の字を省くことに特徴があるわけですから。
富士系の論攷の特徴は、先に挙げた「日興落着」で、それを自説にご都合のよい珍妙な憶測で短絡的に結論づけるものだという印象を懐きます。
いずれにしても、興風談所の古文書研究は高く評価しますが、本尊研究をやるのに、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽は言わない態度で、冷笑を蒙っている自画像は、しっかりと認識し、反省すべきでしょう。信仰の上から信じているんだそうですが、そんなことを言い出せば、古文書研究など不毛な話だからです。
なお、『富士一跡門徒存知事』の記述を信頼すれば、日興所持本は二転写本であることが知られますが、誰の本を写したのでしょうか。
いずれにしても、中世の写本は、いまの著作を意識した転載、あるいはコピペとは違って自身の修学、信仰から、これを写すわけで、仮名を漢字、片仮名に改め、時には、自分の意志で本文を書き換え、さらに添削までするものであるわけですから、実に厄介ですね。
707
:
犀角独歩
:2006/03/13(月) 10:49:03
独学徒さん
> …「日堯」の自署花押…開目抄…末尾の「日堯」の字
是非とも、このような画像はブログにアップして比較して見せてください。
資料の共用は、議論を深めます。
それぞれ、自分で収集すればよいのでしょうが、なかなかそれも困難なところがあります。怠慢は免じていただくことと併せ、お願い申し上げておきます。
708
:
独学徒
:2006/03/13(月) 13:50:17
犀角独歩さん、
①開目抄要文末尾の「日堯」自署
②保田日堯筆「雑録」巻末の「日堯」の自署花押
③双方を並べて比較してみた画像
以上3点をメールにてお送りしました。
ご覧いただきまして、ご意見などお聞かせ戴けますと幸です。
特に③はかなり精度の悪い画像となってしまいました。
画像処理はペイント以外にソフトがなく、撮影に使用するデジカメも今時のものと違い、解像度の低いもののため、とてもHP上にアップ出来るようなできではありません。
もし犀角独歩さんの方で、①②を使って、もっと見やすい画像処理が出来るのであれば、是非お力をお借りしたいと存じます。
709
:
独学徒
:2006/03/13(月) 15:42:22
犀角独歩さん、れんさん、
色々調べて見ますと、開目抄要文巻末の「日堯」自署は、北山二十五世の「日堯」である可能性が大ですね。
要文本文は日興筆、巻末の自署のみ「日堯」筆というところでしょうか。
北山の貫首であれば、北山の霊宝に自署を書き入れることは可能だと思います。
私の軽率な投稿で、議論が横道にそれてしまいました。
申し訳ありませんでした。
710
:
犀角独歩
:2006/03/13(月) 22:33:40
独学徒さん
> 北山の貫首であれば、北山の霊宝に自署を書き入れることは可能
可能かもしれませんが、宝物に名ばかりを記すことがあるのでしょうか。花押をなすはずではありませんか。
なお、別に横道にそれていません。自由に話し合うことは結構なことであると思います。
711
:
独学徒
:2006/03/13(月) 23:57:24
犀角独歩さん、今晩は。
「日堯」に関しては、正確な資料を所持できておらず、正直迷う一方なのですが、昭和44年に角川書店から出ました「妙本寺本 曽我物語」の巻頭に、北山の「曽我物語」の写本の写真掲載されています。それによりますと「日堯」は同写本にも著名しているようで、それによれば花押をなさない癖があるように感じられます。
通常、写本は花押あれば「日堯花押」と書くところだと思いますが、角川文庫「妙本寺本 曽我物語」巻頭写真は、「日堯 識」と書かれています。
この「識」とは何を意味するのか分かりません。
もし北山二十五世の「日堯」が、花押をなさない方であると考えれば、花押をなしている保田日堯とは別人であろうと思われます。
(既に犀角独歩さん・彰往考来さんからは、画像をご覧戴き、筆跡から別人と思われる旨のご意見を戴いています。)
そうしますと一番可能性が高いのが、北山二十五世の「日堯」ですので、①日興筆開目抄要文に「日堯」が署名のみした。②現在日興筆と伝わる開目抄要文は、日興開目抄要文を「日堯」が書写したもの。のどちらかの可能性が高いと思われます。
「日堯」の寂年は1827年ですので、それから約40年後に明治維新となるときを考えますと、②の場合ですとそれほど近代近くに書かれたものを、日興筆と見誤るものかどうかという疑問があります。
その意味で、709の投稿では一往①の立場で投稿いたしました。
しかし実質は、本投稿の冒頭に記しました通り、「正直迷う一方」というところです。
712
:
犀角独歩
:2006/03/14(火) 00:30:43
独学徒さん
> 「識」とは何を意味するのか分かりません
これは「しるす」と読みます。
つまり、日堯識(しる)すとなります。
しかし、この記述の仕方は、そんなに古いものでしたでしょうか。やや、疑問が残ります。
713
:
藤川一郎
:2006/03/14(火) 14:05:22
そういえば、最近「小野寺直識」の書籍がありましたね。
714
:
独学徒
:2006/03/17(金) 10:28:35
犀角独歩さん、
>712のご教示、ありがとうございました。
「日堯」に関しては、進展無く、歩留まり状態です。
715
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/28(火) 07:16:11
>「素朴な疑問」2708 鳳凰さんへ、こちらへ移ります。
不動・愛染感見記に対する少々私の所見を述べさせていただきます。
>>不動・愛染感見記
>これはやはり偽書の可能性が高いと思っております。
>大聖人の日付に対する厳格・正確さは、既にご存知の通りであり、「正月一日」の日蝕の存在証明をしない限り、記述内容が正しい物であるとの結論は早々できない
