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【資料】神秘主義の系譜【探索】
172
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 20:15:15
歴史教育
れきしきょういく
歴史的・社会的存在である人間のもつ,自己の属する集団の系譜や,人類と民族の過去のできごとなどを知ろうとする要求にこたえ,それらを計画的に教えて歴史の流れのなかで自分の立っている位置を自覚し,社会発展の担い手として育っていくのを助ける教育。広義には,未開社会で若者たちに部族の生いたちにまつわる神話を,また家庭で祖父母が子や孫たちに家の系譜を語り聞かせたりすることも歴史教育に含まれる。しかし体系的な歴史教育の開始は,近代国家成立と結びついている。ただしヨーロッパでも18世紀に入ってなお古代史に重点がおかれており,イギリスのオックスフォード,ケンブリッジ両大学で近世史が開講されたのは1724年である。19世紀に入りナショナリズムの高揚とともに欧米諸国で自国史の研究が盛んとなり,それをもとに歴史教育は国民形成の観点から重視されるにいたった。国家の栄光,国民の道義,産業,文化,武力などの優秀性を子ども・青年に教え,国王や政府への忠誠心を持たせ,国家意識の形成をめざした。
[変遷] 日本では江戸時代,藩校において日本史よりも中国史の教授に重点がおかれ,《左氏伝》《史記》《漢書》《十八史略》などが教材として使用された。日本史では《日本外史》《国史略》などが使われたが,それは中国史の半分以下にすぎなかった。これら中国や日本の書物はいずれも古典として尊重されてきたものであり,支配層の子弟には,これらの書物によって過去のできごとの原因結果を知らせる必要があるとされた。これに対し寺子屋ではまとまった歴史教育は行われず,歴史のなかから武勇談や教訓を断片として抜き出して教えるにとどまった。
1872年(明治5)の〈学制〉では上等小学で〈史学大意〉,下等中学で〈史学〉を課すことが規定された。当時は五ヵ条の誓文の精神もあって日本史だけでなく外国史がとりいれられ,それも中国史より先進欧米諸国の歴史が万国史として重視され,視野を世界に広げる努力があった。日本史の皇室関係の記述では,いたずらに美化することなく事実がとりあげられた。しかし,このような歴史教育は81年の〈小学校教則綱領〉によって転換を余儀なくされる。この綱領で内容は日本史に限定され,目的については〈務メテ生徒ヲシテ沿革ノ原因結果ヲ了解セシメ,殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養成センコトヲ要ス〉とされ,〈殊ニ〉以下が重視され,必ずとりあげるべき事項として,建国の体制,神武天皇の即位,仁徳天皇の勤倹,延喜天暦の政績,源平の盛衰,南北朝の両立,徳川氏の治績,王政復古があげられた。起草者の江木千之(かずゆき)によれば綱領原案には神武の東征,保元・平治の役,南北朝の乱,維新の役など戦乱に関する事項が多く,これについて明治天皇が後世子孫が乱を思うおそれがあると指摘し,上述のように訂正されたという。ついで教育勅語発布の翌91年の〈小学校教則大綱〉では〈国体ノ大要ヲ知ラシメテ国民タルノ志操ヲ養フ〉ことが目的とされ,10年前の〈綱領〉にあった〈沿革ノ原因結果ヲ了解セシメ〉ることが削除され,科学的な歴史認識の教育がさらに後退した。内容も,建国の体制,皇統の無窮,歴代天皇の盛業,忠良賢哲の事跡,国民の武勇,文化の由来などがあげられ,大日本帝国憲法と教育勅語の趣旨に沿うように改められた。とりあげる人物の言行については修身科で示した格言などに照らして正邪是非を弁別させることとされた。
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