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【資料】神秘主義の系譜【探索】
99
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:25:30
雍和宮
ようわきゅう
中国,北京に現存するラマ教寺院。本寺の前身は雍親王府といい,清の雍正帝の即位以前の宮邸(1694年建立)であった。雍正帝の即位後,1725年(雍正3)に旧宮邸の半分がラマ教寺院に改造され,残り半分が行宮として残されて,名も雍和宮と改められた。雍正帝の没後,44年(乾隆9)乾隆帝の命により,雍和宮の全体がラマ教寺院に大改造されて,その寺格も皇居宮殿と同等とされた。雍和宮の主要建造物には天王殿,正殿,永佑殿,法輪殿,万福閣の五つがあり,このうち万福閣は最大の建造物で,その屋内に像高18mの白檀の弥勒立像がある。この像は50年チベットのダライ・ラマ7世から清朝によるチベットの反乱平定に謝意を表するため寄進されたものである。境内には以上の建造物と並んで諸殿が配置されるが,とくに薬師殿,数学殿,密宗殿,講経殿は四学殿と称され,ラマ僧の修学の教場に充てられたものである。 若松 寛
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100
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:26:12
瑜伽師地論
ゆがしじろん
インド大乗仏教の論書。唯識派(ゆいしきは)の基本的な典籍。原題はサンスクリットで《ヨーガーチャーラブーミ Yogac´rabh仝mi》。略称《瑜伽論》。著者は漢訳ではマイトレーヤ(弥勒),チベット語訳ではアサンガ(無著)とする。4世紀ころの成立。サンスクリット原典(一部分のみ既刊)のほか,チベット語訳,漢訳(玄奘の全訳,ほかに部分訳)が現存。漢訳で全100巻の膨大なもので,全体は五分され,本地分(1〜50巻),摂決択分(51〜80巻),摂釈分(81,82巻),摂異門分(82〜84巻),摂事分(85〜100巻)からなる。そのうち,本地分が中心で,17段階に分けてヨーガの修行の階梯を説いている。また,三性・三無性,唯識,阿頼耶識などの唯識派の基本的な問題はすべて本書中に取り上げられている。⇒唯識派 末木 文美士
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101
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:27:17
明玉珍 1331‐66
めいぎょくちん
中国,元末群雄の一人。随州(湖北省)の人。1353年(至正13)徐寿輝の天完国に参加し重慶を拠点に勢力を伸ばしたが,60年陳友諒が徐寿輝を殺して大漢国をたてると隴蜀王として自立し,四川一帯を支配した。62年大夏国をたてて皇帝となり,弥勒ないし明(マニ)教を信奉して周制を模倣した官制をしき,科挙を施行するなど体制の確立に努めた。没後,子昇が位をついだが,71年(洪武4)明朝に下った。 阪倉 篤秀
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102
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:28:44
弥勒踊
みろくおどり
民俗芸能。弥勒信仰にちなむ芸能で,弥勒歌などを歌いながら踊る。沖縄,履城,千葉,神奈川,静岡などの海岸地方に分布し,地方によって鹿島踊ともいう。鹿島踊は鹿島神宮の信仰に関係があり,弥勒の来訪を賛美する歌から弥勒踊とも呼ばれる。千葉県館山市の鹿島踊,埼玉県春日部市の〈やったり踊〉も弥勒踊と称している。沖縄では弥勒は海の彼方から幸せを招き寄せる神と信じられ,収穫祭や結願(けちがん)の祭りなどに演じられる。那覇市首里では弥勒は布袋(ほてい)の扮装をして若い眷属(けんぞく)を引き連れて登場し,八重山では花籠を捧げた少女を従えて登場する。⇒鹿島踊 西角井 正大
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103
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:30:37
布袋 ?‐917
ほてい
中国,唐末五代の僧。名は契此,別に定応大師,長汀子ともよぶ。容貌奇異,額と腹が大きく,いわゆる布袋腹である。明州奉化県の岳林寺に名籍をもつだけで,嗣法を明かさず,居所を定めず,日常生活の道具を入れた布袋をかつぎ,杖を負うて各地に乞食し,人々が与えるものは何でも布袋に放り込んだことから,布袋の名を得た。神異の行跡が多く,分身の奇あり,一鉢千家の飯,孤身幾度の秋云々,その他,貞のような偈頌(げじゆ)が知られて,生前すでに弥勒の化身とみられた。滅後はさらに俗信が加わって,その像を画いて福を祈る風が生まれ,水墨画のテーマとなる。近代は弥勒信仰の拡大とともに,いずれの寺でも,宗派を問わず,その木像を祭るようになり,観世音菩醍とあわせて,民衆にもっとも魅力のある尊像となる。日本でも,早くより七福神の一人として,招福の神とみられるが,黄檗宗の伝来によって,その信仰がいよいよ強まり,今日に至る。
柳田 聖山
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104
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:31:33
法顕 337?‐422?
ほっけん
中国,東晋時代の求法(ぐほう)訳経僧。姓は釦(きよう)。平陽郡武陽(山西省襄垣県)の人。わずか3歳で沙弥となり,20歳のとき大戒をうけた。そのころ中国に律蔵が完備していないのをなげき,399年(隆安3)に60余歳の老齢の身で,同学の僧らと長安を出発して,陸路インドへ向かった。敦煌から西域に入り,ヒマラヤを越えて北インドに至り,インド各地やスリランカで仏典を求め仏跡を巡礼する旅をつづけた。30余国を遍歴したのち,戒律などのサンスクリット経典をもって,海路帰国の途についたが,暴風雨に遭い,412年(義熙8)に青州長広郡(山東省)にひとり無事に帰着した。この14年間にわたる旅行中の見聞を著したのが,《仏国記》つまり《高僧法顕伝》である。建康(南京)の道場寺でブッダバドラ(仏陀跋陀羅)とともに《摩訶僧梢律(まかそうぎりつ)》《大般泥香経(だいはつないおんきよう)》など6部63巻にのぼる経律を漢訳した後,草州辛寺で亡くなった。この《摩訶僧梢律》は,やがて《四分律》にとって代わられるとはいえ,北朝では盛んに行われたのであり,《大般泥香経》は早速に竺道生らによって研究され,涅槃(ねはん)宗成立の契機となった。法顕はまた,西域やインドの弥勒(みろく)信仰を中国に伝えたことでも知られる。 礪波 護
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105
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:32:06
法起寺
ほっきじ
奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の寺。山号は岡本山。法隆寺の北東方,岡本集落の南部にあり,地名により岡本寺,池畔にあるので池後(いけじり)寺(池尻寺)とも称された。《上宮聖徳法王帝説》などによると,聖徳太子建立七ヵ寺の一つと伝え,606年(推古14)に太子が《法華経》を講説した岡本宮を,遺言により山背大兄王が寺に改めたという。その後638年(舒明10)に福亮僧正が金堂と弥勒像を造り,685年(天武14)に恵施僧正が堂塔の建立を発願し,706年(慶雲3)三重塔の露盤が完成した。当初は塔と金堂を東西に並立するいわゆる法起寺式伽藍配置で,奈良時代には金銅仏12体のほか,多数の仏教経典を所蔵した。1081年(永保1)官命によって塔の露盤銘文が写し取られ,1262年(弘長2)には初めて塔が修理されたが,14世紀中葉に塔をのこして金堂,講堂などが倒壊,以後寺勢振わず,1678年(延宝6)真政が堂塔を修理し,1715年(正徳5)碩峰が本堂と庫裏を再建した。1960‐61年,68年の伽藍地発掘調査により,金堂,講堂,中門,南門の規模が判明した。高さ23.9m,現存最古最大の三重塔は国宝,本尊木造十一面観音立像(平安時代),銅造菩醍立像(飛鳥時代)は重要文化財に指定されている。
堀池 春峰
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106
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:33:24
菩醍
ぼさつ
〈悟り(ボーディ bodhi)を目ざす人〉の意で,仏陀(悟った人)になる前の段階にいる人を指す。サンスクリットのボーディサットバ bodhisattva の音訳。より正確には菩提醍凱。意訳は覚有情。初め仏陀の前世物語〈ジャータカ〉において,善行を積んでいた釈梼牟尼を指していたが,大乗仏教の興起とともに,〈悟りを目ざして励む修行者〉一般を指すようになった。大乗教徒によれば,小乗教徒は自分の悟りのみを目ざす利己的な人間である。大乗教徒は自分の悟りを一時延期しても衆生のそばにとどまって,衆生の救済に努めなければならない。おそらくこの考えには成仏しえぬ自己への反省と,成仏以前の段階にとどまることの正当化がこめられているであろう。菩醍は完成者ではないから,歴史上の人物(世親,行基ら)の称号にもなりうる。また,弥勒は将来,仏となって下界に降りてくるまでは菩醍の名で呼ばれる。 定方 里
菩醍は成仏以前の姿であるため本来その形姿は一定しないが,造形作品として表現された菩醍は古代インドの貴人をもとにしており,頭髪は髻を結い,宝冠をつけ,身体には条帛,裳(裙(くん))や天衣を着し,さらに胸飾,瓔珞(ようらく),鐶釧でもって荘厳する。手は種々な印相を示したり,持物を執って各菩醍の特性を明示する。さらに多面多臂をとる変化身(へんげしん)や種々な姿勢をとる像も見いだされる。一般に菩醍は柔和な面貌で,悟りを目ざす修行者としての慈悲の相を表している。 百橋 明穂
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107
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:33:56
法住寺
ほうじゅうじ
韓国,忠清北道報恩郡俗離山にある寺院。寺伝によると新羅真興王(在位540‐576)創立,聖徳王が重修したと伝える。統一新羅時代の双獅子石灯,石蓮池,四天王石灯,磨崖弥勒菩醍像など多くの石造物を残すが,建物はいずれも李朝時代のものである。1624年(仁祖2)建立の捌相殿(べつそうでん)は,半島で現存唯一の木造五重塔で心礎に舎利を奉安。各層間の逓減が大きく,韓国独自の工法による多層建物の架構法を示す典型例である。現在も信仰・観光の中心地として多くの善男善女でにぎわっている。 宮本 長二郎
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108
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:34:58
仏陀
ぶっだ
〈悟った者〉を意味するサンスクリットのブッダbuddha の音訳。浮図(ふと),浮環(ふと)と音訳されたこともあり,仏(ぶつ)とも略称される。意訳は覚者。〈悟る,目覚める〉の意の動詞ブッド budh の過去分詞 buddha(〈悟った〉)が普通名詞となったもの。したがって〈仏陀〉は古来から存する真理を悟った人の意であり,真理の創造者ではない。〈仏陀〉は多数存在することができ,ジャイナ教の開祖マハービーラもこの名で呼ばれたことがある。しかし一般には,〈仏陀〉といえば釈梼をさす。仏教では仏陀として過去七仏,未来仏としての弥勒仏,過去・現在・未来の三千仏などが考えられるようになった。また三身の説,すなわち真理そのものとしての法身(ほつしん)仏(たとえば毘盧遮那(びるしやな)仏),願を立てて浄土の主となり衆生の救済をはかる報身(ほうじん)仏(たとえば阿弥陀),娑婆世界に人間の姿をとって現れる応身(おうじん)仏(たとえば釈梼牟尼仏)の説が出現した。⇒仏(ぶつ)‖仏教 定方 里
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109
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:37:00
武周革命
ぶしゅうかくめい
中国で,690年に唐の睿宗(えいそう)の生母である太后の武氏(則天武后)が,皇帝となって国号を周と改め,唐朝を中断させたことをいう。病弱の高宗に代わって政務を決裁してきた武后は,朝廷における実権を掌握してしまい,683年(弘道1)に高宗が亡くなると,武后の子である太子哲が即位して中宗となったが2ヵ月たらずで廃され,つぎに立った睿宗もまったくの傀儡(かいらい)にすぎなかった。武太后は有能な密告者を官に取り立てて秘密警察の網の目を強化し,唐の宗室を排除しつくしたあげく,中国上代の理想の世とされる周朝を再現せんとし,また愛人の怪僧薛懐義(せつかいぎ)らに《大雲経》という仏典に付会した文章を作らせ,〈太后は弥勒(みろく)仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位につくべし〉と宣伝させたのである。690年の9月,武太后は,睿宗および臣民こぞっての懇請を受け入れて皇帝となり,国号を周と改め,天授と改元し,睿宗は皇嗣に格下げとなり,武氏の姓を与えられた。中国史上,女性で皇帝となったのは彼女だけである。文化大革命の進行過程で,毛沢東夫人の江青は,みずから則天武后の現代版たらんとし,則天武后を賛美する運動を展開し,武周革命の再現を企図したが,失敗に終わった。⇒則天武后 礪波 護
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110
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:38:02
富士講
ふじこう
富士山の信仰集団で,江戸時代半ばに,江戸とその周辺農村部に組織化された。伝説上の富士講の開祖は,角行(かくぎよう)といい,富士の人穴(ひとあな)で修行した修験の一人であったらしい。角行の弟子の行者たちが,江戸に出てきて布教した段階では,まだ未組織で,もっぱら祈裳中心の信仰活動であった。しかし6代目行者身禄(みろく)が出現するに及んで,富士講に大きな変化が生じた。身禄は,ミロクと訓じ,弥勒菩醍を予想させている。弥勒仏の生れ変りの存在でこの世を救うというメシアニズムが認められる。具体的な身禄の教えは,江戸の職人や中小クラスの商人たちの間で,一つの道徳律となって浸透した。身禄は1733年(享保18)6月に,富士山吉田口七合五勺の烏帽子(えぼし)岩で断食修行を行い,入滅した。この自殺行為は,当時の世相をにぎわした。そして身禄の死を一つの契機として,急速に信者が増大したのである。文献初見は,〈江戸身禄同行〉の名称で,この同行は身禄の弟子高田藤四郎によって,1736年(元文1)に成立したと伝えられている。1795年(寛政7)の町触に,〈近年富士講と唱え〉といわれ,この段階では,富士講が若い世代の信者たちにも受け入れられていたことがわかる。寛政年間(1789‐1801)以降には,富士講の存在が禁令の対象となっているが,〈江戸八百八講〉と表現されているように,町内ごとに地域社会にうまく密着していた。富士講は,先達(せんだつ),講元(こうもと),世話人(せわにん)の三役によって組織され,近代以後には,扶桑教(ふそうきよう),実行教,丸山教などの神道教派になっている。⇒富士信仰‖弥勒信仰 宮田 登
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111
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:38:35
賓頭盧信仰
びんずるしんこう
釈梼の弟子賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)Pilfolabh´radv´ja に対する信仰。賓頭盧は十六羅漢(羅漢)の第一にあげられ,神通力を有し,あるとき人にすすめられ,高象の牙に懸かる栴檀の鉢を梯杖を用いず座しながら取る奇跡を演じた。これを知った釈梼から外道(げどう)を現じたとして呵責され,末法の世,弥勒仏が出るまで煩悩なき涅槃(ねはん)の境地に入ることを許されず,この世で布教を続けねばならぬとされた。中国では470年ころ正勝寺法願,正喜寺法鏡などが初めて賓頭盧すなわち聖僧を図画して礼拝し,爾来いつしか寺院の食堂にまつり,食を供えるようになった。日本でも,上古より大安寺,法隆寺などにまつられたが,後世,本堂の外陣にその木像を安置し,病患を有する人は患部にあたるところと同じ個所をなでると平癒するとの俗信が流行し,像は磨かれて光り,〈びんずる〉は禿頭者の形容に用いられるほどになった。 村山 修一
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112
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:39:30
毘盧遮那仏(毘盧舎那仏)
びるしゃなぶつ
大乗仏教のなかでも最も汎神論的色彩の濃い,光明を属性とする仏。サンスクリットのバイローチャナ Vairocana の音訳で,前接辞バイ vai‐は〈広く〉の意,ローチャナの語根ルチ ruc は〈照らす〉の意である。略して盧遮那(るしやな)仏,意訳して光明遍照と呼ばれる。イランの太陽神信仰などと関連して出現したとされる無量光仏(=阿弥陀仏),弥勒菩醍などの一連の仏菩醍の一環と考えられよう。蓮華蔵世界に住し,《華厳経》や《梵網経》の教主となり,とくに後者においては,無数の釈梼を化現してさまざまに説法するとされ,東大寺大仏のモデルとなった。のち密教では,これにマハー mah´(大きい)をつけたマハーバイローチャナ Mah´vairocana(大日如来)が《大日経》の教主として,また全存在の根源として信仰されている。 定方 里
[図像] 単独で造形された作例は少ないが,著名な作例としては東大寺大仏がある。743年(天平15)聖武天皇が大仏造立を発願し,749年(天平勝宝1)に鋳造をほぼ完成し,752年に開眼供養を行った。東大寺の本尊であるが,その後2度の兵火に焼損を被り,現在の大仏は江戸時代の修補になる部分が大きい。このほか唐招提寺金堂の本尊である脱活乾漆像は奈良時代後期の作例で,鑑真のもたらした新しい様式を反映した像である。絵画としては東大寺大仏の台座の蓮弁の蓮華蔵世界図がある。たびたびの兵火を免れた当初部分に線彫(毛彫)されたもので,《華厳経》《梵網経》の教主毘盧舎那仏を中心に無数の化現した仏・菩醍を表した図で,《華厳経》や《梵網経》に説く世界観をよく示している。また敦煌壁画中には華厳経変相として,《華厳経》に基づいてその教説を図解した作例があり,その中心に毘盧舎那仏が描かれる。⇒華厳経美術 百橋 明穂
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113
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:40:59
英彦山
ひこさん
福岡県の南東部田川郡から大分県の北西部下毛郡にかけて位置する英彦山地の主峰で,標高1200m。主として新第三紀後期〜第四紀の火山岩からなり,標高約800mまでは筑紫溶岩で,その上に輝石安山岩をのせている。輝石安山岩が浸食に対する抵抗が強いため,山頂部はビュート地形で3峰に分かれ,中岳には英彦山神宮が鎮座する。古くから山伏の修験道場として栄えたが,明治維新後の神仏分離により衰微し,現在では英彦山神宮の門前町的な小集落がみられるだけである。しかし,樹齢1200年,高さ60mの鬼杉の巨木(天)や伝雪舟作の旧亀石坊庭園,奉幣殿,銅(かね)の鳥居などの文化財に富み,耶馬日田英彦山国定公園に指定され,またスキー場のある鷹ノ巣原に国民宿舎,キャンプ場,青年の家などがあって,春や秋の観光シーズンを中心に九州北部からの観光客が多い。JR 日田彦山線彦山駅から豊前坊までバスの便がある。 赤木 祥彦
[信仰] 古くは日子山と書き,嵯峨天皇のときに彦山と変わり,1729年(享保14)霊元上皇の院宣によって英彦山と書くようになった。英彦山は奈良時代の医僧法蓮の入峰以来,山伏の修験道場として栄え,最盛期には僧坊3800を数え,その信仰は九州一円に及び,大峰山,羽黒山と並んで日本の三大修験道場とされた。天狗や鬼がすむと伝えられるほど奇岩怪石に富み,中世末から近世期にかけて,本山派,当山派が全国的規模で修験道の組織化を推し進めていくなかでも,英彦山は東北の出羽三山とともにその独自性を保ってきた。
英彦山信仰は山岳信仰史・修験道史においても注目する点が少なくない。それは,修験道の教義的側面を発展させ指導的役割を担ってきたことと,古代から中世にかけての信仰を伝えていることであろう。たとえば弥勒兜卒(みろくとそつ)内院四十九院に擬した49窟の存在は,山中を駆けめぐる抖芹(とそう)修行が導入される以前の洞窟籠り修行を伝えている。また,ほぼ九州全域に分布する檀那に経済的基盤を置く以前は,〈四境七里〉と称された神領が基盤となっていたこともその一例である。さらに大陸との関係,三組一山という近世期支配体制,行事の変化と芸能など特筆すべき点が少なくない。しかし,明治の廃仏棄釈で修験的堂宇や仏像は奉幣殿を除いて大部分失われてしまった。なお,英彦山みやげとして彦山土鈴が古くから有名で,今でも農家の豊作祈願の呪具となっている。⇒英彦山神宮‖彦山派
宮本 袈裟雄
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114
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:41:40
比丘尼
びくに
出家して戒を受けた女性,仏教教団の正規の女性出家者。尼僧のこと,単に尼(あま)ともいう。サンスクリット bhikoul ̄,パーリ語 bhikkhun ̄ の音写。日本における比丘尼のはじめは,蘇我馬子が桜井道場で弥勒像をまつらしめた善信,禅蔵,恵善の3人であり,彼女らは神に奉仕する巫女と同じであった。以後,仏教受容は急速に進み,624年(推古32)には尼569人に達した。比丘尼に限らず,古代の僧尼は巫覡(ふげき)的な性格が著しく,仏教的呪力に対する期待から,集団的得度さえ行われた。平安時代には皇女や貴族の子女を教育する尼僧が現れ,また比丘尼となる皇女も出た。皇女が尼僧となって住した寺を江戸時代には比丘尼御所と称した。
一方,民間では,律令時代からひそかに僧形をとる巫覡が続出した。治病,託宣などを行う漂泊の自由出家者群であり,聖(ひじり)と称されるものに対応するのが比丘尼であった。比丘尼は巫女的女性であるが,なかでも熊野比丘尼が知られている。熊野比丘尼とは熊野信仰を伝える巫女の別名で,熊野系修験者が巫女の随従を認め,彼女らに比丘尼の名を与えたものと考えられる。中世中ごろから各地を旅し,持参の熊野那智参詣曼陀羅,熊野観心十界曼荼羅,熊野本地絵巻などを絵解きして,熊野信仰と観心という仏教教理を広めていった。また勧進(かんじん)比丘尼といわれるように,各地の社寺の修復にも努めた。しかし幕藩体制が確立する江戸時代になると,回国できなくなり,村落に定着せざるをえなくなった。やがて〈小歌を便に色をうる〉(《人倫訓蒙図彙》)歌比丘尼に零落した。東北から中国,四国地方にかけて,各地に白(しろ)比丘尼,八百比丘尼の伝承がのこっている。1449年(宝徳1)には,白髪の巫女めいた老尼が都に現れ,みずから若狭白比丘尼とも八百歳老尼とも称したという(《康富記》《臥雲日件録》)。このような白比丘尼,八百比丘尼の伝承は,中世にいたるまで普遍的にみられた歩き巫女の存在を暗示している。漂泊の女性についての伝承は,八百比丘尼であれ,和泉式部であれ,熊野比丘尼が語り歩いたものが多いと推定されている。 伊藤 唯真
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115
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:43:30
半跏思惟像
はんかしいぞう
台座に腰掛け,左足だけ垂下するが右足は足先を左大噌部にのせて足を組み,折り曲げた右膝頭の上に右肘を突いて右手を軽く右必にふれて思索する姿勢の像。座法のうちで一方の足先を他方の大噌部の上にのせて組む座り方を半跏趺坐(ふざ)というが,半跏思惟像の座り方は,下になる足を台の下へ踏み下げた形となる。この形式の像は,ガンダーラ地方の菩醍像の中に早くも表現されるが,中国では北魏時代の敦煌莫高窟(ばつこうくつ)第259窟,雲岡石窟第6洞などの菩醍像(彫像)に見られる。太和16年(492)の銘がある碑像では半跏思惟像が〈太子思惟像〉と記されており,この形式がシッダールタ太子思索の姿を意味するものとして用いられたことが知られる。やがて弥勒信仰が隆盛になるに従い弥勒菩醍の像となるに至るが,唐代以降は作例は少ない。韓国では国立中央博物館蔵金銅弥勒菩醍像をはじめ三国時代の作例が多数現存し,日本でも京都広隆寺の弥勒菩醍像,奈良中宮寺の弥勒菩醍像をはじめ,大阪野中寺の金銅弥勒像など,飛鳥・白鳳時代に多くの像が造られた。なお奈良岡寺の金銅小像ほか,如意輪観音像であるとの伝承をもつ半跏思惟像もある。またこの形式の像は密教像の中にはなく,非密教系の像形であると考えられている。
関口 正之
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116
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:44:02
バーミヤーン
B´miy´n
アフガニスタンの中央部,ヒンドゥークシュとコーヒバーバー両山脈の間の東西に長い渓谷中にあり,北はアフガン・トルキスタン(アフガニスタンのうち,ヒンドゥークシュ山脈以北の地域)から中央アジア,東や南はインドに通じ,両世界の接点に位置した。現在はハザラジャートの東の入口に当たる寒村にすぎないが,バーミヤーン川とその支流によって造成されたレキ岩台地の崖面に1kmにわたって,約1000の6〜9世紀の仏教石窟が残り,なかでも中心部石窟群の東と西とにそれぞれ38mと55mの大仏立像を彫り出した巨大な龕(がん)は古来有名である。バーミヤーンの歴史はあきらかでないが,《魏書》《北史》に范陽,《隋書》に范延,《新唐書》に望衍とみえ,玄奘は梵衍那,慧超は犯引と記しており,5〜6世紀には中国にも名称,所在が知られたらしい。中世ペルシア語ではバーミカーンといい,10世紀のペルシア語地理書にバーミヤーンとみえて中国の呼称と符合している。またアラブ史書にみるラフーン Lah仝n は,《新唐書》の望衍の都である羅爛と対応しよう。10世紀ころその都はバルフと同じ規模を誇ったが,13世紀初めにチンギス・ハーンによる徹底した破壊をこうむった。7世紀初めに玄奘はその仏教文化の隆盛を仏寺数十,僧徒数千と伝え,小乗の説出世部に属したという。また二大立仏のほか,涅槃(ねはん)の巨像の存在ものべているが,今は込滅(いんめつ)している。二大仏はレキ岩を粗彫した上に,すさ混じりの泥土で彫塑を付加し,化粧がけして金彩色を施していた。天井や側壁にはフレスコ画を描く。東龕には太陽神と供養者をササン風を受けた描法で描き,西龕には仏,菩醍,天人,供養者など混然一体となった大構図をグプタ風を受けた筆致で描き,いま双方とも一部が残る。石窟形式は正方・八角・円形プランをとり,ドーム,三角持送り,格天井,あるいはその組合せを架す建築を模した尊像窟と簡素な構造の僧房窟がみられ,尊像窟には千仏図,弥勒・涅槃図,塔の壁画がある。 桑山 正進
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名無しさん
:2013/07/20(土) 23:45:34
念仏
ねんぶつ
仏・菩醍の相好や功徳を心におもい浮かべたり,またその名号を口に唱えること。前者を観想念仏といい,後者を称名(しようみよう)念仏という。念仏には釈梼,薬師,弥勒,観音などの念仏もあるが,阿弥陀仏の念仏が代表的で,ふつう念仏といえば,阿弥陀仏の相好やその誓願のことを憶念したり,〈南無阿弥陀仏〉の6文字の名号を口に唱えることをいう。阿弥陀信仰が興隆し,西方極楽浄土へ往生したいとの願望が強まるにつれ,念仏が往生のためには必須の行業であると考えられた。日本では奈良時代から平安時代中期にかけて観想念仏が盛んであり,観想のために阿弥陀浄土変相図がつくられた。智光曼荼羅,当麻(たいま)曼荼羅などがそれである。平安時代初期に最澄の弟子円仁(えんにん)が,唐の法照(ほつしよう)がはじめた五会(ごえ)念仏の流れをくむ五台山念仏三昧法を比叡山に移し,常行三昧(じようぎようざんまい)を修したが,五会念仏は5種の音声からなる音楽的な称名念仏であった。常行三昧は不断念仏といわれ,各地に普及したが,比叡山の不断念仏は〈山の念仏〉として有名となった。これは8月11日から7日間,常行堂内で阿弥陀仏のまわりを行道(ぎようどう)しつつ,念仏とともに《阿弥陀経》を誦し,つねに想いを阿弥陀仏に懸けることによって,罪障を除滅しようとする法会であった。のちに不断念仏は命終のときに修されるようになり,臨終儀礼ともなった。平安中期に空也や源信が出るにおよんで,称名念仏はいっそう盛んとなった。空也は民間に念仏を広め,民間仏教史上に大きな足跡を残したが,その念仏は鎮魂呪術的な性格と機能をもったものとして民間に受容された。後世,一遍によって全国に広められた踊念仏の起源は空也念仏にあるとされるが,一遍の踊念仏にも死霊鎮送の性格がみられる。念仏は,源信らの二十五三昧結衆の起請文にもうかがわれるように,はやくから葬送や死者追善の儀礼と密接な関係をもっていたが,念仏が葬送・追善と結びつく一因は,念仏には罪障消除の功徳があると考えられたからである。《観無量寿経》は臨終時の称念,十念などは五十億劫,八十億劫の生死の罪を除滅すると説き,覚超は《修善講式》で〈弥陀如来ハ(略)カノ浄土ノ化主ナリ,御名ヲ唱奉レバ,念々ニ八十億劫ノ生死ノ罪ヲ滅シテ,カノ世界ニ生ゼシメ給フ〉と,称名に滅罪生善の功徳があることを述べている。
平安時代には阿弥陀仏を仰いでやまない浄土教が興隆したが,それによって独立的な宗派が成立したのではなかった。しかし,鎌倉時代になると,この浄土教が宗派的に独立するにいたった。南無阿弥陀仏と弥陀の名号を唱えて,極楽浄土への往生を期する,いわば〈念仏宗〉ともいうべき新宗派があいついで出現した。法然が開いた浄土宗,その弟子親鸞が立てた浄土真宗,さらに一遍を祖とする時宗がそれである。法然は諸行を捨て念仏の一行を選んだが,彼はその念仏はすでに弥陀によって選択されていた本願の念仏であったとし,念仏に絶対の価値を認めた。そして〈声はこれ念なり,念はすなはちこれ声なることその意あきらけし〉(《選択(せんちやく)本願念仏集》)と念声是一の義をうち出し,念仏とは称念にほかならないとした。親鸞は専修(せんじゆ)念仏を〈他力の宗旨〉(《陸異抄》)といい,他力の信心に生きることを勧め,一遍は平生を臨終と心得て念仏することを説き,名号絶対の立場をとった。 伊藤 唯真
声明曲(しようみようきよく)の念仏には〈南無釈梼牟尼仏〉の釈梼念仏などもあるが,数は少なく,ほとんどが阿弥陀念仏である。1句ずつ旋律を変えながら〈南無阿弥陀仏〉を繰り返していくもので,1字1字長く引っぱって複雑な旋律を唱えるものから,ごく単純な節のものまで,各宗各派にわたって多数の曲がある。天台系の《甲念仏》《乙念仏》《八句念仏》《引声(いんぜい)念仏》,浄土系の《合(あい)念仏》《礼拝念仏》《笏(しやく)念仏》《白木念仏》,時宗の《別時念仏》《踊躍(ゆやく)念仏》《薄(すすき)念仏》,浄土真宗系の各種の《念仏和讃》に応ずる各種の念仏など,数えきれないほど多い。
横道 万里雄
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118
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:47:21
兜率天
とそつてん
仏教の世界観に現れる天界の一つ。兜率はサンスクリットのトゥシタ Tuoita の音訳で,覩史多(とした)とも訳される。須弥山(しゆみせん)の上空に位置し,三界のうちの欲界に属する。ただし,この天は欲界六天の下から4番目にあたり,その住人は欲望の束縛をかなり脱している(トゥシタは〈満足せる〉の意)。七宝の宮殿に内外の二院があり,内院は将来仏となるべき菩醍の最後身の住処とされ,外院は眷属の天子衆の遊楽の場とされる。かつて釈梼がここにいて,ここから下界へ下った。現在では弥勒が説法しつつここを〈弥勒の浄土〉とし,遠い将来にここから下界に下る予定になっている。弥勒のもとに生まれその化導を受けようとする兜率往生の信仰は古く,阿弥陀仏の浄土への往生との優劣が争われたこともある。兜率往生は,日本では鎌倉時代,貞慶(じようけい),明恵(みようえ)らによって説かれ,〈兜率天曼荼羅〉などの制作もなされた。 定方 里
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名無しさん
:2013/07/20(土) 23:48:39
塚
つか
