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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

689彰往考来(しょうおうこうらい):2006/03/12(日) 08:13:59

>688 の続きです。

ここで、応永29(1422)年の日算写本を重須(北山)本門寺の日誉が日向定善寺の末寺である細島妙谷寺で写したのが永正18(1521)年であることが解ります。そして「大石寺蔵日誉写本」と堀師が述べているようにこの日誉写本が富士大石寺蔵なのです。恐らく『日蓮宗宗學全書第2巻興尊全集興門集』(以下、『日宗全書2巻』と略します)でいう「重須本門寺大夫公日譽の寫本」が「大石寺蔵日誉写本」でしょう。つまり『日宗全書2巻』の底本は「大石寺蔵日誉写本」に校合した堀師の写本であって、「大石寺蔵日誉写本」ではないということです。但し、『日宗全書2巻』でいう「對校本」の「富士大石寺所藏古寫本」とは「大石寺蔵日誉写本」のことであると推定します。少々まわりくどいですが、『日宗全書2巻』では「大石寺蔵日誉写本」を底本にしたとは諸般の事情で書けなかったのでしょう。

興風談所の『日興上人全集』(平成8年、興風談所)目次11頁によれば、「古写本所在」は「日誉筆 富士 大石寺」です。この『日興上人全集』の凡例に「「富士一跡門徒存知事」は日誉写本(東京大学史料編纂所蔵影写本)を底本として改めて解読した」とあります。つまり『日興上人全集』では東京大学史料編纂所にある日誉本の影写本を翻刻したということです。『日興上人全集』の<<頭注>>では□誉=日誉筆「富士一跡門徒存知事」としていますので、東京大学史料編纂所にある日誉本の影写本は富士大石寺蔵の日誉本を影写したものと考えられます。
『日興上人全集』に入集している「富士一跡門徒存知事」の末尾(314頁)には、

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「御本 応永二十九年極月二十七日令書写畢。  筆者日算六十八才」
「 永正十八年六月四日書之畢。
此抄ハ九州日向国日知屋従定善寺作相伝也。同細島妙谷寺堪忍之境節、北向之御堂之遍屋ニテ書写之畢。
駿河国重須本門寺□内 大夫公日誉 花押」
「明暦二丙申閏卯月十三日 前大石寺 日精 花押」
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とあります。(引用者注:レ点と一二点は省略しました。)ここで注目すべきは日精師の明暦2(1656)年の書き込みの存在で、これにより寛文2(1662)年に成立した日精師の『富士門家中見聞上』(『富士宗学要集 第5巻 宗史部』昭和53年、創価学会、157,165頁)に引用されている「富士一跡門徒存知事」の記載は日誉本(大石寺蔵)によったものと判断できます。『富士門家中見聞上』には「富士一跡門徒存知事」の「日興集むる所の証文の事」の箇所を引用した後、「述作の時代未だ分明ならず旧記にも載せず御自筆は紛失して残る所纔なり」(158頁)と記しています。さらに日精師は「富士一跡門徒存知事」の「追加八箇条」を引用し4番目の後に、「私に云く是より巳下御自筆今当山(引用者注:大石寺)に在るなり」(167頁)と記しています。これは日精師の時代には「富士一跡門徒存知事」の御自筆(興師筆?)の「追加八箇条」断簡が纔(わずか)に残っていたという記載なのです。これに関連した記載が日蓮正宗56世の日淳師による「日亨上人御講「富士一跡門徒存知事」聞書」(『日淳上人全集下巻』(昭和57年改訂分冊(初版:昭和35年)、日蓮正宗仏書刊行会、1510頁)にあり、ここには「この門徒存知事の原本は今日のところでは何処にも見当らない。唯最後の追加八箇条の半巳下の文だけは本山の御宝蔵に日精上人時代までは保存されてあつたそうである」とあります。


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