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【資料】神秘主義の系譜【探索】
166
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 20:05:52
卜部氏
うらべうじ
大化前代の6世紀ごろより宮廷の祭祀に参与して,中臣(なかとみ)氏に率いられ,鹿卜や亀卜の事をつかさどってきた氏族。律令制下の三国の卜部とは,伊豆,壱岐,対馬の卜部をいうが,そのほかに重要な本拠地は常陸にあった。伊豆の卜部の本拠地は,伊豆の大島にあり,壱岐の卜部は壱岐島壱岐郡の月読神社をまつり,対馬の卜部は,下県郡の太祝詞(ふとのりと)神社や,上県郡の能理刀(のりと)神社などを祭祀していた。常陸の卜部は,とくに〈占部〉と名のり,鹿島神社などの祭祀に当たっていたようである。彼らはそれぞれの地域の国造(くにのみやつこ)に統率され,朝廷に貢進されていた。《延喜式》には,卜部の祭神を左京二条にまつられる太詔戸命神(ふとのりとのみことのかみ)と久慈真智命神(くしまちのみことのかみ)としている。奈良時代には,太詔戸命は大和国添上郡に,久慈真智命は大和国十市郡天香山にまつられていた。詔戸は祝詞であり,真智は占いの町形(まちがた)であるから,卜部は,鹿の肩骨や海亀の甲を火で焼き,町形を見て神意をうかがい,神託を人々につげることを職掌としていたことが知られる。卜占の法は,古くは,真男鹿の肩甲骨に穴を開けて,波波梼(ははか)の木の皮を用いて焼くものであったらしい。しかし,しだいに中国より海亀の甲を焼く亀卜の法が伝えられ,後にはもっぱらこの法によった。卜部の本拠地が,ほぼすべて臨海の国であったのもそのためであり,《延喜式》では,土佐国より亀卜のための海亀が貢されていた。
卜部氏の祭神は,雷大臣(いかつおみ)とされるが,これは仲哀天皇・神功皇后に仕え,卜部の祖とされる中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)と同一視されている。とくに重要な点は,この卜部の中から,中臣氏が分立し,しだいに諸国の卜部を統属下に置いていったことである。卜部氏は平安時代に至るまで活躍し,9世紀では壱岐の石田郡の宮主(みやじゆ),外従五位下卜部是雄は伊岐宿衝を賜姓されたが,卜術にひじょうに優れていたのを賞されたためであり,また伊豆の卜部からは,従五位下丹波介卜部平麻呂が出て亀卜の道を高めている。この平麻呂の後は兼延以後,神梢官に務めるかたわら,吉田社務を兼ねるに至り,兼熙の代には吉田と名のることとなった。一方,兼延の次子兼国は平野社の長官となり,以後その子孫が社務をつかさどった。この一族は代々学者を輩出し,鎌倉時代には,兼頼の子兼文が《古事記裏書》,その子兼方(懐賢)が《釈日本紀》を著すなど,歴史書の研究に優れた業績を残していた。なお平安時代の浄土教の恵心僧都源信は,大和国損下郡の占部正親の子と伝えられている。
兼熙の10世兼治の次男兼従は雲上家の卜部萩原姓を名のり,萩原員従の次男従久より錦織家(にしごりけ)が分かれた。また兼国の系統からは後に卜部姓の藤井家が分立した。⇒吉田兼熙(かねひろ) 井上 辰雄
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