人工的に盛土をした場所を指し,塚の名称も〈つく(築く)〉に由来すると考えられている。墓所,祭場,供養のほか,一里塚のように標識として築かれる塚もある。塚には各種の伝説が伴っており,同一または類似の名称で呼ばれる塚が全国的に分布している例も多い。塚にまつわる伝説では多数の戦死者や遭難者などを埋葬したり供養した所と伝える百人塚,千人塚,落武者や山伏などを埋めた場所とする七人塚,首塚,山伏塚,行者や修験者が庶民救済のため生きながら入定(にゆうじよう)した場所とする入定塚,行人(ぎようにん)塚などをはじめ,墓所と伝える塚が多い。しかし墓所と伝える塚でも,本来祭りなど別の目的で築かれた塚が意味不明となって墓所とみなされるようになったものが少なくない。一方,祭りのために祭壇を築く習俗は古くから行われていた。十三塚は,真言系の僧,修験,行者が野外で修法を修めた場所であったことが明らかにされ,狐塚という名称をもつ塚も,本来は田の神の祭場であり,田の神の使わしめが狐であるとする信仰や,祭場にしばしば狐が出没したところから狐塚の名称が起こったとされる。祭りのために塚を築く習俗は,平地よりも一段と高い場所を祭場に当てようとする心意の表れであり,神木や高い竿・鉾を用いて神の依代(よりしろ)とする習俗と同じ心意といえる。その最も典型的なものが山であり,コニーデ型の秀麗な山を祭場とする場合が多い。山岳信仰との関連でいえば,富士信仰や出羽三山(でわさんざん)信仰に代表されるごとく,その山岳を遥拝するために築かれた塚もみられ,それが本来は祭場として機能していたといえる。また塚の築かれる場所が境界であることも多い。境は単に範域を区分するという意味にとどまらず,この世(現実界)とあの世(冥界・他界)とを分ける場所でもある。そうした境が祭場とされる場合が多く,虫送りの行事で悪神を送り出す場所が虫塚,虫追い塚と称されるのもその一例である。このほか弥勒下生信仰,末法思想を背景として,法華経を書写し土中に埋めた経塚はよく知られている。⇒古墳 宮本 袈裟雄
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名無しさん
:2013/07/20(土) 23:50:04
朝鮮美術
【彫刻】
三国時代の4世紀末に仏教が朝鮮半島に伝えられ,彫刻は仏像を中心に展開する。その初期には3国とも中国仏像の直模的な表現による扁平で硬直した体賭,衣紋が左右対称に広がる正面観主体のものが造られた。高句麗は3国のうちで最も早く仏教および仏像を受け入れたが,遺品はきわめて少ない。遺品のほとんどが小金銅仏であり,その代表的な様式は三尊仏である。遺品中で最古のものは延嘉7年(539)の造像銘をもつ金銅如来立像である。高句麗の仏像はその地理的関係から中国の北魏を主とする北朝様式の影響を強く受けている。
百済の仏像はほぼ600年ころを境にして前期と後期に分けられる。前期は一光三尊形式の小金銅仏や小型石造の半跏像などが中心であるが,6世紀後半にはまだ中国六朝や高句麗系の様式が残っている。後期には比較的大きな金銅仏や石窟寺院形式の磨崖石仏,大型石仏が造られており,7世紀前半に至って隋・唐両王朝の新しい影響を受けながら百済独自の作風を帯びるようになった。顔は丸く温和で,〈百済の微笑〉と呼ばれる特有な笑みを浮かべている。百済は6世紀前半に日本に仏教を伝え,飛鳥,奈良の地に仏教文化を開花させたが,その仏像製作には百済の帰化人の手が大いに及んでいるものと考えられる。
古新羅の仏像は弥勒信仰を背景とした弥勒仏や半跏思惟形の菩醍像の製作が盛んであったことが特色である。2体の大型金銅半跏思惟像(ともにソウル国立中央博物館)は3国中のいずれの王朝の造像であるのか不明だが,そうした弥勒信仰を背景として生まれたものであろう。古新羅末期にはこれらの金銅仏とともに石像も発達し,三尊像や半跏像も造られた。
続く統一新羅時代には3国それぞれの仏像様式が統合され,石像,銅像,塑像など多くの仏像が造られ,現存する作品も少なくない。特に統一以後盛んであった阿弥陀信仰による造像と,薬師信仰による金銅像の盛んな造成が注目される。この期の最大の傑作は慶州吐含山の石窟庵本尊の如来石像とその一群の脇侍たちである。石窟庵本尊の偉容は東洋各国の石仏中の精華とも称えられているが,これは新羅の石像彫刻の200年にわたる伝統の上に完成されたものであり,また良質な石材に恵まれた朝鮮の風土と民族の造形感覚との密接な関係を示すものといえよう。しかし,石窟庵の石仏群を頂点として,以後,朝鮮の仏像は作風の低下をきたしていく。高麗時代は前代に引き続き仏教は盛んで,仏教美術は諸方面に新たな展開を見せるが,仏像は秀麗にして力感に満ちた前代のそれを凌駕することができなかった。
吉田 宏志
121
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:51:25
中宮寺
ちゅうぐうじ
奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗(もとは法相宗,真言宗)の尼寺。中宮尼寺,斑鳩御所ともいう。聖徳太子建立七ヵ寺の一つ。創建当初は現在地の東500mほどの所にあり,16世紀後半ごろに移転したようである。621年(推古29)聖徳太子の母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が亡くなった後,その宮を寺に改めたと伝える。葦垣,岡本,斑鳩の三つの宮のなかに位置するので中宮(なかみや)寺というとの説もある。平安時代の末には衰退したが,13世紀後半に西大寺の叡尊(えいそん)の指示で信如が復興した。信如は法隆寺の宝庫から《天寿国斥帳(てんじゆこくしゆうちよう)(天寿国曼荼羅)》を得て,京都で模造している。天文年間(1532‐55)に伏見宮貞敦親王の娘尊智が住持してより皇室もしくは宮家から入室する比丘尼(びくに)御所の寺格となり,1889年門跡(もんぜき)を称する。本尊の菩醍半跏像(国宝)は,寺伝に如意輪観音とされているが,近年は弥勒菩醍像と呼ばれている。像高87.9cm,流麗優美な木造の半跏思惟(はんかしい)像で,《天寿国斥帳》(国宝)とともに飛鳥文化を代表する遺品である。
中井 真孝
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122
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:53:01
宗性 1202‐92(建仁2‐正応5)
そうしょう
鎌倉中期の東大寺の学僧。華厳宗の中興者。宮内大輔藤原隆兼の子。1213年(建保1)12歳で東大寺に入寺。華厳・抑舎の修学に努め,とくにみずから院主となった尊勝院を華厳教学の道場とした。大安寺別当・黒田新荘預所なども務め,60年(文応1)には東大寺別当に補任された。高僧の伝記《日本高僧伝要文抄》を編集,また弥勒信仰の普及者としても知られ《弥勒如来感応抄》を抄録した。弟子に凝然がいる。 細川 涼一
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123
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:53:46
善信尼 574?‐?
ぜんしんに
飛鳥時代の尼で,日本最初の出家者。渡来氏族鞍作部司馬達等(たつと)の女で,鞍作止利(止利仏師)の叔母にあたる。俗名は嶋。584年百済伝来の弥勒像を得た蘇我馬子は,高麗の還俗僧恵便を師とし,まず11歳になる嶋,さらに2人の少女を出家させ,仏殿を造り法会を行った。《日本書紀》はこれをもって日本における仏法の初めとする。翌585年疫病流行の際,廃仏派は仏殿を焼き,善信尼ら3尼を捕らえてむち打ったという。588年善信尼は戒法を学ぶため学問尼として百済に渡り,590年帰国した。以後は桜井道場に住んで多くの尼を導き,初期仏教の発達に大きな役割を果たした。 速水 侑
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124
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:55:16
石仏
せきぶつ
石造の仏像。彫刻される石の形状から,移動できる独立した石材に彫られた石仏,露出した岩層面に彫られた磨崖仏,岩層に窟をうがってその中に彫られた石窟仏の3種に大別される。彫出の状態からは,線刻,薄肉彫(レリーフ),半肉彫,高肉彫(側面をほとんど彫出したもの),丸彫に分けられる。石は彫刻用材として最も普遍的なものの一つであり,インド以来仏教の伝播にしたがって各地で盛んに製作された。
[インド] 紀元前2〜前1世紀ころからヤクシー,ヤクシャの丸彫石像やストゥーパの石製欄楯の浮彫などが作られていたが,クシャーナ朝の2世紀ころにガンダーラとマトゥラーで仏像の造顕が始まり,石仏の製作が始まった。前者では青灰色の片岩がおもに用いられ,独尊像や仏伝図の浮彫などが作られ,遺品も多く現存する(ガンダーラ美術)。後者では黄斑文のある赤色砂岩がおもに用いられ,カニシカ王3年銘のサールナート出土如来形立像などが遺品として著名である(マトゥラー美術)。これ以後,インド各地で石仏の製作が盛んとなり,仏像製作の主流となった。インド仏教美術の最盛期であるグプタ朝の5世紀には,製作年代の明らかな在銘像の遺品も多く,マトゥラー博物館のジャマールプル出土如来形立像などがよく知られている。この時代にはアジャンター,エローラなどに代表される仏教石窟寺院が多く作られた。8世紀以後のパーラ朝時代には,硬質の玄武岩を用いて複雑な図像の密教的な像などが多く作られ,この時代の石仏はネパール,チベット,東南アジアなどの仏像に大きな影響を与えた。
クシャーナ朝時代のガンダーラの石仏は西隣のアフガニスタンに影響を与え,カーブル北西のバーミヤーンには4〜6世紀ころの製作と思われる像高55mと38mの大磨崖仏が現存する。仏教の東漸にしたがい中央アジア諸地方でも仏像は多く作られたが,ここでは石材が少ないために塑像が主流で,石仏の遺品は少ない。東南アジアの石仏は南インドの影響が強く,タイのドバーラバティ美術(7〜11世紀)の石仏はインドのグプタ様式を伝えており,ジャワのボロブドゥール遺跡(8〜9世紀)には多数の石仏が安置されている。
125
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:56:17
>>124
[中国] 前漢以来,石人,石獣などのすぐれた石造墓飾彫刻が作られていたので,仏教伝来とともに石仏も製作されたと思われるが,最初期の遺品は知られていない。452年(興安1)に北魏の文成帝は帝身の石仏を作らせたといい(《魏書釈老志》),460年(和平1)には北魏の都,大同西郊の砂岩崖に僧曇曜の発願になる大規模な雲岡石窟が開かれた。494年(太和18)北魏は中原の洛陽に遷都したが,その近郊の石灰岩の崖には竜門石窟が開かれた。これらの石窟寺院の彫刻とともに単独像も多く作られ,6世紀東・西魏,北周,北斉では白玉(大理石),黄華石などの緻密な石材による小四面仏,龕(がん)像,碑像なども盛んに作られた。日本にある中国6世紀の遺品としては,535年(東魏の天平2)の弥勒三尊像(藤井有鄰館),552年(北斉の天保3)の菩醍形立像(東京国立博物館)などが著名。以後,隋,唐代を通じて中国の石仏の製作はきわめて盛んであった。
[朝鮮] 三国時代にすでに石仏が盛んに行われた。7世紀前半ころの百済の遺品として,忠清南道瑞山郡雲山面の磨崖仏,新羅の遺品として慶州南山長倉谷発見の菩醍形立像などが著名である。三国時代末期の7世紀後半から統一新羅時代にかけて,慶州南山には丸彫,磨崖など多くの石仏が作られ,8世紀半ばには石室構造をもった慶州石窟庵の諸像が作られた。統一新羅時代の石仏は金銅仏とともに彫刻の主流であり,その後高麗時代以後も形式化しながらも製作は続けられた。
[日本] 《日本書紀》敏達13年(584)条に鹿深臣が百済から弥勒石仏を将来したとあり,これが記録上の初見であるが,飛鳥時代の石仏の遺品は知られていない。奈良時代の遺品に,奈良県石位寺三尊像(砂岩?,半肉彫),兵庫県加西市の古法華三尊像龕(凝灰岩,半肉彫),奈良市高畑町の頭塔(ずとう)(花コウ岩,薄肉彫。方墳状の土塔の四方に十数個の石仏を配する),奈良県宇智川磨崖仏(線刻)などが知られる。それらの作風は,当時の他の素材(金銅,木)による彫刻,絵画の作風にほぼ準じている。平安時代には石仏の製作は畿内以外の各地にも広がり,他の時代には見られない大規模な磨崖仏の製作が盛んに行われた。栃木県大谷磨崖仏(凝灰岩,高肉彫)は石彫の上に塑土を盛る珍しい技法を用いており,そのうちの一部はあるいは平安初期の製作かと考えられる。平安後期には大分県臼杵,熊野に代表される凝灰岩層を用いた磨崖仏が各地で行われた。またこの時代には紀年銘をもつ石仏も多く作られるようになり,長崎県壱岐出土の延久3年(1071)銘の弥勒如来像(滑石,丸彫)を初例とし,福岡県鎮国寺の元永2年(1119)銘の阿弥陀如来像(砂岩,薄肉彫),京都市今宮神社の天治2年(1125)銘をもつ四方石仏(砂岩,線刻)などがある。
鎌倉時代には前代に流行した凝灰岩製磨崖仏の製作は減り,かわって花コウ岩,安山岩など硬質の石材を用いた高肉彫,丸彫の像の製作が盛んになった。京都府石像寺の元仁元年(1224)銘の三尊像は,三尊を1石1体ずつ丸彫に近い高肉彫であらわし,この時代の石仏の傾向をよく示している。他に群馬県不動寺不動明王像(凝灰岩,丸彫)などがあり,大型の石室構造をもつものに奈良市十輪院石仏龕(花コウ岩)がある。またこの時代には東大寺の再建工事に参加した伊行末(いぎようまつ)に代表される宋人石工の活躍があり,伊行末の作品に般若寺十三重石塔初層四方石仏,石仏ではないが参考とすべきものに1196年(建久7)宋人石工字六郎作の東大寺南大門石獅子がある。南北朝時代以後になると石仏は全体的に小型のものが増え,その作風は同時代の木彫像と同様に形式化の道をたどった。この傾向は桃山,江戸時代にはいっそう進み,五百羅漢の群像や馬頭観音,地蔵など,多数の石仏や道祖神像が作られた。これらは民間信仰の史料として貴重である。 副島 弘道
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:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:57:10
関[市]
せき
岐阜県南部の市。1950年市制。人口7万1916(1995)。長良川に津保川,武儀川が合流する関盆地に中心部が展開する。長良川の舟運に恵まれ,飛舞路(金山街道)と奥美濃路(郡上街道)の交わるところで,物資の集散地であった。中世以来関の孫六(関物)で知られた刃物の町で,室町時代を最盛期に多くの名工を生み,織田信長らの保護もあって,〈関は千軒鍛冶屋が名所〉といわれるほど繁栄した。江戸中期に刀鍛冶は衰え,包丁,はさみなどの打刃物や農具の生産に主力が移り,明治以降,洋食器,カミソリ替刃,ポケットナイフなどを生産する金属工業に発展した。輸出額も多いが,多くは農村の下請加工業者で作られる。近年,自動車部品製造工場も進出している。新長谷寺(しんちようこくじ)(吉田(きつた)観音)には重要文化財の堂宇や仏像があり,古代に当地を支配した身毛君一族の氏寺といわれる弥勒寺跡(史),刀工が崇敬した春日神社もある。春日神社所蔵の能装束類は重要文化財。小瀬(おぜ)では中世以来の鵜飼いが行われる。長良川鉄道,名鉄美濃町線,東海北陸自動車道が通り,丘陵地には県置百年記念公園,県立博物館がある。 高橋 百之
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:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:57:49
崇福寺
すうふくじ
滋賀県大津市にあった古代の官寺。志賀山寺ともいい,668年(天智7)天智天皇が霊夢により大津宮の北西山中に創建したと伝える。《扶桑略記》が引く縁起によると,諸堂舎がそなわり,弥勒の丈六像を本尊とした。798年(延暦17)には十大寺の一つに数えられたが,921年(延喜21)火災のため焼失した。再建の後もまた965年(康保2)火災にあい,しだいに衰退し,13世紀以後まったく廃絶した。 中井 真孝
[崇福寺跡] 二つの小さな谷をはさんで南北3ヵ所に礎石が残っている。1938年,39年発掘調査が行われた。中央の舌状台地に西に小金堂,東に塔があり,谷をへだてた北の山腹を削り出した段に弥勒堂とよばれる講堂が構えられ,両者を橋で連絡していたことがわかり,これが668年につくられた大津宮(近江大津宮)と考えられる。39年の塔の発掘で地下1mに心礎が検出され,心礎の東側面に横穴状の舎利孔が創建当初の状況でみつかった。ここに金のふたをしたフラスコ形の緑色ガラス製の舎利容器が,長方形の内にガラス容器をのせる蓮華座をつけた金製の内函,同形の銀製中函,香様(こうざま)の台をもつ青銅製外函に収められていた。これに金銀平脱鉄鏡,無字銀銭,鈴,玉を伴っていた。中央台地北斜面から7世紀中葉の瓦とともに柿仏,塑像片などが発見されている。この寺の廃絶後桓武天皇がこの地に臨みこの寺を復興させた。小金堂,塔,弥勒堂のほかに中央台地より谷をへだてた南に金堂と講堂と現在よんでいるより規模の大きな堂宇もつくられ,これらすべてを梵釈寺とよんだとも考えられる。泥塔,緑釉陶,須恵器硯をはじめ平安時代の瓦が全域で検出される。八花鏡,佐波理(響銅(さはり))鋺なども採集されている。 坪井 清足
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:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:00:14
浄土変相
じょうどへんそう
浄土の仏,聖衆や美しい荘厳(しようごん)の有様を描写した絵画や斥帳のこと。変相は大乗経典の内容を絵で表現したもので,それに対する絵解きの文章としての〈変文〉とは表裏の関係にあった。浄土変,浄土図と略称する。阿弥陀如来,薬師如来,弥勒菩醍,観音菩醍といった浄土信仰の隆盛に伴い,西方極楽浄土変,東方薬師浄土変,兜率天(とそつてん)浄土変,補陀落浄土変などが流行した。中国では唐代に盛んに造られ,善導は浄土変相を見て浄土教に帰し,のちにはみずから300余舗の浄土変相を描き,ひとにも制作をすすめたという。敦煌には浄土窟とよばれる多数の石窟があり,約230の西方浄土変をはじめ,およそ70の東方薬師変と弥勒変の壁画が残されているし,スタイン探検隊は20余の浄土変相の絵画を持ち帰った。日本でも,法隆寺金堂に描かれていた四仏浄土変をはじめ,当麻寺の《当麻曼荼羅》など多数の浄土変相が残されている。⇒変相図
礪波 護
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:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:02:10
浄土
じょうど
清浄な国土という意味で,菩醍として衆生を救済せんという誓願を立てて悟りに達した仏陀が住む清浄な国土のことであり,煩悩(ぼんのう)でけがれた凡夫の住む穢土(えど)つまり現実のこの世界に対比していう。浄土は大乗仏教における宗教的理想郷を指す言葉としても広く用いられたが,阿弥陀仏の信仰が鼓吹され流行するにつれて,阿弥陀仏の仏国土である極楽と同一視され,ついには同義語となる。サンスクリットには浄土を意味する術語はないが,漢訳仏典の訳語の用例からみて,仏国土を意味するブッダ・クシェートラ buddha‐koetra の訳語とされている。すなわち,浄土という理念はインドにはなかったのであって,仏国土が清浄な国土であるとは認めても,それを宗教的理想郷としての浄土として表現することはなく,浄土思想はむしろ中国において発達し展開したといえそうである。
未来仏として修行中の弥勒菩醍が待機している天上の兜率天(とそつてん)を弥勒の浄土として,そこに生まれたという信仰がまず起こった。兜率天の信仰から一歩進んで,浄土そのものを説いた経典,つまり浄土経典の最初は,東方にある阿醗(あしゆく)仏の浄土としての妙喜を説いた《阿醗仏国経》であり,この仏国土には女人もおり,人民はみな樹より五色の衣服を取って着たと述べている。阿醗仏の妙喜は《維摩(ゆいま)経》にも説かれている。ついで東方の阿醗仏の浄土に対して,西方の阿弥陀仏の浄土としての極楽を説いた浄土経典たる《般舟三昧経》と《無量寿経》《阿弥陀経》《観無量寿経》のいわゆる〈浄土三部経〉が現れた。これらの浄土経典によれば,極楽は西方のはるか彼方に存在し,そこには七重の欄楯(らんじゆん)があり,車輪のごとき大きな蓮華の花の咲く蓮池があり,河川には浴場の階段があって,泥がなくて黄金の砂がまかれている。妙なる音楽と芳香に満ちあふれ樹木などの自然も黄金や七宝でできている。そこに生まれた者は男性のみで女性はいず,あらゆる苦しみから解放されて,いつも阿弥陀仏の説法を聴くことができる,と説かれている。この阿弥陀如来の西方極楽浄土の信仰が盛んとなると,それを模倣して,薬師如来の仏国土である浄瑠璃世界も浄土と呼ばれるようになる。東方薬師浄土のありさまは《薬師如来本願経》に描かれている。これら諸仏の浄土は,現実の世界から遠く離れた方角に存在するので,他方浄土とか十方浄土とか呼ばれる。
中国で浄土思想が流布し展開するとともに,本来は浄土思想と何らの関わりもなかった《法華経》に基づいて,霊山浄土という新しい浄土が出現した。霊山つまり霊鷲山(りようじゆせん)とは王舎城の近くにある山の名で,《法華経》が説かれたといわれる場所なのである。このほか,仏ではなく菩醍の世界なのに《華厳経》に基づき,東北方清涼山の文殊浄土や,南方補陀落山(ふだらくさん)の観音浄土の信仰が行われるようになった。弥勒浄土や極楽浄土をはじめとする,これらの浄土信仰は,中国から日本に伝えられ,浄土における仏・菩醍や聖衆たちの姿などを描写した浄土変相も描かれた。⇒阿弥陀‖観音 礪波 護
日本では,飛鳥・白鳳時代の造像銘に浄土という語がみえるが,どの仏国土を意識したのか明白でない。いわゆる天寿国斥帳(てんじゆこくしゆうちよう)銘にみえる〈天寿国〉も一種の浄土を意味しているが,極楽浄土,弥勒浄土,妙喜浄土,霊山浄土,十方浄土,天竺浄土などの諸説があって定かではない。平安時代になると阿弥陀信仰,叡山浄土教が発達し,今様にも〈浄土は数多(あまた)あんなれど,弥陀の浄土ぞ勝(すぐ)れたる〉とうたわれたように,浄土といえば極楽浄土を指すようになった。また民間信仰では,経典の説とは別に,山岳信仰,霊山信仰のなかで,山に霊魂がいく浄土がある(山中他界観)と考えられている。⇒極楽‖浄土教美術 伊藤 唯真
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130
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名無しさん
:2013/07/21(日) 00:02:56
相国寺
しょうこくじ
中国,河南省開封市内の寺院。〈そうこくじ〉ともいう。北宋時代に最も繁栄した。北斉時代(555)創建の建国寺跡に,唐の僧恵雲(えうん)が1丈8尺の弥勒仏を本尊とした伽藍(がらん)を作り(706),睿宗(えいそう)は自分の封国の相をとって相国寺と名づけた。宋代国都の筆頭寺院として皇帝以下の厚い保護を受け,各仏殿は相藍十絶と呼ばれる壁画や墨跡でうずまった。毎月数回寺内で開かれる定期市には全国の物貨が集まった。金の侵入以後衰退。現在の建物は清代乾隆期(1736‐95)のものである。 梅原 郁
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131
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名無しさん
:2013/07/21(日) 00:04:51
蘇我馬子 ?‐626(推古34)
そがのうまこ
飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,溝麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた。就任の当初から大連(おおむらじ)物部守屋らの勢力と対立したが,その反対をおしきって,570年(欽明31)に北陸に来着した高句麗使を572年(敏達1)に朝廷に迎え入れ,高句麗外交を開始した。これに仏教受容や皇位継承の問題も加わって,反対派との対立はその後ますます深まり,587年,用明天皇の死後に軍を起こした馬子は,物部守屋を討滅した。このあとに崇峻天皇をたてたが,天皇と意見が対立しはじめると,馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて592年(崇峻5)にこれを暗殺させた。そして,この年から着工していた飛鳥寺(法興寺)は,推古朝に入っても造営をつづけ,日本最初の本格的寺院として完成させた。以後も仏教興隆の方針をすすめ,605年(推古13)から遠戸皇子(聖徳太子)が斑鳩(いかるが)宮に移ってのちも,馬子は飛鳥にあって政治を主導した。この間,新羅遠征軍の派遣計画は失敗したが,遣隋使の派遣もあり,外交の必要上からも難波津を整備した。晩年には,遠戸皇子とはかって天皇記,国記,諸氏の本記を編纂させた。遠戸皇子妃の刀自古郎女(とじこのいらつめ),舒明天皇妃の法提郎女(ほてのいらつめ)は,馬子の娘である。馬子を葬った飛鳥の桃原墓は,いわゆる石舞台古墳であるとみられている。 門脇 禎二
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132
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名無しさん
:2013/07/21(日) 00:06:01
蘇我稲目 ?‐570(欽明31)
そがのいなめ
大和国家の大臣(おおおみ)蘇我高麗の子,馬子の父。名は伊奈米,伊那米とも記される。6世紀中葉の大和国家の動揺期に,蘇我氏の基盤に含まれる大和盆地南西部で養育された勾(まがり)皇子(安閑天皇),高田皇子(宣化天皇)を擁立し,前者を勾金橋宮に,後者を檜隈廬入野宮(ひのくまいおりのみや)に入らせた。宣化朝とそれにつづく欽明朝の大臣となり,宣化天皇と初めて姻戚関係を結んだらしく,さらに娘の堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の大后・后に,石寸名(いしきな)を用明天皇の后とした。一方,排仏派の物部尾輿(おこし),中臣勝海らに抗して,仏像を自分の小治田家に安置し向原(むくはら)家は寺にして仏教受容をすすめた。また瀬戸内航路の確保につとめ,とくに吉備5郡に白猪屯倉(しらいのみやけ)をおいて田部の名籍を造らせ,児島屯倉には田令を任じた。こうして稲目は,以後1世紀にわたる蘇我氏繁栄の基礎を築いた。 門脇 禎二
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133
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:06:58
蘇我氏
そがうじ
古代の有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。後世の系図では,孝元天皇の孫(あるいは曾孫)武内宿衝(たけうちのすくね)を波多(はた),巨勢(こせ),平群(へぐり),紀,損城(かつらぎ)氏とともに祖先とし,武内宿衝の子の石川宿衝に始まるとする。しかし,その起源には諸説があり,奈良県橿原市曾我または大阪府南河内郡石川の土着豪族とされてきたが,百済の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来して大和の曾我に定着したのに発するともされる。氏名の蘇我は,曾我,宗我,宗何,忌宜,忌哥などとも記された。
早くは蘇我満智(まち)が5世紀末の雄略朝の財政を担当したとの伝承が《古語拾遺》にみえ,韓子(からこ)が対新羅関係で活躍した記事が《日本書紀》にみえる。しかし,6世紀中葉の稲目(いなめ)が宣化・欽明朝の大臣(おおおみ)となったころから急速に勢力をのばし,その達成をうけついだ6世紀末〜7世紀初めの馬子の時代に権勢は頂点に達し,統一的国家体制をおしすすめた。この間に,その基盤を曾我川沿いに南にひろげ,さらに畝傍(うねび)山麓から東に向かって飛鳥の開発をすすめた。そして7世紀初めまでに,一族の堅塩媛(きたしひめ)家を河内磯長谷(しながだに)に,小姉君家を三輪山南方に,境部臣家を飛鳥の西方に,倉山田石川臣家を山田道に,聖徳太子の上宮王家を竜田道をおさえる斑鳩(いかるが)にというように,交通の要点に配した。それらの間の大和盆地南部には久米,桜井,田中氏らの諸支族を配し,渡来系の東漢氏(やまとのあやうじ)諸族に支えられる複合的な氏族構造を形成した。しかし,毛人(えみし)(蝦夷)・鞍作(くらつくり)(入鹿)の代になると,しだいに他の氏族の反発を招き,一族内部の結束も乱れて,政界の主導力は衰えはじめた。その結果,本宗家は645年(大化1)6月に損城皇子(中大兄),中臣鎌子(藤原鎌足)らによって滅ぼされた。けれども,その後にも蘇我氏からは,政界で3人の大臣(石川麻呂,連子(むらじこ),赤兄)がたったが,壬申の乱の戦後処置により一族は滅んだ。以後,蘇我氏のあとは,連子の流れが石川氏となった。 門脇 禎二
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134
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:18:39
蘇我氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F
135
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:21:34
あの弥勒菩薩半跏思惟像はどうして広隆寺にあるのですか?広隆寺に置かれた歴史は...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1069127770
136
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:23:28
秦氏
はたうじ
日本古代に朝鮮半島から渡来した氏族。秦始皇帝の裔を称し,後漢霊帝の子孫という漢氏(あやうじ)と勢力を二分した。《日本書紀》には,応神天皇のとき弓月君(ゆづきのきみ)が〈百二十県〉の〈人夫〉をひきいて〈帰化〉し,雄略天皇のとき全国の〈秦民〉を集めて秦酒公に賜り,酒公は〈百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)〉をひきい朝廷に絹を貢進したとある。《新斤姓氏録》もほとんど同じことを記すが,弓月君は秦始皇帝の子孫で,帰化したのち〈大和朝津間腋上〉の地に安置されたとし,酒公は〈秦民〉92部1万8670人をひきい絹を貢進し,それを納めるため〈大蔵〉を宮側にたて,その〈長官〉となったという。
このような説話は,秦氏の渡来後,秦氏の本宗家が全国に秦部,秦人,秦人部などを組織し,氏として成立したのが雄略のとき,5世紀末であることを主張している。その際,本宗家は大和でなく,山背(やましろ)国の損野(かどの)郡,紀伊郡を基盤としていた。《姓氏録》にも山城国諸蕃に秦忌寸,左京諸蕃に太秦宿衝を記している。太秦(うずまさ)とは,酒公が朝廷に絹をうず高く積んだのでその名があるというが,山背より京に本貫を移した秦氏の別称であろう。ついで,欽明天皇のとき,山背紀伊郡人秦大津父(おおつち)が〈大蔵〉の官に任ぜられ,〈秦人〉7053戸を戸籍に付し,〈大蔵掾〉として,その伴造(とものみやつこ)となったという。ついで,秦河勝がある。河勝は聖徳太子の財政,軍事,外交に関する側近者で,太子の意をうけて蜂岡(はちおか)寺(広隆寺)をたてたといい,寺は太秦にあるので太秦寺とも称された。ほかに《天寿国斥帳》の製作者として秦久麻があり,椋部(くらべ)と記されている。
このように,大化改新前に秦氏で史上に名をのこすのは4人だけであるのは,秦氏が土豪であり,在地で隠然たる勢力をもつ殖産的氏族で,朝廷ではクラ(倉,蔵)を管理する下級の財務官であったからである。秦氏は,賀茂川,桂川の京都盆地,さらに琵琶湖畔に進出して,水田の開発,養蚕などの事業を行った。さらに伊勢,東国におよぶ商業活動にも従事した。天武天皇のときに定められた八色の姓(やくさのかばね)では,漢氏とならび〈忌寸(いみき)〉の姓を授けられたが,同族の一部が改姓されたのみで,748年(天平20),秦氏1200余烟に〈伊美吉(いみき)〉を賜ったとき,はじめて姓が一般化した。しかも,このように多数の同族が一時に改姓される例は,日本の氏族にはなく,いかに同族の基盤がひろく深いかを示すであろう。このことは,秦忌寸のほか,山背損野郡,紀伊郡に秦大蔵,秦倉人,秦高椅,秦川辺,秦物集,秦前など,また近江愛智(えち)郡に依智秦(えちはた),犬上郡に簀秦などの傍系氏がおり,すべて〈秦〉の一字を共有し,氏の分化が少なく,比較的等質性を保っていることにも現れていよう。要するに土豪性といってよい。
平安京への遷都は,秦氏の基盤への遷都であり,その財政力によって建設されたとの説もある。883年(元慶7),秦氏は惟宗(これむね)朝臣に改姓されたが,なお各地方には,惟宗とならび秦姓のものも多く,ともに在庁官人,郡司として多く名をとどめている。⇒惟宗氏 平野 邦雄
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137
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:26:31
秦氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F
138
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:29:32
弓月君
ゆづきのきみ
帰化系雄族の秦氏(はたうじ)の祖と伝えられる人物。《日本書紀》によると,応神天皇のときに百済から120県の人夫(民衆の意)を率いて渡来したという。この人夫の数は秦氏の後世大いに発展した姿を過去に投影させた造作とみられるが,その伝説化はその後さらに進み,《新斤姓氏録》にみえる伝えでは,秦氏は秦始皇帝13世の孫の孝武王の後裔で,王の子の功満王が仲哀朝に,その子の融通王(弓月君)が応神朝に127県の百姓を率いて帰化したというようになっている。 関 晃
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139
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:38:32
?????