そうでしょうか?蓮祖の御真筆御本尊は月の記載はあっても日の記載は空欄の場合が多いので私は必ずしも蓮祖が日付に厳格であったとは思っていませんが、もし厳格だと主張されるのであれば挙証していただきたいと思います。蓮祖の日付はエンジニア(私は理系の学校を卒業した現職の技術屋です)の眼から見れば、実験計画やレポート、報文などと比べかなりのラフさを感じます。もちろん時代背景も違いますが、同時代でも『吾妻鏡』などはきちんと日付の記載があるわけで、それらと比べても差はあるでしょう。まず、蓮祖が日付にそれほど厳格でなかったことを「立正安国論」の執筆動機に関する御書を通じて例示してみましょう。
御書には、
(a)「安国論御勘由来」(係年:文永5年太歳戊辰4月5日):「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、(中略)文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ」(堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』昭和47年67刷(初版昭和27年)、創価学会、33〜35頁)
(b)「立正安国論奥書」(係年:文永6年12月)に「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり、其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥此の災の根源を知る、」(『日蓮大聖人御書全集』33頁)
(c)「強仁状御返事」(係年:建治元年12月):「仍つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を聞き見るに此の国の中に前代未起の二難有る可し所謂自他叛逼の両難なり」(『日蓮大聖人御書全集』184頁)
(d)「滝泉寺申状」(係年:弘安2年10月):「去る正嘉以来の大彗星大地動等を観見し一切経を勘えて云く当時日本国の体たらく権小に執着し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、仍て治国の故を思い兼日彼の大災難を対治せらる可きの由、去る文応年中・一巻の書を上表す立正安国論と号す」(『日蓮大聖人御書全集』850頁)
(e)「中興入道消息」(係年:弘安2年11月):「其の故は去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時・内外の智人・其の故をうらなひしかども・なにのゆへ・いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮・一切経蔵に入りて勘へたるに」(『日蓮大聖人御書全集』1334頁)
とあります。
いうまでもなく「立正安国論」は文応元(1260)年7月16日に前執権北条時頼に上奏されました。その執筆動機として上記(a)〜(e)の御書では正嘉元(1257)年8月23日の大地震と文永元(1264)年7月5日の彗星が挙げられています。上記の御書のうち(a)〜(d)は御真筆のある御書((a):中山法華経寺蔵、(b):中山法華経寺蔵、(c):京都妙顕寺蔵、(d):中山法華経寺蔵)であり記載内容に間違いはないでしょう。問題は(e)で、(e)は御真筆や直弟子の写本などが存在しない録内御書です。
716
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/28(火) 07:16:46
715の続きです。
ここで文永元(1264)年の彗星は時系列からいって合わないのです。「立正安国論」を提出した後に発生した天変地夭が執筆動機になるはずがありません。正嘉元(1257)年8月23日の大地震は『吾妻鏡』に記載があり、史実として裏付けられます。『吾妻鏡』の巻第47に、「(正嘉元年八月)廿三 乙巳 晴る。戌の尅、大地震。音あり。藭社佛閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顚倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水湧き出づ。中下馬橋の邊、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云々。」(貴志正造訳注『全譯 吾妻鏡 第5巻』1989年7刷(初版1977年)、新人物往来社、302頁)とあり、相当大きい地震であったことが覗えます。『吾妻鏡』は文永元年の記事全てを欠いていますので、『吾妻鏡』から文永元(1264)年7月5日の彗星を確認することはできませんので従来の管見に入った日蓮関係の書籍ではこの彗星については史実かどうか触れられていません。今般、鎌倉時代の文献を種々調べたところ『北条九代記』に文永元(1264)年7月5日の彗星について記載がありました。これは今まで管見に入った日蓮関連資料の中にはないものです。『北条九代記』には、「(文永元年)七月五日寅刻彗星寅方ニ見、芒氣丈餘。此ノ間旬月ニ及ブ半天ニ及ビ未曾有ノ例之(也歟)」(『続群書類従 第29輯上』昭和56年訂正3版、続群書類従完成会、422頁)とあります。
正嘉元年の大地震が史実と確認できますので、文永元年7月5日に彗星が出現したのも史実でしょう。斉藤国治氏の『古天文学の道』(50頁)によれば、貞応元(1222)年にハレー彗星が出現しているので、文永元(1264)年の彗星は周期76年のハレー彗星ではないことだけは確かです。
