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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
496
:
犀角独歩
:2005/02/01(火) 12:28:22
ケンさん、既にれんさん、また顕正居士さんが、ご賢察をご披露くださり、ここに愚見を陳べる用もございませんね。
やや論点を代えて申し上げます。
わたしは生まれながら、日蓮本仏論が身に滲みた一人でした。
物心ついたときに、語られる日蓮本仏、戒壇本尊、数々の奇跡物語は、至極当然の「現実」そのものでした。もっといえば、創価学会絶対、池田「先生」絶対、さらに石山絶対、法主絶対も至極当然のことでした。
それを再考し、実像に迫りだして、しばしの時間が経過しました。
わたしがいま感じる晩年の「日蓮」は、炯々とした密教的な要素は持つものの、老いさらばえ、やせ細った生身のその人です。夢破れ、それでも弟子の育成に晩年を過ごし、乏しい食に飢えを感じ、衰えた身体に供養の酒を含み、腹の熱くなることに涙を流す老僧です。本仏などという誇大表現からほど遠い、弱々しい死に行く病衰、老衰したその人です。けれど、数々の奇跡物語で彩られた本仏より、わたしはそんな「日蓮」にこそ、恭敬の念を抱きます。
いわば、いまのわたしにとって、蓮師の奇跡物語は、言葉は悪いのですが、「どうでもよいこと」に属します。
反面、これはたとえば、シャキャムニの超人化などでも同様ですが、自分の信念体系の中心者をどんどんと超人化させ、神格化(いや、仏格化というべきでしょうか)させていく人々の心理のからくり構造に滑稽さを感じるのも事実です。なぜ、そのような物語が紡がれていったのか…、むしろ、その奇跡物語を振り回し力説の裏にある、そのようなものでしか支えられない浮き草のような信仰の危うさばかりが目につきます。そこに見え隠れするのは、生老病死を恐れ、そのことを忘れ、「祈願成就」「不老不死」という願望という煩悩に現実から目を逸らす虚仮威しの威勢であり、それは裏を返せば、極端の戦(おのの)きと不安、弱さというコンプレックスがなせる態とすら覚えます。
『御伝土代』が道師真筆として、そこに記された「光り物伝説」はしかし、蓮師真跡に見られるところはありませんでした。興師もまた語りませんでした。となれば、このような物語を書き記す頃、既に蓮師にかかる超人化、潤色が既にその兆しを見せていたと歴史的経緯でとらえるほうが自然ではないのかと思えます。
光り物という奇跡で、斬首を免れた日蓮より、いざ、首の座に据えられた「ただいまなり」と覚悟したやさき、刑の執行が中止された日蓮の心中の変遷のほうが、よほど、人間味があるものです。
蓮師に係る奇跡物語に、なぜ自分は固執したのか?、そんな自己分析は、実は新たな目を見開かせてくれるものだった…、とその経験を語り、答えに代えさせていただきます。
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