秦氏は、秦の始皇帝の子孫を称していますが、どうも違うようです。佐伯好郎によれば、中央アジアのバルハシ湖の南にある「弓月」国(中国語でクンユエ)が、故郷ではないかということです。1世紀から2世紀に存在し、小国ながらキリスト教国であったとのことです。
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode17.html
佐伯好郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%A5%BD%E9%83%8E
景教学者として[編集]
英語教育のかたわら、佐伯は日清戦争を契機としてネストリウス派キリスト教(景教)の研究を志すようになり、1904年、33歳のとき英語学から中国学への転向を決意[3]、1911年には景教研究の最初の著作『景教碑文研究』を刊行した。1931年(昭和6年)東方文化学院東京研究所(戦後東京大学東洋文化研究所に吸収)の研究員となり(?40年)、同年、北京でシリア語の詩編の碑石を発見し、1935年『景教の研究』を刊行した。1941年1月には東京帝国大学(現・東京大学)から、景教研究により文学博士号を授与され、1943年それまでの中国キリスト教史研究の集大成といえる全5巻の大著『支那基督教の研究』を刊行した。学位論文の題は 「支那に於いて近頃発見せられたる景教経典の研究」[4]
業績[編集]
佐伯の宗教史研究は比較宗教学者マックス・ミュラーの影響を受けたものであり[5]、彼の景教東伝史研究は、英語の著書も刊行されたことから日本国内のみならず国際的にも高い評価を獲得した。この結果、佐伯はその後長く景教史研究の国際的権威とみなされることになった。
しかしその一方、1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり[6]、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)。また彼の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張する人々からは、同祖論を学術的に根拠づけるものとして歓迎されたが、晩年に、「在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」(「旧刊案内」、『原敬百歳』所収)という、同祖論が単なる功利的な「企画」であることを弟子の服部之総に語り、服部を仰天させた。
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:11:47
道鏡 ?‐772(宝亀3)
どうきょう
奈良後期の政治家,僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。後者は《続日本紀》天平宝字8年(764)9月甲寅条の詔に〈この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……〉とある。前者の説は,河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり,弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。後者は先祖の大臣は物部守屋と推定されるが,弓削連氏は物部大連氏に隷属して弓を削り製造する部の族長で,守屋の子孫か否かは不明だが,守屋が物部弓削大連と称したことはなんらかの関係を推定させる。
道鏡は僧正義淵の弟子といわれ,若年に損木山に入って如意輪法を修して苦行無極と称せられた。747年(天平19)1月の《正倉院文書》に東大寺良弁大徳御所使沙弥としてみえるのが初見。良弁の弟子であったらしい。その後禅行が聞こえて宮中の内道場に入り禅師となり,密教経典と梵文に通じた。761年より翌年にかけ孝謙上皇が近江保良宮(ほらのみや)に滞在中,762年4月に病気となった際,道鏡は宿曜秘法を修して看病し,病を癒して寵幸を得た。それを淳仁天皇が非難したので上皇は怒って平城京に還り,法華寺で出家,6月詔して〈天皇は小事のみ行え,国家の大事と賞罰の二権は朕が行う〉と宣した。天皇を操って政権を握っていた藤原仲麻呂は権勢を失い,764年9月11日謀反を企て,権力を奪還しようとしたが敗れて殺された(恵美押勝の乱)。上皇は淳仁天皇を廃して重祚した。称徳天皇である。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り,翌年(天平神護1)閏10月天皇の弓削寺行幸の際,太政大臣禅師に任ぜられた。僧侶が最高権力の地位についたのも異例であるが,さらに766年,法王という未曾有の官に任ぜられ,翌年法王宮職が設置された。月料は天皇の供御に准ぜられ,人臣最高の地位に昇った。
道鏡は仏教重視,公縁抑圧の政策をとり,放鷹司を廃して放生司を置き,猟を禁じ,肉魚を御贄に奉ることを禁じ,貴族の墾田をいっさい禁じたが寺院のそれは認め,百姓の1,2町は許した。東大寺に対抗して西大寺,西隆寺を建立し莫大の財を費やした。道鏡におもねるものが各地から奇跡,祥瑞を報告し,献上した。自分からも策謀し,彼の徳政を天がよみすると宣伝した。その最大の事件が宇佐八幡宮神託事件で,769年(神護景雲3)〈道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん〉と宇佐八幡の神託の奏上があった。これは道鏡の弟の大宰帥弓削浄人と大宰主神中臣習宜阿曾麻呂と八幡神職団の共謀であったが,和気清麻呂が勅使として派遣され,その謀を見破り,道鏡をしりぞけよとの神託を復命,道鏡の企ては破れた。天皇は770年(宝亀1)由義宮(ゆげのみや)に滞在中病となり,同8月に没した。道鏡は下野薬師寺別当に左遷され,772年その地で死んだ。 横田 健一
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:12:55
宇佐八幡宮神託事件
うさはちまんぐうしんたくじけん
769年(神護景雲3)大宰府管内豊前国の宇佐八幡神が僧道鏡を天皇にしたならば天下太平ならんと,称徳天皇に神託を奏上した事件。宇佐八幡宮の起源は不明だが,正史では《続日本紀》に737年(天平9)新羅の無礼を八幡神に告げたとあるのが初見。745年ころから同神が東大寺大仏の建立を助け,とくに銅と黄金の入手を助けたと信ぜられ,朝廷の崇敬を得た。750年(天平勝宝2)には封戸1400戸,位田140町が施入され,伊勢神宮をしのぎ,全神社中第1位を占める厚い崇敬を得た。道鏡は761年(天平宝字5)に近江保良宮で孝謙上皇が病気のときに看病に侍して癒してから,上皇の寵を得た。これをねたんだ藤原仲麻呂が764年9月に謀反を起こして敗死した後,上皇は称徳天皇として再即位した。その直後,道鏡は大臣禅師,翌年太政大臣禅師に任ぜられて政権を握り,766年(天平神護2)法王に任ぜられ,供御は天皇に準ずるという史上空前絶後の高位に昇った。769年5月ころ,宇佐八幡神は託宣し〈道鏡を天位につかしめば天下太平ならん〉とあり,これを大宰主神中臣習宜阿曾麻呂が奏した。当時大宰帥は道鏡の弟弓削浄人(ゆげのきよと)であるから,合意のうえの奏上であろう。天皇は夢に八幡神が,神教を聴かせるから尼法均(和気広虫)を派遣せよとあるが,法均は女で軟弱,遠路にたえがたいからと,その弟和気清麻呂を宇佐に派遣した。彼は神前で託宣を請うと,その神託は〈道鏡を天位につかしめば〉という前回と同様であった。彼は〈これは国家の大事なり。信じ難し。願わくは神異を示せ〉と願った。神は忽然と形を現じ身長3丈ばかり,色満月のごとくで,神託は〈わが国は君臣の分定まれり,道鏡は悖逆(はいぎやく)無道,神器を望むをもって神震怒し,その祈をきかず。天つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を続(つ)げよ〉とあった。清麻呂は帰京して,これを奏上したため大隅に流されたが,天皇は道鏡を天位につけることを断念した。その後天皇が没すると道鏡も失脚した。
横田 健一
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:13:32
恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん
奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。そして太保(右大臣),ついで太師(太政大臣)に進み,位階もついには正一位に達し,その間中国の唐を模倣したさまざまな重要施策を実行に移した。しかし,紫微中台(しびちゆうだい)の長官としてとくに緊密な関係にあった叔母の光明皇太后が760年(天平宝字4)に没したことが契機となって,勢力が下降しはじめ,反対派との対立が激化してきた。すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇が寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝私(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職や越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。この事件は良継が罪を一身に負って一応おさまったが,今毛人,宅嗣,家持も左遷された。しかし,仲麻呂派も僧綱では少僧都慈訓,慶俊が解任されて,道鏡がこれに代わり,またそれまで絶対的な支配下にあった造東大寺司にも反対派の勢力がしだいに浸透してきて,形勢は悪化し,さらに妻の袁比良(おひら)についで,石川年足や御楯など有力な支援者が死に,飢饉・疫病に加えて物価が高騰するなど社会不安も高まってきた。
かくして764年9月,仲麻呂は退勢を一気に恐回すべく反乱を企図し,みずから〈都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使〉という地位につき,それら配下の諸国から多くの手兵を都に集めようとした。しかし,反乱計画は高丘比良麻呂や大津大浦らの密告によって孝謙上皇の知るところとなり,上皇は先手を打って淳仁天皇のもとにあった鈴印を回収しようとした。中宮院にあって勅旨の伝宣に当たっていた久須麻呂はこれを邀撃(ようげき)し,いちどは鈴印を奪回したが,授刀衛の坂上苅田麻呂らに射殺された。かくて鈴印の争奪戦に端を発し,仲麻呂は公然と反旗を掲げることとなったため,官位・氏姓を影奪され,封戸・雑物も没収されたうえ,不意をうたれて淳仁天皇と行動をともにできなくなったので,氷上塩焼(塩焼王)を天皇に擁立し,永年拠点としてきた近江国の国衙に拠って,みずからを正統と称し,孝謙上皇方に対抗しようとした。しかし,田原道を先回りした追討軍佐伯伊多智に妨げられて勢多(瀬田)橋を渡ることができず,やむなく湖西を越前国に逃入しようとしたが,この計画も伊多智らが先に越前に入って国守であった子息辛加知(しかち)を殺し,愛発関(あらちのせき)を閉じたため,果たさず,後退して高島郡三尾埼に至ったところを,藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らの追討軍主力に挟撃され,勝野鬼江から湖上に逃れようとしたが,石村石楯(いわれのいわたて)に捕らえられ,一族与党34人とともに湖浜で斬首された。乱後,淳仁天皇は廃位され,淡路に幽閉されたが,765年(天平神護1)脱走を企てて怪死し,新しく道鏡が大臣禅師に任ぜられて政権を掌握した。 岸 俊男
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143
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:14:02
大津大浦 ?‐775(宝亀6)
おおつのおおうら
奈良時代の陰陽家。大津氏は連(むらじ)姓で,代々陰陽を習い伝える。大浦は藤原仲麻呂の信任をえて吉凶を占ったが,仲麻呂の蘭意を知るとこれを密告。その功により位は正七位上から従四位上,姓も宿衝(すくね)となり,功田15町が与えられた。しかし道鏡政権下で舎人親王の孫和気王の謀反事件に連座し,再び連姓となり,日向守に左遷。道鏡失脚後ゆるされて陰陽頭兼安芸守となった。 早川 庄八
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:15:02
岡寺
おかでら
奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。もと竜蓋寺ともいい,義淵僧正が草壁皇子の岡宮(岡本宮)を天智天皇より授けられて寺としたと伝えられる。岡寺の名は,前身の宮の名あるいは丘陵地にあった立地によったものらしく,俗称といいうる。奈良時代には多くの仏典を所蔵していた。762年(天平宝字6)に寺封50戸が寄せられ,道鏡も丈六の塑像如意輪観音座像を造立し,現に西国三十三所の一つとして信仰を集めている。吉野郡にあった竜門寺と共に興福寺別当の兼帯の重要寺院とされてきたが,1283年(弘安6)ころに炎上,1472年(文明4)の大風で三重塔が倒壊し,興福寺一乗院により再建が企てられたが完成に至らなかった。江戸時代には25歳の厄除け観音として有名であった。本尊如意輪観音像は日本最大の塑像で,ほかに木心乾漆の義淵僧正像,銅造如意輪観音半跏像,木造仏涅槃(ねはん)像,天人文磚(せん)などを所蔵している。 堀池 春峰
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145
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:16:11
由義宮
ゆげのみや
奈良時代,769年(神護景雲3)から770年(宝亀1)ころ河内国にあった離宮。称徳天皇は河内国若江郡の弓削氏出身の僧道鏡を寵幸し,太政大臣禅師さらに法王に任じ,供御は天皇に準ずる待遇を与えた。769年宇佐八幡宮神託事件の直後,10月に天皇は道鏡の出身地,若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て,ここに行幸した。河内国を河内職と改め,特別行政地域とし,その長官河内大夫に藤原雄田麻呂(後の百川(ももかわ))を任命した。和気清麻呂が神託事件で大隅へ配流中,彼が資を送り助けたことは興味深い。天皇は由義宮で弓削氏一族に位を与え,高年者に物を賜い,大県,若江2郡の調を免じ,安宿,志紀2郡の田租の半ばを免じた。翌770年大県,若江,高安3郡百姓の宅で由義宮の宮域に入る者にはその価を給した。宮域の広さがわかる。2月27日宮に行幸,3月博多川に遊楽,歌垣を行った。4月由義寺の塔を造り始めた。しかし還幸後,天皇は病み,同年8月4日に没した。由義宮址の正確な位置は不明。
横田 健一
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146
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:16:41
孝謙天皇 718‐770(養老2‐宝亀1)
こうけんてんのう
第46代に数えられる奈良後期の女帝。在位749‐758年。のち重祚して第48代に数えられる称徳天皇。在位764‐770年。聖武天皇の皇女,母は光明皇后,諱(いみな)は阿倍,高野天皇ともいう。738年(天平10)1月はじめて未婚の女性ながら立太子,皇太子学士吉備真備について学び,743年の5月5日には内裏で五節舞を舞った。749年(天平勝宝1)7月聖武天皇の譲位によって即位したが,実権は,紫微中台(しびちゆうだい)を設け藤原仲麻呂を紫微令に任じた母の光明皇太后が掌握していた。在位中に盧舎那大仏像の開眼供養が行われ,東大寺に行幸,帰途仲麻呂の田村第に入った。また唐僧鑑真が来日すると,東大寺大仏殿前に戒壇をたてて受戒した。756年の聖武太上天皇没後,遺詔によって道祖(ふなど)王(父は新田部親王)を皇太子としたが,黒縦を理由にまもなく廃太子し,代わって藤原仲麻呂といわば養父子の関係にある大炊(おおい)王(父は舎人親王)を立太子させた。その後仲麻呂を紫微内相に任じ,橘奈良麻呂の反乱を未然に鎮圧すると,758年(天平宝字2)8月には皇位を大炊王(淳仁天皇)に譲り,宝字称徳孝謙皇帝の尊号を受けた。しかしまもなく母の光明皇太后が没し,その翌年近江保良宮(北京)に行幸したころから,看病禅師の道鏡を寵愛したことが問題となって,淳仁天皇と不和となり,平城宮にかえるとそのまま法華寺に入り,〈国家の大事と賞罰は朕(孝謙)が行い,常祀と小事は今帝(淳仁)が行え〉と宣言する。かくして淳仁天皇を擁立する藤原仲麻呂派との対立が激化し,ついに764年9月に恵美押勝の乱が起こったが,追討軍を発遣して仲麻呂一族を湖西に敗死させ,淳仁天皇を廃して淡路に配流し,代わって重祚した。この間四天王の加護を祈って造像を発願し,やがて西大寺が創建されたほか,戦没者の冥福を祈るため木製の三重小塔100万基を造って南都十大寺に分置した。乱後は道鏡を重用し,太政大臣禅師に任じ,ついで法王の位を授け,法王宮職を設置した。その結果,道鏡は宇佐八幡神の託宣と称して皇位につこうとしたが,和気清麻呂が神教を復奏して妨げ,実現しなかった。770年8月河内由義(ゆげ)宮(西京)から還幸後,平城宮西宮で没した。大和国添下郡佐貴郷高野山陵に葬る。《正倉院文書》中の造東大寺司沙金奉請文に記された〈宜〉の字は自筆という。 岸 俊男
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147
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:17:43
光仁天皇 709‐781(和銅2‐天応1)
こうにんてんのう
第49代に数えられる奈良後期の天皇。在位770‐781年。天智天皇の孫,施基(志貴)皇子の第6子,母は紀諸人の女橡姫(とちひめ)。諱(いみな)は白壁,和風諡号(しごう)を天宗高紹(あまむねたかつぎ)天皇という。737年(天平9)無位から従四位下に叙せられ,以後累進して正三位大納言に至ったが,その間飲酒をほしいままにして皇位継承の争いに巻き込まれるのを避けていた。しかし770年8月に称徳天皇が没し,天武系の皇統が絶えると,藤原百川,永手らに擁立されて皇太子となり,道鏡を下野薬師寺別当に左遷した。ついで同年10月に即位,宝亀と改元し,井上(いかみ)内親王を皇后に,その子である他戸(おさべ)親王を皇太子と定めたが,まもなく皇后が巫蠱(ふこ)に座したという理由で,廃后・廃太子を断行し,代わって山部親王(母は高野新笠)を皇太子に立て,また楊梅宮を造営して移った。在位中,大中臣清麻呂を右大臣に,藤原良継を内臣,内大臣に任じて重用し,庶政刷新,綱紀粛正をはかったほか,渤海,新羅,唐からの使節来朝が相つぎ,また蝦夷の反乱鎮定にも努めた。781年4月,病によって山部親王(桓武天皇)に譲位,同年12月に没した。はじめ広岡山陵に葬ったが,のち父の施基皇子(春日宮天皇と追称)を葬る大和国添上郡田原の地に改葬した。 岸 俊男
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148
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:18:34
古事談
こじだん
鎌倉初期の説話集。源顕兼(あきかね)編。1212年(建暦2)以後15年(建保3)2月までに成立。6巻。説話を〈王道・后宮〉〈臣節〉〈僧行〉〈勇士〉〈神社〉〈仏寺〉〈亭宅〉〈諸道〉に分類集録し,その形態は中国の類書に似る。462話収録。《中外抄》《富家語(ふけご)》《江談抄(ごうだんしよう)》《扶桑略記(ふそうりやつき)》をはじめとする諸種の先行文献の記事を抄出したものが中心となっている。説話に対しての編纂者の評語,教訓の類は付されていない。内容や分類項目からうかがえる本書の意図は,貴族社会をその裏面にまで踏みこんで描くことにあった,と思われる。説話集冒頭に称徳天皇と道鏡の好色説話を置き,花山院と馬内侍,後冷泉院と源隆国にまつわる逸話など,天皇に関する好色秘話を含むことにもその一端が示されている。《宇治拾遺物語》の編纂資料となった。また,本書の強い影響のもとに《続古事談》が成立した。
出雲路 修
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149
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:20:08
坂上氏
さかのうえうじ
日本古代の氏族。渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏とも書く)から分かれた多数の枝氏族の一つ。東漢氏は,応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)に率いられて日本に渡来してきたという伝承をもち,5世紀ころよりヤマト朝廷の文筆,財務,外交にたずさわるとともに,あとから渡来してきた手工業技術者などを支配下におさめて急速に成長した氏族であるが,その後分裂をくりかえし,60以上の枝氏族に分かれたという。しかし分裂後もこの氏族は,681年(天武10)に直(あたい)姓から連(むらじ)姓に変わったときも,685年に忌寸(いみき)姓を与えられたときも,一括して東漢氏と称されたように,氏族としての結合を保っていた。ただしその結合はゆるく,枝氏族相互は対等で,宗家とよぶべきものはなかったと考えられている。坂上氏はそうした枝氏族の一つであるが,壬申の乱(672)に坂上老(おきな)が武功をたてて以後しばらくは頭角をあらわす者がなかったが,孫の犬養(いぬかい)が聖武天皇に武芸の才を愛されて正四位上にのぼり,その子苅田麻呂(かりたまろ)が764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱に武将としての功あって大忌寸(おおいみき)の姓を授けられ,道鏡追放にも功あって785年(延暦4)従三位となり,またみずから上表して同族10氏を宿衝(すくね)姓に改めることに成功すると,坂上氏は東漢氏の宗家の観を呈するようになった。その子が蝦夷征討に活躍した田村麻呂(たむらまろ)で,征夷大将軍となり,武功により従三位にのぼり,さらに正三位大納言となる。田村麻呂ののちは武門氏族としての坂上氏はおとろえたが,平安時代末期に明法道(みようぼうどう)の家として再び名をあげる。すなわち定成(1088没)が坂上氏としてはじめて明法博士となり,ついで明経道の中原氏から定成の養子になったと推定される明法博士範政は,〈法家坂上一流の祖〉と称された。以後その子孫は代々明法博士に任じ,なかでも範政の子の明兼(あきかね),明兼の孫の明基(あきもと)は,それぞれ《法曹(ほつそう)至要抄》《裁判至要抄》の著者として知られる。 早川 庄八
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:20:45
弓削浄人
ゆげのきよと
奈良後期の政治家。生没年不詳。清人にもつくる。河内国若江郡出身。道鏡の弟。764年(天平宝字8)9月11日,藤原仲麻呂の謀反した日に従四位参議,10月上総守,翌年(天平神護1)従四位上,766年正三位中納言,767年(神護景雲1)内豎縁,衛門督,768年3月大納言兼大宰帥,769年従二位と累進した。大宰帥在任中部下の大宰主神中臣習宜阿曾麻呂,豊前宇佐八幡神職団と共謀し〈道鏡を天位につかしめば……〉の宇佐八幡宮神託事件を起こした。770年(宝亀1)8月称徳天皇没後,兄道鏡とともに失脚,土佐に流された。
横田 健一
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151
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:21:25
和気清麻呂 733‐799(天平5‐延暦18)
わけのきよまろ
奈良中期より平安初期にかけての官人。本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ),また藤野別真人(ふじのわけのまひと)を称し,和気宿衝(すくね)さらに和気朝臣に改姓された。備前国藤野郡に生まれ,その後,孝謙(称徳)天皇に近侍していた姉和気広虫の引きによって,おそらく兵衛(とねり)として出仕したものと思われる。《続日本紀》にはじめて名が記録されるのは,765年(天平神護1)従六位上,右兵衛少尉のときで,広虫とともに称徳天皇に重用された。やがて皇位を望んだ僧道鏡の事件にさいし,姉に代わって宇佐八幡に使し,神託をうけてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。そのため一時別部穢麻呂と名をかえられ,大隅国に流されたが,光仁天皇の即位とともに770年(宝亀1)京に召されてもとの従五位下に復し,桓武天皇の側近として活躍した。長岡京造営には陰の役割をはたし,従四位下より正四位下に昇叙し,ついで平安京造営には造宮大夫として事業をにない,従三位に叙せられ,公縁に列した。この間,摂津大夫として水利事業を進め,民部大輔として〈民部省例〉を斤するなど,民政にあかるく,さらに美作・備前両国国造(くにのみやつこ)に任ぜられ,故郷の百姓の利益にも力をつくした。799年姉広虫についで没したときは民部縁・造営大夫・従三位で,正三位を贈られた。人となり高直,匪躬の節ありと評された。 平野 邦雄
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和気広虫 730‐799(天平2‐延暦18)
わけのひろむし
奈良中期から平安初期に後宮に仕えた女官。ことに孝謙(称徳)女帝に重んぜられた。清麻呂の姉。その名が史料にはじめてみえるのは762年(天平宝字6)女孺,豎子として天皇の勅を伝宣したときで,同年孝謙上皇の出家にしたがい尼となり,法均尼を称した。当時,郡司の子女は采女(うねめ)として出仕したから,広虫もこの例に従い備前国藤野郡より出身したのであろう。そして損木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚した。戸主は中宮職,のち皇后宮職(紫微中台)の官人となったから,広虫も後宮で天皇,上皇の側近としての地位を占めたものと思われる。称徳女帝のもとで従五位下,さらに従四位下に准ぜられ,封戸を賜ったが,道鏡の宇佐八幡宮神託事件にさいし清麻呂とともに除名され,備後国に流された。光仁天皇の即位で770年(宝亀1)京に召され,もとの従五位下に復し,従四位下,典蔵(くらのすけ)となり,桓武天皇のもとで789年(延暦8),典侍(ないしのすけ),従四位上として勅を伝宣している。70歳で没したときは典侍,正四位上で,のち正三位を贈られた。その伝に,藤原仲麻呂の乱連座者の減刑を願って許され,孤児を養子として育て,人となり貞順,節操に欠くるところなく,桓武天皇にはなはだ信重されたとある。 平野 邦雄
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:22:29
八幡信仰
はちまんしんこう
八幡神に対する信仰。大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮(八幡宮)に起こり,日本で最も普及した神社信仰である。しかしその発生発達は複雑で,古来諸説が多く,海神,鍛冶神,ヤハタ(地名)神,幡を立ててまつる神,秦氏の氏神,焼畑神,ハルマン halmang(朝鮮語の〈婆さん〉の俗語)の神(姥神)などといわれてきた。しかし八幡宮神事の祭祀集団は,豊前国北部の田川・京都(みやこ)などの集団と,南部の宇佐・下毛などの集団によって構成されている。したがって,祭祀の中心は豊前国綾幡(あやはた)郷あたりにあり,ここにヤハタ神の名が発生したのかもしれない。やがてこの信仰は宇佐地方に入り,宇佐の比黄(ひめ)神をまつる信仰と融合する。この間この祭祀集団の司祭者は雄略朝には豊国奇巫,用明朝には豊国法師として天皇の治病に参内したと伝えられる。欽明朝のころ大神比義(おおがのひぎ)というシャーマンが宇佐に入りヤハタ神に応神天皇の神格を接近させたようである。712年(和銅5)に鷹居瀬社にまつられ,その後小山田社,さらに725年(神亀2)には現在の地に奉斎され,731年(天平3)には官幣にあずかった。八幡神として中央進出を企てたのは,745年聖武天皇が東大寺の地での大仏の造立を発願したころで,当時の司祭者大神氏は進んで朝廷に近づき,八幡神の託宣により鋳造にともなう数々の問題が解決した。749年(天平勝宝1)東大寺ができると八幡神が上京し,八幡神は一品,比黄神は二品をうけ,封戸が施入され,以後国家の大事に関係した。ことに弓削道鏡の野望を託宣により退け(宇佐八幡宮神託事件),天位に決定的力を現し,のち宇佐使(うさのつかい)が始まった。早くから道教や仏教と習合していたので,781年(天応1)護国霊験威力神通大菩醍の神号が贈られ神仏習合の先駆を示した。最澄や空海が八幡信仰に近づき盛んに寺院鎮守に勧請するころ,宇佐では神功皇后を配祀した。とくに最澄が深く崇敬したので天台僧に親しまれ,僧金亀は827年(天長4)豊後国に由原宮を勧請し,宮寺(みやでら)という新しい信仰体制をつくる。この影響で大安寺僧行教により859年(貞観1)山城国男山に勧請され,翌年石清水八幡宮が建立された。そのころから応神天皇,神功皇后の神格が強調され,王城鎮護の神とあがめられ,伊勢神宮につぐ第2の宗妓として崇敬された。その後源頼信など清和源氏が八幡神を氏神とし,関東や東北にまで伝播するようになった。鎌倉幕府が開かれると,鶴岡八幡宮が武士たちに崇敬され,八幡大菩醍への信仰は全国に伝わり武神としての色彩が強くなった。一方宇佐では,神功皇后が配祀されたころ若宮が創祀され,聖母・神母の信仰が九州に現れ,聖母・神母・母子神信仰が広がり,民衆に強い支持をうけた。比黄大神,神功皇后と若宮四神は六所権現として山岳信仰にも結びついて,八幡大菩醍に対して人聞(にんもん)(神母)菩醍が民衆に信仰された。その本山が豊後国国東(くにさき)半島の六郷山で,ここに六郷山修験道が生まれ,安産,生産,災害防止など広く庶民の願望にこたえた(六郷満山)。しかし全国的には応神天皇を中心に,神功皇后,仲哀天皇などと組み合わされて広く信仰された。現在八幡宮に関係する神社は全国に4万余社がある。⇒宇佐神宮 中野 幡能