(e)の「中興入道消息」では、「其の故は去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時」とあります。「立正安国論」の北条時頼への上奏は文応元(1260)年なので、「文永元(1264)年の大長星の時」より前であり、時系列的に合わない表現ですので「中興入道消息」を後世の創作とする理由になり得るのですが、実はそうとは言いきれません。類似表現が御真筆のある「安国論御勘由来」にあり、「立正安国論」執筆理由にあげられています。「安国論御勘由来」の係年は文永5年ですが、この時点ですでにこのような表現があるので弘安2年の「中興入道消息」に同様の表現があっても不思議ではありません。また中山法華経寺蔵の「立正安国論」の係年は文永5年なので文応元(1260)年7月16日に前執権北条時頼に上奏された版とは異なり、後日蓮祖自ら書写されたもののようです。そのため、「安国論御勘由来」にも「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で」という表現があるものとも拝されます。とはいえ、あくまで「立正安国論」は文応元(1260)年に上奏されたのですから、文永元年7月5日の彗星は執筆理由にはなり得ません。
時系列として見るなら「立正安国論奥書」(係年:文永6年12月)に「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり、其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥此の災の根源を知る、」(『日蓮大聖人御書全集』33頁)とあるのが誤解のない表現でしょう。
さて(a)〜(e)の御書で大地震と彗星の書き方を経時的にみてみましょう。文永期には日付がきちんと書かれていましたが、建治元年には「正嘉・文永二箇年の大地震と大長星」と日付はなくなり、弘安期では「去る正嘉以来の大彗星大地動等」、「去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時」となっていて、時代とともに記載内容が曖昧になっているのが解ります。
717
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/28(火) 07:17:43
716の続きです。
次は、蓮祖が日付を誤記されたと考えられる事例をあげます。
すでに、「蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について」のスレッド679に蓮祖が明星(金星)が2つ並んでいるのを見たという「法華取要抄」の天変地夭記事を記載しました。天文学者の斉藤国治氏(元東京大学東京天文台教授)は『星の古記録』(1997年3刷(1982年1刷)、岩波書店(岩波新書)、112頁)に「計算の結果、3月11日の早暁に、金星(このとき光度マイナス3.7等)と木星(光度マイナス1.7等)とが、太陽の西0.7度のへんで黄径合となり、金星が木星の北0.3度にまで接近していたとわかった」と記しています。
記事の日付はユリウス暦3月14日に当たりますが、「法華取要抄」では2月5日(ユリウス暦では3月11日)となっていて計算結果と3日のズレがあるので、斉藤氏は「日付に誤記があるらしい」としています。つまりこれは記憶による記述であったことが強く示唆され、記憶なるが故に誤記が生じているものと推察します。
蓮祖の時代に使用されていた暦は宣明暦でこの暦では日蝕は必ず朔日に発生します。愛染感見記に在る「日■(■:[虫*虫])」を「日蝕」とするなら「一日(ついたち)」との日付記載は当時の常識として間違いようがないのです。逆に月は記憶によるものであるなら、誤記が発生しても不思議はないということになります。
続けて日付ではありませんが、御本尊の「仏滅度後二千二百二十余年」の御賛文です。ご真筆の御本尊に誤記があります。第45番本尊は、首題の「蓮」字の辵(しんにょう)の点を欠き、且つ「二千二百余年」と「二十」が脱落しています。第46番本尊も「二千二百余年」と「二十」が脱落しています。また第104番本尊では「仏滅度後二千二百二百三十余年」と「二百」が重複記載されているのです。
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以上の挙証から蓮祖が必ずしも日付などの記載に厳格であったとは言えないことを理解できるのではないかと思います。
愛染感見記が日蝕を現しているとするなら、蓮祖が日蝕をごらんになった可能性はあるのでしょうか。渡邊敏夫氏の『日本・朝鮮・中国 日食月食宝典』(1994年復刻版、雄山閣、309頁)によれば、蓮祖が建長5年までに皆既日蝕をごらんになった可能性があるのは下記2回でしょう。
寛元3(1245)年7月1日(ユリウス暦7月25日):聖壽24歳
建長元(1249)年4月1日(ユリウス暦5月14日):聖壽28歳
そして『日本・朝鮮・中国 日食月食宝典』406頁の中心食帯図によれば、この2つの日蝕は和歌山県を通っているのです。和歌山県には高野山があります。「妙法比丘尼御返事」に「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間、鎌倉、京、叡山、園城寺・高野・天王寺等の国国・寺寺あらあら習い回り候し程に」(『日蓮大聖人御書全集』1407頁)とあり、また「破良観等御書」に「幼少の富木より学文に心をかけし上・虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしよりこの願を立つ(中略)その後先ず浄土宗・禅宗をきく・其の後叡山・園城・高野・京中・田舎等処処に修行して」(『日蓮大聖人御書全集』1292頁)とあることから蓮祖が高野山にて修行されていたことが覗えるのです。但し、「妙法比丘尼御返事」は御真蹟のない録内御書、「破良観等御書」にいたっては御真蹟のない延山録外ですから、内容の信憑性については注意が必要です。ここでは蓮祖が高野山にて皆既日蝕をごらんになった可能性があると指摘するのに止どめます。
718
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/28(火) 07:18:24
717の続きです。
北林氏の『日蓮大聖人と最蓮房』(2005年改訂版、平安出版。以下『北林本』と略します)においてなぜ「身」字の比較結果程度で愛染感見記と不動感見記とを偽筆と判断しているのか不可思議なのです。確かに愛染感見記と不動感見記では書き方が異なります。しかしながらこれを以ってして偽筆と判断すれば素人とのそしりを免れないでしょう。かく言う私も素人ですが、私は逆に偽筆ではない証左とみます。
