したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

522愚鈍凡夫:2005/02/05(土) 12:10:15

犀角独歩さん、どうも。

1262(弘長2)年に何があったのか分かりませんが、「吾妻鏡」には弘長2年がすっぽりと抜けていますね。>>520のサイトでは、「吾妻鏡」に記載がないから他の資料で弘長2年の出来事を補ったのではないでしょうか。
また、聖徳太子について、次の記述が真実であったとしたら、インド人にゴータマ・シッタルタは架空の人物であると言ってるようなものかも知れませんね。

**************************************************
厩戸王という一人の有力な王族が実在したことは確かだが、聖人として信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。その聖徳太子という人物が最初に登場するのは養老4年(720)に成立した『日本書紀』においてであり、その人物像の形成に関与したのは、藤原不比等・長屋王・道慈らであった。
その目的は、大宝律令で一応の完成をみた律令国家にあって、その主宰すべき天皇が、中国的聖天子像を体現した存在であることを歴史的に示すためであった。簡単に言えば、皇室の歴史の中に皇太子のモデルとして<聖徳太子>を創出し、これによって皇室の尊厳を確立しようとしたのである。その後不比等が亡くなり、長屋王の変後の天平年間に藤原武智麻呂・光明皇后を中心とした権力が確立するが、大地震・疫病流行など未曾有の危機に陥る。そのようなとき光明皇后は<聖徳太子>の加護を求めるため、行信の手引きで法隆寺に接近し、法隆寺を舞台とした新たな聖徳太子信仰を創出することになる。そこで成立したのが、薬師像・釈迦像・天寿国繍帳などの銘文や『三経義疏』などの法隆寺系の史料であり、さらに救世観音を本尊とした夢殿であった。

(『東アジアの古代文化』104号 「聖徳太子関係史料の再検討」・大山誠一 より原文抜粋)
**************************************************

吾妻鏡本文データ
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/genpon/azumatop3.htm

「聖徳太子の虚像と実像」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/ooyamasetu.html


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板