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【資料】神秘主義の系譜【探索】

194名無しさん:2013/07/22(月) 23:17:25
>>193
,鎌倉幕府以後の武家政権にも受け継がれ,神社をめぐる制度はさまざまに変遷した。

[神典]  神道の教典としては,まず《日本書紀》,中でも巻一,巻二の神代巻があげられるが,多様なひろがりを持つ神道のすべてがそれを教典としていたわけではない。《古事記》や《日本書紀》の神話は,たしかに神道的な諸観念をよくあらわしているが,神々の祭りに際して,記紀の神話が教典として読誦されるようなことはなかった。《古語拾遺》や《風土記》も教典とされ,中世では《先代旧事本紀》も重んぜられた。しかし,それらは古典に対する知識を持つ神官の間で尊重されただけで,庶民が記紀の神話を教典として読んだわけではない。神官の間では,伊勢神宮の儀式を記した《延暦儀式帳》をはじめとする祭りの儀礼の記録や,遷宮・造営の次第を記した文献も重んぜられ,《延喜式》の最初の10巻は,四時祭上下,臨時祭,伊勢大神宮,斎宮,斎院司,践祚大嘗祭,祝詞(のりと),神名上下という構成で,朝廷の祭祀を詳細に記している。中でも〈祝詞〉は,重要な教典といえよう。
 中世に入って神道説の形成が進むと,空海などに仮託した教典が続々と生み出されたが,その中で伊勢神道の教典として作られた〈神道五部書〉は,その後の神道説に大きな影響を与えた。また古代末以来,各地の神社でさかんに作られた神社の縁起は,民俗的な神道の教典であり,それらの中には絵解きや説経などの芸能と結びついたり,絵巻や草子などに形を整えられたりして,広く知られるようになったものも少なくない。さらに,和歌の中にも教典的な受取り方をされてきたものが数多く見いだされる。

[神像と神体]  山・川,雨・風,芽生え・実りなど,神道でまつられる神々は,人間の目でとらえることはできないものとされ,その姿を神像としてあらわすことは考えられなかった。神々が来臨する祭りの場では,依代・尸童が神とされ,岩や巨木,鏡・剣・玉などが礼拝の対象となっていた。やがて神社が建てられるようになると,仏教の寺院に対して考えても,神殿に安置するものが必要になり,平安時代に入って神体・正体ということばが用いられるようになった。神体は,神々の性格に応じて宝器,農具,武具,狩猟具などさまざまなものが選ばれた。他方,平安時代初期から,神仏習合の進展の中で神の姿を造形的にあらわすことがはじまった。垂迹(すいじやく)像として作られた神像は,密教美術の影響を受けたものが多かったが,平安時代後期に入ると和様化が進み,優美な公家の姿を借りたものが多くなった。鎌倉時代以降,神仏習合がさらに進むと,仏像を神像としてまつることも一般化し,七福神などの雑多な神像が広く礼拝の対象となった。絵画としては,平安時代末から神像画や垂迹曼荼羅(まんだら)がさかんに描かれるようになった。それらの中には,神仏習合の信仰を具体的にあらわしたものが多く,神域や神殿の景観を図示してその意味づけを試みたものなどは,神道の神観念や世界観をあらわしたものとして注目すべきものがある。


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