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:24:51
法王宮職
ほうおうぐうしき
767年(神護景雲1)に設置された令外官。道鏡が法王として家政と政務を執行した官庁。道鏡は766年(天平神護2)10月法王に任ぜられた。翌年3月に法王宮職が置かれ,造宮縁但馬守従三位高麗福信(こまのふくしん)を大夫(兼任)に任じ,大外記遠江守従四位下高丘比良麻呂を亮(兼任),勅旨大丞従五位上損井道依を大進(兼任)とし,少進1人,大属1人,少属2人がおかれた。法王の月料は天皇の供御に準じたとあるから,衣服,飲食は天皇と同じものを用いた。また出入警蹕も乗輿に擬したとあるから,乗物や出入のときの儀礼も天皇と同等であった。ゆえにその家政の執行,また公の政務についても,少なくとも中宮職,春宮坊に匹敵する舎人(とねり)(中宮400人,春宮600人),使部(30人),直丁(3人)が属していたと考えられる。高麗福信は668年高句麗の滅亡時に亡命渡来した背奈福徳の孫,高丘比良麻呂は百済滅亡後の663年に亡命渡来した百済人沙門詠の子孫であり,古来の日本貴族にくらべ,成上りの道鏡に反感を抱かぬ渡来人をその職にあてたのであろう。770年(宝亀1)道鏡の失脚と同時に廃止された。 横田 健一
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法王
ほうおう
(1)釈梼(仏陀)の尊称。(2)766年(天平神護2),称徳天皇が僧道鏡に授けた位。法皇とも書く。(3)法皇(ほうおう)に同じ。(4)ローマ法王(教皇)のこと。〈教皇〉の項を参照されたい。
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:25:54
藤原仲麻呂 706‐764(慶雲3‐天平宝字8)
ふじわらのなかまろ
奈良時代の政治家。名は仲満とも書く。758年(天平宝字2)に恵美押勝(えみのおしかつ)と改称した。藤原武智麻呂(むちまろ)の第2子。母は安倍朝臣出身の女性で,貞吉もしくは真虎の娘と伝え,豊成は同母兄。聡敏で読書家,また算術に精通した。725年(神亀2)に内舎人(うどねり),ついで大学少允となる。734年(天平6)正六位下より従五位下となり,父武智麻呂ら藤氏四縁の死後750年(天平勝宝2)従二位に昇るまで11年間に9階という異例の急進をとげ,さらに760年に従一位,762年には正一位の極位に至っている。
その間官職も741年民部縁,743年参議兼左京大夫,745年兼近江守,746年式部縁兼東山道鎮撫使などを歴任した。749年聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると大納言となり,さらに皇権を掌握した叔母の光明皇太后のために新しく設置された紫微中台の長官紫微令をも兼任し,太政官に拠る左大臣橘諸兄らに対抗して,政治の中枢に進出した。756年聖武上皇が没すると翌757年皇太子道祖(ふなど)王を廃し,大炊王を擁立した。大炊王は当時仲麻呂の私宅田村第に住み,仲麻呂の亡男真従(まより)の婦の粟田諸姉をめとっていて,仲麻呂とはミウチ的な関係にあった。同年紫微内相(ないしよう)となって軍事権も手中にした仲麻呂は,諸兄の長子橘奈良麻呂や,大伴,佐伯,多治比ら反仲麻呂勢力の反乱を未然に鎮圧し(橘奈良麻呂の変),独裁政権を確立した。ついで758年大炊王が即位し淳仁天皇となると太保(右大臣)となり,恵美押勝の姓名,功封3000戸,功田100町を賜り,鋳銭,出挙(すいこ)の自由な権限を手中にし,また,恵美家印を太政官印にかえて用いることも許され,760年にはついに太師(太政大臣)となった。
しかし同年光明皇太后が没すると,しだいに政権にかげりがあらわれはじめた。762年近江の保良宮滞在中に孝謙上皇と淳仁天皇が道鏡の問題をめぐって不和となり,平城京に帰った後は皇権の分裂にまで発展したが,その背後には仲麻呂・淳仁派と道鏡・孝謙派の対立抗争の激化があった。加えて銭貨改鋳はインフレを招き,社会不安が高まったので,764年仲麻呂はこの退勢を一挙に恐回するため反乱を企て,都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となってひそかに手兵を集めようとしたが,計画は事前に発覚した。緒戦に敗れた仲麻呂は近江,ついで越前への逃亡をはかったが,いずれも失敗し,近江湖西の勝野鬼江で捕らえられ,一族与党とともに湖浜で斬首された。
仲麻呂の施策には,雑徭日数の半減や課役年齢の短縮,問民苦使(もみくし)の派遣など人心の安定をはかるものがみられるが,多くは唐制の模倣であり,このことは乾政官(太政官),坤宮官(紫微中台)などの官号の唐風化や,歴代天皇の漢風諡号(しごう)の斤進にもみられ,またそこには《孝経》を各家に所持させ,《維城典訓》を官人の必読書とする政策と同じように,仲麻呂の儒教好みがあらわれている。さらに757年養老律令の施行は,祖父不比等の顕彰を目的とするが,藤原氏の《家伝》を編纂し,みずからが〈鎌足伝〉(〈大織冠伝〉)を書いたのも同じ意図に出るものであった。そのほか《日本書紀》に続く正史編修を発議し,また《氏族志》の編纂も手がけたが,それらはのちの《続日本紀》や《新斤姓氏録》の先駆となった。⇒恵美押勝の乱 岸 俊男
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155
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名無しさん
:2013/07/21(日) 08:27:38
中臣氏
なかとみうじ
日本古代の豪族。大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)。大化改新後に藤原氏を分出,八色(やくさ)の姓の制度で朝臣を賜姓。奈良後期から嫡流は大中臣(おおなかとみ)氏。中世以後は岩出(いわで),藤波(ふじなみ)などと称する。中臣とは,《中臣氏系図》の〈延喜本系〉に奈良後期の本系帳を引用し〈高天原に初めて,皇神(すめかみ)の御中(みなか),皇御孫(すめみま)の御中執り持ちて,いかし桙(ほこ)傾けず,本末(もとすえ)なからふる人,これを中臣と称へり〉とか,《台記別記》の〈中臣寿詞(なかとみのよごと)〉に〈本末傾けず茂槍(いかしほこ)の中執り持ちて仕へ奉る中臣〉とか,《大織冠伝》に〈世々天地の祭を掌り,人神の間を相和す。仍ってその氏に命じて中臣と曰へり〉とあるように,天皇側近の神官として神託を伝えるという職掌による呼称であろう。祖神は天の岩戸や天孫降臨の記紀神話に登場し,春日神社などにまつられる天児屋(あめのこやね)命。遠祖として垂仁朝に大鹿嶋(おおかしま),仲哀朝や允恭朝に烏賊津(いかつ)の名が《日本書紀》にみえ,欽明朝では鎌子(後の鎌子とは別人),敏達・用明朝では勝海(かつみ)が大連の物部氏とともに仏教受容に反対し,勝海は大臣の蘇我氏らに討たれたという。しかし〈延喜本系〉では欽明朝以後,黒田―常磐(ときわ)―方子(かたのこ)―御食子(みけこ)と代々朝廷に仕え,推古・舒明朝では御食子が〈前事奏官兼祭官〉すなわち朝廷の政務を決定する会議に参加する大夫(まえつぎみ)で神官を兼ねていたといい,鎌子・勝海らと黒田以下との系譜関係には触れないので,中臣の嫡流は勝海で絶え,常陸の鹿島から来た中臣(遠祖は大鹿嶋)が後を継いだとの説もある。
ともかく御食子の子の鎌子(後の藤原鎌足)が生まれたころの中臣氏は,間人(はしひと),志斐(しひ),熊凝(くまごり),習宜(すげ),宮処(みやこ),伊勢,鹿嶋など多くの支流に分かれ,各地に中臣部(なかとみべ)という私民や田荘(たどころ)をもつ,かなり有力な朝廷豪族であった。だが鎌子すなわち鎌足は神官の職を継がず,大化改新(645)以後は内臣(うちのおみ)として中大兄(後の天智天皇)を補佐し,669年(天智8)に病没したときには大織冠,内大臣という冠位,官職と藤原という氏を賜った。以後鎌足の一族は従兄弟たちまで中臣藤原連(なかとみのふじわらのむらじ),すなわち朝廷の官人としては藤原,神官としては従来どおり中臣と称するようになったようである。ところが壬申の乱(672)で従弟の右大臣中臣金(くがね)は近江朝廷側の強硬派として斬られ,鎌足の子の不比等(ふひと)もしばらく答塞(ひつそく)しているうちに,天武天皇夫人となった鎌足の娘の氷上(ひかみ),五百重(いおえ)がそれぞれ皇女,皇子を生み,やがて不比等や金の甥の大嶋(おおしま)も,官人や神官として活躍しはじめたので,八色の姓の制では中臣連のうちの藤原系が,物部連とともに例外的に朝臣を賜姓された。文武朝にはいると,娘の宮子(みやこ)を文武天皇夫人とした不比等は,藤原朝臣という氏姓を自分の子孫に限定するために,698年(文武2),朝廷の祭祀は再従兄弟の意美麻呂(おみまろ)らが担当するという理由で彼らを中臣朝臣とし,藤原と中臣との分離に成功した。奈良時代の中臣氏からは,神梢官の長官や次官のほか,正四位上中納言の意美麻呂,その子で正二位右大臣にまで進んだ清麻呂,鎌足の弟の孫で遣唐副使として苦労した名代(なしろ),その子で遣唐判官の鷹主(たかぬし),また意美麻呂の孫で狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)との間の相聞歌が有名な宅守(やかもり),支流からは武官として聞こえた中臣伊勢(連)老人(おきな),道鏡にこびた中臣習宜(朝臣)阿曾麻呂(あそまろ)などの名が知られている。なかでも清麻呂は中納言従三位であった769年(神護景雲3)に大中臣の氏を賜い,その子孫は引き続き大中臣朝臣と称したが,平安初期には親族にも大中臣への改氏を申請して許可されるものが多くなった。⇒藤原氏 青木 和夫
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156
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名無しさん
:2013/07/22(月) 19:11:44
陰陽道
おんみょうどう
日月星辰の運行や方位をみ,特殊な占法を用いて国家・社会や個人の吉凶禍福を判じ,あらゆる思考や行動上にその指針を得ようとする諸技術をさし,これに関連する思想・理論も含まれる。中国古代,夏・殷(商)王朝のころに発達し,周王朝の時代に完成した。いわゆる易と称するもので,その代表的な典籍が《周易》である。その思想・理論の中心となるのは陰陽(いんよう)五行説で,日月と木火土金水を万物生成の主要素とし,これに十干十二支の説が結びつき,それらの複雑な組合せから歳月日時方位に占星的価値がつけられ,天文・暦法が加わってここに原始的科学知識が成立した。これは人間の未来を予知するよりどころとして古代漢民族社会を風靡した。
日本へは仏教が公伝するのと前後して輸入された。すなわち継体朝には百済から段楊爾,漢高安茂等の学者が派遣されてその紹介指導にあたり,602年(推古10)には百済僧観勒が暦本,天文地理書,筒甲方術書など陰陽道関係の書物を献上した。聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法制定に陰陽道をとりいれ,国史編纂には国家の起源にこれを利用するところがあった。大化にはじまる元号制定は中国にならい,祥瑞改元(吉兆とされる現象をもって新しい年号をたてる陰陽道思想)によったもので,これは奈良朝を通じ踏襲されたが,平安朝に入るころから災異改元(天災地変など凶兆とみられる現象をもって新しい年号に代える陰陽道思想)に転じ明治維新までつづいた。白村江の戦以後,百済からの亡命や大陸留学者の帰還によって帰化人系陰陽家が多数活躍し,角福牟(ろくふくむ),僧法蔵,同行心,同道顕らが知られるが,朝廷では僧侶は還俗のうえ仕えさせたので,行心の子僧隆観は金財(たから),僧義法は大津首意毘登(おおつのおびといびと)と改めている。天武天皇はみずから天文・筒甲の術をよくしたといわれ,はじめて陰陽寮をおき占星台を興した。律令制が整備されると陰陽寮は中務省に属し祥瑞災異の判定や新都建設の地相卜占をつかさどったが,反面この方面の専門書や天文器物の私有は禁ぜられた。平安朝に入り,律令制の衰退と藤原氏の政権掌握に伴い,陰陽道は権力者に利用され陰陽師の禁忌卜占が政治に影響するところが多く,貴族の御用的性格を帯びた宮廷陰陽道へと変わっていった。藤原良房の進出した仁明・文徳朝(833‐858)ころよりこの傾向は著しく,藤原師輔は《九条殿遺誡》《九条年中行事》を著して多くの陰陽道的禁忌や作法を明示し,宇多天皇も《周易》に詳しかった。かくて滋岳川人(しげおかのかわひと),弓削是雄(ゆげのこれお)ら名人が輩出し,川人は多数の著作をのこし日本における陰陽道の基礎をつくった。平安中期に出た三善清行も易に通じ,辛酉の歳には革命,甲子の歳には革令があるとの中国の讖緯説(しんいせつ)(周期的予言説)をひいて改元を上奏し,年号を延喜とした。これより周期的災厄説による災異改元が恒例化した。
157
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名無しさん
:2013/07/22(月) 19:12:39
>>156
やがて賀茂忠行・賀茂保憲父子の名人が出,保憲もその子光栄(みつよし)と弟子安倍晴明の2人の逸材にめぐまれ,光栄には暦道,晴明には天文道を伝えてより,陰陽道界は賀茂・安倍両家による支配体制が成立し,陰陽頭(かみ)の地位も両氏いずれかで占められた。八十島(やそしま)祭・鎮火祭・道痢(みちあえ)祭・七瀬祓など朝廷の神梢的行事の陰陽道化は著しく,物忌(ものいみ)・方違(かたたがえ)は公家の間に有職故実化された禁忌で,とくに鬼門(東北方)や金神・太白・天一など諸神遊行の方向,往亡日・厭日・坎日(かんじつ)・道虚日・衰日などの日が禁忌の対象とされた。これらは院政期に入っていっそうはなはだしくなり,陰陽家には安倍泰親のほか一般公家にも大江匡房,藤原信西,同頼長,清原頼業らの精通者があらわれた。とくに泰親は〈さすのみこ〉といわれ,源平興亡の激動期には政局の前途を占ってよく的中し注目された。これに対して暦道は振るわず,反面算道や宿曜道(すくようどう)が進出した。宿曜道はがんらい中国で密教の星宿信仰と陰陽道が結びついたもので,僧侶が占星術を用いて人の運勢判断などを行い,奈良朝より盛んで空海が唐より宿曜経を伝えるにおよび,南都北嶺を中心にいよいよ発展し,仁海,法蔵,浄蔵ら卜占の名手を出した。
中世に入ると武家や民間にも禁忌の思想が普及した。指南書は中国伝来のものがほとんど滅び,晴明の《占事略決》が遺存の書として最も古く,南北朝には晴明に仮託された《刃辛(ほき)内伝》がつくられ,牛頭天王(ごずてんのう)の信仰と結びついた民間陰陽書として知られた。室町初期には賀茂在方が《暦林問答集》を著した。戦国期に賀茂家嫡流は絶え,土御門(安倍)家も秀吉に追放されていったん没落したが,江戸期に入って復興され,ついで後水尾朝に賀茂家は支流幸徳井氏によって復興された。暦は長らく中国のものに依存し,元嘉,儀鳳,大衍(たいえん),宣明の諸暦が用いられたのち,ようやく江戸期に渋川春海のつくった貞享暦,ついで西洋流暦法による天保暦と改まり,1870年(明治3)陰陽寮の廃止とともに太陰暦もやめられ,官制の陰陽道はここに終止符を打った。 村山 修一
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158
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名無しさん
:2013/07/22(月) 19:15:37
弓削氏
弓削氏(ゆげうじ/し)は、「弓削」を氏とする氏族。
古代の日本で弓を製作する弓削部を統率した氏族で、祖先伝承や根拠地域が異なる複数系統がある。物部氏と関係が深く、一部の系統はその傍系とも称した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E5%89%8A%E6%B0%8F
氏寺
うじでら
氏族の氏上・族長が自身あるいは一族の現世安穏と故人の菩提を祈るために建立した寺。氏神が守護神・祖霊神で,一族の崇敬を得たように,氏寺は氏族一門の現世安穏を祈る祈願所であり,氏人は寺の管理権をもつかたわら経営維持に任じ,寺僧・別当も氏人の僧が選ばれた。氏寺の名は805年(延暦24)に初見するが,仏教伝来以後,崇仏毀釈の政争を経て,仏教は氏族間にも漸次流布するに至り,盛んに建立されるようになった。680年(天武9)に官寺となる飛鳥元興寺は,もと蘇我馬子の建立にかかる蘇我氏の氏寺であった。仏教の受容に敏感に反応した渡来系の氏族はこぞって氏寺を創建するようになるが,秦河勝の建立した秦氏の氏寺広隆寺(太秦(うずまさ)寺),西文(かわちのふみ)氏の西琳寺,鞍作氏の坂田寺(金剛寺),東漢(やまとのあや)氏の檜隈寺(道興寺),坂上氏の支流呉原氏の呉原寺,船氏の野中寺,損井氏の藤井寺,百済王氏の百済寺などが,奈良時代にかけて建立された。一方,日本の氏族の建立にかかるものとしては,蘇我山田石川麻呂の山田寺,阿倍氏の崇敬寺(安倍寺),損城氏の損木寺,巨勢氏の巨勢寺,紀氏の紀寺,小野氏の願興寺,大宅氏の大宅寺,中臣(なかとみ)氏の粟原寺や中臣寺,弓削氏の弓削寺,下毛野(しもつけぬ)氏の下野寺,佐伯氏の香積寺(佐伯院)などがあり,中でも藤原氏の興福寺(山階寺)は,明治初年に至るまで,氏寺としてその法灯を伝えた。平安時代に至っても,のち興福寺末となった京都清水寺は坂上氏の氏寺であり,洛西の神願寺(神護寺)は,和気氏の氏寺であった。624年(推古32)9月には寺が46あったことが正史に伝えられているが,その多くは有力な氏族の氏寺により占められていたと思われる。
奈良時代における国家仏教の成立という発展過程に占めた氏寺の位置は,はなはだ大きいといわねばならない。氏族は氏寺を祈願所とし,寺院経営維持のために,寺領や資財などを寄進し,有力者が檀越(だんおつ)として運営に当たったが,檀越の中には往々にして,寺田を私有化し,資財を横領したり,また,王臣貴族に寺を寄進し,王臣家などは代々相承してきた檀越を追放するという現象が,9世紀ころから生じてきた。こうして氏寺は氏族の興亡盛衰に左右されて,有力な大寺の末寺と化するようになっていく。氏族の盛衰は氏寺の盛衰に直結していたといえる。 堀池 春峰
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159
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名無しさん
:2013/07/22(月) 19:17:46
弓削寺
ゆげでら
大阪府八尾市にあった古代寺院。由義寺とも書く。弓削氏の氏寺と思われる。742年(天平14)に行聖(ぎようしよう)が度者を貢しているから,これ以前の建立であろう。道鏡が弓削氏の出身であった関係から,称徳天皇は765年(天平神護1)この寺に行幸し,食封200戸を施し,770年(宝亀1)塔を造らしめている。平安時代以降のことは不詳で,いつしか退廃した。 中井 真孝
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物部守屋 ?‐587(用明2)
もののべのもりや
飛鳥時代の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子,雄君の父。母が弓削氏のため物部弓削守屋ともいう。敏達・用明朝を通じ大連であった守屋は,大臣(おおおみ)蘇我馬子とことごとく対立した。仏教受容については父尾輿の場合と同様,中臣勝海(なかとみのかつみ)とともに,疫病流行は蘇我稲目の仏教尊信によるものとして,その大野丘北の寺の塔,仏殿,仏像を焼き,残りの仏像も難波の堀江に捨てたという話を伝える。また,敏達天皇の死後の殯宮(もがりのみや)では,馬子の姿を矢で射られた雀のようだとあざけり,馬子からはふるえる手脚に鈴をかけよとあざけられた,との話も伝えられている。守屋は,用明天皇(母は蘇我堅塩媛(きたしひめ))の異母弟の穴穂部(あなほべ)皇子(母は蘇我小姉君(おあねのきみ))と親しく,皇子が皇位をねらうのを阻もうとした三輪逆(みわのさかう)を殺した。しかし587年,守屋は群臣から孤立したのを察し,河内の阿都(あと)の別荘に退いて戦いの準備をすすめた。中臣勝海も呼応して兵を集め,太子彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛した。そして用明天皇が死ぬと,同年5月,守屋は穴穂部皇子を天皇に擁立しようとした。これに対し,蘇我馬子は穴穂部皇子を殺し,7月に泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇),竹田皇子,遠戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと紀,巨勢(こせ),膳(かしわで),損城,大伴,阿倍,平群(へぐり),坂本,春日ら諸氏の勢力を糾合。この軍勢の前に守屋は渋河の家で敗死した。以後,物部氏は衰勢に向かったが,守屋の奴と宅の半分は新たに造営されはじめた四天王寺(荒陵(あらはか)寺)の寺奴と田荘とされた。 門脇 禎二
[伝承] 物部守屋はその後の仏教流通の世情のなかで,もっぱら〈仏法のあた〉とみなされた。《日本霊異記》《今昔物語集》《古今著聞集》などには,仏法興隆者たる聖徳太子の対立者としての守屋が説話化されている。親鸞《三帖和讃(さんじようわさん)》もそれらと同じ立場をとりつつ,なお〈ほとけ〉という和語が守屋の命名によるとの忌説をとり入れている。すなわち,〈ほとけ〉は〈ほとおりけ〉(熱病,疫病の意)の約で,守屋は仏教受容が疫病流行をもたらしたとしてこの名を広めたというものである。さらに《太平記》では〈朝敵〉の烙印がおされ,守屋=逆賊の像がしだいに定着していった。しかし,明治初期には〈廃仏毀釈(はいぶつきしやく)〉運動の影響によるものか,守屋を《皇朝名臣伝》(1880)でとりあげるということもみられた。
また,近世の読本《繁野話(しげしげやわ)》(1766)には,守屋が逃げのびて100歳の寿を保ったという話が記され,《信濃奇勝録》(1834)には,守屋の子孫が信濃に忍び,48代に達したとの落人伝説を載せている。なお,大阪市四天王寺には守屋および中臣勝海らをまつる守屋堂が現存している。
阪下 圭八
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名無しさん
:2013/07/22(月) 19:21:00
物部氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F
物部氏
もののべうじ
古代の有力氏族。姓(かばね)は連(むらじ)で,軍事・警察のことをつかさどる物部の伴造(とものみやつこ)。造(みやつこ),首(おびと)などの姓をもつ配下を従え〈物部八十氏〉とも称された。祖神を饒速日(にぎはやひ)命と伝え,布都御魂(ふつのみたま)をまつる石上(いそのかみ)神宮を氏神社とする。物部氏が軍事・警察の任務についていたことを示す伝承には,(1)雄略天皇13年3月,物部目大連が采女(うねめ)を奸した歯田根命の罪を責める任務を命じられたこと,(2)雄略天皇18年8月,物部測代(うしろ)宿衝と物部目連が伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を征討したこと,(3)継体天皇9年2月,物部至至(ちち)連が百済に遣わされ水軍500を率いて帯沙江(たさのえ)に至ったこと,(4)継体天皇22年11月,大将軍の物部大連麁鹿火(あらかび)が筑紫国造磐井と交戦して平定したこと,などがある。また物部氏の祖先が神事にたずさわっていたとする伝承には,(1)崇神天皇7年8月,物部連の祖伊香色雄(いかがしこお)が神に捧げる物をわかつ人となったこと,(2)崇神天皇7年11月,伊香色雄が物部の八十平瓮(やそひらか)を祭神の物とすることを命じられたこと,(3)垂仁天皇26年8月,物部十千根(とちね)大連が,出雲の神宝を検校したこと,(4)垂仁天皇87年2月,十千根大連が石上の神宝を管理することになったこと,などがあり,物部氏がかつて神事とも深くかかわっていたことが察せられる。
物部氏の祖先伝承では,物部氏が大和朝廷の大連(おおむらじ)の職に初めて就いたのは垂仁天皇時代,饒速日命の7世の孫大新河命が大連となり物部連の姓を賜ったときのこととするが,事実は6世紀の初めに,越前出身の継体天皇の擁立にかかわってからであると考えられる。《日本書紀》継体天皇1年2月条によれば,継体天皇即位にさいして大伴金村とともに大連となったのは物部麁鹿火であった。麁鹿火の後をうけて大連に任ぜられた人に,麁鹿火とは系譜的にかなりかけ離れた荒山の子尾輿(おこし)がおり,彼は欽明天皇朝に大連に任じ,大臣(おおおみ)の蘇我稲目とともに朝廷で権力をふるった。やがてこの時代に百済から伝えられた仏教の信仰をめぐって蘇我稲目と対立するようになる。尾輿の子守屋(もりや)は敏達天皇朝に大連になったが,時の大臣蘇我馬子と権勢を争い,仏教の受容に反対して587年(用明2)馬子らに攻められて滅ぼされた。《日本書紀》は物部氏と蘇我氏との対立を仏教受容にからむ問題として伝えているが,実は新興勢力である蘇我氏が,物部氏の本拠である河内国渋川郡の地にまで勢力を伸ばしてきたことによって対立が生じてきたものと考えられる。この対立によって蘇我氏に滅ぼされた物部氏は,以後朝廷政治の中枢から姿を消すが,672年の壬申の乱に物部雄君(おきみ)が天武天皇側の武将として大功をあげたため,この系統の物部氏は命脈を保つことができ,684年(天武13)11月朝臣の姓を賜った。まもなく物部の氏の名を改め,石上朝臣となった。石上氏は《新斤姓氏録》左京神別に〈石上朝臣,神饒速日命之後也〉とみえる。 佐伯 有清
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物部神社
もののべじんじゃ
島根県大田市川合町に鎮座。宇摩志麻遅(うましまじ)命をまつる。宇摩志麻遅命は物部氏の祖とされ,社伝によれば,神武天皇が大和に入ってのち,その詔をうけて播磨,丹波等を経て石見国を平定,この地でなくなり八百山に葬られたが,継体天皇のときその墓前に社殿を造営したのが当社の創建と伝える。神階は869年(貞観11)正五位下,941年(天慶4)従四位上,延喜の制で小社。のち石見国一宮とされ,中世には毛利氏の保護をうけ,近世は朱印領300石。旧国幣小社。例祭10月9日,ほかに奉射(ぶしや)祭(1月7日),小豆御贄祭(1月15日),田面(たのも)祭(9月1日)など特殊神事が多い。社家金子氏は物部氏の子孫で,代々国造と称されてきた。 鎌田 純一
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名無しさん
:2013/07/22(月) 19:47:59
日本書紀を読んで古事記神話を笑う
http://www3.point.ne.jp/~ama/
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名無しさん
:2013/07/22(月) 19:57:46
日本的霊性 神理研究会
ttp://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/index.htm
高校生のためのおもしろ歴史教室
ttp://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/index.html
日本神話を研究してるけど質問ある?
