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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

643犀角独歩:2005/12/23(金) 09:27:32

真跡遺文について、『平成新修日蓮聖人遺文集』が、取り敢えず、いちばん、信頼度が高いことになります。しかし、それでも、この編纂も不完全で、現在、立正大学小松邦彰師によって御遺文講義が行われ、その可否が補われています。小松師は、同書編纂の顧問の一人です。わたしは、この講義を聴講していますが、特に執筆年代については、しばしば異見が提示されています。

また、パンナコッタさんとも議論になりましたが、日蓮は、独自、または当時の慣用的な記述が多く見られ、その点を現代字に書き換えてしまうと、実は本意を変えてしまっているものもあります。

省書
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/nitiren_sinseki_shyohsho.jpg(クリックしても飛びませんので、アドレスバーにコピペしてください)

以上の点は山上ゝ泉師著『日蓮聖人遺文全集講義』第29巻(別巻1)日蓮聖人遺文の文章法研究に出ています。この書をわたしは三学無縁師に勧められ、拝読し、まさに目から鱗が落ちる思いをなしたものでした。しかし、同書は新疑偽の峻別を目的にしていないので、この点では別に学ぶ必要があります。

なお、小松師は、遺文上、明らかに誤りと思える記述、また、引用文書の不揃いもそのままとして、研究したほうがよいという見解を示されていました。もっともであると思った次第です。

いずれにしても、これは各出版に言えることですが、誤植もありますので、一出版遺文集に頼る蛮勇はわたしは生じません。殊に大石寺版などは、何ら証憑性もないのであって、学術論文の対照文献としても採用されていないものです。この手の門派出版は批正のための資料にすることはあれ、中心に据えれば、その時点から既に躓くことになります。
わたしは、この点では御書システムといえどもも無謬ではないと考えます。

なお、無作三身、三身即一身等について問題がありましたが、この点を考えるとき、中古天台本覚思想の知識なくしては一歩も進めません。また、最低でも法華六大部を読んでいなければ、この点は捌けません。さらに教学は時代を経て成句と思想が醸造されるわけですから、いつの時代、誰、どの集団から言われるようになったかを知らなければ、捌くことはできません。その意味で執行海秀師『日蓮宗教学史』は必読書です。

無作三身は真跡遺文になく、疑偽書にあります。しかし、三身の使用は真蹟に見られます。三身即一身は天台・法華文句に見られ、注法華経に見られます。それにも拘わらず、真蹟では見られません。

また、一念三千という成句は真疑偽通じて散見できますが、言葉が同じであっても意味するところが違います。たとえば、御義口伝で言う一念三千は日蓮があずかり知らない(たぶん、偽書である)秘密荘厳論にいう一念三千であり、これは真蹟で見られる日蓮の用法とは違っています。

なお、日蓮の場合、天台文献をそのまま墨守するのではなく、採るものは用い、採らざるは用いずという取捨選択に教学の特徴があります(片岡・山中説)故に、日蓮が、台学の、何を採り、何を採らなかったを知る必要があります。そのためには『注法華経』の知識が必要になります。

以上、雑駁ながら、日蓮門下一般では、以上の点は最低限の基礎として議論されています。ですから、あれこれ、思案し、類推し、想像を逞しくするより、まずは、最低限の基礎文献を十分に読み込むことに尽きます。そのためには数年の歳月は要するでしょう。議論というのは、それからの話です。


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