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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について
716
:
彰往考来(しょうおうこうらい)
:2006/03/28(火) 07:16:46
715の続きです。
ここで文永元(1264)年の彗星は時系列からいって合わないのです。「立正安国論」を提出した後に発生した天変地夭が執筆動機になるはずがありません。正嘉元(1257)年8月23日の大地震は『吾妻鏡』に記載があり、史実として裏付けられます。『吾妻鏡』の巻第47に、「(正嘉元年八月)廿三 乙巳 晴る。戌の尅、大地震。音あり。藭社佛閣一宇として全きことなし。山岳頽崩、人屋顚倒し、築地皆ことごとく破損し、所々地裂け、水湧き出づ。中下馬橋の邊、地裂け破れ、その中より火炎燃え出づ。色青しと云々。」(貴志正造訳注『全譯 吾妻鏡 第5巻』1989年7刷(初版1977年)、新人物往来社、302頁)とあり、相当大きい地震であったことが覗えます。『吾妻鏡』は文永元年の記事全てを欠いていますので、『吾妻鏡』から文永元(1264)年7月5日の彗星を確認することはできませんので従来の管見に入った日蓮関係の書籍ではこの彗星については史実かどうか触れられていません。今般、鎌倉時代の文献を種々調べたところ『北条九代記』に文永元(1264)年7月5日の彗星について記載がありました。これは今まで管見に入った日蓮関連資料の中にはないものです。『北条九代記』には、「(文永元年)七月五日寅刻彗星寅方ニ見、芒氣丈餘。此ノ間旬月ニ及ブ半天ニ及ビ未曾有ノ例之(也歟)」(『続群書類従 第29輯上』昭和56年訂正3版、続群書類従完成会、422頁)とあります。
正嘉元年の大地震が史実と確認できますので、文永元年7月5日に彗星が出現したのも史実でしょう。斉藤国治氏の『古天文学の道』(50頁)によれば、貞応元(1222)年にハレー彗星が出現しているので、文永元(1264)年の彗星は周期76年のハレー彗星ではないことだけは確かです。
(e)の「中興入道消息」では、「其の故は去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時」とあります。「立正安国論」の北条時頼への上奏は文応元(1260)年なので、「文永元(1264)年の大長星の時」より前であり、時系列的に合わない表現ですので「中興入道消息」を後世の創作とする理由になり得るのですが、実はそうとは言いきれません。類似表現が御真筆のある「安国論御勘由来」にあり、「立正安国論」執筆理由にあげられています。「安国論御勘由来」の係年は文永5年ですが、この時点ですでにこのような表現があるので弘安2年の「中興入道消息」に同様の表現があっても不思議ではありません。また中山法華経寺蔵の「立正安国論」の係年は文永5年なので文応元(1260)年7月16日に前執権北条時頼に上奏された版とは異なり、後日蓮祖自ら書写されたもののようです。そのため、「安国論御勘由来」にも「文永元年甲子七月五日彗星東方に出で」という表現があるものとも拝されます。とはいえ、あくまで「立正安国論」は文応元(1260)年に上奏されたのですから、文永元年7月5日の彗星は執筆理由にはなり得ません。
時系列として見るなら「立正安国論奥書」(係年:文永6年12月)に「文応元年太歳庚申之を勘う正嘉より之を始め文応元年に勘え畢る。去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の刻の大地震を見て之を勘う、其の後文応元年太歳庚申七月十六日を以て宿屋禅門に付して故最明寺入道殿に奉れり、其の後文永元年太歳甲子七月五日大明星の時弥此の災の根源を知る、」(『日蓮大聖人御書全集』33頁)とあるのが誤解のない表現でしょう。
さて(a)〜(e)の御書で大地震と彗星の書き方を経時的にみてみましょう。文永期には日付がきちんと書かれていましたが、建治元年には「正嘉・文永二箇年の大地震と大長星」と日付はなくなり、弘安期では「去る正嘉以来の大彗星大地動等」、「去る正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時」となっていて、時代とともに記載内容が曖昧になっているのが解ります。
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