愛染感見記と不動感見記は建長5年6月25日付けで対になっていますから、もし偽筆とするなら両方とも偽筆との判断なのでしょうが「偽作には何より信用させることが第一で、それには特殊な形式や、崩れた筆法は用いられ得ない」(松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』(昭和54年復刻(初版:昭和43年、大成出版社、209頁)ということを弁えないといけません。つまり今回のようにわざわざ筆跡を変えるのは偽作において禁じ手なのです。偽作において筆跡を変えたならそれこそ素人にさえ見破られてしまうからです。偽作者はそんなヘマはしません。とは言ってもこれだけでは詭弁ととられかねませんから、筆跡鑑定の初級講座を開講しましょう。まず、愛染感見記と不動感見記の筆跡の差からこの2つが蓮祖筆であろうということを説明してみます。愛染感見記と不動感見記の「大日」の字体に注目します。北林氏に言われるまでもなく、「大日」は愛染感見記と不動感見記で書き方が異なります。
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愛染感見記で「大日」は「大」字の第三画目(左上から右下へ)がそのまま反転して「日」字と繋がっています。また「大」字の第一画と第二画も繋がっていて第二画は流れるように筆が運ばれています。それに対して不動感見記では第一画は左下で止められて、第一画と第二画は繋がっておらず、第三画は右下で止められています。もちろん「大」字と「日」字は別々です。見た目では全く異なります。誰かさんが「偽筆だ!」と思い込んで吼えているのが聞こえてきそうです。
しかし、この「大」字の第三画目(左上から右下へ)がそのまま反転して「日」字と繋がっている書き方と、「大」字と「日」字が別々の書き方、の両方とも蓮祖筆の特徴なのです。例えば、『御本尊集』の第99番本尊(弘安3年9月)の「大日天玉」は、「大」字と「日」字は別々ですし、第100番本尊(弘安3年11月)の「大日天玉」は、「大」字の第三画目(左上から右下へ)がそのまま反転して「日」字と繋がっている形です。この特徴を理解するなら愛染感見記と不動感見記の筆跡の差はそれぞれが蓮祖筆であるために発生していると理解でき、筆跡に差があるから偽筆との判断は早計であることが解ります。松本佐一郎氏は警視庁鑑識課町田技師の指導のもと、画間比率法を使って蓮祖の御本尊の筆跡鑑定を実施しています。松本氏は「(日蓮)聖人の筆跡は大体に於て大きく、丸味があり、起筆も終筆も力強いものがある。これは強い外向性と実行力の所有者であり、小事に拘泥しない大まかな性格(学問がなければズボラになり、学問が有れば大局と要点はちゃんとつかむが、こまかい事に頓着しない)(『富士門徒の沿革と教義』216頁)と性格分析されています。そのためか蓮祖御本尊では第99番本尊(弘安3年9月)のような起筆も終筆も力強い「大」字と「日」字が多いのも特徴です。警視庁鑑識課町田技師の筆跡鑑定についての解説が町田欣一・今村義正『全書 捜査・鑑識の科学 第3巻 文書・心理鑑識』(昭和35年、日本評論新社)に記載されていますので、ここから少し参考となることを拾っておきましょう。
719
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/28(火) 07:18:57
718の続きです。
「筆跡鑑定を行なう場合、二○歳代の者の筆跡を検査する対照資料としては、同時期の筆跡、少なくとも一年以内の筆跡を対照資料としなければならない。三○歳を過ぎた者やさらに高年齢の者の場合においても、同時期の筆跡を対照資料にすることが望ましいが、二○歳代の時ほどは変化がないから、二、三年前の筆跡でも対照資料とすることができる」(12頁)
これは蓮祖の場合にも当て嵌(はま)ります。御本尊の「経」字の字体変化などに顕著です。
「書体については、出来るだけ同書体に限ること。鑑定資料が楷書体であるのに、対照資料が行書体または草書体であっては鑑定が困難になる」(13頁)
今回の愛染感見記と不動感見記は書き方が異なるのでこのケースにあたるでしょう。書き方が異なる以上、比較しても意味はありません。
また「筆跡で恒常性があると認められるのは、文字の絶対の大きさではなく、字画相互間の大きさの比率、すなわち相関数値である」(13頁)とのロカールの言葉を引用し、「「大」という字を例にしてこの事を説明すると、「大」という字は書くときどきによって大きくも書くし小さくも書く。また、右肩上りの角度で書くときもあるし、肩下り(引用者注:原文この箇所に「右」字はありません)に書く場合もあるが、それらの「大」字を注意して観察すれば「大」を構成している三本の字画線の長さの比、第一画の横線に対する第二画の斜線の長さの比、第二画の斜線に対する第三画の斜線の長さの比、これらは何時も一定であって、角度や全体の大きさが変わっていても、そこまでは変わっていない」(14頁)
と説明しています。なお今回の愛染感見記と不動感見記では書き方が異なるので字画線相互間の長さの比は一致しません。
近年、北林本のように真蹟写真の画像処理をして字体を比較し、議論している論文をたまに見かけます。ただ似ている似ていないだけでは鑑定できないことを論文筆者が理解しているか疑問ではあります。少なくとも「似ているから同一人物」というロジックならまだしも、「似ていないから別人」というのは早計です。その場合はもっと別の観点からのアプローチが必要でしょう。まして北林本のように早とちりして偽作と決めつめるのは極めて危険です。
