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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

610彰往考来(しょうおうこうらい):2005/10/30(日) 15:59:52

>603 日蓮や日興の曼陀羅における「…申与之」の添書は、それぞれ許可・許諾のもと、その在世に行われたと見るべき
れんさん、
私は興師の蓮祖御本尊への添書時期は蓮祖滅後ではないかと考えています。もちろん蓮祖在世当時のものがある可能性を否定できませんが、すべてを在世当時のものとするには下記疑問点があります。
(1)興師の「弟子分帳」に記載がないのに、添書のある御本尊が存在し、第53番本尊などは蓮祖滅後と思われる興師の添書であること
(2)興師の「弟子分帳」に記載がありながら、添書のない御本尊が存在すること
の2点です。
まず(1)の「弟子分帳」に記載がないのに興師添書のある御本尊が存在することです。これは高木豊師がすでに指摘しています(『研究年報 日蓮とその教団 第4集』所収、「日興とその門弟」34頁)が、6幅(うち1幅曽存)あります。
(一)第12番本尊・・・「佐渡国法花東梁阿仏房彦如寂房日満相伝之」
(二)身延曽存(文永11年11月)・・・「因幡国富城五郎入道日常息寂仙房申与之」
(三)第53番本尊・・・「因幡国富城五郎入道息伊予阿闍梨日頂 舎弟寂仙房付嘱之」
(四)第55番本尊・・・「因幡国富城寂仙房日澄母尼弘安三年九月申与之」
(五)第100番本尊・・・「紀伊国切目刑部左衛門入道相伝之 子息沙弥日然譲与之」
(六)第111番本尊・・・「遠江サカラノ小尼給本尊也」
の6幅です。
これらは、「弟子分帳」の成立した永仁6(1298)年以後の添書であると考えると辻褄はあいます。詳細にみてみましょう。

(一)の第12番本尊ですが、“阿仏房彦(阿仏房のひ孫)日満”とあることから、蓮祖在世中の添書記載は有り得ないでしょう。
(二)の身延曽存の本尊ですが、“日常”とあることから、蓮祖滅後の添書と示唆されます。菅原関道師が指摘しているように「確実な資料による限り、富木日常の名乗りは永仁3年図顕の本尊が初見 」(『興風 第11号』平成9年、興風談所、365頁)であるからです。
(三)の第53番本尊ですが、弘安元年8月に頂師に授与されたものです。ここにはとの興師の添書があります。
頂師の富士への帰伏は正安4(1302)年とされ((『富士年表 』昭和56年、富士学林、62頁)、他)、寂仙房日澄の富士への帰伏は頂師帰伏の2年前の正安2(1300)年(『富士年表 』61頁、他)で、澄師は延慶3(1310)年3月14日寂((『富士年表 』67頁、他)です。頂師の寂年は文保元(1317)年(『富士年表 』70頁)ですから頂師が亡くなった後澄師に第53番本尊を付嘱されたのではないことは明白です。従って第53番本尊の澄師への付嘱、すなわちこの添書記載は頂師が富士に帰伏した正安4年になされたのではないかと推測するわけです。
(四)も上記(二)、(三)を考えると、同じ頃の記載ではないかと推測します。
(五)、(六)も永仁6年以後のものであることを否定できる内容ではありません。
次に(2)の「弟子分帳」に記載がありながら添書のない御本尊が存在することです。これも高木豊師が上述の論文ですでに指摘していますように日弁師に授与された第63番本尊で、「弟子分帳」には「富士下方市庭寺越後房者日興弟子也。仍所申与如件。但弘安年中背白蓮了」とあります。「弟子分帳」の記載から、当然第63番本尊に興師の添書があってしかるべきですが、弘安年中には弁師は興師の袂を離れていたわけで、興師の添書がないのは添書が蓮祖滅後に書かれたものであるからという考えを支持します。

以上のことから、蓮祖御本尊の興師添書のうち少なくとも何点かは蓮祖滅後の時期に書かれたと判断されます。

by 彰往考来


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