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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
715
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/28(火) 07:16:11
>「素朴な疑問」2708 鳳凰さんへ、こちらへ移ります。
不動・愛染感見記に対する少々私の所見を述べさせていただきます。
>>不動・愛染感見記
>これはやはり偽書の可能性が高いと思っております。
>大聖人の日付に対する厳格・正確さは、既にご存知の通りであり、「正月一日」の日蝕の存在証明をしない限り、記述内容が正しい物であるとの結論は早々できない
そうでしょうか?蓮祖の御真筆御本尊は月の記載はあっても日の記載は空欄の場合が多いので私は必ずしも蓮祖が日付に厳格であったとは思っていませんが、もし厳格だと主張されるのであれば挙証していただきたいと思います。蓮祖の日付はエンジニア(私は理系の学校を卒業した現職の技術屋です)の眼から見れば、実験計画やレポート、報文などと比べかなりのラフさを感じます。もちろん時代背景も違いますが、同時代でも『吾妻鏡』などはきちんと日付の記載があるわけで、それらと比べても差はあるでしょう。まず、蓮祖が日付にそれほど厳格でなかったことを「立正安国論」の執筆動機に関する御書を通じて例示してみましょう。
御書には、
(a)「安国論御勘由来」(係年:文永5年太歳戊辰4月5日):「正嘉元年太歳丁巳八月廿三日戌亥の時前代に超え大に地振す、(中略)文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ」(堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』昭和47年67刷(初版昭和27年)、創価学会、33〜35頁)
(b)「立正安国論奥書」(係年:文永6年12月)に「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり、其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥此の災の根源を知る、」(『日蓮大聖人御書全集』33頁)
(c)「強仁状御返事」(係年:建治元年12月):「仍つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を聞き見るに此の国の中に前代未起の二難有る可し所謂自他叛逼の両難なり」(『日蓮大聖人御書全集』184頁)
(d)「滝泉寺申状」(係年:弘安2年10月):「去る正嘉以来の大彗星大地動等を観見し一切経を勘えて云く当時日本国の体たらく権小に執着し実経を失没せるの故に当に前代未有の二難を起すべし所謂自界叛逆難・他国侵逼難なり、仍て治国の故を思い兼日彼の大災難を対治せらる可きの由、去る文応年中・一巻の書を上表す立正安国論と号す」(『日蓮大聖人御書全集』850頁)
(e)「中興入道消息」(係年:弘安2年11月):「其の故は去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時・内外の智人・其の故をうらなひしかども・なにのゆへ・いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮・一切経蔵に入りて勘へたるに」(『日蓮大聖人御書全集』1334頁)
とあります。
いうまでもなく「立正安国論」は文応元(1260)年7月16日に前執権北条時頼に上奏されました。その執筆動機として上記(a)〜(e)の御書では正嘉元(1257)年8月23日の大地震と文永元(1264)年7月5日の彗星が挙げられています。上記の御書のうち(a)〜(d)は御真筆のある御書((a):中山法華経寺蔵、(b):中山法華経寺蔵、(c):京都妙顕寺蔵、(d):中山法華経寺蔵)であり記載内容に間違いはないでしょう。問題は(e)で、(e)は御真筆や直弟子の写本などが存在しない録内御書です。
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