蓮祖の「大」字の書き方に2通りあるというのは、いわば約束事です。中島誠之助氏によれば「そうした約束事を知らないとコロリと騙されることになるわけです。ですから、約束事をきちんと踏まえておくことは、真贋を見分けるための最低条件といえるのです。けれども、大事なことは、約束事がすべてではない、ということ。約束事にかなっているから本物だ、ということにはなりません。約束事というのは勉強している人は知っているわけですから、それを守った作り方はいくらでもできます。ですから、約束事は、真贋を見分ける際のモノサシのひとつと考えておくべきでしょう。それよりも重要なのは、「腹に入らない」(引用者注:骨董業界では贋物に対してこのような表現を使います)という一種のインスピレーションです。形が悪い、なんとなく迫力がない、こうしたことを感じとれる感受性のほうが大切です。まず最初にあるべきものは直観であって、約束事はその直観を補うもの、と考えていただければと思います」(中島誠之助『骨董の真贋』1996年、二見書房、30頁)ということなのです。もちろんこの直観は、長年にわたった経験と磨かれた研鑚があってはじめて得られるものであることはいうまでもありません。私を含め素人判断でそう簡単にできるものではないのです。
720
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/28(火) 07:19:47
719の続きです。
骨董の世界では偽物を本物と判断するより本物を偽物と判断するほうの罪が重いとされます。今回の愛染感見記と不動感見記のケースでも、蓮祖のご真筆である可能性がある(私はホンモノと思っています)わけでそれを偽作と判断するのであれば、それは慎重になされるべきです。愛染感見記と不動感見記は山中喜八氏の『御本尊集』に入集しています。これは山中氏がご真筆と判断していることを意味します。山中喜八氏の『御本尊集』は極めて厳密であり、ここに入集している御本尊についてご真蹟ではないと判断するのはなかなかできるものではありません。
では、愛染感見記と不動感見記でなぜ書き方が異なるのでしょうか。「大日」における「大」字の第三画目(左上から右下へ)がそのまま反転して「日」字と繋がっている書き方は第112〜116番本尊にもみられます。特に第112〜115番本尊は弘安4年10月の御図顕で、「随集御本尊写真によれば弘安四年十月以後の御筆蹟は急に乱れ、十二月に入って立ち直ってゐる。これは御病気の為」(『富士門徒の沿革と教義』271頁)とあるように御病気中の図顕で、松本氏は「丸型のほうが書き易いとみえて、乱筆の四鋪(引用者注:第112〜115番本尊)は皆弓形か曲がり尾」(『富士門徒の沿革と教義』219頁)と指摘しています。つまり力を入れない書き方をされているのです。このことから、愛染感見記と不動感見記ではまず、不動感見記が書かれ次に愛染感見記が書かれたのですが、愛染感見記の際には疲れが見られ力を入れない書き方をされたためと考えれば納得することはできます。
以上、種々例を挙げて説明いたしました。これらのことから私は愛染感見記と不動感見記をご真筆と考えています。愛染感見記と不動感見記は日蓮関係の学者では、山中喜八氏、稲田海素氏、宮崎英修氏、中尾堯氏、堀日亨氏などそうそうたる人たちがご真筆と判断されています。この方々は「約束事」をご理解されていたが故のご判断でしょう。筆跡鑑定や真贋を議論したいのであれば、少なくとも下記の書籍程度は勉強すべきですし、何よりもホンモノに接し(写真集だけではダメですよ。美術館の絵でもよいのでホンモノを見るべきです)自分自身の感性を高める必要があります。
<参考資料>
①松本佐一郎『富士門徒の沿革と教義』昭和54年復刻(初版:昭和43年)、大成出版社
②町田欣一・今村義正『全書 捜査・鑑識の科学 第3巻 文書・心理鑑識』昭和35年、日本評論新社
③瀬木慎一『真贋の世界』1977年、新潮社
④張珩ほか『書画鑑定のてびき』1985年、二玄社
⑤中島誠之助『鑑定の鉄人』1995年、二見書房
⑥中島誠之助『骨董の真贋』1996年、二見書房
⑦三杉隆敏『真贋ものがたり』1996年、岩波書店(岩波新書)
⑧中島誠之助『ニセモノ師たち』2001年、講談社
⑨魚住和晃『現代筆跡學序論』平成13(2001)年、文芸春秋(文春新書)
⑩大宮知信『お騒がせ贋作事件簿』2002年、草思社
⑪増田孝『書の真贋を推理する』2004年、東京堂出版
⑫佐藤進一『花押を読む』2000年、平凡社
蓮祖のご真筆の真贋を議論するのであれば、特に①と②は必読でしょう。最後に自分自身への自戒を込めて一言。ヘタな素人判断は慎むべきです。
by 彰往考来
※今週は海外出張予定のため、ご質問などにお答えするのが遅れます。ご了承ください。
721
:
鳳凰
:2006/03/28(火) 11:41:56
>彰往考来さん、
種々ご教示ありがとうございます。大変勉強になりました。
私も再度勉強をし、質問があればレスさせて頂きます。
ご多忙中にも関わらず、ご親切、かつ、ご丁寧にありがとうございました。
722
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/31(金) 07:38:19
>721鳳凰さん
無事日本へ帰ってきましたので、ご質問があればどうぞ。
彰往考来
723
:
きゃからばあ
:2006/03/31(金) 09:53:00
彰往考来さん、おかえりなさい。
そしてご無沙汰しています。
ところで、『愛染感見記』と『不動感見記』ですが、なぜ図画を必要としたのでしょうか?
たしかに図画等にすれば、わかりやすいのですが、それならば他の御遺文にあってもいいような気がします。
単純な疑問でスミマセンが、ご意見をお聞かせください。
724
:
ニセ本尊
:2006/04/02(日) 09:16:16
板本尊伝説【昭和】
1.1945年(昭和20年)6月17日未明、大石寺の大書院から出火、またたくまに大坊と客殿を焼き尽くし時の法主(62世日恭)は焼死した。
御隠尊猊下(61世日隆)は、戦争から板本尊を守るため、以前住職を務めていた東京の某寺院の法華講員を呼び寄せた。
当時は、アメリカ軍が富士山を目指して上陸してくるという噂も飛び交っていたこともあり、一方、東京の下町は3月の大空襲以降は、
もう目立った目標物もなく、かえって安全と思われた。終戦間際という大変な時期に、車で来いというのだ。なぜ車か?