http://galasoku.livedoor.biz/archives/3361722.html
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:00:24
古事記
こじき
奈良初期に編纂された天皇家の神話。上巻は神々の物語,中・下巻は初代とされる神武天皇から推古天皇に至る各代の系譜や,天皇,皇子らを中心とする物語である。
【成立】
これまで《古事記》は史書とされてきたが,全巻ひっくるめて本質的には神話とみなした方がよい。編纂が最初に企てられたのは天武朝(673‐686)である。壬申の乱を経過して聖化された王権の由来を語るためにつくられた天皇家の本縁譚,それが《古事記》である。その点,それは律令国家の正史たろうとした《日本書紀》とはやや異質であるといえる。《古事記》の編纂事情を語るのは序文だけである。それによると,天武天皇が剰田阿礼(ひえだのあれ)に資料となる〈帝紀・旧辞〉を誦習させたが,完成せず,三十数年後,元明天皇の詔をうけて太安麻呂(おおのやすまろ)がこれらを筆録し,712年(和銅5)正月に献上したとある。剰田阿礼は男性であったとする説もあるが,神の誕生を意味するアレという名や《古事記》の内容からして,巫女とみた方がよい。《古事記》には,巫女の霊能が生きていた神話時代への共感がうかがえる。〈誦習〉とは,記録されていた諸伝承を,いったん神話として誦することであったかと思われる。口誦文化である神話を外国文字たる漢字で書きとどめることには,二重の困難があった。苦心の末,安麻呂は漢字の音を用いる音仮名方式と,意味を用いる訓字方式の混用を考えたのである。歌謡を記すには前者を用い,散文を記すには後者を主としながら前者もまじえた変体漢文体を用いて,神話的伝誦形式をできるだけ生かそうとしている。なお,《古事記》の最古の写本は,南北朝時代に成った真福寺本である。
【主題と構成】
神話には,現存の自然や社会のかくある由来を神代にさかのぼって語るという類のものが少なくない。それは現在の社会秩序を正当化し,かつ永遠化しようとする働きをもつ。この神話の機能を利用すべく支配者は競って自家の始祖神話を創出した。たとえ人代の話でもそれが上のような働きをもつなら神話といえる。諸氏族中の一氏にすぎなかった天皇家が,古代日本の支配者となったとき,自己および諸氏族がもち伝えた神話や系譜伝承を,天皇家の立場から整理し直し,その地位を確認させるための神話としてまとめあげたものが,《古事記》なのである。その主題とするところは,大八洲国(おおやしまぐに)や天皇家の始祖の誕生の由来,またその始祖が地上界の支配者となり,さらに大和を中心とする国家を築き上げた由来などである。《古事記》はその主題を展開すべく相互に連関する物語構造をもつ。
164
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:03:52
>>163
[上・中巻] まず上巻は,天地創成に始まり,伊邪那岐(いざなき)・伊邪那美(いざなみ)(伊弉諾尊・伊弉丑尊)2神による国生み神話,皇祖神にして日の神天照大神(あまてらすおおかみ)の誕生,日神の天の岩屋戸(あまのいわやど)がくれ,その弟須佐之男(すさのお)命(素戔嗚尊)の出雲での大蛇退治,スサノオの6世の孫大穴牟遅(おおなむち)(大己貴)の根の国訪問,オオナムチが大国主(おおくにぬし)神として再生し地上界の頭目として天孫に国譲りする国譲り神話,アマテラスの孫番能邇邇芸(ほのににぎ)命(瓊瓊杵尊)の天孫降臨神話,隼人(はやと)服属の由縁を語る海幸・山幸(うみさちやまさち)の話などからなる。中巻は,ニニギノミコトの4代目の孫神武天皇が大和に都を定め,続く各代が支配領域を広げ,英雄倭建(やまとたける)命(日本武尊)の活躍により東西の辺境の蛮族も平定されるという話などを収める。そして,15代天皇とされる応神が,母神功(じんぐう)皇后の胎内にありながら海の彼方の韓国(からくに)まで服属させ国家統一は成ったという話で終わる。
[即位儀礼―大嘗祭等の投射] これらの物語には,構造を枠づける鋳型があった。即位儀礼大嘗(だいじよう)祭あるいはそれと一連の鎮魂祭,八十島(やそしま)祭などである。天の岩屋戸神話と天孫降臨神話が緊密に連関しているのも,鎮魂祭と大嘗祭という一連の儀礼がそれぞれに投射しているからである。即位儀礼は,成年式を君主誕生の儀礼として昇華させたものである。若者が儀礼的な死と復活の過程を経ておとなとして再誕する成年式をなぞって,新君主の誕生もまた死と再生のドラマとして演じられた。ニニギが子宮を模した真床覆衾(まどこおおうのふすま)にくるまれて降臨すること,神武が未開の熊野でほとんど死にかけたところをアマテラスの助けでよみがえること,応神が母の胎内にあったまま征韓することなど,あきらかに死と再生のモチーフをうかがうことができる。儀礼の投射がとりわけ顕著なのは,これらを主人公とする話である。自然のリズムと結びついている儀礼は無時間的であるから,新君主はつねに始源の初代君主として誕生した。即位儀礼を通じて生まれる歴代君主を説話的に典型化したのが,これらの物語の主人公にほかならない。ニニギは神代の,神武は人代の,そして応神は文明時代のそれぞれの初代君主であった。《日本書紀》と異なり,《古事記》に日付のないのも,このことと関連する。
[下巻] 下巻になると,天皇の代替りごとの反乱の話と,歌物語風の天皇の恋愛譚が主となり,儀礼を鋳型とした物語構造は痕跡的となる。さらに25代とされる武烈天皇以下は系譜的記事のみとなっている。大八洲国の支配者としての天皇家の由来は,応神まででほぼ尽くしえたからであろう。また武烈に次ぐ継体朝,《古事記》がそこで終わる推古朝(592‐628)は,大陸文化の流入,官僚国家形成などの歴史における画期にあたっていた。そして,それは神話的精神が衰滅していく過程でもあった。《古事記》の叙述の変化はこのような歴史に照応する。また《古事記》には,歌謡を配した物語も多く,とくに中・下巻にそれが目だつ。歌謡が物語の文学的興趣を高めているといってよい。歌謡の多くは宮廷雅楽寮で伝承保存されてきたもので,天皇家の縁起譚をつくる際に物語にとりこまれたのである(記紀歌謡)。
165
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:04:35
>>164
[氏族系譜の神話] 《日本書紀》に比べて《古事記》は氏族系譜を重視している。《古事記》の神々や皇子たちには,多数の大小氏族が後裔として結びつけられている。古代氏族社会の基盤は,網目状に結ばれた血縁組織であり,支配・被支配の関係も擬制的血縁関係として表現された。皇室系譜を幹とし,そこから枝葉のごとく諸氏族が茂り出ている擬制的一大系譜は,天皇家が支配者になるに至った経緯を物語るもう一つの神話であったといえよう。
【研究史】
作品にはさまざまな読み方がありうる。《古事記》を一貫した主題をもつ神話として読むという志向は,比較的新しいものといってよい。こうした読み方は西欧の社会・文化人類学の方法の適用によって可能になったものである。従来《古事記》は,歴史学,民俗学,神話学等諸分野で研究されてきた。これらに共通するのは,《古事記》を諸説話に解体し,個々の話の原型・核となった歴史的事実や祭儀,外来の神話的モティーフなどを探るという方法である。しかしこれらは《古事記》を資料とした諸研究にはなりえても,必ずしも《古事記》のもつ神話の論理を読みとることにはならない。なお,数ある注釈書の中で,今なお筆頭にあげるべきは,本居宣長の《古事記伝》(1798完成)である。《古事記》を神典視した誤りはあるにせよ,恣意的観念的解釈はしりぞけ,文脈にそって一言一句の意味を究めようとした研究態度や方法は学ぶべきであり,彼の解釈には今なお傾聴すべきものが多い。⇒日本神話 倉塚 曄子
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166
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:05:52
卜部氏
うらべうじ
大化前代の6世紀ごろより宮廷の祭祀に参与して,中臣(なかとみ)氏に率いられ,鹿卜や亀卜の事をつかさどってきた氏族。律令制下の三国の卜部とは,伊豆,壱岐,対馬の卜部をいうが,そのほかに重要な本拠地は常陸にあった。伊豆の卜部の本拠地は,伊豆の大島にあり,壱岐の卜部は壱岐島壱岐郡の月読神社をまつり,対馬の卜部は,下県郡の太祝詞(ふとのりと)神社や,上県郡の能理刀(のりと)神社などを祭祀していた。常陸の卜部は,とくに〈占部〉と名のり,鹿島神社などの祭祀に当たっていたようである。彼らはそれぞれの地域の国造(くにのみやつこ)に統率され,朝廷に貢進されていた。《延喜式》には,卜部の祭神を左京二条にまつられる太詔戸命神(ふとのりとのみことのかみ)と久慈真智命神(くしまちのみことのかみ)としている。奈良時代には,太詔戸命は大和国添上郡に,久慈真智命は大和国十市郡天香山にまつられていた。詔戸は祝詞であり,真智は占いの町形(まちがた)であるから,卜部は,鹿の肩骨や海亀の甲を火で焼き,町形を見て神意をうかがい,神託を人々につげることを職掌としていたことが知られる。卜占の法は,古くは,真男鹿の肩甲骨に穴を開けて,波波梼(ははか)の木の皮を用いて焼くものであったらしい。しかし,しだいに中国より海亀の甲を焼く亀卜の法が伝えられ,後にはもっぱらこの法によった。卜部の本拠地が,ほぼすべて臨海の国であったのもそのためであり,《延喜式》では,土佐国より亀卜のための海亀が貢されていた。
卜部氏の祭神は,雷大臣(いかつおみ)とされるが,これは仲哀天皇・神功皇后に仕え,卜部の祖とされる中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)と同一視されている。とくに重要な点は,この卜部の中から,中臣氏が分立し,しだいに諸国の卜部を統属下に置いていったことである。卜部氏は平安時代に至るまで活躍し,9世紀では壱岐の石田郡の宮主(みやじゆ),外従五位下卜部是雄は伊岐宿衝を賜姓されたが,卜術にひじょうに優れていたのを賞されたためであり,また伊豆の卜部からは,従五位下丹波介卜部平麻呂が出て亀卜の道を高めている。この平麻呂の後は兼延以後,神梢官に務めるかたわら,吉田社務を兼ねるに至り,兼熙の代には吉田と名のることとなった。一方,兼延の次子兼国は平野社の長官となり,以後その子孫が社務をつかさどった。この一族は代々学者を輩出し,鎌倉時代には,兼頼の子兼文が《古事記裏書》,その子兼方(懐賢)が《釈日本紀》を著すなど,歴史書の研究に優れた業績を残していた。なお平安時代の浄土教の恵心僧都源信は,大和国損下郡の占部正親の子と伝えられている。
兼熙の10世兼治の次男兼従は雲上家の卜部萩原姓を名のり,萩原員従の次男従久より錦織家(にしごりけ)が分かれた。また兼国の系統からは後に卜部姓の藤井家が分立した。⇒吉田兼熙(かねひろ) 井上 辰雄
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167
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:07:01
日本書紀
にほんしょき
日本最初の編年体の歴史書。720年(養老4)5月,舎人(とねり)親王らが完成。30巻。添えられた系図1巻は散逸。六国史の第1で,後に〈日本紀〉ともよばれ,《古事記》と併せて〈記紀〉という。
[内容] 巻一と巻二を神代の上と下,巻三を神武紀,以下各巻を1代または数代の天皇ごとにまとめ,巻二十八と巻二十九を天武紀の上(壬申紀とも)と下,巻三十を持統紀とする。文体は漢文による潤色が著しく,漢籍や仏典をほとんど直写した部分もある。記述の体裁は巻三以下を中国の歴史書にならって編年体,すなわち記事を年月日(日は干支で記す)順に排列したために,暦も記録もない古い時代については,物語をその進行に従って分断し適当な年月日に挿入する始末となり,史実としての疑わしさを増し,物語としてのまとまりを失わせた。しかも神武即位を西暦紀元前660年にあたる辛酉の年に設定したので,初期の天皇は不自然な長寿となり,神功(じんぐう)皇后紀でも皇后を《魏志倭人伝》の卑弥呼と考えたので,また120年ほど年代を繰り上げている。
編集に使われた資料は《古事記》のように特定の帝紀(ていき)や旧辞(きゆうじ)だけでなく,それらの異伝も〈一書に曰く〉として注記し,また諸氏や地方の伝承,寺院の縁起,朝鮮や中国の歴史書なども参照している。7世紀初の推古紀のころからはようやく書かれ始めた朝廷の記録も利用し,7世紀後半には個人の日記も加えて,今日から歴史的事実を究明するための資料は豊富となった。ただ大化改新以後も天智紀までは潤色や記録の錯乱があり,ほぼ史実と認められるのは天武紀と持統紀である。なお表記に用いられている漢字や語法は巻ごとに微妙に異なるので,相違に着目して全巻を分類すると,(1)巻一〜二,(2)巻三,(3)巻四〜十三,(4)巻十四〜十六,(5)巻十七〜十九,(6)巻二十〜二十一,(7)巻二十二〜二十三,(8)巻二十四〜二十七,(9)巻二十八〜二十九,(10)巻三十の10区分,あるいは(2)と(3),(4)と(5)を同類とみる8区分などが可能である。したがって全巻は複数の編集者群により分担して整理執筆されたと想定される。
[成立] 編集の由来を述べた序文を欠いているために成立過程は明らかでないが,天武紀(下)の10年3月丙戌(17日)条に,川嶋・忍壁(おさかべ)両皇子以下12人の王臣に帝紀と上古諸事(旧辞)の記定を命じたとあるのが,編集の開始とみられている。その後,持統朝には斤善言司が教訓的な歴史物語を作ろうとし,有力豪族の18氏が墓記を提出して諸氏の伝承を記録化し,元明朝には風土記の提出を命じて地方の伝承を集め,紀清人(きのきよひと)と三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)に国史の編集担当を命じたことなど,みな《日本書紀》の編集に役立ったのであろうが,これは天智紀以前と天武紀以後との内容の懸隔や,天武紀と持統紀との表現の相違からも確かめられ,結局編集の開始から完成までには40年を要したと認められる。しかし最終段階の編集者は舎人親王以外に明らかでない。太安麻呂(おおのやすまろ)が参加したというのは,子孫の多人長(おおのひとなが)の主張に過ぎず,《日本書紀》が8年前の《古事記》を,内容においても表記においても参考にしていないことは明らかである。
[注釈・研究] 朝廷では最初の正史として尊重され,完成後まもなくから平安前期まで7回にわたって講書の会が開かれ(日本紀講筵(こうえん)),その記録は《日本紀私記》,講書後の宴会での和歌は《日本紀竟宴和歌》として残された。鎌倉時代には最初の総合的な注釈書として《釈日本紀》,室町時代には《日本書紀纂疏》が書かれたものの,考証学的な研究は近世に入ってからであり,江戸中期以後《日本書紀通証》《書紀集解》《日本書紀通釈》など,いずれも全巻にわたる注釈書が刊行された。明治以後は津田左右吉らによって徹底的な記紀批判が推進される一方,国民教育の分野では記紀の記述をそのまま信ずることが要請されて敗戦を迎えたが,今日では考古学,神話学,文化人類学など関連分野からの分析も深化している。 青木 和夫
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:08:41
記紀批判
ききひはん
《古事記》《日本書紀》の史料的性格を検証・確定する学問手続。記紀の記載内容がどのあたりから信じられるかという点について,すでに江戸時代の山片蟠桃が〈神功皇后ノ三韓退治ハ妄説多シ。応神ヨリハ確実トスベシ〉〈神武ヨリ千年ホドノ間ハ神代ノ名残(なごり)ニテ,史ニハイカニ載タリトモ,ミナコシラヘゴトナリ〉とみた。また藤(井)貞幹は〈神武天皇の御末は仲哀天皇にて尽させ玉ふ。応神天皇は何くより出させ玉ふや〉と皇統の断絶を述べた。しかし記紀の記載内容を仲哀以前と応神以降とに区別することが,学問的手続によってはっきりと論じられたのは明治以降である。明治期の紀年論においては,応神朝が紀年を比定する際の定点とされ,神功皇后の〈征韓〉物語は4世紀後半のことと位置づけられた。大正期の津田左右吉の記紀批判は,その〈征韓〉物語から統及して〈神武東征〉までの物語に逐一,批判的検討を加え,仲哀以前の物語は神代の物語と同様,皇室が日本を統治する由来を整然と説いた政治的述作と結論づけた。また津田は《古事記》はその序文にいう帝紀(系譜)と旧辞(物語)に二分できるとし,物語があるのは顕宗記までとみて,〈其の時から程遠からぬ後,即ち継体・欽明朝ごろに一と通りはまとめられてゐた〉ものと記紀の成立を見通した。以上の津田説の基本は第2次世界大戦後の研究にひきつがれ,津田の物語批判の上に系譜・帝紀の信憑性が論じられた。応神以降の簡単で実名的な天皇名に対して,津田が荘重で諡号(しごう)的と指摘した仲哀以前の天皇名に多くみられるタラシヒコやヤマトネコは,7〜8世紀のやはりタラシヒコやヤマトネコをもつ天皇諡号の反映とみて,仲哀以前の天皇の実在が否定されている。一方,応神以降の帝紀の内容・系譜は,後世の籍帳などにみえる御名代(みなしろ)(王名をつけた部)の存在や倭の五王の比定などにより,信じられると考えられてきた。近年,津田が帝紀・旧辞の成立期とみなした継体・欽明朝の問題(継体新王朝や継体・欽明朝の内乱)から〈応神5世孫〉とする継体系譜の信憑性,あるいは倭の五王の根本史料である《宋書》に珍と済の2王間に続柄記述がないことから,応神・仁徳系譜全体の信憑性が問われている。⇒王朝交替論 川口 勝康
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津田事件
つだじけん
1940年(昭和15)2月10日,歴史学者津田左右吉の日本神話および上代史に関する4著書,〈《神代史の研究》〉(1924年2月),〈《古事記及日本書紀の研究》〉(1924年9月),〈《日本上代史研究》〉(1930年4月),〈《上代日本の社会及び思想》〉(1932年9月)が発禁処分となり,3月8日津田と発行者岩波茂雄が出版法第26条(皇室ノ尊厳冒済)の疑いで起訴され,42年5月21日有罪判決を受けた事件。事件の発端は,蓑田胸喜を中心として,権力中枢と結びついて国粋主義の宣伝をしていた原理日本社とその機関誌〈《原理日本》〉が津田に加えた攻撃であった。津田の〈《支那思想と日本》〉(1938)が発表されたころから,蓑田らは,ヨーロッパが一つの文化だというのと同じ意味での東洋文化は歴史的に存在しなかったという論旨を,〈東洋抹殺論〉の提唱だとして非難していた。その非難を決定づけたのが,かねて〈天皇機関説の本山〉として彼らに排撃されていた東京帝大法学部に39年10月新設された東洋政治思想史講座の初講義を,南原繁の懇請に応じて講師として担当したことであった。最終講義が終わった12月4日には,計画的に待機していた蓑田を指導者とする右翼学生団体のメンバーが数時間にわたって激しい非難の質問を浴びせるという事件も起きた。
12月中旬以降,津田は早大当局からたびたび辞職勧告を受け,40年1月早大教授を辞任。2月4著の発禁処分,3月起訴,地方裁判所で21回の公判を経て42年5月,判決が下された。4著のうち,〈《古事記及日本書紀の研究》〉のみ4ヵ所において,〈神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムルノ虞アル講説ヲ敢テ〉したとの理由で有罪とされ,著者に禁錮3月,発行者に禁錮2月(ともに2年間の執行猶予)が科せられ,その他の公訴事実はすべて無罪とされた。この判決に対し検事控訴が行われ,被告側も控訴の手続きをとったが,そのまま放置され,44年11月4日,控訴院で〈公訴時効完成ニヨリ免訴〉という結末になった。この事件は記紀に関する画期的な文献批判(記紀批判)による最も卓越した学術的業績に加えられた圧迫であり,天皇制国家の権力統制の核心を示す象徴的事例といえよう。
掛川 トミ子
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:10:53
紀年論
きねんろん
《日本書紀》の紀年および《古事記》の天皇崩年干支にかんする議論。《日本書紀》の紀年についての疑問は江戸時代にも提出されていたが,学問的手続をもってこれを論じたのは明治期の那珂通世(なかみちよ)である。神功紀,応神紀の紀年は両紀に引用された百済史料《百済記》と同じ干支ながら,120年の差があることから,両紀の紀年が120年(干支2運)くりあげられていることを那珂は論証した(今日,この干支2運くりあげの紀年操作は神功皇后を卑弥呼に擬定するためと理解されている)。さらに那珂はいわゆる神武紀元の設定を讖緯(しんい)説の辛酉革命の考えから説明した。那珂は暦法上の周期として1蔀(ほう)を21元=1260年と算出して,推古9年(601)から1260年さかのぼった辛酉年を神武天皇即位の年と設定したと論じた(1蔀を1320年と算出する説もある)。このような神武紀元の設定によって《日本書紀》の各天皇紀年がひきのばされ,天皇の異常な長寿などの不合理がもたらされたとするのが那珂説の概容である。那珂によって批判された《日本書紀》の紀年にかわって注目されたのは《古事記》にみえる天皇の崩年干支である。というのは,この干支をもってする干支紀年は,各天皇の即位年からの年数をもってする《日本書紀》の即位紀年法よりも古いと考えられるからである。したがって那珂説で得られた神功,応神朝の年代を定点に各崩年干支を配分,倭の五王の比定とも勘案して天皇の在位年数を推定するのが,その後の紀年論の主流となった。《古事記》の崩年干支が崇神天皇記から始まることは,崇神天皇を最初の実在した天皇とみる説の論拠となった。また崩年干支は景行,垂仁,安康,清寧,顕宗,仁賢,武烈,欽明,宣化の各天皇記には存在しない。このことから末松保和は崩年干支を各天皇記から切りはなして一連の史料群と考えたが,水野祐は逆に崩年干支の存否をもって天皇の実在・非実在の論拠とし,有名な三王朝交替説を提唱した。以上のように《日本書紀》の紀年よりも古く,また信じられてきた《古事記》崩年干支も,倭の五王の比定年代と必ずしも整合せず,また欽明天皇に崩年干支がないことからなお史料批判を要するものである。⇒王朝交替論‖記紀批判 川口 勝康
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170
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:12:50
那珂通世 1851‐1908(嘉永4‐明治41)
なかみちよ
日本の東洋史学創始者。盛岡に生まれる。もと藤村氏。江棄氏に養われた後,那珂と改氏。1872年(明治5)慶応義塾に入り,28歳で千葉師範学校長,ついで東京女子師範校長,高師教授,一高教授を歴任,1896年より東京文科大学講師。学問領域および教科名の〈東洋史〉は彼の創唱になる。《支那通史》(宋代までの通史。清の翻刻も多い)や《成吉思汗実録》を著し,《元史訳文証補》《崔東壁遺書》を校刊,没後〈外交繹史〉等を含む《那珂通世遺書》が刊行された。神武紀元の誤りを指摘するなどその所論は堅実周到で,斯学の基礎を築くうえで大きな貢献をなした。 池田 温
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:13:37
日本書紀
にほんしょき
日本最初の編年体の歴史書。720年(養老4)5月,舎人(とねり)親王らが完成。30巻。添えられた系図1巻は散逸。六国史の第1で,後に〈日本紀〉ともよばれ,《古事記》と併せて〈記紀〉という。
[内容] 巻一と巻二を神代の上と下,巻三を神武紀,以下各巻を1代または数代の天皇ごとにまとめ,巻二十八と巻二十九を天武紀の上(壬申紀とも)と下,巻三十を持統紀とする。文体は漢文による潤色が著しく,漢籍や仏典をほとんど直写した部分もある。記述の体裁は巻三以下を中国の歴史書にならって編年体,すなわち記事を年月日(日は干支で記す)順に排列したために,暦も記録もない古い時代については,物語をその進行に従って分断し適当な年月日に挿入する始末となり,史実としての疑わしさを増し,物語としてのまとまりを失わせた。しかも神武即位を西暦紀元前660年にあたる辛酉の年に設定したので,初期の天皇は不自然な長寿となり,神功(じんぐう)皇后紀でも皇后を《魏志倭人伝》の卑弥呼と考えたので,また120年ほど年代を繰り上げている。
編集に使われた資料は《古事記》のように特定の帝紀(ていき)や旧辞(きゆうじ)だけでなく,それらの異伝も〈一書に曰く〉として注記し,また諸氏や地方の伝承,寺院の縁起,朝鮮や中国の歴史書なども参照している。7世紀初の推古紀のころからはようやく書かれ始めた朝廷の記録も利用し,7世紀後半には個人の日記も加えて,今日から歴史的事実を究明するための資料は豊富となった。ただ大化改新以後も天智紀までは潤色や記録の錯乱があり,ほぼ史実と認められるのは天武紀と持統紀である。なお表記に用いられている漢字や語法は巻ごとに微妙に異なるので,相違に着目して全巻を分類すると,(1)巻一〜二,(2)巻三,(3)巻四〜十三,(4)巻十四〜十六,(5)巻十七〜十九,(6)巻二十〜二十一,(7)巻二十二〜二十三,(8)巻二十四〜二十七,(9)巻二十八〜二十九,(10)巻三十の10区分,あるいは(2)と(3),(4)と(5)を同類とみる8区分などが可能である。したがって全巻は複数の編集者群により分担して整理執筆されたと想定される。
[成立] 編集の由来を述べた序文を欠いているために成立過程は明らかでないが,天武紀(下)の10年3月丙戌(17日)条に,川嶋・忍壁(おさかべ)両皇子以下12人の王臣に帝紀と上古諸事(旧辞)の記定を命じたとあるのが,編集の開始とみられている。その後,持統朝には斤善言司が教訓的な歴史物語を作ろうとし,有力豪族の18氏が墓記を提出して諸氏の伝承を記録化し,元明朝には風土記の提出を命じて地方の伝承を集め,紀清人(きのきよひと)と三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)に国史の編集担当を命じたことなど,みな《日本書紀》の編集に役立ったのであろうが,これは天智紀以前と天武紀以後との内容の懸隔や,天武紀と持統紀との表現の相違からも確かめられ,結局編集の開始から完成までには40年を要したと認められる。しかし最終段階の編集者は舎人親王以外に明らかでない。太安麻呂(おおのやすまろ)が参加したというのは,子孫の多人長(おおのひとなが)の主張に過ぎず,《日本書紀》が8年前の《古事記》を,内容においても表記においても参考にしていないことは明らかである。
[注釈・研究] 朝廷では最初の正史として尊重され,完成後まもなくから平安前期まで7回にわたって講書の会が開かれ(日本紀講筵(こうえん)),その記録は《日本紀私記》,講書後の宴会での和歌は《日本紀竟宴和歌》として残された。鎌倉時代には最初の総合的な注釈書として《釈日本紀》,室町時代には《日本書紀纂疏》が書かれたものの,考証学的な研究は近世に入ってからであり,江戸中期以後《日本書紀通証》《書紀集解》《日本書紀通釈》など,いずれも全巻にわたる注釈書が刊行された。明治以後は津田左右吉らによって徹底的な記紀批判が推進される一方,国民教育の分野では記紀の記述をそのまま信ずることが要請されて敗戦を迎えたが,今日では考古学,神話学,文化人類学など関連分野からの分析も深化している。 青木 和夫
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:15:15
歴史教育
れきしきょういく
歴史的・社会的存在である人間のもつ,自己の属する集団の系譜や,人類と民族の過去のできごとなどを知ろうとする要求にこたえ,それらを計画的に教えて歴史の流れのなかで自分の立っている位置を自覚し,社会発展の担い手として育っていくのを助ける教育。広義には,未開社会で若者たちに部族の生いたちにまつわる神話を,また家庭で祖父母が子や孫たちに家の系譜を語り聞かせたりすることも歴史教育に含まれる。しかし体系的な歴史教育の開始は,近代国家成立と結びついている。ただしヨーロッパでも18世紀に入ってなお古代史に重点がおかれており,イギリスのオックスフォード,ケンブリッジ両大学で近世史が開講されたのは1724年である。19世紀に入りナショナリズムの高揚とともに欧米諸国で自国史の研究が盛んとなり,それをもとに歴史教育は国民形成の観点から重視されるにいたった。国家の栄光,国民の道義,産業,文化,武力などの優秀性を子ども・青年に教え,国王や政府への忠誠心を持たせ,国家意識の形成をめざした。
[変遷] 日本では江戸時代,藩校において日本史よりも中国史の教授に重点がおかれ,《左氏伝》《史記》《漢書》《十八史略》などが教材として使用された。日本史では《日本外史》《国史略》などが使われたが,それは中国史の半分以下にすぎなかった。これら中国や日本の書物はいずれも古典として尊重されてきたものであり,支配層の子弟には,これらの書物によって過去のできごとの原因結果を知らせる必要があるとされた。これに対し寺子屋ではまとまった歴史教育は行われず,歴史のなかから武勇談や教訓を断片として抜き出して教えるにとどまった。
1872年(明治5)の〈学制〉では上等小学で〈史学大意〉,下等中学で〈史学〉を課すことが規定された。当時は五ヵ条の誓文の精神もあって日本史だけでなく外国史がとりいれられ,それも中国史より先進欧米諸国の歴史が万国史として重視され,視野を世界に広げる努力があった。日本史の皇室関係の記述では,いたずらに美化することなく事実がとりあげられた。しかし,このような歴史教育は81年の〈小学校教則綱領〉によって転換を余儀なくされる。この綱領で内容は日本史に限定され,目的については〈務メテ生徒ヲシテ沿革ノ原因結果ヲ了解セシメ,殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養成センコトヲ要ス〉とされ,〈殊ニ〉以下が重視され,必ずとりあげるべき事項として,建国の体制,神武天皇の即位,仁徳天皇の勤倹,延喜天暦の政績,源平の盛衰,南北朝の両立,徳川氏の治績,王政復古があげられた。起草者の江木千之(かずゆき)によれば綱領原案には神武の東征,保元・平治の役,南北朝の乱,維新の役など戦乱に関する事項が多く,これについて明治天皇が後世子孫が乱を思うおそれがあると指摘し,上述のように訂正されたという。ついで教育勅語発布の翌91年の〈小学校教則大綱〉では〈国体ノ大要ヲ知ラシメテ国民タルノ志操ヲ養フ〉ことが目的とされ,10年前の〈綱領〉にあった〈沿革ノ原因結果ヲ了解セシメ〉ることが削除され,科学的な歴史認識の教育がさらに後退した。内容も,建国の体制,皇統の無窮,歴代天皇の盛業,忠良賢哲の事跡,国民の武勇,文化の由来などがあげられ,大日本帝国憲法と教育勅語の趣旨に沿うように改められた。とりあげる人物の言行については修身科で示した格言などに照らして正邪是非を弁別させることとされた。
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:15:48
>>172
この時期以降の歴史教育の方針を強化するうえで重要な役割を果たした事件が二つある。一つは1892年の久米邦武事件。これは帝国大学教授久米邦武が論文《神道は祭天の古俗》において,神道は豊作を祈り天を祭る古来の習俗で,三種の神器は祭天に用いられたもので神聖視は誤りと論じたため神道界から強い反発を受け,大学の職を免ぜられた事件である。第二は1911年の南北朝正閏問題。小学校歴史科では1904年から国定教科書が使用されており,10年の改訂版にあった南朝・北朝両立という記述に対し,翌11年,万世一系に反するとの非難が起こり,元老山県有朋らの指示により,南朝(吉野朝)を正統とするよう書き改められたという事件であり,以後,人物についても楠木正成・正行父子が忠臣孝子の代表とされるようになった。さらに17‐18年の臨時教育会議では忠良な帝国臣民の育成にとっての小学校歴史教育の重要性が確認され,26年より教科名も〈国史〉と改称された。以後,教科書改訂のたびに皇国史観の色彩が強められ,日本は神国であるとの記述が増え,たとえば元寇のさいに吹いた大風は34年改訂以降,〈神風〉と記されるようになった。
一方,中等学校では日本史のほか,外国史も教授されたが,これについて1894年,那珂通世が東洋史と西洋史に二分することを提案,99年の中学校令にもとづく1902年制定の中学校教授要目により,第3学年で東洋史,第4,5学年で西洋史を扱うこととされ,とくに日本と関係する事項に留意して教授するよう指示された。ついで小学校教科書で南北朝問題の起こった11年に出された文部省訓令で,日本の国体や大義名分を明らかにすることを主とすべしとされ,〈我国体ト背馳スルガ如キ事歴ニ就キテハ彼我国情ノ異ナル所以ヲ明ニシ生徒ヲシテ誤解セザラシメンコトヲ期スベシ〉とされた。これにより,たとえば東洋史では,その大部分を占める中国について,万世一系の天皇をいただく幸福な日本の歴史と対比し,争乱と革命が繰り返される悲惨な歴史の国であると強調された。
[戦後の歴史教育とその問題点] 第2次大戦後,1945年11月には,いち速く歴史学研究会の主催により国史教育再検討座談会が開かれ,戦前・戦中の国史教育への批判と同時に歴史学者,歴史教育者としてのみずからの生き方への反省が行われた。しかし連合国総司令部による歴史教育への批判はきびしく,同年12月31日には修身・地理とともに日本史の授業停止と教科書回収の指令が出された。翌46年9月,神話ではなく石器時代に始まる文部省著作《くにのあゆみ》などの新教科書の刊行により同年10月授業再開は許可されたが,初等教育段階における通史の学習は,翌47年9月の社会科の授業開始とともに行われなくなる。しかし中等教育段階では51年版学習指導要領で示された中学校の日本史,高校の日本史と世界史の内容構成は戦前のそれと異なり,原始社会,古代社会,封建社会,近代社会という時代区分の下に社会発展史的にとらえさせようとする画期的なものであった。そこで重視されたのは〈歴史の発展を科学的・合理的に理解するとともにその時代観念を明確にする能力を養うこと〉であった。さらに日本史と世界史との関係を明らかにしながら,〈日本の社会の発展を常に世界史のもとに理解するとともに日本の特殊性を考え,現在の社会問題を世界史的にはあくする能力を養うこと〉があげられていた。
その後,学習指導要領の改訂のたびごとに,社会科,そのなかでもとくに歴史の扱いの変化が教育界だけでなく広く社会的に問題となった。1950年代末の平和と戦争の扱いの縮小,60年代末の神話の導入,70年代末の諸外国の地理・歴史に関する事項の削減などがそれである。1977‐78年に改訂された小・中・高校の学習指導要領では,歴史教育を含め社会科の目標は〈公民的資質の育成〉で統一された。また教科書の検定でつねに問題が集中するのも歴史教科書であり,家永三郎は自著の高校日本史教科書に対する検定を違憲・違法として1965年,67年さらに84年と,3次にわたり訴訟を提起した(教科書裁判)。1982年には,文部省による歴史教科書検定が近代のアジア史,とくに日本によるアジア諸国への侵略の歴史を歪曲しているとして,中国,韓国などアジア諸国から批判を受け,日本の歴史教育と歴史教科書検定とは国際的に注目の的となった。歴史教科書における歴史の歪曲の問題は日本だけにあるのではないが,文部省検定という方式による政府の歴史教育への介入は,国際的にみて際だっている。
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:17:32
>>173
歴史教育の課題は,次の世代に,人類と民族の歴史を主体的に学ばせることによって科学的歴史観を獲得させ,さらに現実の課題と積極的にとりくむ能力と意欲を養うところにある。そのために子どもの歴史意識・歴史認識の発達を考慮して教育内容を編成し,指導方法に創意工夫をこらす必要がある。たとえば小学校低学年では祖父母の幼少年期と原始古代とを混同するなど時間認識が育っていないので通史の教授は意味がない。また小・中・高校でしだいに詳しくなる通史の教授を繰り返すより,小・中・高校一貫した歴史の教育課程を編成する必要がある。小学校高学年には原始・古代・中世を多くの挿話をまじえながら時間をかけて教え,中学校では3年間に近世・近代から現代までを教えるという方式もあっていい。さらに歴史の転換期については,他教科や科外の読物,映画,テレビ番組などで得た知識も活用しながら総合学習の方式でとりあげることも有意義である。 臼井 嘉一+山住 正己
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:19:00
皇国史観
こうこくしかん
近代日本史学史上の一潮流。日本の歴史を〈国体〉の顕現・発展としてとらえる歴史観で,1930年代半ばから敗戦に至る時期に確立,全盛期をもつ。この史観は次の三つの内容をその特徴としている。(1)日本は神国であり,皇祖天照大神の神勅(〈天壌無窮の神勅〉)を奉じ,〈三種の神器〉を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする,天皇の神性とその統治の正当性,永遠性の主張。(2)日本国民は臣民として,古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え,国運の発展に努めてきた,とする主張。(3)こうした国柄(〈国体〉)の精華は,日本だけにとどめておくのではなく,全世界にあまねく及ぼされなければならない(〈八紘一宇〉),という主張である。
こうした歴史観は,《古事記》や《日本書紀》,あるいは《神皇正統記》や《大日本史》等にその淵源を求めるものであるが,そもそも,明治維新以降の日本における近代史学の形成は,こうした大義名分論的な歴史観からの独立,それとの対決を通じてなされていった。田口卯吉らの文明(啓蒙)史学や東京(帝国)大学の国史学科を中心とするアカデミズム(実証主義)史学,さらには山路愛山らの史論史学といったものがそれであり,こうして近代的な学問,科学としての歴史学の基礎がつくられつつあった。しかし日清・日露戦争を契機とする国体論やナショナリズムの高揚を背景とした久米邦武の事件や南北朝正閏(せいじゆん)問題を通じて,こうした歩みも挫折を余儀なくされた。もっとも皇国史観といわれるものは,この時期以降もなお未確立で,学問・研究の分野では主流ではなく,1920年代にかけて津田史学や柳田民俗学,さらには文化史学といった自由主義史学や唯物史観にもとづく史学が大きな力をもっていた。一方,〈教育勅語〉(1890)や〈軍人勅諭〉(1882)に見られるように,学校教育や軍人教育,さらには在郷軍人会や青年団等における社会教育の分野では,国体思想にもとづくイデオロギー教育が強化され,しだいにその影響力を強めていった。日中戦争が泥沼化し,太平洋戦争に突入する30年代の半ば(昭和10年代)になると,政府は国民を戦争に総動員するために,共産主義思想はおろか民主主義・自由主義思想の一掃をもはかった。相次いだ共産主義者の弾圧や天皇機関説問題,津田左右吉事件はそれらのあらわれであった。平泉澄(きよし)に代表される皇国史観が国家権力・軍部の庇護を受けて,学問・研究の分野においても独占的地位を占めたのはこの時期であり,文部省発行の《国体の本義》や《臣民の道》は,この極点に達した皇国史観の結晶であった。こうしてこの史観は大東亜共栄圏の建設の名の下に,国民を大規模な侵略戦争に駆り立てるうえで大きな役割を果たした。
第2次大戦後,国教分離指令や〈天皇人間宣言〉,さらには〈教育勅語〉の失効により,その生命は絶たれたかにみえた。しかし1950年以降のいわゆる〈逆コース〉のなかで,紀元節の復活(建国記念の日の制定)や靖国神社法案,元号法の制定や教育勅語の復活運動,また天皇への敬愛や尊厳性の強調,国民の主権者意識や権利意識への批判的姿勢を特徴とする中教審の〈期待される人間像〉や文部省の教科書検定などの動向にその影が見受けられる。 中島 三千男
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名無しさん
:2013/07/22(月) 20:56:40
蓑田胸喜 1894‐1946(明治27‐昭和21)
みのだむねき
狂信的国家主義者。熊本県出身。東京帝大文学部卒業後,同法学部に入学したが中退。在学中,上杉慎吉の影響をうける。1922‐32年,慶応義塾大学予科で論理学を担任。1925年,三井甲之とともに原理日本社を結成し,神がかり的な〈日本主義〉の立場から,マルクス主義,自由主義を激しく非難。滝川事件の原因をつくったほか,陸軍からも資金を得,末弘厳太郎,美濃部達吉を攻撃,天皇機関説事件に大きな役割を果たす。38年以後,帝大粛正運動に関与。矢内原忠雄,宮沢俊義,河合栄治郎,津田左右吉らを次々にやり玉にあげ,学問・言論の抑圧,ファッショ化への民間での〈思想検事〉の役を務め,〈学匪〉とも称せられた。46年1月自殺。 須崎 慎一
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天皇機関説
てんのうきかんせつ
大日本帝国憲法(明治憲法)の解釈をめぐる一学説。美濃部達吉によって代表される。この学説の特色は,〈統治権は天皇に最高の源を発する〉という形で天皇主権の原則を認めるが,しかし同時に天皇の権力を絶対無限のものとみることに反対する点にある。すなわち統治権は天皇個人の私利のためではなく,国家の利益のために行使されるのであるから,国家はその利益をうけとることのできる法人格をもつもの,したがって統治権の主体であり,天皇は法人としての国家を代表し,憲法の条規に従って統治の権能を行使する最高〈機関〉であると規定する。そして,このような理論的基礎のうえに立つ解釈によって,大日本帝国憲法からできうる限り多くの立憲主義的運用の可能性を引き出そうとした。それは内閣と議会の地位を強化しようとする方向をもち,第1には,天皇の国務上の大権は大臣の輔弼(ほひつ)=進言なしに行使することは憲法上不可能,とする原則を立てようとした。そしてそこから,国務上の詔勅批判の自由,統帥権の独立撤廃の可能性などが論ぜられた。第2には,帝国議会は天皇から権能を与えられたものではないとし,直接憲法に根拠をもつ国民の代表機関であり,天皇に対して独立の地位をもつとの解釈を打ち出した。そして,議会の参与しうべき政務の範囲を国務大臣の職務に属する国家事務の範囲と同一とすることは可能だと論じた。この学説は,大正期を通じて学界に定着したが,満州事変以後のファッショ的風潮の高まりとともに右翼勢力からの攻撃にさらされ,1935年の国体明徴運動の結果,機関説とみられた学者は,憲法学担当の地位をおわれた。⇒国体明徴問題
古屋 哲夫
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名無しさん
:2013/07/22(月) 21:00:07
原理日本社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE
蓑田胸喜
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C
津田事件
つだじけん
1940年(昭和15)2月10日,歴史学者津田左右吉の日本神話および上代史に関する4著書,〈《神代史の研究》〉(1924年2月),〈《古事記及日本書紀の研究》〉(1924年9月),〈《日本上代史研究》〉(1930年4月),〈《上代日本の社会及び思想》〉(1932年9月)が発禁処分となり,3月8日津田と発行者岩波茂雄が出版法第26条(皇室ノ尊厳冒済)の疑いで起訴され,42年5月21日有罪判決を受けた事件。事件の発端は,蓑田胸喜を中心として,権力中枢と結びついて国粋主義の宣伝をしていた原理日本社とその機関誌〈《原理日本》〉が津田に加えた攻撃であった。津田の〈《支那思想と日本》〉(1938)が発表されたころから,蓑田らは,ヨーロッパが一つの文化だというのと同じ意味での東洋文化は歴史的に存在しなかったという論旨を,〈東洋抹殺論〉の提唱だとして非難していた。その非難を決定づけたのが,かねて〈天皇機関説の本山〉として彼らに排撃されていた東京帝大法学部に39年10月新設された東洋政治思想史講座の初講義を,南原繁の懇請に応じて講師として担当したことであった。最終講義が終わった12月4日には,計画的に待機していた蓑田を指導者とする右翼学生団体のメンバーが数時間にわたって激しい非難の質問を浴びせるという事件も起きた。
12月中旬以降,津田は早大当局からたびたび辞職勧告を受け,40年1月早大教授を辞任。2月4著の発禁処分,3月起訴,地方裁判所で21回の公判を経て42年5月,判決が下された。4著のうち,〈《古事記及日本書紀の研究》〉のみ4ヵ所において,〈神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムルノ虞アル講説ヲ敢テ〉したとの理由で有罪とされ,著者に禁錮3月,発行者に禁錮2月(ともに2年間の執行猶予)が科せられ,その他の公訴事実はすべて無罪とされた。この判決に対し検事控訴が行われ,被告側も控訴の手続きをとったが,そのまま放置され,44年11月4日,控訴院で〈公訴時効完成ニヨリ免訴〉という結末になった。この事件は記紀に関する画期的な文献批判(記紀批判)による最も卓越した学術的業績に加えられた圧迫であり,天皇制国家の権力統制の核心を示す象徴的事例といえよう。
掛川 トミ子
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滝川事件
たきかわじけん
1933年京都帝国大学教授滝川幸辰(ゆきとき)と京都帝国大学に対する思想および学問の自由,大学の自治(教授会の自治)の弾圧事件。京大事件ともいう。1930年代初めの思想問題(大学生の〈赤化〉問題)に危機感を抱いた復古主義的右翼は,その原因が自由主義思想にあるとして,東大の美濃部達吉,牧野英一,末弘厳太郎や京大の滝川ら自由主義的法学者を非難していたが,32年に滝川が中央大学で行った講演(〈《トルストイの《復活》に現はれた刑罰思想〉)をとらえ攻撃を開始した。議会では貴族院の菊池武夫と衆議院の宮沢裕が滝川の著書《刑法読本》を危険思想であると攻撃した。内務省はこれをうけいれて,33年4月11日滝川の《刑法読本》(1926),《刑法講義》(1932)の2著を発売禁止とした。ついで鳩山一郎文相や文部省は小西重直京大総長に滝川教授の辞職または休職を要求した。これが拒否されると政府は5月26日滝川の休職処分を発令した。これに対し法学部の全教官が辞表を提出し,学生は学生大会を開いて抗議した。全国の知識人,学生も大学自由擁護連盟をつくるなど支援したが,運動は十分広がらなかった。文部省は京大法学部教授会を分断するため,滝川,佐々木惣一,宮本英雄,末川博,森口繁治,宮本英脩の6教授のみを免官とした(宮本英脩は復帰)。この処分に抗議して恒藤恭,田村徳治両教授と助教授4名,講師・助手・副手8名は辞意を貫ぬき,法学部スタッフの3分の2が失われた。こうして抗議の姿勢を崩さなかった大学人は学問の自由,大学の自治擁護の輝かしい伝統をつくりあげた。他の教授は文部省の説得をうけいれて辞表を撤回した。その後学内の学生組織が解散を命じられるなど自主的な運動が抑圧された。この事件は,思想弾圧が社会主義思想抑圧から自由主義思想抑圧まで一気に拡大される出発点となった。また政府が勝利したことによって,学問の自由,大学の自治は失われた。以後自由主義思想や学問の自由,大学の自治に対する攻撃は強まり,35年の天皇機関説事件,37年の矢内原事件,39年の河合事件などを生むことになる。 吉見 義明
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178
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名無しさん
:2013/07/22(月) 21:05:35
国体思想
こくたいしそう
天皇統治の正当性または日本国の優秀性を唱える思想をいう。〈国体〉の語は,政治学・法律学上その概念を使用する場合には主権の帰属いかんによって国家を区別する場合に用いられ,通常,君主国体と共和国体に区別される。しかし日本では特殊に,万世一系の天皇によって統治される優秀な国柄を表す概念として用いられ,(1)永久不滅の天皇主権を指す場合,(2)君臣の特別の情誼関係を指す場合,(3)国風文化全般を指す場合等,きわめて多義的な内容の概念として使用された。
[江戸時代] すでに北畠親房の《神皇正統記》等に神国思想に基づく皇国論が存在したが,江戸時代に儒学が正統学になるとその中華中心主義への反発として儒学者内部から,日本こそ放伐のない,すなわち天壌無窮の神勅以来君臣の道の定まっていたすぐれた国柄であるとして,日本をたたえる思想が生まれた。次いで国学の発生により古代日本そのものを賛美する思想が生まれ,古代中国の聖人の道を賛美する徂徠学等と論争が生じた。後期から幕末にかけては,儒教的道徳とくに君臣の大義が神代から行われていたとして日本の国体をたたえる後期水戸学と,より排他的な日本中心主義を唱える平田篤胤の平田国学とが,国体思想の二大潮流となった。幕末の欧米列強による開国の強要は尊王論と攘夷論の結合を生み,国体思想はいっそう排外主義的ナショナリズムの様相を濃くした。
[明治期] 明治維新により朝廷に政権が帰し,かつ人民を直接維新政権が掌握せざるをえなかったため,国体論は天皇統治の正当性を人民に論証するためにその全エネルギーを集中した。そのため復古国学者らにより,天照大神の最高神化とそれが下したとされる神勅による正当性論が主流を占めた。また政府も1873年に新聞紙発行条目を定め,国体誹謗(ひぼう)の禁止を定めた。しかし明治10年代までは近代西欧思想の流入もあり,自由民権思想のなかにみられた契約国家論,国約憲法論や,イギリス君主制の〈君臨すれども統治せず〉を是とする福沢諭吉の《帝室論》(1883)等,さまざまな見解が存在した。明治憲法制定過程においては立憲政治への移行が国体の変更であるか否かが政府内で議論されたが,最終的には立憲政治への移行は政体の変更で国体の変更ではありえないことに決着し,伊藤博文の公認の憲法解釈書《憲法義解》にそのことが示された。そして明治憲法によって国体の基礎的原理が示され,教育勅語によってその解釈基準が示されたものとされた。しかしそこでは天皇統治の正統性が万世一系ということにあることと,若干の徳目が国体の精華として示されたにとどまったので,なぜ日本の国体が万邦無比であるのかをめぐってさまざまな見解が生じた。日清・日露戦間期には帝国主義ナショナリズムの台頭に伴って,天皇を族父とする特有の民族的結合関係から国体の優秀性を説く高山樗牛,加藤弘之らの族父統治国体論が流行し,日露戦争以降は皇室を宗家とする家族国家論的国体論が一般化していった。1911年,小学校の国定教科書の南北朝記述をめぐって南北朝正閏問題が起こったが,北朝系の明治天皇の勅裁により君臣の大義から南朝正統が決定した。
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:
名無しさん
:2013/07/22(月) 21:06:15
>>178
[大正デモクラシー期] まず美濃部達吉の天皇機関説を上杉慎吉が天皇親政論から批判したのに対し,美濃部は国体は文化的概念であるとして法学的世界からそれを除き,吉野作造も日本国体の優秀性は特別の君臣情誼関係という民族精神の問題であるとして政治学の対象から除外し,デモクラシーと国体は矛盾しないとした。大正期には公認のイデオローグ井上哲次郎ですら《我国体と世界の趨勢》で,君主主義と民主主義の調和にこそ国体の安全があると説いた。このため,国体=あるべき国家,政体=現にある国家の意識を生じ,国体論に依拠して体制批判を行う者が労働運動内部にも現れた。しかし,1920年代には社会主義思想の流行もあり,国体の変革行動を罰する治安維持法を生み出したが,国体論に依拠しての権利主張は減少し国体論議も沈静した。
[昭和戦前期] 1931年の満州事変勃発以降,右翼思想の台頭にともなって国体論も活発化し,一方では国家社会主義者による一君万民論に基づく天皇制社会主義思想を生み出し,他方では公認の憲法学説であった天皇機関説を排撃した国体明徴問題が起こった(1935)。政府は国体明徴声明を出し,37年には文部省が《国体の本義》を配布した。そこでは〈大日本国体〉の冠絶性を,天地開闢神話,天照大神の聖徳,天壌無窮の神勅,三種の神器の神聖性から説き起こしてあり,神秘的な国体論がふたたび強まった。戦争の進行とともにこうした傾向は強められ,神国論や惟神(かんながら)の大道が強調され,〈やまとばたらき〉とか〈みそぎ〉が集団で実践されたりしたが,敗戦と天皇の人間宣言によりこれらの国体思想は否定された。⇒天皇制 鈴木 正幸
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国体の本義
こくたいのほんぎ
文部省が,日本の国体に関する正統的解釈書として1937年(昭和12)に初版刊行した冊子。1935年天皇機関説問題を契機に政府の〈国体明徴〉声明に沿って,文部省が独自に国体論の教材として編纂に着手したものである。文部省は,国体観念に基づく教育・学問の改編方策を検討するために35年11月,文部大臣の諮問機関として〈教学刷新評議会〉を設置したが,その答申(1936年10月)を待たずに,思想局長伊東延吉の主導のもと,思想課長小川義章,国民精神文化研究所員志田延義等を中心として省内外の委員を加えた編纂委員会が組織され,35年中に編纂を開始した。原稿起草は東京帝国大学助教授久松潜一の担当とされたが,実際には久松の指導を受けた志田が原案を執筆し,小川・伊東がそれに修訂を加えてまとめられたという。
本文は A5判全156ページである。当時の思想的危機を指摘し,国体思想の堅持を強調する〈緒言〉に続いて,国体論の原理的側面を解説する〈第一 大日本国体〉,歴史に即して国体思想の具体的実現過程を説明する〈第二 国史に於ける国体の顕現〉の2部から成る本論部分,および外来思想と日本思想との関連と差異を述べ国体思想による社会主義・共産主義・個人主義・民主主義などの排撃を論じた〈結語〉とから構成されている。刊行は公式には37年5月とされるが,それは予算執行上の建て前で,実際には37年の秋以降に刊行・配布された。配布の対象は全国の中等教育段階以上の学校の学生・生徒と教員,小学校の教員,および社会教化団体の構成員などであり,とくに中等学校・師範学校などでは公民教育の重要な教材として扱われた。敗戦直前の44年ころまでおおよそ300万部程度が刊行・配布されたとされる。敗戦後,極端な国家主義の宣伝手段の最たるものとして,GHQ により廃棄が命ぜられた。⇒教学刷新 佐藤 秀夫
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名無しさん
:2013/07/22(月) 21:07:34
国体明徴問題
こくたいめいちょうもんだい