それは重さ200kgはあろうかという板本尊を密かに運び出し、某寺院の境内に埋めて守るという計画だった。
宗務院の重役の中でも、極一部の者しか知らないこの計画は、秘密裏に実行されおよそ1年間、秘密は保たれた。
725
:
ニセ本尊
:2006/04/02(日) 09:19:12
板本尊伝説【昭和】
2.日蓮正宗では、9世日有の時代に、板本尊を大石寺から別の場所に移して守ったという伝統があり、
計画そのものは何の障害も無く実行された。
当時、創価教育学会は壊滅し、何の役にも立たず、戸田城聖にも知らされない話だった。
それから約半年後、次期法主(63世日満)が決定すると、ふたたび秘密裏に板本尊を本山に戻すことになった。
しかし、ここで思わぬ事態が勃発する。某寺院の境内に埋めて置いた板本尊(楠の半丸太)の下部が、
なんと腐ってしまって3分の1以上が脱落してしまったのだ。
昭和21年のことである。戦争のため物資が乏しい中、なんとか油紙で包んで大事に土に埋めて置いたのだが、
埋めた場所が隅田川の近くであり、水分を多く含んだ土壌だったために、わずか半年という短い期間で
腐ってしまったのだ。
726
:
ニセ本尊
:2006/04/02(日) 09:20:26
板本尊伝説【昭和】
3.上野の赤沢朝陽の社長は大変な苦労して、およそ半年の歳月を掛けて板本尊の復元を行った。
彼は一級の技術を持つ本物の佛師だった。復元に当たっては、当時法道院にあった日禅授与本尊、
および明治44年に出版された日蓮聖人という本に掲載された戒壇の大御本尊の写真が使用された。
この写真は第二次大戦中にお守りとして、多くの法華講員が所持していた。こうして昭和21年に
復元された戒壇の大御本尊は、もちろん750年前の板本尊と呼ぶことは出来ない。
727
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/04/02(日) 14:35:52
>723きゃからばあさん
お久しぶりです。
>『愛染感見記』と『不動感見記』ですが、なぜ図画を必要としたのでしょうか?たしかに図画等にすれば、わかりやすいのですが、それならば他の御遺文にあってもいい
かなり難しいお問い合わせですね。結論からいうと私にはよく解らないということなのですが、あえて愚論を述べるなら、絵は解りやすい反面、真実を伝え難いため多用されなかったのではないでしょうか。例えば「富士一跡門徒存知事」に
「一、聖人御影像の事
或は五人といい、或は在家といい、絵像木像に図し奉る事在在所書其の数を知らず、而(しか)し面面各各不同なり。爰(ここ)に日興が云わく、先ず影像を図する所詮は後代には知らしめんがためなり、是につけ非につけ有りのままに移す(引用者注:原文には「写す」ではなく「移す」とあります)べきなり。 (中略) 但彼の面面の図する像一も相似(せざるの中に、去ぬる正和二年日順図絵の本あり。相似の分なれど自余の像よりもすこし面影あり。而る間後輩彼此の是非を弁ぜんがために裏に不似の書付之れを置く)(高橋粛道『日興上人御述作考Ⅰ』昭和58年、仏書刊行会、206頁)とあります。大訳すれば、あちこちに日蓮聖人の画像がたくさんあるがそれぞれ同じではない。日興が言うには、そもそも画像を画くのは後世に残すためであるから、良きにつけ悪しきにつけありのままを写すべきである。たくさんある画像は全く似ていないが、其の中で日順のものは他のものよりまだ面影がある。ただ後世のものが間違うといけないので似ていないとの但し書きを裏につけておく、といった意味でしょうか。ここに画像で伝えるということの困難さが滲み出ていまして興味深いところです。
直接関係ないですが、蓮祖の絵として伝えられるものに写本「三教旨帰抄」(中山法華経寺蔵)の巻末に描かれた馬の絵があります。此の絵は『図録 日蓮聖人の世界』(平成13年、日蓮聖人の世界実行委員会、47頁)に記載されています。但し、山中喜八氏は「三教旨帰抄」について「聖教殿格護の日蓮聖人御真蹟」で
「○ 三教旨■抄(■:[白*反])
一帖五七丁 縦一九・七センチ 横一六・一センチ
聖祖少年時の御筆写という伝承が存するが、これを「授決円多羅義集唐決」や「五輪九字秘釈」の親写本と照合するに、聖筆とは拝し難く、その用紙・筆風等から観察すれば、むしろ聖祖よりも古い時代に書写された本のようである。但し首尾に書入れてある絵画は後代のものと思われる」(『山中喜八選集Ⅱ 日蓮聖人真蹟の世界 下』平成5年、雄山閣出版、137頁)と指摘されていることから、この絵が蓮祖筆である可能性は低いと思われます。
728
:
きゃからばあ
:2006/04/03(月) 11:26:05
彰往考来さん、貴重なご意見ありがとうございました。
たしかこの『愛染感見記』と『不動感見記』は日興が与えられたと記憶しています。
日蓮聖人は文面の「大日如来からの相承」と図画の「愛染・不動の姿」のどちらをメインにしたかったのか興味が沸きます。
そしてまたその目的は…、と考えると複雑な気持ちにもなります。
さらに疑問がでましたら、またお尋ねしますのでよろしくお願いします。
729
:
天蓋真鏡
:2007/01/07(日) 19:38:45
「日蓮の判形が無い漫荼羅は用いては為らない」と言うのは、日蓮が書いた形式・文字数以外の漫荼羅は製作しては為らない。と考えては活けませんでしょうか。例え修行の道具である漫荼羅と言えどもです。シャカの心意、智豈頁の理論、最澄の学識を継承する本尊の雑乱を防ぐ一語に聞こえませんか。
730
:
犀角独歩
:2007/01/08(月) 10:10:43
729 天蓋真鏡さん
> 「日蓮の判形が無い漫荼羅は用いては為らない」
ではなく、「日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」です。
では、この日蓮の判を持つとは、どういうことかと言えば、これはまさに漫荼羅授与をもってなしたことであろうというのが、わたしの考えです。
ですから、漫荼羅は弟子としての允可証の意味したのだろうと考えます。
731
:
天蓋真鏡
:2007/01/08(月) 13:38:36
新年早々すみません。 ●と言う事は、漫荼羅受持は日蓮の教えには必須と言う事ですよね。天台密教から法華一乗へ移行する為に描かれた図示が漫荼羅であると私は見ます(漫荼羅が法華経の理想を表現しているとは断言しません)●漫荼羅は最悪の事態(末法濁世の世)を想定して製作されたマニュアルに当りませんか。漫荼羅正意論は信心学問修行全部を見たら問題です。漫荼羅は身口意を統一する唱題に必要不可欠であるから図示されたのではありませんか。 日蓮が祈り願い唱えたのは『法華一乗』で一人ひとりが仏国土を現出する事で、自分が「生粋の法華経の行者」と表現したいのは此れだと所感します。