幕末以来,記紀神話を基礎としながら,日本国の特色は万世一系の天皇をいただく神国である点にあると主張する国体論が起こってきたが,それをうけた明治以後の国体論は二つの方向で展開された。第1は,1890年の教育勅語が,忠孝の道を〈国体の精華〉としたように,天皇崇拝を国民道徳の根幹にすえようとする方向であり,第2は,国体を統治権の所在によって分類し,大日本帝国憲法は天皇を絶対とし統治の全権が天皇にあると規定している,という憲法解釈を軸とするものであった。こうした形で明治期に形成された国体論は,第1次大戦後から新たな展開を始める。すなわち,この国体論の第2の方向は共産主義運動を弾圧するための治安維持法(1925)のなかに,〈国体の変革〉という新たな罪を登場させているが,これに対して第1の方向は,社会秩序の混乱を国体意識の強化によって克服しようという動きを始めた。1923年の〈国民精神作興詔書〉をうけて開始された全国的教化運動は,すでに最初から,〈国体観念を明徴にする〉というスローガンを掲げていた。こうした二つの方向は,満州事変以後の戦時体制化の過程で,合体しながら攻撃的性格を強め,35年には,憲法解釈としての天皇機関説排撃を突破口として,個人主義,自由主義をも反国体的なものとして否定しようとする国体明徴運動をひき起こすこととなった。まず35年2月の第67議会で貴族院の菊池武夫が美濃部達吉(当時東京帝大教授,貴族院議員)の学説をとりあげ,統治権の主体を国家とし,天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は,天皇の絶対性を否定し,天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものだ,として攻撃を開始,これに呼応して院外でも軍部の支持のもとに在郷軍人会や右翼団体などの運動が全国的に展開されることとなった。岡田啓介内閣もこれに屈して,4月9日には《憲法撮要》など美濃部の3著書を発売禁止処分とし,さらに8月3日には第1次,10月15日には第2次の国体明徴声明を発して,天皇機関説を国体に反するものと断定,この学説の排除を決定した。国体明徴運動はこれによって終息したが,政府はさらに11月,文相を会長とする教学刷新評議会を設置,その答申に基づいて,37年5月,文部省は《国体の本義》を刊行した。同書は自由主義,民主主義の基礎としての個人主義を排撃し,日本は皇室を宗家とする〈一大家族国家〉であるとして,天皇に〈絶対随順〉〈没我帰一〉すること,おのおのの分を守りながら和を実現していくことが,日本国民のあるべき姿だと説いているが,〈国体明徴〉とは結局,このようなイデオロギーを国民に強制していくことにほかならなかった。 古屋 哲夫
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名無しさん
:2013/07/22(月) 22:41:25
天皇制
てんのうせい
昭和初期の国家論争の中でマルクス主義用語として登場し,社会科学用語として定着した日本独特の君主制を指す用語。狭義には明治維新から第2次大戦での敗戦までの近代天皇制を指すが,広義には古代天皇制,戦後の象徴天皇制なども含まれる。また,天皇制は単に国家権力概念としてだけでなく,イデオロギー,社会秩序,精神構造を含む概念として使用されることがある。ここでは近代天皇制について述べる。
【明治期の天皇制】
[政治機構・機能] 幕末の欧米列強の圧力による開港後,日本は資本主義化と中央集権的国民国家の形成が課題となったが,それを担う市民階級の形成が不十分だったため,武士階級内部の改革派によって維新の政治変革が行われた。このため,近代的価値観に基づく民主国家が建設されず,半宗教的伝統的権威に依存した専制的国家が樹立された。その際,旧幕藩権力から遠くかつ権威ある存在だった朝廷が政治統合の中心となるのに最も適していたので,維新国家は王政復古という形で成立した。そこでは天皇親政をたてまえとし,律令時代に擬した太政官(だじようかん)制が採用され,太政官に立法,司法,行政,軍事の権が集中する専制体制であった。しかし,近代化は至上命題であったから,復古形式とはうらはらに廃藩置県,身分制改革,地租改正,学制,徴兵制,殖産興業が行われた。その遂行主体は大久保利通,木戸孝允,西郷隆盛ら醍摩,長州などの藩閥官僚であった。これは自由民権派に有司擅制(せんせい)と呼ばれ,批判の対象となり,彼らの要求である憲法制定,国会開設を受け入れざるを得なくなり,内閣制度の採用(1885),大日本帝国憲法制定(1889),国会開設(1890)により,君主主義と議会制の矛盾的結合である特殊な立憲君主制国家(外見的立憲制)に移行した。そこでは太政官制と異なり,唯一の統治権者である天皇の下に,立法,司法,行政,軍事の機関が分立する形をとったため,制度上では国家意思の形成決定は天皇が親政しないかぎり,多元的にならざるを得なかった。明治期にはこの多元性を一元化するものは,維新の元勲である伊藤博文,山県有朋ら元老と呼ばれた憲法に規定のない政治集団であった。日清戦争までは彼らによる議会を無視した政権独占が行われ(超然主義),衆議院の民党と対立した。しかし,軍備拡張のために膨張する予算を実現するには政党と妥協する必要があり,他方,政党もその基盤である地主・資本家が政府の積極政策を支持するにつれ妥協的となり,日清戦争後に両者は歩み寄り,伊藤博文を総裁とする政友会が結成(1900)されるにいたった。他方,非妥協的部分は山県有朋を頂点とする官僚閥を形成した。
[皇室財産と華族] 憲法制定と並んで天皇の権威を確立するために行われたのが,その経済的基礎である皇室財産の設定と社会的藩潅(はんぺい)としての華族の創出であった。皇室御料(不動産)は,1872年(明治5)には約1000町歩であったが,82年岩倉具視の意見書により,民党に対抗して皇室の自律性を高めるため,御料局を設置(1885)して皇室財産の拡張が行われ,90年の国会開設時には約365万町歩にもなった。それは約1万町歩の耕地と山林原野からなり,皇室は日本最大の土地所有者であった。また1884年以来株式も所有し,99年には約23万株を持ち,日本銀行,日本郵船などの筆頭株主でもあった。ちなみに1945年には皇室財産は約16億円という巨大なものであった。この中から,米騒動など社会不安が高まったとき,下賜金として配布されるなど慈恵政策的にも使われた。華族制度は版籍奉還時に,旧大名・公家を華族としたことから始まったが,1884年の華族令により旧華族に維新の功労者を加えて,国会開設後に予測された民党―衆議に対抗する機関―貴族院を構成するものとして再創出された。華族は特権身分であったが,ヨーロッパの貴族のように時として国王に対立するということはなく,天皇に強く従属した存在であった。天皇制が華族を必要としていたのは,単に貴族院構成者としてだけでなく天皇統治の正当性が,万世一系の至高の血統を継承したことによって証明されるものであったため,その血統の貴種性を再生産するために,皇族と婚姻しうる特殊な貴種身分を必要としたからでもあった。
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名無しさん
:2013/07/22(月) 22:41:58
>>181
[天皇制イデオロギーと国家秩序] 天皇制の成立過程にみられた特質は,国家イデオロギーと国家秩序のあり方をも規定した。天皇という伝統的権威づけは神道教義に基づいて行われたため,天皇統治の正当性を論証するイデオロギー=国体論も著しく神秘性を強めた。それは,皇室の祖先神である天照大神を最高神化したうえで,その下したとされる天壌無窮の神勅を受けた皇祖以来,万世一系,日本の統治権を天皇家が継承してきたことにその正当性論拠が求められたからである。このため神道は事実上国家宗教たらざるを得なかった。そこで天皇は統治権者という政治的存在であるだけでなく,皇祖神を祭る最高聖職者であり,みずからも神の後裔(こうえい)として現人神(あらひとがみ)となったのである(祭政一致)。これが国家イデオロギーとして機能しえたのは,1901年に小学校就学率が80%にも達したということからもうかがい知れる教育の普及と,そこでの徹底した尊皇愛国教育の注入によるものであった。しかし他方では,当時の日本社会は家制度と家意識が濃厚であり,家格の良さ古さはそれ自体として価値をもつと考えられていたことによるものでもあった。こうした家父長制的秩序意識の残存と,国民の大部分が長期間単一民族であったことを反映して,明治末期には,皇室=国民の宗家,天皇=国民の父,国民=天皇の赤子という家族国家観が成立した(家族制度)。そこでは君への忠と親への孝が一致するという日本道徳論が展開された。そのため家父長に対し家族が無権利であるように,国民は天皇に対して権利主体として立ち現れることはできなかった。また国家を一大家族としたため,国家秩序と社会秩序,すなわち法的関係と道徳的関係の区別が明確でなく,国家が道徳律(教育勅語)を与えたのみならず,個人の内面にまで介入することがあった。しかし,資本主義の発展に伴う家父長制的秩序の解体傾向と,近代化による合理的思惟の発展は,国体論や家族国家観における神秘的非合理的説明の有効性を稀薄化していくことになった。そこで維新以来の国民的課題であった対外的国家自立を望む国民のナショナルな意識を国家の側に吸収するため,対外的危機の造出がくりかえされた。日清戦争の勝利により,台湾と償金という対外侵略の利益と,欧米への民族的コンプレクスの一定の解消が国家によってもたらされたとき,国民的栄光を担うものとしての国家と天皇の権威は国民の中に確立し,天皇制はナショナリズムを独占することができた。
【大正期の天皇制】
大正・昭和戦前期においても,明治期に確立した国家機構=帝国憲法体制と国家イデオロギーの大枠そのものは変化しなかったが,時代の変化に応じた新しい諸相が現れた。
[政治機構・機能] 日清戦争後にその政治的比重を高めた政党は,日露戦争後になると官僚閥と交替で政権をとるようになり(桂園内閣),1918年の米騒動後の原敬内閣を経て,24年の護憲三派内閣以降政党内閣期に入った。これは一方における国民の政治意識の向上と,他方における政友会を中心とした地方利益誘導策などにより,国民に基礎をもたない官僚閥(藩閥官僚)が統合能力を弱め,代わって政党が分立する統治機関を統合する勢力として台頭したからであった。しかし,帝国憲法体制の枠内では完全な議会主義を確立することはできず,また,軍部,官僚はなお独立性をもっていたことから,政党は彼らと癒着して政権についたのであった。しかもなお元老(西園寺公望)が内閣首班の奏請を行うというシステムに変りはなかった。
[大正期の皇室と国体] 明治天皇の死により,天皇の人格的権威に依拠しての君主制の維持は困難となり,不敬罪事件も増大した。このため一方では皇室尊崇を儀式化,制度化するとともに,他方では〈国民の天皇〉化,すなわちイギリス型君主制への一定の傾斜を示した。昭和天皇(当時の摂政宮)のイギリス訪問とその報道のあり方はそれを端的に示していた。この傾向は井上哲次郎のように国体と民本主義を結合させた新国体論をも生み出した。しかし,大正後期には共産主義運動も起こり,天皇制の否定が叫ばれるようになると,治安維持法を制定し,国体変革運動を抑圧するようになった。
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名無しさん
:2013/07/22(月) 22:42:34
>>182
[天皇機関説] 大正デモクラシーの進展と政党内閣の成立は,美濃部達吉らによる帝国憲法の自由主義的解釈である天皇機関説を広めさせることになった。美濃部は,国家を国民によって構成される団体と考え,その団体自身が統治権の主体であり,君主はその統治権の最高行使機能をもつ機関であるとした。また,天皇は憲法上政治的責任を負わないのであるから,天皇を補佐する国務大臣が政治のすべての責任を負うこととなり,それゆえ天皇の政治的行為はすべて国務大臣の補佐なくしては行い得ないとした。さらに軍の統帥権も国務大臣の補佐によることも解釈上可能であり,大臣は議会に責任を負うべきだとした。美濃部説は,軍部,官僚らの天皇の名による恣意(しい)的政治を抑え,政党政治,議会主義を促進するものであり,天皇制をイギリス型立憲君主制に近づける法理論であった。
[大正期のナショナリズム] 第1次大戦後,国際連盟の設立に表れたように国際協調体制が出現した。日本も対米協調外交を基本としたので排外主義的ナショナリズムは減価し,吉野作造にみられるような国際協調こそ真の国益であるとするナショナリズムも現れた。しかしそれは少数であり,また社会主義者は,天皇制とナショナリズムを切り離して考えずに同時に否定したため,天皇制とナショナリズムは依然結合されたままであった。
【昭和戦前期の天皇制】
[政治機構・機能] 金融恐慌,昭和恐慌によって財政経済の危機が激化し,また政友会,民政党が政権をめぐって泥仕合を続けたため,国民の政党離れが進んだ。さらに中国の民族解放運動が進展し満蒙の危機が叫ばれるようになると,軍部は満州事変(1931)を起こし,五・一五事件(1932)を機に政党内閣に終止符を打った。以後しだいに軍部が政治的主導権を握り,また新官僚,革新官僚と呼ばれた官僚群が軍部と結んで内政をリードした。日中戦争(1937)の開始後,国家総動員法が制定されて戦時統制が強化され,1940年政党解散=大政翼賛会の成立,41年の東条英機内閣の成立によって軍部独裁が確立した。しかし,この過程は同時に天皇の政治的価値の上昇をもたらしたので,天皇の政治的意思に最も影響を与えうる内大臣や元首相ら宮廷重臣グループの役割もまた重要になった。彼らは軍部の暴走を抑えようと試み,敗戦必至の情勢にいたると東条内閣を打倒し,天皇制護持のためポツダム宣言受諾に傾き,天皇の決断に影響を及ぼした。日本の軍部独裁は,宮廷重臣グループという異質の政治勢力を排除し得なかったところにナチス独裁体制と異なる側面をもった。
[ナショナリズムと国体論の浮上] 世界恐慌,満州事変,ヒトラー政権の誕生(1933)等は国際協調体制を終了させ,それとともに満州事変勃発時の国民的な排外主義勢力にみられる侵略主義的ナショナリズムを浮上させた。また,政党内閣の崩壊は議会制による国民統合とそのイデオロギーに替わる統合方式とシンボルを必要としたので,超越的価値としての天皇・国体が再び浮上した。しかも昭和初年以来の左翼運動の弾圧によって,社会運動は天皇制のたてまえである一君万民主義に依拠して展開せざるを得なくなったため,いっそう,天皇・国体の価値が上昇した。このため自由主義的な天皇機関説は排撃され,神秘的な国体論が支配的となり,天皇の絶対的神格化が進み,神州不滅が叫ばれるようになった。しかし,戦局の悪化と生活の困窮は,こうしたイデオロギーの統合力を減少させ,反戦不敬言動をも増大させた。そして敗戦は,軍事的勝利によって支えられていた天皇制ナショナリズムの崩壊をもたらした。天皇人間宣言は天皇統治の正当性を否定し,日本国憲法の制定は帝国憲法体制に終止符を打ち,固有な意味での天皇制は終わったのである。
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名無しさん
:2013/07/22(月) 22:43:25
>>183
【天皇制国家論争】
天皇制国家論争とは,昭和初年にマルクス主義者の間で行われた近代天皇制国家の本質をめぐる論争のことをいう。共産党系マルクス主義者(講座派)は,天皇主権下の専制的国家機構を支える経済的基盤を地主的土地所有に見いだし,それが半封建的性格をもつことから,それに支えられた天皇制国家を絶対主義的国家と規定した。これはコミンテルンの〈32年テーゼ〉の正しさを論証しようとしたものであった。これに対し,非共産党系マルクス主義者(労農派)は,明治維新以来国家が資本主義を育成し,廃藩置県,地租改正により封建的領有制を廃止,後には独占資本主義国にまで発展したこと,地主的土地所有下の高率小作料は小作農民の耕地獲得競争によってもたらされたものであることなどから,天皇制国家を封建的遺制をもったブルジョア国家と規定した。この論争はそれぞれの革命戦略の正しさを論証する布石として行われた(講座派は当面の革命は社会主義革命に急速に転化するブルジョア民主主義革命とする二段階革命説を,労農派は直ちに社会主義革命を遂行するという一段階革命説をとっていた)。そのため党派的争いが介入し,両者とも譲らなかった。そのうえ,天皇制国家そのものを直接論ずることは権力の弾圧を受ける危険性があったので,もっぱら経済的基盤とくに土地所有の性格規定をめぐって争われたため,国家論固有の領域での理論的深化は少なかった。
近年では,これらに加えて,維新政権=後進国型軍事独裁政権説,帝国憲法体制=ドイツ型立憲君主制説,大正期以降ボナパルティズムへの傾斜を示したとする説などが出されているが決着をみていない。この中で,絶対主義的国家説が比較的有力であるが,ヨーロッパ絶対主義においては絶対王権がローマ教皇に対する世俗的権力であったこと,絶対君主の親政が行われたこと,また社会的諸権力,すなわち貴族権力やギルドなどの社団と呼ばれる半自律的権力を完全に否定しきれなかったことなどの特徴をもち,日本の天皇制とは異質の側面を有していたことも明らかにされており,なお検討されなければならない課題を残している。⇒天皇 鈴木 正幸
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名無しさん
:2013/07/22(月) 22:44:35
御真影
ごしんえい
明治以来,第2次大戦に敗れるまでの天皇の写真を言う。正式には御写真と言ったが,一般には御真影という言葉が使われた。その起源は,明治維新直後に打たれた重要な政策の一つとして,これまでほとんど民衆に知られることのなかった天皇の視覚化,言い換えるなら国家権力の可視化という意図にさかのぼれる。明治初期には巡幸という手段がとられる。巡幸にはいろいろな政治的目的はあったが,結局は生身の天皇を人眼にさらして権力の強化を図ることであった。それは一定の効果をあげた。同時に19世紀に発明された写真が,文明開化の日本に普及していく過程の一つでもあった。天皇が写真化されると,写真という複製メディアの性格によって全国に配付可能になり,有効な権力の視覚的中心になる。明治天皇がはじめて写真に撮られたのは1872年(明治5),まだ和装であった。翌年,断髪した天皇は,今度は洋装での写真を撮られ,それがかなり長期間使用される。ともに当時有名な写真家であった内田九一(くいち)の撮影になる。これらの写真は最初は下付を目的としていたのではないが,たちまち地方官庁,軍隊等々に下付され,それを拝跪する儀礼がおのずと始まっている。
青年から壮年の君主に成長した明治天皇の〈肖像写真〉はその後長い期間,撮られることがなかったので,天皇の写真嫌いを懸念した側近の発案で,御雇外国人のキヨソーネが描き,それを写真家の丸木利陽が複製した〈写真〉が制作された。88年のことである。すでに1882年ころから始まっていた高等教育機関への下付に続いて,キヨソーネの〈写真〉が完成したのち,89年には下付の範囲を高等小学校にまでひろげている。同年には大日本帝国憲法が制定され,90年には教育勅語が発布されて,天皇制国家がようやく基盤を確立した時期であった。天皇の写真は天皇と同一視され,学校祝日が制定され,御真影の礼拝儀礼が始まった。御真影は全国に配置され,人々が生きる政治空間を構成するようになる。こうした天皇制国家の空間を視覚的に構成した御真影は,その後,大正・昭和と2代の天皇の場合も続き,天皇制国家の維持強化にいっそう役立ち,第2次大戦の敗戦まで持続して,日本人の生きる空間を支配する抑圧機構の中心となっていた。⇒天皇制
多木 浩二
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名無しさん
:2013/07/22(月) 22:45:17
祭政一致
さいせいいっち
神々をイツキマツル祭事と人民に対するマツリゴト(政事)とが一致するという観念。神権政治の一形態で,主として古代天皇制についていわれる。一般にあらゆる政治社会において,文化人類学・比較神話学・民俗学等が明らかにしているように,政治的主権者としての共同体の首長の機能は,原始・未開社会にさかのぼるほど,宗教的祭祀者としての機能と未分化であった。古代天皇制国家の形成においても,大嘗(だいじよう)祭の祭式・儀礼と密接に結びついて成立した《古事記》《日本書紀》の王権神話に象徴されるように,天皇ウジがマツロハシメた諸部族の首長の祭祀権を,各ウジの祖神とその神話の説話的統合および血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り,それによって政治的統合を遂げる,あるいは軍事的統合を補強する,といった事態がみられた。だがオオキミ(大王)からスメラミコト(天皇)への発展の過程で,祭祀機能と統治機能とは分離していき,宮廷外に伊勢神宮が創建されることにもなる。律令制においては神梢官が太政官と対等の官職として立てられた。また,その後の武家政治(幕府政治)の発展による政治的統治権の喪失ののちもなお保持された,いわゆる〈万世一系〉の天皇制の正統性なるものも,たんにその血統的連続性のみによるのではなく,大嘗祭を中心とした祭儀をとおして皇祖神との一体性を更新しつつ,トヨアシハラミズホノクニの豊穣(ほうじよう)を共同体を代表して予祝する祭祀者の資格において維持されつづけたことも忘れてはならない。
〈祭政一致〉という言葉そのものについていえば,それが広く用いられはじめたのは幕末から明治初年の時期である。会沢安(正志斎)の《新論》が〈西荒の蛮夷〉による危機に対抗して〈神州の国体〉を闡明(せんめい)せんとして〈祭政維一〉の伝統をいい,平田銕胤(かねたね)の《祝詞(のりと)式新刻本序》が〈祭政帰一〉を強調した等である。初期明治政府自身,そうした水戸学や平田派国学のイデオローグらの影響の下に,〈維新政府の宣伝政策〉(津田左右吉)の一環として〈祭政一致〉〈政教一致〉のスローガンをしばしば用いた。一時期,神梢官を太政官の上位に置く〈復古〉的制度を行おうとしたり,宣教使や教導職を置き,大教宣布の詔を発して神仏分離・廃仏毀釈の運動をあおる等のこともした(〈此度王政復古,神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御吸復被遊候ニ付テハ,先第一神梢官御再興御造立ノ上,云々〉――1868年3月13日太政官布達)。だが神梢官(のち神梢省)や教導職等はまもなく廃され,まがりなりにも近代立憲国家の体裁をとった大日本帝国憲法下では,いちおうの信教の自由と政教分離が打ち出された。とはいえ教育勅語にもとづいた修身教育や国民道徳運動等の〈臣民〉への浸透は,大正デモクラシー後の昭和期に入って,天皇機関説事件を契機とした国体明徴運動の中で,再びよりイデオロギー化した形で,天皇アキツカミ説や祭政一致論を浮上させた。そのころ,日中戦争前夜に成立した林銑十郎内閣が政綱に祭政一致を掲げて識者の失笑を買い,文部省刊行の《国体の本義》にも〈祭政教一致〉の項が見られた(1940年神梢院設置)。第2次大戦後,占領軍の国教分離指令や天皇人間宣言,さらに日本国憲法の諸規定により,この理念は明白に否定された。⇒神権政治 山田 武
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名無しさん
:2013/07/22(月) 22:46:34
神梢官
じんぎかん
(1)7世紀以来の律令体制下で朝廷の神梢行政を管掌した官衙。古訓では〈カンヅカサ〉と読む。日本では古来神梢を尊んで祭祀を重んじたため,古代中国の令制にはない神梢官を太政官とは別に置いた。しかし現実には太政官の八省と同格であり,その権能は小さかった。大化改新,天智朝には〈神官〉と呼ばれたが,天武朝の官制で初めて神梢官と称された。官衙の場所は宮城内の郁芳門の南脇にあった。神梢官の長官は神梢伯といい,従四位下相当官。神梢の祭祀,祝部(はふりべ),神戸(かんべ)の名籍,大嘗,鎮魂,御巫(みかんなぎ),卜兆および官事を惣判することを任とした。ほかに官員として次官である大・少副,判官の大・少祐,主典の大・少史各1人が置かれ,また神部30人,卜部20人等の職員が置かれた。中世以降は他の官司と同じく特定の氏族により官職の世襲が行われるようになった。伯には平安中期以降,皇親である諸王が就くようになり,中世には任伯と同時に王氏に復する花山源氏の白川家が世襲する例が開かれ,次官である大副・権大副も大中臣氏,卜部氏がそれぞれ世襲した。鎌倉時代以後,うち続く戦乱のため,朝廷権力の衰微とともに神梢官も形骸化し,応仁の乱で庁舎は焼失した。1590年(天正18)に至り吉田神社(京都)の斎場所(さいじようしよ)に神梢官八神殿をうつし,1609年(慶長14)から神梢官代となし,また白川家邸内にも神梢官八神をまつって明治維新に及んだ。
阪本 是丸
(2)1868年(明治1),祭政一致をスローガンとした明治維新政府は神梢官の再興を企て,太政官の下に神梢官を置き,翌年にはこれを太政官より独立させた。神梢官の管轄事項には新たに宣教にあたる宣教使のことがつけ加えられ,長官,次官,正・権判官,主典,史生を置き,判官以上を神梢官職員の兼務とし,各藩に宣教係が置かれ,神道国教化政策が展開された(初代長官は中山忠能神梢伯,次官は福羽美静神梢少副)。しかし明治政府の富国強兵(〈近代化〉)政策の展開の中で,71年には神梢省に格下げされ,さらに翌年にはこれも廃止されて祭典関係の事項は式部寮に,宣教関係の事項は新設の教部省に移され,宣教使はしだいに教導職に吸収された。なお,のち1940‐46年の戦時体制下に,神梢に関する独立の中央官庁として神梢院が一時設置された。
中島 三千男
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神梢官 → 神祇官
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名無しさん
:2013/07/22(月) 22:53:40
白川家
しらかわけ
花山天皇より出た源氏。代々神祇伯(神祇官の長官)に任ぜられて明治維新に及んだので,伯家ともいう。また神祇伯に任ぜられると某王と称することを許され,その女は女王と称した特異な家である。伯家が王を称することを許された理由は,朝儀において王を称するものが必要であったからである。たとえば,天皇の伊勢神宮への奉幣は王が使者となり,天皇即位礼のとき,高御座(たかみくら)の御帳を長(かか)げる2人の女性のうち,1人は女王であることなどがそれである。ところが皇親賜姓の盛行と,法親王制が起こってより,諸王の数が激減し,伊勢使王や長帳(けんちよう)女王にもこと欠くに至った。これが伯家に王を称することが許された一因であろう。神祇伯は宮中祭祀のみならず,全国の神社を統轄するが,古くから神事をつかさどる氏族で伯家に次ぐ神祇大副(神祇官の次官)を世襲した卜部氏吉田家の兼抑(1435‐1511)が唯一神道を創始し,神祇官領長上を自称して,地方神社をその支配下におくようになったため,白川家は振るわなくなった。そこで江戸時代に入って,吉田家に対抗して自家の独自の神道説を地方神社に広め伯家神道(はつけしんとう)と称するに至った。しかししょせんそれは吉田神道に及ばなかった。明治維新後,王と称することは止められ,資長のときに伯爵を授けられた。
今江 広道
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神祇院
神祇院(じんぎいん)はかつてあった日本の国家機関のひとつ。内務省の外局。
昭和初期の神祇官興復運動を受けて、1940年(昭和15年)の皇紀2600年記念に際して設置された。特に目立った成果をあげないまま、第二次世界大戦後の神道指令を受けて、1946年(昭和21年)2月2日に廃止された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E9%99%A2
神祇官
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A5%87%E5%AE%98
189
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名無しさん
:2013/07/22(月) 23:01:53
伯家神道
はっけしんとう
白川家の神道で,白川神道ともいう。白川家は花山天皇の皇子清仁親王の子延信王の後胤で,王は1025年(万寿2)臣下に下り,後に神祇伯に任ぜられ,子孫代々この職に任ぜられたので伯家ともいう。伯に任ぜられたとき王号を賜うのが例であったので,王氏とも称せられた。しかし後には,神祇大副の吉田家が神祇管領と称し神祇官の実権を握ったので伯家の勢力は衰え,これに対抗するため神号を授け,伯家拝揖(はいゆう)式の許状を出し,《伯家部類》を編集して自家の地位を明らかにしようとした。また学頭森昌胤は《神道通国弁義》を著して伯家神道の意義を示し,国学者平田篤胤を招いて自家所属の神職に神道を学ばせた。 平 重道
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伯家部類
はっけぶるい
神祇伯白川家の管掌した神事を部類わけし記した書。《白川家部類》《白川家秘記》《神事部類抄》などとも称す。2巻。神祇官の長官神祇伯には,1046年(永承1)花山天皇皇子清仁親王の子延信王が就任して以来世襲,伯家(白川家)としての職を管掌してきたが,宝暦年中(1751‐64)神祇伯雅富王が,谷口祐之に命じ斤させた書。宮廷神事について同家伝来の文書記録類より部類ごとに抄出した書で,神祇伯の職掌より宮廷神事の実際を知る上の根本史料の一つ。その部類は,神祇官の事,内侍所の事および渡御の事,内侍所神楽の事,内侍所御搦(おからみ)の事,御拝の事,毎朝御拝の事,臨時御拝の事,正月御拝の事,伊勢遷宮の事,例幣の事,大嘗祭の事,即位由奉幣の事,御社祈願の事,公縁勅使の事,鎮魂祭の事,八神殿再興の事,伯家家系の事,長帳(けんちよう)女王の事,神事伝授の事,斎籠(いみごもり)の事,伯無喪服の事などである。⇒伯家神道
鎌田 純一
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190
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:12:58
吉田家
よしだけ
藤原氏北家高藤流の参議勧修寺為房の曾孫経房を始祖とする堂上公家。家名は,経房が洛東神楽岡のふもと吉田に構えた別業に由来する。為房の子孫は事務練達の実務官僚の道をたどるが,吉田家もその一つで,弁官,蔵人頭を経て参議となり,大・中納言を極官とする。初代経房は経世の才に富む廉直の貞臣として後白河法皇の信任を得,また源頼朝の信頼も得て,朝廷への奏請を取り次ぐ関東申次の役を務めて勢力を得た。鎌倉時代中期,皇統が持明院・大覚寺両統に分かれると,5代経長のときより大覚寺統に忠勤を励み,6代定房のとき,父祖を越えて内大臣に任ぜられた。7代宗房は南北朝合体の交渉に当たったが,合体後は堂上に昇るものはなくなった。しかし経長の男隆長は甘露寺家,資房は清閑寺家を起こし,北朝に仕えて明治維新に至っている。なお,別に吉田神道の宗家である吉田家があるが,これは卜部氏である。⇒卜部氏(うらべうじ)
今江 広道
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【伯家部類】
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-027703&IMG_SIZE=&IMG_NO=1
神社オンラインデータベース @ ウィキ
http://www28.atwiki.jp/shintoism/m/pages/1.html?guid=on
191
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:14:20
神道
しんとう
日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それらが伝えられる前からあった土着の神観念にもとづく宗教的実践と,それを支えている生活習慣を,一般に神道ということばであらわしている。日本民族の間にあった信仰は,農耕,狩猟,漁労などの生活に対応してさまざまであり,地域的にも多様な性格をもっていたと考えられるが,稲作の伝来を契機に政治的な統一が進むにつれて,水稲の栽培を中心とする農耕儀礼を核として数多くの神々をまつる現世主義的な宗教が形成された。その後日本人は,儒教や仏教を受容したが,神々をまつる信仰は複雑な展開を経て現代まで存続している。
[神道ということば] 神道という語は,《易経》の観の卦の彖(たん)伝に,〈天の神道を観るに,四時久(たが)はず。聖人神道を以て教を設けて,而うして天下服す〉とあるのが初見とされ,人間の知恵では測り知ることのできない,天地の働きをさす語であった。そしてその後,神道の語は,道家や仏教の影響下で宗教的な意味を持つようになり,呪術・仙術と同じような意味でも用いられた。漢字・漢語の受容によって表記が可能になった日本では,《日本書紀》の編述に際して,用明天皇即位前紀に〈天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊びたまふ〉とあり,孝徳天皇即位前紀に〈(天皇)仏法を尊び,神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹を駒(き)りたまふ類,是なり。人と為(な)り,柔仁(めぐみ)ましまして儒を好みたまふ〉と見えるように,神道という語が,仏教,儒教に対して土着の信仰をさすことばとして用いられている。しかし,明確な教義を持たず,農耕などの儀礼を中心とした生活習慣そのものであった神々の祭祀を,仏教や儒教と同列に考えることは種々の無理があったことはいうまでもなく,上記の例も中国を意識した文章上の配慮から神道の語を用いたものと思われる。《古事記》や《日本書紀》では,本教,神習,神教,徳教,大道,古道などの語もカミと読ませているところからもうかがえるように,カミということばの表記も一定しておらず,神道という語もそれらの一つでしかなかった。日本の土着の信仰を,神道と呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさすことばとして用いている例は少なくない。他方,神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すことばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめると,神道という語が土着の信仰とその教説をあらわすものとして用いられるようになった。中世の末に大きな力を持つようになった吉田神道は,その例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとして吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師が,日本人の信仰を Xinto(中世の神道家の中には濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウではなくシントウと読むことが主張されていた)ということばでとらえたことに端を発して,神道の語は外国に知られることになった。しかし,明治時代に神道が国教化されると,国家の祭祀として宗教を超えたものと主張された神道は,大教,本教,古道,惟神道(かんながらのみち)などと呼ばれ,仏教やキリスト教と同列とされた教派神道諸派が神道の語で呼ばれたこともあって,日本固有の民族宗教をあらわすことばは多様なままに推移し,研究者の間でも神梢,神梢信仰ということばが用いられることが多かった。他方,西欧諸国の日本研究・紹介者の間では,Shinto,Shintoism の語が一般化したため,昭和に入り日本人の間でも,神道ということばが一般に用いられるようになり,日本固有の信仰の多様な性格を,古神道,神社神道,教派神道,民俗神道をはじめさまざまに分けて考えることも一般化した。
192
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:15:50
>>191
[神と祭り] 古代の日本人は,人間の力を超えたものに対し,おそれ,かしこむ心を抱き,そうした心情をおこさせるものをカミと呼んだ。山,川,海などに畏怖を感じ,根源的で神聖・清浄なものを見た人々は,生い茂った樹木や巨大な岩なども神聖視した。さまざまな自然現象が神とされたことはいうまでもないが,日神の崇拝はあっても,天体の運行をつかさどるものへの関心は薄く,雨や風,芽生えや実りなどがそれぞれ神と考えられていた。狼や鳥,蛇などさまざまな動物も神聖視された。またあらゆるものは,人間と同様に意志や感情を持つものと考えられ,そうした魂の働きも神とされた。このような原始的な自然崇拝,アニミズム的なものは,神道の底流に存続して現代に至っている。神は人間の目には見えず,あらゆるものに宿っていると考えられたが,人間の住む場所から離れた山の上や,海のかなたに神々の世界があると考えられ,人間が死ぬと,肉体を離れた霊魂もそこへ行くと信じられていた。死者の霊魂は年月を重ねるうちに,生前の個性を失って祖霊と融合し,神々の中に加わる。したがって,神々の世界と人間の世とは,隔絶・絶縁されてはおらず,神々は定期的に,あるいは臨時に人間の住む場所を訪れ,ある期間ともに住むものと信じられていた。
神に対する観念を具体的にあらわしているのが祭りである。神々をおそれかしこむ人々は,生活の節目ごとに神々を迎えて供応し,神威に対する畏敬の念をあらわし,神々の加護に感謝した。祭りは,神々を迎えるための清浄な場所を整え,神々をまつる人々が身心を浄めることからはじまる。準備が整うと,聖なる時間である深夜に,あらかじめ用意された依代(よりしろ)・尸童(よりまし)に神を降して,神前に御饌(みけ)・神酒(みき)が供され,歌や舞が神をもてなすために行われる。人々は神に対する願いを祝詞(のりと)や歌などで伝え,神は託宣やさまざまな卜占によって神意を示す。その後,神々と人々とがともに酒を飲み,御饌を食べる直会(なおらい)によって,神と人とのつながりをたしかめて,神々が祭りの場を去ると,禁忌が解かれて祭りは終わる。祭りの多くは農耕儀礼と結びついており,年頭の豊作祈願,春の農耕開始,夏の病害虫駆除,秋の収穫感謝の四つの祭りが最も主要なものであった。《神梢令》《延喜式》の〈四時祭〉〈臨時祭〉の巻には,神梢官が行う祭りの詳細が記されている。人々は祭りによって生活にくぎりをつけたが,6月と12月の祁に,半年間の罪穢を祓い,災厄を除いて清浄を回復し,1月と7月の祖先の霊魂を迎えるさまざまな行事の中で新しい生活を開始した。仏教が伝えられて,7月の行事は仏教的な形をとって盆の行事になった。日本人の間には,1年を1月と7月の行事でくぎる習慣と,4月と10月の祭りで分ける習慣があり,二つが複雑に重なり合っている。
共同体の祭り以外に,人々は生活の中で竈(かまど)の神や井戸の神をはじめさまざまな神をまつったが,一般に水稲耕作は定住性と結束の強い共同体を生み出し,そこでまつられる神々は,共同体の祖先神であり,土地の守り神と考えられることが多かった。集団の信仰である神道は,個人の信仰としての性格が希薄であったから,個人の救済が求められるようになると,仏教との習合が進むことになった。
193
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:16:41
>>192
[神社と神官] 祭りのたびに神々を迎える信仰のもとでは,神々が来臨する磐座(いわくら)・磐境(いわさか),祭りが行われる森や山などが神社であり,神殿は作られない場合が多かった。しかし,建築の発達につれて,神体,御霊代(みたましろ),神宝などを安置する秀倉(ほくら)や,神をまつる人々がこもって潔斎をするための建物が建てられるようになると,前者は本殿へ,後者は幣殿・拝殿へと発展し,それを囲む垣,神域を表示しその入口を示す鳥居,神饌を調理する御饌殿(みけでん),参拝者が身を浄める御手洗(みたらし)をはじめ種々の施設が加わって,神社の形が整った。神殿の建築は,穀物倉を原型とする伊勢神宮と,住宅に由来する出雲大社の神殿が代表的なもので,後に寺院や宮殿の形式をとり入れながら,数々の日本独特の様式が生み出された。
祭りをつかさどる者は,政治的な支配者でもあったから,政治的な統一が進むにつれて,祭祀権の統合も行われ,各地に大規模な神社が建てられるようになると,そこには神官の集団が生まれた。出雲国造家,熱田大宮司家などは,古い国造(くにのみやつこ)の系統が神社と結びついて後世まで残った例である。神職の名は神社によってさまざまであるが,祭主(さいしゆ),宮司(ぐうじ),神主(かんぬし),衝宜(ねぎ),祝(はふり),預(あずかり),神人(じにん)などはその例であり,八幡宮や梢園社などには,社僧(しやそう),供僧,神僧,宮僧などと呼ばれる僧形の神職があった。他方,小さな神社では,氏子の座や講などの組織から,一年神主,当屋神主などが選ばれて,祭りを行うのが一般であった。
《延喜式》の神名の巻には,平安時代中期の国家が神威を認めていた2861の神社の名が記され,後世それらの神社を由緒正しい神社として〈式内社(しきないしや)〉と呼んだ。また式内社以外で六国史にその名を記されている391の神社を,〈国史現在社〉と呼んで,式内社につぐものとした。式内社に対しては,神梢官から奉幣することが定められていたが,平安時代のはじめに,遠隔地の神社には国司が代わって奉幣を行うようになったので,国司奉幣の神社は,神梢官奉幣の神社を官幣社と呼ぶのに対して,国幣社というようになった。
国司は任国に着くと,まず国内の主要な神社に参詣し,その後政務を執るように定められているが,その参拝の順序が固定して一宮(いちのみや),二宮,三宮の呼称がおこり,それが国内の神社の序列をあらわすことになった。さらに平安時代の末になると,国内の数々の神社を一社に統合して奉幣を簡略にすることもはじまり,そうした神社を総社(そうじや)と呼んだ。同じころ,朝廷でも重要な祈願に際して,畿内を中心に主要な神社を選んで奉幣することがはじまり,二十二社(にじゆうにしや)の名が固定した。神社の祭祀を政治の中で重視することは
194
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:17:25
>>193
,鎌倉幕府以後の武家政権にも受け継がれ,神社をめぐる制度はさまざまに変遷した。
[神典] 神道の教典としては,まず《日本書紀》,中でも巻一,巻二の神代巻があげられるが,多様なひろがりを持つ神道のすべてがそれを教典としていたわけではない。《古事記》や《日本書紀》の神話は,たしかに神道的な諸観念をよくあらわしているが,神々の祭りに際して,記紀の神話が教典として読誦されるようなことはなかった。《古語拾遺》や《風土記》も教典とされ,中世では《先代旧事本紀》も重んぜられた。しかし,それらは古典に対する知識を持つ神官の間で尊重されただけで,庶民が記紀の神話を教典として読んだわけではない。神官の間では,伊勢神宮の儀式を記した《延暦儀式帳》をはじめとする祭りの儀礼の記録や,遷宮・造営の次第を記した文献も重んぜられ,《延喜式》の最初の10巻は,四時祭上下,臨時祭,伊勢大神宮,斎宮,斎院司,践祚大嘗祭,祝詞(のりと),神名上下という構成で,朝廷の祭祀を詳細に記している。中でも〈祝詞〉は,重要な教典といえよう。
中世に入って神道説の形成が進むと,空海などに仮託した教典が続々と生み出されたが,その中で伊勢神道の教典として作られた〈神道五部書〉は,その後の神道説に大きな影響を与えた。また古代末以来,各地の神社でさかんに作られた神社の縁起は,民俗的な神道の教典であり,それらの中には絵解きや説経などの芸能と結びついたり,絵巻や草子などに形を整えられたりして,広く知られるようになったものも少なくない。さらに,和歌の中にも教典的な受取り方をされてきたものが数多く見いだされる。
[神像と神体] 山・川,雨・風,芽生え・実りなど,神道でまつられる神々は,人間の目でとらえることはできないものとされ,その姿を神像としてあらわすことは考えられなかった。神々が来臨する祭りの場では,依代・尸童が神とされ,岩や巨木,鏡・剣・玉などが礼拝の対象となっていた。やがて神社が建てられるようになると,仏教の寺院に対して考えても,神殿に安置するものが必要になり,平安時代に入って神体・正体ということばが用いられるようになった。神体は,神々の性格に応じて宝器,農具,武具,狩猟具などさまざまなものが選ばれた。他方,平安時代初期から,神仏習合の進展の中で神の姿を造形的にあらわすことがはじまった。垂迹(すいじやく)像として作られた神像は,密教美術の影響を受けたものが多かったが,平安時代後期に入ると和様化が進み,優美な公家の姿を借りたものが多くなった。鎌倉時代以降,神仏習合がさらに進むと,仏像を神像としてまつることも一般化し,七福神などの雑多な神像が広く礼拝の対象となった。絵画としては,平安時代末から神像画や垂迹曼荼羅(まんだら)がさかんに描かれるようになった。それらの中には,神仏習合の信仰を具体的にあらわしたものが多く,神域や神殿の景観を図示してその意味づけを試みたものなどは,神道の神観念や世界観をあらわしたものとして注目すべきものがある。
195
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:18:22
>>194
[信仰と参詣] 神道の世界観は,高天原(たかまがはら),葦原中国(あしはらのなかつくに),黄泉国(よみのくに)(根の国(ねのくに))の三つの世界を考えるが,この天上,地上,地下の垂直的な世界観のほかに,海上のかなたに妣(はは)の国,常世国(とこよのくに)があるとする水平的な世界観が併存している。またそれらの世界とは別に,山中に他界を想定する信仰も広く存在していた。人間が死ぬと霊魂は肉体から離れて,他界に行くと考えられた。他界に住む霊魂は,祭祀に応じて人々のもとに帰ってくるが,年を経るにつれて個性を失って神々に近づいていく。したがって,いくつもある他界の性格と相互の関係は明確でないところが多い。ただ黄泉国は暗黒の世界と考えられており,罪や穢れに満ちた世界でもあったから,地上の罪や穢れを,すべて黄泉国に祓い去る儀礼が行われた。神道では,神々の加護によって幸を得,神々の力による禍を回避するためには,人間が正直で清浄な心で神々に接しなければならないとされる。正直で清浄な心とは,さまざまな作為を捨てた,生まれたままのような純粋で自然な心のことであり,それは禊(みそぎ)や祓によって達せられると説かれる。また,精神が統一され,一心不乱になった状態が,純粋で清浄な心に近いと考えて,その修行の方法がさまざまにくふうされた。
元来,祭りは共同体の行事として行われるものであったが,平安京の神社では,祭りが華麗な催物としての性格を持つようになり,祭りに参加せずに見物する人々があらわれた。そして,祭りの担い手ではなく傍観者になった人々は,祈願に際して他所の神社にも参詣するようになる。中世になって参詣はさかんになり,徐々に庶民の間にもひろまった。参詣する人は,身心を洗い清めて米銭などを奉った後,神々の加護を願い,誓いを立てる。中世以降各地に多くの参詣者を集める神社があらわれたが,中でも伊勢神宮や熊野大社では,参詣者を集める御師などの専門的な神官があらわれ,遠隔地からの参詣者の団体を組織した。参詣者は祈願成就のために,旅の苦労と道中の禁忌に耐えて参拝するが,目的を果たした後に,門前町のにぎわいの中で精進落しの歓楽に浸る。さらに参詣のしるしとなるみやげを持ち帰って隣人に配るが,こうした遠隔地参詣のさまざまな習慣は,何世紀にもわたって繰り返されるうちに,日本人の旅行のしかたの型となった。
196
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:19:17
>>195
[神道の教説] 素朴な神々への信仰は,仏教の影響のもとで,徐々に教説を生み出すことになった。寺院を建立するためには,境内地の神々をまつらねばならず,堂塔の用材を伐り出すためには山や森の神々をまつることが必要であるというように,仏教の受容は土着の神々との接触の中ではじまったが,仏教の僧侶は,土着の神々を人間と同列に置き,仏の慈悲によって神々も成仏できるものと説いた。神前で読経を行い,仏事を営んだのはそのあらわれである。やがて,仏教が日本人の間に浸透しはじめると,神はもとはインドの仏・菩醍であり,日本の衆生を救うために姿を変えて神としてあらわれたという本地垂迹(ほんじすいじやく)説がさかんになった。本地垂迹説は大乗仏教の教説で,絶対的な仏と歴史的な釈梼との関係を説明するものであったが,それを応用して仏教を受容した諸民族・諸地域の神々を,仏教に結びつけることが行われていた。日本では,平安時代に入って神仏習合がさかんになり,元来明確な神格を持たなかった神々も,仏・菩醍に対比して神としての性格を論じられるようになり,素朴な儀礼も荘厳なものに発展した。中でも密教の教説による習合がさかんになり,両部神道(りようぶしんとう)と呼ばれる神道説の流れが形成され,真言系の両部神道に対抗して,天台系の山王神道が唱えられたりした。律令制度のもとで手厚い保護を受けていた古来の神社は,中世に入るころから神領を侵され,仏教が庶民の間に浸透しはじめると,強い危機感を持つようになった。神官の中には,神威と神の加護を宣伝し,神社への寄進を勧めようとする者があらわれたが,その際,神社の固有の主張を説こうとすれば,仏教に対抗する教説が必要になる。伊勢外宮の神官を世襲してきた度会(わたらい)氏の人々は,易や陰陽五行説,老荘思想などを援用して,仏教に対抗する伊勢神道の教説を立てようとした。伊勢神道は,神仏習合から一歩踏み出した点で,後の時代の神道説に大きな影響を与えた。中世の後期に入って,神道説の仏教からの離脱は進み,儒・仏・道など諸思想を習合して神を中心と説く吉田神道が成立した。近世に入って全国の神職のほとんどが吉田神道の支配下に置かれたが,吉川惟足は儒学を摂取した神道説を唱え,吉川神道(よしかわしんとう)を学んだ山崎闇斎は,儒学の立場をさらに深めた垂加神道(すいかしんとう)を主張した。また真言僧慈雲は,記紀などの神典を密教で解釈する雲伝神道を立てたが,その主張は仏教や儒教などの思想を習合した神道を,すべて俗神道としてしりぞけ古典の精神に帰ろうとする国学の立場(復古神道)に近いものであった。⇒本地垂迹
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:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:20:00
>>196
[近代の神道] 明治政府は,強力な統一国家を建設していくために,宗教的な支えが必要であると考えたが,旧時代の象徴のように思われた仏教に依拠するわけにはいかず,神道が注目されることになった。排仏運動が進められ,神仏分離が推し進められる中で,国家の祭祀と結びついた神道が浮かび上がってきた。他方,西欧諸国との交渉が深まる中で,キリスト教の解禁と,信教の自由への配慮が必要となり,大日本帝国憲法の第28条で,限定付きではあるが,信教の自由が認められることになった。そこで,国家の祭祀,皇室の儀礼と結びついた神道は宗教を超えるものとされ,官幣社,国幣社,別格官幣社に列せられる神社は国家の機関となり,神官は官吏となった。国家直属の神社を頂点として,府県社,町村社,郷社などの社格が定められ,祭神も《日本書紀》以下の正統的な神典に記載されている神々に改められた。他方,国家と結びついた神道(国家神道)と別に,信教の自由の次元での諸宗教は,神道,仏教,キリスト教に大別され,宗教としての神道は教派として活動を許可された。したがって神道ということばは,教派神道をさすものとして用いられ,国家と結びついた神道は,大教,本教,惟神道などのことばで示された。
1945年,敗戦の年に,GHQ は国家と結びついた神道の廃止と信教の自由の実現を命ずる指令を発した。この文書は〈神道指令〉(国教分離指令)と呼ばれ,戦後の宗教行政の中で大きな役割を果たした。神社は宗教法人となり,現在その多くは連合して神社本庁という組織を作っている。他方,神道系とされる天理教,金光教,大本教などの新宗教も,伝統的な神々の信仰を受けついで活発な宗教活動を展開している。神社は,明治以来数十年の特殊な時代が終わった後,伝統的な信仰の中心として人々の参詣を集め,結婚,受験,交通安全などの祈願を行う場となっているが,教派神道の系譜を引く神道系諸教団に比して,教説や教団の組織を持たないものが多く,祭りを支えていた地域社会の秩序が,近代化の中で解体していく中で,新たな対応を迫られている。他方,神道的な儀礼が,宗教行為に属するか,民俗的な習俗であるかをめぐっては,国民の間からつぎつぎに問題が提起され,裁判で係争中のものも少なくないが,神道をいかなるものと考えるかについて,広く国民の支持を得るには,なお多くの曲折が予想される。⇒神‖神道美術‖神仏習合‖民間信仰 大隅 和雄
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:
名無しさん
:2013/07/22(月) 23:26:19
神仏習合
しんぶつしゅうごう
日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。8世紀になって気比神宮,若狭比古神社,多度神社などに神宮寺ができたが,東大寺大仏造立にあたり,伊勢神宮に祈願がこめられ,仏法帰依の神託を得,八幡神も大仏造立援助のため上京して東大寺鎮守となった。こうした朝廷の積極的な習合政策と地方民間修行僧の布教活動によって神前読経・神宮寺建立は全国的に広がった。平安前期には政界の暗闘と社会不安から御霊(ごりよう)(怨霊)信仰が盛行しそのたたりを鎮めるため密教徒は御霊会(ごりようえ)などを通じて読経・加持祈裳につとめ,御霊の成仏と利益(りやく)神への昇化を説いた。この風潮のなかで大陸伝来の疫神である牛頭天王(ごずてんのう)をまつる梢園社や道真をまつる天満天神が,祟(たたり)神から一転した利益救済の神として進出し,神祇界は個人利益的なものへと信仰を変化させ,仏像にならって神像を彫刻や絵画にあらわしまつる偶像崇拝的方向を帯びるにいたった。伊勢以外の神社はおおむね神宮寺別当の支配する宮寺組織になり,また原始的山岳信仰と密教が習合した修験道(しゆげんどう)が広まって修験者は加持祈裳による病気治療や信者の団体による社寺参詣の先導役(御師(おし))として民間に進出した。その代表的なものは紀州熊野信仰である。
中世,習合思想のスローガンであった和光同塵(わこうどうじん)の語はその源は中国の道教にあるが,仏菩醍がその慈悲広大の光を隠し人間俗界の塵に交じって神とあらわれる化身的意味に用い,これを各地の神社について民衆にわかりやすく説くため歴史物語化した縁起の類がつくられ,これが絵巻物や本地物とよばれる一群の御伽草子となっていっそう普及した。また密教の曼荼羅(まんだら)をまねて神祇の姿あるいは本地となる仏の像を並べ,これに社頭の風物を配した習合(垂迹)曼荼羅図がつくられたのは,社参の労を省き,日常生活のなかで御利益を祈る礼拝対象とせんがためであった。春日,八幡,日吉,熊野などの曼荼羅はとくにその数も多く遺存している(垂迹美術)。
日本仏教は天台・真言両宗を中心として本覚門思想に重点をおき,衆生はすべて本来仏性を有し,人間も草木山川もそのままの形で成仏することを教えたところから修業練成より加持祈裳偏重に陥りやすく,その呪術的要素の重視が神仏習合に大きな地盤を提供した。そこには体系的理論よりも現実的でしかも直観的多神教的な思考や生活慣習を好む日本人の民族性が背景となっていたのである。1868年3月17日政府は社僧の禁止,神社の別当あるいは社僧の還俗を令し,同28日重ねて神社より仏教的要素をいっさい撤去すべきことを通達し,ここに廃仏毀釈(はいぶつきしやく)の運動が起こり習合的宗教慣習はついに終止符を打った。⇒神仏分離‖本地垂迹 村山 修一
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神仏習合
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