732
:
れん
:2007/01/24(水) 21:26:11
蓮師の開目抄に「一念三千の法門…寿量品の文底」云々とあります。石山では九世日有師は「興上は如来秘密神通之力の文底」と言い、二十六世日寛師は「我本行菩薩道」の文底と言います。
しかし、富士門祖の日興師の直弟子で重須談所の学頭にもなった三位日順師は「問云一念三千ノ法門本門寿量ノ文底ニ沈メタリト云々、然者何ノ文ヲ指耶、答云経云如来如実知見三界之相○非如非異不如三界見於三界○云々」と示します。
また、日目師の直弟子の日郷師の高弟日叡師が郷師よりの相伝法門を記録したその著、類集記に「御書ニ一念三千法門ハ寿量品ノ文底ニ沈タリト云々。経云。或説己身或説他身○乃至如来。如実知見三界之相。無有生死若退若出。亦無在世及滅度後(ママ)。非実非虚非如非異。不如三界見於三界。如斯之事。如来明見無有錯謬云ヘリ」と、広略の差はありますが三位日順師と同じ箇所を挙げます。
してみると、初期の日興門流における寿量品の文底”の“文”とは日順師・日叡師が挙げられた箇所であり、両師の師弟関係からすると、それが本来の興・目両師の義であった可能性もあります。となると、石山有師・寛師の挙げられた“文”は後付けの義である可能性はほぼ100%でしょうね。
又、私が挙げた日順・日叡両師の開目抄の引用文ではいずれも身延曽存の御真蹟と同じく「文底ニ沈メタリ」であり、これが初期日興門流における開目抄の当該部分の伝承であり、逆説的に見ると、文底秘沈の成句は初期興門には存在しなかった証になります。故に文底秘沈の成句もまた、石山の後付け教学であり、秘の字は室町以後の石山の私加であると言うのが事実であると愚考します。
733
:
犀角独歩
:2007/01/25(木) 08:00:12
732のれんさんのご賢察は明解であり、参考になりました。
賛同します。
734
:
再挑戦者
:2007/02/01(木) 20:38:43
横からゴメンします、、。
「、、むむっ、、」、、と 、、グサリ と 響きました次第です、、。
いわゆる、モンテイ 文底 という のは、どちらにとっても好都合な一件、、のようですが、、。
我々にとては、決して、悪用だけは、、ゴメンしたいです、、ネ、、。
735
:
獄在佛傾
:2007/03/06(火) 19:45:56
、、、まったく、です。
余計な、、手出し、ながら、、、どうも、、日蓮さんは、今、の、、今、、の時代、にこそ、、生誕して、、欲しかった、、ナ、、!!
鎌倉時代では、、早、過ぎた、!!!、、、ネネ、、!!
今の、、IT 時代こそ、日蓮の時代、、??? でしょう、、!!!
今後に、、ご期待、、?? しましょうか、、?! 。
736
:
パンナコッタ
:2007/04/27(金) 23:25:24
大白蓮華5月号の、名誉会長名義の巻頭言に
"日蓮大聖人の御一代の化導は「立正安国論」に始まり「立正安国論」に終わる"
とありますがその後、
"それは、立正安国論に認められた「国」の文字の大半に 「クニ」ーつまり「□」に「民」が入った文字が
用いられていることである。「民衆」こそが根本であり眼目なのだ"
と、またこのネタを引っ張り出していますね。
確かに、文永六年の中山本に頻出する"国"の字72の内、実に56(77.78%)が、くにがまえに民です。
しかし、本國寺蔵の広本ではめっきり少なくなりますし(7/93 7.5%)、玉澤蔵日興写本はすべて
"國"ですし、果たしてそのような意図した意味があるのでしょうか。
国 國 □民 計
中山本 12 4 56 72 (日通書写二十四紙・1含む)
本國寺本 47 39 7 93
両書において、同じ文で同じ字を使っている物は、
□民6 国7 國0
□民の6つの内訳は
金光明経に云く其の国土に於いて
既に捨離し已りなば其の国当に
所謂人衆疾疫の難・他国侵逼の難
一切の国主星
国滅び人滅せば仏を誰か崇むべき
又云く 如来昔国王と為りて
あまり意味合いにおいては、民衆を意図したとは言えない文面ばかりですね。
737
:
パンナコッタ
:2007/04/27(金) 23:26:22
続き
確かに中山本で言う限りにおいては大半であると言えましょうが、"始まりから終わりまで"と
豪語しているのですから、正しい認識とは言えないでしょう。
更に、"蓮祖は時代が下ったら、民衆を疎かにした"という意味合いも出てきてしまいます。
尤も、広本の存在自体信者は知らないですし(御書全集の存知の事・建治の広本の記述はありますが)
この限りにおいては"まちがった事"ではない故に、活用し続けるのでしょうね。
蓮祖をダシに使った、巧妙な信者の操り方の一片と云うところですね。
738
:
犀角独歩
:2007/04/28(土) 02:04:29
パンナコッタさんのご見識に、わたしも賛成します。
第一、『立正安国論』という日蓮自ら示した書名の‘くに’の字は「国」になっています。
もし、民衆を意図したものであるというのであれば題名にこそ[囗@民](国構えに民)の字を使ったのではないでしょうか。単なる思いこみから、文全体の意味を決めてかかっているのにすぎないと言えるでしょうね。
739
:
パンナコッタ
:2007/04/28(土) 12:13:24
独歩さんのご指摘のとおり、タイトルは紛れもなく"国"ですね。
興味のある方は、以下をどうぞ。
http://www.hokekyoji.com/index-new2.htm
http://www.artmemory.co.jp/honkokuji/original/picture/008.html
740
:
大縫 薫
:2007/04/29(日) 19:47:20
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h51668345
御直筆の断片なのでしょうか?
741
:
独学徒
:2007/04/30(月) 00:28:39
大縫さん、こんばんは。
>740
『日蓮・花押』が胡散臭いですね。
御書システムで検索すると、最終行の「南無妙法蓮華経」と「二月十一日」の両方に該当する遺文は無いようです。
742
:
しゅんかん
:2007/04/30(月) 11:37:25
慶長16年(1611)
日量とは誤りで、京都本満寺の一如日重でしょうか。
743
:
独学徒
:2007/04/30(月) 11:57:15
しゅんかんさん、
>742
花押の形からして、一如日重で間違いないと思います。
744
:
大縫 薫
:2007/04/30(月) 17:09:21
後世の模写としか思えないのですが?
745
:
しゅんかん
:2007/04/30(月) 21:29:33
独学徒さん、ありがとうございます。
746
:
犀角独歩
:2007/06/17(日) 10:12:35
諸賢
北山から、二箇相承、三秘抄の真筆が出たという噂を聞きましたが、実否をご承知でしたら、ご教示ください。
747
:
れん
:2007/06/17(日) 10:26:08
犀角独歩さん
北山から二箇相承と三秘抄の真筆が出た…
15日の小松先生の御遺文講義に出ましたが、そのような話題は出ませんでしたので、その実否は存じ上げません。私はむしろ、一字さんからご教示戴いた「中尾先生が立正安国論広本は弟子による写本」という発表があったという話の方がむしろ驚きです。北山の方に関しては、両抄の発見は事実であっても、案外花押ついた写本の可能性もあり、真筆云々は早計で勇み足である場合もあるのではないでしょうか。花押有りでも、偽作されたものの“原本”の可能性もありますから、注意するにこしたことはないと存じます。
748
:
犀角独歩
:2007/06/17(日) 11:41:20
れんさん
早速のご教示有り難うございます。
小松師の勉強会ならば、上杉師も当然ご参加であったのでしょうね。
そうですか、お話が出ませんでしたか。
もちろん、わたしは、この三書に真筆などあるはずもないと思っていますが、このような噂を訊くと、どんな次第なのかという興味は頭をもたげます。
また、何かご見聞の由ございましたら、お伝えいただければ有り難く存じます。
中尾師の広本への見解は、以下のものですね。
資料として、だいぶ前からHPに置いてあります。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/nakao_001.html
言われるところはわからないでもないのですが、しかし、ご承知の如く、『富士一跡門徒存知事』には以下のようにあります。
「一、立正安国論一巻。
此に両本有り、一本は文応元年の御作、是最明寺殿と要を取って法光寺殿へ奏上の本なり。一本は弘安年中身延山に於て先本に文言を添へたまふ、而して別の旨趣無し、只建治の広本と云ふ。」
ここでいう「広本」がイコール現存の弘安建治交本であるかどうかは、もちろん、研究の余地はあるのでしょうが、少なくとも門徒存知事が成立した頃には、既に同論2本が存在していたことは間違いないことになります。
この点を中尾師は、まるで論究されていない点で、わたしは不満があります。
『平成新修日蓮聖人遺文集』にも載る「広本」を、わたしは真蹟であるという研究を支持します。改めてみると、この遺文集に中尾師は携わっていなかったのに、少なからず驚きました。
749
:
犀角独歩
:2007/06/17(日) 14:38:41
読み直したら、れんさんがご紹介くださった中尾師の話は、わたしがアップしているものの、発展系だったんですね。
これは具体的には何という論文でしょうか。重ねてご教示いただけませんでしょうか。
750
:
れん
:2007/06/17(日) 16:22:16
犀角独歩さん
小松先生の御遺文講義は、現在「観心本尊抄」ですので、講義も其の後の質問会での議論も結構目から鱗ということが多いです。
存知事における“広本”がズバリ現存の本圀寺本を指すのか、犀角独歩さんの仰るとおり研究の余地があると思います。もしかしたら、本弟子六人クラスにはテキストとして蓮師より広本と同内容の安国論が授与され、他師授与の分は戦乱等で失われたが朗師授与の分が偶々本圀寺に伝わったなんてこともあると存じます。真蹟集成に載る写真を見る限り、蓮師の御筆として疑義は感じませんが、もし蓮師の御筆でない場合は、彼の京都にある三沢抄の真蹟模写本の如き性質のものかもしれないとは思います。
この広本の件は一字三礼さんから戴いたメールから知りました次第です。一字さんによりますと「立正安国論をいかに読むか」の最終日の最後に中尾先生から発表があったそうです。
三秘抄も二箇相承もある種の同根的なものを感じるので、作成された場所を考えれば、妙師以降の重須であろうと思います。重須建師本の二箇相承も花押がありますから、もし、発見されたという噂が事実ならば、発見されたのは偽作された三書の作成された原初本かその第二転あたりではないかと考えている次第です。取り急ぎですが、ご参考までに。
751
:
犀角独歩
:2007/06/17(日) 16:30:36
れんさん
重ねてご教示、有り難うございました。
広本に関しては、ちょっとした新展開というところでしょうか。
最近は山籠もりで、都心に出ることも少なくその手の情報収集と、」とんと疎くなりました。何か情報がございましたら、ぜひご教授ください。
752
:
一字三礼
:2007/06/17(日) 17:45:53
犀角独歩さん
ご無沙汰しております。
「立正安国論」(広本)の件で、お騒がせしてしまいました。
東京都西部強化センター主催、「『立正安国論』をいかに読むか」という連続講座(全三回)がありました。
私は母を伴い、第二回目と最終日の講義を聴講させていただきました。
しかし、三回目の講座は、午前10時30分から午後6時30分までの長丁場だったものですから、母の疲労を考えて途中で退出してしまったのです。
その最終日の最後の講師が中尾先生で、その講義で「(広本)書写説」の最新バージョンが発表されたそうです。
私は宗学にも疎いので、その「(広本)書写説」とはどのようなものか、を博識のれんさまにご教示願ったしだいです。
そういった訳でして、私には詳しいことはわかりません。でも、連続講座の主催者の方にお願いして、中尾先生のレジュメなり資料なりがあればいただくことも可能かと存じます。
もしも何らかのものが手に入った時には、独歩さんにご連絡いたします。
753
:
犀角独歩
:2007/06/17(日) 18:52:48
一字三礼さん
たいへんにご無沙汰いたしております。
ご教示感謝申し上げます。
756
:
a
:2016/08/22(月) 09:59:11
.
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